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日本学2005『公開研究会』 : 中国は日本の「技術 の文化」から何を学ぶか

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日本学2005『公開研究会』 : 中国は日本の「技術 の文化」から何を学ぶか

著者 足立原 貫, 清成 忠男, 高 増杰

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 3

ページ 45‑76

発行年 2005‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00022576

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足立原 貫 清成 忠男 高  増杰

司会 日本学2005『公開研究会』第1回目を始めさせていただきます。

本日の研究対話の先生方をご紹介いたします。

皆様の方から向かっていちばん右は高増杰先生です。中国社会科学院日本研 究所副所長、同教授、法政大学客員教授でいらっしゃいます。(拍手)

1944年、北京市生まれ。北京大学研究生院日本語言文学研究科修士課程修了。

国際基督教大学博士課程修了、博士号取得。中国鉄道学院講師、中国社会科学 院日本研究所研究員・研究室長を経て、1992年から同教授、1997年から同副所 長。比較文化専攻。著書は、『日本近代成功の示唆』『日本の社会発達と政策選 択』『東アジアにおける文化の接触』等、たくさんございます。

そのお隣は清成忠男・法政大学総長です。(拍手)

1933年に生まれ、東京大学経済学部卒業。法政大学経営学部助教授、教授、

学部長を経て、1996年から同大学総長。産業論、地域経済論を専攻。中小企業 研究の専門家で、1997年、日本ベンチャー学会を設立し、初代会長に就任。そ の他、中央酒類審議会会長、中小企業分野等調整審議会会長、経済審議会、国 土審議会、産業構造審議会などの委員を歴任。著書は『グローバル時代の地域 づくり』『日本型産業の未来像』『企業家とは何か』等、たくさんございます。

そしていちばん左側は、足立原貫・日本学研究会代表・中国湖南省・武陵大 学客座教授です。(拍手)

1930年生まれ、東京大学農学部卒業。1996年、富山県立大学短期大学部教授、

同学部長を定年退職。1967年に廃村を拠点として開始した「農業開発技術者協 会」運動を基軸に、「人と土の大学」「草刈り十字軍」「中国への技術協力」など 幅広い実践活動を展開。1973年に山崎賞を創設。1987年に日本学研究会を発足 させました。著書は『一つの社会の死から』『道標はない』『山へ入って草を刈 ろう』『へんじゃないかへんじゃないか−世紀がかわるから』等、たくさんござ

日本学2005『公開研究会』

─中国は日本の「技術の文化」から何を学ぶか─

(3)

います。

それでは、日本学研究会代表・足立原先生から開催趣旨説明を含め、口火を 切っていただきます。

よろしくお願いいたします。

足立原 きょうのこの会のねらいを先にお話し申し上げます。よくあるシン ポジウムやフォーラムというかたちを採らずに、あえて「公開研究会」とした ことからお話しします。

高先生との長年のお付き合いのなかで、いろいろ話し合っているといつでも 最後に出てくるのは、「フォーラムやシンポジウム、あれはもの足りませんね」

ということです。労多くして実り少ない。時間が限られていて、コーディネー ターが、あるところへなんとか持っていこうというような格好で、たいがい時 間切れということで切られてしまうし、みんな欲求不満で終わってしまう。

大事なことは対話の姿勢です。たとえば高先生と私が、お互いに研究してい ること、関心を持っていることについて、研究室で資料を検討し合うような様 子を、皆さんに見て、聞いていただく。そういった機会をつくりたいと前から 思っていました。きょうはそういう試みの第1回でもあるわけです。

ところが、二人きりでやっていますと、話が迷路に迷い込んで出口が見つか らなくなったときに、冷静に見ていてくださる方が一人いないといけない。き ょう、その役を清成先生にお願いしてあります。

この会場は、私が日本学研究会を始めたときに「日本学研究草の根シンポジ ウム」の第1回目と第2回目を開催したところです。清成先生にはそのときか らずっとご協力いただいています。

きょうは3人なのに鼎談とはしませんでした。3人いるけれども、1対1、

2人の対話が核になるからです。相手が言う、こちらが言う、そして聞き出す。

私の書いたものが皆さんの手元に届いていると思います。昨年10月4日に外 務省と中国大使館の後援を得て、法政大学が主催した法政大学国際日本学シン ポジウム『日中の文化関係を考える−相互認識の「ずれ」を中心に−』に、中 国側から7人、日本側から6人出て、私はそのときの1人ですが、その報告書 のために書いた発言要旨です。

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われわれ日本人は日本の姿、自分自身が、なかなか分からない。分かったつ もりで分からない。他人がどう見ているかというような目がどうしても必要に なるときがある。これは個人の場合でも団体の場合でも同じだと思います。国 家間となったらもっと重要だと思います。

日本を研究している外国の専門家はたくさんいらっしゃいます。世界中にい らっしゃいます。そういった人たちが日本をどうとらえているのか、日本の何 に関心を持って、どういう方法で、どういうふうに見ているかという、その中 身を研究しよう。だから、日本を研究している外国人の日本学ないしは日本研 究、それを研究しよう。しかし「日本研究研究」では語呂が悪いので「日本学 研究」としました。

世界中にたくさんの日本研究者・日本学者がいるなかで、私は対象を中国に 絞りました。古代から日本の情報を集めて記録に残してきたのは中国です。日 本の異文化との接触というと、すぐに16世紀の鉄砲伝来やキリスト教伝来あた りから始まってしまうのですが、そうではなくて、千数百年前からあった中国 の人たちの日本観や日本研究をまず研究しなければいけない。その点で清成先 生と意見が一致しました。

英語圏の日本研究はたくさんあるわけですが、法政大学では、非英語圏の日 本研究を中心に研究所を設立しました。お互いに連絡を取り合い、協力しあっ て、いろいろなことをやっていこうと思います。さてそこで、日本を研究して いる世界中の学者のなかで、私は高先生に目をつけました。目をつけたと言う と言葉は悪いですが。

私は、1979年から農林技術協力で中国へ通っています。その間に、自分が長 年思っていたことを向こうの人たちにぶつけていろいろ反応を見てきました。

少なからぬ中国の日本研究者・日本学者とも知り合いました。高先生の書かれ た論文の一覧表の一部をここに持っていますけれども、1990年、中国に『日本 問題』という研究書がありました。1991年から『日本学刊』と名前が変わって います。それに高先生が「日本学と日本文化研究」という論文を書いておられ、

日本学の研究の方法論の検討から入っておられます。私が「この人に食いつい てみよう」と思ったのは、方法論から地道に入っていったということからです。

日本とは何かを研究するために、方法論をきちんと押さえるところから進め

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られた。『菊と刀』のルース・ベネディクト、日本研究者で大使としても来ら れたエドウィン・ライシャワー、それから『ジャパン アズ ナンバーワン』を 書いて知られたエズラ・ヴォーゲル、こういった人たちを取り上げ、文化人類 学者のルース・ベネディクト、歴史学者のエドウィン・ライシャワー、社会学 者のエズラ・ヴォーゲル、それぞれ視点の違いによって、アプローチの仕方も 内容も異なる。そのへんを高先生は克明に比較しておられる。

