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漢代財政制度に関する一考察

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Academic year: 2021

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(1)Title. 漢代財政制度に関する一考察. Author(s). 山田, 勝芳. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 23(1): 1-13. Issue Date. 1972-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4376. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. 漢代財政制度に関する一考察 山. 勝. 田. 芳. 北海道教育大学函館分校史学研究室. Katsuyoshi YAMADA : A Study on the Financ ia I Admini ion System ofthe t rat s Former Han,. 序 前漠帝国において, その財政が国家財政と帝室財政の二つに分れていたことは, 加藤繁氏の古典 ) している. しかし, この二元財政は後漢になると大司農の下に一元化す るの ) 以来定説化2 的研究1 であるが, その変革過程は従来の研究では必ずしも明確にな ったとは言えないのである. 問題の所 在を明らかにする為に先学の研究を整理しておきたい. ) は, 前懐末帝室財政規模が大きす ぎ, 国家財政との均衡を失していたの これについて, 加藤氏3 で改革の動きが出てきたが, それを断行し財政を一元化したのは後漢光武帝であ ったとする, 平中 ) は, 財政一元化の端緒を塩鉄の移管を中心とする武帝代財政改革措置に求め, 叉西村元佑 苓次氏4 ) は, 加藤氏の見解を承けつつ, 漢初の帝室財政 中心主義と武帝以後の国家財政 中心主義の傾向 氏5 とを主張する. これら三氏の見解は大局的にみて正 しい, しかし依然として問題が残される. 第一 に, 武帝以後, 国家財政中心主義の傾向があり, 且つ二元財政改革の動きがあ ったにも関わらず, 前僕末までそれを阻止した要因は何か。 第二に, 続漢書百官志記載の財政制度改革の全てが, 光武 帝の手に成るものであったか, 第三に, 制度の変革と社会経済的諸状況との関係は如何. この三点 で あ る.. ) と, 元帝期を このうち二・三に関 しては好並隆司氏の研究が注目される, 好並氏は帝陵の問題6 ) とを取り上げ, そこにみられる帝室財産の国家財政への繰り込み現象 中心とする苑園公田の開放7 を指摘し, 叉王葬代になると, 旧来少府によっ て管理されていた山沢な どが県官に移管されている 9 ) ) とする8 . 更に好並氏は, 前懐中期以後の豪族層発展に関する氏の研究 を踏まえて, 「昭帝以後 は土豪と周辺の小農民が仮貸, 傭作の形の経済支配をもとに したゆるやかな隷属 関係の共 同体を形 成し斉民制と妥協する体制が成り立った. これによ って並存形態は捨象されて一元化した経 済体と o ) なった. 後漢期に財政の二重性が消滅していくのもこの基礎の変化のためであるl .」と主張する. この見解は, 前漢中期以後の豪族を中心とする社会経済的再編を基礎とした検討の必要性を示唆す る. 王葬代に関 しての指摘は上述の第二点に関係し, 既に王弗代において財政の一元化が進行して ) 2 r 即ち第二の問題は, 後 いたことは, 河地重造氏u) にも指摘があり, 筆者も触れたことがある1 . 漢財政制度に与えた王葬代財政制度の影響如何, という問題に発展する. 同時に第一の問題も, そ の阻止要因が克服されて, 如何にして王葬代財政制度が形成されたかという問題になる, これら諸問題を解決する為に小論では次の二点を中心に論じたい, (1) 王葬代において郡県の - 1 ー.

(3) . vo l .23 N0 ,.. i i 1of 日。1 i do Uni ion (Sect burna t l くka on I B) s ver y ofBduca. sept , ,1972. 財政機能が強化きれたのは, 武帝の積極財政策以来, 人的・機構的に地方財政制度が強化された結 果であり, これが地方における財政一元化の促進要因となる. (2) 最大の阻止要因は, 外戚と帝 室財政の癒着であ った. 一方クト朝官僚の帝室財政への干渉の為, 帝室財政運営が制約きれた. この ような帝室財政運営の行き詰まりの状況は, 何らかの打開策が打ち出されることを必要としていた が, 王蓉の登場がそれを一応解決する。 即ち小論では地方・中央の官僚層が財政制度に如何に関わるかを中心課題とするので ある. <註> ~経済史考証上』) 1) 加藤 「漢代に於ける国家財政と帝室財政との区別並びに帝室財政一斑」 (『支耕. 『古代史講 2 ) 宮崎市定 「古代中国賦税制度」 ( 『アジア史研究1』 ) , 平中苓次「中国の古代国家の財政機構」 (. 座5』 並びに 『中国古代の田制と税法--秦漢経済史研究--』 ) , 西村元佑 「漢代の勧農政策--財政機構の 『中国古代の社会 改革に関連 して--」 (『中国経済史研究』 ) , 増淵龍夫 「先秦時代の山林薮沢と秦の公田」 ( と国家』 ) , 周鱒模 「西漢財政制度之一班」(食貨第3巻8期) , 叉吉田虎雄 『両漢租税の研究』 な どの諸研究, 3) 加藤前掲論文. 4) 平中 〃 〃 ・ 5) 西村 〃 〃 , 6) 好並 「西僕皇帝支配の性格と変遷-帝陵・列候.家産をつうじてみたろ--」 (歴史学研究284号) ) 7) 好並 「西漢元帝期前後における薮沢.公田と吏治」 (岡山大学 法文学部学術紀要1 9 8) 同上, 9) 好並 「漢代の治水鷹慨政策と豪族」 (中国水利史研究1) ・前掲 「西灘元帝期前後における薮沢・公田と吏 治」・ 「前僕後半期における皇帝支配と官僚層の動向」 (東洋史研究26の4) 0) 好並 「前漢帝国の二重構造と時代規定」 (歴史学研究375号) 1 ) 11) 河地 「玉葬政権の出現」 (『岩波講座世界歴史4』 12) 拙稿 「漢代の 公田--経営形態を中心として--」 (集刊東洋学25) . さてここに 国家財政・帝室財政と言 っても, あくまで皇帝の財政の公約面と私的面の区別である に過ぎないことは言うまでもない 特に前僕においてこの区別が, 収入・支出・機関に渡 って, 細 部に出入があるものの, 判然としていたことが重要なのである, この財政の区別は, 漢書24上食貨 志上に言う賦と税に起因するものであることが, 先学の研究によ って明らかにされた。 宮崎市定 氏 は, 賦・税の起源を追究し, 「賦は軍事に関する正という力役より起こり, 税の中の最も重要なる ) 租は, 肋と称する, 祭に関せる力役より起こ った1 」 こ と を 明 ら か に した。 こ の 賦 と, 税 の 中 の 粗 が国家財政収入となるのである。 叉増淵龍夫氏は, 漢代帝室財政収入の大宗たる山沢の硯並びに商 ) した. このような中 業税は, 専制君主による山沢苑園の家産化に起因するものであることを論証2 国古代の財政は, 戦国期に急激に進む郡県制的人民支配, 官僚機構の整備, 軍事費の増大等の要因 ) ものと思われる. しかし先秦財政制度の変化を具体的にた により, 次第に国家財政を独立させた3 どることは困難であり, 秦についても秦制を継承した僕制から推測する外ないのである. ところが秦制を継承 した僕初の財政制度が どのようなものであ ったかという点は, 必ず しも明確 (歳何)独先入 でない。 一体, 漢の官制が秦制を承けて整備きれ始めたのは, 高祖が関中に入り, 「 3篇相国世家) とある時 点であ った 収秦丞相御史律令図書蔵之, 柿公為漢王, 以何為丞相.」(史記5 ことは, 諸功臣が破秦後, 初従の中桐・舎人・執盾などから秦制の都尉・中尉・治粟内史な どの官 に就いている (同18高祖功臣侯年表) ことによ って裏付けられる. 財政について言えば, 湊初は丞 相爺何がその中心にあ って運営 し, 整備したものと思われる. 彼は 「計戸口転漕給軍. 漢王数失軍 遁去, 何常 興関中卒, 轍補修と 病何, i 灰 , 上i 此専属任何関中事,」(同53爺相国世家) とあり, 「留責 巴煽租, 給軍糧食,」(漢書1上高帝紀上, 元年4月) とあるように, 軍国の経済面を一手に引き受 けた, 更に項羽との激烈な戦争を遂行しながら, 次第に支配地域を広めつつあ った高祖4年8月に.

