論 説
金 本 位 制 に お け る ﹁貨 幣 ﹂ の 意 義
鈴 木 芳 徳
﹁貨幣の世界では事態の動きは急であ
る︒だからといって︑原理が即座に変
わるわけではない︒﹂(ケインズ﹃貨幣
改革論﹄︑フランス語版への序文)
X37
目次
はじめに
市場機構と貨幣論
一﹁貨幣としての貨幣﹂
四金本位制度の逆倒性
五むすび
醐
商 経 論 叢 第32巻 第2号138
一はじめに
貨幣論の組み立て喬題にして︑そこから金本位制度の仕組みを考えてみたい︒
従来の貨幣論は・あるいは﹁﹃貨幣﹄なき幕弧鯉であ・たのではないか︑したが.て金本位制への理蟹漠然たる
ものに止まらざるをえなかったのではないか︑ここから小論は出発する︒
問題の要点は三つである︒アめ示しておくことが便利であろう︒
第一・これまでの貨幣論は・幕について︑ともすると商品流通に直接的に随順する被規定性︑順応性︑消糎︑
受動性・翌性を指摘するに止まることが多かったのではないか.しかし︑露貨幣の世界にのみ視野を限り︑商口聞
流通による直接的被規定性のみをいう貨幣論は︑事柄の半分しか見ていないのではないか︒
﹃資本論﹄の著者の思考に即していうなら︑彼は︑貨幣が︿商品逡に随順する﹀ものである▼︑とを主張したか.た
訳ではあるまい・彼が言いたかったことは︑恐貯︑貨幣が︿商品流通に被規定の存在でありなが︑り︑自立の存在た
りうる﹀という遡,,認・この自必至る曲折にみちた論理を}﹂喜いたかったのではあるまいか.}﹂の逆説を了知し
うるか否かは・その出発点に据え・りれる︿商品流通﹀そのことの理解いかんにかかわる︒もとより単に最引幕L
と﹁資産幕﹂とを平面的に羅列することはいともたやすい.しかし︑求φりれているのは︑﹁流通貨幣﹂と蛋幣と
しての貨幣﹂との逆説的関係の理解である︒
そもそも・幕が商品流通に被規定の存在だというだけのことであれば︑すでに貞学派に周知のΨしとが.りであっどう
た・﹃資本論﹄は・なるほど真学派Q肩の上に乗っている.乗.てはいるが︑﹃資本論﹄は}﹂れに同じる}﹂とをも.
て書かれたものではなかろう・﹃資本払珊﹄を︑占典学派の亜流であるかに読み蟹︑占典学派の擁馨であるかに説く
139金 本 位 制 に お け る 「貨 幣」 の意 義
のは︑誤りである︒﹃資本論﹄の本旨は︑古典学派﹁批判﹂にみ観︒
右で︑﹁批判﹂とい.つ旨園葉を用い奈︑由来︑認識とは︑批判的認識以外ではありえない・対象を籟化し・相対化して位置づけ︑その意味を問い︑その独自の嚢を尋ねる︑つまり対象を物象化の或る次元に置く・という以外に・
認識とい.つ▽しとはありえない.し奈って︑批判的認識のためには︑自らの物象化の体委積極的に提示するのでなければならない︒それこそが︑最も根底的な批判である︒
▼﹂▼﹂では﹃資本論﹄の提示する物象化の体系を︑貨幣論について見る.それもごく大づかみに見る・鳥の目をもって大局的に見るのでなければ︑肝腎の全体構図が見えてこないからだ︒
考えてみると︑貨幣に関する既往の諸学説への批判は︑すでに﹃経済学批判﹄における﹁流通手段および貨幣にかんする諸学説﹂において示されている︒皆すべきは︑そこに︑﹁藩手段﹂と並んで蚕幣Lが併記されていること
である︒
すなわち︑﹃資本論﹄における貨幣論の論理護上の大きな特徴は︑﹁幕の第三規定(量尋じ‑曇⁝.q.Φω︒Φ一αΦ.,)﹂たる︑蛋幣(∪・︒・︒Φ瞬位)L︑ないし蛋幣としての幕(量︒Φ募一.・︒ξが存在するところにある・い.つまでもなく︑富としての貨幣把握︑やや展的な表現でいえば蚕産貨幣Lとしての貨幣把握は・すで量商
主輩削々り行われていた.かつて行われていたこの﹁資産貨瞥としての貨幣把握を・商品流通の上に位置づけて
見せたもの︑▼しれが﹃資本論﹂にいう蛋幣ないし曹開流通Lなのである・右の論理構成の含意を読み解くこと︑これが小論の第一の課題であ(罷︒
第二.}﹂}﹂か.b直ちに第.あ問題が問われる.すなわち︑蛋幣としての貨瞥とは何か・の問いである・
商 経 論 叢 第32巻 第2号140
﹁貨幣としての貨幣﹂は・それ自体としてい,えば合然物としての金Vである︒その金属暮そのものが蛋幣Lと
され・そこではあらゆる形態規定は消滅している︒すなわち︑社会関係の帰結として生じた筈のものでありなが.り︑
あらゆる社会的過程はその軌跡を残していないのである︒
かかるものとしての蛋幣としての貨幣Lを内容的に理解するに際して︑必要奇欠な視占{は次の二つである︒第
一に・金をもって至上の董し︑富の絶対的形態とする﹁貨幣としての貨幣﹂は︑誉もの呪物性に覆われた存在だ
という認識が必要である・第二に︑それは︑商品から幕へ︑とい・つ範躊生成の論理的な流れに基礎つサリれている
とはいえ・商品から貨幣へという貨幣生成の経攣もってしては直ちに推し量る▼﹂とのできぬ︑新たな論理次元に位
置するものであり・犠にいえば・商品露を論理的前提としつつ︑露外に︑露馨憲としての退蔵貨幣の生
成をふまえることなしには・成立しがたい問題領域であって︑こ}﹂でなによりも求め・りれるのは︑商口器理解その}﹂
