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複言語話者にとってのことばの意味 : 複言語主義的観点から

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複言語話者にとってのことばの意味

―複言語主義的観点から―

小泉聡子

キーワード

複言語・複文化主義,複言語話者,自分のことば,ことばの実用性,情意,アイデンティティ

はじめに

人の空間・言語・文化的移動はめずらしいものではなくなりつつあり,それに伴い個人の多 言語使用も増加している。「日本人=日本語話者」という既成概念が常に成立するとは限らな い状況においては,個人と言語の関係も従来の研究で中心的に議論されてきた言語能力の観点 からは解釈できない側面も多いのではないだろうか。言語が人によって使用されるものである 以上,言語には言語使用者の感情や意識が反映され,それは言語使用に何らかの影響を与えて いると推測されるが,それを言語能力から測り知ることはできない。また,個人の多言語使用 が増加する現代社会において言語は「日本語」のように,国の境界によって既定されるもので あると言い切ることができるだろうか。本稿はこれらの問いを出発点とし,複数言語の使用者 にとっての「ことば」の意味を当事者の語りから多角的に明らかにしようとするものである。

1.研究の方向性と目的

Council of Europe(欧州評議会)は2001年に “Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment”を発表し,この中で「複言語・複文化主義」に ついて説明している。複言語主義は,個人の持つ言語にかかわるあらゆる知識と経験が相互に 作用しあい,新しいコミュニケーション能力が育成されていくとする考えである。複文化主義 は言語が文化の主要な側面であることを前提に,個人が接する多様な文化とそれらに対する知 識や理解が統合されるとする考えである。複言語・複文化主義は,個人の言語と文化の能力の 偏りを前提としており,いくつかの言語と文化の能力が複合的に混成した状態を認める。一方, 福島(2008:30)によると「多言語主義」は社会レベルでの言語の多様性を尊重する考えであり, そこでは「人は民族,国家,言語によって分断され,原則的に2つのグループには属せない」。 複言語主義では,言語使用者がコミュニケーションを円滑に進めるために場面や相手によって 自身の持つ言語と文化にかかわる知識の一部を使用すること,たとえば言語使用の間に言語を 切り替えることや複数の言語を使用して会話をすることも肯定的にとらえる。つまり,複言 語・複文化主義とは,言語能力の伸長や言語の熟達度だけを重視するのではなく,個人が持つ 複数の言語と文化についての経験と知識を言語使用者自身が社会の中でどのように役立てるこ とができるのかという点に重きを置く考え方である。

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本研究では複言語主義的観点から,空間・言語・文化を移動しながら育った「複言語話者」 と彼らの持つ「ことば」に焦点をあてる。言語学的に定義された「言語」や国や民族によって特 定される「言語」ではなく「個人レベルの言語」を意味する「ことば」について,従来の言語教 育研究で中心的に扱われてきた個人の言語能力の実態や伸長ではなく,言語使用者にとっての ことばの意味やことばに対する意識に着目する。複言語話者の語りから彼らがことばとして認 識するものにはどのようなものがあるのかを探り,複言語話者のことばに対する情意や意識を 通し複言語話者にとってことばがどのような意味を持つのかを明らかにすることを目指す。

