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香りのまちづくり構想について: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

香りのまちづくり構想について

Author(s)

山門, 健一

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 19(1): 1-25

Issue Date

1996-09-30

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6828

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香りのまちづくり構想について

山門健一

はじめに 1988年秋、琉球館が百年ぶりに中国で再開されることになった。この際、中 国について学ぶ必要があると思い、オープニングセレモニーと広州交易会に参 加する経済界の人たちと一緒に、私もチャーター便で香港に向けて飛び立った。 百年ぶりの琉球館は広州市の花園酒店(ガーデン・ホテル)のなかに開設され た。広州市で春と秋に開かれる広州交易会は有名だが、当時はまだ広州は中国 の外国貿易の窓口のような観があった。 周知の通り、百年前の琉球館は福州市にあった。1372年琉球が進貢を始めて から100年間は、琉球のための指定港は泉州で、ここにあった琉球館は「来遠 駅」と呼ばれた。その後福州に移され、福州琉球館「柔遠駅」がこのあと400 年にわたって、琉球からの進貢使たちを迎えることになった。広州市での式典 参加や広州交易会に参加した後、二手に分かれ、それぞれ廩門、福州へと出発 した。私は、盧門班入って慶門での企業調査、さらにバスに乗って泉州に向か い、ここでも工場見学を行った。また琉球館の跡も訪ねたが、当時は汚い、悪 臭がただようどぶ川の側に小さな石碑が立っているだけだった。 広州市に琉球館を再開したものの、翌年の天安門事件で出鼻をくじかれた形 となった。沖縄経済界の対中国貿易への期待が急速に冷えてしまったように思 う。またその後沖縄県と福建省のサミット会議なども開かれ、沖縄と福建省の 交流が深まるなかで、琉球館は広州市から福州市に移されることになった。 ところで、私がこの中国の旅で興味を持ったことのひとつが中国の「香りの 文化」だった。広州の街を案内してくれたのは、その後沖縄大学に聴講生、研 -1-

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究生としてやってきた陳久君だったが、当時彼は一生懸命に案内してくれた。

中山(孫文)記念堂の両脇にある二本の大木に興味を持ち、陳君に質問すると、

「白蘭という。花はとてもいい匂いがする」と説明してくれた。もっともこの

ときは花は咲いていなかった。一方の木の木陰には土産店があり、他方は、大

きな幹を取り囲むように、木のペンチがつくられ、老人たちが座って語り合っ

ている風景は実にいいものだった。また中山記念堂の近くの通りには白蘭の並

木もあった。

沖縄に帰ったあともやはりこの木が気になってしょうがなかった。それでい

ろいろ植物関係の書物や専門家にあたって調べた。その結果、台湾からすでに

何本か県内にも入っていることもわかった。正式の中国名は白玉蘭だが、台湾

では玉蘭といい、大陸では白蘭(パイラン)と呼んでいるが、沖縄では台湾の

影響で玉蘭と呼ぶ人が多い。しかし戦前、日本では白蘭(ビャクラン)という

呼び方が定着していた。国策映画だが、長谷川一夫と李香蘭の「白蘭の歌」と

いう映画もあったし、また中国雲南人民出版社編集『雲南の植物』の曰本語訳

(曰本放送出版協会)でもビャクランという読み方になっている。白蘭花茶が

あるとも書かれている。

黄色い花の黄玉蘭もある。中国にはこの仲間が20種以上あるという。和名は

黄色い花はキンコウポク(金厚朴)、白い花の方はギンコウポク(銀厚朴)と

いう。インドではチャンパカ、インドネシアではチュンパカと呼んでいる。

昨年、バリ島ヒンズー教の総本山とも言うべきブサキ寺院を訪ねた。3千メ

ートルを超える霊峰アグン山の中腹にある寺院だが、参道にはやはりチュンパ

カの木が並んでいた。しかしこのとき花はすでに終わっていて、種がたくさん

ついているのが確認できた。パリでは実生でも増やせるようだ。沖縄ではいま

のところ増やすには取り木しか手はない。バリの市場ではチュンパカの花が売

られており、女性は髪飾りに使う。バリ・ヒンドゥーを信仰するバリの人々は、

朝な夕なにヤシの葉っぱで器をつくり、これに花を盛って寺院や先祖をまつる

祠などに供えるという。

香りの植物、そして香りが生活の中でどのように活用されているかを調べる

うえで、朝曰新聞『世界花の旅』は大変参考になった。辰濃和男らの「世界花

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の旅取材班」は、バリ先住民の村も取材している。そこでもチュンパカは儀式 に使う大事な花だという。儀式の際バナナの葉の上に、ウコンの根、ジャスミ ンの花などを載せ、その-番上に清めの象徴としてチュンパカを供えるのだと いう。 また『世界花の旅』によれば、釈迦もチャンパカの林で修行したし、チャン パカは仏典にも頻繁に登場し、インドでは寺院にふつうに植えられている。香 料を採集し、葉や樹皮は薬用に、そして材は家具などに用いられているという。 こうした香りの花、アジアの人々の豊かな香りの文化に接するなかで、これ らを沖縄にも導入できないかと考えるようになるのはごく自然のことであろう。 のちにふれるように、沖縄は植物に関しても昔から北のものを追っかけすぎた。 もう少し足もとの植物、南の植物、さらには香りの文化に目を向けることによ って、独自なまちづくりが展開できるのではないかと考えたのである。

1,香りの文化の発生と伝播

最初に、ごく簡単に、香りの文化の歴史を振り返ってみよう。 人類は火の利用方法を身につけることによって、わりと早いうちに、ある種 の草や木、樹脂を火にくくるといい匂いがすることを発見したらしい。 古代エジプトでは乳香(オリバナム)と没薬(ミルラ)を好んで使ったとい う。神々をまつるために焚き、死者を永久保存するために使った。乳香は東ア フリカのソマリランドに産するカンラン科の植物からとれる樹脂で、森林の香 りで心身を清め、神に捧げる神聖な香りである。没薬はやはりエチオピアなど に産するカンラン科の植物から得られる赤褐色の樹脂で、強力な殺菌力を持つ、 霊薬的な香りであり身体を清めるものであった。その防腐力を利用してミイラ づくりにも使われた。ミイラとはミルラからきた名である。古代ギリシャ、ロ ーマと香りの文化は受け継がれ、発展していった。 アラビア人は蒸留法を用いてローズ水をつくった。これが現代の香水の原点 となった。アラビアで抽出されたローズ水は十字軍によってヨーロッパにもた -3-