とでなく・商品流題についての深い理解だ︑ということである︒
第6呪物性について考えてみる︒この蛋幣としての貨幣Lとい・つ貨幣の完成形態にあ.ては︑金属存在それ臼
体が貨幣とされる・問題は・この呪物性の表皮を夜︑剥ぎ落したとき︑その中に見κるものは何か︑である︒それ
は・単なる︿価値物としての金﹀・︿労働生産物としての金﹀ではあるまい︒仮りに︑}﹂れが︿価値物としての金﹀
であったとすると・それはく価値物としての金vを︿価値物としての商口聞﹀とシンメーカルに対置してものを考え
ビジネスサイクル
ようとすることを意味するのであうつから︑この発想は︑恐らくは産業循環をシンメトリカルな循環として解≦しと
を意味しよう・しかし・かの価値形態訟鍛来の論述をふりかえってみると︑そ}﹂での強調点のひとつは︑︿貨幣は商
品であるvという素朴労働価値説をのりヲしえようとする点にあり︑蛋幣商口即は‑‑その独自な社会的諸罷かり生
ずる;の形態的使用価値を受け取るのである︒L(﹃資本論﹄第篇第.正早)と述べ・りれ︑また︑コ般的等価物として排 ㎜醐幽
141金 本 位 制 にお け る 「貨 幣 」 の意 義
除された商口㎜は︑..⁝⊥般的交換手段であるというだれにとっても塑の使用価値をもっている・L(﹃経済学批判﹄︑第
一章)ことが主張されている︒
すなわち︑蚕幣としての幕Lの本体を︿価値物としての金﹀において謬する,﹂とは・︿商品と区別されたものとしての貨幣﹀についての理解を排除しかねない弱点喬しているのであって・平たくいえば︿いつでも・どこでも︑何にでも﹀繭貝い向えるとい・つ貨幣に独自の磐使用価値を曇わせるものという}﹂とができる・この点は・曹⁝と貨幣とのアシンメトリな関係を理解するうえで枢要のポイントである・笙に︑その蚕幣としての貨瞥は︑何よりもまず畿幕として存在する・それは流通﹁外﹂の幕であり︑流通の﹁否定態﹂である.貨幣は︑ほん.bい︑流通の中で生成し︑藩の中で籠する筈のものでありながら・彊﹁外﹂の﹁否定態﹂が︑貨幣の完成形態だとされるこの逆説︑これが問われるべき問題である・﹁否定能心﹂の貨瞥そが蚕幣としての貨幣Lとされ︑至上の善とされるこの逆説は︑貨幣制度が根源的にもつ逆倒性として表現される.▼﹂▼﹂は︑貨幣理論における最大のアポリアであり︑貨幣制度論における最人の難所である・そしてその鐸は・分断
鱈クにたえずさ︑りされているものとしての商・㎝流通への深い理解を晶刷提享のみ可能となるものであるに相違
第三.}︑﹀︑か︑り棄位制度の理解が問われてゑ.金本位制度が纂制度のひとつであるかぎり・右の逆倒性の貫徹はまぬがれがたいと}︑ろである.棄位制度を︑金が価値尺度である本位制度といった程度の漠然たる理蟹止ま︒りしめるわけにはいかない.仮に︑右に述べたよ・つな逆説が金本位制度に貫かれているとすれば・金本位制をもって︑生来︑自律的安定性において万全無比のもの︑と蓼わけにはいかない・金本位制奮番する困難はどこにあるか︑
商 経 論 叢 第32巻 第2号
142
金本位制度において幕制度の逆倒性はいかに窺されているか︑}﹂れ・りが逐次︑問われねばなりぬのである.
(黙 影 鴛 薦 営 蟻 蠣 礫 鋸 熱 驚 嶽 顎 .酵 鉾 ㍍ 轟 .認 .雑
国§︒旨︒・馨ヨ︒・睾﹀α言ωぎα・ご・窪Φ琶乏き曼×ξ・幽・︒㎝)︒
(噺 鞭 難 難 鷺 灘 嚇 噸 趨 讐
七年〜充九︒年)参照・また・世界纂については︑拙稿﹁世界幕込細岩見﹂(禦川恣子﹃経済貿易研究﹄︑第モロ万︑一
九九一年)︒
二 市 場 機 構 と 貨 幣 論
まず︑市場機構の理解から出発しよう︒
古典学派は・瘍機攣通して・経済の全過程が調整されると哲えた.市場において需給が突きA口わされ︑贅も
価格も・揺ぎを見せながら調警れる.揺ぎは︑調整過程で押し戻され押し返されて︑永い目で見れば均衡線に収束
する・差調和という・市場への信頼がそこにある.つまり︑収束し収敏するものとしての過程認識︑それは経済の
全過程についての自律性の認識に支えられてのものである︒:
かくて古典学派は・WiG歯を・YGと雫Wとの即自的統芝見るのであ.て︑流通過程を遍程的統=
においてとらえる・すなわち・ボーは揺れるにしても︑転覆に至る心配は努︑無事に進行してゆく︑と見る訳で
ある・供給とは需要のことであり・売りとは買いのことである︑という︒供給が需要を作り︑売りは買いを伴.つ︑と
143金 本 位 制 に お け る 「貨 幣 」 の意 義
懲 爺 難 舞 鴛 畿 毅 鞍 藩 選 鍵 繕.灘
わっている限り︑それ︑bは時とともに収束に向うに相違ない.をて幕は・商品流通の影にすぎぬと見︑りれよう.
麟 運 響 謡 ム を 絶 対 視 す る か ぎ り ︑ 貨 幣 は 流 通 貨 幣 で 足 り る . 貨 幣 理 論 は 馨 幣 論 誉 ︑ つ ー は
と▼︑ろで︑蕎本論﹂に立ち返.てみると︑﹃資本論﹄の善の眼前には・人別して・選幕学説があった.
