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戦後世界貿易体制成立史(補遺) : 第1回GATT締約国 団会議の意義:GATTの認証から初期GATTへ

著者 山本 和人

雑誌名 同志社商学

巻 66

号 5

ページ 609‑638

発行年 2015‑03‑15

権利 同志社大学商学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013933

(2)

戦後世界貿易体制成立史(補遺)

──第

1

回

GATT

締約国団会議の意義:GATTの認証から初期

GATT

へ──

山 本 和 人

はじめに──多国間通商協定GATTの誕生

Ⅰ GATT第1回締約国団会議(1948年2〜3月)の開催に向けて

1.ITO憲章への調印とその施行の不透明性

2.協議事項の内容とアメリカ政府の方針

Ⅱ 敗戦国の扱いと新規加入国問題

1.敗戦国を巡るアメリカとイギリス・フランスとの確執

2.GATT加入に関する規定の修正・柔軟化──GATT第33条の修正と第35条の追加

Ⅲ 欧州復興計画とGATT──ITO憲章条文との早期入替えを巡って

1.GATT第29条原則を巡る論議

2.ドル不足への対応と欧州関税同盟形成への支援──GATTオリジナル文書第24条の入替え

①欧州復興計画と地域貿易協定に関する規定の深化:その1−関税同盟形成の条件と制約について

②フランス−イタリア関税同盟形成に関する決定──GATT第25条ウェイバー条項の発動

③欧州復興計画と地域貿易協定に関する規定の深化:その2−自由貿易地域形成の容認 おわりに──初期GATT研究に向けて

はじめに──多国間通商協定 GATT の誕生

1947

年

10

月

30

日に,第

2

回貿易雇用準備会議(ジュネーブ会議)に参加した

23

カ 国は,「ファイナル・アクト」(ECOSOC, 1947 d)に署名し,またそのうちのキー・カ ントリーズ

8

カ国(米,英,仏,オランダ,カナダの先進工業国

5

カ国にベルギー,ル クセンブルク,オーストラリア)が

GATT

の「暫定適用に関する議定書」(ECOSOC, 1947

c)に署名することによって,GATT

本体(ECOSOC, 1947 b)への調印を迂回するとい

う特異な形で

GATT

は

1948

年

1

月

1

日にスタートを切った(なお,キューバも

1

月

1

日までに「暫定適用に関する議定書」に調印し,上記

8

カ国に加わっ

1

た)。この間の詳 細な経緯については,拙著(山本和人,2012)で分析したが,10月

30

日にファイナ ル・アクトへの調印を通じて「認証(authentication)」された

GATT〔われわれの言う

ところの

GATT

オリジナル文書(暫定適用に関する議定書,

GATT

本体)〕のうち,

GATT

本体については,その後,WTO成立に至るまで,多くの加筆と修正が施されることに

────────────

1 キューバが「暫定適用に関する議定書」に署名したのは,アメリカとの関係が絡んでいた。この点につ いて,キューバのGATTの暫定施行が「アメリカとの関係から(as regards the United States)」行われ たという記述がアメリカ公文書館の史料にみてとれる(Havana Round[1−a], p.2)。しかし,その詳細 な内容については管見する限り,見出すことができなかった。

(609)59

(3)

なる。もっとも,こうした事実は,あまり知られていないのが現状であろう。唯一,注 目されてきたのが,南北問題の高揚を受け,1965年

2

月に採択され,1966年より施行 された

GATT

第

4

部(36条から

38

条),いわゆる「発展途上国条項」であろ

2

う。しか し,これ以外の加筆と修正については,わが国において,もっとも包括的に

GATT

条 文の訳文とその条文を解釈した

2

つの文献においてもその事実が小さく記載されている に過ぎない(内田宏・堀太郎,1959,附録Ⅱ ガット議定書一覧表(1),津久見茂充,

1993, 161

頁)。

GATT

オリジナル文書の

GATT

本体は,時期的にみて集中的に

3

回大きな加筆と修 正が施されている。すなわち,その時期とは

1948

年,1955年そして

1965

年である。

後者

2

者のうち,1965年の加筆・修正は上述したように,GATT第

4

部のそれであり,

すでに多くの分析がなされてい

3

る。それに対して,1948年と

1955

年のそれについて は,管見する限り,全く考察の対象外とされてきた。もっとも,1955年のそれは,多 くの修正案が締約国団会議で承認されたものの,未発効のものがほとんどで,実際は

GATT

条文の変更とはならなかったのであ

4

る。

われわれは第

1

回目の修正と加筆がなされた

1948

年に注目する必要があろう。それ は,1947年

10

月に「暫定適用に関する議定書」を通じて施行された

GATT

オリジナ ル文書に対して,第

1

回締約国団会議と第

2

回締約国団会議で手が加えられ,WTO成 立までの基本形態が出来上がったと考えるからである。本稿では,とくに第

1

回締約国 団会議に焦点を当て,もって

GATT

オリジナル文書の加筆・修正過程を跡付け,その 意義を浮き彫りにしたい。本稿の目的は,1947年

10

月の

GATT

オリジナル文書の暫 定施行までを考察対象としていた前著の範囲を超えて,

GATT

がその体裁を整える

1948

年の

GATT

締約国団会議までを分析対象にすることにある。こうした意味で「戦後世 界貿易体制成立史(補遺)」というタイトルを付けた。しかし,本稿は,これまで筆者 の研究成果もとに,それを

WTO

設立に関する分析に繋げる作業の第

1

段階して初期

GATT(1948〜1950

年代末)の研究を開始するものとも位置付けることができる。

────────────

2 第36条には,GATTの相互主義を開発締約国が逸脱できる権利が規定され,第37条には先進締約国が 開発締約国からの輸入品に対して,輸入障壁の撤廃に努力することが宣言され,第38条において,36 条の線に沿った国際取決めを作成し,その他の国際機関と協力して,第4部の目的を達成すべきことが 謳われている(津久見茂充,1959, 842〜844, 855〜857, 862〜863頁)。事実,この精神に基づいて,一 般特恵関税制度(GSP)が,1970年代に先進諸国で導入されていき,1980年代のNIESの経済成長の 一因となっていく。

3 1960年代から70年代にかけて南北問題の高揚な中で,UNCTADが成立し,GATTの自由・無差別原 理に修正を求める圧力が高まった。こうした動きへの妥協として作られたのがGATT第4部である。

すでに多くの文献が南北問題やUNCTADとの関わりでGATT第4部について述べているが,ここで はとりあえず,前田啓一,1989,三宅正太郎編,1985,佐分晴夫,1983をあげておく。

