地域研究 第 8輯
へ き 地 山 村 の 生 活
一 西 粟 倉 村 の 場 合 ‑
糟 山 女 事 故 育 学 部 社 会 科
教 室 内 地 域 研 究 会
は し が き
地域研究第八輯 「僻地山村 の生活」が ここに公 にする。レ1つ もの こと乍 ら公葬に際 して とも か く形 忙 しえた音び と今少 し充実 した ものL'CLたかった とい う後悔 とが交錯 す るU
第 八回 白に当 る地域研究 のフィール ド選定 は ,これ迄行 って来 た調査地 の分布 と地元 ,D協力 態勢 とを考船 に入れ ,何馳 一・の討議 と予価 拘頚 を経 て ,英 田郡西粟 倉村 に決定 した。鳥 収 ・兵 Lgfの両県 と境 す る県唖 の村碑菜原 告訪 ねた ころには ,丁度憐東粟倉村 が 「日本の秘境」 として テ レビ放送 で 全国に純された時期 で あb
,
「両舷 把称 」がLtにされていた ときで もあった.兵 JiF県 側 か ら西粟倉入 b‑^JI・した耽 々VLp‑ち ,なにがしか国握D
の凍 いが感 L:られた し .県 北部の近 牧 との柿付 きが決 して拭くは たしへとのET]製 缶も蒔くしたOまた .西菜 食は 「村 有林 の村 」
,
「税金rDL,ゝらなh村 」 とも呼 ばれ .福祉行 政 の進んだ・村 と もいわれ るbそ うしたrjVL'し,耳(/こすることLD爽際や僻地山村 の芙
旗 を究明 したレ、とい うのが‖樋売人
D
した孜 々の食餌で あった。疎胞が 「押旭山村 の生括Jである もの そ うしたPF地 か らである。 J
山村 か辿った歴 史 の足跡,静か な山村に も押寄 せた変 化の嵐 ,そ うした変化 の波 か ら洗い出 された近代化の姿 ,^ 々の流Tr,交通 のTD̲・き ,そ ・)いった も,・Dは どうで Lf)iJ,何 で あった か 。 また .僻地月生民の経所 を支 え る塩菜 と林罪 ,共r‑uル ,協力せ ざるを得 ない鹿 足生活 を支 える血 縁 ・地線 の上に成立つ進僻的艶聞 ,僻土崎 帝,D爽憩 等を もあわせて究P)け るこ とに した。そ し‑) 他 .い くつかの間堤 も研兜テーマに数 えたが ,余俵 ない
T l
岬 でオ ト ットせ ざ,='‑Aijl手なか ったDそ のため全治 の統一 が失 われた購い 弓、あろ( LfJIL,,ともか く ,研 究室か一丸 となって ,炎天 をも,/)と寸、
せ
ず ,衣ヨ如こ研究 した放巣が .この中軸 で奉る。至 らない点は13・々tEるが ,そつ点 に梅 は 7:i:い。 また ,この研究成果 を もとに ,若い学生講習 がさ らql'jjE戟 した成果 をその印兜生 梢 に .教 職生 格に あげ て くれ ろこ とが湖鞍 さ‑Jl・るか らで もある。‑
なお ,以 上の研究 目的 とともに ,fk々か,Lに秘め ,また調査 (・r上って一新
そL ,
3感 を深くLた ものが ある。そナl比,この駒杏が少 しで も僻地 に生 潅る人 々の役 に立 つ も(・7̲)であって欲 ししへと い う願 いで ある。僻地山村 の生活irl厳 しい。それは #
もが口にす る百薬 で ある。 しか し .そ こ に生活する人 々の生活hrそれたHvt頒 重 で あるこ とを忘 れては 在らない.難 しLへ理屈 Ia・こね る 必発 もな く ,拒本的人権 を・持 ち出す必 頚 もたいo同 じ人間 であるFE・り,
同 じ生 活 をエ ソ.}盲イ す る枠利triある。僻地 の生 活が成 しり れば ,それ を克 服 し夜目 九・;ri‑なら‑/i:レ1.そ れに
は穀 虫が 必賓であ り .ポ リシー か必選 である。そ れ を:するのか人間 の凝務 で もSL,る。そ うした ものの‑助 にで もこの軸物 が
な
bえた らとい うのか調査 当初‑か らの念願 で あった。 もし ,西粟 倉 の発展 と将来 に役 立 つ ことが あylW幸 い こJlに超 したこ とは たい0‑2た ,全国僻地 字k両大 会が来 る10月西菜食 で牌かれる と開L,、てい る0第七稗 を差 し駁いて この怨 を先 に公表 したの も ,そのfc,め で あったO 全国僻地教育振 興 の一助 VTLで も怒れば ,それは望外 の幸 せ で ある とい う他は 75:い。
衣か,娘後
に
,地域研 究の ために'と‰力戴 いた当時 の村長 ,教 習 長 ,各学校長 は じめ ,村 民 (Jつ各位に心か ら肪瓢 と御礼 を述 べ させ て戴 きた いOそれ な くしては この番 もなか った とし1って いいo 調査脚r H
l中 .そ うした方々 ,婦 人会 か ら寄 せ て嫉 いた敵 い好意は,粟fTを而 す る冊流 の せせ らぎ とともL/C忘れ去 るこ とはで きないoh ‑iそ れを思 い ,感謝 しなが らベ ンをお.くこと/jrしたいO
参
加 数 官 谷口澄夫 ,虫明g l . ,
藤沢 晋 ,宗m ,米村 昭二審 加卒菜生 紫EEl ‑ ,妹尾幹夫 ,′」、松原文推 ,角南 ,萩原一 之 ,松 本和 男 ,三宅 末筆
奉加草当三
5 5年次生 大森 浩 ,赦gj隆他 ,助Ijを.r唱
5diF次生 や将来 BJ!・子 ,
肢
迎省三 ,慮沢 雅 ,藤 城倍彰 ,塩 FB一称 ,r,q崎光穂 ,・
若狭 腰 .僻耳 裕子 .伊藤 点 ,藤EB一枝 .浜臨宙作 ,山木洋子 , 萩 茸 ,柳⊥政
雄 ,藤原洋子 ,耐独 和子 ,西 芳子 ,純水み ‑,L・え , 松本 もと‑+,
江見蕃誘・ ・ 頗敵
ソー 062
‑‑ ‑‑‑■
次
窮 1牽 地 理 的 条 件
第 1節
辺
瀬 の 地 ‑ 一一・一‑一一‑・一一 (宗EH) 節2節 地 形 と 地 JFT ・,一・一‑‑一一・‑・・・ (角鞄 )窮 5WJ 気 候 ・一一.‑I‑ I (角JU ) 窮 4節 ;yJ‑1 洛 ‑‑‑I‑‑一一一・1‑・(中十九) ‑
箭 2̲T1: 歴 史 的
背 景
第 1節 行政的支配 の沿革 一・日‑ ‑・ (荻野 ) 第2節 交通 ,宿場 町 とそ の変述 一 一一 (施 ⊥d ・
藤沢)
抱5節 Tr‑た ら 生 産 L‑ ̀Ir (:浜旺; )
第 4節 良薬生産 と彪 民の生活 一一一一‑ (藤本) ・= 一一一・‑I 節 5節 近 代 の 歩 み ‑.‑I,‑ 一 L' LLJも ) ‑ 一一一‑‑‑
右 も 5牽 人
口
第 1節 人 口 の 勅 連 邦,2節 人 Lj ,・r) ;
, r y態
言
4号 412 経済
桐 道第 1節 施薬 の自然的基礎 と鹿案経営 (4‑'如 l‑‑‑一・・一一.‑‑・一一一一一・一・‑・・一・‑‑ 156 al,2節 林茶 の発展 と将 来 ‑‑・・‑ ・ (頒LHl 小 一‑A‑‑一一一一・‑一・一 ・一一一 一一 170 筑 5節 山林経常 の歴 史 と共布林野の統一一一 (江見 ) 一一一一一・一一一‑ll‑‑・‑‑ ・・・‑‑‑ 176 第 4飾 山林経営 のi^7態 ‑‑ ‑‑・一一一一‑.‑‑
‑ 一一一
1第
5
飾 林篠 と 村 財 政 一・‑「一・一一一‑‑(ぷ
1180
188
窮 5輩 社 会 柵 造
第1節 家 族
第2節 棟 内 鵬 造 1. 谷 口 部 落 2.大 井 部 落
窮 d章 習 俗 と 生 活 第1節 年 中 行 申
訳 2節 謀 教
第 5節 民 族●の 才.時速
(藤原洋子
・
J繕原和子 )一一‑‑‑‑.‑‑I‑‑‑‑ 207 (商 ,冊水 )訊 7
茸
教 育課,Jl飾 教 育 の 歴 史 ・一・‑一・一‑I‑‑‑ (藤城 )
252
288
第 ユ 章 地 理 的 条 件
>1
) 第 1 節 辺 dLの 地
榊LLI好との束北隅.ここは東方 VCも北方に も突出 して長 くの ぴている。 この地域 に英 田郡の東 粟 倉村 と西 粟倉村 が位過 している。 そ してこの西粟倉村 比東粟 倉村 の北にあ1て ,その突 き出 しかたはさ らに着Lv、 こん な境域 をつ くったの も ,吉井 川 の上舵 の一支 流吉野川 の軽食力 が
!・まけ しく.あま りに も坊 高の 高い この方向にのぴたか らである とし(えそ うである。 それ とい う の も昔か らこれ ま1i行政上 の境界 が多 く分水損 に 上1たか ら,勿冶吉野 川 の源 耽峨 1・あるか ら.
