教 育 基 本 権 の 社 会 権 的 側 面
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(2) 論. 説︵大須賀︶. 二. 障するのでなければ︑確保されえなくなった歴史的な段階においてはじめて保障されるようになったものであり︑し. たがってその意味では︑社会権は自由権の補完物にほかならないのである︒すなわち自由や平等に化体されている法. 的価値を現実に確保するために必要な諸条件の整備を行なうのが社会権なのであって︑しかも自由が原則である以. 上︑社会権の存在と機能は︑資本主義社会の構造的な弊害もしくは矛盾を解決するのに必要な最小限度の範囲に限定. されているのである︒したがって社会権は︑自由権とはその法的な態様を異にするものではあるが︑両者の問には法. 的な論理的整合性が保たれており︑それが社会権の限界ないしは﹁虚偽性﹂を規定するというかたちになっている︒. このように論理的にみても︑社会権は︑自由権の存在を前提とし︑それによってその内容を大きく規定されるという. 関係に立っているのである︒社会権としての教育権の成立と展開が︑資本主義社会の構造的な弊害もしくは矛盾と一. 定の関係にあるのかどうかについては︑教育法学界では見解が分れているように見受けられ︑かつまた議論の余地が. あるように思われるが︑社会権としての教育権が︑自由権としての教育権を論理的に前提としていることは否定でぎ. ないように思われる︒したがって両者の密接な関連性とその関連の論理構造を把握することは︑教育権論の解明にと って欠かすことのできない作業なのである︒. 一般に︑教育に関しては︑教育をうける自由をふくむ教育の自由が原則である︒したがって行政権や立法権などの. 公権力が教育の理念や内容や方法などの教育の内的事項に対し権力的に介入したり法的に関与したりすることは許さ. れないのであって︑それ故教育基本法一〇条一項が︑教育は︑教師ないしは教師集団などの教育権者が国民全体に対. して直接に文化的教育的責任を負うというかたちで行なわれるべきであると定めているのは︑憲法上の教育の自由か.
(3) ら導きだされる当然の命題にほかならないのである︒しかし他方︑憲法は︑社会権としての教育を受ける権利を保障. しており︑学習権を保障するための諸条件を整備するという国家等の作為を請求でぎる権利を国民に与えている︒当. 然のことながら︑この社会権も自由権を前提とする以上︑教育の自由を侵害しないかたちでの作為のあり方が追求さ. れなければならないが︑それは︑主として教育の外的事項としての諸条件を整備するための立法措置や教育行政の憲. 法的なあり方にほかならないといえよう︒そしてかかる教育行政を行なうことを国の法的な義務として保障し︑教育 行政の憲法的なあり方を具体的に定めているのが教育基本法一〇条二項なのである︒. 一般に教育を受ける権利と教育の自由の関係は相互的なものであるといえよう︒したがって教育の自由が︑教育を. 受ける権利によって内容的に制約される場合があると同時に︑教育を受ける権利が︑教育の自由によってその内容と. 行使のあり方を大きく規定されるという場合があるが︑後者がこの関係の主要な側面といえよう︒そこで教育を受け. る権利が教育の自由によって規定される場合をあげ︑その憲法論上の問題点を指摘してみるとつぎのようになる︒. 第一に︑国家権力とくに教育行政権が︑たとえその条件整備であれ︑何らかのかたちで教育内容面に関与するとき. は︑その教育行政は指導助言行政でなければならず︑権力的行政になってはならないということをあげることができ. よう︒つまり憲法上の教育の自由は︑教育の内容や方法に対する国の権力的関与を否定しているから︑国民の教育を. 受ける権利に対応する国の義務としての教育行政権限であれ︑教育活動の自主性︑自律性の尊重により︑教育内容面. ぺの法的な関与を拒否されることになるからである︒これに対し︑この命題を原則として認めながら︑教育内容面の. 三. 条件整備を行なう教育内容行政のほとんど大部分は指導助言行政であるとするものの︑その一部に法的拘束力を認め 教育基本権の社会権的側面.
