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『子どもにおける性格の諸起源」を読む

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(1)

『子どもにおける性格の諸起源」を読む

研究ノート(その7)

  坂元 忠芳

略 記

L enfant t11rbulent,1925,(QUADRIGE/PUF)=ET r多動児』=略記なし

psychologie pathologique,1926,

r精神病理心理学』=r精神病理』(r精神病理の心理学』滝沢武久,大月書店,1965年)

Les origines du caractさre chez I enfant,1934,(PUF)=OCE

r子どもにおける性格の諸起源』=r性格』(r児童の性格における起源』久保田正人 訳,明治図書,1965年)

L,6volution psychologique de I,enfant,1941,(ARMAND COLIN)ニEPE r子どもの精神的発達』=r精神発達』(r子どもの精神的発達』竹内良和訳,人文書 院,1982年)

De I acte ti la pens6e,1942,(FRAMMARION)==AP

r活動から思考へ』=r認識過程』(r認識過程の心理学』滝沢武久訳,大月書店,

1962年)

第17章 人間の行動における情動の位置

    一自動運動と表象との対立関係のなかで一

 はじめに

 ここで,ワロンの記述は「第4章人間の行動における情動」へと移ってい く。ところでその記述は,これまで述べたこととさほど違ったところへと及ん でいるわのではない。むしろ,情動と自動運動の対立,情動と表象の対立,情 動から関係活動への移行,というように,これまで述べてきたところを,発達 する人間の行動全体のなかにさらに位置づける観点から,これらの問題を取り

(2)

上げようとしている態度が強い。

 ワロンの記述は,そこから情動の社会的機能へと移っていく準備をしている かのように見える。そして,子どもの発達の生理的・生物学的記述のなかに,

社会的なモメントを発見していく努力が見られる。それが第4章の後半の内容

である。

 まず第4章の前半のところから読んでいこう。

 情動の基本的性質一情動と自動運動との対立を中心に一

 ワロンは,冒頭で「情動は一つの組織された反応体系」であること,したが って,その発現を支配する中枢は,神経系のなかにあることを指摘している

(OCE., ibid., p.86.『性格』77ページ)。

 そもそも,生理学的なものが,社会的なものとして現われる人間の場合,情 動はどのようにして,社会的なものとして機能していくのだろうか。情動は人 間という種の行動にとって,どのような有用性をもち,その進化の過程におい て,どのような役割をもっているのか。このことが問題にされねばならない

(ibid.同上)。

 ワロンは,人間にあっては,もちろん,身体の機能と生存条件が「根源的な 不調和」(desacord radical)をもっているとは考えていない。しかし,人間の 特殊性として,外界にたいする関係活動と情動のあいだには,明らかに「葛藤」

(conflit)がある。この対立は,人間の発達に固有のものとして,ワロンによっ て把握されている。ここにワロンの情動の発達論の根本的原理がある。

 つまり,第3章までで述べてきた,情動と関係活動との「対立」構造は,人 間の発達の根本的特徴として,まさに把握されていることを,私たちは知るこ

とができる。

 ところで,ワロンは外界と有効に関係をとる活動が二つあることを述べてい る・一つは,適切な運動によって外界に反応しようとする適性であり,もう一 つは,外界の現実を表象しようとする適性である(ibid.同上)。

 さて,このような2種類の活動を前提にして,両者の対立を解明するにあた って,ワロンは重要な問いを投げかける。「(これらの対立は)見せかけの対立

(3)

にすぎないのであろうか。それともそのほかに,つまり適応と行為の第三の形 または手続きのなかに,情動の存在理由を見いださなければならないのであろ

うか。」(ibid.同上)と。

 ワロンは,人間において,なにかこの対立項のほかに,別の対立項が存在す るのであろうか,と問うている。もしも,その他に対立があるとすれば,それ はなんであるか,という問いを投げかけている。ここでは,ワロンはそれまで に考察した概念をもう一度,具体的な状況連関のなかに引き出して,総合的考 察をおこなおうとしている,といってよいだろう。

 ワロンはまず,第1の活動について,情動との関連を問題にしていく。

 この第1の活動で問題にされるのは,すでに第2章において述べたように,

自動運動のことである。

 ワロンは,まず,戦争の場面についての例をあげて説明する。

 戦争の始めから終わりまでの場面は,いうまでもなく,恐怖,怒り,興奮,

傲然,臆病,戦陳,歓喜,などの情動に彩られている。戦闘の始まる前には,

戦士たちは,怒りと興奮にかられている。戦闘に勝った場合には,兵士は傲然 と歓喜とをあじわう。もし戦闘に敗けて敗退するような場合には,兵士は恐 怖,臆病,戦陳にみわまれる。戦闘の行為は,それぞれの場面の情動によっ て,戦士の行動を促進したり,抑制したりしているように見える。

 ところが戦争の場面で,とりわけ肝腎の戦闘にあたって見られるのは,自動 運動であって,戦闘に熱中している間は,けっして情動作用は働かないとワロ

ンはいうのである。ワロンはこのことを,彼がエコール・ノルマールに在学中 の哲学の師F.Rauh(フレデリック・ロー)が引用するデューイのことばにし たがって説明している。すなわち,人間はまさに戦闘に没入している間は,そ の戦闘の行為に熱中していて,情動はむしろ消えてしまうというのである。

  「若い時の戦闘の記憶によると,ある戦闘の時,敵の姿が不思議にはっき  り知覚されているのに,それが催眠術のときの注意の焦点みたいで,何の感  動も起こさなかった。戦闘の前には怒りもあり,後には,傲然たる気分もあ  るのだが,その間の戦闘の最中は情動(感情)などは何もなかった。」(ibid.,

 p.87.同上,78ページ)

(4)

 ワロンは同じように1危急の時にも,情動がはっきりあらわれることなく,

むしろ自動運動が情動をおしのけてしまう,と述べている(ibid.同上)。

 ワロンのいうところを聞いていると,情動は自動運動とまったく排除しあう か,まったく交替しあうかしかないように見える。自動運動はまさに自動的に おこされるのであって,そこに情動がまじりあうことはないというのである。

ここで私たちは,あらためて先天的に発現する自動運動と後天的に獲得される 自動運動との異同について考察しなければならない。

 先天的な自動運動についてまず考えてみよう。その場合,この種の自動運動 を引き起こしている脳の部位は基本的にはどこか,という問題をまず見てみな ければならない。この問題については,ワロンは,もう少し後の章,すなわ ち,「第1部,第8章の自動運動」のところでくわしく触れている。そこです こし先走るが,この部分を考察してみよう。

