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Title
古代の思想と平城宮第一次大極殿院の整備・活用のあり方
Author(s)
内田, 和伸
Citation
内田和伸:古代都市の空間構造と思想-その現代的展開を目指して
(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol.28) pp.107-117
Issue Date
2009-03-27
Description
2006年11月12日(日)奈良女子大学文学部にて開催された国際シン
ポジウム「古代都市の空間構造と思想:その現代的展開をめざして
」の講演内容。英文の講演内容URI:
http://hdl.handle.net/10935/3159
URL
http://hdl.handle.net/10935/3158
Textversion
publisher
古代 の思想 と平城宮第一次大極殿院の整備 ・活用のあ り方
内田 和 伸 (奈良文化財研究所) 宮殿 の造営やそ こで行われ る年 中行事 には天 の思想が関わ っていた。 しか し、遺跡 の復元整 備事業 の中ではそ うした思想が充分 に表現で きない場合がある。 また、宮殿で行われていた年 中行事 などの儀式 の再現 を遺跡 の活用 メニューに しよ うと した場合、本来的意義 は現代社会 に 馴染 まないため、新 たな意義付 けが必要 となることを述べ る。 こうした儀式 は時代 とともに場 所や意義 も変えて きたか らである。Ⅰ
古代 中国の宇宙観 天の思想 古代 中国の宇宙観 については浅野裕一氏 の 『古代 中国の宇宙論』1)が詳 しく、 この章では主 にこれを参考 に概要 を記す ことにす る。儒教経典四書五経 の五経 には 『易経』
『書経 (尚書)』 『詩経』
『礼記』
『春秋』がある。 西周 の時代 を扱 う 『書経』
『詩経』 には上天 または上帝 と呼ば れ る神が登場 し、周王朝 の人 々に信 じられた ことが窺え る。 その神、上帝 は天界 にある絶対神 であって、周の王 は父 なる上帝の子 (天子) と して、上帝 の命を受 けて地上の統治を代行す る。 天子 は万民 を代表 して定 め られた期 日通 りに酒 ・穀物 ・玉 ・犠牲 などを捧 げて盛大 に上帝 を肥 る。 上帝 は天子 の忠勤ぶ りをみて、御嘉賞 として適時 に降雨を もた らし、穀物 の豊穣や家畜 の 繁殖を保証す る。 もし、天子 の供物 が粗悪だ った り、祭祀が期 日に遅れ るなど天子 に怠慢があ れば懲罰 と して干魅 や暴風 などの災 いを降す。 こうした天象 と人事が関係す るとい う天人相関 思想 は儒家の中で継承 されていった。 東周 の時代 になると、周王室 には史官 とい う王 の言動 を記録す る役職が置かれた。史官 は過 去の歴史的教訓か ら為政を戒 めた り、有職故実 の知識を活か して儀式 を進 めた。 また、年代記 の必要か ら日月 と五惑星 (七曜) の軌道計算や天文観測 を自 ら行 い、暦 を作 って、 その暦 を基 準 に季節 に応 じた農作業 の監督 ・指導 にあた った。洋の東西を問わず農耕社会では正 しい四時 を知 ることは重要 な ことであ った。季節 ごとの適切 な日照 と時宜 を得 た風雨 は作物 に順調 な生 育 と豊穣 を もた らすが、為政者が正確 な四時を民 に示せなければ農事 に狂 いが生 じ、作物 の不 作 など不祥 が生 じることになるか らであ る。 このため、『礼記』 の月令 (毎月下 され る政令) には月 ごとの天象や王の為すべ き事、農事 などが記 された。史官 と似 た職務 に従事 したのが警 かん 官 と呼ばれ る盲人 の楽人で、音楽 を司 った。天子 に詩が献上 され ると、 それに曲をつ けて天子 に聞かせ、 その曲 目に込 め られた風刺 を説 いて天子 の為政 を戒 めた。 もともと天人相関思想 は人間の勝手 な思 いこみで作 った ものであるか ら、天子が きちん と集 配 を行 って も、災害が続 くことがあ る。