2.先行研究

八木(2006)は,言語規範から逸脱した言語使用を誤用と見なすことが言語使用者個人の存 在の否定につながる可能性に言及し,「誤用」とよばれる言語使用を言語使用者の感情に結び ついた意図的なものとしてとらえ直している。一般的には誤用とされる言語使用を多言語話者 の意識的な選択として解釈することは,言語を使用する個人のことばのとらえ方を重視するも のであるといえる。鄭(2011)は,中国朝鮮族の日本語学習者と彼らをとりまく3つの言語に ついて考察し,各言語が完全でなくともそれぞれの言語が相互に補完し合い,言語使用者にと ってかけがえのないものとなっていることを記述した。この研究からは,言語と個人の関係が 言語能力や熟達度という側面のみによって判断できるものではないことがわかる。 郭(2006:21–22)は多言語社会・シンガポールの言語状況を概観し,多くの言語バリエーシ ョンの1つに「シングリッシュ(Singlish)」があると述べている。シングリッシュとは「不完全 に習得した英語,またはほかの言語的要素(たとえば,マレー語や華語の方言など)が混じっ た現地化された英語の変種である」。シングリッシュはシンガポールの言語政策においては 「よい英語」の対極に位置付けられているが,それは社会に広く浸透した,人々のアイデンティ ティに根ざすものであるという。同様に,小野原(2004)はフィリピンにおける “Taglish” に言 及している。“Singlish” や “Taglish” は,言語的な正しさという観点においては「正しいもの」 ではないとする立場もあるだろう。しかしながら,それらが「言語」として社会の中で実際に 使用されている事実は,言語使用者にとってそうした言語が何らかの意味を持つことを示して いると考えられる。細川(2010:175)はヨーロッパの多言語状況に関連し,「混成言語」の存在 と言語の境界について述べている。そして複言語主義の観点から,「言語」とは言語学的に定め られているものだけを指すのではなく,突き詰めれば人の数ほどあるとしている。これらの先 行研究は,個人の複数の言語使用が進む社会の中で,個人とことばの関係を言語能力や言語的 な正しさだけによらない観点から,より多角的にとらえ直す必要性を示唆している。

3.調査概要と分析方法

調査は2007年から2008年にかけて行われた。調査協力者は,調査当時,北米の大学に在籍 していた日本になんらかの背景を持つ学生である。本稿では,調査協力者の中からBF2とBF3 の2 名の事例について記述する。調査協力者には事前に調査目的と調査内容を説明し,書面で

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調査協力に同意を得た。以下の表1は,調査協力者の調査当時のプロフィールである。調査協 力者はいずれも幼少時から日本語と英語を日常的に使用しており,調査開始時までに複数の国 や地域に居住経験があった。 表1  調査協力者のプロフィール(調査当時) BF2 BF3 出身 アメリカ合衆国 B州 日本 C県 年齢・性別・職業 20代前半・女・学生 20代前半・女・学生 居住経験 アメリカ・日本 アメリカ・スコットランド日本・イギリス・ 使用言語 英語・日本語・混ぜ語 英語・日本語・Japinglish 調査協力者1名につき,4回のインタビュー調査を行った。インタビューでは大部分で日本 語,一部で英語が使用され,その他に調査協力者が持つ「自分のことば」も使用された。初回 の非構造化インタビューでは,生い立ちや居住経験,家庭環境,学校生活など調査協力者に関 する基本的な情報を得た。その回答をもとに質問事項を用意し,3回の半構造化インタビュー を行った。半構造化インタビューでは,主に移動と越境経験,異文化体験や言語使用と言語生 活について語られた。インタビューはすべてICレコーダーで録音し,分析にはそれを文字化し たデータを用いた。本研究は複言語話者にとってのことばの意味を当事者の語りから明らかに しようとするものであるため,調査協力者の言語能力については詳細を記述しない。しかし, インタビューにおいて調査の内容にかかわるコミュニケーションの問題はなかった。

4.調査協力者の語りと分析

以下にBF2とBF3のインタビューの記述と分析を行う。四角の中はインタビューの引用で, “Q” は筆者の,“A” は調査協力者の発話である。発話の意味を明確にするため筆者が補った部 分は〔 〕で示した。 4.1 BF2 の事例 日本人の両親を持つBF2は,アメリカB州に生まれ育った。BF2の両親は成人後にアメリカ に移住したため,母語は日本語である。BF2は小学校低学年で約半年間日本に滞在し,公立小 学校に在籍した経験がある。また,中学時代に一週間,大学時代に二週間,日本に滞在した。

