富 山 高 等 皐 校 概 要
(昭和十一年四月現在)
富 岡 E今 津
富山高等墜校々歌
鳴呼玲瑞の夫高︿ 一︑
犯かね
太刀の高嶺を仰ぎつ λ
若告︑
挙傍の胸に湧く
きくふうさ U ん
二︑
朔風砂塵治吹き捲きて
あり そ
有磁の海の球に立ち 北相き撃徒の身に宿る
くじ弘一
b 越の幽原雲傑︿ .
・ ︿乃 すむ空に燦として
北斗の星ぞわが光
回︑
紳 の氷洋々と 江
若きわれらが捻ふなる 反省溢取協調の
相馬御成民 小松耕締氏
作作曲歌
は︿せっ
白雲銀と 縁 ける
露さわヤけき野を 歩む
院刑者懇ひを誰か知る 怒務天地を 絡する時
りんこ げうし
凝尽の姿渋乎た る
強きカを維 か知る
地 に八擦の絶ゆる
時
h‑
︐ え念ニ不援の由 威を 民湿の
一 万す
あ そが下にわれ L 等
あり 流れて止まね世の進 み
し 九州い
認しいざさもに 使命は
持
︑ AV
tmed‑
旗標の下に手をと らん
富 山 高 等 亭 校 概 要
(昭和十一年四月現在)
日 ヲ た
沿
革 組織ご施設
七 頁
敬摂訓育上の賓施要項
四 二 七 四 敬 育 方 針 :: : 五 職
員
...L..
ノ、
徒 生 七
卒 業 生
ハ大 間学 拍車 入状 況)
;: :
八
3
墨費 :
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九 敷地並校舎
・:
・
一 一 一 一
一
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、
四 四 六 :・ 四七
一 、
ごパ4
4口
革
創 校 の 由 緒
大正十二年五月十五日︑馬場正治氏親権者︑馬場はる子女史から︑富山鯨知事伊東喜入郎氏に宛てた︑た記寄附
顕ニそは︑貫に我が富山高等接続誕生の匹胎であった︒
寄
件UF
願 皇太子殿下今秋御婚儀被銭感候越
内法律ノ御繁品市ハ勿論凶家/一大御臨民事無涯奉祝賀侠就テハ御成婚奉祝記念事業トシテ
七年制向
年い い
いW設立願上度合出
MB
前倒也ヲ忠則附シ以テ君凶報恩/徴怠車中表致度存品瞬間願意御許容彼下可然御施設被下度御綴
出叩t候也 大正十三年五月十五日
富山懸ヒ新川郡東岩瀬町
馬場正治親権者
馬 場
は
る
子
富山際知事
伊 東
3写
ノ1 長1I 段
其の後同年七月二日更に左記寄附願の一所す如く︑令品会拾四高闘を追加寄附された
寄
附
願 皇太子殿下
御 成 婚 家説記念事業
トシテ桑二勝立七年制高
得祭校設立費
金品五百諸問寄附出願仕置候慮今回該珠算御内一
不ニ
一課
レバ同校経常祭支耕用基金武拾ムハ高閲卜相成所期額三議セザルハ甚グ遺憾=一被存候ζ
一付 右基
Amヲ一虫拾官内閲ト致皮不足額京拾
回蔦閥並ニ同校職員侮外留事変基金トVテ会拾高闘併テ令参拾四高間更ニ寄附仕皮候間前願ト共‑一御許容相成度御願申上候 也
大正十二年七月二日
富山師腕上新川郡東岩瀬町
馬場正治親権者
馬 場
l土
る
子
富山感知事
伊 東
苓
,
i、良11 民 主
こLに於て腐は七拾四高岡ぞ建築設備
投 民
じ︑五拾高間ぞ維持基金に︑拾高闘を外岡
mm
市m 式
‑金
三し
て本
校設
立の
計査を立て︑同年七月十四日臨時牒曾会但集して議るや︑満場一致原案に賛成し・感謝文や議決して馬場みに呈
Tしニ
敷 地 の
決 定
我等が閉伊国の敷地金何鹿に相すバきか︑これについては呉羽山盤︑富山市等︑二︑コ一の候補地や暴けられたが
種々の降件LT参照した結果︑現在の富山牒上新川郡大炭出村蓬町二十二番地に決定されたのであるG
加は 市
山λ
仰 の
北万一盟強︑宮山市から一米岩瀬に通下る鯨遜.所謂岩瀬街道に沿ひ︑阪間笈を離れた小高い土地
で︑其の締跨数一高七千四百五十四坪三合七勾東には立山連峰が其の偉容
e q 説
利益
に横
