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現象学的に考察するとはいかなることか

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Academic year: 2022

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(1)現象学的に考察するとはいかなることか. 佐 藤 真理人. 高いというほどによ‑知られている (a‑mostnotorious)」と言い、. グ)も「現象学とは何かを言い当てることの困難は、ほとんど悪名. 有名な﹃現象学運動﹄ の著者シユピーゲルベルク (スピーゲルバー. が、「現象学とは何か」という問題は相変わらず不明確なままである0. 「現象学」という言葉を表題に含む書物や論文は世に数多‑ある. ないであろう。本稿での私の関心は後者の面にある。というのも、. 学を研究することと自ら現象学的思索を遂行することとは同一では. サール研究=現象学研究とは必ずしも言えない。いなさらに'現象. 象学的に考察するとはいかなることかを理解することである。フッ. 学の学説を展開することではな‑'われわれ一人ひと‑が物事を現. ここで試みたいのは、創始者フッサールの叙述の跡を追って現象. Ⅰ.純粋現象学と応用現象学. 「現象学」あるいは「現象学者」の範囲を確定することに大いに苦慮. 現象学が独りフッサールの哲学にとどまらず「現象学運動」という. 序. している。いたるところで「現象学」が語られながらその意味する. 形で多‑の哲学者に、さらには哲学を越えた諸学の研究者に多大の. (‑). ところが不明であるというのは異様なことである。. ちなみに、フッサールの「純粋」現象学を受け継いでさらに発展さ. 影響を与えたのは'まさにこの後者の面においてであるからである。. ついての明確なイメージをもつことを目的としている。それによっ. せた弟子や信奉者が一人もいなかったということは、不幸な事態で. 本稿は'この素朴な疑問に立ち帰って'一つの角度から現象学に. て同時に、現象学に対する一つの根本的な疑問を呈することになろ. あると同時に'現象学が具体的、個別的な諸領域の事象研究を方法. 的に推進する大きな力をもつことを示している。. 二二. う。しかしそれは現象学を否定することではない。. 現象学的に考察するとはいかなることか.

(2) 一四. ト)、「分析判断1概念の現象学研究」(H・リッツエル)、「心理学と. (A・プフェンダー)'「道徳的行為の理念」 (Q‑> ヒルデプラン. 民法のア・プリオリな基礎」 (Aエフイナツハ)、「心情の心理学」. 理学における形式主義と実質的価値倫理学」(M・シューラ‑)'「市. ある。たとえば'「美的享受の現象学への寄与」(M・ガイガ‑)、「倫. wandtePhanomenologie)'すなわち具体的諸領域の現象学的研究で. フッサールのもの以外は、純粋現象学ならぬ「応用現象学」 (ange‑. 果と言うべき﹃哲学および現象学的研究年報﹄に含まれる論文は'. 明らかな歴史的事実である。そもそも現象学運動の最初の大きな成. それが多方面において具体的諸学の研究を活性化したということは. 尽きるものではない。しかし現象学は学の方法という側面を有し、. う事実があるLtまたそもそも‑強い反論が予想されるが‑「現象. よりもまずフッサール自身が応用的な現象学を受け入れていたとい. 学的方法の適用はやは‑同等の現象学と認められるべきである。何. ある。端的に言えば、個別科学あるいは個別事象研究における現象. の現象学的存在論との二方面に限定することは妥当性を欠‑見方で. 般を展望するならば'現象学をフッサールのそれとハイデッガー流. 的存在論が現象学の唯1的本道であるわけではないo現象学運動1. 指すとすれば、それは大いに異論のあ‑うる主張であろう。現象学. ら発してフランスで華々しく展開するに至る現象学的存在論一般を. と呼んでい る。もしもそれに対する新しい現象学がハイデッガーか. ‑彼に続‑第一世代の現象学者たち) の現象学を「古典的現象学」. 下にあるからである。シユトラツサーはフッサール. 的存在論」(存在一般あるいは存在そのものの現象学)の圧倒的影響. 精神科学との哲学的基礎づけへの寄与」、「国家の研究」(E・シュタ. 学的存在論」も一つの領域的存在論であるという見方が可能である。. フッサールにとって現象学は哲学そのものであって、単に方法に. イン)、「社会的共同体の存在論」(G・ヴァルター)、「幾何学とその. ﹃年報﹄第八巻(1九二七年)に発表されたハイデッガーの﹃存在と. (およびおそら. 物理学的応用の現象学的基礎づけへの寄与」(0・ベッカー)等々で. 時間﹄はフッサールの純粋現象学の立場から見れば他と並ぶ一つの. : r a :. ある。それらの研究はフッサールの用語法で言えば個別領域の本質. 応用現象学であり、特権性を主張しうるものではない。ちなみに'. M和. 構造を扱う形相学、つまり「領域的存在論」(regionaleOntologien). 「存在論はただ現象学としてのみ可能である」と言うのはまだしも、. o. である。. 方面に注意を向けたい。この態度に対して疑問が提出されることは. 現象学は存在論の独占物ではない。ところで予想される反論とは'. し‑それが存在論に手を貸すときなのである」は言い過ぎであろう。. ごrJl. 「現象学的な方法がその決定的な哲学的意義を獲得するのは、まさ. 容易に想像できる。というのは、哲学における現象学は、フッサー. 「存在」は1つの特殊領域ではな‑あらゆる領域を越えた根源であ. 現象学運動を重視する意味で、本稿では特にこの領域的存在論の. ルの純粋現象学を別にすれば、ハイデッガーに端を発する「現象学.

(3) るのだから'現象学的存在論は断じて領域的存在論などではない、. ー図式的な説明となって'あまり発見的な結果をもたらさないであ. フッサールの学説を機械的に適用することは1それができるとして. ヽ. というものである。しかし数学において空集合も便宜上一つの有限. ヽ. ろう。しかも研究者としての立場が暖昧となる。つまり自らは現象. ヽ. な集合とみなされるように、形式的に見れば「存在」もいわば空領. ヽ. 学の只中に立つのではな‑外部から疑似的に現象学者として振る舞. ヽ. 域というべき一つの領域である。その領域への現象学の適用が現象. ヽ. ・つことになる。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 自身がなしうるかどうかが問題なのである。. う。程度はともあれ事象の積極的開示を伴う記述的分析をわれわれ. 柄を真撃に追究するのであれば、当然その態度が要求されるであろ. 私がここで特に問題にしたいのはもちろん第三の場合である。事. 柄の現象学的な記述と分析を遂行するという態度がありうる。. 第三に、自らが現象学の基本原理を守って'現象学者として、事. ヽ. 学的存在論である。右のような観点から本稿では 「現象学」を最大 の広が‑において見ていることをここで述べておく。. Ⅱ.認識の源泉としての直観. さて、物事を現象学的に考察するとはいかなることかを考えてみ よ、つ。. 対象である限りにおいて、現象学の外から現象学について論ずるこ. 象学はありえないとはいえ、フッサール研究自体は'フッサールが. に現象学を遂行することではない。フッサールの所説から無縁に現. のはフッサール研究である。しかしこれは、上述のように、本来的. ンⅠ﹄が最も適切な著作として取り上げられるべきである。まさに. りもまず'フッサールが現象学の原理論を詳細に展開した﹃イデー. な‑フッサールの著作のうちに求められるべきである。そして何よ. 許されるのであろうか。われわれが準拠すべき拠‑所は言うまでも. れば、われわれはいかなる条件に従えば現象学者と自認することが. われわれが自ら現象学者として何事かを研究しようと企てるとす. とである。そしてこのことはフッサールに限らずハイデッガーであ. 同書において、現象学者たるべきことの条件が理論上明確に (しか. 研究として「現象学をやる」という場合、まず第一に考えられる. れ、サルトルであれメルロ=ボンティであれ、同じことである。彼. しながら実際上の根本的な不明確性を伴って)語られているからで. 一五. 予備的な示唆として重要であるのは、1九二二年の ﹃年報﹄第l. えていた﹃デカルト的省察﹄が同様に重視されるべきであろう。. ある。そして同時に'フッサールが一時は体系的主著にしようと考. らを現象学者として研究することは自ら現象学を営むことではない。 第二に、哲学的問題であれ、社会学的、心理学的な現象であれ' 何らかの事象を研究対象にして'それにフッサールの学説を適用し て理解ないし説明するということがあ‑うる。しかしこの場合、 現象学的に考察するとはいかなることか.