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4.1.1 BF2 にとっての英語 Q:BF2の中で,日本語と英語は同じくらい? A:いや,英語の方が強いと思う。 Q:BF2にとって,英語とは? A: パーソナルなレベルでは,一番しゃべりやすいことばかな。(中略)英語の方が圧倒的 にvocabularyが広いから。 BF2は日本の小学校に在籍した半年間をのぞき,すべての教育をB州の現地校で英語で受け てきた。移民が多い地域で育ったBF2は,ESLに在籍し英語教育を受けた経験もある。英語の 使用頻度が圧倒的に高いアメリカで学校教育を受けたBF2にとって,英語は学習言語であり, 日常生活で使用する生活言語でもある。BF2は自身にとって最も使いやすいことばとして英語 をあげ,その理由を語彙の豊富さにあるとしている。「英語」ということばをより広い意味でと らえた時,BF2はそこに「Global dynamic,アメリカのimperialistic presence〔帝国主義的態 度〕みたいのを感じる」という。特にアジアでの英語教育の盛り上がりについては「ちょっと 悲しいかも。(中略)世界中英語になっちゃうよ」とコメントをしている。BF2は英語を個人的 には生活から切り離すことのできないことばとしてとらえているが,世界言語としての英語に ついてはそれを第三者的視点からとらえ,英語の持つ影響力の強さやその普及が他言語に及ぼ す影響を懸念する様子がうかがえる。英語はBF2にとって個人レベルと社会レベルの2つの側 面を持つことばであると推測される。 4.1.2 BF2 にとっての日本語 Q:将来的には,自分の子どもには英語と日本語,両方勉強してほしい? A: うん,日本語絶対教えたいと思う。(中略)自分でもすでに日本語おかしいと思うから, 子どもに教えるんだったら難しいかもなーって思うけど(中略)自分では家族の会話 全部日本語だから,自分が家族作って日本語で会話できないのってすごいさみしいな ーって思うし,いろんな意味で日本語の中でのコミュニケーションで,自分でもしっ くりくるようなとこあるし。 Q:日本語話せてよかったなって思う? A: もちろん,もちろん。すごく思う。(中略)しゃべれないの想像できないし。(中略)う ち〔両親〕,普通に英語しゃべれるけど,やっぱ日本語のほうが全然話しやすいじゃな い?しゃべれてよかったなって思う。(中略)あんまり長い間日本語しゃべんないとし ゃべりたくなっちゃう。さみしくなっちゃう。 Q:どうして日本語をずっと使ってきたんだろう?使わなくても生活できるのに。 A: アイデンティティみたいの少しあるかも。日本語しゃべってる時の自分と,英語しゃ べってる時の自分って微妙になんか違う気がするのね。頭の中で考え方とか,周りと のインターアクションとか。(中略)違うというより,自分の中の(中略)日本語だけ じゃなくていろんなことあるんだけど,(中略)いろんな部分があって,全部の中で自 分が自分だっていう気がするから,なんか欠けてると物足りなくなっちゃう。

