オトタチバナヒメの祈り : "入水の図"の誕生と変容
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(2) さ れ て こな か った 。 従 ってま ず は これ ら の図 像 の流 れ を 把 握 す る 作 業 が 要 請 さ れ. のみ。 立 跳 にも 渡 り つべし﹂ と のた ま ふ。 乃ち 海 中 に至 り 、 暴 風忽 に起 り 、 王. 没 ま む と す 。 是 、 必 ず 海 神 の心 な り 。 願 はく は賤 しき 妾 が身 を 以 ち て、 王 の命. 船 漂 蕩 ひ て渡 る べく も あ らず 。 時 に、 王 に従 ひま つる妾 有 り 。 弟 橘 媛 と 日 ふ。. 本 稿 の手 順 と し ては 、 オ ト タ チ バナ ヒ メ の入水 謂 を 原 典 によ つて確 認 し 、 オ ト タ. に贖 へて海 に入 ら む ﹂ と ま を す 。 言 詑 り て、 乃ち 瀾 を 披 け て入 る。 暴 風 即ち 止. る。 本 稿 では 入水 の図 の誕 生 と そ の変 容 に つ いて概 説 し 、各 図 像 の詳 細 な 分 析 及 び. チ バ ナ ヒ メ入水 の図 の噌 矢 と 考 え ら れ る 図 像 を 指 摘 す る。 そ のう え で、 こ の図 像 が. み 、 船 岸 に著 く こと 得 た り 。故 、 時 人 、其 の海 を 号 け て馳 水 と 日 ふ。︿中 略 ﹀. 穂 積 氏 忍 山 宿 禰 が 女 な り 。 王 に啓 し て日 さく 、 ﹁ 今 し 風 起 り 浪 泌 く し て、 王 船. 継 承 さ れ 変 容 し て ゆく 様 相 を 終 戦 時 ま で辿 り 、多 く の児 童 が 入水 の図を 目 にす る機. 則 ち 甲斐 より 北 武 蔵 ・上 野を 転 歴 て、 西碓 日坂 に逮 り ま す 。 時 に、 日本 武 尊 、. 解釈 は 、 稿 を 改 め て試 み る。. 会 と な った 戦 前 の国定 国 語 教 科 書 を と り あ げ る。 最後 に、 戦 後 にな って入水 の図 に. 毎 に弟 橘 媛 を 顧 ひ た ま ふ情 有 り 。故 、 碓 日嶺 に登 り ま し て、東 南 を 望 み て三歎. の諸 国を 号 け て吾 嬬 国 と 日 ふ。. 此には菟摩生 ムふ。 か し て 日 は く 、 ヨ ロ嬬 は や﹂ と のた ま ふ。 嬬、 故 、 因 り て 山 の東. 新 た な 意 味 づ け が な さ れ た 点 に つ いて触 れ る。. 一 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ 入 水 の 図 の 誕 生 と 模 倣. 両 書 の記 述 か ら読 み 取 れ る のは 、 オ ト タ チ バナ ヒ メが ﹁ 后 ﹂ であ る こと 、 暴 風 と. か ら は 、 櫛 を 身 に つけ て いた こと 、波 の上 に数 種 類 の敷 物 を 重 ね て敷 いて いる こと. 荒 波 で舟 が進 ま な いこと 、 そ の海 に ヒ メが舟 か ら 入 って いく こと であ る。 ﹃ 古 事 記﹄. 当 部 分 を 以 下 に引 用 す る。. がわ か る。 ヒ メが海 に入 る前 に、 ヤ マト タ ケ ルに対 し て身 代 わ り にな る こと を 告 げ. オ ト タ チ バ ナ ヒ メ入 水 の説 話 を 確 認 す る た め 、 ﹃ 古 事 記 ﹄ 及 び ﹃日本 書 紀 ﹄ の該. ﹃ 古事 記﹄ 中巻. ﹁ 妾 、 御 子 に易 り て、 海 の中 に入 ら む 。 御 子 は 、遣 さえ し 政 を 遂 げ 、覆 奏 す べ. ば 、 進 み 渡 る こ と 得 ず 。 爾 く し て、 其 の 后 、名 は 弟 橘 比 売 命 、白 し し く 、. 八 ︵ 明 治 元 ︶年 に刊行 さ れ た ﹃ 前賢. 。 き る のは 、 菊 池 容 斎 ﹃ 弟 橘 媛 ﹂ であ る ︵ 前 賢 故 実 ﹄ に掲 載 さ れ た ﹁ 図 1︶ 一八 六. これ ら の記 述 を も と にオ ト タ チ バナ ヒ メを 描き 出 し た最 も 早 い図 像 と し て確 認 で. て いる のは 両 書 に共 通 し て いる。 ヒ メ の容 貌 や装 飾 品 を表 す 記 述 は な い。. し﹂ と ま を しき 。 海 に入 ら む と す る時 に、 菅 畳 八重 ・皮 畳 八重 ・絹 畳 八 重 を 以. 故 実 ﹄ は 、神 武 天皇 以 後 の忠 臣 五百. 其 よ り 入 り幸 し て、 走 水 海 を 渡 り し 時 に、 其 の渡 の神 、 浪 を 興 し 、船 を 廻 ら せ. て、 波 の上 に敷 き て、 其 の上 に下り 坐 しき 。 是 に、其 の暴 浪 、自 ら伏ぎ て、 御. 人以 上 の図像 と 評伝 が 記 さ れ た 書 籍. 差 支 へな い程 であ つた ﹂ 亀塔 影 ﹄ 第. 者 は 、 恐 らく 一人も な いと 云 つても. 当 時 の歴 史 画 家 で前 賢 古 実 を 学 ば ぬ. 少 の時 には 此 の本 が非 常 に行 は れ 、. 実 の研 究 家 関 保 之 助 は 、 ﹁ 私 共 の幼. 利 用 さ れ た こと で知 ら れ る。 有 職 故. で流 行 し 、 歴史 人物 画 の手 本 と し て. であ る。 刊 行 後 、 画 家 ・美 術 家 の間. 船 、 進 む こと 得 た り 。 爾 く し て、 其 の后 の歌 ひ て日 は く 、 さ ね さ し 相 模 の小 野 に 燃 ゆ る火 の 火 中 に立 ち て 間 は じ君 は も 故 、 七 日 の後 に、 其 の后 の御 櫛 、 海 辺 に依 りき 。 乃ち 其 の櫛 を 取 り 、 御 陵 を 作 り て、 治 め置 き き 。 ︿中 略 ﹀故 、 其 の坂 に登 り 立 ち て、 三 た び 歎き て、 詔 ひ て云 ひ しく 、 ﹁ あ づま は や﹂ と いひき 。 故 、 其 の国 を 号 け て阿 豆 麻 と 謂 ふ。. ﹃日本 書 紀 ﹄ 巻 第 七 旦 示行 天皇 四十 年 是 歳 亦 相 模 に進 し て、 上 総 に往 か む と 欲 ひ 、 海 を 望 み て高 言 し て 日 は く 、 ﹁ 是小海. 図 1『 前賢故実』「弟橘媛」. (62) ). 文学 ・文化編 (2008年 3月 甲南女子大学研究紀要第 44号.
(3) 千 晶 三オ トタチバ ナ ヒメの祈 り 田中. (63). 彼 な り の実 証 精 神 を 類 の調査 に加え 、実 際 に 関 西 の古 社 寺 に足 を 運 ん で見 聞 し 、 ﹁. 筆頭に ﹃ 古 事 記 ﹄ と ﹃日本 書 紀 ﹄ の名 が あ げ ら れ て いる 。 菊 池 容 斎 は これ ら の書 籍. が参 照 し た ﹁ 引 用書 目﹂ の 一覧 が掲 載 さ れ ており 、 二 〇 〇点 以 上を 数え る書 目 名 の. 前 賢 故 実 ﹄ 巻 末 には 菊 池 容 斎 一二巻 第 五号 一九 三 六 年 五 月 ︶ と 回 想 し て いる。 ﹃. 橋 のせ る な り 。︿中 略 ﹀走 水 姫 の海 に て、皇 子 の御 為 に潔 命. 伝 記 のあ らま しを 、 か く も 弟. り な んと 思 ふま ゝに、 そ の. 今 の女 子 の好 き 模 範 と 、 な. も って﹂ 歴 史 人物 を 描 き 出 し た のであ る。. く 一身 を 犠 牲 にさ ゝげ ら れ. ﹃ 良 妻 賢 母 ″を 女 性 の手 本 と し てか かげ た 婦 人 雑 女 鑑﹄ は そ の名 が 示 す と おり ″. この ﹃ 弟 橘 媛 ﹂ が 、 以 後 のオ ト タチ バ ナ ヒ メ の図像 に多 大 な 影 響 前 賢故 実﹄ の ﹁. こ こ で、 図 1を 詳 しく 見 て ゆき た い。 ま ず ヒ メ の顔 は 、 菊 池 容 斎 の描 く 歴 史 人 物. 誌 であ り 、 明 治 期 の代 表 的 な 婦 人 総 合 雑 誌 の 一つと さ れ る。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ が. た る が如 き は、 誠 に貞 操 と. 画 によく 見 ら れ る傾 向 であ る無 表 情 に近 い。 手 は、右 手 の指 だ け がわず か に胸 元 か. ″女 の鑑 と し て採 択 さ れ た 理由 は、 ﹁日本 武 尊 の軍行 の旅 に随 ひ奉 り て、 常 に内 事 ″. を 与 え た こと は 間違 いな い。 な ぜ な ら 、 明 治 期 の雑誌 や児 童 書 の挿 絵 の多 く が よく. ら のぞ いて いる。左 腕 は 曲 げ ら れ 、左 手 は 見 え な い。 腰 を 曲 げ てか が んだ 恰 好 で波. を 助 け﹂ た こと 、 ﹁ 皇 子 の御 為 に潔 く 一身 を 犠 牲 に さ ゝげ﹂ た こと にあ る。 後 者 は. や云 は ん、活 発 と は申 し侍. に向 か い、右 足先 はす で に波 に浸 かり 、左 足 には後 ろか ら の波 が か ぶ ってき て いる。. ﹃ 常 に内事 を 助 け﹂ た こと は 佐 伯 有 義 古 事 記﹄ ﹃日本 書 紀 ﹄ に記 さ れ るが 、 前 者 の ﹁. 似 た 構 図 を 用 い、大 正 期 に発 行 さ れ た第 三期 国定 国語教 科 書 は ヒ メ の表 着 の模 様 ま. 髪 のな び き 方 か ら は 、 か な り の勢 いで舟 か ら 飛 び 降 り て いる こと がわ か る。 装 飾 品. に よ る挿 入 であ り ﹁ 女 子 の好 き 模 範﹂ と し て求 め ら れ た姿 でも あ る。 そ し て こ のよ. ら ん。 史 を 読 み て こ ゝに至 る毎 に常 に衣 の袖 の濡 ふを 知 らざ るなり 。. は 首 飾 り ら しき も のが わ ず か に見え る。 衣 装 は 、模様 の つ いた 丈 の短 い表 着 、 そ の. う な オト タ チ バ ナ ヒ メ の姿 が、後 述す る よう に格 好 の教 材 と し て用 いら れ て ゆく こ. でが模 写 し た か のよう に似 通 って いるた め であ る。. 裳 ︶ を 着 てお り 、 これ が 大 き く 後 ろ に な び いて いる のだ ろう 。 