(4) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. 「初めて算賦を為って」 (同4年) 軍国の財政を強化した, この時に国家財政が実質的に成立し , 翌年長安に定都す るとともに制度的にも整備されたと思われ る, この間, 漢書百官表によると, 嫁 丘侯裏が治粟内史になっており (史記18高祖功臣表参照) ,ほぼ同時期に韓信が治粟都尉となっ てい る (同9凝集陰侯伝, 漢書1上) 。治粟都尉は軍国の軍糧調達の為に設置された軍官であろうが, 後に 桑弘羊が任ぜられ る (史記30平準書) までその名を見ないものであっ て, 漢初並びに武帝代の臨時 )が, 同56 的官職と思われる, 宮崎市定氏は, 治粟都尉が景帝後元年以前賦鰍を司っていたとした4 陳平世家に 「平日, 陛下 (文帝) 即間決獄, 責廷尉, 間織穀, 責治粟内史.」とあ って, 女帝即位当 時, 治粟内史が天下の銭を扱い, この銭は賦鰍収入であることは誤りないと思われる. 従 って女帝 即位当時の治粟内史は, 天下の賦と田粗を司 る官署であ った. この時点以前に大きな制度の改革が なかったものとすれば, 高祖4年8月以後治粟内史は賦と租を司る国家財政担当官署であ ったと言 い う る,. ) も指摘するように帝室財政機関のようであ ところで治粟内史という官名に注目すると, 宮崎氏5 る, 百官表に 「秦官」 とあり, 高祖元年に治粟内史が設置されており, 秦代の名称を継承したもの であることは確かである, であるなら, 秦代治粟内史は, 後述の如く少府が賦鰍を扱 ったことを考 慮に容れると, 穀物で徴収される租税を担当する官署であ ったと推測され, 鄭国渠近傍を中心に造 ) と考えられよう. 従って関中の田租収入並びに公田収入を 成された関中の公田をも管理していた6 取り扱 っていた治案内史が, 郡県制の全中国への拡大とともに, 秦王と全帝国の財政を担当する, いわば帝室財政機関的性格と国家 財政機関的性格の二重性をもち, 僕にな って賦鰍を扱うことによ って, 後者の性格が一層強められたと思われる. 一方秦代賦叙担当官署は少府であ った. 椎南子13 氾論訓に 「秦之時, 高為墓樹, 大為苑圏, 遠為馳道, 鋳金人, 発適成, 入細藁, 頭舎箕賦, 輪千少 佳南王安伝 で伍彼が 「往者秦為無道, 残賊天下. 興寓莱之駕, 作阿房之宮, 府,」 とあり, 史記118÷ 9張耳伝に 「秦為乱政虐刑, 以残賦天下, 数十年突。 (中略) 収大半 之賦, 発問左之成J と言い, 同8 頭舎箕鰍, 以供軍費, 財瞳力説, 民不柳生,」とある。 共に秦の無道を述べたものであり, その内容 には大差がない, それ故, 「頭 曾箕賦」 ・ 「大半之賦」 ・ 「頭舎箕敏」 は同じく無謀な賦敏の徴収 を指した言葉と考えてよく, 軍費に供する賦鰍が少府に納入されていたのである。 そうであるなら少府で賦・税 (田租を除く) の大部分を取り扱 っていたことになる。 そして僕代 ) 指摘する少府の演化作用を考慮 になると賦を治粟内史が扱っているのだが, この点は大庭傭氏が? に客れる必要がある。 次に少府の財庫としての面からこれを考察してみよう, 大司農の属官である都内は, 漢書食貨志の師古注に 「都内, 京師王城者也」 とあり, 同8 6王嘉伝 8 ) に 「都内銭四十万万」 とあり, 更に同64下質絹之伝に 「至孝武皇帝元狩六年 , 大倉之粟,紅腐而不 可食. 都内 之銭, 賞朽而不可校,」とあるように, 大司農の管掌する銭を収蔵する財庫である. 叉同 59張安世伝に 「安世以父子封侯, 在位大盛, 乃辞禄. 詔都内, 別城張氏無名銭, 以百万数, 」 とあ が支給されたと推測され て ところで史記 る。 11景帝中6年の条に 「更命廷 っ , 都内から官吏の禄銭. 尉為大理, 将作少府為将作大匠, 主爵中尉為都尉, 長信層事為長信少府, 将行為大長秋, 大行為行 人, 奉常為太常, 典客為大行, 治粟内史為大農, 以大内為二千石 〔草昭日, 大内, 京師府滅〕 ,置左 右内官, 属大内 〔索隠, 主天子之私財物日小内, 小内属大 内也〕 大内という官名が見 とあ て 」 っ , . える, この記事は会注考讃引梁玉縄が 「所載多読」 と言うように, 「大行為行人」 は錯誤が存する と思われ, 叉治粟内史が大農とな ったのは, 百官表によると後元年である, しかしここに見られる 大内の存在そのものを否定することはできない. 草昭・ 司馬貞共に財庫と解し, 貞は天子の私財を 主る左右小内が大内に属したと解したようである, ところが漢書18外戚恩沢侯表の陽城侯田延年の 条に, 「八月 辛末封. 二年坐為大司農盗都内鏡三千万, 自殺. 〔如淳日, 天子銭蔵中都内, 叉日大 一 3 ー.

(5) . vo l .I .23 No. ion I B) i i i ー i do Un ty of Educat on (Sect ver J0urnaーof H0k { s a. Sept . ,1972. 内〕 」とあり, 如淳は都内を大内とも言うと述 べている, 果 して然らば, 大内は財庫であり, 且つ都 内のことである, となろう, ところで同74丙吉伝に 「後少内蕎夫白吉日, 食皇孫, 亡詔令. 〔師古 」とあり, 師古は少内を披庭の財庫の官であるとする. しかし披庭の 日, 少内, 披庭主府減之官也〕 )と思う. 少内が後漢でも財 属官というよりは, 先の司馬貞の如く, 宮中の財庫官とみた方 がよい9 0 ) 」 とあり, 庫官であ ったことは, 周礼1天官職内条鄭注に 「職内主入也, 若今之泉所入,謂之少内1 所職主」 各自檀其像理 調倉庫少内膏夫之属 疏引の王隆漢官・胡広解話に 「小官膏夫, 各檀其職, , とあることからわかる, 即ち前僕代, 大内と少内という 財庫官があ ったのである, 大内が都内であ るとすれば, 少内たる宮中財庫官は少府属官の御府であろう。 この都内と御府を 皇帝の公的財庫と 私的財庫という意味から, それぞれ大内・少内と呼んだ可能性は極めて高い. 従 って景帝中6年に 0平準書に 「而府庫徐貨財, 京師之銭, 大内を二千石とし, 左右内官をその属官としたのは, 史記3 累巨万, 貫朽而不可校J とある状況に対処する為に, 財庫を左右の二つに増設 し, 同時に大内の官 位を高めたものと思われる, しかしこれも一時の改制に終わり, 大農の積極的経営が要求された武 1 )のであろう. 百官表に明文は無い が, 漢初都内が大内という 帝代には, 官位の低い都内とな った1 名称であ った可能性もある, このように, 漢初, 京師に大内と少内と呼ばれる財庫が存在したことに注目すると, 秦代少府に 納入された賦赦 が大内に蔵され, 且つ大内・少内共に少府の属官であ ったと推測 される. 即ち少府 の財庫のうち, 公的な大用に供する賦敏を収蔵したもの が大内であ った, 秦制を承けた漢は, 賦を 治粟内史の管掌とした為, それを収蔵する大内 が治粟内史の下に移されたのである。 これは少府の 演化作用の一つであると言 ってよい. しかし漢初の少府が依然として大 きな財政力を有 した官署で あ ったことは, 高祖5年以後2 1年間少府の職にあ った陽成延が 「長楽・未央宮 を作り, 長安城を築 いた」 (史記19恵景間侯者年表) ことからも窺われ, 漢初将作少府の費用 が 少府から支出されたの ではないかとも思われる. 以上の如く, 秦代少府がもっていた皇帝と帝国の財庫という二重性も, その演化作用とともに, 帝室財政担当機関としての性格を強めてい ったものと思われる. このような経過で, 治粟内史・少府はそれぞれ国家財政・帝室財政の担当官署として の性格を強 ニーを握るので めたが, その頂点に武帝代があると言 ってよい, この時期に大司農が財政のヘ ゲモ, あ る,. <註> )宮崎前揚論文, 1 2) 増淵前掲論文.. ) 平中苓次前揚論文. 3. 4) 宮崎前掲論文, 5) 同上. 6) 増淵氏は前掲論文において, 秦代関中に公田が造成され, 帝室財政収入となったとする, 本文に述べたよう に考えれば, その担当官署 が治粟内史であっ てもさ しつかえない. 従って漠代にも治粟内史管理下の公田が関 中を中心に相当数あった, と考えることは困難ではない. 漢代少府は, 天下の山沢を管理する官署 として, 民 に仮 した公田収入を扱うとともに, 宮廷 関係の必要現殻を収支する為, 苑圃内外を中心に多くの公田を管理 し ていたと思われる, この公田は, 周鷺漢氏が前掲論文で, 前漢財政制度の特色と してあげる, 各官署の自給制 によるものであろう. 平準書に 「而水衡少府大農大僕, 各置農官, 住往即郡県比没入田田之,」とあるように, 大量の穀物を収支する必要がある官署 が, 公田経営を行なっ ているのはそれを裏書する. しかしこのような自 蔽伝附ヰ淵軍条に言う山郷の事 給制度も国家財政の場合は次第に大司農からの支出に切り換えられる. 漢書66勘! 例は, 宣帝の頃まで光裸票 ー下の郎官の経費が郎官の自弁であったことを示 し, 楊陣によってようやく大司農の 支給を受けることになったのである, ) 大庭 「漠王朝の支配機構」 (『岩波講座世界歴史4』 7 ) 8) 元狩六年とあるが, 劉奉世のいう如く誤りである, 平準書の如く武帝初年のことである, 絡氏は 「僕の醤夫」 (東洋史研究1 4の1・2合刊号) で, この少内嵩夫を師古によって故庭少内丞の 9) 大庭す 一 4 ー.

