堺市土山窯跡の検討 : 出土遺物の整理を中心に
著者 海邊 博史
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 5
ページ 205‑218
発行年 1999‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16553
関西大学博物館所蔵品の中に︑﹁和泉国泉北郡陶器村土山窯跡﹂出土
とされる一連の遺物がある︒土山窯跡については︑管見では末永雅雄先
生の調査記鏑︵﹁和泉国陶器村窯跡發掘概要﹂以下︑末永報告と記す︶が
知られるのみで︑現在︑その実態はほとんど判明していない︒出土遺物
②については︑﹃本山考古室要録﹄に所収されており︑当時からその存在
は知られていた︒中でも円筒埴輪は︑当時︑新式埴輪の類例として他の
窯跡出土埴輪の調査報告に取り上げられるほどであっ向︒今回︑土山窯
跡出土品について検討する機会が与えられたので紹介を行い︑併せて土
山窯跡について若干の検討を加えてみたい︒
土山窯跡は︑堺市辻之一五○三番地に所在する︒この地点は陶器千塚 |︑土山窯跡の現状 はじめに
堺市士山窯跡の検討
l出土遺物の整理を中心にI
④古墳群の一画に位置し︑東側には前方後円墳である御坊山古墳や︑内部
主体がいわゆる﹁カマド塚﹂と呼称される陶器千塚一二号凝・二九号為︑
北側には内部主体が木芯粘土室である陶器千塚三号島などが点在する︒
③⑨⑪
周辺には︑辻之遺跡・田園遺跡・小角田遺恥・陶器南遺跡などの古墳時代を中心とした集落遺跡が分布する︒これらの遺跡は陶邑工人との関わ
⑫りが指摘されている︒
⑬地形的にみると︑泉北丘陵上の洪積段丘高位面に位置している︒泉北
丘陵には︑小規模な開析谷が西から北西の方向に形成されている︒土山
窯跡は︑東西にのびる丘陵の傾斜変換点上︑南面する急勾配の斜面地に
立地しており︑現状では竹林となっている︒戦前までは松林で︑第二次
大戦中は斜面を利用して︑炭焼きが行われていたとのことである︒北側
は丘陵上を掘削した平坦地となっており︑現在︑畑地となっている︒斜
面を下った南側は︑東西方向にのびる狭い谷地形になっており︑陶器川
が地形に沿って流れている︒
土山窯跡の所在地について末永報告では︑﹁西陶器村字辻之土山﹂と
いう地名と︑﹁辻之村西南方に南面する斜面地﹂という記述があるのみ
海邉博史
二○五
窯跡 古墳 士山窯跡 陶器千塚古墳群 御坊山古墳 陶器遺跡 陶邑窯跡群 東山遺跡 陶器千塚29号墳 辻之遣跡 田園遺跡 田園城跡 陶器山222号窯 陶器城跡(北村砦跡)
小角田遺跡 上之遣跡 陶荒田神社遺跡 陶器東遺跡 陶器南遺跡 山本氏所蔵腿出 土地
図l 土山窯跡周辺遺跡分布図(S=1/20,000竹原1996を元に作成)
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土山窯跡の調査年月日について︑末永報告では全くふれていない︒し
かし︑﹃本山考古室要録﹄の遺物解説の項に︑﹃昭和六年十月十六日およ
⑭ぴ昭和六年十月十八日末永發掘﹄と記されている︒また︑土山窯跡出土
の円筒埴輪内面には︑﹁昭和七年一月五日発掘﹂との貼紙がある︒この
年月日は︑ごく短期間に発掘調査を行ったという記述とも符合する︒ 二○六
で︑具体的な所在地についてはふれられていない︒しかし︑当時の土地
所有者山本千代松氏︵末永報告には千代吉となっている︶の孫にあたる山
本睦夫氏が現在でも町内に居住しておられ︑聞き取り調査により詳細な
