人 無 我 論
―『顕揚聖教論』第六章「成空品」の解読研究―
早
島理
インド大乗仏教喩曲行唯識学派を代表する哲学者無著(Asahga, ca. A. D.395〜470あ るいはca.375〜430)の著書『顕揚聖教論』(以下『顕揚論』)第六章「成空品」のうち,
kas.3〜17で展開される人無我論の解読を試み,そこでの議論が『喩商会地論』(以下『喩 伽論』)に依拠したものであることを明確にするのが,本稿の意図するところである。
この第六章「成食品」に関して,(1)「空」の考察がいわゆる「苦慮一遍知」にしたが い,苦痛についての無常・苦・空・無我の考察という構造のなかで論じられ,それぞれ『顕 揚論』の第四章乃至第七章に該当すること,(2)そこでの空と無我とは人無我と法無我と
して提示されていること,(3)人無我論に重点を置くこの「成空品」のうち,kas.1,2は『小 空乳』,r勝義空経』に依拠した経証にあたり,本稿で論じられるka.3以下はいわば理証 のに該当することなどは,概略ではあるが既に触れた如くである。これら既述の議論との重 複寡なきことを願いつつ考察を進めることにする。
r顕揚論』のテキストは従来通り大正新脩大蔵経版を底本に,高麗版及び敏脂肉無塩r蔵
ラ要』版や本庄良文氏(神戸女子大)所蔵のいわゆるr平楽寺』版と照合し,適宜妥当と思 われる読みを採用した。特に解読研究に際してはこの『平楽寺』版を常に参照し有益な示 唆を多々得ることができた。閲覧を快諾された本庄氏に深謝の意を表する次第である。
本稿に入る前にこのr平楽寺』版について一言触れておきたい。このr平楽寺』版はB 5野分五冊(各冊とも『顕揚論』全20巻のうち各々4巻を収める)からなる木版刷で,各 巻末に「音釈」がついている。奥付には「延寳丙辰年林鍾月 書林平楽寺 村上勘兵衛刊 行」とある。この年代は徳川家綱の時代で西暦1676年にあたり,今からおおよそ300年余 前のものである。印刷は鮮明で返点・送り仮名が付されており,各巻末の音釈ともども当 時の日本法相宗学の水準を示すものとして興味深いものがある。なお灰聞するところでは,
古写本を蔵する図書館などにもこの版は見当たらず,綾に東大寺図書館に蔵するがそれも 欠本があるという(本庄氏所蔵のは完本である)。
ちなみに本稿で論じる「成空品」について,大正大蔵軽版とr平楽寺』版との異同は次 の如くである。
大正大蔵経版 . 553b ②顕揚聖教論成空品 ③二
554a ①他
大正版異同
「顕揚聖教論」明欠
「二」=「一」明
「他」=「地」聖
r平楽寺』版 成空品
他
28
b
C
555a 556ab
C
557a
②芽
③刈
①汚
①於
②損
③相
④六日
⑤無
⑥無
⑦死
⑧楯
①諸
早 島 理
「芽」=「牙」宋・元・宮・聖
「刈」=「割」宮
「汚」=「法」三・宮
「於」=「性」宮・聖
「損」=「緑」三
「相」=「想」明
「論日」=「復次」三・宮・聖
「無」=「離」三・宮
「無」=「離」三・宮・聖
「死」=「無」三・宮
「楯」=「掘」聖
「諸」=「謂」聖
芽 漁 法 於 縁 想 復次 離 離 無 土 倉
この対応一覧からも明かなようにr平楽寺』版は三本系統特に明主系統に従ったものと 思われる。さらにたとえば「553b ③二」について, r蔵要』が側註に「原刻作一。今勇 魚刻改」として「一」を「二」に改めているのに対し『平楽寺』版が「一」であることは,
r平楽寺』版が高麗版を参照していないことを窺わせるものである(「556a ②損」も同 じ」)。ただし「556c ⑧楯」のみ例外である。 r平楽寺』版は「懊」とする。ここはr喩 ヨラ平々』囁決華分中「修所々厚地」(vo1.67,669 a)や『掻大乗論』§V11−4との対応から
「懊」とあるべきであるが,大正大蔵経・『野比』あるいは大正版の異同にも「懊」は現 れない。このように例外もあり,またr顕揚論』全章にわたって子細に検証したわけでは ないが,筆者が見た限りでは『平楽寺』版は,この「成空弾」同様,三本特に明本系統に 従っていると理解して大過なさそうである。
次に『平楽寺』版の返点・送り仮名であるが,当時の法相唯識学の伝統の深さを窺わせ るものがある。たとえば「成無性品」第七のka.14の注釈「又此勝義無戯論明野有相法離 一異性。何以故,由下風如於有相法不可説異亦非不異故」(559b)の末尾は下線部の二重 否定が難解であり(テキスト間の異同無し),宇井三等博士をして「(不)」として「不予 衛ナラソ」との註を付せしめて「由下此眞如於二有相法_不上レ可レ説二異亦非(不)異_故」
(此の眞如は,有相法より異とも亦た豊平とも説くべからざるに由るが故なり)の読みが の提示されているほどである。他方,『平楽寺』版は「三下此眞如於二有相法_不レ可レ説レ異 亦非レ不レ座上故」(此の眞如は,有相の法より異なるとは説くべからざるも,亦た異なら ざるには非ざるに由るが故なり)と読む。意味上両者に大きな差異は無く,テキストに異 同が無い以上『平楽寺』版に従うべきであろう。
しかしいつでもr平楽寺』版の読みが十全というのではない。たとえば「成空品」の ka.1「若於此無有 及此鯨所有 随二種道理 説空相無二」(553 b)をr平楽寺』版は「若
し此の無の有に於も 及び此の絵の所有にも 二種の道理に随て 空相二無しと説く」と するが,すでに論じられているようにこの偶は「空性における余れるもの」の思想すなわ ち「有の無」と「無の有」とを説くのであるから,「若し此に於て有ること無く 及び此 の鯨は所有ならば 二種の道理に随て 空相は無二なりと説く」とでも解するべきであろ
ラう。しかしかような指摘は我々が『小景経』とか『喩同論』とかの確実な出典を根拠とし
てのみなし得るのである。批判的に参照すべきことは言を待たなが,伝統的な法相学に基 づくであろうr平楽寺』版の読みは尊重すべきであると思われる。以下の本稿における「成 空品」の解読も絶えずr平楽寺』版を参照し多くの示唆を得たことは云うまでもない。
ところでその法相学の伝統の中で,たとえば『成唯識論』にかんする諸注釈文献に比し て,r顕揚論』の注釈書などが皆無に等しいことは如何なる理由によるものであろうか。
たとえば明治初期西本願寺がヨーロッパに派遣した留学僧北畠道龍口述の『天竺行路次所 見』に佛菩薩の著として『解深密経』や『喩伽論』・r成実論』とならんで『顕揚論』の
うし
名があげられていることを鑑み,あるいは『平楽寺』版の存在を考慮すると,歴代の法相 学の著作に『顕揚論』の注釈書の存在が期待されるのである。東大寺図書館によれば所蔵 のマイクロフィルム中に沙門釈宗性著r顕揚論父義即謙』なる書物があり,その内容は各 ラ
巻の要項のみとされるが,詳細は不明である。この書物の翻刻・解読も含め,法相学の諸 識者による『顕揚論』に関するご教示を切に願う次第である。
さて理証の視点から「成空品」ka.3以下の考察を試みよう。先ずこの「成二品」の構 成を見てみよう。欧陽寛平編『蔵要』版『顕揚論』に基づく「成空品」の置文は以下の如
の くである。
1 1−1 1−2 1−3 2 2−1 2−1−1 2−1−2 2−2 2−2−1 2−2−2 2−2−3 2−3 2−3−1 2−3−2 2−3−3 2−3−4 2−3−5 3 3−1 3−2
建立空相 平担 深相 別相 対破我執
依緬執我不成 即離耳癖 住中 見聞等執我不成 爲農 爲業 即吟 與難執我不成 無我有染浄 無我有受作脱 無我有輔還 無我有名想 無我起有情中 墨成和知
初番明所治我見 初番傘能治十六空
くka.Vl−1>
〈ka.Vl−2ab>
〈ka.Vl−2cd>
〈ka.Vl−3>
<ka.Vl−4>
〈kas.Vl−5,6>
〈ka.V1−7>
〈kas.Vl−8,9>
〈ka.Vl−10>
〈ka.Vト11>
〈kas.Vl−12,13>
〈kas.Vl−14,15>
〈kas.Vl−16,17>
〈ka.Vト18>
〈ka.Vl−19>
(蔵要頁数)(大正大蔵系頁数)
vo1.15,157 a,
157a,
157b,
157b,
158a,
158a,
158a,
158b,
158a,
159a,
159b,
159b,
160a,
