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シヴァとシャクティの永遠の結合 アクシャヤ クマール バネールジー 太古の時代から ヨーギ サムプラダーヤの全ての聖なる文献の中で 至高 スピリット リアリティ の精神 あらゆる現象的存在の背後の究極の霊的実在 変化せず 区おの別がなく 名前がなく 形がなく 自ずから輝き 非二元である一者 は シヴ

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シヴァとシャクティの永遠の結合

アクシャヤ・クマール・バネールジー 太古の時代から、ヨーギ・サムプラダーヤの全ての聖なる文献の中で、至高 の精 神 スピリット ── あらゆる現象的存在の背後の究極の霊的実 在 リアリティ ── 変化せず、区 別がなく、名前がなく、形がなく、自 おの ずから輝き、非二元である一者 ── は、 シヴァと呼ばれて来ました、そして自己を変化させ、自己を分割させ、自己を 多様化させる、時間と空間における全ての相対的現象の活動的源泉は、シャク ティと呼ばれて来ました。多様性と変化の世界はシャクティの自己顕現であり、 私たちの世間的体験の中で、シヴァの真の超越した特性は、私たちの視界から隠されたままであり、 私たちはシャクティの多種多様な自己表現(ヴィラーサ)のみを見ているのです。シャクティの真の 性質でさえ、私たちには明らかにされません、なぜなら私たちは世界の全ての力や現象を、一つの 自己展開するシャクティの自己表現として実際には体験しないからです。私たちは、全ての派生的 な相対的事実の背後の一つの自己存在、自 おの ずから輝く実 在 リアリティ を理解できず、全ての変化する現象と二 次的な力の背後の、一つの自己啓示する、自由な究極の力も理解できません。私たちは、多様で変 化する世界の中で外見上は生活し、動き、存在していますが、この世界がどのように、どこからや って来たのか、どのようにどんな力によって、この世界が維持され統制され組織化されているのか、 どんな目的地に向かって、この世界が休みなく動いているのかを知りません。しかし私たちの合理 的な意識は、全ての多様性の背後の一体性、私たちの体験の全ての事実の背後の一つの至高の実 在 リアリティ 、 全ての力と現象を生み出し、制御し、調和させている一つの至高の力、自然の全ての法則の背後の 一つの至高の法則、を発見しようとする内なる衝動によって駆り立てられています。全ての科学的、 哲学的努力は、人間の意識に内在するこの衝動と熱望に支配されているのです。 万人に崇拝されている覚醒したヨーギたちは、この衝動と熱望の完全な実現のために、霊的自己 訓練のいくつかの方法を発見したと主張しました。自己訓練のこれらのプロセスの最も真剣な実践 を通じて、彼らは最終的に完全に覚醒した意識の状態に到達し、その中で全ての相対的事実の背後 の一つの実 在 リアリティ が直接体験され、全ての現象と力の背後の究極の力もまた完全に実体を 顕 あらわ します。 前述の講義で、私たちはその究極体験の特性、その中での実 在 リアリティ 体験の特性と、その実 在 リアリティ に属する 力の特性の一般的概念を捜し求めました。ゴーラクナータが属し、彼の教えにいつも採用した彼の 宗教的、哲学的用語でもあるシッダ・ヨーギ・サムプラダーヤは、至高の超越実 在 リアリティ をシヴァ、そし て全てを生み出し全てを包括する、至高の力をシャクティと見なしました。シヴァの特性の中の、 永遠で根本的に内在するシャクティが伴うシヴァ、あるいはシヴァと永遠に結合するシャクティは、 このサムプラダーヤによれば絶対の実 在 リアリティ なのです。 シッダ・シッダーンタ・パッダティの中で、ヨーギ・グル・ゴーラクナータは、シヴァとシャク ティ ── 至高の超越 精 神 スピリット と至高の全てを生み出す力 ── の間のこの永遠で根本的な結合を 様々に描写しました。彼は述べます ──

(2)

2

Ùivasya

シ ヴ ァ シ ャ

abhantare

ア バ ャ ン タ レ ー

Ùaktih

シャクティヒ

Ùakter

シャクテール

abhyantare

ア バ ャ ン タ レ ー

Ùivah

シ ヴ ァ ハ

Antaram

ア ン タ ラ ム

naiva

ナ イ ヴ ァ

jánæyat

ジャーニーヤト

candra

チ ャ ン ド ラ

candrikayor

チ ャ ン ド リ カ ヨ ー ル

iva

イヴァ

.