(4) というのは、どんな理論も'それの真理そのものをやはりただ原的. I ‑ K. 巻の巻頭にフッサール自身が書いたと見られる序文ないし声明文で. 所与性からのみ汲み取ることができるということを、われわれは洞. 察するからである。」. ニー\. ある。その中で次のように言われている。 「編者たちを結びつけているのは'それどころか将来の協力者た. 同一事である。直観において対象が自らをわれわれに与えるのであ. 原的に能与する直観と原的な所与性とはいわば表裏の関係にある. はない。彼らを一つにまとめるものは、むしろ次の共通の信念なの. り、その与えられた対象を受け取ることがまた直観なのである。. ちすべてのもとで前提されるべきであるのは'一つの学派的体系で. である。すなわち、直観という原的源泉への、また直観から汲み取. するもろもろの概念と問題を活用することができ'ただこのように. ける)と按tているということの保証を直観が与えるということで. る。それは端的に言うならば、われわれが現実(最も広い意味にお. かかる直観を認識の源泉とすることには重要な認識論的意味があ. してのみ諸概念が直観的に明確化され'諸問題が直観的根拠にもと. ある。カントが認識の成立の不可欠の条件として感性をあげている. られうる本質洞察への遡源によってのみ、哲学の偉大な伝統が呈示. づいて新たに立てられ、次いでまた原理的に解決されうるというこ. ことにも同様の意味がある。なぜなら'感性的直観(カントは感性. (6). のレベルでのみ直観を認める) においてのみ実在性が現前するので. とである。」 ここにはっき‑と見て取れるのは'現象学的研究の拠り所、最終. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. して直観には明証(Evidenz) の概念が結びついている.「明証とは、. 認められ'認識全般にわたって直観が基礎に置かれるのである。そ. さらに広‑本質を把撞する「形相的直観」あるいは「本質直観」が. (8). あ‑、ヤスパースが言うように「ここ [感性] に実在性の立証. ヽ. 的根拠は'直観(Anschauung,Intuition) であるということである.. ヽ. (Bezeugung)が存する」からである。フッサールでは感性的直観の. ヽ. このことは ﹃イデーンⅠ﹄ における次の有名な直観主義の宣言と一. ヽ. みならず'知的なレベルで事態や範噂形式を把撞する「範噂的直観」、. ヽ. ヽ. ヽ. 致している。 ヽ. 「すべての原的に能与的な直観(originargebendeAnschauung) ヽ. ヽ. ヽ. は認識の一つの正当性源泉であり'﹃直観﹄においてわれわれに原的 ヽ. に (いわば自らの体現的‑eibhaft現実性において) おのれを呈示す ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 最広義においては、存在するものおよび斯様に存在するものを経験. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. る1切のものは、それがおのれを与える通‑に、しかもただそれが. ヽ. ヽ. すること (ErfahrungvonSeiendemundSo‑Seiendem)'すなわち、. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. おのれを現に与える限界内においてのみ'単純に受け取られるべき. ヽ. であるというあらゆる原理の原理(PrinzipaEerPrinzipien)につい. まさにそれ自身を精神的に観ること (Es‑se‑bst‑geistig‑zu‑Gesicht‑ o Bekommeロ)である」と言われている。明証が完全な必当然的(apo‑ ては、考えうるどんな理論もわれわれを惑わせることはできない。.

(5) diktisch)明証であるとき'われわれは対象を原的所与性において 把握していることになるわけであるo これと類似した主張がデカルトにも見られる。デカルトは 「私が 極めて明断判明に知覚する (valdeclare&distinctepercipio)もの. Ⅲ.直観的認識の「客観性」 の問題. 現象学を真面目に考えようとする限‑'われわれは直観の正当性. を'単なる学説としてではな‑、われわれ自身の事柄として前提し. ( S ). はすべて真である」と言う。そして明断判明に知覚されるものとは. なければならない。直観とは意識に対象が与えられることであり、. : ; ,. 「私が精神の眼によってこの上な‑明証的に直観する (mentisocu‑. 的還元を及ぼす。新たに創出されるべき研究領野からは、この領野. という︺﹃絶対者﹄にして﹃超越者﹄にもわれわれはもちろん現象学. のように明確に神を現象学から排去(ausscha‑ten)する。「この︹神. の真理性を保証するものであるということである。フッサールは次. フッサールにおいては神への依拠はな‑、直観の明証性だけが認識. るいは 「誠実性」.veracitas) を最終的な拠‑所とするのに対し、. デカルトが明証的直観の正しさを保証する神の「善性」(bonitas)あ. サールは酷似している。しかし決定的に異なることがある。それは、. 根拠として明証的な直観をあげているという点でデカルトとフッ. 通の客観として「客観性」を有することになる。しかしフッサール. かかる主観が構成する対象、さらには自然的世界全般は'万人に共. における主観なのであって'主観1般あるいは一般的主観である。. いる超越論的主観はすべての人間一般に共通する認識構造のレベル. 意識であって、カント的な意識一般ではない。カントが問題にして. が語る純粋意識あるいは超越論的主観性はあくまでもこの(私)の. は第一人称単数としてのこの(私)がなす認識である。フッサール. るのだろうか? これは原理的な問題である。厳密に言えば'直観. に把揺することである。だが、直観が正しいという保証はどこにあ. schauung)とは'意識に本質が与えられ、われわれが本質を受容的. ( 2 ). lisquamevidentissimeintueri)と思うもの」である.真なる認識の 意識がその対象を受け取ることである。本質直観(WiesensanI. を純粋意識そのものの領野にしようとする限り'そうしたものは排. が語る (モナドとしての)主観性は「充溢した具体性において受け. 一七. かなる意味で 「客観的認識」となりうるのであろうか。デカルトの. て私に与えられている」と言われる。具体的個別的な私の直観はい. 3 舶 E. 「私は私自身にとってあ‑、絶えず経験明証によって︽私自身︾とし. ( 3 ). 去してお‑べきである。」これはフッサール後の現象学的存在論の. 取られた自我」 (d.asinくOUerKonkretiongenommeneEgo)とされ、. (12). 展開を評価する上で重要な論点であると思われる。. 現象学的に考察するとはいかなることか.