こかCIC合流する支 流 も少 なく ,且つ小 さレも こん な集水域 を限【て
成b
たつのが との村 の地域 性T・もある。 その如 或はほほ 東北西南 vc長vl短形にふ ち どられてい るo そ してそのbJ不敵5 7.6 5平方Kmで .合肝 しないせせで残 ってい る村 としては十 分体 面の保 たれ るだけの軌一札 を もっている といえそ うであるo
l丸上の ことか らわか る とか D.北 と康 の隣接地戒は腺 を具 忙 し.それがまた極めて高峻 な中国 山地の尾根 とい う除塵 とたってい るので あるか ら .た とえ境 は接す るとはいっても .生活壁 櫛 比1‑応村境で阿 られ たかの感 がないで総 か へC.いわは か しこめ られた ようなところ7'あるo す なわ ち北方は息衝 搬八 窮郡智頭町 71.酉 穀倉の北端 の主 賓塊常 であ る坂根 か ら羊腸 たる道 は坂 とトンネル1'志戸坂峠68 1かをとえ て雅人 の境 を行 くこと約4 Knでや っ と智所の肋帰 の錨 啓 のは しに逮 することがT・き .また東北 の も1 とも突 きだ した ところを鉄山 とい うが.ここVTLた た1戸 も‑た人家 もいず1'は なくなって .新 田か ら吉野川 の源流 忙 うて .これ また この村 内 で も も11とも長い里程 {),触入城 を相 場七 で進む こ とvtなるが ,この間 約7Km.そ して ここの峠 を 若杉綿 といい標高拭 ち) うど1 0 0 0机である。 これからT る道 は静めて急坂でか なし く息衝 殊八両郡 の若桜町 吉川に遵す るo こ・7)下
b
坂 も約4KTnあ る。東方は兵鵬県宍粟郡千 租町 で .こ の村 の北部 の大茅か ら東方 に谷 vcそ うで息 な山道 で約t D 0O取の峠 をこえ約 6Kmでこの町 の 木地山の姫落vc連することがで きるo 県外忙け このように一応 ど うして も高い障 壁 をこえ なけ れば ならないが .県内 では膏野川托そ うて下れば .少 くともここ よb
は水 田のひ らけ た平坦地 の広 くみ られ るところにで られ るO すなわち光 に茶菓倉柑 (面相 2 aO4平 方Km) ,南忙大 原 町 (面・flL54・9 1平 方Km) .また西に)勝田郡 の勝 田町 (面杓 8 占.0 6平方 Km)が地つづ きvcこ の村 を聞ん でいる。さてでは この村 か腺 の中心部 市 岡山市 とどん な他 珪幽係 yEあるか ,そ れを単 に距雌的
忙
たけ し ぼ って考 えてみるこ とに した らどう1・あろ うかQ まずバス通 路 を利 用する となれば .帆山市 か ら西米倉 のせん なかまで林野 経由で約 9 0KJqあるOそ うする と開山 からこの触こゆ くvEは .ど ')して もゆ')作5時間 を襲す るこ とycなるO・‑ 2‑
この ようvc5時 間 もかか る とい う2地点 を結 ぶ交通 織鮒は バス だけvcた 上るとすれば.1日 に何 回 も便 が をい。特 vCこの地は既に述 べ た ように交通任 か らいえば ゆきづま りの ところであ るか ら ,岡山IT乗車 した客 も次前作へ って .終 点 vcつ くまでvt拙い な くなって しま うよ うな有 様 であるoそん なわけITここか ら岡 山‑ rL)1日牲 gFとい うこ とはほ とん ど不可能 に ちか レも わ
^・′■
れわれがこん な不便 な交 igi庫 の ところへあえてゆこうとす る功合vEは .山陽 線で兵 庫県例の上
ご 与b
I 郡 tでゆ き .ここか ら大崎行のバスYC乗 って ,乗 りつ きで ここまでは い 9こむのが普通 71あるo 多 くの脱IT'バス交通 は便利 になって 重たが .腺 をつ ないで {)連絡交 通 とい うものは また汽車
ほ
どI77は な く,バス会 社 も県単位に営業 し ,それが県の中心 都 市か ら放 射状(I‑過 行 しているの か 一般のすが たIT'ある よう1・ある。その ような とき.ミス掛iこ9)中心都市忙 ちかいほ ど使利 で回 教が多 く'中心 都市を中心 に して同心円状 に外方 ycむかって不便 で回数 が少 くなるもので ある。
そ うした こ と各考 えた場 合
に.
仰 山腺 の 上う忙四角形 の倫
恥を した搬 IT'I.A:,この日 角形 の か ど にあた るところ(・i ,同心 円 の円周か らはず され た位虻
veな らざるをえ ないのIT'ある。 それがiL 部 の山奴地方 となれば 自然ycそ うなるといえそ うであ る。さ らvC考 え なければな らない こ とbTt.軸 ヒ方 向の‑だfLbと ,地形的 とのか らみあいで あるO との地が榊 山腹で ももっ とも北 vcよっているとい うことと .岡山船 の地形 の磯城が北 vr漸 次高 く
雨
vc漸次 庇い .その北 の一番
論い ところ とそ の軸斜 面を うけて Lへる といシことであるO との ことはい せまで述べ た ことの 夜かvCも朗係は してい たのでは あるが ,このこ とをそ れ よ り別 f3: 麻か ら考 えてみ なけ ればな らない。そ の別fE面 とい うのけ
,気 仮がちが うということ1'みる。触
yc
ついては別 に項 を設けて詳 説され る灯すであるが .ここT・拭単 yc位鑑 と気候 の耗 ひっけ だけをのべ ることVこ止り る.岡山凡 で一般忙いえるこ とは .北 にゆ くほ ど気温は だんだん とさが 9 .降水止は反 対V(Cだん た ん とふえ るとい うことであ る。 この こ とを盾vcとってVlうならqjl:.西粟 倉は 仰 山鵬で(ri平均気 温の‑葡低 い ところであ り.また降水
i
lは 反 対に一番 多 い ところV'Cあた る とい ってさ しつかえ fL・いので あるo Tfた中国 JLL.方の南北帳 か らいって ,分水牌 があま りvcも北忙かた Lっているた めに ,息衝 侭の舶北編 に比 して,岨山県の南北鴨は著 しく大き く,その ためvC瀬戸内式の気 候 は ここまで47̲i及ばず ,かえって 日本海 側 す なわ ち山陰 の気候に影響 され るこ とが大 きいのであ る。棚 され ると仕い って も.E7uS'沸所走 す る中風 の耗vb敵瀞 の*̲め .冬 の季節風 に とっ ては 風下であL とい う点は ,この山脈 の北側 yc捷 す る地域 とは全 く対 し1う的 であ る. だか ら曽 vC 見舞れ る といって も北 側の谷 ほ どではlrvb そんな ことは この地方 vcとってせめて ものを ぐさみである といえ よう。
‑ 5‑
こんなこ とが あ1てか どうか ,この九峨 比 山i:こえ たす (‑の山陰側 上川 ・い くらか健位 の感 仰 ・Cか られ ていろT'1Fあるo だか ら縁組 な ど1・Ll」即 妙 らここvC扱い 1・くる もの はい せ も少 く
‑
jlい ようである。勿 論山陰側 だけ に つい て考 え た ならば ・北例 の LL肘 か らは ・さ らIh=北 の 日本 摘 草地方 にゆ きたい ところで あるが ・それにつ い では このをた りが また またいい ところ とい F) 気持 らしい。
僻地 とい うことばが ある。僻 地教育 とか ・僻地 踊発 な どと よ くつか わか るo この こ とCJJlKつ い て考えてみ る と,この項 でえ らん だ辺組 とい くらか ちが クエうな気 力す るo辺蹄 の方 は多分に
l.. rL^l 拒幽 杓な塩 味 が あ),1が ,僻地 の方 は必ず しもそ うでQItなく ,よ くいわれ る A虜 の田 針 も僻 地 的 TE意味 も もってい るの‑T,比 たか ろ うかっ よ くV・・われ る僻遠 の地 とな れば辺 齢 と似 か よった も の にはなるが,僻地 と僻遵 とを同一視す るの忙摺 らない とお もう0 1・は僻地 とは どん な ところTf trJ.I:.うかo これにつ いて稚 ‑%相次の ようL{解 釈 す るのがだ当では ないか と思 うo す なわ ち僻地
き L‑>
とは 他地域 と文化 的交流 をた った封鎖的 地域 7暮あろo こ う考 える と桟 敷 つんほ の J:うそ状始 vTL たれtlつ,とこで も僻 地 に な りうる,I)や あるo t・三か ら僻地 とい うIL)は 自然条件 よ
b
もむ しろ社会 条件 といえそ う1・める。勿論 そ の ようた社会条件 か・13・きやすい 自然条件 け ちり{)るO日本 とい う土 地抑 毎梓 だけ‑ほ bつい た ようにわずかばか りの平野 があ る7とけ T''山がちの 土地 であ り .そ して この山地 vcくい こんで多 くの谷 が発 達 してお り 'こ現 車はい さ・1,‑.い盆 地 々 形 をつ くってれ も。人 の居住 は だか ら大 女 D小 な りかか る魚 地 と とにグ ループ を';r・fしている と i,‑.えろ。文化 の あせ り発達 しない時代 は かか る
免
仙と と,D生活空r H l .