下 に裾 の長 い着 物 ︵. と にな る。. いな い。 し た が つて菊 池 容 斎 は 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の衣 装 や髪 型 、表 情 、 体 勢 な ど. 古 事 記 ﹄ ﹃日本 書 紀 ﹄ には こ こま で細 か く 記 載 さ れ て る が 、 先 にも 述 べた と お り ﹃. て いる。 波 の様 子 か ら は 風 が激 し いこと が 見 てと れ る。 絵 は こ のよう に描 か れ て い. い点 など が異 な って いる。. 下 ろ され て いる点 、 首 飾 り が長く大 き く な り 豪 華 に描 か れ て いる点 、 足先 が 見え な. 寄 せ 、 口を 引き 締 め た硬 い表 情 が描 か れ て いる。 他 には 、右 手 が胸 元 では な く 下 に. 図 2を 確 認す ると 、 菊 池 容 斎 の絵 と は ヒ メ の表 情 が異 な っており 、 眉 間 に しわ を. 弟 橘 姫 の伝 ﹂ が掲 載 さ れ 、 史 談 の ており 、 こ の号 では 考 証 学 者 ・佐 伯 有 義 に よ る ﹁. 女 鑑 ﹄ は第 一号 か ら 一話 完 結 の史 談 を 連 載 し 図﹂ と いう 画 題 が つけ ら れ て いる。 ﹃. 。 日本 画 家 ・富 岡 永 洗 に よ る絵 で、雑 誌 の目 次 に は ﹁ 図 2︶ て いる ︵ 弟 橘姫命 投 海. 女 鑑﹄ 2 八 九 一∼ 一九 〇九 年 ︶ 第 二号 の 口絵 に ほ ぼ そ のま ま 継 承 さ れ 婦 人雑 誌 ﹃. 一八九 一 ︵ 明 治 二十 四︶年 九 月 発 行 の 弟 橘媛﹂ は 、 挿 絵 に利 用 さ れ てゆく 。 こ の ﹁. 女 鑑 ﹄ よ り も 半 年 余 り 発 行 が 早 い書 籍 であ る た め、管 見 に よ れ 3︶。 先 に述 べた ﹃. 図 枚 あ り 、 そ のう ち 二枚 目 の挿 絵 が、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ が 海 に 入 る場 面 であ る ︵. 記 で、 ﹁ 古 事 記 、 日本 紀 、 熱 田縁 起 に よ れ り ﹂ と あ る。 画 家 の名 は 不 明。 挿 絵 は 四. 能 褒 野 の露﹂ は ヤ マト タ ケ ル の伝 紀 ﹄ を 題 材 と し た 児 童 書 の嗜 矢 と 考 え ら れ る。 ﹁. 第 一編所 収 ﹁ 能 褒 野 の露﹂ ︵ 博 文 館 ︶ の挿絵 であ る。 こ の書 籍 は ﹃ 古事 記 ﹄ ﹃日本 書. 家 庭 教育 歴 史 読 本 ﹄ 二十 四︶年 二月 発 行 の児 童 向 け 読 本 、 小 中 村 義 象 ・落 合 直 文 ﹃. 明治 オ ト タ チ バナ ヒ メ以 外 の人物 や物 を 描 き 込 んだ 絵 も あ る。 そ れ は 一八九 一 ︵. 後 に感 想 が記 さ れ て いる。. ﹃ 歴 史 画 ﹂ や 、 雑 誌 や児 童 書 の 前 賢 故 実 ﹄ の図 像 は 主 に 日本 画 の分 野 に お け る ﹁. 彼 な り に甦 ら せ﹂ た と いえ る。 ヒ メ の表 象 の多 くを ﹁でき る範 囲 で考 証 を 尽 く し﹂ ﹁. 回 したぐつυ. 帯 と 思 わ れ る細 長 い布 も 見 え る。 さ ら にズ ボ ン様 の袴 を 穿 き 、 足 には 機 を 穿 い. 図 2『 女鑑』「弟橘姫命」.
(4) いま す に L. 図 5「 歴史お伽」第六編 『日本武尊』挿絵. 飛 び込み ま した .. ま に す 逆3 ・ と ●書 く 。 さ 濤1 1し の も 中3. ば ﹃ 前 賢 故 実﹄ ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ の次 に. r の し る し に や、 鮮 は な ど、 沸 、 ぞ 、 む か う の 岸 に. ︲ 、貯 ; ヽも 札褥の︱ ′. 来 ま し た。 、 着びき み掛 ぼす 略 に 胸 ゆ る た の、 た の 中 つ て・ 阻 ふ た 相 も、 、 ﹀き ぼ ルヽ に お 聡 ひ. 図 4『 金港堂豪傑 ばな し 日本武尊 』挿絵. 家は ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ の絵 を 参 照 し た と し ても 、 そ れと は 別 に ﹃ 古 事 記 ﹄ の該 当 箇 所 も. 八重 を 以 て、 波 の上 に敷 き て、 其 の上 に 下り 坐 しき ﹂ を表 し て いる。 こ の挿 絵 の画. に筵 のよ う な 敷 物 が描 き 込 ま れ てお り 、 ﹃ 古 事 記﹄ の ﹁ 菅 畳 八 重 、皮 畳 八 重 、 絶 畳. って いる。 挿 絵 画 家 名 は 不 明 だ が、 こ こ には ﹃ 前 賢故 実 ﹄ の ﹁ 弟 橘 媛﹂ か ら 離 れ た. ば な し 日本 武 尊 ﹄ の挿 絵 ︵ 図 4︶ では 変 化 が見 ら れ 、 頭 部 か ら 飛び 込 む 構 図と な. ﹃ 一九 〇 二 ︵ 明 治 三 十 五 ︶年 発 行 の ﹃ 金港堂豪傑 前 賢 故 実 ﹄ と よ く 似 た 構 図 だ が、. 一八 九 八 ︵ 明 治 三 十 一︶ 年 発 行 の ﹁日 本 お 伽 噺﹂ 第 十 七 編 ﹃ 草 薙 剣 ﹄ の挿 絵 は. オ ト タ チ バ ナ ヒメ自 身 に注 目 す れば 、髪 や衣 装 は ﹃ 前賢 故 実 ﹄ の ﹁ 弟 橘 媛﹂ と 似. ま ゝ、 荒 波 の中 に、 飛 び 込 みま し た 。 ﹂ と 記 さ れ て いる が 、 こ の記 述 は絵 に表 さ れ. に、 き ぬ 畳 を 八 重 にを 以 て、 其 れ を 波 の上 に、 敷 き 重 ね て、 其 の上 に、 お 坐 り の. 画 家 の視 点 が 見 てと れ る。 ま た 、 こ の書 籍 本 文 には ﹁ 菅 畳 を 八 重 に、皮 畳 を 八 重. 通 って いる。 し か し表 情 は 、 眉 を 寄 せ 口元も 歪 め ており 、 苦 痛 あ る いは 恐 怖 の感 情. て いな い。 手 や足 の様 子 は 、 波 に隠 れ る な ど曖 味 にさ れ て いる。. 見 返 し には 教 育 勅 語 が 朱 書 き で掲 載 さ れ て いる。 ﹁ 緒 言﹂ に は ﹁ 忠 孝 節 義 の風 を か. 注 意 し た いのは 、 こ の書 籍 が ﹃ 家 庭 教 育 歴 史 読 本 ﹄ 叢書 と いう こと であ る。 表 紙. 武尊 ﹄ であ る。後 者 の挿 絵 ︵ 図 5︶を 見 て みると 、袖 回 の広 い表 着 ︵ 唐衣 か︶と袴. 一九 一 一 ︵ 十 四 編 ﹃日本 武 尊 ﹄、 明 治 四 十 四︶年 発 行 の ﹁ 歴 史 お 伽﹂ 第 六 編 ﹃日 本. 一九 一〇 ︵ 明 治 四十 三︶年 発 行 の ﹁日本 お伽 噺 ﹂ 第 四 左 右 対 称 の挿 絵 が 登 場 す る。. さ ら に、 明 治 末 期 の児 童 書 では 、 ﹃ 前 賢 故 実﹄ の ﹁ 弟 橘 媛﹂ を 受 け 継 ぎ つ つも 、. ね て養 は じ め む﹂ とあ り 、 歴 史 の ﹁ 事 責 の感 覚 を 、深く讀 者 に典 へじ めむ と な り 。. し ゃが んだ 格 好 を し てお り 、 高 所 か ら 飛 び 降 り る体 勢 が よ く 描 き 表 さ れ て いる。. を 読 み取 る こと が でき る。 ま た 、 両手 を そ れ ぞ れ胸 元 で握 り し め て、体 全 体 を 丸 め. 確 認 でき な い。. 確 認 し た と 考 え ら れ る。 明 治 期 のほ か の児 童 書 には 、 こ の敷 物 が 描 き 込 ま れ た 絵 は. み、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の姿 態 な ど が細 か く 描 写 さ れた と いえ よう 。. 事 責 の感 覚﹂ を 読 者 に与 え るた め に、 舟 や人物 の描 き 込 う と す る書 籍 と いえ る。 ﹁. 董 を 括 み た るも 、ま た お な じ﹂ と し て、 歴 史 を そ のま ま の事 実 と し て児 童 に与 え よ. t懲. 描 か れ た オ ト タ チ バナ ヒ メ の図像 であ る。 こ の挿 絵 には いく つか の 特 徴 が あ る 。 ま ず は 、 舟 と 二人 の 人物 が描 き 込 ま れ て いる こと だ 。 これ らを 描 き 込 む こと によ り 画 面 上 部 の空 白 が ほ ぼなく な り 、 波 も 画 面 い っぱ いに表 さ れ て いる た め に、 や や雑 然 と した印 象 を 受 け る。 舟 の形 は 舟 形 埴輪 を参 照 す る な ど考 古 学 の方 面 か ら の時 代 考 証 を 踏 ま え た も のと は いえ な い。 注 意 した い のは 、 舟 と オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の距 離 感 であ る。 非 常 に近 いこと が見 てと れ 、舟 か ら ま さ に飛 び降 り る光 景 に 現 実 味 と 臨 場 感 を 与え て いる。 ま た 、 舟 の上 では 一人 が縁 に手 を か け て ヒ メを 見 つ め 、 も う 一人 が 目を 覆 い、 ヒ メが波 に入 る のを 見 な いよう にし て いる。 舟 と こ の人 物 た ち の描 き 込 み によ る効 果 は 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の行 動 に現 実 感 が増 し 、 同 時 に 哀 れ と い った 感 情 が起 こ る こと にあ ろう 。. ]マ. 1:マ. 図 3「 能褒野 の露」挿絵. こ の挿 絵 のも う ひと つ の特 徴 は 、 ﹃ 古 事 記 ﹄ の記 述 に従 った 部 分 であ る。 波 の上. C 見ら飛. ・. λ[λ 事ず 奮 :思 矛L. :響 3と t:昇 轟 ギ 響 五. (64) ). 文学 ・文化編 (2008年 3月 甲南女子大学研 究紀 要第 44号.
