学習と学習活動
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(2) 4 学習 と学習活動 “ は学習活動 の効果 と しての性 向 の変化 (の 過程 も しくは状態 )を 意味す る。 私 が この立場を と り, この 区別 をす るよ うに な ったの は ,デ ュ ー イ の 学 1). 習 の考 え方 を 吟味 した ときか らで あ る。彼 の有 名 な「 為す こ と に よ る学 習 (barning by doingり 」 や「 経験 か らの学習 (barning■ om experience)」 な どの. 句 がすでに上 の 区別 を示 唆 して い る。なぜ な ら,こ こには為す こ とや経験 は 活動 で あるが ,学 習 はそ のよ うな活 動 で はな くて これ らの 成 果 で あ る こ と が意味 されてい るか らで ある。 デ ュー イには次 のよ うな 言葉 もある。「 われ われ はわれわれ の諸 々の失敗 か ら学習す る…. (…. 。 we learn iom our failures,」. これ は一 句 にま とめれば「 失敗 か らの 学 習 cearning from fanures)」 と な る で あろ う。 そ して これ らの句 を一 般化すれ ば「 活動に よ る 学 習 (learning by activity)」. とか「 活動 か らの学習 (barning from activity)」. とか い った 句 が 成. 立す るで あろ う。 そ して これ は学習 その ものは活動 で はな い ことを示 唆 して い る一 一言明 は して いないまで も一一 わ けで ある。 もう少 しデ ュー イの学習観 につ いて触 れ ると,彼 にお いて も「 学習」 の語 を学習活動 の意味に用 いて い る場合 が全 くな い とはいえないよ うに思 われ る。 例 えば「 学 習 は生徒 が 自分 で ,ま た 自分 のためにな さね ばな らないあ る こと. lLと ぃ ぅ節 は学習 が為 さねばな らな い あ る こ と と して ,つ ・ で あ るか ら…・ ま り何 らか の活動 と して見 られ てい ることを 表 わ して い る よ う に 思 わ れ る ので ある。 しか しこの種 の表現 は彼 には極 めて 少 な い。 『 民 主 主 義 と教 育 閉 (Dθ πο. a specinc job of learning"と い η)』 第 一 章末尾 の “ ′ θ り ακごEα z“ ι. う句 は ,学 習 が一 つ の活動 で あ る ことを表 わ して い るよ うに も見え るが ,ま たそ うでな いよ うに も見 え る。 このよ うに学習 と学習活動 との区別 が明 瞭 に は読 み取 れ な い表現 もい くらか見 られ る。 しか し彼 が学習 を経験 とか為す こ ととか探究 とかの活動か ら生 ず る結果 と して 自覚的 に捉 えて いた ことは明 ら かな ことで ある。それを証す る彼 の言葉を 一 つ だ け再録 してお きた い。. 1)拙 著『 デ ューイ教育観 の研究』風間書房 ,1977年 ,pp.61-80,86-90. ηごEα π ′ η,New York:The lMac_ ,っ の α Dθ πθ θ. 2)同 書,pp.66187.」 。Dewey, millan Co。. ,1916,p.394.. 3)前 掲拙著,pp.621. jθ. “.
(3) 365. 牧 野 宇一郎. 「 正 常 な 諸 条 件 の 下 で は ,学 習 は題 材 に従 事 す る こ との一 つ の 産 物 で あ り 4). 」 報酬 で あ る。 ……彼 は彼 の直接 の諸活動 の帰結 と して学習す る 。 しか し一般 に人 々は学習 と学習活動 とを あま り区別 しない。一 方 で は学習 を知識や習 慣 な どを 身 につ け る こ とだ と理解 しなが ら,他 方 で は勉強 した り 練習 した りす る活 動 と考 えた りす る。だか ら「 学習効果」 とい う言葉 で学習 の効果を意味 した りす る。 しか し学習 こそ ま さ し く効果 でな ければ な らな い ので ある。 「 学習過程 」とか「 学習方法」 とかの表現 も,問 題 の 区別を念頭 に おかないで用 い られ てい る ことが多 いので はなか ろ うか。学 習 と学 習活動 と の混 同 はかな り普及 してお り,デ ュー イの学習観 につ いてのべ た次 の解説 に さえ この混 同 が見 られ る。 「 デ ュー イに と って は,学 習 は何 よ りもまず,一 つ 5). の 問題 と取 り組 む こととい う一 個人 の経験 か ら生ず る一 つ の活動 で あ った。」 学習を活動 か ら区別す る場合 に は「 学 習 活 動」 の代 わ りに「 学 習 へ の 活 動」 とか「 学習を伴 う活動」 とかの句 を用 いた らど うか とい う こと も考 え ら れな い ことはな い。だが「 学習活動」 の表現 を あえて採 る理 由 もな くはない。 一 つ は意地悪 のよ うだが ,学 習 とい う活動 とい う意味で用 い られた「 学 習活 動」 を駆逐す るためで ある。 学習 は活動 で はな いのだか ら,「 学習活動」 の このよ うな使用 はあ って はな らな い と思 う。 もう一 つ の理 由 と して ,学 習を 生 ず る活 動 には学習者本人 の活動だ けでな く,そ れに影響 を及 ぼす他 の人 々 の活動 も含 まれ るとい う こ とがあ る。後者 の活動を除外 して本人 の活動だ け を意味 させ るには,「 学習活動」 の表現 が適切 のよ うに思 われ るので あ る。 す なわ ち この句 は学習 とぴ った り対応 す る活 動 を ,つ ま り学習者本人 の活動 を よ く表わす こ とがで きるよ うに思 われ る。. I. 「 学 習 」 の 定 義 と学 習 活 動. 私 は以前に「 学習」 を定 義 して「 個人 の性 向 の形成 な い し変様」だ と した。 同書. p.65。. Eπ りθ Jの θ αOノ Eα π ι づ ごグ θπ,The Macmillan Co.and the Free Press,U.So A。 “ 1971, Vol. 3, p. 83. Tttθ. 6)拙 稿「 教育とは何か」,『 甲南女子大学研究紀要』第18号 ,昭 和57年 3月 。. ,.