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らされ、ヨーロッパ中に流行したという。12世紀になってヨーロッパで初めて 香水「ラベンダー水」がつくられた、14世紀にはローズマリーから作った「ハ ンガリー水」が流行した。その後もさまざまな香水が作られていった。花の栽 培や花精油の採集方法の改良、調合香料の研究など香料産業は発展した。さら には化学的に香りを合成するようになった。 一方、東洋ではインドが香り文化の発祥の地だった。古来多くの香木、香花、 香果が産出し、仏教やヒンドゥー教のなかで香の文化は豊かになっていった。 中国における香料の産地は南部の亜熱帯地方であったが、シルクロードや海路 を経てインドやペルシャからももたらされた。仏教とともに香の文化が中国に も伝わってきた。だがインドのように一般大衆が生活に取り入れるまでには至 らなかったという。支配階級の供香の儀式に、貴族や上流階級の女人が用いる 香粧品にとどまった。香りの形態もヨーロッパとは異なり、固体の香りの焚香 と油状の香粧品だった。蒸留法が伝わったのは近代になってからだった。した がって西欧風の香水は存在しなかった。 日本には6世紀頃、中国から仏教とともに薫香(くゆらせてよい香りを出す もの)が伝わってきたといわれている。中国と事情はよく似ている。日本の香 木と言えばヒノキ、クスノキ、クロモジなど限られていた。香料はすべて外国 からの輸入で高価な物だった。したがって奈良・平安時代には僧侶や皇族、貴 族が香りを使っていたにすぎなかった。 平安時代になると、宗教を離れて香りを楽しむことも始まった。唐の鑑真和 尚は仏典とともに種々の香薬を携えてやってきて、その香薬の調合により香り を放つ「薫物(たきもの)」という調合香料の製法を日本に伝えた。その結果、 高価な香木の代用として薫物が盛んになり、貴族の間で香会または合わせ香と 称する薫香を鑑賞する会が開かれるようになった。源氏物語にも出てくる空薫 物(そらだきもの)、移り香などといわれるものである。 やがて源平の武家政治に移り、幾多の戦乱がつづく中で、こうした香りの文 化も衰微していったが、13世紀に入ると、武家社会の生活を反映して次第に香 りに対する好みが変化し、数多い香料の中から精神的にもその時代に適応した 沈香を選ばれ、愛好されるようになったという。そして一定の方式にしたがい、 -4-

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香りを嗅ぐようになったのは足利義政の東山文化の時代になってからである。

義政は中国との交易に力を入れ、香薬が中国から容易に入手できることになっ

たことが背景にある。こうしたなかで香道の基礎が完成していった。そして香 道の流派も誕生し、江戸時代にはいると寛永の伝統文化復興の気運の中で、武 士、富豪の中にも普及していった。

ヨーロッパで主流になった花精油(エッセンシヤル・オイル)は大量に採出

することが可能であったし、水や油にも溶けやすく、香りを他のもにつけるこ とはやさしかった。それに対し、曰本では香木が中心で、しかも熱帯アジアか

らの輸入に頼るしかない貴重な存在で、また香りの加工も難しかった。明治の

廃仏穀釈で、仏教的な「香りの文化」が排除されるなかで、西欧文明の流入と

ともに、西欧の香り文化が流入しはじめた。

琉球の場合は、仏教は定着しなかったし、進貢使たちは貿易が主たる目的だ

ったから、日本の遺精使や遣唐使とは事情が違ったが、それでもジャスミンや キンモクセイなど香りの植物は運んでいる。また琉球は一時期、東アジアにお けるスパイスなどの中継貿易で栄えた。琉球の歴史の登場する香りをいくつか 取りあげてみよう。 スパイスと香木

元朝に仕えたマルコ・ポーロは、1290年、当時中国最大の貿易港・泉州から

ペルシャに向け出港した。ペルシャから陸路をとってヴェネツイアに帰還した のは1295年のことだった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』は大変な話題とな

ったが、とりわけ香料、胡椒に関する情報は人々を探検へと駆り立てることに

なり、コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼランらはインド航路の発見に曜起

となった。冷蔵庫のある今日からは理解しにくいが、当時のヨーロッパでは胡

椒は肉類の腐敗防止と悪臭の矯臭用に大きな需要があったという(瞳')。

1372年、明の洪武帝は琉球に使節を派遣し入貢を促したが、それに応えて中

山王察度は弟の泰期を遣わした。マルコ・ポーロが旅立った泉州の港が琉球専

用の指定港だった。明の冊封・進貢政策、海禁政策のもとで、琉球は東アジア

全域を対象にした中継貿易活躍する。以後毎年のように貿易船が泉州の港に向

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け船出し、東南アジア、日本、朝鮮を相手に中継貿易を行うようになった。東

南アジアとの関係では、琉球は中国の陶磁器を輸出し、東南アジアからは胡椒、

丁字、沈香、檀香などのスパイスや香木を輸入し、中国、日本、朝鮮に再輸出

していた。

胡椒は朝貢品として欠かせないものだった。日本、朝鮮にも輸出された。丁

字はフトモモ科の植物の花蕾、開花した花、実、茎などを乾燥したものをいう

が、蕾が香が高い。その花蕾の形が釘状になっているので、丁字という名がつ

いた。英名のクロープもフランス語のクルー(釘)から来たという。「強い殺

菌力と防腐性を持つ。調味料や食料の防腐剤あるいは薬用として強壮、健胃、

腹痛、歯痛などに用いる。中国では後漢時代より口中剤としてとしても用いら

れていた。天子の御前で奏上するには必ず丁字を噛んで出たという。いうなれ

ば今曰の仁丹のような口中剤に相当する。」(雌2)