(4) 論. 説︵大須賀︶. 四. ようとする見解がある︒いわゆる教育の内的事項の大綱的基準に法的拘束力を認めようとするものであるが︑その問 題の検討は本稿の主要な課題のひとつなので後にゆずりたいと思う︒. 第二に︑いわゆる教育の外的事項に関する条件整備の権限の主体ないしは権限の行使のあり方が問題となるのであ. る︒教育の内的事項と外的事項については︑﹁両者はその外形的特徴においては一定の区分が可能ではあるが︑その. 内的性質︑つまり両者の基底をつらぬく教育本来の趣旨目的という観点からは一体不可分である﹂︵大須賀明﹁﹃社会権﹄. の権利性﹂法律時報一九七一年一月号二六頁︶ことから︑内的事項を支配している教育の自由が外的事項をも支配するの. であって︑それ故社会権としての教育を受ける権利にもとづく国の積極的な関与の権限も︑その指揮監督の対象と範. 囲がでぎるだけせまく解されなければならないのである︒しかもまた︑条件整備行政も︑教育の中立性の原理に支配. されることから︑条件整備は︑政争や宗教的支配や経済的利得の具に供されてはならないのであって︑その意昧で︑. 教育行政は﹁不当な支配﹂を受けてはならないのである︒それ故教育基本法一〇条一項の冒頭の﹁教育﹂という文言 には教育それ自体だけでなく︑教育行政も含まれているといえよう︒. ただそこで問題となるのは︑教育行政が︑﹁不当な支配に服することなく︑国民全体に対し直接に責任を負って行. われるべきものである﹂となることであろう︒つまりそこでは︑議会の意思にその成立と存続が依存している内閣に. 端を発する一般の行政ルートに対する独立性が教育行政に要求されることになるのである︒しかし条件整備行政は︑. それ自体が教育を受ける権利の請求対象であるから︑行政府等の法的義務ではあるが︑同時にそれが権限であること. も否定できない︒とくにこの種の権限の行使はその性質上ほとんどが必ず国の財政的な裏づけを必要とする︒そして.
(5) その財政処理に関する行政機関の権限には︑国民に対する法的責任にもとづいて︑国費が適法かつ適正に使用される. ように命令・監督する権能が与えられることになるし︑行政機関の議会に対する責任も回避することは許されない︒. したがって教育行政の一般行政からの独立の要請と教育行政に関する国の権限との間の衝突の調整が行なわれなけれ. ばならない︒そのさい︑教育に関しては教育の自由が原則であるから︑前者を基盤に調整が行なわれなければなら ず︑そこで登場を要請されるのが教育行政を行なう公選制教育委員会なのである︒. 一般に︑教育基本法一〇条一項には︑公選制教育委員会の設置が予定されているのが立法者意思であるといわれて. いるが︑条件整備行政のなかには国の権限とするのが適切なものもあるのであって︑教育行政のいっさいが公選制教. 育委員会に委ねられるわけではない︒しかしこの委員会を︑教育行政に対する不当な支配を排除し︑国民に対する責. 任をカバーする機関として構想し︑それが処理するのにふさわしい一定の権限を付託するならば︑憲法上の教育基本. 権の保障をよく具体化するシステムにすることができるであろう︒主として財政自治の範囲に限定してではあるが︑. それをめぐる教育行政のあり方の基本的な構図はすでに指摘したところである︵大須賀論文二八頁︶︒. 第三に︑社会権としての教育を受ける権利と教育の自由の支配が交錯する教育事項の決定には︑直接もしくは間接. に︑教師などの教育専門家を中心とする教育関係者の参加が必要とされることである︒教育の内的事項もしくはそれ. と深い関連のある外的事項については︑教育の自由の支配が要請されることから︑その事項が国の権限の管轄範囲に. ある場合においても︑教育の自治が強く刻印されているため︑国の一方的な決定に委ねることは憲法上許されないの. 五. であって︑その決定と処理にはかならず︑何らかのかたちでの教育関係者の参加が必要なのである︒そして︑その参 教育基本権の社会権的側面.