史官や暫官 の関心事 は、人間社会が秩序正 しく運営 さ れ るよ う、人間社会 を含む宇宙が一定 の理法の もとに秩序 ある運行 をす る法則性 を発見す るこ とにあ った。史宮 は、北極星 を中心 と した一定速度 の衆星 の回転や、七曜の運行、四季 の推移など数学的計算 の可能 な規則性 を発見 した。一方、警官 は宇宙の規則性 を告 げるもの と して数 学的計算 の可能 な音階に着 目 した。 どち らもこの規則性 を宇宙 に存在す る理法 と捉え、 それを 天道 と称 した。天道 に基づいて、史官 は占星術を使 い、警官 は管楽器 を吹 いてその音色を聞 き、 それぞれ未来や吉凶などを占った。 こうして、宇宙の変化 を上帝 の意志 によ ってのみ説明す る 世界観 を脱 し、宇宙 にある理法 によ って説明す る世界観 (天道思想) を生み出 した。 気 の世界観 東周 の春秋時代の各国の歴史物語 を扱 う 『国語』や、魯を中心 と した春秋時代 の歴史を記す 『春秋左氏伝』 は、 どち らも史官 らによる史書であるが、 これ らには天道思想だけでな く、「気」 の世界観がみ られる。春の到来 とともに陽炎 は大地か ら湧 き上が り、水蒸気 は立 ち上 って雲 と な り、雨や雪 となって降 り、地上 や地下 の水 とな って循環す る。史宮 は天文だけではな く、気 象 も観測対象 と したため、天地 の間を陽気 と陰気 が循環す ると考 え るよ うにな った。『礼記』 月令 に 「天気上騰、地気下降」 とある。 す うえん 陰陽 と結 びっいた気 の世界観 は、戦国時代後期 になると、那桁 の五徳終始説 のよ うに万物 を 構成す る木 ・火 ・土 ・金 ・水 の五行 とも結合す る。 その結果、天地や人間を含む万物 は気で構 成 されてお り、万物 の差異 は陰陽の気 や五行の気 の混 じり具合 に由来 し、 その生成死滅 は気 の 離合集散 の過程で生 じる一時的な現象 と考え られた。 こうして世界 の森羅万象 は天地 の理法や 気 の循環、気 の離合集散 とい う理論 で 自然哲学風 に解釈 され るよ うにな った。 気 は人間の気息や、それ に伴 って発せ られ る言葉 に も含 まれ ると考 え られ、呪誼 の言葉 は気 の循環 に乗 って天上界 に届 き、相手 に天罰が下 され ると考え られた。管楽器 などで吹奏す る音 が呪術 に用 い られ ることも音律が気 とみなされたか らである。言葉 も音楽 も人間の心か ら発せ られ るため、気 は四書の一つ 『孟子』 によって高度 な倫理的精神性 を付加 されてい くことにな る。 このよ うに して人間内部 の精神的な気 は、外界 の物質的な気 と相互 に影響 し交流 し合え ると 考 え られ るよ うになる。 識緯思想2) 従来、儒家 は積極的に怪力乱神 を語 ることのない、合理的精神 を もっていたが、前漢の時代 にな ると、図誠 の書 (予言書)や経書 (四書五経 のよ うな基本 テキス トを経書 と呼ぶが、 その 経書 を解釈 す るための書) を重視 し (誠緯思想)、祥瑞や災異 に天 の上帝 の意志 を読 み取 ろ う と した (災異思想)。前述 の天 の思想 と気 の世界観 を折衷す る形 で災異思想 を説 いたのが前漢 武帝期 に活躍 した儒者、董仲野である。 秦代 には皇帝 を上帝 と同一視 した解釈がなされたが、 彼 は、皇帝 は上帝 の徳 に等 しいとす る反面、上帝 の子 としての天子 であると解釈 を し、その矛 盾 を経書 と経書 の両面か ら説明を した。 これによ って儒教 は皇帝権力 と結 びつ き、専制国家体 制 を支 え るイデオ ロギーとな った。君主権 の強大化が始皇帝 のよ うな専制君主 の横暴 を招 き、