160a,
160b,
160b,
161a,
161b,
162a,
162a,
162b,
553b 553b 553c 553c 553c 553c 553c 554a 554a 554a 554b 554b 554c 554c 554c 554c 555a 555b 555b 555b 555c
30
3−3 3−4 3−4−1 3−4−2
次寒明所断六愚 次番謡能劇団修 初智 後修
早 島 理
〈ka.Vl−20>
〈ka.V1「21>
〈ka.Vl−22>
163b,
163b,
163b,
vol.16,165 a,
556a 556a 556a 556b
この科文からも明かなように,この章の私邸(dar$ana一$arfra)は,概略するに
(1)「空相の定義(建立空相)」(kas.1,2),
(2)「対論者が主張する有我論へめ批判・否定(対訳我執)」(kas.3〜17),
(3)「有我論(我見)の分析と対治修習(繹巨富知)」(kas.18〜23)
の三部から成り立っていることが理解されよう。
ラ
このうち,すでに触れたことでもあるが,(1)「空相の定義(建立空相)」については,
「空の自相」ではr小回経』を経証としつつ,「有我の無」(atmano bhavaゆと「無我の 有」(nairatmyasya bhava切こそが『顕揚論』にとっての,ひいては喩難行学派にとって の「空の自軍」であると説かれているのである。換言すれば衆生我(pudgala−atman)と法 我(dharma−atman)との非存在(abhava),及び衆生無我(pudgala−nairatmya)と法無我
(dharma−nairatmya)との存在(bhava)とからなる人法源無我が空の内実として提示され ているといえよう。
さらにこの空の定義を受けて,人法二無我のうち先ず人無我論が開示される。すなわち
「空の差別相」である。そこではr勝義空経』を経証としつつ縁起に基づき,無我の五薙 が異熟相続しつつ輪廻輻生するのであり,認識などの行為の主体者としての自我の実在性 が批判・否定されるのである。人無我についてのこのような議論は,たとえばr聲車地』
や『甲案論』王地分・撮爵号分などにおいても説かれており,この学派の基本的なそして 伝統的な理解であったことを窺わせるのである。
そして以上の如く(1)「空相の定義(建立空相)」において提示された人無我論について,
具体的かつ詳細な議論を展開するのが(2)「対論者が主張する有我論への批判・否定(対 破我執)」なのである。この「対論者が主張する有我論への批判・否定は」次の三種の議 論から成り立っている。
〈1>対論者がその実在性を主張する自我(pudgala, atman)を五塵(pa五caskandha)と の関係から考察し批判・否定する議論(kas.3,4)。
〈2>見る聞くなどの行為の主体者として対論者が主張する自我(atman)の実在性を七 種の比喩をとおして批判・否定する議論(kas.5〜9)。
〈3>輪廻輻生しあるいは解脱する者の,伯己同一性の問題に関して対論者が主張する自 我(atman)の実在性を批判・否定する議論(kas.10〜17)。
このようにここ「互譲我執」での議論では,以下に詳述するように,『勝義空経』を経 証として「空の差別相」で提示されたテーマを個別的に追求していることが理解されよう。
また留意すべきはこれらの個々の議論が『喩伽論』本地分中「有尋有伺等三地」にて論じ られる「十六異論」第四計我論にトレースされ得ることである。「十六異論」はおそらく
『喩伽論』成立当時の仏教以外の他学派(外道)の種々の主義主張を十六種に要約したも のと思われるが,『顕揚論』はそのうちの計我論をふまえ,「成空身」における人無我論を 展開したものと思われる。以下,順次この「対破我執」を見てみよう。
自我(atman)の実在性を五纏(paicaskandha)の視点から議論するにあたり,「成空品」
は次のように云う (以下引用文及び試訳中の項目番号数は筆者による)。
復次云何早知補特伽羅我無所有。若有我者(1)爲即薙相,(2)爲住薙中,(3)爲住鯨 虚,(4)爲非薔相。 (553c)
復た次に云何が鷹に補特伽羅我の有る所無しと知るべきや。若し国有らば,(1)
三相に即すと為すや,(2)暑中に住すと為すや,(3)鯨慮に住すと為すや,(4)薙相に 非ずと為すや。
上述の如く,自我の非実在性は空相の差別相により開示されたのであるが,それは如何 様に理解すべきであろうか。「成空品」はかような自我が実在するとして,それと五纏と の関連性から次の四種の選択肢を立てる。すなわち,自我は(1)五纏そのものなのか,(2)
五艦の中に存在するのか,(3)手纏とは別の虚に存在するのか,(4)五纏と無関係に存在す るのかというものである。そのいずれの選択肢にも付随する論理的不合理性を指摘するこ とにより有我論を批判・否定する。そのうち,(1)(3)(4)の三種の選択肢についてはka.3を もって,(2)の選択肢についてはka.4をもって論じるのである。
まずka。3を見てみよう。
頒日
唯假過失故 纏無我過故 図無身過故 三我不早緒(ka.3)
月日。(1)若所計我即四四相,鷹唯是假。違汝自宗故成過失。以即於諸薙今立我 の
故。(3)若生諸緬住鯨剛者,我骨無纏。是早早過。岡岬纏中居有我故。(4)若非纏相 者,所計之我有無身過。無身之我不円理故。是故三種不明道理。 (553c)
頒に曰く。
(1)唯だ假なりとの過失の故に,(3)緬に我無しとの過の故に,(4)我は無身な りとの過の故に,三の我は理に鷹ぜず。(ka.3)
論じて曰く,(1)若し所計の我は即ち是れ纏相ならば,鷹に唯だ是れ假なるべし。
汝の自宗に違うが故に過失を成ず。早撃に即して我を假立するを以ての故なり。
ラ
(3)若し諸纏を離れて鯨虚に住さば,我には鷹に薙無しとなるべし。是れ亦た過有 り。諸纏の中に於て我有ること無きが故なり。(4)若し纏相に非ざれば,所計の我 に単身の過有り。無煙の我は理に鷹ぜざるが故なり。
是の故に三種は道理に鷹ぜず。
周知のように古代インドの実在論者は自我(atman)の実在を主張する。それは普遍者
・絶対者・永遠者・主宰者・自在者などを意味し,私を私たらしめている「私の本質」す なわち私そのものでもある。しかし仏教はこの自我を如何なる意味でも容認せず,無我を
32 早 島 理
説く。そして精神と物質の両者にかかわる一切の存在を五纏(p面caskandha)として示し,
同時に五纏の假の集合体として個々の人間存在を考える(私見假和合)。したがってそこ には如何なる自我(atman)も実在しないのである。
このような仏教の五纏説にたいし,対論者が(1)もし自我は五纏と同一であると主張す るならば,自己矛盾を引きおこすことになる。假の集合体である五薙と同一ならば,実在 であるはずの自我も假の存在になってしまうからである。(3)もし五薙を離れて別な庭に 自我があると云うならば,五纏即ち「私の存在」(あるいは「私の身体」)と「私そのもの」
とが別々に存在するという誤謬に陥ることになる。(4)もし五薙と無関係に自我が存在す ると云うならば,五薙即ち「身体」を持たない「私そのもの」があることになる。身体の 無い「私」などは論外である。
以上のように三種の選択肢いずれも不合理であることが論じられたのである。
次に,(2)自我は五薙の中に存在するという対論者の第二の選択肢についてka.4は以下 の如くに論述する。
復権若軒樋黒住諸纏中,是亦不興。何以故,頬日
如主火明空 形異依他過 無常無業用 近因非有我(ka,4)
論日。所計實我住諸纏中,①爲如主住舎②爲如火難薪③爲如明車燈④爲如虚空庭 種種物。如是一切皆不鷹理。何回故,有五種過失故。何者爲五。<1>①若如主唱 舎半者,形段鷹異,舎講中舎形貌異故。〈2>②躍如火在薪者,有依他過。火依薪 力不自在故。<3>③若如華押燈者,有無常過。随燈有無華華滅故。又前二種亦有 無常過失。①不見舎主有常住者,舎難久住而畦畔主或往時慮或死滅故。②火田薪力 有無不定無常性故。〈4>④若如虚空者,鷹有業用早撃過失。虚空業用顯然可得。