へて
四季
'不言の啓一
部ぞ
霊
れ西には洋々たる紳江の流れが丑日もなく海に詑ぎ風みそ苧んで上下する︑白帆の貼々たる眺めも長閑に︑時には
自問断群をなして河而ぞ掠め飛ぶなきの詩景ぞ展開し︑限会北に碑守れば有磯の海は千里浩蕩の波ぞ閃かして︑晴
れた日には遁か彼方に能登山十島の模糊たる影ぞ指貼するこさが出来る︒
校 舎 建
;1I二 2旦
の 開 始
大正十二年十月十二日附を以て︑寓山照上新川郡大庚田村蓮町二十二番地へ本校設置の件が文部大臣から認可
せられたので︑いよ/¥1校舎の建造に取掛るこ三になったD
設計じついては宮山懐建築技師竹森一之氏主ミして之に嘗り︑嘗時既に建設せられて居た︑東京︑武蔵︑甲南
の各七年制高等接続ぞ参考三し・建築販問文部省書記官赤間信義氏同省技師柴田嬬太郎氏令初め︑ふ十一圏各高等感
校長等の意見ふ一徴したが︑殊に嘗時の新潟高等感校長八回三喜︑墜習院数授岡田正之雨氏の意見ぞ参考するミこ
ろが多かったo大正十三年六月四日敷地構成令終ヘ︑ニL
に械
今の建造が始まったのである︑同年度に着手
した
のは本舘教室三生徒控所︑固書館等であった︒
四
撃則の後一布三校長の補任
大正十二年十月十八日富山鯨令第六十三競
を以
て本械製則が蜜布せられ︑同年十一月十五日摂は従四位勲四等
一万
製脅
院教
授南
日
恒太郎氏に本校校長事務取扱を蝿託し︑同年十一月二十四日本校創立事務所ぞ富山鯨鹿内に置
いた︑同年十二月五日南日恒太郎氏の本校校長事務取扱を解き︑同時に文部大臣は同氏を本校校長に補任した︒
南日校長は久しく率
向の
敬育に従事して令
名頗
る高く︑其の
臨 ん
a殖
は英
+火
山伊
界に
重きぞなし貫性温雄高潔に
して
然も本牒出身の大先素であるので︑本膝最高島a府たる本校校長三しては拘に其の人会得たものミ云ってよい︒
開 校 第
年
開校第一年本校が創立されて第一同の入感試験は大正十三年三月十六日から一二日間宮山際立神通中馬校の校舎
を借りて行はれた︒其の結果︑五百二十瓦
名の
中から惑はれた︑八十名の尋常科第
一 山
市年生は
︑全
年四月十八日
から︑富山鯨上新川郡東岩瀬町立尋常広等小山時十佼の一部︑今は蟻けて終って欝観はないが︑校舎の南端の二階の
四室で開校第一年の授業令受ける
こ三
Lな った
D官時南日校長の下に︑久保︑白津︑木枝︑安藤の回数誌さ二木
津林の雨書記が勤務した︒
校 章
、で・
、
、 .
止巾
申 自
本校の校章は故南日校長が昔時柿遁中
山ゆ
校教
誌 であった故字国歌識に依頼して作製し大正十三年四月制定され
たものである9校章の大韓の形は我が校庭から真正聞に仰がれる立山建峰の雄﹁餌﹂ぞ表し其の三つの穂は我等製
徒の探究する︑晶︑普︑美を象徴するもので我が堅固の燥にる理想遺憾なくこの校卒に輝いてゐる︒制帽は高等
科には臨紐はないが'尋常科には之を附し︑開粧の止釦の校章は高等科は銀色であるが︑尋常科は金色である︒
東宮殿下侍従御差遣の事
本校が第一回の生徒守政容して︑こL
に臥
一4閣さしての力強い第一歩令踏み出した年︑其の光栄ある門出に︑い
やが上にも光祭ある歴史を添へたのは︑東宮殿下侍従御差蓮の御事であった口大正十三年十一月八日東宮殿下
には北陸行啓の瑚侍従牧野貞亮子爵会未駿工の統合に御宍遁避され親しく覗察ザしめられ給ふたc荒壁も乾かぬ
校合に皇太子陛下より特に御使令賜ったニミは恐らく紹無の例であり︑破格の光祭こする三えろである︒
新 築 校 合
"'"'‑
移 轄
昨年第一若手に建築に取掛った本舘教室︑生徒持所︑講堂はいよノー竣工ぞ告はげたので︑大正十四年三月五日
東岩瀬町の蝦校舎を引抑って新築校合に移鮪押し大︒
馬 場 家 更 に 寄 附 追 加
本校の創設費は嚢に馬場家の寄附額で十分である三文部常局でも折紙を附けたのであったが︑建築進歩に作‑つ
$.