(4) 学習と学習活動. 36δ. 厳密 には「 個人 の」 とい うよ りも「 有機体 の」 とか「 個体 の」 とか とす べ き で ある。ねず みや犬 も学習す るか らで ある。 しか し人 間 の学習を問題 にす る のにはその ままで もかまわ ない。 私 はまた同時 に ,学 習を もた らす作用 と しての教育 は個人 が生 きて い る限 りいつ で もど こで もそ の個人 に生起す る ことを強調 した。人 間 は生 きて さえ い れば ,環 境 との トラ ンス ア ク シ ョンを行 なわ ざ るをえず ,そ の限 り学習 を せ ざ るをえな いので あ った。 この トラ ンスア ク シ ョンは活動 で ある。だか ら この ことを定義 に織 り込 むな らば,「 学習」 とは 「 個人 の活動 によ るその個 人 の性 向 の形成 な い し変様」だ とい う こ とにな る。 これを 簡 略 化 す れ ば. ,. 「 学習」 は「 自 らの活動 によ る性 向 の変化」 と定 義 され る ことにな ろ う。 一 般 に行 なわれて い ると思 われ る「 学 習」 の定義を 一 つ 見 てみよ う。 「 学習 は ,強 化 された練習 の一結果 と して起 こるところの ,一 つ の行動的 7). 」 傾 向 の一 つ の比較的恒久 的 な変化 と して定義 されて きて い る 。 少 しわか りに くいのは「 一 つの比較的恒久 的 な変化」 とい う句 で あ る。比 較的恒 久的 とされて い るのが変化 の過程 か ,変 化 した状態 か ,さ らに はその 両方 か よ くわ か らな い。 多分 ,比 較的長持 ちす る変化 (し た状態 )が まず意 味 されてお り,そ れ は比 較的長 い間 の変化 (の 過程 )を 必要 とす る 場 合 が 多 い と考 え られ て い るので はなか ろ うか。 ところが「 一 つ の 行 動 的 傾 向 behavloral tendency)」. (a. とい うものは ,私 のい う「 性 向」 と 同 じで ,変 化 した. もの と して も,ま た多 くの場合変化す る過程 と して ももとも と「 比 較 的恒久 的」 な もので ある。だか らこの形 容句 は要 らな いので はな いか と思 う。 した が って「 一 つ の行動的傾 向 の一 つの比 較的恒久 的 な変 化」 とは ,ほ ぼ私 のい う「 性 向 の変化」 と見な されて よいで あろ う。 ところで この定義 は ,こ の変化 が「 強化 された練習 (reinbrced practice)」 の結果 でな ければ な らな い とい う限定を 加 え て い る。 “practice"に は「 実 践」 の訳 も考 え られ る。それ は要す るに学習者 の活動 なので はなか ろ うか。 んθSθ θ ′ αJ Sθ ′ ηθ s,The L〔 acmillan Co。 J″ θ θ θ αjα 6デ ι りθ 'Eπ Free Press,Uo Se A。 ,1968,Vol。 9,p.114。. ηα θrη αガο 7)Tみ θlη ι. &the.
