ワロン
『子どもにおける性格の諸起源」を読む
研究ノート(その8)
坂元 忠芳
これまでの連載目次 序章
第1章 第2章 第3章
第4章 第5章
第6章 第7章 第8章 第9章
第10章 第11章
第12章 第13章
第14章
「子どもにおける性格の諸起源』の「まえがき」について
「性格の問題」にっいてのワロンの把握(序説)をめぐって
「情緒生活の心理一生理的前提条件」にっいて(その1)
以上(ノート1)『人文学報』NO.201,1988.3
「情緒生活の心理一生理的前提条件」について(その2)
『多動児」におけるアシネルジーの問題(その1)
以上(ノート2)『人文学報」NO.206,1989.3
『多動児』におけるアシネルジーの問題(その2)
睡眠と性格との関係について 栄養機能と性格との関係について 呼吸機能について
以上(ノート3)『人文学報』NO.217,1990.3 自己受容性感覚の反応と性格
外部感覚に起源をもっ諸反射について
J
以上(ノート4)『人文学報』NO.222,1991.1 自動運動と表象の関係について
情動の本姓についての弁証法的探求
以上(ノート5)『人文学報』NO.230,1992.3 原始的な情動について
第15章 第16章
第17章
第18章
第19章 第20章
情動感覚と知覚の「対立性」(antagonisme)について 情動の心理的・生理的な意味にっいて
以上(ノート6)「人文学報」NO.240,1993.3 人間の行動における情動の位置
自動運動と表象との対立関係のなかで
情動から関係活動への移行,関係活動から情動への後退 以上(ノート7)『人文学報』NO.250,1994.3
「自動症」と種々の「傾性」にっいてのジャネの研究をめぐって 情動における混同(混清)的認識と条件反射にっいて
以上(ノート8)『人文学報」(本号)
略記
L enfant turbulent,1925,(QuADRIGE/PuF)=ET
『多動児」=略記なし
psychologie pathologique,1926,
『精神病理心理学」=『精神病理』(「精神病理の心理学』滝沢武久,大月書店,19
65年)
Les origines du caract6re chez I enfant,1934,(PUF)=OCE
『子どもにおける性格の諸起源』一『性格』(「児童の性格における起源」久保田正 人訳,明治図書,1965年)
L 6volution psychologique de renfant,1941,(ARMAND COLIN)=EPE
「子どもの精神的発達」=「精神発達」(『子どもの精神的発達」竹内良和訳,人文 書院,1982年)
De I acte a la pens6e,1942,(FRAMMARION)=AP
『活動から思考へ」一『認識過程』(「認識過程の心理学」滝沢武久訳,大月書店,
1962年)
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 5
第19章 「自動症」と種々の「傾性」にっいてのジャネの研究をめぐって
ジャネの「自動症」の特徴
まずジャネが扱った患者の状態から論じていこう。
ジャネは,主著の一っである『自動症』(Piδrre Jan6t, L automatisme
psychologue,1er 6dition 1889, r6edite en 1973)で,通常の感覚や知覚が働
かない状態をもっヒステリー症的夢遊病者(sommnambulisme hysterique)や,そのような患者における無感覚症(anesthesie)の例を取り上げて,彼ら が部分的に感覚が麻痺しているのではなく,全体として,「システマティーク な感覚麻痺」(anesthesie systematique)におちいっていることを指摘してい
る(ibid., p.266)。
これは,ヒステリー性の全般的な感覚麻痺と部分的な感覚麻痺とが性質を異 にしていることを指摘したものである。たとえば夢遊病患者が,まったく見た
ことを記憶しておらず,しかも感覚がよみがえったときは,普通の感覚状態を 示すのは,まさに,夢遊状態にある時の感覚麻痺が,まったく無意識のもので
あることを物語っている。
このような事実は,自動症において見られる一種の自動運動が,外部感覚と はちがったメカニズムによって起こることの証拠である。そしてこれこそ,ワ ロンが先に述べた「無感覚」の状態であり,それは情動が自動運動とほとんど 融合した状態であると考えられよう。
ジャネは,先の書物のなかで,っぎのように述べている。
「私たちが研究した自動症は,一個の,そして人格的な意志に席を譲る前に,
しばしば,多様な,そして互いに独立している感情と作用とによって表出され
るものである。」(ibid., p.25)
こうして自動運動は,ジャネによって無意識の領域を証明するための素材と なった。しかしこのことは,逆にワロンの言うように,自動運動と融合した情動 が,一方で,外界の知覚や感覚など大脳の新皮質の機能に属しながら,他方で 旧皮質の機能にも属していることを証明していると思われる。だが,なぜこの
ような無意識の領域が,はっきりと夢遊病の期間に明瞭な感覚として現れるの だろうか。そしてそれはワロンのいう情動とどのような関係にあるのだろうか。
これは,ジャネによる無意識の発見にかかわる重要な地点である。そして今 後もう少し研究してみなけれぼならない事柄である。ジャネはこの点にっいて,
どのように考え,ワロンはこの点において,ジャネをどのように評価している のだろうか。
ジャネが,無意識の発見によって当時の心理学界にはたした影響を考えた場 合,彼が『自動症』のなかでおこなった催眠を中心とした実験,とりわけレオー 二という女性を相手にした実験は重要であった。それはジャネが催眠下の状態 において,きわめて様相の異なる二組の心理症候群が存在する事実を明かにし たことであった。その一っは,患者が催眠術者の気にいろうとして演ずる各種 の役割であり,もう一っは,幼年時代への回帰の形をとるものである。だがいっ そう重要なことは,この第二の人格の背後に,さらにもっと深い第三の入格が 存在するのではないかとジャネが指摘したことであった。これは,意識下の問 題を含めて,複数の人格を意識と行動の関連のなかで考察する彼独自の心理学 方法論の展開であった(アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』上,木村敏 中井久夫監訳,弘文堂,1980年,417ページ,Henri F. Ellenberger, The dis−
covery of the unconscious,1970)o
