序 ファルフード(דוהרפה, al-Farhūd)1とは、1941 年6月1日から2日にかけてイラクのバグダード で起きたユダヤ人2迫害事件である。オスマン 帝国の支配やイギリス委任統治期を経て独立を 果たしたイラクにおいて、社会の発展に貢献し 比較的安定した生活を築きつつあったユダヤコ ミュニティ3を襲ったこの出来事は、1950年代 初頭にユダヤ人口の大部分がイラクからイスラ エルへと移住するまでの過程に一定の影響を及 ぼした。 一般にイラクを含むアラブ諸国出身ユダヤ人 とその歴史の意義付けに関しては、イスラエル 国内におけるミズラヒームの地位向上、及びイ スラエル-パレスチナ問題における住民交換や 補償という二つの文脈において争点となってき た4。イスラエル国家の政治的意図が直接的に 反映されるこれら二つの文脈においては、ユダ ヤ人はアラブ諸国における反ユダヤ主義の影響 を被り「難民」としてイスラエルへやってきた、 という単一のシオニズム的歴史認識が強調され ることが多く、その場合個々のコミュニティに 固有の歴史的背景やイスラエル移住の経緯は副 次的な要素として扱われるという傾向がある。 ファルフードに関しても例外ではなく、イラク、 ひいてはアラブ諸国全体における反ユダヤ主義 を象徴する出来事として言及される例がしばし ば見受けられる。 このような現状を鑑み本稿では、イスラエ ル国家の利害に関わる国内外の係争において その意義が強調されがちなファルフードを異 なる角度から扱った媒体として文学作品に焦 点を当てる。ファルフードを扱った文学作品 は言語を問わずいくつか存在するが、そうし た中でも特に一貫した中心的題材としてファ ルフードを取り上げており、出版状況などか ら恐らく最も広く受容されてきたと考えられ る、イスラエルのイラク系ユダヤ人作家サミ ー・ミハエル(לאכימ ימס, 1926⊖)によるヘブラ イ語の青少年向け小説『椰子の木立に吹く嵐 (םילקדה ןיב הפוס)』(初版1975年)5を取り上げる。 ミハエルはイスラエルへ移住後、執筆言語をア ラビア語からヘブライ語へと切り替えることで 多くの読者を獲得することに成功し、アシュケ ナジー作家が支配的であった現代ヘブライ文学 の主流に立場を確立したバグダード出身の作家 である。ファルフードの際に道中暴徒に遭遇し たが反ユダヤ主義的スローガンを叫び略奪者の 群れに紛れ込むことで切り抜けたというミハエ ルは6、この経験を機にイラクの共産党地下活 動に積極的に携わるようになり、党の機関紙な どを中心にアラビア語での執筆を始めた。1948 年にイラクを去りイスラエルへ移住、ハイファ にて共産党機関紙の編集者となり文芸欄や短編 小説、ルポルタージュなどを書き続けたが1955 年離党をきっかけにアラビア語からも距離を置 く。その後1974年ヘブライ語で第一作目の小説
Literary Description of the Farhud by an Iraqi Jewish Writer
天 野 優
Yu AMANOを出版し本格的に作家としての活動を始めた。 現在に至るまで小説のみならず新聞やその他 メディアで現代イスラエル社会が直面する様々 な問題に関して積極的に発言している作家であ る7。 本稿で取り上げる『椰子の木立に吹く嵐』は、 ミハエルのヘブライ語作品としては二作目で あり、イラクを舞台とした初めての作品でも ある。195ページ、21章からなる青少年向け小 説である本作品は、2014年時点で第26刷に達し ており、1995年にドイツ語に、2006年にはルー マニア語に翻訳されている。主人公はイラクの バグダードに生きるユダヤ人少年、ヌリーであ る。両親、三人の姉妹とともにムスリム、キリ スト教徒、ユダヤ教徒が混住するバタウィーン (ןיואתב)で育ったヌリーを軸に、ヌリーに近い 視点から三人称で語られる。物語は不穏な雰囲 気をはらんだティグリス川の氾濫シーンから始 まる。ムスリムの少年ナーイフ(ףיאנ)との友 人関係、初恋、旧来のユダヤ地区に暮らす祖父 一家との交流など、かつてイラクのユダヤ人ら が営んでいた日々の一例としてヌリーの生活が 描かれる一方、反ユダヤ主義的風潮が影を落と し始め、最終的に殺戮、略奪、襲撃といったユ ダヤ人に対する暴力行為が起こる様子が描かれ る。物語はヌリーの叔父ハイーム(םייח)一家 がエレツ・イスラエル(לארשי ץרא)8へと旅立っ ていく場面で幕を閉じる。本稿ではまずファル フードの歴史的背景とその意義付けをめぐる言 説、及び先行研究の傾向と問題点を整理し、そ の上でこれまではシオニズム的歴史認識との関 連性を中心に論じられてきた本作品の結末部分 に着目することで、新たな視座を提示したい。 1. ファルフードとは 1-1. 20世紀イラクにおけるユダヤ人と ファルフード 歴史と記憶の共有や集合的アイデンティティ は、近代以降に成立した国民国家には欠かせな い要素であり、それは20世紀を迎えたイラクに おいても例外ではなかった9。イラクのユダヤ コミュニティを歴史学の視点から論じるオリッ ト・バシュキン(Orit Bashkin)は、一概にイ ラクのアラブ民族主義(Iraqi Arab nationalism) といえども、それをどう理解し実践するかは多 岐に渡っていたと述べる10。そうした中で主に 都市部の教養ある中流階級11を中心により世俗 的かつ包括的なイラク社会の実現を目指す機運 が高まるのに応じて、ユダヤコミュニティから も積極的にそうした流れに参入する者が現れる。 その多くは、パリに本部を置く世界イスラエル 同盟(Alliance Israélite Universelle)12によって運 営されるユダヤ系教育機関、通称アリアンスで 西洋式教育を受けていた。20世紀に入りイラク 社会が緩やかな発展を遂げるに従って、多数派 のムスリム人口に対する宗教的少数派としての ユダヤ教徒という旧来の帰属意識にも様々な変 化が生じ始める。 独立後もイギリスの間接的な干渉を受けてい たイラクでは、1941年4月枢軸国に同調的なア ラブ民族主義者であり軍部と密接な繋がりを持 つラシード・アリー・アル・ガイラーニー (Rashīd Ālī Al-Gaylānī, 1892⊖1965)がクーデターにより 政権を奪取する。その後イラク国内におけるイ ギリス軍のプレゼンスをめぐり5月には戦闘へ と発展するが、イギリス軍が優勢で、同月末に はガイラーニーはじめクーデター関係者は国外 へ逃亡する。戦闘が収束するとともに無秩序状 態となったバグダードにおいて、6月1日から2 日にかけてユダヤ人を標的とした殺戮や略奪が 起こった。これがファルフードと呼ばれるユダ ヤ人迫害事件である。死傷者数には諸説あるが、 150人以上のユダヤ人が命を奪われ、多数の負 傷者が発生した。ユダヤ人の家財は略奪の対象 となり、性的暴行を受けた女性もあったという。 ユダヤ人に対する反感はイラク全土でみられた ものの直接的な被害のほとんどは首都バグダー ドで起こり、特に貧しいユダヤ地区が最も大き な被害を受けた13。2日の午後には混乱がこれ 以上広がることを恐れたイギリス、イラク両勢 力が介入し、国外に避難していた摂政が帰国す