K脹 られていた卜げ で ,か か る生活 がながく続 けL',I. こ こに盈地根 性が生れ る もの であ るo この盆地根 性は 自衛 的V(‑一拙 これi・てづく教役立 って きたが .そ れが だん だん ゆるさわ な レ嘲 代の よう‑fLl社会 仲野にた ‑ て くる と . 抑 出的 vTLな i),封建 的 を もの となって くるO 現今 の町村 合併 などで地方 自治体 UJ地城 1I J・拡 大 し
て くる と ,そ うい う慾情 は な くなって い いよ うyt思 われ るか,かえってそfl‑が全 く反机 /こ,Lみ かえ るかl′こみえ るの で あるO た とえば地 方誌
日
払 噸挙
vcあた1 て ,どう して も各部 港 ,あ るい 相 月町村単 位にそ れ を速出 しよう とす るの であ ZJOそれ1・出 て きた講貝 とい うのはだか ら各往 ,または各盆 地 の利 茶代‑衣 の ものたち7.ある.,そ う
‑/Lる と小 さ く考 える と議案 yTLして も議員遊出地域 こ とに利害 かあい反 す る とい うこ とが多 く , なか なかせ 7Eい紳域 社会 ・T・も利 がた もたれ か ′・とい う結果 に なるoそ う した ことを考 えてみ る
と .この村 ()と と く.粒近の合 併かか こたわれ 攻か11た村は ‑まだ まだ 昔 をが らr)平 和 がた もた れてい て .突 vcLあわせ である といへ ようo IJは いつ‑1で もこの村だけ の こ とを考 えて ガ ・ソチ リやっ て.かわは これに こ したこ とは Trい とも・もわIL/L:.か も知 れIjkいが ,実はそ れがゆ るされ た
‑ 4‑
レ、現今 であ る。 だれか がい ってい る よ うyTL,みん なが しあわせ に な【 た とき本 当 の しあわせ が ある のIT'け なか ろ うかO も しそ うとすilけ広城 行数 を丁す め るこ と・・'d:・せ ま噸 に と じこ もる ことをだん だん とな くす ,5ことが で き .い わゆ る畔地的 を性格 が うす らい1‑ゆ くことに な りは し禄い1Lあろ うか. もしも行 政区 所が どうして もと bZ)け らか たい とすれば .次第vt周長地域 と協 定 してい ま まT'い‑,た ような欠点 な とりのそ きやす い よ うな施 策 をお こな うべ きで あろ う.
これに は7j:ん といって もそE,地域 の1人1人 か小 をす てて大vrつくよ うyE努力 したけれELi.'走ら ない T'あ ろ うO い くら交 也 を倣 vcして くれ と陳 情 した,か ら も ,わが地所 がた とえ わずか で も果 いあげ られ 工うとい うこ とt/こたる と .美 向 か ら反 対 を となえ るとい うの 1‥ ,いつ 171た った って僻地 の汚名 か らのかyLるこ とはで きか ・、Tr一与ろ う。 いせ・Dと ころ この村 は辺純の地 でも b
僻地 T'ある とい1 た感 がふか いO (宗田 )
第 2 節 地 形 と 地 yl
a'異食 村は 中国山地 の井部 に存在 して
お
9,村 の‑1番北 側 を中国 山脈 の分水嶺 .す 表わ ち梁 妙か某 所 rL走 ,h.その分水 桝が鳥取 張智田 町 と西 粟倉封 の界 となって いるQ そ して村 の東部 は 中国 山地 の背 楽か ら枝 分 れ した小 さた架 線が 軒 FLで氷 島 山 ,駒 の丘 ,‑LLつV(I.は 行蕃山 へ とい た一,てLnるoド・‑]じように村 の西側 に も中国 山地 の背東 か ら枝 分 れ した小 さ な脊梁 が 南下 して V,ろO従って こ仁林fは北伊.:を中 岡 山地 の音
l R
vCよって .東 西 をそ .11か ら分 枝 した小背 梁 vcよって かこすれ たせ ‑まくて細 長lハ盆地状 の地形 とff‑・,て か ij,その南北 Vこ細 長 レ†盆地の中央 を吉野 川 か南 V(中風山 地の山坂 付近 の水 を批 めて打 卜してい,77.。 その吉 野川 が この村 とこの村 の南蔽 b 'j)大蛇町 との界 の付近 てJ・あ る筏 称 ITtは 卿 西C)山丁そ がたがい VC撒近 しせ 青い 水狭張 をつ くって かD,船に東洋 で壮 ここに果昧 をかひた堕 岩があみ出 して Lへる. す たわ ち危地 は一応 ここで終 っ ているので あるo この 後地 象・上か ら見る と.TI資柵 た い容器1°ようた ものが化 か ら南 の方 vCか たむ き ,その‑ 都 民い南 q)端か ら水か流れJlhで Lへる よ
うv
C見え るであ ろ うO こilは村 の 中央部 で谷 がひ らい て南部 でせは ま1 てい るか らIT'あるが .なぜ この ような地形 に なった か .そ の牧 田 を池野 との蛸係 71考 え てみ J:うO村 内の東 側 を除 vlて の大半
( ・ i
lE
髄岩 でT・きでか ̲h (ここL!Ti'掘出 して L^ろ花 餅掛 i石英 '長 石 ,避 母 か らな る普通 の花
尉岩 と少 し異.D ,柱状 f)結 晶 を した角閃石 も含 む .倒糊
E蜘岩 である。 )この岩 石 は造岩鉱物 の粒 が火 山岩 芋 とちが って大 きく ,そ のため気風 の変 化 に対 す る各 鉱物 の脱酸 がお と りやす く .又長石 は水 が くわT3って粘 土 vcな bやす い鞍 .きわめ て風化しやす
い岩石で ある。 そのためこのイヒ尉岩 177で きてい る場所 総花 kJl岩以 外 の岩石 でできてい る場 所 に 比擬 して風 化 かか な り早 く進 んだ鮎娘 山が くずれ て よ9谷 を・広 くしているのであるO ところが 筏坪の付近 たけは花 餅岩 と ちがい,風 化 ,侵 蝕忙 きわめて軟 い ・ホルン7 ‑′レス とい う非常 vT‑ かたい熊紫 の変成岩 でで きてい て .V,わゆ る差別役食 がおこなわ れた もの といえ るo
ここのホルンー/ ェノしスはか って古生 代vC雅VE堆 和 した水成岩が地圧 忙 上って粘 片岩 となり・そ れが中生代 にi'‑・ける中国地方一円の/7E払岩 の犬打人 の際の勅に よって変IiTした もの 1'あるO こ の岩石は扱蹄の付近 だけ7.は なく ミソギ峠か ら南方駒 の丘のあた
b
ま1'広 く分布 しているO従 って この村 の‑bk例 の山の中版 より上の方はほ とん どこの岩 石 よ JhなっているOそ して駒 の丘 から・さらに西 に向 って帯状 vt見出 してお 9,枚津 の ところで富野 Jll%横切 ってその西方 に ものひ ・■ ているOそ して この ホル/ フ ェルスの姑出 してい る域 の北側 はすべて花 梅岩の数 日となって い ろ.牧 津の ところで吉野川 が水狭除 となってい るのは このためであるQ をLl駒 の丘 の少 し北 7,i,Cは郷岐 山 と同 じようを安 山岩 も見 られているo このほか よ く辞意 してみ ると筏津の付近 の 僻 で一部分 では あるが ホル/フ ェル スのす ぐ北側に耗紋岩 の取 出がみ られ るoここの流紋岩 (rn 色に近 い もので .化御名 と棲 している邪 卦では 流 親 告は敵剛 こ且 つ変質 して いる ところ も見る と .花 樹岩 よ りも流紋磐 の方 が早 くあ らわれ
,
批統轄 のある ところ にマグマが付入 Lて ・ そa)マグマが かたま1て花
梅岩に なる ときの掛 ⊂よって姑変質 を受け た もの と言 えよ うO なか 志戸坂峠 を南 vr下 少て小才 田の方 ・P:曲 った道 の例 の掛こ粘版岩 .氷晶山 の付近 に玄武 岩 の#出 か見 られ てVlる。 なかこれ等の岩石 は河 原の陳 の中vr‑も見出 され るがイE
催店 の陰 に比較す る と その 政 '/i少 か ( .な.かこの村 の地
質 は大部分化
尚宕 である とい うことは後述 する 「針穴 地形」
I,I,るいは皮
装
vc触係がある。Fll提ItLI地は吸飲 の梅迫 か らい1て壮年期V'CあたるO昔このあた Dの土地 が しだ いに旺起 して 一 そのため
に
川 の下 刻作用 が始発 となって,
川はそ の日陳 をけす b祈って しだいに谷 を疎 くし.土地 ・がUL乙L''/.'llれ た ような幼 年肋 とな り.平鮎 な
l
LJ頂 と谷,●急な谷 とが形 成され .そ して谷 の川 仁上F
刻作Jflを止 h・)て ;I,こyCは谷 を広 くする作用 vc移 9,とがった山頂 と.なだ らか なすそFFと . そvjようfL山Vこ.ilて虻さ せれた広い谷 とか らなる壮 年胸 a)地形 となるのである。中Lji]山地に あろこT,村 の地形 も当然壮iFlylの地形 とたるの であるが .この付近 の山 の形 を見る とあ1 9高 いともP.‑えず ,‑fJの様