一口に言って,それは人格における「継時的複数存在」(existences succes−
sive)の考え方として具体化されたものである。この考えは,ジャネが記憶喪 失と記憶に関連する各種の状態と,感覚麻痺および関連する各種の状態との間 の一一ee的相関関係の発見から,さらに彼の考えを発展させた結果であった(同
上)。
『自動症」という著作は,その理論的出発点であった。催眠状態において前 景に押し出される意識下の心性は,覚醒後は背景に退くが,決して消滅したの ではない。その後も存在しっづけ,催眠中にあたえられていた術者の命令を律 儀に実行にうっすのだとジャネは説明した。この説明は,ジャネによって,
「同時的複数存在」(existences simultan6es)という仮説によって説明された
(同上,418ページ)。ジャネはこの仮説を「心理解体」(d6 sagregations
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 7
psychologiques)という一般理論から解釈した(同上)。
こうしてジャネは,自動症の心理分析をとおして,その後に発展する重要な 命題を提出した。ジャネは,知性と感情と意志とが画然と区別することができ ないこと,そのような古典心理学の枠組みをやぶることこそ,なによりも心理 活動の力動性を明らかにすることであると考えた。精神生活の最低水準におい てさえ,感覚や感情は必ず運動を伴うというジャネの主張は,やがて1938年ワ
ロンの編集した『精神生活」(『フランス百科全書」第8巻)の彼の執筆論文
「行為の心理学」(La psychologie de la conduit)に結実した。
事実ワロンは,後に1960−61年に書いた「ピエール・ジャネ,リアリスト心
理学者」(H.Wallon, Pierre Janet, psychologue r6aliste, ENFANCE, nu−
mero sp6ciale, HENRI WALLON Eerits et souvenir,1−2, JANVIER−AVRIL,
1968)という論文のなかで,従来の心理学者が断片的に取り扱った機能的問題 を,全体的な一個の人格に統合されたものとして扱った点に,ジャネの革新的 な役割があったこと,それが彼の最初の偉大な著作『心理学的自動症』
(L automatisme Psychologique)に結晶している事実を強調した。
ところでワロンによれば,このような統合は,ジャネが後に命名したように,
sociUS(社会的なもの)という概念によって可能となる。しかしこの概念は,
同じように,ワロン自身が,人間の自我の展開において,器質的なものと社会 的なものとが,そもそもの発生の最初から,星雲のように,社会的にすなわち,
母子の関係のなかに存在していることを表した概念として用いたものである
(Ren6, Zazzo, Psychologie et marxisme, La vie et 1 oeuvre d Henri
Wallon,1975, Deno61/Gonthier,1975, pp.57−64)。ワロンによれば,ジャ
ネは人格を,実体的にではなく,諸機能によって条件づけられた力動的なフォ ルムとして,諸活動のヒエラルキーとしてとらえた。それは,器質的なもの,
または自動運動的なものからはじまって,反省的なもの,または,意識的なも の,さらに,その反対のものまで含んで階層化されたものである。ジャネの心 理学は,しかし,ワロンによれば,けっして,機能的なそれではない,それは,
異なる機能が固有に様々な場合のその発現にかかわる諸行為の心理学である
(H.Wallon, op. cit., p.144)。
そこで,すこし遠回りになるかもしれないが,ここで,La vie mentale,
1938(L Encyclopedie Francais, Tom.皿)に収録された,ジャネの論文に
っいて,見ておこう。
ジャネにおける「傾性」の発達と連関構造
この論文は,ジャネの心理学的方法論が,いわば,行為の心理学において集 大成されたものである。ジャネはそこで,行為を,物理的,化学的,生理学的 に主体と環境の,また人間相互の関係として見るだけではなく,意識と無意識 との総合において見ている。それは,彼がベルグソンにみられる,エラン・ヴィ タールの考え方,すなわち,行為の非合理的な部分にまで,目を配っていると ころからもよくわかる(La vie mentale,8.08−12)。
そのことは,ジャネがその主著『不安から胱惚へ』(De l Angoisse a 1 extase,1926)へ向かう途上で,意識と意識下心性の複雑な関係を,5つの 階層に分けて考えるに到ったことを示している。ジャネが,その場合用いた概 念は,先のLa vie mentaleのなかの論文で示している「傾性」(tendance)の
ことで,彼は,行為の構造を,この「傾性」のそれよって説明している。エレ ンベルガーによれば,ジャネは,この総合理論を,彼の大著において書くこと はできなかったが,その最良のエスキースが,この論文であるという(エレン ベルガー,前掲書,上,445ページ,なお,注133には,1.a vie mentaleにのっ
たこの論文にっいて言及されている)。
ジャネは,成人心理学,精神病理学,人類学,動物心理学などを総動員して,
行為を形作る心性の基礎を「傾性」としてとらえ,行為の階層を発生的に分類
し,次の12と4群にわけている(cf., La vie mentale,8.08−12−15)。
1)動物的行為(Conduite animale)
a)反射的心理学的行動(actes psychologiques r6flexes)
b)知覚的留保的行動(actes perceptifs−suspensifs)
c)社会的行動(actes sociaux)
2)要素的知性的行為(conduites intelloctuelles 61mentaires)
d)単純結合的行動(actes simples combin6s)
『子どもにおける性格の諸起源』を読む 9
e)言語(1e langage)
f)記憶(la memoire)
9)不確実な言語(1e langage inconsistant)
3)中間的な行為:確信(conduites moyennes:1 affirmation)
h)断定的信念(croyance asseritive)
i)反省的信念(croyance r6flechie)
4)上級的行為(conduites superieures)
j)理性的および実験的傾性(tendances rationnlles et experimentales)