沖縄の焼き物に丁字風呂があるが、これに丁字を入れて煎じ、香気を楽しむ

とともに、薬湯として飲んでいたらしい。なお国営沖縄記念公園のおもろ植物

園には丁字の木がある。もちろん花蕾も採集できる。 キンモクセイ

中国南部の原産、しかし沖縄ではキンモクセイは見かけない。沖縄の人は本

土に行って初めてキンモクセイに接し、その香りに驚きが、苗木を買ってきて

植えてみるが、なかなか育たない。福州園の場合も本土から取り寄せて何本か

キンモクセイを植えたが、ほとんどすべてが枯死、あるいは枯死寸前という状

態である(土をつけて運べないという問題はあるものの、むしろ台湾から輸入

した方が良かったのかも知れない)。

ところが、天野鉄夫著『図鑑琉球列島有用樹木誌』にはキンモクセイの写真

が載っている。写真を担当した澤岻安喜氏によれば、これは澤岻氏が栽培して

いたもので、残念なことに、写真を撮ったあとしばらくしてから枯れてしまっ

たという。だが解説の方を見ると、興味あることが書かれている。「方言名は

キイハ(古語=沖縄首里)/キイハノハナ(桂花=混効験集)琉球王朝時代よ り導入ざれ篤志家の庭園に植栽される。」 -6-

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中国語ではキンモクセイの花は桂花でクイホアと発音するが、それがキイハ になったのだろうか。伊波普猷は「混効験集」を手がかりにして、おもるそう しの解読に成功したが、その校注「混効験集」を見ると「きいIよのはな桂花 (白銀門の中にありしと云ふ)」(肱3)とある。進貢使たちもキンモクセイの花 の香りに驚いて、運んできたのではないだろうか。 ジャスミン(マツリカ) 中国福建省から伝来して、茶の賦香料、観賞用として庭園に植栽されてきた。 昭和10年頃には茶の香料作物として奨励したことがあるという。「混効験集」 ではモヘクワノハナとなっている。(肱4) モクセイ科のソケイ(ヤスミヌム)属の一種。学名はヤスミヌム・サンパク、 サンバクは原産地のアラビアを意味するという。アラビア半島から、インド、 東南アジア、南太平洋まで分布する。和名のマツリカは、漢名の茉莉花に由来 する。古い時代にシルクロードを通り、中国に入った。中国では、っぽみのう ちに摘み、乾燥させ、中国茶に混ぜてジャスミン茶として飲む。 フィリピンではサンパギータといい、国花でもある。「タイやフィリピンで はっぽみのうちに摘んでつなぎ、レイや花輪にし、供花やお守り用に街角など で売られている。フィリピンではやはり芳香のあるイランイランノキやキンコ ウポク、ハナシュクシャなどの花を組み合わせることもある。タイでマリと呼 ばれるマツリカにバラやランなどの飾りをつけたポーマライ(花数珠)は豪華 で美しく仏前に供えられる。」「香水やせっけん、芳香料にされるほか、葉や 根、花も傷口の腫れなどの治療、その他の民間薬として用いられる」(朝日新 聞『世界花の旅』)という。 -7-

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2、沖縄の香りの植物 植物と人間の生活との関わりなどを研究するのは、植物民俗学という学問だ という。植物民俗学の視点から、上にあげた以外の沖縄にある香りの植物をい くつか取り上げてみよう。 (1)ゲットウ(月桃)サンニン、サニン ショウガ科の多年草本。きれいな花をつけるので観賞用として植栽される。 根茎は健胃整腸、消化不良などの薬用とし、種子は仁丹の主要原料となる。葉 には独特の香りがあって、ムーチーガーサ_に用いられてきた。また茎は結束 用として利用される。 (2)サガリバナ サガリバナ科の植物は、世界の熱帯に20属約380種類あるが、沖縄にはサガ リバナとゴバンノアシの2種類がある。 サガリバナは奄美大島以南の琉球列島に見られる。西原町の内間御殿の樹齢 450年といわれるサガリバナが有名だが、名護市の真喜屋にはこれより大きな 木がある。いずれも最近花見に来る人が増えているようだ。 ゴバンノアシは八重山諸島にあるが、果実は碁盤の脚に似ていることからこ の名前がついた。長さ、幅が10センチほどの果実で海流に乗って流れ着く。中 には大きな種が一つはいっている。石垣では海岸から民家の庭に移植されてい るのも見かける。宮古にも大きな木があったが、いまは切られてないという。 曰本の西南部の海岸によく漂着するので有名である。佐渡にも流れ着いたとい う記録もあるという。 サガリバナの仲間は世界にはたくさんあるが、ナッツとして有名なものもあ る。ブラジルナッツノキは、高さ30メートルにもなる高木で、「果実は球形で、 直径15センチぐらい、先の方がへこんでいて、その中心に直径6センチぐらい のふたがあって開く。種子は10個ぐらいで、形は不規則は三角形、長さ5セン チ、幅3センチ、厚さ2.3センチ。殻が堅くて厚いので、獅子を取り出すには -8-

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のこぎりで切るか、おので割らねばならない。種子の仁は脂肪が多く、食卓用 ナッツとして欧米では多量に食べられている。種皮が木質で堅いので、食べる ときにはペンチのようなもので殻を割って、なかの白い仁を取り出す。主産地 はブラジル北部、とくにアマゾン川流域で、種子の年産量は3万トン以上に達 している。最近はアジアの熱帯でも栽培されている。」(朝日百科『世界の植 物」)という。 パラダイスナッツノキはブラジル原産で、やはり高さ30メートルにもなる高 木である。果実は、つぼ状で、高さ約25センチ、幅が約15~20センチ、先には 直径7センチほどのふたがある。モンキー・ポット(猿のつぼ)と呼ばれてい るが、これは猿が手を中に入れて、中の種子をつかむと手がぬけなくなること から、そう呼んでいる。この果実は、一昨年、国営沖縄記念公園で開催された 「世界の種子展」で展示された。 (3)マーニ(和名クロツグ) 八重山から沖縄本島、奄美各地に見られるヤシ科の植物で、5月から6月に かけて、花が咲き甘い香りを漂わせる。香りは遠くまで飛ぶ。 むかしはマーニの芯を食べたこともあるという。葉は大型の羽状複葉で長さ 3メートルほどで、多数の小葉をつける。子供たちは、この葉を2本切り取っ て地面にたて、竹の棒をかけて、走り高跳びをして遊んだという。この話は、 宮古でも本島北部でも聞いた。各地で子供たちの遊び道具となっていたらしい。 また戦前、沖縄ではマーニ景気といわれるものがあった。第2次世界大戦の 勃発のため、インド、南方諸地域から輸入していたたわし・ロープ・デッキブ ラシなどの製造用の植物繊維の輸入が途絶えたため、これらの代用品として八 重山のマーニ(クロツグ)、ルガイ(リュウゼツラン)がにわかに注目され、 いわゆるマーニ景気が起こった。1943年ごろから1950年ごろまで八重山の経済 を潤したという。 今ではこういうことを知っている人も少ない。またマーニの存在は知ってい ても香りを出すということを知らない人が多いようだ。しかし竹富島では民家 の庭に植えてあるのを見た。明らかに香りを楽しんでいるのだろう。 -9-