(6) 論. 説︵大須賀︶. 教育条件整備論と教育権論. 六. 加が︑間接になるか直接になるかなど︑ その形態と程度は︑ かかる教育事項の内的事項的性格の強度に比例するとい えよう︒. 二. 最近の教育法学界では教育条件論ないしは教育条件整備論が盛んに論じられている︒それは︑かつて私が︑社会権. としての教育基本権を論じた当時には︑想像もできなかったような盛況ぶりであり︑教育の内的事項と外的事項をめ. ぐる新たな理論の展開や教育条件の整備に関する国などの義務の法的性格や具体的なあり方などが︑教育や教育条件. に関する教育学の成果を背景にしながら︑詳細に論じられている︒それらはいずれも︑教育内容や方法さらには学習. 条件や教育の施設・設備などの教育条件を改善するのに役立つことを志す論争であり理論であることは疑いを容れぬ. ところであるが︑憲法論のレベルでいえば︑それらが社会権としての教育をうける権利や︑総体としての教育基本権. の複雑な構造を解明するのに︑重要な手がかりを与えてくれる点で極めて興味深いものがあるのである︒. 一般に︑教育基本権は︑他の多くの基本的人権にはみられない特殊な権利構造をもっている︒基本的人権には︑権. 利主体とその名宛人とが存在しており︑前者が権利を︑後者がその権利に対応する義務をもち︑両者は権利・義務を. めぐって何らかの意味で対応する構造になっているのがふつうである︒ところが︑教育をうける権利の場合には︑そ. の権利主体である学習者と名宛人である国家との間に︑同じく名宛人である教育権者が介在する︒そして教育権者の. 行なう教育が︑教育をうける権利を保障するのにふさわしいものであるようにしなければならないという点では︑名.
(7) 宛人はいずれも︑実質的には共通した義務を負うのであるが︑この教育権者には︑憲法上教育の自由ないしは教育権. の独立が厚く保障されており︑教育の特殊な文化的性格に規定されて教育自治権ないしは教育的裁量権が広範に与え. られていることから︑それが教育をうける権利主体と国家権力の双方に大きな影響を及ぼし︑その権利と義務の性格. やあり方を複雑で多様なものにしている︒つまり教育基本権の構造は︑学習者の教育をうける権利とそれに対応する. 国の義務や教師などの義務が︑教師などの教育の自由と複雑にからみあいながら形成されており︑しかも権利や義務. の主体がたとえば学習者︑国︑教師ないしは教師集団さらには親などからなっているように︑性格と地位の異なる複. 数の要素から構成されていることが︑その複雑さにいっそうの拍車をかけている︒したがって教育権をめぐる問題は︑. 教育の性質を十分に考慮しながら︑権利と義務の論理的構造の絡みあいを︑そのもつれをとぎほごすようなかたちで. 解明するなかで︑解決の糸口を見出すことができるように思われるのである︒教育条件論ないしは教育条件整備論は︑. 教育を受ける権利の文化的側面. まさにその恰好な素材であるといえよう︒. 三. 教育法学では︑憲法二六条の﹁教育を受ける権利﹂の解釈が︑その保障理由と権利の性質のとらえ方のちがいにも. とづいて︑三つの学説に分類されている︒すなわち﹁公民権﹂︵政治的権利︶説︑﹁生存権﹂︵経済的権利︶説︑﹁学習. 権﹂説である︵兼子仁﹁憲法二三条・二六条および教育基本法一〇条の体系的解釈﹂法律時報臨時増刊﹃憲法と教育﹄一九七二. 七. 年︒以下教育法学説と略す︶︒そこでは︑教育をうける権利の社会権的な性格と内容を論じた私の見解︵大須賀論文一三頁 教育基本権の社会権的側面.
(8) 論. 説︵大須賀︶. 八. 以下︶は︑﹁生存権﹂説に分類されており︑﹁この生存権説が教育をうける権利を︑他の社会権と同じく経済的・社会. 政策的な性質を主とするように解しているとすれば︑その文化的性質を十分見ていないと評しなければならない﹂と. 批評されている︒たしかに︑この﹁生存権﹂説の典型として紹介されている憲法の学説は︑教育基本権に関する叙途. が極めて簡単であるうえに︑普通教育は義務教育であって無償と定められているから︑教育をうける権利は高等教育. に関して意味をもつのだといい︑﹁高等の学校教育を受ける可能性を貧乏人にも保障しようというのである﹂︵宮沢俊. 義﹃憲法皿﹄四一三頁︶と述べているにすぎない︒そこには︑教育の機会均等を経済的な保障によって確保することが. 教育をうける権利の眼目だと理解されるような表現が展開されており︑したがって教育をうける権利を︑﹁機会均等. のための﹃実益﹄という観点から︑﹃高等教育における奨学金制度の拡充の問題﹄に楼少化してしまっている﹂︵堀尾. 輝久﹃現代教育の思想と構造﹄二九〇頁︶という批判が展開されるのもやむをえない叙述に終わっている︒. しかし私論は︑教育をうける権利として︑教育の﹁外的条件﹂の整備請求権と︑﹁教育の中立性﹂を確保するため. の制度整備請求権を主張しており︑右の学説とはその範囲と内容を異にしている︒とはいえ教育をうける権利を生存. 権的基本権のひとつであると考え︑生存権を法理上の基礎としながら︑教育をうける権利の法的性格と内容を考究し. ている点で︑共通した性格をもっていることは否定できない︒だが︑生存権といえどもその権利内容に文化的側面を. もっていること︑さらに︑人間の生存と生活を教育・文化面においてとらえたときに必要不可欠な権利として教育を. うける権利をとらえている以上︑そこで物質や経済が論じられているときも︑直接間接に教育という文化的作用を実. 現するために間題とされているのであって︑権利の文化的性質を考慮することなく︑教育をうける権利を論じること.
