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甘草の輸入

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甘草の輸入

その他のタイトル The Licorice Imported into Japan

著者 宮下 三郎

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 24

ページ 39‑56

発行年 1991‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15991

(2)

い際香や沈香も有名だが︑消費最の面から甘草を超える漠薬はない︒

しかも一時的でなく古くから今日まで︑もっとも消費量の多いのが

甘草である︒

人も病気も時代によって変わった︒江戸時代には︑医学の流派が

後世派から古方派に移行し︑幕末に向かって蘭方が興隆するという

甘 草 の 輸 入

甘草は代表的な漠薬である︒人参・大黄・桂枝あるいは単価の高

注 六 五 四 三 ニ ー 付 付

表 表

は し が き

甘草年次落札状況表痰切年次落札状況表

効成分の研究について触れる︒

一 九

た事情及び痰切の輸入について述べる︒最後に明治以後の輸入と有 はじめに甘草の原植物と代替生薬︑および日本への移植栽培の問

であ

る︒

ほし

がき

原植物と代替生薬

長崎貿易

ペイ

ン甘

草と

痰切

明治以後あ

とが

甘 草 の

輸 入

見方が普通である︒それは各学派の塾生の調査などによって︑ある

ていど数字で裏づけられるが︑消費した薬物の面からの研究が必要

である︒当時薬物の大部分は輸入されていたから︑貿易文書の調査

によって輸入量の面からアプローチができるのではないか︒本稿の

主目的は︑貿易文雷から江戸時代の甘草の輪入状況を解明すること

題について述べる︒ついで江戸時代の甘草の輸入量の年次推移に迫

りたい︒また甘草は漠薬としてあるばかりでなく︑西洋でもスペイ

ン甘草

l ic o

r ic e

が使用されており︑その知識が江戸時代に伝えられ

原植物と代替生薬

甘草の原植物はマメ科の多年草で︑日本には自生しない︒中国か

(3)

ら輸入される大部分はウラルカンゾウ

FI

SC

HE

R で︑中国の東北・西北・華北に分布し︑日の当たる乾

燥した草原や川岸の砂土質を好む︒スペインカンゾウ

G . g l a b r a

L .  

はスペイン︑イクリア︑東ヨーロッパ南部︑小アジア︑中央アジア

長く伸びる主根から出る走出茎を薬用にする︒サボニンのグリシ

リチンを含有し︑味は甘い︒疼痛︑痙攣︑潰瘍を治すので︑腹痛や

のどの痛み︑咳︑胃潰瘍などの治療に用いる︒またグリシリチンの

構成部分のグルクロン酸は︑肝臓で有毒物質と結合して体外に排出

古く甘草は日本に産出するとされた︒漢薬の国産品による同定を

記した深根輔仁の﹃本草和名﹄︵九一八頃︶に﹁和名阿末岐﹂とある

ばかりでなく﹃延喜式﹄︵九二七成︶巻一︳一十七典薬寮の﹁諸国進年料

雑薬﹂に常陸国廿五斤十一二両︑陸奥国十斤︑出羽国五斤の産出を記

﹃本草網目﹄に載る薬物の国産状況を簡単に述べた林羅山の﹃多

識編﹄(‑六︱二成三〇刊︶には﹁和名阿末幾﹂とあるばかりだが︑

闊名氏の﹃和名集井異名製剤記﹄(‑六ニ︱︱一刊︶では﹁和名アマ木

日本奥州ニアルトナリ﹂とし︑京都の薬舗の遠藤元理の﹃本草弁疑﹄

︵一六八一刊︶巻二には﹁駿州富士山二此草アリト云フ︒延喜式諸

国貢薬ノ目録ニモ︑常陸陸奥出羽一二箇国ョリ献之トアリ︒今採コト

ヲ失シテ人不知︑露下二朽ルコト可惜哉﹂とあって︑日本産出説を 録している︒ する作用があり︑解毒にも用いる︒ を経て一部新彊にまで分布している︒

G l y c y r r h i z a   u r a l e n s i s  

貝原益軒の﹃大和本草﹄(‑七

0

九刊︶巻六には﹁昔ハ日本ニアル

事ヲシラス︒近世甲斐国ョリ多ク出ッ゜唐ョリ来ル甘草トクラペシ

ニ少モ不異︒性ョシト云︒奥州ニモアリ︒凧好ンデ食シテ根夕ヘヤ

スシ︒子ヲウヘテ三年ノ後是ヲトル︒其根如竹︒根繁茂ス︒或云深

山所々有之︒黄痣葉二似テコハシ﹂と︑近世国産説を披濫している︒

徳川吉宗の国産奨励の政策に添って︑採薬使の阿部照任は甲州の

石部とヲフから甘草を採集して献上し︑松井重康も甲州石森村と打

栗で甘草を発見したと︑写本の﹃採薬使記﹄︵一七五八成︶に述べ

ており︑幕府の小石川薬園の文書に︑甲州産甘草が現れるのは享保

① 八(‑七二三︶年からである︒田村藍水門下の平賀源内の﹃物類品

隋﹄

︵一

七六

一︱

‑︶

巻一

︱︱

には

﹁甲

斐産

苗ノ

長ニ

︱︱

︱尺

︑葉

ハ紫

藤葉

二似

テ梢小ニシテ微毛アリ︒根皮紫赤色︑肉黄色ニシテ味甘シ︒此物甲

斐国山梨郡上於曽村伊兵衛︑同郡下石盛村与兵衛園中ニアリ︒其始

所出未詳︒或云甲斐山中ヨリ出ヅ゜或云武田信玄漢土ョリ得テ植ル

モノ今尚存スト︒何レカ是ナルコトヲ知ズ︒享保中阿部将翁軒台命

ヲ奉ジテ甲斐国二至テ是ヲ得クリ︒今東都及駿府官園ニアルモノ是

ナリ︒駿府ニテハ甚繁茂ス︒東都ニテハ繁茂セズ﹂とあり︑植物図

︵巻五︶を附しているが︑花と実を歓くから植物の特定はむずかしい︒

京都の市井の本草家だった小野蘭山は︑島田充房の﹃花彙﹄の三

巻以下︵一七五九刊︶を補足したが︑その巻三に﹁倫蜜珊瑚﹂とし

て甘草を図示し﹁甲斐州地方二産ス︒今往々コレヲウユ︒然レドモ 肯定している︒

四〇

(4)