(5) が 明 確 にわ か る図 像 は 、 これま で の入 水 の図 には見 ら れ な か った 。 ﹃ 前賢故 実 ﹄ ﹁ 弟. いが 、 少 な く と も 何 か を 念 じ て いる と いえ る。 こ のよう に両 手 を 合 わ せ て いる こと. な 姿 と な って いる。 こ の手 の形 が ″祈 り ″を 表 す かど う か は留 保 しな け れば な ら な. こ こ で注 目 し た いのは 、 オ ト タチ バ ナ ヒ メ の手 だ 。 両手 の指 を 組 合 せ 、 祈 る よう. 二 ︵ 大 正十 一︶年 発 行 の第 三期 国定 国 語 教 科 書 ﹃ 尋常 小 学 国 語 読 本 ﹄ に、 オ ト タチ. 場 面 を視 覚的 に表 現 す る こと に重 き を 置 いて いた と見 ら れ る。 後 述 す るが 、 一九 二. 集 であ る。 とも に児 童 の教 育 と いう 点 で共 通 し ており 、 両 書 は オ ト タチ バ ナ ヒ メ の. 補 完 す る目的 で編 ま れ てお り 、少 年 歴 史 物 語 ﹃ 草 薙 の剣 ﹄ も 教育 関 連 団体 によ る編. れ 描 か れた こと は留 意 す べき であ ろう 。 模 範 児 童 文 庫 ﹃日本 武 尊 ﹄ は学 校 教 科 書 を. な いにも 関わ らず 、 ヤ マト タケ ル の物 語 の中 か ら オト タ チ バ ナ ヒ メ の場 面 が選 択 さ. 橘 媛﹂ や ﹃ 女 鑑﹄ ﹁ 弟 橘 姫 命 ﹂ では 、 手 は 右 手 だ け が 自 然 な 位 置 で描 き 表 わ さ れ 、. バ ナ ヒメが挿絵 入 り で登 場 した ば か り であ つた。 教 材 が短 い文 語 体 であ った た め、. を 身 に つけ て いる こと か ら 、時 代考 証 が行 わ れ て いな いこと は明 ら か であ る。. オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の何 ら か の心 情 を 表 現 し ては いな か った 。 ﹃ 家 庭 教育 歴 史 読 本﹄. こ れ ら児童 書 にお け る 国語 体 によ る詳 し い記 述 お よび 教 材 と は異 な る挿 絵 は 、児 童. 続 いて、 昭和前 期 のオ ト タ チ バ ナ ヒ メ像 を 見 てゆき た い。 昭和 に入 ってか ら の挿. では 両手 を そ れ ぞ れ 固 く 握 り し め、 恐 怖 や苦 痛 、も しく は 決 意 を 感 じ さ せ るも のと. 差 さ せ て両 肩 を 抱 き じ め る よう に描 か れ ており 、 眉 間 には 跛 が刻 ま れ、 歯 を 食 いし. 絵 の特徴 と し て、 いわ ゆ る 日本 画 の様 式 か ら解 放 さ れ た 、 漫 画 的 な絵 が増 え ると い. た ち の理解 を 補 助 し た と 考 え ら れ る。. ば り 両 目を き つく 閉 じ 、 苦 痛 や恐怖 に耐 え る表 情 と な って いる。 そ し て、 こ の ﹁ 歴. 昭和 四︶年 七 月発 行 ﹃ 少 年 倶 楽 部 ﹄ に、 濱 田廣 う 点 があげ ら れ る。 ま ず 一九 二九 ︵. な って いた 。 ま た ﹁日本 お伽 噺 ﹂ 第 十 七 編 ﹃ 草 薙剣 ﹄ の挿 絵 では 、手 は 体 の前 で交. 史 お 伽 ﹂ 第 六 編 ﹃日本 武 尊 ﹄ では、 指 を 組 み合 わ せ た ″祈 り の姿 ″を し 、 や や眉を. 介 の詩 ﹁ おと たち ば な 媛 ﹂ があ り 、 川 上 四郎 によ る絵 が確 認 でき る。構 図 は ﹃ 前賢. 故実﹄﹁ 弟 橘 媛﹂ と 同 じ で、 ヒ メか ら や や離 れ た 後 方 に舟 と 数 人 の人 物 が 描 き 入 れ. 寄 せ 目を 伏 せ た静 か な 表 情 で海 に入 る オ ト タ チ バ ナ ヒ メが 登 場 し た のであ る。. 図 6『 少年世界』25-8「 日本武尊」挿絵. ら れ て いる。. 尊﹄ では、絵 は 口絵と挿絵 がそれぞれ 一枚 のみしか. 二三 ︵ 大 正 十 二︶年 発 行 の模 範 児 童 文 庫 ﹃ 日本 武. 描かれた大正期 の児童書 は三冊あり、そ のうち 一九. で海 に飛び込 んで いる。 ほか にオトタチバナ ヒメが. の姿 ″を した オ ト タ チ バ ナ ヒ メを 確 認 でき た ︵ 図 6︶。 ここでは、両手 を顔 の前 で合わせ た合 掌 の姿. ︵ 大 正 八︶年 八月発行 の雑 誌 ﹃ 少年 世界﹄ に ″ 祈り. 次 に、大正期 の挿絵を見 てゆく。まず は 一九 一九. ど す べて ﹃ 古 事 記 ﹄ ﹃日. 成 果 が現わ れ て いる。 し. の発 掘 など考 古 学 進 展 の. あ り 、遺 物 の調査 、遺 跡. 図 や古 墳 の想像 図 な ど が. 挿 絵 の中 には埴輪 の写 生. き た 視 点 が見 ら れ る。 一方 で舟 の形 、 男 性 の衣 装 、 ヒ メ の衣 装 と 沓 、髪 型 な ど は時. は 、 オト タチ バナ ヒ メ の姿 勢 や角 度 に ﹃ 前 賢故 実 ﹄ の ﹁ 弟 橘 媛﹂ 以 来 引き 継 が れ て. 大 正 期 、 昭和 戦 前 ・戦 中期 のオ ト タ チ バナ ヒ メ像 一一. なく 、そ の挿絵がオトタチ バナヒメの入水 の図 であ 大 正十 三︶年発行、少年歴史 一九 二四 ︵ る。ま た、. 本 書 紀﹄ 原典 には 記 さ れ. 一九 三 五 ︵ 昭 和 十 ︶年 発 行 の ﹁ 少 年 大 日 本 史﹂ 第 三 巻 ﹃日 本 武 尊 ﹄ ︵ 図 7︶ で. 草薙 の剣﹄ では、 二枚 の挿絵 のうち 一枚 がオ 物語 ﹃. て いな いこと か ら 、 挿 絵. か し 、衣 装 ・沓 ・髪 型 な. 図 7 少年大 日本 史『 日本武尊』挿絵. 代 考 証を 踏 まえ たう え で描 き 表 し た こと が見 てと れ る。 こ の書 籍 に掲 載 さ れ た他 の. トタチ バナヒメであ る。両書とも挿絵 の全体数 が少. ム 奮 た じ 俊:に 薄11齢 輔 弟:. 千 晶 :オ トタチバ ナ ヒメの祈 り 田中. (65).
