韓 日古代寺院の整備方法研究
‑6〜 8世 紀の寺院を中心に一 金哲主 ・卓京相
I.は
じめにⅢ
.古
代仏教の流 れ と寺院の建立Ⅲ
.古
代寺 院の整備事例の検討Ⅳ
.お
わ りに要
旨
韓国と日本の吉代国家は、王権強化と社会統合の原理として仏教を受容し、寺院を建立 した。
このような寺院の中―
には、時の流れとともに廃寺となるものもあり、また仏回寺のように現在までその 法灯が続 くものもある。現代にいたり、このような寺院は文化遺産として保存と活用という側面から整 備がなされている。本稿では、古代国家の仏教受容による寺院の形成過程と整備事例を検討した。その 結果、古代寺院の中Jい的な要素は、塔・中心軸線・正面性であ り、今後このような要素を持つ古代寺院 の特徴と魅力がより良く表現できる整備方法の提案を試みた。
キーワー ド
古代寺院
塔
中心軸線
正面性
遺跡整備
国立扶餘文化財研究所
363
金 哲 主 ・卓 京 柏
I。
は じめに
韓国の遺跡整備事業は、1907年に行 われた崇灌 門の修理工事 に始 ま り、1960年代の浄化 事業、1980年代以降の大規模発掘調査後 になされた整備事業など、長期間にわた り「整備」
とい う名の もとに遺跡の保護、保存処置がなされて きた。 しか し、長期間に渡って多 くの
「整備事業」がなされて きたにもかかわ らず、明確 な概念不在の整備が、かえって本来の遺 跡の性格 を曖味に し、観光地に変貌 させ ている点 は、文化遺産の保護・保存の次元におい て、 もう一度検討 しなければならない問題である。
整備 された文化遺産のなかで、古代寺院は、当時の国家建設 と社会統合のための運営原 理 として導入 された仏教の物理的な現象物である。初期 に、王室を中心 に仏教が受容 され る原因 もここにあって、君主 としての統治力 を行使するための権利 を提供 して くれるのみ ならず、それ によって君主はさらに高貴 な存在 として尊敬 を受けることとなった1。 当時の 寺院は都城の内外 に位置 し、護国的な性格 をもって建立 された建築物であ り、中国か ら流 入 した仏教思想 と密接な関係 をもちなが ら発展 して きた。
しか し、現代 に入 って整備 された古代寺院は、現状保存的な側面に焦点があてられ、い くつかの整備類型が混合 されてお り、古代寺院の特徴 であるその時代の仏教思想 とその背 景、建築物が もっている素晴 らしさを知 らしめるには多少いた らない点がある。
そ こで本稿 では、 まず古代寺院の変遷 について、その思想的背景 となる仏教の流れを通 じて探 ることとする。その うえで、古代寺院の整備事例 を検討することによって、その類 型 を抽 出 し、遺跡整備 において重点的に扱 わなければな らない部分 を明 らかにし、 よ り改 善された遺跡整備方法案を提示 したい。
韓 国の事例 についての検討 は、百済 と新羅の代表的な古代寺院である弥助寺址 (7世紀)
と皇龍寺l■ (7世紀)を中心 とし、 日本の事例 についての検討は、7世紀の代表的な寺院であ る飛鳥寺 (6世紀)、 四天王寺 (7世紀)、 お よび既存の分類柔 における日本の寺院のタイプ別2 に検討す ることとする。
Ⅱ .古 代 仏教 の流 れ と寺 院の建 立
1.高 句麗
中国か ら韓 国 に仏教が伝 え られたのは、F三国史記』 に よれば高句麗 第17代 小獣林王二年 (372)に 、前秦王符堅が使者 とともに僧侶順道 を派遣 し、仏像 と経典 を送 った ことに始 まる。
当時 、符 堅 は大乗 仏教 の三論宗 を信奉 して いて、 弥勒信 仰 を信奉 す る道安 の弟子 で あ り、
当時の高句麗 に三論宗 と弥勒信仰が 同時 に流入 した もの とみ られ る。
以後、小獣林 王五年 に初 めて寺が建 て られ、順道 は 肖門寺 に、阿道 は伊弗蘭寺 に拠 った。
韓 日古代寺 院の整備方法研究
故 国壌 王 は令 を下 し、仏教 を崇 め、福 を得 られ るように勧 めた。 また広 開土 王 は平壌 に9寺 を建 て、長寿王代 に至 る と、仏教 は除災招福 を教 える もの と して広 く民 間 に信奉 され3、 文 苔 王七年 (498)に は、 金岡J寺 (清岩里寺址)の創 建が伝 え られてい る4。
そ れ以後 の高句麗 は、幾 度 に も渡 る隋 の侵略 と百済、新 羅 との戦争 な ど混乱 の時代 に入 ったため、仏教が どの ように発展 したのか よ くわか らない。ただ、『続高僧伝 』巻人 法上僚 に、平原王(559〜589)が大 乗 の教 えを受 け、 これ を広 めるにあたって釈迦入 減以来の仏教東 漸 の歴 史 を明 らか にす るた め に僧侶 を北 斉 に送 った話が記録 されていて、 仏 教 が維持 され ていた こ とがわか るが、栄留王代 に流入 した道教 によって、仏教 は次第 に衰 退 していった。
栄留 王代 の慧 灌 が 日本 に渡 り、 日本 の三論宗 の始祖 とな り、恵亮 は新 羅 に入 り、新興王 代 に教 団組織 に貢献 して初代 国統 とな り、嬰 陽王代 の普徳 は淵蓋蘇 文 の道 教 奨励 に対す る 反発 か ら百済 に入 り、新 た に涅槃 宗 を開創 した。
この ように高句麗 には、最初 に大乗仏教 であ る三論宗 と弥動信仰 が流入 したが、 三論宗 が よ り優 勢 な位置 を占め た よ うで あ る。 しか し現存す る寺 院 はそれ ほ ど多 くな く、 三論宗
と寺 院間の関係 を明 らか にす るには多少の難 しさがある。
現在 、高句麗寺 院 と して知 られ る寺 院 と して は、清岩里寺址5と して有名 な金 剛寺llL、 平 壌 の定 陵寺址 が あ る。1938年に調査 された金 剛寺址 は南 向 きで、 中門内 に は八 角木塔 が配 され、東西 に2棟の建物址 、そ して北側 に3棟の建物IIが 東西 に整然 と並 ん で配置 されてい る。1974年 に確認 された定陵寺址 は5世紀 に創 建 された と推 定 され、や は り南 向 きで、 中門 内 には人角木塔 1基、 その東西 に2棟の建物址 があ り、北側 は回廊 で閉 ざされているが、回 廊 内 に3棟の建物址 が東西 に整然 と並 んで配置 されている。高句麗寺 院には この他 に も八角 建物址 が確 認 された上五里寺址 と、大乗仏教 の千仏思想 に よってつ くられ た塑造仏像 が確 認 され た元五里寺l■な どが あ る。以上、高句麗 の寺院配置型式 は、木塔 を中心 に3金堂 (群)
が配置 されていて、 当時高句 麗 で流行 した大乗仏教 の三論宗 との関係性 を うかが うこ とが
を
■Ⅲ………―,Ⅲ …‐
i'
I ri
・ ´セ ト bF
︲1 11 11 コ十 二 ﹁
一
︐ 一
図
4男
第 2図
定陵寺址
金 哲 主・卓 京 柏
で きる。高句麗 の寺 院 とほぼ類似 した配置 は、 日本 の初期 寺院である飛鳥寺址 に も確 認 さ れ る6。
2.百