(6) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. 属官とするが, 液庭の属官 に少内の存在を検出できない し, む しろ本文に述べるように大内との関係から考察 すべきものと思う. 10) 鄭玄は少内を銭が収蔵される所とするが, 後漢代少内と呼ばれるに相応しい宮中財庫官は, 少府に 「女を以 って属す」 中蔵府であろう. 続漢書百官志によると 「掌中幣束金銀諸貨物」 とあり, 鎌田重雄氏は 「後漢の 西園軍」 (立正史学32) において, これに基き, 銭を取扱わないとする, しか し霊帝が西園に庫を設置する以 前, 既に後漢書2 6章彪伝に 「章和二年夏, 使謁者策詔日, ……其遣太子舎人, 詣中隊府, 受賜銭二十万」 とあ り, 叉同65段頭伝に 「時苔太后臨朝, (中略) 敵中臓府, 調金銭孫物, 増助軍費」 とあって, 中蔵府は銭を扱 い, しかもその金銭株物が軍費に充当されている. 従っ て同71皇南嵩伝に 「召撃臣会議, 嵩以為宜解党禁, 盆 出中蔵銭西国厩馬, 以班軍士, 帝従之.」 とある中職銭は, 西園の庫銭ではなく中蔵府の銭である. それ故, この記事を基に西園八校尉が西園の庫銭を費消 したという鎌田氏の結論には納得できない, また筆者は, 大司 農に徴収される銭貨の多くが中蔵府に納入されたのではないかと考えている. 後漢書7桓帝延寮5年5月の条 に 「甲申, 中蔵府丞禄署火」 とあり, この 「丞」 を続漢書五行志は 「承」 に作り, 玉海123少府の条中蔵府令 注に 「五行志, 中職府承禄舎」 とあり, この 「丞禄」 は 「承禄」 の意味であり, 即ち官吏が俸禄(「半銭半穀」 の銭の支給) を受領 した官署と解した方がよいと思われ, 後漢の中蔵府は前漢の都内と御府とを統合した機能 をももち, 唐代大府寺の一起源 であると思われる. 周礼30夏官司勲条鄭司 農注に 「若今時候国, 有司農少府銭 穀尖」 とあり, 疏に 「漢法穀入司農, 銭入少府」 とあることも上述の推測を裏書し中蔵府の機能が改めて注目 されるのである, 11) 平準書 に元光末年乃至元湖初年のこ ととして, 「乃募豪民田南夷, 入案県官, 而内受銭於都内」 とある.. 僕初以来の蓄富を費消し尽した武帝は, 対外戦争・土木の費・著修な どの費用捻出の為に, 張湯 ・桑弘羊らを重用して新財政策を実施 した。 塩鉄専売・武功爵・均輪平準・告繕等々が そ れ で あ ) る, これについては先学の研究があり1 , 個々について触れないが, ここでは武帝代新財政策が引 き起こした, 制度的側面への影響を考えたい。 )官吏が増加したことである, 百 まず考えなければならない ことは, 吉田虎雄氏も指摘する如く2 官表に, 漢末の吏員数が 「目佐史至丞相, 十二万二百八十五人」 とあり, この多くが武帝代増置さ れたものであることは, 続漢書百官志の序からも窺われ, 百官表には武帝代新設の官が相当見られ るのである. 更に売爵売官 も官吏増加の一原因となった, このような官吏の量的増加は, 当然のこ とながら俸禄や経費の増支を要請し, 財政に圧迫を加える。 しかも吏員の裁減は簡単に実行され難 く, 積極財政策が終錆を告げた後も経常的に支出される, 一例として, 京師詰官に給する山東の漕 穀量が, 漢初の数十万石から, 武帝代には四百万 石となり, 宣帝の時にはそれが故事として定制化 ) さ れて い る こ とが 挙 げ ら れ る3 。. 新財政策の担当官として, 中央には均輪・平準・塩鉄官が設置され, 叉鋳銭並びに上林苑担当官 署として水衡都尉が新設された. これら新官署によ って, 鋳銭権を中央に集中し, 全国の塩鉄を統 制し, 更に 「轟く天下之貨物を寵して」(平準書) , 商業利潤をも中央に集中した. 中央対地方とい う視角をとるなら, 武帝代は財政の中央集権時代と言いうる, しかし中央の財政集権と積極拡大策 は, その遂行を保証する地方官署の制度的整備を必要とする. 端的に言 って郡県の機構拡大整備と 吏員増加がもた らされたのである。 鋳銭の禁や塩鉄の専売は, 盗鋳や私塩私鉄を禁ずるに足るだけの警察的機能の充実を要請する.. 「目造白金五鉄銭後五歳, 赦吏民之坐盗鋳金銭死者数十万人, 其不発覚相殺者, 不可勝計, 赦目出 者百像万人. 然不能半目出, 天下大抵無慮皆鋳金銭炎。」 (平準書) とある状況は獄官や治安関係の 郡県属吏の増加をもたらし, 酷吏の活躍を必要としたであろう. 先述の百官表記載の吏員数は, 武 帝代にこの治安関係並 びに後述の経済関係吏員が, 郡県の属吏を中心に増加した結果と思われる, ) 厳耕望氏は4 , 「然則西淡中葉以前, 丞以下之大吏日卒史, 其員十人, 各有書佐以佐之, 組織規模 不甚大, 中葉以後組織逐漸拡大, 非秦及漢初之比炎.」と述べ, 前漢初期地方吏員の員額は少なか っ ー 5 ー.

