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ヴェネツィア共和国の外国人貴族 : 傭兵隊長の事例より(松永俊男教授退任記念号)

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はじめに ヴェネツィア共和国の貴族階級は、閉鎖的なカーストであったと言われる。 それは、貴族身分が特定の家門の世襲特権とされ、他の家系や個人が新たに 貴族階級に加わることが原則として認められていなかったからである。 ヴェネツィア貴族階級の「閉鎖」は、1300年前後に行われた一連の法的措 置によって起こったと考えられている。すなわち、過去4年間に大評議会 (Maggiore Consiglio)の議員であった者とその男系子孫のみに同議会の終身 議員資格を与えるとした1297年の法令と、その後1323年までに数回出された 修正・補足法令―これらは、まさしく「閉鎖」を意味する「セッラータ(Ser-rata)」の語で総称される―のことである。それとほぼ時を同じくして、大評 議会がヴェネツィア共和国の最高議決機関となり、大評議会議員であること と貴族であることが同義とみなされるようになった。ドージェ(Doge、ヴェ ネツィア共和国元首)をはじめとする国家官職はすべて大評議会議員の中か ら選ばれたため、貴族でなければ国政に参加することはできなかった。こう して、貴族を排他的な支配階級とするヴェネツィア独特の貴族共和制ができ あがったのである(1)。大評議会のセッラータは、政府への財政援助と引き換 えに貴族の地位を与えるようになった17世紀中期まで(2) 、300年以上続いた。 とはいえ、この300年以上の間、ヴェネツィアの貴族階級は完全に閉ざされ ていたわけではなかった。1381年には、宿敵ジェノヴァとの戦争で祖国に貢 献した30家が新たに貴族階級に加えられる。もっとも、これは言わば特例で

傭兵隊長の事例より

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あり、単発的な措置であった(3)。ここで問題としたいのは、より継続的かつ 大量に行われた新貴族の承認である。政府は、市民階級や庶民階級に属する 人々が社会的上昇を遂げて貴族になることを拒んだが、外国人をヴェネツィ ア貴族にすることにやぶさかではなかった(4) ヴェネツィアの支配権がイタリア半島に急速に広まった15世紀を中心に(5) 新たにヴェネツィア領となった―あるいは、なろうとしていた―地域の有力 者やヴェネツィア軍に加わった武将にヴェネツィア貴族の地位が与えられる 場合があったことは、よく知られている。特に有名なのは、大評議会の議席 と大運河沿いの邸宅をヴェネツィア政府から授与される栄誉に浴したのち、 スパイ容疑で処刑された傭兵隊長フランチェスコ・ブッソーネ、通称カルマ ニョーラの例であろう(6)。しかし、それらの例は断片的な情報にとどまって おり、全体としてどれほどの規模で、またどのような経緯で、外国人への貴 族叙任が行われたのか、具体的な研究は、まだ行われていない。むしろ、1381 年の場合のように、外国人への貴族位授与もまた、特例的、単発的なものだ ったとして軽視する傾向があるとさえ思われる。 だが、後述するように、外国人への貴族位授与は決して特例的なものでは なく、実はきわめて頻繁に行われていたのである。この事実は、何よりもま ず、セッラータ体制そのものに疑問を投げかける。これほどまでに「開かれ た」セッラータ=閉鎖とは、いったい何であったのか。とはいえ、ホイナッ キが主張するように、セッラータ体制のもとで、ある種の「閉鎖」が起こっ たことは否めない。すなわち、貴族階級の自己差異化が進行し、市民や庶民 とは本質的に異なる「高貴な」存在として、貴族の血統が重んじられるよう になったのである(7)。このことにかんがみれば、ヴェネツィア貴族の地位を 与えられた外国人が、もともと本土の貴族や、貴族に準ずる人々(領主など) であったことは、ヴェネツィア貴族階級の自意識形成とかかわる問題である とも言えよう。さらに、本土貴族や傭兵隊長への貴族位授与がヴェネツィア の本土支配の過程において枢要な役割を果たしたことは、火を見るよりも明 らかである。 −198−

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このように、外国人への貴族位授与の実態解明と分析は、ヴェネツィア史 研究に残された大きな課題のひとつである。本稿では、その手始めとして、 際立って件数の多い傭兵隊長のケースを中心に、外国人への貴族位授与が行 われた状況を概観し、いくつかの事例について考察を加えたい。なお、次の 2点を明記しておく。第一に、本稿における「外国人」とは、原則として、 ヴェネツィア共和国の住民でない人々をさすが、15世紀以降ヴェネツィア領 となった、あるいは一時的にヴェネツィアの支配下に置かれた地域の人々も 含まれる。第二に、本稿はヴェネツィア貴族の定義が定まっていないセッラ ータ以前の時代を論考の対象外とし、1300年以降に限定して論じるものとす る。 1.ヴェネツィアのテッラフェルマ支配と傭兵隊長 ヴェネツィア市の中心部に位置するサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・ フラーリ聖堂は、優美なゴシック建築である。ティツィアーノやベッリーニ の祭壇画で知られるこの聖堂はまた、海軍大将ヤコポ・マルチェッロやベネ デット・ペーザロをはじめとする英雄たちが眠るパンテオンでもある。聖堂 内部を飾る彼らの墓碑モニュメントからは、海洋帝国であった在りし日のヴ ェネツィアがしのばれる。そのなかで異彩を放つのは、聖具室入り口近くの 壁に掲げられた傭兵隊長パオロ・サヴェッリの騎馬像である。ヴェネツィア 名門貴族の家柄に属していた他の英雄たちとはちがい、彼のみはローマ貴族 の出身だった。しかし、1404−05年にヴェネツィア陸軍総大将を務めた彼に は、世襲のヴェネツィア貴族位が与えられていた(8) 傭兵隊長とは、私的な軍団を率い、契約によって戦争を請け負う「戦争の プロ」である。14世紀から16世紀前半にかけて、イタリア半島は戦国の世で あった。群小コムーネ(9) の生存競争を勝ち抜いてきた有力コムーネ間の利害 衝突、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の支配権の問題、ナポリ王位の継承問題 などが複雑に絡み合い、至るところで戦闘が絶えなかった。だが、この頃は すでに、市民が自ら武器を手にコムーネを防衛する時代ではなくなっていた。 −199−

