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子規連句私解 獨吟百韻「灯ともさぬ」の巻 : 其三十〈四ウ四句目〉

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(1)

大島富朗



川の瓦解に家族ちり



つゞれをまとふ牛



の春

「牛



の春」

久しく続いた雑を季に転じた、

いかにも長閑な春景であ

る。

付け筋は幕藩体制「瓦解」後の或る士族の其後と解するのが無難であり

容易、

松山藩士の行く末の一端は前句の私

注1

の折、

虚子の

「店のある百

姓家

注2

」「死



えた

注3

に見た。

「牛



でこそあらねど、

「一家を擧げて別

府村に歸

注4

した」

と述べるがそれは文字通りの

「歸農」

に非ずして、

「一

軒の百姓家を買つて」

移築。

「街



端」

ということもあり生計の道を小商

いに求め、店先で「



や草鞋などを賣」り糊口を凌ぐ「歸農」

(略)

移轉後一二年の間はお燒と稱へる



の上に燒



を捺したもの

を私の母が拵へて賣つたことなどもあつたさうである。その



捺す菊型の



が其後永く長火鉢の抽斗の中にあつたことを記



てゐる

と虚子は綴り

注5

、その商法も士族のそれにして、

いくら百姓になつたつもりでも士の

慣が拔けぬので、本來の百

姓との對話などは昔の

柄なものであつた。自然此街



りかゝつた百姓が店に休むことがあつても、どちらがお客だか、

お燒屋の主

であるのだか分らぬやうな言葉つきであつた

斯る応対、必ずしも「高ぶつた」所謂売ってやらんかな風の接客ではなく、

賣る方も買ふ方もかゝる應對を當然のことゝしてゐたのではある

が、然し一錢のお燒をお拂ひ下げを願ひに行くことは百姓どもに

とつても

劫なことに相違なかつた。それに餘りお燒を小さくし

ては見苦しいとか砂糖が惡くつては體裁が惡いとかいふので値段

よりも實費の方が高くつくといふやうなこともあつたらうから、

此お燒を賣ることは間もなく中止された。それで私が覺えてから

は店はありながらもそこには格別なものが



んでもゐなかつたや

うに記



する。私が物心づくやうになつてからも唯草鞋だけは依

然として軒下にぶら下つてゐた

今日の目からすれば何処か浮世離れた商売の感あれどこれも時の流れの

学苑 第 八二八号 二一~三七(二〇〇九 一〇)

子規連句私解

獨吟百



「灯ともさぬ」の巻

其三十



四句目



(2)

中での一齣、むしろ「卑しむべき商賣」と気進まぬながら、他人に勧めら

れた揚句失敗倒産という、再度の憂き目を見る不運に見舞われた旧士族も

少なからずあったに相違なく、以下に引く石見浜田藩士族の窮状は、備後

福山藩儒官江木鰐

注6

が明治七年秋

「石州ニ遊ヒ」

し折の実見

注7

である

(傍 点引用者)

(略)

濱田士族ノ困窮ヲ目見耳聞シテ惻然タリ、



ニシテ雲州松江



伯州米子ヲ經、松山ニ



ヒテ、士族ノ體ヲ見ルニ、松江ハ本富國

ナレハ、困窮ノ體、未タ見レスト雖モ、士族



ヲ立テ、商法ヲナ

ス、鰻魚屋アリ、蕎麥店アリ、皆往キテ喫セリ、今ハホヽ利ヲ得

ルニ似タリ、後



ニ如何アラン、天







ノ水玉樓ノ壯大ニ至リ

テハ、三



ニモ殆ント劣ルマシキ景氣ナリ、相對シテ大酒樓ヲ起

ス、東京不

池ノ

亭ニ

ル共劣ルマシ、此ニテ



夜藝妓ヲ

揚ケテ酒宴ヲナス、三絃競ヒ起リ、栂戰



舞、實ニ繁華目ヲ驚カ

ス、此二樓モ、士族ノ商法ニ出ルト、奢リモノ不久、知ラス此商

法如何カ有ン、此ヲ



スルニ、士

力ヲ勞セス、



ント

、古





、此



ハ上



祿

、一

シテ、一

ニ、今





角故







、何レノ藩ニテモ、歸農



桑ナド力ニ



スル士族ナシ、故ニ



、皆

テ、一

、商

ノミ、今年



紙ノ下直、當百三枚ニテ一紙ヲウ

ルニ至ル、此モ士族ノ力ヲ勞セスシテ、大金ヲ得ント欲スルニ至、





糸ヲ得テ、萬國ニ比



ナキ絹ヲ織リ、常業ヲ立ント、糸

ニナシ、絹ニナシ置ハ、幾年經ルモ朽腐ノ患ナシ、大利ナシト雖

モ、損ニハ至ラス、然ルヲ一時ノ利ヲ



ヒテ、



紙ヲ製ス、時至

レハ



スル



紙ヲ製ス、

ウレスシテ、



シテ、桑

ナケレ

ハ、何ノ用ナシ、故紙ハ

古ニモ劣レリ、故ノ

紙ナレハ、一枚



ニハウレルモノ、

用ノ



紙トセル故ニ、一枚當百一



トナルニ至ル、此モ

テ士

、大

ナリ、天下ノ士族、古



ヲ一

シテ、



手ニテ



ヲ得ント

欲スルノ

改メ

、力ニ



スル本

心確定

スレハ、

始メ



ヲ得

シ、



山ノ士族モ、濱田士ノ困窮ヲ聞キテ、

改メ憤發

シ、

力ニ



ヲ起サハ、



ヲ得ルノ常業

始メ

可ヘ

「上下皆



手ニテ大祿ヲ得、一家何ノ職業ナクシテ、一家安樂ニ暮セシ」

「古



」が

とな

「大利ヲ得ント欲ス」

という江木の

指摘



いる。

明治三年

( 頃 か)

備後福山藩大

参事岡

吉顕

が時

参議広沢真臣

注 8

出した

「藩治本

注9

」中「

政論

」の

(略)

祿

豈啻

ニ百

功労

償フ而已

ナラン

ヤ騎将

世々騎将

歩卒

世々

歩卒

各其

官ヲ

ニシテ

堪エ其

官ヲ

ニシテ

祿モ

ニス今

騎将

ラス

歩卒

ラス

ラスシテ

官ヲ

ニスル

ハス

祿

ニス

カラサル者

有リ

堪エ

サレハ他人ヲ

ルニ

祿

ラサル

カラス然レハ

祿

カラスト雖モ

減削理

ナシトセス

、士

の実

なき今、

襲化

した士族の「遊

惰放逸虚威

」の

(3)