謂去來興業無暗磯故。我即不爾故成過失。〈5>又所計我與輝国因亦不可得。何以 故。無我外物諸種子等與果爲因立蔀得故。
是故計我住諸纏中與果爲因不鷹道理。亦無所計實我膣性。 (554a)
復た次に若し實我は諸華中に住すと計さば,儲れ亦た然らず。何を以ての故に。
頒に曰く,
①主,②火,③明,④空の如くならば,〈1>形異と〈2>依他の過 とあり,〈3>無常と,〈4>業用無きと,〈5>因に非ず。我有るに 非ざるなり。(ka.4)
論じて曰く。所計の實我の諸薙中に住すとは,①主の舎に住するが如しと為さん や,②火の薪に在るが如しと為さんや,③明の燈に依るが如しと為さんや,④虚空 の種々の物に虚(お)るが如しと為さんや。是くの如くの一切は皆理に鷹ぜず。何 を以ての故に。五種の過失有るが故なり。何を五と為すや。
〈1>①若し主の舎中に住するが如くならば,形段は鷹に異なるべし。舎主と舎 とは形貌異なるが故に。
〈2>②若し火の薪に在るが如くならば,墨書の過有り。火は薪の力に依り,自 在ならざるが故に。
〈3>③若し明の燈に依るが如くならば,無常の過有り。燈の有無に随いて明は 起滅するが故に。
又た前の二種にも亦た無常の過失有り。①舎主の常に住する者有るを見ず。舎は 久しく住すと錐も,而も彼の財主は或は鯨庭に往き,或は死滅するが故に。②火は 薪の力に随いて有無定まらず,常性の無きが故に。
〈4>④若し虚空の如くならば,鷹に業用顕然の過失有るべし。虚空の業用は顕 然として得べし。謂く去来等の業に障磯無きが故に。我は即ち爾らざるが故に過失
を成ず。
〈5>⑤又た所計の我の,果の與(ため)に因と為るは亦た得べからず。何を以 ての故に。無我の外物の諸種子等の,果の與に因と為るは亦た得べきが故に。
是の故に我の諸薔中に住し果の與に因と為ると卜するは道理に鷹ぜず。以た所計 の實我の膿性は無し。
「成四品」は云う。もし対論者が主張するように,自我が五蔽の中に存在するとして,
その在り様は具体的に四種の比喩をもって分析されよう。すなわち①家主が家屋の中に住 している様な明り方,②火(炎)が平中にある斜な上り方,③灯明が灯火にある様な存り 方,あるいは④虚空(空間)が種々のものに遍在している様な存り方である。そしてこれ
ら四種の喩例に次の五種の誤謬のつきまとうことが指摘されている。
すなわち〈1>「形態の差異」の誤謬。家主と家屋とではそれぞれの姿や形態がまったく 異なる様に,「私そのもの」(atman)と「私の存在」(あるいは「私の身体」)(pa負caskan−
dha)とはその姿やかたちがまったく異なることになってしまう。
〈2>「他に依存」の誤謬。火(炎)が薪に依存する様に,絶対者・自在者であるはずの 自我が平町に依存することになる。
〈3>「無常」の誤謬。①家屋はそのままで家主が変わり,②火(炎)の強さは薪により 変化し,③灯明の明るさは灯火の大小に左右されるように,普遍者・常住者であるはずの
自我が五奮のありように従って変化することになる。
〈4>「明白な作用」の誤謬。虚空(空間)はどのようなものにも遍在し,その中でもの の作用が可能になり,如何なる障害も無い。他方,自我にはそのような明白な作用はあり
得ない。
〈5>「因果律」の誤謬。この世界は,種と芽とのように,原因と結果との厳しい因果律 に従うが,自我はこの因果律を踏み外すものである。
五艦の視点から自我の実在性につきまとう同趣意の誤謬を指摘することは『集論』・『雑 集論』にも見い出される。『集解』・『雑集論』は「satkayadτ§ti薩迦耶見」に付随する 五種の誤謬を論じる。すなわち〈a>異相過失tadvilak§apatva,〈b>無常過失anityatado一
$a,〈c>不自在過失asvatantrya−do§a,〈d>無難過失nirdehatado§a,<e>不由功用解脱過 ロヨラ
失ayatonato mok§ado$的である。いまは『雑群論』を見てみよう。
(a)r如adayo natma, tadvilak§apatvat na hi te atmalak§a阜a iti 1
げラ
(b)na te$v atma, anityatado§at l na hy a6rayabhave a6ritah bhavatiti 1
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わ(c)na rUpavan atma, asvatantryado§aprasahgad, asvatantryatado§asyatmana尊te§v くイラ
ava6avartanat 1
(d)na tebhyo nyatratma, nirdehatado§at l na hi vina dehenatmaparikalpa upalabh−
yata iti 1
(e)athaivalhvidham atmanalh ka6cit parikalpayet tathapi nopapadyate rαpadika atma, ayatnato mok§ado$at l dehadibandhanabhave hi svarasenaiva mok§a草syad iti
〃
(a)色など[の五艦]は自我(atman)ではない。それと異なる相であるから。ま ことにそれら[色などの五纏]は自我の相を有するものではないのである。
(b)それら[色などの宝島コに自我は無い。無常の誤謬となるから。まことに依存 されるもの(五纏)が無いとき,依存するものは存在しないのである。
(c)自我は色[などの五薙]を有するものではない。不自在の誤謬に落ち入るか ら。[まことに]不自在の誤謬のある自我にはそれら[五薔]にたいする[自在]
能力が無いからである。
(d)自我はそれら[色などの五纏]から別なものではない。無身体の誤謬となるか ら。まことに身体を別にして自我を考えることは認められないからである。
あるいは(e)かくの如く[身体を離れて自我があるとの]あり方で誰かが自我を分 別するとしも,そうだとしても色など[の五纏]を持たない自我は存在しない。努 力を要せずして解脱するとの誤謬になるから。まことに身体などの束縛が無い時は,
ただただ自然に解脱があることになるであろう。
このうち『雑集論』のくa>異相過失tadvilak§a阜atvaは『顕揚論』(2)「黒住藍中」〈1>
「形態の差異の誤謬」に対応する。同様に,前者の〈b>無常過失anityatado§aはr顕 揚論』(2)「我執船中」〈3>「無常の誤謬」に,<c>不自在過失asvatantryado§aは『顕 揚論』(2)「我住戸中」〈2>「他に依存の誤謬」に,そして『雑集論』のくd>無身過失nird−
ehatado§aは『顕揚論』(4)「我非艦相」に対応しよう。さらに〈d>応身過失を受けての
『雑集論』の<e>不由功用解脱過失ayatonato mok§ado§的はそこでの「(因)無努カ ー(果)解脱」の論述からみて,r顕揚論』(2)「我執車中」〈5>「因果律の誤謬」を具体 的に論じたものと理解することができよう。確認のため両者の対応関係を以下に要約する。
『顕揚論』
(1)「我即纏相」
(2)「我住纏中」
〈1>「形貌読過」
〈2>「依血紅」
〈3>「無常過」
〈4>「業用粛然過失」
〈5>「誌面爲因亦不可得」
(3)「我住鯨虚」
『前集論』
〈a>異相過失 tadvilaksanatva
〈c>不自在過失asvatantryado§a
〈b>無常過失 anityatado§a
〈e>不由功用解脱過失 ayatonato mok§ado§的
(4)「我一纏相」 〈d>獣身過失 nirdehatadosa
この対応関係から理解されるように,『顕揚論』と『集論』(や『雑下等』)は,自我を 五艦の視点から批判して人無我を立証するにあたり,有我論に付随する誤謬にかんして彫 る種の共通の理解もしくは解釈を有していたと見なすことができよう。さらに人無我に関 するこの両論書共通の論述は『喩伽論』にまで遡ることができるのである。
『三年論』本地尋問「有尋有伺等三地」の「十六異論」第四計我論に展開される有我論 批判中に,我々は同様の議論を卜い出すことができる。確認のためSkt.及び漢訳を, Skt.