ムノ
、
て設備上の不備令発見するこさが砂なくなかったので︑馬場家に於ては頗る之々護協三せられ更に方記のやうな
治州
申品
川附
の出
願
bT
せら
れて
︑蒸
汽回
開房
MAび水道の新設費三機械器具の不足費三に充てられるこミになった︒
寄
附
願
設二向山高等拳校川設︑従トシテAM百参拾四背山間寄附問販仕候出品維持金及閉川製廿法人情ヲ扶除V
テ設立費七拾四南関ア以テシテ ハ設備上遺憾砂カラズ之ガ完成ヲ期スル=ハ計九拾寓開ヲ要スル
怒了承行候依
テ此際特ニ不足柄間金拾六寓関ヲ清一加シ寄附線
伺 間ヲ
AM
百五拾寓腐ト数度体問御許容相成度比段御願申上候也 大正十五年十一月十八日
富山燃と新
川郡
東岩瀬町
馬場正治親様者
馬 場
』土
る
子‑ 常山際知事
白
J‑̲ f布
=島宏 Q亀
殿
校 歌 の
止巾
定
昭和二年春︑校歌制定の企ぞ起し︑最初は全校生徒に向って懸賞募集ぞ試みた︒其の結果感募者は五名あって
其の官等AU回選者は文科三年生徒渡蓬年感であった口小林教授は其の底募作品全部ぞ携へて︑新潟鯨糸魚川町
に居住の斯道の大家相馬御風氏の門金訪れ︑之等ぞ参考資料三して新に氏の作製密議ひ︑其の結果今日の第一校
歌の歌詞ぞ得たのである︒更に作曲全賞時の闘志臼院教授小松耕輔氏に依頼し︑同年七月八日︑の校歌は制定せ
られたのである︒前に嘗還の渡益の作は第二校歌ざして採用せられ︑同じく小松氏の作曲守得るこさになった︒
校 合 建
J丘二 五旦
の
出克
成
大正十一一一年工令起して以来︑校舎の建造は着んてこ進捗し︑大正十四年四月二十五日本館教室︑生徒控所︑国書
舘︑等先づ竣Lし︑同年十二月十六日武道場.特別数室︑書庫︑大正十五年二月二十三日弓道場︑同年五月十四
日寄宿舎及び附層建物造物︑同年十月十日倉庫︑雑庫︑物置︑銃器室等︑昭和二年七月三十日講堂︑表門︑通用
門等︑同年十二月十五日汽擁庫︑慢房設備︑給水用池等︑昭和三年一月二十四日排水用井戸引績き竣工し︑同年
三一月二十日の潟室.雨雲天睦操場︑生徒集曾場の唆工を以て最後三し︑よLに校舎の建造は滞りなく完成したの であるq其の建坪二千六百九十四坪一合延坪三千五百四十二坪七合一勺︑建築食総額六拾四高七千武百八拾四
国九拾J4
外銭
の
E
額に上ってゐる︒南 日 校 長
の卒 去
いよノー来る秋には開校の式典を奉け得るさいふ喜びに︑職員生徒共に大童になって準備して居た昭和三年七
月二十同︑全校敬愛の的たる南同校長は︑岩瀬海岸に於いて水泳中︑心臓琳停のにのじ波閉じ沈まれ︑白方手段
を蓋しにるも其効なく︑惑に英魂空しく天に蹄られ丈︒
士J
/司、
南日校長の卒去せらるLや︑即日柴山教頭は校長事務取扱ぞ命ぜられ︑南日校長の葬儀は震山市外山室村長江 の自邸に於て校葬ぞ以て行ひ︑職員総動員でこれにあたった口我等の慈父の如く慕うた南日校長は︑かくて北叩 一片の煙さ消え去られたのであるo然し校長の高潔関満なる指導精神三︑創立以来の偉大にして献身的なる業績
三は.永へに生きて居る︒
柴 山 校 長
の就 任
隔日
械長
卒・
ギ
A J︐同時に本校校長事務取扱ぞ命ぜられた柴山棉郎氏は︑越えて同年八月十六日︑本校校長
に補
せ
られ
た︒
柴山棟長は大正十四年二月六日本被数頭三して着任以来︑故南日校長ぞ助けて︑拾持経管︑我が聞学園舎
今日あらしめた人であるoA1や故南日校長の後をついで︑其の遣業の完成に嘗られるこミになったので
ある
︒
各
P
県
旦/.~1/
奉 戴
昭和三年十月九日︑柴山校長︑二木書記︑上京して︑文部省に於て天皇︑皇后雨陛下の御集影ぞ拝受の上
翌朝踊校したので︑職員生徒一同校門に埼列して御奉迎申上け︑議て費み静めた講堂内奉安庫に安置し奉
った
︒
開
校
式
大正十四年一一一月五日︑大震回の新築校舎に移縛以来︑我が謬園の外形内容共に︑充賓整頓し︑今春を以て尋常
tA
なっ
た︒
科第一回の修了生も一高等科へ進ん行ので︑いよ
/ V昭和三年十月十七日の佳辰ぞ卜して開棟の祝典ぞ拳けるこ三