(7) . vo l .23 NQ I. i i i lo f H0kkaido Uni t Journa on (Seet on I B) ver s y of Bducat. Sept . ,1972. たが, 中期以後に増加し, 後漢になると例えば曾稽郡では橡 史が五百人以上になった (後漢書81独 6によると 行伝陸続伝) ことを明らかに した. 実際, 地方分権化が 一層進展した後僕では, 通典3 ) 「都計内外官及職掌人, 十五万二千九百八十六人5 」 とあ って, 一層増加している. これは上述の 推測を裏書するものであろう. 次に新財政策を直接担当した郡県の経済関係属吏の充実について, 主に塩鉄専売を中心に考えて )に詳細な研究 があり, 鉄専売が全てに渡って みたい。 塩鉄専売については, 影山剛・藤井宏両氏6 国営であ ったかという点で両氏の見解は異なる, この点については, 論断しうる根拠を持たない以 、 上触れない. しかし両氏共に, 塩鉄専売の重点が, 生産管理に基 づく流通支配に置かれたことを指 摘 している. 従 って, 運輸販売の担当者としての郡県の役割を重要視する必要がある。 影 山 氏 は 「塩の専売制における流通部門の重要部分を直接担当 して重要な役割を果 したのは それぞれの地方 ) の県等の地方官署ではなか ったかと思われる? 。」と述 べたが, 蓋 し正鵠を射たものであろう. 史記 12 2酷吏伝減宣伝に「面宣為左内史. 其治米塩, 事大小皆関其手, 目部署県名曹賛物, 官吏令丞, 不 得檀揺, 痛以重法縄之, 」とあり, 宣は元封元年に左内史となっており (百官表) ,元狩4年の塩鉄専 - 売以後, 郡県が塩を扱 ってい る, 更に宣帝の時頴川太守とな った黄覇も 「米塩塵密, 初若煩砕, 然 覇精力能す 篤行之.」(漢書89循吏伝黄覇伝) とあるように塩を扱 っている. このように, 塩は県の担 当官が扱い, 郡太守がその運営権を握 っている. 左内史及び頴川郡にはそれぞれ鉄官があり, 恐ら く鉄に関しては, 鉄官が冶鋳を行ない更に在庫管理並びに販売を行な っていたものと思われる, 更 に漢書64下終軍伝に 「元鼎中, 博士 徐優使行風俗, 優矯制, 使勝東魯国鼓鋳塩鉄, (中略) 軍詰優 日, (中略) 且塩鉄郡有徐域, 正二国廃, 国家不足以為利害, (中略) 叉詰優, 謬東南近張邪, 北 接北海, 魯国西枕泰山, 東有東海, 受其塩鉄. 優度四郡口数田地, 率其用器食塩, 不足以井給二郡 邪. 将勢宜有徐, 而吏不能也. 何以言之. 優矯制而鼓鉾者, 欲及春耕種膿民器也. 今魯国之鼓, 当 先具其備, 至秋乃能挙火, 此言与餐反者非.」とある. これは専売制直後の事件であるが, 注目す べ き点が三つほ どある. (1) 漢書地理志によると, 魯国には魯県に鉄官があり, それが既に元狩4 年に設置されたとするなら, 常時稼動 しているのではなく, 冶鋳を停止することもあ った し, その 決定権は中央にあ った, (2)で葵初, 諸侯王の収入となっていた塩鉄が中央に回収されている. 史 記122酷吏伝張湯伝に 「越国以冶鋳為業。 王数訟鉄官事, 湯常排趨王,」 とあり, 地理志に鎚国鉄 ) の記載はないが, 専売制実施とともに冶鉄が鉄官の管理下に入 ったと思われ, そのことは 「而 官8 ’諸侯王の膨大 超王鱈権, 便便即県為質人権舎。 入多於国経租税,」 (同59五宗世家) とあるような, な商工業税収入を著しく減少させたであろう, 即ちこの時期, 中央が財政的にも王国を強く規制し つつあ ったことがわかるのである, (3) 終軍が 「健度四郡ロ数田地, 率其用 器食塩, 不足以井給 二郡邪」 と詰責する時, 国家は需要郡供給郡の必要鉄器数並びに食塩量を把握して供給しているか ら不足はありえない, ということを言外に示している, 即ち食塩鉄器の貯蔵・輸送に 当た っては, 口数田地から割り出された必要数量を基準としたものと思われる。 それ故塩鉄専売は, 口数田地の 把握という郡県制支配の貫徹に負う所が大であ ったのである. そ して原則的には, 戸籍並びに地籍 未登録者には, 官は塩鉄を供給しえないことになる. 果して然らば塩鉄専売の遂行は, 逆に郡県制 を強化することにもな った筈である, それは黄 覇のように詳密な取り扱いを官が した 時, 甚 だ し い, これは地方にあ って土地と人とを集中しつつあ った豪族層には大きな打撃となったであろう, 塩鉄の論議で, 賢良文学が強く塩鉄専売廃止を主張したのは, 唯に塩鉄の苦悪や官の不正の為のみ ならず, 郡県制支配と密接に関係していたその運営に抵抗する豪族層の要求を背景にしていた, と も思われるのである. ところで徐優は魯国で冶鉄を行な ったが, 「使膨束魯国鼓鋳塩鉄」 とあることから膨東国では煮 - 6 ー.

(8) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年 ,9月. ) を参考に して両国周辺の郡国をみると, 魯 塩を行な ったのであろう, 労斡氏作製の西僕地理志図9 国に隣接する泰山・東海o山陽・東平・楚に鉄官があり, 勝東に隣接する東莱・北海・狼邪に塩官 があるが, 供給郡がそれぞれ泰山・東海, 北海・張邪とされたのは, 恐らく各郡国間の交通の便不 o ) 」 とあ 便によ ったと思われる. この各郡国間の輸送は, 塩鉄論禁耕篇に 「良家以道次発徹運塩鉄l るように, 地方官が, 郡県民を徴発雇傭したのであろ う, 従って塩鉄専売は (3) で触れたように 郡県制との関連なくして運営はできない し, 更に地方官が輸送を遅滞なく行なわねばな ら な か っ た. 以上の如き塩鉄専売に伴う地方官の業務拡大は, 厳耕望氏H)によ って復原された郡県属吏の中 でも, 民政関係の戸曹・比曹, 財政関係の倉曹・金曹・市鞍, 交通関係の集曹・漕曹・ 法曹な どの 充実をもたらしたと思われる. 漢書89循吏伝黄覇伝に 「補左鷹朝二百卒史, 鷹朗以覇入財為官, 不 署右職, 使領郡銭殻計, 」とあ って, 財務関係は右職ではなか. った. しかし現実の重要性は増大して い た ので あ る,. 以上において, 武帝代新財政策が, 地方吏員数の増加と機構の充実をもたらしたことを論じてき た. 次にこれが惹起Lた問題を考察 しなければならない, 数量的に増加した, 精密な漢 代 文 書 行 2 )の実質的担い手たる小吏層 と, 様史層の中核を構成した豪族の問題がそれである。 漢書8宣帝 政i 申爵3年秋8月 の条に 「詔日, 吏不廉平, 則治道衰. 今小吏皆勤事, 而奉禄薄, 欲其母侵漁百姓, 1哀帝緩和 2年条に「斜吏三百石以下奉」とある。 「吏 難突. 共益吏百石以下奉十五J とあり, 叉同1 6の 百石以下」 とは, 百官表に 「百石以下有斗食・佐史之秩. 是為少吏,」とある少吏を指す. 通典3 員数からみ 並びに続漢書百官志注引換官の河南郡の吏 と職掌人数との比較 後漢官秩差次の官員数 , ても, 百石以下の地方少吏層が先述の前僕吏員数の大部分を占めたことは疑ない, 叉塩鉄論疾 貧篇 に 「賢良日, (中略) 今小吏禄薄, 郡国蹄役, 遠至三輔, 粟米貴, 不足相脂, 常居則置於衣食, 有 e追, 小計権吏, 行施乞貸, 長吏侵漁Jとあり, 王利器 故則売畜粥業, 非徒是也. 瞬使相遣, 官庭都 枝注によると 「計」 は上計を指す。 昭 帝代小吏層は俸禄少なく, 且つ長吏や上計の権吏の謙求に応 じざるをえなかった。 即ち少吏層においても権吏と小吏の分化があった. この椎吏は諸曹の撒史層 であるが, それは次第に豪族によ って占められてい ったものと思われる。 ともかく低俸緑に苦しむ 小吏層の問題が, 緊急に解決を要する政治問題化 していた, 小吏が百姓を侵漁するのを防ぐ為に, 宣帝は俸禄の引き上げを行なわ ざるをえなかった, 哀帝の場合も基本的には同様であろう. 「能書 s )を実際に体現していた小吏層の広範な存在は, 機構の充実 会計治官民, 頗知律令」 という常套語l をもたらし, その俸禄増額は更に地方財政の拡大を結果せ ざるをえない. それはより地方財政サイ ドでの財政運営を要請し, 同時にそれは大司農管掌の国家財政規模 拡大に つなが る. 一方郡県の右 職を占めてい ったと思われる豪族層に とっても, 地方財政サイ ドで財政が運営されることが望まし い. 新耕地を開墾する場合, 水利権と未墾地が都水官や少府に規制されており, これらが郡県段階 1 5, 豪族層を中心とした地方 4 ) で処理できるに越したことはない1 . 叉多田絹介氏が指摘するように ) 商業が, 郷里社会の再編過程の中から形成されてくるのだが, それは従来の商業課税体系の改制を 要求するであろう, 豪族層が郡県の官僚機構に関わる際, 彼らの要求を実現する方向で動いたこと は推測に難くない, この豪族層の動きと, 豪族層に上昇する可能性をもっていた小吏層の地方財政 への関与は, 前漢中期以降, 看過しえない動向であり, 地方分権化を促進 したと思われる. <註> 」(史 1)加藤繁前掲論文, 平中苓次前掲著書, 吉田虎雄前掲著書, 影山剛「前漢朝の塩の専売制(1)・(2) 学雑誌75の1 1・12) その他, 藤井宏 「漢代塩鉄専売の実態-史記平準書の記載をめぐる諸問題-(1)・(2)」 (史学雑誌79の2・3) . ,佐藤武敏 『中国古代工業史の研究』 2) 吉田前掲著書..