『本草図譜』 甘草図

一染に六七英︒豆花に似て黄色なり︒又淡紫なるものあ 葉間

二開

本土繁長シガタシ︒春苗ヲ生ス︒高サ尺余︒ソノ葉円カニシテ鬼木

及ビ蜀脂葉ノ如クシテ細毛アリ︒及チ南京ノ種二同ジ︒六七月花ヲ

アヅキーハナご采数菱︒形チ赤婢腐二似テ小ニシテ黄色︒角子ヲ結

ブ︒長サ寸余゜亦蜀脂角ノ如シ︒

テ毛茸アルモノアリ︒即チ福州ノ種ナリ﹂という︒穂状花序で黄

︵白

︶色

英が無毛と言えばゲンゲ属

A s t r a g a l u s

やヌスビトハギ

② 属D

es o m di um

の植物を考えさせる︒ちなみに富士甘草D

m e s od iu m

0[ 

dh am

ii 

OL IV

.  一種葉長クシテ白花︒藤葉二類シ

の花は淡紅色である︒

黄花の甘草

としては江戸幕府の御徒だった岩崎常正の﹃本草図譜﹄③ ︵一八三〇刊︶巻五に花と実を図示し

﹃本

草通

串﹄

一八四八刊︶巻

一に﹁根年ヲ経ルモ

ノハ

希二

穂ヲ葉間二生ジ花アリ︒形胡枝花二似

テ淡黄色︒頗黄箸ノ花二似クリ︒後英ヲ結一寸余︒又黄著角二似テ

扁シ

﹂と記録している︒胡枝花は萩の別称である︒

島津藩に雇われた曽槃の﹃成形図説﹄(‑八=二成︶巻三

十 二 山 草の﹁安麻伎﹂に﹃本草図譜﹄に似た花

と英を図示し﹁秋日葉間よ

り花

開く

︒ り ﹂

ある︒また岸和

田藩刊行の﹃本草網目啓蒙図譜﹄︵一八五

0 )

巻八には︑服部雪斎写生の甘草の植物図を載せるが︑花実を歓き注

記に﹁花ハ豆花二似テ淡紫色︒実モ小豆爽

二似

扁小﹂とあって︑

英が無毛の小豆茨に似る

とい

うのは︑ウラル甘草に当たらない別種

の植物である︒

小野蘭山は晩年に江戸の医学館に登用され﹃本草網目啓蒙﹄(‑八

(5)

よヽ' , ,7' ,,, ヽッツ松,り心ッ- ~ 心唸ふ心ぺ・ぷふ ‑ ‑ ‑

山梨県塩山 市 甘 草屋敷

だろうか?

0

三︶を刊行し︑彼の本草学を大成することができた︒その巻八に

﹁今ハ各国自生アルコトヲ聞カズ︒世上二栽ルモノ亦南京福州ノニ

種アリ﹂とし︑福州の種は甲斐のものが弘まり

︑京師浪華の種樹家ま

ヽ︑

にもあり︑奥州南部では蒔いて薬用にする︒花は豆花に似て淡紫色︑

︑ ヽ

ひ ら た

で葉間に籐生し︑其実は英を成し小豆英に似る︒実も似て扁く小さ

いと

いう

︒ また享保

以後

︑舶来南京甘草の概中から得た実を下して

生じたことが数度あり︑形状は福州種と大差なかったという︒

いま

J

R東海中央線の塩

山駅北の塩山市上於曽に︑甘草屋敷と呼

ばれる重要文化財の高野住宅︵昭和二四年指定︶がある︒高野家が

① 

植えてぎた甘草の内部形態の剖見報告があり︑ウラル甘草に同定し

ているけれども比較検討がなされておらず︑類縁植物という可能性

から中国の﹃本草図経﹄

( 1

0

六二刊︶には﹁七月開紫花似奈︒冬結実

えんどう

作角子如

畢豆﹂とあ

り ︑

扮州︵山西省沿陽県︶甘草二図と府州︵映

西省府谷県︶甘草一図を付しており︑府州のものはウラル甘草の花

を描いている︒ウラル甘草は花が総状花序で密集し青紫色︑英には

⑤ 刺毛が密生している︒

紫花で英に刺毛のあるウラル甘草は︑日本に渡っていなかったの

じつは尾張藩士だった水谷豊文(‑八三三没︶は﹃本

草網目記聞﹄の第一冊に︑ を排除できない︒

ウラル甘草の花と実を彩色図示し﹁葉間

花穂ヲ生ジテ紫花ヲ開ク︒形黄智花ノ如シ︒其実茨ヲナス︒皮二毛 刺アリ︒花ヲ生スルコト甚稀ナリ﹂とある︒ウラル甘草の植物学上

(6)

水谷豊文 本草網目記聞』 甘草図

甘 草 の 輸

~ 譴丸-~··、:…~'•

>

i

さて江戸時代になると︑長崎の貿易商だった西

川如見の﹃増補華 いてい

る ︒

甘 草 九 百 六 十 斤

触れておぎたい︒光明皇太后が天平勝宝八

︵七 五六

年︑聖武天皇

の七七の忌辰に御愛用の御物とともに︑漆櫃廿一箱に入れ

東大寺虞

舎那仏に奉納されたものである︒そ

の内

容については﹁六十種薬献

⑥ 

物帳

によって明

かで

ある

とあり︑これは量では大黄九百九十一斤八両に次ぐ︑全体の二位に

ある︒三位は藤蜜五百

九十三斤四両で︑以下桂心︑人参︑尭花と続 長崎貿易に先だって︑奈良正倉院に

尊蔵

される六十種薬について

長 崎 貿 易

らぎに甘草の輸入

について述べよう︒ 市場で問題にもならなかった︒ ていたことは︑疑

いが

ない

の特長を確実に観察していた︒また京都

の内

藤蕉園

の﹃古方薬品考﹄

︵一

八四

二刊︶巻

一に

も︑加

来飛霞

によるウラル甘草の花︵爽はな

い︶の写生が載っており︑江戸時代にウラル甘草が日本に移植され

本人は甘草の代替生薬探索の結果と

して

誤認していた︒ マメ科の類縁植物を

しかし小数は真正のウラル甘草を入手していた︒た

だ黄連や人参のように︑輸入品を圧倒するというわけにはいかなか

った︒甘草の場合は輸入最が莫大であり︑国産の甘草もどきなどは

(7)

一甘 草

夷通商考﹄︵一七

0

八刊︶巻之一に︑甘草の産地として南京省麿州府

︵安徽省麿江県︶と山西省沿州府︵山西省扮陽県︶を挙げる︒麿州

の甘草については本草に載らず不明である︒

長崎貿易百般の手控えである﹃明安調方記﹄の﹁薬種荒物凡潰高

積﹂(‑七八

0

頃︶では︑八十七品目中甘草は年七万五千斤︑符牒で

 

十七匁とあり︑最多量の山帰来に次いで二位にあり︑三位は萱香で

ある︒参考に上位十一位まで単価を添えて表示しておく︒

輸入の概況については︑文政三(‑八二

0 )