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頻発化し広域化した戦争は、もはや素人集団の手に負える代物ではなかった のである。いっぽう、徴兵制にもとづく常備軍の出現は、はるか後世を待た なければならない。戦争をするとしたら、傭兵に頼らねばならなかった。そ れが当時の現実である。傭兵が活躍する舞台の幕は次から次へと開かれ、数々 の名将の名が―一例を挙げようとするだけでもきりがないほどに―この時代 のイタリア史を彩っている(10) ただ、「レヴァンテ(東地中海)の女王)」と呼ばれ、アドリア海からエー ゲ海にかけて強大な海洋商業帝国をつくりあげたヴェネツィア共和国は、海 戦を傭兵に任せることはしなかった。もちろん、戦闘や上陸作戦のためには 傭兵隊を乗船させたのだが、海軍の指揮官や軍艦の船長はヴェネツィア貴族 のなかから選ばれた。もっともそれは、戦場となる東地中海の地形や海流に 誰よりも精通しているのがヴェネツィア人だという、現実的な理由にもとづ いていたのであろう。したがって、誇り高い海の男たちも、不慣れな陸上の 戦争ではしばしば傭兵に依存した(11) 中世初期に蛮族の攻撃を逃れて潟に定住したヴェネツィアの人々は、塩と 魚以外に資源もなく農業にも適さない環境の中で、水運に活路を見いだし、 やがてアジアとの交易で巨万の富を手にするようになった。最盛期にはヨー ロッパ随一とも目されたヴェネツィアの繁栄は、海へ、東へと進出すること によって達成されたのである。とはいえ、西の陸地、すなわちイタリア本土 ―「固い土地」を意味するテッラフェルマTerrafermaと呼ばれた―は、ヴェ ネツィアにとって常に重要な意味を持っていた。第一に、国際商業港ヴェネ ツィアと内陸ヨーロッパを結ぶ通商路として。また、大都市ヴェネツィアに 食糧と工業原料を供給する後背地として。さらに、ヴェネツィアを取り囲む 潟という特殊な環境に影響を及ぼす河川の流域として(12)。しかし、ヴェネツ ィアのおもな関心は長い間、富の源泉である東に向かいがちであった。 その方針に転換をもたらしたものは、上述したような、イタリア半島にお ける勢力争いの激化である。なかでも、コムーネの全権を掌握して領主(シ ニョーレ)となった有力家系は、超コムーネ的な領域支配を確立しつつあり、 −200−

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そのために熾烈な競争を繰り広げていた。領域化はフィレンツェなど共和制 を維持していたコムーネでも起こっており、全般的な傾向となりつつあった。 このような半島情勢に対して、ヴェネツィアも無関心でいることはできなか った。好むと好まざるとにかかわらず、ヴェネツィアがイタリアの戦乱の渦 中に巻き込まれていくのは、必然のなりゆきであった。 ヴェネツィアに近い沿岸部の一部は古くからヴェネツィアの影響下におか れていたが、領土と呼べるものをヴェネツィアがテッラフェルマに最初に獲 得するのは、14世紀前半のことである。あからさまな拡大政策をとるヴェロ ーナのスカラ家は、ヴィチェンツァ、パドヴァ、トレヴィーゾ、フェルトレ、 バッサノ、さらにはブレシャ、パルマなど、イタリア半島北東部のコムーネ を次々と支配下におさめ、ヴェネツィアと目と鼻の先のキオッジャにも迫り くる勢いだった。1336−39年、ヴェネツィアはフィレンツェやミラノと結ん でこれを制し、和平条約によってトレヴィーゾとその周辺領域を割譲された(13) スカラ家との戦いでヴェネツィア軍の総大将(Capitano Generale)を務め たのは、傭兵隊長ピエトロ・デイ・ロッシである。ロッシ家は、パルマおよ びルッカやフィデンツァなど、複数のコムーネの領主であったが、スカラ家 によってパルマを追われていた。はじめフィレンツェ軍を指揮していた彼は、 1336年10月、その職を弟ロランドに譲り、兄マルシリオと共にヴェネツィア へ赴き、ドージェから軍旗を授かった。このとき、ピエトロとマルシリオは ヴェネツィア貴族階級に迎え入れられたが、傭兵隊長にヴェネツィア貴族位 が与えられたのは、現時点で論者が知りうる限り、これが最初の例である。 パドヴァをスカラ家の手から開放した彼は、その後、敵の伏兵に襲われて死 亡した。ヴェネツィア政府は、サン・マルコ大聖堂で彼の葬儀を行った。ま もなくマルシリオも熱病で亡くなったため、ヴェネツィア軍の指揮はロラン ドに託された。スカラ家に私怨を抱く彼は、末弟アンドレアとともにヴェネ ツィアを勝利に導き、パルマの領主権を回復することにも成功した。ただし、 ロランドとアンドレアにもヴェネツィア貴族位が与えられたどうか、また、 これら4人のロッシ兄弟が子孫を残したかどうか、確認はできていない。い −201−

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っぽう、敗れたスカラ家は、ヴェローナ以外のすべての領地を失った(14) だが実際のところ、この時期のヴェネツィアを悩ませていたのは、スカラ 家よりもむしろ、東方における問題であった。すなわち、植民地クレタ島の 反乱、ダルマツィアやフリウリをめぐるハンガリー王との対立、そしてなに より、長年のライヴァルであるジェノヴァとの海上覇権をめぐる争いなどで ある。第四回十字軍(1204年)の際にヴェネツィア領となったクレタ島では、 ヴェネツィア支配に対する住民の抵抗が繰り返されていた。大きな反乱のう ち最後のものは、1363年に起こった「聖テトスの乱」である(15)。ヴェネツィ ア政府は、この反乱鎮圧のため貴族ドメニコ・ミキエルを海軍総大将に任命 すると同時に、ヴェローナ出身の傭兵隊長ルキノ・ダル・ヴェルメにも協力 を要請した。彼の父ピエトロは、30年前の対ヴェローナ戦におけるヴェネツ ィアの敵将のひとりであったが、傭兵の世界では、そのようなことは問題で はなかった。実際、1364年4月にクレタ遠征の総大将に任命されたルキノは、 見事に任務を遂行した。ヴェネツィアでは、同年8月に凱旋した彼のために 盛大な祝賀が行われ、彼には褒美としてヴェネツィア貴族の地位と1,000ドゥ カートの年金が与えられた。彼の息子ヤコポものちにヴェネツィア貴族とな ったが(1388年)、それは彼自身の軍功によるものであった(16)。よって、ルキ ノに与えられた地位は一代限りの名誉的なものであったと考えられる。実際、 彼はその後古巣のミラノに戻り、1372年に没すると、故郷のヴェローナに埋 葬された(17) テッラフェルマでスカラ家の力が弱められたあと、これに代わって急速に 勢力を伸ばしたのはパドヴァのカッラーラ家である。スカラ家に圧迫されて いたときにはヴェネツィアの助けを借りたカッラーラ家であったが、ヴェネ ツィアとパドヴァの地理的な近さは、両者の対立を招かずにはいなかった。 1350年に領主の座に就いたフランチェスコ1世は、ペトラルカのパトロンと しても有名であるが、たいへんな野心家でもあった。彼は、反ヴェネツィア の立場を同じくするハンガリーとたびたび組んでヴェネツィアと争った。1372 年、カッラーラがヴェネツィア領となっていたトレヴィーゾに侵攻したのを −202−