ユの も
からの試訳ともども掲げよう。
sa idarh syad vacan取a尊/kaccit(1)skandhamatre sattvaprajfiaptim icchasi(2)
アラskandhe§u va(3)anyatra va skandhebhya与1(4)askandhaka与〔phung po med pa〕1
(1)sacet skandham巨tre/tena nirviSi§ta与skandhebhya尊satyata尊sthitito sty atmeti
na yt臥jyate 1
(2)sacet skandhe§u l sa①nityo va syad②anityo va 1①sacen nityap l nityasya su㎞adゆkhabhyam anugrahopaghato na yujyate l anugrahopaghate va punar
。、a召dh。・madh。,m。y。与P,avヰti, n。殉y。t,1dh。,madh。,m。y。皐P・aπttav asatyam atyantalh dehanutpatti皐1aprayatne ca sada mukta atmeti na yμjyate〃② ウラsaced anitya尊Pτthak sa㎡1skarebhyo l)hahgotpattiprabandhapravヰtih nopalabhyata iti na yμjyate〃iha ca vina§tasyanyatrakτtabhyagamado§a iti na yμjyate 1
(3)saced anyatra skandhebhya与1tenasa㎡lsk#a草sattva iti na ytIjyate 1
エラ(4)saced askandhaka与tena sadasarhkli§to sambandhadeha atmeti na y覗jyate
/ (YBh l32,13〜133,3)
又我一問汝,随下意答。(1)爲即於纏施設有我,(2)爲於諸纏中,(3)爲門外丁丁,
(4)爲不属纏[非纏性]耶。
(1)若干於慈施設我者,是我與薔無有差別而計有我諦實常住[是實是常],不鷹道理。
(2)門門諸門中者,門下①爲常,②爲無常門。①若是常者,常住之我爲諸附帯之所 損益,不鷹道理。門門損益起法非法,不鷹道理。若不生起法及非法,門門野田畢寛 不起。又鷹不由功用二型解脱。②若無常者,離野洲外有生有滅相甲骨轄法不可得故,
不鷹[道]理。又於此滅壊後於鯨庭不作而得有大過失故,不鷹[道]理。
(3)若纏外地庭者,汝所計我鷹是無爲,不鷹道理[欠]。
(4)若既判薔[非纏性]者,我一切時鷹無染汚,講論與身不宰相屡。此不鷹[道]
理。(r喩伽論』vol.6,306 b,『顕揚論』vo1.9,524ab,[]は『顕揚論』)
彼[計我論者]に次のように詰問すべきである。汝は(1)五纏すべてが衆生であ ると設定したいのか,あるいは(2)弾弓の中に衆生があると設定したいのか,ある いは(3)五纏とは別なところに衆生があると設定したいのか。あるいは(4)五纏とは 無関係なものを衆生であると設定したいのか。
(1)もし五薙そのものを[衆生であると設定]したいならば,そうならば五薙と
36 早 島 理
区別のない自我が実在として存続していると云うのは不合理である。
(2)もし五緬の中に[衆生があると設定コしたいならば,そうならば[そのよう な衆生すなわち自我は]①常住なのか,もしくは②無常なのかである。
①もし[かような自我が]常住ならば,常住な[自我]が[時に]安楽を享受し[時 に]苦悩に害せられることは不合理である。さらに[常住な自我が安楽を]享受し
[苦悩に]害せられることがないならば,法・不法が生起することは不合理である。
法・不法の生起がありえないときは,[明渠からなるコ身体は絶対に生じて来ない ことになる。また[法・不法の生起がありえないときは,]自我が努力なくして常 に解脱者となる。したがって不合理である。
②もし[かような自我が]無常ならば,有爲なるものを別にして生滅し相続流転す るものは認められない。したがって不合理である。あるいはこの「世界」で消滅し たものが,別な「世界」で[因を]なさずに[果として]現れるという誤謬になる。
したがって不合理である。
(3)もし五纏とは別なところに[衆生があると設定]したいならば,そうならば 衆生は有中ならざるものとなり,したがって不合理である。
(4)もし[衆生すなわち自我が]五薔に属さないものならば(五障とは無関係な らば),身体と関連しない自我は常に酔態なきものとなる。[しかし現実の衆生は時 に雑染され時に清浄となる。]したがって不合理である。
このように『喩伽論』では計我論者の主張する実我の実在性を,四種類の「施設有我 sattva−prajiapti」に分析して批判・否定する。一読して明かなように,上記『顕揚論』「空 成品」のkas.3,4における(1)〜(4)の議論がこの『喩伽論』の(1)〜(4)の「施設有我」での 記述を受けていることが理解されよう。両者の大きな差異は次の如くである。
⑦r喩伽論』は第二の選択肢「五砂中有我施設」を①常住と②無常とに細分化する。そ の上で生死流転するのは自我なのか時刻なのかという根本かつ肝要な議論を展開し,常住 な自我が輪廻の主体ならば修習の努力なしに常に解脱がありうるという,根本的な矛盾を 指摘する。これは『雑同論』における「五種の過失」のくe>不由功用解脱過失ayatonato m磁sados的に直接対応する。
他方r顕揚論』は上述の如く<3>「無常過」を含む五種の誤謬に分析し,主都・火薪 ユらう・明燈・虚空の比喩を用いる。誤謬の分析がより細かになりまた具体化していることが解
る。その意味で『顕揚論』の「我住真中」の議論は『喩伽論』のそれよりもより論理的に 明確で説得力に優れるが,論争的な面が強いことも否めないであろう。
α)同様な指摘は『喩事論』第五の選択肢「不為艦施設有我」についてもあてはまる。r喩 伽論』は自我が五車と無関係ならば,そのような自我は常に清浄であると説く。この雑染
・清浄の視点はそのまま輪廻轄生の問題に関連するものである。
他方r顕揚論』は五纏即ち身体を有しない「私」があり得るか否かという,純粋に論理 的論争的な視点から議論を展開していると云えよう。
このように『顕揚論』「成空聾」kas.3,4における人無我論は(1)『喩伽論』「十六異論」
第四計我論を継承展開したものであり,『定論』・『雑集論』とも基本的には共通するも
のである。(2)ともに五井との関連で四種の視点から有我論を批判否定するのであるが,『喩 難論』は輪廻群生と解脱という根本的な問題意識の中で有我論批判を展開している。他方 r顕揚論』は同じ問題意識を背景にして,より理論的論争的な議論を展開している,と云 うことができよう(『顕揚論』ではこの輪廻輻生の問題はkas.10〜17で論じられる)。
四
次に「成算品」kas.5〜9の考察に移ろう。先に触れたようにここでのテーマは「対破 我執(kas.3−17)」のうち「行為の主体者としての自我(atman)」である。
問,若唯有車掌別働者,誰見誰聞乃至誰能了別。答,若見聞等割(1)是我膣,或
(2)是罷業,或(3)黙諾具,執我以爲見聞者等皆不強酒。何以故。頬日 我唯鷹是假 讐喩不可得 七喩妄分別 無見者等三(ka.5)