(6) 場合に認識の客観性の保証者となる神は排去されている。保証者は. 対抗して語る現象学的現象の特異性がある。つまり現象は本質(物. のである。ここにフッサールおよび現象学者たちがカント的現象に. 一八. この(私)以外にない。これは認識論上の大きな難点ではあるまい. 自体) を隠すのではな‑まさに本質を示すものなのである。フッ. サールが意識の個別性を主張しながらも他方で暗黙にカント的意識. か。 客観性の成立の基礎づけとして論じられる「間主観性」 (Inter‑. ヽ. ヽ. ヽ. 一般を前提しているかのように思われる語‑方をするのは、同じ状. ヽ. subjektivitat) はこの場合満足のい‑解答にはならないであろう.. ヽ. 況'同じ立場で同じように事柄に日を向ければ、他の人にも私と同. エ.コ. ヽ. 間主観性の議論は(われわれ)にとって共通の、つまり客観的な対. ヽ. じょうに見えるはずであるという絶対的確信があるからなのである。. ). 象が成‑立つに至るプロセスの解明であるが、「一つの自我が・‑‑. 8. たとえば「一つの自我にとって認識可能であるものは原理上すべて. 1. 私自身の自我のうちに、すなわち私の︽モナド︾のうちに反映する. の自我にとって認識可能であるはずである」、「可能だとされている. (. ものとして構成される」、「他者(derA:ロdere) は私自身の反映であ. 知られざる原因がそもそも存在するならば、私にとってではないに. ヽヽ. ヽ. る」と言われるように'(われわれ)の構成要素としての他我(alter. せよ'よ‑よ‑またより広‑観る他の諸自我にとっては、それは原 ( 2 ). ヽ. ego)を構成するのが(私)である以上、問題は出発点に送‑返さ. 理上知覚可能であるはずであるということは'容易に洞察されう. ヽ. れる。間主観性は客観性と呼ばれるものを成立させるものではある. る」という発言には、そのような確信が窺われる。換言すれば、原. (16). が'それ自体が真理の保証者であるとは言えない。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. しかしとにか‑自らの直接的経験に忠実であることが現象学的態度. 理的な共体験ないしは追体験の可能性が現象学的直観の真理性を保. ヽ. ヽ. 直観の正当性を認めるということは、事象そのものが意識に自ら. ヽ. ヽ. 証することになろう。かかる主張に対しては、「だがそれはやはりあ. ヽ. ヽ. を示す=与えられることを素直に認めるということである。この点. ヽ. ヽ. なた個人の主観的経験ではないか」という反論がつねに可能である。. ヽ. ヽ. に関してフッサールは次のように素朴実在論的とも言えるほどに単. ヽ. 純明快な確信を表明している。「直接︽見える︾こと、‑‑どのよう ヽ. なのである。私の体験は真でありうる、という前提が不可欠である。. ヽ. な種類のものであれ原能与的意識としての見えること一般は、あら. に「見える」ものを真として受け取る態度を保持することが肝要で. 要するに'自ら現象学者であろうとするならば、われわれは自分. 求められたときに︽私にはそう見えるichsehees︾ということに価. ある (ただし現象学的「還元」を経たあとの曇‑ない目で見るとい. ゆる理性的主張の究極的な正当性源泉である。」「言表の理由を問い. 値を置かないとしたら'それは馬鹿げたことであろう」。つま‑認識. うことが要求されるが'この点については後に検討したい)。およそ. ( S ). の真理性の保証は(私)にというよりもむしろ事象そのものにある.

(7) ヽ. 召xvouevaすなわち、自己を示すものを、それがそれ自身から自己. していると見ることができる。「現象学とは、6oTO(piveoOaitoc. 現象学についてのハイデッガーの次の説明はその直観主義を継承. 成り立つ他者の倫理の立場では、知の立場で意味をもつ認識論的な. る態度は一様ではない。フッサールとハイデッガーとの対決の上に. 現象学者の面と形而上学者の面とを有するレヴイナスの直観に対す. という立場で存在の現象を追究するサルトルも当然現象学的である。. ヽ. について論ずる有名な﹃知覚の現象学﹄ の「序文」では直観に言及. を示す通‑に、それ自身から見えるようにさせること (daswas. 概念としての直観を次のように批判している。「外性の現前である. ヽ. 「現象学的」と称される哲学すべてに共通する性格をあげるとすれ. していないが'他の箇所で'「見るとは、自己を示す諸存在者の宇宙. sichzeigt,sowieessichvonihmselbstherzeigt,vonihmselbsther. がゆえに'顔は決して像あるいは直観となることはない。あらゆる. ヽ. ば'それはこの直観主義的態度である。すなわち'自己を与える. の中に入ることである」と言い、そして「確実性が生じ'真理が現. ヽ. (sichgeben⁚Sedonnerjt自己を示す(sichzeigen㌃emontrer)、. sehenlassen)である.それが、現象学という名称を自らに与える研. 直観は直観に還元不可能なある意味作用(sigロification)に依存して. ). 究の形式的意味である。」 ハイデッガーは直観について積極的に語. いる。‑‑直観に還元不可能な意味作用は ︹他人への形而上学的︺. 3. らず、むしろ「了解」 (Verstehen)をいわゆる直観よりも根源的な. 欲望によって、すなわち道徳性と善性(bonte) によって測られる」.. (. ものとしている (﹃存在と時間﹄第一篇第五章参照)。しかしながら. しかし他人との出会いに至るまでのレヴイナスの事象記述全般は直. ). 了解が(情態性Befiロd‑ichkeitによる気分づけられた)開示性(Er‑. 観的方法によっていると言え、その意味で彼の哲学は現象学的性格. S. われる場所はつねに直観的思惟である」と言って'その思惟態度が. schlossenheit)であるとすれば'了解が有する了解内容(Verstand‑. をもっている。あるいは'レヴイナスは形而上学を志向する半現象. K. 自己を告げる(sichmeldenls'annoncer)等の言い回しで表現される. 現象学的であることを示している。「直観的認識以外の認識はない」. nis)は受動的に与えられたものであり'広義の直観に相当する。ま. 学者である。ちなみに、形而上学的レベルで現象学を越える面を有. (. 対象の現象を基礎として事象の考察を進めることである。. た了解の完成としての解示(Aus‑egung)も能動的な解釈ではな‑、. するのはレヴイナスに限ったことではなく、ハイデッガーでもメル. そと. むしろ了解されるものが自己解示し(sichaus⊥egen)、それを受容. ロ=ボンティでもサルトルでも程度の差はあれ同様のことが言える。. ( 8 ). することであると解される。このことはまさに直観的認識である。. 彼らはいずれもどこかで、ある時点で、現象学を超え出ているので. ( S ). そのように解してこそハイデッガーの所説は現象学的分析と呼ぶに. ある。「見えないもの」 (l'invisib‑e) というかたちでの根拠の現前、. 一九. ふさわしいものとなるであろう。またメルロ=ボンティは、現象学 現象学的に考察するとはいかなることか.

