• 検索結果がありません。

清末台湾北部の米穀需給状況と米価政策

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "清末台湾北部の米穀需給状況と米価政策"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)清宋台湾北部の米穀需給状況と米価政策 堤 和幸. はじめに.  清代、福建の米事情が逼迫していたこと、また、その状況を緩和するために台湾が食糧 供給拠点として位置付けられていたことは周知のことである。その為、台湾と大陸との間 の米穀流通状況については、一定の研究の蓄積がなされてきており、台湾海峡を挟んでの 交易を担った商人及び同業ギルドなどについても並行して研究が進められてきたところで ある(1)。当然、研究の進展に伴って新たな課題も提起されてきたが、重要なことは1990 年代半ばまでの台湾米をめぐる研究が主に需米地である福建側から見た考察となっていた ことである。従って、港から積み出されるまでの台湾島内における流通状況や流通構造の 分析はほとんど手つかずのままであり、台湾側に視点をおいた研究、台湾側から見た台湾 米交易の実態解明は甚だ不十分であった。.  こうした反省のもと、筆者は以前、籾摺り業者である聾戸の機能に注目して、島内北部 における米穀流通状況の解明を試みたが、作業はまさに緒に就いたばかりであり、むしろ 課題ばかりが次々と明らかとなり、実態解明は一向に進まないまま現在に至っている(2)。.  本論は、これまで取り組んできた作業の延長線上に位置付けられるが、今回は島内にお ける台湾米の流通構造そのものの分析に主眼をおくものではなく、米不足が深刻化する清. 末の北部台湾において、地方政府が如何なる対応をとったのか、米穀需給状況と官学の対 応を軸に分析を行うことで、地域社会の実情を可能な限り描き出すことを目的としている。.  長年、大陸へ米を供給し続けた台湾であったが、清末に至り、米穀の需給バランスが崩 れ、下緒年間に入ると一部米の輸入が実施されるほどに状況が転換していたことは、既に 知られている(3)。19世紀半ば以降の威豊・同治・光緒期、米の需給状況の著しい変化が 台湾社会にどのような影響を与え、それに対して官側が如何なる対応を示したのかを明ら かにすることは、地方官・商人らの関係を考察する上でも重要な意味を持つものと考える。.  筆者はこれまで、清朝政府が台湾を「野外の地」と見なし、本格的な経営意欲が希薄で あったことや、清朝支配体制そのものの弛緩を念頭に、清末における台湾では公権力の行 使によって保たれていた秩序は非常に限定的なもので、その多くを民間に依存する状態で あったという見方をしてきた。しかしながら、今回中心史料として利用する『淡新芋案』. などを見ていく中で、地方政府としても米不足・米価高騰という状況に対応して、様々な 米価対策・米穀需給政策を実施に移していることが明らかになってきた。そこで、郊野を はじめとする米穀流通業者の対応や商人組織の変化などにも注目しながら、地方政府がと った対癒の実態を分析し、それがどの程度正確な現実認識に基づいて実施されたものであ り、どれだけの秩序を生み出していたのか、その実効性と限界についても若干の考察を加 えてみたい。. 一1一.

(2)  政策に対して一定の評価を与えるのか、或いはその不十分さや限界性に着目して支配権 力の弱体化・統治能力の欠如を強調するのかは議論の分かれるところであろうが、ここで はまず、米の売り惜しみ対策・禁港・平羅・義倉の設置などといった具体的政策の内容と 実施を巡る背景、及び成果についての検証を試みたいと思うものである。. 1.圃幽居奇への対応  (1)米価上昇に対する地方政府の見方   『淡新誌案』の中で、「民業」として分類されているものの一部(Nα14101−1−14101−113). には特に米穀流通関係の内容が集中している。ここには同治4年(1865)4月18日から光緒6 年(1880)12月27日までの記録が収められているが、その特徴を一言で言えば、“海面地域 の深刻化した米穀需給状況と対策”一色といっても過言ではない。そこからは地方政府(こ. こでは主に淡水庁、台北府、新出盛)が米価上昇の要因をどのように認識していたかを窺 うことができる。即ち、①米不足②対岸への輸出過多③好商・市檜による囮積居奇、の三 点に要約される。一点目の米不足については、これまでの研究でも福建側における米不足 の一層の深刻化や台湾島内での分類械闘の多発、人口増加による島内消費の拡大などが指 摘されているが、清末の地方官もほぼ同じ見方をしていたようである。特に人口の増加に ついては、対外的に緊張状態が続く中で島内に駐屯する兵隊が増えたことや、開発政策に よる労働力の流入に注目している(4)52つ目の輸出問題に関しては後述したい。3点目の 邪な商人による園積居奇(買い占め・売り惜しみ)を糾弾する内容は「民業」の中に多数見 受けられる(5)。では好商・市立というのはどのような者を指すのか。はっきりしたことは. 不明であるが、ここで注目したいのは、地方政府が園積油倉の元凶として磐戸の活動に注 意を払っていることである(6)。『淡命脈案』14101−66,心緒2年(1876)3月4日付の総甲 林汀の稟請とそれに対する“批”には次のようにある。   縁此上月間塑城内外米市街片聾戸、平常羅擢、不意此近日米市歯向磐戸突然米便高昂、.   現在上米毎元四西武升、中米三元四斗四升、下米毎元四斗七升、倶各藩減無論、慮請   面素出示、煎米西台、傳免米誌再行高昂、凌雲理合將情稟報、伏乞 大老爺電磁施行。   ‘‘批”.   淡画連年豊富、民間頗有積穀、又無外商大壷搬運出口、何南無語論債、西面青黄不審   之時、是否磐戸故意居奇?候忌明内示旧債。可也。. 豊作が続いている上に、大陸への米の積み出しも目立ったほどではないとなると、当局に とって最も疑わしい存在は聾戸であったことがわかる。従って薯戸対策は米価上昇への対 応策として重要な位置を占めることとなる。. (2)面積居奇対策の実施.  買い占めや売り惜しみに対する禁令は再三出されているが、官側が実施した具体的な米 価対策の一つが公定価格の設定である。『淡新棺案』14101−1,同治4年(1865)4月18日の. 一2一.