(5) %7. 牧 野 宇一郎. そ して どんな活動 も広 い意味で の 強化 を含んで い ると考 え られ る。なぜ な ら 活動 は強制 されたままの作用 で はな くて 自主 的 で ある限 りの行為 であ るか ら. ,. 結果 が要求 や意図にかなえばプ ラス に促 進 され ,そ れ らに反すれば マ イナ ス に促 進 され るだ ろ うか らで ある。 こ うい うわ けで あるか ら,上 記 の限定 はほ ぼ私 の定義 での「 自 らの活動 によ る」で 置 きかえ られ るよ うに思 われ るので あ る。 したが って. Kimble氏 の あげた定義 は ほぼ私 の定義 と同 じだ と見 て よ い. と思 う。氏 は「 傾 向」 の語 を使 ったの は学習 はす ぐ実行 に現 われ るとは限 ら な いか らだ といい ,次 の例 を記 して い る。それ は苔 が幹 の北側 に生 え る こと や ,こ の こ とが森 に迷 った ときの脱 出に使 え る ことを学習 して も,こ の学習 がす ぐに役立 つ とは限 らな い とい う ことで ある。 これ は学習 の 内面的 な い し 内実的な性格 の主張 を ,ま た学習 と学習活動 との区別を示 して い る。 だが Kimble氏 の 同 じ頁 の説明には多少 問題点 が見 いだ され る。氏 は「 成 熟 (maturatiOn)の 一 結果 と して起 こる行動的変化 (behaViOral changes,」. は学. 習か ら除外 され るが ,そ れ は成熟 が pmctiCeに 依存 しないか らだ と い う。 成熟 は生理 学的医学 的 に厳密 に解 して praCtiCeに 基 づ かな い ものだ とす れ ば ,確 かにそれ はそれだ けで は性 向を形成 した り変様 した りす る こと もな い ので あろ う。 この結論 は妥 当だ と私 も思 う。 しか し氏 はなぜ 成熟 の一 結果 と して起 こる「 行動的変化」 が学習で あ るか否 かを問題 に したのだ ろ うか。氏 の定 義 で は学習 は「 行動的変化」 で はな くて「 行動的傾 向 の …変化」 で あ っ た はずで ある。 これ は氏 が学習 の 内面 的性格 につ いて不徹底 で ある ことを示 して い る。 なお氏 は「 忘却 (forgetting,と 実験 的消去 (experimental extinction)の 項 目 の下 に来 る行動上 の変化 (changes in behavior)」. も強化 された practiCeに よ. らな いために学習 か ら除外 され るとい う。 ここで も「 行動 上 の変化」 はは じ めか ら学習で はな い はずなのに ,そ れを問題 に して い る。 私 は忘却 は病気 ,傷 害 ,老 衰 な ど活動ない し praCtiCe以 外 の もの か ら生 ず る こ とがある し,ま た活 動 か ら生 ず る場合 で もその活 動を特定 しがたい こ.
(6) 3δ. ∂. 学習と学習活動. とが多 いと思 う。 しか し例 えば母 国語 が便利 なのでそ れを永年使 ったため昔 憶 えた外 国語 を忘れ るよ うな場合 もある。 この忘却 の場合 の母 国語 の使用 は 強化 された practiCeに な って い るので はなか ろ うか。 実験 的消去 に 関 して. Kimble氏 は,「 強化 の省略 は実 行 の減少 に導 くが. ,. この減少 はパ ブ ロ フが実験 的消去 とよんだ し,今 で はよ り しば しば単 に消去 8). といわれ る」 と記 してい る。器 具的学習 (instrument』 barning)に お い て 実 行 は ,そ れ が報 酬 の確保 か 罰 の 回避 に導 くこ とによ って 強化 され る もの とさ れ て い る。強化 の省略 とは実 行 して も報 酬 が得 られな くな るか罰が避 け られ な くな るかす る こ とで ある。 この場合実行 その ものが減少 を来 たすのは 自然 な ことで あろ う。Kimble氏 はなぜ これを学習か ら除外す るのだ ろ うか。 実 行 (perfOrmanceり が出現 し増 強 され るのは学習 だが ,減 少 した り消滅 した り す るのは学習 で はない とい うのだ ろ うか。 も しそ うな ら実行 と性 向 とを混 同 して い る ことにな る。実行 が減少 す る こ とその こ とは学習 で はないで あろ う が ,強 化 の省略 によ って 実行 が減少 す るのは ,そ こに学習 が あ ったか らだ と 考 え られな いで あろ うか。強 化 が省略 されれば実践者 に と って 実行 の意味 が 変 わ るはずで ,そ れ は学習で あろ う。 学習 の有無 は行動 によ つて しかテ ス トで きな い とい う こ とは受 容す べ き一 般的信念 で ,う そ発 見器 も この信念 に基づ いて作 られ る。 しか し学習を行動 な い し行動 の変化 と同一 視すれば ,学 習活動 も行動で あ るため ,学 習 と学習 活動 との区別 もあ い ま いにな るで あろ う。 学習 の成立 は単 に外面 的 ,機 械的 な行動 の変化 によ って で はな く,統 御 さ れた行動 の変化 によ って 表わ され るといえよ う。統御 された とは為す ま い と した ら為 さずにす む ,つ ま り随意的 とい う意味で ある。歩行 は通常 ,歩 みを 止 めよ うとすれば止 め られ る。だか ら歩行 は一 つ の学習を表わす 。学習 が性 向 や心 に 関わ る内面 的 な ものだ とい う こ とは ,そ れを表わす 行動 が統御 され た ものだ とい う ことで あ って ,行 動 か ら切離 された ものだ とい う意味で はな い。 乙,p.119。 8)」 らグ.