論日。若生(1)執我即是見等,又名見者乃至了別者,所計之我唯鷹是假。即於見 等法上三年我故。若国見等(2)是業,(3)是具,此亦不遇。側聞喩故。難妄分別七種 讐喩,然有昼過。是故三種皆不鷹理。 (554a)
問う。若し唯だ纏のみ有りて別に我無ければ,誰か見,誰か聞き,乃至誰か能く 了罰するや。答う。若しくは見聞等は即ち(1)早れ我の盟,或いは(2)渇れ我の業,
或いは(3)照れ我の具なるも,我を執して以て見聞者と為す等は皆理に鷹ぜず。何 を以ての故に。頒に曰く。
我は唯だ鷹に是れ假なるべし。讐喩は得べからず。七喩を妄に分別すとも,
見者等の三は無し。(ka.5)
論じて曰く。若し汝,(1)我は即ち到れ見等なりと紛し,又た見者乃至了別者と 名づけば,所計の我は唯だ鷹に削れ假なるべし。即ち見等の法の上に於て我を假立 するが故に。
若し見等は(2)是れ業なり,(3)剥れ具なりと執さば,此れ亦た然らず。讐喩無き が故に。妄りに七種の早藤を分別すと難も,然れども多くの過有り。是の故に三種 皆理に鷹ぜず。
上記kas.3,4での考察のように,五雄蝶和合として個体存在を考えるのであるが,そこ に自我の如き何らの実在者も認められないことが明かになった。これに対して対論者は次 のように反論する。五蔽のみ存して自我が何ら実在しないならば,いったい誰が見たり聞 いたり,認識・判断したりするのか。行為主体がなければ,日常の行為そのものも成立し なくなるではないかと。
この反論に対する「成空品」の答論は以下の如くである。仮に行為の主体として自我
(atman)が実在するとして,その自我と,見たり聞いたり認識・判断するといった日常の 行為そのものとの関係は次の三点に分析されよう。(1)行為そのものが自我である。(2)行 為とは自我の作用である。(3)行為とは自我の用具である。そして各々の選択肢が有する 論理的不合理性や矛盾を指摘して有我論を否定するのである。
もし(1)自我(atman)が行為そのもの,あるいは行為者であるならば,実在であるはず
38 早 島 理
の自我が假の存在であることになる。見るなどの行為の主体として「私」や「彼」などを 假に立てるのであるから。たとえば「風が吹く」というとき,実在する「風」が「吹く」
という作用以前に先ずあって,その「風」が「吹く」のではない。吹いている状態にたい して假に「風」というだけの如くである。
もし(2)行為とは自我の作用であるとか,(3)行為とは自我の用具であると主張しても,
その主張を立証するための比喩が成立しないから,これらの主張も認められないのである。
対論者はこれら両主張を立証するために七種の比喩を提示する。すなわち見聞即(2)「是 我業」にたいしてはく1>種子一芽・〈2>山師一陶器・〈3>神通者一自在の三喩
(ka.6)および〈4>大地・<5>虚空の二三(ka.7)の計五二,(3)「二二具」にたいし てはく6>火と〈7>刀の二喩(ka.8)である。そしてそのいずれも誤った比喩(妄比 喩)や不適切な比喩(二二 anidar6ana, AKo)であることを以下のように論じる。その 上で無我にしてはじめて作用や行為が成立することを,光を比喩として述べる(ka.9)
のである。
先ず(2)「是口業」の比喩を見てみよう。
云何多血。留日
面谷種無常 作者鷹詠出 如成就神通 鷹世俗自在(ka.6)
虚日。〈1>若汝計我於見聞等乱川種於芽者,我鷹無常。種非常故。〈2>若汝計 我於見聞業等如陶師於器者,我鷹是假。何以故,世間現見假名士夫有造器用,不見 直故。〈3>鯉山素直於虚血業猶如世間有神通者能起攣化,即鷹同彼,世俗面立及
自在過。山雨故,離假心外鯨油神通者所記油壷。又復現見虚血通者,於攣旧事随意 自在。我派内等不拘雨縁直垂自在。 (554ab)
云何が多くの過なるや。碩に曰く。
若し種の如くならば無常なり。作者は鷹に假を成ずべし。
神通を成就する如くならば鷹に世俗にして自在なるべし。(ka.6)
論じて曰く。〈1>若し汝,我の見聞等の業に於けるは種の芽に於けるが如しと 計さば,我は鷹に無常なるべし。種は常に非ざるが故に。
〈2>若し汝,我の見聞の業等に於けるは陶師の器に於けるが如しと計さば,我は 鷹に去れ假なるべし。何を以ての故に。[二二なる]假名の士夫(sarhvyavahara−
pun1§a, YBh)に造器の用有りと世間に素見す。蝕を見ざるが故に。
〈3>若し汝,我の二等の業に於けるは,猶ほ世間の神通有る者の能く二化を起こ すが如しと計さば,即ち鷹に彼に同じたるべし。世俗の假立及び自在の過あり。何 を以ての故に。假を離れて外に鯨の神通を成ずる者は見ざる所なるが故に。又た復 た神通を成ずる者を二見するに,二化の事に於て意に随いて自在なり。我の見等に 於て異縁に假(よ)らずして鷹に自在を得べし。
対論者が,行為主体である自我(atman)が主体とは別な行為をする,〈1>たとえば種 子が芽を生じるようにと主張するならば,この比喩には無常の誤謬がある。種子が無常で あるように,常住であるはずの自我も無常となるから。
<2>たとえば二二が陶器を造るようにと主張するならば,この比喩には学名の誤謬があ
る。陶器を造る人を世間では假に陶師と名づけ,酒を醸造する人を杜氏と呼ぶ。いずれも 世間慣用の假の名称であって,導師という実在性があるのではない。そのように実在であ
るはずの自我も假名の存在となる。
<3>たとえば神通者が馴化を幻出するようにと主張するならば,この比喩には假立及び 自在の誤謬がある。神通者も前生同様に假の存在であり,その彼が幻出するものも假の存 在である。また神通者は自由自在に攣化を幻出するが,自我が見るとしても,見る作用は 対象などに制限され自在ではないからである。
復次頬日
我畑地如空 鷹無常無性 鷹如二無作 分明業界得(ka.7)
平日。〈4>若年計我概見等業,猶如大地能持黒物者,我鷹無常,地非常駐。〈5>
野饗虚空無障擬故容所作業,我亦如是容見等業者,我鷹無膣猶如虚空,唯色無膣是
ラ
虚空故6
〈4>〈5>又如大地虚空於任持唄無動作用,我亦如是於竪樋等玉無作用。既無作 用執見者等不鷹道理。
〈4>〈5>又大地虚空任持無障二種功能分明可得。我於上等諸所作業国別可得国 訴管理。 (554b)
復た次に頬に曰く。
我は,地の如く空の如くならば,鷹に無常にして無性なるべし。
鷹に二に作無く,分明に詩型べきが如くなるべし。(ka.7)
論じて日く。〈4>若し汝,、我の見等の業に於けるは,猶ほ大地の能く萬物を持 するが如しと計さば,我は鷹に無常なるべし。地は常に非ざるが故に。
〈5>若し虚空の障磯無きが故に所作の業を容するが如く,我も亦た是の如く見等 の業を容すといはば,我は鷹に無艦(amαrti, a$arlra)にして猶ほ虚空の如くなる の
べし。唯だ色の無膿は是れ虚空なるが故に。
〈4>・〈5>又た大地・虚空の任持等に撃て動作の用無きが如くならば,我も亦 た是の如く彼の見等に於て鷹に作用無かるべし。既に作用無ければ見者等に執する は道理に鷹ぜず。
〈4>・〈5>又た大地・虚空の任持・無味なる二種の功能は分明に得べし。我の 見等の諸の所作業に於て別に得べきこと無きが故に理に鷹ぜず。
さらに対論者が,自我(atman)が見る聞くなどの行為をするのは,たとえば〈4>大 地があらゆるものを支え,〈5>虚空はその中であらゆる活動に障害が無い如くであると 主張するならば,次のような誤謬がつきまとうことになる。大地は無常であり虚空は無膣