(8) 言って、現象学の限界を指摘している。しかし現象学そのものは形. えを決定的な仕方で成し遂げることができる場合だけである」と. 学する仕方へと思考が自らを高めるのは、思考が直観主義の乗‑過. を失うという条件においてのみではないか」と問い、「そのような哲. の存在論的意味を帯びることができるのは、あらゆる方法論的関心. 現出(manifestation)を探求するアンリは、「現象学がこうした究極. のちに﹃本質観取﹄に対して用いるようになった。われわれはここ. ていた‑われわれの研究ではその語はこの意味で使われるーが、. 象学という︺語を最初は意識現象の﹃記述的心理学﹄に対して用い. 中で「現象学」にこういう注を付している。「フッサールはこの︹現. 現象学を精神病理学に応用したヤスパースは﹃精神病理学総論﹄の. (S) ない。﹃解釈的﹄であるべきはずである。」またたとえばフッサール. る。一言にしていえば'﹃いき﹄の研究は﹃形相的﹄であってはなら. 二〇. 而上学や神学的存在論ではないのだから、そのような視点からの現. では本質観取を押し進めない(nichttreiben)‑現象学はわれわれに. (24). 象学批判は筋違いである。現象学は、画定された領域における諸現. ヽっ ヽて ヽこ ヽこでは軽験的な処置法(empirischesVerfahren)なのであっ と. 作用としてのそれである。「本質把握および本質直観は多形態的な. つの面がある。一つは'われわれが事実上つねに行なっている意識. この点についてどう考えればよいのか。思うに、本質直観には二. ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(8) て、これは患者の側からの伝達という事実によってのみ営まれる。」. 象の分析にその本領があると言うべきである。. Ⅳ.本質直観について. ところで、フッサールの言う本質直観に関して考えるべきことが ある。. それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する﹃本質直観﹄を索め. るの覚悟を要する。すなわち、﹃いき﹄を単に種概念として取扱って、. 解に際してuniversa‑iaの問題を唯名論の方向に解決する異端者た. ﹃「いき」の構造﹄で'こう言われている。「われわれは﹃いき﹄の理. と言われる場合は、その面を指していると思われる。他方、直観さ. ある。‑‑個別的な家の'ないしはそれの赤の﹃直観﹄の上に、赤 Ii r ') という理念の直観的所与性を構成する新たな統渥様式が築かれる」. (Rotmoment)をではな‑赤なるもの(dasRot)を思念するので. 合、あるいはより具体的に「われわれは家のこの赤という契機. ヽ用 ヽで ヽあ ヽり ヽ、 ヽと ヽり ヽわ ヽけ ヽ本 ヽ質 ヽ看 ヽ取 ヽは ヽ原能与的作用であり、それゆえ想 作 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(S3) 像作用の類比物ではな‑感性的知覚の類比物である」と言われる場. てはならない。意味体験としての﹃いき﹄ の理解は、具体的な'事. れる本質を類・種関係の段階系列の中に位置づけて普遍化する理論. 日本人による代表的な現象学的著作の一つと目される九鬼周迄の. 実的な、特殊な﹃存在会得﹄ でな‑てはならない。我々は﹃いき﹄. のessentiaを問う前に、まず﹃いき﹄ のexistentiaを問うべきであ 的態度は現象学者が営む認識論的考察であって、次元を異にするも. ヽ.

(9) う一つの面である。フッサールの次の言葉は本質直観の右の二つの. ヤスパースが経験的処置法と言うのは、またたとえば現象学的人間. 究の眼目は個別的事象の鮮明な把握である。九鬼が唯名論と言い、. ). 面の関係を言い表わしていると思われる。「実は、すべての人がいわ. S. 学(現存在分析)を提唱するビンスワンガIが「現存在分析は1つ (. ば絶えず﹃理念﹄、﹃本質﹄を見て、それらを思惟において操作し'. の経験科学である」と言うのも、彼らの現象学的研究が1般的認識. ヽ. 本質判断をも行なっているのである ‑ ただ彼らは理念、本質を'. 論ではな‑、個別領域における発見的な事象研究であるからである。 ( 8 ). ヽ. 彼らの認識論的﹃立場﹄から解釈することによって放逐してしまう. 実際、フッサールほどに本質直観を重視して多‑を語る他の現象学. ヽ. のである。‑‑所与に従うことが理論の仕事であり、諸所与の根本. 者はいない。. 少な‑とも体験される個的本質を確定するという方向でならば本質. 仝‑無縁に個別的事実を認識することはできないわけであるから、. いようにという配慮がそこにあるのではないか。ところで本質性と. 観の普遍化的理論化の面であろう。体験される個的本質を見失わな. 昧(vag)な形態類型(Gestalt‑Typen)」にとどまる.精密な科学的. れ、あるがままに暖味な仕方で概念的ないし術語的に確定される暖. 本質は不精密(inexakt)な、「感性的直観に基づいて直接に把撞さ. ph0‑ogisch)なものとして個体認識の方向で語っている。形態学的. ない。フッサール自身'別の文脈では本質を「形態学的」 (morl. 本稿での関心から言えば、本質直観をあまり厳格に考える必要は. ヽ. 種類を区別して'固有本質に応じて所与を記述することが認識論の ( 8 ). 直観は許容可能ではないかと思われる。たとえばヤスパースは「現. 規定とは異なり、「ギザギザのある、刻み目のついた'レンズ形の、. 仕事である。」九鬼やヤスパースが拒否しているのは後者の本質直. 象学においては、多様における同一的なもの (dasldentischeim. 散形状の」等々の暖味な言葉で表現されながらも、直観的に的確に. ヽ. Mannigfaltigen)を再認可能にするために、患者によって直接に体. 把握されるのが形態学的本質である。われわれは多‑の場合このよ. ヽ. 験されたことを簡明的確に直観するよう習練することが肝要であ. うな形で物事を適切に把握している。われわれ自身が物事を現象学. ヽ. る」と言っているが、これはフッサールの言う、本質把握に至るた. 的に考察するための条件を問う本稿の目的に即して言うならば、わ. ろゝつ。. としなければならない。そうでなければ、現象学が成立しないであ. < p j. めの自由な空想(Phantasie)'仮構(Fiktion)、変異(Variation). れわれはこのような形態学的、類型的なレベルで本質を直観しうる. ( M ). といった意識操作を連想させる。 応用現象学では経験に即した個別的対象の本質が重視されるのは 自然な成‑行きである。具体的事象研究では類的一般化が日的では ない。それは認識論としての純粋現象学の仕事であろう。具体的研 現象学的に考察するとはいかなることか.