(7) 牧 野 宇一郎. 369. 寝 た ば この習慣 は学習 を表 わす が ,寝 たば こを しない こ とは習 慣 で もな く 学習 を 表わ しも しな い ,と はいえな い。 む しろ後者 こそ統御 された行動 と し て学習 を よ く表 わ して い る。前 者 も学習を表 わす といえない ことはないが. ,. む しろ寝 たば こを しな い性 向が形成 されなか ったか ,さ れて もそ の学習 が崩 壊 したかの どち らかを表わす ことが多 いので はなか ろ うか。 私 は変化 した性 向 ない し行動的傾 向 と しての学習 一一 状 態 と して の 学 習 一一 を表わす のに「 行動」 の語 を用 いたが ,そ れ は統御 された行動 でな けれ ばな らな いのだか ら,「 活動」 の語 を用 いて もよ い と思 う。 そ うす ると学習 を表わす活動 と学習を生 ず る活 動 た る学習活動 との関係 が 問題 にな る。歩 く 練習 の結果歩 けるよ うにな るな ら,学 習活動 は完了 し,あ とは歩 くことは学 習を表わす活動 とな る。だが後者 は多 くの場合 ,歩 くことを含 む よ り複雑 な 新 しい学習活動 に編入 され る。 こんな具合 に一応 考 え られ る。 しか しあ らゆ る活動 は何 らか の学習を生ず るはずで あるか ら,単 な る学習を表わす活動 に とどま る活動 は存在 しな い とす べ きで あろ う。た とい歩 くことが十分上 手 に な ってか らで も,そ して歩 くこ とが別 の学習活動 に編入 されな くて も,歩 く ことは依 然 と して歩 行 の上 達以上 の何 かを常 に学習 させ るで あろ う。 したが って学習を表 わす活 動 は学習活動 の一 つ の相 だ と考 え らるべ きで あろ う。. 学 習活 動 の 種類 学習 を もた らす学習者本人 の活動 と して の学習活動 にはどのよ うな種類 の ものが挙 げ られ るで あろ うか。またそれ らはどのよ うに分類 され るで あろ う か。私 は以前 に学 習 の源泉 は学習者 の トラ ンスア ク シ ョ ンに あると主張 した。 だが この トランス ア ク シ ョンや経験 や探究 な どは学習活動 の種類 とい うよ り も構造 や 質を表わす ので ,こ こで は問題 に しない。 私 はまた以前 に ,学 習 は (し たが って教育 も)人 間 が生 きて い る限 りいつ で もど こで も行 なわれて い る こ とを強調 した。だがそれ は生 きて いる限 り人 は何 らか の活動をす るか らで あ った。 したが って個人 が生 きて いて可能 な活 動 の種類 ほど多 くの学習活動 が存す る ことにな る, 食事 , 睡眠 , 通勤 , 労.
(8) 3η. 学習と学習活動. 働 ,交 際 ,娯 楽等 々はす べ て学習活動 の さまざまな種類 や領域を表わ して い る。 しか し学 習 との 関連 の ちが いに基づ く学習活動 の一 つ の分類 と して ,後 者 を次 の二 種類 に大別す る こ とが考 え られ る。一 つ は本人 が学 習を意 図 し, し か も学習を主 目的 と してい る学習活動 で ある。語 学 の勉強 とか ,運 動 選 手 の 練習 とかは ,そ れ の典型的 な例 で あ る。 もう一 つ の種類 は本人 が学習を意図 しな いで ,あ るいは学 習を意図す るに して も学習以外 の こ とを主 目的に して 行 な う活動 で あ る。 これ は要 す るに ,学 習を主 目的 と しないで 行 な う学習活 動 だ とす る こ とがで きる。少女 が母親 の家事 を手伝 うの はそのよ うな例 と考 え られ る。少 女 は学 習す るか ら,手 伝 いは学習活動 で ある。だが この学習活 動 は学習を主 目的 に して行 なわれて い るので はない。 私 は第 一 の種類 の学習活動 を 特 に「 学 習 活 動 プ ロ パ ー Cearning activity proper)」 tiCe)」. とよぶ ことに した い。 こ れ に は「 勉強. (study)」. とか「 練習. (prac_. とかよばれ る ものが属 してい る。 