 ワロンはここで,次々と低い段階から高い段階までの,自動運動の形を確か めながら,それが働いている部位を確かめていく。

 まずワロンは,低い段階の自動運動をつかさどる部位は脳脊髄軸(axe

cerebro・spinal)であると考えている(OCE., P.160. r性格』140ページ)。しかし,

ワロンによれば,その働きは,きわめて力のないものである。例えば,脊髄に 横に切れ目をいれると,体の下の部分を刺激して得られる反応は,同じ側の下 肢がゆっくり伸長し,反対側の足がちぢまるだけである。それは,ワロンによ れば,歩行の自動運動であると判断しても,あるいは単純な防御反射であると 判断しても,いずれにしても,形がない(informe)ものであり,効果をもたな

い(denue d eMcacit6)ものである(ibid.同上)。

 次に,ワロンは,除脳硬直(rigidit6 d6c6rebr6e)の場合について,問題を確 かめていく。ワロンによれば,そのような場合,動物でも立つとか歩ぐとかの

自動運動の反射ぐらいは起こる(ibid., p.161.同上)。しかしそのためには,つぎ つぎと刺激が行われていなければならない。これは自動運動といっても,一種 の反射であって,刺激が行われなければ,反応は起こらないというものである

(ibid.同上)。ここでワロンは,脳除去の場合でも,視床下部と間脳があって初 めて,自発的な自動運動ははじまるのだ,と言っているように思われる。

(5)

 なぜこのような部位がなければ,自発的な自動運動は始まらないのだろう か。このような部位は,たしかに大脳のコントロールを直接受けてはいない。

しかしそもそも,このような部位は臭覚を除いて,すべて大脳への感覚路の申 継所を形づくっている。感覚路の中には,言うまでもないが,運動感覚路が含

まれている。そこには自己受容性感覚が存在している。

 自己受容性感覚は,なんども指摘したように,三半器官と迷路からくる平衡 感覚や身体の移動感覚である。そこには筋緊張が働いているが,この筋緊張が 自発性の基礎をつくりだしている。しかしなぜ筋緊張のあることが,自発性に つながるのだろうか。

 ワロンが言おうとしているのは,動物が自発的に立つことができるのはなぜ か,ということである。また,動物をひっくり返そうとしても,動物がそれに 抵抗するのはなぜか,ということである。このような動物の行動は,大脳の働

きを介してはいないのだろうか。

 これもすでにふれたことだが,ワロンは自動運動のなかで比較的はやくから おこる頸部反射と迷路反射について論じている。

 頸部反射は,すでに述べたように,体の動きをいつも自分の頭の動きと関連 させて働かせる反射である(「ワロンr子どもの性格の諸起源』を読む  研究ノー

ト(その1)」参照)(ibid., p.161.同上,140ページ)。それは上頸脊椎の関節からな

りたっていて,肢の屈曲と伸張とのあいだの緊張関係を調節している(ibid.同 上)。この反射は,頭部の動きを調節することによって,体全体の姿勢を決め

ている。

 ところがワロンによれば,この種の反射は,生誕の時にはすでに簡単には得 られなくなっている。それが発生するには,錘体路の働きがなくなっているこ とが前提となっている。錘体路というのは,大脳皮質の運動領の突起からおこ って,中脳や延髄までも通っている神経繊維群のことで,その働きは大脳皮質 に発する運動の意志をすみやかに伝達することにある(r医学大辞典』南山堂,

1978年,「錘体路」の項参照)。

 したがって,この回路が働かなくなることは,大脳皮質との連絡がなくなる ことを意味する。半身麻痺(hemiplegie),四肢麻痺(displegie),リトル氏病

(6)

(maladie de Littl),脳水腫(hydrocephalie)などの場合である。

 半身麻痺は,片麻痺とも言われ,半身不随になることを意味する。全身麻痺 は,それが全身に及ぶ現象である。リトル氏病は,脳性(小児)麻痺のうち,

痙攣性両麻痺の一つの型で,上肢の障害は軽度であるが,麻痺は全身に及んで いる。脳水腫は水頭症ともいわれ,要するに,頭蓋内の脳脊髄液腔に異常に多 量の髄液が貯って,その腔が異常に拡大した状態である(同上,関連項目参 照)。いずれにしても,これらの障害には様々な原因があるが,要するにそれ

らは,運動神経への刺激と伝達の障害がひきおこされているという意味で共通 している。一言で言えば,大脳皮質の働きがそこでは切れているのがその特徴

である。

 一方,迷路反射のほうは,姿勢をその空間的方向や重力に対抗しての移動と 関連して,調節する反射である。これは,すでに述べたように,耳石または三 半器官によっておこされる。つまり,一言で言えば,大脳皮質の刺激がなくて

も,独自に働く器官である(OCE., ibid., p.162. r性格』141ページ)。

 ところで,ワロンによれば,このような純粋に先天的な自動運動と情動とは どのように対立するのだろうか。先の例にもどると,戦争の場合,恐怖に満ち た戦闘場面では,一時的にも情動が自動運動によって抑圧されてしまうと,ワ ロンは見ている。しかし危険が過ぎ去ると情動が復活する。ある場合には,い くらか甘さを保ちながらもそれが起こる(ibid., P.88.同上,78ページ)。これは,

ワロンによれば,純粋に先天性の自動運動の部位と情動の部位とが関係しなが らも,異なることを示している。関係しているというのは,ワロンはある意味 では,情動をも一種の自動運動と見ている点があるからである。

 ワロンは,心的生活において重要性をもつ自動運動のなかに,明らかに情動 の自動運動を含めている(ibid., P.162.同上,141ページ)。彼はつぎのように述べ

ている。r心的生活において重要性をもつ自動運動は,つまり情動の自動運動 は,その中枢の上部の核,皮質核ないし視線状体にもっている」(ibid.同上)。

 ここでは,すでに述べたように,情動は明らかに,大脳皮質の直接のコント ロールからは免れている。視線状体は,大脳皮質と直接の連絡はないが,しか し視床を仲介しながら,皮質とつながっている(ibid.同上)。だからそれは,先

(7)