(3) 記録には.   軍仰二二頭役二才二二義甲三二、毎日親臨米市巡査、傳諭羅米各戸、遵照本分府示定   郊一所叢叢鍵盤羅、不准加増。. とあり、同治4年の時点では、淡水同知の方から郊商に米価を議定させて平羅を行うよう 通達が出されているが、翌年の同治5年(1866)正月21日の『淡新棺案』14101−29には、.   仁憲恩讐諭筋郊舗、股業戸及磐戸人等、將市中米債議定、無許日増、碑貧民可無飢餓   之苦。. とある。さらに、同治8年(1869)9月23日付の『淡新棺案』14101−40之1には、   附置筋郊戸金長和、井懇諭襲業聾戸等、議定躍動、破米赴市平羅。. という記述があることからすると、同治5年と8年の段階ではさらに股業戸・磐戸を加え て市中の米価を議定させ、低価格で売り出させようとしていたことがわかる。同治5年の. 記録は竹整城の治安対策を担当する差役の面面が稟請したものであり、8年9月の内容も 同じく総甲の輪編からの請願に対する回答となっている。同治8年の秋は2年ほどの米の 安値状態が終わり、一気に上昇に転じた時期に当たる(図1参照)(7)。そうした状況を踏ま. え、市場の実態に精通している現場の意見を取り入れて、従来から米価の議定に関わって きた郊商に加え聾戸を参加させることで、設定した価格に重みを持たせ、実効性を高める. のがねらいではなかったかと思われる。それにも拘わらず、後にも述べるが、具体的な価 格設定を伴う行政指導はなかなかうまく運んでいない。. 図1.『淡薪棺案』「民業」記載の米価動向 (単位名:文!石) o. 同治4年4月18 5年1月21日 5年1月27日 5年5月9日 5年9月22日. 55. 1・ 1煩 {11、111・・、・”1;・1・’111止・’…1・1・1才EI」.11.‘・’・IE.1.1・II、・.L・1・1.1111‘ll.4 1・暇1・麟… II1.1・II」. ・コ1.1. Ill’・「・1’呪・’‘Wll}W.=1’・コ「 @幅.11・’・・1漕1‘llPl、1’11…1』・1・1%,1 ・・羅H 飾”・…1欝11圏.・. p1し・1・㌔L漁111.・1・1」1躊・t・1開㌧・’1L撫il11’1・III‘・1. ’IIIトμ11’Lぽ礪櫨・1コ・1・  ’固」 」’蓼・」1・’1・. 触  ・咽  ’{∫』}・κ・濁・ド・輸層・’糠liFl・・署”卜、II、’・1・r、・    ・1輪11・鞠1㌔. 1蝕・」1冨匹・1=・1噌  ・”・・㌫・ 島・司i1・亡八折∴. ・u呼「1・1ノ”醒・り1王」’・ゴ師」」撫し・1・ゴ梶・・iい・:個=ド・1鵬漏・」・・端「1・醒1「1「1・’㍉卜継写5…’1ヒ’・b.  ・こ】1111「ヒtρ・・「♂・・…‘1”・. =1・π「暑.’1[「[」い羊」’11”唱11 1匡・. ゴ『’ @  111∼  ,1・肖・聞・’「r寺、11300・      …凡1「イ   ・1. 讐. 8年8月 8年9月22日 8年9月22日. 9年2月7日 9年2月7日. 階1}’陶‘・’幽1目・1田.隔苫・h1層誹1.』200,…’・rL・F1’・’1「卓−’. ⊇・メニ    1・”’・・、・1・オ1’「ζ−  ・1鶉慌高・・』「1  貢唱・鴫」1”㌧,ミllζh填・慰い賦,、厨島、….1,..、、 」“幽1. 」i・レ1野F虫’♂鯉’LF’ll・’㍉1・’EF.畦’iヒLl=i’・Ili11WJ醜11i13 0i門11口’i層 51」鈎1』1写=’・聖血踵‘li蟹脚・.恨}夏旨{、;1.婦.1・![1’・’・. 9年2月12日 10年. ll鞘ll目. ll覇1箔. ・・「・・戸口1ヒ…竈・1.=.1講.1,1≒・3・齢・.」鰍’1’1・F・1・二’.・111’・・融て!1幽Ill環「200鼎=1燃・崇・:{’1・i ,輔」・1・、.、し、踵’,・・. iコ.・lli」嫡LLIIr、・     1. ’コli翫1」・1、晶晶r・離・’rl’叱畢111’「爵・L混引匡繍・II’・・巨粥・           ..1、イ5炉.糧・」・1・「・晦rll㌦II、ll・躍層・、、「     O柵..・、1側’[崎1話・1・・1・・11. 瞬遷殉,・需「穿111」lil{1・1・唯1,・ 1角鋼・{[闘、1::l                 l・5麟闘’巴・i・’II・l P1111卍・  』ll盤唱1・・1・1梧,lil・1・βF榊.織諺II、lll.望11. 癬.111艦・網lh髭11齢・卜し鰍・㈱繹’i ’軸’}灘臨’・鞭 001.講』欄」’撚1・1・’…職L @Rト【. ’帆 ∋1」艦」1弛卜.1、懲1.・. !1年6月17日. 11年9月16日 11年10月22日 11年10月27日. 繍・r.輯照圏L・’. I」」、11届11レ」・1幽}1層1匠占…’F−1轟・1’・薗’口・蜀」  ヒ「・’=llill・≒111:i・ll唱イ・・’」1頃「・’・’1臨  ピ・ll.・にI Ill.. 働・ 鞭1橘’1’脚E1嗣1学・11・司・藷1「ロ・L寝.1「・」L2 α1酔麟’1彗繍.レ・lll“引瀟’嚢li・「二F・凹聖配5’1’・‘. E」. ,  ll・.・IF.・・,配、1、↑「1. 葈erヨ・属、・1=;1鮎1・1噛生色脇.・燦・  聯、’蠣「謝痴、課毫1’・7詔1泓… 旺F」. 焔│、澱・’F、、r l,構・’・・「1r・.灘・「1{・li...1匠撒鰹 1・GOIII・ II蹴詔11 畦’区・=離1’!趨囎・l l・1・1艶榊・・『.・1・・ P1・・∫i・1・1・、、旨11、. 11. 縣塀1.・[隔1・1顎11「注‘i・=藷’1詞、溜   .《;、l111”:,箋1   て1=1輻Il:.ヒ聡、篇 鎚’轍. X・,1・蹴1一‘・」柚.、−」二趣1・[・・』Fl・畷圏・と譲 コli蹴瑚轄囎・・1!i詮鯉1繊1詩11淋曼漁』 r「言・’ @      肖・・ 1誕1・り…}、…  幽幽露』1・満「2850寸5E}詐寓霞・一・ご審㌔  ・}「嵩・ぼ r. }舞. 光緒1年11月. 2年3月8日. 1覇轟々 2年4月27日. 1劉1謄. 円い紬翻漏司「諒㌔起)‘.調:ll・棚よ12 ’蹴1 、判繍撫・{i,酪」1二匙馳1璽・護1愚,1.髪呪・ E11鄭撫}11・h酵i・Fi・’詰・諺il註亨∼1【‘亜圏『1蜘li〕’11曜2  燐ll隔圭1㍊  ・覗.i.・ド羅コ「擢=’.声.絹 唱脳輔11軸」1・1・’・illl lll『1・・’ilII」1’麟嘔旺・・鋼{・際111・臣1 ‘11.1誓111・縣1i胃!1榔蜘・蹴院、麟[・1・1111、.1て1・11 ・4’・1‘瀕・’・・”・軸’FIト1[「・虜’「醍1・iLl程・犠諮1=牽[{・日1、・”’・【ID.[1’{=i・繍.1鹸Ll・Ll補評理」旨曜1轟{・・1i・LI膚・. 1.11. 子醇’ @  町H・サ・・議脚隆−・・圏・・’愚』ギ”「=“ご’1罐=‘’嵯  騨『疑」蕾鰯顎・毎・1ド・脂’㌧』1・、唖i・・ 巌』111’・・V’ヒi・・II」ヒ・1:IE=.・1ほ11.・1幽’II・1i lll・イ=町1」1・li・F.・‘雌、’・1:‘li:Ll繍  1“1f漕ll. .謬、:1 ト.、∈・…匪F宅.≒・1二’・爵…・1…・. 「I. k 1「 ’L」馳て’”陰:’ 1二111哩iユ5 F   ・・1’幽・」」ギ1・」350旺弓‘トせ.1噛・11ヒ11・1翼 岳㌦・11rヤド跳,・虻. 、1LL翫・、・r,【1、・瀞1・・煕1層 L・。、・Fll. 3年. 4年1月22B. 1炉1旨e’1…コ・’1卜・囁噛. 4年12月H日. .1・.     1、 ・lhl  ,1、同」・ハ’ 4200.・編・ 孔I     G,  」,、.・ト・β. 4年2月. @1・11・・逐『・・1’躍鴇・鳶1予L粥…200燃1・藪・藤 ・麟ド.=、1・・’・1…1、II・・苧   暗{r…辞・ [IF. 謂・11. ・’=[ロL・ 11…1’i」帥.II暗h・・1 r・1幽セ・’・    ・」脚・㍗111’11」1‘ 1・u111:一・・I qI・1ま’ボ5   記 ・r1牽」11LLL’,l     l”1‘・   ・1寸.「    」F‘il“ ・.・・」11. 出所)『淡新旧案』「民業」14101−1∼14101−113之2. 注1)1元旨0.72両、1元=12DO文として換算。 注2)( )内の数字は官側が提示した公定価格。. 一3一. □価.