k)前進的傾性(tendances progressives)
1)個人的行為(conduites individuelles)
ところが,エレンベルガーによれば,傾性という観点では,ジャネは次の9 っの段階を3群に分けようとしているという。まずそれを掲げてみよう(エレ
ンベルガー,前掲書,同上,参照)。
1)下級段階(les tendances inferieures)
a)反射的傾性(les tendances r6flexes)
b)知覚的留保的傾性(1es tendances perceptive−suspensive)の段階 c)社会的人格的傾性(1es tendances socio−personnelles)の段階 d)要素的知性的傾性(intellectuelles elementaires)の段階
2)中級段階(Les tendances interm6diaires)
e)直接的行動と断定的信念(les actions imm6diates et les croyances)
の段階
f)反省的行動と反省的信念(les actions et croyance r6flechies)の段 階
3)上級段階(les tendances superieures)
9)理性的・労働的傾性(les tendances rationnelles−erg6tiques)の段 階
h)実験的傾性(les tendances exp6rimentales)の段階 i)前進的傾性(les tendances progressives)の段階
どういうわけで,エレンベルガーが,このような分類にしたがったかは,ジャ
成の書物『ピエールジャネの力動心理学」(Leonhard Schwartz, Die
dynamische Psychologie von Pierre Janet, cf., Base1:B. Schwabe,1951)に
よらねばならないが,この書物を私は未見である。また,エレンベルガーは,
1。Meyersonの Janet et la theorie de tendance (「ジャネと傾性の理論」)
(Journal de Psychologie, XL(1947),5−19)を参照しているが,これもいず
れは見ないといけないと思われる。しかし,さしあたっては,このエレンベル ガーの要約が,比較的要領よくまとめられていると思われるので,それによっ て,各段階の性質を概観しながら,いまワロンが問題にしている,情動と自動 運動とにかかわる複雑な関係を見てみよう。第1段階のうち,一番最初のa)の段階である「反射的傾性」のそれは,ジャ ネによると,刺激が或る閾域に達すると開発される爆発的行動である。それは,
反発,接近,排泄,摂取などのように,単一的な運動の形をとることもあるが,
時には,一連の反射の連鎖とか「運動のメロディー」(m6 lodie cinetique)と いった,もっと複合的な行動を含む場合がある。癩痴発作などは,この種のも のである。このような傾性は,多かれ少なかれ,自動運動的な色合いが強い。
もちろん,すべてが自動運動とはいえないから,ワロンのいうものとは違うが,
しかし,少なくとも,次のb)の「知覚的留保傾性」の段階が,外界の知覚に 適応しようとする傾性であるのとは違っており,それはもっぱら,内臓的・姿 勢的感覚に属するものであろう。「運動のメロディー」という比喩が,この段 階の性質をよく表している。
っいで,いま述べたb)「知覚的留保傾性」の段階であるが,これは,明ら かに対象に対する知覚的適応の傾性を指している。すなわち,外界の物にたい する,それを変革しようとする調整行動の内容をもっものである。この段階に っいて,ジャネが述べた例が,自転車競技選手のある種の態度である。これは 一種のたとえで彼が言ったものであるが,この例は,さきにワロンが,緊張し た運動選手がスタートに並んでいる時の状態にたいする分析を思い出させる。
すなわち,運動選手の知覚は,時には,自動運動を促進するように働くが,し かし,それを抑制するようにも働くので,このような場合が情動と自動運動と
『子どもにおける性格の諸起源』を読む II
の微妙な関係として起こるのである。ジャネが例にあげているのはっぎのよう なものである。すなわち,自転車競争選手は,競争心に燃えてスタートを切る。
しかし,重なる疲労は,彼を惰性に追い込んで,知覚の領域を抑えてしまう。
そして,選手は周りの観衆にも景色にも,っいには勝負にも関心は薄れて,最 後には居眠りをしながらでも,ただ反射的にペダルを踏んでしまうことすら起
こる(エレンベルガー,前掲書,446ページ,注135参照,cf., Piere Janet, De 1 Angoisse a l 6xtase, Paris, Alcan,1926,2 δm 6dition,1928, p.262)。
この例は,知覚の領域が,知覚的留保的傾性のもっとも低い段階,すなわち,
興奮性の領域である自動運動や情動の領域という中間段階と接続しながら,し かし,同時にそれとは切れていることをよく示している。先のスタートでの選 手にっいてのワロンの例は,同時にこの事を示したものと考えて差し支えない だろう。だとすれば,そこには,ジャネの所論との共通性が多く見られると思
われる。
さて,ジャネがっぎに挙げるc)の「社会的人格的傾性」は,ワロンのよく いう関係活動ができる段階である。ジャネによると,この段階の特徴は,行動 が二っの群に分かれることである。すなわち,第1に仲間(socius)に向かう 行動と,第2に自己の身体に向かう行動とである。この段階は,ある意味で,
先の「知覚的留保的傾性」よりも一層進んだ段階であり,ワロンがいう人格ま たは自己意識の確立する段階だろう。ジャネによれば,個人は,自己の行動を
「仲間」の行動に合わせる。その結果,その行動は連関性を帯びて来る。ジャ
ネは,これを「複式行動」(actes doubles)と呼んでいる。模倣,協同,命令,
服従などの行動である(エレンベルガー,前掲書,446ページ)。
ところがここで,ジャネはこのような「仲間」にたいする行動が,かならず 自分自身にむかっても適用されると言う。つまり,他者にたいする行動様式と 自己にたいする行動様式とは同一であるとされる。これは人格の傾性にとって きわめて重要な段階だとジャネによって評価される。例えば,そのもっとも重 要な特徴は,秘密行為(acte de secret)と呼ばれるものである。これは,「仲 間」にたいする一定の行動ができるようになるとともに,内的思考をともなっ た自立的な自己の意識の発生である。しかし,それはさまざまな矛盾と葛藤に