篁は︑旗学蛮則の︑重商嚢的な貨幣理解である.金こそが富であり・金の獲得こそが出贔の獲得であるとする︑ワ﹂の単純にして森な纂理解の下では︑金こそはア了ずに拝讐るべき対象・尊崇に値する価値とされた.第二は︑古典学派の幕理解である.それは︑価値の源泉を労働に求め・商品藩に随順するものとして藩貨幣を見︑▼﹂}﹂に立って重商義の迷妄を﹁A口理的に﹂蟹明してみせた.アブ茅註金を富とする迷妄は完全に解体
され︑その は に ちるむ
﹃資本論﹄の著者は︑}﹂れ・りをど・つ見たか.彼は︑万では寅学派のいうところに同調する・市場騰の調整メカレズ
ムの理解にも護する.調整は︑社Aム的過程たる藩過程を通じて︑個々の崖過程に及んでゆく・それは・個別に投入された労働の︑た,えざる社会的再濡過程でもある.こうした意味からすれば・﹃襲鯛﹄は・寅学派の衣
瞬鯵ものとい.てよい.しかし︑にも拘・りず︑占典学派の﹁A口理的な﹂説明では︑諾存喜ての幕は解
﹃資本論﹄の善の隻た時代は︑寅学派のそれと大ミ異なっている・貞学派は・総じていえば・マニュファクチ︑ア段階の経済学説である.しかしAフや︑産業藩が進展し︑工場制工業が広まり・固定資本が大規模化して︑
商 経 論 叢 第32巻 第2号144
産業循馨誓 .垂が生じて‑る.価格調整とか贅調整とかい・つのは︑経済の揺ぎが或る域値の.つちにあり︑
偶発的かつ部分的であるにすぎぬ場合のことである.いまや単なる数量調整︑(礪調整ではと.つてい覆いつくせない
ほどの全面的破綻〜恐慌が生じてくる︒Wと馬が完全に分断されるわけだ︒
しかし占典学派は・恐慌を知ら驚・歴史の事実としてい・凡ば︑循環性恐慌は冗世紀の初頭にはじまる.また︑
轟学派の末商は・この新たな歴史の事実に目を塞ぎ︑形式化され教條化された既往の愚r説に執着する︒
すなわち・轟学派と﹃資本論﹄との間には︑W己歯のは・りむ緊張の質と程度にりいて︑決定的な認識の差が
ある・古典学派は・Y〒Wを・WととG宙との即畠鐘︑すなわち逼程的統ごにおいて峨をと.り.え
たが・﹃資本論﹄は・その堕が決定的に打ち破られ︑分断される罷性を見て︑㍗GiWをく過程的運動Vにおい
てとらえた・単なる贅調整や価格調整では補修できぬほどの分断︑}しの分断の罷性があるとなれば︑wlG‑w
への信頼は奉に相対化されよう︒商品は幕を恋い慕うものの︑ま▼﹂との恋はなめ・りかには進みがたい︒wlG‑
Wへの信頼の相対化は・ひるがえってい・えば︑蛋幣としての貨幣Lへの絶大なる信頼である.ΨG‑Wなる運動空
間が不難性に満ちているとなれば︑その舞にある蚕幣としての貨幣Lは︑いぞつ不動の存在璽しとくに目に
映る・それは・WlG歯の帰趨と関りなく︑不動の価値をもつか覧えて}﹂よ.つ︒
ここにおいて・貨幣畿の過程と根拠は・何処にか消え去り︑ただ認め・りれるのは︑富のいつでも出動罷な︑絶
対的で社会的な力としての貨幣である.流通において籠するもの}﹂そが貨幣であるべきはずのところが︑流通の否
憲においてこそ貨幣は幕とされ︑逆に︑流通する貨幣はく現世における仮りの姿vになりおおせるのである.
このように・WlG[Wの世界が・完結具足の暮空間たりえぬことの認識がなければ︑﹁貨幣としての貨幣﹂は躁
解できぬ・逆にいうと・Wと蜘をもっぱ・り遍程的続ごにおいてと・り・えた占豊子派は︑流通貨幣についての認
145金 本 位 制 にお け る 「貨 幣 」 の意 義
識に止まるしか望︑そΨ﹂か・り蛋警しての貨瞥に至る道はついに見出されることがなかったのである.}﹂}﹂に叩りかな▼﹂とは︑同じ‑流通の動態認識とはいっても︑古典学派は︑収束に向う秩序への過程として動態を見たのであ.て︑いわば︿纏に沿・て﹀事態は進むと考えたのに対し︑棄論﹄の著者は或る曲線から別の曲線
に突如とび移る斐口理のポ一アンシャルを秘めたものとして流通の動態を見たのであって・つまり︿曲線がシフトする﹀ケースのある}﹂とを見逃がさなかったのである.かを︑蚕幣としての貨瞥の綴は・恐慌についての綴の
嚢 警 匙 羅 鋼 蕪 ︒. て お ー た が . て そ れ は ︑ 遙 か の ち の 次 兀 に お け る ﹁貨 幣 馨 積 ﹂ に つ い
ワ﹂り﹂で立ち止って︑右に述べた藩をいったん整理しつつ︑華︑敷街しておきたい・右では・W﹂G‑Wに常に分断の可能性があるとい・つ占{を︑蚕幣としての幕Lが生ずる必鴛の拠点毒えた・しかしもとより・その陰には︑
流通幕として用い︑bれるがゆ,えに﹁幕としての幕﹂たりうるという可膳誇側面がある・そしてさらに言,えば︑蚕幣としての幕Lたり・つるが故に︑その貨幣は流通幕たりうるのであり・蚕幣としての貨幣Lを欠いては・商
口㎜流通その}﹂とが成り立ち,えないのである.1つまり︑奮貨幣Lと蛋幣としての幕Lとは緊密にして不可分の相互予定的関係にあるのであ.て︑後に見るところであるが︑貨幣制度なるものは・流響幣のみ垂握すれば足
りるわけのものではないのである.蚕幣としての貨幣Lは︑幕制度を論ずるにさいして・逸することのできぬ枢要
(逸素であり︑また︑流通手段幕は蚕幣としての貨幣Lを欠いてはをしえぬものであることを確認しておきたい︒
(記 ・藩 蟹 嶽 々馨 藤 嚢 解 練 鰐 は な く て ︑ 自 分 た ち が そ れ 露 ー の の た め な の で あ
1「
「りLrI貞r
商 経 論 叢 第32巻 第2号 i4s
リカードはいう・﹁生産物は常に生産物によって︑あるい鋳.誉よって︑買われる︑貨幣はたんに交換藁すための媒介物
にすぎない・﹂(﹃経済学及び課税の原理﹄︑第..土章︒﹃リ々ドウ全集‑﹄︑堀経夫訳)
(昌 と綾 軽 薦 艶 瓢 圃謹 購 継 犠 畿 勝 ス獣 ㍉ 漁 謡 縄 鞭 灘 雛 懇 鑑 羅 灘
がついに理解されえなかったのである︒
(5)くり返す恐慌を・斑学派のいう自律翠メカニズムを少し拡張した中に解け込ませてしま跨とす漉え方は︑私は疑問
だと思っている・恐慌は・貞学派のい・つn律調整メカニズムを越.κるものとしてζりえ.りれねはな.bな㍉︑
(篇 駄 琶 藁 類 磁 汐雛 事饗 諜 蜂 鰹 職 繍 驚 樗
(L )血早 蛎 聾 ド ﹃欝 ﹄蠣 髄 は ・ 塩 派 と ケ イ ン ー ー 実 に ー 似 蔑 マ ー ‑ ケ ズ 転 そ
の所説は・貨幣的経済理論としての性格を濃厚に持.ており︑歪の蓮性を有している︒
ケインズについていうと・彼が充・・四鴛豊富の中の貧困ー経済体系は自己調請か?Lと題するム要の中で︑︑経済体
系は自己調整的ではない・Lと結論したことの憲は極めて大きい.(O巳Φ8α乏円三口σqρ×目唱や癖︒︒o)
(8)以上のことから二国民経済を流通幕のみをもって満たすことの誤りが知りれよう.﹁幕としての貨幣の存在する理
論空間を加えるのでなければ︑国民経済は成り立ちえない︒
三﹁貨幣としての貨幣﹂
147鉢 位制 に お け る 「貨 幣 」 の意 義
る鏑貨幣としての貨幣Lとは何か︑その理解には幾重もの困難が待 けている.⁝では・嬰二つに分けて堂
篁に︑商口朋流通Lと蚕幣としての幕Lとの関係をどう繹するか・の問題がある・第︑一に︑▼﹂れを受け三貨幣としての貨瞥をどのようなものとして理解するかの問題がある.