之に関聯してし行はれたる行事の主なるものは次の如くである︒
開 校 式
寮 議
生 開 設 灯
, n
玉 音
望 書 六
供 番
大 曾 七 挙 術 講 演 舎
典
堂 午 前 十 時
講
十月十七日
演
後
堂 議
十月十七日
牛
へルン文庫について
E量
次
民 国
部 劇
十月十七日弓い道
場
ヂリ
校門!東法制畑町i
馬場氏邸
l
岩瀬港
i(
電車
γ l
世間山四時
ll 西町 ll
十月十七日
堤町l
来 四 十 物 町
│ 中 町l織的輪!血中校長邸l
麟 臆 煎l
市役所前 曾
十月十八日脂綿舎議事堂
十月十九日
議
堂 東 京 音 禁 事 校 教 授 及 生 徒 約 百 名 演 奏
十月十九日富山松竹舘
十月二十日耐糊合議事堂
ブL
。
自由主義の功絞さ
崎市 政
市
河
~ ιz
祭 次 員 目 氏
日本の疾病
石
J11
日
出
鶴 丸
氏
八陸
上競技
大曾
十月二十一日
本校 グラクJド
開 校
コ ぃ
= = n F
A
'巳品、
碑
我が墜園の開校舎︑永遠に記念する潟︑開校式三殆んさ同時に︑開校記念碑が建立されたが︑其の費用の令部は
富山膝中新川郡滑川町加藤金次郎氏の篤志によったもの
であ
るD
場所は本校の前庭︑玄関に向って布手の︑掠楠や松の植込の中で︑全部御影石で遣わ︑蓋石には︑創六世田時常山
牒知事であった伊藤喜八郎氏の搾宅にかL
る﹁
記念
碑﹂
の三
文字
を
彫り
︑碑石には長方形の青銅板ぞ搬めて︑本校
助教授中島千松氏の撰文揮竜
にか
Lる碑文が記されてゐ
る ︒
故南日校長の胸像成る
故南日校長治慕の情は︑日に叫唱し月に操ベな
って
︑蕊
に於て我が堅閣の一角に先生の胸像令建設して︑日夕其
の説
車会
仰き︑おて先生の
御人
拍手
そ
永遠に迫憶しに
い三
の議が︑自らにして職員生徒の聞に持上
った
口そ
こで
︑
昭和四年三月本椛按友舎︑同窓舎の
融政
起で
‑ R 徒父兄職員の醸金ぞ募集し︑︑
約品 会千 回毎 得た ので
︑其の製作ぞ嘗
時の東京美術態校教授朝倉文夫氏に依頼した庭︑同氏は快く承諾の上最高の義術的熱情三苦むを傾けて製作を完
成したのであった︒
胸像は本校の前庭︑講堂ぞ背景にして西向に建てられた︑肇は長方形の御影石で高さ六尺三寸
︑前
田には﹁南
日恒太郎先生﹂の七文字令︑背聞には本校助敬授中島千松氏撰の背陰記を彫り︑胸像は青銅で高さ二尺五寸︒流
石一代の
E
匠の作ほをあって︑其の前に立てば︑混乎ミして玉の如き御容貌の中に濠乎三して侵すべからざる気ロmが溢れて居て︑御生前の先生に眼のあたり接するが如き思ひが沸いて来る︒
除幕式は︑昭和四年十月十六日に行はれ︑先生の御未亡人を始め御遺族の方々が参列されて︑今夏ながら先生迫
慕の情ル新にしたのであった︒斯くて不言の御雄姿は官高精神
の象
徴の如く︑永遠に務徒渇仰の的
︑こ なっ て無
限
の感化身奥へつLあるのである︒
略 川 校 長
の 就 任
昭和六年三月三十一日柴山校長病気の故ぞ以て退職せらるLや︑同日附ぞ以て富山懸師範事校長路川龍夫氏が
本校校長に輔苧われたc路川校長は嘗て長く奈良女子高等師範謬校に教授さなり︑大正十年富山鯨師範取校長拝
命以来今日に至った人で︑故南日校長三は師弟の間柄である上︑共に本膝出身であるo
士六tス
旗 の
阜市
定
昭和七年二月︑上海事費嘗侍︑出征兵士欲迭の矯め︑数次他校三行動を共にしたが
︑本 校‑ にけ
がその中
心三 な
る校践がなく︑頗るこれぞ遺憾三した︑この事が直接動機三なり︑蜂川校長の輩カによって迭に校践の制定ぞ見
るに至ったのであるD
創 立 十 周
年
昭和入年に至って我が感闘が馬場家の篤志によって創立以来すでに十年の星霜ぞ開し其の聞に卒業生ぞ建り出
すニ三六回︑其
ω
数五白六十九名に及んで︑既﹁L大島ずの
門令
出
に人建は四散して各地に
活動 し︑
いやが上に母校
の名聾を高からしめつL
ある
︒
これ蹴賀するために昭和八年十月十六H午前十時より講堂に於