4 最も大きな変更は締約国団に替えて貿易協力機関(Organization for Trade Cooperation)を設置すること を旨とする貿易協力機関協定を締結するというものであったが,アメリカの反対にあって,発効には至 らなかった。協定の内容に関しては,とくに内田宏・堀太郎,1959, 764〜784頁を参照のこと。

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

60(610)

(4)

Ⅰ GATT 第 1 回締約国団会議(1948 年 2〜3 月)の開催に向けて

1.ITO

憲章への調印とその施行の不透明性

GATT

の基本は

1947

年

10

月

30

日に出来上がったとしても,まだ

ITO

憲章はジュネ ーブ草案が纏まっていただけであって,その草案は,1947年

11

月に開催される国連の 国際貿易雇用会議(ハバナ会議)で,中核国グループ以外の国連加盟国に提示されなけ ればならかった。GATT本体の条文は,ITO憲章ジェネーブ草案の条文と重複してお り,ハバナ会議で

ITO

憲章の当該条文が修正されることになれば,貿易ルールにダブ ルスタンダードが持ち込まれる恐れがあった。事実,GATT条文の作成過程で,このよ うな危惧について中核国の間で議論されていた(山本和人,2012, 285頁)。そのなかで とくに貿易ルールを扱った

GATT

第Ⅱ部については,混乱を引き起こす可能性がある ので,削除すべきであるとの意見が多数派を占めていたのである(同,283〜286頁)。

しかし,アメリカを中心とするキー・カントリーズ

8

カ国は,GATT第Ⅱ部の規定の削 除に反対し,多国間通商協定としての

GATT

の独り立ちを進めたのである。しかしこ のことは,上述のように

ITO

憲章施行の際に

GATT

との齟齬が生まれることを意味し た。従って

GATT

オリジナル文書(本体)の第

29

条の第

2

パラグラフ(a)には,「ITO 憲章が施行される日に,本協定(GATT)の第

1

条と第Ⅱ部は停止され,ITO憲章の当 該諸規定と入替えられることになる」(ECOSOC, 1947 b, p.62:カッコ内は山本)と表 現されたのである。もっとも,その変更に対して異議を申立て,締約国団との会議を要 求する権利についても規定されていた(Ibid.,

p.63)。以上の形で,GATT

の規定(おも に第Ⅱ部)と

ITO

憲章の当該規定の整合性を保とうとしたのである。

しかし,ハバナ会議で

ITO

憲章は参加

53

カ国によって認!証!(authentication)された が,いつ施行されるか判らない状況にあった。ITO憲章自身は各国代表(GATT締約国 を含めて)が認証するという形で,ファイナル・アクトへの調印をもって,承認された が(これを一般的教科書では

ITO

憲章の調印と呼んでいる),批准されたわけではなか った。

ところで,ハバナでアメリカの副代表として憲章の交渉にあたっていた国務省の国際 貿易局局長ウィルコクス(Wilcox, C.)は,ITO憲章施行の見通しについて極めて悲観 的であったことが,彼の書簡から読み取ることができる。彼は同じように活動していた 国務省通商部局長ブラウン(Brown, W. G.)に対して,過去

3

年間の活動について一つ の書物を纏める計画を進めていることを打ち明けているが,その理由は,ITO憲章の推 進に消極的な政権や議会に対して,その書物は説得のために用いられることになる。ま た議会が

ITO

憲章を検討の俎上に載せることがない場合にしても,「このような試みは

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (611)61

(5)

戦後の再建,国際経済関係そしてアメリカの外交史について,歴史上,非常に重要性を もつものとなる」と述べている。そしてそうした書物を纏めることができるものは,ホ ー キ ン ズ(Hawkins, W.)を 除 い て 自 分 し か い な い と 書 き 留 め て い る(International

Conference on Trade and Employment[4−c] , p.5)。まさにこの書物が 1949

年に出版され た,後世に残る古典的名著「A Charter for World Trade」なのである。(なお,ウィルコ クスが述べているホーキンズは,国務省の高官で第

2

次大戦初期の対英通商交渉を経 て,ITO・GATT交渉に携わったアメリカ側の中心人物である。ホーキンズの具体的な 活動については山本和人,1999,2012の各章を参照のこと)。

またウィルコクスは,同じくブラウン宛ての別の書簡で,「アメリカ政権が今年(1948 年)中に議会に

ITO

憲章を提示することは,絶!対!不!可!能!(absolutely impossible)」と述 べている(International Conference on Trade and Employment[4−a]

, p.1)。以上の彼の書

簡は

1948

年

2

月にいずれも書かれたものであるが,すでに

ITO

憲章が調印される前か ら,アメリカ国内情勢から,その施行が困難であることについて交渉当事者も重々認識 していたことが理解できる。とくにウィルコクスは,ブラウン宛の手紙の書面から,

ITO

憲章がすぐにアメリカ議会の審議にかけられないことに不満を持っていた様子が見てと れる(Ibid.,

p.1)。それに対して,ブラウンからウィルコクス宛の手紙には,アメリカ

国務省の面々が,互恵通商協定法の更新と欧州復興計画に携わっている事実が述べられ たうえで,ITO憲章は,互恵通商協定法更新のために,断念されてはいないとの弁明が なされている(International Conference on Trade and Employment[4−b]

, p.1)。この書面

を見る限り,アメリカ国務省の政策優先順位は,互恵通商協定法の更新と欧州復興計画 の具体化であり,ITO憲章の審議はそれが終わってからという道筋が建てられていたよ うである。ITO憲章は,複雑性と斬新性をもち合わせているがゆえに,議会は簡単には 憲章を理解することはできないであろうとブラウンは述べている(Ibid.,

p.2)。

ちなみに,1947年

10

月に認証された

GATT

オリジナル文書の第

29

条は,GATT条 文の中で唯一

ITO

憲章との関連について述べた条文であるが,その第

4

パラグラフに は,1949年

1

月までに

ITO

憲章が施行されていないか,もっと早い時期に

ITO

憲章が 施行されないことが判明したなら,締約国は

GATT

を修正,補足またはそのままで維 持すべきかどうかについての会議を開くとされていた(ECOSOC, 1947 b, p.63)。これ は,ITO憲章施行の目途を当初は

1948

年中と考えていた証左であろう。しかし,後述 する第

1

回締約国団会議で

29

条第

4

パラグラフは,第

3

パラグラフに移行され,ITO 憲章施行の期限が

1949

年

9

月

30

日までに延長された。こうして,ITO憲章施行の時期 が引き伸ばされたにも拘らず,上記のウィルコクスの認識に従えば,共和党主導の議会 において

1949

年

9

月までに

ITO

憲章がアメリカにおいて批准される見込みは厳しい状 況にあったといわざるを得ないであろう。アメリカは

GATT

をより完全なものとして,

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

62(612)