位置が判明した︵図1︶︒山本氏の父親︵故人︶が︑発掘調査が行われたこ
とを記憶しておられ︑しばしばその話を聞いていたとのことである︒山
本氏の案内で現地を踏査したが︑末永報告所収の地形略図︵図2︶と現在
の周辺地形がほぼ一致した︒山本氏によれば︑開墾以来︑現在に至るま
でほとんど地形の改変は行われていないとのことである︒現状において
も︑当該地に長き四・六脚︑幅一・四燭にわたり若干の窪みがみられる
こと︑周辺から須恵器などの遺物を採集できたことなどを勘案すれば︑
この位置が末永先生が調査した土山窯跡と推測できる︒山本氏の父親が
﹁毎日新聞の社長さんが一緒に見に来ていた︒﹂と話していたことと︑こ
の調査が毎日新聞社長本山彦一氏の企画の元で行われたという末永報告
の記述とも矛盾がない︒この斜面地には他にも複数の窪みが観察でき︑
他にも幾つかの窯跡が存在している可能性がある︒
二︑末永雅雄先生の調査記録
以下︑末永報告を引用する形で窯の形態を説明していきたい︒
窯は︑長さ二七尺余り︵約九燭︶︑中央部の長さ十四尺︵約四・七届︶を
測る︒構造は︑﹁先づ自然の傾斜地に︵中略︶アーチ形の坑穴を穿ち︑更
に天井︵中略︶左右雨壁︵中略︶に泥土を塗って内壁を成す﹂とあり︑半地
下式であることがわかる︒また︑内壁についてはコ時に︵中略︶厚苔を
構成したものではなくして數度に塗り厚められてゐて︑その明瞭なる部
写真3撮影地点
、
I
撫繍遡剛〃職w#
斜 面 地
9
、窯体調査柵 :一二I"
図2土山窯跡地形略図(末永1932を一部改変)
分に於ては四層を認め得る﹂とあり︑幾度か壁体の補修が行われていた
ことが推測される︒調査は焚口および燃焼部︑そして焼成部の一部のみ
が発掘された︒排煙部は︑調査時には既に削平されていたようである︒
遺物の大半は︑窯の床面付近から出土した︒須恵器杯蓋・杯身は︑整
然と蓋をしたまま発見されたとある︒後述する窯体塊︵図5︶の形状か
ら焼成中に壁体が崩壊したと推測できる︒
A
A,
c、
須恵器杯?土師器甕?須恵器提瓶?須恵器蕊?
図3士山窯跡窯横断面スケッチ(末永1932を一部改変)
二○七
関西大学博物館において︑土山窯跡出土遺物は計二三点確認できた︒
内訳は須恵器杯蓋九点︑杯身九点︑提瓶一点︑甕一点︑土師器甕一点︑
須恵器溶着窯体塊一点︑円筒埴輪一点である︒いずれも︑﹃本山考古室
要録﹄に基づいた遺物番号が記されている︵表1︶︒末永報告によると︑
これらの他に須恵器片や獣骨などが出土したようである︒昭和四○年代
には︑筒状の置き台が陳列されていたとのことだ偽︑現時点では確認で
きなかった︒
須恵器杯蓋・杯身︵11Ⅲ︶
須恵器杯蓋・杯身は各九点ずつある︒︵1︶から︵8︶は︑杯蓋・杯身に
同一番号が付されている︵表1︶︒末永先生が遺物番号を付されたのは
調査からあまり期間を置かずに行われたと推測できることか恥︑本来的
なセット関係が想定される︒しかし︑︵1︶.︵2︶.︵7︶は法量的に若干
の疑問が残る︒杯蓋︵9︶︑杯身︵蛆︶には︑それぞれ対応する杯身・杯蓋
を確認することはできなかった︒これらはいずれも焼成は良好で︑杯蓋
︵3︶を除いてほぼ完形である︒杯蓋︵3︶は︑完形の五分の三程度︑杯身
︵5︶は定形の五分の四程度残存している︒
杯蓋は︑口径一四・○芯から一五・七芯︵平均一四・九巻︶︑器高三・
四津から五・○華︵平均四・三毒︶を測る︒口縁部は︑いずれもまつすぐ
にのびる︒口端部は︑弱い段を有するもの︵1.2.6.9︶と︑内側に
端面をもつもの︵3.7︶︑段をなさず丸くおさめるもの︵4.5.8︶に 三︑関西大学博物館所蔵遺物 二○八