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(4)ゲッキツ ミカン科の植物。沖縄の代表的な生け垣の材料で、花は白く、赤い実をつけ

る。奄美以南に自生する。年に何度か花が咲き、強い香りを発する。薬用植物

にも分類されていて、胃腸カタル、腹痛、下痢に葉または樹皮を乾燥させたも

のを煎じて飲むとある。また吉田よし子著『香辛料の民族学」によれば、ゲッ

キツは「さまざまな薬効があるが、最近の中国ではとくに、局所麻酔薬として 注目されている。茎と葉をつぶして50%のエタノールに24時間浸したのち癒過

した液が麻酔薬で、扁桃腺切除手術から胃の手術などにも、他の麻酔薬と併用

という形で使われているようだ。枝や葉の煎じ汁は湿疹の治療に、根も湿疹や

リウマチの痛み止めに使う。葉を料理に使うという話は聞かないが、キンカン

ぐらいの大きさの赤く熟した実はミカンに似た匂いがあり、生で、もしくは煮

て食べることができる。また樹皮や根はつぶすとよい匂いのする白い粉になる

ため、白粉として使われている。」(ただし「キンカンぐらいの大きさの赤く 熟した実」というのは沖縄のゲッキツとは異なる)。 (5)ヒメサザンカ ツバキの花は匂いがしないといわれてきたが、中には微香性のものもある。 だが沖縄に自生するヒメサザンカは芳香のあるツバキとして有名である。ヒメ サザンカの群落もあり、世界のツバキ研究家から注目されている。また沖縄の

ヤプツバキは色と形がよいことでも知られている。そういうこともあって、将

来「世界ツバキ大会」を沖縄で開催することも話し合われている。

いま園芸界で課題となっているのがツバキの品種改良で、中でも注目されて いるのが芳香のある花で、梅に似た甘い香りを出すヒメサザンカは、品種作り の親として期待されている(陸5)。香りツバキとして有名な「フレグラント・ピ ンク」は、戦後沖縄にやってきたアメリカ農務省の育種の専門家アッカーマン 博士が持ち帰ったヒメサザンカから生まれたという。 -10-

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(6)ピパーズ 地域によって呼び方もいろいろ変わる。竹富ではピーヤシである。ヒハツと もいう。植物図鑑を見るとヒハツモドキとある。これは中国のヒハツ(畢掻) に似ているが、少し違うところがあるというのでヒハツモドキになったのだと 思われるが、中国のヒハツはインドナガコショウで、沖縄のそれはジャワナガ コショウだろうと思われる。 ナガコショウはコショウの実が独立せず、房の中に埋まっている。房ごと乾 かして使うので、丸いコショウに対してナガコショウと呼ばれる。ナガコショ ウは現在では産地以外では知られていないが、ギリシャ・ローマ時代にはコシ ョウといえばナガコショウを指したほど珍重されたのだという。また最初にヨ ーロッパに入ったコショウもこのナガコショウだったらしい。(肱6) 沖縄では石垣に這わすのが一般的だが、たとえば海南島などでは畑に長い石 柱をたてそれに這わせている。タコの吸盤のようなものを持っており、壁でも 這い上がっていく。その性質を利用して石垣市では、壁面の緑化に役立てよう としている。 インドネシアに行ったとき、現地のガイドに「コショウのことを沖縄では、 ピパーズというが、こちらでは何というか」とたずねたところ、「ペパッ」と いう答えが返ってきた。初島住彦・中島邦雄らの『琉球の植物』では、「沖縄 ではヒハツと称しているが、これは漢名畢掻にもとづくもので、もと中国から 輸入されたものであることがわかる」と書かれている。しかし、南から植物と 一緒に呼び方も伝わってきたと考えられないだろうか。ピパチ(石垣)、ピー ヤシ(竹富島)、ピパーツ(宮古)、フィファチ(首里)、ヒパーチなど各地 で呼び方が違うが、伊波普猷の[P音考」の典型的なケースとも思われる。な お中国語の畢掻も曰本語読みするとヒハツだが、中国語ではペパーに近い音だ という。 土産店では、竹富島や石垣市ではこれでつくったコショウが売られている。 また若い葉っぱは香りがよいので、みそ汁に入れたり、ジューシーに入れて食 べる習慣もある(トウンジージューシー)。つまりスパイスだけでなくハーブ 的な利用もしている。 -11-

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(7)ヤコウポク(夜香木)

ナス科の植物。夜になると香る。非常に強い香りを発するので、拒絶反応を

示す人もいる。そばで嗅ぐよりも、遠くから風に乗って香ってくるのを嗅ぐと

ちょうどいいのかも知れない。1キロ先の花の香りをかぎ分ける人もいるとい

う。昼間は気がつかないが、夜、那覇の街を歩くとヤコウポクの匂いがしてく

るが、あちこちの民家の庭に植えられているようだ。豚舎などの悪臭を和らげ

る目的で、植えられたこともある。 (8)イエライシャン(夜来香)