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きっかけに始まった両陣営の衝突は、翌年5月、ロヴァにおいて、パドヴァ・ ハンガリー連合軍1万3千兵、対するヴェネツィア軍4,000兵という、当時と しては大規模な戦闘に発展した(18)。このときのヴェネツィア軍総大将は、傭 兵隊長ジベルト・ダ・コッレージョであったが、彼には、出陣に先立ってヴ ェネツィア貴族位が与えられていた(19)。ヴェネツィア勢は5月には1,0人近 い死者を出して劣勢に立ったが、ようやく7月に勝利を得た。ジベルト・ダ・ コッレージョは途中でペストに倒れ、彼の下で戦っていた別の傭兵隊長フラ ンチェスコ・オルデラッフィが総大将の任務を引き継いだ。オルデラッフィ にはヴェネツィア貴族の地位は与えられなかったが、戦争後、同じくペスト で亡くなった彼のためにヴェネツィアで荘厳な葬儀が行われた(20) 1378年、ヴェネツィアとジェノヴァの間に戦争が生じると、パドヴァとハ ンガリーはジェノヴァと結び、西と東の両側からヴェネツィアを苦しめた。 翌年夏、キオッジャを敵に占領され、潟の中に封鎖されたヴェネツィアは、 絶体絶命の危機に陥ったが、激戦の末、ジェノヴァ軍を撃退した。決戦地の 名をとってキオッジャ戦争と呼ばれるこの戦いでも、ヴェネツィア軍の中に は傭兵がいたが、基本的に海戦であったため、指揮官はヴェネツィア貴族で 固められた。1381年にトリノで結ばれた講和条約は、辛うじて勝者となった ヴェネツィアにとって必ずしも有利なものではなく、とりわけ、パドヴァと ハンガリーに関して禍根を残すこととなった(21) パドヴァの向こうでは、ミラノのヴィスコンティ家が着実に勢力圏を広げ つつあった。1385年に叔父ベルナボを追放して単独領主となったジャンガレ アッツォは、1387年にヴェローナとヴィチェンツァをスカラ家から奪うと、 次の照準をパドヴァに定めた。ヴェネツィアはこれを支援し、カッラーラ家 はパドヴァから追われることとなった(22)。15年には神聖ローマ皇帝ヴェン ツェル4世より正式なミラノ公とパヴィア伯の称号を授かり、トスカーナに 南下してピサとシエナを征服し、教皇領でもペルージャとボローニャを支配 下に置いて、飛ぶ鳥を落とす勢いのジャンガレアッツォであったが、さしも の彼も1402年にこの世を去る(23)。これが、ヴェネツィアにとって最大の契機 −203−

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となった。 ジャンガレアッツォの死によってヴィスコンティの脅威が弱まると、フラ ンチェスコ1世の息子フランチェスコ・ノヴェッロ・ダ・カッラーラは反撃 に出る。パドヴァに返り咲いた彼は、1404年にヴェローナを占領し、ヴィチ ェンツァを圧迫した。危機にさらされたヴィチェンツァの人々はヴェネツィ アに助けを求め、自らヴェネツィアの支配下に入ることを望んだ。また、ジ ャンガレアッツォ・ヴィスコンティの寡婦カテリーナは、フェルトレ、ベッ ルーノ、バッサノ、チヴィダーレをヴェネツィアに委ねて保護を求め、ヴィ スコンティ勢の名将ヤコポ・ダル・ヴェルメが協力を申し出た。先述のルキ ノ、すなわち、クレタ島の反乱鎮圧に貢献したルキノ・ダル・ヴェルメの息 子であった彼は、ヴェローナ貴族としてカッラーラに私怨を抱いていたし、 すでに1388年にヴェネツィア貴族に登録されてもいた。さらに、東への進出 を図るマントヴァ領主フランチェスコ・ゴンザーガも参戦を申し出た。ここ に、カッラーラ撲滅の機は熟したのである(24) 1404年4月、ペーザロ領主マラテスタ・マラテスタがヴェネツィア軍総大 将に任命された。彼は1401年にヴェネツィア貴族となっていたが、その経緯 は不明である(25)。しかし開戦から間もなく、マラテスタはマラリアにかかっ て戦線を離脱する。その後任者が、本章冒頭で触れたパオロ・サヴェッリで あった。1405年6月、ヴェローナを陥落させたヴェネツィア軍は、翌月には 敵の本拠地パドヴァを包囲するが、10月にはサヴェッリもまた病に倒れる。 パドヴァが降伏したのは、彼の死からわずか1ヵ月後のことであった。敗れ たフランチェスコ・ノヴェッロ・ダ・カッラーラは、息子ヤコポおよびフラ ンチェスコともどもヴェネツィアに捕らえられ、年が明けると絞首刑に処さ れた。こうして、わずか1年半ほどの間に、ヴェネツィアはヴェネト地方の ほぼすべてを手に入れた。カッラーラに味方していたフェッラーラ侯ニッコ ロ・デステが1405年春にヴェネツィアに講和を申し入れた際に差し出したポ レジネ地方も含めて、ヴェネツィアのテッラフェルマ領は、南はポー川、西 はミンチョ川に至るまでになったのである(26) −204−

(9)

カッラーラの次はハンガリーである。ハンガリー王ジギスムント(1410年 より神聖ローマ皇帝)は、フリウリやトレヴィーゾ地方への侵攻を繰り返し ていた。1411年、フィレンツェ出身の傭兵隊長フィリッポ・スコラーリ、通 称ピッポ・スパーノに率いられたハンガリー軍が電撃的にフリウリ東部を占 領すると、ヴェネツィアとハンガリーの正面衝突はもはや避けられないもの となった。ヴェネツィアはリミニ領主カルロ・マラテスタを総大将に任じ、 翌1412年8月、リヴェンツェ河畔のモッタでスコラーリを迎え撃った。負傷 した兄に代わって総大将となったパンドルフォ・マラテスタは、次々と敵軍 を打ち破ってヴェネツィアを勝利に導き、1413年4月にヴェネツィア貴族に 登録された(27)。もっとも、ハンガリーはパドヴァのような小国ではなく、こ のときの戦勝も、脅威を一時的に退けたにすぎない。ハンガリーとヴェネツ ィアの対立は半永久的なものであり、1419−20年にも両者は衝突した。ピア チェンツァ領主フィリッポ・アラチェッリとその義父タッデオ・デステを雇 ったヴェネツィアは再び勝利し、領土をフリウリとイストリアにまで拡大し た(28)。ただ、これら2名の傭兵隊長にヴェネツィア貴族位が与えられたかど うかは定かでない。 続く1420年代、ヴェネツィアはテッラフェルマの最大勢力ミラノと争い、 ベルガモとブレシャを獲得する。ヴェネツィア内部には、「海の共和国」が 「陸の共和国」となることに反対する声も大きかったが、もはや後戻りはでき なかった。東はフリウリから西はロンバルディーア東部にまで及ぶ広大な地 域が安定的なヴェネツィア領となる16世紀なかばまで、ヴェネツィアはテッ ラフェルマでの戦争に明け暮れたと言っても過言ではない。また、東地中海 の領土をめぐるトルコとの激しい戦争もたびたび起こった。そのなかで、さ らに多くの傭兵隊長がヴェネツィアに雇われ、貴族に叙される者も続出した。 しかし、それらすべての経緯を本稿で追うことは不可能である。ここではた だ、ルネサンス彫刻の傑作とされるガッタメラータ将軍騎馬像(ドナテッロ 作、1453年)とコッレオーニ将軍騎馬像(ヴェッロッキオ作、1481−88年) が、ともにヴェネツィア軍総大将を務めて貴族に叙された傭兵隊長を称える −205−