この考え方をジャネは,デュルケームから得ていると言われる(エレンベル ガー,前掲書,447ページ,参照)。例えば,デュルケームによれば,それは原 住民の儀式のなかに見られるものである。オーストラリア原住民のインティチ ウマ儀式の研究をとおしてデュルケームは,それに参加する成員の相互に与え る刺激の果たす役割を明らかにした(同上,447ページ)。デュルケームは『宗 教生活の原初形態』(Emile Durkheim, Les formes 61ementaires de la vie re−
ligieuse, Le systeme totemique en Australie,1912)のなかで,スペンサー
とギレンの研究を下敷にして,アルンタ族がインティチュマ(Intichiuma)と 呼ぶ儀式について述べている。インティチュマは,オーストラリアにおけるもっともよい季節に行われる。
この季節は,乾期から雨期にいたるはじめの時期で,この時期には,雨がやっ てきて,植物はあたかも,妖術によるかのように土から萌え出で,動物は繁殖
し,前夜までは不毛な砂漠にすぎなかった国々は,豪華な動物帯と植物帯とで 覆われる(『宗教生活の原始形態』(下)古野清人訳,岩波文庫1975年,改訳,
168ページ)。このとき,トーテム集団の頭目は,この状況を判断して,儀式を 行う日を仲間に知らせる。各トーテム集団は,独自のインティチュマをもって
いる。一種の祝祭であるこの儀式には,二っの形相がある(同上,168ページ)。
その一っは,氏族のトーテムに役立っ動植物種の繁殖を確実にすることを目的 としている。各氏族におけるトーテムとなるものは,その氏族とまったく同一 のものと見なされる。たとえば,石または岩は氏族の祖先を示すものであり,
これらの祖先は,いっでも自由に処分できる動植物の生命の貯蔵所のようなも のを構成している。この貯蔵所が毎年,種の繁殖を保障するものと,氏族の成 員は考えている(同上,168−9ページ)。デュルケームが例として挙げているの は,アリス・スプリングスでウイチェティ(青虫)の氏族がおこなう次のよう な儀式である。
酋長が決定した日に,トーテム集団の成員は全員,主キャンプに集合する。
そしてキャンプに2・3人を残して,みんな行進をはじめる。彼らは,武器も もたず,平常の装飾もいっさいなしに,すっぱだかで,深い沈黙のうちに進む。
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 13
彼らの行進は,宗教的な荘厳さを保持している。これは,彼らの行動が彼らに よって例外的な重要さをもつと意識されているからである。彼らは祭儀がおわ るまで,厳重な断食をおこなう(同上,169ページ)。彼らのたどる国は,光栄 ある祖先たちが残した思い出に満ちている。彼らは,やがて石英の大きな塊が 地中に沈み込んで,周囲に丸い小石のある場所につく。この塊は,青年期にあ る青虫を表象している。一種の代表者であるアラトンジャが,アプマラといわ れる小さい木製の飼桶で打っ。それと同時に,動物に卵を産ませる目的で,彼 は歌を歌う。彼は,また動物の卵を象った石にも同じことをする。そして,石 の一っで出席者の各人の胃をなでる。それが終わると,みんな少し下の方の岩 のところに降りる。この岩にもアラトンジャが同じことをする。彼に従ってき た人々は,途中で折ってきたゴム樹の枝で同じように叩く。そして歌を歌う。
こうして彼らは,10箇所もこのような場所を訪れる(同上,170ページ)。
こうして繰り返される儀式の意味は,明かであるとデュルケームはいう。叩 くのは,石の上の塵を払うためである。聖なる塵は生命の萌芽であると見なさ れている。そのいずれもが霊的原理を含んでいて,これが同じ種の有機体に入っ て,新たな存在に生命を与える。参加者が携えてきたゴムの樹枝は,この聖塵 をあらゆる方向へ散乱させるために役立っ。それがあらゆる方向に飛んでいく
と言い,その豊穣作用を各方面へと及ぼす。彼らはこうして,氏族が守護し依 存している動植物の豊かな増殖を保障したと信じているのである(同上)。
デュルケームは他の氏族の例を挙げているが,以上で挙げた祝祭の第一の形 相における意味は,これで明らかだろう。それは,このような一種の祝祭が,
氏族の全員を,一定の神聖なイメージをとおして,しかも,非日常的な聖なる 場所と行為において,合一させるということである。それはジャネのいうよう
に,仲間と自己にたいする,一種の「複式行動」なのだ。
さて,デュルケームは,第2の儀式の形相に記述を移していく。第2の場面 では,固有の儀式はない。
しかしそれは,インテユマの翌日に,普段は食べている,トーテムに役立っ 動物や植物を食べることが禁じられるという形で,聖なる特質が一層強あられ
ことに示される(同上,180ページ)。最後には祭儀が来て,以上の長い儀礼の
連鎖が決定的に閉じられる。こうした儀礼は,デュルケームがいうように,氏 族によって若干の差異がある。しかし基本的には同じことである(同上)。
ワロンのいうように,儀式は,それに参加する成員を,先に挙げた4っの行 動様式を含んで,一体化させるとともに,そのなかでの役割分担をっうじて,
成員相互の闘争や張合いを経験させる。これは,子どものなかにも起こる行動 である。儀式のなかに存在する虚構は,融即による交流(communion)やそ のなかでの放心状態をつくりだす。しかし,儀式のなかの虚構は,また,はや
くも成員同士を競争させる。ワロンが述べているように,子どもは,遊びのな かで興奮すると,自分に対しても自分の周囲の人に対しても,意識を失ってし まうほど,熱中することがある(AP, p.172,『認識過程』,197ページ)。し かし,遊びのなかで,互いが競い合うとき,しばしば,努力感とともに,疲労 感をも生み出す。これは競争的な儀式の場合には,よく起こることである。
ジャネは,こうして,っぎのような4つの基本感情,すなわち,努力感,疲 労感,悲哀感喜悦感が,この段階で起こり,行動の調整を行うことを挙げて いる(エレンベルガー,前掲書,447ページ)。
ジャネによれば,人間は,その心理的エネルギーを調整する機構をもってい る。人間は,この調整機能が活発に働く場合には努力感がおこり,この調整機 能が不足したり,あるいは病的状態でこの調整機能が欠ける場合には,空虚感 がおそう。ジャネは努力感と疲労感とを,車のアクセルとブレーキにたとえた。
強迫神経症の人間は,いっも過大で不必要な努力感情を起こしている人のこと であり,逆に怠惰な人間は,いっも努力感情が欠けている人のことである(同
上)。