(4)  同治11年(1872)になると、碧戸に対して速やかに出納簿を提出するように指示し、それ をもとに具体的査察を加えようとしている(8)。『淡新出案』14101−71,光緒2年(1876)4. 月3日付,総甲林汀の稟請には   魚紋本月初漁参両日、塑城内米市街、及磐戸米償突然凶行高昂、出羅上米毎元三斗八   升、中米毎元三斗九升、下米出盛四斗一升、直面市中聾戸閉羅。役回内地米債平常無   高昂、査其毫地及錘地、米谷空一心食不足、以致米慣高慮情事、該役理合將幽明擦情   稟明、伏乞。. とあって、端境期に当たる四月という時期をねらって米価をつり上げている磐戸の姿を伝 えている。さらには、同じく光緒2年11月の記録には、   査内地並無船隻搬運、何高市米忽然血忌、顕有好商・市這出中三八居奇、稟請厳禁、.   直来。擦此、除批示外、直行出湯。為此、応訴在城面戸陳長水影、即便遵照、速將在   城市中米償、何以忽然昂貴、櫨出先隔意覆、一面傳諭各月高等、伍奮平債録画、不准   無端高邑、心因園積二面、希圖漁利、致妨民心、・・・…  (9). とあり、淡水同訓の名で磐戸の漉油水らに対し、今回の米価急騰の原因をすぐ明らかにし て復命するよう命じている。こうしてみると、官側はやはり態戸の把握を米価抑制のポイ ントと考えていたとみてよいであろう。.  磐戸の活動の実態を明らかにすることは難しいが、光緒19年(1893)春、泣言兼業戸の千 慮貞という人物が商売上のトラブルから取引相手の聾戸を訴えた事件が若干の手がかりを 提供している(10)。事件の詳細な顛末は拙稿に譲るが、簡単に言えば、魏藻貞は佃租一千. 石余りを四軒の薯戸に預けたと主張しているのに対し、磐戸側は魏家との取引は認めて具 体的に米の売買内容を供述しているものの、いずれも魏藻貞本人との取引は否定している というものである。この件には魏家の内紛も絡んでいるように思われるが、磐戸側の供述 を見ると、四軒のうちの一軒である感温茂は、六月に三二貞の叔父にあたる魏啓光から穀. 193石8斗を預かり、八月に銀105元で100石を売却した後、十二月になって93石8斗を 136元で売りに出して終了したと述べている。他の三軒も昨年六月末に同じく魏啓光から 米(穀)を預かったが、今年四月になって魏家国の指示で売りに出してしまったと主張して いる(11)。この内容を見ると、収穫後に馬決に預けた米(早穀)は、すぐには市場には出さ. ず半年から一年近く聾戸の蔵の中で眠っていて、その後何回かに分けて売りに出している ことがわかる。また十二月は八月より米価が高いことや、翌年の四月という端境期まで抱 えておいて放出していることも目をひく。売り出しの時期がまちまちなのは、磐戸と郊商(業. 戸)が価格動向をにらみつつ分析や相談を繰り返しながら対応することが一般的だったため と思われる。この件は磐戸と富商(業戸)の連携ぶりとともに、ある意味で圃面面奇が一般. 的な商行為として定着していたことを示唆している。こうした状況が背景にあったからこ そ聾戸に対する官側からの圧力が強められたものと考えられる。.  また官の側は地方の地主に対する米の在庫調査を行い、訴訟の米価抑制策として地方の 米を竹塾で吐き出させて流通量を増やそうという政策を打ち出している。『淡新棺案』 一4一.

(5) 14101−11,同治4年(1865)4月22日,淡水分府王鋪の指示を見ると、.   為此、画幅新哺赤面生馬雨龍・陳朝座・播幽光・監生呉丙生・董油点元浜・自註蘭等、.   立即遵照督同点庭公局諸董事遅査新急航十三庄股立富戸人等、何人富有米谷各若平、   駅留備本郷民食、所鯨之米谷、定限十日内按作幾鴛前論来城平羅、如有玩抗隠匿二戸、.   立即納名爵稟赴韓、以愚筋差協同將画品米谷起出、充飯山襲平羅、一面將各誌富云云   為数目先行報明。. とある。同治3・4・5年というのは米価高騰の一つのピークに当たり、禁港の実施に対 して密輸出事件なども報告されている時期である(12)。しかも早米収穫前の四月という時. 期、地方政府は都市部での米不足に特に神経質になっていた。従ってこうした策はかなり 緊急避難的な色彩が濃いように思われるが、淡水庁当局が米価引き下げによる治安の維持 に躍起になっていた状況を読み取ることが出来よう。.  以上、主な圃積居奇対策について見てきたが、結論から言えばいずれの対策も十分な効 果を上げたとは言い難い。『淡新詩案』14101−25,同治4年(1865)5月20日,淡水分府温 点から差役への指令書には次のようにある。.   本分足留聞各村庄佃戸挑米山城平羅、被好徒販買、犠轄増歯、挑入城内記試演善、以   致貧民擢食維難、言之窺堪痛恨、晶出示厳禁外、亟素謡撃解同。 この例でも明らかなように、治安の維持を目的としながら、輸送途中に安値で強引に米を 買い叩かれたり強奪されたりといったことは日常化していた(13)。米価高騰によって島内. でも商品作物としての米の価値が一段と高まる中での行政指導の難しさが表れている。具 体的に同治5年(1866)の米価騰貴を例に見てみよう(図1参照)。まず一月末に淡水同知か. ら上米1斗455文という米価のガイドラインが示されている。この時期、竹塾の銀山比価. はほぼ1元1200文であるから1石は約3.8元ということになる。続いて二月半ばには艦艀 ・新荘といった台北盆地一帯に対して土米1石を4元以内に抑えるようにという通達が出 されている(14)。1石4元という価格は相当の高値である。このように市場価格を考慮し. た上での一種の公定米価が提示されたにも拘わらず、それが五月初旬になると1斗520−30 文というから1石4.3元以上に跳ね上がっている(15)。これまで見てきたように、地方政. 府としては米の需給状況に対応しながら郊商・磐戸団体を取り込む形で価格政策を打ち出 していたが、実際には期待通りの成果を上げることは難しかったと言える。.  では、その背景をどこに求めればよいのであろうか。図1を見てわかることは、これに は一貫した価格の設定基準があったわけではなく、市場の動向をにらみながら、米価が上 昇傾向を示している時期に合わせて、市場価格を若干下回る程度にガイドラインを決定し ていたということである。即ち、その時々の社会情勢と市場の動きに対応する形で、柔軟 に、実現可能な線での対策を打ち出したという見方が出来る一方、実態を追認した上で、. それ以上の高騰に歯止めをかけるための米価抑制策ではあっても、米価の引き下げ策では なかったという捉え方も出来るであろう。また、公示された価格は当然のことながら福建 本土の影響を受けていたということに注目したい。同治4年(1865)は慶門における米輸入. 一5一.