(10) ( 8 ). 二二. フッサールは「超越論的・現象学的研究の全体は超越論的還元の. 確固たる遵守の義務がある」と言って還元の重要性を強調している。. がどうあるべきかが当然問われなければならない。なぜなら日常的. る (=見える) ことであるとして、その場合のわれわれの意識状態. 現象学が直観に基づいているとして、そして直観が精神の眼で見. 還元を遂行した」と言いうるであろうか。還元は瞬間の決断や気合. が生じざるをえない。フッサール以外の誰が「私は完全に現象学的. 還元を確実に遂行することができるであろうか」という素朴な疑問. であるだけに、それだけいっそう'「われわれはこのような現象学的. V.現象学的還元の可能性. な意識状態で漫然と見るだけでは物事の本質的洞察を得ることは望. いで実行できるというようなものではない。それはかな‑の知的・. しかしながら'フッサールの還元理論が外見上非常に厳密かつ赦密. めないからである。現象学とは'単純化して言えばtへ物の道理)を. 精神的能力と長年の習練を要することであるに違いない。事実、公. の著作においてではないが、フッサール自身がこう言っているので. 把握するための正当な(物の見方)の反省的、自覚的な獲得である。 そこで問題になるのが、有名な「現象学的還元」 (phanomenol0‑. ヽ. ある。「第一の、またあるいは最大の困難は'根底的な無偏見性と'. ヽ. gischeReduktion)である。それについては「超越論的に純化された. ヽ. 現象学的還元というその方法に存する。現象学的還元という方法は. i ^ I. ヽ. 意識とそれの本質相関者とをわれわれにとって可視的かつ接近可能. ヽ. ‑私の旧弟子のうちの誰一人として理解していない」、「哲学l般の ヽ. なものたらしめる現象学的還元」と言われている。現象学的還元と. ヽ. は、換言すれば、素朴な自然的あるいは自然主義的な態度から純化. 中で最も困難なものは現象学的還元であり、それに精通しそれを実 ''蝣cr,' 行することは難しい」。. された現象学的態度へと態度変更を行なうための方法的意識操作の. 考えているのか、大いに疑問である。ハイデッガーは現象学的存在. フッサール後の現象学者たちが現象学的還元をどれだけ真面目に. (ausscha‑ten)'つまりそれらの存在・非存在についての判断停止. 論の著作﹃存在と時間﹄ の中で現象学的還元には仝‑触れていない。. 総体である。その具体的操作は'実在的な諸存在者全般を排去する. (ejcorfi)を行なって存在定立を中立化し(neutralisieren)、それら. メルロ=ボンティは﹃知覚の現象学﹄ の「序文」 で明確に「還元の. ( 8 ). を括弧に入れる (einklammern) ことであるoこのような還元の結. 最大の教訓とは完全な還元の不可能性である。そうであるから、. ( 8 ). 果として残る「現象学的残余」(dasphanomenologischeResiduum). ヽ. フッサールはつねに還元の可能性を問い直しているのだ」と断ずる。. ヽ. としての純粋意識に対してこそ'その相関者として物事の純粋な現. そして彼は 「事象そのものへと立ち帰るとは、認識がつねに語って. ヽ. 象が与えられるというわけである。.

(11) 元の方向を世界という仝‑逆の方向へと転換する。サルトルは ﹃存. いるところの認識以前の世界へと立ち帰ることである」として'還. 元とはフッサールのような域に達した人だけがなしうる名人芸のよ. しもフッサールの言う通‑に厳格に受け取るとしたら、現象学的還. 認識のための意識状態を整える操作と解するのが妥当であろう。も. ( 8 ). 在と無﹄ の中で何度か現象学的還元に触れているが'その態度は中. うなものと考えるほかはない。しかしそれではわれわれにとって無. ヽ. 立的か否定的(特に他者の存在に関して) であり'還元に重要性を. 縁なものになるであろう。現象学者である限り、自然的・自然主義. ヽ. 認めていないのは明らかである。. 解釈しっつ有効な概念にしようとする者もいる。だが同時にシユツ. 究の方法として積極的に評価し、極力フッサールの所説に合わせて. 態度を区別して'存在論的な立場に立つべきことを強調するとき'. ガーが「存在的」(ontisch)な態度と「存在論的」(onto‑ogisch)な. ないし、また行なっていると見ることができる。たとえばハイデッ. 的態度からの何らかの態度変更、見方の変更を行なわなければなら. ツは「﹃現象学的還元﹄は決して何らかの魔術的あるいは神秘的な意. 彼は彼流の現象学的還元を説きかつ遂行していると考えられる。視. 他方では現象学的社会学者シユツツのように'現象学的還元を研. 識能作を要求するものではないにしても'必要な徹底性をもってそ. 野を広げれば、「自然科学的意識の現象学‑‑自然そのものの現象. ( 3 ). れを遂行するとなると'それが要求する括弧入れという方法は決し. ( 3 ). 学‑‑人間の人格の現象学‑‑社会精神、社会的形成物、文化形成. ヽ. て簡単ではない」と言い'また「あまり適切に選ばれたとは言えな ヽ. 物等々の現象学」といった「現象学的研究の広大な諸領分」があり、. ヽ. い本質および本質観取という概念は、フッサールが形相的考察様式. 「︹高次の対象性としては︺あらゆる種類の価値客体および実践的客. ヽ. を特徴づけるためにもちいたのだが、多‑の誤解を引き起こし'そ. 体があ‑、厳格な現実としてわれわれの実生活を規定するあらゆる. ヽ. して多くの好意的な読者が形相的方法の叙述から始まるフッサール. 具体的な文化形成物'例をあげれば国家、法、慣習、教会等がある。. ヽ. の﹃イデーン﹄に取‑組むのを非常に妨げることになった」と言っ. これらの客体はすべてそれらが与えられるままに、根本種に応じて、. ( 3 ). て、フッサールの思想表現に多少の疑念をも表明している。. ヽ. ヽ. ヽ. (. 3. ). て構成の問題が立てられかつ解決されねばならない。」現象学の可. ヽ. は'われわれが現象学的還元をフッサールの言葉通りに受け取って. 能的領域と対象がこのように広い範囲に及ぶのであれば、当然それ. ヽ. それらの段階秩序に従って記述されねばならず、またそれらに対し. 実行しょうとすることは現実的ではな‑、それにかな‑の柔軟性を. らに対する態度・見方は決して一様ではありえない。たとえば法や. 全体的に考えると、現象学をわれわれ自身の可能性とするために. もたせて受け入れることが必要であるように思われる。現象学的還. 政治の領域における現象と芸術やスポーツの領域における現象とを. 二三. 元とは要するに物事を見る見方の変更なのであって、上述の直観的 現象学的に考察するとはいかなることか.