「シャクティはシヴァに内在し、シヴァはシャクティに内在する。月と月光の間のように、その 二つの間には違いはないことを理解せよ。」 ここでのマハーヨーギの説明では、月はそれ自身によって、その内部に最も濃密に輝く穏やかな 光と考えられ、光線の形態での月の自己表現としての月光は、その中心から全ての方向へと放射し たものと考えられています。月のこの概念と明らかに一致して、ちょうど光の炎とそれ(ディーパ・ シカーとディーパーローカの間)から拡散する光のように、月と月光の間には本質的な相違はありま せん。月光は、月と離れて独立しては存在できず、月もまた同様です、しかし(比喩 ひ ゆ 的に語れば)自 己存在と自己光輝は、月光の生来の性質を通じて以外には自己顕現はないのです。 それと同じように、とゴーラクナータは語ります、シヴァは永遠で無限(時間と空間の領域を超え た)の魂であり、シャクティの所在地だ、と。シヴァは、言わば、活動や現象の形でのどんな自己 表現や自己開示もしない、最も凝縮した自己中心、自己意識、自己享受の超越形態内のシャクティ です。シャクティはさらに、無限で永遠の生来の活動力であり、シヴァの超越した特性に浸透し、 彼女は宇宙組織の継続的な進化と退化の形態内でのシヴァの自己顕現なのです。シヴァは多分、シ ャクティの精 神 スピリット または魂として、シャクティはシヴァの身体として描写されるでしょう、その魂と 身体の間には本質的に違いはありません、なぜならその身体は、その魂の自己表現に他ならないか らです。シヴァは、超越領域のシャクティとして、シャクティは現象領域のシヴァとして語られる でしょう。シヴァから離れ、シヴァとは独立して、シャクティは存在しえません、そしてもしシャ クティが否定されれば、シヴァは自己表現、多様な自己顕現はなく、自己意識性さえもありません。 シヴァが、自身を全能、全知、完全に至福に満ちた至高神と気づくのも、宇宙秩序の創造者、支配 者、享受者として気づくのも、彼のシャクティの美徳によるものです。シヴァの超越した特性の中 の彼のシャクティは、彼の中に隠されていて(アヴィヤクタ)、彼のシャクティの宇宙的自己展開の 中で、彼のシャクティと、彼女の全ての多様な現象的自己顕現と、素晴らしい遊戯の、彼は内在者 (アンタルヤーミ)なのです。シヴァの宇宙的自己表現の中で、シヴァは彼のシャクティの遊戯の背 後に隠れ、全秩序の最奥の魂としてそれらを楽しむように見えます、そして彼の超宇宙的特性の中 で、シャクティは彼の中に隠れたままなのです ──(アンタルリーナ・ヴィマルシャハ)。 ゴーラクナータは明瞭な言葉で述べます ──

Ùivopi

シヴ ォ ーピ

Ùakti

シャクティ

-rahitah

ラ ヒ タ ハ

ùaktah

シ ャ ク タ ハ

kartum

カ ル ト ゥ ム

na

kincana

キ ン チ ャ ナ

Swa

ス ワ

-ùaktyá

シャクテャー

sahitah

サ ヒ タ ハ

Sopi

ソ ー ピ

Sarvasya

サ ル ヴ ァ シ ャ

Ábhásako

ア ー バ ー サ コ ー

bhavet

バ ヴ ェ ー ト 「シヴァは、自身の力を奪い去ると、何もできない。しかし自身の力を持てば、彼は存在の全て の秩序の絶対の啓示者(創造者と照明者)となる。 至高の精 神 スピリット 、シヴァは、彼のシャクティへの投影なしには、自身を至高の精 神 スピリット として体験しな い、シャクティはシヴァの特性への霊的な鏡として奉仕する。」

(3)

3

彼は続けます ──

Ata

ア タ

e v a

エーヴァ

parama

パ ラ マ

–káranam

カ ー ラ ナ ム

parameùwarah

パ ラ メ ー シ ュ ワ ラ ハ

parátparah

パ ラ ー ト パ ラ ハ

Ùivah

シ ヴ ァ ハ

Swa

ス ワ

–aswarupatayá

ア ス ワ ル パ タ ヤ ー

sarvatomukhah

サ ル ヴ ァ ト ー ム カ ハ

sarvákáratayá

サ ル ヴ ァ ー カー ラ タ ヤ ー

sphuritum

ス プ リ ト ゥ ム

ùaknoti

シャクノーティ

Ityatah

イ テ ャ タ ハ

Ùaktiman

シ ャ ク テ ィ マ ン

.

「至高より高い至高(至高の現象的実 在 リアリティ を超越し、時間と空間と活動を超越)はシヴァ自身によっ て、彼の特性に内在する無限の力の美徳により、シヴァは全ての現象的存在の至高の原因と至高の イーシュワラ(人格神)となり、全く影響されないシヴァの根本的な自己の光輝、自己の完全性は多 面となり(全ての方向に注意を払う)、あらゆる種類の現象的存在の形態の中に彼自身を顕現する。」 シッダ・ヨーギたちによれば、シヴァ(至高の精 神 スピリット )の独特の能力は、彼の変化しない、区別のな い、 自 おのず から輝く超越した存在の喜びに永遠に没入し、同様に意識あるそして無意識の現象的存在 の無数の秩序を、創造し支配し破壊し、それら全ての中に内在する自己である人格神として、彼自 身を現わして楽しむのが、彼の特性に内在する無限の力の確かな証明だ。

I t i

イティ

atah

ア タ ハ

ùaktimán

シャクティマーン ─ ─ このようにきっと彼は力を所持することだろう ── と、シッダ・ヨーギ・ゴーラクナータは 論証的方法で主張します。さらに彼は、明瞭な声明を述べます ──