(6) 量が前年の約15万担から88万担へと6倍近くに跳ね上がった年であるが、その年の公示 米価は4月18日付で1石4,500文となっている。翌年の5月までは対岸の米不足のあおり を受けて、台湾島内の米価が超高値をつけるという状況で、そうした中での4,500文とい う数字の公示であった。同じく、同治8年(1869)の夏から秋、さらには翌9年にかけて台 湾の米価が上昇した背景にも、大陸側の不作があったことが考えられ、これに対応した好 商・聾戸が買い占め・売り惜しみという行動に出たのが米価高騰の原因であると『淡新着 案』は語っている(16)。このように、そもそも公示価格の設定については、対岸の米需要. をにらんで商機を窺う商人達の意向が強く反映されており、米価が極度の上昇傾向を示し たとき、治安の悪化を懸念した地方政府側からの要請を受けてひねり出した価格は、どう しても市場の動きを反映した“そこそこの価格”にならざるを得なかったということであ る。これは官にとってみると、公示した米価に実効性を持たせようとすればするほど、現 実の相場を受け入れたレベルで手を打つはかなかったということであろう。. 2.義倉の設置  米価の抑制や竹錘への米の供給が試みられる中、同治6年(1867)春には淡水同知の嚴金. 隠が義倉の設置を提唱して自らも700盃分の資金を拠出し、有名無実化していた倉庫制度 の復活を図っている(17)。春画知は活錘のほか大甲・面谷に明善堂と義塾を設立し、主に. 郊商に呼びかけて寄付と管理・運営を任せることにした。威豊後期からの米価の急騰と治. 安悪化対策の一環と考えられる。上述したように、同治6年から8年の前半まではその前 後に比べて著しく米価が安定していた時期にあたり、戴潮春の乱後、治安状態も若干の小 康状態を保っていた時期であった(18)。.  では幽幽側の反旛はどうだったのか。『淡新棺案』12602−2 には同治6年(1867)6月∼7 年(1868)4月の竹塑における義倉の出納状況が記されている。‘‘額掲”“新収”“開除”“實. 在”の各々の項目ごとに寄付者名と寄付予定額、及び実際の寄付額のほか、支出内容とそ の金額、収支状況を明らかにした上で、最後に「以上統共直交義倉汁谷歯面武百伍拾騨石」. と結んでいる。当初は10700石の備蓄でスタートの予定であったが、玉総における設置一. 年後の出納状況を見ると、未納が6254石にのぼり、実際に寄付されたのは4446石にとど まっていたことがわかる。目標の40%強しか集まらなかった米(穀)をもとに倉庫の購入・. 改修費や必要経費を差し引くと500元近いマイナスからの出発であった。艦紳における義 倉設置までの経緯については『淡北明善堂日記』(19)に詳しい。それによると、こちらの. 方も思うように寄付が集まらず、八月初めの段階で胃吏の察標を通じて董事を集め、血相 の磁石の量と、未収がどれだけあるのか現状を報告させ、速やかに未納額を督促するよう. 命じている。九月中旬にも同様のことを行っているほか、その後も寄付額の達成に向けて ハッパをかけ続けたが、泉州籍の商人に対して割り当てた目標2万石のうち、結局集まっ たのは12035石という状況であった。特に竹塾の場合は郊商が予定していた額を負担しな かった結果であるが、『淡新梢案』12606−54,光緒16年(1890)12月の林恒茂の稟覆には、. 一6一.

(7)   但本城義倉創自嚴前緒憲指収谷石、変償建立倉廠間費用款外、貯存實谷在倉、計共集   百石零零武垂準。○○儲以来、如逢壼朽、不過著磐戸以蕾易新、藍鼠耗○倉、以及批   工等項猶必由磐戸理楚補足、計核此項鯨谷實無可盈。. とあることからすると、管理・運営役は郊商が担うことになっているものの、目減り分の 補充など、実際には聾戸に任されていた実態も浮かび上がってくる。また、『淡新棺案』 12603−1,光緒6年(1880)12月30日付の新竹島挙人鄭点画からの並称には、.   嗣後高廷環稟請退辮、所有盤渉画商官給堂識量串収支、徳化社番虚血心匠紳林企画接   手経理、誼梅不知作柱舞弊、檀令伊虚威彰画面、白頭虚靡浮動、捏造報錆、毫不検察、   甚將毎年存記録粟、私行変縞、作為薬店老鋪殖貨資本、衆財直如己物。. とあり、林当山の史林彰が義倉穀を勝手に売り払って、その利益を薬屋の経営資金に流用 していたことを伝えている。このように郊商が恣意的に貯蔵穀を私する事態も出現してお り、義倉穀をもとに投資を行うなどの積極的な運営は確認することが出来ない(20)。光緒. 年間になるとしきりに内部調査を命じて制度の立て直しを図っているが、官が笛を吹けど も民は踊らずの状態は改善されなかった。.  このように、地方政府は社会状況に対応してそれなりに制度作りに取り組もうとするが、. 義倉制度の正否は主に郊商をはじめとする商人の手に握られており、少なくとも官による. 通達がそのまま実行に移される状況ではなかったと言える。地域社会への貢献を求められ ても、簡単には負担に応じられないという面白の姿が見える。林玉面立の研究によれば、. 清末の新竹地域では有力郊商の紳商化が進み、それまで地域における様々な社会公益活動 を担ってきた自習ギルド(金長和)の果たす役割が縮小して、七城の有力紳商がその地位に. 取って代わり、地域社会の中で最も影響力を持つ集団になっていたという(21)。地域を支. えた画商組織が一枚岩でなくなってきた状況が見て取れる。今後、そうした指摘との関連 性についても検討を加える必要があろう。. 3.‘砂山,’策の実施.  『南新翻案』には平羅という言葉が頻繁に登場するが、官が買い上げを行った上で他の 地域で安く売り出すというイメージとは幾分異なる。官財は民間に対して低価格での米の 売り出しを通達、もしくは要請はするものの財政的な支出は伴っていない。これまで見て きたように、地主や商人は各々の流通段階で圃血膿奇を行い虚血の呼びかけには応じない 場合が多かったと見られる(22)。そうした中で、地方政府は淡新地域内での米価格差や竹. 塑への米の一極集中という問題が治安の悪化に一層拍車をかけていることにも頭を悩ませ ていたことが窺える。『淡白棺案』14101−81,由緒2年(1876)4月27日付,総甲趣意の報 告を見ると、.   溢蚊米實起高宮、係竹南壼保中港及頭転勤鳥人、到塑取羅挑往販羅、以致米慣斜行高   昂、該役理合將乖離米償幽幽、接平心明、伏乞。. とあって、塑城の米価高騰の一因が竹南の中港や頭扮といった地域の人間による錘城での. 一7一.

(8) 米の買い付けにあると指摘している一方、それに対する逆の立場からの意見として、『淡新 櫨案』14101−80,由緒2年(1876)4月15日付,竹南一拉頭扮街総理の請願は.   藍中心・頭扮庶出、田少山多、人煙稠密、兼去年薄収、画面莫慶、揆原所由画因本地   産谷無爵、浮戸大小、甘遇凶荒、仰給他虎。. と述べて、中港・頭扮地域の実情からすると画趣での米の買い付けばやむを得ないことと 訴えている。このやりとりは、農村部の人間が都市部で米を調達せざるを得なくなってい る実態と、限られた米を双方で奪い合うことで治安の悪化を引き起こしていることを物語 っている。都市部の米価高騰は、周辺地:域からの一層の米の流入を招いていたということ. である。しかし、磐戸を含めた米商人は、そうした淡新地域内での需給の不均衡という現 実を捉え、価格差の存在をさらなる利益につなげていたと考えられる(23)。そうした状況 を前に、由緒2奪(1876)春に淡水同知の溢血聚が対策として打ち出したのが「帰心平面」. の策であった。『淡浮実案』14101−82,光緒2年(1876)5月2日付の淡水分府血忌聚の通達 は次のように述べている。.   本分府面諭紳富郊商業戸、襲谷浜羅在案。乃訪聞近有無将士販、見有平羅囲米、即冒   称貧戸、貧其女面擢買、輻以一人而買一斗之糧、織復轄手活買一斗、或暗分数人、各   羅一斗、以斗米而湊成石、即時轄販漁利、心血好販蝟集、米不当羅、殊不思慮羅言挙、   有為接濟貧民、一画之平羅、只能濟一字之貧民、若以一台平底良米幽寂幽幽蛋白各戸、.   焉得人人面濟之?況加以好販混入藩中、買平癒之糧、画譜販之利、而店戸居民之面部   貧戸者、亦山群相争買、豊幡真正貧土、伍形鉄乏、言之室油女、除面差嚴撃冒擢平羅   之好販儘法弟辮、並面諭各庄総理・地謡、編査實在貧民戸口、論評填票、使各貧長先   期領票、至指米公所、字面登心外、菰定以分庄平羅之法、垢掻翁忌。. 即ち、積穀の家が白油居奇を行い画素がそれに乗じて値をつり上げ、結果として貧民が食 にありつけずにいることを憂慮して平羅を指示してきたが、従来の方法では米が好商の手 に渡ってしまうため、それを防ぐためにこの「分庄平羅」の策を実施すると語っている。. つまり、他処へ米をまわして流通させ不足を解消しようとすると、好商がつけ込み貧民向 けの平隠米も彼らの懐へ入ってしまうので、その対策として自分の地域は自分で賄わせよ うとしたものである。.  具体的な実施要領は、『淡画棺案』14101−96,心緒3年(1877)正月23日付の淡水分府陳 星聚の通達に詳しい。.   一、平河定債、各蹄各誌辮理。・・…  鴨島止血米、原意貧民心血暮合之糧、乃有無.    恥好民舗戸、面面混入態態、買平米七去樵磁心獲利者、或一人仏頂冒数人、一日而    往買敷次以少湊多、買平米而為轄販曲射利者、是以平羅之法、必得先清戸口、如一    庄之内、凡爾紳富郊商、按日輪羅、先行督雄壮保、各省庄内富戸、査開戸口、某姓    大口若干、小口若干、某日旛鰹平米若干、雨戸造冊、就珊給軍、愚軍嚢羅、以杜冒    濫。・・・….   一、平羅各蹄各庄協濟。蓋分庄辮理、固易為力、然亦有窮僻村郷煙戸無多、並無紳富. 一8一.