(6)

ITO

憲章に代替させなければならないという認識をますます高めていたといえよう。

そうした可能性がすでに当初から存在したからこそ,ジュネーブ会議において,その 他中核国(とくにキー・カントリーズ以外の諸国)の反対を押し切ってまで,アメリカ はキー・カントリーズの協力を得て,GATTの中核である第Ⅱ部を残し,GATTを暫定 協定として成立させる道を選んだといえるのである。

しかし,この選択は,前著でも述べたように,GATT条文と

ITO

憲章との条文の間 に齟齬が生じること意味した。つまり,ITO憲章ジュネーブ草案は,ハバナ会議で議論 された結果,相当の修正がなされたわけであるから,GATTオリジナル文書との相違が 生じていた。ITO憲章の施行の目途が立たない中,GATTオリジナル文書のルール(特 に第Ⅱ部)を,ITO憲章施行まで適用することは,締約国にとってダブルスタンダード の長期的な継続を意味した。他方,世界の政治・経済情勢が,1947年から

1948

年にか けて大きな転換点を迎え,GATTオリジナル文書のルールでは対応しきれない部分が出 てきたことも重要である。以下で述べるように,第

1

回締約国団会議では,GATTオリ ジナル文書の第

29

条第

2

パラグラフ(a)で述べられた

ITO

憲章施行時における

GATT

オリジナル文書の条文と

ITO

憲章の入替えを,ITO憲章の施行前でも,どの程度行う べきかが議論されるのである。果たしてどの条項を入替えるのか,それは中核国間で意 見の相違があった。締約国団会議はこれらの問題に如何に対処したのか。その詳細は以 下で明らかにされよう。

さらに

GATT

オリジナル文書は,協定なのであるから,組織としての体裁をうまく 整えていなかった。アメリカは,冷戦の開始という歴史的枠組みの中で,多国間通商協 定

GATT

に,できるだけ多くの国を参画させ,世界貿易秩序を早急に構築する必要性 に迫られていた。こうした事態は,既に述べたように

ITO

憲章成立の不確実性,それ に冷戦の激化の中で喫緊の課題とな

5

る。締約国団会議はこれらの問題に如何に対処した のか。そのためには,とりわけ第Ⅲ部に述べられていた

GATT

の運営上のルールの修 正が必要であった。果たして

GATT

オリジナル文書のどの条文がその対象となったの か,そしてどのように変更されたのか,これらの問題の検討を通じて,GATTオリジナ ル文書が変更されていく過程を追うことにする。

2.協議事項の内容とアメリカ政府の方針

GATT

オリジナル文書の第

25

条「締約国団の共同行動」の第

2

パラグラフには,第

1

回 目 の 締 約 国 団 会 議 を

1948

年

3

月

1

日 以 前 に 開 催 す る こ と が 謳 わ れ て い た

────────────

5 これまでのGATT研究が冷戦の影響を考察の外に置いて行ってきたことに対する批判をマッケンジー は最近の論考で指摘している(McKenzie, F, 2008)。とりわけ,1950年代までのGATT交渉について,

冷戦の影響を無視して分析することはできないとマッケンジーは述べているが,彼女の主張はまさにわ れわれがこれから行おうとしている初期GATTの分析と重複するものである。

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (613)63

(7)

(ECOSOC, 1947 b, p.58)。この規定に基づいて,キューバのハバナにて

2

月

28

日から

3

月

24

日の約

1

カ月間に亘って締約国団会議が開催された。おりしも

1947

年

11

月

28

日 から開始されていた国連貿易雇用会議,いわゆるハバナ会議は最終局面を迎えていた。

そして同会議は

GATT

第

1

回締約国団会議と同じ

3

月

24

日に終了する。第

1

回締約国 団会議の開催されるときには,53カ国による

ITO

憲章のファイナル・アクトへの調印 によって最終的に合意を見る

ITO

憲章の条文は完成の域に達していたといえよう。こ のような中,GATT第

1

回締約国団会議は,キー・カントリーズを中心とする

GATT

締約国

9

カ国,締約国にはまだなっていないファイナル・アクト調印国

14

カ国をオブ ザーバーの資格で加える形で,開催されることになったのであ

6

る(GATT/1/1, pp.5−

6)。

さて,第

1

回締約国団会議の協議事項については,すでに

48

年の

2

月

18

日付 の

GATT

事務局長の覚書には,1月

28

日に電報で,2月

2

日には確認の文書が

GATT

締 約国

9

カ国とファイナル・アクトに調印しただけでまだ締約国になっていない

14

カ国 に配布されたことが明記されている(Ibid.,

p.1)。協議事項は,11

項目が列挙されてい るが,議長の選出などの事務的な項目やジュネーブ会議で合意された各国の関税譲許表 の誤りの修正,次回の締約国団会議の開催時期についてなど,GATT条文の解釈や変更 とは直接関係ない問題も多く含まれていた(Ibid.,

p.4)。しかし,第 8

項「GATTと

ITO

憲章との関係(GATTオリジナル文書第

29

条に関する検討)」,第

9

項「GATTの締約 国ではない政府の

GATT

加入について(GATTオリジナル文書第

33

条に関する 検 討)」に関する協議は,結果的に

GATT

オリジナル文書の修正につながっていく。付言 すれば,2月

28

日に開催された第

1

回目の締約国団の会議で,第

8

項には,さらに

GATT

オリジナル文書の条文と

ITO

憲章の条文の入替え原則の特殊ケースが加えられ た(GATT/1/SR 1, pp.2−3)。つまり,GATTオリジナル文書第

29

条第

2

パラグラフに は,第Ⅱ部と第

1

条については,原!則!的!に!