ることで事態は収束へと向かったが、ユダヤコ ミュニティは大きな打撃を受けた。 ファルフードの要因及び責任の所在について は多くの議論がなされてきた。共通して挙げら れているのが、第二次世界大戦下のイギリス とドイツの対立がイラク国内へと波及したこ と、また1930年代に入りイラク国内政治、特に アラブ民族主義に傾倒する者たちのあいだにみ られたパレスチナ問題への関心の高まりである。 1930年代以降、軍事的、経済的繁栄をドイツに もたらしたナチスに共鳴する知識人や政治家ら がイラク国内で積極的に活動し始め、反ユダヤ 主義的な出版物を持ち込んだりユダヤ人に対 する反感を扇動したりしたという指摘に加え14、 イラクにてシオニズムに反対する運動がみられ はじめるのもこの頃であり15、特に1936年から 39年にパレスチナで起きたアラブ反乱の後、パ レスチナ人の精神的支柱であったハッジ・アミ ーン・アル・フサイニー (Hajj Amīn Al-Husaynī, 1895⊖1974)がイラクへ亡命したことがこうし た動きをさらに助長した。また、ユダヤ教徒が シオニズムに関連づけられることが増えたとい う状況も、イラク社会に反ユダヤ主義的な感情 を呼び起こすことに繋がった。こうした複数の 要因の蓄積から、権力の空白状態が発生した際 に憎悪や鬱憤がユダヤ人へと向かうような土壌 が形成されたといえよう。バグダード近郊に進 駐していたにもかかわらず民衆の反英感情を刺 激することを恐れて軍による干渉を控えたイギ リスの判断も、混乱を長引かせた要因として批 判されている。 1-2. ファルフードをめぐる歴史認識の問題 一般にアラブ諸国出身のユダヤ人とその歴史 をめぐっては、「共生共存の模範」と「絶え間 ない迫害の物語」という二つの対立する叙述が なされてきた16。これはファルフードに関する 研究においても例外ではない。シオニストの歴 史叙述(Zionist historiography)においてファル フードは、1930年代から続く反ユダヤ主義やア ラブ民族主義者らによる極端なナショナリズム の帰結であり、イラクのユダヤコミュニティに とっては後にイスラエルへの移住を引き起こす こととなる分岐点であったと強調され、ヨーロ ッパで起きたホロコーストの延長として理解さ れることもある17。一方イラク国民主義の歴史
叙述(Iraqi national historiography)においては、 ファルフードに関する記述はあまり見られない。 この出来事に言及することは、イラクの国家と しての責任を認め批判することに繋がり、反英 の姿勢を強く打ち出し結果的に国民的象徴とな ったガイラーニーによるクーデターの記憶を損 なう恐れがあるからである18。 ファルフードを対象とした先行研究は比較的 豊富であると言えよう。1966年のハイーム・J. コヘン(Hayim J. Cohen)の論考19を皮切りに、 1980年代に入りイスラエルの学術雑誌でファル フード特集が組まれ20、今日に至るまで様々な 視点から研究が進められてきた。かつて指摘が あったように、イラク系の出自をもつ研究者 によるシオニストの歴史叙述を強調する研究は 現在に至るまで散見される21。しかし2000年代 以降、アラブ/シオニストどちらのナショナル な記憶もファルフードの重要な側面に沈黙を強 いているとし22、ファルフードを「ユダヤ人と イラクとの関係における、最も悪い側面と最 も高潔な側面どちらをも顕在化させた」23出来 事だと述べるバシュキンによる新たなアプロー チも見られる。ファルフードの反ユダヤ主義的 性格も認めつつ、同時に「共同体間の団結の瞬 間」24であったと定義するバシュキンの主張は、 対立する二つの歴史叙述どちらにも依拠しない 視点を提示したといえよう。 1-3. 文学作品にみるファルフード ファルフードの描写は文学作品の中にも見ら れる。執筆言語はヘブライ語、アラビア語など 多岐にわたり、書かれた場所もイラクやイスラ エルと様々である。自らもイラク出身であるア ラブ文学研究者シュムエル・モレ(הרומ לאומש) は、「目撃者」であるユダヤ人作家らによるフ ァルフード描写を「記録や歴史研究がもたらす
ことのできない個人的、集合的な経験を具体 的に示し相互に補完し合う「証言(testimony)」 と位置付ける25。モレによると、最も早い時期 にファルフードを題材としたのはこの出来事の 犠牲となった同胞たちを悼み哀歌をしたためた 宗教的なユダヤ人たちであった26。これらはシ ナゴーグで朗唱するためにヘブライ語で書かれ、 その内容も、第二神殿崩壊後何世代にもわたり イスラエルの民の上に降りかかり続ける災難の 一端という、宗教的な理解を反映したものであ ったという27。イラクには、イラク国民という 自覚を強く持ち1920年代からアラビア語を用い て文学活動を行っていたユダヤ系知識人が一 定数いたが、イラクの国民統合には貢献しない と判断ゆえにファルフードには触れなかった28。 ファルフードが本格的にフィクションの題材と なるのは、イラクのユダヤ人の大部分がイスラ エルへと移民する1950年代初頭以降のことで ある。 2. 『椰子の木立に吹く嵐』における ファルフード 作中では主に三人の登場人物、主人公ヌリ ー、ヌリーの祖父、そしてヌリーの叔父ハイー ムが、それぞれ異なる状況下(ヌリーはティグ リス川東岸のバーブ・アル・シャイフ(Bāb al-Shaikh)地区および自宅のあるバタウィーン地 区、祖父はユダヤ地区、そしてハイームはムス リムが多数派を占めるティグリス川西岸におい て襲撃に遭遇する様子が描かれる。 