害、

即ち農工商

「三民常ニ賤シクシテ労シ」

「賤屈自ラ画限ス」

るかを述

べる。

大政奉還、

王政復古の荒波に続く廃藩置県、

地租改正、

秩禄処分等々、

旧士族にとり激しい改革が矢継ぎ早に施行された結果、慣れぬ商いに手を

染め、

の江木実見録がいう

「財本ヲ失シテ、

モ利ヲ得ル」

ことなく

「身上ヲ仕舞」

う旧士族の数、

決して少なくなかったと思われ、

中には付

句のように「つゞれをまと」い「牛



」に身を窶す者もいたであろうこと、

絵空事ならぬ、子規自身が郷里松山で或るはその後の諸々の旅中、近くは

従軍記者として彼の地で見た記憶の一片でもあろう。

ところで松山藩同様朝敵の汚名を着せられた会津藩

(鳥羽伏見の戦い、戊 辰戦争と敗れ奥羽越列藩同盟にも加わり最後まで 長中心の新政府に抵抗、 落城 と白虎隊の悲劇で周知)

物頭二百八十石柴佐多蔵五男五

注 

の遺文に残さ

れた少年期の記憶の過酷

注 

さは心肝を寒からしむるものがある。

明治十年九月二十四日、西郷隆盛鹿児島城山にて自刃。同十一年五月十

四日、大久保利通紀尾井坂にて刺殺さる。この年、五郎陸軍士官学校第三

期生、二十歳。

大久保暗殺を知りたる折の述懐

注  (傍点引用者)

(略)

は、

この

(西郷大久保  者注)

新のさいに

相謀

武装蜂起

主張

し「

天下

耳目

大事

」とし

て会

なれ

日いかに

国家

石な

りとい

えど

、結

自らの

専横

暴走

の結果なり

として一

たるを

はすべて

少年の

にして、い

昭和

年五郎八十四歳、朝敵に

した会津藩士子

、会津

身者とし

ての陸軍大

(明治三十年の 北清 事 変 義和団 事 件 の折には 北 京駐在 武 官 砲 兵 中佐として 北 京 籠 城 注 )

、軍

として

り名を

にして

この

あり。思

会津

進攻

抗戦の八月二十三日、

祖母

をは

叔父

ら一

の多くが自

句「

瓦解

族ち

に」

その

実、

五郎十歳。

傍に身を

、地

叩き

をむしりて

けび

しこと、

日の

とく

わる



に「いまもな

お咎

むる

なし」と述懐せ

るを得ぬ、激

時代

を生

いた

として

貴重

である。

松城落城

注 

後の五郎、

俘虜

となり、

島の

地に

されてのちは、着の

のまま、日々の

にも

し、伏するに

なく、

すに

なく、ま

こと

乞食

にも

様にて、

噛み

二十

の寒

りて生

ながら

辛酸

の年月

注  (略)

地会津

(二十八 万 石)

没収

後、

保に

を継い

実子

(三歳)

し改めて陸奥

斗南

石を

治三年五月十五

大藩知事

拝命

の地に

夫婦

、五郎四

。新

での

に一

希望抱

おお

われたる



地」の生

極貧

にて

乞食

にも

様」

饑餓凍死

実に

直面

ながら生

となったのは、

をは

めとする会津士族の

注 

であ

り、その一

が、

(4)

やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、



の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国

辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ

の一言

注 

に滲み出ていよう。

鳥羽伏見の戦に敗れながらいち早く恭順の意を示し、





として乘り



んだ



長の官



等を理由もない畏怖の眼を以て

注 

」「何物に對しても自

我を主張し自己の權利を主張するといふやうな



氣がやゝもすると

る松山藩士族と異なり、旧幕府軍の中核として



長新政府軍と激しく干戈

を交え籠城一ヶ月の末、時の利叶わず落城、降伏城地没収。移封斗南の地

において、また焦土となりし故園にあって塗炭の苦しみを生き抜かねばな

らざりし会津藩

士族、共に名門親藩士族でありながら維新後に彼らの心身

が纏った「つゞれ」の質には雲泥の差があった。

移り行く者、

残りし者、

孰れにしろ寄るべき大樹

「瓦解」

した今

「ち

にならざるを得ぬが定め。

「つゞれをまと」

いても

「牛

の春」

に活計

たつき

の道を得た者は幸いというべきか。むしろ慣れぬ商いに財を失い、

慣れぬ手に鍬鋤を持ち土耕せど充分なる道を得ざる者大半。

しかし、新政府の相次ぐ改革は一方で殖産興業政策

注 

へ大きく舵を取り、

内務省が新設され勧農事業を促進、富岡製糸所をはじめ官営工場が開設さ

れ製糸、

製絨、

紡績、

羊毛精製などの事業を育成発展し、

でも富岡製

糸所



は積極的に女工伝習訓練を試み、

「富岡帰りの女工が」

全国各地で

「繰糸指

にあたった」

ことで

名。

浜田

における



」「



注 



奨励

も時

を得たものであり、

子規

の松山でも、

虚子

記述



えば、

(略)



師範學



業して後、

委員

として

郡部

に出張な

どして

たが、



いて

東京

に出て

のすゝめに

つて

の富岡に





に行つた。

時富岡で製

工女が

入用

だといふところから松山の士族の

のあるものを

干名を



れて



れぬかといふ





を土地の

からうけて、



から

事を



まで言つて

た。大方生計に苦しみつゝあつた士族の

りに

じて

二十

どの





されて



保護役

になつて

上州

の富岡に





に行つたと

いふやうな出

事も

にあつた。

れは



などで

する工女の

!

とは

より

きを異にして

"

#

$

されたもの

ではあつたらうけれども、

れにしても

時の



としては

つた

壯擧

といはねばならなかつた。何れも

四五

%

から

%

さん

&

であつた。

( 中 略)

工女として

'

に出

いた一



は、孰れも

事に

業を積ん

(

)

年限

だけを務めて松山に

つて

た。

(略)

其娘

さん

&

の一



*

つて

事に

りついたことを

+

,

つて

光景

かに

の眼に

つて

(略)



省して、

な士族

&

の出

のもとに松山





といふも

のが出

たのを主

し、

れ等の

さん

&

の新しい活

をまつこ

とになつた。生計が

かでなかつた松山の士族は



事業の

興で各

-

新しい生計の

.