年に長崎会所の薬種

目利が調査した﹃舶載薬物録﹄の唐方持渡に

享保二十卯年方当時迄不絶持渡申候

とある︒紅毛方には載らない︒調査した帳簿が享保二十(‑七一二五︶

年以降ということであろう︒量ほどのくらいだったろうか︒

さいわい甘草についてほ越後屋長崎方の﹃宝永五年方薬種荒物直

段高下和﹄に︑百ヶ年之間の略記がある︒甘草についてだけ百年間

の輸入状況が調査されたのは︑漢薬の指標とみなされていたからで

⑨ あろう︒まずその文書を写しておこう︒

安永9年頃輸入

量順薬種荒物 年 潰 高 単 価

万 斤 匁 分 1 山帰 10. 0 

上 下 (

41‑.83   2 甘草 7.5  17.0  3 萱香 7,0  2.7  4甘 松 3.0  3.7  5 白粛 2.5  8,2  5 黄苓 2.5  2.8  7 太楓 2,0  7.5  7 大黄 2.0  5.7  7 山莱 2.0  5.0  7 丸藤 2.0  2.5  11  黄底 1,8 

上 ( 下

98.,50

天明元年丑年持渡りなし瓜上口

安永九年子年方寛政三亥年迄十ニヶ年之間持渡り高百弐拾万

四 千 斤 御 買 上 直 段 豆 謡 琵 器 鍔 ン 七 醗 鍔 炉 溶 五 リ ン

寛政四子年方享和三亥年迄十ニケ年之間持渡り高八拾七万斤

御買上直段坪類"ウ芦砂腎

文 化 元 子 年 分 八 万 八 百 斤 寅 年 分 壱 万 八 千 六 百 斤

同卯年分壱万七千六百斤

/四

︵ 享

延京元子年か宝暦五亥年迄右同断 宝永五子年方長崎御交易御法令定已後当文化四卯年迄百ケ年之

間甘草持渡り几斤高井御買上ヶ直段左略記ス

︵ 享

宝永五子年方京保四亥年迄十ニケ年之間持渡り高

千斤

︵ 享

京保五年子年方同十六年亥年迄十ニヶ年之間

京保十七子年方宝保一︳一亥年迄十ニケ年之間持渡り高

宝暦六子年方明和四亥年迄

壱匁

︵ 永

安元元年辰年上五分五リン中四分五リン

囲始り

明和五子年方安永八年迄十ニケ年之間持渡り高

同 八拾九万八千斤

五拾三万

六拾壱万九千斤六分五厘七分七分五リン<弐百六拾七万九仙斤御買上直段七分八リン九分

御 買 上 直 段 底 討 彗 嗜 贔 隷

下二分五リン此年右品 四

七拾七万弐千

同丑年分三万九千三百斤 六拾三万弐

(8)

越後屋百ケ年甘草持渡り斤高井値段 ただ数字を羅列したにすぎないように見えるが︑表示すると左の

ようにまとめられる︒

0

内は前後の関係から著者が埋めた数字であ

る︒差し引いた﹁当卯年有高﹂というのを︑安永元︵一七七二︶年

より始まるという会所の﹁囲﹂とすれば︑前後百年間に一斤の誤差

甘 草 の 輸 入

年問持渡千斤高 注

宝永17085 ̲  享保17194  12  632 

享保17205

享保117316 12  898  

享保17̲寛保3 12  530 

I  1732  1743 

延享17441 ̲  宝暦17555  12  619 

2679 御買上分値ー段

9  6分5厘 宝暦17566  明和17674 12   1143 18分ー1

明和5 ̲安永8 12  772  安永分元年此年分囲始5厘り

1768  1779  5  5厘ー2

安永9 ̲寛政3 11  1204  天分明元年持渡分なし

1780  1791  8  5厘ー5 4厘 寛政17924 ̲  享和18033 12  870  7  分8厘ー7分2厘

文化1 ̲文化4 4  156  I 

1804  1807 

(/ 4141

宝永17085 ̲  文化18074 J100J 6820 

I

年平均674 (千斤)

廿草落札簡易表

年 闊 落札量

高 値 安 斤合勺才

明和2 ̲明和4 3  72,491  877‑182

1765  1767 

明和5 ̲安永8 6 68,69, 645,792  719‑0,813  1768  1779  73,76‑78 

安永9 ̲寛政3 1101, 666  27 ‑248

1780  1791  11 81 

寛政4 ̲享和3

1002,03  611,929  917‑196 1792  1803 

文化18041  文化18074  4  187,117,1  18 ‑943

‑ ‑‑ ‑

文化1 文化12 12  867, 401. 902 205 ‑54

1804

1815 

文化13̲1816  文政11827 0 12  1304,140,4  1198‑367

文政118281

天保11839 0 12  1421,014,2  15368‑416

天保118401  嘉永18514  12  1018,095,3  155 ‑2137

嘉永18525 ̲  文久18622  11  445,336,3  15匁5~1 匁 1

明和2 文久2 斤 合

1765  1862  98  7487,866.502  年平均量76,406.8

ことができた︒輸入量と単価の動向は︑越後屋のみならず長崎貿易

にかかわった商人のいずれもが︑関心をよせていた︒とくに五箇所 右割合を以年潰れ高乎均六万七千四百斤捌二当ル 八拾弐万斤

当卯年有高几八万斤 宝永五子年方文化四卯年迄百ヶ年之間御払総斤高総高合六百

四五

越後屋長崎方は寛政四(‑七九二︶年に荒物方を開設し︑薬種に

深い関心をもって調査を実施していた︒我々はその成果によって︑

江戸時代十八世紀百年間の甘草の輸入量と単価の概略の変動を知る 引残高六百七拾四万斤

にす

ぎな

い︒

ケ 年 分 十 五 万 六 千 斤

もない︒価格の変動も差が小さく︑高一匁八分︑安二分五厘と七倍

(9)

凡そ七万斤であり︑

⑩ 十トン余となる︒ 一斤を二頁︱︱十匁︵八六ニ・五

g)

とすれば六 あり︑落札表には除物と言われる幕府の取り分が る︒まず持渡表は会所の記録つまり輸入の全量で 相互に差があって依拠した資料の違いを考えさせ 越後屋の持渡表と落札の簡易表を比較すると︑