またジャネは,悲哀感とは行動への恐怖であり,絶え間のない失敗の反復に たいする反応であり,逆に喜悦感とは行動が成功に終わった後,まだエネルギー が余剰にあることである(同上)。ジャネは,悲哀感を運転中におけるバック ギアを入れることにたとえた。喜悦感は,このたとえで言うと,ブレーキをふ んだ後でエンジンをふかして余ったガソリンを燃焼させることだろうとベルガー
は言う(同上)。
いずれにしても,このようなジャネの所論は,ワロンがやがて情動の社会的
『子どもにおける性格の諸起源』を読む 15
目的へと進んでいく方向を示唆している。ワロンは,情動が自動運動と区別さ れながら,知覚や認識と対立していること,しかし,それが姿勢活動をとおし て関係活動へとつながっていることを次に展開していく。この方向は,ジャネ のこの「社会的人格的傾性」に前もって集約して示されているとみてよい。
つまり,この段階は自動運動や純粋な情動の段階よりは,高度の社会的段階 を示している。ジャネは,精神病理学的立場から精神薄弱にみられるような,
言語活動より低い水準のさまざまな社会行動形態に大きな関心を示した(同上)。
それは,おそらく先の「知覚的留保的傾性」の段階以前への退行現象への興味 であった。しかし,「社会的人格的傾性」の段階への退行は,もうすこし違っ た種類のものである。たとえば,被害妄想は,ジャネによれば,「社会的およ
び志向的な客体化」(objectivation sociale et intentionale)の過程からおこ
る。っまり,このような客観的「客体化」の形成の過程において,自己の社会 的価値づけに挫折感がおこると,これが起こるのである。それは,自己と対人 関係における情動や傾性での,この段階への退行の一種である。ジャネは,そ の場合,被害妄想にはもう一つの型があり,それが関係妄想であることを明か にしている。いっも自分が監視されており,他人が自分の考えを読み取ってい ると思い込んでいる患者は,ジャネによれば,秘密を保持する行為を遂行する能力に欠陥がある(同上,447−8ページ)。
さて,ジャネがっぎに挙げるのは「要素的知性的傾性」の段階である。これ は言語以前の知性の段階で,言語,記憶,象徴思考,生産,説明などの萌芽が 見られる段階である。ジャネは,知性のもっとも要素的な活動は,別個の2対 象をめざす2種の行動に「対偶」させ,結合することだとした。これは,ワロ ンによっても,r子どもにおける思考の諸起源』(OPE)において,展開され た所論でもある。すなわち,ワロンによれば,最初の子どもの思考は,「対」
によって特徴づけられる(OPE, p.41「子どもの思考の起源』(上)滝沢武久,
岸田秀訳,明治図書,1968年,80ページ)。「対」とは,子どもが接触する対象 や慣れ親しんでいる習慣のなかで,ものごとを二つの要素に並置し,思考を内
容においてとらえるだけでなく,組織立てることを意味する(ibid., p.同上)。
したがって,子どもは事柄や事物をかならず二元群に分ける。それは,ワロ
ンによれば,ハイルブローナーのいうように,「観念の奔逸」と呼ばれるもの である。例えば,ハイブローナーが挙げている例は,普通,ABCD_というよ
うに,各々のローマ字は,各自に先行するアルファベット文字がっながってい る。すなわち,AにたいしてはBが, Bにたいしてはcが対応している(ibid.,
p.42,同上,81ページ)。
したがって,ワロンによれば,各々の項は思考にとっては異なった方向への 出発点となり,その出発点とのみ関係をもっことになる。っまり,先行する項 とのっながりには影響されない。各々の項にはその出口が互いに照応していな いし,照応したとしてもそれは偶然である。しかし,ワロンは『思考』のなか で,以上のハイブローナーの意見を,あまりにも図式すぎるとして批判する
(ibid., p.43,同上,82ページ)。というのは,子どもの行為の流れが,しば
しば長い期間にわたって,興味の一定の持続性を示さないことはないからであ る。その流れはたびたび中断するとしても,それらは強靱な再生力をもっている(ibid.,同上)。しかし,それらは,感情的な連続性をもっていたとしても,
論理的連続性をもっのが欠けていることがあるという(ibid., p.43,同上,8
2−3ページ)。
いずれにしても,子どもの思考は,思考の項の二分化から発展する,という ワロンの思考発達論と,ジャネのここで見られる心理発達段階論との間に共通 性のあることは確かなことだろう。
ジャネは,この二項的思考の例として,リンゴ籠をめぐる行動を挙げている
(エレンベルガー,前掲書,448ページ)。リンゴを籠に入れる行動と,籠から リンゴを出して空にする行動とは,二っとも,籠自体にもリンゴ自体にも属さ ない行動である(同上)。ということは,おそらくリンゴにも籠にも属さない
「入れる」ということと,「出す」ということとの「対」の認識が,純粋な形で っくられていることを示すものだろう。これにっいては,ジャネはコレージュ・
ド・フランスでの講義『人格の発達』(関訳,1929年)でも触れているが,もっ とジャネの原文を調べなければならない。だから今とりあえず言えることは,
以上のことであろう。
エレンベルガーは,P. Jenet, Les debuts de L intelligence, Paris:Flam一
『子どもにおける性格の諸起源』を読む 17
marion,1935.を調べて,この他にも,単純な道具,肖像,彫像,用だんす,
街路,公共広場などの例で,「対の認識」にっいて分析し,同時に,これが言 語発生の段階であることを述べている(エレンベルガーの引用している文献は
L intelligence avant le langage, Paris:Frammarion,1936である。これに
ついても原文にあたって調べることが必要である)。
先の例で言えば,あらゆる事物のなかから,対の動作が取り出されてはじめ て,「入れる」と「出す」という動詞の意味が分かっていくのであり,あらゆ る器物に関係なく,さらに,そこに入れられたり,出されたりするものに関係 なく,それは,このことばの発生にたいして,認識的基礎を示すものとなる。
「対」とは,その意味で,明かにこれまで述べてきた「対立的弁証法」におい て認識以前に起こる事物の抽象化にたいすることばの付与への前提をなすもの
であろう。
しかし,ジャネの示したより重要な点は,この段階が言語自身の系統的発生 の時期にも当たっているという指摘である。
ジャネによれば,言語の発生は,話しかけることと話しかけられることとの 結合体だからである(同上,448ページ)。ジャネは,命令と服従という二っ の行為が変形して,ことばが発生すると考えたが(同上),それは,チャン・