済三 国の中で高句麗 の次 に仏教 が伝 え られ た 国 は、百済 であ る。第15代 枕流王元年 (384) に、摩羅難陀が東晋 か ら仏教 を初 めて伝 え、翌年漢 山に寺 を建 て10人 の僧侶 を置 いた とあ る夕。 以後、『三 国遺事』 には、阿幸王が百姓 た ちに「仏法 を信 じ福 を求め よ」8と言 った とあ り、 仏教が 当時 の王室 の主導 の もと国家 の平 安 と発展 を祈 る護 国仏教 の性格 を持 ってい た こ とがわか る。聖王四年 (526)に は謙益 が 中 イ ン ドに渡 って、五分律 などを翻訳 し、曇旭 、 恵仁 は律疏 三十六巻 を書 いた。以後、聖 三十 九年 (541)に梁 に使 臣を派遣 し、毛詩博 士 と F涅槃経 』 な どの注釈書 とともに工 匠・画 師 な どを招 請 し、梁武帝が これ を聞 き入 れた とす る。 この ような事 実 か らみて、聖王以後 の百済仏教 は、戒律主義的な傾向 を持 っていた も の と看取 され る。。
しか し、王室 をは じめ とす る貴族 的文化 を発展 させ た戒律 主義 は、大衆的 な展 開 をみ る こ とはなか った。す なわち、百済仏教 は律令制度の確 立 に寄与 し、貴族層 に よって洗練 さ れ た文化 を発展 させ たが、その文化能力 を他 の階層 に拡散 させ ることには成功 しなかった。
以 後 、新 しい文化運動 が起 きるが、 これ は弥勒 上生信仰 を下生信仰化 して仏教 の大衆化 を 企 図す る ものであ ったЮ。弥勒寺 は これ を代 表す るが、百済仏教 の大衆化 は大衆的な文化 階 層 を包 容 しなが ら展 開 したので は な く、結局 貴族 文化 を大衆 に伝播 させ るに留 まった とい え る。 また、 あ くまで貴族文化 を基盤 と したため、武王が追求 した仏教の伝播 は一代 限 り で終 わった もの とみ られる。
戒律 主義 に集約 され る百済仏教 の流 れ にお いて、現在 まで漠城時代 の寺院址 はまだ発 見 され て い ない。公州 には、聖王五年 (527)に建 立 され た大通寺址 が残 っていて、扶餘 に は 遷都 後 の6世紀 代 に建 立 され た東 南里寺址 、軍守里寺l■H、 定林寺セ、陵寺いな どがあ る。 7
第 5図
弥勒寺址 第3図
東南里寺址 第4図
軍守里寺llL
韓 日古代寺院の整備方法研究
世紀代 に建立 された寺 院 としては、扶餘 の王興寺ユ、益 山の弥勒寺 と帝釈寺おな どがある。
これ らの寺 院 に共通 してみ られ る伽藍 中心部 の配置 は、南北方 向の直線軸 に従 って、 問、
塔 、金 堂、 講 堂 が置かれ、P写の左右 に連結 された南北 に長 い長方形 の 回廊 が、塔 と金堂の 回 りを巡 り、講堂の左右 に違結 され る1塔 1金堂式 の伽藍配置である▼。 ただ し、東南里寺 址 で は木塔l■が確 認 されてお らず、 出土遺物 か らみて酒洸遷都 以後、最初 につ くられた寺 院址 と推測 されてい るのみであ る。
現在発 掘 調査 が お こなわれ てい る軍守里寺址 と陵寺、王興寺 と定林寺 は、上述 の中心軸 配置 を採用 してい る。益 山の弥勒寺 は、1塔 1金堂 の配置が三つの院で構 成 され る特異 な も のであ るが、依然 として各 院は1塔 1金堂型式 を してい る⑤
したがって、百済寺院の配置方式 は高句麗の寺院 とは異 な り、堂が塔 と対等 な関係で発 展 したことを意味するもので、 この ような配置型式は戒律主義 と関連があると判断される。
弥勒寺 に現れる三院の型式は、寺の名前か ら窺えるように弥勒信仰の表現 と推定 されるが、
依然 として基本的な配置型式は、戒律主義の伽藍にみ られる中心軸線 を維持 している。
3.新
羅 と統 一 新 羅法興王八年 (521)に梁 と国交 を結んだ後、武帝が送った僧侶元表 によって新羅王室に仏 教が伝 わった。ただ し、訥祗麻立千 (417〜458)代には高句麗の僧侶である墨胡子 について の記録があ り、仏教公伝以前に仏教が入っていたと考えられるB。 このことか ら高句麗や百 済 とは異 な り、民間においてまず仏教が受容 された と考え られる。ただ し、機会 をみて王 室 に仏教 を紹介 したようにも理解 され、結局王室仏教 を志向 した古代仏教の限界性 をうか が うことがで きる。
以後、法興三十四年 (528)の貴族 との対立か ら、異次頓の殉教 を経て、王室が仏教 を公 認す るにいた り、その翌年 には殺生 を禁止す る令が下 される。そ して、真興王五年 (544)
に新羅最初の寺院である興輸寺が建立 される。
この ように貴族 との対立 を経て公認 された新羅仏教 は、高旬麗や百済 とは異な り古代国 家の理念 と思想 を統一 し、国家発展 を祈 る護国信仰 と現実求福 的な信仰へ と発展 していっ た。すなわち、初期の新羅仏教 においては弥勒信仰が流行 していた と判断され、それ以後、
留学僧 などを通 じて大乗仏教が紹介 された後、慈蔵 を中心 とす る戒律宗が流行 し、国民思 想の統一 に大 きな役割 を果た した。 また、円融思想 に基づ く義湘の華厳宗 は、専制王権 を 中心 とした中央集権的支配体制 と符合 したために、貴族社会において大 きく繁栄 した。
新羅 における華厳思想の導入は、慈蔵 に始 ま り、三山・五岳 など土着的な山岳崇拝の固 有信仰Dと結合 しつつ、華厳思想 を基盤 として新羅が本来仏国であった とい う仏国土思想 を 展開させていった20。
特 に皇龍寺の創建が、唐か ら華厳思想 を受容 した慈蔵の建議 によって建て られた塔であ
7/
金 哲 主・卓 京 猫
る とい う事実Дと、唐 か ら帰回 した慈蔵 を大 国統 に任命 し、僧 団の戒律 を正 させ た とい う事 実 につ い て注 目す る必 要 が あ る。 なぜ な ら既 存 の 円光 法 師 の世俗 五 戒 は、仏 教 に俗 世 的 な 意 味 を付 与 し、大 衆化 した傾 向が あ ったが 、 そ れ に対 す る教学 思想 の後押 しと して華 厳思 想 の受容 が必要 となったので あ る22。
以後、文武王代 に統一新羅が成立 し、明朗法 師の神 印宗 (密教の一派
)が
受容 され、9世紀 に入 って禅宗が流入す るにいたる。 当時 の留学僧 たちに よって展 開 された禅 宗 は、三 回統 一 後 か ら、次 第 にゆ らいで い く統一新 羅 の、新 しい精神 的基盤 とな るの に十分 であ った。それ まで の護 国思想 は、三 国統 一 の達成 に よって その求心 点 を失 い、貴族 的 な仏教 に転換 し、誰 で も仏 になれ る とい う禅宗 の趣 旨は、不 満 を持 っていた地方貴族や下層貴族 に とっ て格好 の精神 的基盤 となった。 それ まで は教学 が主で あった新羅 の教壇 に、参禅 に よって 誰 で も仏 になる こ とが で きる とい う思想 が入 る ようにな ったのであ る。 この ような禅 宗 は、
憲徳王十三年 (821)に 唐 か ら来た道義 と、興徳 王代 に帰 国 した洪勝 に よって南禅宗が伝 え られ た後 、禅宗 九 山門が成立 し、大 き く繁盛 した。 しか し、王室や貴族社 会 には受 け入 れ られず、混乱 した新羅下代 は高麗 に取 って代 わ られる。
この ように初期 弥勒信仰 か ら戒律宗、華厳思想 と続 く新羅 で建立 され た寺 院 は、それ ら の宗教 的論理 と関係があった とみ られ る。
rttrIIIE「EIl