(9) はできないのである︒事実︑私論においては︑教育の施設や財政などの外的事項の整備を論じる場合に︑教育の内容. や方法などの内的事項との密接不離な関係を強調しながら︑条件整備のあり方についての憲法的視角からの提言を行. なっているし︑また﹁教育の中立性﹂を確保するための制度整備請求権は︑それ自体は条件整備を対象とする社会権. であるが︑教育の中立性の原理は︑宗教的・政治的・行政的な権力ないしは勢力から独立して︑教育権者が教育内容. を決定し︑実現することを保障するものであって︑教育内容面を支配する法原理にほかならず︑まさに権利の文化的 内容が正面から問題とされている︒. とはいえ︑教育内容にかかわる条件整備を論じているのは︑右の教育の中立性に関連する請求権にとどまり︑しか. もそれ自体は︑教育基本権のなかでは例外的な位置におかれている︒そのように考えた理由のひとつは︑国は教育の. 内容や方法などの内的事項に関与することは許されず︑教育の施設や財政などの外的事項にのみ関与することができ. るにすぎない︑という教育の自由を強調したこと︑ふたつは︑私論が教育をうける権利を具体的な法的請求権として. 構成することに主な力点をおいていたことから︑現実的な法的効力をもつ権利の形態にのみ強い関心が集められてい たということによるものである︒. これに対して先の教育法学説は︑教育内容面での国の積極的な義務を提示し︑それは﹁教育内容が真に教育をうけ. る権利︵学習権︶を保障するものになりうるように﹃条件整備﹄を行なうことである﹂︵兼子・前掲論文二〇四頁︶と述. べている︒このことから明らかなのは︑﹁生存権﹂説が十分に認識していないと評されていた︑教育をうける権利の. 九. 文化的内容とは︑主として教育内容面における国の条件整備を指しているということであり︑したがって︑ここでの 教育基本権の社会権的側面.
(10) 論. 説︵大須賀︶. 一〇. 検討の中心的な課題は︑﹁学習権﹂説においては︑その文化的な権利内容がどのように開発され︑認識されているか. ﹁教育の自由﹂説からの反論. であり︑その場合の焦点は︑教育内容面における国による条件整備の性格とあり方におかれるといってよいであろ うo. 四. この教育法学説に対しては︑教育の自由を基調とする有力な反論が提起されている︒その憲法学説は基本的な立場. をつぎのように述べる︒すなわち﹁①憲法二三条の﹃学問の自由﹄に内包される教育の自由の保障の結果として︑教. 育理念・内容・方法に対する行政権の権力的介入が許されないことはもちろん︑法律をもっても原則的にそれらを規. 定することは許されない︒②その結果として憲法二六条の教育を受ける権利を国民が主張する相手方︑いわば﹃教育. を受ける権利の名宛人﹄の中から︑教育の方法・内容等に関するかぎり︑国は脱落する﹂︵有倉遼吉﹁憲法・教育基本法. と教育を受ける権利﹂季刊教育法九号︵一九七三年︶四頁︶︒つぎに両学説の相違点を具体的に明らかにしてみよう︒. まず憲法学説は︑徹底した教育内容不介入論であるとされたことに対して︑﹁教育内容への国の関与が﹃指導助言﹄. の範囲にとどまるかぎりこれを許容するものであって︑それほど徹底しているわけではない﹂︵有倉論文九頁︶と述べ︑. 三点にわたる批判に対して反論しながら︑両説の間にはほとんど異なるところはないと帰結している︒問題はその相. 遠点なのだが︑教育法学説は︑教育内容行政の行使のあり方については︑﹁教育の自主性を尊重しつつその専門性を高. めるための国の教育内容行政権の行使としては︑主に︑教育上の﹃指導助言権﹄の行使があげられる﹂︵兼子論文二〇.