天的の自動運動とちがって,まったく皮質と切れているとは言えないのであ る。ここが情動と先天的な自動運動との決定的な違いである。

 さてワロンは,さきの例からも分かるように,従軍の経験から,情動と自動 運動との相互関係について,くわしく述べている。戦闘の真最中には,ある意 味で情動などは,生じようがないのである。例えば,突撃する場合でも,逃走 する場合でも,その方向へ運動することに夢中になっており,体だけがその物 理的状況に完全に適応しているかのように見える。自動運動の際には,刺激と 運動の回路にたいしては,まったく本人が関与していないようにみえるのであ

る(ibid. p.88.同上,78ページ)。

 こうして,興味深いことに,戦闘が終わったとき,兵士のなかには,まった く,戦闘状態の時のことを情動的に思い出すことができない者もでてくる。そ して,なかには自動運動がとまり,状況におうじた情動が発生した者もいたこ とを,ワロンは述べている(ibid.同上)。これは,戦闘の時の情動の経験が思い 出されるためか,それとも,戦闘中にはまったくそのことすら経験しなかった ためかは,にわかに判断できない。私の仮定では,おそらく,戦闘中,視床と の連絡はあったにもかかわらず,自動運動があまりにも強かったために,情動 を意識する余裕がなかったためであると考えられる。そうでなければ,状況に 応じた恐怖や恐れなどは生まれてこないものと思われる。このことは登山で,

真に危険な山の箇所を必死になって通過している時は,そこを通過することに 夢中になっていて,恐怖などはかえって感じないことからも,想像することが できよう。情動は,かえって安全がもどってから,感じられるのである。

 しかし,ワロンはここで,情動がより器質的に大量の仕方で,自動運動にと

ってかわられる場合があることについて触れている(ibid., pp.88−89.同上,79ペ ージ)。これは,自動運動への固着が,最初の状況が取り除かれても,いつま でも残っている場合である。ワロンは,このような例を戦争に参加した兵士の

なかに発見して,それを『心理学雑誌』∫ournal de Psychologieの1992年6 月号に発表しているが(Wallon, Un cas de brasque variations dans la forme de crises d origine伽o吻θ),それは,自動運動と情動の実に微妙な関係を私

たちに想像させる(ibid.同上)。というのは,もともと恐怖や恐れは,戦場にお

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いては,自動運動の必死の動きとともに無意識に経験しているのであり,その 情動が一一時的に自動運動によって覆われていても,その状況がなくなれば,普 通は表面にでてくるはずだからである。ところがワロンが挙げているように,

そのような調和的な関係がなくなるほど,両者の対立が激しくおこるのであ る。戦争の影響をこのように見ていたところにワロンの独自性がある,という よりも,そのような異常な場合をさえ通常の子どもの状態と比較しているとこ ろに,私たちは,ワロンの比較的方法の真髄を見ることもできるだろう。

 ワロンの挙げている例は,戦争時に爆撃をうけて,衝動行為(raptus)にお ちいった兵士が,その発作を戦争中,たびたび何の動機もなしにおこし,とう とう退役して親元に帰ってからも,その衝動を経験したというものである。こ の兵士は,衝動を抑えるために,自分を縄で縛り付けていたというが,その結 果,彼の発作は,緊張痙攣になってしまった,というのである(ibid., p.・89.同 上79ページ)。この場合,いわゆる自己受容性感覚をとおして,筋肉の姿勢と

自動運動が,情動を抑えてしまい,情動が遮られてしまった例だろう。情動と 自動運動がまったく対立しており,けっして混じり合わないことを,この例は 示している。

 ワロンはこの点について,つぎのように述べている。

 「こうして,恐れは結果として逃亡の運動になるとか,怒りは戦闘の運動に なるという人々が想像するように,情動は自動運動と混じり合うどころか,む

しろ,自動運動によって圧倒されるか,自動運動の出現することを阻止する。」

(ibid.同上)と。これはまさに情動が自動運動とあい容れない性質をもってい る証拠である。すこしでも,情動が出てきそうになると,自動運動は中止して しまうのである。

 ワロンは,しかし,情動の自動運動について述べながら,なぜ情動と自動運 動を区別しているのだろうか。「情動の自己運動」と言うとき,ワロンは,皮 質核と線条体との反応を指している。それは,すでに述べたように,純粋の先 天的な自動運動をおこなう脳脊髄軸の反応とは違う。両者の反応は,発達のな かで縮減されながら区分されている。この区分は反応が対立し,両者が互いに 牽制しあうということである。しかしこの対立は,両者が全く切れているとい

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うことではない。それらはたがいに刺激を通じるように反応しあうこともあ る。ワロンは,情動が主導権をとり,はげしく専制的に内臓や緊張の活動を発 現させたり,イメージや動機を思い起こさせることもある,と述べている(ibid.

同上,80ページ)。おそらくこれは,情動の激しい出現がこのように縮減した反応 を,元のより原始的な融合の状態にもどしてしまう結果なのかもしれない。し かしワロンが,ここで同時に情動と表象という関係について,すなわち,自動 運動にたいする関係よりもいっそう高位に位置つく関係に言及していることに 注意しなければならない。情動と表象は,すぐ後にワロンが述べるように,対 立関係にある。しかし,自動運動との関係で言えば,情動は両者にかかわって,

それを調節している関係にある。すなわち,情動は一方で,自動運動にたいし てそれを抑制するように働くと同時に,表象を抑制するように働くのである。

 しかし,ワロンは情動が強く働くと,自動運動も表象も,それ自身を解放し てしまう場合があることを,示唆しているものと思われる。すなわち,さきに 述べたように,情動が主導権をとり,内臓の働きや緊張を発現させたり,イメ

ージや動機を思い起こさせる,ということは,情動が激しくはたらいて,抑制 するべき関係の機能を越えてしまうものと思われる。

 こうして,強烈な情動の働きによって作られた自動運動と表象とは,結局,

情動との関係では,表象が主導権をとり,結果としては,前二者を抑制してし まう。ワロンは,ここでも情動と表象とのあいだに,重要な「対立」の関係が あることを強調するのである。

 ワロンはこの事について,次のように述べている。

 「たしかに,情動が表象への門を開けるとしても,情動と表象との間には,

くすぐりと,刺激についての正確な知覚や,予期とのあいだにあるのと同じ種

類の非両立性(incompatibilit6)がある。」(ibid., p.90.同上,80ページ)と。

 情動と表象との関係(1)−DAP(『認識過程』)における模倣の扱い一  ここで,r情動が表象への門を開ける」とワロンが言っているのは,表象の 発生について,情動がかかわっていることをまさに表現するものだろう。後に