鰯 圃 鰯
第 7図
皇龍寺l■2次伽藍
昨 √ 片
1 1 ・ ・.卜
L
ヽ=︱︲︱︱
第 6図
皇龍寺址ヽ次伽藍 第 8図
咸恩寺l■
第10図
望徳寺l■
韓 日古代寺院の整備方法研究
最 初 につ くられ た興輪寺 の初期伽藍 配置 は、 中央 の塔 を中心 と して金堂 と講堂、中門を 南北一直線 に配置 したいわゅ る1塔 1金堂式伽藍 と推 定 されて いる23。 また、皇龍寺 も、当 初1塔 1金堂 の配置 を していたが、後 に1塔 3金堂 の型式 に転換 された。三 国統一 を前後 し て、金堂 の前 に2塔が左右並 んで配列 され る新 しい型式 の寺がつ くられるようになる。
密教 の曼陀羅 的 な配置 には じまる と考 え られ る双塔 の配置型式241ょ、 百済 の1塔式伽藍 配 置 と比較 して2塔式 、 また は双塔 式伽藍 配置 と呼 ばれ る。 四天王寺 、感恩寺25、 望徳寺、千 軍洞寺l■、仏国寺 な ど、 これ以降建立 される大多数の寺院は双塔 を備 えるようにな り、こ のような型式は2塔 1金堂の型式 として全国に広 まるようになる。後の禅宗寺院である実相 寺、宝林寺 な どに もこの ような配置型式が認め られる。双塔 は木塔ではな く石塔で、仏回 寺三重石塔 を基本 とす る典型的な型式が全国に流行す ると同時 に、その材質 も木か ら花筒 岩に変イとした。
また、高仙寺 の ような東殿西塔の型式や、羅原里寺址や昌林寺址 などでみ られる前堂後 塔の型式 も確認 されている。統一新羅の伽藍配置は、初期の ものは王京内部の平地に位置 するが、次第に山地 に場所 を移 しなが ら、以前 とは全 く異 なる新 しい配置型式が現れるな ど、一言で言い切 るのが難 しい。ただ、当時の伽藍配置は自然に順応する形態 をとってい るが、かな り積極的に山岳地形 を平地化する傾向もある。
以上、初期新羅の寺院は、中門 一木塔 ―金堂 ―講堂 を軸 とす る中心軸線が強調 され、木 塔が最 も強調 される配置をしている。以後につ くられる観塔式寺院は、1塔式 に比べて塔が 持つ意味が多少弱 くな り、金堂の比重が大 きくなったものと理解 される26。
4.日
本 の 古 代 仏 教 の 特 徴"と古 代 寺 院日本の仏教伝来 は538年 、 または552年に百済の聖王が仏像 と経論 を伝 えることによって 始 まる。以後、欽明天皇の代 に仏教公認問題で物部氏 と蘇我氏が対立 し、結局天皇は仏教 を公認 した。 この際、蘇我稲 目は天皇に願って仏像 を受け取 り、飛鳥小墾田の家に安置 し てこれ を崇拝 し、向原の家 を寺院にした。 これが向原寺 と呼ばれる日本最初の寺院で、奈 良県明 日香村豊浦 に位置する。
仏教公認 を契機 として、蘇我氏 と物部氏の対立は激 しさを増 したが、その間 も韓半島か ら仏像 と僧侶、経典が引 き続 き伝わ り、信奉者 も増えていった。用明天皇は、母が蘇我馬 子の姉であった関係 か ら仏教 を信奉 し、劣勢の物部守屋 は軍 を起 こしたが、蘇我馬子によ つて滅 ぼされる。 これによって全ての権力は蘇我馬子 に集中す るにいた り、 この時か ら聖 徳太子が国民の思想 を統一 しようと大乗仏教 を隆盛 させ ようとした。
このように当時の 日本仏教は、6世 紀後半か ら7世 紀初頭 にかけて飛躍的に発展 し、四天 王寺 (593)、 飛鳥寺 (596)、 法隆寺 (607)を皮切 りに多 くの寺院が建立 された。 また多 くの 留学生が大陸の仏教文化 に直接接 し、 これを学習 して帰国することで仏教文化が育成 され
金 哲 主・卓 京 相
てい った。
しか し聖徳太子 の死 後 、蘇 我 氏 が専横 を極 め、太子 の偉 業 は一 時 中断 したが、天智天皇 に よって「大化 の改新」 が断行 され、聖徳太子 の精神 を政治 に活用 しよ う とす る傾 向が生 まれ た。 当時 は律令 政治 がお こなわれ るよ うになっていたが、仏教 の慈 悲 ・博 愛 の精榊 が 普 及 し、仏教 芸術 と儀 式、儀 礼 が発達 し、 これ らを通 じて仏教精神 が高揚 され るにいた っ た。
この時代 の文化 は 白鳳 文化 と呼 ばれ、飛 鳥 と奈 良 とい う二つ の時代 の 中 間的文化 を形成 して い る。 白鳳 文化 の仏教 は唐 文化 を受容 してい る ところに特徴 が あ る。 この時代 は前 の 時代 よ リー層唐 との交通貿易 が活発 にな り、建築、彫刻、絵 画 にお いて もイ ン ド、 イラ ン、
ギ リシャな どの手法 が加 味 され てい る。 また薬 師寺 。当麻寺 な どをは じめ多 くの寺 院が建 立 され、伽藍配置の様式 も前 時代 と様式 を異 にす る。
当時受容 され た仏教 は三論 宗 が 中心 で、人 間の本性 を平等 に捉 え、 階級 の存在 を否定す る点で、聖徳太子 の改革 と「大 化 の改新」の理論 的根拠 にふ さわ しい論理 で あ った。 しか し、
「大化 の改新」以後、資本勢力が発生 し、彼 らは 自らの論理 を後押 しす るため に、人性平等 論 の反対 の人性 差別論 を台頭 させ 、法相宗 の伝 来 とともに発展 してい く。貴族社会 が強化 され る こ とに よって法相 宗 が次 第 に発展 し、三論宗が これ に圧 倒 され る時代 が奈 良時代 と い える。 この時期 の仏教 は三論 宗 ・法相宗以外 に も、律宗 ・倶 舎宗・ 成 実宗・華厳宗 な ど が あった。
そ の うち、華厳宗 は奈 良時代 に入 って伝 来 した もので、無即有 、一即 一切 の思想 的特 色 を もち、一種 の全体 主義 的哲 学 理論 を主張 していた。聖武天皇 は この よ うな全体主義 的 な 理 論 に基 づ き、 国家 の政 治体 制 の確 立 を図 り、 中央政府 以外 に地方 ご とに国府 を設置 し、
中央 と地 方が相互依存 す る政治体 制 を確 立 した。す なわち、 中央 には昆慮 遮那仏 を安置 し た総 国分寺 を設置 し、国府 には釈 迦仏 を安置 した国分寺 を建 て、 国民精神 の指導体 制 を整 備 した。 中央 の総 国分寺 が各地 方 の国分寺 を総括す る体系 をつ く り、華厳 哲学 の全体 主義 的原理 を標榜 した。
続 く平安文化 は、貴族社 会 を背景 と した法相宗 の全盛 時代 で あ った。初期 に伝教大 師最 澄 に よって伝 え られ た天台宗 と、弘法大 師空海 に よって伝 え られ た真 言宗 は、その勢力 を 広 げ、中期以降に完全 に両宗派が仏教 を支配す るにいたる。
天 台・真言宗 は一乗仏教 の思想 に立脚 して、人 間の本性 を平等 に捉 え る こ とが特色 であ るの に姑 し、法相宗 は五性 各 別 を主張 し、人 間の本性 は生 まれ なが らに して五性類 の差 別 が あ って、仏性 を備 えて い ない人 間はい くら修行 して も絶対仏 には なれ ない と主 張 した。
法 相宗 は中期以 降 に貴族社 会 が没落す る とともに、次第 にその勢力 を弱体化 させ ていった の に対 し、天台・真言宗 は中期 か ら次第 にその勢力 を伸張 させ、強大 な勢 力 を持つ ようにな
韓 日古代寺院の整備方法研究