(9) . VO ] .23 NQ I. i i ion I B) l。f Hokー f Bduca Journa t t t ver s on (Sec く aid。 Uni yo. Sept “ 1972. 3) 漢書食貨志上, 歌寿昌の言,. 4 )厳耕望 『秦漢地方行政制度』 5) 百官表の数字と通典の数字とを無批判 に比較することは慎 しまなければならない. しか し, 百官表の 「斗食 .佐史」 と通典の 「職掌人」 とは, 孟子万章下 「庶人在官者」 の超岐注に 「若今之斗食佐史除吏也」 とある事 実を介 した時, 同一内容を指すと思われる, 但し通典の 「家什」 が十戸長を指すなら, 続漢書都国志の戸数か ら計算 して90万人以上必要となり, この点問題が残る, 6) 影山・藤井前掲論文, 7) 影山前掲論文(2), 8里の蓉ロ山が鉄 8) 読史方輿紀要並びに大清一統志によっ て, 僕代趨国領内の産鉄県を捜すと, 沙河県の西南6 順徳府条注に n晴書地理志, 沙河県有難山. 元和志, 馨ロ山在県西南九十八里, 漢碗時旧 を産する, 一統志31 鉄官也, 裏宇記・慮翫嚢州論云, 浜陽馨石, 冶鋳利器, 即此.」とある. 隣接する僕代の醜郡武安県鉄官の位置 が不明な為断定できないが, 越国冶鉄は諸ロ山で行なわれたと思われる,. 9 )労競「両漢郡国面積之佑計及ロ数増減之推測」 (国立中央研究院歴史語言研究所集刊5本2分). 10) 影山剛前掲論文 (2)36頁参照, 11) 厳耕望前掲著書, 12) 漢朝の整備された交書行政は, 居延漢簡の研究によって一層明らかとなった. 米田賢次郎 「帳簿より見たろ 漢代の官僚組織について」 (東洋史研究14の1・2合刊号) を参照. 78頁, 13) 米田賢次郎 「秦漢帝国の軍事組織」 (『古代史講座5』)2 係については, 好並隆司前掲 「僕代の治水濯澱政策と豪族」 を参照, 沢地の耕地化を郡太守 14) 豪族とオぼりの関, 9晦辿志, 質譲の上奏にみえる, の権限で行なっている事例は, 漢書2 15) 多田 「漢代の地方商業について--豪族と小農民の関係を中心に--」 (史湖92号). 3 目を中央に 転ずると, 大司農・少府o水衡都尉の三官が財政担当官であり, この三官と官僚層の 関わりが問題となる. その手掛りを得る為に, 三官就任者を検討 してみたい, 次に百官表を基礎と して就任の順に列挙する. 〔以下 姓不明の場合は0で示す, ( ) 内の数字は漢書の関係巻数, その他例えを 史記は史とする. 以下の記述で一々出典を明示 しない時は, 百官表並びに関係巻によ る。 叉就任期間・遷官・事項 等の詳細な考証は紙数の関係により一切省略す る.〕. 大司農 50・24下・29 0 16 1 , 0股, 5 , 鄭当時( . 史3 , 史108) ,4 , 韓安固(52 ,2 , 0恵. 3 , 0裏( . 史18) 95) 0) ・120) , 史30) , 0客, 10 , 張成( , 孔僅(24ド ,9 , 11 , , 0正夫. 8 .7 , 顔異(24下, 史3 .6 ) 4 1 1 3 祖 1 田延年 ( 0 ( 8 ) 1 8・ 6 ) 楊敵 6 6 6 3 ・ 6 9 ・ 8 1 2 ・ 超彰 4 0 塩鉄論 ) 桑弘羊 (2 下. 史3. . , , , , . , 5 2 0 0延 1 朱邑 1 ( 3 ) 2 0宏 2 1 ( 8 9 ) 9 王鴎 2 0幅 8 4 1 7 1 6 淳子賜 15 7 ) 醜相( . , , , , , . , . , . , . , , ) ) 75) 4 14・33A3 86) ) 6 ○充良 = , 何寿( , ,2 ,非調(29 , 居延簡2 . 25 .2 ,0尭. 夏侯秦であろう2 ( . 23 0 許商( 2 9・ 3 0 ・ 1 0 0 上 3 1 ( ) 3 ) 彰宣 ( 7 1 0義 2 9 谷永 8 5 ) 0 8 巌訴 ( 1 ) 2 朱博(83) 2 7 . , . , . , , . , , , 32 .梁 相. 33, 左 威(12・88・99中) , 弘 調. 36, 謂 成(78・81・93) , 35 , 37, 孫宝 . 34, 王 崇(72) 8 威( ) 8 昇 3 6・8 3 (77・84・88) , , ,. 少府 4 ) 1 16 , , 超鴇(90 . 史122 , 6, 0 当. 7, 0 豹 ) , 孟費. 4 , 0産, 5 .2 ,0神, 3 , 陽成延( . 史19) 5 ) 1 1 6 1 ) 1 0充国 1 4 0 3 公孫遣 上官祭( 2 1 0 1 2 2 9 0徳 1 王偉 ( 9 史 ) 8 .王温僻 , , . , . , . , , , , ,徐 , , ・ ( 1 0 1 7 后倉 8 8 7 8 ) 1 8 0悪 1 8 6 ・ 6 8 ) 1 6 6) 仁(7・60) , , 便楽成( ・ . , , . 9 , 宋時 . 15 , 奈義( . 6 88) 5 73) (30・78 ) 78) , 草玄成( . 24 , 0延, 2 , 李彊. 22 , 梁丘賀( . 23 , 欧陽地 . 21 , 20 , 詣望之( 2 8 9 順 2 忠( 77・81) ) ) 7 僚(88・73 ) , 温 , , 張 , , 召信臣(89 . , 五鹿充宗(30・67・88・93 .2 . 26 4 6) 1 30 72) , 師丹(8 , 陳成(66) ,3 . 35 , 許商 (大司農の30と , 繭宣(83) , 王賞. 33 .3 , 32 , 王駿( 6 ) 37と同) 1・86) 1 同) 7 6 , 薩修 (83) , 39 , 買延( , 40 , 趨昌(77) , 買延(8 ,4 , 董恭 , 廃真. 3 , 38 ,3 7 ) (93) , 宗 伯 鳳(44・68・86・99上 ・ 中), , 孫雲(86) , 43, 歌 豊, 44 。 42 ー 8 ー.