vc山原が とが ってはい ないO山頂 のほ とん ど(ri'円味 な持 ち ,ミノギ峠 の 楠で仙LJ頂(,i平坦
vCさえ なってvlる。中国山地が
壮年期 1.あ b夜か ら ,なぜこの村の地形 は山 頂か まるかったり ,i
他 1・あった Dして壮年期の特徴 をは っ きりと持ってい ないか とい うこ と T・,Ir・ろが ,そ れ(riこの付近 の地形が いわゆる弼壮 年畑 では 売:くて早壮年 朗 であろために幼年朋‑ 6‑
の名 と 少と して山頂 vT‑平坦部を残 してい るのれ あ るいは もう沸壮 年 朝をす ぎて老壮年 期 とを 9・か って とが っていたLLI同 比風雨 K よってけず られ て円味 をかびた 9 ,iF.
i l l . 化
せ7・な‑,fc.と いうことyCIL・るo こZ)村がほ とん ど風 化 しやすい
花樹岩か らなってい る ところ を考 えれ6
‑r
.とがるべ き山頂 が風化 しやすい花樹岩 の故lてくずれて老壮年期 の地形 を示 している と考 えて も考 え らか ないことけ なvlo Lか し谷 .山稚
.L L
膿p l
百を移 Lてみる と,奥 津等LIC見 られ る壮年期 の地形独 得の広 い谷 .なだ らかにひろがってのLTiZ,す そ野草 ttここ7'は見 られ たい。 ここの谷 '竺個 は沸 ,老壮年期 の谷 としてはせ1 く ,そ して谷 の斜 面の傾斜拙 Il原付 近か ら山鹿 まで平均 して息 ‑F,中腹 と山赴 T・もほ とん L'変 っていか「。す なわち谷 の傾斜由比山頂 付近か らそ の角 度 むあせ b架 えるこ とた く息 角唯 で谷底
平野 に席 ちているo こ.hを模式的に図示す る と左 図 の′ へ J i
‑‑‑ー̲‑̲一一
/
二 旨壮 年 胸 cc・谷
l i Z S
\ \
\ノ /
こ D
Hの谷
∫ /
よ うた こと一,CIJとbその形 : の特徴 が よくわか る と思
うo す なわ ち吉野川id'ま たあま 9谷 を ひろげ ろ作
用
を してか らず .従 って谷は
幼 年り桝の名残 l)としてJJ・,急傾斜 とせ せJさを保 ってVlると言1た方が妥 当 と思 うO 従 って山頂 の円
床
,平坦さ は
幼年期の名残 Dと考 える方が よく,こa)平iil面は 前述 し.た ホJL,ンフェル ‥くよ()ころ ミソギ峠の南方にかいて見 られ .ここ:・,+ 山頂付妃がホJL,ンフ Itルースのため差 別便 蝕 に 上 ,て平坦l l l
iとして残 っ てい るのでも ろ。 以上の ことから{̲()付jFiの地形は 早仕年期 の地 形 と考 え (っチl̲るC.この付近 の山 の形 と してなだ らか な すそ即 がrJ.い とい うこ とは谷 底平野が ち7tbに くない こDi地
先の必英lてとって好 ‑ましい ことで は なか ろ')ol
l」の斜 BTn
が急 内積vTL谷 底平野y
(T寓 ちているために加地 として利用 す る土 地triは と んとないQ との村 のせ ヰい谷底 平野の全王伽【水田とLて利用 され ている。中国山地 では批 地 の 多V・吉備耗姉 と比較 して九・般vr‑Lftb利
和 の.I.rrPLr水m
の串 rj・祇 い方であrJ‑/'',この対地削・iど加 地 D見 られ ないむlii L '
・)tヱらしい ことと.
y う。 こLTJ柑‑Pはほんのわずかの 自給 用 を除V.・て鮒作物 の栽培
rLt皆撫と
言って よい. 他の土 地か らここへ赴 任 する学校の先生綻魚 よりも野弛,こイこ自由 するのでは たいか と思え る ('らV,T・あるOこの 上)を地形は放牧地 ,牧 草地 と しての利用 も困・#で あ り,酪 曲 が行 なわれてい る この
村
rCとって牡 ,自然(・iち1bめ ぐまれてVlない とL.p言え上 う。すそ野 がほ とん と'なvlとい うこ とは
j F .
忙 自然 たけ に掠囚 した ものといえ ない面 も多少 ではあるが考 えてい い よ う‑rtあるo 地形かせだ苦いか らといっ て も・山 #・7'は上 か ら化 鰍 岩の風 化物 が くす れ括 ち{下 にたまって焼.mかか な り形 成 され 畑 土た らl・1/(まず77
. をb
・それ‑/J呪 られ
たい去 って しまった もの と思 えるOそれは 昔 この
地峡
に栄 え てた 「た たら」 と言 われる製鉄裳 のた め1]あろ うO
「たた ら」 では花 梅岩 の風化物か ら磁鉄鉱 の砂鉄 を採即 して .それ を一腹料 と して 鉄 の生薙 i・していた もの であ る。砂鉄 を採粥 す る方法は風化L.てほ ろほ ろに‑/・・った化掛野モ ' それが くずれて砂の ように 夜1た ものを くわ たどでけ ず り ,それ'Ai・水臥 して誰い磁鉄鉱 を分けカ ン ナ
ち,a‑(・あ るD これ・
. i 「 鉄 穴
流 し」 と言ってV,るO密 す るに鉄穴 は砂鉄 と採取 する場 所の こ と1' あるQ肯け この砂鉄
互LJkLl・熔 して鉄 を製造 した もの7;lあるo鉄穴 を稼行す る と・山は風化 した や わらか い ところたけ人工的 にけず b取 られ .風化 ajか くれたかたい岩 石 の部 分krけず られす 忙残 され ろため非常 l′こ凸凹 した不 自然 な姿 となって しま うo これが靴 尺地形 であ るが,
この地形か,仁.比帖'(JE雨の多い .化 軸岩 の広 くp買出するq
咽
山地にはいたる ところ77見 られ .見雌わた 人 で・あれは一見 してす ぐそ れ と気付 くもので ある。 この村内Tc'Vi段 ,新 田部落の北側 yTLげ っ き りとした鉄穴地形 が残 され て.・Btり,そ のほか ,村 の北部 では この地形 と見 られる山 の形 が敏 か 所在在 Lてい るoL
m述 した この谷底平射y(.は摺錐 の発 達が見 られ75:いGL)は この鉄穴 を・穣 行 した 解 き托 ,けナ 卯較i
) すV,輔錐 の全緋をけす ケ頼 って川 に推 してま1 [(ものであろ う。従 って こ この地形 と してfLlナそが見 られ ない拐個 の1つ と して人=的 なものも考 え られ るわけであ る,.I「鉄 尺地形」 Z)見 られるす
ぐT
,r:lrlよく棚 田か見受 け られ るo この紡穴1 班
壬の
‑F忙見 られ る 棚tflQi皆 通の概斜地 Id̲段 々にけずって石狩 を きづいてつ くった ものと・#・少,
脚 に 右左C1.む きす いてふいて鉄穴 か ら沫 れて くる多冊 の紗 を この中 忙 たが しこん F平 らな土地 をつ くった̲もむ 1' 圭一るO こ,Dよ う'/E榔 刑を rbl己しこみ 田」 と言 ってil:り ,これは夏 vtは普通 水田 と して利Jf=ノて いるが何 分抑 しこみ相の土 打鍵 い ところまで砂ばか りなので棚 田Z)水はその砂 i・池 i;こ して石 垣 9:)す き帆か らTのEBに落 ちて しま うのIT;あ るO このため 「流 しこみ 田」は水持 ちが無 く.舵 料 も多 く必紫 7 あ 9 .しか も稲 は秋落 ちす /1とい ')/j 点があるの‑P水 田 としての利別に 蛇的灘 か多い 上うた。 しか し 「流 しこみ馴」がつ くられ ている組 成rJ̲一般 化排他 か不足 してい るところが多く ,そZ)ため 「流 しこみftl」 /JJほ とん ど/ML(田 と して利用 され るの1・あろ うo村 内でkt こ
の
「流 しこみr l l
」 と見 られ る棚 BJが小 才凹 か ら段 化かけてか な9見受け られ る。申 E3il山地 を流れ てい る河 川 のほ とん どは河岸 段丘を形 成 している.これは地場 が降起 したた めVC川味 の‑部 が川 の下刻作 用に 上ってけず られ て ,そ この部分 だけ が低 くなって も との川味 の一一一部 か‑段 と水 面 よb高い位
虻
に残 された ものであ るO この河も圭段丘 が この村 で も(‑i‑,き 9‑ P.‑
と見られ る。吉野 川 は旧 川東 の谷 底平野の‑部 を下 vC侵 蝕 して平野 よ り も一段 と庇 い ところを 流れ てい る。この村の谷 底平野 全休が旧川禾 ‑T'あ った ことを知 るVCは耕地 の喪土 を少 しは が し てみれば よいo川の伽が多 牡に 出 て くる ところか ら .そ こが かって の川蘇 ・Tl川 が流 れ ていた こ とがわかる。段丘上は砂や録か多 くて耕 しに くく,しか も排 水 が良 いた め一般 に は畑 加 と して 利用 され .あま b耕 す ことの必嬰 とされ ない樹木作物 な どの栽培 が行 なわれ るの か普 通 TIある が .ここでは段 丘面は全 部水 田化 されてい る。従 1 てここZ)水 田の表土 は「股 の氾濃 原の場 合 と
R.