高先生のその論文は非常に私好みなのです。肩をいからせるのではなく、控 えめに、今後の中国における日本研究の一つの参考までに、こういうものを提 供するというような書き方。私はそれを読みまして、この先生の日本研究の内 容をずっと追っていきたいと思いました。

『日本学刊』に収められた高先生の論文は文化問題・社会問題ですが、日本 の幕末に関する研究が15編あります。福沢諭吉がよく出てきます。私は、高先 生は福沢諭吉の研究者だと思ったほどです。近代中国の思想家・厳復と福沢諭 吉における近代思想の比較とか、ヨーロッパの文明をがっちり受け止め、それ と格闘してきたアジアの姿を洗い出していく。高先生は特に幕末の研究をかな りやっておられる。私はそういう高先生に興味を持ち、お付き合いを深めてき ました。

日本を研究している外国人のその研究の中身を研究しようというときに、こ の人という人を徹底的に洗ってみたいと思い、きょうは、高先生の研究をモデ ルにして、中国の日本研究者は日本をどう見ているのか、日本の何を見ている のかを考えてみようと思います。

高先生が幕末の問題を話されると、福沢諭吉が盛んに出てきます。そこで

「高先生は、日本の近代思想の源流として福沢諭吉にいちばん注目しているの ですか」と尋ねたら、「いや、そうではない。佐久間象山だよ」とおっしゃる。

なぜ佐久間象山かということになりましたら、技術の問題、ヨーロッパを源流 とする科学技術を日本側はどう受け止めたかというあたりのことが出てきまし た。これは高先生の引き出しからもっといっぱい取り出さなければいけないと 思ったのです。

きょうは清成先生と、高先生の引き出しをたくさん開けようと思っています。

口火を切ると言いながら、口火がたいへん長くなってしまい、導火線もだい

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ぶ燃えてしまいました。このへんで本題に入りたいと思います。

高先生にまず伺いたいのは、なぜ高先生は日本研究を始めたのか、なぜ日本 語を勉強し、日本研究を始めたのか。その結果、今、日本をどのように見てお られるか。きょうのテーマを技術の問題にしたのですが、技術の問題に高い見 識をお持ちの高先生の自己紹介をも含めて、そのへんのことから入っていただ きたいと思います。

今、ご紹介にあずかりました高増杰です。

きょうはもともと、日本という研究対象をもうちょっと細かく見るというよ うな意味で研究会をやろうという話になっておりました。最初の考え方として は、足立原先生からお話をいただきましたけれども、考え方を整理していくプ ロセスが必要になってくるのではないかということで、こぢんまりとやってい くというようなことでした。その後、総長からいろいろアドバイスがあり、こ のようなかたちになっております。

要するに、日本研究をやっている人たちがどういうことを考えているのかと いうのが、一つの研究テーマとして考えられる。今、足立原先生からそういう お話がありましたが、考えてみますと、私は俎上の魚になってしまい、これか ら解剖されるというようなことになります。高増杰とはいったいどういう者か。

その解剖はそこから始まるのではないかと思います。

私はここ2年間ぐらい、法政大学で客員教授というかたちで勉強をしながら 研究作業もさせていただいているところです。本当に、すっかりお世話になっ ておりまして、どうもありがとうございます(笑)。

富山へ来る飛行機のなかで総長に話したのですが、私はそろそろ還暦になり ます。最初は日本語、それから日本の文化、思想、そういうかたちでたどって まいりました。私が高校生のときですけれども、いろいろ小説を読んでいまし た。若いときは文学青年で、バルザックも読みましたし、ドストエフスキー、

ゴーリキー、ユーゴー、いろいろなものを乱読というかたちで読みました。あ の時代、若い人たちは相当率直に考え、本をあさって自分なりに考える、そう いう時代でしたが、そのなかで私がいちばん感動したのは、日本の小説だった のです。

一つは、30年代、40年代に翻訳が出来ていましたが、『万葉集』。中国語版が

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もう出来ていました。それから『源氏物語』。いろいろ乱読しているわけです が、たとえばフランスの文学やらイギリスの文学やら読んでおりまして、当時 の社会状況だとかいろいろ分かる。ロシアあるいはその後のソ連の文学も少し は読んでみましたが、そのなかにはイデオロギーが結構入っている。日本の小 説、特に『源氏物語』に感動したのは、繊細というのか、非常に神経が使われ ており、たとえば主人公としての光源氏、恋文を書いたりしておりまして、本 当に繊細な精神の持ち主だということで感動させられました。

私は小さいときから内気で、いろいろな物事を考えること、いろいろな本を 読むことにふけっておりました。たぶん内気ということもあるだろうと思いま すが、非常に感動させられたということで、日本に対する興味が沸き上がって きたというのが一つです。

それからもう一つは、今から考えてみると、当時の中国政府が日本との関係 を強化するためにいろいろな措置をとったことが分かりますが、あのときはま だ若いですから、たとえば中国で日本の工業展覧会と言われているもの、日本 流に言いますと、日本の商品の見本市みたいなものが開かれる。そういうとこ ろにも、興味を持っているわけですから行きました。行ってみまして、そのと きの私の第一の感想は、非常に繊細な感覚の持ち主の人たちがつくった製品だ なということです。カメラにしても、その他の製品にしても、よく出来ており ました。たいへんきれいに出来ており、性能もよくて、こぢんまりしていると いうことで、感動させられました。

実は中国では、昭和30年代初めごろから、日本を勉強する人たちの育成に力 を入れていました。大学にしても研究機関にしても、どんどんつくっていって、

募集する人たちの数もどんどん拡大していく。私はあとからそれを研究したわ けですからよく分かりましたが、当時はよく分かりませんでした。けれども、

その時流に乗って、私もこういうことをひとつ勉強しようかなと思って受け、

運良く受かった。これがそもそもの出発です。

今から考えてみて、よかったなというところは、最初の出発は今言ったよう に、日本人は繊細な感情の持ち主ということで感動したということです。その 後、一つ大きな峠を越えたのは、中国文化と日本文化との相違についての確認 です。たしか60年代中ごろだったと思いますが、中国文化と日本文化の交流が

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よく議論されていましたが、たとえば中国の文化、日本の文化、あるいは遣唐 使の話、こういう話が授業のなかにも出ますし、メディアでも出てくるわけで す。けれども、最初の出発は「繊細だ」ということで、私自身としては日本文 化がちょっと違う存在だという発想でした。ですから、遣唐使であるとか、文 化交流があって日本と中国はよく付き合ってきたということは分かりますけれ ども、文化の性格について言えば、ひとつ違和感がありました。