2-1. ヌリーの場合 妹ジュリエットとユダヤ地区にある祖父の家 を訪れていたヌリーは、帰宅途中にナイフやこ ん棒、鉄の棒を振り上げ「アッラーフアクバ ル!」と叫びながらなだれ込む暴徒と化した若 者らに遭遇し「悪名高いバーブ・アル・シャイ フ地区」29に居合わせていることに気づく。引 き返すことができないと判断したヌリーは、群 衆に混じり「ユダヤ人を殺せ!」30などと叫ぶ ことによってその場を切り抜けることに成功す る。停まっているバスに襲い掛かる暴徒の描写 がある。 ジュリエットの視線は2つの乗車口に釘付 けになっていた。人殺し達のわめき声も、 外へ引きずり出され殺されている人の叫び 声も、耳に入らないようだった。その光景 がジュリエットに恐怖を見せつけ、黙らせ ていた。...ジュリエットは背の曲がった老 人と若い女の子が外へ引きずり出されるの を注視していた。血を見た。...女の人のア バヤがズタズタに切り裂かれるのをジュリ エットは見た。アバヤの中には、小さな子 供がいた。群衆が彼らに襲い掛かり、呑み 込んでいった31。 実際にこのバーブ・アル・シャイフ地区は2日 間で最も大きな被害を受けた地区の一つであり、 バスに襲い掛かる暴徒を見たという証言は多く 残っている32。またこの場面でのヌリーの行動 は、暴徒に混ざり反ユダヤ主義のスローガンを 叫ぶことで切り抜けたというミハエル自身の体 験が反映されていると考えられる。 2-2. 祖父の場合 一方バグダードのユダヤ地区33に暮らす信仰 深い祖父は、ファルフードが起きた日がユダヤ 教の祝祭日シャブオットだったので「満面の祝 祭日の笑み」でシナゴーグから帰宅し、古いピ ユートを口ずさみ意気揚々としていた34。暴徒 が地区に押し寄せても、「テフィリンを付け「殉 教者の死」を死ぬために自身を準備」し35、ヌ リーらユダヤ地区の外に住む親族のことが心配 ではないかと問われても「彼らの魂が異なる世 界で生きることを望んだのだ、そしてユダヤの 路地を見捨てたのだ」と相手にしない36。その 後部屋に籠り一切の食事を断ち祈祷文を読み続 け37、地区の住民らの奮闘の末暴徒が撤退した と耳にすると「主の御名が祝福されますよう」 と呟く38。作中には、祖父が第二神殿崩壊後の
ユダヤ人の歴史と自らを重ね合わせて話す場面 が度々みられ、ファルフードに関しても「二千 歳という長い自身の歴史」にとってはいくつも の災難の内の一つに過ぎないという、ディアス ポラに生きる伝統的なユダヤ教徒としての理解 が描かれている。 2-3. 叔父ハイームの場合 ティグリス川東岸に暮らす上述の二人に対し て、ヌリーの叔母ラヘルとその夫ハイームは乳 飲み子の息子とともに西岸39に暮らす。ムスリ ムが住人のほとんどを占める地区に留まり続け るハイーム一家が経験するファルフードは、上 述の二登場人物とは異なる。避難しようと説得 するも腰を上げない夫に痺れを切らし、息子を 胸に抱いた妻ラヘルは地区で最も凶暴だと恐 れられているムスリムのハーミドの家に赴き 庇護を求める。この場面では、「ダヒーラック (קליחד/Dakhīlak)」というアラビア語の表現が 象徴的に使われている40。 ラヘルは叩き金を引き上げ、力の限り扉に 打ち付けた。彼女と夫は長い間待っていた が、返事はなかった。嘲りの笑みを浮かべ た野次馬が二人の背後に迫っていた。ラヘ ルは落胆して扉を叩いた。ぎいと音を立て て扉が開き、入口にハーミドの妻が姿を見 せるまでに、途方もない時間が過ぎた。高 圧的な口調で「何が望みだい」と尋ねた。 「ダヒーラック!」心をこめてラヘルは言 った。「アッラーとその預言者ムハンマド のためにも、どうか」41 やりとりの末一家はハーミドに匿われるが、家 財道具をみなハーミドとその家族に奪われてし まう。もともと移住への関心をヌリーに明かし ていたハイームは42、嘆くラヘルに対し「全部 新しいものを買おう、エレツ・イスラエルで、 向こうで」43となだめるなど、終始エレツ・イ スラエルを見据えている人物として描かれる。 2-4. 非ユダヤ人の場合 また、作中にはユダヤ人以外の人物が経験す るファルフードの描写も見られる。バタウィー ンの隣、ティグリス川の堤防に接した一帯に、 より良い生活を求めイラク南部からやって来た 人々が暮らす粗末な小屋が密集する地域があっ た。ミハエルは冒頭から終盤に至るまで、主に ヌリーの視点を通してこの地域に住む貧困層に 言及する。作中では特に、この地域に暮らす10 歳のムスリムの少年アサド(דסא)をヌリーが 弟のように思い気に掛ける様子が描かれるが、 最終的にアサドはユダヤ人に対する憎悪や反感 からではなく、耐え難い飢えゆえに群衆に引き 寄せられ、略奪に加担し暴動に巻き込まれ命を 落とす44。 3. 『椰子の木立に吹く嵐』をめぐる先行研究 3-1. 結末部分の解釈 本作品を論じた主要な先行研究として、ルー ベン・スニール(רינש ןבואר)およびナンシー・ E. バーグ(Nancy E. Berg)の研究45が挙げられ る。両者は共通してミハエルと本作品をシオニ ズム的歴史認識や、そうした歴史認識と不可分 であるホロコーストとの関係において考察して いるが、その位置づけは些か異なっている。ス ニールはミハエルを総評して「シオニストの語 りをいち早く取り入れたイラク系ユダヤ人作 家」46と直接的に批判し、ミハエルが本作品で 「1940年代のイラクにおけるユダヤ人と第二次 世界大戦下ヨーロッパのユダヤ人のホロコース トとの間に、明らかな類似性を創出している」 と指摘する47。一方バーグは、ミハエルと彼の 作品一般を「シオニストの支配的な言説を分解、 さらには脱中心、脱構築し、他方でそれを捨て てしまうわけでもない」48としており、本作品 に関しては「ファルフードについて書くという 選択は、当時成長しつつあったホロコースト文 学作品群に対する応答」49で、「ミハエルは、ホ ロコーストの恐怖を損なうことなく、ユダヤ人 の苦難はアシュケナジームのみに限られた話で