9 ,きわめて洩く2 0chl程 欄 所に 上る と手半分の深 さ, 10cJR余 b Lか ない とこ ろ もあ も そ してその表土 のす ぐ下 は砂 .軌 とな1てい るた め水 Ef)としての利 用 は・内藤 が多 い もの と 考え られ るo段 丘 面を水 田 と して利
用 した場 合 には‑ 殻 の把握 原の場合 と比較 して耕 しにくく
水 持 ちが悲 いため肥料 も多 く必零 で稲 は 「流 しこ丸
田
」 の吻合 と同様 秋落 ちす るとい う欠点が あるo Lか しこの欠点 も山刈 b草 を投入 されるこ とL,I(上ってか な 9土地 改良 さ れる もので ある。こ この段 丘 敵の川 の水 面か らの 高さは2‑ 4孤で
旭川 .
高梁川 の上流に 見 られる50‑ 5 0九
に逮す る高い ものは月 られ 溌いO一姫
忙吉井川水系L
/Cは 応い段丘 は見 られず .阿
山 鵬の三大 P.TJHの水系の うち ,西方 vCあるlfR‖lIE・'it'高い段 丘が見 られ .東部 の 鼓 丘は低 く .その数 も少 い。吉井川水系 忙 なる東部 の地形 は一 般ycか とtJし く日の侵 蝕力 I.i西部 の高梁川 繁忙比 較 して翁 々 しい感 じを受 けるO これは妨I:東部の地盤 の隆 起廿か内部 化 くらべ て少 食か っ′こもの と思 え ろ。
だか ら昔井 川の 支流
KV l
戚瀬 川
vc見 られ る幼年 地形 ,新庄 川 に見 られ るは っ き り した河 岸段丘‑
Sは見 られ tEVIQ一
班に
川 のけ じめ ころ川休 は 凸凹 が多 く水 は.%流 となって .いた る ところ滝 や楯 を生 じ.そ の地食 の凸凹 をけず1 て川床 を下方y
t床め てゆ くこ こJLな状 旗 も侵食 の神助 で .この凸凹 の川床 が ため らかvC‑ つ の曲 船の よ
う
・Kな る7E‑7'凸部拭け す られ .凹部 は 若干 うめ ら れる まで忙 なる ことが あ り .かか る川 lTtlr1位允や逆薮 は.‑1時倦止 され るO こん な川 で水は すべ るが如 く流れ .連破 も単 に水力 だけ1・な く斜 融の上 を ころか るvT̲ひ と しくなる0 台lTflLLが ほほ この平衡状 態に あるo ・また割与川 lの流域 ,特 にそ の上流地域 忙 あた るこの村 の段丘 が非 常vt低 い とい うこ と ,言いかえれ ば川東 が浅 い とい うと とは若干 人為 的 な原 因 も考 え lれるO それはr鉄穴流 し」 r⊂よって川谷 に多 ;,tの砂 が統 しこ ま]して茂 くたった とい うこと1'あるo
Lか しこれけ 川の侵蝕力 の弱 き とい うことに比 べ書lは川 の淡 い 雌 としては小 さい もの'T'あ るo 段 丘 融が低 か1た とい うこ と.川 がほ とん どまっす ぐに流 れてお りそれ が 戸板状 態 に あった こと .言いか えれば 書軒川 が捷助力 の 点‑T'̲tLとモ しい川 で あ1た とい うこ とは昭和58年7月 F の集中鼓雨 忙 よる水 害 を大 きくした般大 の職 でもろ と言 え ようo 水 音 のあ とを見 る とつ きの
こ とがわかる0
① 川 の傾斜 が50 ぐらいの急 なところでは川捕 托 せせ くて も7kI‑cft'‑は な く・反対にIJle)悼斜 が 10 ぐらvlのゆ るやか た流 れの場所‑T'はJl14割.t広 くと も大 きな害 を受け てい ろo cZ) 川 の攻堪斜
軸
p,Cあた る段丘鮎 の部分はほ とん ど侵 蝕 をはげ しく受 け てこわされ てい るoQ
)川 の琉斜 が急で なvl部分rLおいて轄攻 撃斜 面たけ1・な く段丘面v
tIかいて広い ところでは 幅 1 D D九にわたって水音 を受 け .中土居 では ,あらた忙 ITきた川 は:旧段 斤面 を奔 流 す ると とvtたったO
そ もそ もr,I‑1岸 段丘は一般 の氾
濫
比 と具 わ ,侵 蝕地形 17'あ1て .段丘上 を氷水 vEよ・1て洗 れる こと(.・iないはずで ‑)るolnT梓 段丘 としては例外 に摘 する もの と言 え よ う。 この よ うに水音 が大 きくZ1ったのは 曹野川 が庇櫛的 Tt; 平衡状態の川 IT'あ るため ,一一度 に多巌 の繭が障 る と流水の ス ピー ドけ い ぐが上 Vこもヰ して .少 しで も川 の曲 っている部分 P仇 大きな醤 ‑,i受け るこ とに なる0‑1た7'‑i岸段 斤.が低か った とい うこ とも ,その段丘上 を触 られ る鹿央 と在ったO す なわち吉野川 の樫他力 か弱‑/ull たためV:今度 の ようを場 合 に大 き,3:水着 とな‑ た と首 え EtうO ここは 中国山 地てあるため忙水
村沖
棚平野 の よう1E世相作 Jnはせず .反対 V‑C段 丘上 の太 珊の発土 を旅 し去 っ て し‑宏一,たのr あるoこの 上うな地域77は黄土を
Hl'.された毛B /
L叶を元ej水 田vC在かすためには . 大変な ことと思わi・LるO た とえ元の姿 にたったと して も相当丘の堆 肥で も吸 入しか (か き り反 当収iiiは多 くな ト IVlであろ う。尊す るt,・1,急 を洗 いLhにか こまれた この村は .一般 に想像 され る 上うな ,間曲か ら純れ こん で推称 称するよ うな盆地では た く,illt水 で掘 られ運ば れる ようなものはみん な触 られ運 ばれ てこの後 tg.1外 ・,/‑C失 われて し‑iって .この猛地底 にみ られる もの とL^えば .とろ とろ した飴 とこれ
に
括接 Dっていろ うすい腐噂・,i‑L'け た といえそ うで ある。 去 る集中穀雨 であ らわれた山 くずれ で松林 が 純色の岩肌 をいたる ところみせたが ,誠 vl̲R士 は木の根 を板 の よう忙は らせ ていたO(角南
)
第 3 如 気 候
窮 1二度は岡山市 と大柳 '古町 の 日平均気温 と日原高男温 ,日射低気温 ,降水Ji.i.を示 した もの であるo
これ忙 よって瀬戸内気 供 と腺北部の気供地域差 を比較 してみ よ う. (注西粟 倉 の軒料 が たい の
‑ T s
・位選的忙大差 gL)ない古町 を選定 )日平均気温 を比較 してみ ると1 1月. 12月 .1月 .2 月に爪北 粗ま2‑ 50c底vlの!‑1内陸 に あるためだ。‑ 10‑
第 1 我 気 温 .降 水 駄 (絹和59年) 岡
山地 方 気 象台
岡 山 古
町日 平 蝋 温一 議 三 転 義丁 硬
焼 栖 E平均気温
日軸‑高貴 温瑚 量 低 劣
温 T冊水 止犯4 8 0 1. ,o
o.1 Bl 70 5. 10
7.5 0h L ‑
1. 5
0 1205 . 0 7 . 8 .