沖縄では夜香木のことをイエライシャンと呼ぶ人が多い。中国でも夜香木の

ことをイエライシャンと呼ぶ人は多いようだ。夜来香とは「夜が来ると香る」

という意味だから、夜香木のことをそう呼んでも不自然なことではないように

思う。雲南省の昆明の花屋さんで、イエライシャンを求めたところ、やはり夜

になると香る月下香(チュベローズ、ヒガンバナ科)が出てきた。

本当の夜来香はガガイモ科のツル草である。東京・神代植物園にあるイエラ

イシャンが、朝日新聞の天声人語(瞳7)で取り上げられて話題になった。天声人

語は、夜来香の香りをこんなふうに紹介している。

「柔らかで心持ち甘く、しかし清らかな、えもいわれぬ香りが鼻をついた。

足が一瞬、くぎづけになる思いだった。」

「花そのものは小さくて、ひかえめな黄緑色だが、香りは濃い。温室の一角

に近づいただけで、やわらかな香りが一面にただよってくるのがわかる。まず

香りがあって次に花を探す、という順序になる。花の前で目を閉じると、ゆか

しさのある香りがすっと胸にとけこんで、ひろがる。」

「大昔、中国で戦乱があり、ある軍隊が城を占領した。だが兵士たちは、ふく

いくたる夜来香の香りにつつまれているうちに戦意を失い、翌曰の戦いでは城

を追われることになった、という伝説もある。

刺激的ではなくて、むしろ心を静めるふしぎなにおいである。夜のやみにあ

ってさらに香る、というから何十本もの夜来香にかこまれたらもう、戦って、

血を流すことがおろかしく思えてくるだろう。」

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この夜来香は、植物園の鳥居恒夫さんが1970年バンコクの植木市でもとめ持 ち帰ったものだ。ガガイモ科のツル植物で、対をなすサツマイモに似た2枚の 葉の付け根から1本の花の茎が伸び、その先端から房状に淡緑の花を咲かせる。 原産地はインドからベトナム。「中国南部では夜来香の名前で培養され、香り のよい植物として、歌謡に歌われて特に有名となった。夜のみならず、昼間も よく香り、香水を採ったり、スープに花を散らしたりもする」(朝日百科『世 界の植物』)という。 天声人語の記事を読んだ資生堂製品研究所の中村祥二氏らが、ヘッドスペー ス法で空気中の香気を捕らえ分析した結果によると、「バラに含まれるゲラニ オール、スミレに含まれるβ-イオノンが主成分であることを発見。これはド ゥフトポルケ(香りの雲)という名前のバラの香りに似ています。また、夜来 香の香りが遠く広く香る秘密は、拡散性のあるβ-イオノンを含んでいること によることがわかりました。」という(瞳8)。 監修多和田真淳、池原直樹著『沖縄植物野外活用図鑑』(新星図書出版)に も沖縄のイエライシャンが載っている。ただしこの図鑑ではエーライシャンと 呼んでいる。沖縄にはいつごろからかはわからないがイエライシャンがあった。 故多和田真淳氏が八重山から那覇に持ち帰った。多和田真淳さんは、亡くなる 数年前(今から10数年前)に何人かの人にイエライシャンのツルを分けたがく わしいことはわかっていない。八重山と東南アジア、中国との交流の中で持ち 込まれたものであろうか。 (9)イランイラン マレー語で「花の中の花」の意。波照間には、イランイランの仲間クロポウ モドキがあるから「八重山では香水の原料としても有名なイランイランが育つ のではなかろうか」と八重山の造園業の人たちとの懇談会で話したところ、森 本農園の吉本さんから自分の農園にたくさんあるという答えが返ってきた。 石垣市の森本農園には、30年近く前に台湾からイランイランの種を持ってき て農園に撒いたが、いまでは10メートル以上の木が何本かあり、花を咲かせて いる。台湾で発行された『香花植物』(台北市・渡假出版社)によれば、台湾 -13-

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ではイランイランのことを香水樹と呼んでいるが、1902年横山壮次郎氏が馬尼 拉(マニラ)から、岡村庄太郎氏が新加波(シンガポール)から、また1904年 には佐々木舜一が罪律賓(フィリピン)から導入した、と書かれている。植民 地時代の台湾では、熱帯の様々な資源を集めていた。 シンガポールのイランイラン通りは観光ガイドブックにも載っているが、昨 年訪ねたとき、「大きくなりすぎて切り倒された」というガイドの説明だった。 暖かい気候の下ではほぼ一年中花を咲かせるという。香料用の栽培は、現在は マダガスカル島、コモロ島が主産地となっている。 (10)クライミング・イランイラン イランイランの仲間だが、半ツル性で、釣り針状のフックを持っており、こ れで他の植物をがっちりとつかみ、上によじ登っていくことからクライミング ・イランイランという名がついた。中国名は鷲爪花(オウソウカ)。花から香 水もつくる。沖縄にも導入されている。 支柱を立ててまっすぐのばし、適当な高さの枝をパーゴラに這わすとよい。 バンコクの街ではそのようにして活用している。陰をつくるとともに、夕方に なると熱帯果樹のような甘い香りが街に漂う。 沖縄にある香りの植物をいくつかピックアップし、どういう植物であるか、 どのように利用されてきたかについて紹介した。もちろんこれですべてではな い。樹木医の与儀実信氏の調査によると、沖縄で芳香植物としてカウントされ る植物は在来、外来合わせて数十種類にのぼるという。 沖縄の芳香植物の種類は多い。最近人気の出てきたサガリバナの自生地は奄 美大島が、また月桃(サンニン)は琉球列島に生育し、インド、マレーシアに 分布するが、鹿児島の佐多岬が北限である。

鳥居恒夫氏がタイから持ち帰ったイエライシャンは神代植物園ではなかなか

花が咲かなかったが、大温室に移して初めて花を咲かせたという。他方イラン

イランは大温室の中でも花が咲かない。しかし沖縄では、いずれも露地で花を 咲かせ、香りを発する。 -14-

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沖縄を温帯の南限として捉えるよりも、熱帯の北限として捉える方が正しい のかも知れない。 3、香りのまちづくり(各地の事例) 曰本人は花を色と形で判断する、香りに関しては無頓着である、といわれて きた。しかしこのところハープを中心にした香りの里づくりなど、各地で香り を活用したいろんなまちづくりが始まった。いくつか紹介してみよう。 景観づくり、香りが漂う街づくり 中国の街を注意深く観察しながら歩くと、街路樹に白蘭を植えているのに気 がついたり、また、形はゲッキツそのものだけど、米粒より小さな花を咲かせ、 とてもよい香りを発する米蘭(台湾では樹蘭という)が道路に沿って植えられ ているのを発見したりする。山水画そのもののような風景の中を川下りするこ とで有名な桂林も、街を歩いてみると通りには沢山のキンモクセイが植えられ ているのに気がつく。 フェニックスを植えて、南国宮崎を演出した故岩切章太郎は、さらに生駒高 原にコスモスと菜の花で、秋と春の花のローテイションをつくり、また曰南海 岸には潮風にも強いコバノセンナを約10万本植え、「黄金の海岸」と呼んだ。 花のローテイションも同一場所で組むほかに、隣り合わせの場所で組む場合、 違った場所の花と花で組む場合がある。これらを組み合わせることによって 「365日花のある宮崎」をつくり上げた。沖縄が日本に復帰すると、南国宮崎 だけではどうしても魅力が薄れる、そこで花の宮崎を売り出してみようと考え たのだという。このようにして「花の宮崎」をつくりあげ、宮崎の観光の発展 に大いに貢献した故岩崎章太郎は、晩年には「匂いの宮崎」を構想していた。 旅館街には夜番木を植えたいと考えていたという。ジンチョウゲ、キンモクセ イ、カラタネオガタマ、クチナシ、ヤコウポクなども植えられている。車で走 る曰南海岸には色鮮やかな花を配置し、車を降りて歩くところには香りの植物 -15-