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モニュメントであることを述べるに留め、次章に移ることとする。 2.傭兵隊長の貴族位 前章では、テッラフェルマ支配初期の状況をふまえつつ、傭兵隊長の貴族 叙任の例を挙げたが、これらの例からは、傭兵隊長にヴェネツィア貴族位を 与える際の定式は導き出せない。ピエトロ・デイ・ロッシ、パオロ・サヴェ ッリ、ジベルト・ダ・コッレージョらは、ヴェネツィア軍総大将に任命され ると同時に貴族に叙されたが、ルキノ・ダル・ヴェルメやパンドルフォ・マ ラテスタが叙されるのは手柄を立てた後である。総大将職が必ずしもヴェネ ツィア貴族の地位を伴うわけではなかったいっぽうで、総大将にならずとも ヴェネツィア貴族になった傭兵隊長もいる。たとえば、コティニョーラ出身 のピエルアントニオ・バッタリアは、1499年にスフォルツァ家の名代として 守っていたクレモナをヴェネツィア軍に包囲されたが、ヴェネツィアの保護 を受けることを条件にクレモナを明け渡し、弟ルドヴィーコとともにヴェネ ツィア貴族となった(29)。また、ヤコポ・ダル・ヴェルメが18年にヴェネツ ィア貴族に登録されたとき、彼はヴェネツィアではなく、同盟国ミラノの総 大将としてパドヴァと戦い、功績を挙げたのであった(30)。さらに、マラテス タ・マラタスタのように、ヴェネツィア貴族になったいきさつが特定できな いケースもある。 プロパーなヴェネツィア貴族が世襲の身分であったことを考えると、外国 人に授与された貴族位が世襲であったかどうかは、重要な問題である。だが これも、ケース・バイ・ケースであったようだ。前章でも述べたように、ル キノ・ダル・ヴェルメと息子ヤコポは、それぞれの軍功によりヴェネツィア 貴族になったのであり、その地位が父から子へ受け継がれたわけではない。 また、15世紀のボローニャ領主ジョヴァンニ・ベンティヴォリオの場合は、 明らかに一代限りであった(31)。しかし、世襲の例も少なくない。パオロ・サ ヴェッリに与えられたヴェネツィア貴族位は「彼からその家のすべての者へ 受け継がれた」し(32)、スカラ家に対する戦いの際にヴェネツィアに協力した −206−

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ボローニャ領主タッデオ・ペポリは、1338年に「その子孫ともども」ヴェネ ツィア貴族であることが宣言された(33) 世襲性は明確でないながらも、マラテスタ家のように、一族ぐるみでヴェ ネツィア軍に加わり、多くのヴェネツィア貴族を出した傭兵隊長の家系もあ る。マラテスタ家は14世紀後半よりリミニ系とペーザロ系に分かれていたが、 前述のマラテスタ・マラテスタは後者に属し、その子孫はヴェネツィア貴族 になった形跡がない。いっぽう、カルロとパンドルフォは、マラテスタ・マ ラテスタの父の従弟にあたるが、リミニ系であり、パンドルフォの子孫は少 なくとも16世紀末までヴェネツィアと深い関係を保った。 マラテスタ家で最も有名な人物は、その教養の高さと武将としての有能さ においてウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと双璧をなすシ ジスモンド=パンドルフォ・マラテスタであろう。ルーヴル美術館に所蔵され ている彼の肖像画からは、その冷徹な人柄が伝わってくる(34)。シジスモンド =パンドルフォはパンドルフォの庶子であったが、1431年に弟のドメニコとと もにヴェネツィア貴族階級に登録された。当時、シジスモンド=パンドルフォ は14歳、ドメニコは13歳であった(35)。軍を指揮するには幼すぎることから、 二人の地位は父から受け継いだものと理解できる。二人がヴェネツィアと最 初の傭兵契約を結ぶのは、兄がまもなく20歳に達しようとしていた1437年春 のことである。以後、とくに兄は、たびたびヴェネツィア軍に参加してミラ ノやトルコと戦い、総大将も一度ならず務めた。ただし、ヴェネツィア専属 ではなかった点に留意する必要がある。実際、彼の行動は終生、リミニ領主 および傭兵隊長としてのものであり、ヴェネツィアから離れてローマ教皇や フィレンツェのために、あるいは自国を守るために戦うことも多かった反面、 貴族としてヴェネツィアの国政に参加することはなかった。 シジスモンド=パンドルフォの庶子ロベルトも優れた武将として聞こえたが、 彼がヴェネツィアのために働くのは、そのキャリアの後半になってからのこ とである。最初の契約を結ぶのは、42歳であった1479年11月で、その4ヵ月 後にヴェネツィア貴族に登録されている(36)。ロベルトには二人の庶子、パン −207−

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ドルフォとカルロがいた。フェッラーラに対する戦争でヴェネツィア軍を指 揮していたロベルトが1482年にペストで亡くなると、パンドルフォが総大将 の地位を引き継いだ。とはいえ、このときパンドルフォはわずか7歳であり、 その地位は単に名目的なものだった。それよりも、幼いリミニ領主としての 彼の地位をヴェネツィアは守ろうとした。古代ローマ人がフラミニア街道と エミリア街道の合流点として建設したリミニは、現在でも交通の要所である。 この都市を親ヴェネツィアの立場に保っておくことは戦略上きわめて重要で あった。実際、叔父である教皇シクストゥス4世の力によってイモラとフォ ルリの領主となったジロラモ・リアリオがリミニを狙っていた。ヴェネツィ ア政府はパンドルフォに保護を与え、リミニ防衛のために16,000スクードと 150兵を提供した。長じたパンドルフォは、父や先祖たちと同様に傭兵隊長と してヴェネツィアのために戦ったが、リミニ領主としての地位は何度も危険 にさらされた。最大の脅威は、教皇アレクサンデル6世の庶子チェーザレ・ ボルジアだった。教皇領再編のために教会軍を率いてロマーニャ遠征を展開 していたチェーザレ・ボルジアは、イモラ、フォルリを陥落させ、リミニに 迫った。1500年、パンドルフォは弟カルロとともにヴェネツィアに逃れる。 3年後、ヴェネツィアの援助によってリミニを奪回した二人は、礼を述べる ためにヴェネツィアに赴き、その機にヴェネツィア貴族に登録された。16世 紀になると、イタリア戦争の激化とともにテッラフェルマの勢力分布はめま ぐるしく変化し、リミニはウルビーノ公国領をへて、1527年、最終的に教皇 領に編入される。領地を追われたパンドルフォは一時ヴェネツィアに身を寄 せたが、リミニを取り戻すべく戦いながら、ローマで貧困のうちに亡くなっ た(37) パンドルフォの3人の息子と2人の孫も傭兵隊長となり、しばしばヴェネ ツィアのために戦った。1570年、ヴェネツィアとトルコの間にキプロス戦争 が勃発すると、孫のロベルトは自ら1,000の歩兵を率いてキプロスに向かい、 彼地で戦死した(38) 。もうひとりの孫のエルコレもキプロス戦争に参加し、ト ルコの捕虜となったが、ヴェネツィア政府が身代金を出して解放された。エ −208−

