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藤村と絵画

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Academic year: 2021

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藤村と絵画

著者 加藤 一朗

雑誌名 阡陵 : 関西大学博物館彙報

巻 33

ページ 8‑16

発行年 1996‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00024158

(2)

藤 村

作家で絵の好きな人は多い。ゲーテの風景ス ケッチは堂に入ったものであるし、漱石の水彩 画も楽しい。藤村も例外ではなかった。という

より、絵画は氏の生活・創作活動と密着してい たといえよう。これは、(姻戚関係から)青少年 時代を氏の身辺近く過した筆者の想い出と感慨 である。例えば、氏は 「老嬢

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という短篇の挿 画を美人画家鏑木清方に依頼しているが、この ときヒロインの自筆の略画を参考に鏑木氏に予 め送りとどけている。どうも築者の感じでは、

画伯の描いた束髪のヒロインより、藤村がもっ と古風な髪型に描いた参考図の方がよりよく当 時の婦人像を表わしていたような気がした。ま た氏は小諸時代、「千曲川スケッチjを書き始め る前、ラスキンのターナー論の影蓉をうけて、

「雲の記録」を毎日綴っていたといわれる。こ の稿はのち氏の手で破棄されてしまったらしい が、多分に絵画的な叙述を含んでいたと思われ る。画家たちとの交友も生涯つづいていた。早 くは小諸時代に、夭折した天才画家青木繁が氏 を訪れているし、

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水彩画家jのモデルといわれ

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絵 画

加 藤 朗

る丸山晩霞とも親交があった。あと有島生馬、

石井柏亨・鶴三兄弟、安田靱彦等々との交流は つづく。有馬氏が日本で初めてセザンヌの伝記 を訳出したとき、その仏文原本を彼に送ったの も藤村であった。氏は旅するたびに手帳をたず さえ見聞をメモしたが、これにはいつも、氏の誠 に柔かな筆緻の略画がそえられていた。氏の絵 画の愛好と才能とは息子たちに伝えられ、次男 鶏二、三男蒻助は洋画家となった。前者はパリに 学んで二科会に属し、後者はベルリンに学んだ。

さて、藤村がもっとも心酔していた画家は雪 舟であった。氏が「山陰土産]を書いたときの 旅行に鶏二を連れていったのも、雪舟の故地に 鶏二をなじませようとしたものではなかったか。

雪舟といえば想い出すことがある。氏が未完・

絶筆となった「東方の門』の構想を練っていた ころのことである。よく氏は番町の新居の、畳

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石井鶴三作「藤村座像」

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敷きの応接問に雪舟の 「山水長巻」の複製を広 げて、いつまでも眺めていた。氏は言った。「こ んどの作は、永徳の筆の力強さと雪舟の長巻の 連続感で行くつもりです」と。狩野永徳の遺作 の数は少ないが、日光にある獅子の図などはい かにも力感にあふれている。この番町の家の応 接間にはもう一つの想い出がある。そのころ、

画家であると同時に彫刻家でもあった石井餡三 が藤村に肖像画を描きたいと申し出た。藤村は

「石井さんでしたら彫刻にして下さい」と望ん だ。こうしてこの応接間で、氏は約一週間にわ たり、毎日一時問ほど石井氏のモデルとなった。

氏はあとで「モデルとなってじっと座っている ということは仲々大変なことでした」と語って いた。彫刻制作の一般的な手法なのであろうか、

石井氏は太い針金を正座している藤村の胴から 頭にかけての線に似せて折り曲げ、これに固ま らないように油で練った粘土を手際よくからま せていった。筆者は毎日この二人の様子を見て いたわけではないが、石井氏が指に爪を彫って いたとき、藤村は「爪を作るのはいやですね」

と言い、石井氏はその場で爪の部分を消し去っ たという。この話は、当時洋画の写実主義と印 象主義との違いに関心をもっていた筆者にとっ て、一つの解答が与えられたような気がした。