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をと考えたのであろう。 「花の絨毯」と称されるオランダのチューリップ畑に比べると規模は小さい が、沖永良部のフリージャ畑も見事な景観を作っている。沖永良部のフリージ ャは香りの強い黄色の花が多いが、フリージャの花に合わせて毎年ジョッギン グ大会を開いている。今年は3月17日、第15回フリージャジョッギング&フェ スティバルを開催した。遠くは関東、関西からも参加して、1400名余が走った。 沖縄からも那覇走ろう会、コザ走友会などが参加した。 しかし生産そのものは近年オランダ産球根の輸入増大、高齢化などで年々減 少傾向をたどっている。-面がフリージャ畑といった昔の面影はいまはない。 匂いの園 奈良県の高取町は、明日香村のとなりにあるが、製薬会社が多いことでも知 られている。この町にある壺阪寺には、昔から目をわずらった人々が訪れ、千 手観音にすがった。また目の見えない夫と心の美しい妻との話、浄瑠璃「壷阪 寺霊験記」の舞台にもなった。 この寺には目の不自由な人のための植物園「匂いの園」がある。春はタイサ ンポク、センダン、モクレン。夏はユリ、ラベンダー、グラジオラス、秋はキ ンモクセイ、バラ、冬はサザンカ、ウメ(ロウバイ)など、一年を通して香り が楽しめるように工夫されている。壺阪寺には目の不自由な老人のためのホー ム「慈母園」もあるが、月に一度寮母に付き添われ、老人たちは「匂いの花園」 で香りを楽しむという。 壺阪寺の「匂いの園」は1958年につくられた。お寺の説明によると、わが国 では初めてで、海外にはニューヨークのブルックリン植物園とイギリス南部プ ライトンの公園の一角にScentedGardenがあるという。 ハープ園 ハープとは香草、生の香りを楽しむものをいうが、日本でもやサンショウ、 ミョウガなど昔から利用してきた。アジアの人々も昔から香草を日常的に利用 している。かつてスパイスを求めてアジアにやってきたヨーロッパ人たちは、 -16-

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もちろんこのことは知っていたはずだ。しかしスパイスは運べたが傷みやすい 香草は運べなかった。そこで自分たちの足下にある香草をハープとして楽しむ ようになったといわれている。 ヨーロッパ直輸入型のハーププームがいささか気になるが、北海道富良野の ラベンダー農場、千葉県大多喜町のハープガーデンなど、各地で香りの里づく りが盛んである。島根県・石見町では、キンモクセイなど芳香植物を集めて 「香木の森公園」をつくったところ、女性に好評だったことから、-年間町に 滞在しハープ作りや農作業を手伝ってくれる20才から35才までの独身の女性6 名を募集した(92年12月)。宿泊施設の「香賓館」は白いペンション風の建物 で、個室の部屋はホテル並みの設備だが、滞在費は無料で、町から月額7万円 の生活費が支給される。石見町は過疎に悩む中国山地の町だが、一期生の中に は町の青年と結婚するというケースも出てきたし、また町出身の女性がUター ンするというケースも出てきたという。 おおいた香りの森博物館 大分県では、20年かけて総面積4,472haの広大な自然を5つのゾーンにわけ、 その-つとして平成元年に香りのテーマパーク平成森林公園(野津原町)を造 成した。また96年7月7日には、香りの森の中心施設としておおいた香りの森 博物館(ミュゼ・パルファン)がオープンした。総工費44億円をかけて建設し たものだが、香りを第三の文化と位置づけ、香り文化の創造と発信を目的とす る施設である。開館式には、野津原町と文化観光交流協定を結んでいるフラン ス・グラース市のジャン・ピエール・ルルー市長、香水に関する資料を寄贈し たオマーンのアル・プサディ殿下(アムワージュ社会長)も参加し、記念植樹 を行ったという。 博物館は、中世ヨーロッパのお城をイメージした2階建ての建物で、ここで 香りの文化の歴史や香水の製造方法など香りについて学ぶことができる。また オリジナルの香水が作れる工房も備えている。本館の他に、四季折々の香り の植物や噴水を組み合わせたガーデン、一年中香りの花が咲き乱れる温室、 栽培園からなり、また本館内は隅々までハープなどの芳香に包まれているとい -17-

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ぅ。(肱9)

1975年に一村一品運動を提唱し、その後一村一文化、-村一スポーツ、-村

一風運動へと展開してきた平松知事の発想である。構想以来9年かけて香りの

森博物館を実現した。文化には視聴覚文化、味覚文化、嗅覚文化の三つの文化

があるが、嗅覚文化、つまり香りの文化を第三の文化として位置づけ、文化の

創造と発信を目指す。 平成10年に大分県で開催される国民文化祭では、文化祭のメインイベント

として香りのフェスティバルが香りの博物館を中心に展開する予定だとい

う。(肱'0)