(無物質の状態)であるように,自我も無常にして身体無き存在となる。あるいは大地が ものを支え,虚空では活動に障害が無いと云う場合,大地や虚空それ自体が作用をするの ではないように,自我にも見る聞くなどの作用が存在しないことになる。あるいは大地の ものを支える作用,虚空の障害が無いという働きは明白であるが,自我の見る聞くなどの 作用がありありと認識されるわけではない。
40 早 島 理
以上のように自我(atman)が見る聞くなどの行為をするという主張を立証するための 五種の比喩(<1>種子,〈2>陶師,〈3>神通者,〈4>大地,L<5>虚空)はいずれも 否定されたのである。
次に(3)「是郭勤」における比喩を検討しよう。自我が見る聞くなどの行為をするのは 行為主体が何か道具を用いる如くであるという比喩である。
復次(3)若執見等是釣具者,是亦不然。何以故。類日
能焼及能断 唯火煙所作 我於見等具 非如刀火勢(ka.8)
論日。若汝計我執見等具能見立聞乃至了別,如人〈6>執火縄焼,〈7>執刀能 断者,不鷹道理。何以故。世間現見離能執人,火自能焼刀自能割。見等亦爾。難無 有我亦鷹自有見等作用。夕暉不許。故此馬蝉。
又復世間諸纏共合假戸立爲我人衆生,執持恒等能刈能断聖別實我。故此非喩。
(554bc)
復た次に(3)若し眉墨は是れ我の具なりと執さば,回れ亦た然らず。何を以ての 故に。頬に曰く。
能く焼き及び能く断つは唯だ三等の所作なり。
我の見等の具に於けるは,刀・身軽の如くには非ず。(ka.8)
論じて曰く。若し汝,我の見等の具を執りて能く見,能く聞き,乃至嬉野するは,
人の〈6>火を執りて能く焼き,〈7>刀を執りて能く断つが如しと計さば,道理 に鷹ぜず。何を以ての故に。能執の人を離れて火自ら能く焼き,刀自ら能く割くと 世間に現見す。見境も亦た爾ならむ。我有ること無しと錐も亦た鷹に自ら見等の作 用有るべし。而るに汝は許さず。故に此は非喩(anidar6ana)なり。
填た復た世間は,諸等の共合に假想を立てて我・人・衆生と為し,二等を執持し て能く刈り能く噺つも,別の實我無し。故に此は非喩なり。
たとえば人が〈6>火を用いて何かを焼き〈7>刀を使って何かを切るように,自我が 感覚器官(視覚器官としての眼や聴覚器官としての耳)を用いて見たり聞いたりすると主 張するならば,これは不適切な比喩(非喩anidar6ana)である。人が存在しなくても火は ものを焼くのであり,ものを切るのは刀自身の働きで測ることは世間一般に認められてい るからである。火や刀とは別に他に「焼く主体」「切る主体」が有るわけではない。その ように無我にして見る聞くなどの作用が有り得るのである。
そもそも五纏の集合体を假に「人」とか「私」とか称するのであり,その「私」が鎌を 用いて刈り取りをするのである。鎌で草を刈っている私とは別に「刈る自我」が独立して 存するわけではないのである。
無我にしてはじめて行為・作用が成立することを「成空品」は「光」の比喩を用いて次 のように説く。
復次聖日,
如光能照用 離光無異膿 是故於内外 空無我義成(ka.9)
論日。現体世間即於光弾有能無用説爲同者,離光環外無帽照者。
如是眼鯛有見等用説爲見者乃至了別者別別見者等。是町内外諸法等無有我。
(554c)
復た次に頬に曰く。
光の能照の用の如く,光を離れて異なる膿無し。
是の故に内外に填て空にして無我の義成ず。(ka.9)
論じて曰く。世間を現窮するに,即ち光の膿に於て能照の用有るを説いて照照と 為すも,光の膣を離れて外に別の照者無し。
是の如く眼等に昇等の用有るを説いて見者乃至了別者と為すも,別の見者等無し。
是の故に内外の諸法,等しく我有ること無し。
光が何かを、照し出すとき,照す働きあるものを光と呼ぶが,その光を別にして「照す主 体,照す自我」が存在するわけではない。同様に我々の見る聞くなどの作用・働きに何か 独立実在の「見る自我」や「聞く自我」があるのではない。それ故,あらゆる存在に対論
カ
者が主張するような自我(atman)は何等実在しないのである。
さて以上のような,見る聞くなどの作用・働きの視点から自我(atman)を批判・否定 する議論は上述の如く『喩伽論』十六異論中の計上論に遡ることができる。『喩伽論』の
エの
議論は次の如く展開する(なお(1)〜(3),〈1>〜<7>は上記r顕揚論』と対応する)。
kaccid icchasi[1] dra§tradilak§a阜。 va [2] tadanyalak§a耳。 va/
[1コ saced dra§tradilak§apa与1tena ki㎡1(1)dar6anadi§u dra§㌻τtvadyupacara血 kτtva dra§t#valak§a摯a ahosvit(2)(3)P#hak tebhya尊1
(1)saced darSanadiSu^upacare tena dar6anadiny eva dra§t與ity atma dra§teti na yロjyate/nirvi6i§ta atma dar5anad三bhi毎/(2)(3)saced anyas tebhya与/tena tad−
dar6anadikam atmana与(2)karma va syat(3)kara尊arh v互1
(2)sacet karma/tac ca〈1>bijavat l tenanityatvan na yujyate 1〈2>sacet kum・
bhakaradisa㎡1vyavaharapuru§avad l tenanitya§ca sa㎡1vτtas ceti na yujyate 1〈3>
ア ア
sacedτddhimat−sarhvyavahara−pun1§avat/tenanitye ca sarhvτte capi sati, sa kamakarl ca sarvartheSv iti na yujyate1〈4>sacet pτthivfvat l tenanitya§ca l na ca pτthivlvat spa§takarmeti na yujyate/tatha hi pτthivyah karma spa§tam upalam・
bhyate / yad a(1hastat tadva6an na patati /〈5> saced aka6avat l tena 通pabhavamatra aka6aprajiaptir iti na yロjyate!saty api ca praj五aptisattve spa§婁arh tat karmopalabhyate l na tv atmana iti na yujyate!tatha hy aka$asya spa§ta!fl kar・
mopalabhyate yat tadva6ad agamanagamanasahkocanaprasara耳adikarma pravar−
tate l tasmat karmeti na yujyate 1
(3)saced kara草arh〈7>datradivat l tena yatha datrad anya cchedanadikriya eva㎡1 dar§anad anyad dar6anadyantara血nopalabhyata iti na ytIjyate!〈6> saced agnivat
イラ