ワロンは,DAP(『認識過程』)のなかで,表象と模倣との関係の文脈をとお

(10)

して,この関係について詳細に論じた。

 ワロンはそこで,表象が真の意味での模倣の存在なしには発生しないところ から,模倣がどのようなメカニズムで発生するかについて考察している。情動 は最初,真の意味での模倣ではなく,模倣に似ているが本質的には模倣ではな い,一種の融即として現象する。それは,感染などにみられる「随伴動作」に かかわって働いている。これが,さきに触れた情動の自動運動のなかで現れる

反応である(DAP., p.134. r認識過程』154−5ページ)。

 ここで,随伴動作というのは,たとえば,プライエルの挙げた,つぎのよう な例である。すなわち,プライエルの子どもは,生後8ヵ月から9ヵ月の間 に,壺の蓋が交替にあがったり,下がったりするのを見て,手で同じ動作をし たという(DAP., P.・133.同上,153ページ)。ワロンは,このような随伴動作は,

あくびの感染にもみられるものであるという(ibid.同上,154ページ)。ところが,

この随伴動作は,どのようにして模倣に近づいていくのであろうか。ワロンは このプロセスを,模倣の直接の準備として描いている。

 例えば,ワロンは,練習舞台を見ながら,しばしば,自分も命令をうけてい るような気分になり,その命令にしたがって,筋肉が活発に動く観衆の例を挙 げているストッカーの言葉を引用している。さらにワロンは,スポーッの試合 の前に,自分自身のからだのなかに,相手のチームの興奮を感じて,やらねば ならない動作を秘かにおこなっている見物人のことや,綱渡りをみていて,綱 渡りをしている人が,平衡を失うように見えると,自分もまた筋肉を収縮し て,それを快復しようとする努力を示す見物人の例をあげている(ibid.同上)。

 これは,ワロンによれば,一種の自動運動で,まだ情動ではない。だが,こ のような自動運動による融即と似たものに,もう一つの融即の形式があるとい う。これがワロンのいう情動のもつ自動性である。ここでは,情動がひきおこ す様々な表出(マニフェスタシオン)が伝幡する際におこる融即が問題になる のだが(ibid.. p.134.同上,155ページ),このような一種の自動性においては,先

天的な,固有の意味での自動性と違って,涙や笑いや威嚇や恐怖などのよう に,視床と結びついた,したがって,大脳皮質のコントロールと下位の脳の機 能と関係した,表出の伝幡が問題になっていることだろう。

(11)

 ワロンは,情動が自動性と結びつく例として,原始民族の儀式や儀礼を挙げ ている(ibid.同上)。ワロンによれば,ここにはまだ,真の意味での模倣は発生

していない。模倣がまだ全くないという,ここでのワロンの説明は,こうした 儀式や儀礼が発展した後のことを考えれば,当てはまらないかもしれない。し かし,その発生について言えば,当たっているであろう。ワロンはそのことを

「これらは,彼らを情動の絶頂に至らせ,あらゆる暴力,あらゆる恐怖,あら ゆる個人的エネルギーを,唯一の渦中に融合しようとするのである。」と述べ

ている(ibid.同上)。

 ワロンはこうして,それぞれの情動には固有の自動性があるという(ibid.同 上)。これをワロンは,それぞれの情動に,模倣が介入しないで,さまぎまな 個人に類似の反応を引き起こすことができることによって説明できるという

(ibid.同上)。しかし,その場合,相互に等しい表出を引き起こすことができる のは,なにによるのだろうか。

 それは,ワロンによれば,感染によってである。自動性は,他人のなかに見 られるものを,自己のなかに感じることができる作用である。すべて,それら は自動性をもつがゆえに,感染するのである。他者の自動運動を見た人は,同 じ状況のなかで,同じ自動性を感じる。その感じ方は,あらゆる状況をつくり だしたものと類似の状況のなかで引き起こされる。

 見ることと,自動運動でもって反応することとは,その場合,融合してい る。つまり,それらの機能がすこしも縮減されていないのだ。情動が自動運動 と結び付く例は,たしかに,情動がかかわらない自動運動の例よりは,はるか に進化している。しかし自動運動はそれ自身を否定はしない。かえってそれ は,自動運動自身を,その論理にしたがって刺激し,随伴させようとする。

 子どもは,さまぎまな情動の色彩に色どられた反応に具体化される行動をと る。たとえばワロンは,さまざまな種類の国語を話す周囲の人々にたいして,

アクセントを使い分ける幼児の例をあげている。これらは,ワロンによれば,

たしかに,模倣に似た現象である(ibid. p. 136.同上,157ページ)。しかし,それ らはイメージのない模倣である。というのは,それについての手本はあるよう に見えるが,それらは総じて見たときに同時に働く,融合的な縮減されていな

(12)

い一種の合わせにすぎない(ibid., P.136.同上,157ページ)。手本は,いわば自己 自身のなかにある情動に色どられた感覚にすぎない。それは情動に色どられな がら自己をくりかえす。

 しかしこのことから,ワロンは,模倣の発生を,シュテルンのように,自己 の意識から出発させようとする説に反対している。すなわちワロンは,模倣の 発生を「自己模倣」とする見解を批判しながら,自己の説を正しく発展させて

いる。

 ワロンによれば,真の模倣の前提となるのは,周囲の人々との類似関係,な いしは融即関係である(ibid.同上)。私たちはここでも,ワロンの関係論的発達 論をみることができる。模倣を「自己模倣」からみるシュテルン以来の模倣論 は,自我の発達を孤独な自己  むしろ自我が形成された以後の状況のなかで 作られていく自己の形態に還元する方法である。自己を模倣する行為は,他者 を模倣する行為にくらべて,はるかに発達した行為である。

 自動運動としての自己の繰り返しと,自己を模倣する行為とは,決定的に異 なる。ワロンは,このことについて,つぎのような例を挙げている。子どもが 母親にたいして舌をだしたり,口をとがらせたりしてみせたそのほとんどすぐ 後で,周囲の誰かがこれをまねると,子どもはすぐそれを見て,その動作をく りかえす。スクーピンによると,このような行為は,生後11週目から,プライ エルによると,生後15週目におこる(ibid.同上)。これは,ワロン起よれば,一 種の自動運動の痕跡が,他者の介入によって呼び覚まされるにすぎない(ibid.,