(11) 六頁︶と述べる︒しかし同時に︑教育課程の大綱的基準については行政立法権が認められるのかという間題を提起し. ながら︑﹁教科教育内容そのものの基準﹂についてはあくまでも指導助言的基準でなければならず法的拘束力は認め. られないが︑たとえば教育目的や必修教科目名や授業時数などの﹁教科教育内容の制度的条件﹂については法的拘束. 力が認められ︑法律や文部省令などで規定されても合憲・適法な基準立法だと考えられる︑と述べている︒憲法学説. は︑法的には教育内容への不介入を基本原則とし︑関与する場合はすべて指導助言にとどまるというのであるから︑ この点をめぐって︑両説は真正面から対立しているといえよう︒. そこでつぎに反論の問題点を検討してみると︑第一に︑﹁教育内容面での国の義務は︑教育内容が真に教育をうけ. る権利︵学習権︶を保障するものになりうるように﹃条件整備﹄を行なうことであると解される︒教育基本法一〇条. ⁝⁝の一・二項を合せ読むとき︑二項にいう﹃教育条件の整備確立﹄は︑教育の外的条件に主にかかわるのに加え. て︑教育内容面にもまさに﹃条件整備﹄を行なう限りで国を義務づけていると解される︒そしてこの国の義務は︑つ. ぎに述べるとおり︑教育活動の自主独立性と専門性の向上とを同時に保障していくことにほかならない﹂︵兼子・前掲. 論文二〇四頁︶という提言に対して︑そこで国の保障義務とされている﹁教育活動の自主独立性﹂とは︑﹁教育の自由﹂. と実質的な相違はないのであって︑それはまさに自由権の保障にほかならないと反論する︒たしかにことばの限りに. おいては反論が成立するようにみえるが︑文脈の展開のなかでみる限りは︑﹁教育活動の自主独立性﹂の保障の部分. の叙述は︑教育内容面の条件整備を行なう国の義務は︑実質的には﹁教育活動の自主独立性﹂を保障するように行な. 一一. われるべきであるということを意味しているのであって︑かかる国の条件整備義務の内容が﹁教育活動の自主独立性﹂ 教育基本権の社会権的側面.
(12) 論. 説︵大須賀︶. 一二. の保障である︑と述べているのではない︒したがってことば自体に不十分さがあるとはいえ︑反論は正鵠を射ていな. いように思われるのである︒第二に︑さきに述べた憲法学説の基本的見解を︑﹁この解釈は明快無比であるが︑かよう. に徹底した教育内容不介入論で︑各種の教育内容行政を含む現代公教育制度に即応しきれるか︑教育をうける権利に. よる教育の自由のある種の内容的制約は認められているのではないか︵国家権力によらない制約は︑この説の論者も. 認めている︶︑などの点に問題をはらむであろう﹂︵兼子論文二〇二頁︶と批判されたのに対して︑その後半の部分につき. 教育をうける権利による教育の自由の制約は従来から積極的に肯定しているのでそれはいわれなき批判であると反論. している︒しかしそこで論じられているのは︑一般論として教育の自由が教育をうける権利によって制約されるかど. うかということではなくして︑かような内容的制約を︑国が何らかのかたちで強制することが︑一定の範囲ではあれ. 可能かどうかということであろう︒要するに︑教育内容面における条件整備として︑かような制約を︑立法によりま. た教育行政により︑何らかのかたちで実現することが国の義務であると認められるかどうかということではなかろう. か︒ここでもことばそれ自体は意をつくしているとはいいがたいが︑同時に反論それ自体もその主張に十分かみあっ. ているとはいいがたいのである︒第三に︑﹁兼子教授の批判の第三点は︑﹃教育内容要求権﹄説と﹃教育の自由﹄説を. 紹介され︑﹃両説を統合した解釈﹄としてのべられた最初の部分﹃たしかに︑憲法が﹃教育を受ける権利﹄を保障しそ. こにおける﹃教育﹄の内容面について全く何らの予定もしていないと解すべきではないであろう﹄ということに現わ. れているようにおもわれる﹂︵有倉論文コ頁︶と述べて︑﹁教育の自由﹂説も憲法が教育内容について何も予定してい. ないとは考えていないと反論する︒しかしこの場合批判の焦点は︑憲法が一定の教育内容を予定しているかどうかに.