はなかったという現実をイスラエルの読者ら に広めた」50とし、この作品が「ホロコースト 文学に対して、補足的な、または対抗しうる物 語を構成した」とする51。こうしたスニールと バーグの作品理解の違いは、結末部分の解釈に おいてより顕著である。以下がその結末部分で ある。 車が停まっていた場所から去り始めたとき、 ヌリーは足元の地面が揺れ動くのを感じた。 突然、洪水の翌日鉄道線路の横で、煉瓦窯 の番人ジュマーと話したことを思い出した。 あの時ヌリーは、砂漠からアラブの部族が イスラームの旗の元このイラクの地に押し 入って来て、ユーフラテスとティグリスの 両岸を占領する、そのずっと前からユダヤ 人はこの地に暮らしていたのだと、高らか に宣言したのだった。ヌリーは信じていた、 ユダヤ人は固い大岩みたいにこのイラクの 地に根付いていていると。どんな力も、こ の大岩をこの地から引き抜くことはできな いだろうと。でもいまここで、エレツ・イ スラエルへと立ち去っていくトラックの車 輪が、父さんの父さん、そのまた父さん、 先祖たちがずっと住み続けていたイラクの 地を揺さぶっている。ヌリーは悟った、大 岩は、思ったほど深く埋まってはいなかっ たのだと。小柄なハイームが乗ったトラッ クと共に、ヌリーは動き出した52。 シオニストの語りを「ショアーから復活へ (המוקתל האושמ)」53という歴史の捉え方だと定義 するスニールは「作品を終わらせるこの段落 が、シオニスト・ナラティヴの根本的要素と合 致するということに疑いはない」とする54。一 方バーグはこの場面を「補完的な別れの場面 (complementary scene of leave-taking)」55であると 評する。バーグが「補完的」と表現したのは、 本作を通して主要な役割を果たす三人の登場人 物であるヌリー、祖父、叔父のハイームの異な る立場がこの別離の場面に反映されているから である。以前よりエレツ・イスラエルへの関心 を口にし、ファルフードをきっかけに移住を決 める叔父のハイーム、ハイーム一家の出発を見 送る際、一緒に行かないかとの誘いを断りどこ かへ歩き出す主人公のヌリー、そしてハイーム 一家の旅立ちを快く思わず「長く吹き鳴らされ るメシアの角笛の音が聞こえないうちから、バ グダードを去ることはない」という宗教的な考 えから見送りにやってこない祖父56という三者 三様の行動は、ファルフードという出来事をど う理解するかという問いを前にしたそれぞれの 選択を象徴的に描いているといえよう。 3-2. ホロコーストとの関連において ホロコーストは現代イスラエルにおける歴史 認識やアイデンティティ形成過程において、欠 かせない要素となっている。1948年のイスラエ ル建国直後は、表立って語られることがあまり ない、生存者が個人的に有する限定された記憶 であったホロコーストであるが、1961年のアイ ヒマン裁判を機にイスラエル国家の存在理由と 強く結びついた出来事として認識されるように なった57。一方、直接的なホロコースト経験が なく、選択の余地がない状況でイスラエルへと やって来たアラブ諸国出身ユダヤ人たちの間に は、イスラエル国家の集合的記憶において中心 的な位置を占めはじめたホロコーストに自らを 関連付けることができず、疎外感を覚える者も 多くあった。こうした中、同時代のアラブ諸国 で起きた反ユダヤ主義的性質を伴う歴史的出来 事を語ることによって、ホロコーストの記憶に 同化しようという動きが見られはじめる。文学 においても、特に1990年代以降ミズラヒーム二 世代目、三世代目によるホロコーストを主題と した作品が散見されるようになり、それらを扱 う研究もいくつかみられるようになったが、こ れらの研究においてミハエルら移民第一世代目 は基本的に研究対象とはされていない。 ミハエル自身はホロコーストに関して「ナチ スに関しては、私も絶滅させられる存在なのだ と、ヨーロッパのユダヤ人と同じように感じて
いた。ホロコーストは私に、私たちの世代に語 り掛けてくる出来事であった」58とユダヤ人と しての共感を述べているが、同時に「シオニス ト的観点からホロコーストについて書き著した ものには惹かれない、つまりホロコーストを、 イスラエル国家を正当化するものとして見るア プローチには、興味がない」59とも語っている。 別のインタビューにおいても、ミハエルがファ ルフードとホロコーストの比較を否定すると公 言したことが示されている60。 3-3. 出版時の背景 先行研究が本作品をシオニストの言説やホロ コーストと関連付けて論じている背景には、イ スラエル社会におけるアラブ諸国出身のユダヤ 人、いわゆるミズラヒームらが経験した同化過 程における葛藤がある。移住当時のイスラエル 社会においては、建国に直接的な貢献を果たし たアシュケナジームが支配的でミズラヒームに はそうした社会に自らを適応させ同化すること が求められた。特にアラビア語をはじめとする 彼らの文化、慣習、伝統は、好ましくない特徴 として積極的に隠され、消し去られていった。 しかし1970年代に入りアシュケナジームとミズ ラヒームの間に見られる格差に異議を申し立て る運動が盛んになると61、同化の過程で脱アラ ブ化され消し去られた文化的特徴が息を吹き返 し始める。そうした中、それまでの現代ヘブラ イ文学にはなかった異なる経験と歴史を語る作 品を伴って声をあげる作家が現れ、先陣を切っ た作家の一人が、ミハエルであった。 出版後の本作品とイスラエル社会との関係を 考える上で、かつてユダヤ機関(תידוהיה תונכוסה לארשי ץראל/The Jewish Agency for Israel)62の教育
部門に属し現在は世界シオニスト機構63の出版 部門であるエリナー文庫(רנילא תיירפס)が発行 するヘブライ語初学者のための簡略版文学作品 シリーズ『ゲシェル(רשג)』64に本作品が加え られたことが指摘できよう。また本作品は出版 から2年後の1977年、優れた児童文学作品に贈 られるゼエヴ賞65を受賞した。ミハエル以前に ゼエヴ賞を受賞した作家は皆アシュケナジーム であり、ミズラヒーとしては初めての受賞者で あった。この賞は教育省、テル・アビブ市、そ してイスラエル軍兵士の福祉委員会の三組織共 催である。シオニズムを積極的に推進する組織 や公的機関組織によって本作品が選ばれたとい うことは、非アシュケナジーとしてのミハエル、 そしてそれまでのイスラエルにおける文学の主 流が扱うことのなかった主題を含むこの作品が、 今後新移民や国民全体に共有されるべき現代イ スラエル文学の一部としての必要性を満たして いたからだと考えられる。