て行
はれたる十周年記念式を中心ミして︑各種の
行事民事謹
R F
訂以れた︒其大要は次の如くである︒一
︑ 記 念 式 並 に 諸 式
昭和八年﹂l
月十六日
午
前 十 時 か ら 講 堂 に て 奉 行
︑ 鳩 山 文 部 大 区
︑ 努 藤 本 勝 知 事
︑ 馬 場 正 治 氏 以 下 来 賓 六 七 六 名 其 の他職員卒業生父兄
生
徒参列︒先づ君が代の合唱で式が始まり総川校長の式僻に次いで鳩山文部大臣・務藤敏知事︑馬場疋治︑
松井京都市市図大祭総長
︑高橋会図高
等官骨門牟校長総町︑箆熊懸命同議長図上父兄総代︑金田卒業生総代︑岩野生徒総代等の統
餅が あって︑校歌合明後︑午前十一時半・閉式︒式後引続き感謝式を
暴行
L
・ 馬 場 正 治 氏
に
釣し︑父兄代表米海元俊民から感謝
記 念 式 文珍陶芸した
ωE
午・米策︑父兄︑卒業生会
一部 沿 祝 宴 揚 に 充 て た 殿 内 体 役 場 に 案 内 し 祝 宴 合 冷 開 催 し た
︒
慰
霊霊
祭 十 月 十 七 日 午 前 十 時 か ら 講 堂 で 故 南 日 校 長 始
め
本 校 創 立 に 直 接 闘 係 あ る 人 士
︑ 職 員
︑ 生 徒
︑ 卒 業 生 中 の 物 故 者 四十二名の桜
山川
A hm m を行ったがよ返朕多数参列の上骸粛裡に故人岳遭想した︒
同日午前十
一時
︑ 本 校 父 凡 舎 に 依 り 曾 議 室 に 於
て
本 校 勘 綴 十 年 の 駿 員 菊 池 勘 左 衛 門
︑ 安 藤 敏 郎
︑ 小 西 清 正
︑ 浦 岡 表 彰 式 常太郎︑荒木
制作一一一︑二木勝邦︑藤木反助の七氏に到し感謝欣に添へて記念品もぜ贈り︑其の功努を感謝するところがあった︒
二︑ 祝
賀 行 事
陸上大運動曾
十月十五日午前八時がら
E
牛まで本校運動場にて開催︒
祭 会 開
十月十五日から一一一日問︑毎日午前丸時から午後四時まで公開︒
十月T
五日か
ら
削日間・毎
H午前九時から本山肌欽返にて州開催・美術威覚曾は本校職員︑生徒の作品.麻下各町学校
生徒の作品の外︑本邦に於
MU る明治大
E期の爵控に於ける代表的作品・日本音.荷花水禽国(川端玉章﹀経政諸竹生島闘(小
堀剥昔﹀雲の峰夏の月︑(寺崎廃業)の加問殿︑洋館︑菊︑(剛山市
聞記
旧
制)初そ刷出川町岡(阿国三郎助﹀波誠の夕暮(利岡本︿作)
ローマの池(藤島武一一﹀の凶駄を隊列L︑山岳民覧前回亦相作品郷き多考口同を多く蒐め︑生徒の仲笠民展覧曾は其の製作弘ぜ畿表したc
提げ
川行
列
十
月十五一同午後六時から・折制の降雨にめげず校友曾主催の提刈行列を奉行︒法
制酬にでμ馬場家に敬意を表し︑
更にん品山勝一則に集合・拠出冊・西町.洗町︑中教院諮り・中町︑総陶輸冷経て.同糊曾議事堂凶
にて
併紋︒
管 展覧曾
制間
食 東京音柴学校長束杉嘉
議
氏の引卒の下に同校教官脳升区候大塚
山片 平 原
液一恋ナ中村誠子の祐氏外住
徒 自 問
十
四 偽名の大規模的な地方稀に見る演奏合︒ム月十六日午後七時から燦合議事債で一般聴衆に︑翌十七日牛後二時から本校都営
で職員︑生徒︑父兄に鍛賞ぜしめた︒
演劇 銀賞 品目
明常生主恨の闘は十月十五日務佼で︑高集科問書雑誌部主催の劇は十月十七・八の雨日午後六時がら新篤劇場
で開催したo巡曾講演品目九月三十日魚津小同学校︑十月六日滑川寺家小祭校︑同十
三日
高間水波体数舎館︑同十四日目前山市総
的論小問中核にて講演舎か開催した︒
十月十八日︑木被前庭で校友合の閑港舎か開催した︒おでん・汁粉・お菓子・果物肱司会ぺ放題の模擬応︑加
ふるに職員生徒の儀興︑八尾町板井氏の斡旋にか
λる本場の八尾の小原節其他の品開興があった︒
十六日の記念式営日の猿定
が
氏の都合のため延期︑十一月十一日講堂にて開催した︒南控所に第二舎
祝賀関遊曾
松岡洋宥氏講演曾
場を作って‑プタドスピーカーを装置し本品目場にあふれた摘輔衆や満足せしめた︒
記
,.e..