‑ 1., r 751
5 5.1‑ 2 . 5
99占 . d1 12 , 5 l 1
4 51
5.0
10.10
1占41
7 . 1 2 2 . a 12 . 5
142
16.0
21.5
1〔18 229l B . l 2 5 . 5 1 乙2
49 17.5 247
9.9 712
1. 2 2 占 . 5
1占.占 171 2〔15 25,7 149 2占
82 7
.0
5一.8
22.9 156 26.2 50.8 1 22.a
24占282 55.6 24,1 8lI 27.1
I
52.4 21.?
180 25.5
2a1
19.5 175 22̲1 26.Lt 17.A 5CJUl 1 d 0 . , 5 1
2217.̲n U
1164 1C25〔ーI 158.2.4141
2CL4 1n12 . 8
18575
古
町
.lcせ い て1‑ 2月には鞍 下以 下Z)日かか た りもろ E.とは 日舟 塩気脱
化 よってで も明 らかV ‑ C
出来 よ う。 一 方夏の気侭 は大差 は たいO 例えは柵 作 で阻抑 えは 6月初 旬 とあ :・至り早く
夜
く ,Li]Q 廟 の点で も早稲 の紬 ‑Jあ 7tb多くを く1
3廊 22号か 圭休 となって いる。 しか し収 止抹館士 が 伐 いこ と ,繭水 が多い こ と,日照 時 間 が少 い (山が 編いため )良:I.11少 か J気泡
に1,11ハて比冬 期やや底いだけで大義は TFい。しか し繭比・,{かい てkiか な りJ)地域差 か見 られ るO 刑山 IT経 年雨鬼 1 1 0 0nEA2古町一rLけ 1和 Cb と約 80 001.mの葦 が見 られろ。 この雨 敬が大 ‑L4ある というこ とは県北 ‑槽 の諌林地滞 奇形 臥ゼ しめ.ろ大 きな重囲vcなってい る。今 日 .珍 .楕ill‑I:朴 がそそ りた ち .西粟倉は もとよ .b搬北 の 町村 の ^;きTE財源 とな ってt.「るO‑般V‑C杉 作歌 上rJ縫 い水分 Z)多 V・山 艶 付近rL,精 (riそ れ よb
も安土 74‑Lf卦ハ所 vc多 いQ
さて月別に雨心 を比較 してみるVr̲各月 ともrIa‑nL
l
fb将1Lr的 に大 となっ てい るが特徴的 なの'd古 町 にかいて 9月に 5 COwblか降水且 が あ る こ とで ちるO これ(・i台風vcよっ て・i個 Lll脈付近 vE多 く〇滴 を降 らせ るか ら7'あるO‑・方冬 期 に多 いLD仕雪 のためで あろ う。坂根 付近 の艇家 では雪i)ため屋根 の上 忙石 を泣 いて防雪 対 策をは とこ してい る. こむ様に雨鴇 が多 く間牌Z)山 々か高 いため 日照特 rillも短 いのTJあるo 附LIpJ地方 のか らぷ 垂の尾根 で結球気 が多 くい るコケ軸 が仕 え ることは あ Iii)見 あた らか へが .西粟 倉 では児 ,和 向 きの盤根 ま'r'は え てい るt.とか らで も う かがえ るO つ ま り瀬戸 内 海沿岸 と忙気温 に は あ
で
少JR化 はみ られ ないが雨償 8 00才mも多 い とい f)ところに特色 が あろ う。 塩 田 一 弥
以上 あげた気象 昏料 は大原の町 の ものを根拠 にあげ られ た もので あ1て .い くらか補 正の必要 があるか と
思 う
。気温
に して も牧 津の狭 陰部 か ら北部は体感的 '霜雪 などです ・,と寒 い といわ れてレ、るOまた降水 鹿は県北旗紗を鹿 西vc2.00 0802の等降 水放線が走って いるから .この地方 の降 水丑 もこれに.tらねは fJ.・る まい。 もっともとの降水健 には多雪 が大 き くひびいてい る もZ)で あろ う。
多雪 とい1たが深雪 では上斎 原で年に 上って27nもあるこ とがあるが こ こ1'は 102VC及ぶ こ と は滅多に な く.せいぜい50Cれ内外 である とい うO けれ ども根雪 となって年を こす ものは 'iLJll一 北の特故で,こ こ・T'・5月上旬 に及ぶ。 そ してふ りは じま りは .吉備高位地区 より約 1月早 く,
この点 ま1た く山陰 なみで あるO かな じ く冷気 と梱係 する降諭では .初端 が1 0月 中旬 ●暁 t.a か 4月中旬 1・ある とい うO してみ れば敗博 よi)1週間前 後早 くふ 9.かそ くまでふ る ようであ るo
なお
嬢L
A=ついては盆 地 々形 1・あるこ とと,聞用 の山地 が高いこ となど177,移動 性 高気圧 の通過 す ,'3春秋の鮫vc銀 著 である。風 I,こついては北か ら山 をこえて この鉄也に吹 きこむ北風は かな 9日立 つか ,いわゆるフェン と よJ{jナ1るほ どこ7Jもの 1・はた く ,なか台風が 日本南部を とか bす ぎて も広戸風
化に
た風は吹か 希 いOそん たわけ7' 那
故山鮭にみ られ る ような防風林は こ こ7'み る ととが 干 さないOかかる地域 でq1.#,物 Z)坐鋲を指接 とす る生物気候 を・丹念 忙 しらべ るこ とは .大変に意耗 ある こ とと臥われ る も.十分 な ききと 9倍 料がえ られ なかったが ,つば め飛来は県最南部 よ b約1燭 聞か くれ, 4月D中旬 をす ぎた ころか らである とい う. またtpl水 は高い山地 か らしみ1'る もD であるためか ,つめ た く大さん しょ う魚 とヤ7Eめが樺息 しているほ どである。 しか しかか る冷 水 を.J船旺vr利用 しなければ な らん水卜11は辛蕃 こそ なvlが ,vlろん を点で配健が なされわげ 怒 ら
め 。
気簸災害 T・結 これまで目立 っ た ものは たかったが.5 8年 の梅 雨 あけのji̲t中穀雨 で水田の求土 が流亡 し ,道路 を決放 したC,
しか しこれ は ,気強条件 よ りはむ しろ地形にお うもの とい,V,たいO
要す るに この地は親族は仙形制 約 か らくる冷 涼 と多雨 ・多雪 とい う括論に なる とお もうO
‑ 12‑
第
4
肺 集落
t 熊藩 の地 形的位凝この地域 の侵 食輪廻 は壮年柳 の地形 を皇 し,1日は尖 り ,その間 を狭 い谷 が走 っているQ集 落 は この様 な谷 に立地 し.谷 に平 行vc走 る道路にそ1て .列状 村 vcなっ てvlる。塩谷 新 田 . 引谷新 田 .知 社が これであるO板横 .影石 .別府 .技津では河 川 の局閏 に .1‑5Jiの河岸 段丘 か認め られ .封璃 :綻山敵 と平 野の接する地点 .河岸段丘 に立地 してい るO大井部落 は息
な谷 壁 の斜 面に塊 村状
に
立 地 している。朱落立地に巌 も重要 な聾 素 となるのは水7.あるが. ここでH全 て
抑 I
L;‑・沿 った立地 である ので ,飲 料水 .淋裁用水 .と もに水の;
,Ji
・は助渡である O日当 りにつ いては .四方 を商い山で捕 まれてい るため ,t]射 止拭十 分 とはいえ ないQ谷壁 Ir忙繭向斜 融が日向い T・家 が並び ,北 向斜 耐(ri口陰 7=・残 されている。
2.村 塔 の 形 態 村 落 の 平 面 形 凄
村港 の形態は これを摘成 す る民族 の特性や生 活如 式の相通 ,あるい&:1他部的早場や歴 史的 . 社会的条件 の差異 Tu:どか反映 してさ まざま1L・.fi)る。
村渚 の平 面形態 Kはいろい ろな?イブ1,.・み られ るが ,こ こ1,̀Tt村 渚 の :C木的形態 として
「
鉱村」 と 「散村」 の2類型 i,こ大別 し.外相 の うち .山絶 fL・とにrFltって .細 長 く続 く鰍 の 村落 や規則 正 しい村渚 を形 成 している もa)釧 】「列状村渚
」 とし ,ここ.̲I)うち ,横 路 にそ った 出家 の群に よって形成 された線状 の村落 をral「格付」 と し,路村 に畑似 しているか .主 とし て大 きな街道 にKF]'って氏 家がコを9‑1ル てできた弘村 をtb]「腐村 」 と し.