り精神 的指導の面 において絶対 的な優位 を占めるにいたった。
天 台・真 言宗 は どち らも密教思想 を基 に してい るため、平安 文化 は密教 的 な神秘主義が 根 幹 をな して い る。 そ の後、 中国 との交通が減 ったが、lo世 紀後半以 降 になって、 中国で 朱 が建 国 し、 再 び交 通 が活発 になる。 この時期 の中国文化 は庶民文化 が 中心 であ り、結局 中国文化の受容 によって庶民文化が発達 し、鎌倉文化 を生 む原動力 となった。
平安 時代 の仏教 文化 の特徴 として は、奈 良時代、 お よびそれ以前 の寺 院建築 が都 城 を中 心 に建設 され たの に対 し、前期 か ら中期 においては都市仏教腐敗 の反動 か ら山岳仏教 が興 起 し、 静 か な場所 を選択 して寺 院が建 立 され、4多行 道場 の設備 を もつ寺 院が あ らわれ た。
そ して平安時代 中期以 降の浄土教 の復興 とともに、浄土教信仰 の修行道場 としての寺 院が 建立 され るにい た る。 また この ような建築 は奈 良時代 の ように中国の建築手法 を模 倣す る
朴弔
t・ 小■J君学
螂
圃
□ 開
圃
第12図
飛鳥寺ll
中 門 南 門
―
第14図
川原寺址
第16図
法隆寺
議 堂
中 金堂
︐ /
金 哲 主・卓 京 柏
のではな く、次第 に 日本独 自の建築様式が発展 し、いわゆる和洋折哀的 な手法が生 まれた。
日本 の寺 院 は、仏教 受容 時か ら韓 半 島の影響 を受 けていた。初期 の 日本 の寺 院型式 は、
高句麗 の金岡J寺址 で確認 され る1塔 3金堂式伽藍 の影響 を受 けた と推定 され る飛鳥寺 と、軍 守里寺l■、 陵 山里寺l■、 定林寺址 でみ られ る1塔 1金堂 の 中心軸線 を もつ 四天王寺 式であ った。統一新羅 の感恩寺 な どでみ られ る決碁式伽藍配置 は、「薬 師寺式伽藍」と呼 ばれ るが、
この型式 の最古 の事例 は本薬 師寺 であ る。 これ以 降、 中国や韓 国でみ られ ない 日本独 自の 伽 藍 配置型 式 が発展 しなが ら、 法 隆寺 式 、 川原寺 式 、法起寺 式 な どの伽 藍 がつ くられ る よ
うになる28。
Ⅲ .古 代 寺 院の整備 事例 の検討
1.韓 国の寺院
韓 国の遺跡 整備 は、朝鮮 総督 府 に よって1907年 にな され た崇進 門の修 理 工事 以 降、平壌 普通 門、石 窟庵 、仏 国寺 な ど一部 の遺跡 が 「修 理」 とい う名 目で整備 され た。解 放 以 降 に は緊急補修工事 を通 じて整備 が な され、 1962年 に「文化財保 護法」が制定 され た。 これ以 降 実施 され た遺跡 整備 は、 おお むね文化財 に対 す る解 体 修 理工事 で、 1966年 にお こなわれ た
「顕忠祠浄化事業」 をは じめ、主 に護 国遺跡 を中心 に総合整備が なされた。
1969年 に仏 回寺 の復元事業が な され、以 降、総合 開発 計画 とい う名 の もとで発掘調査 か ら整備 までの一貫 した実施が始 まった。 1995年 には、地方 自治制が実施 され、文化遺産 に 対 す る観 光 資源化事 業 が広 ま りは じめ た。2004年か ら「古都保存 法」が制定 され、古都 の復 元 を 目的 と した保存 整備 事 業 が続 け られ て い る。世 界 文化遺 産登録 、各古都 の見所 づ く り
とい う 目的か ら、整備事業 も次第 に空 間拡張、大規模 、 自治体 の利益極大化 に観点が転換 して い き、慶州 の皇龍寺木塔 、 月精橋復元、扶餘 の定林寺l■、弥勒寺址 復元事業 がお こな われてい る ところで あ る。
現在 韓 国で な され て い る保存 整備 手順 は第1表の とお りで、大部分 の整備事業が この よ うな手続 きを通 じてお こなわれ てい る。 文化財 庁 、文化 財 委 員会 、地 方政 治 団体 あ るい は 管理 団体 の 間で この ような流 れ で整備 が実 施 され て いて、 この うち実 際 の整備 計 画 は専 門 家 に よってお こなわれてい る。
本章 で これか らみてい く大部分 の寺 院の整備 も、 この ような手続 きでお こなわれてい る。
(1)無塔式 :扶餘東南里寺址
忠清南道 の指道記念物 第50号 であ る東南里寺址 は、扶餘郡扶餘 邑東南里 に位 置 し、指定 面積 は16318∬ で あ る。 1938年 に1次調査 が、1993年 か ら1994年 にか けて忠 南大学校博物館 に よって発掘調査が実施 され、塔 と回廊 が ない独特 な配置型式が明 らか になった。 したが って、特殊 な用途 の建物址 と考 えるこ ともで きるが、 内部か ら蝋石 でつ くった仏像 彫亥」と
韓 日古代寺院の整備方法研 究
第1表
韓国にお ける遺跡の保存整備の流れ
指定申請審議 現状変更審議
指 定 申請 現 状 変 更
申請結果通知 変更結果通知
修 理 ・ 復 旧
青銅 製仏像彫刻が確認 されてお り、寺址 に比定 されている。
現在 の市 内の中心 か ら少 し離 れた ところ に位 置 していて、周辺 は全 て耕作地 で鉄柵 をめ ぐら し、 その領域 を表示 してい るが入 日は表示 されてい ない。 中心建物址 や建物 の全 体 的 な方 向性 を知 るこ とので きるいか なる標 識 もな く、鉄柵 の内部 には雑草が生い茂 ってい る。
鉄柵前 の道路 に よって、正面方 向 は認識 で きる ものの、入 日の案内板が なけれ ば遺跡 自体 を見つ けるのは難 しい。
(2)1塔
3金堂式 :平壌定 陵寺址 、慶州皇龍寺址① 平壌・定陵寺址
文化 財 委 員会
指定申請許可 現状変更許可
許認可申請 地方 自治体
管理団体
第17図
東南里寺址遠景 第13図
入口の案内板
37う
金 哲 主 ・卓 京 柏
北朝鮮 の国宝 第173号 であ る定陵寺址 は、平壌特 別市 力浦 区域龍 山里 に位置 してお り、総 面積 は30000言 で あ る。北 朝鮮 に位置 してい るため詳細 はわか らないが、 中心 区域 の一部建 物 を若干東倶1に移 し、1993年 に復元工事がお こなわれた。
本来 の木塔l■には人角七重石塔 を復元 し、3金堂 の場所 に、 中金堂 には普光殿、西金堂 に は極 楽殿 、東金堂 には龍華殿 を復元 した。 回廊 も復 元 し、 内部領域 を確 実 に区分 していて 入 日の南 門か ら、進入 で きる ようになっていて正面性 を強調 してい る。
② 慶チH・ 皇龍寺址
史跡 第6号に指定 され た皇龍寺址 は、慶 尚北道慶州市 九黄洞320‑1番地 に位 置 していて、
指 定面積 が380087∬ の新羅時代 の代表的な寺 院であ る。
真興 王代 で あ る569年 に一次 的 な寺域 造成 を終 え、584年に丈六尊像 を安置 した中金堂 と、
東・西 金 堂 を完 工 した。 以 降、善徳女 王代 で あ る645年に 九重木塔 を造成 し、全体 的 な構 成 が完 了 した。 そ の後、家古 の侵入で高麗 時代 であ る1238年に完全 に焼 失 した後、再建 され ず に次 第 に民家 と耕作 地 にな り、近年 まで放置 されていた29。