ITO

憲章の施行時に

ITO

憲章の当該規定と 入替えることが規定されていたが,早期入替えと更なる適格なルールの作成が認識され るようになり,上述の第

8

項はその問題を議論するために加筆されたのである。しかし それは

GATT

第Ⅱ部を対象にしたものであり,第Ⅲ部についてはそうした規定が存在 しなかった。そこで新たな条項が第

8

項の次に新

9

項として追加されたわけである(し たがって第

1

回締約国団会議での協議事項は全部で

12

項目となった)。

それでは新

9

項は具体的にどのような内容となっているのであろうか?第

1

回目の締

────────────

6 締約国とは,ジュネーブ会議でファイナル・アクトと暫定適用に関する議定書に調印したキー・カント リーズ(米,英,仏,オランダ,カナダ,ベルギー,ルクセンブルク,オーストラリア)とキューバの 9カ国,ファイナル・アクトのみ調印した14カ国とは,インド,パキスタン,ビルマ,中華民国,ブ ラジル,チリ,セイロン,ニュージーランド,南アフリカ,南ローデシア,チェコ,ノルウェー,レバ ノン,シリアであった。

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

64(614)

(8)

約国団の会議議事録には,新

9

項について次のように記載されている。

9. GATT

第

29

条によってカバーされない

GATT

条文に関する修正と提案

(a)第

24

条の修正:ITO憲章の当該規定による

GATT 24

条の入替え

(b)GATT第

2

条(譲許表)での約束を締約国が放棄する可能性

(c)その他(Ibid.,

p.3)。

新

9

項の追加によって第Ⅲ部の修正も可能となったわけであり,とりわけ

GATT

オ リジナル文書の第Ⅲ部第

24

条「適用地域−国境貿易−関税同盟」修正の審議への道が 開かれたといえる。この提案を行ったのは後述するようにイタリアとの関税同盟を模索 していたフランスであったとされているが(Ibid.,

p.2),ドル不足の緩和そして欧州復

興を支援するアメリカの思惑とも合致して,ITO憲章ハバナ草案の当該条項がとって代 わることになる。この点については詳述する。さらに(b)のいうように,GATT第

2

条「譲許表」に関する約束の放棄を認めるということは,加入国間で最恵国待遇の適用 除外を容認することになり,第

35

条の新設に繋がるものとなった。この点についても 後述することにしよう。

それでは,具体的にどのような議論が展開されたのか。われわれは,WTO所収の

GATT

文書(第

1

回締約国団関連史料:レファレンスナンバー(GATT/1/SR.1〜GATT/

1/SR.14)とアメリカ公文書館(NARA)所収の史料を利用しながら分析することにし

たい。とくにアメリカ公文書館は,第

1

回締約国団会議に関連する大部の文書(報告書 類,国務省とアメリカ代表団間で遣り取りされた書簡・極秘電報,覚書,各種草案,起 案類)を保有しており,その中には,アメリカ代表団長のエヴァンズ(Evans, J. W.)

がマーシャル国務長官に送った第

1

回締約国団会議に関する機密報告書(Confidential

Report)とそれを要約した公式報告書(Official Report)が存在する(Havana Round[1−

b] ,

[1−c])。特に前者の機密報告書には,アメリカの立場が鮮明に描かれており,会議 の全貌をアメリカの視点から読み取ることができ

7

る。

ところで,アメリカは,会議前に上述した締約国団会議議題

11

項目に対してアメリ カ政府の方針書(Position Paper)を作成し,締約国団会議に臨んでいる(議題と各方針 書については,reference No. TAC D−4/48として,Havana Round[2]に所収されてい る)。その方針書では,第

1

次締約国団会議の上述の

11

の議事項目に,3つの新たな項 目を加えることを要求していた。それらのうち,重要なのは,占領地域(旧敵国)に対 して

GATT

締約国との貿易に関して最恵国待遇を与えるという趣旨であった〔なお,

その他のふたつの項目は,第

1

にファイナル・アクトには調印したものの,暫定適用に 関する議定書には調印しておらず,従って

GATT

の締約国の地位を獲得していない

14

────────────

7 エヴァンズは商務省に所属していた。代表団は5名,その中にはGATTの名付け親で,GATT草案作 成に深く関わっていたレディ(Leddy, J. M.)も含まれていた。

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (615)65

(9)

カ国をオブザーバーとして締約国団会議に参加させること。第

2

に,太平洋にあるアメ リカの委任統治地域からの輸入に対して関税および内国税を優遇すること(Havana

Round[2−b]〕。そしてアメリカはとくに占領地域への最恵国待遇付与について,二つ

の方針書,付属文書

B−Ⅱ「GATT

締約国が提出し,国連加盟国も調印が許される,占 領地域(旧敵国)との貿易について,相互に最恵国待遇を享受することを規定した議定 書」(Havana Round[2−b−1])と

B−Ⅱ−a

「占領地域に対する最恵国待遇」(Havana Round

[2−b−2])を作成し,締約国団会議に臨もうしていたのである。

アメリカが旧敵国(日本,朝鮮,ドイツ)を戦後貿易システムのなかにできるだけ早 く取り込もうとしていた事実について,すでにわれわれは

GATT

文書の作成過程の分 析において簡単に触れていた。それは,GATT第

4

草稿にアメリカの提案によってこれ らの旧敵国を

GATT

や

ITO

に引き入れることを述べた議定書(『GATTに対する議定 書(Protocol to the General Agreement on Tariffs and Trade)』が添付された点であった

(山本和人,2012, 286〜287頁)。議定書の冒頭には「1947年○月○日に

GATT

に調印 する政府は,ドイツ,日本そして朝鮮が

GATT

および

ITO

憲章のすべての義務を,実 行可能になればすぐさま受け入れることを承認する」(ECOSOC, 1947 a, E/PC/T/196,

p.82)と述べられていた。もっとも,この議定書は GATT

オリジナル文書では削除さ

れた。その理由については,前著で明確にしなかった。しかし,本稿において,上述の アメリカの史料の分析を通じてその理由を浮き彫りにすることができよう。

Ⅱ 敗戦国の扱いと新規加入国問題

1.敗戦国を巡るアメリカとイギリス・フランスとの確執

旧敵国の貿易システムへの参画を促すアメリカの姿勢はハバナ会議でも一貫してい た。すなわち,ハバナ会議において,アメリカは,占領地域に対して最恵国待遇そして

ITO

憲章のその他の便益を与えようとする提案を行っていた。しかしその提案は,イギ リス,フランス,チェコスロバキア,ポーランド,中国からの激しい反対に遭遇してい た。イギリス,フランスは時期尚早であるとして反対,チェコは

ITO

に旧敵国を加盟 させること自体に反対していたという。アメリカは

ITO

憲章を占領地域に適用させる よう,執拗にイギリス,フランスを説得したが,両国はその要求を拒絶した。こうした 事態をハバナからあるアメリカ高官がクレイトン(Clayton, W. L.)国務省国際事情担 当次官とダグラス(Douglas:ファーストネームが書かれていないので確証はできない が,駐英大使

Douglas, Lewis

と考えられる)に宛てた極秘電報の写しをアメリカ公文書 館は保有している(Havana Round[2−b−2]

,)。その高官は,アメリカがハバナ会議でで

きる最大限のことは,占領地域と

ITO

の関係について,ITO憲章の施行後に決定する

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

66(616)

(10)

という約束を結ぶことであろうと述べているが,その施行は

1949

年または

50

年にずれ 込む可能性があると指摘している。

ITO

憲章の施行が長期化する見通しの中で,旧敵国を如何に迅速に戦後貿易システム に組み込むか,ハバナ会議がアメリカの思惑通りに進まない中,その打開策として彼は

GATT

締約国団会議を利用することを提案している。ITO憲章ではなく,GATT原則

(最恵国待遇)を占領地域に適用できるように,英仏を説得できれば,ITO憲章の場合 と同様の結果を得ることが可能となる。それは欧州復興計画を実行するうえで重要であ り,ドイツをヨーロッパおよび世界経済に「再統合化(reintegration)」することに繋が るであろうと述べるのである(Ibid)。

果たしてその高官の目的は第

1

回

GATT

締約国団会議で達成できたのであろうか?