大別できる︒︵3.7︶の口端部外面には︑全周にわたってナナメ方向の
刻み目がみられる︒︵1.3.5.6.7.9︶は︑天井部と口縁部の境
に一条の凹線を有する︒︵1︶の内面中心部には︑同心円状の当て具の痕
跡が観察できる︒天井部外面三分の二から五分の四に回転へラケズリを
施す︒ヘラケズリの方向は︑︵1.3.4.5.6.8.9︶が右回り︑
︵2.7︶が左回りである︒︵1.3︶は天井部にそれぞれ﹁r︑﹁﹂の︑
︵2︶は天井部に﹁一﹂の︑体部に﹁n﹂のへラ記号を有する︒
杯身は︑口径一二・六巻から一四・○巻︵平均一三・一堯ン︶︑受け部径
一五・○芯から一六・六巻︵平均一五・六芯︶︑器高四・一夷ンから五・二
巻︵平均四・七毒︶を測り︑比較的一定した法量をもつ︒立ち上がりは緩
やかに外反するものと︑直線的にのびるものに大別できる︒端部は弱い
段を有するもの︵2.6︶と︑段をなさず丸くおさめるものの両者がある︒
端部を丸くおさめるものの中には︑内側に緩い端面をもつもの︵3.5︶
がある︒受け部は︑いずれも端部を丸くおさめる︒底部は︑全体的にや
や扁平な形態を示すが︑︵7︶のように底部中央がやや尖った新しい様相
を呈するのもみられる︒︵6︶の内面中心部には︑同心円状の当て具の痕
跡が観察できる︒いずれも︑底部外面三分の二に回転へラケズリを施す︒
ヘラヶズリの方向は︑︵1.3.4.5.7.9︶が右回り︑︵2.6.
8︶が左回りである︒︵7︶は底部に﹁一﹂の︑︵帥︶は体部上半に﹁U﹂
のへラ記号を有する︒
須恵器提瓶︵Ⅲ︶
口径八・○巻︑器高一九・八芯︑胴部最大径一五・一夷ン︑胴部最大幅
一○・五毒を測る︒口縁部は緩やかに外反し︑口端は口唇を表現しない︒
二了~3~~
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=—ノ遍直繭画,,,,,, ‑
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三
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図4 土山窯跡出土遺物実測図(1)
頚部はナデ︑胴部は把手周辺以外の全面にカキメを施す︒把手は︑鉤状
耳を接合する︒内面は頚部のみ調整が行われ︑胴部の製作技法や頸部の
接合方法が明瞭に観察できる︒胴部の一部を破損しているものの︑ほぼ
完形である︒末永先生作成の土山窯跡窯横断面スケッチ︵図3︶にも提瓶
が描かれており︑窯内から出土したことは疑う余地がない︒
須恵器甕︵吃︶
口径二一・六零︵復元︶︑残存高一三・○芯を測る︒須恵器の甕として
は︑小型の部類に入るであろう︒口縁部は︑やや外反しながら上外方に
のびる︒端部は肥厚し丸く仕上げる︒端部外面には︑強い回転ナデ調整
による窪みが凹線状に生じる︒これに対応するように端部内面も若干窪
む︒肩部は︑肩が張らずなだらかな曲線をえがく︒外面は頚部にはカキ
メ調整が︑胴部には縦方向の平行タタキの後︑カキメ調整が施されてい
る︒内面は頚部が回転ナデ調整を施し︑胴部は同心円タタキを残してい
る︒口縁部付近の破損面が二次焼成を受けていること︑自然釉が数度に
わたり濃厚に溶着していること︑自然釉の流れが一定方向でないことな
どから︑置き台として用いられていた可能性が高い︒
土師器甕︵旧︶
口径九・八巻︑残存高二・三芯︑胴部最大径二・九芯を測る小型
の甕である︒底部は欠損する︒口縁部は緩やかにやや外方へと向かい︑
端部は肥厚しやや内弩する︒胴部は︑若干扁平気味の球形である︒調整