(10) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭禾隅7年9月. 水衡都尉 1 22 ) 45) , 張罷. 2 5).8 , 0豹, 3 , 閣奉(90 , 史1 ,4 , ○徳. 5 , 0守. 6 , 江充( , 7, 呂群胡(7・9 , ) ・ (69 越充国8 ・94上) 9 ( 1 千定国 0 ) 朱輔 7 1 1 1 襲遂 (89) 2 79 ) . , , , . , .1 , 鷹奉世( , ?。 14 , 13 , 0 福. 1 5 74) 6 68・36) , 丙鴇( 70・ .1 , 0爵, 17 , 王勲(97上) , 金敵( , 18 , 19 , 0順, 20 , 荷参 ( 98) 2 1 0 ) 9 鴇 2 2 淳 9 臨 子 長( 3 ) 2 3 4 師 . , , , 7 . , . 2 , 班 伯 (100上) , 25, 超 彪, 26 , 主 超. 2 , 轍豊 ) ( 99上 ・中) l o 2 8 0蓑 2 9 ( 6 9 辛茂 ) 3 0 李翁 ( 1 8 ) . , , , . , , これら就任者 の (a) 初任, (b) 加官, (c) 儒者である=) (d) 地方官を歴任乃至地方で , の治積が大である, などの項目について以下列挙する. 大司農; (a)1 , 執盾, 3 , 梁中大夫, 5 , 太子舎人. 6 , 亭長, 8 , 大農丞? 11 , 侍中. 12 , 大将軍 4 府吏, 1 大将軍府吏 1 5 郡卒史 1 8 郷畜夫 2 6 , 。 , , 、 . , 亭長。 29 , 長安小史. 30, 博 士 ? 31 博 ,. 士, 34 6 4田延年が元平元年に給事中とな った一例のみ, (c) , 郎, 3 , 丞相史, 37 , 郡吏. (b)1 15・23,29.30,31・33・37・38 (d) 3 ・ 5 .6 ,15・18・22 1 ).26,27.31・34,36.37 2 ,. ・1 少府; (a)1 7 , 中都官佐史. 8 , 軍匠, 5 , 亭長, 15 , 大将軍府吏。 , 博士?20 , 郎, 22 , 武騎, 2 3 郎 2 7 郎 4 3 郎 3 5 博士? (b) な , 太子中庶子. 2 , , 5 , 郎. 30 , 郎. 31 , 廷尉書佐. 33 , . , , , し. (c) 15.17・19・20・22。23・25・26・27・30。34・35・44 (d) 8 020・27・281 )・31 2 , ),38 2 ・33・361 .. 水衡都鳥士 (a)6 , 謁者. 8 , 羽林, 9 , 県獄史, 12 , 郎, 18 , 中庶子, 22 , 黄門郎. 24 , 中常侍. 9 (b) 18・201. 22・24・25・28共 に 侍 中, (c) 11・24 (d) 11 , ,. これを統計的に処理することは, 個々の事項について不明な者が多い以上 慎重を要す る (景 , . 帝以前は記載が不備であり, 当面の問題である武帝以後に 限る,)しかし, 三官それぞれ 不明者数 , に大差がないのであるから, 一定 の有効性を持つと考えて取 り扱うことにす る . まず強調 しておきたいことは, 三官の中でも特に皇帝に親近な官は水衡都尉である という点で , 4 )である侍中を同時に加官されている者が多いことは それを端的に示す 叉超充国 ある. 内朝官1 , . は後将軍とな って水衡を兼官 した, このように加官されたり, 将軍が兼官 している事例は 田延年 , が昌邑 王廃立の際露光のブレーンとして給事中とな った以外, 少府と大司農には見られない 水衡 , 都尉が極めて皇帝に親近な官であることは, 「水衡典上林禁苑, 共張宮館, 為宗廟取牲 官職親近 」 , . (漢書89循吏伝襲遂伝) とあることからもわかる. 叉 「是時許商為 少府, 師丹為光禄勲 上(成帝) , 於是引商・丹, 入為光禄大夫. 伯遷水衡都尉, 与両 師並侍中, 皆秩中二千石,」 (同100上叙伝上班 伯の条) とあり, 九卿の中でも皇帝に近い職である少府・光禄勲から, 内朝官として政治に参与さ せる為に許商・師丹を侍中光禄大夫としたが, その際班伯は侍中水衡都尉で参与してい る これは . 九脚の一と して外朝官たろ少府に対して, 水衡都尉が著しく内朝に近い官であること を示すもので ある. 更に (c) と (d) が少ないことを考慮に容れると, 水衡都尉任命に際しては 儒教的教養 , と行政手腕以外の要素が必要であ ったことを意 味する, それは皇帝に対す る親近性であ ることは言 うまでもない, 例えば成帝代水衡に就官した 王勲は郡成王太后の甥, 荷参は 王太后の同母弟 淳子 , 長は王太后の姉の子である. このような例は他の二宮に見えないものである, 叉水衡都尉就官者の うち, 御史大夫以上の大官に任じた者は予定国一人である, ところが, 越充国・潟奉世という代表 的軍人が水衡を経ていることは, 水衡が皇帝親近 の軍官としての性格 を有することを示す ものかも しれ ない,. 一方, 大司農・少府については, 共に地方での経歴豊かな行政手腕のあ る者が任じられ 且つ共 , に昭帝宣帝以後儒教官吏が増加している, しかし帝室財政並 びに宮中雑務担当官である少 府が 大 , 司農に比べより皇帝に親近であることは言うまでもない. 初任官を見ると, 少府に郎官1 5 )初任の者 一 9 ー.