若くてよく分からなかったのですが、中国の文化と日本の文化は、私の見た ところ、どうも違う。それは異なっている。よく言われているけれども、古代 中国の文化が日本列島に渡って、日本でそのまま広がったというような話なの ですが、それはどうも違うのではないか。簡単に言いますと、学部のときはそ こからひとつ違和感を覚えていましたので、では、徹底的にそれを考えなけれ ばいけないということで、日本研究という道に入ったわけです。

その後、70年代に入って、その前にはプロ文革(プロレタリア文化大革命)

があって研究など全然できず、ブランクがあったのですが、回復して改革開放 という方針が取られ日本に来たのです。これで生の日本と肌で接触し、なるほ ど、違うのだという私の考え方は正しかったと自分で確認しました。その後は もう収拾がつかなくなった。いろいろな比較をやりながら、自分のなかで葛藤 しながら、日本について勉強してまいりました。

こういうようなかたちでやってまいりまして、最初は中国の文化と日本の文 化が違うのだという考え方から出発したわけですから、その後の研究作業は、

主として異文化の研究という視野で日本文化を見る。同時に、中国の文化につ いても考えさせられる。一種の反省とも言えるだろうと思いますけれども、そ のようなかたちでずっと勉強してまいりました。

総長のところで、今、国際日本学ということで私も勉強させていただいてい ますが、語弊があるかもしれませんけれども、異文化研究という立場で考える と、勉強することが一杯あると思います。今のところそういうような視野でい ろいろな資料を分析したりして、整理をやっております。

実はきょうは技術がテーマですが、たぶんあとで総長からも技術の話が出る だろうと思いますけれども、中国の文化と日本の文化、全然同文同種ではあり ません。まるっきり違う。遡って考えてみると、だいたい中世のところからだ

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いぶ分かれてしまった。これまでの研究あるいは勉強の積み重ねで、私自身、

それを自覚したと言いますか、明らかにしたと言いますか、そのようなかたち で確認してきたとも言えるだろうと思います。

そんなところで、今、生かじりに日本研究をやっているし、昔の友人と話を するときは、「あなたがやっていることはわれわれがやっていることとどうも 違う。一味違うところもあるのだ」とも言われていますが、それを確認して、

やっぱりよかったなと思うところがずいぶんあります。

足立原 自己紹介的な部分はこのへんまでにして、いよいよ対話に入りたい と思います。

中国と日本は違うのだと今おっしゃいました。その違いがどのへんからはっ きりしてきたのか。今、中世とおっしゃった。日本の古代史は中国の文書がな かったら分かりません。日本には文字もなかったし。また、中国は紀元前から、

幻の王国、夏・殷のあたりから、日本から見ると、かなり先進的な動きをして います。私は先進国という言い方は嫌いなのですが、今様の言葉で言えば、中 国は長い期間、日本にとって先進国だった。「日本」という国名もなかったし、

国のかたちもなかった。そんなとき、中国からかなりたくさんのものを日本は 受け入れ、学んできています。

きょうの焦点になっている技術の問題、その根底にある科学の問題にしても、

中国の科学史なり技術史なりを追っていくと、びっくりすることがたくさんあ ります。すべて欧米中心の近代文明のような発想から、逆に反省させられるこ とがあるわけです。インド、エジプト、メソポタミアなど他の文明圏に比して、

中国の文明は独自にいろいろなものを形成してきたとみられますが、その中国 から日本はたくさんのものを学んできた。遣隋使や遣唐使が多くのことを学ん できていろいろなものが入ってきたけれども、それが中世以降、分かれてきた。

今、先生がおっしゃったように、日本と中国は違うのだと言い切れるように分 かれてきたのは、分かれさせてきたのは、何なのでしょう。そのへんからきょ うの本題に入っていきたいのです。何が分かれさせてきたか。「技術の文化」

という視点から解明してみたいと思います。

中世に分かれたということについては、これまでもずっと議論してまい りました。たとえば遣唐使の時代には中国からいろいろなものが日本列島に入

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ってきたというのは、たしかに歴史的な事実です。けれども、当時にしても、

日本の社会の実情に合わせてそれを日本化した、あるいは改造した、あるいは やり直しをした、修正をしたということが、ずいぶんあったのではないだろう かと思うのです。

最近、NHKで「大化の改新」というドラマをやりました。あれを見てみま すと、唐の時代のやり方、あるいは唐の時代の国家体制、そして、社会の仕組 み、それをいちおう真似をする。それは分かりますけれども、しかし、時代が 下るにつれて、ますます分かれてしまったということがあります。私がよく言 うのですが、一つは、日本で言うと中世になりますけれども、中国の時代区分 で、たとえば唐の末期、そして宋の時代には、社会の主役はいったい何なのだ ということを考えてみると、日本と中国はだいぶ違うということがすぐに視野 のなかに入ってくるだろうと思います。

たとえば宋の時代になると、中国では、一つ非常に明らかな移り変わりとい うのか、あるいは変わり方というのか、一種の歴史の変化が現れてきました。

簡単に言うと、士大夫とよく言われていますが、現代流に言いますとインテリ の人たちが政治舞台の前面に躍り出ており、社会の主役として活躍する。これ は中国の文化の形成、あるいは中国の歴史の移り変わりにとって、非常に大き いと思います。逆に日本は、中世に入ってから源平の台頭があり、武士たちが いちおう文化の担い手として成長してきたということが、まず一つ言えるだろ うと思います。そういう社会の主役というのか、あるいは社会で脚光を浴びて いる人たち、活躍している人たちが違うということで、だいぶ違います。

中国では、インテリとしての士の人たちが、宋の時代、11〜12世紀前後、非 常に活躍するようになりました。儒学者と言われています。彼らは何をもって 飯を食っているかというと、儒学の解析をするということで生計を立てている とも言えるのではないかと思います。要するに、皇帝の補佐をして天下国家と いうような大きな議論をしており、それで自分の立場を明らかにする。そして、

自分の必要性を訴える。こういうことをやってきたわけです。

簡単に言いますと、天についての理解なのですが、宋の時代のインテリの一 つの大きな貢献は、天について新しく解釈しなおしたということになるだろう と、私なりに見ています。たとえば春秋あるいは戦国時代、秦の始皇帝の前の

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時代ですけれども、その時代は、それこそ中国の伝統である儒学の発祥の時代 です。孔子がその時代に生きていました。その儒学は現代流に言いますと、政 治学みたいなものです。その基本的な主張としては、修身斉家、治国平天下と いうようなことを自分の基本的な理想として主張し、それでもって自分の行動 を律するということになります。

けれども、「論語」などをお読みになったらすぐにお分かりになるだろうと 思いますが、孔子自身は苦難続きの生活だったのです。いろいろな苦しい境遇 を経験していました。逆に言いますと、孔子は生きていた時代にはそれほど尊 重されていなかったと言えるだろうと思うのです。

漢の時代になると、比較的儒学を尊重するようになりましたが、孔子の説を 勉強する儒学者たちは、あくまでも皇帝には太刀打ちができないという、政治 的な立場でした。しかし、宋の時代になると、一つ大きな解釈が出来ました。