(6) は考 古 学 上 発 見 さ れ た 細 か い ″史 実 ″が 描 き 加 え ら れ た も のだ 。 オ ト タ チ バ ナ ヒ. ど ん な に感 激 し 、 発 奮 し た こと であ ら う 。. 尊 も ど れ ほど 媛 のお やさ し いな ぐ さ めを お喜 び にな つた こと であ らう 。 媛 の. 御 姿 を 拝 めば 、 将 士 は 旅 の苦 し さも 忘 れた。. そ のやさ し い微 笑 は 戦 ひ つか れ た 将 士 に、 はげ し い気 力 を よ みが へら せ た。. 海 の神 様 が皇 子 に祟 り を す る メが言う ﹁ のでござ り ま し ょう 。 御 大 切 な 御 身 、 私. 媛 の御 手 あ つ いお 世 話 に涙 を 流 し 、 皇 室 の御 栄 を いのり な が ら 死 ん で行 つた. 良 民 た ち は媛 を 女 神 のやう にあ り が たく 拝 んだ こと であ らう 。. た め た こと であ らう 。. ゛ ま た 、 行 く さき ノ ヽ の賊 も 、 媛 のお い つく し みが身 にし み て、 悪 い心 を あ ら. た こと であ らう 。. 媛 の慈 愛 の御 言 葉 に感 激 し て病 気 を 忘 れ て、剣 を と つて立 つた勇 士 も 多 か つ. 戦 傷 者 も あ つた こと であ らう 。. が御 身 代 り に、 人 身 御 供 と なり ま し て、 たふ 海 中 に入 り ま せう ﹂ と いう 言葉 と ﹁ と い媛 ﹂ の行 為 は 、 挿 絵 の臨 場 感 と 古 代 の史 実 によ って、 よ り 現実 感 を 持 ったも のと し て児 童 た ち に印 象 づ け ら れ た と 考 え ら れ る。 昭 和 十 五︶ 年 発 行 ま た 、 一九 四 〇 ︵. あ ゝ、 そ の媛 は つひ にた ふと い犠 牲 と な ら れ た のであ る。. 悲 の心 を 持 ち 、 強く 優 し く 、ま た 傷 病 兵 の見舞 いな ども し 、 そ れ は 戦 時 下 にお け る. ﹃日本 肇 国 物 語 ﹄ は 、指 を 組 み 合 わ せ る 図 ″祈 り の姿 ″ で海 に 入 る 挿 絵 であ る ︵ ” 。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メは ﹁ 悪 者 の征 伐 8︶. 女 子 、 さ ら に いえ ば 皇 后 と し て の役 割 を 呆 た し て いる。 そ し て こ の姿 は ﹁日本 女 子. こ のよう な感 激 を も って語 ら れ る こ の書 籍 で のオト タ チ バ ナ ヒ メは 、美 し く 、慈. にも ︿中 略 ﹀け は し い山 を のぼ るとき も 、 はげ し い坂 を 下 る と き も 、尊 のお そ ば を. の鑑 ﹂ と し て挿 絵 と と も に児童 に植 え つけ られたと考 え ら れ る。 最 後 に、雑 誌 や児 童 書 の挿 絵 では. 者 の ﹃日本 国 史 美 談 ﹄ の挿 絵 は ﹃ 弟 橘 媛 ﹂ に似 た 日本 画 風 の絵 で、背 前賢 故 実﹄ ﹁. 化 さ れ た 線 が用 いら れ てお り 、 ヒ メは手 を 組 ま ず に両手 を 下 に差 し出 し て いる。 前. は 、 図 8と 同 じく 見 開き の挿 絵 で、 同 じ位 置 に ヒ メが描 か れ て いる。 漫 画 的 な 簡 素. 八 ︶年 発 行 ﹃ 童 話 日 本 国 史 ﹄ に オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の挿 絵 が 確 認 でき た。 ま ず 後 者. 一九 四三 ︵ 昭和 十 ほ か に 一九 四 〇 ︵ 昭 和 十 五 ︶年 発行 ﹃日本 国史 美 談 ﹄ 第 一巻 、. バ ナ ヒ メ像 は 、指 を 組 合 せ 静 か に目. 図 9︶。 こ の オ ト タ チ 媛 ﹄ であ る ︵. 弟橘 画﹂ のう ち の 一作 、 伊 東 深水 ﹃. 国史絵 十 七 ︶年 ま で に 描 か れ た ﹁. 昭 和 九 ︶年 以降 一九 四 二 ︵ 昭和 四 ︵. 一九 三 な く 日本 画を と りあ げ た い。. 古 事 記 ﹄ ﹃日本 書 紀 ﹄ には な い、 以 下 の 景 に舟 の舶 先 が描 か れ て いる。 本 文 には 、 ﹃ 文 章 が 挿 入 さ れ て いる。 弟 橘 媛 のた ふと い犠 牲 が尊 の御 身 と 皇 軍を す く つた の であ つた 。媛 こそ 日本 女 子 の鑑 であ る。︿中 略 ﹀. 国 史 絵 画﹂ 制 作 の予 定 であ った 。 ﹁. で迫 る 。 こ の絵 画 の鑑 賞 者 は 、児 童. mと いう 大 画 面 が、 一五 一× 一八 一C. を と じ る ″祈 り の 姿 ″ に 他 な ら な い。 荒 海 の中 に 飛 び 込 む 美 し い姿. 鎮 ま る。 強 調 さ れ る のは 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の忠 節 心 であ る。. 忠 義 な 弟 橘 媛 の心 ﹂ が 通 じ た のか 、 海 は さ せ て いただ き ま す ﹂ と 海 に沈 む 。 そ の ﹁. 海 神 を な だ め た い﹂ ﹁よ ろ こん でお身 代 わ り を は な れ ず にお供 し てき た﹂。 そ し て ﹁. 図 8『 日本肇国物語』挿絵 そ の神 々し い美 し い御 姿 と そ の男 ま さり の御 ふるま ひを 拝 した皇 軍 の将 士 は. 図 9 伊東深水 『弟橘媛』. (66) ). 文化編 (2008年 3月 文学 甲南女子大学研 究紀 要第 44号.
(7) 田中 千晶 :オ トタチバ ナ ヒメの祈 り (67). 同様 、 これら のさ し絵 か ら、少 年 時 代 の学 習 の 一こま を 思 いお こさ れ る 人 があ る に. 吉 井 が学 んだ 教 科 書 は 、 一九 一八 ︵ 大 正 七 ︶年 発 行 の第 三期 国定 国 語 教 科 書 であ. の契 機 は、 一九 三 三 ︵ 昭和 八︶年 、 昭 和 天皇 の長 男 誕 生 と いう 慶事 を 機 に、東 京府 計 画 が 立 てら れ た こと にあ る。 合 計 七 十 八点 の国史 を 主 題 と す る絵 画 が 、 五十 五人. る。 後 述す るが 、 こ の教 科 書 には ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ の独 立 し た 課 があ り 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ. ち が いな い﹂ と 、 教 科 書 の挿絵 の印 象 強 さを 述 べ て いる。. の画 家 によ つて制 作 さ れ た 。 し か し 一九 四 二年 四月 に制 作 が完 了 したも の の、養 正. メ の挿絵も 掲 載 さ れ て いた。 こ の教 材 の考 察 に入 る前 に、 そ れま で の教 科 書 に掲 載. で修 養 道 場 ﹁ 養 正 館 ﹂ の建 設 が 企 画 さ れ 、 そ こ に 一連 の国 史 を 表 す 絵 画 を 展 示 す る. 館 の展 示施 設 が 完 成 せず 、東 京 都 の管 理 下 にお か れ た ま ま 終 戦 を 迎え た の であ る。. オ ト タチ バナ ヒ メ の名 は、 一九 〇三 ︵ 明 治 三十 六 ︶ 年 か ら使 用 さ れ る 国定 教 科 書. さ れ た オト タチ バ ナ ヒ メ の記 述 に つ いて纏 め てお こう 。. 画﹂ は 、道 場 に お け る教 養 面 で の教 育 的 効 果を ね ら つた も の であ った 。 そ の教育 と. よ り も前 の、自 由 採 択 期 及び検 定 期 の歴 史 ︵ 国史 ︶ 及 び 国語 ︵ 読 本 ︶ 教 科 り に現 わ. 修 養 道 場 は心 身 共 に健 全 な 少 国 民 の育 成 を 目 的 と し た 場 であ り 、連 作 の ﹁ 国史 絵. は ﹁ 囲 史 を 通 じ て雄 大 な る肇 國 精 神 を 性 得 し、 日 本 精 神 を 錬 成 せ ん と す る﹂ も の. れ て いた 。 し か し オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の挿 絵 は な い。 ま ず 歴 史 では、 ﹃ 教 科 書 大 系﹄. ﹁ 初 メ皇 子 ノ海 ヲ渡 ル爬 二相 模 海 二遇 フ、船 殆 卜覆 没 セ ント ス、時 二寵 姫 橘 媛 従 ヘ. だ 。 こ のよう に少 国 民 の精神 修 養 、 教 育 のた め に描 か れ た オ ト タチ バナ ヒ メは 、特. 以 上 、第 一節 、 第 二節 を と お し て、 オ ト タチ バ ナ ヒ メ入水 の図 の噌 矢 と 考 え ら れ. リ 、 媛 日 ク是 海 神 祟 ヲ為 ス、願 ク ハ妾 之 二当 ラ ント 、 自 カ ラ海 二投 ス﹂ と 記 さ れ. 記 載 の検 定 期 以 前 の教 科 書 だ け でも 七 種 類 にオト タ チ バ ナ ヒ メ の名 を 確 認 でき た 。. 前 賢故 実﹄ ﹁ る ﹃ 弟 橘 媛 ﹂ 以 降 の、 婦 人 雑 誌 、児 童 雑 誌 、 児 童 書 及 び 日本 画 に お け. 一八 八 八 ︵ 明治 二十 一︶年 発 行 の検 定 教 科 書 ﹃ る。 ま た、 小 学 校 用 日本 歴 史 ﹄ 巻 之. に女 子 の模 範 像 と し て児 童 に鑑 賞 さ れ る 予 定 であ った が 、 そ れ は 実 現 さ れ な か っ. る オ ト タチ バナ ヒ メ像 に ついて概 説 し てき た。 そ れ ら の多 く は 、女 子 の鑑 、 模 範 像. 上 では、 ﹁ 鵬 風 俄 二起 り、船 将 二覆 ラ ント ス。 妃 弟 橘 媛 軍 二従 ヘリ。尊 ノ命 二代 ラ. た と え ば 、自 由 採 択 期 であ る 一八 八 一 ︵ 明 治 十 四︶ 年 発 行 の ﹃ 新 編 日本 署 史 ﹄ では. の描 写 と い った 教 育 的 効 果と の関 わ り を 示 し て いた 。 そ れ では 、実 際 に小 学 校 では. ン コト ヲ祈 り、身 ヲ躍 ラシ テ海 二投ズ ﹂ と 記 さ れ る。 ほ か の教 科 書 も 簡 潔 な 記 述 で. た。. オ ト タ チ バナ ヒ メ像 が ど のよう に描 か れ 、教 育 さ れ て いた のだ ろう か 。 次 節 で見 て. あ り 、挿絵 はな い。. 潔 であり 、 そ れ は景 行 天皇 あ る いは ヤ マト タ ケ ル の話 の 一部 と いう 扱 いか ら 生 じ て. う 記 述 が見 ら れ た が 、 挿絵 はな い。 以 上 のよう に国定 期 より 前 の記 述 は いず れも 簡. 認 でき 、 ﹁ 海 ヲ渡 リ テ、 上 総 二至 ル舟 中 、 難 風 二逢 ヒ、弟 橘 媛 、海 二投 ゼ リ﹂ と い. 検 定期 の国 語 教 科 書 では 一八 八 八 ︵ 明 治 二十 一︶ 年 ﹃ 高等 小 学 読 本 ﹄ 巻 之 一に確. ゆく 。. 〓一 戦 前 の小 学 校 教 科 書 に お け る オ ト タ チ バ ナ ヒ メ 像 本節 では、戦前 の小学校 の国定国語教科書 に掲載 された、オトタチバナ ヒメ教材. 児童 にもたらす効 果と し て、国文学者 の吉井巌 によ る回想 は示唆を与え てくれる。. て教科書が児童 に与え る影響 は非常 に大き いも のと な る。 さら に、教科書 の挿絵が. 教材を学 ぶこと から、教材 に対し てほぼ共通 の認識をす ると考えられる。したが っ. ″読者 ″ の数が圧倒 的 に多 い媒体 であ る。また、同年 齢 の児童 が同時期 に 一斉 に同. さ れ 、 ヒ メは掲 載 さ れ て いな い。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メは 国定 歴 史 教 科 書 か ら姿 を 消 し. ﹁日本 武尊﹂ の独 立 し た 課 が な く 、 ヤ マト タ ケ ルは 景 行 天皇 の代 と し てわ ず か に記. であ り 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の名 は な い。 ま た 、 国 定 期 の最 終 にあ た る 第 六 期 で は. 本 武 尊﹂ が掲 載 さ れ る が、 これ は も っぱ ら ヤ マト タ ケ ル の活 躍を 中 心 に述 べたも の. では、 国定 教 科 書 を 見 てゆく 。 歴 史 教 科 書 では第 一期 か ら第 五期 に、 第 三 課 ﹁日. いるた めと考 え ら れ る。. ど のよう に学 んだか、と いう ことなど 一切 おぼえ て いな い﹂ が、復刻版 の 吉井 は ﹁. た の であ る。. の挿絵を中心 にと りあげ る。教科 書 は、 これま で述 べてき た児童 書 や雑 誌 と比 べ. 教科書 でヤ マト タケ ル の挿絵を見た瞬 間、古 い記憶 が呼 び覚ま されたと いう 。﹁ 私.