(11) . Vo l .23 No .I. ・ i i i do Univer i lof Hokka t JOL on I B) t on (Sec I 1 na s y of Educat. Sept , ,1972. が多いのは, その一傍証となるであろう, 就任者からみた三官の性格をこのように押えておき, 次 節では歴史的経過について述 べたい, <話> 1) 桑山羊は元封元年, 治粟都脳領大農となり, 天漢元年, 大司農となるが, この間張成が課されて後大農の在 官者はなく, 弘羊がその職を領 していたものと思われる. 更に太始元年に捜粟都尉に駁され, 後元2年に御史 大夫となっ てからも, 楊故が任命されるまで引続き大司農を領 していたであろう. 〔西嶋定生 「代田法の新解. 〕 『漢史初探』 )を参照. 『古代史講座1 1 『中国経済史研究』 ) )・「武帝の死」 ( 』 釈」 ( , 安作障「論桑弘羊」 (. 0年以上もあり, 同一人の可能性は少ない, 漢書75夏侯勝伝 2) 大司 農尭は元延3年にも見えているが, この間3 0歳で死亡し, 「勝子兼為左曹太中大夫, 孫亮至長信少府・司農・瀞瞳」 とあるが, によると, 勝は宣帝の時9 百官表に大鰐瞳秦は見えず, 確実な年代比定は困難である, しか し元帝が太子大 儀であった勝の孫尭を高官に 任じた可能性をとって, 23尭を夏侯薬と推定 しておく, 3) 労強 『居延漢簡図版之部』357葉. 同 『考釈之部』 考証54頁参照, 4) 少府7豹と水衡都射2豹は同一人物であろう. 5) 少府9徳と水衡都尉4徳は同一人物であろう, 6) 建平2年に買延は衛尉となり,11か月後に再び少府となった. この間少府になった可能性のあるのは藤 修で 7中 7下外戚伝孝元 曙昭儀条・同2 ある, 超玄もこの時期少府であったとする記事があるが (漢書83朱博伝・同9 ーきい が が多く む しろ中少府とな た可能性 大 百官表の記事との間に矛盾 之下五行志) っ , , , 7) 百官表元始2年 「四月丁西, 少府左将軍頻豊為大司 空」 とあるが, 「少 薄」 の誤り. 8) 超充国は元平元年後将軍となったが, 漢書69本伝によると, 「煙為後将軍, 兼水衡如故」 とある. 百官表に 百氏は, 本 「水衡都尉題充国為後将軍水衡都尉」 とあるのは 「兼」 の一字を脱落 したものであろう. なお大庭” 始3年のr 飼奴征伐後 (同8宣帝本始3年条 「春正月……戊辰五将軍師発長安. 夏五月軍罷.」) 叉水衡都尉とな 6の4, 注64 っ たとする. (大庭 「前僕の将軍」 東洋史研究2 .)しか し, 同94上旬奴伝上によると, 「闇虜巳引 去, 皆不至期還. 天子薄其過, 寛而不罪」 とあり, 田広明・田順に比 して莫大な措置をとられたが, 長信少府 に選されたとみるのか至当であろう. 9) 許商が少府から侍中光緑大夫に選った時は, 元延元年である, 従って25組彪が班伯の誤りでないとすれば, 班伯は在任期間わずかで卒 し, 彪がその後に水衡都尉となったのであろう. 10) 百官表は 「幸成」 とするが, 王先議によって 「辛茂」 とする. 但 し元始3年呂寛の事件で辛氏が謙滅された 時水衡都尉であったと思われるが, 本伝に 「少子茂水衡都尉, 出為郡守」 とある点は不明である, 11) 芸文志・儒林伝に記載 がある者, その他 「明経」 乃至博士官となる, 「治易」 とか 「受公羊」 とある, 及び 太子に進授している者など, ; 12) 詳しい‘ 警官は不明であるが, 地方官か ら三輔を経て九卿となったものは, この条件に該当するものとした. 13) 漢書9 8元后伝に 「侍中水衡都尉」 とあり, 百官表は左曹とするが, ここでは一応元后伝の方をとる. 14) 内朝と外朝については, 労戦 「論漢的内朝与外朝」 (国立中央研究院歴史語言研究所集刊13本) ・増淵龍夫 「沸代における国家秩序の構造と官僚」 (同氏前掲著書) , 15) 郎官に関 しては, 増淵龍夫 「戦国官僚制の一性格」 (同氏前掲著書) 並びに宮崎市定 『九品官人法の研究』 77頁以下を参照,. 先述したように, 国家・帝室両財政は本来的に皇帝の 財政である以上, 皇帝の考えによ って運営 が変化し, 財政担当官の任命も影響を受けざるをえない. 武帝代, 帝の支持を背景に桑弘 羊が財政 の全権を握り, 少府・水衡には, それぞれ超鴇 ・王温籍, 間奉・江充という酷吏が任じられて, 新 財政策が遂行された. しかし, それを支持した 武帝の死の政袷的影響は深刻であり, 桑弘羊の立場 も微妙となる. まして内朝に 露光を中心とする勢力があ ったことは, 「先帝の制」 と称して財政策 ) 」 に を遂行することを困難に した, この間の政治史的展開について は, 西嶋定生氏の 「武帝の死1 文と田延年, 少府が奈義と便楽成, 水衡が 詳しい, 桑弘羊を倒 した後, 財政担当官は, 大司農が楊縄 ) 2 やがて宣帝が即位すると 超 充国, と全て瑳光一派で固められた . , 本始2 0 3年頃から帝親政の 方向で 財政官も任命されてくる. 露光によ って下獄されたことがある醜相を大司農に, 帝の親任厚 ) であ った予定国を水 鰍こ用いた. 更に少府に, 后倉・宋噂・篇望之・梁丘賀という東 い平尚書事2 海・鞭邪の儒者 を用いたこと, 司農に朱邑, 水衡に翼遂という循吏を用 いたことは, 良二千石を登 - 10 -.

(12) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和47年9自. 用 し, 覇道と王道を雑える宣帝の政治が, 財政三官 の任用にも現われていることを示す。 儒家官僚 が進出し, 皇帝が礼教に従うことにな った元帝代は4 ) , 中書令石顕に代表される内朝富官勢力の伸 長 した時代でもあ った。 石顕の党である儒者五鹿充宗が少府になっているのはその一例であろう, 成帝以後は王氏を中心とする外戚勢力の強い 時代である, 水衡都尉に外戚や皇帝の親近者が任命さ れて, 一層内朝官化したが, 大司農と少府は前節で述べたように, 儒者及び行政手腕を有する者が 多く就任していた, 以上のような経過を考1意に容れて, 帝室財政と, タト戚を中心とする内朝官僚の関係を考えてみた い, 問題の手掛りを得る為に漢書86王嘉伝の嘉の上奏をとりあげる. 「孝元皇帝, 奉承大業, 温恭少欲, 都内銭四十万万, 水衡銭二十五万万 少府銭十八万万 (中 , , 略) 示平悪偏, 重失人心, 賞賜節約。 是時外戚質千万者少耳。 故少府水衡見銭多・ 也, (中略) 而鮒 馬都尉董賢亦起官寺上林中」 叉 「主威巳巣 = ~ , 府滅己蝿, 唯恐不足,」 まず注目しなければならないのは, 元帝代に水衛と少府の見銭が多額 に上 ったのは, 元帝が外戚 への賞賜を節約した為であると指摘している点である. 即ち王嘉は哀帝代の 董賢の事例を踏まえな がら, 帝室財政の減少を来たす最大の原因は, タト戚や寵臣への賜与であると言うのである 哀帝の . 時には 「宮室苑園府庫之蔵 己惨」 (食貨志上) であ ったが, その大部分が賜与によるものであった と思われる43億に上る董賢の財産 (同93俵幸伝本伝) をつくり, 叉丁氏や樽 氏への賜与の為に 少 , 府と水衡の見銭を既に費消していた. この 王嘉伝の記事は, 外戚並びに内朝官僚と帝室財政との密 接な関係を明らかにしていると言ってよい, 叉奇しくも元帝代少府・水衡の見銭数と董賢の財産数 が一致することは, 43億という数が帝室財政在庫銭数の一つの限度を示すものかもしれない 更に . 哀帝即位直後の司隷校尉鰹光の上奏に 「曲陽侯根, 宗重身尊, 三世旗権. (中略) 根行賞邪 威累 , 鋲万, 縦横窓意, 大治第宅, 第中起土山, 立両市, ,殿上赤辱, 戸青墳. 遊湖射猟, 使奴従者, 被甲 持弓督, 陳為歩兵, 止宿離宮, 水衝共張.」(同98元后伝) とあり, 解光の言に誇張はあろうが 王 , 氏一族も巨額の蓄富をしており, その多くは董賢同様 賜与によるものであったと思われる 叉本来 . 皇帝の為に上林苑を 管理する水衡都尉が権臣の為に共張していることも 最も皇帝と近い筈である , 帝室財政官水衡都尉が, 外戚と密着していることを示唆する. 財政が一元化した後僕代の外戚梁糞 が, 「其四方調発, 歳時貢献, 皆先ヰ 輸上第於翼, 莱輿道其次島」 (後漢書34本伝) とあるような 国 家収入の ピ ンハネを行な ったのに比べ, 前漢帝室財政は, 皇帝との親近 な関係が維持される限り , 容易に外戚の有力な財源となりえたのである, ところ で帝室財政に利害関係をもつのは外戚だけで はない, 漢書6 6陳万年伝陳成条に 「後菟徴入為少府. 少府多宝物属官, 成皆金 炎 1校, 発其姦威, 没入. 率権財物, 官属及諸中宮黄門釣盾液庭官吏, 挙奏案論, 畏成皆失気, 」とあり, 宮中諸官が財物を率 権している, 恐らく宮中諸官に対する監察が不十分であ ったことから 彼らが種々の不正収蔵を行 , な っていたのであろう。 陳成の摘発は大いに彼らの既得権を減少させたと思われる 従 って外戚と 。 ともに, 宙官を始めとする宮中諸官が帝室財政 保持の有力な政治力とな ったと考えられ る の で あ る,. しかし, 陳成の如き帝室財政への外朝官僚の介入, 及び帝室財政節減の動きは元帝の時から進展 していた, 元帝は貢馬の上奏を受け, 少府や水衡の費を減じ (漢書72頁鴇伝) ,翼奉も宮廷費の節減 を奏している(同75本伝) 成帝の時になると 河南太守とな 「 て 治行常 為第一 」 であ った循吏召 っ , , 信臣が少府となり, 毎年数千万の節減を行ない(同89循吏伝本伝) , 先述の陳成は宮中諸官に対して 統制を強め, 谷永も少府の費用を減じて大司農の振膿を助けよと奏している(同8 5本伝) 。 更に谷永 .劉向の主張によっ て後宮の経費節減が行なわれ, 皇后の外家への遣賜に対しても厳しい官僚的締 め付けが行なわれたことが許皇后の上疏にみられる(同9 7下外戚伝下孝成 許皇后条) , 成帝代少府就 一 11 -.