(13) あるのではなくて︑そこで予定されている﹁合憲法的教育﹂は法的に確定した一定の教育内容を意味するものではな. いから︑﹁条件整備﹂の対象になりうるのではないかという点にあるのではないだろうか︒そうだとすれば﹁予定さ. 教育の内容面に関する条件整備. れている﹂という点で同じだということでは批判の焦点を見誤っているように思われるのである︒. 五. 教育内容面の条件整備義務の対象は︑一定の教育内容の保障ではなくて︑教育内容面の条件整備つまり教育活動の. 自主独立性と専門性の向上を実現し確保するための条件整備を行なうことであるとされている︒したがってその国の. 義務に対応する国民の教育をうける権利は︑教育活動の自主独立性などの教育の自由の保障に連らなるものではある. が︑教育の自由の保障そのものではなく︑それを実現するための前提条件としての立法や制度や行政活動を要求する ものであるから︑その権利の性格はまさしく社会権にほかならないのである︒. 一般に︑教育の内容面すなわちいわゆる教育の内的事項については︑教育の自由と教育をうける自由︵以下教育の. 自由と略す︶が原則であって︑たとえそれを実現し確保するための条件整備であるにせよ︑国が教育内容面に関与す. ることは例外でなければならない︒例外である以上︑かかる国の関与は必要最小限度でなければならず︑それが認め. られる場合は︑量的にも質的にも限定的にせまく解されなければならない︒その量的な限定についていうならば︑教. 育の自由を確保するための条件整備を請求することがでぎるという︑特別な内容の社会権が認められるのは︑まさに. 一三. ﹁教育を受ける権利﹂条項が︑自由権と社会権から成る二重構造をもっていることに帰因するのであって︑その意味 教育基本権の社会権的側面.
(14) 論. 説︵大須賀︶. 一四. では︑かかる社会権は︑二重構造をもつ憲法条項においてのみ認められるというように限定されているばかりでな. く︑内容的にもその特定の自由権と社会権の接点における両者の内容の限りにおいて形成されるというように限定さ. れているのである︒また質的な限定についていえば︑教育内容面における国の関与は︑原則として︑法的な拘束力を. もつ権力的な性格のものであってはならず︑教育の文化性を十分に配慮した指針ないしは指導助言でなければならな い︑という点にあらわれているといえよう︒. これに関連してまず問題となるのは︑教育基本法の定める合憲法的教育の原則と教育内容面における条件整備義務. との関係である︒これについては︑平和主義と民主主義を内容とする合憲法的な教育を国家に対して要求することが. できるという﹁教育内容要求権﹂説︵永井憲一﹃憲法と教育基本権﹄二七二ー三頁︶と国家権力が教育内容に介入しないこ. とが真に合憲法的教育が行なわれるための前提であるという﹁教育の自由﹂説︵有倉遼吉﹁憲法と教育﹂公法研究三二号. 一六頁︶とを比較しながら︑教育法学説は︑﹁両者を統合した解釈﹂が可能であるとして︑つぎのような興味深い提言. を述べる︒すなわち﹁たしかに︑憲法が﹃教育を受ける権利﹄を保障しそこにおける﹃教育﹄の内容面について全く. 何らの予定もしていないと解すべぎではないであろう︒けれども他方︑﹃合憲法的教育﹄とは必ずしも法的に確定し. た一定の教育内容を意味するわけではなく︑国の義務は︑憲法の精神が教育内容に活かされていくように条件整備に 努めることであると解されよう﹂︵兼子論文二〇四頁︶︒. 一般に︑憲法・教育基本法が︑憲法の平和主義と民主主義に即した教育が行なわれなければならないという教育原. 則を明示していることは明らかであるが︑問題はその教育原則と教育内容との関係であろう︒私見によれば︑平和主.