これら︑↓様の問題を順序を追って検討しよう︒
笙.}﹂サ﹂で注意すべきは︑蕎︒⁝流些三貨幣としての貨瞥との関係を・厘平面において連続的にとらえ︑それで▼﹂と足れりとする危険の存在する}﹂とである.すなわち︑爾としての貨幣Lを・商品流通の論理の撰的延長上にと︑り,え︑両者の間に断絶を見ず︑蚕幣としての貨幣Lを商品流通に役必もの・これに葎するもの・有用なものとして︑﹁幕としての貨幣﹂の機能上の有用性をもってその意華明らかにしようとする場合がある.もとより﹁幕としての幕﹂は︑禦に商・m流通と撰・間接に罐上の連関をもつものであることはいうまでもない.例えば︑︒︑退蔵貨幣は︑商口㎜襲の拡大・縮少に呼応するプル("ー量噌)として・収縮と膨張妄くり返す.︒︑支払手段貨幣は︑商︒㎜流通の拡人︑手形の増加に呼応して増加し・債権債務の相殺範囲の拡大に応じて
節約が進み︑銀行制度のFでの貨幣節約技術の深化に伴って︑より社会的効率的利用が進展する・ω・世界貨幣にしても︑国際商業の拡大に呼応して増加し︑外男替の仕組みとともに節約が進む・など・しかし︑▽﹂}﹂でより墨なのは︑蚕幣としての貨幣﹂が商晶藩の論理の蕩的延上にあるのではないという認識︑換ゴロすると︑むしろ質的に切れた存在であることの認識である.この認識なしに蚕瞥しての貨幣Lの自鵬
についての理解をわがものとすることは不可能だという点である︒︑
商 経 論 叢 第32巻 第2号
148
すなわち・恐慌下には・﹁貨幣としての貨幣﹂は︑商品流通に対峙するものとなる.恐慌下には︑全てのものが売り
韓 諒 難 駿 轡 鞭 竪ボ 慈 鷺 雛 簿 難 纏 蕪 舞 馨 ・麗 鍵 謎 鞭 麺 鎌 聯 し黙 勲 難 穂 難 統樋肺 鶴 鞭 鋸 幾 鰭 難 鞭 雛 鞭 税 磐 熱 蘇 ボ
幣そのものLへの需要が急増する・資本循環が停止して雇用は急減するが︑他方で需要が拡大する蚕幣そのものL
の側でこれを埋める雇用増が生じることは無い.それが流通外の存在で︑再生産と結びつきようのないものである以
上︑あまりにも当然のことである・このように︑恐慌下におけるΨG‑Wの裂け目においてサ﹂そ︑蛋幣としての貨
幣 熊 鱗 鞍 擁 翫 な る 弩 決 し て 商 品 流 邊 能 的 に 奉 隻 蓬 役 立 つ 感 つ こ 乏 か 灸
直接に生じてくるのではない・そうし蓮続的把握は︑商品流通かり蛋幣としての貨幣Lが生じうる罷性を見る
に止まる・商品流通W旨〒Wが・たえず分断の呉クにさらされている}しとか・り︑﹁罎としての貨幣﹂を必然とす
る︑という理解に立つのではないかぎり・﹁貨幣としての貨幣﹂の外在的自耗は羅できない.}﹂▽﹂で問われている
器 麟 藻 讐 紹 樋罷 擁 転 蘇 巌蘇 慧藤 鹸 鎌
制度の機構的理解にさいして︑決定的な意味を持.てくる︒
旧荊1陀因1圏1目隔1」H幽目1囲脂幽 配 闘口咽一ヨ"餌L剛L山酬 榊 口
149金 本位 制 に お け る 「貨 幣 」 の意 義
第二︒右に述べなしとは︑基底にたつ商品流通Wと歯に︑たえざる分断のリスクを認め・これを晶削提とするこ
とによってのみ蚕幣としての幕Lに位置を与える}﹂とができる︑ということであった・そこで次に・このリスクを受けとめる蛋幣としての貨幣Lについての認識が︑これと相即したものであることが求め︑bれる・蛋幣としての
貨幣﹂とは何か︒
蚕幣としての幕Lにおいては︑金の呪物性が全てを吸収し︑全てを覆いつくす・求めらるべきものは金・持つべ
きものは金︑金▼﹂そは至上の善︒そ▼﹂では︑蛋幣L生成のあらゆる経緯とその形態規定性とは・自然物たる金"金属
存在としての金︑の中に吸収されて︑外か︑bうかがい知ることはできない︒この呪物性こそ・意のままにならぬ絶対
他者としての﹁貨幣﹂の無内容性とその運動エネルギーの無方向性の根源である︒
そΨ﹂で問題は︑}しの呪物性の中にひそむものは何か︑である︒呪物性を剥ぎとったあとに露呈されてくるものは何
か︑である︒
問題をいま一度︑r寧に整理してみよう︒
蛋幣としての貨瞥にあ.ては︑物象化された社会的関係が︑自然物としての金なる﹁もの(9畠)﹂に内属する自然的な属性(国一・q.コ︑︒7山蔓として現象している︒問題は︑この﹁もの﹂に秘あられたところの﹁物象化された社会的関遜噛︑何とと.bえるかである︒さりにいいかえるなら︑例えば︑価値尺度は観念み金で足り・流通手段は象徴としての金で足りるのに対し︑蚕幣としての幕﹂は現詠金でなければならぬ・という際の現身の金の中に秘め
られた﹁社会的関係﹂を何と考えるか︑が問題である︒
それを︑直接に﹁価値物﹂とと・りえ︑あるいは﹁労働生産物﹂ととらえることが適切か否かである・もとより・金
商 経 論 叢 第32巻 第2号150
本位制下にあって蛋幣Lは金であり︑従ってそれが価値物であり︑労働生産物であ登︑とは疑問の余地がない︒し
かし・貨幣は商品とは区別された存在であり︑その点においてこそ貨幣は貨幣となる︒貨幣が幕たりえている特質
を・たんに価値物たることに求め・労働雀物たることに求めるのであれば︑貨幣論は不要である︒何故な.り︑︿商
品で商品は買えない﹀現実があるか・りだ︒貨幣が貨幣たるゆえんは︑それが価値物であり︑労働生産物である甲﹂とを