(12) れなりの素養'習練が必要となる。フッサールは超越論的現象学を. 応じた見方を取るべく態度を整えなければならず、そのためにはそ. 同一の見方で見るわけにはいかない。われわれは各領域、各対象に. に遂行することができないとしても'われわれが自分な‑の現象学. は厳密な学ではない)。要するに、現象学的還元を百パーセント完全. 屈な厳格さと考えることは適切ではない (その意味でならば現象学. 的な繊細な精神であると言っても的外れではあるまい。厳密性を窮. 二四. 一つの「新デカルト主義」(Neu‑Cartesianismus)と呼んで'「哲学. 的考察を行なうことはつねにある程度可能なのである。. ( 5 ). それでは、われわれが何らかの事象の現象学的記述を志すとき、. Ⅵ.現象学的記述の特性. する自我への、純粋な思惟作用(cogitationes) への還帰」の範をデ カルトに求めているが、現象学の可能的領域がか‑も広汎なもので あるならば、デカルー的コギ‑だけでは十分ではないであろう。な ぜなら、幾何学者の眼で一様な仕方で世界を見、精神を無規定な意. ( S ). 識作用(Cogitatio)と見なすデカルトのまなざしでは生命的世界、. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. その方法的要点はどういうところに存するのか。フッサールは現象. ヽ. 精神的世界の現実は見失われるであろうからである。デカルトの. ヽ. ヽ. 学的研究の特性を次のように簡潔に述べている。「現象学は観取的 ヽ. 「幾何学的精神」 (espritdegeometrie) に加えて、パスカルの言う. に解明しっつ (schauendaufklarend)、意味を規定しっつ (Siinn. ヽ. ヽ. 「繊細な精神」(espritdefinesse)をもわれわれは持たなければなら. bestimmend)、そして意味を区別しっつ (Sinnunterscheidend)辛. ヽ. ない.パスカルは言う0「よい眼(bonnevue)をもつこと」が必要. を進める。現象学は比較し(vergleichen)、区別し(unterscheiden)'. ヽ. であるO繊細な事物とは「見る(voir)よりもむしろ感じる(sentir). 結合し (verknupfen)'関係づけ'inBeziehungsetzen)、部分に分. ヽ. ものである。‑‑それは微妙なものであり'数も多いので、それを. ける (inTei‑etrennen)、あるいは諸契機を析出する (Momente. ヽ. 感じとるにはきわめて微妙な澄んだ感覚を必要とする。また、この. abscheideロ)。しかしすべては純粋な観取のうちで行なわれるので. ヽ. 感じにしたがって正し‑素直に判断する必要がある。‑‑とっさに、. ある。現象学は理論化や数学化は行なわない。つまり現象学は演樺 ( 5 ). ( g ). ヽ. 一日で事物を見てとらなければならない。」パスカルはデカルーと. 的理論の意味における説明(Erklarungen) は行なわないのであ. ヽ. は別様に直観的認識を語っているのである。現象学的還元をわれわ. る。」要するに、外側からの理論づけを俳して、直観される本質的意. ヽ. れのものとして生かすためには、繊細な精神の獲得を条件とするこ. 味の規定、区別'連関を明らかにするのが現象学的研究であると. ヽ. とが必要である。フッサールやハイデッガーが自然科学的「精密性」. 言ってよいであろう。精神病理学における現象学者ヤスパースはこ. ( S ). (Exaktheit) に対置する哲学の「厳密性」 (Strenge)とはパスカル.

(13) ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽヽ. ヽ. S. ). 体験可能性、追体験可能性の程度によることである。記述者と読者. ヽ. ヽ. (. の研究態度をかなり忠実に受け入れている。彼は「見る (sehen)〜 ヽ. ヽ. ヽ. との間で意識レベルあるいは体験レベルの共通性があれば、その記. ヽ. ヽ. ヽ. 観取する(schauen)、感入する(einfuhlen)、了解する(verstehen)」 ヽ. ヽ. 述は直観的な説得力をもち'成功するであろう。しかしそうでなけ. ヽ. ヽ. ヽ. ことを「われわれの概念を初めて満たす究極的な体験」とし、「現象. ヽ. れば、記述は意味不明な言葉の羅列となる恐れがある。またいわゆ. ヽ. 学は、患者が現実に体験する心的諸状態をわれわれに対し直観的に ヽ. る論証的方法とは性格を異にする現象学的方法は'言語表現の面で. ヽ. 現前化し(unsanschaulichvergegenwartigen)、それらの親和関係 ヽ. 変則的なものとなる傾向がある。ハイデッガーやレヴィナスの言葉. ヽ. の異様さは周知のことである。そういう点が、現象学の弱点であり、. ヽ. 別し (unterscheiden)、それらに確固とした術語を割‑当てること. 怪しげな印象を人に与える原因であると考えられる。しかし硯象学. ヽ. に応じて考察し'それらをできるだけ鋭‑限定し(begrenzen)、区. を課題としている。」一方、ビンスワンガIに見られるような、無造. 的記述が仝‑のまやかしでないことも確かなことである。成功する. ヽヽ. 作に雑多な要素を混在させる記述の仕方は、精神医学としても現象. 現象学的記述は大きな効力を有するであろう。. I [ 7 1. 学としても不純なものであると言わざるをえない。. 標を固定化すること'当の学科の真の対象と相容れないがゆえに原. なければならない。なぜならメタバシスの結果として、「不適切な目. 「メタバシス」すなわち他の領域への不注意な移行の危険に注意し. 極力避けなければならない。われわれはフッサールが強‑訴える. 安易に固有の領域を越境して記述に異質のものを混入させることは. われの共体験可能性、追体験可能性の範囲を越えている。すでに触. るとしても、宗教的意識の対象'すなわち端的に言って神は、われ. 考えることは困難である。仮に宗教的意識の立場に立つことを認め. えざるをえない。超感性的領域の対象について現象学が成り立つと. であろう。上采の議論からすれば'この問いに対しては否定的に答. 神学的、宗教的方向に展開することが妥当かどうかが問われるべき. 最後に、領域の問題に関連して、現象学を形而上学的、ないしは. 理的に間違った方法に従うこと、論理的諸層を混乱に陥れて、真に. れたように'フッサールは神を排去すべきことを断言している。神. それゆえ重要なことは、研究領域の範囲の画定とその遵守である。. 根本的な命題や理論がしばしば非常に奇妙な粉飾によって仝‑異質. についての本質直観は不可能であろう。. けれども現象学的哲学がそういう方向に展開されてきたという事. の思想系列の間に外見上二次的な契機としてあるいは付随的な帰結 ( S ). 実はある。シューラI t ハイデッガーがその方向に進んだLt ハイ. として割り込むこと'等々」が生ずるからである。 さてしかしながら、注意深‑現象学的記述を試みたとしても、そ. デッガーから出発したフランス現象学は、ジャニコIの言う「神学. 二五. れが他者によって正し‑理解されるとは限らない。それは前述の共 現象学的に考察するとはいかなることか.