(9)    読谷之家、此等小庄、即熟慮近大庄平羅、協濟其小庄、主査紙撚在眞正貧戸、由協    濟之大庄査開戸口、逐戸造研、按朋填軍、慧軍嚢羅、以資協濟、而免向隅。.   一、平羅分庄童部、而耀米尤貴流通。査各庄大小不同、積量多少不足、或此庄谷蛍雪    多、錐有紳富郊鴫野少存置、羅米有時不一、准由該庄紳富湊資、向大庄鯨谷最多之    家買谷破羅不漉紙擢、所耀米谷著落蓋管白保頭人押送、以杜好気流弊、如其運送出    庄、贈爵途経過之慮、敢有糾衆敵奪、除將槍米棍徒提意外、仇惟押運白総保頭人是    問。. 簡単に言えば、一種の貧民台帳を作成してそれをもとに米の給与カードを渡し、米と引き. 替えるようにする。但し、各庄それぞれ積穀の量も異なり人口にも多寡があるので、米が 足りず賄いきれない場合は紳富から浄財を募り、大庄の余裕のある家で買い付けることを 許すというものである。.  ここからは竹塾という都市部に止まらず、地方の米穀需給状況が逼迫してきて地方政府 としても治安対策が待ったなしの状態に直面していたことが窺える。それまでは竹錘へ米 を流して軽羅させようという都市部での治安対策が中心であったが、米不足が地域全体の. 課題となってきて対応策を一部変更、もしくは拡大せざるを得なくなったということであ ろう(24)。また、従来実施してきた米の安値での放出策が却って米商人を利することにな. っているとの現実認識が働いたことも間違いない。この政策が打ち出されたのは光緒期に. 入ってからである。官としては面積居奇への対策として、最戸に米の安売りを迫り、米価 のガイドラインを公示したり、地主への米の放出を働きかけたりといった対応を試みては みたものの、状況の改善が進まないことを受けての一歩踏み込んだ形での対策ではあった と考えられる。尚、こうした政策の背景に沈藻槙の開山撫番政策の開始や大陸からの渡台 入山の解禁などがあったことも十分に考えられるが、この点の検討は今後の課題としたい。.  米価対策・治安対策として、「分庄平羅」の策が実際にどの程度計画に沿って実施に移さ. れ、どれほどの効果があったのかを検証するのは現在のところ難しい。ここでは、状況の 深刻化に対応する地方政府の姿を紹介するにとどめざるを得ない。. 4.禁港と米価  海港とは港を封鎖して交易をストップすることであるが、台湾側の米価高騰が著しくな った同治・光緒年間、たびたび実施されている。禁港が他の米価対策と違う点の一つは、. 台湾島内の郊商や聾戸だけでなく大陸側の商人や海運に従事する船戸、さらには官僚問の 権限や思惑の違いが政策の実施に大きく影響していることである。そこで、台湾側で禁港 の発動に直接関わった同職・郊商・道台の三者に視点を当ててこの問題を眺めてみたい。.  まず、郊商は禁港をどう捉え、どのように対応していたのであろうか。淡水同知の陳星 聚は禁港をめぐる状況を次のように伝えている。.   霜査卑鷹著名産米之匠、米債平減、相引商販、只陸運堰出洋、從無配米至淡、因此本   地米谷毎遇償値一昂、南北紳民、即請禁米出口、必至五六月早谷登場、方能開禁、此. 一9一.

(10)   歴油取成章也(25)。. 要約すると、“商人は淡画地域が有数な産米地であるために、米の値段が安くなると利益を. 求めて米を大陸へ流し、利幅の狭い地元の市場へは米が回らず、その結果淡新側の米価が 高騰することになる。そこで値上がりを起こすたびに米の出口を禁止するように請願が出 され、五・六月になり早穀が出回ると解禁できるというのがこれまでの通例であった。”と. いうことである。これは、産米地だからこそ高値で取引できるところを探して米は外へ出 て行き、台湾側は豊作の年でさえ米点状態が続くという興味深い指摘である。つまり、先 にも触れたように、台湾側の米価安定は島内の作柄もさることながら、大陸における米需 要の如何に大きく左右されていたことを物語っている(26)。.  また郊商が米の輸出を行う上では、大陸の工高と台湾側の米安状態がもっとも好都合で あったことも当然である。台湾側の米価を安定させ、治安の確保を図るという点において、. 急雨と地方政府の思惑は一致していたと思われる。幽幽に対する郊商の立場は状況によっ て異なる場合があったと考えられ、明確に示せるだけの材料を見いだすことはできないが、. 1895年から1896年にかけての日本領台前後の混乱時期、一時泉州に避難していた鹿道の 郊商許志湖と、その取引相手で鹿港に残って営業を続けていた振成号の主人王金波との間 で交わされた手紙の内容は参考になる。鹿内側から許宛の手紙の一部を紹介すると、.   刻下米油日升、時免3,85元、費在外。際沖湊船、計画64帆。遍来米螺晶出、全鹿毎   日計出只堪446石、而故債口唱。泉度訪露煎米局、油壷之変、致出島禁、不準往返。   油日如斯、其米尚歯分降、以観○尚亦不山開禁。致観白船欲面出、實甚難 (27)。. とある。内容は、“米価が日に日に上昇して論調や運賃などの諸経費を除いても3.85元ま. で達しており、最近は米が不足して更に一層の米貴状態になっている。泉度郊としては米 がこのように高値になっているのを見て、遠計の実施を通達した。しかし、こうした措置 をとっても米価はなかなか下落しないので、しばらく禁港を継続することにした。”という. ものである。これは官の決定による所謂“出始”ではなく、ギルドである郊自身の判断に よる‘‘商禁”の例と考えてよい。鹿港側の米の価格が高いと大陸向けの商売は成り立たな. いというのは淡水同知の認識と一致している。この手紙からは、米価が騰貴するたびに禁 港を実施することでその状態を冷却しながら利幅を確保しようとする郊商の姿が見える。.  また、米を買い付ける側の船戸は少しでも仕入値が安い港で船積みしょうと考えるのは 当然のことで、露坐としては島内の他の港との競争も念頭に置きつつ、禁港に取り組む必 要があった(28)。ただ、一つ付け加えておかねばならないことは、郊商は土地経営にも積 極的に乗り出し、その多くがいわゆる商染型地主として生産段階をも押さえていたという 事実である(29)。しかも魏藻貞の件でも明らかなように、米の取引に関しては聾戸と緊密. に連携しながら、島内流通にも目を配っていたことを忘れてはならない。台湾側の米油状 況が郊商の経済活動の機会をすべて奪ったと考えるのは早計であろう。.  地方政府と郊商の思惑は必ずしも常に一致していたとは言えないが、島外輸出という点 から見ると禁港という手段を執ることでは利害を同じくしていたと考えることができ、米. 一10一.