内に喜としても・そのこと自体に求めることは誤りである︒価値物であり労働生産物であるとい.つ}﹂とを︑ひとつ
越えたところに・貨幣の貨幣たるゆえんを求めるのでなければ︑商口叩と纂とのアシンメトリーを蟹明かしたΨ﹂と
(9)にはならない︒
念のために︑次の文章をひいておこう︒
︻尺度としてみれば・貨幣はなお形態規定が主とな.ており︑この}﹂とが外的にも貨幣の刻印をおびて現われている
讐としてみれば・いっそうそうである.しかし第三規定においては︑すなわち尺度であり讐であるとい.つ}﹂とが
貨幣の機能として現われるにすぎない纂の完成状態においては︑あ・りゆる形態規定は消滅している︑すなわちそれ
は貨幣の金属存在と直接に一致している︒そこでは︑貨幣であるとい・つ規定がただ社会的過程の結果にすぎないとい
うことは全然みえていない・その存在自体貨幣なのである︒﹄経済学批判要綱︑第努冊﹄︑資本にかんすゑ早の田目頭部分︒
﹃資本論草稿集1﹄所収)
右の文章で注目すべきは・﹁金辱在﹂としての金のもとで︑見えなくな.ている﹁あ・りゆる形態規定性﹂に注意が
払われている点である・﹁金馨在﹂の中に秘め・りれた︿貨幣性﹀が掘り出されている︒︿貨幣性﹀については︑例え
金 本 位制 に お け る 「貨 幣 」の 意義 151
ば次のような文章を見ることができる︒
﹁貨幣商︒㎜の使用価値は二重になる.それは‑⁝その独自な社会的罐から生ずる;の形態的使用価値を受けとるのである︒﹂(﹃資本論﹄豊扁第三早三般的蕎物として排除され茜品は︑‑三般的交換手段であるとい.つだれにと.ても厘の使用価値をも.ている.L(﹃経薙}批判﹄讐早)﹁金の商品への転化にとっては質的制限はなにもな
︹い︺﹂.﹁﹃現金と引豪えな・りどんなものでも得りれる.﹄﹂(﹃経済学批判﹄第'︑警のa)﹁しかし幕は・どんな欲求の対象にも直接に転換可能であるかぎり︑どんな欲求をもみたす.貨瞥身の使用価値は・その等価物をな藷使用価値の無限の系列の.つちに実現されている.﹂(﹃経填批判﹄第.・孝)哨商品流通の拡大につれて・貨幣の力が・すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が︑増大する.L(﹃資本論﹄篁肇‑豊﹁し奈ってまた・
そ}﹂では︹恐慌のさいには︺貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない・支払に用い︑bれるのがなんであろうと︑
金であろ.つと︑銀行券などのよ・つな信用幕であろうと︑貨幣飢饅にはかわりないのである・L(﹃資本論﹄第篇第二章第三節b)
右の運の所述を全体として見ると︑幕金が︑︿価値物﹀であり︿労働生産物﹀であることをふま,えながら・その上に付与されている蚕幣の一般的使用価値Lが皆されていることが知られよう・
つまり︑蚕幣としての幕Lを語るにさいして︑これを︿価値物としての金﹀・︿労働生産物としての金﹀に解消
してしまつのではなく︑その︿貨幣性﹀が何よりもまず注目されねばならぬのである・}﹂の占{をケインズの田心索の歩みとかかやりせていうと︑次のようになる︒ケインズは・﹁事実上・棄位制はすでに未開社会の遺物﹂(﹃貨幣改革論﹄︑第四章)と考え︑﹁呪うべき墓欲﹂(﹃貨篶﹄・第一妻)を問題にし・﹁好むと好まざ
るとにかかやりず︑﹃管理﹄通貨は不可避﹂(蚕幣改轟第四章)としたのであった・問題は・自然物たる黄金につい
商 経 論 叢 第32巻 第2号152
ての﹁呪うべき黄金欲﹂と絶攣はかったとしても︑なお資本義霧経済であり続けるかぎり︑W〜GlWの内包
する分断の可能性は消えるわけで脊︑蚕金欲Lに代.三貨幣欲Lは残り︑﹁流動性.フレ︑︑︑アム﹂の問題は依然と
して残るという点にある︒
そこで・以上をふまえつつ・直戴に退蔵貨幣の特質喬題としてとりあげよ・つ︒退蔵貨幣には︑次のよ.つな三点に
わたる特質があり・これらの讐は︑貨幣制度としての金本位制度を漿するに際して霧ないみを持つ︒
篁は・その無内容性無概念性である.退蔵貨幣とは︑流通の外部において退蔵される貨幣である.流通過程の
外部にあって流通手段たることを止めた貨幣︑つまりは露の否定態である.すなわち︑流通の﹁外にある﹂貨幣︑
流通必要量の﹁外にある﹂貨幣・流通の﹁否定態﹂ーワしうしたネガ一アィブな規定は︑要するに残余としての消極的
裏であって・定醤身の中に何ら蕩的な意義を含むものではない.弗工疎にして無内容な性格のもの︑と見てとる
ことができようむ
第二は・その雑多性・雑炊性である.退蔵貨幣の中味は︑実に雑多である.まず︑それ自体を目的として金を埋蔵
し・審美的に金墾品を退蔵するなど︑墓欲の所産としての退蔵貨幣がある︒かと田やつと︑当面使途寛出す}﹂と
ができないという消極的に余儀な暮れた退蔵がある.或いは︑購買の準備金として︑霧支払のたあの支払手段の
準備金として・などのように交換過程の必要が生む畿貨幣がある.多様にして多彩なものが包含される点が第二の
特質で難・
第三に・その運動の方向性は予測困難であって︑そこ旨律性や収警を求めるサ﹂とはいちじるしく困難である.