1768‑79  1780‑91  1792‑03  1804‑07 

買上 772  1204  870  156 

落札 646  1102・  612  187 

本商人は︑品目別に入札ごとの商品の量と落札値を整理した各種の

寄物帳を作成して︑入札に備えていた︒五箇所本商人だった伊勢屋

と永見屋の﹁薬種寄﹂を整理して︑付表一の﹁廿草年次落札状況表﹂

を作成した︒越後屋の﹁百ヶ年甘草持渡斤高﹂に合わせて︑十二年

ごとに加算した簡易表を右に示す︒落札誠は十二年でならすと大約

平均化されるが︑文政九(‑八二六︶年からは﹁琉球産物﹂が年一

万斤前後あり︑天保ニー三(‑八三ニー三三︶年には二万斤を超え

ている︒価格の変動は最高が二十七匁(‑七八二︶最低は八分一厘

三毛︵一七七二︶で︑三十三倍とかなり大きい︒

含まれていないのではないか︒ちなみに両表の相

互にかかわり合う部分を表示すれば下表の通り

で︑一割余の差がある︒しかし両表の年平均量に大差がない点は︑

強調できると思う︒上下百五十年の時間差があるにかかわらず︑年

つぎに価格について説明しておこう︒持渡表は落札表に較べて一

桁低

く︑

しかも変動が小さい︒これは﹁御買上値段﹂とあるように︑

長崎会所が唐船から買い上げた値組みであろう︒落札表は特許商人 の落札の値段であり︑落札値から買上げ値を引いた差が会所の取り分であって︑落札値を買上げ値で除した数字の大きいものほど︑会所の取り分が多いことになる︒

長崎で落札された薬種は︑大坂の唐薬問屋に送られ薬種中買仲間

が集って︑値段を決めた︒これが薬種中買相場である︒越後屋が大

⑪ 坂の各年の大引相場を整理表示した﹃薬種荒物高下録﹄の︑最初に

のる甘草の表を掲げておく︒甘草については大引値のほか年間の高

値と安値も記している︒高値を歓くものは大引値が高値であったよ

うだ

しかし価格差は文化元年から天保四年まで(‑八

0

四ー

三三

一二十年間に︑高値二十五匁五分(‑八

0

八︶安値四匁八分五厘(‑

八一七︶で︑差は五倍にすぎない︒買付値と落札値と中買相場の一︱︱

者を同時期に比較できないが︑大坂の中買相場を対応する長崎の落

札値と比較すると︑﹁甘草の値段表﹂に見られるように︑安値では長

崎の落札値を割りこむ場合も(‑八一五︶あり︑高値でも二倍を超

甘草の値段表 買上値

1756 

上 (

1.8 

‑67 下 1.0  (0‑55  0,25  (0‑85  0,54  (0.78  0,72  1768 

‑79  1780 

‑91  1792 

‑03 

落札値 ~

買上

8.77 4.8  1.82  1. 8 

(7.19  8.13  (27.0 

2.48  (9.0 

1. 96  8 2  

&& 

31.7  4. 6  ll.5 

2.7 

落札値

1804 

高 (

20.5

‑15 5.4  (11‑98  3.67  1816 

‑27 

大 坂 相 場 /

25.5 1.24  5.3 0.98 

(19.3  4.85  1.6 

1. 32  四六

(10)

甘 草 の 輸 入

四七

従 文 化

2

八化文

2

八化文

2

八文化

2

八化文

2

八化文

2

八化文

2

八化文

2

八化文

2

八化文

2

八化文 天明六 宝六

卓誌己翡遠装羞積喜羞羞蜜悶ヨりヨ

天 安直 安直高直 直安 安直高直 安直高直 直安 安直直高 安直直高 安直高直 天明

巳 匁 匁七拾四 六十八七 八拾匁匁八 五十匁十八五匁拾壱匁

士十~拾ゴ~

;;匁ヽ匁匁, ;::五 十,..

匁 九 亥 巳

八 八三 八 六 八 五 ー マ マ

匁 分分 分分 分 分分 分 分分

八年之間十

2

八ーー政文→

2

八ー政文

2

八一文政

2八ニ文政—

‑ 又

2

t 2

t

2

2

五 岱

匁 安直弐高直 安直芸高直 安直環高直 安直蒻高直 直安鱗高直 安直ら直高盃 安直涅高直 直安嘴高直 安直踪高直 厨高直 拾壱匁 拾五匁四

I  1 1   ‑ h ‑ t ‑ = ‑ t

=c

t> 

‑ t ‑

直 ー

一~ハ匁~

匁‑ 匁ル匁ー匁‑匁六匁九匁九匁五八六五八七五匁七匁六匁匁四=:: n匁七nn五匁1, 六匁七匁六匁五八六 六匁七匁 安直 安直 四

匁 ー分五四分ー分分四四分分四分五壱五分三分 匁八分七分匁九匁三分八分七匁分五匁九匁五分五五分七 ハ分五分='"分弐 五分壱分三匁分五分匁五分 八匁七 分九分 四匁 匁

\  厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘

五 五 五 五 毛 毛 毛 毛

又^‑保天

2

八‑保天 八

2

‑保天

2

八‑天保

2八—

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2

2

言塁已呈 □ 届塁羞五犀さ示§本召盗邑拿芭塩

安直直高 直安 安直高直 安直高直 安直高直 安直高直 直安 安直高直 安直高直

十十十 十拾 一十十七拾五 七ー分匁分匁十弐9ヽ七分 八開

―  麿

四匁八匁六匁二八匁五匁五匁::::匁七匁七匁 六匁 八

六分六分三分 弐分匁三分 五分分分 呑七ー呑七一 七壱分五匁五八匁七七分七匁五七分七分匁九分五七匁四 分 匁五分十九匁分七五九匁分 ハ分分

厘 厘五厘五厘厘五厘厘五 厘 厘

毛毛 毛 毛

I '  

﹃薬種荒物高下録﹄建物之部甘草

(11)