不規則 た塊 状の村落・色・形l71.1している もの を
【 a ]
「塊村」 とし .これを(dr
感状塊村 」 と(b J「 塊
状 鵠村 」 と忙類型 する(,‑iた ,
Ⅱ
「散村」Z)うち1・.全く 1戸ずつ の家鍵か 敢 ら(,jっ てい る村落 を(t Or
散 布」 と し.赦戸づつ まとま1てい る村 落 ‑k・
( I )
「ノ」、村落 」 とL ,さ らVC的h'として ,小村落 か ら集村 へ 3)■
移行)‑iAと して 「小 列状村
落」 ,
「小鬼村」 などに瀕艶 して考察す ると次の・‑iL・の ど と くて・あるO村 落 の 平 面 形 感 分 野
I (H 列状村 溝
(a) 路
村
触谷 新田 .
塩谷 .引谷 新田 ,知 社仙 碗 村 坂根 ,猪之部 ,関屋
rn) 塊 村 '
(a) 廉状塊村 丁 大井 新円 I
佃 塊状路村 筏沖
∫
【11 散 村
(ti) 散 布 中 土居 ,谷 口 ,別府 t'b)小 村 落 .
hl】 小 村落 ‑恥
村
(由 小列状 村瀬
(t)) 小 JjR相 投 .小 才 田 5. 牡 落 景 観
この村 のql・落 鰯 を′樺色 すけ ている もr)Tuしっ に ,‑iず屋根 か上げ ら・Ilる。
(尾根 の材料 )
(I)杉 の皮 で発 き .その上 に小石 を乗 せ ている もZ)O '
小石 は杉皮 が ヒソ とはね て曲 らない ようにす る為 にのせ てあ るO 灯 Fの南部 地方 が小 糞 わ らで屋根 を濃 くように・ここではぜ溜 な杉 皮を利 用 してvlる0 枚下 では西粟倉 村 Z)
i
‑ 1Jl‑
中土居 .坂根 vc若干 見 られるたけで ある。
(2ト かや茸 き
この村 の屋根 の大半 は これ‑r・あるO 神命総 20年〜 50年 で ,雪 が探 いため相 当撒 く 背 いてあるO
(37 石 見瓦 で発 いている もの
くすんだ茶色 のかや焚 きの中で ,こD赤茶色 D明 るい色 調は紫落景 観 を析 く印簸 すけ るo 影石 '胸匿 ,谷 口たどが P坦部vc多 く見 られ .山間 1・拭瓦 の輸送 が困難で ある‑方 かやは入手 しやす し1ためか ,余 L)み らtTi+・Lrb こZ)瓦q:i18 Clj.頃 ,石 見 rL)瓦 職人大 鵬 の栄 治が ,赤瓦 誕造技 術を伝え .南部海 成幸部落 T'.製造 懲は じめ て以 来 Jg及 していっ
た
。 これは赤瓦か耐寒耐 湿性破 く .そ bも軽 く ,排 水に政利 !tったので .束部山陰風土 に適応 し.たわけて・あ る ,今1W かや発 きか次軒忙石見瓦I,E,変 りつつ ある。(屋根 の形 )
古い居 住横式 を伝 える革屋根 の形辞 につ き鑑軽 すると.こ
こ
で仕因幡 中心の入母
屋 .角 肝 木J
iliか卓越 している.石見瓦 の屋根Z)形は寄 棟 .小m'̲出 し屋根 が殆 ん どあるO尾 根勾 批 雪 が多い為かな 旭 .I.孟 宗O
で車,ろo角 材 千 木 塾
メ ワ ラギ
\ 上 J 一 一
‑ ‑‑ ‑小 煙 出 し 虚 根 哩I‑‑‑ ‑
(間野 9)
鹿家 の間取 りは因幡 .作州型 を通 じて田の字̲・Bがふっ )であるO鳥聯県 の影背 を受 け た 因幡避 妊小 さ く .山舶地方 .兵庫鵜 の影背を受けた
作
州型は 大 きvb凶 雌 型
作 州 型 I
因鵬 にも‑け るデ イ (奥榛教 )はLig東 ,伊 豆 など忙 も分布す るか中国地方 1・は珍 しい.
家屋柵造の特色は lうちまや 'lTtあることで ,母屋 入 口 ,土 閲 の一部に 1‑ 2佃 Z)牛 缶が 設味 られてい ちもの7',冬期 Z)長い積雪期間中 ,飼料供給 の俵 と中の傑
組
D ために設け ら れた もZ)1・あるO ふろば Et崖入 口横にLlbf).便所は母屋 とけ少 しHql=わでも.b ,ふろの水が ここへ流れ るようになってい ろO土成は風 当 りの疎い北西方向忙建 て られているかが沓通 1・ある.扱津 .中 土居 では二僻 に な1た杏 蚕室 も見 られたO塩谷 新 出では冬季 に なると北西 卓越風 が放 く ,いわゆ る "たつみ風 'T・あ る。家 の西側
化経木 の防風 林が抑 えて ある
。
引谷新 田 もやは b西側
に杉 の防 此休が みられた.N
山 地
ー J前 「正 博 "
たつみ
風
山地
谷 口 ,中土居 .別府 の氾濃 原忙立地 してい る家は ,洪水に家を さ らわれ ない よ う
・
lC,北 西側 忙竹 やぶや雑木 を植 えてある。防風林 も難わてい る.‑i.ql‥
▲ 集落 の発 達 川 中他以前 Z)集蕗
別府 か ら出土 した石 のキネ や ,岩 倉専 土 の 山中 .tり出土 した かめ VC収 め た銅 鏡 の逝 物 よ り考 えれば 'すでに石 器時 代 よ り人 が この地 に 佳ん でい た と考 え られ るO出 土 した場所 が . い ず れ も山経 線か らす れば .この時 代 の隼薪 は .吉 野川 の氾樫原 D穀 上部/iの山 猫vlに分 布 した もの 1‑あ ろ うo
岩 倉寺 は役行 者 の開基 で ,奈 良時 代 に確立 され た もので あるO奈 良時代 の萄 境 の建 立rt 戯耕 社会 の内部 に瀞 柑 され た'Liii'と権力 の,tj坤 的 一夜現 とみ られ ,ここで もH.耕 社会 か発 達 し てい た と考 え られ るo
t2)中神・の#J=落
長尾 に別府 とい う地 名 が示 す棟 ,lc.ここ に錬 舟時 代rL一公文 所が 超かれ てい た。
別府 とは ,往 古国府 を諸鼠にriめ られ し回 bj之
に
)点 り.不班 TL榊
にlBl司 V:1月脚 を必 き , 代理 職 も Lて常 せ しめた所 o公文 所 は鎌 倉時 代 力役 所 の名 T・≠J村上bhlか れ た 公文 職か 之にい て .寺 社領 .叉結院 家 の'Djiを差 出 して記 録 し .#府 との適 折を してい た
所
の称 で あ る。室町 他 国時代 に たる と .黒LL威
,
佐 淵城 ,7,1石 崎か こか地yC燕 TL,戦 さか喋々行 れた.現在 は城 bJ:と しての 妙を止 め ろは か りで ある d
【曳 山城 〕
西粟 倉村 大字鶴 東 粟倉村 との墳いVICLi)i)春 名承
伏J
lLSの成城 な D0〔佐 淵城 〕
当地 の西北 川向鳩端
v
r.
あ D ,鹿 北集 群 か.茂庄 下 村 爪山城 主 草刈 三郎 左衝 門 並 継 の茅 特 刈興次
郎之に居る 。〔紫 石城 〕
美作
錦
に大原郷魚 篭 村vTLあ り .正平1 5年 朝敵 赤松執村人適
世 良,
1.‑1」綿 肺則 痛 が兵 ど もこ も b居 Lを官 律 山 伊 豆守時 代 虻蘇 せ しこ と太平 記vc見え た りとあ れ英 田郡 誌 よlrJ
〔肺水耕 〕
知 社 vcあ D ,康 安 元年 山 名時 氏 の臣ノj、林 民部少輔 腐 垂居 之
.