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BF2は家庭では日本語を使用しながら育ち,日本滞在中に覚えた日本語を忘れないためにB 州で日本の補習授業校(以下,補習校)に通い始めた。BF2にとって日本語には家族とBF2を つなぐ「家族のことば」としての意味がある。自分の日本語が「おかしい」のではないかと感じ つつも日本語を話せてよかったとするBF2の語りには,「家族のことば」として日本語を継承 し維持していきたいという,日本語に対する強い意識が表れている。BF2は両親が日本人であ ることとそれに伴う生活環境から,常に日本人や日本社会との接点を持って生活してきた。日 本語は「日本語がしゃべれないの想像できない」というBF2自身と密接に結びついており,そ れはBF2が日本語と自身のアイデンティティを関連付けて語ることにも示されている。BF2に とって日本語は「家族のことば」であると同時に,日本とBF2自身を結びつけるもの,すなわ ちBF2のアイデンティティにかかわるものでもあると考えられる。日本語に対するBF2の語 りには,日本語に対する愛着や「家族のことば」としての日本語の重要性など,BF2の情意が 色濃く反映されており,そこにBF2にとっての日本語の意味があると考えられる。 4.1.3 BF2 にとっての「混ぜ語」 Q:日本語と英語を混ぜて話すこと,それはどう思う? A:私も育ちながらそれやってたから,普通に。普通だなって思うけど。 Q:ことばの1つ,のようなかんじ? A:うん,と思う。 Q:混ぜて話すのって,BF2にとって楽? A:楽。一番楽。 Q:英語話してる時と日本語話してる時,どれが一番自然? A:うーん,どっちかじゃなきゃだめなのかな。(中略)混ぜてる時,が一番自然かな。 Q:その混ぜて話すことばって,名前がありますか。 A:うん,なんて言ったかな。「混ぜ語」とか。 Q:ことばを混ぜて使うことで,自分のアイデンティティを感じることってある? A: 両方混ぜて,日系人のアイデンティティね。あるかな,あるかも。(中略)日本語学校 〔補習校〕行ってる時はすごく強かったかも。 BF2は英語と日本語を同時に使用することを「混ぜ語」と呼んでいる。BF2によると,混ぜ 語は「フレーズごとに〔英語と日本語を〕変え」る話し方であるが,「混ぜ方も違うんだよね, 人によって」。姉妹や生まれ育った地域の日本人コミュニティの子どもたちと「混ぜ語」を使い ながら育ったBF2はそれを1つのことばととらえており,大学入学後もBF2と同じように英語 と日本語を持って育った友人たちと「混ぜ語」を使用していた。「混ぜ語」はBF2にとって一番 自然に使用できることばであり,BF2の日系人としてのアイデンティティに結びついているこ とばでもある。「混ぜ語」についてのBF2の語りは,複言語話者によって「混ぜ語」が使用され る環境が存在し,「混ぜ語」によるコミュニケーションが成立することを示しており,それは 「英語」や「日本語」が使用される社会の存在に近似しているように思われる。「混ぜ語」の使用 者であるBF2にとっても「混ぜ語」ということばを通して広がる世界があると推測され,そこ

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に「混ぜ語」の意味があるのではないだろうか。 4.2 BF3 の事例 日本人の両親のもとに日本のC県で生まれたBF3は,父親の海外赴任のため2歳半で渡英し た。イギリスでは現地の幼稚園と小学校に通いながら,補習校にも在籍した。約6年半後に帰 国し公立小学校に編入した後,約1年後にインターナショナルスクール(以下,インター)に再 編入した。 4.2.1 BF3 にとっての英語 Q:イギリスにいた時,自分で考えてる時,英語で考えてるかんじだった? A: 〔英語と日本語〕両方。両方で考えてたから,家に帰ってから切り替えなきゃいけない んだけど,それがどうしても〔日本語で〕言えない単語とか増えていって。(中略)私 は通訳で,いろんな所連れて行ってもらった。緊張するし,こわいからやりたくない けど仕方ない。(中略)しなかったら,家族みんなが困る。それがすごい多かった。 Q:BF3にとって,英語とは?

A: 英語は,it’s something I got from the society.家よりもっと大きい社会からもらった もの。

Q:今,〔大学で〕英語で勉強してるじゃない?それは全然問題ないんでしょ?

A: うん。今となってはEnglish dominant.(中略)だけどインターナショナル〔スクール〕 にかわった時は,English classが無理だった。 Q:英語をがんばらなくちゃって思った一番の理由は? A: インターにかわった時だから,1年の〔英語の〕ブランクがあったの。(中略)すごい忘 れてて。(中略)インターがだめだったら日本の学校に戻れないっていう意味だったか ら,自分のサバイバルのため。 イギリス滞在中,BF3は現地の幼稚園で英語を覚えていったが,滞在が長引き,現地の小学 校に入学した。幼稚園から小学校中学年までの学校生活を英語を使って過ごした BF3 にとっ て,英語は学習言語の基礎であると考えられる。英語が学校や日常生活の中心であったことか ら,BF3は英語を「社会からもらった」ことばと位置付けている。しかし,日本のインターで の英語の授業は,求められる言語能力や学習内容などにより,BF3にとって容易なものではな かったという。BF3は英語をごく自然に身近にあったものとして語っているが,一方で,自分 の意志にかかわらず家庭内で通訳者にならざるを得なかったことやインターでの教科としての 英語の難しさなどから,自身の持つ英語ということばを非常に客観的にとらえている。BF3に とって英語は,主に学習や英語圏での生活においてその実用性が大きな意味を持つものである と考えられる。

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4.2.2 BF3 にとっての日本語 Q: 今まで,日本語を使ってきて,それって使おうと思って使ってきた?使わなくちゃい けない時があった? A: たぶん必要性からだと思う。あんまり使いたいからとか,たぶんそういう願望があっ たらもうちょっとちゃんと勉強してたと思う。(中略)必要性だけだから,家族とは別 にしゃべれたらそれですむから,それ以上あんまりしなかった。 Q:BF3にとって日本語とは?