これについては次節で触れる︒
金 本 位 制 に お け る 「貨 幣 」 の意 義 153
だから︑問題は︑こうした無内容にして雑多な存在である退蔵貨幣が︑なにゆえに﹁貨幣としての貨幣﹂たりうる
か︑,﹂のと}﹂うにある︒ワ﹂うした無内容にして雑多な存在が︑商品流通にとって決して意のままにはならぬ絶対他者
目超越者たりうる理由︑つまりはその呪物性の根拠が知りたい︒
この退蔵貨幣にみられる無内容にして雑多な性状を軽率に嘔うことはできない︒理論の位相をこえて遠望すれば︑
かの﹁貨幣資本蓄積﹂の正体は︑﹁無内容なる貨幣の沈澱﹂であった︒﹁無内容なる貨幣の沈澱﹂に﹁貨幣資本蓄積﹂
なる重い規定を与えたもの︑それは再生産の総体であった︒
かくて︑この雑多にして無内容なる退蔵貨幣に︑﹁貨幣としての貨幣﹂なる重い規定を与えるものは︑商品流通W‑
G‑Wの総体を措いてほかにはない︒だからこそ︑この部分の表題は﹁貨幣または商品流通﹂とされていたのである︒
商品流通WIG‑Wの総体の認識︑これについては既に述べた︒W‑GlWを︑W‑GとGlWとへの分断の可能性
の下に理解することが︑﹁貨幣としての貨幣﹂に至りうる唯一の道であった︒
すなわち︑流通貨幣は︑W‑G‑Wというヨコの世界に住む︒しかるにこのW‑GIWが︑たえざる分断の可能性
にさらされていることから︑この過程的運動の外化した姿として︑﹁貨幣としての貨幣﹂を生ぜざるをえない︒そして︑
これよりのち︑流通貨幣は︑この外化されて生じた﹁貨幣としての貨幣﹂とのタテの関係においてしか臼己を確認す
ることができない︒かくて﹁貨幣としての貨幣﹂は︑商品流通の総体を眼下に見て君臨する︒退蔵貨幣は︑WlG
Wの分断可能性にわずらわされることのない存在︑W‑GiWなる修羅場を超越した存在︑つまりは︿超W‑Gl
W>の存在として︑至上の善になる︒それは元来︑W‑G‑Wから外部に排出され︑舞台から退場した否定態である
が︑その出自如何はすでに問われることがない︒むしろ︑流通のW‑G‑Wにおいて︑︿いつでも︑どこでも︑何に
でも﹀買い向える不動の存在として︑つまりは決して揺らぐことのない存在として評価される︒﹁貨幣としての貨幣﹂
商 経 論 叢 第32巻 第2号 154
とは・直接的には自然物としての金であるにしても︑それは︑︿価値物としての金﹀に担われつつ︑貨幣の一般的使
用価値が自立化した姿として認識さるべきものである︒そしてその支配力のエネルギーは︑﹁貨幣﹂に本来備わってい
るように見えるものの・実は貨幣経済の総体から︑つまりは﹁商品流通﹂の総体から吸い上げられたものなのである︒
(9)産業循環の過程は・それ自体としては﹁貨幣資本蓄積と現実資本落﹂の問題であるが︑}︑れを貨幣論次.兀に縮約表現する
とき︑次のような論点が生じる︒
すなわち・循環過程における貨幣と商品とを︑いずれも﹁価値物﹂とおさえ︑両者の間に不等価交換が生じるとい.つ理解に
立って循環を説明する場合がある︒好況局面では︑商品が飛ぶように売れて価格上昇し︑騰貴した価格でも売り捌くことができ
る・こうした場面では・商品の過高評価の裏側で︑貨幣の相対的価値は低ドする︒逆の▼﹂とが不況局面で生じる︒商︒凹は売れず︑
価格は低落する︒商品が過小評価されるのに対し︑貨幣は過高評価される︒貨幣の相対的価値は上昇する︒
ー
)国内流通
(支払 手段)(流 通 手段 丁
一
国 際
(世界貨幣)
↑
1↓1 (貨幣退 蔵)
退蔵 貨幣
[準備 金]
しかし︑単なるシーソーのような不等価交換をもってしては︑あの鋭角的な変化サインカ ブを含む恐慌を説くことは出来ないのではないか︒例えば数学でいう正絃曲線のよ
うな変動までは得られたとしても︑それは単に市場価格変動の自己修復性.自己
回帰性をシンメトリーに説明するだけのことであって︑恐慌を説明する装置とし
ては不十分なのではないか︑そしてその根底には︑商品と貨幣とをシンメトリーな
ものと位置づける占典学派的思考がかくれているのではないか︑これらの点は︑尚
吟味に値する課題である︒
(10)﹁貨幣としての貨幣﹂における退蔵貨幣の位置について確認しておきたい︒﹁貨
幣としての貨幣﹂の中には︑退蔵貨幣︑支払手段︑世界貨幣という.二種のものが含
まれている︒これらの間の関係を整理した概念図を掲げておくと︑上の通りであ
る︒
すなわち︑概念図に従って説明すると︑O︑貨幣退蔵という行為によって︑流通
外に︑否定態としての退蔵貨幣ストックが形成される︒国内流通のみならず︑国際
商業からも︑退蔵貨幣は形成される︒口︑形成された退蔵貨幣ストックは︑或いは
金 本 位 制 に お け る 「貨 幣」 の意 義 155
流通手段として︑また支払手段として︑流通内に出動して機簿︑或いはまた世界幕として国際粟などに機能する・流通手段も支払手段も鼻幕も︑機能態にある貨幣の姿であり︑淀︒量としてとらえられる︒Q支払護ならびに鼻貨幣の後方には︑支摯段準備金︑世界貨幣準備金が︑退蔵貨幣済ックの廓を形成する︒圃︑か‑て退蔵貨幣スしクこそは扇の・甦・・水
霧 搬 耀 紘 誕 讐 ハ四 津 震 鞠 離 貨 幣 の 基 礎 理 軌醐 L (古同 木 暢 哉 .竹 村 脩 ξ 貨 幣 .金 融 の 基 舞
四 金 本 位 制 度 の 逆 倒 性
そ▼︑で︑以上をふまえて︑貨幣制度としての金本位制度における晋幣としての貨瞥の意義についてみることに
しよう︒