Ata

ア タ

e v a

エーヴァ

ekákárah

エーカーカーラハ

ananta

ア ナ ン タ

–ùaktimán

シャクティマーン

nijánandatayá

ニ ジ ャ ー ナ ン ダ タ ヤ ー

avasthitah

ア ヴ ァ ス テ ィ タ ハ

api

ア ピ

nánákáratwena

ナ ー ナ ー カ ー ラ ト ウ ェ ー ナ

vilasan

ヴ ィ ラ サ ン

swa

ス ワ

–pratisthám

プ ラ テ ィ ス タ ー ム

swayam

ス ワ ヤ ム

e v a

エーヴァ

bhajati

バ ジ ャ テ ィ

i t i

イティ

vyavahárah

ヴ ャ ヴ ァ ハ ー ラ ハ

Alupta

ア ル プ タ

–ùaktimán

シャクティマーン

nityam

ニ テ ィ ヤ ム

sarvákáratayá

サ ル ヴ ァ ー カー ラ タ ヤ ー

sphuran

ス プ ラ ン

, punah

プ ナ ハ

swenaiva

スウェーナイヴァ

rupena

ル ペ ー ナ

eka

エーカ

e v a

エーヴァ

avaùishyate

ア ヴ ァ シ シ ャ テ ー

.

「したがって、シヴァは、根本的には自身に内在する彼の無限な力と共に、自身の完全に至福に 満ちた、区別のない、変化しない特性の中に居住するけれども、遊び戯れて自身を無数の形に顕現 させて楽しむ、このように実際的には、楽しむ者と楽しむ対象、創造者と創造物、維持者と維持さ れるもの、魂と身体、自己とその表現、などの二元的外観として顕現するのだ。 彼は決して自身のシャクティを捨て去ることはなく、彼のシャクティは決して彼から引き離され ることもない(

Alupta

ア ル プ タ

–ùaktimán

シャクティマーン

nityam

ニ テ ィ ヤ ム )。このように、彼のシャクティの美徳によるけれども、 彼は永遠に(時間の中で)自身をあらゆる種類の形態に顕現させ、(

sarvákáratayá

サ ル ヴ ァ ー カー ラ タ ヤ ー

sphuran

ス プ ラ ン )、彼自 身の自己は永遠に(無時間性の中で)第二のない一 いち として存在する(

eka

エーカ

e v a

エーヴァ

avaùishyate

ア ヴ ァ シ シ ャ テ ー ) ── 変化しない区別のない非二元の実 在 リアリティ として ── ニルグナ・ブラフマンとして。」 哲学者としてのゴーラクナータは、絶対の実 在 リアリティ の最も包括的な見解を取り、サマーディの超越体 験と、日常の起きている状態での覚醒した現象体験に、ほとんど等しい価値を置きました。彼は体 験の二つの領域を均衡(サマラサ・カラナ)させたのです。彼は、超越体験の光を現象体験へと降下 させ、絶対の実 在 リアリティ の完全な概念のために、現象体験の内容を超現象領域へと上昇させました。ニル ヴィカルパ・サマーディの超越体験の中では、区別と変化の余地はなく、二元性と相対性の余地も

(4)

4

なく、どんな力、つまり至高の精 神 スピリット の活動性の確実な兆候もありません。この体験の中で、時間と 空間は、超時間性、超空間性、至高の精 神 スピリット の絶対の自己光輝の一体性へと集結し、全ての二元性と 相対性は、非二元の一体性へと融合し、全宇宙体系は一つの主客のない、自己存在する、至福に満 ちた超人格意識の中へと同化されるのです。これは、シャクティのないシヴァ ── ニルグナ・ブ ラフマン ── ケーヴァラ・シヴァ ── 絶対の非二元の精 神 スピリット の体験となることでしょう。これが 究極の真理であることに疑う余地はありません、なぜならこの体験は真理の探究者たちの、真理へ の長期に亘る探究の究極の実現だからです。この体験の中で、真理の探究はその目的地へと到達す るのです。 しかし、この体験の中で超越され一体化された現象体験の世界は、絶対に虚偽だと無視すること はできません。なぜならその場合、そこには真理の探究者と、真理を見る者としての真の個人性は なく、真理を覚醒するための真の霊的衝動と霊的訓練もなく、超越体験への到達もなく、絶対の実 在 リアリティ の特性の確認もないからです。現象世界や現象体験の否定は、自己矛盾する命題です。全ての肯定 と否定は、現象体験の領域に属します。二元性と相対性の否定は、それ自体が二元性と相対性の存 在を暗示しています。マハーヨーギの超越体験が、現象体験の最終的達成になることは、後者(*現 象体験)の絶対的虚偽性が、前者(*超越体験)を無価値にすることでしょう。 一方、現象体験に示された二元性と相対性のこの世界は、自己存在性や自己示現 じ げ ん 性自体であると か、あるいは何か他の独立した存在性と示現 じ げ ん 性の源泉を持つとかは考えられません。なぜならその 場合、この世界の究極の真理の徹底的な探究は、変化しない、区別のない、自己存在、自己光輝、 非二元の精 神 スピリット であるシヴァの発見では終焉しないでしょう、そして現象的意識は、超現象的、主客 なしの、超越体験の中で、その究極の自己満足を得ないでしょう。それゆえ、シヴァは、この現象 世界の究極の真理でなければなりません、そして彼はこの世界の基盤と源泉を、自身の性質内に持 たねばなりません ── 常に変化する相対的多様性の時空の秩序の中で、彼自身を現象的に顕現す るための動的な衝動と力、そして現象的存在の無限な形態の中の、彼の超越した特性である無限性 を享受するのです。 それゆえにシッダ・ヨーギたちは、至高の精 神 スピリット であるシヴァは、非二元性(アドワイタ)と二元性 (ドワイタ)、超越性と現象性、自己没入性と自己活動性、自己凝縮性と自己多様化性、内向的自己 享受性と外向的自己享受性、名前がなく、形がなく、変化せず、区別のない絶対性と、無数の名前 と形で全く自由に自己顕現する性質と、宇宙体系を構成する変化と相違の素晴らしく多様な性質を、 永遠に所持すると公言しています。シヴァは、永遠に世界を超越し、現象界の活動や変化や多様性 に影響されません、そして彼はまた、絶え間のない変化と終わりのない多様性の世界として、この 世界の全能で全知の神として、この世界に現れ消えていく全ての生きものたちの最奥の魂として、 永遠に自身を顕現します。彼は、この宇宙に内在すると同様に超越しているのです。 覚醒したマハー・ヨーギは、これら両方の側面 ── シヴァの超越と活動の両側面、彼の非顕現 と顕現の側面を理解し、認めてシヴァに自己献身し、聖なる精 神 スピリット のこれらの永遠の特性のどちらも 否定も無視もしません。それは、彼のシャクティとして考えられ描写された、シヴァの特性の活動