1966年 に心礎 石 に対す る調査が初 めてお こなわれ、 1969年 に皇龍寺址 の規模 の確 認 と学 術 資料確 保 の ため に、文化財管理局 と梨花女子大学校博 物館 が共 同で講 堂址 の一部 を調査 した。 その後 、1976年 か ら1983年 にか けて発掘調査 が な され、 その実態 が明 らか になって
第 19図
定陵寺址全景
募
第20図
復元 された普光殿
第21図
皇龍寺木塔址の毀損 した盛土面 と階段 第22図
亦皇寺 か らの進入
韓 日古代寺院の整備方法研究
ぃ った30。
1981年 か らは継続 的 な整備事 業 を通 じて、現在 の ような姿 に整備 された。 内部 の建物址 は基壇 を整形 した後 に盛 土 して、芝生 を敷 き、礎石 のあ る場所 は露 出 して展示 してい る。
木塔址 も発 掘 調 査 後、覆土 し、芝生 を敷 いたが、 当初 は階段 が なか ったため、傾斜面 の一 部 が毀 損 した。最 近 、別途の階段 施設 を設置 した。 ただ、現在 の皇龍寺址 は側面や逆方行 か ら進入す るため、木塔址 の全体 的 な位 置 はそれ ほ ど明確 で はない。 また、皇龍寺址 の整 備 で使 用 され た芝生 は、以後、慶州 を含 めたい くつか の追跡整備 で使用 されたが、お びた だ しい管理費用がかか り、維持 において問題 を抱 えている。
側 面進入や逆行進入 は、皇龍寺 が もつ 中心軸線 の把握 を困難 に し、 同時 に寺域全体 の明 確 な境 界 設 定 が な されず、領域 が不分 明 に区画 されているため、観覧客 の大部分 は南 門l■
や鐘楼、経楼l■まで行か ない。進入路 と金堂l■周辺 の通行路 は、真砂土で舗装 されている。
1999年 か ら慶州市 では、「皇龍寺址遺物展示館」建設 のために芥皇寺東辺 に敷地 を準備 し、
発 掘 調査 に着手 した。 しか し、 ここで九責洞苑池が確 認 され、現在 の ところ遺物展示館 の 建 設 自体が不透明である。
ひ とつ惜 しい点 は、皇龍寺址 の進入 が、狭 い道路 に設置 され た小 さい案 内板 を見 なが ら 進 み、 かつ て の 国立慶州文化財研 究所 を過 ぎて、金堂llLと木塔址 の 間 を進入 してい た もの が 、 国立慶 州文化 財研 究所 が 閉鎖 され、芥皇寺前 に大 きな駐車場 が設 け られた こ とか ら、
寺 院 の本 来 の進 入 方 向か ら逆 方 向 に進入 しなけれ ばな らな くなった とい う問題 点 を持 って い る。 これ に よって、本来、皇龍寺址 が もつ正面性 や 中心軸線 な どを容験 す るこ とが一層 難 し くなった。
(3)1塔
1金堂式 :扶餘定林 寺址史跡 第301号で あ る定林 寺址 は、忠清 南 道扶 餘 郡東 南里254番地 に位 置 し、指 定面積 は 59242∬ であ る。扶餘 の都心 に位置 していて交通の便 が よ く、寺域 内には国宝 第9号であ る 定林寺址 五重 石塔 が あ る。創建 時期 は正確 に分 か らないが、 おお むね百済 の涸洸 遷都 後 で あ る6世紀 中〜後半 と推 定 され、以後高麗時代 である1028年 に重建 された。
発掘調 査 は 日本 に よる植民地統治時代 には じめて実施 され、以後 1979年 か ら1980年 まで 忠 南大学校博物館 に よって寺址全域 に対す る調査が実施 され、1992年 には国光大学校博物 館 が保 護 閣建 設 のため に講堂l■を調査 した。寺域 に対す る発掘調査 が完 了 した後 、苑池 に 対す る調査 を1980年 か ら1984年 まで忠南大学校博物館 と扶餘博物館 が共 同でお こなった。
寺域 の整備 は1982年 か ら1986年 と、1987年 か ら1996年 にか けて実施 された。整備 内容 は 遺構整備 、お よび塀 設置、排水路、案 内板 設置 な どで、特 に1993年 には石仏保護 閣が別途 に設置 され た。建物址 の整備 は、芝生敷 きで垣根 に取 り囲 まれてお り、寺域 の正確 な範 囲 の把握が可能である。
Э75
金 哲 主・卓 京 猫
石塔 の場所 は発掘調査 の結果、木塔址 とい う意見が提示 され もしたが税、現在では真否 は 分か らない。保 護 閣がつ くられ る前 は、石塔 が寺域 全体 か らは っ き り確 認 され たが 、保 護 閣建 設 以後 、背 景 に調和 してそ の強調 度 は落 ちた。 しか し、石塔 と保 護 閣が視 覚 上連 結 さ れ るこ とで 中心軸線 はむ しろ強調 された。
2006年には定林寺址博物館 が建設 され、それ まで中心軸上 に位置す る南 門か ら入 ってい た のが 、博 物館 の広場 を通 って迂 回 して進入す る ようにな り、正面性 は落 ちた。 ただ し、
最近 国立文化 財研 究所 に よって定林寺址 整備事 業32が完 了 し、今後 、寺 院全域 が復 元 されれ ば、 この ような正面性 は再 び蘇 るもの と判断 され る。
(4)3院構成 (1塔 1金堂式):益山弥勒 寺址
史跡 第150号 で あ る弥勒 寺llIは、全羅北道益 山市金馬面箕 陽里32‑2番地 に位 置 し、規模 は 13384699∬で あ る。龍華 山 を背景 に南 向 し、 国立文化財研 究所 と国立扶餘文化財研 究所 に よって1974年 か ら2000年 まで発掘調査が なされ、1塔 1金堂、3院型式 の伽藍配置 をは じめ と して数多 くの調査成果 を蓄積 した。百済の武王代、7世紀初 め につ くられ、17世 紀 頃閉鎖 された もの と推 定 され る33。
弥勒寺j■の整備 は1972年 の憧竿支柱 の補修 に始 ま り、現在 も国立文化財研 究所 に よって 石碁が補4多整備 されてい る。主要建物址 の整備 は、基壇石 を整備 したの ち盛土 して芝生 を
第23図
定林寺址全景 第24図
定林寺l■博物館
第25図
弥勒寺金堂の整備 と復元 された東塔 第26図
遺物展示館
韓 日古代寺院の整備方法研究
敷 い た。礎 石 が残 って い る部分 は、礎 石 の上部 を露 出 して展 示 して い る。各建物l■の 間は 真砂上 で舗装 し、歩行路 をつ くり、一部木材 で観 覧路 を設置 した。
弥勒 寺址 の整備 で特 に注 目され るの は、 1993年 に復元 され た東塔 であ る。 当時の多 くの 部材 が確 認 され た もの の、使 用 部位 の わか る事 例 は極 め て少 な く、現代 式 に新 しく塔 を復 元 したが 、 そ の様 式 と形態 につ いて は現 在 まで意 見 の一致 をみ ない。 ただ し、現在残 って い る韓 国の古代寺 院址 で、建築物 (建造物)を復 元 した事例 として後代 まで残 る ものであ り、
今後 この ような復 元作 業 は慎重 にお こなわれ なければな らない こ とを示 してい る。
弥勒 寺址 は南 向 した正 面広場 に大 型駐 車場 が あ り、 1997年 に開館 した弥勒寺Ar̲遺物展示 館 が寺址 の西辺 に位 置 して い る。 この た め大 部 分 の訪 問客 は遺物展 示館 が位 置 してい る西 辺 か ら入 り、観覧路 に従 い西塔 を過 ぎてか ら中心 区域 に入 ることにな り、定林寺址 と同様、