A:日本語は家族からもらったもの。And it’s like my links to them.

Q:2歳半くらいでイギリスに行って,ひらがなとか,お母さんと一緒に勉強したの? A:うん。(中略)でも大きくなるにつれてだんだん苦痛になっていった。 Q:どのへんが? A: 私が覚えてる日本の小学校は,友人関係がうまくいかなくて誤解されることが多かっ た。それと自分が思ってること,言葉,語彙が少ないから言えなくて,自分の知って る単語ならべてると違うことが伝わっちゃう。 BF3は渡英後,家庭で母親と日本語を勉強し,補習校でも日本語と日本語を介しての教科学 習を始めた。イギリス滞在中,家庭で,特に母親とのコミュニケーションは日本語が中心であ ったが,学校で過ごす時間が長くなると英語への接触が多くなっていった。BF3にとって日本 語は「家族からもらったもの」であり家族との意思疎通に必要なものであるが,反対に家族の ために日本語ではなく英語を使用しなければならなかったことや日本での学校生活など,ある 種のつらい経験をもたらしたものでもある。これがBF3が日本語を「必要性」と強く関連付け て語った理由であると推測される。BF3にとって日本語は家族との関係を維持するために家庭 で使用されることばであるが,それがBF3の感情と強く結びついているとは言い難い。このこ とからBF3にとっての日本語は,家族とのコミュニケーションにおいて実用性を持つことばで あると考えられる。

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4.2.3 BF3 にとっての Japinglish

Q: 英語と日本語をしゃべって,周りの人から「バイリンガルだね」って言われたことあ る?

A: あー,うん。(中略)Japinglish っていうことばがあったら,I’m fluent in Japinglish っ て絶対自信持って言える。 Q:Japinglishも1つのことばだと思う? A:うん。全然思う。(中略)当たり前というか,普通というか,一番楽というか。 Q:英語,日本語,Japinglishを話している時,全部同じだと感じる? A: Japinglishの時,一番自然体だと思う。(中略)何も考えないでいい。すっと出てくる し。 Q:Japinglishを話すっていうことは,BF3にとってどういうことだろう?

A: Japinglishを話すっていうことは,in badly,自分のすごい中途半端なことがapparent なことだと思う。日本語も英語も中途半端。それは別に悪いことではないっていうこ とを,受け入れるために必要だったことば。

Q:BF3にとって,Japinglishとは?

A: Japinglishとは,it is me. Japinglish is me and I am Japinglish. It really… それがなくて はI won’t be me. It’s the only way I really know how to really tell people how I feel. BF3は英語と日本語以外に,Japinglishということばを持っている。それは英語と日本語を 使用する子どもたちが集まる補習校やインターで使われていたという。Japinglishは英語と日 本語を同時に使用する「混ぜ語」に似たことばである。BF3は英語と日本語についてその実用 性や必要性を語ったが,JapinglishはことばそのものがBF3自身であると述べており,そこに はJapinglishに対する強い意識があるように思われる。BF3がJapinglishに絶対的な自信を持 ち,Japinglishを自身にとって必要不可欠なことばと位置付けていることからも,Japinglishが BF3の「日本語も英語も中途半端」な状態を受け入れ,自分自身をありのままに表現するため に必要なことばであることがわかる。JapinglishはBF3にとって英語にも日本語にもかえがた い,非常に重要な意味を持つことばであるといえるのではないだろうか。