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ルコレはその後、クレタ島レティモの軍事副官(governatore)を務めるなど してヴェネツィアに貢献した(39)。マラテスタ家の子孫は、18世紀になっても なお、ヴェネツィアで貴族として生きていた(40) マラテスタ家と並んでヴェネツィアとの結びつきが深かった一族は、ブレ シャ貴族のマルティネンゴ家である。ウラーゴ領主アントニオ・ダ・マルテ ィネンゴは、1426年から約半世紀におよぶ軍歴のすべてをヴェネツィア陣営 で送った。常にミラノを敵に戦っていたアントニオは、1448年にヴェネツィ ア貴族となった(41)。このとき、彼とのつながりは不明だが、マルティネンゴ 家のジャコモもヴェネツィア貴族となり、元老院から騎士叙任を受けている。 そして、ジャコモの子孫はすべてヴェネツィア貴族階級に迎え入れられると された(42)。上記の2人を含めて、15−16世紀の間に少なくとも11人のマルテ ィネンゴ家の傭兵隊長がヴェネツィアのために戦っており、そのうちの何人 かは、生涯を通じてヴェネツィアとしか契約を結ばなかった(43) マルティネンゴ家はまた、ヴェネツィアが雇った数々の傭兵隊長のなかで 最も栄光に輝く2人の将軍、ガッタメラータ(本名エラズモ・ダ・ナルニ) およびバルトロメオ・コッレオーニとの縁組を通じて、ヴェネツィアとの関 係を濃くしていた。1448年にヴェネツィア貴族となったアントニオの兄弟レ オナルド(彼自身は1439年に亡くなったためヴェネツィア貴族にはなってい ない)は、ガッタメラータの娘と結婚し、その娘ティスベはコッレオーニの 妻となった。コッレオーニには3人の娘が生まれたが、そのうちの1人はア ントニオ・ダ・マルティネンゴの息子ガスパーレに、あとの2人もそれぞれ マルティネンゴ家のヤコポおよびジェラルドに嫁いだ。コッレオーニには息 子がなかったため、ジェラルド・ダ・マルティネンゴの息子アレッサンドロ がコッレオーニの家督を継ぎ、彼の家系はマルティネンゴ=コッレオーニ家と して近代までブレシャに存続した(44) 。傭兵の世界には、このような婚姻関係 のネットワークが張り巡らされていたが、上記の例は、ヴェネツィアを核と する姻戚グループの存在をうかがわせて興味深い。ただし、本稿でそれを詳 しく探る余裕はない。 −209−

(14)

傭兵隊長の貴族叙任に関して、世襲性と並んで重要なのは、ヴェネツィア 貴族社会への同化の問題である。実のところ、大半の場合において、傭兵隊 長に与えられた貴族位は名誉的なものにすぎず、ヴェネツィア貴族としての 実質を伴うものではなかった。多くの者は、ヴェネツィア貴族に叙された後 も、契約から契約へ渡り歩くという、傭兵隊長に典型的な行動様式をとり続 けたし、ヴェネツィアに敵対する陣営に身を置くことさえ珍しくなかった。 よって、彼らはヴェネツィア貴族階級に同化することなく、その外部に留ま ったといえる。しかし、少数ながらも、ヴェネツィア貴族社会の中に入り込 んでいった例も見いだすことができる。たとえば、バッタリア兄弟の子孫か らは文民職や海軍職の官職就任者が出ている(45)。また、最後のリミニ領主と なったパンドルフォ・マラテスタの弟カルロの名は、ヴェネツィアでスクォ ーラ(scuola)と呼ばれた兄弟会の貴族名簿の中に見いだされるし(46)、先述 のように、国を失った彼らの子孫はヴェネツィアで代々永らえた。さらに、 マルティネンゴ家の傭兵隊長のなかには、歴代ドージェをはじめ多くの要人 が眠るサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に墓を持つ者、キプロス島 の軍事副官を務めた者、ヴェネツィア独特の祝祭集団コンパニーア・デッラ・ カルツァ(Compagnia della Calza)に加わっていた者などがおり(47)、ある 程度の同化傾向を認めることができる。 コンパニーア・デッラ・カルツァは、名門貴族の子弟でつくられた排他的 なエリート集団で、きわめて特殊な性格を持っていた。その会員には、他に も数名の傭兵隊長が見いだされる。次章では、ヴェネツィア貴族階級と傭兵 隊長の関係を考えるうえで注目に値するこの問題について考察を深めていき たい。 3.コンパニーア・デッラ・カルツァと傭兵隊長 コンパニーア・デッラ・カルツァとは、15世紀後半から16世紀なかばにか けてヴェネツィアで流行した青年貴族の集団で、公私さまざまな祝祭のオー ガナイザーであった。組ごとに違ったデザインのタイツ(カルツァ)をユニ −210−

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フォームとしたことから、「長靴下の仲間たち」を意味する「コンパニーア・ デッラ・カルツァ」の名で呼ばれる。論者は以前、これらの団体の会員分析 を行ったが、その結果、いずれの組も、名門貴族の家系に属するエリート青 年によって構成されていることがわかった。高価な揃いの衣装、絢爛豪華な ページェントや舞踏会、「モマリア(momaria)」と呼ばれた大掛かりな仮面 舞踏劇の上演など、膨大な出費を会員たちで負担するコンパニーア・デッラ・ カルツァには、裕福な家の者でなければ参加することは不可能だった。また、 どんなに裕福でも、ごくまれな例外を除いて、貴族でない者は入会を許され なかった。コンパニーア・デッラ・カルツァの会員であることは、それ自体 がステイタス・シンボルだったのである(48) コンパニーア・デッラ・カルツァの流行が、ホイナッキの主張する「第三 のセッラータ」と時期的に重なることは、多分に示唆的である。「第三のセッ ラータ」とは、世襲貴族の家系を限定した1297−1323年の「第一のセッラー タ」、新たに貴族家系を補充することを拒否した1403年の「第二のセッラータ」 に続くもので、貴族の出生登録簿『黄金の書』(Libro d’Oro)の記録開始(1506 年)を中心とする、「閉鎖」の最終段階を指す。「第三のセッラータ」は、単 に貴族の家系に属するだけでなく、政府に認められた嫡出子であること、母 親が市民階級出身者ではないこと、といった条件を満たす者だけを真の貴族 とは見なすような、貴族の純血主義の強まりを特徴としている(49)。15世紀後 半から16世紀前半はまた、ヴェネツィア貴族共和制の内部で寡頭支配が強ま った時期でもあった。すなわち、貴族の階層分化が進行し、一部の門閥が力 を持つようになったのである。コンパニーア・デッラ・カルツァの活動は、 このような貴族の純血主義や寡頭支配をプロモートする役割を担っていた。 現存するコンパニーア・デッラ・カルツァの会員名簿(50)や、同時代のヴェ ネツィア貴族マリン・サヌードの『日記』(51) から、次のような傭兵隊長たちが インモルターリ コンパニーア・デッラ・カルツァの会員だったことがわかる。《 不 滅 》組 オルトラーニ では、マントヴァ侯フェデリーコ・ゴンザーガ。《菜園家》組では、アントニ オ・ダ・マルティネンゴ(先述のアントニオとは別人)、マルカントニオ・マ −211−