d印
事
業
戸高山高等且平成大日岳ヒュッテ
大日岳ヒュッテ建設後後曾諸氏の篤志によって︑大日岳さ奥大臼岳との中間の鞍郊にヒユ
ツテル﹂建設し︑昭和八年七月十日竣工︒
体育設備
馬場正治氏の篤志により︑体操
・柔道
・剣溢・弓道・水泳の各体育設備治充究した︒
関旗掲揚塔
本校生徒父兄大連在住の瓜谷長綴氏の篤志にて︑校庭に高き六十尺の図燦鵡揚塔冷建設し︑十月十五日最初
の掲揚式冷奉行し︑雨後毎週月限始業前に掲揚式冷行ってゐる︒
記念植樹
職員生徒の際会により︑校庭各所に百
A円樹・椎木・ア力シヤ樹・ヒマラヤ松等弘百険株を板徴した︒
富山高等準校十年史本校開校以来十年の彪史及び現歎を︑菊版本文二百聞十二頁︑附表百二十一民に編纂L︑開校式前日
出席の夜祭及び生徒父兄に頒布した︒
富山高毎準校周室回目録
昭和八年十一月末現在の本校園書館綴害の目鍛冶菊版五百五十二民に印刷会園高等感校及び関係
各聞
書館
︿出
羽司
附加
した
c
八回世間書館
馬 場 正 治 氏 の 篤 志
により︑一小絞現図書館の東南一い近接し︑餓筋コンク
Hd lト の 日 本 式 を 加 味 し た
︑ 雅 致 あ る
平田且抗日一山線沿建設し︑本校州政のヘルン文応放に小泉八雲(日フアカデイオ・へルン)のん近口山を陳列する設定を以て︑昭和八
年十月十七日地銀担棋を行った︒
宮山高等製校臨海町附究所
本 校 制 忽 合 員 並 に 本 勝 氷 見 町 有 志
の篤
志 に よ り
J氷 見 地 方 に 本 校 臨 海 研 究 所 冷 設 く る こ さ
Lし
資 験 所 の 設 計
円 い
本 校 卒 業 生 寺 石 工 率 土 に 之 や 依 腐 し た
υ
教 官 優 遇 ミ 設 備 充 寅
十周年を説明苫こして︑創伎の大精紳ぞい退念し︑職員生徒抗ハに更に山中闘の向上遊民の﹁伐に︑努力の熱意ぞ臼め
つLあた時︑創設費其他各種の寄附によって︑従来本校護民のために︑多大の帯︑助
LT
輿へられた応場正治氏は︑
昭和九年十
一月
︑更にふ引拾高岡の需附与巾出られ︑これに依って︑殺宵の侍渦向上三︑投備の・究一
岡られるこ
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三︑なった︒冗記寄附願により︑応場氏のな闘が明かにされる︒
栄川
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願
富山高等均一‑校ガ創玄以必詠ト共一一其民日
制ヲ
川 平
グ今ヤ全同問高等附円十校中川俊和ヲ山ムル‑一至レルコトハ誠一一御川市政‑一椛へザル射
一有之(中時
)
一f治ハ優良公民ア松川Wシ脳設ヲ完合一一シテ克ク其ノ研究ヲ州出品山スルヲ以‑一英ノ尤トナスベク(中一時)以育/要 本以ガ仰脚立n同
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内制時凶
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柳 方 ナ リ ト モ 本 校 数 脊 / 改 装 向 上=夜︑V
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東官民市牛込阪若
宮町問︒
E事
場
正
治
昭和九年十‑
月九日
常山師肺知事
理 竪 藤
樹 殿
入 雲 園 書 舘 の 落 成
十周年記念事業のてこし企られた︒八雲閣書舘の建築は︑多少致定よhり
遅れ
た
が︑昭和十年五月十日.建築費
安川附者馬場正治氏︑其他閥係者を招いて︑孫
成式命感けるこ
さぞ得に︒この建築は︑松江市の八雲記念館の設計
者︑山口蚊象氏の考案じ︑若干の修正ぞ施したもので︑耐震耐火の域筋コンクリート建で
あり
︑ 貴重な文
献ぞ永
久に護るこ三ぞ得るのみなら令︑文豪ヘルンや偲ぶにふさはしく︑日本趣味を加へた頗る