(5)

5

的側面 ── 彼の永遠に無限な独自の顕現力と、多数性と変化の現象世界の中の、無限に多様な方 法で彼自身を楽しませる力です。このシャクティは、シヴァとは異なるどんな属性や特性とも、シ ヴァのどんな特別な性質とも考えられてはいません。シヴァのシャクティは、シヴァ自身に他なら ないのです。ヨーギにとって、シヴァはシャクティであり、シャクティはシヴァです。彼の超越し た特性の中で、シヴァはまるでシャクティが無いように見えます、なぜならシャクティはその状態 の中(*シヴァ)では外的表現がないからです。しかし事実としては、シャクティはそのとき完全な る不在ではありません。シヴァの動的側面(*シャクティ)は、そのとき彼の超越した側面と完全に 一体化し区別ができません。シヴァの現象的自己表現の中で、その動的側面はより優勢となります。 シヴァはそのとき、自身をシャクティとして顕現するのです。彼はそのとき、宇宙的俳優、宇宙的 ダンサーとして姿を表します。時間の領域内での変化する多様な形態である、この動的な自己顕現 は、シヴァの超時間的な超越した特性の中では、どんな二元性も多様性も変容も生み出しません。 シャクティは、第二番目の実 在 リアリティ としてではなく、シヴァと一体として、シヴァの特性の中に存在す るのです。時空の秩序の中での、シャクティの多様な自己表現もまた、根本的にシャクティもシヴ ァも異なりません。このように、シッダ・ヨーギたちによれば、シヴァはいつもシャクティを伴い、 シヴァ自身を彼のシャクティの側面を通じて、変化する現象形態の多様性の中で、永遠に顕現し続 けるのですが、シヴァは永遠に第二のない一 いち ── 非二元、変化なし、自己光輝、自己享受するブ ラフマン ── であり、絶対の存在・意識・至福です。シヴァは、永遠に様々な遊戯をし、永遠に 様々なリズムを踊りますが、彼は永遠に完全なサマーディの状態にいるのです。彼はそれゆえに、 マハー・ヨーギーシュワレーシュワラ、永遠のグルであり、全てのマハーヨーギたちの理想として 礼拝されるのです。 覚醒したシッダ・ヨーギたちの、長い伝統の探究の中で、ゴーラクナータは、シヴァとシャクテ ィの霊的一体性を説明し、シャクティを、シヴァの超越と現象の側面の一体性の現れとして描写し ています。彼は述べます、

Saiva

サ イ ヴ ァ

ùakt ir

シャクティル

yadá

ヤ ダ ー

sahajena

サ ハ ジ ェ ー ナ

swasmin

ス ワ ス ミ ン

unmælinyám

ウ ン ミ ー リ ニ ャ ー ム

nirutthána

ニ ル ッ タ ー ナ

–daùáyám

ダ シ ャ ー ヤ ー ム

vartate

ヴァルタテー

,

tadá

タ ダ ー

ùivah

シ ヴ ァ ハ

sa

e v a

エーヴァ

bhavati

バ ヴ ァ テ ィ

. Ata

ア タ

e v a

エーヴァ

kula

ク ラ

–akula

ア ク ラ

–swarupá

ス ワ ル パ ー

sámarasya

サ ー マ ラ シ ャ

–nija

ニ ジ ャ

–bhumiká

ブ ミ カ ー

nigadyate

ニ ガ デ ャ テ ー

.