同上)。

 ワロンはこうして,『認識過程』において,「パリシネジー」(palcinesie,運 動的反復症),「パリラリー」(palilalie,言語反復症),または,循環反応のなかに

あらわれる,繰り返しの動作を,模倣とは異質なものとして位置づけている

¢扉4.,PP.137−140.同上,158−161ページ)。

 模倣の前駆段階は,このような自動運動が,他者との融即関係によって展開 すること,そしておそらく,そζに情動が加わること,によって生じ、るのであ

る。それは,『認識過程』で,ワロンがとりあげている一連の「反響的反応」

(r6actions en 6cho)である(ibid., P, 140.同上,161ページ)。そして,この反響

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的反応の病的状態が「エコプラクシー」(6bhopraxie)にほかならない。

 ワロンがここで「エコプラクシー」の一一ptとして挙げている「エコシネジ ー」(6chocinesie,運動反響症〉「エコミミー」(6chomimie,身ぶり反響症)「エ コラリー」(6cholalie,言語反響症)にかんする記述は,模倣が発生する機制に ついて,また,そこに情動がどのように関係しているかについて,豊かな知見 を私たちに与えてくれる。そこで今すこし『認識過程』にこだわることになる が,そこのところを見てみよう。

 ここで問題になっているのは,「反響」とは何かということである。ここで も,ワロンは例のごとく,対立する従来の理論を批判的に検討していく。それ は,ウェルニッケとピックの,この問題にたいする説明の対立である。

 ウェルニッケは,反復をもっぱら大脳皮質のはたらきに還元してしまう。そ れは,感覚的イメージの反復である。運動器官を刺激するまえに,意識によっ て知覚されたところが,反復されるというのである(ibid., p.141.同上,162ペー ジ)。これにたいして,ピックのほうは,皮質下の自動運動が問題にされる。

だから,大人の場合は,皮質のはたらきが純ったときにはじめてあらわれる。

反響運動の中枢は,したがって,自動性の領域にあるというのである(ibid.同

上)。

 ワロンは,たしかに臨床的には,ウェルニッケの説よりもピックの説のほう が観察に一致しているという。しかしここで,ワロンは重要な区別をおこなっ ている。それは普通の自動運動と反響反応における自動性との区別である。普 通の意味における自動運動は,すでに述べたように,その原因が反射にみられ るような先天性のものであろうと,外界と内界との一定の練習による習慣化の ような後天性のものであろうと,外界にむかっての一定の反復運動である。そ れは最後には,外界にある客体の動きそのものを感覚するようにまでいたる。

 すでに引用したように,ピアノを自由自在にあやつる人が感じるのは,自分 の指よりもむしろ,ピァノのほうであるといっているのは,このことをよく表

している(OCE., P. 59. r性格』57ページ)。もちろん,ワロンもいうように,例え

ば,防衛反射とか逃避反射のように無条件反射の場合には,外界にたいする反 応は,外界への一定の認知をともなっていても,その認知の起源について主体

(14)

が知っているとは限らない。この場合,刺激は外からくるにしても,自動性の 原因は,内部にあるのはいうまでもない。習慣化された後天的な自動性の場合

には,密接な客体との関係である(DAP., P.ユ41. r認識過程』163ページ)。この場 合の自動運動ば,客体との複雑で,絶えまない往復の運動を自動化したものに

ほかならない(ibid.同上)。

 ところが,エコプラクシーは,これとはまったく違っている。ワロンは,そ れは,外部へむかうものでもなく,役にたつものでもないという。それは,刺 激にたいして,刺激で反応する。そこで刺激の反復がおこる。同じ刺激が,そ こで刺激されるのである。だから,ワロンは,反響運動を「刺激の鏡」と言っ ている(ibid.同上)。つまりこの場合は,刺激が刺激をつくりだす回路へとむ かうのである。だからそれは,自動運動のように繰り返しがあっても,対象へ

とは向かわない。

 なぜこのような繰り返しが,感覚回路において繰り返されるのか,を明らか にするには,まずは,最初のモメントを説明する必要があろう。はじめ,人は たしかに刺激を外部から,すなわち,他者からうけとる。ところが,その刺激 は,縮減されない反応のもとで,受け取った人間の身体にすみやかにひろが

る。繰り返しを感覚の回路で感じるのは,他者であろうと,自己であろうと,

同じわけである。

 この場合もちろん,人は相手の活動を見ていることもあるから,そこに大脳 皮質の作用が全く働いていないとはいえない。このことは,ワロンが,ピック のいう皮質下の運動の純粋性をかならずしも肯定する必要がないといっている ことからも分かるだろう。事実,反響作用には皮質と皮質下の活動の平衡作用 がつねに存在するが,その作用はワロンのいうように,ひっくり返される(etre inverse)のである(ibid., p.142.同上)。つまり,皮質下の働きのほうが強くな

ってしまうのである。ここのところで,おそらく,単なる自動運動と,情動的 な自動運動としての反響的反応との特徴の相違が,浮かび上がってくるところ であろう。

 っまり情動が,たんなる外界にたいする関係の活動ではなく,姿勢や内部感 覚とも関係しながら,しかも,外界と主体との調節的な関係を,主体相互の融

(15)

即的な関係のなかでの,主体の調整的な機能として,なによりも図っているこ とは,生理学的には,皮質と皮質下との交差点にあたる,視床下部にその機能 の中枢が存在することを表している。その効果の点では,さまざまな情動の自 動運動的側面が,皮質の運動一つまり,見たり,聞いたり,身振りをしたり する,などの点で,相互に浸透する機能として,もっとも初発には,発動する

ということである。しかもそれが,反響的反応の場合には,皮質下の運動と平 衡を失って,後者のほうの運動が強烈になってしまうということである。

 この意味では,反響的反応は,すでに皮質と皮質下の活動の中間に位置する のである(ibid.同上)。ワロンはこの点について,次のように,明快に述べてい

る。

  「エコプラクシーでは,知覚がもはやその場かぎりであるばかりでなく,

 反応のきっかけでもある。しかし,反応は,対象のイメージに発展する代わ  りに,反応を再生しうる運動にしか向かわない。この意味で,ヱコプラクシ  ーは,両者の中間にあるようにみえる。」(ibid・同上)