金本位制度とい.つとき︑①自然発生的に金地金などが秤量貨幣として用いられ︑流通の内外の区別も判然としない原初的状況と︑②商︒器通にかんする流通についての内外の区別が認識されて︑鋳造された金讐が・国家法制の裏
付けをえて藩幕として用い.bれ︑或いは通貨供給機関としての銀行制度が整備される中で金党換銀行券が銀行貨
幣の中核として用い・りれるとい・つ状況とは︑区別されねばならない︒従来︑金が価値尺度として機能するというだけの原初状況に戻した︑極めて漠然たる観念の下で金本位制度が議論される傾向があった・ここでは・右の②の午ス
を念頭に置く︒
すなわち︑端的にいえば︑金本位制度は︑単に金が価値尺度機能藁す︑というだけのことでは済まされない問題
だ︑とい.つ甲﹂との認識が蘂ないみをもつ︒貨幣制度としての金本位制度の確立は︑商品流通における内外の分別にもとづきつつ︑流通幕と査幣としての貨幣Lとの関係性維持機構を不可欠の案として伴うことを条件とするも
のである︒
商 経 論 叢i第32巻 第2号156
さて・貨幣制度としての金本位制度には︑およそ三つの理論的位相がある︒.・
篁に・根源的規定として・金が腰屡たることを認め︑これを蓼.轡し︑その上に立.て価格の監馨を
定める・これは・資本制生産の根幹たる︑私有財産制度と等価交換原則とを︑貨幣面かり堅持せんとする根本規定で
ある
第二に・流畢段としての貨幣︑すなわち流通幕の渠を金讐とし︑法定貨肇.・︑・=.づロ..)の霧を置き︑}し
れをもって最終決済手段とすることを規定する︒あわせて通用馨量貝藝︒⊆.・.コ一≦.一・︑げ酋)の定めをおき︑流通す
る金鋳貨の現実内容の維持をはかる︒
第三に・加えて・①畠鋳造・②自由免換︑③自由輸出入︑という三様の馨を伴つのでなければ︑金本位制度は
貨幣制度として‡のものたりえない︒そこで︑これ・り三様の騰について検討してみよ,つ︒
これら三様の馨は・蛋幣としての纂Lと﹁流通貨幣﹂との関係性を維持する機構であ.て︑その関係性の維持
には次のような二つの側面がある︒
すなわち・o・流通貨幣を蛋幣としての貨瞥と結びつけることで︑流通貨贅具体的には金讐ないし績銀行券)
の現実内容を名禺容と一警せようとする機構であると同時に︑・︑過程的運動たる㍗〒Wの渦中か.b︑何時
でも絶対的富の定在たる蚕幣としての貨幣Lに立ち戻りうる相互転換経路の制度的保証驚でもある.eが︑物価
変動"貨幣価値変動を受けとある側面であるのに対し︑︒は︑それを越えて︑恐慌を受けとめる側面である︒
これを流通幕の側に立ってみると︑9︑芳では︑流通貨幣は晋幣としての貨幣Lの示すところに従って臼り
の内容的価値をたえず確認しつつ自らを律し︑口︑同時に他方では︑Wと蜘の破綻が予警れるや︑蛋幣として
の貨幣Lのもとに身を寄せざるをえない可能性のもとにわが身を置く︑とい.つ}﹂とである︒
金 本 位 制 にお け る 「貨 幣 」 の意 義 157
かくて︑ω自由鋳造︹融解︺(H退蔵貨幣と流響幣との関係性維纏構)︑②自由党換→支摯段幕と籍貨幣たる銀行券との関係性維持撰)︑留由輸出入→世界貨幣と流通幕との関係性維持燵)︑という三様の機構は・まとめていえば︑﹁貨幣としての貨幣﹂と﹁流通貨幣﹂との関係性維持機構なのである︒
誉りに言えば︑右の支払手段にしろ︑世界貨幣にしろ︑それらのための準備金は全て退蔵貨整の形態において
存在するわけであるかり︑それぞれの準備金に注目するなら︑結局のところ︑全ては選蔵幕Lと流通幕Lと
の関係性の維持に関わるもの︑とい・つことができ︑退蔵貨幣との関連性が維持されることにおいてのみ・流通貨幣の
世界が存立し.つる︑とい・つ}﹂とになる︒この機禦︑萄の例外なく展的に妥当しうるものであることが保証されるのでなければ︑貨幣制度としての金本位制度は成り立ち難い︒
従来の説明の仕方は︑一般に︑}︑れ・り三様の簾を﹁代用貨幣と地金との﹂転換驚と解し・もっぱら実体価値の
有無︑実体価値の維持とい・つ観点か.b説明するものであ.た︒それはつまり︑価値物と代用品との関係として・三様
の機構を解するものであった︒しかし︑それは︑既に見たように︑ひとつの側面にすぎないのであって・不確定性に
満ちたWIG‑Wの世界と蛋幣としての貨幣Lとをとり結ぶ機構という︑いまひとつの側面をないがしろにしては
な︑bぬのである︒単なる宿値物義用︒㎜﹂関係にあるのではなく︑﹁流通外貨幣涜通貨幣﹂関係が重いいみをもつ▼﹂とが注目されるのでなければな・りない︒すなわち︑単に︿価値物としての地金﹀が問題なのではなく・また他方・
単に︿代用貨幣﹀が問題なのでもない︒流通貨幣と流通外貨幣との関係性こそが重大な問題であることが知られねば
ならない︒そうでなければ︑以下に述べるような金本位制の意義と限界は視野に入ってこない・
以上に示された}︑とを要約すれば︑いまや蛋幣としての貨瞥との関係性が維持される限りにおいてのみ・流通
貨幣は自己を確認する}﹂とができる︑ということである︒即ち︑好むときに蛋幣としての貨幣Lに転ずることがで
⁝
脚
商 経 論 叢 第32巻 第2号158
き・またそこからいつでも﹁流通貨幣﹂に転じうるということこの制度的保証なしには流通貨幣は成り立ち難い
のである・この物象化された逆倒的構図において貨幣制度としての金本位制度を理解するのでなければ︑金本位制度
を真に理解したことにはならないのである︒
その場合・最大の問題は・この蛋幣としての貨幣Lの性状如何であり︑それが住む居瑳︑間の特質如何である︒
考えてみると・商品流通WlGlWの﹁壊﹂内であればこそ︑一定の自律性や収敏性がとにかく語・りれえたのであ