えるものはない︒全国の薬屋や医者へは大坂の薬種中買仲間から卸

され︑末端の消費者へはさらに上乗せした製剤価格が請求されたわ

けで

ある

の薬種中買相場と卸値︑小売値と︑じつに五つのレペルがあったこ

とになる︒日本の流通機構の複雑さは︑江戸時代からの遺産だと言

スペイン甘草はヨーロッパに分布し︑これも古くから薬用に供さ

れた︒アリストテレスの弟子でアテネのリセウムの二代目学頭だっ

たテオフラストスの﹃植物誌﹄第九巻第十三章に﹁スキュティアの

⑫ 根﹂は﹁喘息や痰の出ない咳や一般に胸部の疾患に効く﹂という︒

ディオスコリデスやプリニーに載ることは言うまでもない︒

英語の

l ic o

r ic e

はギリシァ語の

gl uk us 1 1  sw ee t

rh

iz

a r1 1  oo t 

に由来し︑学名の

Gl yc yr rh iz

a

gl yc os

rh

iz

a

甘い

根︑

gl ab ra

は無毛の意である︒

十七世紀後半のフランスの薬学者レメレイの有名な薬物事典は︑

蘭訳本︵一七四一︱‑︶から吉田長淑が﹃遠西薬圃綱目﹄(‑八

0

ニー

0

九成︶として全訳していた︒そのうち草本の七十六品は﹃蘭訳鏡

原﹄(‑八二

0

刊︶︱︱一冊として刊行されており︑その巻十一に甘草

が載っている︒植物の形態の部分は略し効用についてみると﹁

0

えよ

う︒

ドロップ

ス ペ イ ン 廿 草 と 痰 切

輸入品の価格には︑長崎会所の値組み︑特許商人の落札値︑大坂

主治諸熱病︑中湿︑又シンキンケンノ酷属毒胸隔二陥ル者ヲ散シ︑

且ツ胸肺ヲ滋潤シ︑津唾ヲ生シ︑煩渇ヲ止メ︑口裡及ヒ胃中ノ倣熱

ヲ散シ︑膀院ノ諸疾ヲ治シ︑又能ク蒸気ヲ発ス︒末卜為シ或ハ諸薬

ニ和シ︑又湯或ハ灌卜為シ用ュ﹂産地はイス︒ハニャだという︒

﹃ロッテルダム局方﹄︵三版︑

和訳である橋本宗吉の﹃蘭科内外三法方典﹄(‑八

0

五刊︶巻一の

﹁単味能毒篇﹂では簡潔に﹁根亦味甘シ︒肺腎二蔵ノ諸病ヲ主治ス

ルコト名声アリ﹂という︒宇田川榛斎の﹃新訂増補和蘭薬鏡﹄︵一

八二八︶巻十三では︑甘草の項にオランダ諸局方に基づく詳しい説

明がある︒江戸時代にはスペイン甘草について正確な知識があった

が︑そのものの輸入はなかった︒

﹃蘭科内外三法方典﹄巻一では﹁甘草﹂とは別に﹁甘草膏効験甘

草根二同シ﹂が載り﹁蘭ドロップ按和俗ノ云ズボト是也﹂とある︒

ドロップの歴史は古く︑京都の薬陣遠藤元理の﹃本草弁疑﹄(‑六

八 一 刊

︶ 巻 五 異 国 産 に 函 鄭 互 芦 幻 げ 竺 賃 甘 草 等 ヲ 煎 蒸 シ テ カ

タメクルヤウニ見ュ︒色黒ク甚甘クシテ能咽ヲ潤スモノナリ︒乾咳

嗽痰血諸痰二良ナリ﹂とある︒ズウトホウはN

ou t  ho ut

甘木だろ 一七三五︶の注釈書︵一七四七︶の

その製法は大坂の三宅意安の﹃延寿和方彙函﹄︵一七五八成︶下

巻の﹁紅毛ズウトホフ﹂には︑甘草六両に水一升を加え半分に煮つ

め飴状になったら︑百薬煎・氷糖・上茶・乾姜各一両を粉末に揚き

合わせて膏につくる︒﹁伝日︒今処々販之者多︒斯方享保年間来朝紅

(12)

従文 化元 甲子 至天 保四 癸巳

︱︱

︱十 年之 間

高 直 百 目

安 直 拾 九 匁

四九

文化 文化 文化 文化

文化 文

文化 文化 化

文化 文化

元(

‑八

0四

︶ 年 三 拾 目 二(

‑八

0五

︶ 年 拾 七 匁

︱︱

‑︵

一八

0

︶ 年 拾 九 匁 四(

‑八

0七

︶ 年 廿 三 匁 五(

‑八

0

︶ 年 廿 匁 高 直 四 拾 三 匁 六(

‑八

0九︶年三拾七匁 七(

‑八 一

0)

年︱︱︱拾目八(‑八︱一︶年三拾八匁

九(

‑八

︱二

︶年

︱︱ 一拾 九匁

+︵一八︱︱︱‑︶年四拾目 文化十一(‑八一四︶年四拾壱匁文化十二(‑八一五︶年五拾目文

化十

︱︱

‑︵ 一八 一六

︶年 八拾 五匁

文化十四︵一八一七︶年五拾六匁

文政元(‑八一八︶年四拾六匁 文政二(‑八一九︶年五拾三匁

文政

︱︱

‑︵

一八

0 )

年 六 十 目 文 政 四 (

‑ 八 ニ

︱ ) 年 百 目 文政五(‑八二二︶年五拾七匁

文政六(‑八ニ︱︱‑︶年四拾八匁九分

文政七(‑八二四︶年四拾五匁

文政八(‑八二五︶年︱︱一拾七匁

文政九(‑八二六︶年弐拾四匁 文 政 十 (

‑ 八 二 七

︶ 年 廿 八 匁 九 分

文政十一(‑八二八︶年三拾弐匁

文政十二(‑八二九︶年三拾目 天保 元(

‑八 一︱

1 0 )

年 四 拾 五 匁 天保二(‑八一=一︶年四拾目

天保

︱︱

‑︵

一八

一︱

︱︱

一︶

年︱

︱一

拾五

匁 天保 四(

‑八 一︱

︱︱

︱‑

︶年 弐拾 五匁

天明六丙午ヨリ享和三癸亥マテ十八年之間

高 直 百 三 拾 五 匁 安 直 弐 拾 六 匁 九 分

蘭陀禽獣虫魚図和解﹄︵一七四一︶の成立を助けた︒

日本人に大きな影響を与えたシーボルト︵滞日一八二三ー.二九︑

五九ー六二︶も常用していた︒高良斎がまとめた﹃薬品応受録﹄

︵一八二六刊︶の﹁吾邦︵ドイツ︶固ョリ有ル所ノモノ凡三十品﹂

日した折の貿易用の荷物に﹁痰切﹂があった︒

﹃薬種荒物高下録﹄紅毛物痰切

シーボルトはオランズポウトゥ痰切として輸入されていたのだった︒

に﹁リクキリチャ甘草︒ドロップ甘草膏﹂とあるばかりでなく︑来

郎通訳︶し︑

ヨンストンスの動物図譜蘭語版について解説し﹃阿

毛人︒武志苦留須者︒伝長崎土人方也﹂とあって︑蘭館医の

Ph il ip Pi te r 

M u

s c

u l

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  (滞日一七三九ー四八︶が伝えたという︒ムスクル スは寛保元︵一七四一︶年に江戸長崎屋で野呂元丈と対談︵吉雄藤

ダ東印度会社の医師として文政六(‑八二三︶年の紅毛船にのって 来日したが︑村上文書の﹃未紅毛脇荷見帳﹄の五番部屋の項に﹁し

いほると﹂と朱書してあり︑⑬ 拾参斤﹂とあるのである︒)