すなわち、天の概念の再解釈です。孔子は春秋・戦国時代にシャーマンの世界 と祖先信仰からある程度抜け出て人文精神を前面に出して強めていました。

「子、怪、力、神を語らず」と言って、世の中の人倫を中心にして儒学を発展 させた。漢の時代には、たとえば「天人合一」と主張されていました。天の世 界と俗の世の中、この両方が一致しているというふうに主張されます。宋の時 代になると、まさに一歩進んだわけです。仏教・道教もとり入れて、宇宙論と 同時に、「天」を再構築しました。つまり、「新」儒学では、天が絶対的な存在 である。では、皇帝はどうなっているかというと、中国の言い方では、皇帝は 天子と言われています。天の息子なのです。

世界のそれぞれの民族では、君権神授というような神話があります。たとえ ば日本では現人神ということで神様ですが、中国ではそうではなくて、天子で す。天があって、その息子として、天の代理として、世の中を統制している。

こういう基本的な論理の枠が出来てきたわけです。

だとすると、どういうことになるかというと、皇帝が絶対的な存在ではなく なってしまった。たとえば秦の始皇帝の時代は、皇帝として絶対的な権力を持 っているばかりではなく、論理的にも、天というような考え方がそれほど強い ものではなくて、むしろ世俗の政権が絶対的な存在だと見られていました。し かし、漢の時代を経て宋の時代になると、天子として存在するわけです。要する

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に、「理」と「気」の世界から言えば、天が絶対的なもので、それに従っていれ ば、その息子として、皇帝が世の中を支配する正当性が出てくるわけです。もし、

天の意志に従っているのではなくて、それに逆行するということであれば、天の 意志に従ってこの皇帝の支配を覆すことができるという論理になります。

天の意志をだれが解読するかということになりますが、これはわれわれ儒学 者だ、士だ、インテリだ、ということになります。儒学が体制教学化されてい く政治的雰囲気に加えて、科挙制度も整備されていく中、「士」は一躍時代の 寵児になりつつあった。だとすると、皇帝の権力にある種の制約を与える立場 にある士というものが出来たわけです。しかし悲しいかな、士の役割がそれに なっているわけですから、同時にそれによって制約されてしまいます。つまり、

修身斉家、治国平天下というようなことでやっていって理論的な枠組みをつく り上げ、それで天の意志を解釈する。これが自分の基本的な仕事になるわけで す。簡単に言いますと、理論的枠組みあるいは思想の構築、それを解釈する、

そういう仕事は基本的なものになってしまいます。そして、それがそれから 綿々と続いてきています。

皆さんは中国の人たちの話をすると、たぶん文人という話が出るだろうと思 います。絵がうまい、歌がうまい、だけど実際になると、何もすることができ ない。こういう人たちは優雅な生活をするかもしれませんが、実際の仕事とな ると、何も役に立たないというようなことがよく言われています。実はそれは 儒学者の末流になるわけです。

足立原 秦の始皇帝の時代、たとえば税制だとか、度量衡や文字を統一する とか、天下を平和にしていくための秩序をつくっていくうえで、文化政策を実 施するわけですね。そういったものの担い手たち、知恵を与えたりするのは、

知識人たちだったはずです。そして、そこから果実として、さまざまな科学や 技術に相当するものが出てくる。たとえば時計のようなものが出てくる。紙の 発明、それから何といっても、人類史上たいへんな発明の印刷術。

このようなことがあったにもかかわらず、また、そういうものを日本がずい ぶん学んでいるのですが、どうしてそれが近代にまで至らなかったか。人類文 明史上、非常に高い科学文明を築いた中国が近代科学の面で欧米に立ち後れ、

そのために欧米列強による植民地化の対象になってしまう。それを日本はそば

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で見ていた。そのあたりを高先生はかなり研究されているのですが、先生から 見たそのへんのところを知りたいですね。

あとで総長から、技術の能力というものは、いったいどういうものがそ のなかに含まれているかというようなお話が出てくるだろうと思いますが、た とえば印刷術は宋の時代に出来上がりました。けれども、それは一種の知識と してであった。そのときはたしかに出来上がった。あるいは火薬。これは非常 に大きな発明だと思いますが、また、一種の知識として成り立つかもしれませ んけれども、それをいかに活用するかという話になると、まるきり違った方向 に行ってしまいます。中国では火薬の使い道がまず一つ考えられる。そして最 初の使い道は、祭りをやるときにそれでもってお祝いをする。あるいは、神様 を拝むのに、それでやる。そのようなやり方で、火薬がそちらのほうに使われ るようになってしまいました。

社会の仕組みとしては非常にきっちり出来ています。たとえば江戸時代には 士農工商と身分制を非常に厳しく敷いておられましたが、中国の唐の時代は、

まさにそのような時代です。貴族があり、それぞれの名字、それぞれの一族、

これによって社会における地位が決まってしまったのです。それに対抗するも のは、士大夫、インテリ、知識人たちですけれども、知識人たちは、今申し上 げましたように、理論の枠組みをつくっておいて、それで自分の存在価値を主 張する、そちらに力が行くわけです。だから、具体的な技術となると、むしろ 非常に疎いのです。

後ほど、たとえば近代になると、どのように反省しているかというような話 をしたいと思いますが、そのときからすでに、文化の志向性がどうも違うとい うことになっているのではないかと思います。

11〜12世紀の宋の時代は日本の中世が始まったばかりのころでしょうか、10 世紀から国風文化というものが出来、そのあと日本は中世、鎌倉時代というふ うになっていくのですが、日本が中国とだいぶ違うところは、士大夫のインテ リというものではなく、むしろ戦場で戦う武士たちが社会的に活躍をする時代 になります。これは一つ非常に大きな違いです。中国の社会の主役として活躍 している儒学者たちは、主としてものを考えて理論をつくるというようなこと に没頭するのですが、それに対して日本の武士たちは、戦場で戦うわけです。

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まず、戦闘の技術を身につけなければ、やられてしまいます。戦場で相手をや るか、相手にやられるかということですから、戦闘の技術をよく練習し、それ を身につけて熟練する。その熟練の技術が重要視されるようになります。私は よく言うのですが、一挙手一投足、手の振り方一つ、あるいは足の踏み方一つ によって、やるか、やられるかの大きな分かれ目になってしまうだろう。そう いう世界です。

そういう世界の一つの特徴として、技術に対する重要視が共通の認識として ある。13世紀、14世紀にはそれが非常によく出ています。今でも、たとえば中 世の日本の文献を調べてみると、その当時の日本人の考え方は、具体的な細部 を非常に重要視する。逆に中国の儒者たちは、大きな話ばかりやっていたわけ です。技術のような話になると、全然話にならない。むしろ、俺たちはそんな ことは全然関係ない。皇帝の補佐をやっていって天下を平和にするのがわれわ れの仕事なのだ。技術というものにわれわれがタッチすることは全然意味がな い。そういう基本的な志向性で、分かれてしまった。そういう時代の流れにな っているのではないかと思います。