雅致に富
んたも
ので
あ
る今や館内に
は︑文豪遺愛
の固書︑神園日本の原稿︑及ヘルン関係の参考文
献が
︑陳列保存され︑我が感闘に針
する無言の啓示三なってゐるばかりでなく︑へルン会思慕する内外人士の
来訪
︑ 次第に多品deT加
えっ
︑ある
現 朕
であ
る︒
一 一 ︑
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施
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員又
校
務
本授の教育事務は山学技長の下に数頭︑二本徒主事三があり︑数頭は主さして敬授方向を︑牛.徒主事は主三して訓
育方町ぞ掌理する︒梗長事故ある三ぎは数頭司七の事務を代決するのであるが︑普通は数授に関しては敬践は直接
に佼長の命を受け︑訓育に関しては生徒主事が直接続長の指揮そ仰いで翠校の数育事務令統制して行くのである
各分謀事務にあっては廃務謙三舎討課は校長に直属し敢務︑国書の二課は数頭に︑生徒寮務の二課は生徒主事に
属してゐる︒而して現在では︑数頭は数務課長ぞ粂ね生徒主事は生徒課長ぞ粂ねてゐる︒各課には諜長の下に数
宮大
ゐ課
長三
︑書
記︑
書記
一側
︑ 一庭等の本山川・員令置いて所管の事務会快挙するo本校に於ては尋常科︑高等科共に 同一建物川に於て殺育してゐるため
μ
事務ぞ分割して行ふニさなく︑たY或る謀によっては敬誌にる課員が便宜上主三して尋常科の事務を分割掌理してゐゐ・ミころもある司数段︑訓育︑其の他感校全般の事に闘する事項は︑
凡て敬官合議に附議せられる︒特に必要める場合父は全数官を集め得ざるさき等には評議員命日が開催せられる3 剛山
γ科の統一︑改善のため︑各凶
m v 科
に叫
J科主任があって敬頭に崩しはγ級主管は︑敬頭︑生徒主事督闘の下に各感汲 高般の事に任がる︒本校には生徒指導上︑文部省♂か推奨し︑多くの高等ゆ校に於て貫施されつLある指導教官制
度ぞ採用してゐない︒数授訓育の貫際に富つては致官一同熱心に生徒の誘扱に任じ︑特に出品γ級主管が第一線に立
ち指導斡旋し︑生徒も亦之に信頼する風あるが故じ︑翠一なる事汲主管制度で十分訓育の徹底巻期し得られ︑従
七
A
って格別指導敢官存置め必要を感じない︒故に本校に於ては墜紋主管が他校に於ける謬級主管さ指導教官三の雨
者の責務会粂任してゐるミ謂ってよい︒
般 施
設
研究室本校教官の矯めに︑各製科毎に研究室ぞ設け︑首該移科に必要なる固書及び敬具ゆ守備へて敬官の研究
に資し︑粂ねて墜科教官相互の授業上の一連絡三生徒の指導に使ならしめて借る︒其の中︑英語研究室は︑時々英
語研究曾又は科外講議等にも利用されてゐるo 固定数室本政は創立詰初数年間は診科説室︑組蹴になって居て︑生徒は間五敬室令持って居なった︒即ち英語研 究室の附起に英語教室かあり︑濁逸話研究室に隣接して.濁逸詩歌室かある三云ム風であっ↑ho昭和五年度より
現在の回定教室制に襲夏するこミになった︒
尋常科主管室尋常科主管も受持撃科により別々な研究室に分れてゐたのである一か︑尋常利の授莱三訓育三を
一層徹底せしめなければならぬ必要を認めたので︑昭和七年八月より等常科主管八名此の室に席を並べて︑任務
に就くこす﹄になった︒ニれ迄は尋常科生徒に闘し︑主管が意見の交換舎なさう︑こする場合には︑一定の時日を定
めて曾合しなければならぬごいふ不使がめったが︑現在は主管
一同
常に
一室に柑曾してゐゐから︑尋常科生徒の
聞学習及操行等に就き随時極ゆて容易に意見の交換を居摘す﹃﹄さができる口
教授上の諸施設本校に於ける教授上の施設は尋常科唱三高等科三に針し別個に之を行ふ︑}三金主眼ミして居る
( A )
尋 常 科
博物講義室同研究室(標本室を粂ね︑標本中は菊削教誌の蒐集に係る富山湾生物標本は甚だ整備し︑特に