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ルティネンゴ、ビジニャーノ領主ピエルアントニオ・ダ・サンセヴェリーノ。 ヴァロロージ 《 勇者 》組では、ウルビーノ公フランチェスコマリア・デッラ・ローヴェレ。 フロリディ 《 旺盛 》組では、ウルビーノ公太子グイドバルド・デッラ・ローヴェレ、カ レアーリ イアッツォ伯ロベルト・ダ・サンセヴェリーノ。《豪華》組では、フェッラー ラ公エルコレ・デステ2世、サレルノ領主フェルナンド・ダ・サンセヴェリ ーノなどである。 フェデリーコ・ゴンザーガは、1520年5月、義兄弟であるフランチェスコ・ マリア・デッラ・ローヴェレとともにヴェネツィアへ行き、一週間にわたっ て、公賓用の御座船での宴会、ジョストラ(騎馬試合)、モマリアなどのもて インモルターリ なしを《 不 滅 》組から受け、金糸銀糸で美しく刺繍されたカルツァを贈呈 されてコンパニーアの会員になった。彼は1517年にもヴェネツィアを公式訪 問し、大評議会に出席している(52)。ゴンザーガ家は14世紀にヴェネツィア貴 族位を与えられているので、世襲の議員資格を持っていたことになるのであ ろうが、実際は儀式的な臨席にすぎなかったようである。奇妙なことに、彼 は一度もヴェネツィアと傭兵契約を結んだことがなく、1520年の訪問の半年 後には教会軍総司令官としてヴェネツィアを敵にしている(53)。よって、フェ デリーコ・ゴンザーガの入会は、外交儀礼の枠を越えるものではなかったと 考えられる。 しかし、フェデリーコ・ゴンザーガに同伴したフランチェスコ・マリア・ ヴァロロージ デッラ・ローヴェレの場合は大きく異なる。彼が《 勇者 》組に入会するの は、それから4年後の1524年7月であるが、一年前の1523年8月にヴェネツ ィアと傭兵契約を結び、一ヶ月前の1524年6月には総大将に任命されていた。 もっとも、1523年までにもヴェネツィアと同盟した教皇に雇われるなど、ヴ ェネツィアとはずっと良好な関係にあった。デッラ・ローヴェレ家では、フ ランチェスコマリアの伯父で、のちに教皇ユリウス2世となるジュリアーノ がまだ枢機卿であった1473年にヴェネツィア貴族となっていたが(54)、フラン チェスコマリア自身は1512年に正式に大評議会に迎え入れられている。そし て、1538年に亡くなるまで、彼は常にヴェネツィア共和国のために戦い続け −212−

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ヴァロロージ たのである(55)。彼が《 勇者 》組に入会したときも、息子グイドバルドが フロリディ 《 旺盛 》組に入会したときも、フェデリーコ・ゴンザーガのときに劣らない ほど華やかな祝祭が連日行われた。 彼らのように君主の称号や領主の肩書を持つ「高貴な」人物を会員にする ことは、コンパニーア・デッラ・カルツァの威信をいっそう高めたであろう し、彼らを迎えての華麗な祝祭は、外交上の機能を果たすとともに、上層貴 族とそれ以外の人々との差異を可視化し印象づける効果を持ったと思われる。 同様の図式は、ヴェネツィア貴族位を与えられた傭兵隊長とヴェネツィアの 貴族階級にも当てはめることができるだろう。すなわち、傭兵隊長の貴族叙 任は、傭兵隊長への褒賞であっただけでなく、ヴェネツィアの貴族階級にと っては、自らの「貴族性」を強めるものであったと考えられるのである。し たがって、たとえ傭兵隊長に与えられた貴族位が名誉的なものにすぎなくと も、その名をヴェネツィア共和国大評議会議員に数えること自体に大きな意 味があったのではないだろうか。ヴェネツィアの貴族社会に同化しない外国 人貴族の存在は、一見、ヴェネツィア貴族階級の閉鎖性に影響を与えていな いように見えるが、必ずしもそうとは言い切れないであろう。 ところで、上に挙げたコンパニーア・デッラ・カルツァ員の傭兵隊長の中 には、サンセヴェリーノ家の者が3人いる。彼らは各々異なる系列らしく、 互いの血縁関係などは不明であり、彼らがヴェネツィア貴族位を持っていた かどうかもはっきりしない。3人のうち、ロベルトが入会したときの様子が サヌードの『日記』に記録されているが、それはコンパニーア・デッラ・カ ルツァと傭兵隊長の関係の興味深い一面を我々に知らせてくれる。サヌード によれば、1529年7月4日、ヴェネツィア歩兵隊の隊長であるカイアッツォ 伯は仲間のコンパニーア員たちに伴われて共和国政府の閣議(Collegio)に出 席し、ドージェから言葉を賜ったのち、元老院で規則を読み上げさせられ、 生も死もこの国とともにありたいと宣言し、その晩のうちに戦場へ向かった(56) この例から、傭兵隊長のヴェネツィア軍指揮官としての公的な儀式にもコン パニーア・デッラ・カルツァが関与したことがわかる。 −213−

(18)

上記ロベルトの祖父で同名のカイアッツォ伯ロベルトは、1482−83年のフ ェッラーラ戦争でヴェネツィア軍を率いて勝利した武将だった。彼は1485年 の謝肉祭にサン・マルコ広場で盛大なジョストラを開催した。彼の4人の息 子たち(もちろん全員傭兵隊長で、父とともに戦った)、カメリーノ領主ジュ リオ=チェーザレ・ダ・ヴァラーノ(1483年よりヴェネツィア貴族)、サンセ コンド伯フィリッポ・デイ・ロッシ(父グイドが1484年よりヴェネツィア貴 族)などが一堂に会してのジョストラは、華やかな騎士道絵巻だったことだ ろう。ジョストラに続いて、ロベルトの末娘の洗礼式がサン・マルコ大聖堂 で行われ、ドージェ官邸では、あるコンパニーア・デッラ・カルツァが彼の 妻のために祝宴を開いた(57) おわりに ヴェネツィアの貴族たちは、本来封建貴族ではない。海洋商業国家ヴェネ ツィアのリーダーであった彼らは、基本的に商人であり、大評議会の世襲議 員資格を持つこと以外に貴族と平民を区別する規定はなかった。しかし貴族 たちには、平民に対して自らを差異化する精神的必要性があった。いっぽう、 ヴェネツィアの外の世界では、貴族といえば封建貴族のことであり、騎士階 級のことであった。貴族としての自意識を強めつつあったセッラータ期のヴ ェネツィア貴族たちが騎士の世界に憧れのようなイメージを抱いたとしても 無理はない。コンパニーア・デッラ・カルツァの催しでしばしばジョストラ が行われたのも、その表れであろう。 ヴェネツィア貴族階級が多くの傭兵隊長を取り込んでいった背景には、テ ッラフェルマ支配という現実的な問題だけでなく、セッラータによって制度 的に定義されたヴェネツィア貴族階級が質的にも自らを定義づけていく社会 的動機があったにちがいない。すなわち、傭兵隊長の貴族叙任は、ヴェネツ ィア貴族階級の閉鎖性に風穴を開けるものでありながら、逆説的にセッラー タを補完する働きを持っていたと言うことができよう。 −214−