を見出さうとしたのであつたが、

れは

/

した。





0

永續

することが出

ずに

せねばならぬ

1

になつた。女の手にも

業を見出すべくつとめ

(5)

た或る



味に於ての先覺



である其娘さん



も結局良



をもとめ

て各



妻となり母となつた

これもまた時局に適応せんとした疲弊せる士族子女らの「工女伝習」制度

に寄せる期待の一端を物語る回想である。大いなる期待のもとで設立した

合資蚕糸会社が「



に永續」ならずとあるのも一抹の悲哀禁じ得ず。改め



武家の商法



なるものの成り立ち難きを思う時、付句の貧しいながら

も何処か自足した応分の「春」に心和みゆく景を見る。

斯る維新後の大改革は旧士族はもとより三民にまで及び、騒動一揆打ち

壊しが各地で頻発

し、早くも

長新政府の地盤の脆弱さを露呈。なかでも



明治六年十月の



で知られる征韓論問

は単に外交政策論争の域に止

まらず、新政府内に分裂を招来し征韓派参議等が下野、為に不平士族反乱

の引き金となった。

翌七年二月、旧肥前佐賀藩士初代司法



参議江藤新平

注 

、同じく前待従秋

田県権令島義勇

注 

を中心とする征韓憂国の士族等による佐賀の乱

注 

に端を発し

た所謂士族反乱、その主たる擾乱を挙げれば、



九年十月二十四、

二十五日、

旧肥後熊本藩士大田黒伴

注  (神道家)

党による神風連

(又は敬神党)

の乱





同十月二十七日、旧筑前秋月藩士磯淳、宮崎車之助等が神風連に呼応

して挙兵した秋月党の乱

注 



同十月二十九日、旧長門長州藩士元参議兵部



輔前原一誠

注 

を領袖と仰

ぐ反「地租改正



士族

解体

」派士族がこれまた神風連に呼応した

の乱





同十月三十日、旧

代会

藩士永

岡久茂

注 

等が

の前原



平に応

が為

千葉

庁襲撃

せんと

策なすが

に発

した日本

橋小網町

案橋事件

注 

があり、そして、国内に

おけ

後の

争という

き十年二月十五日

鹿児

発、同年九月二十四日

城山

をもって

終焉

迎え

西郷隆盛

注 

せる旧

摩鹿児

島士族等

による反政府

西南

注 

、この

争を

干戈

での士族反乱は

終熄

を見た。

応三年

1867

十月十四日の「大政

」に

まる「



」は翌四年

一月三日「

羽伏

見の

」から新旧

勢力

しく

を交

状態

り、

、会

争、

箱館

稜郭

く中、

幾多

の「家族」

をその

何を問

ず「ちり



に」させた。

に、

版籍

県、地租改正、

帰農

商政策、

制改革に伴う家

禄削減

、四民平等、田

永代

売買

注 

髪脱

征韓論争、

注 ! ( 以 上 順 不同)

が旧士族

困惑

と不平を

じさせ、征韓

派の下野を

とし内乱騒擾

い、

維新の

英傑

西郷

く大

保利

注 "

暗殺

( 紀尾井坂 の変 # )

で、

慈円

ば、

ムサノ世

注 $

」の

りがついた

注 %

。「

&

」とは

程遠

く、しか

も「春」すら何時

り来るか

ぬ厳

しい

であった。

同じように下野しながら、旧佐賀藩士前参議外



種臣

'

は「

党」

を設立、

「民

(

設立

建白

注 )

」を

署提出

する等の

動を、

藩士前参議

板垣退

注 *

も「

建白書

」に連

、その後

知に

り「立

社」

立、自

民権

動、

国社

再興

、国会

設等に中心

し、旧

藩士前参議後藤

注 +

板垣

建白書

」に連

、後日、自

党結

成の

にも

するな

ちらかとい

ば江藤

西郷

前原とは

い武に

らず

論を

って民

を結

し新政府に改革を

る立

を処した。

(6)

一方、

「昨日の淵ぞ今日の瀬となる」

激動の世間を他所に

「牛



」の

ならぬ正岡家当主八代目の子規六歳はといえば「南瓜と西瓜

注 

」好きな「へ

ぼで







」、

学校入学前から

「西洋ぎらひ」



生斷



」し

かった母方祖父大原有

注  (観山)

に可愛がられ、

その薫陶の下、

漢文素読

に励んだ由。

五歳の十一月十五日

(陰暦)

袴着の折、母八重の記憶

に依れば、

金巾の

付をこしらへて、上下は佐伯の久さんのを讓つて貰うて、

大小は大原の元のを貰うてさしましたが、何樣背が低いので、大

小につらされるやうぢやと笑はれました。背が低かつたのはえつ

ぽと低かつたと見えて、大原の

が、



いうちに門に出て居

つて、何か知らん小さいものが向ふから來ると思ふと、それが升

ぢやつたなどゝ話をよくして居りました

とのこと。

子規の二歳年上の従兄弟半、三並良の思い出

注 

に依れば、

(略)

私共も先生

(大原観山 筆者注)

の許可がないので、

時ま

でも結



して居た。此の時どんな心地で居たかは、



く記



がな

い。唯一つ覺えて居ることがある。



下の人々は殆んど皆な斷



して、殘るのは子規と私と許りのやうだつた。此の時である。私

が可哀さうと思つて觀山先生の許へ行き、最早松山



下に結



して居るのは、升と幸許りになつた餘り可哀さうだから、斷



を許してくれと嘆願した。此時先生はもうそんなになつたか、そ

れでは仕方がないから許すと云はれた。

が歸つて之を傳へたの

で、私共は



んで、斷



屋へ行つた。その時の



快だつたことは

忘れられなかつたと見えて、今でも覺えて居る

半世紀以前の

「斷



の記憶、

「今でも覺えて居る」

と述べる三並に比

べ一方の子規は、

十の





めて頭に髷のなき



年に



へり。此時



余は髷を結び

脇指を



へたり

と、事実を客観的に述べる

注 

。子規三十歳、三並の半分にも及ばぬ二十年前

の回想。断髪より、八歳の折の観山家塾の列に加わり、

「孟子の素讀を學」

んだことの方を、

斯る儀式めきたる場に臨むは始めてなれば





ろしけれどおの

れも少しえらきものになりたる心地して



ばゝ嬉しかりき

と記

注 

。「なか



きませんので、

!