本 来の空 間感 と象徴性 を十分 に蘇 らせ てはいない。
(5)2塔 1金堂式 :慶州感恩寺址
史蹟 第31号で あ る感恩寺址 は、慶 尚北道慶州市 陽北面龍 当里一帯 に位 置 していて、規模 は3580笛 であ る。新羅第30代 文武王代 に創建 されは じめ、682年 に重建 された寺 院である。
創 建 後 、高麗 末 まで は寺勢 が維 持 され た ようだが、 以後衰 退 し、雑 草 が生 い茂 った廃寺 となった。発掘調査 は1959年 に金堂 を中心 とした伽藍配置確 認 のための1次調査 が始 ま り、
1979年 の2次調査 と1982年 度 の3次調査 を通 じて寺域 の全体 的 な調査 を完了 した。
寺域 に姑 す る整備 は、 1971年 と1980年 か ら1981年 まで鉄柵 お よび案 内板 工事 、石築 お よ び排水路 な どの整備 がお こなわれた。1982年 と1998年 には寺址 の中心遺構 を整備 し、1997 年 には進入路 と駐 車場 を設置 した34。 2004年 には各建物l■を連結す る木材 デ ッキが設置 され、
2006年 には中央か らの進入が可能なように傾斜地 に階段 とデ ッキを設置 し、入 口にも大型 駐車場 を設置 して観覧の使宜性 を図った。
建物址別 に細か く整備内容 をみてい くと、金堂址 は基壇の面石 を立てて外郭部 を盛土 し たのち芝生 を敷 き、基壇の内部は下部構造 を露出させて整備 した。講堂址 も基壇部を整備 して、礎石 を露出させた後、芝生 を敷いた。中門址 と回廊址 は講堂址 と同様の整備 をした
第28図
中央進入階段および駐車場 第27図
感恩寺l■整備の全景
377
金 哲 主・卓 京 猫
が 、一部分 は盛 土 を して芝生 を敷 い た。 また、金堂l■と回廊llLの周辺 には、木 の杭 を打 っ て ロープ を結 んだ進入防止用の柵 を設置 して建物址周辺 を保護 した。
感恩寺址の整備 も芝生敷 きが中心で、皇龍寺址 と同じく管理に困難がある。2006年 まで は金堂l■の側面か ら入っていたのが、現在は正面中央部から入れるようにな り、以前の進 入方法よりはるかに改善された。これは進入時に2塔 1金堂のうち、金堂が一呑先に視角に 入るように配慮 したものと判断され、このような方法によって、感恩寺が もっている本来 の空間感を忠実に感 じることができると判断される。
2。 日本 の寺 院
日本の遺跡整備の基本法令である「史跡名勝天然記念物保護法」は、1897年 に制定され た「古社寺保存法」 を母胎 として1919年に制定された。産業発展にともなう破壊に対する 保存が中心のこの法律は、1950年にい くつかの法律 と統合され、「文化財保護法」が制定さ れた。
この ような「文化財保 護法」 の基本原則 は保存 を主 とす る もので、本格 的 な整備事業 は 1960年 代 か ら全 国にお ける大規模 な発掘調査 に ともない、「風土記 の丘」事業 をは じめ とし て全 国の良 く残 っている古墳 と寺l■を中心 に開始 された。
この流 れ は1990年代 に入 り、「ふ る さ と歴 史の広場」事 業が は じま り、文化庁 の方針 が、
第2表
日本における遺跡の保存整備の流れ
糊 朧 一
地域 にお ける 文化財広域整備計画
事業の記録及び経過の公開
史跡等の保存及び活用のための調査研究
土地等の公有化
事業成果の公表 整備報告書の発干1
韓 日古代寺院の整備方法研究
遺跡 内で制 限 され て い た表 現 を一般 市 民 に よ り分 か りやす く理解 させ るた め の建 物 の復 元 を許容す る方 向 に転換 した。 その後、全 国各地 で復元がお こなわれ は じめ、現在 は平城宮 大極殿 も復元 されてい る。
日本 の古代寺 院の事 例 につ いて は、 日本 の伽藍配置型式 に基 づ いて、飛 鳥寺式、 四天王 寺式 、薬 師寺 式 、法 隆寺 式 、 川 原寺 式 の整備 事例 を分析 し、 そ れぞ れ の遺 跡 整備 につ い て 検討 してい こう。
(1)飛鳥寺式 :飛鳥寺
奈 良県 高市 郡 明 日香 村 に位 置 し、蘇 我氏 の個 人的 な寺 院 で あ り、 か つ 日本最 古 の寺 院で あ る法興寺 の後 身であ る。593年に塔 の心礎 に仏舎利 を奉献 し、596年頃 に完 成 した。 飛 鳥 寺 式 と呼 ばれ る伽 藍 配置 は、1塔を中心 に東 ・西 。中の3金堂が 配置 された もので、高句麗 の清 岩里寺址 と類似 す るが、瓦 当の文様 は百済の瓦 当文様 と類似す る。606年に鞍作止利が 作 った釈 迦如 来像 (飛鳥大仏
)が
現在 も金堂 の 中に安置 され てい る。1955年に発掘調査 が なされ、 1966年 に国の史跡 に指定 された。
本 来 の 中金堂址 に は、江 戸 時代 に建 て られ た本 堂が あ り、 そ れが現 在 で は主仏 堂 の役 割 を してい る。 また、 現在 の本堂 に違 なる建物 には、発掘調査 当時 の写真 や遺物 な どが簡単 に展示 されてい る。塔址 は心柱 の位 置 に杭 を打 って表示 してあ る。講 堂址 には民家が建 っ てお り、一部発掘調査 が な されてい る ようである。垣 で囲 まれた内部 は整備 されてい るが、
東・ 西 金 堂 の場 所 は垣 の外 に位 置 して いて畑 と して利 用 され、個 人所 有 財 産 に対 す る問題 が 日本 に もあるこ とが わか る。
江 戸時代 に個 人 に所有権 が移 った ようで あ る。現在 は有料 で運営 され て いて、入 口で入 場料 を取 ってい る。
(2)四天王寺式 :四天王寺・ 山田寺址
① 四天王寺
大 阪市 天王寺 区 に位 置 して いて、 聖徳 太子 が建 立 した七 大寺 院 中 の一 つ と して知 られ て い る。『日本書紀 』 に よれ ば593年に建 て られ は じめた。 この四天王寺 は蘇 我馬子 の法興寺
第30図
畑 に利用 されてい る東 。西金堂址 第29図
飛鳥寺木塔l■の表示木
う79
金 哲 主・卓 京 柏
(飛鳥寺)と比較 されるが、 これは王室寺 院 と貴族寺院の対立 とい う側面か らそれぞれ 建立 されたためである。伽藍配置 は各廷物 址が南か ら北 に一直線上 に配置す る四天王 寺式伽藍配置で、法隆寺の前身であ る若草 伽藍の配置 も四天王寺式 として知 られてい る。古代か ら幾度 もの火災 をへ て、今の中 心伽藍 は第二次世界大戦後 に発掘調査がお こなわれ、1957年か ら1963年にかけて鉄筋 コンク リー トで完全 に復元 された。当時、
設計 は「四天王寺伽藍復興建築協議会」が担当 し、1965年には 日本建築協議会賞 を受 賞 も した。
当初、遺構 の大部分は盛土 され、地下 に埋 まっていたが、東門址だけ遺構 をガラス張 り にして一部展示 している。東門の外郭には宝物館 を別途建設 して、主要遺物 などを常設展 示 している。西問周辺の龍井 は保護廓 を別途 につ くってある。復元された建物址の間は真 砂上で舗装 されているが、別途 に観覧導線 を設けて訪聞客を誘導 している。四天王寺 も飛