結果的に言って,アメリカ代表団は,英仏を中心とする諸国の反対にあい,会議にこの 問題の提出を思い止まったのである。上述のエヴァンズによる機密文書は次のように総 括している。

「GATTの一付属文書において西部ドイツ(Western Germany),日本そして南部朝 鮮(Southern Korea)に最恵国待遇を与えるという問題に関して,アメリカとその問 題に関心を持つ諸国との非公式で予備的な討論から,アメリカの方針書(ポジション ペーパー)が主張する方向で合意を得ることがほとんど不可能なことが示された。

すでに

ITO

憲章に関する議論で,占領地域に

ITO

の便益を拡大させる計画に対し て,イギリス,フランス,チェコ,ポーランドそして中国から猛反対が巻き起こって いた。

アメリカの提案に非常に不利な状況下において,アメリカ政府の承認を得て,締約 国団に対して,第

1

回締約国団会議でこの問題について行動するよう求めないことが 決定された。その問題は第

2

回締約国団会議で提起され,ジュネーブで

8

月に開かれ る会議の議題に乗せることを計画できると考える次第である」。(Havana Round[1−

b] , p.20)。

エヴァンズの文書によれば,第

1

回締約国団会議において,占領地域に最恵国待遇付 与の約束を取り付けようとするアメリカの目論見は,締約国団会議以前の非公式会議に おいて,他の締約国によって拒否され,アメリカは会議にこの問題を正式に提出しなか ったことが読み取れる。したがって第

1

回締約国団会議の議事録を示した

GATT・ITO

関連文書(参考文献の②第

1

回

GATT

締約国団会議関連史料)には,この問題の記述 が,管見する限り,一切見当たらないのである。しかし,エヴァンズの文書にも書かれ ているように,占領地域への最恵国待遇付与をできるだけ早く行いたいというアメリカ の意図は,首尾一貫していたといえよう。事実この問題は第

2

回締約国団会議の主要テ ーマとなるのであるが,第

1

回締約国団会議が終了するや,アメリカは占領地域に対す

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (617)67

(11)

る最恵国待遇の適用を各国に説得する工作を本格化する。この点については次稿で論じ ることにしよう。

それはともかく,1947年の

GATT

条文作成の最終段階から続けられてきたアメリカ の占領地域の世界システムへの再統合化計画は,第

1

次締約国団会議までは,英仏を中 心とする諸国によって阻止されていたのである。

2.GATT

加入に関する規定の修正・柔軟化──

GATT

第

33

条の改訂と第

35

条の追加 上述の第

1

回締約国団の協議事項,第

9

項「GATTの締約国ではない政府の

GATT

加入について」は,GATT第

33

条「加入」の条件を明確に規定することを目的とする ものであった。そもそも

GATT

オリジナル文書の

GATT

本体の第

33

条には,新規加 入の条件について,極めて簡単に次のように述べられていた。加入を望む政府は,「そ の政府と締約国(the contracting parties)との間で合意される条件に基づいて,本協定 に加入することができる」(ECOSOC, 1947 b, p.65)。そしてこ!の!一!文!は!,締!約!国!す!べ!て! の!承!認!が!な!け!れ!ば!加!入!は!認!め!ら!れ!な!い!と!解!釈!さ!れ!て!い!た!。

これに対して,アメリカは,方針書(ポジションペーパー)である付属文書

A−Ⅸ−1

「GATTの締約国でない政府の

GATT

への加入について(第

33

条)」を作成し,その修 正案を準備していた(Havana Round[2−a−2])。その方針書は問題提起,勧告そして討 論の

3

つの部分から構成された文書である。要約すれば,次のようになろう。第

1

に,

問題提起として,ジュネーブ交渉に参加しなかった諸国の

GATT

加入をどのような条 件で行うのが望ましいのか? 満場一致の条件を課している

GATT 33

条を如何に修正 すべきか?

第

2

に,勧告として,アメリカ政府の立場が次のように述べられる。「ファイナル・

アクトにまだ調印していない政府が,申請に際して,締!約!国!の!過!半!数!の!承!認!で!も!っ!て!

GATT

に加入できるよう,GATTを修正すべきである」(Ibid.,

p.1.

傍点は山本)。方針 書はこれを「シンプルマジョリティルール(simple majority rule)」と呼んでいる。G!

A

!

T

!

T

!

加!入!の!ハ!ー!ド!ル!を!非!常!に!低!く!設!定!し!直!し!た!と!い!う!の!が!ア!メ!リ!カ!の!勧!告!の!要!点!で!あ!ろ!う!。

「アメリカ政府の目的は

GATT

にできるだけ広範囲に亘って加入を確保することにあ る。したがって締約国すべての同意を得ることなく,追加的加入を認める方向で

GATT

を修正することが望ましい」(Ibid.,

p.1)。われわれはなぜアメリカがこうした基準を提

示しようとしたのかは,占領地域に対するアメリカの方針と重ねれば,一目瞭然である と考える。占領地域以外に対しても,ソ連の影響力を遮断し,各国にアメリカを中心と する通商システムへの参画を促したのである。

しかし,第

3

に,討論の結果として,次の懸念が示される。「GATTは,ITO憲章の 草案が規定しているほど明確に関税交渉へ「参加し,遂行する(enter into and carry

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

68(618)

(12)

out)」という約束を行っていない」(

8

Ibid., p.1)。その結果として,まず,新規加入申請

国が,既締約国が利害を有する品目について関税譲許を行わずして,GATT加入を果た すケースが生じる可能性,次に,加入申請国が,既締約国との関税交渉を主張できる権 利が与えられていないために,こうした交渉に「参加し,遂行する」機会を拒否され,

その結果として申請国が加入を断念する方向に傾くことも考えられる。結果として

GATT

の大原則である互恵主義が無秩序に侵害されていく事態が生じる。したがって,

新規の締約国(あるいは既締約国の可能性もある)に対して,他の締約国との関税交渉 に「参加し,遂行する」権利を与えるよう

GATT

を修正する必要性が,後日生じてこ よう(Ibid.,

p.2)。こう述べて,方針書は終わっている。

ではこのようなアメリカの

33

条修正案に対して,締約国団会議はどのような反応を 示したのであろうか?