第 二 の種類 は「 学習活動 イ ンプ ロパ. ー Cearning activity improper)」. とよぶ こ とがで き,そ れに は「 遊 び. (play)」. とか「 仕事 (work)」 とか よばれ る ものが含 まれ て い る。 第 一 の 種 類 を「 意 図的学習活動」 とよび ,第 二 の種類 を「 無 意図的学習活動」 とよぶ こと も考 え られ るが ,こ れ は誤解 を招 くおそれが大 きい。両 者 の 区別 は意図的で あ る か否 かにあ るので はな く,学 習 の意図を主 た る意図 と して い るか否 かにあ る か らで ある。「 形式 的」お よ び「 非形式 的」 とよび分 けるの もあま り適 当で はな い。 とい うのは第 二 の学 習活動 も形式的 に学校 カ リキ ュ ラムな どの 中ヘ 組 み込 まれ ることが あ るか らで あ る。 第 一 の もの を「 特種的学習活動」, 第 二 の ものを「 非特種的学習活動」 とよぶのは比 較的無 離 で あろ う。 わが国の学校教育 において「 学 習指導」 の語 が用 い られ ,さ らに「 生 活指 導」 とい う言葉 もよ く使 われて きて いる。後者 の意味 につ いて論争 が あ った が ,そ れ は前 者 の意味 との 関連 を見なが らでない と決 め られ な いので はなか ろ うか。「 学 習指導」 とは 学 習を最善 た ら しめ るための 指導 だ といえ よ う。 だが指導者 が直接働 きかけ る ことがで きるのは学習で はな くて学習活動 で あ.
(9) 牧 野 宇一郎. 3π. る。だか ら「 学習指導」 とは学習を最善 た ら しめ るため の学習活動 の指導 だ とす る ことがで きよ う。 ところが学習活動 と生活 とは同 じで あ る。それゆえ も し「 生活指導」を も って学習 を最善 た ら しめ るため の生活 の指導を意味 さ せ るな らば ,そ れ は「 学習指導」 と何 ら異 な ると ころが ない とい う ことにな る。 そ こで ,も し「 生活指導」 に特別 の意 味を与 え ,そ れ は生活 の仕方 を学習 せ じめ る指導 だ とす るな らば ,そ れ は「 学習指導」 に合 まれ る ことにな る。 それ は生活 の仕方 とい う学習を最善 た ら しめ る学習活動 の指導 と して ,学 習 指導 の一 部門 だ とい う こ とにな る。 も し「 学習指導」 によ って学 習を最善 た ら しめ るための学習活動 プ ロパ ー の指導を意味 せ しめ るな らば ,「 生活指導」 はそれ以外 の学習活動 の 指 導 を 表 わす とす る ことがで きるで あろ う。そ うすれば両指導 の ちが いは,指 導す る対象 た る学習活動 の種類 も しくは領域 の ちが いに還 元 され る。 しか しこれ は「 生活」 の意味を不 当に狭 め る結果 にな るだ けでな く,「 学習指導」 の適 用範 囲を制限 し,「 学習」 の 内容 に偏 見を付与す る危険 があろ う。 「 生活指導」を主張 す る人 々に と って は物足 りな く感 ぜ られ るか も しれな い上記第 二 の意味 が ,私 には他 の概念 や機能 を侵 す危険 のな い妥 当な ものだ と思 われ る。 遊 び と仕 事 が学習 と対立す るので はな く,学 習 を もた らす 一 種 の学習活動 で あ るとい う ことは , 確認 してお くべ き一 つ の ことで あろ う。「 遊 んでばか りいな いで少 しは勉強 しな さい」 と叱 るのは一 つ の意 味 の あ る言 葉 で あ る 一一 意義 があ るか否 か は場合 によ ると して も。 だが「 遊 んでばか りいないで 少 しは学習 しな さい」 とい うのは ピン ト外 れな言 い方 で あ る。 も し親 が遊 び は何 ら学習には寄与 せ ず ,学 習 は勉強によ つてのみ可能 だ と信 ず ると した ら. ,. それ は もう言語使用 だ けの問題 で はな い。 人間 の一 生 は通常 ,幼 年期 には主 と して遊 び ,青 少年期 に は主 に学 習 し. ,. 壮年期 には主 に仕 事 を し,老 境 に至 って は仕事 を続 け るか遊 びに帰 るかす る とい った 風に考 え られて いるで あろ う。 この常識的見解 で は遊 び と仕事 と学.