1tena vyartha−agn i−kah)aneti na yμjyate l tatha hy agnir antarepapi dahakarh
42 早 島 理
svayam eva dahati 1
[2]saced dra§tradilak§a阜at tadanya耳/tena sarvaprama尊ah元na atmeti na yujyate
〃 (YBh 133,4〜134,2)
又汝何所志雄計之我,[1]爲即見者等相。[2コ爲離見者等相。
[1]若造見者等相者。(1)爲即於見等[上]假立。[有能]見者面相。(2)(3)席画 於愈愈[上]別立[有能]見者等相。
(1)若即於見等[上]並立[有能コ見者等相者。則[即]鷹見等是[能]見者等。
而汝立我。爲[能]見者等不鷹道理。以見者等與見等相無差別故。
(2)(3)若離於見等[上]別立[有能]見者等相者。彼見等法(2)凍雲随所成業。(3)
爲是我所凶具。
(2)若是仁所成業者。〈1>[此我]若如種子鷹是無常。不鷹道理。[欠]<2>若 言如図師等雲立丈[士]夫。如意鷹是無常鷹是假立。而汝言是常是實。不鷹道理。
<3>若盲嚢具神通假立撃[士]夫。此我亦鷹[是]無常假立。於諸所作随意自在。
此亦如前。不鷹道理。〈4>若言如地鷹是無常。又所計我無如地大顯了作業故。不 鷹[道]理。三焦故。世間地大所作業用顯了可得[故]。謂[能]持萬乳歯不墜下。
我無工業顯了可得。<5>若如虚空鷹非實有,唯於色無假立空耳不鷹道理。[是無法,
此不鷹道理。何以故,唯無色無假立敵故。]虚空難是俵有而有業用分明可得。非所 馬蹄故不鷹[道]理。世間虚空所作業用分明可得者,謂由虚空故障起動來屈伸等業。
是俗見着雪勘所成業不鷹道理。
(3)若筆写所執具者,〈7>酔言如鎌,如離鎌外絵物亦有能断作用。如是離見等外 於絵物上見等業用不可得故,不鷹道理。〈6>陰言如火,医欝計於我,不動道理。
何丈故,如世間火離能頃者亦自能焼故。
[2]兼言離見老等相学有我者,即所演我相乖一切量,本証道理。
(『喩伽論』vol.6,306bc,『顕揚論』vol.9,524bc,[]は『顕揚論』)
汝は[自我は][1]見る者などの相をしていると主張するのか,あるいは[2]
それ(見る者など)とは別な相をしていると主張するのか。
[1]もし[自我は]見る者などの相をしていると主張するならば,そうならば
(1)見ることなどについて見る者そのものなどであるとの言語表現があるのか,あ るいは(2)(3)それ(見ることなど)を離れて[見る者そのものなどであるとの言語 表現が]あるのか。
(1)もし見ることなどについて[見る者そのものなどであるとのコ言語表現があ るならば,そうならば見ることそのものなどが見る者であり,[自我は見る者では なくなるから]自我が見る者であることは不合理となる。自我は見ることなどと別 ではないのである。
(2)(3)もしそれら[見ることなど]とは別に[見る者そのものなどであるとの言 語表現が]あるならば,そうならばこれら[見ることなど]は(2)自我の動作(kar−
ma,業)なのか,あるいは(2)自我の道具(kara阜a,具)なのか。
(2)[もしこれら見ることなどが]自我の動作(karma,業)であるとして,<1>
それぽ種子の如くならば,さうならば[種子は]無常であるから,[自我も無常と なり]不合理となる。〈2>もし陶師などと命名された人の如くならば,そうなら ば[自我もまた]無常にして世俗のものとなり,不合理である。〈3>もし神通者 と命名された人の如くならば,そうならば無常にして世俗のものでもあるから,そ の[無常にして世俗の自我コがあらゆる対象に思いのまま[の存在]となるから,
不合理である。〈4>もし大地の如くならば,[自我は]無常となる。さらに[自我 は]大地のように明白な働きを有しないから,不合理である。何となれば大地には,
その[大地の]威力により下方へ何ものも落下しないという,明白な働きが認めら れるからである。〈5>もし虚空の如くならば,そうならば物質(色)の非存在の みを虚空と命名するのであるから,不合理である。また命名のみの存在であると
しても,その[虚空の]働きは明白に認められる。しかし自我には[明白な働きは 認められ]ない。したがって不合理である。すなわち虚空には,その[虚空の]威力 により去来・屈伸などの働きが生じているという明白な働きが認められるのである。
以上の理由で[見ることなどは自我の]動作(karma,業)であるというのは不 合理である。
(3)もし[見ることなどは自我の]道具(karapa,具)であり,〈7>鎌の如くな らば,そうならばたとえば鎌とは別な[ものにも]切断などの作用はあるが,その ようには見ることなどの中に,見ることとは別なものは認められない。したがって 不合理である。〈6>もし火の如くならば,そうならば火を構想することは無意味 であるから,それゆえ不合理である。何となれば火は,焼く者を離れても,自らの みで[ものを]焼くのであ[り,焼く者及び別な焼かない火を構想するのは無意味 であ]る。
[2コもし[自我が]見る者などの相あるものとは別であるならば,そうならば自 我はすべての認識手段を逸脱したものとなり不合理である。
r喩与論』は,対論者が見る聞くなどの作用の主体として自我の実在を主張するとき,
先ずその自我に見る者dra§tτなどの何らかの相lak§apaがあるか否かを問う([1][2]
の選択肢)。何らの相lak§apaもなければ,そのようなものは直接知覚であれ推理であれ,
我々の認識手段と乖離したものになるからである。次に何らかの相1ak§apaがあるとして,
その場合自我は(1)見る者draS tτなのか,(2)見る作用karmaなのか,(3)見る道具karapa なのかという分析をする。(1)見る者を想定する場合,見る者と別に見る自我が実在する わけではない。したがってこの想定は誤りである。(2)(3)の場合,それを立証するための
<1>〜<7>の比喩が誤ったものであることを指摘する。比喩及びその内容は上記『顕 揚論』と同趣意である。このように対論者が主張する,見る聞くなどの作用の主体として の自我の実在性を批判・否定するのである。このうち(1)〜(3)の選択肢や〈1>〜〈7>
の比喩を比較考察すれば明かなように,選択肢の立てかたも比喩の内容もともに上記r顕 揚論』と同一内容であることが理解されよう(『喩伽論』は比喩〈7>で「鎌」を説く。『顕 揚論』は「刀」を掲げるがその直後に同じく「鎌」の喩を述べている)。明かにr顕揚論』
のkas.5〜9の有我論批判はこの『喩口論』計我論のそれを継承していると云うことがで きよう。また『喩伽論』との対応から『顕揚論』における(1)膿,(2)業,(3)具の分析が(1)
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kartτ(具体例:dra§tτ見る人),(2)karma(dar6ana見る作用),(3)karapa(caku§us眼)で あることが理解されるのである。このように『顕揚論』は『喩総論』計我論における有我 論批判の論述構成及び比喩をそのまま受け継ぎ,さらにまとめとしてka.9における「光」
ユ の比喩を説いて人無我論の妥当性を主張したと見なすことができよう。1
(未完)