(11) 価の安定による治安の落ち着きが島内における租穀の徴収・運搬や経済活動に不可欠だっ たこともまた事実である。軽薄は官の意向や治安状況、大陸市場や島内市場の動向を見極 めながら禁港という措置に臨んでいたものと思われる。.  次に、淡水同知や新竹知県の側から禁港を見てみたい。淡新地域を管轄する直接の責任 者としては、治安の維持が最大の関心事であったはずである。『郵貯棺案』に記載された様. 々な請願とそれに対する長官の決定内容からは、胃壁や郊商を通じての要請には可能な限 り応えようとする姿を見て取ることができる。豊沼についても、竹塾の治安維持を担当す る総甲などからの実施の具申に対しては、多くの場合その意見を取り入れる方向で対応し. ている。政策決定や地域支配に果たす胃吏の役割の重要性にも目が向くが、ここで問題と したいのは、禁港実施の決定権が誰にあったのかという点である。商船が港から米などを. 積んで出口する際の護照を発給する権限は確かに彼ら地方長官が握っていたようである (30)。しかし、禁港という措置の発動にあたっては食糧供給基地としての役割は維持しな. がらも地域の治安の悪化だけは阻止しなければならないという現場責任者としての苦悩を 垣間見ることができる。由緒4年(1878)の四月の例を挙げれば、端境期に入り米価の上昇. に苦慮した淡水無知が台湾兵備道に対し同職実施を上申したのに対し、裁台の夏霞編は次 のように解答している。.   上年省画災漱、米償増昂、須籍嘉米接濟、未便禁港。前櫨該丞二月初三日具稟到道、   即縁取雲華案。整復請星行禁港、而又不用副査候批、大属非是、仰書北府査明弛禁、   並遠望申莇。緻(31)。. 即ち、道台は福建本土の米価高騰を理由にこの申し出を差し戻している。実はこの解答に もあるように、淡水同知からの要請は今回が初めてではなかった。しかもこの件に関して. は、最初に道台に要港の申請がなされたのと同じ二月の初めに、淡水同仁陳星聚から督撫 や虐政使などの大陸在住の上級官僚に対し報告がなされていた。光緒4年(1878)2月4日 付の『淡新棺案』14101−103はその内容を次のように伝えている。.   去冬米谷償昂、紳民盛蟻封禁出口。卑職敵廃以省米欠乏、正望各路商運流通、連射民   食、況毫民省民、更關桑梓、豊本遇羅、電命封禁、無如搬運日多、糧債日貴、歴有感   報摺内磯明、兼以交春雨水過多、雑糧浸壊、米谷益昂、蜜月祈晴稟議通報、憲豊各県   案。現在正月下旬以来、毫北米償、毎石四竃、上等陳米有事至四元一・こ三角不等。以.   寝冷属通用七二番計之、照米市旬報毒悪二両八銭、尚属不敷、即南路米償、刻下上米   毎石菖需三元七・八角不等、南北通計、総在二両八銭以上、若衣冠運省、再加船脚袋   皮、隅石需米心元五・六角奪権、毫償貴於省糧、商人漁利是圖、誰細作製本蝦鎖運、.   招之不鯛、於省無補、乃磐戸乗此圃積債益居奇、貧民粒食維難、弱者忍餓喘飢、強者   硬踪勒買、添地方則恐有生事。卑職倣鷹察看豊漁、即不禁港、於省米之招運、未必有   商、於毫地之貧民、深虞乏食、因准南北血路所請、即於二月初五日起、凡有出口之船、.   不論前司何虎、於本船酌帯食米外、不准装細米谷出洋、頸縄市債、一面勧令各郷庄挙   辮平羅、以濟貧民。卑職傲鷹為平定米債、接濟貧食起見、合將暫行禁港、與地方勧辮 一11一.

(12)   平種麹縁由、欧文申牒報、仰祈・・・・・・…  再和事属山並掲米、尚有待船起運   囲米、先後民有七千石、此係去年奉嬢哨艦、一二有益、即催垂衣、該紳亦不能以禁港   江口面魂、合併聲明、除虚報 某憲外、為此備由具申具牒、伏乞 面立牒者。 陳星聚は.まず、本来自分としても禁港など実施に移したくないことや、台湾側の天候不順 などによる米の値上がりが著しいためにやむを得ずこうした措置の発動を申請しているこ となどを切々と訴えている。そして、台湾における具体的な米の価格を提示した上で、輸 送経費を加えた場合の価格が福建本土での米価を上回ってしまい、これでは米を大陸まで 運ぶ商人など誰もいないではないかと事態の深刻さを突きつけている。つまり禁港によっ. て敢えて大陸側の米価を上昇させることでこそ米不足の解消を図ることができるという理 屈を持ち出しているのである。瓢虫が台湾側の救済に止まらず、本土側の米不足解消にも. 役立っことをアピールすることで、何とか禁港の実施に同意を取り付けようとしている姿 が浮かび上がってくる。.  このように見てくると、少なくとも禁港実施の決定は同知レベルの専権事項ではなかっ たことと、それでも地域の声を具体的政策に反映させようとする地方長官の姿、さらには. 食糧事情が逼迫した清末においても台湾の食糧基地としての機能は依然として重要視され ていたことなどがわかる(32)。また、直直実施中においても船内消費用として一定量の米. の積み込みは認められていたため、船戸の中には心慮をチャンスととらえ、この制度を悪 用して許容量以上の米を運搬するものが少なくなかったようである(33)。つまり、出港は. 心拍や上級官庁との関係だけでなく、大陸への米の運搬を担う船戸との関係にも配慮が必 要であった。心血については、地方政府は様々な利害のバランスをとりながら実施に移す ことを求められていたと言えるであろう。.  禁港に対する竜台の態度が一貫していたかどうかは明確にすることができない。ただ、. 台南に駐在する台湾兵備道は光緒11年の台湾省建省まで台湾統治の最高責任者であり、福 建本土に対し安定的に米の供給を継続することが求められる立場にあった。従って史料的 に検証できる範囲内では、禁港実施の決定権は道台にあり、これまで見てきたようになか なか首を縦に振らない場合が多かったのではないかと思われる。.  南港については台湾側にとって具体的にどの程度の効果をもたらしたかなど、今後検証 すべき点が多い。. おわりに.  清末の台湾北部において地方政府が実施した米価抑制策の背景と現実から何が見えてく るのであろうか。.  清朝支配体制という大きな枠組みの中では、台湾は当外の地と見なされていたが、少な くとも地方政府レベルでは地域の米穀需給に関与し、一定の米価対策を実施に移していた。. ただそれは治安対策の色合いが濃く、米穀流通に介在して利益を上げる商人及びその同業 組織に依存する側面が強かったため、効果も限定的なものであったことは否定できない。. 一12一.