ディク・タオも言うように,普通狩りの場面で,指揮者が集団のみんなに獲物 にかかるように,あおり動作をおこなったことから,いわゆる「指さし」がお こり,それが,叫びと言う形でみんなに伝わって,そこから「かかれ」とか
「獲物」とかいう言葉が発生したと考えられるからである(チャン・ディク・
タオ『言語と意識の起源』花崎畢平訳,1979年,岩波書店,参照,Tran Duc
Tho, Recherches sur 1 origine du langage et la conscience,1973. Editions
sociales,1973,)。これは,あきらかに,労働の場面で指揮する人間とそれに 従う人間とが存在し,身振り動作がコミュニケーションとっながり,そこから 身振り動作が省略される過程でことばが発生したことを示すものである。
話すことと話されることとの「対」は,こうして,あらゆる場面で起こるが,
それは話す人と話される人との可逆的な行為を,言語化したものであると考え られる。そこに一定のルールが生じるのであり,そのルールが,叫びと一定の
可逆的な同一化とをおそらく結び付けるのである。ジャネによれば,そこには さらに記憶が存在している。ジャネは「記憶とは,そこに居ない人たちに下す 命令であり,それから後にはじめて,そこに居ない者によって下される命令と
なったものである。」と述べている(同上)。
このようなジャネの記述は,命令と服従とが一定の生産一労働場面や,戦闘 場面で行われ,それがもととなって「対」が言語化され,それが内面化して記 憶となったことを示すものである。もっとも,このような系統発生説は,科学 的にいっそう吟味されねばならない。ただジャネがこれらを説明する場合に,
「対」の概念を用いていることは,言語の発生が分節化された物事にたいする 表象と思考から来ていて,「対」が無分節からの分節の最初の段階にあること を示していて興味深い。「対」とは,無限の物事のなかから特定の二っのもの を取り出して,それらを画然と意識化することである。したがって「対」の中 身は様々である。それは主語と述語とを構成する場合もあれば,動作の可逆性 を構成する場合もある。またものの変化を時間的に構成する場合もある。いず れにしても,「対」とは,混沌とした世界の中から,なんらかの意味で,二っ の物事の関係を示すしるしをとりだす認識行為である。それは,ジャネの言う ように,物事を要素に分ける段階の傾向を明らかに示している。
もっとも,ジャネはこの「対」の思想をやや拡大して用いており,それは科 学的にいってどうか,という疑問を私たちに抱かせる。というのは,ジャネは 生産をもその思想で説明しているからである。ジャネによれば,たとえば陶工 はその陶器が将来どのように用いられるかという行為の表象と,現在自分がど のように粘土をこねているかという行為の表象とを,心のなかで結び合わせて いる。陶工はいっも,この二っの観点を結びっけながら,両者を認識において 往復している。ジャネによれば,説明の起源はこのように生産の起源と結びっ いている。だが,これはいわば時間意識の起源に関する説明である。たしかに 道具の使用とそれによる素材の完成とは,原因と結果にたいする認識いわば
より複雑な対をなす時間的に隔たった二っの要素をっなぐものである。それは
「対」と言ってよいかもしれない。しかし「対」とは,もっと単純な論理を構 成するものではないだろうか。要素的知性の段階と生産との関係をっけるため
『子どもにおける性格の諸起源』を読む 19
には,コミュニケーションと生産との認識的発生的関係をもっとはっきりさせ なければならないのではないか。
「対」の認識構造は,もうすこし認識段階の低い,したがって,道具を生産 にっかう過程で,将来のイメージが獲得される以前の,より単純なものを道具 をっかって獲得する段階のもののように思われる。いずれにしても,ジャネの
「対」の思想には,やや発生的段階の問題を越えた,概念の混同がないであろ うか。その点で言えば,ワロンは『思考』において,「対」の思考から,「因果」
の思考にいたるまでの過程をっぶさに子どもの思考の起源にしたがって説明し ている。この点は,ジャネとワロンの説明の相違としてもっと比較追求する必
要があろう。
さて,ジャネのいう次の段階(e)は,「直接的行動と断定的信念の段階」
である。これは,言語の一層発達した段階である。すべての人間の行動にこと ばが付属する段階である。ここからジャネは重要な結論を出す。それはことば が行動から離れる傾向をもっようになるという事実である。すなわち,ことば は仲間に話されるだけではなく,自己にたいしても話されるという段階である
(エレンベルガー,前掲書,449ページ)。ジャネによれば,この時期は「人間 の行動全体から身体行動と言葉との間の関係の分析」となる段階である(同上,
449ページ)。ここには,あきらかに時間と空間の広がりについての認識が,行 動の流れの認識のいわば「相対化」を引き出している,という段階的発展があ
る。
っまりジャネによれば,直接世界を変えることができるのは行動であるが,
しかしこのような行動では世界をすぐさま変えることができない。そしてこの ことを人間が知るとき,人間はことばの世界の想像性をもっようになる。しか し,くりかえすが,この世界はすぐには世界を実際の行動のように変えること ができない。
そこから両者の分裂が心身の分離を引き出すと考えるのである。このことに っいて,ジャネはたしかにおもしろい発想を提出していると言うことができる。
しかしこのことを,系統発生にっいても,個体発生にっいても証明することが 重要である。ワロンがのちに『認識過程』でおこなった研究は,この段階を問
当時において,すでに行ったということは,ジャネのおおきな貢献である。こ の点にっいては,いずれ厳密な実証を経て行うつもりだが,ワロン,ピアジェ,
ヴィゴッッキーの三者の比較研究が必要であろう。(とくにヴィゴッッキーの ジャネにたいする批判的研究をっぶさに検討する必要があろう)。
しかしいますこし,エレンベルガーの指摘するジャネにおける,行動とこと ばの分離の状態をこの段階についてみてみよう。
ジャネによれば,人間ははじめことばを発することと行動を起こすこととは 同時であった。しかしやがて音声言語活動を身体行動から自己を開放し,こと ばとたわむれるようになる(同上)。これをジャネは,「偶発的言語活動」
(langage inconsistant)と呼んだ(同上)。これは3才から6才までの子ども にみられる言語の特徴であり,ピアジェのいうように,子どもは自分が相手と