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図版出典

クリスチャン・ベック(仙北谷茅戸訳)『ヴェネツィア史』白水社、2000年、p. 170。

(1)セッラータおよびヴェネツィア貴族階級の定義については、Frederic C. Lane, ‘The Enlargemento of the Great Council of Venice,’ in J. G. Rowe & W. H. Stockdale (eds.), Florilegium Historiale : Essays presented to Wallace K. Ferguson, Toronto, 1971, p. 254; Id., Venice. A Maritime Republic, Baltimore−London, 1973, pp. 111 −117;永井三明「ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景」『史林』第63巻第5号、 1980年;同『ヴェネツィア貴族の世界 社会と意識』刀水書房、1994、pp. 5−29;

Stanley Chojnacki, ‘Social Identity in Renaissance Venice : The Second Serrata,’ Renaissance Studies, 8, 1994 ; Id., ‘Identity and Ideology in Renaissance Venice : The Third Serrata,’ in John Martin & Dennis Romano (eds.), Venice Reconsidered : The History and Civilization of an Italian City−State, 1297−1797, Baltimore−Lon-don, 2000, pp. 263−294など参照。なお、イタリア語で「貴族」を表すnobileは、本 来「高貴な」の意であり、必ずしも貴族階級を示す語ではない。共和国時代のヴェ ネツィアでも、この語が非貴族に対して用いられることは珍しくなかった。ヴェネ ツィアで厳密に貴族階級のみを指す場合は、「大評議会の貴族(nobili di Maggior Consiglio)」という表現が用いられた。ここからも、大評議会議員であることと貴族 であることが同一であったことが理解されよう。セッラータによってヴェネツィア −215−

(20)

は身分制の社会となり、参政権を持つ支配階級である貴族、ヴェネツィア内外で貿 易業を営んだり共和国書記官になる特権を持つ市民、それ以外の庶民の3つの階級 で構成された。

(2)クレタ戦争で財政難に陥った政府は、1646年、10万ドゥカートの戦費を融資した 者を貴族に昇格させる決定を下した。Ugo Tucci, ‘The Psychology of Venetian Mer-chant in the Sixteenth Century,’ in J. R. Hale (ed.), Renaissance Venice, London, 1973, p. 367。

(3)Giovanni Battista Contarini, Della veneta historia, Venezia, 1658, p. 155。 (4)貴族の家門数は跡継ぎの欠如による自然減少を免れないため、ひとつの貴族家門

が消滅したときに市民階級からひとつの家門を貴族に昇格させるという提案が1403 年に出されたが、否決された。cf. Chojnacki, ‘Social Identity...’。

(5)図1参照。

(6)Michael Mallett, Signori e mercenari. La guerra nell’ Italia del Rinascimento, Bologna, 2006, p. 207(orig. Mercenaries and their Masters, London, 1974)。 (7)cf. Chojnacki, ‘Social Identity...’ ; Id., ‘Identity and Ideology...’。

(8)Casimoro Freschot, La nobiltà veneta, Venezia, 1706 (ristampa, Bologna, 2001), p. 175。 (9)コムーネとは、基本的には11−12世紀にイタリア北部・中部に出現した自治都市 および、その市民の代表団体をさすが、定義は容易ではない。当初は共和制をとっ ていた多くのコムーネも、13世紀頃から有力家系が統治権を握って僭主(本文中で は領主とした)となり、そのうちのいくつかは正式な称号を得て君主となる。しか し、その統治権はコムーネとの契約によって委託されたものであり、僭主や君主が 支配するところでもコムーネの概念は存続していた。本稿では、コムーネの語を広 義で用い、都市とその周辺支配領域(コンタード)からなる単位をさす。コムーネ の成立については、佐藤眞典『中世イタリア都市国家成立史研究』ミネルヴァ書房、 2001年を、コムーネの変容については、齊藤寛海・山辺規子・藤内哲也編『イタリ ア都市社会史入門 12世紀から16世紀まで』昭和堂、2008年を参照。 (10)傭兵隊長はイタリア語でcondottieroと言うが、この語はまさしく「契約する者」 の意である。これを「傭兵隊長」と訳すのがふさわしいかどうか、問題はあるが、 他に適切な訳語がないため、本稿では慣例にならってこの語を用いる。イタリアの 傭兵については、Michael Mallett, op. cit.;マイケル・マレット(甚野尚志訳), 「傭兵隊長」エウジェニオ・ガレン(編)『ルネサンス人』岩波書店、1990年、pp.

65−103(原著Eugenio Garin (ed.), L’ uomo del Rinascimento, Roma−Bari, 1988);ドゥッチョ・バレストラッチ(和栗珠里訳)『フィレンツェの傭兵隊長ジョ

(21)

ン・ホークウッド』白水社、2006年(原著Duccio Balestracci, Le armi, i cavalli, l’oro. Giovanni Acuto e i condottieri nell’ Italia del Trecento, Roma−Bari, 2003)など参 照。 (11)後述するように、通常、ヴェネツィア陸軍の総大将は傭兵隊長が務めたが、14世 紀にはヴェネツィア貴族が指揮を執る場合もあった。また、傭兵隊長に指揮が委ね られる場合でも、ヴェネツィア貴族から選ばれた軍監督官(provveditoreまたはcom-missario)が付き従い、兵站を担当したり、政府からの指示を与えたり、傭兵隊の行 動を監視したりした。場合によっては、軍監督官が自ら兵を指揮することもあった。 cf. J. R. Hale, L’organizzazione militare di Venezia nel ‘500, Roma, 1990, pp. 59− 140(orig. The Military Orgnization of a Renaissance State, Cambridge, 1984)。 (12)和栗珠里「ヴェネツィアと水―海と陸のはざまで―」『水の都市文化』大阪市立

大学大学院文学研究科COE/重点研究共催シンポジウム報告書、大阪市立大学文学研 究科都市文化研究センター、2006年、pp. 31−45参照。

(13)Michael Mallett, ‘La conquista della Terraferma,’ in Alberto Tenenti & Ugo Tucci (a cura di), Storia di Venezia dalle origini alla caduta della Serenissima, V, p. 182。

(14)Contarini, op. cit, pp. 98−101;Freschot, op. cit., pp. aggiunte,23−24;イタ リアの傭兵隊長に関するインターネット・サイトより、http : //www.condottieridi-ventura.it/r/1650−1665。