 エコプラクシーが,自動運動と情動的な自動運動の継ぎ目,すなわち,自動 運動から主体が脱して,感覚的・知覚的段階に発達していく過渡期に位置つい ていることは,エコフ゜ラクシー自身が,くりかえしの点では,自動運動の側面 をまだもっているにもかかわらず,単純に,これを皮質下の活動と見なすこと ができないことを示している。すなわち,そこに皮質的な活動が関与している こと,そして,その間の平衡とその平衡の破棄に,情動が関係していることを 示している。情動は,相互の活動を関係的に媒介しながら,それを調節し,あ

る場合には,知覚的・感覚的な反応に主体を導きながら,やはり,内部では,

自動運動とも媒介しながら,全体として,主体を調整しているのである。

 その意味で,ワロンが,情動の発生にかんして,反響的反応を持ちだしたこ とは,彼の発達の弁証法のもっとも典型的な提出であったというべきであろ う。つまり,模倣の発生において,それが,表象の存在によるものであること を強調しながら,ワロンはエコプラクシーが模倣の入口にあるということ,ま たそれが,姿勢と運動と知覚・感覚的反応の中間に位置していることを立証し ながら,それがまた情動とも関係していることを示唆しているのである。

(16)

 ここでついでに,エコプラクシーと循環反応と情動の関係について,付言し ておこう。いうまでもなくr性格』では,この問題は触れられていない。しか

し,循環反応が,一種の自動運動とすれば,ワロンによって,一種の循環反応 として位置づけられているエコプラクシーを,情動と関係させてどのようにと らえなければならないかが,当然問題になるからである。くりかえすが,情動 はたんなる自動運動ではない。しかし,ワロンが自動的な情動といっている場 合に,それは,そのような意味で,自動的であるといえるかどうかが,問われ

るのである。

 ワロンによれば,エコプラクシーは「回路が外部的原因の印象のうえにひら かれている循環活動」である(ibid., p.142.同上,164ページ)。つまり,その原因 は,外部にある。エコプラクシーがおこるのは,外部の対象がもとになって,

或る運動が発生するからである。ところが,この循環反応,つまり,ある種の くりかえしは,イメージをまったくともなってはいない。それは,たんなる印 象による反衡である(ibid.同上)。したがって,それは,外部との関係でおこ っているけれども,外部を表象するという高度の皮質的活動に裏付けられては いない。しかし,他者の動きに融合しているという意味では,そこには,さき に言ったような情動的自動運動が働いている。だから,このような循環反応 は,皮質下と皮質との活動の関係において起こっているそれであって,たんな

る内部感覚的な循環反応ではない。

 つまり,相手の印象と関係しながら,循環反応がそこにおこっているという ことは,表象がそこに働いていないといっても,情動がはたらいていないとは かぎらない。そこに,姿勢をとることや運動を続ける喜びやリズム感や不安感 が,働いていることは,容易に想豫できるだろう。姿勢と運動の感覚が,そこ に働いていなければ,外部との関係における循環反応はない。そこには,生理 学的にいっても,表出的にいっても,一定の情動のごく初期の機能が働いてい

ることは,十分に想像できるのである。

 こうして情動が,一種の自動運動の要素をもちながら,それから遠ざかって いくということが,ワロンによって強調されるのである。

(17)

 情動と表象との「対立」関係

 ここで,また『性格』にもどって,ワロンがその時点で,両者をどのように 関連づけていたかをみてみよう。

 さきにみたように,情動は,一方で自動運動にかかわっていながら,しか し,それまでのたんなる自動運動とは違った機能をもってきていた。しかし情 動は,同時に,表象を否定すると言う点では,自動運動的な機能をまだもって いる。しかし,さきに述べたように,ワロンは「情動が表象への門をあける」

といっている。そこで,自動運動が表象を否定するのと,情動が表象を否定す るのとでは,どこがどのように違うのだろうか。これこそ,つぎにワロンが情 動と表象との対立関係として考察しようとした所以である。情動は,表象を否 定するけれども,その門を開く,ということはどういうことだろうか。ここで も,ワロンは発達における連続と断絶との両者の同時存在を説いていく。それ はどのように展開されるのであろうか。

 ここでもワロンは,情動と自動運動と表象との対立関係には,それぞれ特殊 な性質が存在することを,例の弁証法的方法で解いていくのである。

 まず,ワロンは,情動が外部感覚(sensibilit6 ext6roceptive)や弁別感覚

(sensibilit66picritique)を消し去りながら,また,表象の働きをゆがめ,消滅 させながら,発展する以外には存在することができない,と述べている(OCE.,

p.90.『性格』80ページ)。

 この部分にまずは,ワロンのいう情動と外部感覚や表象との対立関係がとら えられている。つまり情動は,外部感覚や表象とは意識的に別の存在論理をも っているということ。いいかえると,意識が情動に集中している間は,このよ うな感覚や知覚は意識されないか,ひどくゆがんだ状態のかたちで意識される ということである。

 すでに述べてきたことからも言えるように,ここで両者がたがいに他の抑制 のうえに成り立っていることが分かるだろう。とすると,いわゆる感情と情動 の違いが,すぐさま気になってくるが,そのことかついては,あとでくわしく 論じることにしよう。というのは,普通,感情(sentiment)とは,情動にさま

ぎまの外部感覚や知覚が付与され,結合された状態を指していると考えられる

(18)

からである。しかし,このような考え方は,けっして正確ではない。というあ も,感情は純粋に情動に知性や感覚・知覚がつけくわわったものではないから である。それは,情動が,理解(connaissance)や推理(raissonement)と「折 り合う」ということはあっても,おそらく,それと完全に結び合うことはない からである。このことを,ワロンは両者が,composer avec(妥協する,折

り合う)という表現で述べているが(ibid., P. 83.同上74ページ),これを久保田 正人氏のように,「組み合わされる」と訳しては,不正確であろう(r児童にお

ける性格の起源』久保田正人訳,明治図書,1964年,74ページ参照)。

 ここでは感情もまた,一種の情動の抑制または統制によって,成り立ってい ることを指摘するにとどめておこう。

 たとえば,感動的な映画や演劇の場面をみて,自己の感情を対象化している 状態を考えてみよう。その場合,情動は働いているが,けっして純粋に意識に のぼってはいない。涙を流すときは,情動が高ぶっている時だが,その時,芸 術的で美的な感情が高揚しているとはかぎらない。静かな感情のほうがはるか に,その芸術の本質を認識していることがあり得るのは,情動の抑制または統 制によって芸術的な感情が成り立っていることを,ある意味で示している。