(15) 義や民主主義は︑主として教育内容の外枠をなすものであり︑教育内容が科学や文化の歴史的成果を摂取しながら真. に教育内容であることを確保するための前提条件をなすものであるから︑教育原則は教育内容を大きく枠づけるもの. ではあっても必ずしも特定の教育内容を指示しているものではない︵大須賀論文二四頁︶︒それ故︑かかる教育原則を教. 育基本法などの法律によって定めることは︑教育の自由論からみても問題の生ずる余地はなく︑またかような立法を. ふくむ合憲法的教育を行なうための条件整備を国に義務づけることは憲法論上可能であるといえよう︒しかし同時. に︑かかる教育原則も︑ひろい意味では教育内容であることから︑合憲法的教育という法的に確定された教育原則の. 法的性格はどのように考えられるべきかという問題が生じる︒まず教師や親などの教育権者との関係では︑﹁教育基. 本法の前文や第一条に掲げられている教育の理念や目的は︑専門家自治にゆだねられるべき範囲を超えている﹂︵平. 原春好﹁教育条件整備論の現状﹂国民教育三六号六八ー九頁︑一九七八年︶という見解が存在する︒しかし教育原則も教育内. 容であることがたしかである以上︑教育の自由の支配が原則であるから︑国の権力的な関与は許されない領域であっ. て︑合憲法的教育の義務それ自体は法的性格が認められないと考えるべきであろう︒したがってかかる教育原則を具. 体化するための教育内容行政はすべて指導助言の性格をもつものでなければならないのである︒しかし国との関係で. は︑国は︑憲法二六条・教育基本法により合憲法的教育のための条件整備を義務づけられており︑したがって教育行. 政権は憲法原則に即した教育が行なわれるように指導助言をなすべき法的な義務を負っているといえよう︒それ故か. 一五. かる指導助言を行なわなかったり︑反憲法的教育を奨励するような指導助言を行なうときは法的責任を問われること になるのである︒. 教育基本権の社会権的側面.
(16) 論. 説︵大須賀︶. 一六. つぎに問題となるのはいわゆる大綱的基準の法的拘束力の有無である︒この大綱的基準は﹁教科教育内容の制度的. 条件﹂といわれ︑教科教育内容そのものとは区別されている︒大綱的基準の設定が国の権限に留保されたのは︑おそ. らく︑区別が可能なのでたとえそうしたとしても教育内容そのものを統制することにはならないこと︑さらには︑大. 綱的基準ぐらいは全国的に統一する必要があると考えたからであろう︒だが︑そのような留保が︑どうして教育活動. の自主独立性を強化し︑専門性を向上し︑学習条件を改善するのに役立つのかという理由は必ずしも明らかではない︒. しかも専門外でもあり︑大綱的基準がどのていど教育の内的事項的性格をもっているかただちには判断できないので︑. 最終的判断は留保せざるをえないが︑ここでは大綱的基準論について︑憲法論のレベルから若干の間題を提示させて もらおうと思う︒. まず第一に︑大綱的基準の範囲や内容の決定については教育専門家を中心とする国民の参加が必要であるというこ. とである︒大綱的基準の設定が︑教育内容面における国の条件整備義務の対象であるとすれば︑その国の義務もしく. は権限は︑社会権としての教育をうける権利に対応するものであるといえよう︒だが同時に︑その大綱的基準は︑教. 育の内的事項であり︑教育の自由が支配することがらであることはいうまでもない︒要するに大綱的基準は︑国民の. 自由権と社会権の交錯している︑つまり国民の自治と社会権に対応する国の権限の交錯している︑特別な性格をもつ. ことがらなのである︒このようなことがらの決定と処理は︑国の一方的な支配に委ねられてはならないのであって︑. かならずなんらかの形での国民の監視と参加が憲法上要請されているのである︒したがって少なくとも民主的で公正. な手続により選任された教育専門家を中心とする国民の参加する機関での討議と決定をへて具体化されるべきであろ.