しゃべりながら,いっこうに相手のいうことにはむとんじゃくな状態である
(同L)。
これは,ジャネによれば,ある種の低知能者の集団的独語にも,また時には,
正常な人間にも起こるものである。おそらく私のみるところ,自己が夢中になっ てあることを主張する時,または,あまりにも親しい人間どうしが気軽に話す 時にも見られるものである。ジャネは,このような「偶発的言語活動」の反動
は,確信(affirmation)と意志(volont6)という二っの行為だといっている が,これは,いったんはなれた言語と行動が,ふたたび密接に溶接する状態で
ある(同上)。
ところでジャネによれば,最後に言語は内言となる。これは自己が自己に話 かける言語である。この段階から思考がはじまる。ジャネは,この「内面的思 考の起源」について論じた著作(P.Janet, La pens6e interieure et troubles,
Paris:Maloine,1927)のなかで,この段階の主要な特徴の一っに,「断定的 信念」があるという(同上)。これは,事実よりも感情にに適した信念であり,
その内容は不合理であることがすくなくない。っまり,自分の恐怖や願望をそ のまま事実であると信じ込む傾向をもっている。子どもや低知能者が陥る状態 である。しかし,ジャネによれば,人問の持っ世界の表象は,まずは,このよ
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 21
うな「断定的信念の世界」の形をとる。っまり,事実そのままではないにして も,人間の行動を導くのは,このような「断定的信念の世界」なのである。記 憶も同じことである。記憶も,行動と一致したものがあるが,しかしそれから
も解き放たれた「偶発的記憶」も生じる。伝説や神話の世界はこれである。
ジャネは,こうして認識の世界もまたその都度人格的形態を取ると言い,こ の時期の人格の性質を「役割的人格」(personnage)と名付けている。これは,
ジャネによれば,自分を素材として,他の人々に提示するために作られた図式 にそっと行動する個人のことである。これはかなり自己中心の人格的形態であ る。したがって,自己の観点で,ある場合には自己の都合で,他者に自己の判 断する役割をふりあてることもあり得る。ジャネによれば,精神病理的観点か
らすれば,このような人格は,被暗示性を強くもっている。作話の段階である。
それは虚言症とはちがう。虚言をつくのは,意識してそれをおこなっており,
それはこの段階よりもかなり高度の段階である。
中級段階で,っぎにジャネが設定するのは,もうすこし高い段階である「反 省的行動と反省的信念」の段階である。「反省的行動と反省的信念」の段階は,
個人と何人かの仲間との討論から生じる(同上,450ページ)。集団的討論は,
個人の中に内面化される。この段階を,ジャネは,さらにいくつかの段階に分 けている。最初の段階は疑問である。疑問は確信の留保である。っついて,熟 考(deli−beration)がくる。これは様々な傾性や論点の間の闘争である。最後
にくる段階が結論(conclusion)である。これは決断という行動に表現される。
決断は熟考という闘争を経て行われる。反省的行動と反省的信念の段階は,ま だ論理的な段階ではない。反省的現実の世界は,ジャネによれば,まだ理性的 段階ではない。それはしばしば自己の身体や精神が住んでいる世界である。
ジャネは,ここで「現実」(r6e1)という概念を提出している。しかし,こ れは主題からまったく分離した客観的世界ではない。それは,ジャネの「幻覚 妄想論」と結びっいたおもしろい複雑な世界であり,彼はこの「現実」の構造
を三っに分類している。すなわち,「完全現実」(r6el complet),「近似現実」
(presque r6el),「半現実」(demi−r6el)である(同上)。
現実をこのようにジャネが分類したのは,現実もまた固定したものではなく
て,身体と精神の主観的な影響と反映をもっているという,おそらく幼児と精 神患者の状態を考慮してのことである。
「完全現実」とは,直接行動の可能性か無形の恒常性かのいずれかと結びっ いた信念の産物である(同上,450ページ)。この場合の信念は,「身体の持続」
と結びっいた自明なもの,っまり,その都度の「意図」といったものを持たな い,いわば,身にっいた不断の身体の型のようなものである。それは,一定の 言語を語るその都度の個人の意識とは異なる,自己が自己であるという,いわ ば自明の自己の精神的様態である。ジャネはこのような状態を「身体」と「精 神」とに分けて考えたが,いずれにしても,自己自身のなかで,両者が一っに 統合されている現実の様態であると考えている(同上)。
「近似現実」とは,期待し,自分に報告するという行動と結びっいたもので,
「今この瞬間」という概念である。「今われわれが行いっっあり,直接われわれ の心を占めている行動」という概念であり,「自分自身への報告」を含んだ観 念である。われわれの現在の行動を制御する意識の世界が属している世界であ
る(同上)。
「半現実」とは,現実性を含むさまざまの周辺部からなるもので,近未来の 知覚,近過去の知覚,理想の知覚,遠未来の知覚,想像されたものの知覚,そ
して,一番遠いものである抽象理念を含むものである(同上,451ページ)。こ れは,言ってみれば,のちにラカンが述べた「意識的現実」「無意識的現実」
「想像的現実」ということに対応しているかもしれない。だが,かならずしも 正確にそういうことはできないだろう。
むしろ,ここで私たちが特筆しなければならないのは,人間の態度と傾性に よって,現実もまた一種類のものではないということが,明確に示されている という意味で,ノエマとノエシスの世界が関連づけられて提出されているとい うべきだろう。それは言うまでもなく,ジャネが正常な人間の合理的認識によっ てとらえられた世界をのみ現実とはいわず,むしろ精神病者や子どものの現実 をとらえる場合の,主体の側からみた現実の多層性への注目であったと言うこ とができる。
だがジャネの論述は現象学と違って,このような現実を記述する前に一応の
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 23
分類をしてみせたという意味で分析的である。ジャネは,客観的現実と現実に たいする感覚とが一応対応しているという観点にたって,両者の関係を述べて いく(同上,451ページ)。それは「対応関係」である。ところがジャネによれ ば,精神疾患ではそのあいだに不対応が生じ,「過大現実化」(surr6alisation)