(13) 淡水庁当局は郊商ギルド(週番金長和)や聾戸団体を取り込んだ形で米価対策を実施しよう. としても、彼等を深く関与させればなおのこと、なかなか実効ある対策とすることが難し いという状況に直面していたと見ることが出来る。本稿で主に取り上げた義塾地区に限っ てみた場合、清朝の体制が揺らぎ、支配の弛緩が表面化してきた清末という時期、地方政 府と卸商らとの関係に変化が生じていたことは既に先学によって明らかにされている(34)。. 官権力に対する商人達の距離のとり方が米価政策実施にどのような影響を及ぼしたかは大 きな課題であるが、同治12年(1873)には麓金局が設置され、長年にわたって錘郊が握って. いた抽分権が竹璽麓金局へ移るという大改革が実施されている。こうした官側の政策に対 して、商人側は公益的活動から身を退いていくなど、プリミティブで、より個別的な利益 を優先する活動を前面に打ち出さざるを得なかったことは想像に難くない。義倉設置に対 する商人達の姿勢を見ても、官の意向が直線的に民に伝わるということが難しくなってき た状況の下での米価対策の実施であったと見ることが出来る。.  台湾海峡を挟んでの米の流通が名実ともに皇運中心となり、しかも台湾側の米価が上昇 するという状況は、郊商・住戸をはじめとする米商人にとっては必ずしも決定的なマイナ ス要因として商売に打撃を与えたとは考えにくい。台湾米価格が高騰すれば大陸側との価 格差が縮まり利幅も狭まる一方、二戸との連携などを通して生産から流通までの系列化を 強め、島内における米穀需給動向にも対応していた実態を窺い知ることができる。つまり 郊商の土地経営に対する資本投下の進展と台湾側の米価高騰という現実を考え合わせると、. 米不足という事態は危機的状況であると同時に、米商人にとってはある意味で絶好の商機 でもあり、官との関係、地域社会での役割にも再検討を加えながら自らの利益確保に懸命 になっていた畑違の姿を思い描くことができる。従って、禁港の実施時期や内容、米価統 制など個別の政策については、利害関係が一致する部分においては官民が協調を保ちなが らも、相反する内容については各ギルドを巻き込んでの対策も思惑通りの成果を上げるこ とが難しかったと考えるべきであろう。禁港破りの多発などから見ると、それはギルドと しての統制力の緩みとも捉えることができるし、また、官権力とギルド側との距離の拡大 と見ることも可能であろう。竹塑地域の郊商たちは地方行政事務においては常に「決定」 と「実行」という役割を担ってきた(35)。しかしながら、今回検討の対象とした米価対策. への関わり方は、「決定」部分への関与は維持しているものの「実行」という面からは撤退 を図ろうとする郊商の姿を映し出していると言えるであろう。.  一方、官側の動きを見ると、実施した対策が一体どれだけの秩序を生み出すことができ たのか、どれほどの実効性があったのか、その点の評価は難しい。地方政府としては治安 の維持を最大の目的として、郊商をはじめ胃吏や各地の代表者である総理などから上がっ てくる請願に対しては、かなり一肯定的・積極的に対応し、状況に癒じて可能な範囲での対. 策を実施に移した、或いは移そうとした。従って、清末の混乱期において、しかも台湾に 対してさしたる統治意欲も持たなかったはずの官僚達による米価政策など、もとより存在 しなかったのではないかという見方があるとすれば、そこには若干の修正を加える必要が. 一13一.

(14) あろう。.  以上、小論は清末の台湾北部の状況を部分的に切り取ってつなぎ合わせただけのもので、. 米価対策の構造的分析を試みるという当初の目的からは大きくはずれてしまうことになっ た。また、他地域との比較や歴史的脈絡の中で検討を加える作業も不十分なままである。 官と民との関係という、米価政策の根本的な部分を含め、課題とすべき点は多い。. 註 (1)安部健夫「米穀需給の研究一『雍正史』の一章としてみた」(『東洋史研究』15巻4号、1957. 年3月、後に『出代史の研究』訴訟社、1971年再録),王元慶「清畠台湾的米産與外錆」(『台. 湾文献』9巻1号、1958年3月)などのほか、最近の研究としては、高銘鈴「雍正・乾隆 期における福建・台湾間の米穀流通」(『九州大学東洋史論集』27号、1999年4月),同氏 「清代中期における台運体制の実態についての一考察」(『九州大学東洋史論集』29号、2001. 年4月),同氏「玉9世紀前・中期における台湾米穀の流通に関する一考察」(『東洋学報』85. 巻2号、2003年9月),及び拙稿「運用規定から見た台運の性格について」(『駒沢史学』64. 号、2005年2月)などがある。また郊商や郊に関する研究は、森田明「鼻血台湾における 鹿港鎮の交易機能」(『東洋史論』4号、1982年9月),栗原純「清代台湾における米穀移出 と郊商人」(『台湾近現代史研究』5号、1984年12月),卓露華『清代台湾的商戦集団』(宮. 原出版社、1990年2月),林玉出『盛代竹塾地区的在地商人面出活動網絡』(聯経出版、20. 00年5月)などを参照されたい。この外の研究成果については、拙稿「清代二心問におけ る米穀流通研究の現状と課題」(『現代台湾研究』21号、2001年3月)及び林玉茄・李血中. 著、森田明監訳『台湾史研究入門』(汲古書院、2004年1月目第3章2経済(3)商業貿 易と交通を参照されたい。 (2)拙稿「清代台湾北部における米穀流通と磐戸」(『現代台湾研究』23号、2002年7月) 参照。. (3)㎞perial Maritime Customs, TAMSUI Trade Repo質sによると淡水海関からの米輸入 量は光緒8年(1882)以後、次のようになっている。. 光緒8年(1882). 66028(担). 光緒13年(1887). 67731. 光緒9年(1883).  198. 光緒14年(1888). 46164. 光緒10年(1884). 光緒15年(1889). 16371. 光緒11年(1885). 光緒16年(1890>. 45988. 光点17年(1891). 44662. 油壷12年(1886). 1525. (4)『十八棺案』14101−1,同治4年(1865)4月18日付,淡水分府(同知)王鋪の通達. 「旋因迭奉○○○撫憲札筋以省城根本重地、刻下兵勇雲集、食指日繁、○00傳諭郊行、 招商来毫採擢米石運○○○因。・・… 乃近日訪聞市米突然騒貴、明係好商市檜圃積居奇、. 一14一.