(17) う︒﹁大綱的基準の範囲やその内容などについて︑関係者その他の考えを適正に反映することのできる審議会で検討し︑. まとめられた結果を立法または行政によって実施することなどは一つの方法である﹂︵平原論文六八頁︶という指摘は 正当である︒. 第二に︑﹁ごく大綱的な部分は教育内容そのものというよりは内容的制度基準であり︑内容とは区別して考えられ. るのではないかと思っている﹂︵平原論文六八頁︶という提言がある︒大綱的基準論の立場に立つならば︑大綱的基準. を教育内容そのものと区別しようとするのは︑教育の自由の保障を前提とするかぎり当然である︒何故なら︑もし区. 別されえないとすれば︑大綱的基準の設定は教育内容の権力的統制となり︑教育の自由を侵害することになるからで. ある︒しかしいったん区別されたならば︑法論理操作のつぎの段階においては︑大綱的基準は依然として教育の内的. 事項として︑教育内容そのものと密接不可分な関係にあることが強調されなければならない︒その効用はつぎの二点. にみられる︒ひとつは︑教育内容に対する国の不関与は教育に関する憲法上の基本原則であるから︑大綱的基準が教. 育内容そのものと密接不可分な関連をもっている以上︑その決定と具体化を国の権限とすることは例外でなければな. らず︑それ故必要最小限の範囲においてせまく限定されなければならないという命題をひきだすことである︒ふたつ. 一七. は︑大綱的基準は︑依然として教育の自治の原理の支配を受けていることから︑その決定と具体化には教育関係者等 の国民の参加が必要だというさきの命題を導ぎだすことがでぎることである︒. 教育基本権の社会権的側面.
(18) む. 説︵大須賀︶. 六 す. び. 一八. 一般に教育基本権の領域においては︑教育の自由と教育をうける自由が相互に関連しあいながら形成されている教. ことが指摘できよう︒. なるが︑それは学習者と広範な教育的裁量を認められている教育権者との間で︑また教育権者同志の問で効用をもつ. い︒さらにこの間題を︑教育をうける権利のレベルで考えるならば︑権利の文化的側面の理論的な把握ということに. も指導助言行政に対する指針にとどまるのであって︑法的な意義や効力を認められるものでないことはいうまでもな. 整備義務﹂説の理論的意義はより大きくなるであろう︒もとよりその場合の条件整備に関する国の義務は︑あくまで. しかしこの教育内容面の条件整備論を︑指導助言行政の領域においても効用をもつと考える場合には︑﹁教育条件. ある︒法的な局面に限定していえば︑﹁教育の自由﹂説のさきに紹介した指摘は正当なのである︒. る例外であって︑その範囲と内容を大きく限定されることから︑実質的にみて両者の相違はさして大きくはないので. の大綱的基準に法的拘束力を認めるかどうかに限られるといえよう︒しかし私見によれば︑それは教育の自由に対す. 性格を認めるかどうかについては︑後者は必ずしもその立場を明らかにしていないので︑両者の相違は︑教育内容面. ると︑合憲法的教育のための条件整備の義務を国に認めるかどうかで両者は異なるものの︑その義務に具体的な法的. とする限りでは︑ほとんど大きな相違はないというべきであろう︒教育内容面の条件整備を中心に両者を比較してみ. 要するに﹁教育の自由﹂説と﹁教育条件整備義務﹂説は︑権利や義務が法的な性格を認められる局面に限って問題. 論.
(19) 育の自由の基本権がもっとも大きなスペースを占めている︒そのため社会権としての教育をうける権利も︑それに対. 応する国の義務ないしは権限も︑多くの場合その法的性格については消極的な評価を受けるのであって︑まさに教育. のもつ非権力的な文化的作用の性格に帰因して︑教育の自治の原理の支配が優位するのである︒だがその自治もたん. なる白紙委任を意味しているのではない︒教育権者等が教育に関して最良のものを︑最終的には選択し決定すること. ができるようにするための様々の権利や義務がその底に交錯しで存在する︒教育の自治の原理により法的性格を否定. された権利や義務が︑実さいには現実の教育を形成し︑改善し︑発展させるのに大ぎな役割を果している︒したがっ. て教育基本権論は具体的な法的領域にだけ限定して理論することは狭きに失するといえよう︒もとよりその場合︑法. 一九. 的なものと法的でないものとを明確に区別しながら︑その混同をきたさないように理論面の処理を行なう必要がある. ばかりでなく︑法的でないものの機能と限界を厳格に認識すべきであることはいうまでもない︒. 教育基本権の社会権的側面.
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