々々蜜柑やお菓子を手に持たし

ては目をさまさせます。

さうせんと

きませんのよ」

は母八重の

注 "

。「少

しえらきものになりたる心地」も子規ならば、母の目に映る幼な子も又子

規。

#

川の瓦解」

という歴史の変動に

士族

各自活計

「ちり



に」

なら

るを

「家」

とも

とも

む父

常尚

の思わ

えようによっては「家

ちり



に」なる可

能性

孕み

ながら

血縁

けられ「つ

れをまとふ」

目に

うことも、

「牛



の童に

すことなき子規は

まれていたといえよう。

共に

幕府軍

として

鳥羽伏

見の

れた

会津藩

士族

息柴

の幼少

極寒不毛

の地で味わった

塗炭

たる「

」とは

の生

(7)



した生活であった。



川の代はほろびけり夏木立



古」と前書ある二十八年夏の吟

注 

。「病餘漫吟

注 

」所収。後に



非傷體



十二句中に同じ



古」

を頭書として収

注  (明 29 2 28「日本」 )

更に、

三十年二月十一日付「日本」紙掲載の小論「俳句と

」中で「

那の

地名人名を譯するに本



の地名人名を以て之に代ふる時は却て容易なるこ

とあり」の具体三例の一に挙げ、唐、陳子



の五言古詩「薊丘覧古

注 

」の第

三、四句「丘陵盡喬木

昭王安在哉」に対する句として示す。

「戦国時代、

燕の都ありし薊丘、

では高い木立に覆われ昔日の面影な

く、名君昭王は何処に在らんや」という懐旧恨



の情を俳句に移したと説

くが、子規句は子



の詩句の「地名人名」を単に置き換えただけの「容易

なること」の実例であり、原詩の詩趣から程遠い。

又、彼いうところの



悲傷體



とは、

悲みいたむさまを



べたるなり人のみまかりたるを悼める不幸を

慰めたる古今の變



を悲しみたる身の上を



きたる皆悲傷體なる

べし

の謂にして、示される十二句

注 

は等しく頭書があって始めてそれと判る程度

の風韻、懐古の情も芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の足元にも及ばぬ凡

吟。



川の瓦解」

、戊辰の役から西南の役までの十年間、松山の地で幼少時

代を過した子規こと常規における



川」

の世とは実感が伴なわぬ

「瓦解」

であったに違いない。

因みに、

「病餘漫吟」中に認められた「牛



の春」ならぬ「牛」吟詠は、



ふて行く藪陰や五月雨

夕立や雲舞ひ下る牛の角

牛のせて妻



舟漕ぎ出しぬ

牛部屋に露草さきぬ牛の留守

牛の子や賣られて



ふ小六月

第一句目に付句の「牛



」の面影ある以外は「牛」そのものを詠むが、注

がれる眼差しは家畜を見るというより、むしろ苦楽を伴にする共生者に近

い目線である。

『和

三才圖

注 

言が

る言説を

らかにしてい

よう。

△太抵關東

ニハ

多牛

少

西

ニハ

多馬

少京師

ニハ

キ 二

皇后



車





米穀薪

木等

ヲ 一

コトヒ

ヲ 一

テ レ

ク 二



關東

ニハ

馬文

に対し牛と

の西、子規句の第三句目「牛」と「舟」

四国松山とはいえ西

生れならではの句

「牛



」を説明して『人

倫訓蒙図彙

注 

は、

食物

なり草

苅童

といふ

ありて三

の草

苅笛

なといひ

たり

をうたふ

樵哥牧

とも詩に

れり

となす。同

は草

牛と

大籠

に草

に差したまま、

を下

して

注 

。同じく「

」の

注 

には、

左手

い牛

持ち右手

で代

牛の

鼻綱

かれる。共に

と牛が

かれるが、

(8)



草苅



は夏、



耕す



は春の季題、







ならば夏。

「牛



」は季題な

らず。

牛かひや笛に合する小夜砧

一茶

『七番日

注 

』、

化十四年七月の条に記される

「牛



を詠む珍しい

句、なれど季題「砧」は秋。

本付句、曾て西国で見た耕牛の景と解しておく。

注 1 「子規連句私解 其二十九」 (「学苑 819号 平 21  1 」) 参照 2 『 定本 高濱 子全集』第七卷 (毎日新聞社刊、昭 50  1  5 ) 所収 3 注 2 当該『全集』第八卷 (同社刊、昭 49  4  5 ) 所収 4 明治四年一月、松山藩帰農士族に対する手当支給等の布告 未正月二日 左之通焚火之間 江 御張書相成候、□ (破損) 可致庁掌申聞候、 一、士族之向戒行ヲ以田畑買求候義不苦候事 但、手作宛作共租税課之規津 (ママ) ニ 違背すべからず候事 一、 向 後田地売買私 ニ 譲渡等不相成、 租税課 江 申出、 必 官許相受可申 事 一、商人 者 帰農 ニ あらざれハ田地調方暫之内不聞届候事 但、是 所持之分 者 其儘差置候事 一、田地エブハ譬ヘ士族タリ共本人名前可差出候事 一、旧新士族、命 ニ 依テ転宅スル者并依願郷居スル者等、向後転宅之 義申達候ハヽ、日雇賃左之通差遣候事 旧士族 三拾五人 新士族 弐拾五人 卒 類 拾五人 但、壱里以上ハ倍増、五里以上 者 二倍増 一、当正月 取置料左之通差下候事 旧新士族共 三俵 但、七歳未満之小児 江者 、弐割五歩引之積ヲ以相渡候事 一、 新 士族家族之者、 旧士族 江 妾 ニ 差遣居候向、 更 ニ 願之上妻 ニ 致、 或ハ引取家族 江 差加ヘ、 又ハ庶人 江 差遣、 不 縁 ニ而 引受 罷在 候向 家族 江 差加候義、当月 限 依願差 免 候事 辛 未正月 同年二十五日、士族帰農に つ いての 諸 規 則 布達 未正月二十五日 左之通 伝 達所 組 合 触到来 之 別紙 之通布 令 相成候間、 此段 同 役 并支 配 江 も 可申通事 右別紙 方 今外 国 交際 日ヲ 遂 テ 盛 ニ 諸務維 新 ノ時態 ニ 就 而者 、 追々 大勢 一 変 致 シ 、士 族 ノ 如キモ終 ニ 農 民 ニ 帰 復 シ 、本 ヲ 厚 シ 根 ヲ 培ヒ 、御 国 体壮容 之 外 国之 覬覦 ヲ不受 様 可致 旨 、当 然 之事 ニ 候、 因 而 当藩士族之 儀 も 速 ニ 田間 ニ 土着 シ 漸ク 農事ヲ 知 リ、 先 々 当 惑無 之 様 致 度 候 得 共、 即 今 用途 迫 諸 事不 如 意 候 ニ 付、 別紙 定 員 之通、内一 先 二 百 五拾 戸 郷居差 許候間、 望 之向 者 其 旨 可願出候。 尤 諸 規 則別紙 之通 ニ 有 之候間、 此段 兼 而 相 心 得 可申事 右別紙 規 則 一、居宅田畑山 原 等 借 受或ハ譲受 領り 田畑作 配 等 ノ 事ハ、 村 役 人 百 姓 共 与 相対 次 第、 尤 其 村 仕 成相 悖 り 申間 敷 事