5.複言語話者にとってのことばの意味

調査協力者2名の語りからは,複言語話者が「ことば」として認識するものとそれらが持つ 意味が明らかになった。BF2,BF3ともに英語と日本語を自らの持つことばとして認識してお り,加えて「混ぜ語」,“Japinglish” という独自のことばを持っている。 ことばの意味として第一に挙げられるのは実用性である。BF2とBF3はともに英語で教育を 受けており,学習言語としての英語の実用性は極めて高い。学術能力を最大限に発揮し,知的 好奇心を満たすために英語は極めて重要なことばである。BF2,BF3への追跡調査からは,と もに大学を卒業後,北米で就業していることが判明しており,それもまた英語の実用性の高さ を裏付けるものである。またBF2,BF3にとっては日本語も家族とのコミュニケーションとい

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う点で実用性の高いことばであると考えられる。 第二にことばの持つ情意的な意味が挙げられる。BF2にとって日本語は家族と深く結びつい ていることばである。日本語の使用機会が限られた北米に居住し,自身の日本語能力に多少の 不安を持っているにもかかわらず,BF2は家族や日本人コミュニティによって共有される日本 語に対して強い思い入れと愛着を持っている。BF3にとっての英語にもある種の情意的な意味 があると考えられる。BF3の英語にまつわる経験は決して楽しいだけのものではない。このこ とによりBF3は英語ということばをより客観視するようになり,英語に対する一種の心的距離 を持つようになったのではないだろうか。尾関他(2011)は,日本国外で成長した若者の日本 語のとらえ方を探り,ある言語の使用経験を言語使用者自身がどのように解釈するかが言語に 対する意識に影響を与えるとしている。そして言語の使用経験を肯定的なものとして意味付け るためには,インターアクションの中で自らの言語使用を受け入れてもらう経験をすることが 重要であると述べている。BF2は家庭や地域社会での日本語の使用を通し日本語に対する肯定 的な意識を培ったと考えられる。一方でBF3には,様々な場面で必要に迫られて英語を使用し たという意識が垣間見られ,それが英語に対する意識に影響を及ぼしているのではないだろう か。小泉(2010)は,成人バイリンガルの言語の選択・使用・維持には,言語に対する情意や 意識が言語能力や熟達度以上に大きく影響すると述べており,それは本研究の事例にも通じる ものであるといえる。 そして第三に,BF2の日本語と混ぜ語,BF3のJapinglishには,アイデンティティの拠り所 としての意味があると考えられる。BF2は日本語と混ぜ語に関連して自身のアイデンティティ に言及している。日本語ということばが,その能力によらず自分にとって必要不可欠なもので あるというBF2のコメントは,日本語がBF2のアイデンティティと深く結びついていること を直接的に示すものである。同様に混ぜ語は,BF2に日系人としてのアイデンティティを強く 感じさせるものであり,アイデンティティの拠り所となる「自分のことば」であるといえる。 「自分のことば」である混ぜ語には英語も日本語も欠くことができないように,BF2もアメリカ と日本という2つの背景を持ち,混ぜ語を使用しながら「日系人」としてのアイデンティティ を形成していったのではないだろうか。Japinglish とは自分自身であるという BF3 は, Japinglishに対して絶対的な自信を持っており,BF3にとってそれは「自分のことば」として極 めて重要な意味を持つ。英語と日本語ということばを持ったことでBF3はそれらにまつわる多 様な経験をしたが,Japinglishということばはそうした経験の多角的な解釈を可能にし,自ら を「英語」・「日本語」という言語の境界の外側に位置付けるために必要なものであると考えら れる。八島(2004:102)は,アメリカの日系人が会話の中で日本語と英語を混ぜて使用する現 象を言語学的観点から「二重のアイデンティティーの表象として」の「象徴的コードスイッチ ング」と説明している。本稿は混ぜ語やJapinglishを1つのことばとする立場をとるが,インタ ビューのデータからはそれらが「二重のアイデンティティーの表象」であることが明らかであ る。中島(2010:22)は,人の移動が激化する現代社会では一文化・一集団に個人の拠り所を求 めることは不可能であり,「複言語時代によりマッチした生き方をするバイリンガル・トライ