(8) 推 測 さ れ る。. 考 え ら れ る。 し か し 、 教 科 書 の普 及率 に比 べれば 少 人 数 への伝 達 に留 ま って いたと. め 、 こ の間 オト タ チ バ ナ ヒ メは 児 童 書 や雑 誌 によ って児 童 た ち に伝 え ら れ て いた と. 明 治 三十 六 ︶ 年 に国定 制 度 にな ってか ら の約 二十 年 間 は掲 載 さ れ て いな いた 〇三 ︵. だ し そ れ は、 大 正 十 一︶ 年 発 行 の、第 二期 か ら であ る。 少 な く と も 一九 一九 二 二 ︵. 一方 、 国 語教 科 書 では オ ト タ チ バ ナ ヒ メは ひと つの課 と し てと り あ げ ら れ た 。 た. 前 に置 いて いる こと が わ か る。 ﹁ 御 身 代 り と なり て海 に入 り 神 の御 心 を な だ む べし﹂. に描 いた と 見 ら れ る。 合 掌 など ″祈 り の姿 ″ ではな いが 、 衣 服 の跛 か ら 両手 を 胸 の. 前賢故 実﹄を も と 酷 似 し て いる。表 着 の袖 丈 が異 な る な ど 細 か い差 異 は あ る が、 ﹃. 弟 橘 媛﹂ と ほ ぼ 同 じ で、表 着 の模 様 が 前賢故 実﹄ ﹁ 節 です で に述 べた が 、構 図 が ﹃. 。 図0 ビ 日本 書 紀 。 白 表 紙 本﹂ には挿 絵 があ る ︵ ﹂ と 記 す のみ であ る。 こ の ﹁ 1︶ 第 一. 弟 橘 媛﹂ ハ古 事 記 及 本 ﹂ と 同 じ であ る。 編 纂 趣 意 書 に注 意 事 項 はな く 、 出 典 を ﹁﹁. 伝 説 卜 見 ル ヲ可 ト ス。﹂ と あ る の には 着 目 す べき だ ろう 。 歴 史 教 科 書 に掲 載 さ れ な. 史 実 ト シ テ之 ヲ授 ケ ン ヨリ ハ、 日 本 婦 人 ノ美 シ キ行 ヲ説 ケ ル 一 授 上 ノ注意 ﹂ に、 ﹁. 教 ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ は 、文 語 体 の短 い教 材 で、 挿 絵 は な い。 こ の教 科 書 の編 纂 趣 意 書 の ﹁. 黒 表 紙 本﹂ 巻 九 第 十 八課 黒 表 紙 本 ﹂ に つ いて言 及す る。 ﹁ て いる こと か ら 、 ま ず ﹁. 白 表 紙 本﹂ 両 方 に採 録 さ れ 黒表 紙本 ﹂ ﹁ 白 表 紙 本 ︶ であ 紳。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メは ﹁ ︵. 尋常 小 学 国 語読 本﹄ 尋 常 小学読 本 ﹄ ︵ 黒 表 紙 本 ︶、 も う 一方 は新 た に編 纂 し た ﹃ た ﹃. 白 黒表 紙本﹂ ﹁ バ ナ ヒ メ の話 に対 す る 理解 を より 一層 深 め たと 考 え ら れ る。 な お 、 ﹁. 書 が 出 版 さ れ、 と り わ け オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の挿 絵 が描 か れ た 。 こ のこと は オ ト タ チ. 体 で書 か れ た こ の教 材 の発 行 の直 後 、 教 育 関連 団体 か ら数 点 のヤ マト タ ケ ル の児 童. も オ ト タ チ バナ ヒ メ の話 を 読 む こと にな った。ま た 、第 二節 で述 べた よ う に、 文 語. 度 こ の話 を 知 って いた か は 不明 であ る。 し かし 、 こ の国定 国 語教 科書 によ って女 児. タ ケ ル の英 雄 諄 は女 児 より も 男 児 が 好 む ジ ャンルであ った こと か ら、女 児 が ど の程. 児 童 書 では、 こ の頃 ま で に多 く のヤ マト タケ ル の伝 記 が発 行 さ れ て いた 。 ヤ マト. と いう 決 意 と と も に海 に入 って いく 姿 が 描 き 出 され て いる。. い理由 が こ こに含 ま れ て いるた め であ る。 史 実 ではな く 、 道 徳 的 な 教 え を 諭 す のに. 三 ハ八、 八九 一人 。 そ 表 紙 本 ﹂ 巻 九 の発 行 年 であ る 一九 二 二年 の就学 児童 数 は 九 、 ︲ の就 学 率 は 、九 十 九 ・三 パ ー セ ント を 超 し て いた。 こ のこと か ら 、相当 数 の児 童 が. 第 三 期 国定 国 語 教 科 書 には 、 二種 類 が存 在 す る。 ひと つは 第 二期 教 科 書 を 修 正 し. よ い伝 説 と いう 位 置 づ け と な って いる。 ま た 、女 子 教 育 の 一環 と し て認 識 さ れ て い. 黒 表 紙 本﹂ と 同 じ 一九 弟 橘 媛 ﹂ を 掲 載 す る。 ﹁ 白 表 紙 本 ﹂ は 巻 九 の三 に ﹁ 一方 、 ﹁. 弟 橘 媛﹂ に基 づ いた 前 賢故 実 ﹄ ﹁ は第 四期 発 行 ま で十 四年 間使 用 さ れ て いるた め 、 ﹃. 教 科 書 と いう 媒 体 によ ってオト タ チ バ ナ ヒ メの話 を 読 んだ と 考 え ら れ る。 こ の挿 絵. る こと も 明 らかだ ろう 。. 大 正 十 一︶ 年 発行 二二 ︵. ﹁ 挿 画 そ のも のが児 童 に親 じ め るも のにな つた﹂ と いう. 更 に 面 目 を 一新 し﹂ の趣 を 異 に し 、第 四 期 に 至 って ﹁. が多 く 、 大 体 児 童 に親 し め な いも のであ り 、 第 三 期 で こ. ら の挿 絵 の変 化 と し ては 、 第 二期 ま でが純 日本 画 風 の絵. か る。 国 定 国 語 教科 書 のす べ て の教 材 におけ る第 一期 か. これま で見 てき た絵 と はま った く 異 な って いる こと がわ. 図 H︶ に注 目す ると 、児 童 書 な ど を 含 め る。 ま ず 挿 絵 ︵. 弟 橘 媛 ﹂ であ 昭和 十 一︶年 に発 行 さ れ た 巻 七 の 二 ﹁ 一九 三 六 ︵ を 見 て ゆき た い。. サ ク ラ読 本﹂ 専常 科 用 ﹄、俗 称 ﹁ 小 学 国 語 読本 ヨ 次 に、第 四期 国 定 国 語 教 科 書 ﹃. 絵 が 、多 人 数 の児 童 に、 長 期 にわ た って影 響を 与え 続 け た と いえ る。. に異 な るだ け で ﹁ 黒表 紙. 碑 #. 図 11『 小学国語読本』 挿絵. ・か な の用 い方 が 部 分的. で、内 容 も 文 体 も 、 漢 字 図 10『 尋常小学国語読本』挿絵. (68) ). 文学 ・文化編 (2008年 3月 甲南女子大学研究紀要 第 44号.