は︑胴部外面において縦・斜め方向の細かいハケメが施される︒部分的
に指頭圧痕もみられる︒頚部内面には︑横ナデと見誤るほど細かな横ハ
ケを施す︒胴部内面には︑ヘラ削りがみられる︒このため口縁部から胴 部までほぼ均一な器壁を有する︒窯の内部から須恵器と一緒に出土したとされているが︑残存状態や黒斑が認められることなどから︑窯内で須恵器と同時に焼成されたものではない︒
須恵器溶着窯体塊︵側︶
縦二一・七巻︑横一九・○芯︑厚さ八・三巻︵いずれも最大︶を測る窯
体塊である︒片面に自然釉が付着し︑この面に杯身二点︑杯蓋一点を溶
着しているのが観察できるが︑全体の六割程度を窯体塊が覆っている︒
もう一方の面は甕の胴部が付着している︒この面は︑それほど被熱を受
けていない︒﹃本山考古室要録﹄によると︑この遺物は窯床となってい
る︒しかし︑当初からの床面を想定するには自然釉の付着が不自然であ
る︒窯体塊の部位は天井か窯壁で須恵器上に崩壊して溶着し︑その後︑
再度床面付近で加熱されたものと理解したい︒おそらく甕の胴部は︑床
面にあった置き台であろう︒問題は甕の上部に溶着した杯蓋・杯身であ
るが︑これらは重ね合わきれており︑一見すると窯内部の状況がそのま
まパックされているようにみえる︒しかし︑詳細に観察してみるとそれ
ぞれの破損面に自然釉が付着している︒また︑重ね合わせていれば通常︑
自然釉が入りにくい内面にまで多量に流れ込んでおり︑破損後に複数回
焼成を受けている可能性が高い︒これらのことを勘案すれば︑︵岨︶と同
様に廃棄品を置き台として再利用していたことが推測できる︒溶着して
いる杯蓋・杯身は︑前述した杯蓋・杯身と型式的に大きな開きはないと
思われる︒
円筒埴輪︵帽︶
この円筒埴輪については︑近年刊行された﹃博物館資料図録﹄に詳細
一
一
一
○
具
ヶークーーーー‐、ー 刈
︑く﹄ヨ
付着
図5 土山窯跡出土遺物実測図(2)
一一一一
⑰な解説がなされている︒執筆者の了承を得て︑観察所見を一部省略した
上で引用する︒
﹁口縁部がラッパ状に緩く外反する器形で︑ほぼ完形品に近いもので
ある︒法量は器高五三巻︑口縁部径二八津︑底部径一九巻を測る︒外面
には四条の突帯が貼り付けられるが︑上から二・三段は剥離する部分が
多い︒突帯は断面形がM字状を呈する扁平なもので︑多少︑蛇行して張
り付けられる︒透し孔は上から二・四段目の相対する位置に穿孔きれ︑
二段目と四段目では直行して位置する︒製作技法は︑粘土紐を巻き上げ
た後︑外面調整として︑突帯の貼付前に斜め左上方向へハケ調整が施さ
れる︒ただし底部はハケ調整が省略され︑ナデによる調整にとどまって
いる︒内面調整はナデ調整を基本とし︑上半部にはハケ調整が施される︒
色調は淡黄色から灰白色を呈する︒焼成は硬質な焼き上がりで︑黒斑が
付着しないことから︑窯焼成によるものである︒以上の諸要素から︑こ
の円筒埴輪は︑川西宏幸氏の編年によるV期に位置づけられる︒実年代
をあてはめれば︑六世紀前半頃になるものであろう︒この時期の埴輪と
しては︑比較的に丁寧に製作されたものである︒和泉北部における川西
編年V期の典型的な円筒埴輪として位置づけられる︒︵中略︶本品が須恵
器窯跡出土なのか︑須恵器窯を構築した斜面の上方に存在した古墳出土
なのか︑現在では明らかに出来ない︒︵中略︶現時点では︑焼き歪みがな
いことや残存状況の良好さから︑古墳出土の可能性が高いものと考えて
いる︒﹂ 山本氏の案内で現地を踏査した際︑周辺から数点の遺物を採集するこ