4、沖縄の香りのまちづくり

かつて首里の殿内には、必ずと言っていいほど梅の木が植えてあったという。

だが明治の琉球処分で士族の没落が始まり、屋敷が切り売りされていくなかで、

首里から梅の木は次第に消えていった。もちろん戦争でも消えていった。それ

でも何本かの梅の木はいまも残っている。また首里から地方へと梅は広がって

いったのだろう。中城の泊の梅の大木をはじめ、各地に梅の古木があるのに気

がつく。

梅はもともと中国原産で、日本には奈良時代に遣晴使、遣唐使が持ち帰り、

平安時代までは花の美の筆頭として珍重されていたという。琉球の梅は、中国

から直接来たのではなく、たとえば菅原道真の「東風吹かば、匂い起こせよ梅

の花・・・」などの影響が強いのだという。琉歌の時代からヤマトの植物に対

するあこがれのようなものがあったと言われている。

桜に対するあこがれも非常に強い。染井吉野はたしかにきれいだ。本土に行

って桜吹雪を見て、沖縄にも植えようと考えるのは無理もないことだと思う。

これまでどれほどの染井吉野が沖縄に持ち込まれただろうか。復帰のころもか

なり運び込まれたという。しかしたいていは根付かなかった。本島北部の山に

も植えたがやはりだめだった。琉球大学の演習林では、思いあまって寒緋桜に

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接ぎ木したところ、成功した。白い花が咲き、風が吹くと花びらが散った。と ころが喜んだのもつかの間、次第に花びらがピンクがかってきて、そしてつい には緋寒桜に完全に同化してしまったという。 沖縄では染井吉野が難しいので、寒緋桜を植えようということになったが、 どこに行っても桜が多すぎるような気がする。学校の校庭を見ても桜を植え続 けている。なぜ桜を植えるのか、もう少し議論する必要があるのではないだろ うか。 数年前から、サガリバナがマスコミでもよく取り上げられるようになった。 サガリバナは、すでにふれたように、奄美大島を北限とする熱帯の植物である。 ようやく足下の花が見直されるようになったといえる。この花は夕方になって から咲き始めるが、朝日を浴びると花は落ちてしまう。香りもすこしある。西 原町の内間御殿の樹齢450年というサガリバナが有名だが、名護市の真喜屋に はこれを上回る大木がある。また同市内では民家の庭に植えられているサガリ バナ大木が数本確認されている。石垣市や西表島にもたくさんある。 西原町ではサワフジと呼んでいるが、昨年夏この老木のある内間御殿前広場 で「サワフジを囲んで西原を語る夕べ」を催したが、盛況だった。創作舞踊 「さがりはな風」も披露された。また泡盛やケーキなどサワフジの名前をつけ た商品も販売されるようになった。サガリバナで町おこしの気運を高めようと している。 名瀬市では95年9月、「香りのまちづくりフォーラム」を開催したが、ここ でもサガリバナが話題になった。リュウキュウアユが生息する住用村の役勝川 にも小群落があることがわかったし、そのほかにも何カ所かにあることがわか った。驚いたのは与路島では、水田の防風林としてサガリバナがたくさん植え られており、今でもたくさん残っているということだった。防風林というより も、サガリバナは大きな葉をたくさんつけるので田の肥やしにしていたのかも 知れない。奄美の瀬戸内町から船で2時間のところにある小さな島だが、かつ て沖縄にもそのような風景があったのだろう。 また奄美大島の名瀬市では、フォーラムのあと「香りのするまちづくり」の 一環として、ボランティア百数十名が国道58号線沿いにエラブユリの球根約 -19-

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600個を植え付けた。また96年3月には、市が今帰仁村の農家からサガリバナ 40本を購入、うち20本を市内の公園に植えた。 沖縄のリゾートホテルでも庭園に沖縄らしさを出したいということでサガリ バナを植えるところも現れた。リゾートホテルの庭園も色鮮やかな花だけでな く、香りも付け加えることによって、沖縄らしさを打ち出すことができるので はないだろうか。 香りの植物園としては、ナゴパラダイスがある。積水化成開発株式会社の沖 縄事務所で、50種類ほどのハープ園にほかにジャスミンやプルメリア、熱帯果 樹が植えられており、香りの植物園として、観光コースにも入っている。ハー プに関しては、県内でも人気が出てきている。またハープの生産地として、沖 縄は有望であるといわれているが、本土企業との契約栽培でハープを生産する 農家も出てきている。出荷額は年々伸びている(陸'1)。 北中城の有機肥料会社も香りの植物園づくりを目指している。牛糞などを扱 い、悪臭で地域の住民に迷惑をかけるということで、臭い消しのためにヤコウ ポクなど芳香植物を工場の周囲に植えることから始まったが、いまでは目の不 自由な人のための香りの植物園構想へと発展し、工場のそばに昨年ミニ芳香植 物園をつくった。さらにハーブ園なども構想している。 目の不自由な人のために植物園づくりはこんなことから始まった。香りのま ちづくり研究会のメンバーの一人が、ボランティア活動もやっていて、目の不 自由な子供たちをつれて子供の国に行ったところ、ピンクポールの花のところ で子供たちが「いい匂いがする」と騒いだというのだ。健常者である引率者は、 ピンクポールの蜜を腹一杯吸った蜂がよたよたしながら飛んでいるのを見かけ たことはあった。それで蜜の多い花という印象をもっていたが、匂いには全く 気がつかなかった。そのことが話題になり、それじゃ眼の見えない人の立場に 立って植物園を考えてみようではないかということになったのだった。 ゲットウの香りは、沖縄では身近にあってムーチーガーサなど、よく親しま れているだけに、その香りの活用についてはいろんな取り組みがされている。 沖縄県工業試験場化学室では、1978年から「月桃の多目的・高度利用に関する 研究」を行っているが、これまで茎の部分から和紙の開発、精油、肥料などの -20-

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商品化を行っている。また食品用防腐剤、防ダニ剤の開発の可能性、悪臭を除 去する可能性もあり、研究がつづけられている。 さらに各地で、サンニンの新たな利用方法の「開発」は盛んである。名護市 ののびる福祉作業所では廃油からせっけんをつくっているが、これに月桃の香 りをつけた月桃粉せっけんを開発したと言っている。北谷町商工会では92年度 に「村おこし事業」として特産品開発研究会を発足させ、サンニンから抽出し たエキス、粉末を使って特産品づくりを始めた。サンニン水まんじゅう(県産 業祭り県知事賞)、サンニンの詩(カステラ)(全国菓子大博覧会金賞)、サ ンニンパン、月桃そばなどを開発した。また生活改善グループでもサンニンを 使った食品づくりに取り組んでいる。また商工会では北谷町物産公社を設立し、 これら特産品の販路開拓に取り組むことにしている。一方、小浜島でも、町花 でもある月桃からお茶をつくろうと模索している。 サンニンの原料確保の問題もあるが、金武町では赤土流出防止に月桃を植え ている。成長すると3,4メートルになり、防風、防潮林として、また将来的 には、畳用材や防虫シートなど工芸作物としても期待されているという。 原料確保について触れたが、「香りのまちづくり」を進めるうえでも苗木の 確保が一番大きな問題であると考えられる。在来の芳香植物についても、これ まで余り香りには関心がなかったので、苗木が生産されていない。ゲッキツや ヒメサザンカは植木市などでも売られているし、サガリバナなどもこのところ 人気が出てきたので、比較的手に入りやすいが、その他の植物については全く と言っていいほど生産されていない。白蘭や樹蘭などを外国から輸入するとい う方法もあるが、大量の植物の移動は、植物検疫などの問題もあってむつかし い。どうしても県内で生産する態勢をつくる必要があるが、その態勢づくりは いま始まったばかりである。 復帰後、公共工事が大々的に展開し、道路や公園が整備されていったが、県 内における樹木生産態勢が整っておらず、これに対応できないという問題があ った。結局、九州からシャリンバイ、ハマヒサカキ、アベリア、カイズカイブ キ、高木ではイスノキ、ホルトノキなどを大量に入れた。その方が安上がりだ った。しかし違う気候のもとで生育がよくないなどの問題も出ているし、また -21-