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リンガルが増える時代である」と述べている。BF2,BF3は複数のことばを持つことで一言語 に依拠することのない,しなやかで柔軟なアイデンティティを形成したと考えられる。このこ とから複言語話者にとってのことばが複言語話者のアイデンティティの根拠としての意味を持 ち,個人のアイデンティティ形成に大きく寄与していることが示唆された。

おわりに

本研究では,複言語話者が英語や日本語の他に,混ぜ語やJapinglishという独自のことばを 持っていることが明らかになった。そして,複言語話者にとってのことばには,実用性・情 意・アイデンティティという3つの意味があり,それらが複言語話者とことばの関係において 重要なものであることが示された。複言語話者の「自分のことば」とは,自身を最も適切に表 現できるものであり,複数の言語・文化間を柔軟に移動できる存在としての象徴でもある。「自 分のことば」は,自身の持つ複数の言語とその背景にある文化,そしてそれらにまつわる様々 な経験を解釈した上に存在することばであり,それは複言語話者のアイデンティティそのもの である。八島(2004)は,個人の社会的立場やライフヒストリー,アイデンティティを考慮せ ずに個人にとっての言語学習の意味を探ることはできないと述べている。同様に,複言語話者 にとってのことばの意味は,複言語話者のことばに対する情意や意識に着目することで解釈が 可能になるものであり,また,ことばと人間を新たな観点からより多角的にとらえることの重 要性を示すものであると考える。 本稿では,複言語主義の観点から複言語話者とことばの関係を考察し,複言語話者にとって のことばの意味および「自分のことば」の意義が明確になった。しかし,人の空間・言語・文 化間の移動が流動的な現代社会においては複言語話者にとってのことばの意味や「自分のこと ば」も刻々と変化し続けているものと思われる。今後もより多くの調査を行い,複言語話者と ことばの関係性を追求していく必要がある。

謝辞

本研究は調査協力者の協力なしには実現しませんでした。快く調査に応じてくださり,率直 に語ってくださったことに,深く感謝いたします。

引用文献

尾関史・深澤伸子・牛窪隆太(2011)「日本国外で成長する子どもたちにとっての日本語使用経験の意 味―子どもたちはどのように日本語と向き合ってきたのか」『WEB版リテラシーズ』9,11 –20. くろしお出版. 小野原信善(2004)「アイデンティティ試論―フィリピンの言語意識調査から」小野原信善・大原始子 (編)『ことばとアイデンティティ―ことばの選択と使用を通して見る現代人の自分探し』(pp. 15–51)三元社. 郭俊海(2006)「第1章 教育システム―英語と華語教育を中心に」奥村みさ・郭俊海・江田優子ペギー (編)『多民族社会の言語政治学―英語をモノにしたシンガポール人のゆらぐアイデンティティ』 (pp. 9–32)ひつじ書房.

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小泉聡子(2010)「日英バイリンガルの言語と情意に関する一考察―複言語主義的観点から―」『桜美林 言語教育論叢』6,17–27.桜美林大学言語教育研究所. 鄭京姫(2011)「言語の境界を生きる―「母語」「母国語」「外国語」をめぐる言語意識から」『WEB版リ テラシーズ』9,31–40.くろしお出版. 中島和子(2010)『マルチリンガル教育への招待―言語資源としての外国人・日本人年少者』ひつじ書 房. 福島青史(2008)「日本の多言語状況と『複言語主義』―来日ウズベキスタン人の多言語能力と使用領域 調査から―」『早稲田大学日本語教育学』2,29–44.早稲田大学大学院日本語教育研究科・早稲 田大学日本語教育研究センター 細川英雄(2010)「相互文化性の研究指標を求めて―あとがきにかえて」細川英雄・西山教行(編)『複 言語・複文化主義とは何か―ヨーロッパの理念・状況から日本における受容・文脈化へ』(pp. 173–177)くろしお出版. 八木真奈美(2006)「多言語使用と感情という視点からみる,ある「誤用」―定住外国人のエスノグラフ ィーから」『WEB版リテラシーズ』3 (2),1–9.くろしお出版. 八島智子(2004)『外国語コミュニケーションの情意と動機―研究と教育の視点』関西大学出版部.

参照

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