とができた︒これらの遺物は︑土山窯跡南西側の特定箇所︵図2︶から採
集したものであるが︑斜面の他地点においても若干の遺物散布がみられ
た︒
須恵器杯蓋︵伯・〃︶
須恵器杯蓋の内︑図化できたものは二点である︒いずれも焼成は良好
堅級である︒︵坊︶は完形の四分の三︑︵Ⅳ︶は天井部の五分の二のみ残存
している︒
︵略︶は口径一四・七巻︵復元︶︑器高五・○穆を測る︒口縁部は︑若干
外反しながらまつすぐにのびる︒口端部は内側に端面をもつ︒天井部と
口縁部の境にやや退化した一条の稜を有する︒天井部は︑前述の杯蓋
︵1︶から︵9︶と比較して扁平である︒天井部外面五分の四に回転へラケ
ズリを施す︒ヘラケズリの方向は左回りである︒天井部には︑﹁×﹂の
へラ記号を有する︒
︵Ⅳ︶は残存高一・五巻を測り︑天井部のみが残存する︒天井部外面に
回転へラケズリを施す︒ヘラケズリの方向は右回りである︒天井部には︑
﹁一﹂のへラ記号を有する︒
須恵器杯身︵佃・旧︶
︵肥︶は口径一二・四巻︑受け部径一五・三巻︵いずれも復元︶︑残存高
四・五巻を測る︒立ち上がりは︑内傾しながら直線的にのびる︒端部は︑ 四︑土山窯跡踏査時採集遺物 一一一一一
二〉
19一一一
一
一一
一一
21 17
一雪一
0 10cm
土山窯跡周辺採集遺物および山本氏所蔵遺物実測図 図6
内側に端面を有し︑真上にのびる︒受け部は若干厚めであるが︑端部は
やや鋭く仕上げる︒底部は焼け歪みが激しい上︑欠損しており詳細は不
明である︒
︵岨︶は口径二・三巻︑受け部径一四・○芯︵いずれも復元︶︑残存高
三・七諺を測る︒立ち上がりは内傾する︒端部はほぼ真上にのび︑若干
つまみ上げられている︒受け部は︑やや鋭く仕上げる︒立ち上がりと受
け部の境には︑焼成時に付着したと思われる杯蓋の口端部が観察できる︒
須恵器溶着窯体塊︵釦︶
縦一三・六毒︑横二・八巻︑厚き五・七芯︵いずれも最大︶を測る窯
体塊である︒片面に自然釉が付着し︑この面に杯身の破片一点が溶着し
ている︒この面は強く被熱しており︑最大厚三・○芯にわたり釉化して
いる︒もう一方の面は︑窯体塊のみでそれほど被熱を受けていない︒こ
の窯体塊の部位も︵魁︶と同様に自然釉の流れ方などから︑天井もしくは
窯壁が崩壊して須恵器が溶着したものと理解したい︒窯体塊中に須恵器
片が混入していることから︑複数回窯壁を補修していたことが推測でき
ブ ー や
土山窯跡の現状および遺物について観察を行った︒これらをふまえて 0
まとめとしたい︒
土山窯跡は︑立地的には陶邑古窯跡群陶器山︵TK︶地区の範囲に含ま
⑱れる︒土山窯跡推定地は末永先生の調査時と比較しても地形的にもほと まとめ ノ
一一一一一一
んど変化がなく︑現状においても遺構が遺存しているものと思われる︒
また︑遺跡周辺では遺物の散布がみられる︒
土山窯跡は︑﹃大阪府文化財分布図﹄︵一九九六年伽︶において︑窯跡
としては記載されていない︒現在︑土地所有者のご好意によって現状保
存がなされているが︑急斜面地であるため土砂の流出などが進行しつつ
ある︒また所有者の話によれば︑度々︑所有地内に人が立ち入って遺物
を採集しているとのことである︒これらのことから一刻も早い埋蔵文化
財の周知を行い︑しかるべき保存策が講じられることを要望したい︒
次に関西大学博物館所蔵遺物について若干の検討を試みる︒
須恵器杯蓋は端部の︑また須恵器杯身は立ち上がり・底部の形態によ
り分類が可能である︒形態の差異は形式差に捉えられがちであるが︑末
永報告から類推するかぎり︑同一の窯床から出土した可能性が高い︒法