「その同じシャクティ(多様な現象形態の基盤、原因、維持者)は、シヴァの 自 みずか ら輝く超越した特 性が彼女の中に存在するときには、シヴァとは完全に一体のままだ。それゆえ彼女は、クラ(*現象) とアクラ(*永遠)の性質の均衡として ── 超越と同様に現象の性質として ── 描写され、そし て霊的光明の状態の中で、これら両方の側面が完全に調和し、一体性が啓示されることが描写され ているのだ。」 クラとアクラは、実 在 リアリティ の二つの側面を表しています。アクラは永遠の存在性 ビ ー イ ン グ を意味し、クラは永 遠の活動性 ビ カ ミ ン グ を意味します。アクラは実 在 リアリティ の本質を意味し、クラは実 在 リアリティ の現象的自己表現を意味し ます。アクラは、無限で永遠な絶対の自己存在する者を、クラは、有限で一時的な相対的で派生的 存在の形態で、自己顕現する者に関係しています。アクラは、変化しない、区別のない、超越した

(6)

6

存在・意識・至福(サット・チット・アーナンダ)を指し示し、クラは、現象的存在の様々な秩序内 の、この超越存在の自己顕現を、限定された状態での現象意識の多様な秩序内での、この無限な自 己光輝意識の自己顕現を、限定された体験的喜びの無数の形態内での、この完全な非経験的無限定 のアーナンダの自己顕現を指し示しています。クラは様々な種類の限定の下で現れ、これらの限定 をアクラの自己享受のための材料にします。超越したサット・チット・アーナンダの現象的自己顕 現の中で、全ての存在は誕生と死と変化により限定され、全ての意識は無知と過失と過程と主客関 係と心身の状態によって限定され、全ての喜びは悲しみと対象物の欠乏と必要性と喜びの状態によ って限定されます。クラの側面の中で、アクラは自由で楽しく顕現し、自己に課した限定の様々な 形態を通じた現象領域で彼自身を悟り楽しみますが、彼のアクラの側面の中では、これら全ての現 象的自己顕現を超越して、彼は自身の至福に満ちた区別のない超越した自己の中で、永遠に存在し 輝いています。これがシヴァの独自の力(ニジャー・シャクティ)です。シヴァの全ての特性が浸透 している彼のシャクティは、彼の超越した活動的な特性と永遠に連結しています、それゆえに、そ れはクラ・アクラ・スワルパー(*本性がクラでありアクラである)と呼ばれるのです。 ニルッターナ、つまりサマーディの状態の中で、シャクティはシヴァとして現れ、ヴュッターナ、 つまりサマーディからの再覚醒の状態の中で、シヴァはシャクティとして現れるということが指摘 されてきました、そして絶対の実 在 リアリティ の二つの側面の間には、実際には相違はありません。ヨーギの 体験的意識は、それが体験の条件付けされた現象領域を超越し、超越した領域に上昇するとき、い わば、違いがなく、変化がなく、努力のない超越した意識と、絶対の実 在 リアリティ のアクラの側面と完全に 一体化した状態へと変容します。その意識が、高度な領域で獲得した光明を伴う現象領域に下降す るとき、それは、クラの現れ、シャクティを通じて顕現したシヴァ、様々な現象体験を取る超越し た存在・意識・至福は、不完全性、永久に変化する宇宙体系の中の、様々な部分としての遊戯を体 験します。至高の領域でそれは純粋なアドワイタ ── 相違と変化のない一体性 ── を体験し、 低い領域でそれはドワイタ・アドワイタ ── 相違と変化の一体性 ── 相対的世界内で、自由で 楽しく完全に遊ぶ体験をします。超越領域でそれは、体験者と体験した真理のどんな区別も無しに、 絶対の体験となり、そして現象領域では、それは体験者となり、実 在 リアリティ は様々な形態での対象として、 具現化した真理として現れます。超体験的領域では、その個人的感覚は、全包括的、全一体的、全 超越的な純粋存在性に融合し、体験的領域では、その個人的エゴ感覚は、そのあらゆる体験の中心 です。サマーディの実践の熟達者、覚醒したマハー・ヨーギは、自身の集中によって、体験の一つ の領域から別の領域へと簡単に通過します。それゆえ彼は、それら両方の体験領域の内的調和と一 体性を感じます。彼は、超越体験の実 在 リアリティ の性質の中に、動的な基盤と原初体験の源泉を感じ、自身 の現象体験の真っただ中に、超越体験の実 在 リアリティ を感じます。このように彼は、シヴァの超越した非二 元性の中にシャクティを、シャクティのあらゆる展開の中にサット・チット・アーナンダを感じま す ── 彼はアクラの中にクラを、クラの中にアクラの存在を感じます。クラとアクラは、最も親 密で、マハー・ヨーギの霊的体験の中で、相互の最も楽しい抱擁です。彼は有限の中に無限を、無 限の中に有限を ── 物質の中に精 神 スピリット を、精 神 スピリット の中に物質を見るのです。

Akulam

ア ク ラ ム

kulam

ク ラ ム

ádhatte

ア ー ダ ッ テ ー

kulam

ク ラ ム

cákulam

チ ャ ー ク ラ ム

icchati

イッチャティ

jala

ジ ャ ラ

–budbuda

ブ ド ブ ダ

–bat

バ ト

nyáyát

ニャーヤート

ekákáraë

エーカーカーラハ

Parah

パ ラ

Ùivaë

シ ヴ ァ ハ

(7)