や「過小現実化」(sour6alisation)が起こると述べている(同上)。「過大現 実化」とは,過去の事象が,あたかも,現在の眼前にあるという確心感を帯び
る事態であり,「過小現実化」とは,現在の対象を現実に知覚可能と感じる能 力の喪失の事態である(同上)。いずれもこれらは,ジャネによれば,「妄想」
の状態を解く鍵になるものである(同上)。
以上は,病的な状態を含んだ,この段階の特徴である。ジャネは,この段階 のなかに,整合的な記憶や意識された意志にもとつく行動を含めて考えていた
(同上)。自我の反省意識もこの段階に属するし,自我意識が時間的に構造化さ れ,生活史が統合される。これが,前の段階である「役割的人格」の段階とは
異なる特徴である。
注目しなければならないのは,ジャネが,この段階を「退行現象」や「憂乱」
とむすびっけ,現実喪失感をうったえて現実を不安のうちに捜し求める人々の なかに発見していることである(同上)。「意志欠如」(aboulie)のような意志 障害や虚言症もこれに属するとジャネは述べている(同上)。
いずれにしても,ジャネがこのような段階を設定していることは,すでに示 唆したように,ワロンの人格構造の考え方に,力動的なまた全体的で統合的な 視点を与えているように思われる。そしてそのなかに,自動運動の段階や情動 の段階を位置づけていることが,これはいっそう精緻に立証する必要があるが,
後のワロンの自我や性格の発達論に,影響を与えているように思われる。
さて,ジャネが次に挙げるのは,「理性的・労働的形成の段階」である。
これは,上級形成の最初の段階である。ここでは新しい傾性,すなわち労働 しようとする傾性が加わる。ジャネによれば,労働は力の特別の配分を含意し ている。それは力はあらゆる下位の傾性から引き出すのではないく,理性,す なわち,嫌なことをも進んでしようとする傾性として,ちょうどカントの「定 言的命令」(Kategorischer Befehl)のような形で表れる(同上,451ペー
ジ)。
このことを,ジャネは「その人の価値は 嫌な仕事 (corv6e)をやりこな
す能力によって計られる」(P.Janet, De 1 angoisse a l 6xtase, Paris:Alcan,
1926,1,p.228)と述べている(同上)。これは義務によって労働するという 傾性である。この段階に属する傾性には,したがって,自主行動,率先,不屈,
忍耐がある(同上)。それはまた,ジャネによれば,論理学の成立する段階で もある。重要なことは,これこそ教えるという行為が成り立つ段階でもある
(同上,452ページ)。これでは,個性が自我(ego)から発展して,人格(per−
sonne)となる段階でもある。自我と人格の違いは,ジャネによれば,人格の ほうが主尾一貫した行動と生活の統一性をもっているという点にある(同上)。
しかしジャネによれば,この段階も病的な傾向をもっていないのではない。
この段階にとどまっている人間は,非実際的でハートのない人物(6sprit faux)や経験よりも理論一辺倒の硬直した原理でものごとを裁断してしまう 教条的街学的な傾向をもった人物になる可能性がある(同上)。
ジャネが,次に挙げているのは,「実験的形成の段階」である。これは,前 の理性的段階と違って,経験を考慮しながら事実にしたがう傾性である。した がって科学の出発点である。この感覚は,しかし,可能性という概念に置き換 えられる(同上)。それは,自然にたいする法則性の認識を,実験によってそ の都度批判する態度でもある。それはものごとを相対化する傾性でもある。し たがって,この傾性は,モラリストがvertuと呼ぶもの,すなわち,謙譲,
性格の堅固さ,客観的事実を受容する傾性をも意味する(同上)。
さて,ジャネが最後に挙げるのは,「前進的傾性」である。これは,個人的・
独創的行為が最高に発達した段階である。この段階では,人間は自己の個性を 実現するとともに,人間仲間の各々の個性をも全的に認識し,その人たちと精 神的な親密さの関係を打ち立てる。個性を求める動きは,事象,とりわけ,歴 史的事象にも及ぶ。エレンベルガーによれば,ジャネは,次のように言ってい るという。「植物は空間の中で成長し,われわれは時聞の中で成長する。」(同 上)と。エレンベルガーは,ジャネのこのことばを引用して,ジャネの意見を,
ベルグソンの「創造的進化」の思想に賛同しているように見えると述べている。
「子どもにおける性格の諸起源』を読む 25
しかしこれは,もう少し検討に値するだろう。なぜなら,時間の人格形成にた いする重要視は,けっしてベルグソンのいう内容ばかりとは限りないからだ。
ワロンにたいするジャネの影響
以上で,主としてエレンベルガーによりながら,ジャネの傾性の発達論を概 観してきた。ここでいえることは,ジャネが『自動症』で展開した思想が,けっ
して,それにとどまらず,自動運動に象徴されるような傾性の低い段階から,
より多くの知覚や認識を客観的に用いて自我を発展させ,人間人格の段階にま で前進させるモメントを,そのなかから導き出していることである。これは,
編集者ワロンが『百科事典第8巻 精神生活』(1938年)に,ジャネの先の論 文を載せた事実にとどまらず,ワロンとジャネとの思想的近似性をも示唆する
ものだろう。ジャネが,ワロンのいうように,sociUSという社会的概念を,
生理学的段階から高次の精神的段階にまで一貫して貫き,それを無意識の傾性 をもふくんだ「傾性の発達段階論」として完成させたことは,ワロンの発達論 においても決定的な影響をもたらしているものと考えられる。
ワロンの自動運動の発達論は,もちろん,ジャネからのみ出発しているわけ ではない。しかし,ジャネの自動運動の思想がそこに大きく影を落しているこ
とは,ほぼ間違いのないことだろう。すでに述べたように,ワロンが,情動は 自動運動と知覚の活動をおさえて発達すると述べていることなどが,ジャネの 所論の影響を受けていることは,実際にも『性格』の「第4章,A 情動と自 動運動の対立」の最後のところで紹介しておいた。そしてここでも,そのこと
を強調しなければならない。
さてながながと,ジャネの理論にこだわってきた。直接問題にしようとした のは,運動的姿勢から認識的・情動的姿勢への移行の弁証法にかんする事柄で あった。すなわち,この移行において,あまりにも主体が対象物にたいして姿 勢的に緊張していると,また対象物の知覚にこだわっていると,対象物と主体 との一体化がおこり,一方から他方への移行において,一方の側に緊張が集ま り,主体に注意が極端に集中したり,反対に対象に注意が極端に集中したりす ることがおこる。この現象にワロンが注目していることなのである。