王朝を滅亡 させ ることになったことか ら、彼 は君主 の失政を自然の災異 と結 びっけて君主権抑 制の理論 を構築 した。 地上の本来の統治者 は芋苗の統治者である上帝すなわち天帝 と考え られた。 しか し、人でな い天帝が実際に地上を統治す ることはできないため、天帝 は地上の統括 と人民の化青を行 う然 るべき有徳者 に天命を下 し、受命 した者が天子 となる。天子が徳をもって地上を統治 し (徳治)、 仁政を行 い、それが天帝の意志 にかなえば甘露が降 った り、めでたい動植物が出現 した りする、 祥瑞を もた らす。一方、天子が徳 に欠 け、苛政を行 い、天帝の意志 にかなわなければ、天帝 は 天子の不徳 を責 める答徴 として 日食、月食、火星の逆行 などの天文 の異変や、地震 ・干魅 ・水 害 ・イナゴの大発生などの災害をもた らす とした。天象 と人事 は感応す るという天人相関思想 か ら、災害異変が起 きると為政者である天子 は自身の不徳を恥 じることにな った。 また、気の世界観か ら宇宙の森羅万象 は陰陽二気 とそ こか ら派生す る五行か ら生 じ、陰陽二 気が調和を失 して も災害が起 きると考え られた。 この陰陽二気の調和不調和 も為政者の徳不徳 に反応す るとい う帝王観 を内包 させたのである。 このため天子 の不徳 が さ らに進 めば天帝 は天命 を革 め (革命)、他姓 の者が天子 とな って (姓を易えて)王朝が交替す るのである (易姓革命)。上記のような思想を一般 には天命思想 と いう。 この思想 により、天子 は常 に天を肥 り、天の意志を読むことが重要 な政治課題 となって、 占いの書 『易』 とともに"術数■-が重視 された。術数 とは天の意志 を読み解 く知識体系 と未来を 予知す る技術、 それ らを用 いた治世術のことで、天文 ・暦 ・算術 ・陰陽五行が含 まれた3)。
Ⅱ
宮殿 の造営 と天道思想 宮城 の荘厳化 『史記』 によると、秦の始皇帝が宮殿を建造 した時、北極星を含む星座 「紫微官」 に倣 って 建物 を配置 し、宮殿前 の川 は天の川 に見立てた。『文選』賦篇 などをみ ると、 その後の漢の未 央宮、三国時代魂 の景福殿、霊光殿 なども宮殿の建物配置を星座 に擬え、宮殿が宇宙を象 った ことを窺 うことができる。 魂の洛陽城太極殿 も唐長安城の太極殿 も北極星 に擬えて造営 された。 明清時代 の紫禁城 (現在 の北京故宮博物院)、京都御所 の紫展殿 の紫 は北極星付近の星座紫微 官 に由来す る。 天子 は、天帝か ら地上の統治を委託 された証 に天帝 の常居である北極星を象 っ た立派 な宮殿を営み、天上界を地上 に再現、 これによって自身を権威づけたのである4)。 大宝元年 (701)正月一 日に藤原宮大極殿の正門に四神 の幡などを立てて朝賀 を した ことを、 『続 日本紀』 は 「万物の儀是 に備われ り」 と誇 らしげに記 している。遣唐使 の派遣 は天智8
年(
6
6
9
)
か ら中断 されてお り、藤原京では中国古典 の 『周礼』考工記 を参考 に した文献上での理 想型の都市づ くりが行われた。 しか し、大宝二年 に出発、慶雲元年 (704)帰朝 の遣唐使の も た らした唐長安城大明宮 に関す る知識 によって、 よ り壮麗な宮殿の必要性が認識 され ることと な ったのであろう、平城遷都が計画 されることになる5)。 平城京では従来平城宮朱雀門 と同規模 と考え られていた羅城門が、桁行柱間が7間で朱雀門の
5
間を凌 ぐものであ り、京の南辺 には平城宮 の大垣 にも匹敵す る築地塀が中国の都城 の城壁 を意識 して造営 されていた6)。 また、羅城門か ら平城宮へ続 く朱雀大路 は藤原京での3
倍 にあ たる約7
4m
もの幅員 の道路 として、実用性を越 えたスケールに発展す るが、 これは対外的に 国家の威容 を誇示す る装置 としての意義を有 していた ことが指摘 されている7)。平城京 に入 る 外国の使節 は、壮大 な羅城門の南での儀礼をへて、朱雀大路 を北上 し、平城宮の正門で宮最大 の朱雀門か ら宮内に入 り、朝堂院 ・大極殿院での儀式 に臨むのである。 『続 日本紀』 の神亀元 年(
7
2
4
)1
1
月8