『顕揚論』及び『喩伽論』の解読にあたり桂紹隆氏(広島大),沖和史氏(種智院大),毛 利俊英氏(龍谷大)から多大のご教示ご示唆を得た。さらに佐世保,融融寺所蔵の漢籍文 献を利用させていただいた。末尾ながらともに記して謝意を表する次第である。
註 記
1) 拙稿rr顕揚聖教論』第六章「成空品」の経証」(r印面研』Vol.39, No.1.1990,12;以下「拙稿」)。
2) r蔵要』については早島理・毛利俊英rr顕揚聖教論』の科文」(長崎大学教育学部r社会科学論叢』
No.40,1990,3;以下「訳文」)p.53参照。
3) 長尾雅人r擾大乗論』下(講談社)pp.210〜211参照。なお『顕揚論』のこの個所をも含む「懊」の 警喩が有する問題については,藤田祥道「喫の讐喩について」(『印佛研』39−1)に詳しい。
4) 宇井伯壽「三無性論の研究」,同『印哲研究』第六(岩波書店)所収,p.252参照。
5) 長尾雅人「空性に於ける余れるもの」,同『中観と唯識』(岩波書店)p.549,及び「拙稿」参照。
6) 北畠並製口述r天竺行路次所見』については,神坂次郎「天竺への道」〈連載第十五回〉(r中央公論』
1988,11)による。なおこの「天竺への道」の中で諸膚書の名称を掲げるにあたり「……喩倣論顕,揚 論成実,論因明論等を説き,……」(p382)としたのは,四文字つつ読点を入れたのであろうが,明白 な誤りである。
7) 沙門釈宗性著『顕揚論父義細魚』に関しては清水公理・毛利俊英両氏のご教示による。謝意を表する とともに,その翻刻・解読が要請されよう。
8) 「戯文」の「成空品」の項を見られたい。
9) 「拙稿」参照。またこの「成空品」における「空自発」が同じくr顕揚論』「囁事品」第一で論じられ る三解脱門特に空解脱門の内容と対応することについては,藤田祥道「喩伽行派における三三昧」(『仏 教学研究』No.44, S.63,5)§§4−11を参照されたい。
10) 宮下晴輝「『倶舎論』における本無今自滅の背景」(『仏教学セミナー』No.44,1986,10),特に「『喩 伽論』におけるr勝義空経』の解釈」を参照されたい。
11) 自我と五薔とに関する議論としては,「成無常品」第四以下のいわゆる「成○○品」の序章にあたる 「成善巧品」第三kas.11,12(545c)を参照されたい。
12) 偶頬の「薙無我」(ka.3b)を注釈は「我鷹無纏」とする。文脈上は注釈も「雄鷹無我」とあるべきで ある。ここでは「蔽鷹無我」として理解する。
13) ∠4δ雇4加7㎜sα翅καηyαδ勿εyα(ASBh)ed. by N. Tatia,§8A(XXV−XXIX)3,チベット訳D. No.
4053.6a7〜b 3,『雑集論』vo1.1,698bc.『集論』はvo1.1,664c.
ア)a6tritalh→a6ritahとして読む。
イ)…イ)この一文は(d)末から移動し,一do§的→一doSasyatmanahとして読む。
14) Skt.はybg伽鵤δ肋露(YBh)ed. by V.Bhattacharyaをチベット訳及び漢訳に基づき訂正して読む。
また十六異論は周知の如く『顕揚論』「掻浄血品」第二vols.9,10に引用される(玄奨訳)。漢訳[]は
『顕揚論』との異同である。
なお『喩伽論』十六異論については安藤晃氏(広島大院生)により「梵・漢・蔵対照テキスト」が 作製されている。これは十六異論の各節ごとに梵(V.Bhattacharya版)・漢(玄堤訳)・蔵(P.版及 びD.版)を対照させ,さらに『国訳一切経』の該当個所を引用したもので,十六異論の解読には誠に 有益なものである。安藤晃氏のご好意により今回このテキストを使用することができた。ここに記す とともに氏に深謝の意を表するものである。また氏によるこの十六異論「梵・漢・蔵・対照テキスト」
の校訂版及び和訳が準備中と聞く。一日も早い出版を強く要望するところである。
また自我と五薙との関係から自我の実在性を批判・否定する議論は同じくr喩伽論』囁決択分中「思 所成慧地」に次のように現れる。「云何知我事実有故,非現有故,而不可得亦不可見。謂諸計我為実有 者磁極彼岸不過四種。一者計我即是諸緬。二者計我異於諸薙住諸薙中。三者計我非即諸顧而異諸薙,
非住纏中無住円融離工法中。四脚自我非即諸直中異諸薙,非住緬中興不住於異事諸薙離顧夢中,日章 メ 有心,一初(切?)同法都不相応。依我分別計為有者皆撮在比四種計中,除比更無若過若増。如是一 切我実有性皆不離理。即功故。……」(vol.65,659b)。ここには同じく四種の選択肢があり,その内容 は(1)「我即薙」,(2)「我異事,住陣中」,(3)「我非薔,非異々,非住薙中,住異薙中」,(4)「我非薙,
非異薙,非住蔽中,不住異薙中」に要約される。表現に違いはあるが,『顕揚論』の(D「我即纏」,(2)
「中質薙」,(3)「我住市庭」,(4)「我非薙相」からなる選択肢と同一の構造をしていると云えよう。た だその論述内容はr顕揚論』よりも「十六異論」計我論で展開されるそれに近いものである。またこ の「思所成聖地」中に「石女児」や「空華髪」の比喩は見られるが,『顕揚論』と同じ様な比喩は現れ ない。
ア)Bhattacharya版は第四の選択肢の一文を欠く。Tib.訳・漢訳により補う。
イ)Tib.訳・漢訳によりpunah sati→punar asatiとして読む。
ウ)Tib.訳・漢訳により一pravτttito→一pravτttihとして読む。
エ)Tib.訳・MSSによりasambandh記atmeti→asambandhadeha atmetiとして読む。
15) 『顕揚論』で引用される自我と五薙をめぐる「主舎・火薪・明解・虚空」の比喩が『喩伽論』十六異 論難に見い出されない以上,これらの比喩の他の文献での用例が問題となろう。砲身見をめぐる比喩 としてはたとえば『大甘婆沙論』には縄一蛇・杭一人などがあるが(vol.8,36 a),「日電・火薪・明 燈・虚空」の比喩の用例は定かではない。今後の課題としたい。
16) cf.∠4δ砺肋〃㎜々05α(AKo)1−5, r⑪a−abhava1ユaka§a131.
17) ア)…ア)Tib.訳・漢訳により補う。
イ)vyartha−agni一:Tib.訳rbdag tu rtoga pa don med pa」,漢訳「徒計於我」はrvyartha・atma一」を 示唆する。
18)確認のため『顕揚論』kas.5〜9と『喩伽論』との対応をまとめておこう。
『顕揚論』 『喩伽論』
[1] dra$tradilak§apa
(1)見聞等即是我膿(ka.5) (1)dra$tτtvadyupacara
(2)見聞等血塗心血 (2)ka㎜a 比喩 <1>種子一芽(ka.6) 〈1>岡avat
〈2>陶師一陶器(ka.6) 〈2>㎞mbhakaradisalhvyavaharapuru§avat <3>神通帰一自在(ka 6) 〈3>τddhimatsa1hvyavaharapuru§avat 〈4>大地(k五.7) 〈4>p#hiv聾at
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〈5>虚空(ka.7) <5>aka§avat
(3)見聞等即是我具 (3)ka悶na
〈6>火(ka.8) <6>agnivat 〈7>刀(k五。8) 〈7>datradivat [2] dra§tradi−anyalak§apa
なお「成空品」k巨.9とr喩伽論』との対応については後出参照。