藤村の書いたものを読むと、氏が文学上の印象 主義についても深く思考していたことがわかる。

パリ時代の藤村は、フランス語を学ぶかたわ ら、音楽会や美術館にもよく足を運んだらしい。

音楽については小さなホールを訪れることを好 んだといわれるが、ドビッシーの曲などの印象 主義的なものを愛好していたのではあるまいか。

もともと若くして詩人として世に出たころ、詩 作のために音楽学校に通ったというほどで、音 楽に造詣は深かったわけであるが、すべてに感 受性が人一倍強かった氏は、当時「良い音楽を 聴くと涙がとまらなかった」と書いている。絵 画の場合にも印象派などの作家に関心が深かっ たと想像されるが、「マチスぐらいまではわかり ますが、そのあとになるとわかりませんね」と 語ったことがある。抽象画やいわゆるモダンア ートは好きになれなかったのかも知れない。一 方、印象派の盛んだった時代の作家であったが、

装飾風の絵を描いたシャヴァンヌに対する愛好 (16ページヘ続く)

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藤村のスケッチ

(4)

(9ページより続く)

も深かったらしい。筆者が高校から大学に移る ころ、倉敷の大原美術館を訪れたあと、氏に「シ ャヴァンヌの漁夫の絵がありました」と告げる と、

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そうですか漁夫がありましたか」としばら く感慨深げに想い出にふけっているようであっ た。もちろんそのとき筆者の見て来た「漁夫」

と藤村がパリで接した「漁夫」とが同一のもの であった筈はないのであるが。それよりも何よ りも、氏の最後の作 「東方の門』の命名はシャ ヴァンヌがマルセーユの港を描いた「東方の門」

という絵の題名から来ていることは周知のこと である。

最晩年、一時藤村はエル=グレコの英文伝記に 読みふけり、さかんにアンダーラインをほどこ していたことがある。夫人静子(筆者の叔母)

は「生活にも芸術にも一途であったエル=グレコ の生涯にひかれたのだと思う」といっていた。

一途といえば、藤村の彫像を彫った石井鶴三も 一途であった。そのころ彼の描いた吉川英治の

「宮本武蔵jの挿絵は、心のこもったもので、

いわゆる挿画を超えるものとして有名であった が、藤村が新潮社から全集を出すことになって 表紙の装禎を石井氏に依頼したところ、石井氏 は表紙の中心の丸い輪の中に波をカット風に描 いたが、この準備のため、荒波で名高い千葉県 九十九里浜の宿に一週間滞在して毎日海を眺め て暮したという。又、藤村界かを粘土から桜材に 移すときも、適材を求めて自ら山にわけいった という。次男鶏二の友人の中では、のちニュー ヨークで抽象画を描いて有名になった岡田謙三 をかわいがっていた。岡田氏も一途な人であっ た。そのころも二科展は毎年秋上野で開かれて いて、普通、会員たちは初夏から夏にかけて、

出品作の作成に精を出したらしいが、岡田氏は 書道の書初めのように、元且に出品のための大 型キャンバスの前に座り筆をとったという。

昭和18年夏藤村が急逝したとき、長男楠雄は

「父は努力の人でした」と新聞社のひとに語った が、藤村自身一途であったことはまちがいない。

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第33号をお届け致します。今回も原稿をお 寄せ下さいました諸先生に対しお礼申し上げ

ます。

平成8年4月の職員の異動において網干善 教館長の再任と新採用者山口卓也主事が学芸 員として配属されました。皆様のご指導よろ しくお願いいたします。また小林弥生子学芸 員も 2月より復職し「内藤湖南」企画展を担 当し好評でした。「考古学入門講座」も第6回 となり平成6年に引続き 7年は「古墳出土の 遺物」と題し、 5人の謂師により馬具、埴輪、

石製品、弓矢、土器の講演がなされ、毎回約 300名の受講者が熱心に聴講下さいました。共 催下さいました事業課の担当の皆様にお礼申

し上げます。

博物館として公開したことにより、資料寄 贈の申し出や反対に貸出依頼もかなりあり担 当者が応待に追われることもあります。所蔵 資料に対する一段の学識をそなえることが望

まれます。

さんない

青森県三内丸山遺跡で縄文遺跡が発見され、

縄文時代が注目されています。表紙の資料は

「縄文土器」で注口土器といわれるものです。

古くは土瓶形土器、急須形土器などと呼ばれ ていた土器で、縄文晩期後半の大洞ら式土 器に分類されるもので、東北地方を中心に出 土しています。 口径7.8cm、殻大径11.4cm、高 さ6cmです。 (角田芳昭)

関西大学博物館彙報 No.33 平成 8年 9月30日 発 行 関 西 大 学 博 物 館 編 集 ナニワ印刷膀 印刷

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参照

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