第32図
四天王寺全景 第33図
東門l■の展示遺構 第31図
若草伽藍位置図
第34図
山田寺の案内板 第35図
整備 された金堂 。木塔址
韓 日古代寺院の整備方法研究
鳥寺 と同 じく入場料金を取ってお り、それ以外 に宝物館 も別途の入場料 を徴収 している。
② 山田寺址
奈良県桜井市 山田に位置する。蘇我倉 山田石川麻 呂が641年に造営 を開始 した個人的な寺 院で、11世紀の火災によって廃れた と推定 されている。中門―塔一金堂―講堂が南か ら北 に一直線 をなす四天王寺式伽藍配置である。発掘調査 による東回廊の連子窓の発見 によ り、
法隆寺 よ り古いことが明 らか にな り、回廊 の礎石 と講堂址 出土の銅板五尊像、その東側 出 土の宝蔵址 などが確認 された35。 発見 された東回廊の窓は、近 くに位置する飛鳥資料館 に 復元 されている。
発掘調査以後、史跡公園に整備 され、北側道路 にそって講堂址北側 に駐車場が設けられ、
北側か ら南側 に下 りつつ、回廊lILと宝蔵址 をみて、南門か ら入る形式 となっている。特 に、
講堂入口には復元図が描かれ、一般の人の理解 を助けている。建物址 はおおむね80cmほ ど 盛土 した後、その上 に他の遺跡 とは異 な り、礎石位置 を表示せずに芝生 を敷いている。代 わ りにそれぞれの建物址前 には発掘調査 当時の写真 と説明が書かれた陶製の案内板があっ て、本来の姿 を想像で きるようにしている。木塔l■、金堂上面に上がる階段 は古 く、使用 困難な状態ではあるが、壁体が出土 した回廊 区域 は比較的詳細 に下部構造が表現 されてい る。外郭 にはコンクリー トで排水路 を設置 し、内部の水 を排水 していて、韓国の排水施設 とは多少異なる。
現在、山田寺址 は文化庁が管理 しているが、講堂址北辺 に山田寺 とい う現代の寺院が位 置 していて、管理や遺物の国家帰属問題が円満に解決 していない場合がある。
近 くに飛鳥資料館が位置 し、飛鳥地域 の遺構や出土遺物 についての常設展示が されてい て、特 に山田寺の壁体 を復元 して展示 している。
(3)薬師寺式 :本 薬師寺JI・ 薬師寺
① 本薬師寺llL
橿原市城殿 町に位置 し、694年に完成 した藤原京条坊内の東南部 に建立 された。F日本書 紀』によれば、680年代 に天武天皇が皇后 (後の持統天皇)の病の治療のために発願 して建立
したとする。1952年に特別史跡に指定 され、現在は橿原市教育委員会が管理 している。
1976年か ら始 まった発掘調査で1塔 2金堂式の伽藍配置が確認 され、特 に、710年に移建 された薬師寺 とほぼ同 じ規模、大 きさが確認 されたが、中門 と回廊 には差異があることも 明 らかになった。移建後 も10世紀頃 までは存続 したが、その後廃寺 となった。現在、金堂
l■に本薬師寺 とい う小 さい建物が法灯 を維持 しているが、本遺跡 とは特 に関係 もない とい う。奈良の薬師寺 と区分するために前 に「本」の字をつけている。
金堂の礎石 は、現在の本薬師寺の庭 に露 出展示 されている。本来私有地であったため、
この ように金堂JIの中に建物が入 って しまった との ことで、 日本では私有地の発掘調査は
金 哲 主・卓 京 相
住民 の許可 を得 てお こない、 そ の結果 に よって敷 地 を買 入 、整備 をお こな う。西塔址 は傾 斜 面 を整備 後 、 芝生 を敷 い て上面 に心礎 石 を露 出 させ てい る。東塔址 は心礎 石 とそ の ほか の礎石が露 出 していて、その領域 は低 い潅木 を植 えて示 してい る。外 部 は傾斜 面 を整備 し た後、芝生 を敷 いてい る。 しか し講堂l■と推 定 され る地域 は、現在民家が位 置 していて発 掘 され ない まま現状 を維持 してい る。
全体 的 な寺域 内部 は、建物址 を除 けば耕作 地 となっていて、別途の観 覧導線 は設 け られ てい ない。
②
薬師寺
奈良県奈良市西 ノ京町に位置 していて、1998年 にユ ネスコ世界文化遺産 に登録 された。
710年に平城京遷都 にともなって、本薬師寺が飛鳥か ら平城京の現所在地に移転 されたもの である。
伽藍配置は本薬師寺 と同 じく中央 に金堂 をお き、金堂の前 に東 。西訳塔 を、金堂の後に 講堂を、そ して一郭 を巡る回廊 を配置 している。 しか し973年の火災、1528年の筒井順興の 兵火で多 くの建物が焼失 した。そのため当時の建物 は東塔 を残すのみである。1960年代以 降「白鳳伽藍復興事業」が進め られ、1976年に金堂が再建 されたのを皮切 りに、西門、中 門、回廊、大講堂などが順次再建 された。当初金堂l■には18世紀の建物があったが、今は
第36図
現在の本薬師寺址および金堂の礎石 第37図
東塔llL
第38図
薬師寺全景 第39図
境 内の歩行路
韓 日古代寺院の整備方法研究
興福 寺 に移 され、現 在 は臨時 の金堂 として使用 され、過去 の建物 をその まま活用す る事例 となってい る。注 目され るの は、 この ような復 元事 業が国家予算で はな く本寺院 自体 の予 算 でお こなわれて い る こ とである。
各建 物址 は歩行路 が あ って、訪 問客 を誘導 して い る。東塔 の構 造安全 問題 のため、2009 年か ら解体4笏理す る予定 になっている。入 口では入場 料 を徴収 してい る。
(4)法隆寺式 :法隆寺、吉備池廃寺
① 法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町に位置す る。本来、現在の法隆寺前 にあった若草伽藍の創建が607年 であるが、670年に焼失 した後、今の法隆寺が再建 された とされる。
現存す る世界最古の木造建築物である金堂、五重塔 な どがある西院 と、夢殿 などがある 東院に区分 され、その中間地域 に展示館である大宝蔵院が位置 している。特 に西院は木塔 と金堂が並列配置 されていて、後ろに講堂が、その周辺 を「凸」字形回廊が巡っている。
全て国宝 に指定 されている。1993年には法隆寺の建築物群が法起寺 とともにユネス コ世界 文化遺産に登録 された。
法隆寺地域 の国宝・重要文化財建造物 は、「奈良県文化財保存事務所法隆寺出張所」 によ って主管 され、1895年か ら今 まで学術的調査 を実施 しなが ら、その結果にもとづいて必要 な保存修理 を持続的にお こなっている。 同時 に4多理後余った本部材 も全て保管 して、当時 の建築技術や構造技術 などに対する調査研究を継続 している。
法隆寺 は既存の建築物群が残 っているため、新 たに整備するとい うよりは持続性 をもっ た維持補修 とい う性格が比較的他の遺跡に比べて明確である。 また展示館、茶室などの運 営を通 じて、訪ねて くる訪問客に観光の場 と休憩の場 を提供 し、入場料を徴収 している。
② 吉備池廃寺
奈良県桜井市吉備 に位置 している。1997年の発掘調査の結果、639年に舒明天皇によって 建て られた百済大寺 と推定 され、最 も古い法隆寺式伽藍配置である可能性が高い。
金堂 と塔の両基壇 間の距離は846mで、吉備池廃寺の塔が大官大寺の塔基壇 と似た規模の
第40図
法隆寺金堂 と木塔 第41図