五十一品目の第五十番目に﹁痰切百弐 痰切については江戸八官町の薬舗・大坂屋四郎兵衛︵藤井咸斎︶

の﹃増補手板発蒙﹄(‑八二四刊︶の追加に﹁ズボウトウ

ロップハンズウトボウト﹀卜云ヲ本邦ニテ転訛シテ令ズポウトウ﹀

ト云ナリ︒俗ニコレヲ痰切卜云︒京都ニテ︿ズドウボウ﹀卜云︒黒 色ニシテ光アルモノ上品ナリ﹂とある︒意外にも︑スペイン甘草は

蘭名︿ト

(13)

状に合うようになった︒﹃薬局方﹄の甘草の原植物の規定から︑日 まず﹃日本薬局方﹄では初版(‑八八六︶から第五改正(‑九三三︶まで︑甘草の原植物として

G . glabra

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g .  

la

nd

ul

if

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a

の根

さや

及走根としている︒漢薬の甘草は無視され︑爽に剌毛のないスペイ

ン甘草の系統のみを規定していた︒第六改正(‑九五一︶で

G .

ur

d[

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s i s

又は同属植物の根及び根茎と改められ︑ようやく漠薬の

甘草に適合するようになった︒第七改正(‑九六一︶では

G . glabra 

v a r .

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a n c l

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又は他の同属植物とあり︑第十一改正(‑九八

六︶で

G . u r

a l e n

s i s  

G .   g

la

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aまたは他の同属植物と改められ︑現

五 明 治 以 後

る ︒ いる︒価格は高値七十七匁五分︵一七七四︶六十五匁(‑八二

0

︑ づつ落札されており︑四十年代には年千斤を超えて二千斤に迫って 数十斤がもたらされたにすぎないが︑十九世紀前半には連年数百斤 よって︑付表二痰切年次落札状況表を作成した︒十八世紀には時折

痰切の輸入は﹃舶載薬物録﹄(‑八二

0 )

に載らず︑注意されるこ

とが少なかったが︑越後屋の﹃薬種荒物高下録﹄の﹁紅毛物﹂に大

坂の薬種中買相場の大引値を挙げているので︑掲げておく︒高値は

百匁(‑八ニー︶安値は十九匁(‑八

0

六︶で︑ほぽ五倍の差があ 二︱)安値は八匁四分一厘で︑九倍強の差がある︒ 紅毛船脇荷物による痰切の輸入については︑廿草と同様の操作に

ており︑年によっては中国からの輸入菫を凌駕している︒ 甘草の輸入は明治以降増えつづけた︒十年ごとの年次輸入量と金額を︑大蔵省関税局の﹃日本貿易年表﹄によって示すと左表のようになる︒その数字は十年の集計ではなく︑十年ごとに一年間の数字をあげ︑全体的な趨勢を示した︒年量でいえば江戸時代に比べて明治時代は数倍︑明治初に比べて百年間に二十倍︑江戸時代に比べれば百六十倍を超す大蘊を輸入しているのである︒輸入先も中国のみでなく︑ソ連︑アフガニスタン︑バキスタン︑イランなど多様化し

最近二十年の大量輸入の大部分は︑醤油など食料品の甘味料や︑

煙草の添加物としての使用に向けられているようである︒薬用原料

⑭ には一割も使用していないという統計もある︒ 本の近代化が如何に強引な西欧化であったかがうかがえる︒

日本貿易年表による甘草の輸入

西 暦 元 号 年輸入量 金 額

1880  明治13 446,578  21,300  1890  明治23 288,391  12,347  1900  明治33 209,236  215,29  1910  明治43 762,194  80,756  1920 大正9 1,638,300  451,656 

kg 

1930  昭和5 2,221,140  666,597  1940  昭和15

1950  昭和25

1960  昭和35 367,585  44,5千円24  1970  昭和45 5,833,094  453,128  1980  昭和55 9,693,109  1,597,291  1981  昭和56 5,686,554  1,052,341  1982  昭和57 9,272,702  1,964,871  1983  昭和58 7,448,720  1,643,022  1984  昭和59 8,184,108  1,836,149  1985  昭和60 12,891,189  2,789,273  1986  昭和61 5,557,041  993,453  1987  昭和62 10, 723, 342  1,  678, 843  1988  昭和63 8,643,890  967,198  1989  平成1 9,272,457  1,594,126 

五〇

(14)

¥/  COOH 

GlcA̲g̲GlcA‑0 

(3  (3 

g l y c y r r h i z i n  

g l y c y r r h e t i c   a c i d  

' +  

2  g l u c u r o n i c  a c i d  

つぎに薬理・成分研究について総括しておこう︒甘草ニスキは胃

液分泌抑制︑消化器性潰傷治癒促進︑鎮痙︑鎮咳︑副腎皮質ホルモ

ソ様︑エストロゲン様作用がある︒有効成分とされるグリシリチン

は︑砂糖の五十倍の甘味があり甘味料として利用される︒加水分解

によってグリシレチン酸と二分子のグロン酸を生成し︑甘味を消失

する︒グリシリチンは副腎皮質ホルモン︑とくにアルドステロン様

作用︑抗炎症︑抗アレルギー作用がある︒サボゲニンとしてグリシ

八七八︶︑生体内の異物とェステル結合またはエーテル結合を形成

し︑抱合解毒する作用がある︒東大薬学科の生薬教室出身の石舘守

三教授は︑生体内酸化物に興味をもち︑昭和二十五(‑九五

0 )

には糖からのグルクロン酸の合成に成功していたC石舘教授の医薬⑮ 品としての可能性の示唆を受けて︑中外製薬は昭和二十六(‑八五

一︶年にグルクロン酸の工業化に成功した︒中外製薬は解毒促進・

肝機能改善剤﹁グロンサン﹂粉末として発売し︑急成長をとげるこ⑯ とになった︒

昭和一二十五(‑九六

0 )

年には疲労回復栄養補給剤として︑グロ

ンサソ内服液を発売し︑続出する競合品を退けて︑たちまち市場シ

ェア第一位を確保した︒グロンサン製剤は三十年代末には︑中外の

総売上げの五割を占めるまでになっていた︒ む︒グルクロン酸は生体内に常在する糖の一っとして発見され︵ 甘草の有効成分であるグリシリチンは二分子のグルクロン酸を含 ルレチン酸のほか︑多くのトリテルペノイド類が存在する︒

(15)

化しはじめた︒それによると体外から投与したグルクロン酸は︑解 の酵素が関与するグルクロン酸抱合の機構を追求した研究が︑活字 おりから(‑九五四頃︶アメリカの生化学者たちの︑肝臓組織内