(9) 千 晶 :オ トタチバ ナ ヒメの祈 り 田中. (69). 第 四期 国 定 国 語 教 科 書 の研究 書 であ る ﹃ 小 学 国 語 読 本 綜 合 研究 ﹄ では 、 こ の挿 絵 に. 伸 ば し 、 左 手 は 肘 を 曲 げ 下 に出 し 、 海 に飛 び 込 む に し ては 不自 然 な 体 勢 だ 。 当 時 の. 四期 で ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ に倣 わ な い構 図 と な り 、筆 致 も 異 な る絵 と な った 。 右 手 は 上 に. 流 れ があ る。 オ ト タ チ バナ ヒ メ に関 し ては 、第 三期 は 未 だ 日本 画 風 であ り 、 こ の第. 牲 的精神 は 、 国家 的 なも の、 道 徳 的 なも の、美 的 なも のが 渾然 一体 と な つて ゐるも. のでは無 か ら う か 。﹂ と 指 摘 し て いる。 さら に ﹁ 弟 橘 媛 の自 ら 進 ん で決 意 さ れ る犠. こ の教材を 重 大 視 し 、媛 の犠 牲 的 行 為 に感 動的 効 果を 与 へよう と す る やう にな つた. 情 を 書き 加え た と 考 え ら れ る。 こ の教 材 に関 し て、 国 文 学 者 の岡 崎義 恵 は ﹁ 編者 は. は な いと 思 は れ る。 ﹂ と 高 く 評 価 し 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ は女 子 教 育 にお いて最 適 な. ので、日本 精 神 の清 華 と も いふ べく 、殊 に女 性 に対 す る教 材 と し ては こ の上 のも の. 弟 橘 媛 の海 に お 入 り にな る 図 は 、菊 池 容 斎 の前 賢 故 実 に 出 て居 り 、 読 本 の図. 存 在 と みな さ れ て いたと いえ る。. 関 し て国 文 学 者 の武 田祐 吉 が次 のよう に述 べ て いる。 は 、 これ に基 いて いる やう であ る。 上 の方 に撥 ね 上 げ ら れ て ゐ る のは 、御 裳 で. こ の第 四期 の巻 七 発 行 は 一九 三 六年 で、 同年 の就 学 児 童 数 は 一 一、 四 三 四、九 八. 三 人。就 学 率 は 実 に九 十 九 ・五 パ ー セ ント を 超 し て い知 。 こ の就 学 児 童 た ち に対. あ らう 。 ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ と の共 通 点 を 見 いだ し にく いこ の挿 絵 でも ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ に基 づ いた. し 、教材 の印 象 を ア ンケ ー ト 調 査 し た 当 時 の資 料 が あ る。 東 京 の 二校 で行 わ れ、. 人 であ る。 こ の調 査 結 果 のう ち 、 課 に対す る関心 度 、 興 味 の強 さ の順位 を 表 した表. と 感 じ た の であ ろう か 、 興味 深 い発 言 であ る。 ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ が 昭和 に 入 っても な お 第 四期 と 第 三期 の教 材 が異 な る点 は 、 挿 絵 だ け では な い。文 語 体 か ら 国語体 に改. によ ると 、巻 七 の全 二十 六課 のう ち ﹁ 弟 橘媛﹂ は 、 男 児 では 七位 、女 児 では 八位 、. ﹁ 弟 橘媛﹂ を 学 習 す る 四年 生 の男 児 数 は 三 四 四人 、 女 児 数 は 三 五 四人 、 合 計 六九 八. め ら れ 、 さら に教 材 独自 の文 章 が 追 加 さ れ て いる こと も あ げ ら れ る。 た と え ば ヤ マ. 総 合 で八位 と な って いる。 男 女 と も に関心 度 が高 い教 材 であ った こと が わ か る。ま. 影 響 力 を 保 って いた こと を窺 わ せ る。. ト タ ケ ル 一行 が 乗 った船 が沖 にさ し か か つた と き に、 嵐 が起 こる。 そ の描 写 は次 の. ら な い﹂ F 一 度 と 読 む 気 が し な い﹂ は 男児 一三人 、 女 児 一四 人 であ った 。女 児 のほ. た 、具体 的 な 人 数 を 示 せば ﹁ す き ﹂ ﹁よ か つた﹂ は 男 児 六 〇人 、女 児 九 九 人 、 ﹁つま. 風 は忽 ち 大 波 を 巻 起 し 、波 は船 を 木 の葉 のやう に ゆり 動 か し た 。 も う 進 む こと. う が やや教 材 に対 し て好 感 を も つた 人数 が多 いと いえ る が 、 ジ ェンダ ー的 に大き な. よヽ つだ 。. も 退 く こと も 出 来 な か つた 。 お供 の者 は 、皆 ま つさを にな つて船 底 にひ れ ふし. 差 が見ら れな いこと を 考 え ると 、後 述 す るヤ マト タ ケ ル の英 雄 化 が大 き な影 響 を 与. 最後 に、第 五期 国 定 国 語 教 科 書 ﹃ 初 等 科 国 語 ﹄ を 見 て ゆく 。 ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ は、 一九. であ る。. え て いたと 考 え ら れ る。 これ ら の調査 結 果 は、当 時 の受 容 に関 す る重 要 な報 告資 料. た。. これ は ﹃ 古 事 記 ﹄ ﹃日本 書 紀 ﹄ に は 無 い部 分 であ り 、 海 上 で の嵐 の様 子 を 臨 場 感 を 込 め て記 述 し て いる。児 童 の緊 張 感 を 引 き 出 す 効 果 を 狙 ったと 考 え ら れ る。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の様 子 は以 下 のよう であ る。. オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の前 半 の言 葉 は ﹃ 日本 書 紀 ﹄ の ﹁ 是 、 必ず 海 神 の心 な り﹂ に基. ざ ん ぶと お 飛 び 込 み に る。 オト タチ バ ナ ヒ メが海 に入 る様 子 は、第 四期 のよう に ﹁. いる こと か ら 、 こ の絵 は 一九 三 六年 か ら 一九 四 五年 ま で九年 間使 用 さ れ た こと にな. 四二 ︵ 昭和 十 七 ︶ 年 に発 行 さ れ た 巻 五 の二に採 録 さ れ て いる。 文 体 は 国語体 か ら文. づ いて いるが 、 そ の後 の言 葉 か ら ヒ メ の表 情 ま では 、 教 材 独自 の文 であ る。 ま た 、. な つた﹂ では な く 、 ﹁ す が だ た み 八重 、皮 だ た み 八重 、 き ぬ だ た み 八重 を 波 の上 に. 弟 橘 媛 は 、 で﹂れ は 海 神 のた ゝり であ ら う 。 此 のま ゝでは尊 の御 命 が 危 な い。 ﹂. ヒ メが海 に入 る様 子 は ﹁ 荒 狂 ふ波 間 に、ざ ん ぶと お 飛 び 込 み にな つた﹂ と 擬 態 語 が. 敷 き て、 そ の上 に お り たま へり﹂ と ﹃ 古事 記﹄ に基 づ いた 記 述 が な さ れ て いる。第. 語 体 へと 変 更 さ れ 、 古 典 教 材 と な って いる。挿 絵 は第 四期 と 同 じも のが使 用 され て. 用 いら れ て いる 。 編 纂 趣意 書 によ れ ば 、 こ の教 材 の目 的 が ﹁ 弟 橘 媛 の貞 烈 な る御 最. 四期 に見 ら れ た教 材 独 自 の文 章 は 、 ほ ぼ姿 を消 し て いる。 そ し て文 語体 で記 された. と お考 へにな つた。 媛 のやさ し いお顔 には 、き つと 御 決 心 の色 が浮 んだ 。. 期 ﹂ を 記 し ﹁日本 婦 人 の 一美 談 と し て授 く べき ﹂ こと にあ るた め 、 ヒ メ の 言葉 や表.
(10) 特 に女 子 教 材 と し て の ﹁日本 婦 道 の鏡 と も 讃 へ奉 る べき 御 物 語 ﹂ であ る こと か ら ﹁. 昭 和 十 八︶ 年 発 行 ︶、 そ れ に よ る と 、 こ の話 は 書 が 用 意 さ れ て お り ︵一九 四 三 ︵. こと により 、文 章 全 体 の分 量 が短 く な った。 こ の第 五期 国 定 教 科 書 には 教 師 用教 科. で生き て いた 、 ま だ 薄 暗 い世 の時 代 の女 であ った。 し か し、愛 に生 き るた め に. 弟 橘媛 は 、乗 り 越 え が た い皇 命 の壁 と 、争 いが た い海 神 の怒 り が支 配 す る世界. 一度 に ふき あ が って、媛 を 真 直 ぐ に死 へと む か わ せ て いた の であ る。︿中略 ﹀. 死を 選 んだ 、 そ のよう な 死 を は っき り と自 覚 し た お そ ら く 最 初 の女 性 像 と し. 項 目 があ る。 同 じ 第 五期 の巻 三 です で に学 習 済 み のヤ マト タケ ルは武 勇 に優 れ た皇. に ﹁ 弟 橘 媛 の貞 節 と 日本 武 尊 の優 し いお心 が描 いてあ る こと を わ か ら せ る﹂ と いう. 哀 切 の情 に満 ち て いる の であ る が 、 こう し た 愛 の共 鳴 の美 し さ﹂ があ ると す る。 ﹁. 無比 献 身 の美 し さ﹂ ﹁ 俊 彦 も 同様 であ る。 前 述 の吉 井 論 を 引 用 し、 こ の物 語 に は ﹁. こ のよう にオ ト タ チ バナ ヒ メを 賞 賛 す るよう な論 調 は 、 同 じ第 三 期 で学 んだ 守 屋. て、 ﹃ 古事 記 ﹄ のな か に輝 く 位 置 を 占 め て いるよう に思う 。. あ づ ま は や。﹂ と ヒ メを 偲 ぶ 弟 橘 媛 ﹂ では ヒ メ の墓 を 作 り ﹁ 子 であ った が 、 こ の ﹁. と り わけ この に支 え ら れ て いるた め に、 甘美 な も の にも な って いる﹂ 物 語 ゆえ に ﹁. 意 義 を 多 分 に持 つて ゐ る﹂ と す る。 実 際 に、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の話 は高 等 女 学 校 で ︲ さ ら に詳 細 に学 習 さ れ て いた 。 ま た 、 教 師 用 教 科 書 が 示 す 教 材 取扱 の要 点 のひと つ. よう な 優 し さを 持 つ人 物 と し て描 出 さ れ る。 英 雄 ヤ マト タ ケ ル の理 想 化 が こ こ に認. 調 さ れ る のが ″愛 ″ であ る。 