(陶 器IZ)破 片敵乱 す ) 英 田郡誌 よ 9(3) 近世G.壌落
この村 は近世
, に
な1て開 かれた ところが多 く .新田 とい !名を持つ所 が三 カ所 ある. 又 坂根 の宿駅 も江戸時代 の三轍交代 に上9栄 えた ものであるO
(後述 )大茅 にある段 の部落 は寛永年間 紀州か ら来 た毒僧坊 忙 エi)開かれ た といわれ .家屋 は谷 壁の斜 面上に石垣 を集 いて増 強 してい る。 済地 が狭 い為 であろ うか、現在 74は この部落 は 鼻薬 よ9林 業に従市 す る人の方 が多 く ・仕申 告す る為 vcは .都 合が エVb ここでは飲 料 水
として .どこの家 もかけ いを利用 して ,水 を引 いてい る.
筏辞は この村の府南部 に位鑑 している。 近世初期yc5戸 yc
エ
9開拓 された といわれてい 71が .現在 では 28戸忙な .I),この部落
の式中 よ り .兼‑向 1て山 漁港 にそ って伸び てい 一,花 もr̲,7'.あ るO
戯な長い典齢 ukJ戎してい る。用水は象の収を流れ ,飲 料水は泉 になっ て湧 き出 ている.深 さ1"l港の洩vlものTrFある0 2 8声Z)姓 Z)うち .健之1 0,江凪 2,押・JJ'5・'5 ,高木 5 ・田野21そ 0他で
,
唾之が正博的
re多 い0枚
津 の地名 上 17・菅 し, >̲こて攻 城 ん で F流 にWLしていた とい ういい伝 え もあ るが . 星号を調べ てみ ると ・新坂 蛍,新屋.大下
・大家 ・中屋 ・玉 屋 ・車屋 ・尾端 な どで ・技 沖 の地名 rlは個体が なレも新 田
集 落
川 新田雑簿
の成立
近世にかけ る新田開発 は全国的t.C 行れ た画期的 な郵業であ ったZ)7'あ
る。藤 川幕府 は国 民の聯 生活の基 健 IT'あ る点薬の振興 忙意 を用 V',女 料Z)牌 操をはか る為 に荒 蕪他Z)開発 vr̲力 を尽 した ,荒蕪地 7d==開発 して耕 地 と した ところ ‑新 田 ‑と呼 び .そ こ忙成立 した典帯 を新田集落 とレ、う
絹 水 後 棒 のである.
これ忙 よ・1て徳 川時代 におけ る全塩的夜耕地の増71nと村落故 の増加 とは著 しい現象で あっ 7tr・
新 田の開発は穂川時代以柵t{ も行 九 ,新 田 とい う呼称 もす
で
に鎌舟 時代 に遡って見 るこ とが† きるが .それが全凱 勺な規模のrFvC盛 んに爽施 され るに至 1たZ)は徳川時 代 に入 っ‑ 18‑
てか らTr.あ D .とくにその中細以降 rrか・V,・で著 しい もので あった。
この村 では .大茅新田 .塩谷 新田 .引谷 新 田が新 円 とい う呼称を も1ている.
新 田 開 発 状 況 賢 科
し2) 新田開発 Z)類型
新田開発 に仕度・4・の類型 があ るが ・この村では2つ の類型 忙 よ1た ものと.阿れ る。
(む 切 痕
典民が 自分の所 有 する木 田加 の地 続 きを開拓 した場合 をい う。 この摘発型式 に よる も のはそ の地域的樹 が狭 く.小規模 の もzjであ るo
Q) 見立 新 田・
これは村 内Z。ものか他村 の ものが新田開発 を願 い出た場 合 .本 田蛾 の様 子や 周囲 山村 々の状況 を舌硬変 Lk九 ・これを許 した もの Tr一あん この様 な場 合 ・開塾 の難易 な どを考 えて 「鍬下年 季」 の制 を定 め .入植後5年乃至 5年の間無税 として ,その垂勲 す るのを 待 って は じめて斉祖 i・仇す る定 めがあ ったO これは全 く .新 田朗発 の保雄助 成 の筒 と し
て行れ た ものである.
(3J 新 田集落の東観
新田集落 とい うZ)はその大部分が計 画的段丘村落 と して成立 したのr .そ の形態 は多 く は規則 正 しい もので あるが.この村 の新 田集落 は大部 分が 山間の谷間
に
成立 してい るの,T7 地形的制約 を うけ 去こ とと .他人の降拓に 上〔た こ ととで ,さほ ど整然 と した集落形嵐 や 土地割は見 られ ないO しか し,近世の開拓村 は地 形上 ,特 yc有利 な場所 に立地す る もa)が 多 く,塩谷新 田 .引谷 新 打は 山間の谷 を過する小 臥 こ沿って .山 の南 向斜 面に細 長 く発 達 した列状村落 とい,tる。 大井新田は段 上JP)2払牡 れたlLl間に5戸 が一組Tt陶生 した様 で , 家,):‑ カ所 にかた で1ている。(4) 新田集落 の立地
新 田集落 の発達 し*̲所 は長い間無居住地城 として放 曜されて いた荒横地 であったO 集落立地 の根本的条件 V;t水 ‑T7あ るが ,ここで結到 る所 ,水 に不 自由は なvlo しか し ,自 然条件 として ,耕専肋間 が長 いこ と .河 川rFIlhZ)田の漏水 の激 しい こと ,日照 不足 と冷水
による作 物の生育阻書等 が .容易 な間質では な い。
塩谷 新田 ,大茅新 田 .引谷新田の中 1・は大井 新田 占 50mが一膚古 く .今 か ら約40 0 年以的にで き7tもZ)といわれ る。 ここの祖 先は干鐘か ら永 昌山を通 9 .この大約こ渚 もつ
いた もの と推定 され る. 当地 vcおけ る旧家 V.t基地 調査 より萩腺 ・宮崎 .井上 ・槻田 ・金出 等が あるo 大茅部落 打 ,西粟倉村萩原姓 の発 生地 T・あ 9
,
他部篠 の萩 原姓は.ここか ら下bてい‑,た ものだ といわれる。 (中島氏鼓 )
今 ‑(;仕 .家 や田 をI空いて.この新田を出 て行 く人 がふ え .4号屡 が 5戸ほ ど見 られ たO 塩谷新田 ( 4 BO茄‑ 5 2 0m )は今か ら5 0 0年 ほ ど
前
に5戸 T,新田が開 かれ た とい 号oそaj頃の塩谷 の戸数 は全部7111戸 で あったo天明5年8月 9日 ・うの年 の大
酢水 でれ て,塩谷 rL)庄虚が別にで きたの7'あるo 影石 ,分れる蘭 までの全部 の持 高
r 4 9 8石 9升 5合 1 1 0石 1斗 7升8合
ー 4
し残 り彩石 5 58石4斗 8升
明治初年 忙新 旧戸数 17‑ 1 8戸 .塩谷部落 全部で 78戸 や あった。 この新田へは .揺 谷 山の鉄山か ら降 bて定番 した者はV,ない。新 田へ形石 か ら, 2 58年〜 2 60年 ぐらい 揃=ti って きた とV,ういい伝 えを もつ家が現在残 ってV'るo
引谷ぐ5 80m〜 4 40m})長ほ か ら漸次上 へ開 拓 してい った もDで .荷 物 は もっぱ ら 人軌'Lよ‑て避搬 せ られ る急勾配 の林道 を上下 しなければな らない。鱗状 の小 さを畦棚 作
の永E日が数限 りな く盛 ってい る.
(5) 新EflirT̲おけナる土地利用 の帝位
新 Elの開発 されたJyrは
i 7 k
m地 帯 ,鮒作 地借 を問 わず .一般 に土地 の生産力 が庇 か った こ とけ共 通 の視点であ1た。とくに・人柄 Z)当初は とこで も土地 の肥沃度が低 いた めに ,踊柘 老松 しば しば恥窮 とた たか って摘発vc努力 したのであるが ,開拓中
如
こ也折 して脱 博 した例 も少 くなしへQそ こで 諸滴 では 「糾下卑 声」の 制を殻(・7て開拓を 傑経常r試す る施策を講 じたので ある .この5つの新
田
に殊存す る換地 阪そ 7)旭の於料 忙つ いてみ ると ,保布跡地の品 等け さわi
!)て底
く.上地 や中秋 の存 す るZ)は まれであって ・大部分 灯 F触 .下 卑収が多 く,さ らL,t野鮒 や林 鮎 もかな
D
の面和 を 占めてい 払 これに よって も新 的vEかけ る生産力 の低 位性 を 推察す るこ とがで きるで あろ う。‑ 20‑
∴