日条 に、宮殿 は万国の使者が朝貢 して くるところであるために壮麗でなけれ ば帝王の徳が示せないとある。 そのため宮都、特 にその軸線上の施設 はその儀礼的側面か ら立 派でなければな らなか ったのである。 平城宮第一次大極殿院の構造 と儀式 朱雀門の北 に造営 されたのが奈良時代前半 の平城宮第一次大極殿である (図 - 1)。 その大 極殿 を築地回廊で取 り囲む大極殿院 は東西6
0
0
尺 (約1
7
7m)
、南北1
0
8
0
尺 (約3
1
9m)
の範 囲を もち、古代宮城 の大極殿院の中で最 も大 きい 。 また、大極殿院の南側 の約2
/3
は建物 の ない傑敷広場で、北側 の1
/3
は大極殿 と後殿 を配置す る高台 にな っている。 その高台の正面 と高台 に登 るための東西二つの斜路の側面 には 樽 (瓦質煉瓦)で化粧 した埼積擁壁があるのが 特徴である。 この大極殿院 は即位式や元 日の朝賀など国家 的な儀式を行 った平城宮の画 し、施設である。 即 位 と朝賀の場合、天皇 は大極殿の高御座 にあっ て、大極殿 には皇后 と女官、侍従 など限 られた もののみが着座 し、皇太子 さえ も高位の官人 ら とともに大極殿前庭 か ら天皇 を拝 したのであ る8)。 噂積擁壁の平面の意味 4) 大極殿前の埼積擁壁は複雑な形状を成す ( 図-2)。詳述す る余裕 はないが、大極殿 中心 の8 尺北寄 り (⑦) を中心 に2
4
0(
4
0×6
)
尺、2
8
0
(
4
0×7
)
尺、3
2
0(
4
0×8
)
尺の同心3
円を描 き、 後殿前 に中心 を もっ3
6
0(
4
0×9
)
尺 の偏心 円 との交点などを用いて形状を決定 している (図-伊細部E:
佐
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朱書rl 壬生n 図 -1
奈良時代前半の平城宮 (小津毅 『舌代宮部構造の研究』p31
0
よ り) 図-2
平城宮第一次大極殿院 (奈良文化財研究所平城宮跡資料館1
/1
0
0
模型)3
)。 同心3
円と1
偏心 円の構造 はキ トラ古墳 の石室天文図 (図 -4)
とモチーフは同 じで、 同心3
円は内規 (周極星の範囲)・赤道 ・外規 (観測点 における南天の限界円)、偏心円は黄道を意図 した ものであ り、複雑 な設計方法 に もか かわ らず
4
0
尺 の倍数 を用 いた規則性 は天文秩 序 を意図 してい る。 中国で成立 した太極殿 の太極 は易 で い う宇宙 の根源であ り、天文 占星思想 で は天帝 の住 む北 極星付近 の星座 で ある。 "太′′ は "大′′ に通 じ るため、 日本 の大極殿 も北極星 に擬 え、平城宮 第一次大極殿院 も字音 を象 ったのであ る。 この よ うな平面形 をっ くった目的 は、天空 の秩序で デザイ ンす ることによ り、地上 に秩序 と安寧を もた らす ことにあ った。 また、宇宙 の中心 (天 の北極) を意図 した同心 円の中心 に置かれたの は玉座で ある高御座で、 そ こは天地 間の往来 の 可能 な場所であ り、国産 み神話 の "天 の御柱′′ を具現 していると理解 で きる。 宇宙 の中心 たる 高御座 と、 そ こか らの同心 円によ ってデザイ ン され る樽積擁壁 は天下支配 の正 当性 の根拠 を天 上界 に求 め、国家 の勢威 を示す ものであ った。 噂積擁壁 の立面 の意味9) 奈良盆地北端 への平城遷都 と洪積世台地端部 を利用 した平城宮第一次大極殿院の造営 は、北 側 に傾斜す る藤原宮 の敷地で は実現 で きなか っ た高 い壇 に載 る大極殿 の景観 を実現 させたので あ る。 この大極殿院 こそ中断 していた遣唐使が 再開 された後、唐長安城 の大 明宮含元殿 の影響 を強 く受 けて造 られた と考 え られて い る (図 -5・6)。高 い噂積擁壁 の上 に正殿 を配 し、登 壇 のための斜路 を高台の東西 に設 けることなど が共通す る10)。 第一次大極殿院の埼積擁壁正面 の高 さは約2
.