(9)

一、士族之威権ヲ以百姓ヲ軽蔑シ、卒爾慢侮之所業有之間敷事 一、田畑耕 業 ノ 節 タ リ トモ 、 一刀 ハ 必相帯 シ 可申、 婦人懐剣之類右同断 一、百姓ノ妨トナル殺生厳禁之事 一、 給俸引当 ニ而 田畑買求候儀勝手タルヘシ、 尤 双方証書会計課之裏 印ヲ受可申事 一、諸官員タリトモ郷居致不苦候、尤在官中ハ屋敷貸渡候間必城下住 居タルヘキ事 但、家族差置候儀ハ可為勝手事 一、 郷居致候後子弟等城下 江 差置、 文 武修業為致度向 者 其段可申出、 規則之儀 者 追 而 可及布告候事 一、戸数割合左之通 (中略) 一、諸費手当料左之通 屋建料 旧士族 五拾両 新士族 三拾両 引越料 旧士族 一里以内三拾五人役 但、右以上壱里毎 ニ 十人増 新士族 同 弐拾五人役 但、右同断七人増 〆 此度士族之面々郷居被申付候趣意ハ委細御布告 ニ 相見候通、 終テハ農 民 ニ 帰復到シ候儀 ニ 付、 尤田間 ニ 土着シ漸々農事 ニ 手馴れ候様可致との 儀 ニ 付、追々郷居致居宅田畑等買求候も可有之候間、村役人共ヲ始百姓 共御趣意ヲ恐察いたし諸事差支無之様可致、尤抱家并田畑等譲渡貸宛等 之儀ハ相対ヲ以調談之上双方より可願出候、勿論権威ヲ以押付ケ間敷応 対等致候様有之候ハヽ無用捨可申出候事 〆 (『愛媛県史』資料編 幕末維新 県史編さん委員会編、昭 62  2  28 、 167~ 168頁) 5 「店のある百姓家」 (注 2 当該卷、 76頁) 6 『國史大辭典 (以下、 『大辭典』 と略称) 』 2 、 当該項目 (山本武夫執筆) 、 247 頁参照 7 『江木鰐水日記 下』 (東京大學 料 纂  『大日本 古 記 』 岩 書店 刊 、 平 3  3  7 第二刷 ) 、 263~ 265頁 8 『大辭典』 11、当該項目 ( 井 上 勲 執筆) 、 1088~ 1089頁参照 9 『 広島 県史』 近代現代 資料編 Ⅰ ( 広島 県編、昭 48  3  31) 所 収 、 146~ 154頁 参照 10『大辭典』 15上、 当該項目 ( 森松俊 夫執筆) 、 82頁 。 尚 、 次兄四郎は明治 大 正期 の 小説 家 政治 家 にて 東 海散 士と 号す 。 11 例えば 、五 郎 十 二 歳 ( 明 3 ) 、 斗南移封 の記 憶 、 余 の一家 は 働き 手の 太 一 郎兄 不在のた め 、 翌年春まで 向 町 の 工藤林 蔵 の 空 家 を借 用 せ り 。 間 口 三間 ば か りの店 造 り にて 、 六畳 の 二 階 と店 と 炉 のある十 畳 ば か りの 台 所 兼 用の 板 敷と、屋後 に 納 屋あり 。 建 具 あ れ ど 畳 なく 、 障 子あれ ど貼 る べ き 紙な し 。 板 敷 には 蓆 を 敷 き 、 骨 ば か り な る 障 子 には 米 俵 等 を 藁縄 にて 縛 り つけ 戸 障 子の 代 用とし、 炉 に 焚 火 し て 寒気 を しの が んと せ るも、 陸奥 湾 より 吹 き つ く る 北風 強 く 部 屋 を 吹 き 貫 け 、 炉 辺 に あり て も 氷点 下十度十五度 な り 。 炊 き たる 粥 も 石 の ご と く 凍 り、 こ れ を 解 か し て 啜 る 。 衣服 は 凍 死 をま ぬ か れる 程 度 な れ ば 、 幼 き余 は 冬 期 間 四 十日 ほ ど 、 熱病 に 罹 りたるも、 褥 な け れ ば 米 俵 に も ぐ り て 苦し め ら る 。 父 上 は 炉 の か た わ ら にて 習 い おぼ え たる 網結そ の 他 の手細 工を され、 兄 嫁 は 毎日 朝 より 夜 に いたる まで 授 産 所 にて 機織 し て 工 銭 を 稼 ぐ 。 薪 は 晩秋 拾いあ つ め たる 枯枝 を 使 いたるもた ら ず 、 積雪 の中 を 探 し求 む 。