こうした問題などに対処するために第

1

回締約国団会議では「入替えに関する小委員 会(Sub-Committee on Supersession)」が特別に組織された。構成メンバーはアメリカ,

イギリス,フランス,オランダ,ノルウェー,レバノン,キューバの

6

カ国であった

(GATT/1/SR.5, p.5)。なお,この小委員会は,その他の

GATT

条文の

ITO

憲章との入 替えや修正にも携わった。この点については次章で述べることにしよう。

さて,この小委員会において,アメリカはポジションペーパーに沿って,第

33

条の 修正を提起した。その内容とは,第

1

に,GATTへの新規加入の承認を多数決原理で行 うこと,第

2

に,その条件として,新規加入国への

GATT

原則は,新規加入国とある 締約国の間でその締約国が同意しない場合は,適用されるべきではないという趣旨であ った(Havana Round[1−f]

, Telegram No.334, p.1)。

まず第

1

点目について検討することにしよう。アメリカが多数決原理にかなり固執し ていたことは本国(国務省)とハバナのアメリカ代表団との遣り取りの中から窺い知る ことができる。例えば,「加入は多数決(simple majority vote)によって行うべきことを 強く確信すべきである。恐らくその理由については認識しておられるであろう。立場を 変 更 す る 理 由 は 存 在 し な い と 考 え る べ き で あ る」(Havana Round[1−d]

, Telegram

────────────

8 ITO憲章の第17条「関税の引下げと特恵関税の撤廃」は,互恵的かつ相互に利益的なベースで,関税 およびその他の貿易障壁の大幅削減と特恵の撤廃に向けての交渉に「参加し,遂行する(enter into and

carry out)」ことを第1項で謳い,交渉のルールについては第2項で具体的に規定している(ICITO, 1948

a, pp.14−15)。それに対して,GATTオリジナル文書の本体では,前文において,関税およびその他の

貿易障壁の大幅削減と差別的な協定の撤廃に向けての互恵的かつ相互に利益的な取決めに参加すること

! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !

は規定していたものの(ECOSOC, 1947 b, p.1),具体的な交渉のルールについては明記していなかった

! ! ! !

のである。本文のアメリカの方針書が述べていることは,こうしたITO憲章とGATTの相違点によ る。

なお,GATT本文に交渉の具体的ルールが明記されるのは,「1954〜55年のガット規定のレビュー会 合の結果,「前文並びに第二部及第三部を改正する議定書」(1957年10月7日発効)により」(津久井 茂充,1993, 773頁),第28条に第二項「関税交渉」が追加されたことによる。この項によってITO憲 章第17条で述べられていた関税交渉のルールがGATTに挿入された。

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (619)69

(13)

No.318, p.1)や,第 33

条の修正は多数決によって行うべきであるとのアメリカ関税委 員会(TAC)の考えを伝える極秘電文(Havana Round[1−f]

, Telegram No.334, p.1)が

本国(国務省)から代表団に対して送られている。こうしてあくまでも加入に対して多 数決原理に固執するアメリカの態度は,GATTオリジナル文書が他の諸規定について

3

分の

2

以上(two-thirds vote)の賛成を原則にしていることと照らし合わせれば,異様 であるといえよ

9

う。

当然,第

1

の提案に対して,入替えに関する小委員会のメンバーから猛反対が起こっ た。ハバナのアメリカ代表団から国務省通商政策局局長のブラウン(Brown, W. G.)と 関税委員会(TAC)宛ての極秘電報には,「彼ら(小委員会のメンバーであるイギリス,

フランス,オランダ,ノルウェー,レバノン,キューバ)は

GATT

への入会料を非常 に安く設定したと考えている。そして新規加入国が小国と身のない協定を結ぶことによ って加入する傾向が生じてくる可能性を考慮している」(Havana Round[1−e]

, Telegram No.305, p.1:括弧内は山本)と伝えている。こうした小委員会のすべてのメンバーの反

対に直面して,アメリカは自らの主張を曲げざるを得なかった。小委員会の他のメンバ ーが,その他の

GATT

の決定事項に合わせた

3

分の

2

提案に合意している事実を鑑み,

「多数決提案は必ずしもアメリカの利益を守ることにはならないので,これ以上の強要 をわれわれはすべきではない」(Ibid.,

p.1)との見解をジュネーブ代表団はブラウンと

関税委員会に伝えたのである。

そして結局,第

33

条「加入」は,GATTオリジナル文書の満場一致原則を修正,ま たアメリカ提案であるシンプルマジョリティルールを否定する形で,

3

分の

2

(two-thirds

majority)ルールを採用することになったのである。さて,われわれはアメリカがなぜ

シンプルマジョリティルールに固執したのかについて,多くの未加入国を

GATT

に引 き入れることであるという理解を示してきた。それはいみじくもアメリカが締約国団会 議の協議事項に対する方針書(ポジションペーパー)の付属文書

A−Ⅸ−1

の中で述べて いるように「できるだけ広範囲に亘って加入を確保すること」(Havana Round[2−a−2]

,

p.1)であるとするなら,それら諸国とは,上述したように,第 1

回締約国団会議では

最恵国待遇の付与さえ俎上に載せることを拒否された占領地域(後に独立国としての地 位を獲得する過程での加入),または宗主国から今後独立する植民地や属領であったと 考えられる。また既締約国であったチェコスロバキアを含めユーゴ,そしてポーランド などの東欧諸国の一部もその視野に入っていたともいえる。事実,東欧諸国の加入問題

────────────

9 GATTオリジナル文書において,例えばGATT第25条「締約国の共同行動」の第5パラグラフの免責 の適用に関する決定(いわゆるウェイバー条項)(ECOSCO, 1947 b, p.58),第30条「改正」の第1パ ラグラフのGATT条文改正に必要な定数(Ibid.,p.64)については3分の2以上の賛成が必要とされて いる。

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

70(620)

(14)

は

1950

年代に

GATT

内部で審議されることにな

10

る。

それでは第

2

点目について,アメリカが危惧した新規加入国の

GATT

義務回避の可 能性についてはどのような審議が行われたのであろうか。アメリカは周到にこの問題に ついて準備していた。3月

13

日に開催された第

7

回目の締約国団会議において,アメ リカのレディ(Leddy, J. M)は,第

33

条を分割

11

し,第

35

条を新たに設けることを提案 し,その原案を提示している。すなわち,その原案は,新規加盟国といずれかの締約国 が相互に関税交渉を開始していない場合,双方のどちらかが一方に対して