第 四 期 国 定 国 語 教 科 書 世 代 の国 文 学 者 ・中 西 進 も ま 彼 女 は こ の歌 を 歌 う こと に よ って、愛 を 回想 た 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の歌 に触 れ ﹁. 部 分 にはき ら り と 光 るも のがあ って、 読 む者を し て感 動 せ し め るも のが あ る﹂ とす. に考 察 し てき た 。 こ の教 材 は 一九 二 二年 か ら終 戦 ま で の 二十 三年 間 、 挿 絵 を 伴 って. し 、 そ の愛 の回想 の中 で死 ん で い った ﹂ と 論じ て いる。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の行 動と. め ら れ よう 。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の教 材 は 、 ヤ マト タ ケ ルを 補 う た め のも の でも あ っ. 戦 前 の教 科 書 に には 、 熊 襲 た け る討伐 の話 と 弟 橘 媛 入水 の 使 用 さ れた 。 吉 井 巌 は ﹁. 東 征 物 語 のも 歌 は ヤ マト タ ケ ル ヘの愛 情 ゆえ に発 す るも のと いう 点 が 強 調 さ れ 、 ﹁ ︲ っと も 美 し い場 面 の 一つを 構 成 す る﹂ と される。 これ ら のよう な 感 傷 的 と も いえ る. る。 戦 前 と は異 な り ″見 習 う べき 姿 ″″女 性 の鑑 ″と は 謳 わ れ な いが 、 代 わ り に強. 話 がず っと 入 って いて、 戦前 に教 育 を 受 け た 人 々は 、 これ ら の話 か ら ヤ マト タケ ル. た。. の人 物 像 を 、 そ れ ぞ れ に造 って いる 人 が多 いと 思う ﹂ と 述 べ て いる。 オ ト タ チ バ ナ. 論 説 は 、美 し いオ ト タ チ バ ナ ヒ メと い. 以 上 、 戦 前 の小 学 校 教 科 書 にお け る オ ト タ チ バ ナ ヒ メ教 材 に ついて、 挿 絵 を 中 心. ヒ メ に関 し ても 、 国 定 教 科 書 によ る教 育 と いう ″洗 礼 ″を 受 け た児 童 た ち は そ れ ぞ. う イ メージを 保 証 し 、 具体 的 な 図 像 を 作 成 す る際 の有 効 な 参 照資 料 と な ると. れ に ヒ メを イ メ ー ジ し た と 考 え ら れ る。 そ のイ メージ は 、 荒 れ る海 に飛 び 込 む と い う 挿 絵 によ って、 よ り 強 固 に忠 節 や献 身 の女 性 と し て刻 み込 ま れ た と いえ る。 次 節. 考 え ら れ る。. るだ ろう か。 ヤ マト タ ケ ル に つ いて の. の図 像 は、 ど のよう な 姿 で描 か れ て い. そ れ では 、 現在 のオ ト タ チ バ ナ ヒ メ. では 、 こ のよう な 洗 礼 を 受 け た彼 ら に よ って、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ像 が美 化 さ れ る様 相 に つ いて触 れ る 。. 四 愛 と 犠 牲 ︱ ︱ 現 在 の オ ト タ チ バ ナ ヒ メ像. 児 童 書 及び絵 本 に描 か れ て いる オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の絵 の多 く は 、指 を 組 み合 わ せ た り 合 掌 し た り す る ″祈 り の姿 ″. 前節 でもとりあげ た吉井巌 が、第 三期国定国語教科書 で学 んだ ことはす でに述 べ 悲しみ の美 しさを感 じる﹂ と いう。 た。 そ の吉井は、 オト タチバナ ヒメに ついて ﹁. で海 に飛び 込 む 入水 の図 であ る。 た と 昭 和 四十 七 ︶ 年 発 行 の え ば 一九 七 二 ︵. そし て次 のよう に述 べて いる。 そ の行動 には、別離 の悲 しみと限りな い愛と厳 し いあき らめ の人間的な感情 が. ). 図 12 盛光社版 『やまとたける』表紙 (部 分. (70) ). 文学 ・文化編 (2008年 3月 甲南女子大学研 究紀 要第 44号.
(11) > 阿 久 根 治 子 文 ・朝 倉 摂 画 ﹃や ま と 分 盛 光 社 ︶ で は、表 紙 が 榔 た け る﹄ ︵ 刑 合 掌 す るオト タ チ バナ ヒ メで、主 か 人 公 の ヤ マト タ ケ ル が 描 か れ て い. 2︶o本 文 でも ﹁こ の 2 な い ︵ 図1 障 いのちは あなた のも の。わ し た. お. わ. り. に. 以 上、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の入水 の図 に つ いて、 そ の誕生 か ら 現在 に至 るま でを 概. 説 し てき た 。 菊 池 容 斎 が ﹃ 前 賢 故 実 ﹄ で描 いた ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ が 、 長 く 継 承 さ れ変 容 し. てゆく様 相 を 雑 誌 や児 童 書 の挿 絵 で辿 り 、 原 典 であ る ﹃ 古 事 記 ﹄ ﹃日本 書 紀 ﹄ に無. 描 か れ る。 ま た 、 一九 七 七 ︵ 昭 和 五十 二︶年 に発 行 さ れ た 、 お のち ゅう こう 文 ・鈴. メ が 、 合 掌 し て海 に 飛 び 込 む 姿 で. 3 ・ う ﹂ と 言 って ﹁し ろ い は な び ら 図 の よ う に と ぶ﹂ オ ト タ チ バ ナ ヒ. 稽 の お い か り を し ず め ま し ょ. な オ ト タチ バ ナ ヒ メ像 を 生 み出 し て い った のであ る。新 た な 、愛 と 犠 牲 の象 徴 と も. の良 き 材 料 と し て利 用 さ れ て いた 。 そ し て戦後 、 こ の教 科 書 で学 んだ 人 々が、新 た. ては、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の物 語 と 図像 は、 児 童 書 、教 科 書 と も に、 女 子 教 育 のた め. 教 育 の目的 は 、 主 と し て女 子 と し て のあ り 方 を 学 ば せ る こと にあ つた 。 戦 前 にお い. 年 、 オト タ チ バ ナ ヒ メは 図 像 を 伴 って多 く の児 童 たち の知 ると こ ろと な った。 そ の. 科 書 にお け る オ ト タ チ バナ ヒ メ像 の受 容 に つ い て考 察 し た 。 一九 二 二 ︵ 大 正 十 一︶. い ″祈り の姿 ″ の付 加 が明 治 末 期 に生 じ た こと を 述 べた。 さ ら に、 戦 前 の小 学 校 教. 木 たく ま 画 ﹃やま と た け る﹄ ︵ 小 学 館 ︶ では 、 指 を 組 み合 わ せ た 形 で海 に入 る 姿 が. いえ る ″祈 り の姿 ″を 、 現 在 私 た ち は 日 にし て いる。 そ れ は絵 画 と いう 媒 体 のみ で. 師 の みを なげて ヽ みの かみ つ. 、 o 図3 描 か れ て いる ︵ 1︶ こ れ ら 二作 品 の絵 本 画 家 は いず れも 戦 前 の国 定 国 語 教 科. は な い。 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ伝 承 が残 る各 地 に銅 像 や レリ ー フが あ ぃ 、 ヒ メ の海 に飛. 今後 の課 題 と し て、個 々 の図 像 に つ いて の詳 細 な 分析 と解 釈 と いう 作 業 が要 請 さ. 書で ﹁ 弟 橘 媛 ﹂ を 学 習 し て いる こと に留 意 し た い。 ほ か の児 童 書 、絵 本 に お い て が多 い。 彼 ら は オ ト タ チ バ ナ ヒ メ に対 し て、 忠 節 と 献 身 の美 と いう イ メージを 印 象. れ る。″祈 り の姿 ″ のより 詳 細 な 解 釈 は 、 オ ト タ チ バ ナ ヒ メ の個 々 の表 象 を 分 析 す. び 込 む姿 が 再 現 さ れ ″祈 り の姿 ″ で立 って いる。. づ け ら れ てお り 、 戦後 には 、 主 に国文 学 者 によ って論 じ ら れ る悲 劇 の英 雄 ヤ マト タ. る こと で可能 と な り 、 そ こ では各 時 代 の女 性 に担 わ され た さまざ ま な 役 割 も 浮 き 彫. も 、 国定 教 科 書 で学 んだ 世代 の画 家 が描 く 絵 に は ″祈 り の姿 ″ や悲 しむ 表 情 のも の. ケ ルと の愛 と 別 れ 、犠 牲 死と いう 美 し い物 語 の主 人 公 と し てオ ト タ チ バナ ヒ メ像 を. り にな るだ ろう 。. チバナ ヒメとす る。 ② 吉井 巌 ﹃ ヤ マト タケ ル﹄ ︵ 学 生社. 。 九六 一年十 一月︶. 0 平野 一 審﹁ 弟橘媛 の走水 入水︱︱ 舟 玉信 仰と袖もぎ信仰︱︱ ﹂ 亀日本 民俗 学 会 報﹄ 、今井福治郎 ﹁ 上 ハ 一九 六 一年 二月︶ 橘神社考︱︱ 橘 。橘比売︱︱ ﹂ 亀房 総文 化﹄ 四. 序説﹄ ︵ 和泉書院 一九 八 八年 六月︶、上 田正昭 ﹃ 上 田正昭著作集 歴史と 人物﹄第 七巻 。 ︵ 角川書店 一九九九年九月︶. 一九 七七年九月︶、守 屋俊彦 ﹃ ヤ マト タケ ル伝 承. ﹃ 古事 記﹄ では ﹁ 弟橘比売﹂、 ﹃ 日本書紀﹄ では ﹁ 弟 橘 媛﹂ と 表 記 さ れ る。 以 下 、 オ ト タ. 結 ん で いる。 そ し て、彼 ら の描 く 美 し いヒ メ の姿 は 、 現在 の子 ど も た ち が 図書 館 な ど で容 易 に見 る こと が でき るも のだ 。 ま た 、 児 童 書 では な く 成 人 を 対 象 と し た 書 籍 に目を 向 け れば 、 二 〇 〇 〇年 発 行 の ﹃ 名 画 に み る 國 史 の歩 み﹄ が あ る。 こ こ には 第 二節 でと り あ げ た ﹁ 国 史 絵 画﹂ が す べ て掲 載 さ れ 、 解 説 が付 さ れ て いる。 そ こ でオ ト タ チ バ ナ ヒ メ の ″祈 り の姿 ″ は 、 ヤ マト タ ケ ル ヘの ﹁ 純 愛 の極 致 が文 字 ど おり 献 身 と いう 自 己犠 牲 と し て示 さ れ た 悲 しくも 美 し い物 語﹂ を 表 現 し た 姿 と 解 説 さ れ て いる。 夫 の身 代 わ り にな って死 ぬ こ と 、 そ の行 為 は本 来 天皇 への忠 節 に他 な ら な か った と いう こと が 、 現在 では純 愛 や 自 己犠 牲 と し て美 化 さ れ て いる こと に留 意 す べき であ ろう 。. (1)注. 千 晶 :オ トタチ バ ナ ヒメの祈 り 田中. (71).