アメリカの報告を承毒抱合に関与しないのではないかと思わせた︒

けて︑東大医学部物療内科の高橋暁正講師は︑グロンサン無効論を

朝日新聞︵昭和一二八年一月︶に掲載した︒それは強肝薬から保健薬

⑰ 全体の批判にひろがり︑ついには厚生省の薬効再評価(‑九七一︶

を引きだしたと言えよう︒

中外は大打撃を受け昭和四十一(‑九六六︶年には無配に転落

し︑四十八(‑九七三︶年まで業績が低迷した︒グロンサンの成功

と挫折が︑初期の中外の盛衰の大部分だった︒

九六二︶年にはサリドマイド禍︑四十(‑九六五︶年にはアンプル

風邪薬による死亡事故︑四十三(‑九六八︶には

PCB

によるカネ

`︑︑油症︑四十四(‑九六九︶年にはスモン調査研究協議会が発足す

るなどの薬害のほか︑水俣病をはじめとする公害病が顕在化した時

代だった︒所得倍増(‑九六

OI

0 )

シバニールを上市し︑ ようやく中外製薬は昭和五十(‑九七五︶年に抗癌溶連菌製剤︒ヒ こ ︒

ちょうど三十七(‑

への反省が必要になってい

五十︱︱‑︵一九七八︶年にはグロンサンのミニ

ドリンク剤への切替などによって︑将来への展望がひらけたのであ あり︑江戸時代に比べて百六十倍以上という大量である︒ ころが多いことは言うまでもないが︑それに多少とも上積みができたと思う点を列挙して︑あとがきとしよう︒

江戸時代の日本人は︑中国のウラル甘草を輸入したばかりでなく︑

国産代替の努力から真正のウラル甘草の植物の移植にも成功してい

た︒残念ながら蓋産にいたらず︑また原植物を誤認した人たちの方

甘草の輸入については︑現在を遡ること二百五十年間について︑

輸入状況を追跡することが可能である︒明治以後の﹃日本貿易年

表﹄と︑江戸時代三百年のうち後半の百五十年間について︑商業文

書から輸入量と値段を追究し︑それを年次表にまとめた︒江戸時代

後半の輸入・消費量は年平均七万斤︵六〇トン︶で︑しかも始と終

で大差がなかった︒江戸時代の半ば以後︑甘草については一定量が

需要され︑消費されて大きな増減がなかったDしかし明治以後どん

どん増加し︑今日では輸入量は年一万トン十六億円を超えることが

江戸時代にはスペイソ甘草もニキス剤の痰切として輸入していた︒

十八世紀には数十斤が時折もたらされたにすぎなかったが︑十九世

紀には毎年数百斤となり︑半ばには千斤を超えて二千斤に迫る勢い

u

だった︒痰切の製造技術は蘭館医ムスクルス︵滞日一七三九ー四八︶ が多かった︒ 甘草の日本の輸入状況について述べてきた︒従来の研究に負うと

'  あ と が き

(16)

① 上田 一︳ 一平 著一

︳一 浦一

︱一 郎編

﹃増 補改 訂日 本薬 園史 の研 究﹄

︵一 九七 二︑ 渡

辺書店︶五一ページ︒

②覆刻本(‑九七七︑八坂書房︶︹生活の古典双書

2 0 ︺の奥山春季の解説

では

G.

gl

ab

ra

L .  

つまりスペイン甘草をあてる︒一︱ベージ︒

③﹃本草図譜﹄九十三巻は一一度複製本がつくられた︒本草図譜刊行会の

彩色木版本(‑九一六ーニニ︶と︑神宮文庫本による同朋社出版の原色

写真版(‑九八

0

ー八一︶とである︒前者に付した白井光太郎・大沼宏

乎の名疏では

G.