(10) 372. 学習と学習活動. 習 とが 同 じ レベ ルに並 べ られ て い る。 これを改 め るには「 学習」 の代 わ りに 「 学習活動 プ ロパ ー」を置 くか ,「 学習」 は この長 い言葉 の省略形 と 解 さ れ な ければな らない。 学校 は子 ど もの学習 のた めに組織 された学習活動を中心 と した社会的生活 で あ るが ,子 ど もは学習活動 プ ロパ ーだ けでな く,遊 びや仕事 と しての学習 活動を も行 な う。デ ュー イ・ ス クー ルで は遊 びおよび仕 事 と して料理 ,裁 縫. ,. 木 工な ど社会生活 上必 要 な生 産活動を表わす作業 (occupations)を 採用 し,こ れ らを子 ど もた ちの生 々 と した現在 の生 活経験 と して 営 ませ るとと もに ,こ れ らを コア と してそれに他 の学習活動 プ ロパ ー た る諸教 科 の学習活動 を相 関 させ た。 これ は学校 にお ける子 ど もた ちの学 習活動 の全体 を彼 らの生活 ら し い生活 とす るとい う意味で生活教育 の一つ の典型を表 わ してい るといえ よ う。 どんな学習 も生活 の仕方 に響 くか も しれないが ,直 接 に生 活 の仕方 の学習 を 目標 に した学習活動 の指導を「 生 活指導」 とよぶ こ とがで きたよ うに ,ど んな生活 も教育す る以上 どんな教育 も生活教育で あ るはずだ とはいえ ,教 育 主体 を特 に生活 ら しい生活 ,真 正な生活 と した ときの教育を「 生活 教育」 と よぶ ことは不 条 理 で はな いで あろ う。 学校教育を生活教育 ら し くす るのには ,掃 除を した り,教 室を飾 った り. ,. 外来者 を 案 内 した り,新 聞 ,放 送 ,運 搬 な どの業務を分担 した り,さ まざま な仕事 に参加 した りす る こ とも役立 つ で あろ う。 これ らの仕事 は子 ど もた ち が互 いに協力 し,喜 びや悲 しみをわか ち合 う形 で行 な うのが望 ま しい。 どん な作業 で も,勤 労精神 を養 わせ よ うとか規律 あ る習慣 を つ け させ よ うとか教 師が考 え るな らば ,そ して生徒 がそれに感 づ くや否や気 の進 まな い学習活動 プ ロパ ー と見な されて しま うで あろ う。 遊 び と仕 事 との区別 は,デ ュー イの説 くご と く,目 的 な い し日標 の有無 に あ るので はな く,遊 びでは 目標 が後 に続 く行為 にあるのに仕 事 で はそれが諸 物 の 中 に特種 な変 化 を作 り出す ことに あると して大体 よいので はないか と思 う。 と ころで学習活動 プ ロパ ーの 中 には遊 びや仕事 はないのだ ろ うか。性格. 9)前 掲拙著『 デ ューイ教育観 の研究』,p.743..
(11) 牧 野 宇一郎. 373. と してな ら両方 ともそ こに含 まれ る ことが あ って よいはず であ ろう。 とい う の は主 目標 た る学習 は学習活動 プ ロパ ーの終局 にお いてだ けでな く過程 にお いて も絶 えず達成 され る ことが あ るか らで あ る。 しか し学習 は個人 の性 向 の 変化 と して心的内実的な もので あ って ,そ れを意図的 に達成す るとい う こと は,遊 びにおいて次 々に後続 の行為 を意 図 し達成 す る こと とも,仕 事 におい て終局的 に何 か客観的な対象 を生 産 しようと意 図 して 活動 す る ことと も同 じ で はない。それ に勉強や練習 は遊 びや仕事 の現実的 な現在的 な生活 経験 と比 べ ると,ど う して も手段的・ 予備的 な もので あ る。だか ら遊 びや仕事を学習 活動 プ ロパ ーの 中 に も所属 させ るとい うことは不可能 だ とせ ざるをえな い。 「 研究. rresearch)」. は 学習 で はな い。 それ は学習 を高度化 した もので もな. い。それ は学習活動 だか らで あ る。だがそれ は学習活動 プ ロパ ーに属す るだ ろ うか。す なわ ち,研 究 は学習を主 な 目標 と して行 なわれ る学 習活動 なのだ ろ うか。. ・. 研究 は事実や法則や技術 の発 見や発 明を固有 の 目的 と して行 なわれ ると し て よいで あろ う。 それ は要約 すれば真理 の 創造 を主 目的 と した学習活動 だ と いえ よ う。真理 の 創造 は学習で はな いか。 も しそ うな ら研究 は学習を主 目的 と して い る ことにな るか ら,そ れ は学習活動 プ ロパ ーだ とい う こ とにな る。 しか し真理 の 創造 は人 々が共 有 す る真理 の世界 の拡充 ,再 構成 も し くは分担 と して ,個 人 の性 向 とい うよ りも社会的 も し くは客観的 な意 識 の変革 を意味 す る。 もちろん人 々が何 の 関心 も示 さない真理 の創造 があ る。 しか し倉1造 さ れた ものが真理 で あ る限 り,広 大 な真理 の世界 と無縁 で はない。私 はだか ら 卒業論文 を書 くこ とは一 つ の研究 で あ って ,学 習活動 プ ロパ ーを積 む ことに よ って は代 え られ な い と思 う。 研究 は真理 の創造 を到達点 と して 目論む とい う意味 で仕事 に属 して い る。 しか し真理 は突然や って くるとは限 らない。 多 くの場合 ,途 中で部分的諸真 理 の 創造 が重ね られ る。 こ う して研究 の過程 その もの も享楽 され ることが多 い。 とい うこ とは研究 は遊 びの性格 を帯 び ることも多 い とい う ことで ある。 いや遊 びの状 態 におかれな い と成果 のあが らな い研究者 も少 な くない。.