4m
あ った と考 え られ、勾配 は約7
00
で8
尺上 が り、3尺転 びである。 8は高御座 の八角形 と も関わ り、支配す る国土 の象徴 で もあ る。3
と8
はともに五行思想で 、、日の正位′′ にあた る東 図 -3
時積擁壁の設計方法 i . q・(, ・1 1 i.L 川 和 、V. 〆 u ;.∴・
ー一・一- 、′\ 、 t{"i.I,・十㌔㌔一り \\、 ㌔ / ′、
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l ・Pが` I も 、 -、 ,I ti:1㌔-ぎ \ ■・▲・∫ 北 図-4
キ トラ古墳石室天文図 (図出典 キ トラ古墳壁画四神 玄武 飛鳥資料館図録2
0
0
7
)
.・ ∵ 貫.、
招謬_
・
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ご軍 ::;テ讐 芋 図-5
唐長安城大 明宮含元殿 (図出典 ユネ スコの リーフ レッ ト)に配当 され る意味のある数字であ り、神武神話 に登場す る三足烏 の八樫烏 や 日のイデオ ロギー と関わ る。 増穂擁壁 は広場 に並ぶ臣下 にとって は天皇 との間 にある越 え られない壁であ って、 十七条憲法 に もある 「君天 臣地」 とい う礼的秩 序 を視覚的 に示す効果があ った。 それは見上 げ るよ うな高 さで権威 を誇示 し、大極殿 を一層荘 厳 に見せたであろう。 図
-6
唐長安城大明宮含元殿基壇 復元整備状況 Ⅲ 平城宮第一次大極殿院の整備 のあ り方 第一次大極殿 の復元工事 は2001年着工、平城遷都 1300年 にあた る2010年 には完成す る計 画である。 さ らに大極殿前庭やそれ らを築地回廊で取 り囲む広大 な大極殿院について も復元整 備 の計画がある。 遺構 の物理的状況 と整備 の課題 平城還都後 の奈良時代後半、大極殿 は東側 の区画 に新 たに造営 され、第一次大極殿院地区 は 築地回廊 を東西600尺、南北620尺 の規模 に縮小 し、東方 の内裏 と南限および北限をそろえ、 意識的に内裏 に対置 させた宮殿 と して改造 され る。北方 の高台 を敷地 の南北中央 まで拡張 し、 北側1/2を殿舎 区域 と して27棟 を配 し、南側1/2を傑敷広場 とす る。 高台正面 には玉石積 擁壁 を築 き、噂積擁壁か ら玉石積擁壁 まで約18m、2mを超 え る厚 さで盛土 し整地 した。玉 石積擁壁 と奈良時代後半 の建物遺構 の残 るこの整地土 は後世 にかな り削平 を受 けるが、埼積擁 壁 に近 い部分 まで は削平 が あま り及 んで いない 。 そのため埼積擁壁 は この整地土 に幅約2m で トレンチを入れて存在が確認 され、その厚 さは最大約1
.
6
mを超えて残 っていることがわか っ た。 この整地土 を保存す ることが遺跡整備 の前提 にな る。 平城宮跡で は発掘後 の埋 め戻 し盛土厚 を、奈良時代後半 の遺構面+0.8mとしている。 この ため埼積擁壁 を本来的な平面位置で復元 しよ うとす ると、約1.6mに0.8mを加 えた2.