足立原 武士の戦闘の技術の話が出たところで、問題がかなりはっきりして くると思うのですが、科学・学問と言われるものは、物事の原理法則の体系で あるのに対して、技術というのは手段の体系です。そのために重要なのは目的 です。何の目的のためにこうするのか、こういうものが必要なのかということ です。その手段の体系として、いろいろな技術が出てきます。戦闘の技術、人 心掌握の技術、ものづくりの技術、ものを運搬する技術、ものを売買する技術 など、ある目的に従った技術が出てきます。

高先生はいみじくも、中世日本の主導権を握った武士というものがいたとお っしゃいました。その武士という存在が、戦闘の技術を通して、中国の知識人 たちが世の中のデカいことばかり言っているのに対して、かなり身近な、一挙 手一投足という言葉に現れるような細かい技術を検討せざるをえなかった。そ れは、生きるか死ぬかの問題だから。デカいことを言って、ものを書いて、飯 が食えるという世界ではないわけです。先生はそのへんをご指摘になりたいわ けですね。

文化の流れとしては志向性が全然違うわけです。

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清成 もう一つ、議論の媒介、媒介する理論が、必要だと思います。中国の 場合、ガバナンス(統治)のための学問体系が形成されていきます。日本の場 合、武士が戦闘するというけれども、その背景にあるのは経済です。基本的に は、武士が農業開発をやるわけです。開墾をやって、新田開発を全国的に広め ていきます。従って、武力の争いといっても、結局、経済の争いになります。

そこで画期的な変化が起こったのは戦国時代です。武士といっても、平安か ら鎌倉の段階では農業はまだ大家族制の農業です。それが戦国時代に、今でい うと核家族がベースになった農業に変わっていき、それで生産性が飛躍的に上 がります。生産性が飛躍的に上がったのが濃尾平野で、だから、濃尾平野を制 する者が日本を支配するということで、斎藤道三はわざわざ岐阜にやってくる わけです。信長が台頭したのもそれが理由です。濃尾平野は生産性がいちばん 高かったのです。

核家族になって農業生産性が非常に上がった。そして、当時は農と兵が分離 されていない。だから、秀吉が貧困家庭の出というのは全くの間違いで、単婚 家族の生産性の高い農業地帯の、たいへん裕福な農家の出で、力があるわけで す。そういうところで力を下から握っていくのが蜂須賀小六や何かです。結局、

信長はそういうものをうまく使っていったわけです。

背景にある農業生産性が飛躍的に上がったこと、その背後の、社会構造、家 族の構造の変化をちゃんと見ていて、それにいちばん鋭敏だったのが秀吉です。

だから、自分で天下を取ると兵農分離をやってしまう。太閤検地もやる。とい うことで、完全に新しい仕組みをつくっていくわけです。そういうときに、中 国の統治のための学問はほとんど役に立たないということです。

日本のほうで、きちんとした、客観的な学問体系として、日本的な統治の仕 組みの学問は発達しなかったかもしれないけれども、制度設計はそこでものす ごく進みます。兵農分離で、だから刀狩りをやる、太閤検地をやる。そこで、

極めて見事な封建制が出来上がっていく。そこを体系化したのが家康というこ とになってきます。

家康が支配してから、今度は統治の学問体系として儒教を入れてくるという 格好です。しかしベースの、庶民階層は儒教にはなじんでいなかった。そうい う二重の構造があります。そういうベースのところから明治以降の近代科学に

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適応するような動きがあったのではないか。もちろん、寺子屋などもそうです。

そういう儒教の体系、統治の体系、士農工商の士のところではなくて農工商と いうところが、近代技術体系に適応できるような準備を実はしていたというの が、徳川時代ではないか。それに目を開かせるような、客観するような刺激を 与えたのが蘭学である。今のお話を伺っていても、どうもそういう気がしてな らないのです。

昨年の秋だったか、若い人の書いた論文がちょっと話題を呼びました。戦国 時代に濃尾平野で一種の社会革新が起こったということを若い人が論文に書い て、それを西村という東大教授がたいへん高く評価したのです。けれども、そ の説はもう50年前に安良城盛昭という人が本に書いていることです。それは日 本の経済史の通説にもなっています。しかし、そこを深めた人が実はいなかっ た。安良城仮説が珍説だという扱いに半分はなってしまったところが非常に不 幸だったということです。

もう一つは堺です。技術でも何でも、結局、堺を経由して入ってきます。そ して、先ほどの濃尾平野で、信長は鉄砲でもすぐに使うわけでしょう。現実に 戦闘の道具として活用していくわけです。そういうときに技術変容が起こって きます。日本でも戦国時代以降、外来技術を導入しても、それが変容するとい うのが、そこで非常にうまく始まっていたわけです。それが連綿と続いてきて、

たとえば徳川時代の場合には平賀源内ということになるし、幕末では江川太郎 左衛門、佐久間象山、そういうところにみんなつながってきます。ですから、

大きな変化の原点は戦国時代にあって、その種をまいたのが高先生が言われた ような、武士の存在であったという感じがします。

一方、儒学者たちの使命感は非常に強かった。彼らは「修身斉家」「治 国平天下」と主張して、自分の道徳も入っているけれども、究極的な目的は

「平天下」ということです。今、ガバナンスというお話が出てまいりましたけ れども、帝王学というのでしょうか、あるいは政治学と言いますか、そういう 性格あるいはそういう匂いが非常に強い学問の体系だと思います。

それと比べると、たとえば戦国時代には日本の社会の主役として武士が活躍 していた。それで、戦闘技術が発達する。戦闘技術が発達するということは、

表面上は戦闘技術ですけれども、そのバックにはいろいろなものがたくさんあ

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るわけです。帝王学と比べてみると、日本の学問であれば、実用的な性格、た とえば実際の農業生産。たとえば戦闘をするとき、実際にいかに戦闘技術を熟 練させるか。たとえば戦闘の道具として世界で著名になっている日本刀をつく る技術。それを実際につくっている人たちは職人です。職人気質とよく言われ ていますが、私が見たところ、一種の思考パターンとしては細部志向が非常に 強いと、いつも考えさせられるのです。

中国の儒学者の話は空論と、佐久間象山も批判しています。実際の生産活動 あるいは戦闘活動には全然役に立たないと批判しているわけですが、社会その ものは全然知らない。政治学として、いかに天下を治めるかというようなこと で議論をするばかりです。それと比べてみると、日本では、士というものは武 士です。武士というものは中国の士とはだいぶ違うわけです。これがまず一つ。

それから近世になると、まさに家康の時代になりますが、朱子学を持ってき ます。けれども、蓋を開けてみると、その朱子学は社会に浸透しているのでは なくて、どうも浮いているというような存在です。家康は統制をするわけです が、その正当性を裏付けるために朱子学を持ってきました。要するに階層があ る。士農工商がある。そして、同じ武士のなかにも旗本だかと外様だとか、い ろいろ階層がある。これをいかに理由づけ、説明するか、いかにそういう連中 を納得させるかという大きな課題があったわけです。