(12) 3Z. 学習と学習活動. 研究 は このよ うに学習活動 プ ロパ ーだ とはいえないので あ って ,こ の点 で は生産 ,立 法 ,行 政等 々の活動 と同 じで あ る。 しか し研究 の対象 は真理 とい う一 般 的な もので あ るため ,よ り具体的 な 問題 の解決 に比 べ ると比 較的学習 活動 プ ロパ ー寄 りの活動だ とはいえ よ う。 この こ とは医学 にお ける研究 と治 療 とを比 べ てみ れば容易に納得 され るで あろ う。 研究 を成功 させ るには ,そ れを知性 的探究 と して行 な う必要 があ る。絵画. ,. 彫 刻 ,演 劇 ,作 曲 ,演 奏 な どの さまざまな 芸術的探究 と して行 なわ れ る製作 (work,production)に つ いて も,研 究 につ いて 見 て きた の と同様 の こ と 力れ ヽ. え るで あろ う。 どんな仕 事 で も,研 究 で あれ製作 で あれ生産 その他 で あれ ,遊 び と しての 性格 を全 くもた ず ,い やいやなが ら行なわ ざるをえない ときに は,悪 しき意 味 での「 労働 cabOr)」 の語 で よばれ ることが ある。 だがあ る人 に と って 労 働 で ある仕事 が他 の人 に と って もそ うだ とは限 らな い。 肉体 を使 うの を嫌 が る人 もいるが ,い わゆ る「 頭」を使 うの を好 まな い人 もい る。他人 に接す る のを い とう人 がい るか と思 うと,独 りでい る ことを大変寂 しが る人 もい る。 だか らここにい う労働 は職種や地位 には無 関係 な もので あ る。それ は ,そ れ が興味 ある楽 しい仕事 と して行 なわれ る場合 に生 ず るで あろう学習を生 じな いで あろ う。だがそれ は別 の学習 を一一 例 えば働 くことや生 きる こ とにつ い ての悲 観的信念 を一一 生ず るで あろ う。 学習活動 プ ロパ ー は学習を主 目的 とす る学習活動 で あ るが ,そ れ も労働 に 似 た苦 しい ものに堕す る ことがあ るで あろ う。それ は学習 へ の意 欲 はあ るが 学習活動 自体 には興味 がない とい う状態で あろ う。それ は学 習活動 プ ロパ ー と しての機能 を果 た さない。す なわ ちそれ はそれが招 来す べ き学習を もた ら さな いで ,そ の代 わ りに この学 習 へ の劣等感 とか ,学 習活動 プ ロパ ー全般 へ の懐疑 とか ,さ まざまな反 動的学習 を生 ず るで あろ う。 最後 に休養 は心 身を休 め るとい う活動で あ り,い つ で も何 らか の学習を招 来す る。それ の実行 に一 大決断を要す るときもある。 こ うい う場合 にはあ と か ら振 り返 って 自然 の摂 理 の偉大 さ,合 理的思考 へ の信頼 な ど感銘深 い学習.