(14) ( S ). 的展開」を押し進めた。存在そのものの現象学としての現象学的存 在論は隠れた神についての疑似的神学となる。しかし直観的に与え られない神や神的「存在」 についての語りは限りな‑暖味なものに とどまるであろう。ジャニコ‑が言うように現象学は 「自らの現象. (53). 的な限界内で経験を探索する」べきものであり、「現象学と神学は別. 物」なのである。神的存在についての言説は形而上学としてなされ るべきであって'現象学としてなされるべきではない。. 注 ( ‑ )H e r b e r t S p i e g e l b e r g , T h e P h e n o m e n o l o g i c a l M o v e m e n t , t h i r d r e v i s e d a n d e n l a r g e d e d i t i o n , M a r t i n u s N i j h o f f P u b l i s h e r s , 1 9 8 2 , p . 1 .. 二六. (<‑) JahrbuchfurPhibsopkieundphanomenologischeForschung,EnterBand,1913,. VerlagvonMaxNiemeyer.前出の﹃現象学運動﹄ の序論でもこの言葉が引. 〇年代にアレクサンダー・プフェンダーから得た個人的情報から、私はこ. 用されており'著者シューラツサーは「この声明のスタイルおよび一九≡. のテキストがエドムント・フッサール自身によって起草されたものだと信. じている」と言っている(ThePhenomenoloeicalMovement,p.64)cなお「編. M・ハイデッガーt. A・プフェンダーを指. 者たち」とは'編集責任者フッサールおよび協力者として名を連ねている 0・ベッカー、M・ガイガ‑〜 しているのであろう。. schau‑ich)とlロtuition(intuitiく)の両方を用いているが、特に意味的な相違. (サ) IdeenI,∽24(S.52/51).フッサールは「直観(的)」にAnschauung(an‑. は認められないので、同義語として扱う。. (‑o) K.Jaspers,DiegroBenPhilosophen,S.418(Kant).. を上記のように併記する。特に問題がない限‑後者から引用する。. の頁指示は、HusserlianaBandIとPhilosophischeBibliothekBand291と. (<*>) E.Husserl,IdeenI(JdeenzueinerreinenPhdnomenologieundphanomenol0‑(9) E.Husserl,CartesianischeMeditationen,ァ5(S.52/13).﹃デカルト的省察﹄. W a l t e r B i e m e l , M a r t i n u s N i i h o f f , 1 9 5 0 / H u s s e r l i a n a B a n d H I / 1 , n e u h e r a u s ‑. gischenPhilosophie,ErstesBuck,HusserlianaBandIII,herausgegebenvon. (理念看取)、Ideation(理念視)等も同義の用語である.つま‑「観取」. (2) Wesensschau(本質観取)、Wesenserschauung(本質看取)、Ideierung. (S) IdemI,ァ58(S.140/125).. ティでは「知覚」は限りな‑「感覚」 に近い。. て、高次の意識レベルにおける認識である。しかし後出のメルロ=ボン. 「知覚する」(percipio)とは本来percapio(十分に把握する)なのであっ. (=1) Ibid.p.36.なおデカルトにおいて「知覚」 (perceptio)は感覚ではない.. DescartesparAdam&Tannery,VII,p.35.. gegebenvonKarlSchuhmann,MartinusNijhoff,1976),ァ62(S.148/133) . ﹃D イ S ) e s c a r t e s ﹀ M e d i t a t i o n e s d e p r i m a p h i l o s o p h i a , M e d i t a t i o t e r t i a , O e u v r e s d e. デーンⅠ﹄の頁指示は旧版(W・ピーメル編)と新版(K・シューマン編) を上記のように併記する。両版で異同がある場合はその都度判断する。. S.254ft. (ォ) Cf.BernhardWaldenfels,PhdnomenologieinFrankreich,Suhrkamp,1987,. (4) M.Heidegger,SeinundZeit,S.35/48.(MaxNiemeyr社の単行本とVitto‑ rioKlostermann社の全集版第二巻との頁を上記のように表記する). も「看取」も「直観」と読みかえて差し支えない。. (l") MichelHenry,L'essencedelamanifestation,PUF,1963,p.50.邦訳﹃現出の 本質﹄(北村晋・阿部文彦訳'法政大学出版局、二〇〇五年 ハ○頁より引. いるが、のちのより一般的な用語は「超越論的主観性」である。﹃デカルー. (3) ﹃イデーンⅠ﹄では「純粋意識」あるいは「超越論的意識」が用いられて. 用。アンリの哲学はハイデッガー哲学を独自に深化拡張したものとして理 解でき、現象学的存在論の一つの典型的帰着点を示しているという意味で 興味深い。.

(15) 的省察﹄ では「超越論的自我」が多用されている。いずれも同義とみなし. 間の存在に関する研究は、説明学でもな‑記述学でもな‑して解釈学であ. それは記述学の如‑具体的現実を離れることなく'そしてそれは説明学の. る。解釈学はあたかも記述学と説明学との中間に位すると見なされ得る。. CartesianischeMeditationen,ァ33(S.102/69f.).. て大過ないであろう。. 如‑この事実相互の関係を明らかにする。」 (﹃パスカルにおける人間の研. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 二七. 言うべきであろう。形相的還元は対象面の純化であって、単独でも可能で. 学は可能にならないはずで、固有の現象学的還元は超越論的還元であると. 粋意識に至る「超越論的還元」とに細分されるが'本来後者な‑して現象. ¥co) 現象学的還元は'事実の領域から本質の領域への 「形相的還元」と'純. (S)IdemI,Einleitung,S.7/7.. p h i s c h e B i b l i o t h e k , E r f a h r u n g u n d U r t e U , S . 2 6 f f . ) 参 照 。. 思われる.特に﹃経験と判断﹄第八節(FelixMeinerVerlas︼Philoso‑. 「無規定性」 (Unbestimmtheit)、「地平」 (Horizont)、等の概念に関わると. る「類型性」 (Typik) の概念に、またさらに「未知性」 (Unbekanntheit)'. 個別的対象の 「形態学的本質」 の問題はt のちに﹃経験と判断﹄ で語られ. Cf.IdeenI,肋74(S.170/155).﹃イデーンⅠ﹄で示唆的にしか語られていない. S.147/196)o. 的了解の内に根拠を有する」という消極的な内容である (SeinundZeit,. (Wesensschau) への言及はな‑、しかも「現象学的﹃本質観取﹄も実存論. たとえばハイデッガーの﹃存在と時間﹄では、ただ一度しか「本質観取」. thropologie,1947,S.191.. L.Binswanger,VortrageundAufsdtze,BandI.ZurphanomenolosischenA苧. K . J a s p e r s ﹀ A 昏 m e i n e P s y c h o p a t h o l o g i e , S . 4 8 .. IdemI,ァ22(S.49/48).. S . 1 0 9 .. E . H u s s e r l , L o g i s c h e U n t e r s u c h u n g e n , I I / l , N i e m e y e r ( 1 9 0 1 ) , 6 . A u f 1 . 1 9 8 0 ,. IdemI,ァ23(S.52/50).. K . J a s p e r s , A 昏 m e i n e P s y c h o p a t h o l o g i e , S p r i n g e r , 8 . A u f 1 . S . 4 7 .. 究﹄'岩波文庫版'7七〇頁). CartesianischeMeditationen,ァ44(S.125/96).. IdemI,ァ19(S.44/43).Sehenは (英語のseeもフランス語のvoirも同様. であるが)能動的な「見る」よりもむしろ受動的な「見える」である。「見 える」という日本語は直観の例示としてのSehenに適切な訳語である。 (2) IdemI,ァ48(S. ‑\102).この言葉はピーメル版にはな‑t l九l三年の﹃年 報﹄版﹃イデーンⅠ﹄ で述べられていたものである。 (2) IdeenI,ァ52(S.123/111).「容易に洞察されうる」(EsistF]leichteinzuse‑ hen) の部分はシューマン版では「容易に証示されうるであろう」 (Es. M.Heidegger,SeinundZeit,S.34/46.. lieBeDa]leichtnachweisen)となっているが、ピーメル版に従う。. Phenomenologiedelaperception,Gallimard,pp.83,442. J.‑P.Sartre,L'etreetleneant,Gallimard,p.220/208(旧版/新版).サルト. ルは直観は意識への事象の現前であるという通常の考え方を逆転させて、 直観は「事象への意識の現前」 (lapresencedelaconsciencealachose). ヽ. であるとしているが (ibid,p.221/209)'ここではその違いにこだわる必要. はないと思う。なぜなら、直接的経験としては'両者は同じ事態と見るこ. E.Levinas、Totaliteetlnfini,Phaenomenologica8,Martinus,Nijhoff(1961)、. とができるからである。. M.Henry,L'essencedelamanifestation,pp.55,56(邦訳六六㌧六七頁).. 4.ed.1984,p.273.. 九鬼周造﹃「いき」の構造﹄、岩波文庫版'一八頁。九鬼はフッサールに よりもむしろ明らかにハイデッガーの解釈学的現象学に依拠している。ち なみに、同様の方法的立場に立つ三木清は「解釈的」に関して次のように. の認識を目的とする学問はむしろ解釈的と名付けられるべきであろう。人. 言っているo「現実の理由[raisondeseffets文字通りには「事実の道理」]. 現象学的に考察するとはいかなることか. 26 27 28. 29 31 30. 17 16 15 21 20 22.