 感情と情動が異なる次元に属しているのは,芸術の鑑賞において,年をとっ てからのほうが,涙脆くなるといわれていることを逆に表現しているのかもし れない。年をとってからの方が芸術的な感動が深くなるというよりも,感覚の 抑制機能が低下してくることの結果がそうさせるのであって,芸術にたいする 感動の力は,若い時のほうがむしろ強いことがあり得るのだ。

 このような例ではなくて,ワロンの挙げている,情動の抑制されない例をと ってみると,このことはいっそう明らかになろう。

 一一例として,ワロンは怒りの情動を挙げている。怒っている時は,だれしも 経験するように,その時の外部的感覚や知覚にたいしては不十分な自覚しかも っていない。とりわけ,怒りの極端な状態に立ち至った時は,外部的な感覚と 知覚は完全に喪失している。ワロンは「激怒の興奮の限界の状態にまで,自己 を失ったならば,知覚や知性の全体的な混濁にまでいたる」と述べている(ibid.,

P.91.同上,80ページ)。

(19)

 恐怖の例でも同じことだとワロンはいう(ibid.同上,81ページ)。例えば,よ くあるように,幽霊を見たとか,幻影を見たとか,ということ自身が,恐怖に よる外部感覚と知覚の完全な喪失に近い状態を示している。よくものを見,聴

くということ自身が,情動をコントロールするのに役立つのは,このことをあ らわしている。

 芸術作品はその意味でけっして,情動のおもむくままを記録しているもので はない。むしろその逆である。

 この真理は,感情教育にとって,重要な問題を提起している。人は感情を主 観的に喚びさますことによってのみ,感情を対象化できるものではない。それ は,感情や情動を表出するだけのことである。それはたんなる感情の経験にす ぎない。もちろん経験もまたなんらかの痕跡を主体に残す。しかし芸術や文学 の作品化が,感情にとって教育作用となるのは,それが情動や感情の生の表出 や表現を客観化することによってである。そのことは,情動を客観化しようと すれば,よく見,よく聴くことが大切だということによって示される。要する に,感情とともに外部感覚や知覚を働かせることが大切なのだ。情動の動揺 は,かえって,このことによって抑えられるとワロンはいうのである(ibid.同

上,81ページ)。

 情動に身を任せることが,時に悪いとは言えない。しかし,それを長いあい だ続けていると,様々な身体上の病状にまで進行することがある。このこと

は,神経症がこうした情動の非コントロール(1)持続によっておこることを見て も言えよう。

 いま私は,芸術はけっして人が情動に身を任せることによって創造されない といった。というよりも,ワロンのいうように,むしろそのような状態を想像 することによって,芸術は実るといっていい。情動の想像の能力は,詩人の資 質であるという意味のことを,ワロンはみごとに言い表している(ibid.同上)。

 これについて,ワロンは悲しみの例を挙げている(ibid・同上)。悲しみは・身 内に感じる臓器的な反応をともなう。その状態をことばや音楽や絵に表現する

ことは,悲しみをもっとも直接に感じている最中には,できるものではない。

シャガールは最愛の妻を失ったとき,半年間絵筆をとることができなかったと

(20)

いう。しかし,悲しみは,とくに,その身体的影響は,その悲しみ自身の表現 によって癒されるのである。それは,ワロンによれば,悲しみが,それを客観 的に表現する場合の,外部的感覚や知覚やことばといった認識的な手段によっ て抑制されるからである(ibid.同上)。いや,悲しみの情動が,そのような表現 をとるときに,悲しみの情動の想像を内面化することができるからである。想 像は,その場合,知覚や外部感覚やことばと結びついている。なぜ想像がこの ようなかたちで,情動を直接的に身体からきりはなすかは,情動の作用する脳 の部位と知覚や想像の部位とが違うからであろう。ワロンによれば,悲しみの 情動は身体的影響から自己を防衛する。それが悲しみの芸術によって確かめら れるのである。

 ワロンがゲーテの詩作の場合をもちだしているのはさすがである(ibid.同 上)。ワロンは具体的なゲーテの作品を挙げてはいないが,ここでは私の最も好

きなゲーテの作品で説明してみよう。

 ゲーテに「ズライカ」という二編の詩がある。一つは,東風という題 もう 一つは西風という題がついている。いずれも,r西東詩編』のなかに入ってい

る有名な詩である。ズライカは,ゲーテが,彼の最愛の女,マリアンネ・フォ ン・ヴィーマーにあたえた名である。

風のこのそよぎは何を意味するのでしょうか。

東風はうれしい便りを持って来るのでしょうか。

風の翼のさわやかな動きは 心の深い傷をひやしてくれます。

風は愛撫するように道のほこりをもてあそび,

かりたてて,軽いちぎれ雲にします。

戯れる小さい虫の群れを

安らかなぶどうの葉かげに吹き寄せます。

東風は,照りつける夕日をやさしくやわらげ,

(21)

私の熱いほほをひやしてくれ,

畑や丘に照り生えるぶどうに,吹き過ぎながら口づけします。

そのかすかなささやきは私に

あの方のねんごろなことばを伝えます。

丘がまだ暗くならないうちに千たびもの口づけが私をよみがえらせるでし

 ょう。

 ゲーテは,恋人に会えない悲しみとあこがれとを,やさしい東風の情景にた くして,詩化している。心は深い傷に満たされているのに,風の流れは,ほと んど,ゲーテの魂の切なさを,防衛しているように見える。

 だが,さわやかな東風にくらべて,ぬれて湿った西風は,どれほど,ゲーテ を悲しめ,苦しめていることだろうか。しかし,その西風ですら,ゲーテにと っては,精神的な恋人マリアンネと別れた悲しみと苦しみをなぐさめて余りあ ることを,つぎの詩は物語ってはいないだろうか。

ああ,西風や,そなたのぬれた翼を 私はどんなにうらやむことでしょう。

そなたはあの方に便りを運ぶことができるのですから。

お別れして,私がどんなに苦しんでいるか!