量は若干の幅があるものの︑ほぼ一定といえる︒これらのことを勘案す
れば︑同一型式の範晴で捉えることが出来るだろう︒形態・法量などか
⑳ら︑田辺氏編年のTKm型式併行期に相当すると思われる︒
須恵器提瓶は︑口端・胴部の形状を勘案すれば須恵器杯蓋・杯身より
も新しい様相を示す︒土山窯跡窯横断面スケッチ︵図3︶を信じるなら
ば︑他の須恵器とは別の時期に焼成された可能性が高い︒但し︑この提
瓶と時期的に対応する別の器種は確認できなかった︒
土師器甕は︑前述の通り窯内で焼成されたとは考えられない︒しかし︑
﹃本山考古室要録﹄によれば︑発掘によって出土したとされている︒須
恵器と一緒︵同じレベルで︶に出土したという記述を信じるかぎり単なる
混入とは考えにくい︒豊中市桜井谷窯跡群21羽号窯跡では︑閉窯後の 二一四
⑳床面に祭祀土坑が穿たれ︑内部に土師器の甕などが埋納されていた︒窯
の築造時期も近接しており︑混入以外の可能性として祭祀に伴う遺物で
あった可能性を挙げておきたい︒
円筒埴輪は︑末永報告によれば窯の排煙部上方において窯の長軸と平
行して倒れてあったとある︒十河氏が想定するように古墳出土とすれば︑
当該地内に存在する陶器千塚古墳群中のいずれかの古墳のものと推定さ
れる︒陶器千塚古墳群の群形成の時期は六世紀前半から末葉頃とされて
⑳おり︑時期的には矛盾は生じない︒しかし︑陶器千塚古墳群においてこ
れまで円筒埴輪は出土していない︒一方︑埴輪と須恵器の年代的なズレ
はほとんどなく︑両者を同時に焼成していた可能性も否定できない︒現
状ではいずれとも判断できないが︑今後の課題としたい︒
踏査時採集遺物は︑土山窯跡推定地周辺で採集したが︑型式的には関
西大学博物館所蔵遺物よりも古い様相を示し︑当地には土山窯跡以外に
複数の窯跡が存在していると考えられる︒なお︑須恵器杯蓋・杯身は︑
⑳形態などから︑田辺氏編年のTK卿併行期からMT賜併行期に相当する
と思われる︒
関西大学博物館所蔵品の中核は︑元来︑本山彦一氏のコレクションで
あったため︑出土地・出土状況・来歴などが不明なものが多く含まれて
い駒︒今回その中のごく一部の資料であるが︑その出土地や来歴を明ら
かにしえたことに小稿の目的を置きたい︒
最後になりましたが︑小稿をなすにあたり︑土山窯跡の土地所有者で
ある山本睦夫氏には多大なるご配盧を賜った︒また︑藤原学・柳本照男
・十河良和の各氏には︑遺物の観察所見をはじめ様々なご教示をいただ
︵補記︶聞き取り調査を行った際︑山本氏より一点の須恵器腿を実見させてい
ただき︑図6︵虹︶に示した︒出土地点は辻之遺跡の一画にあたる︵図1︶
山本氏の話によると所有地の道路拡張の際︑重機により掘り出されたと
のことである︒他に共伴する遺物はなかったようである︒直接土山窯跡
と関連はないが︑これを機会に紹介しておきたい︒
︵剛︶は残存高九・四毒︑頚部最大径五・七巻︑胴部最大径一○・一夷ン
を測る︒口縁部は欠損している︒胴部の肩はあまり張らず︑最大径は中
心のやや上側にある︒底部は指頭による押圧調整が施され︑やや尖って
いる︒頚部および胴部最大径付近に各々一条ずつ櫛描波状紋を施す︒胴
部波状紋の上側に一条の凹線がみられる︒ いた︒遺物実測に関しては︑布谷依子・正岡大実両氏の手を煩わせた︒末筆ではあるが︑記して深甚の謝意を表したい︒
①末永雅雄一九三二﹁和泉陶器村窯跡發掘概要﹂﹃考古学雑誌﹄第朋巻3
号考古学会
②末永雅雄一九三五﹃本山考古室要録﹄岡書院
③小林行雄・藤沢一夫一九三四﹁埴輪と祝部の窯趾﹂﹃考古学﹄第5巻第 ﹇註﹈
五