e c h i

n a t a

に当て︑後者の解説である北村四郎・塚本洋

太郎・木島正夫の﹃本草図譜総合解説H﹄︵一九八六︑同朋社出版︶一0ー一︱ページではウラル甘草を当て﹁悪図である﹂という︒

④①に伊沢一男﹁江戸時代の甘草栽培史﹂︱︱︱七四ー七八ページを収める︒

⑥中国科学院植物研究所編﹃中国主要植物図説豆科﹄(‑九五五︑北京

科学出版社︶四三六ー三九ページなど︒日本人の著書としては佐藤潤乎

著﹃漢薬の原植物﹄︵一九五九︑日本学術振興会︶五九ページにウラル

甘草の植物を図示している︒

⑥朝比奈泰彦監修﹃正倉院薬物﹄︵一九五五︑植物文献刊行会︶付録︒

⑦山帰来は中国の土袂苓︒ユリ科

Sm

il

ax

g la b

r a  R

OX

BU

RG

HI

の乾

燥塊茎︒サルトリイバラの近縁植物︒癒毒の治療に使用し︑家庭薬の原

料と する

⑧着香はシソ科カワミドリに類縁の

Ag

as

ta

ch

e

wg

os

us

K  O

TZ

E の乾

煉地上部︒広着香は︒ハチョリ

Po

go

st

em

on

C a l b

i n   B EN TH AM

で萱香

正気散などに処方され感冒.胃もたれ・吐写に使用する︒

⑨︱︱︱井文庫所蔵︑本一六七二号︒翻字については多治比郁夫氏の示教を

得た

⑩﹃明安調方記﹄和漢薬名附による︒﹃長崎県史史料編第四﹄(‑九六五︑

が伝

えた

︒ 甘

草 の 輸 入

入札回数

暦 年 号

一七六五明和

2 7

五四八九〇

一七六六明和

3 4

︱︱

一五

一九

一七六七明和

4 1

四0

八二

一七

0

明和

71 6‑

︱七

0

五七

0

一七 七一

︳明 和

812‑

︱ ︱ ‑ ︳

八 ︱ ︱

10

西

落札量︵斤合勺オ︶

付 表 一 甘 草 年 次 落 札 状 況 表

三︑八六一︑八一︱︱

四︑ 一九 ーニ

︱︱

︱︱

八︑七七

︑ 一 九 ー 一

︑ 九 九 三

︑ 七 九 二

︑ 一 六

価 格

︵ 匁 分 厘 毛

︶ 高 安

吉川弘文館︶五

0

一ペ

ージ

⑪︱

︱一 井文 庫所 蔵

0

10

一八

号︒

⑫ 大 槻 真 一 郎

・ 月 J l l

和雄訳﹃テオフラストス植物誌﹄(‑九八八︑八坂

書房

︶︳

︱‑

五九

ペー

ジ︒

⑬馬場誠﹁シーポルトの輸入品に関する資料等に就いて﹂﹃社会経済史

学﹄︵一九三四︶四巻八号九=ニー一二四ページ︒

⑭小城製薬の小城忠一社長の御教示を得た︒日本漠方生薬製剤協会企画

委員会︵委員長藤井正美神戸学院大教授︶﹃生薬生産・輸入および医薬

品需要の経年変化ー厚生省生薬資料統計値の粗整理﹄(‑九八九年︱︱︱

月︶

‑ 1 1

一カ

ンゾ

ウ︒

⑮石 舘守

︱︱

‑﹃ はま なす のこ みち

﹄(

‑九 六三

︑自 家版

︶三 一︱

︱ー

︱‑

︳四 ペー ジ ︒

⑯中外製薬社史編集委員会﹃中外製薬

6 0 年の歩み﹄︵一九八五︑中外製

薬株

式会

社︶

︱︱

‑ 0

ページ︒なお中外は大正十四︵一九二五︶年に鹿児島

県出身東京高商卒の上野十蔵によって創業︑昭和十八︵一九四一︱‑︶年株

式会社に改組︒

⑰高橋暁正﹃新しい医学への道﹄︵一九六四︑紀伊国産︶一六五ー七八ページ。高橋•佐久間昭・乎沢正夫編『保健薬を診断する』(-九六八、

三一書房︶一四九ー六四ページ︒

(17)

一七七二安永1

一七七四安永3

一七七五安永4

一七七九安永8

一七八0安永9

一七

八︱

︱天

明2

一七

八一

︱︱

天明

3

一七八四天明4

一七八五天明5 一七八六天明6 一七八七天明7

一七八八天明8

一七八九寛政1

一七九〇寛政2

一七九一寛政3

一七九二寛政4

一七九=︱寛政5

一七九四寛政6

一七九五寛政7

一七九六寛政8

一七九七寛政9

一七九八寛政

1 0

一七九九寛政

1 1

一八00寛政

1 2 一八0一享和1

一八0四文化1

一八0五文化2

一八0六文化3

一八0七文化4

一八0八文化5 一八0九文化67  8  3 

2 11  12 15  5 8  2  7  3  5  4 

7 10 10 16 17 21 10  9 15  1  5 12  1 1 21 

二三四一七二一四四00

一五0五0

七︱

︱︱

︱︱

︱九

0 五0一五0

0

一 六

10000 

一四 九〇

七八一六九

四六七九六

一四

一︱

︱六

一〇

一七六八四〇

二九七九二〇

ニ四

0 1 1

三二

五 五 ︳ ︱

‑ 五 一 ︱

一三

︱︱

10

五六

一=

二四

三八八一〇

三四 四八 一

二五四四二

‑=

四︱

二六

二三九六四

九七 九1 10

六五三八六

︱︱

︱︱

︱︱

一六

八 四九 九0 六︑

八0九六八三八六四三

一七六00

四四四七七

八〇

九0

‑︱

│0

︑八

︱︱

︱︱

二︑四九

二︑ 三 七

︑ 一 九 ー 四

︑ 0

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一八

︱︱

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9

一八

︱︱

︱︱

文化

1 0

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一八一五文化

1 2

一八一六文化

1 3

一八一七文化14

一八一八文政1

一八一九文政2

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一八二1一文政5

一八

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︱︱

文政

6

一八二四文政7一八二四文政7

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9

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一八二八文政"‑

一八二九文政

1 2

一八

一︱

10

天保

1

一八

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︱︱

天保

2

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一八

一︱

︱︱

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天保

4

一八三四天保5 一八三五天保6 一八三六天保7

一八

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天保

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1 0

7  8 11  18 16 14  9 11  7 11  9 91110910104 

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7 12 10  8 9 11 13 11  10 14 10  2 

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(18)

西 一八四0天保

1 1

一八四一天保

1 2

一八四二天保

1 3

一八四三天保14

一八四四弘化1

一八四五弘化2

一八四六弘化3

一八四七弘化4

一八四八嘉永1

一八四九嘉永2一八五0嘉氷3

一八五一嘉氷4

一八五二嘉永5

一八

五︱

︱︱

嘉永

6

一八五四安政1

一八五五安政2

一八五六安政3

一八五七安政4

一八五八安政5

一八五九安政6

一八六0万延1

一八六一文久1

一八六二文久2

入札回数

一七七一明和

8 1

一七七四安永

3 2

一八0四文化

1 2

8 20  3 12  5 10  5  3  5  8 

7 11  9 8  6  6  6  8  6  5 

︱ 二九︑0

︱︱

七︑

0 八六二︑0

六七六四七

一三 八︱ 10 0 六四 四三 一

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10

九二

八︱

︱︱

︱二

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︱︱

一五

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0

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九七

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︱︱

四六

五一

︱1

0

五九一七七

一六 二三 四︑ 一

五九0︱二︑五

六七

八一

︱︱

三六一九七

三四三二九

落札量︵斤合︶

付表二痰切年次落札状況表

五七︑六

七 四

︑ 五 ー 五 六

︑ 0

︱︱

︱︱

︱‑

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︑ 一 五 ー 八

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一四︑八五ニー六︑四九

一五︑五ーニ︑六八一︱︱

︑ 五 ー 九

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︑ 八 ー 八

︑ 三 二 八

︑ 八 六 九 ー 七

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︑ 五

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︑ 0

︱︱

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一二

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︱︱

1 0

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︱ 六

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︑ 一

︱︱

‑︑ 六︱

︱‑

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︑ 三 八

︑ ニ

︑ 六 二

︑ 五 一

一八0五文化

2 3

一八0七文化

4 1

一八

ニ︱

︱文

化1

0

一八一七文化14

一八一八文政1 一八

︱1 0文 政

3一八ニ︱文政4

一八一三文政5

一八二三文政6一八二四文政7

一八 一一 五文 政

8

一八 一一 六文 政

9一八二七文政10

一八二八文政

1 1

一八二九文政

1 2 一八 一︱ 10 天保 1

一八=二天保2

一八

一︱

11

一天

3

一八三三天保4一八三四天保5

一八 一二 五天 保

6

一八三六天保7

一八三七天保8一八三八天保9

一八三九天保10一八四0天保

1 1

一八四二天保

1 3

一八四四弘化1

一八四五弘化2

一八四六弘化3一八四七弘化4 3  ー 3  3  6  8  5  3  2  3  3  7  6  8  8  3  二三七五︑五

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0

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︱︱

︱︱

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︑六

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︱六

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一六

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六五

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︑二 九ー 四二

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︑ 五 ー 三 八

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︑ 九 ー 一 九

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‑│

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︱五

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︱︱

︱︱

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︑六 九 二 六

︑ 九 ー 一 三

︑ 四 九 二 五

︑ 九 ー 一 四

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参照

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