(13) 牧 野 宇一郎. 375. を した こ とに気 づ くことが多 い。入試前 に休養 す る生 徒 は ,休 養 を 自己の学 習活動 プ ロパ ーの 内に入 れて い るのだ といえよ う。 Ⅳ. 学 習 と教 育 と の 関 係. 学習 と学習活動 との区別や結合 が明 らかにな った ところで ,学 習 と教育 と の 関係 を考 え直 してみたい。教育 は個人 の学習を招来す る作用 ない し過程 だ と考 えて きた。だか ら学習 の あると ころにはど こに もいつ で も教育 があ った とす る こ とがで きた。 私 はまた以前デ ュー イが教 え ることと学習す る こ ととを売買 関係 に讐 えて い る こ とに触 れ ,こ の比 喩 は学習 な しには教授 もない とい う点 を強調す ると ころに意義を も って い るが ,彼 が他 の と ころで教授 な しにで も学習 は生起 す る場合 が あるとのべ てい ることに は合 致 しな い といい ,売 買 関 係 に 比 せ ら るべ きは教授一学習 関係 よ りもむ しろ教育一学習 関係 で あ ると論 じた ことが あ る。確 かに教 育 と学習 とは対応 す るので あ って ,教 育 が あ って学習 がな い とはいえず ,学 習 が あ って教育 がなか った ともいえない。 だがよ く考 えてみ ると教育 と学習 との関係 を売買 関係 になぞ らえ るのに も 少 し無理 があ る。 とい うのは後者 において は売 る人 と買 う人 とが ,ま た売 る 作用 と買 う作用 とが別 々で 区分 で きるが ,前 者 において は教育主体 と学習主 体 た る学習者 とが ,ま た教育作用 と学習作用 た る学習活動 とが 区分 で きな い か らで あ る。 学習者 が教育主体 の一 部 を成 してお り,学 習活動 が教育作用 に属 して い る。 教育す る作用 の一 部 と学習す る作用 の全 部 とを同一人 が担 って い る。私 は こ れを教育構造上 の著 しい特徴 だ と し,学 習者 は唯 一 の教育客体 で あ りなが ら 教育主体 の一 部 を 占 めて い るので特 に「 教育本体 」 とよばれて よいだ ろ うと のべ た ことがあ る。 このよ うに学習者 は他 のいかな る教育 関係者 とも異 な っ て教育構造上 の特異 か つ 中心 の位 置 にある。私 はだか ら学校教育 において子 10) 同書 , pp。 781 11)拙 論「 教育構造 について 」,『 甲南女子大学研究紀要』9昭 和 58年 3月 。.
(14) 3%. 学習と学習活動. ど もが教育 の 中心 に位 置づ け られ るのは ,教 育 の構造上 当然 の ことだ と思 う。 子 ど もを 中心 に 置 くこ とは子 ど もを甘やかす ことだ と感ず る人 があると した ら,そ れ は とんで もない筋 ちがいな こ とで はなか ろ うか。 教育 と学習 との関係を表 わす比 喩 を依然 と して売 る こ とと買 う ことを使 っ て作 るとす るな らば ,次 のよ うに考 え る他 ないで あろ う。す なわ ち学習 は買 う ことに讐 え ,教 育 の方 は売買 になぞ らえ るので ある。なぜ な ら学習 は教 育 の対抗物 で はな くて教育 の不可欠部分 で あ り,教 育 の 中で生起 す るものだか らで あ る。学習者 は教育 の唯 一 の客体 で あ りなが ら同時に教育主体 に属す る か らで ある。そ して この こ とは学習を もた らす本人 の活動 た る学習活動 が教 育 に属 して い るとい う ことで もあ る。 い うまで もな く教 師 と生徒 とは区分 され る。だが教 師 と生徒 との関係 は教 育主体 と学習者 との 関係 で はな く,ま た教育す る者 と学習す る者 との関係 で さえ もない。それ は指導す る者 と学習す る者 との 関係 で あ る。 このよ うな次第 で あるか らまた ,教 育 と学習 とは学習活動 を媒 介 と して不 可離 に結 び つ いて い る ことが確認 され る。 いかな るもの も,そ れが材料な い し題材 で あれ ,作 用 や方法 で あれ ,学 習活動を通 さずに学習 に影 響を及 ぼす 一一 教育的 で ある一一 ことはで きな い。例 えば教授 な しにで も教育 と学習 が あ りう るの は ,教 授 な しに行 なわれ る学習活動 がい くらで もあ るか らで あ る。 学 習 が生 じな けれ ば教授 した といえな い とい う ことは ,学 習活動 に働 きか け な いで は教授 は遂行で きな いのだ とい う こ とを意味 してい る。 学習指導要領 な どに「 特別教育活動」 の語 をよ く見か け るが ,「 教育活動」 とは何 を意味す べ きで あろ うか。 それは多分 ,教 育上有益 な活 動 ,す なわ ち 学習者 の学習 に有益 な 活動 とい う ことで あろ う。そ うだ とすれば教育活動 の 筆頭 に あげ られ るべ きは学習者 の学習活動 で あ る。 とい うよ りも,直 接 には それ しか あ りえな いのであ る。学習活動 に参加 した り影響を与 えた り して い る他 の人 々の活動 が教育活動に数 え入 れ られ るの は,む しろ間接的 にで あ る と考 え られ るべ きで あろ う。指導者 の活動 はだか ら,教 授 のよ うに学 習者 と 直 かに接す る場合 で さえ ,学 習者 の学習活動 に比 べ るな らば ,よ り間接的 な.
(15) 牧 野 宇一郎. 377. 教育活動 だ とい う こ とにな る。指導 は いわば付加的な教育活動で あ って ,教 育活動 の本体 は学習活動 なので あ る。教育 とい う作用 の全 体 の 中 に教育活動 が属 してお り,そ れ の 中核 に学習活動 があ る。逆 にいえば学習者 の学習活動 はそ の学習者 へ の教育作用 の核心 で あ る。.
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