4mの 盛土が奈良時代前半 の遺構面 の上 に必要 になる。 ところが大極殿院の北西部 は軟弱地盤 の上 に 築かれてお り、遺構保存 のため厚 い盛土 はで きない。 そ こで整備地盤高を奈良時代前半 の遺構 面+0.8mとす ると、整地土が最大 で1.6-0.8-0.8m以上突 出す ることになる。 その範 囲 は およそ図2のE1-Wlか らおよそE3-W 3を結 ぶ ライ ンまで及 ぶ。 この部分 をどのよ うにす るかが整備上 の課題である。 整備案 の検討 復元整備案 は樽積擁壁 と奈良時代後半期 の整地土の取 り扱 いで大 き くの次の3
つの案 が考 え られ る (図 -7- 9)
。(手樽積擁壁 の本来位置で擁壁 を設置 し、整地土 を高 ま りと して表現す る。 ②噂積擁壁 の本来位置で低 い擁壁 を設置 し、整 地土 を広場 と一体 的な疎敷 きで覆 う。 ③整地土 の突 出部分 を覆 う位置 まで埼積擁壁 を 前進 させ、 その本来的高 さを表現す る。 それぞれの長短 と評価 を整理 しよ う。 (∋案 は、埼積擁壁 の位置を正 しく表現で きる が、整地土が突 出す る。 それ は重層 す る遺構 の 状態 を示す展示 にはな るが、古代 の空間、 とり わ け国家儀礼 の厳粛 な空間を復元す ることには な らない と言え る。 大極殿院の整備 で は大極殿 の建物復元 も進 んでいることか ら遺構 の残存状 況 の展示で はな く、儀式空間の雰囲気 を再現す る整備で ある必要性が求め られよ う。 ②案 は、噂積擁壁 の位置を正 しく示す ことに よ り、大極殿院が宇宙 を象 ることを表現 で きる が、 その高 さは0.8m程度 しか表現 で きないこ とにな る。 ③案 は、本来 的高 さが表現で きるが、埼積擁 壁 の大極殿 と噂積擁壁 の問が約
2
倍 に広 が り、 東面 ・西面築地 回廊 の勾配の変換点 や斜路 の位 置 も正 しくは表現 で きな くな る。 ただ し、含元 殿跡 で は近年 ユネスコによって基壇復元がなさ れてお り、高 い璃積擁壁 は平城京 の立地的特徴 や含元殿 との関係性、礼的秩序 をわか りやす く 示 し、8
世紀 の時代精神 を象徴す る もの とも言 え る。 突出する整地土遺構 第1案 図-7
整備案(D 第2案 図-8
整備案② 本来的な高さの擁壁、 表示位置の前進 第3
案 図-9
整備案③ ②案 は遺構 の平面位置の正確 な表現 を重視 し、③案 は正面観 を重視 し、正確 な遺構 の表現で はな く遺跡 の大局 的な理解 の表現 とも言 え る。 表現 の方法 はどち らの文脈 を重視 して遺跡 を理 解す るか にかかわ ることにな る。 ところが、国史跡 にお ける遺構復元 の原則 は遺構 の平面位置 を踏襲 し、 その上 で表示す ることにあ り、③案 は原則 に反す ることにな る。 したが って、概ね ②案 を基本 に し、樽積擁壁の平面位 置 を正 しく示 しつつ、で きるだ け高 さを表現す る工夫 をす るのが無難 となろ う。 遺跡 の整備 で は遺構保存 の前提が あ り、表現 の原則 もあ って、本来 的な意味 を必ず しも表現で きるとは限 らないのである。
Ⅳ