貝類︑魚類︑甲殻類が多い)物理化早詩義室︑宮験室︑研究室(器械室及び薬品室ぞ粂ね)エア瓦斯費生室
第一︑第二地歴講義室同標本室研究室
固室
岡敬
室
同研究室音楽数室
( B )
高 等 科
博物療講義室(幻燈の設備あり)生物的
か管
験室
標本室
植物
山崎
研究
室
動物療研究室
溜室
地質
錨一
物
年標本室(今村歌授の蒐集に依口富山鯨産化石標本室ぞ異色︑こする)研究室(薄片製造機械ぞ設備
、す‑‑"
物珂
勝一
書議
室
同宮
殿室
(七
)
機械室
研究
室(
二)
苓電池室(盤塵器の備附あり︒二二
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ボルドの電流そ'
れによって百ボルドに直し︑関係数室に選る口署電池よりは百十ボルトまでの直流ぞ取り得)工作室(機械室
備附の主要なる機械は︑玄光線護生袈置︑波長分光計水晶スベクトログラフ・アッパの屈折計︑紫外線照用物
質鑑識器)
化製講義室闘賞験室機械室準備室
硫化水素室実品康エア瓦斯褒生室
国思議議室(製闘室を粂ね)同研究室(尋常科粂用)
九
。
地歴講義室(幻控設備)地歴製同室標本室ぷぴ研究室(尋常科粂用)
雨雲天敬練睦操場銃器庫銃器手入室
剣道場(有備堂さ講す)
柔道
場︑
(武道場は一万.特に濁立せる武徳殿式の建物ぞ諮り︑其虞で剣道︑柔道や行ってゐたが︑場所の狭陸なる矯め 分離するこさに至った)弓道場 衛生設備本政は職員坐徒の健巌朕態
‑ L 正怠そ蜘ひ︑昭和六年度より毎越ぷ曜日の放謀後に枝管ぷひ薬剤師
の出張を求め︑寮務課室一V希望の職員坐徒e守して診療会党けしめ︑察務課薬局に於て調剤し︑診察投葉三も校建
令以て耕じてゐる︒向この外に︑本舘の一部に休養室ケ設け臨応急慮置に必要なる設備三葉品を用意してある︒
留撃及研究奨励の制度
外国留感事校創立の嘗初︑馬場家より寄附されたる拾高閲の外国留務基金守本さし︑大体文部省の規定に準
じて制定されたる在外研究員規定に従ひ︑教官中よれ研究員令指定し︑海外に汲遣するこミにして居る口大正十
五年以来之や貧施し︑既に七名はこれを終り︑一名は目下留撃中にある︒
内地
留聞
学
昭和四年内地研究員規定を定め︑牒銭ケ以て︑大曲学其他過賞の揚所につき︑敬官をして専攻曲学科の
研究に従事せしめるこミLなって居るD本規定により昭和六年以来︑毎年数名宛の内地研究員が︑指名されて来
た︒普通に︑内地向岡県の期聞は︑ニヶ月間(主三して休暇利用)であるが︑外島十留壊を命ぜられたる者本人の希
望により︑叉は製校長の命により長期(一年以内)の内地留墜をなし得るこ三Lなり︑昭和十年度に其新例を開
︑ ニ
0・uJI
研究奨励費昭和十年度
より
通常識胤算に於て︑研究奨励賞が計上されるこ三L
なっ
た
︒事校長は奨励賞下附出 願の敬官中︑数名ぞ指定し︑これに各半年甑約百国守支給し︑各自の専攻眼科に劃する特殊研究の補助たらしめ
︑教
官の
研究
会ゼ
奨励
して
居る
︒
国
書
官官
本校の国書館は現在︑事務室︑職員閲賢室︑生徒閥開室︑国書日銀ヵiド︑新聞閲賢室及書庫から成ってゐる
書庫は錨筋コンクリ
ート
コ一
階で
︑各
階共
十二
坪
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職員じ針する図書の貸出については︑本校の数官室が各眼科別の研究室ι分れてゐるので︑各撃科に卒素必要な
る辞書︑叢書(共同使用の)類は各研先室に備付けて置く.か毎年七月十Hょの二十日までの聞に必下回書課へ返
納する定めである︒教職員に劃しては同時借出の加数に若干の制度を加へて短期(一年間)及び長期(一年間の)
貸出をしてゐるそしてそれ等の借受ぞ繕縮刷するご否︑こに拘らす︑毎年六月二十日より同三十日の聞に返納するも
のである生徒の固書利用については漸次なるべく簡便な手続に改め︑昭和四年五月
から
︑圃蓄の舘外持出しぞ