る・次元をかえていえば・再生産の枠内であればこそ︑一定の自己更新性や秩序が語・りれえたのである︒しかし︑い
ま問題にする商品流通の外側の世界をくくるものは玩︑存在しない︒単に罪流通L︑罪機能Lとい,つだけで︑輪
郭さだかでない﹁彫﹂外の羨たる世界︑そこに住む﹁貨幣としての貨瞥は︑その運動の動因や高性やエネルギー
を予測するさえ困難な﹁不博﹂な存在︑したがってここに自律性や収敏性を求めるなど︑およそ不可能であり︑また︑
流通貨幣の機能する商品流通界との義的な連動性などがあるわけもないのである︒}︑れ・り諸点については︑次の例
示で足りよう︒
Q﹁墓銀欲(Oo5駐2)﹂(﹃資本論﹄第篇第三章第︑.節a)︑すなわち﹁呪・つべき黄金欲(・⇔¢﹃一・,餌︒﹃臼h餌ヨΦ・︒)﹂(ヶイン
ズ﹃貨幣論﹄第三五章)の問題がある︒﹁貨幣蔵の衝動はその本性上無際限﹂(﹃集論﹄︑同所)で︑しかもその審美的側
面・﹁その美的な形態・金銀商品の所有﹂(同)は︑およそ経済学の域をしえる問題である︒ケインズは︑﹃インドの通
貨と金融﹄のなかで・インドにおける金退蔵を︑﹁不毛の習慣﹂︑﹁41文明的にして浪費的な慣習﹂とした︒口︑恐慌前
後における金移動・金流出入は︑国の内外に及び︑瞬時にその居所は変わる︒﹁近代的銀行制度が金流出にたいして抱
く恐怖は・貴金属を唯の真実の富とする幕主義がそれにたいしてかつて夢想していたいっさいのものを凌駕して
いる・﹂(﹃資本論﹄第三巻第二八此早)ω︑戦争遂行のためや銀行の正貨績再開のための借入金︑あるいは賠償金のよ.つ
159金 本 位 制 に お け る 「貨 幣」 の意 義
な場合︑直接に国民経済そのものとは関りのない次元で居所を変える︒かかる蚕幣としての貨幣Lと流通幕との関係性を維持することをもってのみ・貨幣制度しての金本位制度は成
り立ちつる.管理響制度とい・つのは︑或る意味で資奎義経済の自己組織化の環をなすものであるが・そこへの転成の深因はまさに}﹂の占{にある.ケインズは︑最に﹁呪うべ畠金欲﹂をとりあげ・金本位を﹁未開社会の遺物﹂と断じ︑金退蔵に依存せざるをえない制度を捨てるべ善理への道を模索し・﹁好むと好まざるとにかかわらず・﹃管
理﹄通貨は不可避﹂としたのであった︒
蚕幣としての貨幣Lとリンクする}﹂とにおいてのみ維持される流響幣の鼻・▼﹂れほどの逆倒的欝は珍しかろ.つ.しかもその蚕幣としての貨幣Lが︑制御容易ならざる存在であるとするなら・金本位制度なるものが・警し
て舅に維持される類のものでない甲﹂とはすでに明らかである.ここに貨幣制度としての棄位制度の根本的困難あるのであって︑▼﹂}﹂に}︑そ男も書本位制度の下にあ・て﹁幕政策﹂が必須奇欠のものとして登場せざるをえない理由があるのであり︑またその蚕幣政策Lが困難を極めるものなりざるをえない理由がある・幕制度としての金本位制度は︑いわば﹁半管提聾においてのみ存ど.つるものにすぎない・
恐慌下では︑至上の善︑絶対的な富としての蚕幣としての幕﹂たる金に全て詫した形で・葉嚢経済は維持される.↓九世紀イギリスの目誘な燧に即していえば︑輿銀行における金濡の存否消長に体制の命運はかかっていた.}﹂の金準備﹂そは︑いかなる種のうえにも守り切られねばならず・等すべき金準備を託された貨幣
当局の責務はきわめて重い.計り難い動きをする金藩︑費幣としての貨幣Lに死命を制せられているかにみえる資
本義体制︑}︑ワ︑に商・晦流通によ.て撰に規定されることのない蚕幣としての幕Lの位票結に浮び上って
くるのである︒
商 経 論 叢 第32巻 第2号160
五 む す び
金本位制度の逆倒性は・貨幣制度に本質的な逆倒性である︒そうであるかぎり︑それは﹁哩つべき墓欲﹂を切り
離したところで消えるわけのものではない︒管理通貨制度といっても︑市場経済であり続けるわけであるし︑wと
‑wの分断の可能性はなくなるわけではない.したが.て︑蛋幣としての貨幣Lをめぐる諸賭はなくなるわけがな
い・﹁流動性プレミアム﹂の問題は依妖崩として残るのである.仮りに将来︑電子マネふ構想される段階に至ったとし
ても・右の問題は残るに違いないのであって︑そのことをふまえて将来の貨幣シス一アム娃アザインされる必要がある︒
何故に金本位制度が采開社会の遺物Lと評されねばならぬかは︑改めて問われるべきであろ.つ.少なくとも︑金
本位制度が自律的安定性においてト全なものであったζ.日い難いワ﹂とは事実である︒
加えて・管理通貨制度の下にあって︑かの逆倒性はいかなる意味を持ち︑いかなる姿をと.て現われるものかは︑
︿管理されざるをえないvこの貨幣制度の制響能性を問うに際して︑重要な論占勘をなすに相違ない.また︑管理通
貨制度への歴史的転換によって解決しえた轟︑それに伴.て新たに生じて差問題︑▼︑れ.りは稿を改めて論ずべき
課題である︒企九九六.八)
(n)マネ←プライ(通貨供給量)には︑次のような二糎がある.すなわち︑芳で︑流通貨幣は︑商.印流通に被規定の存在
として生じながら・同時に他方・商品流通に内在する本来的な不確定性かり︑外部に豆した蛋幣としての貨幣Lの存在を予
定し・またその統御のドに入ることによって︑はじめて流通貨幣たりうる︑とい・つ二面性である.}﹂の二面性﹂そ︑現代におけ
るマネ←プライの内生性をめぐる論争の根源があるのであって︑この論争の混迷は︑こ・つした屈曲に満ちた商口㎜.貨幣世界の
構造を真に理解することの困難さを一.小している︒