GATT

原則 の適用に同意しないなら,その適用を行わなくてよい(GATT/1/SR.7, pp.4−5)ことを 謳っていた。その原案は最終的に合意された

GATT

第

35

条「特定締約国間における協 定の不適用」とほぼ同じであるといってよい。GATTの対日条項として名高い第

35

条

「特定締約国間における協定の不適用」は,もともとは互恵主義を重んじるアメリカが 新規加入国の

GATT

へのただ乗りを防止するために作った規定であったといえよ

12

う。

しかし,第

35

条の適用の難しさについては,すでにその作成段階からアメリカは認 知していた。新規加入国が,35条の適用を受けるかどうかは既締約国がその新規加入 国に最恵国待遇を拡張するかどうか判断する際に,その自由裁量に委ねざるを得ないと アメリカは分析していたのである(Havana Round[1−g]

, p.3)。まさに後に GATT

第

35

条が通称「対日条項」として注目されるのも,こうした

35

条のもつ適用基準の難しさ にあったといえよう。もっとも,35条作成の目的は,もともと日本を対象にしたもの でなかったことは以上の分析をもって明らかであろう。

Ⅲ 欧州復興計画と GATT──ITO 憲章条文との早期入替えを巡って

1.GATT

第

29

条原則を巡る論議

第Ⅰ章の

2

節ですでに触れたが,締約国団会議の議題には,協議事項の第

8

項目とし

────────────

10 マッケンジーがこの点を明らかにしている。彼女の表現に従えば,「第2次大戦中,ITO・GATTの設 立を計画した人々は,ITO・GATTをリベラルな貿易機構(a liberal trade organization)として構想し た。冷戦が国際経済関係のすべてを方向付けるようになったとき,GATTは本来描かれていたユニバー サルな運動というよりは,「自由世界(free world)」(二三の共産国は加入していたが)のフォーラムと 支柱に変化した」(McKenzie, F., 2008, pp.106−107)

11 本文では省略したが,すでに入替えに関する小委員会は第33条に,アメリカの要請に基づいて,「本協 定の第2条(譲許表)は,何れかの締約国と新規加入国間には,そうした締約国の同意がなければ適用 されない。そうした新規加入国は交渉を求めている何れかの締約国間と交渉を行うべきである」(GATT

/1/21, p.10)という文言を追加した草案を作成していた。上述したように,35条はこの文言をさらに詳

細にし,33条から分離したのである。

12 第35条の新設の理由について,わが国では,インドが人種差別を行っている南アフリカに対して最恵 国待遇を与えることを拒否したことへの対応,そして1946年のアメリカとフィリピンの貿易協定のも とではフィリピンがGATTに加入できないので,その加入を可能にさせるための措置であったとの説 明がなされている(内田宏・堀太郎,1959, 759頁)。こうした表面的な理由があったにせよ,その本質 は,アメリカがGATT加入国を増やそうとした副産物であったと捉えるべきであろう。

戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (621)71

(15)

て「GATTと

ITO

憲章との関係」(GATTオリジナル文書第

29

条)の検討が挙げられ ていた。GATTオリジナル文書第

29

条の第

2

パラグラフ(a)は,「ITO憲章が施行さ れた日に,本協定の第

1

条と第Ⅱ部は,中止され,ITO憲章の当該規定によって置き換 えられる。ただし,国連貿易雇用会議終了後,60日以内に,締約国はそのように中止 され,置き換えられた本協定の規定もしくは諸規定への反対をその他の締約諸国ととも に申し出ることができる」(ECOSOC, 1947 b, pp.62−63)と規定していた。そしてその 場合,締約国(団)は申し立てが行われた

60

日以内に,反対された

ITO

憲章の規定を 適用するのか,既存の,または修正を施された

GATT

規定を適用するのか,の決定に ついて協議を行わなければならない(Ibid.,

p.63)。つまり,基本的には ITO

憲章の当 該規定との入替えを実施するが,反対が出た場合には検討を行い,その検討結果に従う というものであった。問題は,第

1

に,締約国がこの全面的入替えに合意するのかどう か,という点と,第

2

に,入替えの時期を

ITO

憲章施行時に限定すべきなのか,換言 すれば早期の入替えを実施するかどうかであった。

第

1

の問題について,アメリカの機密報告書は次のように述べている。ジュネーブで の

GATT

交渉に参加していない諸国が,ITO憲章を認証したファイナル・アクトに調 印したのは,GATTが彼らにとって受け入れ易い形態になると確信したからである。そ れら諸国の多くは,GATTオリジナル文書(そのもとになっていた

ITO

草案ジュネー ブ草案)に対する彼らの反対を叶えるものとなるという理由から,その入替えに賛意を 表した(Havana Round[1−b]

, p.12)。ITO

憲章が施行されれば,当然,その加盟国も

GATT

に加入するわけであるから,その施行に際しては,GATTオリジナル文書の規定

(第Ⅱ部)は例外なく,撤廃されるべきである。アメリカはこのような理由から,ITO 憲章施行時の第Ⅱ部の完全入替えに賛成したのである。そしてジュネーブ会議で

GATT

ファイナル・アクトに調印した

23

カ国中,20カ国もそれに同意した。残りの

3

カ国

(オーストラリア,中国,チェコ)は同意しなかったものの,反対行動に出ることはな いであろうと

ITO

のプレスリリースは述べている(Press Release ITO/226, p.1)。

第

2

の問題について,ITO憲章の施行までは,GATTオリジナル文書の修正を行うべ きではないというのがアメリカの立場であった。というのは,ITO憲章第Ⅳ章(通商政 策)は,ハバナ会議で,全体として

GATT

オリジナル文書に組み入れることができな いほど,GATTオリジナル文書の第Ⅱ部とは違う内容に修正されてしまったからであ る。したがって

ITO

憲章を議会に提出する前に,GATTに

ITO

憲章の規定を入れてし まうことは,ITO憲章の承認を得るに困難を生じさせる(Havana Round[2−a−1])。こ

れが

GATTⅡ部の早期入替えに反対するアメリカの立場であった。しかし,GATT

条文

の全体についてアメリカがその修正の必要性を認識していたことは,すでに述べたとお りであり,協議事項第

9

項「GATTの締約国ではない政府の

GATT

加入について」に

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

72(622)

(16)