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足もとにオキナワシャリンバイがあるのに、九州もののシャリンバイを植えて いくというのも問題であろう。やはり樹木は県内で生産する態勢を取る必要が ある。 おわりに 陳瞬臣は「蘭に思う」というエッセーでこんなことを言っている。

「花についていえば、曰本ではその色やすがた、あるいはたたずまいが鑑賞の

ポイントであり、中国ではそのかおりが尊ばれる、香こそその花の心であって、 香のないのは心のない花であるとされた。いくら美しくても、香のない花、あ るいはかおりがきわめて薄い花は、あまり重んじられなかったのである。日本 人が国花として尊重している桜を、中国人がそれほどもてはやさないのは、早 く散ることよりも、かおりが淡泊すぎることのほうがより大きな理由であろ う。」 さらにこんなこともいっている。「桜花の潔さを愛した日本人は、花のかお りにめざめるのが遅かったようだ。最近の政界の流行語ではないが、ミソギが 好きで、つれIこもののにおいを洗い落としてきたことも関係あるかもしれない。 無臭の世界では、ちょっとした芳香も、かえっておぞましく感じられることも あるだろう。女性の間で、フランス香水が愛用され、それも定着したかのよう である。また花のかおりを移した中国茶が、曰本でもかなり需要がふえたとい う。においオンチもようやく改善されたようだ。」 沖縄の場合も陳舜臣の指摘がそのままあてはまると思うが、視点を変えて足 もとをよくよく見ると、香りの素材は本土よりも沖縄がはるかに豊かであるこ とに気がつく。また沖縄県林業試験場での研究会で、沖縄では本土から持って きた植物よりも南から持ってきた植物のほうがよく活着するという報告もあっ た。こうした地域の豊かな資源を活用すれば、宮崎や大分とも違う、沖縄独自 の香りのまちづくりが展開できるのではないだろうか。 「香りのまちづくり」構想については、沖縄県経営者協会の第2回「かりゆ

し塾」で提起した。その後、植物の専門家との意見交換、沖縄県林業試験場で

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の研究会での報告、ボリビア協会での報告・討論、東南アジア、中国の調査な どをへて構想を固めてきた。またこれと平行して地域での取り組みも始まった。 昨年、名瀬市の「香りのまちづくりフォーラム」が開催され、また中部では芳 香植物研究会がスタートし、ミニ香りの植物園もできた。そのほかのところで も具体的な取り組みが始まっている。具体的な香りのまちづくりの方が先行し そうな気配にもなっている。 日頃香りのまちづくりについて意見交換しているメンバーで「香りのまちづ くり研究会」をつくったが、この研究会に対し、対米請求権事業協会が研究助 成をしてくれることになったので、まだ十分調査・研究が進んでいないが、と りあえず香りのまちづくりについて、問題意識や構想の概要などについてとり まとめてみることにした。 註 1山田憲太郎は、その著書『南海香薬譜』のなかで、ヨーロッパに当時輸入 された胡椒をはじめとするスパイスの大部分は、ドイツ、イギリス、オラン ダなど北部ヨーロッパの消費だったと述べている。現代のように、飼料をな まに近い状態で貯蔵するサイロの発達していない当時は、秋になるとかなり の牛や羊を殺さなければならなかった。肉は塩漬けにして保存した。魚や鳥 の肉もそうだったが、スパイスを使用することによって肉は腐敗を遅らせ、 味は生気をとりもどすことができた。 また、中世のヨーロッパを襲った伝染病はたびたび大量の死もたらしたが、 当時伝染病は、悪い風(空気)が原因と考えられていた。こを退散させるも のは辛辣な刺激の極めてつよいにおいで、なかでも胡椒がもっとも効くと信 じられていたという。 一方、中国人の香料観は、香(料)すなわち焚香(料)で一貫している。 胡椒、丁字などヨーロッパでいうスパイスは、中国ではあくまでも薬物の一 部分として認められ、この意味で飲食品の調味賦香料にあてられているもの -23-

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と考えられている。だから、たとえ胡椒が大量に使用されていても、それは スパイスとしてでなく薬物の一種(薬味)にすぎないのである、という。 2諸江辰男箸『香りの歳時記』東洋経済新報社130頁 3伊波普猷全集第1巻367頁 4もへくわのはな茉莉花(唐音メイリーファと云ふ゜説りたるところへ更 にハナを添えたるなり。琉歌に「盛花[もりくわ]ばな小花ものも言[いや]ぬ 計り露に打向て笑て咲ちやさ」)(「校注『混効験集」」、伊波普猷全集第 1巻367頁) 5中村祥二箸『香りの小厘』求龍堂112頁〆 6吉田よし子箸『香辛料の民俗学』中公新書116頁 7朝日新聞1985年9月5日 8中村祥二著『香りの小匡』求龍堂35頁 9大分合同新聞1996年7月8曰 10aromatopiaNO16(1966) 11平成8年度(第22回)沖縄県営農指導員体験交流集会、沖縄県営農指導員 連絡協議会・沖縄県農業協同組合中央会 参考文献 曰本香料協会編『香りの百科』朝倉書店 山田意太郎『南海香薬譜』法政大学出版局 山田意太郎『スパイスの歴史』法政大学出版局 朝日新聞「世界花の旅』全3冊朝日新聞社 中村祥二『香りの世界をさぐる』朝曰新聞社 香りビジネス研究会編『香りビジネス』日刊工業新聞社 梅田達也箸『香りへの招待』研成社 諸江辰男著『香りの歳時記」東洋経済新報社 高良倉吉『新版琉球の時代』ひるぎ社 -24-

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高良倉吉『琉球王国』岩波新書 外間守善『沖縄の歴史と文化』中公新書 真栄平房昭「南蛮貿易とその時代」『新琉球史』琉球新報社 吉田よし子『香辛料の民俗学」中公新書 沖縄タイムス『沖縄大百科事典』 岩切章太郎講演集『自然の美人工の美人情の美』鉱脈社 岩切章太郎『無尽灯」鉱脈社 朝日百科『世界の植物』(1~12) -25-

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