器 種 番号 本山番号 本山考古室棚番号 備考 須恵器杯蓋・杯身 1 220‑6 第7棚 セット関係疑問 須恵器杯蓋・杯身 2 220‑9 第7棚 セット関係疑問 須恵器杯蓋・杯身 3 220‑11 第7棚
須恵器杯蓋・杯身 4 220‑1 第7棚 須恵器杯蓋・杯身 5 220‑3 第7棚 須恵器杯蓋・杯身 6 220‑7 第7棚
須恵器杯蓋・杯身 7 220‑8 第7棚 セット関係疑問 須恵器杯蓋・杯身 8 220‑10 第7棚
須恵器杯蓋 9 220‑5 第7棚 杯身なし 須恵器杯身 10 220‑2 第7棚 杯蓋なし 須恵器提瓶 11 274 第7棚
須恵器甕 12 287 第7棚 土師器甕 13 244 第7棚 須恵器溶着窯体塊 14 287 第7棚
円筒埴輪 15 40 第5棚
須恵器杯蓋 16 4■■■■■■ − 表面採集資料
須恵器杯蓋 17 一 − 表面採集資料
須恵器杯蓋 18 − − 表面採集資料
須恵器杯蓋 19 − − 表面採集資料
須恵器溶着窯体塊 20 − ■■■■■■■■■■■■■■■■■ 表面採集資
須恵器睡 21 1■■■■■■ − 山本氏所蔵
Ⅲ号東京考古学会
④堺市博物館編一九八六﹃堺の文化財l指定文化財編l﹄
⑤森浩一一九七八﹁古墳文化と古代国家の誕生﹂﹃大阪府史﹄第1巻
大阪府史編集専門委員会
⑥石田修・白神典之一九八四﹁陶器千塚朗号墳発掘調査報告﹂﹃平井遺跡﹄
堺市文化財調査報告第妬集堺市教育委員会
⑦辻本武一九九四﹃陶器千塚発掘調査概琴Ⅲ大阪府教育委員会
⑧石田修︐十河稔一九八三﹁堺市辻之遺跡の調査l須恵器の選別・
出荷場推定地l﹂﹃考古学ジャーナル﹄測号ニュー・サイエンス社
⑨石田修一九八四﹃田園﹄Ⅱ堺市文化財調査報告第的集堺市教育委
員会
⑩樋口吉文編一九九八﹃陶器・小角田遺跡﹄堺市文化財調査報告第詔集樋口吉文編
⑪註⑦に同じ
⑫陶器郷士資料館研究室編一九八七﹁最近発掘調査された陶邑古窯跡群
関係の遺跡﹂﹃須恵器概説l陶邑窯を中心としてIIJ
中村浩一九八八﹁陶邑窯跡群における工人集団と遺跡﹂﹃古文化談叢﹄
第別集九州古文化研究会
⑬市原実一九九三﹃大阪層群﹄創天社
⑭﹃松陰本山彦一翁﹄では︑昭和七年十月の発掘となっている︒
故本山社長伝記編纂委員会編一九三七﹃松陰本山彦一翁﹄大阪毎日新
⑮藤原学氏ご教示
⑯土山窯跡の発掘調査は一九三一年に実施され︑その四年後に﹃本山考古
室要録﹄が刊行されている︒ 堺市教育委員会聞社 ⑰十河良和一九九八﹁円筒埴輪﹂﹃博物館資料図録﹄関西大学博物館⑱宮崎泰史編一九九五﹃泉州における古墳の調査﹄I陶邑Ⅷ大阪府教
育委員会
⑲竹原伸次編一九九六﹃大阪府文化財分布図﹄大阪府教育委員会
⑳田辺昭三一九八一﹃須恵器大成﹄角川書店
⑳柳本照男・浅田尚子編一九九六﹃桜井谷21羽号窯跡﹄豊中市教育委
員会
⑳高島徹一九八九﹁陶器千塚古墳群﹂﹃日本古墳大辞典﹄東京堂出版
⑳註⑲に同じ
⑭網干善教一九九五﹁序にかえて﹂﹃関西大学博物館紀要﹄創刊号関西
大学博物館
有井宏子一九九二﹃陶器千塚発掘調査概要﹄大阪府教育委員会
小葉田淳編一九七一﹃堺市史﹄続編第1巻堺市役所
阪田育功一九九三﹃陶器千塚発掘調査概要﹄Ⅱ大阪府教育委員会
中村浩一九七八﹁和泉陶邑窯出土遺物の時期的編年﹂﹃陶邑﹄Ⅲ大阪
府教育委員会 ﹇参考文献﹈ 一一一一ハ
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写 真
1
土山窯跡遠景(矢印付近南東から)二︱七
写真
2
写其
3
土山窯跡近景(中央左側の屈曲が図2
畑地の屈曲に対応 北から)八