今、総長がおっしゃいましたが、兵農分離です。それこそ放馬南山です。南 の山のほうに戦闘用の馬を全部放して、これからは戦闘などやらないよ、これ からは文化の時代になりますよというようなことで、何らかのイデオロギーが やはり必要になってくるわけです。それで朱子学を持ってきたのです。

当時の家康の正当性、階層の基本的、原理的な根拠、そういうものを説明 するために朱子学を持ってきたわけですが、朱子学そのものは中国では帝王 学になっているわけです。日本では、私に言わせていただくと、ちょっと酷 かもしれませんけれども、林羅山は家康の秘書みたいになっているわけです。

武家関係のさまざまな文書をつくったわけですが、そのアイデア、あるいは その基本的な発想は、全部家康のほうでやっています。だから、朱子学は一 種の飾りというのでしょうか、二重構造と総長がおっしゃいましたが、まさ にそのとおりです。

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つまり、それでもって正当性をつける。それでもって説明する。それだけの 話です。そして社会の秩序、それだけです。しかし、社会の仕組み、社会自身 の動き、あるいは社会自身がこれから運営されていくわけですが、これは朱子 学と全く関係なく、たとえば士の下には農工商があります。家康の時代には、

自作農を中心にして経済を成り立たせるということで考えているのではないか と思う節がずいぶんあります。要するに中間搾取、中間ピンハネをなるべくな くし、家康が下のほうからストレートに吸い上げる。そういう社会構造にした いと思ったのではないだろうかと思うのです。

士農工商となっていますが、中国では士は読書人です。儒学者というのは読 書人です。要するに本を読んで科挙の段階をのぼって出世していく。こういう 人たちは、読書をもって自分の一生涯の究極的な目標にしています。だから、

技術あるいは実際の生産活動には全然タッチしませんし、それには全然興味を 持っていません。当然のこととして、技術は重要視されません。

私が研究している対象の一人に、厳復という中国の思想家がいますが、厳復 という人はイギリスに行きました。イギリスに行って、イギリス近代の自然科 学をかじって戻ってきました。彼は、これも変な話ですが、軍艦の艦長という ようなことでイギリスで2年間勉強したのですが、船に乗ったことは一回もあ りませんでした。

彼は、中国はこういうやり方ではいけないだとか、思想的にいろいろなこと を考えさせられたわけです。たとえば中国の雲南省のほうに行ったら、そこに は銅の鉱山がいっぱいあるのですが、地元のおじいちゃんにはそれが非常によ く分かる。そこへ行って、山のかたち、山の石の色、山の周りの雰囲気、そう いうものを見て、ここには銅の鉱石が必ずあると判断できるわけです。厳復の 言うところによると、こういう人たちは本当は自然科学者であって、近代のヨ ーロッパ社会では専門家として認められる。しかし、中国では専門家どころで はなく、むしろ、普通の人たちであって、その価値を全然認めない。要するに 技術や普通の生産活動などは重要視しないわけです。

孔子が言ったのですが、野菜をつくることは自分は知らない。あるいは実際 に農業の活動をやるということならば、自分に聞いたってしょうがない。自分 はそういうことは全然知らない。お前はそんな話ばかり私に聞いているのだが、

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お前は器ではない。全然将来性がない。要するに具体的な技術という話になる と、全然対象にならないという基本的な発想です。

ですから先ほど言ったように、一方では巨大化志向、一方では細部具体化の 志向、これはだいぶ違うということになるのではないかと思います。

足立原 戦闘技術の問題に戻るのですが、日本に先立って中国にも戦国時代 が繰り広げられます。そういった時代の中国における戦闘技術を支えるものは、

日本の武士のようなものではなかったわけですか。その陰に職人の活躍する場 もなかったのですか。

痛いところをつくお話ですが、中国の戦闘技術はいったいどうなってい るかというと、一つは、同じ戦国時代という名前の時代がありましたけれども、

戦国時代とはどういう時代かというと、一方ではすでに周王朝が上のほうで押 さえているわけです。もう一方では、儒学者ばかりではなく、韓非子などの法 家が活躍していました。こういう人たちは漢の時代以降になると、どんどん削 られてしまって消えてしまいます。その後、いちおう平天下ということになり ますから、だいたい統一というかたちになっていますが、戦闘技術といっても 北のほうのモンゴル民族たちとの戦闘です。そういう戦闘になると、全部、王 朝の政府が押さえているわけです。皇帝、王朝、そして王朝の周りの儒学者た ちが、基本的に方針を決めていて、やらせるというかたちになります。自分で 意欲的、積極的に戦闘するというよりも、上のほうの命令に従ってやる。これ はもうだいぶ違います。

総長がおっしゃったように、日本の戦国時代にはそれぞれの武士たちは自分 のところの農業生産を守り、それを発達させて、どんどん拡張していきます。

意欲的に戦闘しているわけです。中国の武将たちは皇帝の命令に従って行動し ます。戦闘のほうはよく出来るかもしれませんが、上のほうの判断と違ってい るにしても、その命令に従う。それしかないわけです。自分の自立性というも のはないわけです。そのへんはだいぶ違うのではないかと思います。

清成 日本の場合、戦国時代以降、農村のなかに職人が住み着いています。

いろいろな職種の人がいて、一種の農と工の社会的分業関係があるという構造 の農村になっています。それが基本的に戦闘の技術を支えるようなところにな るのですが、中国の農村は農業に純化しているということですか。

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ええ。たとえば天下統一ということになりますと、単なる農業、田んぼ を耕すということで税金も相当重く、吸い上げられていくことになります。中 国では、先ほど天と天子の話をしましたが、要するに易姓革命です。どんどん 土地が集中し、貧富の格差が大きくなって、今度は反乱が起きる。だいたいこ ういう循環が2000年ぐらいずっと続いていました。その場合、全体の平天下と いうことで非常に大きな課題になるわけです。平和の時代にしても戦乱の時代 にしても、これは非常に大きな課題になるわけですから、儒学者たちが主役と して活躍する。その場を得られるわけですし、彼らの基本的な思考パターンも 社会に浸透していくわけです。

清成 ヨーロッパの場合、都市が形成されて、そこに職人が住み着くという かたちになります。こういう職人は近代科学に対応できなくなるのですが、し かし、そこに職人が大量に住み着く。その職人に2通りあって、王侯貴族のた めに働くのと、庶民向けのものとあるのですが、中国の場合、たとえば北京の ような都市に職人層が形成されるというようなことはどうなのですか。

これは歴史的に検証できると思いますが、非常に優れた技術を持ってい て、いろいろなものをつくり、王侯貴族、皇帝さまに献上する。層としてある 程度出来たかもしれません。庶民のほうは、それほど定着しないと言いますか、

それほど重要視されないと言いますか、そういうことがあります。

中国の教育体制もそれと全く同じです。つまり両極端です。一方でエリート のほう、上のほうの層は、恵まれているというのか、皇帝に仕えているわけで すから生活も安定する。一方、末端のほうは全然重要視されませんし、自生自 滅というようなかたちになっています。たとえばインテリとしてもそうです。