(12) (72) ). 文学 。文化編 (2008年 3月 甲南女子大学研究紀要第 44号. オト タチ バナ ヒメ伝 承 の民俗学的 考察﹂ ﹁國學院大學大 学 院 紀 要︱︱文 学 0 入江英弥 ﹁ 。 研究科︱︱ ﹄第 二十 二輯 一九九 一年 三月︶ 国学院大学 編 ﹃ 古典 の新 研究﹄第 二集 角 川書店 一九 五 四 海神投供考﹂ ︵ 0 大場磐雄 ﹁. 天皇制教育 下 の児童文学 ・ 岡 ﹁ 勅語が真 っ先 に登場す る児童 図書﹂とされる。勝尾金弥 ﹁ 児童 図書﹂ 亀日本児童文学 ﹄第 二十 五巻 八号 一九 八九年 八月︶ によ る。. 。 日本お伽噺十七、博文館 一八九 八年 六月︶ 草薙剣﹄ ︵ ⑬ 大江小波編 。小林永興画 ﹃. ヒメ入水伝承を手掛り に︱︱ ﹂ ﹁橿原考古学研究論集﹄七 一九 八四年十 二月︶など。 新 編 日本古典文学全集﹄を 用 いた。 同 ﹃ 古事 記﹄ ﹃日本書紀﹄ の引 用 には小学館 ﹃. 囲 指を組 み合 わせる形は 一般 にキ リ スト教 におけ る祈り のポ ーズ と考 え られ て いる。 し かし、実際 には祈り の際 に手 の指を 組む、合掌す るなど形式 は自由 であ り、定 められ て. 。 月︶ 。 歴史お伽 六、彰文館 一九 一一年 一月︶ 四 木村小舟著 ・巌谷小波閲 ﹃日本武尊﹄ ︵. 。 金港堂 一九 〇二年 八月︶ 金港堂豪傑ばな し 日本武尊﹄ ︵ 0 折山子 ﹃ 日本 お 伽 噺 四十 四、島 鮮 堂 一九 一〇年 三 目葉 山 人 編 ・笠 井 鳳斎 画 ﹃日本 武 尊﹄ ︵ の 主. 妃﹂ とある。 妾﹂ と されるが、同書 五十 一年 八月条 に ﹁ 0 ﹃ 日本書紀﹄該当箇所 では ﹁ 明治 十 一︶年。 ﹃ 前賢 故 天明 八︶∼ 一人七 八 ︵ 一七 八 八 ︵ 閣 菊池 容斎 は江 戸出身 の画家。. は いな い。 少年 世界﹄第 二十 五巻第 八号 ︵一九 一 少年歴史読本 日本武尊﹂ の挿絵。 ﹃ 口 渡 辺北海 ﹁. 、 ト 媛入水説話 の成立をめぐ っ 考 察 橘 説 一 ︱ ︱ 弟 ﹁ ル 東 伝 の 久 ケ 征 明 ヤ マ タ 前 年十月︶ 川 、和 田率 ﹁ チ マタと橘︱ ︱ オト タチバナ て︱︱﹂ 亀日本歴史﹄三三七 一九七六年六月 ︶. 実﹄は、神武 天皇 の時代から後 亀 山朝 に至 る先 聖賢 臣 五百七十 一名 の絵 と略伝 を収録 し 一八六八 ︵ 明治元︶年刊行。 天保七︶年 完成 、 一八三六 ︵ た書籍。版本 、全十巻。. 、 、 。 られ、 し 海 に 沈 身 を め へ な も 底 て あ と く は 海 の 崇 り 思 召 ﹁ 橘 姫 神 妃 殿 下 九年 八月︶ ﹂と あ 生命 に代 へて祈 られた ので、漸 く浪も 静まり、尊 は恙 く 上総 にお着 き にな つた。. 明治 二十 九︶年 に、再 び 的 なお、富 岡永洗 は こ の絵 を 発表 し てから 五年 後 の 一八九 六 ︵. 。あと が 金 の星 社 一九 四 三 年 十 一月 ︶ 童 話 日本 国 史 ﹄ ︵ の 水 谷 ま さ る 著 。大 石哲 路 画 ﹃. 範 学 校 の校 長 、作 家 、童 話 作 家 、 文 学 博 士 、新 聞 記 者 、 子 爵 、 軍 人 な ど さ ま ざ ま な 分 野 一様 に感 動 と 賞 賛 の言 葉 が 寄 せ ら れ て いる。 から、. 。 第 二巻 借 成 社 一九 四 〇年 二月 ︶ 口 池 田宣 政 著 ・梁 川剛 一画 ﹃日本 国史 美 談 ﹄第 一巻 ︵ には 、 諸 家 か ら 寄 せ ら れ た 第 一巻 の批 評 が掲 載 さ れ て いる。 そ こ に は 、 小 。中 学 校 、 師. 。発 行 年 は 金 の星 社 一九 四 〇 年 三 月 ︶ 田 大 木 雄 二著 ・黒 崎 義 介 画 ﹃日 本 肇 国 物 語﹄ ︵ ″紀 元 二千 六 百 年 ″ にあ た る。 神 武 天皇 即位 から 聖 徳 太 子 ま で の事 蹟 を ま と め た 児 童 書 。 お 国 のた め に つく し﹂ ﹁日本 を ま も り 、 日本 のた 皇 室 の御 恩 に感 謝 ﹂ し 、 ﹁ は し がき で ﹁ め に働 き ま せ う ﹂ と呼 び か け て いる。. Zθ。. 。 史 語 五、 一九 二四年 五月︶ 少 草薙 の剣﹄ ︵ 年 歴 物 m 補助教育 研究会編 ﹃ 少 年 大 日本 史 三、建 設 社 一九 三 五年 一 m 下村 三 四吉 著 ・山 本 舜 山 画 ﹃日本 武 尊﹄ ︵ 。﹁ 世 界 にか ゞやく我 が皇 室﹂ の歴史を示す た め、 ヤ マト タケ ル の 大 日本 帝 国﹂ の ﹁ 月︶ 建 国後 の五百年﹂と いう 章 を 設 け て い 話 に入 る前 に ア マテラ スか ら の系 図を たど る ﹁. 話を最も詳 しく、誰 にも解 る やう に、面白く書 いた﹂叢書。オト タチ バナ ヒメの入水 場 な んと いふけなげ な 、大丈夫も 及ばぬ立派なお心懸 でせう﹂ と記 され て いる。 面 では ﹁. 。﹁ 教科書 のお 模範児童文庫、社会文庫 一九 二三年 四月︶ 日本武尊 ﹄ ︵ 四 児童教育会 編 ﹃. り、海底 で祈 ったとされ て いる。. 容斎 の ﹁ 前賢 故 実﹂ など から学 んだ﹂ と 述 べて いる。 0 ほか に日本 画家 の前 田青 郁も ﹁ 。 梶 田先生 の事ども﹂ 亀美之国﹄第 一一巻第 二号 一九三五年 二月︶ 前 田青郁 ﹁ 庫 県立近代 美術館 ・ 歴史 画﹂ の位置﹂ Ξ ︵ 描 かれた歴史︱︱ 明治 のなか の ﹁ ⑩ 山梨俊夫 ﹁ 描 か れ た歴史 近代 日本美 術 にみる伝説と神 話﹄展 図録 一 神奈川県立近 代美 術館編 ﹃ 。 九九三年九 月︶ 女性 は股 時代 別国語大辞典 上代編﹄ によれば、男性 用 の袴 は股が分かれ て いるが ﹁ 回 ﹃ が開かず、脇 の開 いた、ひだ のあ る裳 を はく のが常 であ った﹂とす る。女 性 が袴を着 用 す るのは平安期 に入 ってから であ る。 一宿 の間 に、衣 即ち其 の母、 ふぢ葛を取り て、 古事 記﹄応神 天皇段 にみえ る。 ﹁ 0 機は ﹃ ・揮と機 。沓 とを織り縫ひき﹂ ブリ ュッヶ 一一 〇 〇五年 七 歴史 画﹂ の磁場﹄ ︵ 描 かれた歴史 日本近代と ﹁ 田 山梨俊夫 ﹃ 。 月︶ 明治 三十 八︶年。小林永 濯 元治 元︶年 ヽ 一九 〇五 ︵ 一八六 四 ︵ 岡 信濃 出身 の日本画家。 一 の問下。菊池容斎 と の師弟 関係 は 不明だ が、容 斎 の問 下 o松本楓湖と は交 流 があり、. 橘媛 投 少年 世界﹄第 二巻 二十 四号 の、折り込 み 口絵 ﹁ オトタチ バナ ヒメを描 いて いる。 ﹃ 身之図﹂ であ る。 ヒメの体 や顔 の角 度 、衣服 のはた めき 方 など が酷 似 し て いる。手 は完. 八九七 ︵ 明治 三十 ︶年 には共 に日本 画会を創立 し て いる。画業 の傍 ら雑 誌 の挿 絵も手 が け、美 人画 で評判を得た。. 全 に見え な いが、衣服 のしわ か ら両腕を体 の前 に抱え て いると見 られ る。新 た に加え ら. 世 界 に比 類 ま き 日本 の国 体 の精華 を 知 ら し め 、栄 光 にか が やく 日本 精 神 を き によ れば ﹁ 明 ら か に感 得 さ せ た い﹂ と いう 目 的 で書 か れた。. m 現在 は伊 勢 の神 宮 徴 古 館 に所 蔵 さ れ て いる。 名 画 に み る 國 史 の歩 み﹄ 国 史 絵 画 ﹂ 制 作 の経 緯 に つ い ては 所 功 編 、小 堀 桂 一郎 著 ﹃ m ﹁. れたも のと し て、 ヒメのち ょう ど真 上 の位 置 の背 景 に、船 の舶先 があ り 、縄も あ る。舟 から下り ると いう場面を より具体 的 に示 したも のだ ろう。 不明。松 m ﹃ 家庭 教育 歴史読本﹄第 二版を所蔵す る大阪国際児童文学館 では、画家 名 を ﹁ 本楓湖 か。 ﹂と し て いる。.
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