7

Akula

ア ク ラ は

Kula

ク ラ を抱擁し、

Kula

ク ラ は

Akula

ア ク ラ を慕う。その関係性は、水と水泡の関係性に類 似している。真実、

Para

パ ラ

–Ùiva

シ ヴ ァ (至高の精 神 スピリット )は絶対に一つだ。」 この思想は、顕現して

Kula

ク ラ (現象する二元性体系)の形態で彼自身を楽しむのは

Akula

ア ク ラ (非二 元の精 神 スピリット )の生来の性質であり、非二元の精 神 スピリット との結合を求めるのは、全ての二元性の生来の性質 です、なぜならそれらは実際には一つであり、同じだからです。アドワイタ(*非二元論)とドワイ タ(*二元論)の関係性を説明するために、ゴーラクナータは水と水泡の喩 たと えを用いています。水は 水としてその本性のまま留まり、同時に泡の形態で顕現します。外見上、泡は異なるものに見え、 それは水から生じ、水の表面でダンスをし、相互に異なる部分を演じて別々の関係を維持し、再び 水の中にその存在性を消滅または消失させて行きます。水は泡になり、泡は水になります。私たち はその現象を目撃します。私たちはそれを虚偽としては否定できません。しかしなお私たちがその 現象を深く眺めるとき、泡の形態を取っていても、水は水以外の何物にもならないことを私たちは 確信します。多数の泡として変化しているときでも、水はずっと同じ水のまま留まり、実際にはど んな変化もせず、実際には多数にもなっていません。

Akula

ア ク ラ と

Kula

ク ラ の間 ── 超越者シヴァと、 彼の活動力、シャクティの働きを通じた時空の秩序の中での、シヴァの現象的な自己顕現の多様性 との関係の真相も同様です。シヴァの普遍的存在から、個別化された存在へと顕現する多様性は、 この現象宇宙体系の中で個別の部分を務め、相互と全体組織との異なる関係性を保持し、最終的に それらの異なる存在性は、アクラ・シヴァの分割のない存在性の中に消滅します。しかし、これら の時空に関する自己顕現の中でさえ、シヴァは彼自身以外の何かの実 体 リアリティ になるわけではなく、実質 上シヴァ自身を、彼とは異なる何かには変容せず、シヴァの普遍的存在を、個別化された存在性の 中へも消失させません。シヴァの分割されない存在性(

akhanda

ア カ ン ダ

-sattá

サッター )は、分割された存在 (

khanda

カ ン ダ

-sattá

サッター )の全ての形態の顕現と消滅を通じて、永久に同じ状態に留まります。それゆえ、あ らゆる宇宙顕現の真っただ中で、マハー・ヨーギは ── 一 ひと つの分割のない、自ら輝く至高の精神 を体験します。彼はクラの中にアクラを、ドワイタ(*二元性)の中にアドワイタ(*非二元性)を、全 ての変化する有限性の中に、変化しない無限性を、自然の全ての現象の中に、完全なサット・チッ ト・アーナンダ(*存在・知識・至福)を見ます。彼の体験は、超越性と活動性の完全な均等性 (

sámarasya

サ ー マ ラ シ ャ )なのです。 このように、シヴァとシャクティの同一性は、シッダ・ヨーギ派の哲学で重要な真理です。シャ クティはシヴァ自身に他ならず、時空に関する宇宙体系の中で、シヴァ自身を顕現し楽しむという 見解です。至高の精神シヴァは、自身が普遍的に有能な物質原因であり、この側面において彼はシ ャクティと呼ばれるのです。シヴァであり、この側面でのシャクティは、シヴァの超越した側面へ の奉仕に永久に献身します。このようにシヴァとシャクティ ── つまり超越した無限、永遠の自 己存在、自己光輝、自己享受する魂としての至高の精 神 スピリット と、現象的無限、永遠の自己活動、自己展 開、自己多様化する力としての同じ精 神 スピリット ── は、いわば永遠に相互に結び付き、永遠に相互に愛 の抱擁をし、永遠に相互に不可分に結合しています。シヴァは、永久にシャクティと彼女の現象体 系の展開を輝かせ、霊化し、シャクティは、現象界の名と形の無限な多様性の中で、無限の存在性、 意識性、美、シヴァの 妃 きさき を永久に啓示し、シヴァの永遠の喜びのために貢献します。超越したシ ヴァは、宇宙体系とその内部に存在する全ての多様な秩序の魂です。活動的なシヴァ、つまりシャ

(8)