ミハエル自身は本作 品執筆の動機、およびそれを青少年向けに書く ことについて問われ、「私の書いているその本 が影響力を持っていることを知っているがゆ えに、責任を感じる。青少年向けの小説『椰子 の木立に吹く嵐』は、熱意から書いたわけでは ない。イラク出身の舞台俳優アリエ・エリヤス (סאילא הירא, 1921⊖2015)66の、胸を刺す一言、「子 供に本を読み聞かせるときに、自分が生まれた 世界、自分が子供時代を過ごした世界を示すこ とができる本が一冊もない。どの児童書も、い つも私の知らない世界のことを語っている」と 彼が言うのを聞いたので」67と答えている。 結 本作品では、20世紀半ばにイラクのユダヤコ ミュニティが直面したアイデンティティの問 題も大きな位置を占めており、「古い世代のユ ダヤ人(ןשיה רודה ינב םידוהיה)」68と「新しい世代 (שדח רוד)」69との対比が頻繁にみられる。ヌリ ーという主人公においては、ムスリムが多数派 を占める地区へ出掛け、彼ら特有のアラビア語 を話し対等に渡り合うといった描写でその勇敢 さが強調され、他のユダヤ人に特徴的な「弱さ」 の対極にある性質を保持していることでムスリ ムの友人ナーイフとの間に好敵手としての関 係が成立していたという描写がなされるなど70 「新しい世代」のユダヤ人を象徴する人物とし て描かれている。
一方でヌリーの宗教的な祖父が住まう保守 的なユダヤ地区において、上述のヌリーの行 動や性質は否定的に受け止められている。祖 父は、ムスリムやキリスト教徒の世界と彼ら と関係を持つユダヤ地区外のユダヤ人の世界 を「不信仰者の世界」とみなしており71、それ 故にヌリーを「不信仰者(רפוכ)」72と呼び習わ している。祖父に代表されるような旧来のユダ ヤ人にとってヌリーには「「まともな」ユダヤ 教徒("םינוגהה" םידוהיה)」が持ち合わせている慎 重さ、臆病さ、身体的従順さといった性質が欠 けており73、ユダヤ教徒を消滅から救ってきた これらの性質が備わっていないヌリーはそれゆ えに「不信仰者」と呼ばれ、「アラブ的(יברע)」 ですらあるとされる様子が描かれている。「古 い世代のユダヤ人」からは「不信仰者」や「ア ラブ的」と揶揄されながらも、勇敢さ、大胆さ、 強さをもって「新しい世代」を自負し自らの位 置を模索するヌリーは、イスラエル建国前の20 世紀前半イラクにおいてのみ成立しえた非常に 限定的なアイデンティティを有した人物像であ るといえる。 本稿では、第一にファルフードの歴史的背景 及び歴史認識の問題に留意しつつ、ミハエルに よる幾通りかのファルフード描写を三人の登場 人物に焦点を当てて整理し、先行研究において 主な争点となっていた結末部分を取り上げた。 この結末部分にはファルフードという出来事を どう理解するかという問いに対する応答と選択 が反映されていると既に述べたが、より厳密に 言えば、反ユダヤ主義的な性格を帯びた出来事 をどういった歴史認識の延長線上に布置し理解 するのかという問いに対する登場人物それぞれ の応答と選択が明確に現れる場面でもある。 古い世代を代表する祖父にとってファルフー ドのようなユダヤ人が犠牲となる出来事は、長 いディアスポラの歴史において繰り返されてき た無数の苦難の一つに過ぎず、目新しいもので はなかった。一方、程度の差こそあれイラクの アラブ社会に自らの足場を築きつつあった新し い世代であるヌリー及びハイームにとって、フ ァルフードはその後の方向性を左右する出来事 であり、自らの帰属先を問い直す瞬間でもあっ た。その二人においても、自らの居場所はエレ ツ・イスラエルであるとの決意を固め移住する ハイームと、誘いを断りどこかへと歩き出すヌ リーのあいだには、当時イラクで成長しつつあ ったより開かれた新しいアラブ社会に対する帰 属意識の差があったといえよう。ハイームの選 択においては、エレツ・イスラエルの必要性を 自明のものとすると同時にファルフードの反ユ ダヤ主義的側面が際立ち、ヌリーの選択は当時 僅かながらも残っていたイラク社会におけるユ ダヤコミュニティ存続の可能性を示唆している。 ミハエル自身を投影したと思わしき主人公ヌ リーが取る選択は、ファルフード以降共産党の 地下活動を通して非ユダヤ人らと共生可能なイ ラク社会を模索した、1948年以前のミハエルが 選んだ進路と重なる。このことは、ミハエルの 「イスラエル建国以前、ディアスポラのユダヤ 人にも普通の生活があった」74、「シオニズムは その始まりに、「新しいユダヤ人」を作らなけ ればならないと言った。「古いユダヤ人」の何 が悪いのか」75という発言からも明らかであり、 シオニズム的歴史認識が提示する「ディアスポ ラからイスラエルへ」76という変遷は必ずしも ミハエルの描くヌリーには当てはまらないこと がわかる。一方で本作品に通底する、非ユダヤ 人の登場人物を批判的に描きユダヤ人の苦難を 強調する点や、結末部分でハイームに焦点を当 てたという点は、1975年当時のイスラエル社会 における需要を意識したミハエルの意図が色濃 く表れた結果であるといえよう。このように本 作品には、1948年以前のディアスポラコミュニ ティにおける多様なユダヤ人の在り様や選択の 名残が見られるのに加え、現代イスラエルの読 者にそうした歴史を語るという必要性を満たそ うとした1970年代の現代ヘブライ語作家ミハエ ルの姿勢も垣間見える。こうした点を鑑みると き本作品は決してシオニズム的歴史認識のみに 依拠したものではないと結論づけられる。冒頭 で述べたようにアラブ諸国出身ユダヤ人の記憶
が単一化される傾向にある今日、本作品はそう した流れに抗う一つの手段としての可能性を含
んでいるといえるだろう。
【注】
1 ファルフードの語源には諸説あるが、イラクの口語において略奪、強奪することを意味する単語だと 説明しているものが多い。以下を参照。Orit Bashkin, New Babylonians: A History of Jews in Modern Iraq, California: Stanford University Press, 2012, p.101; Shmuel Moreh and Zvi Yehuda eds., Al-Farhud: The 1941
Pogrom in Iraq, Jerusalem: The Hebrew University Magness Press, 2010.