奈良県文化財保存事務所法隆寺出張所
金 哲 主・卓 京 相
九重碁 であ った可能性 が考 え られてい る。 なお回廊 は一辺100m以上 で ある。発掘 調査 に よ って出土 した瓦 当の量が少 な く、短期 間の運営 と判 断 されてい る36。
現 在 の吉備 池 は300年 前 につ くられた とされ、その前 に位 置す る金堂址 と木塔l■は若干高 く覆土 され、 そ の位 置 をわず か に知 る こ とがで きる。 しか し、そ れ さえ藪 が生 い茂 って長 い 間管理 され てい ない もの と判 断 され る。寺 院址 の位 置 も、 アパ ー トや工場 が近 くにあっ て、他 の寺 院址 とは異 な り接近が容易 ではない。
(5)川原寺式 :川 原寺址37
奈 良県 高市郡 明 日香村 に位置 していて、1921年 に史跡 に指定 され た。指定面積 は55569∬
で、7世紀後半 に創建 された。下層 に川原宮 と推定 され る遺構 が残存 している。1957年 か ら は じまった発掘調査 で1塔 2金堂 とい う独特 な伽藍配置が確認 され た。
道路 を間 に挟 んで向か い側 に橘寺 があ り、 門址 を過 ぎる と塔址 と西金堂址 が並列 して位 置 してい る。ttl■ と連結 された回廊l■はFRPを使用 して礎石 の複製 品 を床面 に置いてお り、
一部上面 は三和上 で舗装 した。 回廊址 は整備 された時期 によって傾斜 面が形成 されている。
塔址 は本 来飛 鳥時代 の建 築物 で、 もともとは地下 に心礎 石 が あ った とされ るが鎌 倉 時代 に改変 され た とす る。基壇 部 は凝灰 岩 を使用 し、新 た に復 元 して いて上面 には心礎 石 と四 天柱礎石、側柱礎石 を設置 しその位置 を標示 した。側柱礎石 (外陣)の外側 は、板石 で床 面 を舗装 してい る。
西 金 堂址 は基壇 部 を整備 し、 その上部 は盛土 して芝生 を敷 いた。 西金堂l■と連結 された
第43図
木塔l■
第42図
吉備池廃寺遺構配置図
第44図
金堂ll
韓 日古代寺院の整備方法研究
回廊址 は礎石 を設置 し、上部面の一部 を三和土で舗装 した① (6)無塔式 :三河 国分尼寺址38
国分尼 寺 は、奈 良時代 であ る741年 に聖武天皇が発願 した「国分寺建 立 の詔」 に よって、
各 地域 に国分 寺 と して建 て られ た。 三河 国分尼寺址 は三河 の国衛 に近 い人幡台地 の東北端 に位置 してい る。
1967年 に実施 された発掘調査 の結果 、金堂 の礎石 な どが発見 され、南北一直線 に並 んだ 伽 藍 配置 が確 認 され た。寺域 は全 国の国分尼寺l■中で最大 規模 で あ る。 また南狽1の中 門か ら北側 の講堂 に続 く複式 回廊 は、他 に類例 を探 す こ とが で きない ものであ る。 史跡公 園 と して整備 され、2005年 にオープ ンした。
整備 内容 は南側 の正面性 を基本 と して、 中門 と回廊 の一部 は建物 を復 元 し、金堂l■・講 堂址 ・経蔵址 ・鐘楼址 ・回廊址 ・尼坊l■・南大 門な どの建物址 は平面 的 に標示 した。南大 門に取 り付 く築地 は、植物 を植 えて標示 した。
活用 的 な側面 で は南 大 門に近接 して、教育 。学 習施設 を設置 し、 中央伽藍 の南西側 には国 分寺l■お よび国府址 を含めた地形縮小模型 を設 けている。
これ以外 に も日本で は、法起寺式、観世音寺式 な どの伽藍配置 を もった寺 院址 があ るが、
本稿 で扱 う整備事例 に該当 しないため除外 した。
第45図
川原寺址全景
,̀ ―│ │ ョ ,iェ
第46図
木塔址
Jp4
― ‐i= [ェ
・4
第47図
三河国分尼寺復元 された中門 第48図
回廊址の整備
Э85
金 哲 主・卓 京 柏
第 3表
韓国における古代寺院の類型による整備の分析
3.小
結以上、韓 。日古代寺院を形式別にわけ、整備内容 を検討 し、古代伽藍の特徴 を基準 にみて きた。その結果は次のように整理す ることがで きる。
韓国の遺跡地の整備 は、発掘 された遺跡の保存 による整備が大部分 を占めていて、その 方法は基壇部把握、礎石露出展示、芝生敷 きなどである。例外 的に北朝鮮の定陵寺址 は主 要建物群 を復元 したが、 これは北朝鮮の特殊 な事情 によるもの と判断される。韓国で古代 建物 に姑す る復元 は弥勒寺llL東塔の復元 によってわかるように、 まだ古代建物の復元 と関 連 して議論の余地が残 っている。ただ し、最近、古代建築の研究が進展 して きてお り、今 後その研究成果を通 じてより忠実な古代建築物の復元 も可能であろうと判断される。
日本の場合、韓国 と類似 した整備事例 もみ られるが、同 じ遺跡地内において も韓国よ り 多様 な方法で遺構 の標示 をしていて、復元事例 も多い。 また一部の寺院で古代寺院の主要 要素である塔、正面性、中心軸線 などが活か された整備がなされている点は、韓国の古代 寺院址整備 において も今後、考慮 しなければならない点 と判断される。
寺院類型 対象寺院 整備内容 備 考
1塔3金堂 式
定陵寺l■
○一部の建物を東側に移築復元
○本来の人角木塔は人角七重石塔に復元
03金堂は普光殿(中金堂)、極楽殿(西金堂)、
龍幸殿(東金堂)として復元
○塔 を復元、その象徴性 を蘇 らせ る
皇龍 寺 址
○建物址 :基 壇整備後、盛土、芝生敷き(礎 石露出)
○通行路:真砂土舗装
○特色のない単純な保存重視の整備
○各遺構の形態把握可能
○寺域全体の境界が不明確で認識が難しい
○北側に駐車場があるため北側から進入
○南側進入用の導線は修正が必要
1碁 1金堂 式
定 林 寺 址
○碁は既存の石塔が存在
○金堂址は之生を敷いて遺構標示
○金堂址は高麗時代石仏保護廓建立
○苑池復元整備
○金堂址 回廊址の礎石位置未標示
○講堂址の保護閣によってユ塔 l金 堂がみ せる視覚的正面性弱化
○展示館建設によって迂回して進入
弥勒寺址
○中院金堂址:基壇部整備後、盛土、芝生敷き
○東院・西院金堂址:基壇面石整備
○木塔址:二重基壇形に盛上した後、芝生敷き
○回廊址:基壇部整備、盛土後芝生敷き
○講堂址:基壇部整備、内部盛土後、芝生敷き
○門址:基壇部整備、盛土後芝生敷き
○東塔復元、西塔は解体修理中
○各建物址の階段再整備
○基壇部整備(礎石露出)と芝生敷き
○単純な保存中心の整備
○東塔の復元は空間的理解の一助に
O芝生敷きの風化現象が深刻
○露出した礎石が時間の経過によって沈下
○展示館の位置の関係で、偏向進入
2塔 1金堂式 感恩寺址
○中央進入可能(階段とデッキ設置)
○金堂址:外郭部整備後、芝生敷き 内部遺構露出整備
○講堂址:基壇部整備後、芝生敷き(礎石露出)
○中門址・回廊址:基壇部整備後、芝生敷き
○各建物址間にデッキ設置により探訪導線誘導
○木塔址:二重基壇形に盛土した後、芝生敷き
○回廊址:基壇部整備、盛土後之生敷き
○講堂址:基壇部整備、内部盛土後、芝生敷き
○門址:基壇部整備、盛土後之生敷き
○東塔復元、西塔は解体修理中
○各建物址の階段再整備
○基壇部整備と芝生敷き│こよる保存を中心 とした整備
○既存の迂回進入を中央進入に転換、空間 感体験極大化