(15)高田良太「ヴェネツィア共和国の海外領土」、齊藤・山辺・藤内編、前掲書、pp. 98−106。

(16)Mallett, Signori e mercenari..., p. 61;http : //www.condottieridiventura.it/v/ 2117%20%20%20%20%20%20JACOPO%20DAL%20VERME%20%20%20Verona. htm。

(17)Contarini, op. cit., pp. 122−125;バレストラッチ、前掲書、p. 52;http : //www. condottieridiventura.it/v/2119%20%20%20%20%20%20LUCHINO%20DAL%20 VERME.htm。

(18)Contarini, op. cit., pp. 129−134。パドヴァ・ハンガリー連合軍の内訳は、ハン ガリー兵3,500、イタリア騎兵3,000、イングランド弓兵500、歩兵6,000。ヴェネツィ ア軍は騎兵3,000と石弓兵1,000であった。http : //www.condottieridiventura.it/ta-bellestoria/1370.htm。ロヴァはヴェネツィアの潟の南東部に注ぐ運河。 (19)http : //www.condottieridiventura.it/c/0529%20%20%20%20%20%20GIBERTO %20DA%20CORREGGIO%20%20Signore%20di%20Correggio.htm。 (20)Contarini,op.cit.,pp. 137−156; http : //www.condottieridiventura.it/o/1275%20% −217−

(22)

20%20%20%20%20FRANCESCO%20ORDELAFFI%20%20Di%20Cesena.htm。 (21)Frederic C.Lane, Venice..., pp. 189−196。

(22)Contarini, op. cit., pp. 157−158;バレストラッチ、前掲書、p. 204。 (23)Contarini, op. cit., pp. 159−162。

(24)Contarini, op. cit., pp. 161−162;Mallett, ‘La conquista...,’ p. 184。 (25)Freschot, op.cit., p. 352 ; http : //www.condottieridiventura.it/m/0940%20%20%

20%20%20%20MALATESTA%20MALATESTA.htm。

(26)Contarini, op. cit., pp. 161−167;Mallett, ‘La conquista...,’ pp. 181−189。 (27)Contarini, op. cit., pp. 170−172;Mallett, ‘La conquista...,’ p. 190;http : //www.

condottieridiventura.it/m/0948%20%20%20%20%20%20PANDOLFO%20MALAT-ESTA %20%20Signore%20%20di%20%20Bergamo.htm。

(28)Contarini, op. cit., pp. 174−175;Mallett, ‘La conquista...,’ p. 192;Ibid., Sig-nori e mercenari..., pp. 69−70。

(29)Freschot, op. cit., p. 268。

(30)http : //www.condottieridiventura.it/v/2117%20%20%20%20%20%20JACOPO %20DAL%20VERME%20%20Di%20Verona.htm。

(31)‘...fù ascritta frà le Patritie di questa Nobilta nellà persona,’ Freschot, op. cit., p. 194。1488年のことであるが、経緯は明らかではない。

(32)‘La nobiltà Patritia, che li fù allora gratiata, passò nella sua persona à tutta la Casa,’ ibid ., p. 175。

(33)‘...fù dichiarato Nobile Veneto co’ Discendenti suoi,’ ibid ., p. 18。

(34)ピエロ・デッラ・フランチェスカ作「シジスモンド・マラテスタの肖像」(1451年 頃)。 (35)http : //www.condottieridiventura.it/m/0955%20%20%20%20%20%20SIGIS-MOND O%20PANDOLFO%20MALATESTA%20di%20Brescia.htm ; http : //www. condottieri diventura.it/m/0927%20%20%20%20%20%20DOMENICO%20MALAT-ESTA.htm。

(36)Freschot, op. cit., p. 352;http : //www.condottieridiventura.it/m/0952%20%20% 20%20%20%20ROBERTO%20MALATESTA.htm。 (37)http : //www.condottieridiventura.it/m/0948%20%20%20%20%20%20PAN-DOLFO%20MALATESTA.htm。 (38)http : //www.condottieridiventura.it/m/0954%20%20%20%20%20%20ROBERTO %20MALATESTA %20%20Figlio%20di%20Sigismondo.htm。 (39)http : //www.condottieridiventura.it/m/0928%20%20%20%20%20%20ERCOLE −218−

(23)

%20MALATESTA %20%20Figlio%20di%20Sigismondo.htm。 (40)Freschot, op. cit., p. 352。

(41)http : //www.condottieridiventura.it/m/1019%20%20%20%20%20%20ANTO-NIO%20DA%20MARTINENGO%20%20Di%20Padernello.htm。

(42)Freschot, op. cit., pp. 364−365。

(43)http : //www.condottieridiventura.it/m/1019−1040。 (44)Ibid..

(45)1574年にジュリオ・バッタリアは他の貴族たちとともにフランス王アンリ3世来 訪時の接待役となった。Freschot, op. cit., p. 268。また、17世紀のクレタ戦争時に、 ジロラモ・バッタリアは海軍副提督を、アルヴィーゼ・バッタリアは大型ガレー軍 艦長を務めた。Francesco Sansovino, Venetia città nobilissima et singolare, con le aggiunte di Giustiniano Martinioni, Venezia, 1663, pp. 715−739。

(46)Archivio di Stato di Venezia, Scuola Grande di San Giovanni Evangelista, reg. 12, c. 16r ; Id., reg. 13, c.12v;和栗珠里「Le Scuole Grandi e i nobili nella Venezia rinascimentale」『地中海学研究』第31号、2008年、p. 30。 (47)http : //www.condottieridiventura.it/m/1019−1040。 (48)和栗珠里「コンパニーア・デッラ・カルツァとルネサンス期のヴェネツィア貴族 階級」『イタリア学会誌』第48号、1998年、pp. 162−180;同「モマリア―ルネサン ス期ヴェネツィアのスペッターコロと社会―」『ルネサンス研究』第8号、2001年、 pp. 63−87。

(49)Chojnacki, ‘Identity and Ideology…’, pp. 263−284。

(50)Lionello Venturi, ‘Le Compagnie della Calza (Sec. XV−XVI),’ Nuovo Archivio Veneto, n.s., XIX, 1909, pp. 211−217に収録。

(51)Marin Sanudo, I Diarii di Marino Sanudo, a cura di Fulin, R. et al., 58voll., Venezia, 1879−1903, ristampa, Bologna, 1969−1970。

(52)Ibid ., XXVIII, 530−537。

(53)http : //www.condottieridiventura.it/g/0789%20%20%20%20%20%20FEDERICO %20GONZAGA%20%20Marchese%20e%20duca%20di%20Mantova.htm。 (54)Freschot, op. cit., p.96。

(55)Hale, L’organizzazione militare..., p. 111; http : //www.condottieridiventura.it / r / 1668% 20% 20% 20% 20% 20% 20 FRANCESCO % 20 MARIA % 20 DELLA % 20 ROVERE%20%20Di%20Senigallia.htm。

(56)Sanudo, I Diarii, LI, 30−31。

(57)http : //www.condottieridiventura.it/s/1827%20%20%20%20%20%20ROBERTO −219−

(24)

%20DA%20SAN%20SEVERINO.htm。

参照

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