2 イスラエル移民前、20世紀前半のイラクにおけるユダヤ教徒の世俗化及びイラクという国家やその 社会への一体感や同化の度合いは多岐にわたっていた。こうした状況を鑑み本稿では、ידוהי及びJew, Jewishの訳語として基本的には「ユダヤ人」を用いるが、文脈上明らかである場合においては「ユダ ヤ教徒」を用いる。
3 イラクのユダヤ人コミュニティの歴史的背景については以下を参照。Nissim Rejwan, The Jews of Iraq:
3000 years of History and Culture, Kentucky: Fons vitae, 2009; Norman A. Stillman, Jews of Arab Lands: A History and Source Book, Philadelphia: Jewish Publication Society, 1998.
4 詳しくは以下を参照。Yehouda Shenhav, The Arab Jews: A Post Colonial Reading of Nationalism, Religion,
and Ethnicity, California: Stanford University Press, 2006, pp.110⊖135; Shayna Zamkanei, “The Politics of
Defining Jews from Arab Countries,” Israel Studies 21(2), 2016, pp.1⊖26; Shayna Zamkanei, “Property Claims of Jews from Arab Countries: political, monetary, or cultural?,” Jewish Culture and History 18(1), 2017, pp.79⊖ 95.
5 .2014 ,דבוע םע :ביבא לת ,םילקדה ןיב הפוס ,לאכימ ימס
6 Nancy E. Berg, More and More Equal: The Literary Works of Sami Michael, Maryland: Lexington Books, 2005, p.5.
7 ミハエルに関しては以下に詳しい。2016 ,אמג תאצוה :ביבא לת ,לאכימ ימס לש הזורפב םינויע :ןכפהמו ךיסנ ,(ךרוע) ץרווש לאגי;
Berg, op. cit.; 臼杵陽『見えざるユダヤ人:イスラエルの 〈東洋〉』平凡社、1998年, 144⊖162頁、天野優 「現代イスラエルのイラク系ユダヤ人作家 : サミー・ミハエルとその作品」『一神教世界』6号、2015年、
1⊖18頁。
8 エレツ・イスラエル(לארשי ץרא)とは「イスラエルの地」を意味し、1948年にイスラエルが建国さ れる前のパレスチナを指す。Encyclopaedia Judaica, Second Edition, Jerusalem: Keter Publishing House, 2007, Vol. 6, p.478.
9 19世紀中盤以前は、イラクに住まう人々の間に強い集合的アイデンティティの感覚は共有されていな かった。国民に共有される言説(national discourse)は存在せず、知的活動は宗教的知識人に限られ ていた。以下を参照。Eric Davis, Memories of State: Politics, History, and Political Identity in Modern Iraq, Berkeley: University of California Press, 2005, p.31.
10 Bashkin, op. cit., p.16. そ の 上 で バ シ ュ キ ン は、 汎 ア ラ ブ 主 義(qawmiyya) と 領 域 的 愛 国 主 義 (wataniyya)を挙げ、「汎アラブ主義はアラブの文化、歴史とアラビア語を民族的アイデンティティ として掲げ他のアラブ諸国との政治的な結束に尽力する一方、領域的愛国主義は(アラブというより は)イラクの地理、考古学、歴史を国民アイデンティティとするものだ」とし、そのどちらも一枚岩 ではなかったと述べる。
11 しばしばエフェンディーヤ(Effendiya)と呼ばれるこうした新たな知識人層に関しては以下を参照。 Bashkin, op. cit., pp.58⊖99; Davis, op. cit., p.41.
る。彼らによって近代的な初等学校がバグダードに初めて開校したのは1864年12月のことであり、ミ ドハト・パシャによってムスリム子弟のための初等学校が開校する5年前のことだった。Rejwan, op.
cit., p.181.
13 Bashkin, op. cit., p.116; Zvi Yehuda, The New Babylonian Diaspora: The Rise and Fall of the Jewish
Community in Iraq, 16th⊖20th Centuries C.E., Leiden: Brill, 2017, pp.261⊖262.
14 Bashkin, op. cit., pp.5⊖9.
15 Abdelwahab El-Affendi ed., Genocidal Nightmares: Narrativs of Insecurity and the Logic of Mass Atrocities, London: Bloomsbury, 2015, p.177. なおバシュキンは、1941年以前にもイラクにおける反シオニズム 運動は既に展開されており、イギリスの著名なシオニスト、アルフレッド・モンド(Alfred Mond, 1868⊖1930)のイラク訪問を受け大規模なデモンストレーションが早くとも1928年には起きていたと する。Bashkin, op. cit., p.102.