エリート教育は相当発達しています。科挙の受験のための教育、今の塾のよう になっていまして、いかに科挙に受かるようにするかという教育が発達します。

一方、庶民の段階では、そろばんぐらいできればそれでいいのだ。商いをする ときは間違いがたぶん出てこないだろう。それだけで十分生きていける。だか ら、庶民段階の教育はそれほど発達しない。それと技術の話とまた関連してい ますが、教育はそれほど普及していないということで、精神世界の志向性も当 然問題になります。

清成 日本は、幕末近くになってくると各藩が産業を興そうという政策を取

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ります。たとえば上杉鷹山などは典型です。産業に着目し、当然、市場経済も 発達してきますからそれに対応していこうというような動きは、支配階層には あまりなかったのでしょうか。

というよりも、中国の儒学の伝統から考えてみますと、何回か改革の機 運は高まりました。いわゆる経世学の志向です。つまり、役に立たない学問を 勉強したってしょうがないのですから、世の中に役立つようなものを研究し、

勉強して、それをやろうという機運は何回も高まってきますが、そのたびに抑 えられてしまいます。たとえば王安石などです。何回かあるとなると、いちば んトップの皇帝としては自分の支配の正当性を脅かされるという感じになり、

削ってしまう。そのようなことが何回もありました。

だから、これまた変な話ですが、支配の安定ということは、すなわち社会の 安定につながるというふうに考えられます。単純再生産の考え方を持っていま した。要するに、人口が増えるが、土地と産物が増えない。その結果、民の間 では不足が生じて、争いが起こる。社会も乱れる。これを防ぐためには、低水 準で平均的な生産性を維持させる。これが儒学の最も根本的な欠陥です。だか ら、技術の発達はおろそかにされる。逆に言いますと、遅れている状態で安定 する。どこかバランスが崩れてしまい、たとえば技術的に非常に優れたよいも のができていて、経済的力として蓄積されているとなると、上のほうはそれを 抑制する。そういう社会の仕組みは封建社会にはずいぶんありました。

足立原 以前におこなった高先生との話し合いのなかで、かなり完成したか たちの日本の封建時代といわれる江戸時代に、士農工商で商の上に工があった というあのへんの話も非常に面白かったのですが、中国の場合は工より商が上 に行ってしまうんですね。

そうですね。日本では工をある程度重要視する、それを育成するという ような意味があるのではないかと思います。たしか、城下町には工の層が相 当厚く、それが技術のベース(基盤)になるのではないでしょうか。この前、

先生にお話ししましたが、人間国宝の話ですよね。そういう発想は日本の文 化でないとできないのです。中国の文化では「人間国宝」という発想は考え られません。

一つには、技術そのものをそれほど重要視していない。もう一つは、技術と

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いうものは、技術だけではなくて、技術の担い手としての人間そのものが大事 にされなければいけないという発想です。ですから、単に手先が非常に器用だ というばかりではないのです。戦闘技術もそうですが、そのなかに頭脳が入っ ているわけです。技術といっても、頭脳も知力も入って、手先も入って、いろ いろなものが入っているわけです。そのへん、日本は一つの伝統としてずっと 受け継いできていて、ものづくりの国と言われていますが、戦後は高度成長が あって製造業が非常に大きな力になっているわけです。

私が見たところ、これは戦後だけではなくて、すでに中世にはその基本的な 源泉が出来ています。中国のほうはそれとは違うわけですから、それをなかな か受け入れようとしなかったということもあります。

これまた変な話ですが、開明の姿勢をとった洋務派の人達も、たしかに、西 洋の武器、西洋の兵器はいいけれども、これは買えばいいのだ。自分でそれを つくるなどというのは面倒だ。自分たちは平天下を課題にするのだから、そう いうものは全然問題にならない。むしろ、問題外だ。買ってきて使う、それで いいではないか。こういう基本的な発想があります。李鴻章たちもそうだった のですが、そのへんは非常に違うのではないかと思います。

足立原 私の父はチリンチリンと鳴る鈴をつくる職人でした。神社に下げる 大きなものから、御神輿につける鈴、女の方が根付につけるような鈴に至るま で、鈴にもいろいろあります。石川県には九谷焼の鈴があるし、その向こうへ 行くと竹の鈴があるし、岩手県に行くと南部焼の鉄の鈴があるという具合です が、私の父は真鍮鈴をつくる職人でした。空襲で焼かれて、兄も私も跡を継が なかったからつぶれてしまったのですが、子供のころを思い出しますと、父の ところに来ていた職人の弟子たちが父に手先の技術やいろいろなことを教わり ます。私自身、人生いろいろ生きてきたなかで振り返ってみると、職人の親方 はものづくりを教える師であるけれども、同時に人生の師であったのではない かと思うのです。弟子たちは言わず語らずのうちに暮らしのうえでの躾けやい ろいろなことを教わる。そういったものが作品に現れてくる。

私は今作品と言いましたが、自分の父のことを言ってはなんですけれども、

父は業界ではちょっと名の知れた職人でして、名前が銀蔵でしたから、屋号を 鈴銀と言いました。父は、今思うと「製造した」と言わなかったのです。「製

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作した」と言うのです。ですから、私の家は足立原製造所ではなくて足立原製 作所でした。その看板を今でもはっきり覚えています。

つくったものは製造した製品ではなくて、製作した作品なのです。たまたま その話をしたときに、高先生は「作るねえ。なるほど、心がこもってますね」

とおっしゃってくださいました。そういうふうに中国の方に言われて、私はう れしかったですね。「製造の造と違って、製作の作は心がこもっていますね」

と先生はおっしゃった。父がうちに来る職人の弟子たちに厳しく言っていたの は、「始末」ということです。「道具の始末をきちんとせえ」「製作した作品の 始末をきちんとせえ」というようなことを盛んに言っていました。

製作した作品の始末をきちんとするというのには二つ意味がありました。作 り損なうと恥をかくのだというのが一つ。恥をかくようなことをするな、きち んとせいと。もう一つは、今で言うところのリサイクルです。作り損ないを残 しておくのではなく、つぶして地金屋に戻せというのです。ちゃんとリサイク ルなのですね。作り損ないを残すのではなくて、作り損ないをちゃんとつぶし て地金屋に戻せ。そこに作り損ないをさらしておいて、恥をさらすなというよ うなこと。

だから今思うと、職人の親方は単なるものづくりを教えるだけではなくて、

ちゃんと人生の師であったなと思います。

今、先生が、人間国宝などという発想は中国人はとてもしない、日本人だか ら出てくるとおっしゃいました。私はきょうの課題をあえて日本の「技術の文 化」としました。文化そのものに対するさまざまな切り口があり、「言語の文 化」、「社会の文化」、価値観の問題、芸術の問題、宗教の問題を取り上げる