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炭には焚火の消炭を用い、行火には炭団を作るに苦心せり。売品を購 う銭の余裕まったくなし (石光真人編著 『 ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書  補注 』 中公新書 252、 ・71  5  25 、 62頁、以下『遺書』と略称) 補注 蛇足ながら、 二 千点刊行を記念して中公新書編集部が行ったアンケ ート 「思い出の中公新書」 回答者一七九名中十一名が該書を挙げる。 『 アーロン 収 容 所 』(会田雄次) の 十五名 に 次 ぐ 推薦者数 で あ る (『中公新 書の森  2 000点 のヴィリジアン 』 中央公論新社、 ・09  5  25、非売品 ) 12 注 11引用該書、 120~ 121頁 13 柴五郎 服部宇之吉著 『北京籠城 他 』 (平凡社東洋文庫 53、昭 40  10  10) 参照。尚、柴五郎のは明治 34年 12月 29日を初回とする講演録である。 14『遺書』 6 ~ 7 頁参照 『北京籠城 他 』 の 編者大山梓 は 柴 五郎 の 人 と なり を次の如く述べ る ( 19頁) 。 柴五郎の人柄は温厚な武人であり、謙譲の美徳を備え、功を語るを好 まず…… 15『遺書』 30、 43頁参照 16『遺書』 7 ~8頁 17 松 肥後 願書寫 臣容保 乍恐 而奉言上候 拙臣 儀 京 都在職中蒙  莫大之鴻恩ナガ ラ、萬分之微衷モ不奉報、其 當正月中、於伏見表暴動之一戰、旨意 行 不憚 畿奉驚天聽、深ク奉恐懼候。爾來引續今日 、 ニ奉抗敵 王師、僻土頑陋之訛 、今 何ト可申上樣無御座候。實ニ不容天地之 大罪、 措身ニ無 、 人民塗炭ノ苦ヲ爲 受 候 第 、 ク 臣容保 之 致 ニ 御座候 ヘ 、 此 上如何樣之大 刑被仰付 候 共 、 聊 御 恨 不申上候。 臣  子 家 來 、 死 生 ニ奉 仰 天 之 斷 候。 但國 民 女 子共 ニ 至 候而者、 元 來無 智 無罪之儀ニ御座候 ヘ バ 、一 統 之御 赦 被仰 出候樣、 代 而奉  訴 候。 依 之 從 來之 兵 悉 皆 奉 差 上、 ニ 開  官軍 御 陣門 ヘ 降 伏奉 謝 罪候。 此 上萬一ニモ 王 制 御 復古 、出 格 之御 憐愍 ヲ以、 至 仁 之御  典 於 被仰付 候 ハヾ冥加 之 至 極 、 有 奉 存 候。 此 段 大 總督府 御 執事 冐 萬 死 奉 願候。 !惶 !恐 頓首再拜 。 慶應四 年九月 源 容保 上 (平 野晨 編『 明治 大正 昭 和 " #資料 大集 $ 亂 %擾 & 上 卷 』 同集大 成 刊行 會 刊、昭 9  8  12 所収 「十月五日肥後 藩屆 書寫 '明治 (元 戊辰 )十月 太政 官 日 誌 第 百 二 號 *」、 110~ 111頁) 尚、 戊辰 会津 戦争 に 関 し 比較的入手 し 易 いのが 星亮 一『 敗 者の 維 新 史 会津 藩 士荒川勝茂 の日記 』(中公新書 967、 ・90  4  25) 同 『 幕末 の会津 藩 運命 を 決め た上 洛  』 同 1619、 ・01  12  20) 、 同 『会津 落 城 戊辰 戦争最 大の 悲劇 』 同 1728、 ・03  12  20) 、 同 『平 太 の 戊辰 戦争 少 年 兵 が見た 会津 藩 の 落 日 』 角 川 選 書 291、平 10  4  10) 等々 である。 18『遺書』 7 ~ 8 頁 19 会津 藩 初 代 藩 主 保 科 正之 (二 代 将 軍 秀忠 四 男 ) が 定 め た「 家 訓 」十五 ヶ条 、 明治に 至 るまで 同藩藩 士 が 遵 守 して や ま ざ る心 得 であった、 将 軍 へ の 忠 節 と 法 へ の服 従 を 専 一となす も のである。 一、大 君 の 義 、一心大 切 に 忠 勤 を 存 ずべく、 列国 の 例 を以て 自 ら 処 る べ か らず。 若 し二心を 懐かば則ち我 が 子 孫 にあらず、 面 々 決 して 従 うべ か らず 一、武備は 怠 るべ か らず。 士 を 選 ぶ を 本 とすべし。上下の分を 乱 るべ か らず 一、 兄 を 敬 い 弟 を 愛 すべし 一、 婦 人 女 子 の言、一 切 聞 くべ か らず 一、 主 を 重 んじ 、 法 を 畏 るべし 一、 家 中は 風 儀を 励む べし

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一、賄を行ない、媚を求むべからず 一、面々依姑贔負すべからず 一、士を選ぶには 辟 侫の者を取るべからず 一、賞罰は家老の外これに参知すべからず。若し位を出ずる者あらば これを厳格にすべし 一、近侍者をして人の善悪を告げしむべからず 一、政事は利害を以て道理を抂ぐべからず。僉議は私意を挾み人言を 拒ぐべからず。思う所を蔵せず以てこれを争うべし。甚だ相争う と雖も我意を介すべからず 一、法を犯す者は宥すべからず 一、社倉は民のためにこれを置く、永利のためのものなり。歳饑えれ ば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず 一、若しその志を失ない、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその 所を失わしめば則ち何の面目あつて封印を戴き、土地を領せんや。 必らず上表蟄居すべし 右十五件の旨堅くこれを相守り、以往、以て同職の者に申し伝うべ きものなり 寛 八年戊申四月十一日 会津中将 家老中 (会津若松史出版委員会編 『会津若松史』 第二巻 昭 40  4  22 、 214~ 215 頁) 20『遺書』 75頁 斯る父の厳しき叱責は主食不足の補いとして毎日犬の肉を食べ続けるが 或る日咽喉につかえ吐気を催した五郎に向けてのもの、同書 64頁では、 武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なり ともこれを らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に きたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、 長の下郎ど もに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津 の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ と記述。嘔吐に堪えながら二十日間犬肉を うた記憶、彼は自らの心に、 死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるもの ぞ 。 堪 えぬけ 、 生 きてあれよ 、 長の下 郎ど も に 、 一 矢を報い るま で は と叱咤、時に五郎十二歳、松山の子規四歳。 21「店のある百姓家 」 (『 定 本高濱 子 全集 』第 七卷 所 収 、 78頁) 22 注 21に同 23 大辭典 』 1 、 当該項 目 ( 丸井佳寿 子 執筆 ) 、 21~ 22頁参 照 24 大辭典 』 7 、 当該項 目 ( 石塚裕 道 執筆 ) 、 674~ 676頁参 照 25 大辭典 』 10、 当該項 目 ( 石井 寛 治執筆 ) 、 415~ 416頁参 照 26 大辭典 』 14、 項 目「 養蚕業 」「 養蚕組 合 」 ( 共 に 石井 寛 治執筆 ) 、 334~ 336頁 参 照 。 尚 、 明 治 八年 三 月五日 付 「 東京 日日 新聞 」 九 百五 拾號 は 附録 とし て二月 廿 二日 太 政 官布 告第 三 拾 二 號 「 蠶種製 組 合 條例 蠶種製 組 合 會 議 局 規則 」 を 掲 載 、 広 く 周 知を 計 る ( 復刻 版『 東京 日日 新聞 』 6 日 図 書 センター刊 、 ・94  2  25 、 225~ 228頁) 。 27 注 21に同、 82~ 84頁。 困窮 士 族救 済政 策 として 明 治 政 府 は士 族授産 を 明 治 九 年八月の 秩禄処分断 行 後積極的 に 推 し 進 めていく (『 大辭典 』 6 、 項 目「士 族授産 」 後藤 靖 執筆 、 824~ 826頁参 照 ) 28 青木美智男 は、 明 治 新 政 府 成立 後 も、 「 御 一 新 」 を求めて一 揆 は続発した。 特 に 明 治 二年以 降 、 新 政 反対 の一 揆 や戦 乱 に 乗じ て発行 さ れた 贋金 をめぐる 騒 動 などが 起 り、 さ らに 廃藩 置 県 後 は、政 府 が 打 ち出す 新 政 策 に 対 し 反 対 する 血税 一 揆 や地 租改正 反対 一 揆 などが 全 国 的 に 激化 して政 府 を 苦 境 に 陥 れた。 一 揆 の ほ とんどは、 「 御 一 新 」 の 願 望 を 裏切 り、 収 奪 を