16 Bashkin, op. cit., p.9
17 Bashkin, op. cit., p.102; Shenhav, op. cit., p.140. こうした例として以下が挙げられよう。Sumuel Moreh, “Introduction,” in Shmuel Moreh and Zvi Yehuda eds., op. cit., pp.1⊖8.
18 モレによると、ガイラーニー政権を称賛する詩や、ファルフード前夜のバグダードにおいて歌い囃さ れた反ユダヤ主義的文言を含む狂歌などは多くみられるものの、ファルフードそのものに関する言及 はいくつかの例外を除きほとんどみられないといい、バシュキンもこの時期に現れたイラクのナショ ナリストのほとんどは、回想録にてファルフードに言及せずじまいであったと述べる。Moreh, “The Pogrom of June 1941,” in Shmuel Moreh and Zvi Yehuda eds., op. cit., pp.210⊖212; Bashkin, op. cit., p.101. 19 Hayyim J. Cohen, “The Anti-Jewish Farhud in Baghdad, 1941,” Middle Eastern Studies 3(1), 1966, pp.2⊖17. 20 .1981 ,חרזמב לארשי תוליהק רקחל יבצ ןב ןוכמ :םילשורי ,8 םימעפ
21 Usuki Akira, “Zionism, Communism and Emigration of the Iraqi Jews: A Brief Survey of an Ancient Community in Crisis, 1941⊖1951,” Annals of Japan Association for Middle Eastern studies 9, 1996, pp.1⊖35. 22 Bashkin, op. cit., p.101.
23 Ibid. 24 Ibid.
25 Shmuel Moreh, “The Pogrom of June 1941 in the Literature of Iraqi Jews in Israel” in Shmuel Moreh and Zvi Yehuda eds., op. cit., p.207.
26 Ibid., p.212. 27 ヘブライ語を用いたことにより、共有範囲がユダヤ人コミュニティ内に限られたことで、公共の場に おける扇動行為を監視していた当局の目を免れることができたという。Ibid., p.213. 28 Ibid. ファルフード直後のこうした状態をモレは「(アラビア語で執筆していた)ユダヤ人作家らによ るファルフードという主題の慎重な省略も、ラビたちによる宿命論的な態度も、イラクのユダヤ人コ ミュニティが三部分に分かれていく過程を止めることはできなかった」と表す。 29 .132 'מע הדובע התואב ,לאכימ 祖父の家に向かうバスがバーブ・アル・シャイフ地区を通過するとき「体 中に鳥肌が立った」と書かれており、ここは「ユダヤ人が決して足を踏み入れることができない悪名 高い地区」だとされている。その理由として「数日前に殺戮と流血沙汰について話していた時、その 災難はこの忌まわしい地区からまず発生するだろうと思っていたからである」との説明がされている。 30 .135 'מע םש 31 .133 'מע םש
32 Bashkin, op. cit., p. 116; Yehuda, op. cit., p.19.
33 作中には具体的な名称が書かれていないが、東岸の北部にある古くからユダヤ人が集住している地区 であると思われる。この場面で祖父の家に向かうヌリーはスーク・アル・ガズィル(Sūq al-Ghazil)
へ向かう友人らと同じバスに乗り、同じバス停で降りていることを考えると、バーブ・アル・シャイ フ地区より北側に位置している地区を想定していると考えられる。ユダヤ地区の中でもアブー・スィ ーフィーン(Abū Sīfīn)、タトラン(al-Ṭātrān)などは、最も貧しい地区であり、またファルフード で最も甚大な被害を受けた地区でもあった。詳しくは以下を参照。Bashkin, op. cit., p.116.
34 .128 'מע הדובע התואב ,לאכימ 35 .153 'מע םש 36 .154 'מע םש 37 .154 'מע םש 38 .161 'מע םש 39 .70 'מע םש ヌリーが橋を渡り西岸に渡る描写がありそこに、「ここまでの30分間一人もユダヤ人を見か けなかった」とある。この橋は、おそらく東岸アル・ルサーファ(al-Rṣāfa)と西岸アル・カルフ(al-Karkh)を結ぶ橋だと考えられる。西岸のアル・カルフは東岸のユダヤ地区、バーブ・アル・シャイフ に並び被害が大きい地区として言及されることが多い。Yehuda, op. cit., p.19.
40 .170 'מע םש この章はこうした庇護の伝統に関する以下のような説明から始まる。「何百年も前に、ア ラブの部族が嵐のように砂漠から隣接する肥沃な大地へとやって来た時、彼らは異なる奇妙な慣習を 携えてきた。この慣習の美点はこの二つである。客人を招き入れるということ、そして庇護を求める 迫害されている者に避難所を与えるということ。たとえ仇敵であっても、扉を叩き続け「ダヒーラッ ク」と呼ぶのならば、彼を悪いように傷つけることが禁じられているというだけではなく、彼が家の 領域に居続ける限り、彼を守るために自らの命を賭さなければならない」。 41 .173 'מע םש 42 .81⊖80 'מע םש 43 .178 'מע םש 44 .152⊖146 'מע םש こうした描写は、ファルフードの二日目以降にはユダヤ人を標的とする殺傷よりも略 奪が主な目的となり、多くの都市貧困層(urban poor)が加担したという記録と合致している。以下 を参照。Bashkin, op. cit., p.102.
45 2005 ,חרזמב לארשי תוליהק רקחל יבצ ןב ןוכמ :םילשורי ,קאריע ידוהי לש םתריציב תויהז קבאמ :תונויצ ,תודהי ,תויברע ,רינש ןבואר;
Nany E. Berg, Exile from Exile: Israeli Writers from Iraq, New York: State University of New York Press, 1996. 46 スニールはミハエルを「シオニスト・ナラティヴを身につけることで、ヘブライ語執筆への転身に成 功したイラク系作家」の一人として挙げており、「彼は全力を尽くして、語られる自らの経験に、愛 国的な、シオニストの体裁を与えようと試みている」とする。1950年代までアラビア語で執筆してい たミハエルの作品と、1970年代におけるヘブライ語執筆への転身後のものとを比較して、その差は「共 産主義を信奉するアラブのユダヤ人からシオニストの支配的な言説を身につけた」ことを示してい るとする。Reuven Snir, “‘Religion is for God, the Fatherland is for Everyone”: Arab-Jewish Writers in Modern Iraq and the Clash of Narratives after Their Immigration to Israel,” Journal of the American Oriental Society 126(3), 2006, pp.393⊖395.