基づいて,アメリカは第Ⅲ部第

35

条を新たに挿入したのであった。また新しい第

9

項 は,第Ⅲ部第

24

条の

ITO

憲章当該条項との入替えを提起していた(本文

65

頁)。前述 したようにその提案国はフランスであったが,アメリカもそれに賛成に回ったのである

(現段階では,GATT・ITO関連文書のいうこの表現に止めておく)。現在から顧みて,

第

24

条は非常に重要な条項であり,なぜ

GATT

オリジナル文書の

24

条が

ITO

憲章の 当該規定に入替えられたのかについて検討する必要があろう。また

GATT

オリジナル 文書と

ITO

憲章(ハバナ草案)の当該規定との相違も明確にしておく必要があろう。

ところで,GATT第

24

条の扱う地域貿易協定について,そもそもアメリカは関税同 盟の形成のみを認める立場にあった。また関税同盟の位置づけもあくまでも例外的措置 であり,関税同盟に関する研究にそれ程重きを置いてきたわけではなかった。すでに拙 著で明らかにしたように(山本和人,1999, 2012),戦中から展開された米英間の戦後 貿易システムを巡る交渉は,英帝国特恵関税の撤廃とアメリカの高関税の引下げを巡る 応酬がその中心をなしていたといってよいであろう。しかし,その他の中核国諸国が貿 易システム構築の会議に参加するようになり,地域貿易協定(関税同盟)への関心が次 第に高まっていった。しかしそれを決定づけたのは冷戦の激化であった。それこそがア メリカに地域貿易協定の重要性を認識させるようになったのである。アメリカは,欧州 復興計画の発表とほぼ時を同じくして,欧州を中心とする関税同盟の研究を本格化させ る。後述するようにそれは欧州だけを対象にしたものではなく,欧州の復興を助けるた めにその他の地域のドル不足解消を目指すための地域貿易協定の締結を含むものであっ た。そしてそのためには,GATTオリジナル文書の規定では十分ではなく,より包括的 な地域貿易協定の容認とその条件を規定した条項を作り上げる必要性があった。

こうした視角から

ITO

憲章第

44

条「関税同盟と自由貿易地域」作成の舞台裏に新た に光を当てた研究としてチェイス(Chase, K., 2006)のそれを挙げることができる。ま たそのチェイスの問題意識をもとに関税同盟を含む地域経済協定に関する戦後貿易シス テム設計者たちの認識の深化とその変遷過程を戦中まで遡って研究しようとする動向も 見られる(柴田鎮毅,2012, 2013, 2014)。本章では彼らの研究を下敷きにしつつ,第

1

回締約国団会議で,欧州や北アメリカを中心とする地域経済統合計画が

GATT

オリジ ナル文書の早期入替えを促す要因となった理由を検討しようとするものであ

13

る。もし,

────────────

13 既に分析したようにGATT第29条第2パラグラフによってITO憲章施行時にGATT第Ⅱ部は停止,

換言すればITO憲章の当該規定に代替されること,いくつかの入替えをITO憲章施行以前に行うこと で合意を見たし,第Ⅱ部以外についてもそうした取決めがなされた。この取決めに従って,GATTオリ ジナル文書が大幅修正(ITO憲章との入替えを含む)されたのは,第24条,第14条,第33条,及び 第35条の新設であった。

第1回締約国団会議において,その他の締約国,例えば,途上諸国であるチリやブラジルが要求し,

レバノンやシリアが支持したITO憲章第Ⅲ章「経済開発と再建」に属する第15条「経済開発と再建の ための特恵取決め」,第Ⅳ章「通商政策」に属する第26条「輸出補助金に関する追加規定」,第27条

「第1次産品に関する特別扱い」,第28条「第1次産品の輸出促進に関する計画」のGATTオリジナ! 戦後世界貿易体制成立史(補遺)(山本) (623)73

(17)

ITO

憲章の第

42

条,43条,44条,とりわけ

44

条「関税同盟と自由貿易地域」が

GATT

オリジナル文書第

24

条の内容と入替えられていなければ,戦後に形成された地域経済 圏のほとんどすべてが明らかに

GATT・WTO

違反となり,それに従って,地域経済圏 形成が断念されなければ,GATT自体の存続がとっくの昔に不可能になっていたと予測 される。本節においては,GATT第

24

条の書き換えとその深化について考察するだけ ではなく,なぜ,第

1

回締約国会議で,ITO憲章の当該規定(42〜44条)が

GATT

オ リジナル文書

24

条と入替えられたのかについて検討することにしたい。

さて,第

1

回

GATT

締約国団会議における

GATT

オリジナル文書の第

24

条および 第

14

条が

ITO

憲章の当該規定と入替えられたのは,第

1

回締約国団会議史料(GATT/

1/SR.1〜14)を読む限り,ヨーロッパにおいてイタリアとの関税同盟の締結,さらにそ

の他の自由貿易協定を模索していたフランスの主張(第

14

条はイギリスも主張)によ るものであることが解る。

しかし,われわれはこの事実だけに

GATT

オリジナル文書

24

条や

14

条の入替えを 求めてはならないと考える。以下で分析するように,フランスの主張を支持したアメリ カの影響力を分析して初めて

GATT

オリジナル文書修正の本質を把握できるのである。

以下では主に

GATT

オリジナル文書第

24

条の入替えについて分析することにしよう。

2.ドル不足への対応と欧州関税同盟形成への支援── GATT

オリジナル文書第

24

条

の入替え

①欧州復興計画と地域貿易協定に関する規定の深化:その

1−関税同盟形成の条件と制

約について

アメリカ公文書館(NARA)には,1947年から

1948

年にかけて欧州復興計画と

ITO

憲章との関係を扱った大部の機密資料が保管されている。アメリカは欧州復興計画を実 施に移すに際して,構築されつつあった多国間貿易システムを,如何にして欧州復興計 画と連動させるかを検討していたことを物語る史料群であるといえる。われわれは,そ の中のいくつかに依拠しながら,ITO憲章第

42〜44

条の

GATT

オリジナル文書第

24

条への入替え過程を分析することにしよう。

アメリカは,欧州復興計画の実施にあたって,ITO憲章の諸規定を利用する目的か ら,一つの作業部会を立ち上げている。「欧州復興計画と

ITO

憲章との関係についての 作業部会」(通称

ITO

作業部会)と呼ばれ,国務省の管轄のもと,対外経済政策委員会

────────────

! ル文書への挿入について,アメリカ代表のエヴァンズは「アメリカ政府はそうした追加に賛成しないで あろう」(GATT/1/SR.2, p.4)と述べた。そして結局のところ,ITO憲章のこれらの規定はGATT条文 には加えられなかったのである。GATTオリジナル文書24条や14条の修正には,これから述べるよう にアメリカを中心とするキー・カントリーズ(キー・カントリーズの成立とその活動については山本和 人,2012の第8章を参照のこと)の意向が反映されることになる。

同志社商学 第66巻 第5号(2015年3月)

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参照

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