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クティは、宇宙体系のその身体と、その内部の全ての個別の身体を構成しているのです。 シヴァは宇宙の父と見なされ、シャクティは宇宙の母と見なされますが、父と母の間には本質的 に違いはありません、その領域では、感覚的意味での性別の問いはないのです。全ての現象的事実 の超越した原因としてのシヴァは、父と考えられ、そして多様な形態を活動させ、それらを維持し 養い、再びそれらを吸収する活動的物質原因としてのシャクティは、母と考えられるのです。シヴ ァは、全ての魂として光輝き、君臨し、シャクティは、シヴァのために身体、活力、心、知性を形 成し、それらの進化の様々な段階で、それらの様々な活動を通じて、シヴァの自己表現と自己享受 に貢献します。この自己顕現の現象的秩序の中で、シャクティは一体化する傾向性(サンコーチャナ) と同様、多様化する傾向性(プラサーラナ)も持っています。彼女は一 い ち なるものを多様化し、多くのもの を一体化します。彼女は一 ひ と つの存在から多くの存在を創造し、再び光明のプロセスを通じて、全ての存 在の本質的一体性を明らかにします。彼女は精神スピリットを物質化し、再び物質を霊化します。彼女は、様々な 種類の物質的、活力的、心理的 体からだと、自己表現と自己享受の領域に精神スピリットを供給し、それら全ての 体からだと 全ての宇宙的遊戯場の、本質的な霊的性質を啓示します。彼女は無限なるものを有限化し、再び全て の変化する有限性の中に、一 ひ と つの変化しない無限性を提示します。シャクティのこの二重性は、途絶え ることなく進行して行くのです。 シッダ・ヨーギ派は、カピラのサーンキヤ学派が行ったように、現象的な宇宙体系の究極原因を、 プラクリティと呼ばれる非霊的、非意識の根本的物質またはエネルギーが、プルシャと呼ばれる無 数の非活動で自 おの ずから輝く霊的魂たちと永遠に連結し、自然発生的に進化のプロセスに沿って自身 (*プラクリティ)を、存在の多様な秩序であるこの世界へと変容させている、とは考えてはいない ことは明白です。シッダ・ヨーギ派はまた、現象的存在のこの究極の活動原因(*プラクリティ)を、 不可解な宇宙的無知、または真実でも虚偽でもない原理または力(マーヤーと呼ばれる)として考え てはいません。シャンカラの正統的非二元アドヴァイタ学派のように、本質であり超越した絶対の精神(ブラフ マン)のサット・チット・アーナンダ(絶対の存在・意識・至福)を覆い隠し、混乱した多様性としての妄想世 界を(無変化、無区別、自己照明の実在であるブラフマンと共に)造り出すとは考えないのです。あるい は、シッダ・ヨーギ派は、二元論ドヴ ァイタの主張者たちの見解である、多様性の世界の物質原因は、非精神 的実体または力またはエネルギーの性質であり、至高の精神とは永久に根本的に異なるけれど、永 久に至高の精神と関連し、それ(*プラクリティ)自身を変容し、至高の精神の監督、指示、支配の 下で、現象世界の多様性を維持するという見解を支持しません。また、シッダ・ヨーギ派は、この 力(*プラクリティ)は、単なる至高の精神の属性であり、ただ実体の抽象的性質として精神に関連して いるという見解には同意しないのです。 シッダ・ヨーギたちによれば、この世界の源泉は物質的 実 体サブスタンスではなく、霊的実 在 リアリティ です、アチッ ト(*無意識)・シャクティではなく、チット(*意識)・シャクティです、アヴィディヤーまたはマー ヤー(妄想が生み出す不可解な無知)の性質ではなく、ヴィディヤーまたはサムヴィト(知識または意 識)の性質です、本質的にアーヴァラナ・ヴィクシェーパートミカー(真理を覆う力と、真理に錯覚の多様 性を偽って置き重ねること)ではなく、プラカーシャ・ヴィマルシャートミカー(至高の精神を啓示する神 の力と、神の超越した性質である、無限な栄光と美の多様な形態をもたらすこと)です。ゴーラクナータ

(9)

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は、その力を次のように描写しています、─ 「

Parápara

パ ラ ー パ ラ

-Vimarùa

ヴ ィ マ ル シ ャ

-rupinæ

ル ピ ニ ー

Samvit

サ ム ヴ ィ ト

náná

ナー ナー

-ùakti

シャクティ

-rupena

ル ペ ー ナ

nikhila

ニ キ ラ

-pindádháratwena

ピ ン ダ ー ダ ー ラ ト ウ ェ ー ナ

vartate

ヴァルタテー

i t i

イティ

siddhántaë

シ ッ ダ ー ン タ ハ

.

」 ── 「一 ひ と つの動的意識力、その 性質は絶対の精神を、様々な高低(集団と個人)の形態で開示し、彼女自身を多様な種類の力と、ピン ダ(身体)の無数の種類で顕現し、彼女のあらゆる場所に遍在する、霊性の統一性によって、それらを統 合する。」。彼女は、自己顕現し、自己多様化し、全てを調和し、全てを一体化する、永久に活動するサッ ト・チット・アーナンダと考えられています。至高の力、聖なる母である宇宙の養母は、サット・チット・アー ナンダ・マイー、つまり完全な存在・意識・至福なのです。 宇宙体系の活動の源泉に関するシッダ・ヨーギ派の見解は、一般的にタントラ派の見解と同類です。 両方の見解によれば、私たちが普通体験するこの現象世界は、その力(シャクティ)が源泉であり、その 力によって維持され、統制され、最終的に融合し一体化される力は、聖なる力であり、その力は自己意 識と至高の精神 スピ リッ ト (チット・シャクティ)の自己活動力、自己開示、自己多様化、自己享受の完全な存在・意 識・至福(