(15) 以致日見増昂、於民食大為關擬、言振建堪痛恨、国定便男盛曉諭外、合染出示厳禁。」 (5)註(4)参照。 (6)前掲註(2)拙稿参照。. (7)威豊・同治年間における台湾北部の米価動向については、註(2)拙稿のpp.108の図1を.  参照されたい。 (8)『淡新梢案』14101−50,同治11年(1872)正月12日付,署淡水分府正式濾の通達. 「何以近日口慣陸績高昂、顕有好商内捻圃積居掴所致、合行凝血。為此、軍仰封役湯才・. 総特許輝、立傳磐戸櫨主郭看正身、將上年十二月二十六日所耀米債各流水賑簿、剋日稟緻 山影、以雪隠査、去役耐量二毛、致干並比不貸。火速、火速。」 (9)『淡新進案』14101−91,光緒2年(1876)11月の淡水分府(同知)の通達 (10)詳細は註(2)拙稿pp.104∼105参照。. (11)『豊新棺案』23503−3,光度19年(1893)5月19日付の差役からの報告には、. 「鍛金順操錬、魏藻貞並無寄伊存谷、歴年亦無與交接、惟去年閏六月、評註光之管事魏耀. 洲、支単通運壼昼鳶拾参石盤斗、至八月魏魏洲全謹啓光妻鄭氏、親類結羅壼百石、支去銀 壼百五元、入十二月又再結家守拾参石捌斗、再訪去直打百参拾陸元、両相清款、有賑可拠、. 以外並無寄存谷石。擦曽井・蘇清輝・趙泉三戸称、魏藻貞亦無寄伊存石、惟有魏啓光寄結 多年、去年六月終、魏啓光来故時再空谷石、至本年四月初、経魏啓光之妻鄭氏結羅清款、 来往各有数目簿拠、倹訊豊麗現伊已隠谷襲羅、並無量存青谷面面。」とある。 (12)前掲註(2)拙稿pp.108の図1参照。. (13)これに類似した記録は『淡新櫨案』の中で複数確認できる。 (14)『聖哲棺案』,14101−33之1,同治5年(1866)2月11日付の淡水分府側鋪の指示. 「近日新・艦一帯、米債突然昂貴、小民買食維銀、難保非磐戸妊楽曲春雨連綿、園積居奇、 高拾奪権、希圖漁利。・・・…  呈示之後、上米毎石償銀只准在四元以内、准減不転加増、 自力磐戸好商高取閉羅、致滋事端。」. (15)r淡新梢案』14101−31,同治5年(1866)正月27日付、淡水分府王鋪が示した米価 上米烏尖寂黙毎日清銭四百五十五文。 中米早霜定償毎斗清銭四百二十五文。 下米掛米定償聴感清瀬四百一十文。 『淡画領主』ユ4101−31,同治5年(1866)5月初9日付,総甲山輝からの報告. 「縁我塾城原係産米之臨、上年間早晩季、前角少慷、無甚大害、何以市中米慣高昂、莚近 日復突然加増、且査市中在地所耀之米稀少、上米耀銭伍百武参拾文、中米擢銭伍百壼拾文、 下米零露騨百玖拾文」 (16)前掲註(2)拙稿pp.111参照。. (17)『淡水電縫』巻三 志二 建置志. (18)『淡新棺案』「民業」の中には同治6年から8年前半にかけての記録が存在しない。こ. の時期、米価が安定していて米取引に絡んだトラブルや不法行為の表面化が減少したため 一15一.

(16) に、淡水庁当局が扱った米関係の事案がなかったことによるものと思われる。 (19)中央研究院台湾史研究所古文書室所蔵. (20)竹錘地区における義倉の設置虚血については、黄朝出『清代歯塑地圖的家族與地域社. 會一壷鄭・林両家為中心』(国史館1995)第四章第三節「地域社會的椹力結構」参照。 (21)晶晶茄、前掲書 第七章「結論」p.343、347参照。. (22)『淡新梢案』12601−2,威豊5年(1855)4月13日付,署淡水分府丁日健の指示. 「大湖口庄大小玉戸三百試論、遍旧訳療藍島、致針鼠黄不接、米償昂貴、貧民鼠食、惟有. 股富街二葉満面儲蓄之谷、壷皆嚢自認羅、疑点富張法喜出家有儲谷敷千石、任意詠出、面 高民謡社倉面谷七百餓石、兜留不借、温品溶食、懇恩示諭平羅等情。擦此、査好民圃積、 富戸閉羅、射干例禁、該段富張阿喜等家有積谷敷千石、當此米石鉄乏、不行礪i羅、已属不 合、語詞將寄存社倉義谷、兜留不登、塩払射利、尤属貌法、除稟晶晶外、合亟嚴莇。」 (23)『淡新槽案』14101−92,一緒2年(1876)12月1日付,淡水分府陳星聚の通達には、. 「査現在通淡米谷債値、淡南米債尚平、只有竹璽以至論北、米償較昂、面恥原応接濟貧民。. 弦義血画品貴之虚心、及淡北一路、開辮平羅並照市酌中定債、如花回米毎回一元、定羅三 斗四升、面面米毎洋一元、定羅三斗六升、格米山洋一元、定六三斗八升、似此公平定債於 聾虚業戸之磯米襲爵者、小回過形薦折、於貧民之謀食升痴者亦不致粒食維歎、第恐爾民未 知其詳、或馬面業戸聾舗之三論居奇、用山盛溢出示曉諭。」とある。 (24)『淡画棺案』14101−80,光緒2年(1876)4月15日付の肩山一金頭面出総理からの請願. に対する淡水同知陳並塩の“批”には、「准如涌出示、渤諭通流並禁遇耀、一面稽査社倉動 血忌羅、以濟面食。」とあり、錘前側の主張を退ける形で遇確の禁止を打ち出している。 (25)『淡新出案』14101−101,光緒4年(1878)正月22日,淡水分府陳星聚の報告 (26)前掲註(2)拙稿参照。. (27)中央研究院台湾史研究所古文書室所蔵『鹿港評家面出文書』,由緒22年(1896)8月初4. 日付。尚、文中の数字は所謂“蘇州礪”で記載されているものをアラビア数字に直したも のである。また、この史料は中央研究院のスタヅフによって解読が進められ、近々出版の 予定であるという。 (28)『淡新劇案』12404−29,鼻緒8年(1882)8月3日には、. 「近因帰港(香山港)與大安口吐血不同、本宿毎石面債稽高、大安口出債稽賎、是正各区並. 進大安口。」とあり、多くの船が価格の高い香山を避け、より安く仕入れることが出来る大 安へ入港したという。 (29)林玉茄、前掲書 第六章「竹塾地誌在地商人的活動與網絡」参照。. (30)『淡海一案』14101−10,同治4年(18q5)4月21日付の淡水同晶晶鋳からの指示には 「撫油点本分府護照、方許配運、品品護照、不許出口、業経出示力案。」とある。. (31)『淡新試案』14101403,光緒4年(1878)4月8日付,淡水同知の申請に対する夏獄編 の“批”. (32)前掲註(2)拙稿第V章参照。また、大陸に輸入された洋米と台湾米の関係については別. 一16一.

(17) 稿において論じたいと思う。. (33)『淡新櫨案』14101−113之1,光緒6年(1880)12月27日付、請願に対する施錫衛から の通達には、. 「弦擦垂郊船戸金濟順稟稻、各船戸歴年素入香山蕾港等襖、往来買費糖米雑貨為生1船内 以積米為重、方免水路空漂、仰懇酌定食米若干、採辮雑貨等項、湊載出口等情。・・.・・為. 此、示仰城廟内外郊商磐戸、以及各商船出海舵水人等知悉、凡有各船戸等、装載雑貨前往 各慮貿易者、慮准照常出口、大船准帯食米二十包、中船准帯食米十五包、小船准帯食米十 包、以示限制。如有多髪米石、或雛無多装、而該船並無販運雑貨者、均照私運米石出口、 随時拍留究辮、決不姑寛、各宜凛遵母違。」㌧とある。. (34)林玉茄、前掲書 第六章「竹塾地臨在地商人的活動與網絡」及び第七章「結論」参照。. (35)林玉茄、前掲書 第五章「竹塾地臨在地商人的組織」及び第六章「竹錘地臨在地商人 的活動與網絡」参照。. (本稿は、2004年6月5日に開催された日本台湾学会第六回学術大会の報告者論文集 に若干の加筆・修正を加え、改稿したものである。). 一17一.

(18)

参照

関連したドキュメント

の商標です。Intel は、米国、およびその他の国々における Intel Corporation の登録商標であり、Core は、Intel Corporation の商標です。Blu-ray Disc

※ 米政府支援機関(GSE): 「Government Sponsored Enterprise」の略で、政府支援機関などと訳され る。ファニーメイ(連邦住宅抵当公社)は

「聞こえません」は 聞こえない という意味で,問題状況が否定的に述べら れる。ところが,その状況の解決への試みは,当該の表現では提示されてい ない。ドイツ語の対応表現

アメリカとヨーロッパ,とりわけヨーロッパでの見聞に基づいて,福沢は欧米の政治や

1970 年には「米の生産調整政策(=減反政策) 」が始まった。

Microsoft/Windows/SQL Server は、米国 Microsoft Corporation の、米国およびその

1 月13日の試料に見られた,高い ΣDP の濃度及び低い f anti 値に対 し LRAT が関与しているのかどうかは不明である。北米と中国で生 産される DP の

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その