そなたの羽ばたきは

胸に秘かなあこがれを呼びさまします。

花も目も森も丘も,

そなたの息吹に触れて,涙にぬれます。

でも,そなたがやさしく穏やかに吹くと,

(22)

熱く痛むまぶたもひやされます。

ああ,苦しさに私は消え失せるでしょう,

あの方にまた会う望みがなければ。

(以上ゲーテの詩の翻訳は『ゲーテ詩集』新潮文庫,高橋健二訳,216−219ページより)

 西風の方がはるかに,ゲーテに苦しみを送っている。それは,「苦しさに私 は消え失せる」という詩句からも想像できる。しかし,それでも,西風は,彼 の恋心を癒す風物の流れとなっている。

 悲しみは,すでに述べたことからも想像できるように,内臓的な反応からき ている。一般に悲しみは,人間の植物的機能が抑制され,その働きが低下した

時,おこる気分状態のことである(cf., Robert Lafon, Vocabulaire deρsyo加ρ4・

dagogie, PUF,1973, p.832.)。この点では,ワロンは,後に『性格』の第1部,

第6章「子どもにおける情動の根源と形態」で,心理学者ジョルジュ・デュマ のLa joie et tristessのなかの一節を引用している。ワロンによれば,悲

しみは,たしかに,活動の欠乏(defaut d activit6)を意味しているが,それ は,ただの低下(diminution)ではない。ワロンは,そのことについて,デュ マがあげている憂醗者の堅くなった姿勢の例を挙げて,このような人々が体を 堅くしながら,メランコリーをつねに体にたたえているのは,無力(inertie)

の状態ではなくて,反対に,れん縮(contracture)の状態であることを証明し

ている(OCE., P.121,『性格』106ページ)。

 ここにはたしかに,ワロンの姿勢と情動を強く結びつけようとする傾向が見 られる。しかしそれでも,植用的機能の抑制と低下が,姿勢の緊張と結びつい て,悲しみに満ちた常時の状態が,生理学的に起こっていることを,確認する

ことができよう。情動的な人は,このように,悲しみの場合やメランコリーの 場合をあげずとも,ワロンの言うように,一般的に身体的・臓器的影響をうけ やすく,それを,直接的に表出する傾向をもっている。これは,悲しみやメラ ンコリーの場合だけではなく,その反対の喜びの場合でもそうである。これは

(23)

情動が,表象や認識を抑制したり,そのような表現を疎外する傾向を身体的に 強く持っていることを表している。詩人の傾向は,往おうにして,このような 傾向の身体的性格をもちあわせている人間が,その情動を表現して,情動のも っ生理学的基礎を,表象や認識へと放出する能力を著しく形成している場合で ある。このことは,やや病的な場合について,ストリンドベルクやゴッホにっ いて,ヤスパースが分析しているとおりである(ヵ一ル・ヤスパースrストリンド ベルクとファンゴッホ』村上仁訳,みすず書房,1959年)。

 いずれにしても,情動が表象によって置き換えられることが,芸術や文学の 表現にほかならないことは,確かなことであろう。情動を自由にすることがで きるのは,或る意味で,情動に満たされている我が身を忘れることである。そ れは情動に特別に捕らえられやすい人間の教育的な機能としても重要である。

その場合,いうまでもなく,ただむやみに情動から逃げるのではなく,その悟 動の性質を見極めながら,情動に感覚や知覚,知性の働きを対抗させる方法と 習慣とを身につけることが必要である。

 その点で,ワロンがつぎのように言っているのは,心理学的に重要であるば かりでなく,教育学的にも重要な原則の表明であろう。

  「情動に屈しないようにするためには,情動に感覚や知性の活動を対立さ  せる態度を獲得しておくことである。爆撃の恐怖から逃れるためには,読書  をやめず,書き物をやめず,指輪を磨き,または,蚤しらみの類の状態を綿

 密に調べる習慣をつけておくことである。」(OCE., ibid.. pp.91−92.同上,81ペ

 ージ)。

 おそらく,このワロンの記述には,彼が観察した第1次大戦中の兵士や市民 の状況が反映されているのだろう。

 しかし,本質的な問題は,情動と認識(知覚や知性)とが,お互いに他を抑 制し,時には,完全に相互の機能を禁止するほどになるということである。こ の問題は,実は,あらためて問題にするであろう,メルロ=ポンティとワロン の自我意識の形成をめぐっての論争問題へと発展する要素を秘めている。その 問題については,別の論文で述べたからここで触れないが(拙論rH. Wallonの,

La vie mentaleにつV て(その3)」r教育科学研究』1993・7),一口にいえば,自

(24)

我意識,とくに鏡像段階の展開にあたって,ワロンが純粋に自我の自己による 表象と知覚を,人格的な意識,とくに,病的な場合の情動的,感情的な意識か ら一応はきりはなして展開しているために,方法的にワロンの鏡像段階の発達 論が,全人格的な展開からきりはなされて考察されているという批判がメルロ

=ポンティによって行われたことである。この批判を,メルロ=ポンティは,

基本的にはワロンとラカンの鏡像段階についての知見をもとにして展開したの であるが,そこには,メルロ=ポンティの現象学的な心理学の方法論が横たわ っていた。メルロ=ポンティは,ワロンの自我像の知覚的・表象的把握の方法 が,それまでの情動的把握ときれていると批判する結果となったのであるが,

これは,ワロンの発生的心理学の方法が,情動と知覚との「対立性」を前面に 押しだしているのにたいして,メルロ=ポンティのそれが,情動や感情との知 覚の相互浸透に力点を置いて展開しているのと,対照的であろう。

 これは,メルロ=ポンティに代表される現象学的心理学が,知覚や表象の相 対的独立を十分に方法論的にみとめられないほど,人格の形成の比較的段階的 な発達と,その場合の異質的発達(ここでは情動と表象や知性間の発達の関係)

が,制序されていく人格的法則性の崩壊と混乱という現代における人格的病理 状況にたいする両者の態度と認識の違い一というか,時代の把握にたいする 微妙な問題直観の違い  を示しているともとらえられよう。しかし,それば かりではない。それは,両者の合理主義的心理学の方法論にたいする態度の差 異を,はしなくも示しているともとれる問題であろう。この相違を明らかにす るためには,ワロンの心理学の生物学的なものと社会的なものとの対立と統一 の弁証法をあらためて私たちは問題にしなけれぼならない。これは今後の大き な課題である。

 それはともかくとして,ワロンの場合は,情動が,それまでの発達段階での 自動運動とそのあとに展開されてくる表象とのあいだにはさまって,その両者 にたいして,「相互依存性」と「相互浸透性」ではなく,むしろ,「対立性」と

「切断性」を主張するのである。

 ここで,ワロンは,自動運動と表象との間に,情動を媒介して位置づけてい るといえるだろう。しかし,その媒介は,あきらかに否定的であり,対立的で

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