47 .432 'מע הדובע התואב ,רינש
48 Berg, More and More Equal, p.192. 49 Berg, Exile from Exile, p.144. 50 Ibid.
51 Ibid.
52 .194⊖192 'מע הדובע התואב ,לאכימ
53 .433 'מע הדובע התואב ,רינש
55 Berg, op. cit., p.25.
56 .192⊖188 'מע הדובע התואב ,לאכימ
57 ホロコーストの記憶は、認知はされていたがアシュケナジーム周辺に限定されていた「分離された状 態」、アイヒマン裁判とその後の六日間戦争をきっかけに起こる「共有された状態」、そして1980年代 以降の「私有化された状態」と三段階にわたってイスラエルのナショナル・ナラティヴとしての道 をたどったという。詳しくは以下を参照。Daniel Gutwein, “The Privatization of the Holocaust: Memory, Historiography, and Politics,” Israel Studies 14(1), 2009, pp.36⊖39.
58 תירינ ,דלפ ירימ ,ףסוי רורק ,ינועמש היתב ,יפסק הבהז י"ע ןויאר ",ונלש םויקה םצע לש תיב ףלאה תא םידמול ןיידע ונחנא" ,לאכימ ימס .299⊖281 'מע ,2012 ,12 ןאכמ ,סרטש ןח,ןמרוק
59 .299⊖281 'מע םש
60 Batya Shimony, “On “Holocaust Envy” in Mizrahi Literature,” Dapim: Studies on the Holocaust 25(1), 2011, p.252. 脚注でシムオニは2009年8月27日に行ったミハエルとのインタビューについて言及し、ミハエ ルがホロコーストとファルフードの比較を否定したと記している。またミハエルの言葉として、ナチ スの扇動やユダヤ人を病原菌に例えるようなスローガンが散見されたのは間違いないが、ヨーロッパ で起こったホロコーストとは対照的にバグダードでは政権がユダヤ人を助けるために兵力を送ったと いうこと、そうした兵士らは暴徒を躊躇なく殺した、とも記している。 61 臼杵、前掲書、32⊖33頁. 62 ユダヤ機関は、パレスチナの地とディアスポラのユダヤ人コミュニティとの間を仲介すること目的 として1929年に設立された。現在では主にアリヤーと新移民の受け入れを管轄する部署として重要 な役割を果たしている。The Jewish Agency: About Us(http://www.jewishagency.org/inside-jewish-agency/ content/4916)(2018年8月18日取得) 63 世界シオニスト機構は、1897年に開催された第一回シオニスト会議でテオドール・ヘルツル(Theodor Herzl, 1860⊖1904)の主導の下設立された。公式ホームページによると、現在事業の多くをユダヤ機 関との提携で行っており、建国後の今日は主権国家の現状に応じた中心的役割として、アリヤーによ ってすべての国々からユダヤ民族を歴史的な祖国に召集すること、ヘブライ語によるユダヤ的教育の 推進によってユダヤ教の継続を保持しユダヤ民族の同化を防止、ユダヤ的な精神と文化を高めるこ と、反セム主義に立ち向かうこと、全世界のユダヤ人の権利を守ること、シオニズムを説くこと、ユ ダヤ民族の団結とそこにおけるイスラエル国家の重要性を強固にすることを挙げている。The World Zionist Organization: תורטמו ןוזח(http://www.wzo.org.il/index.php?langpage=heb&dir=site&page=pages&op= category&cs=3018&language=heb)(2018年8月18日取得) 64 ゲシェルは、イスラエルの主要なヘブライ語作家の作品を簡略化した文学読本シリーズ。ウルパンで の使用など、ディアスポラのユダヤ人やヘブライ語を習得する過程にある新移民や学生に現代ヘブラ イ語で書かれた文学作品を読む機会を与える目的で出版されている。Eliner Library(http://www.eliner. co.il/heb/category.asp?catcode=14)(2018年3月30日取得) 65 この賞は、イスラエル兵士の福祉委員会(לייחה ןעמל הדוגאה)、教育省、テル・アビブ市の共催で年に一 度優れた児童文学、青少年文学へ贈られる賞である。以下に詳しい。David Yellin College of Education (http://www.dyellin.ac.il/library/childliterature/awardzeev)(2018年3月30日取得)(http://www.awis.org.il/)(2018 年3月30日取得) 66 ミハエルと同じころイスラエルへ移民したイラク系ユダヤ人の俳優。 67 .299-281 'מע "ןיידע ונחנא" ,לאכימ 68 .9 'מע הפוס ,לאכימ 69 .54 'מע םש 70 .37 'מע םש
71 .42 'מע םש 72 .65 'מע םש 73 .50 'מע םש 74 臼杵、前掲書、136頁。 75 2015年10月に、「バグダードとハイファの間で:イスラエル人作家サミー・ミハエルへに敬意を表し て」と題しミハエル本人を招いた国際学会がノースウエスタン大学で行われた。その際のインタビュ ーである。Northwestern University, Weinberg College of Arts and Sciences. “Between Baghdad and Haifa: A Tribute to Israeli Author Sami Michael, Opening Session” Interview by Benny Ziffer. Online video. 76 Minutes.
YouTube, 30 Mar.2018. (https://www.youtube.com/watch?v=HXj12zfYx2Y)
76 臼杵陽『イスラエル』岩波書店、2013年、33頁。このように定義したうえで臼杵は、シオニズム思想 が、「前者から後者にいたるプロセスを、離散の地からイスラエルの地へのユダヤ人の移民・入植と 重ねて正当化してきた」とし「ユダヤ人がイスラエルの地に再集合することは、強制的離散の地での ユダヤ人のあり方を否定することであり、イスラエルの地での再集合をシオニズムの究極的な目標と して理想化した。それがユダヤ人移民・入植の正当化の根拠となったのである」と説く。