平城宮跡 の活用のあ り方 第一次大極殿院 は上述 のよ うな考 えで造営 され、 その造営 に込め られた意味 は復元整備で表 現で きたとして も充分ではない。その上、その空間で人 々のどのような活動があったかをイメー ジす るのは容易ではない。遺跡 の理解 を深 めるための活用 メェーの一つ と して着 目す るのが当 時行 われていた儀式 と しての年 中行事 である。 天 の思想 と年 中行事 1) 一年で最 も日の短 い冬至 は太陽が枯死 または復活をす る日であった。漢代 の 『准南子』 には、 冬至 や夏至 には日影 を測 る習慣があ り、『史記』天官書 や 『後漢書』礼儀志 には冬至 に日影 を 測 る儀式があ った ことが知 られ る。 この儀式 には太陽観測 によって四時を正す意味があ った。 実際 には星の観測 による正確 な暦があ ったためその必要 はあま りなか ったが、王権 は空間 (天 下)だけでな く、天下 の時間を も支配 していることを象徴す る儀式 として重要視 したのである。 日月五惑星 (七曜)の運行 をは じめ とす る天文秩序 (天道) は、卓越 した天文観測技術 によ っ て正確 な暦 に写 し取 られた。 その暦 に順 って年中行事 を滞 りな く行 うことは天 の順調 な運行 を 促す ことに も繋が ると考 え られた11)。 そ して、行事で音楽が演奏 され るの は、音楽 には上下 を 和同 させ、天下泰平 を もた らす力があると考え られていたか らである(
『史記』
「楽書第二」
)
。 後漢末期以降、戟乱が打 ち続 き、社会構造が変化す る。異民族が南下 し、農村共同体が崩壊、 民衆 は先祖代 々暮 らして きた土地か ら離れ ることになる。 農耕や禁忌、級硬 に起源を もっ儀礼 は、魂普南北朝 になると、行楽のための年 中行事 と して再編成 され、晴唐時代 には娯楽化が強 ま った12)。 そのため晋 の武帝 は曲水宴 の由来 を(
『続斉譜記』)、唐 の高宗 は端午 の節句 の由来 杏(
『唐会要』巻29、龍朔元年五月五 日) それぞれ侍 臣に問 うたよ うに、儀式 の由来 は暖味 に な っていた13)。 儀式 の意義 『礼記』 に 「礼 は天地の別、楽 は天地 の和」 とあるよ うに、年中行事 などの儀式では礼 によっ て君 臣の秩序 を確認 し、宴会では楽 によって君 臣の融和 を図 った。律令国家'の統治 には礼楽が 必要 だ ったのである。 前述 した藤原宮での朝賀 の儀式で 「万物 の儀是 に備 われ り」 と したよ う に、古代 日本 の年 中行事 は国家 の威儀 を整え るための ものであ り14)、中国の年 中行事 を取捨選 択 し、 日本独特 の礼楽 を創 り出 した と指摘 されている15)。年 中行事 には元 日の朝賀や、一月十 七 日の射礼、三月三 日の曲水宴、五月五 日の騎射、七月七 日の七夕、冬至 などがあ り、儀式や 宴会が行 われた。 元 日の朝賀で は天皇が大極殿 に出御 し、 臣下が庭 に立 って朝拝、後 に宴が催 され る。 平安時 代 に成立 した儀式書 には各儀式 にお ける天皇 と、貴族 ・宮人 の視覚的な位置関係が詳 しく記 され るが、 これによって天皇中心 の律令国家 の秩序が繰 り返 し具現 され ることに政治的に重要 な 意義があ ったのである16)。朝賀の時、全国の国庁 においては正殿を大極殿 と見な し国司 ・郡司 ・ 軍毅が整列 して朝拝が行われ、朝拝 のあと、天皇 の名代 と しての国司が賀を受 け、国司 と郡司 らとの関係が確認 されて、宴が催 された。 天平15年 (743)5月5日、聖武天皇 は群臣を内裏 に召 して宴 を催 した。記 されてはいない が、恒例 の騎射が行われた後であろう。 皇太子 (阿倍内親王) は自ら五節の舞 (一月一 日、一 月七 日、一月十六 日、五月五 日、十一月新嘗祭の翌 日に行われ る舞) を舞 った。聖武天皇 は、 「天下 を平定 した天武天皇が天下 を安寧 に治 め るには礼楽が必要 で、 この舞を作 った。天地 と ともに絶 えることな く、 この舞 を受 け継がせ るよ うに皇太子 に習わせ、元正太上天皇 に披露 し た」 とい う。 元正太上天皇 は 「君臣祖子の理」 を教 え るのに役立っ と絶賛 した。宴で舞われ る 舞 に も礼的秩序 の表現があるのだ った。 また、古代 日本の年中行事 には積れを払 う意味や無病息災、長寿などを願 う意味 もあ ったが、 由来 につ いては中国で既 に暖味であ ったよ うに、 日本で もわか らなか ったよ うで、天皇が由来 を尋 ねて天平勝宝