Átma

ア ー ト マ

-vilásini

ヴィラーシニ

Sat

サット

-Cid

チ ド

-Ánanda

ア ー ナ ン ダ

-Swarupinæ

ス ワ ル ピ ニ ー

Ùivánæ

シヴァーニ

-Ùakti

シャクティ )であり、その力は内的に永遠 に結合し、至高の精神 スピ リッ ト 、超越した存在・意識・至福であるシヴァと異なりません。両方の見解は、この崇高 で美しい宇宙秩序(限定された意識的存在としての私たちが、その中で各自に割り当てられた部分を 演じ、自己覚醒の機会と、絶対の体験の超体験領域への上昇を獲得する)は、闇の力ではなく、光の力 であり、悪の力ではなく、至高の善の力であり、真理を覆い歪曲する力ではなく、真理に内在する無限 の善と富と至福を、時空内に啓示する力であり、超越した至高の精神に敵対する力ではなく、その精神 への奉仕に喜んで献身し、その精神の無限な喜びに参加する力なのです。両方の見解の覚醒者たちは、 その力に啓示される超越精神 スピ リッ ト を見、シャクティの宇宙的遊び、チットの遊びを見、世界の全ての波(*現 象)の中に、ブラフマンの反映を見るのです。 宇宙体系と、外見上当惑させる全ての複雑性や大惨事は、彼ら(*シッダ・ヨーギ派とタントラ派)に よってしばしばチド・ヴィラーサ、つまりいわば精神 スピ リッ ト の贅沢、精神 スピ リッ ト の超越した完全性の魅力的な自 己表現として描写されます。物質もまた、精神 スピ リッ ト の自己表現の形態と見なされるのです。彼らは精神 スピ リッ ト の遊びを、全ての物質現象の中に見ます。彼らにとって、物質、生命、心、知性は ── 至高の精神 スピ リッ ト が自身独自のシャクティ、精神 スピ リッ ト 自体とは異ならない、彼の多様な自己顕現の力の媒介を通じて、様々 な楽しいゲームを行っているのです。このように、彼らは全世界を霊的であると考え、自身の身体 もまた霊的であると見なし、世間的体験の全ての現象を、シヴァ・シャクテイの喜びに満ちた遊び として楽しむのです。 太古の昔から、シッダ・ヨーギたちは放棄の道(ニルヴィッティ・マールガ)の遵 守じゅんしゅ者たちであり、サ マーディの完全な自己覚醒の理想 ── カイヴァリャ、モークシャ、ニルヴァーナの理想、絶対のシヴァ の境地の理想であったことが広く知られています。このサムプラダーヤ(伝統)の覚醒した教師たちは、 節制、平穏と静寂、身体、感覚器官、活力、心の統御、全ての世間的欲望、欲情、執着からの自由、あらゆ る世間の外的事柄への無関心、魂の深奥の霊的自己光輝へのより深い集中を、いつも実直に実践し、 説きました。とは言え、彼らは宇宙的秩序や現象世界について、どんな 悲 観 的ペシミスティック見解も心に抱かず、説 くこともなかったのです。現象世界は全て(世間的存在)が悲しみで、全てが邪悪で、全てが醜悪で嫌 悪すべきであり、この世界はその源泉が、ある種の無知や妄想、あるいはある種の真理を隠し歪曲する

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虚偽の力の中に存在し、物事の存在の秩序は極悪であり、世界の計画全ては悪魔的であり、この世界は 盲目の物質エネルギーの偶然な産出であり、人間の意識的生活はいつも、必然的に人間の意識の熱望 に敵対する世界の力に対して戦っている、という感情を育む、世間的悲しみや束縛からの解放を、シッ ダ・ヨーギたちは決して探究者たちには教示しませんでした。多くの哲学学派は、モークシャやニ ルヴァーナ、つまり完全な解脱の理想、放棄の道、深い瞑想を主張し、信奉者たちに世界と世間的 生活についての、上述したような見解と感情を養うよう慎重に教示します。このような見解や感情 は、霊的自己訓練の道でそれらの実践的価値がどうであろうと、ゴーラクナータが属するシッダ・ ヨーギ派の霊的哲学にとっては、明らかに敵対するものなのです。 シッダ・ヨーギ派によれば、この世界は無知からやって来たものではなく、シヴァ・シャクティ の性質である、知識の完全性からやって来たものであり、至高の精神 スピ リッ ト の超越した性質を覆い隠す、 どんな虚偽の力からやって来たものではなく、至高の精神 スピ リッ ト のニジャー・シャクティ、それを通じて 精神 スピ リッ ト がその超越したサット・チット・アーナンダの性質を、自ら進んで課した様々な種類の時空の 限定の下で、現象的な存在、意識、活動、美、楽しみという様々な形態で啓示するのです。シッダ・ ヨーギ派の覚醒した聖者たちは、真理の探究者たちにこの世界秩序を、悲しみ、悪、敵意を持った、 悪魔的力で起こる険悪な光景として見るのではなく、一 ひと つの至高の愛する母の力の、楽しい遊びと 見るように教えています。その母は、彼女の子供たちへの無限な愛情と慈悲に満ち、様々な段階と 様々な状況を通じたこの宇宙体系の中で、彼女の子供たち(彼女自身の自己表現)が、完全な光明と シヴァの覚醒に向かうよう導いているのです。シッダ・ヨーギ派の人たちは、世界をチド・ヴィラー サ(*意識の魅惑的表現)として、サウンダリャラハリ(*美の大海)として、アーナンダ・ラハリ(*至 福の大海)として、様々な楽しい外観内の精神 スピ リッ ト として、美と至福の海の波として、世界を理解し楽 しむことを私たちに教えているのです。

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