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強めたり上からの近代化を強行する新政府に直接対決するものだった。 そのためか竹槍 鉄砲などで武装し、鎮圧の巡査らを殺害するなど、 激しい行動を伴う場合が多かった。そしてこの時期の一揆は、近世の 百姓一揆に対して農民一揆と呼ばれて区別されるのがふつうだが、一 揆的な組織化による運動の形態は、明治十年西南戦争中の諸一揆を最 後に姿を消し、自由民権運動など、あらたな形へと転換していった と述べる (『大辭典』 11、項目「百姓一揆」 、 994~ 996頁) 。 29 毛利敏彦『明治六年政変』 (中公新書 561、 ・79  12  20) 30『大辭典』 8 、当該項目 (藤村道生執筆) 、 202~ 203頁参照 31『大辭典』 6 、当 該 項 目 (後藤靖執筆) 、 827 830頁参照。 明 治二年九月四 日大村益次郎暗殺に始まり同十一年五月十四日大久保利通暗殺に終る 士族反乱年表 は維新の余震を見る如くであり尽きぬ興を覚え有益で ある。 32 毛利敏彦 『江藤新平 急進的改革者の悲劇 増訂版』 (中公新書 840、 ・97  6  30) 、『大辭典』 2 、当項該目 (杉谷昭執筆) 、 309~ 310頁参照 33『大辭典』 7 、当該項目 (杉谷昭執筆) 、 131頁参照 34 詳しくは注 17引用該書『  資料大集  亂 擾 上卷』 (以下『  亂 擾 』 と略称) 中 「 佐賀の亂」 ( 145~ 194頁) 参照。 同書から注目すべき 速報記事を引く。 明治七年二月五日付「郵 報知新聞」 頃日の傳聞に、佐賀縣管下の貫屬、數百名、寺院に屯集し、征韓論 を主張し、日々其人數 加し其勢ひ にして、 に三十一日の夜、 金策のためなるか、同縣下小野組に りしかば、手代殘らず げ去 りしと云ふ。 確報を得て後號に記すべし 同二月十九日付同右紙 參議江藤君 先 頃 職 の後 歸 縣の 際 、佐賀の 知事 家令 に 談 し 入 用なれば金三 萬圓 を 借 り 受け 旨 云ひ 入 しに、大金の事なれば 不審 に 思 ひ  の 挨拶 に 及 ばれず、 に 他 日 斷 りし由。 是 は く 軍 資と なすべき目 ありしか 抔 、 昨今街 あり。 參議江藤 氏 は佐 賀を去り、 細 君 親 族の 地深堀 と云ふ に 潜匿 する 由 深堀 は 長崎 の 方 にて 元 家 老鍋島某 の !地 なりし由。 "同 地 の 某 は 諫早 に 至 り士族を #動する 折柄 、 長崎 縣にて 捕 $せ られたりとの 傳 あり 同三月十二日付「 東京 日日新聞」 今 %投 書 函 ヲ開クニ 佐賀縣士族 ノ檄 &一 アリ 。 因テ 'ニ登 (ス 、 日 參議 木 )公 ノ *白アリ之 ト 合 考熟慮セバ則チ 征韓 ノ 一事其 可否 + ,昭 然 之ヲ 掌 ニ 指 ス ガ 如 ク ナラン 、 是 レ 記 -ノ .意 ナ リ 江 湖 ノ 君 子幸 ニ /目 ヲ 0ルコ ト 勿 レ レ 國權 行 ハ ル レ バ則チ 民 權 隨 テ シ 。 之ヲ 以 テ 1戰講和 ノ 事 ヲ 定 メ 2商航 3ノ 約 ヲ 立ツ 。一日 モ 權 利 ヲ 失ヘ バ 國 其 國 ニ 非ズ 。 今 'ニ 人 アリ 、 之ニ 唾 シ テ 憤ホ ラ ズ 、 之ヲ 撻 テ 怒 ラ ズ ン バ 、 4人小 子 ト 雖 モ ニ之ヲ 輕 5ス ル ニ 至 ラン コ ト 必 セ リ 。 是 レ 人 ニ シ テ 權 利 ヲ 失 フ -ナ リ 。 先 ニ %鮮 ノ 我 ガ 國 書 ヲ 擯ケ我 ガ 國 6ヲ 辱 シ ム 、其 暴慢無 禮實 ニ 言 フ ニ 7ビザ ル -アリ 。上 ハ 8上 ヲ 始 メ 奉 リ 下 ハ 億兆 ニ 至 ル マデ無 別 ノ 大 辱 ヲ 受 ク 。 之ニ 依 テ 去年十二月 9謨悉 ク 征韓 ニ 決 シ 、 :議 ニ 膺應 ニ 定 ル 、 已 ニ シ テ 而 シ テ 二三 ノ 大 臣偸安 ノ ヲ 皇 張 シ 、 8時 ヲ 壅 ;シ 區 々其 ノ 議 ヲ 沮息 セ リ 。 噫 <國權 ヲ 失 フ 實 ニ 此極 ニ 至 ル 。 之ニ 唾 シ 之ニ 撻 テ 憤 怒 セ ザ ル -ト 相等 シ 。 甚 シ 其 國 辱 ヲ 知 ラ ザ ルコ ト 。 筍 モ 如 此 ノ 失 態 ヲ 極 メ シ カ バ 是 ヨ リ シ テ 3外 輕 5ノ 階 ヲ 爲 シ 四 方 ノ =辱 ヲ 招キ 、 ニ 其 止 ル ヲ 知 ル ベ カ ラ ズ 。 1際 裁  2商 凡 百 ノ 事 皆彼 ガ 制限 ス ル ト ナ リ 數年 ヲ 出 ズ シ テ 國 ノ 生 靈益 々 貧 困流離 ノ 域 ニ 至 ルコ ト 鏡 ニ 掛 テ 見 ル ガ 如 シ 。 是 レ 有 志 ノ 士。以 テ 扼