(13) . vo l .・ .23 No. i i l。f Hokka ido Uni i t t Journa s ver on (Sect on 工B) y of Bduca. Sept,1972. 任者は, 宣帝・元帝の後を承けて儒者が多いが, 特に召信臣・温順・繭宣・陳成 ・寵真など地方官 の経験豊かな者 が多いのは, この時期一層少府が外朝化した ことを意味し, それがこの費用節減の 動きとなっ て現われていると思われ る, ところで地方官の経験豊かな者が多いという事実は他の面 からの考察を要請する. 前漢中期以後, 地方豪族層が地方官署の届吏を初任として高級官僚に登る ) に詳しい. 即ち第二節で述 べた地方の動向を, 地方官と 例が多くなることは, 五井直弘氏の研究5 しての経験から知り尽した者, 乃至自身が地方豪族層と同じ階層に属する者が中央高官, 特に少府 とな ったことは, 中央において, 財政一元化の最も重要な促進要因とな ったと思われる, 更に儒教 教養を身につけた官僚層によ って, 帝室財政が 「末用」 であり, 「浮費」 であるとされた時 (同77 母将隆伝) , その削 減は理念的にも正当化され, 儒術を好んだ元帝以後の皇帝は型肘され ざるをえ 成帝を諌めた谷永の言にみられるように ない。 , 皇帝が 「私田を民間に置き, 私奴車馬を北宮に蓄 えた」 (同2 7中之上五行志) ことは, このような型肘に対する成帝の慰めであ ったかも しれない. )・薮豊 (王葬の腹心) という外戚 乃至そ 実に成帝代は, 水衡都尉が王勲o荷参・淳千長・王超6 の親近者によ って占められ, 外戚と水衡の癒着が進み, 一方少府は上述の如く外朝官僚によって規 制削減され, 皇帝は財政面からも孤立した存在とな った, つまり 皇帝自身にとっても財政改革の必 要が痛感されていた. 次の哀 帝代は, 外戚丁氏・樽氏や寵臣董賢を重用 し, 成 帝代にみられた外朝 官僚による帝室財政削減の動向に ブ レーキをかけた, しかし, それは何ら成帝代の行き詰まりを打 開することはできず, 董賢への度を過ぎた賞賜は, 先述の王嘉や母将隆によって厳 しく 批 判 さ れ た. 儒教官僚の動向に逆 らうことなく, 財政制度を再編する必要があ った, と同時に, 財政に関 し て皇帝の支配を再び強化する必要があ った, 儒教理念 を体現し, 且つ外戚であった玉葬の登場が そ れを解決する. 元帝以後, 皇帝権力は礼教の下に置かれたことによ って相対化し, それが結局主葬の纂奪を可能 にした, 同じ条件の存在は新王朝が纂奪されることをも可能にする. 改めて皇帝の至上権を確立し なければならない。 礼教に基づきながら可能な限り官制や, 明堂・群薙o霊台などの諸制度を整備 したことは, 纂奪の不安を除き, 皇帝の至上性を制度的に保証する為であ ったろう. それは 儒教官 僚層に妥協するとともに, 皇帝の権力の優越性を強く主張するものであ った. このような妥協と, 皇帝権の強化という両面は, 財政にも強く現われている. 始建国元年には武帝以来保持してきた鋳銭権を郡国に分ち, 翌年六策の令を設けて, 郡県の管轄 とした. それは従来の帝室財政収入を大幅に地方へ移管したことを意味する, これにより同時に 義 和 (漢の大司農) 管掌下の国家財政が拡大し, 事実上財政は一元化したと言っ てよい. これは先述 来の地方や中央での要求に合致したものであり, 一方地方官署では属吏層が広範に存在し, 制度的 に拡大整備 していたので, この移管された財政権を十分に運用 しうる力を持っていたのである. こ のような妥協に対 して, 皇帝権の優越を保証する為に, 地方においては監察を強化 し, 中央におい ては財庫を皇帝の下に置いた, 即ち地方に, 命士・酒士・州牧・部監を設 置し, 諌大夫・中郎将・ 繍衣執法を郡国へ派遣した ことがそれである, 叉列侯以下の金を御府に集め, 諸侯の俸禄を都内 か ら支給し, 新たな吏禄制度を作っ たことは, 列候や官僚層へ対する財政面からの支配強化である, 更に, 「諸宝物名孫蔵銭殻官, 皆富者領之. 吏民上封事書者, 臣官左右開発, 尚書不得知. 其畏備 臣下如此. 」 (漢書99中王非伝中) とあるように, 賭庫官織殻官を寅官で押えた ことは, 唯に皇帝王 非 が臣下を畏れたという理由だけでなく, 前漢末期, 皇帝が財政権と尚書から浮き上がった存在と な った為に, 著 しく権力を損じたことを最 もよく知っ ていた王斧が, この両者を絶対に臣下に委ね まいと決意 した時, その手足となったのは寛官以外に無か ったことを意味する. 外戚であった王葬 にとって, 現実に皇帝とな った以上, もはや帝室財政を残す必要はないし, むしろ外戚と癒着す る 一 12 -.

(14) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. 危険性のある帝室財政を廃止 し, 財政を一元化すると同時に, 最も重要な財庫を皇帝の完全な支配 下に置こうとしたものに他ならない, そして富官にと っては, 帝室財政に関与するのみならず, 王 非代には帝国財政の中枢に関与することになったのである, 以上の如く, 王葬の登場は, 前漢末行き詰まりの状態に陥 っていた皇帝の財政を, 地方分権と中 央財庫の皇帝への集中という, 二方向の改編で以 って打開したわけである. それは後僕財政制度確 立に至る過渡期であ った。 「時省中黄金万斤者為一瞳, 尚有六十置。 黄門o釣盾o城府・中尚方, 」 (同9サド王非伝下) とあ 庭薦各有数贋, 長楽御府・中御府, 及都内平準幣歳, 銭常珠玉財物甚衆. るような漢末の財庫が整理されずにそのまま継続されている状 況がその一例となろう。 この宮中に 蓄蔵された巨額の金銭財物を王非が最後まで自己の手中に留めたのは, 漢書は 「非愈愛之」 (同王 弗伝下) と表現 したが, 実は彼が財庫を手放した時滅亡せ ざるをえないことを知っていたからであ ろう. <註> 1) 西嶋前掲, 2) 大庭備前掲 「前漢の将軍」 参照. なお, 便楽成は漢書68霞光伝では使楽成となっている. 同伝 で垂鴇は 「使 楽成小家子, 得幸将軍, 至九卿封侯」 と言っている, 6の4) 3) 鎌田重雄 「漢代の尚書官--領尚書事と緑尚書事を中心と して--」 (東洋史研究2 4) 板野長八 「大学縞の格物致知」 (史学雑誌71の4) 5) 五井 「秦僕帝国における郡県民支配と豪族」 (静岡大学人文論集12号) 6) 百官表に 「坐淳子長自殺」 とあり, 淳子長と関係が深かったものと思われる,. 結 前漢代帝室・国家二元財政が一元化する過程を辿 った時, 財政運営の行き詰まりの果に現われる のは王非である, 纂奪者は最もよく纂奪を可能とした条件を 知る者である。 皇帝たろ者臣下に権を 仮す べきではない, そこに制度的に皇帝権力を強化し, その裏付けとして巨大な富を擁 し, その支 配を貫徹しようとする意志が生まれ実践された。 王非が強固な社会的基盤をもつ官僚層を支配する という意志を保持して, 始めて制度はその有 効性を発揮する。 しかし制度的強化も, その実際の運 用面で社会の現実と霜離 した時, 新王朝は崩壊せ ざるをえなかった, 一体後僕は主義代諸制度を如 何に継承し, 如何なる制度を作り, 運営したのであろうか, この問題の解明は別の機会 に 待 ち た 1 9 い, ( 72年3月28日稿). 一 13 一.

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