7
年(
7
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月4
日に 日本博士 中臣丸連張 弓 らが年 中行事 の由来 につ いて 勘奏 して いる (『政事要 略』所 引 「月 旧記」)17)。平安 時代 にな ると、年 中行事 を定例的 に行 わ ないと悪 いことが起 きると意識 され るようにな り、漢代以前 のよ うに 「天の思想」 との関わ り が強 くな るよ うに思われ る18)。 ただ し、奈良時代 の年 中行事が天 の思想 をどれだけ意識 して い たか は明 らかで はない。
『日本書紀』
や 『続 日本紀』 が編集方針 か ら恒例の ことと して多 くを 語 らず、儀式 の具体的様相や儀式 に対す る意識 などは不明な点が多 いか らである。 儀式復興 の現代 的意義 奈良時代 の儀式 について は不明な点 も多 いが、平安時代 の儀式書 などで補えば、 ある程度 の 復原 と再現 は可能である。 それによって、復元 され る空間で儀式 や宴会 とい う利用 のあ り方が 示 され、 その意味 について も多 くの人 に理解 して もらう契機 とな る。復元考証 を経 て儀式 を再 現す ることが遺跡 の理解 につなが ると思 う。 年 中行事 は 日本古代 の中で も時代 とともに内容 や場所、意義 まで も変 えて い くものであ っ た19)。文化遺産 と しての平城宮跡等 の活用 を図 ってい く目的であれば、年中行事 を現代社会が 受 け入れ る内容へ改造す ることや、年 中行事 に関連 して新 しい催事 を創造す ることも必要 だ と 思われ る。 た とえば、射礼 は一月十七 日に大極殿院の南門に天皇が出御 し、全宮人が天皇 の前で弓を射 る儀式であ った。新羅の使者 や南方 の島々の使者 も参加 させ、帝国を演 出 したのである。 全宮 人が参加 して行われた ことに因むな ら、弓道部 やサークルなどの経験者 による市民参加型 のイ ベ ン トが考え られ る。 京都の三十三間堂では新成人が晴れ着で弓を射 ることが行われているが、 こうした行事 も参考 になる。 また、海外か らも参加があ った ことに因むな ら、外国の異 な る弓 との競技 ・競演 も考え られよ う。 古代 に見 られた現象 をまちづ くりや文化交流 など現代 的価値付 けで再編成す るのである20)。 騎射 は五月五 日に重閣門などで行われた。重閣門 とは外観が二階建ての門であるが、宮城正 門の朱雀門か、朝堂院南門か、大極殿院南門か は決めがたい。馬が疾走す るためには朝庭部 の よ うな傑敷 きで可能か、三回射 るための直線距離 は充分 か、宮 内での乗馬が許 され るか、天子 南面 の原則 と矛盾 しないかなどか ら検討が必要である。 問題点 を明示 した上で現実的 に可能 な 場所での再現が考え られよ う。 五月五 日は、八世紀 には騎射が行われたが、七世紀 には薬猟が 多 く行われていた。推古天皇 も訪れた兎 田野、現在の奈良県宇陀市 には近世 の薬園であ る森野 旧薬園 (国史跡) もあ り、奈良県 は富山県 に次 いで置 き薬 の製造が盛んな県である。 薬 をキー ワー ドに関連史跡のネ ッ トワーク化や地域産業 との連携 など文化遺産 を活用す るプログラムの 展開 も考え られよ う21)。 二月 には釈莫 (孔子 の祭 り) が行 われた。大宝元年