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腕切齒スル ナリ。因テ是ヲ同志ト計リ、上 上ノ爲メ下、億兆 ノ爲メ敢テ萬死ヲ ミズ誓テ此大辱ヲ ガント欲ス。是蓋シ士民ノ 義務ニシテ國家ノ大義ナリ、而シテ有志ノ士各々自ラ以テ奮 スル ナリ。然ルニ大臣等己レニ ナラザルヲ以テ、我ニ兵ヲ加フ、其 勢 此ニ至リ、我 止ムコトヲ得ズ。先年長州大義ヲ擧ルノ例ニ傚 ヒ其處置ヲ爲スナリ。古人曰ク、 一到何事カ不 ト、士民ノ義 務 ニ斯ノ如シ、而シテ我輩ノ一念必ズ此冥霧ヲ破リ、恭シク錦旗 ヲ奉ジテ、以テ 鮮無體ノ罪ヲ問ハント欲ス。是實ニ吾輩區々ノ衷 死ヲ以テ國ニ報ズル ナリ。有志ソレ是ヲ諒セヨ。 明治七年二月十五日 池組本營 同三月十六日付「郵 報知新聞」 東京府 其府貫屬士族島義勇儀、賊徒に與みし 走候處於鹿兒島就捕  て 吟味の上至當の御處分可有之候へ共先づ位記を被褫候條此旨相 候 事 佐賀縣 其縣貫屬士族江 新 儀賊従に與みし 走候に付捕 の上至當の御 處分可有之候得共先づ位記を被褫候條此旨相 候事 同四月十三日付「東京日日新聞」 數百年來天下忠義ノ士、自然ト嘯集、天皇ノ御仁 トハ乍申、 此 輩ノ盡力ニテ、中興ノ御大業ニ相 、四方ノ人民目ヲ拭テ、信賞必 罸、萬機其 ヲ得、 世淳朴ノ風ニ復シ候ハント希 罷在候處、恩 賞不當、刑罰 倒、好臣專 、中興第一ノ元老、島津從二位、西  正三位、木 從三位、板垣正四位、副島正四位、後 正四位、其他 有功ノ士ヲ ケ、無功無賴ノ奸才ヲ擧テ、夷蠻ノ醜風ニ心醉シ、開 闢以来未曾有ノ苛政 暴法 、 重斂 被相 行 、 外 國ノ 黠奴 ヲ 親 ム、 兄師 友 ノ如クシ、四 荒蕪怨嗟 ノ 聲 、 路 ニ 充 然 タ リト 雖 、  憂 國ノ 士、 皇 愛 國ノ念ヨリ、三條大臣、 岩倉 大臣 ヘ !言 !白 不鮮、 兩 大 臣忠 謀 ノ心、 頗 ル 深 シト 雖 、才風 量少 ニシテ、人ヲ 照 ラスノ明ナ ク、奸臣ノ爲ニ 愚弄 ヲ 受 ケ、 淺薄 ナル 權 謀 詐 "ノミヲ 施 シ、天下ノ 人心ヲ 失却 シ、 猥 ニ 殺伐 ノ 氣 ヲ シ、忠淳ナル 肥 #ヲ $メ、 肥 後ヨ リシテ元 勳 ノ %州ヲ 伐チ 、 土 州ニ 及バ ントノ 結構 、 今般 肥 後 鎭臺 兵 ヲ 發 シ、佐賀 &ニ 立籠 リ、 '國ノ士族ヲ (チ 掛 ケ。 依 之、不得止 ' 國忠勇ノ士ハ 偖 置、無 識 ノ 土 民ニ至ル )、不 堪 忠 憤 、本月十六日 早 曉 ヨリ 攻 立 、 昨 十 八 日 )ニ 攻落 シ、 暴 兵 打 攘 申候。 先以、江 正四位其 外 ノ 公 衆議 ノ 歸 スル ヲ以テ、 *宜 ノ處置ニ テ四民 安 +ノ 樣 、 取 計候ニ付、此上ハ 國ノ大政ヲ、御 改革 被爲 ,、 外 ハ不 敬 無 禮 ノ 鮮國ヲ、御 征討 被 候ハ 勿論 、 支那 、 魯 西 亞 ノ 外 タ リト モ 、我ガ臣 僕 トスル御目 -被爲在候ハ デ ハ不相 濟 、第一 度 々 兩 大臣 ヘ 懇 々忠 言 候 .、中興ノ /元老ヲ 厚 ク、御 慰 0ノ上御 登庸 、 ハ御仁 澤 ヲ被爲 施 、 外 ハ御 武威 ヲ被爲 張 、 封建 、 郡 縣被 並 行 候ハ デ ハ、 迚モ神 州治リ候目 的決 シテ無之候、此 段 御 執奏 奉 願 候 也 。 明治七年二月 從四位 島 義 勇 同四月 廿九 日付「東京日日新聞」 江  新  島義勇 其方儀不 憚 憲 、 名 ヲ 征 韓 憂 國ニ 托 シ、 黨 與ヲ 募 リ兵 1ヲ集メ、 官 軍 ニ 抗敵 シ、 2意 ヲ 逞ウ スル 科 ニ 依 テ、 除 族ノ上 梟首 申付ル。  倉 3武 香 月 經 五 4 山 中一 4 西義 質 中島 鼎藏 ( 以上 征 韓黨 ) 副島義 高 重 松基吉 村 山 長 閑

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