「価値の文化」。そのなかで、目に見えてはっきり分かる「技術の文化」という 点で、古来から長い期間、日本は中国から学びながらも、それがどんどん分か れてきた。分かれてきたのはどうも中世あたりだろう。社会の主役が代わって きたからだというふうなことですね。

このへん、どうでしょうか。

製作の話は、まさにそのとおりだと思います。たぶん、総長からまた技 術の内容についてお話があるだろうと思いますが、私が申し上げたいことは、

職人気質といっても、技術といっても、そのなかには心のこもっているところ

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がある。あるいはちょっと変な言い方になるかもしれませんが、魂がそのなか に入っている。技術というとき、そのなかにはすでに頭脳・知力というものも 一体化しているわけです。

中世の芸の話になりますが、心身一体とよく言われます。心と身が一体にな っているのだということは、技術は単なる表面の手先、あるいは表面の技術だ けではなくて、このなかにはすでに頭脳、知力、そして精神力、そういうもの が入っているのだ。ですから、日本では剣道、柔道、茶道というふうに言いま す。「道」をつけるということは、このなかには精神的な要素が入っているの だ。単なる一つの儀式、単なる一つの技術、単なる一つのやり方ではないとい うことを、日本の文化としては主張するわけです。

たとえば先ほど武士の話が出ましたが、佐久間象山と同時代に生きていて、

好一対を成している横井小楠。この二人はよく喧嘩をし、よく主張が対立し ていましたが、それほど会っていない。横井小楠は『国是三論』を書き、そ のなかには士道というものがあるわけですけれども、彼が主張したところは、

武には文があるということです。つまり、文武両道が入っているわけですが、

われわれ武士としては、武のなかにすでに文が入っているのだ、それがなけ れば武士にはならない、普通の百姓とあまり変わらない、ということを主張 するわけです。

コンテキストとしてそれをとらえてみれば、戦闘技術にしても、自分がやっ ていることにしても、このなかにはやはり魂がなければいけない。精神力が必 要になってくる。そういうことになると、技術というものは非常に重要視され ることが必要になります。

足立原 今のお話で思い出したのですが、高先生は「近代初期の日本の二種 の将来展望に関する研究」という表題で、「佐久間象山と横井小楠の国際政治 戦略」という副題のついた論文を、1999年に『日本学刊』4号にお書きになっ ていますね。今のお話を伺って、改めて読みなおしてみたいと思います。私、

そこまで細かく読んでいませんでした。横井小楠ね、なるほど。

特に非常に細かな、微視の世界では、日本の人たちは尽きることなく極 めていくことが多い。入念に入念に、心をかけて心をかけて、非常によく磨く というようなことをやっていますから。たとえばチップだとか、そういうもの

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を本当に精巧につくっています。そのへんは、技術というものがあって、精神 力あるいは知力がそのなかに入っているということになるわけです。これはも のづくりの一つの伝統として受け継がれているし、これからも続いていくだろ うと思います。

足立原 先ほど言語の文化だ、社会の文化だ、価値の文化だと言いましたが、

文化現象の一つとして技術というものを見たときに、日本の文化現象の特徴を いくつか組み上げていただけませんか。

清成 近代科学が定着したのは、客観性、体系性です。それで、完結性が一 つあるわけです。それに対して、先ほどのお話からだと、職人の魂のこもった 製作というのが町工場に引き継がれます。その町工場が近代科学による技術に みごとに適応していくのが日本です。

しかし、その間に飛躍があるのかもしれないということにはなるのですが、

すでに幕末の時点で、日本の職人層は、近代技術の変容というのか、受け入れ て、導入して変容するというようなことをやっているわけです。一つの典型的 な例は、明治5年に群馬県富岡に国営製糸所が出来た。生糸をつくる製糸工場 です。投資額が20万円でした。

足立原 当時の20万円はたいへんな投資ですね。

清成 それに対して、その2年後に長野県松代では村の鍛冶屋、大工を使い、

富岡の場合にはフランスの機械の輸入ですけれども、それを解体して日本式に つくり直す。投資額は2,600円と、はるかに安い。ところが、その翌年にはもう、

諏訪の平野村でもっと進んだことをやってしまいます。諏訪方式の製糸機械を つくってしまうわけです。その投資額は極めて低くなります。しかも、それが 村の鍛冶屋や大工で行われ、足りないところは松本から鍛冶屋を連れてくる。

それでつくった諏訪方式の機械の性能が極めてよかった。それがアッという間 に日本中に普及し、日本の生糸輸出が明治時代にものすごく伸びて外貨を稼い だ。その外貨で鉄鉱石や工作機械等を輸入していくわけです。

そういう製糸機械から今度は機織りの機械に行って、それが自動織機化して いく。それが機械工業の発展にどんどんつながっていく。そういう連続性があ ったのですね。しかし、連続性があっても、その連続の間でときどき飛躍する。

昭和13〜14年に山口貫一という人が、『熟練工問題の研究』という本を書い

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ています。山口貫一さんというのは国鉄の技師で、国鉄の技術を上げなければ いけないという際に、日本では工作機械が生産できない。熟練の質も、近代科 学に対応していく場合には変わってくる。どんどん高度化する。いったい欧米 ではどうなのかというので、アメリカとヨーロッパを当時のことですから2年 かかって調べて、職人の形成、熟練工の形成を調査してきて本にしているので す。これは見事なものです。

それで最終的には、工作機械を操作することは日本はわりと簡単にキャッチ アップするだろう。しかし、工作機械というのはマザーマシンですから、それ を自分たちで開発し、性能のよいものをつくることが大事だけれども、それが できるだろうかということなのです。しかし、それも戦後、日本は見事にやっ てしまいました。

これは全部、内発的な力です。しかし、外から技術は入れても、すぐにそれ は変容してしまいます。その場合に、先ほど重要なことをご指摘になったと思 うのですが、われわれが日本の中小企業の基盤技術を分析してみると、問題把 握力や問題解決力というのがまず先にあって、それから手作業等が非常にうま いというようなことがもちろんあるのでしょうが、結局、手さばきだとか、加 工組立、他方で、おっしゃったような感覚です。関知力がなければならないし、

そこに経験知を蓄積していって、客観化していくとか、そういう総合的なもの として、職人から日本の中小企業へと形成されてきます。

それで、先ほど職人の親方が人生の師だとのご指摘があったのですが、昭和 30年代以降の日本の中小企業は、ものづくりの場合、中小企業そのものが将来 の中小企業経営者のための学校なのです。だからみんな中小に入って、渡り歩 いて、そして独立していくというのが、ものすごく活発だったわけです。そう いう現象は中国ではなかなか根づかなかったということですか。

根づかないですよね。

清成 今、生産機能がどんどん中国に移っています。それが根づくだろうか どうかという見通しはいかがでしょうか。

今の職人の話と関連しているだろうと思いますけれども、私がいつも感 動させられるのは、たとえば鉄砲の伝来です。鉄砲が伝来し、時尭という名主 がどこかの職人に「お前、それをつくれ」と、現代流に言いますとコピーを勧

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