(16) ある。﹃デカルト的省察﹄では「形相的還元」は語られず、「現象学的還元」'. あると考えられるが、超越論的還元に伴って同時に行なわれるべき振作で. gebenheit)について語‑うるのは、またそもそも現象学の直観主義を主張. も含意するということである。フッサールが事象の自己所与性(Se‑bstge‑. 性において自ずから成‑立つ‑自己構成する (sichkonstituieren) ことを. 成する (konstituieren) ことを意味するだけでな‑、対象が意識との相関. 二八. 「超越論的還元」あるいは「超越論的・現象学的還元」 (transzendenta1‑. 超微粒子が宇宙の仝空間を満たしそれが諸物体を構成しているとする彼の. 物体の本性を幾何学的な延長にあるとするデカルトの見方は'同質的な. (5) Cf.E.Husserl,CartesianischeMeditationen,ァ1.. しうるのは、そのためであると考えられる。. phanomenologischeReduktion) という用語が用いられるo CartesianischeMeditationen,ァ14(S.71/34). E.Husserl,BriefeanRomanlngardrn,herausgegebenvonRomanlngar‑. Phenomenologiedelaperception,p.VIII.. はデカルトの﹃宇宙論﹄(LeMonde)、ならびに拙稿「デカルトにおける形. 物理学ないし宇宙論の立場での思想と結びつくであろう。この点について. パスカルにおける方法としての直観については三木清﹃パスカルにおけ. 世界の大恩想﹃パスカル・パンセ﹄)よ‑引用。. Cァ) Pascal,PenseesparL.Brunschvicg,fragmentl.松浪信三郎訳(河出書房、. 年、所収)を参照されたい。. 而上学と自然学」(松浪信三郎編﹃フランス哲学史論集﹄創文社t T九八五. Ibid.p.III.. ヽ. る人間の研究﹄「第五 方法」を参照。パスカルは﹃パンセ﹄ではintuition. ヽ. という語を用いていない。voir,sentirの両概念を合意するsentimentがそ. ヽ. (存在論的・実存論的)あるいはexistenzia1‑0ntologisch 実存論的・存在. として直接的に存在する態度であるo このことはontologisch‑existenzial. れに相当するであろう。. ヽ. ヽ. ( E.Husserl,DieldeederPhdnomenologie,HusserlianaBandII,S.58. ヽ. (50 K.Jaspers,GesammelteSchriftenzurPsychopathologie,1963,S.319(Diephan0‑. ヽ. tisch(実存的・存在的)という語結合ではよりはっきりしている。それゆ. ( S OK . J a s p e r s , A 曹 m e i n e P s y c k o p a t h o l o g i e , S . 4 7 .. 在を問う限りにおいては存在者に関わっているのであるから、ontisch‑on・ tologischの対立は、関わる対象の違いというよ‑もむしろ意識態度の違. ( S )I b i d . p . 8 9 .. francaise,Editionsdel'eclat,1991.. (lo) Cf.DominiqueJanicaud,Le tournanttheologique delaphenomenoh. 訳﹃現象学の理念﹄ (立松弘孝訳'みすず書房) の一五三頁訳注を参照。. (lo) E.Husserl,LogischeUntersuchungen,I,S.6.なおメタバシスについては邦. 稿で詳述する余裕がないが、注意すべき点は、それが単に意識が対象を構. (3) Ibid.ァ152,(S.374f.\354).現象学的「構成」(Konstitution) については本. (S) Husserl,IdeenI,ァ76(S.175/159f.).. から、ontologischは文字通りに読めば「存在者論的」である。. 面にこだわって言うならばt ont‑は語源的に「存在者」 (8v) なのである. い、見方の違いに重点が置かれていると見ることができる。ちなみに、字. menologisdieForscungsrichtunginderPsychopathologie,1912).. え「存在的」という訳語も有効であろう。Onto‑○蝣gischな態度も存在者の存. 論的)とt ontisch‑existenziell(存在的・実存的)あるいはexistenziel1‑on‑. ヽ. 的、理論的に見るよりもむしろ'存在者に即して直接的に見、また存在者. ヽヽ. たしかに「存在者的」であるがt onto‑oeischとの対比で重要なことは、学. ‑なってきた。ontischな態度は、存在者に関わっているという意味では. (3) 近頃はontischに対して「存在者的」という訳語が当てられることが多. S.120,S.130.. A l f r e d S c h i i t z , G e s a m t e A u f s d t z e I . D a s P r o b l e m d e r s o z i a l e nW i r k l i c h k e i t ,. d r n , P h a e n o m e n o l o g i c a 2 5 , M a r t i n u s u N i i h o f f ( 1 9 6 8 ) , S . 6 4 , S . 7 4 . 38 39 40.

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