145 〈資 料〉
原 玉重 「
私 の経 歴 書 」
小
宮
京
キ ー ワ ー ド:三 木 武 吉,石 原 莞 爾,民 政 党,東 亜 連 盟,自 由 党解
説
本 稿 で 紹 介 す る資 料 は,元 衆 議 院 議 員 ・原 玉 重(は ら ・た ま しげ)氏 の ご遺 族 で あ る,服 部 信 也 ・昌子 ご夫 妻 か ら提 供 して頂 い た もの で あ る(以 下,敬 称 略)。 原 は1896(明 治29)年7月5日,岐 阜 県 付 知 町 田形 で 生 ま ロ ラ れ た 。 亡 く な っ た の は1983(昭 和58)7月31日 で あ る 。 そ の3回 忌 に 関 係 者 の み に 配 布 さ れ た の が 全106ペ ー ジ の 小 冊 子,服 部 信 也 ・昌 子 編 『原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み 』(原 て る,1985年)で あ る 。 以 下,目 次 を 記 す 。 刊 行 の ご あ い さつ 一 ,法 曹 三 国 志 原 玉 重 の話 二,創 立 会 員 訪 問記 一 対 談 一 三,私 の 経 歴 書 (付記 四,年 譜 原 て る ・服 部 昌 子 岩 田春 之 助 第 一 東 京 弁 護 士 会 会 報 よ り 原 玉 重 服 部 信 也) 内 容 を 簡 単 に紹 介 す る。 一 は,岩 田春 之 助(元 関 東 弁 護 士 会 連 合 会 理 事 長)「 法 曹 三 国 志 原 玉 重 の 話 阿比 留 兼 吉 と語 る」 と して 『法 律 新 聞』 1980(昭 和55)年8月9日 号 か ら9月23日 号 ま で 連 載 さ れ た もの で あ る146(桃 山法学 第19号'12) (4頁 。 以 下,括 弧 内 に 頁 数 の み を表 記 した 場 合,本 書 の 頁 数 を指 す)。 二 は,「 創 立 会 員 訪 問 記 原 玉 重 対 談 」 と して 『第 一 東 京 弁 護 士 会 会 報 』 第165号(1980〔 昭 和55〕 年ll月20日 号)に 掲 載 され た もの で あ る(20頁)。 と りわ け 貴 重 な の は,原 玉 重 本 人 の遺 稿 「三,私 の 経 歴 書 」 で あ ろ う。 服 部 信 也 の付 記 に よれ ば 「原 文 は,は し り書 き様 の もの 」 で 「本 人 と して は,更 に訂 正 し完 成 させ る つ も りで あ っ た の か も知 れ 」 な い と され る(95 頁)。 つ ま り 『原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み 』 刊 行 まで は ど こ に も紹 介 さ れ た こ と の な か っ た大 変 貴 重 な資 料 で あ る。 管 見 の 限 り,『 原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み 』 を所 蔵 す るの は都 立 中 央 図 書 館 一館 の み で,国 会 図 書 館 や 大 学 図書 館 に は所 蔵 さ れ てい なか った 。先 だ っ て ご遺 族 に国 会 図書 館 に寄 贈 して 頂 い た 。 そ れ で もな お 同書 が 大 変 貴 重 な 資 料 で あ る こ とに変 わ りは な い 。 な に よ り原 の 詳 細 な 経 歴 は知 られ て い な い 。 そ こ で,ご 遺 族 の 了 解 を得 て 「三,私 の 経 歴 書 」 を紹 介 す る こ とに し た 。 そ の 際,資 料 冒頭 に掲 載 され て い た 出 生 地,本 籍 地,事 務 所,住 所 の 部 分 は省 略 した。 今 回 の 資 料 紹 介 に あ た り,原 資 料 の 所 在 を確 認 して頂 い た が,残 念 なが ら発 見 で きな か った との こ とで あ っ た(2011年10月 末 現 在)。 そ れ ゆ え 資 料 の 本 文 は 『原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み』 に依 拠 した こ と を お 断 り して お く。 原 の略 歴 を記 せ ば 以 下 の通 りに な る。1920(大 正9)年 中央 大 学 法 律 科 卒 。 弁 護 士 と して活 躍 。 牛 込 区 会 議 員,東 京 府 会 議 員 を経 て,代 議 士 を歴 く 任 した(当 選 三 回)。 戦 後,原 子 燃 料 公 社 副 理 事 長 を務 め た 。 原 の生 涯 を語 る に 際 して,切 って も切 れ ない の は 三 木 武 吉 との 関 係 で あ る。 三 木 武 吉 の 伝 記 で あ る三 木 会 編 『三 木 武 吉 』(三 木 会,1958年,以 下 『三 木 武 吉伝 』 と記 す)に 曰 く 「秘 蔵 弟 子 で 三 木 の 身 辺 を一 生 離 れ な か っ た 原 玉 重 」 と評 さ れ る(『 三 木 武 吉 伝 』207頁)。 原 は 上 京 して す ぐ に三 木 武 吉 の書 生 と な り,弁 護 士 試 験 に合 格 す る とそ の弁 護 士 事 務 所 に入 っ た 。 三 木 武 吉 が 政 治 的 に 逼 塞 を余 儀 な くさ れ る や,そ の 後 継 者 と して 衆 議 院議 員 と な っ た 。 戦 前 ・戦 中 ・戦 後 と,三 木 武 吉 と の 関係 は非 常 に 深 い もの で
原玉重 「私の経歴書」147 あ っ た 。 そ れ ゆ え 『三 木 武 吉 伝 』 に は,た び た び原 玉 重 の 談 話 が 引 用 され て い る 。原 は 『三 木 武 吉 伝 』 に つ い て 「私 が 大 体 話 を して,そ れ に よ っ て 書 い て頂 き原 稿 を私 が 全 部 見 て い ます の で,絶 対 信 用 して下 さっ て 結 構 で す 」 と語 っ て い る(「 創 立 会 員 訪 問記 」,『原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み』 所 収, 52頁)。 な お,1958(昭 和33)年 に伝 記 を発 行 し た 「三 木 会 」 は原 玉 重 方 に置 か れ て い た(『 三 木 武 吉 伝 』 奥 付 参 照)。 こ こ か ら は,原 の 戦 前 の代 議 士 時 代 と戦 後 の 政 治 活 動 を 中心 に述 べ る 。 三 木 武 吉 は京 成 電 車 疑 獄 事 件 に よ り失 脚 した。1932(昭 和7)年2月20 日 に行 わ れ た 第18回 総 選 挙 で 当 選 した もの の,1934(昭 和9)年 に実 刑 が の 確 定 し,1936(昭 和11)年 の 第19回 総 選挙 は立 候 補 を見 送 ら ざ る を得 な か っ た 。 そ の と き三 木 武 吉 の か わ りに出 馬 したの が 原 で あ っ た(『 三 木 武 吉 伝 』 172頁)。 原 は第19回 総 選 挙 以 降,3回 当 選 した。 ち な み に,三 木 武 吉 は 戦 時 中 の1942(昭 和17)年 に行 わ れ た 第21回 総 選 挙(い わ ゆ る翼 賛 選 挙)で は,郷 里 の 香 川 一 区 に選 挙 区 を移 し,非 推 薦 で 立 候 補 し当 選 した 。 原 は 当 選 す る と民 政 党 に籍 を置 い た。 民 政 党 時 代 に は,新 体 制 運 動 を熱 く 心 に推 進 して い た 。新 体 制 運 動 を推 進 した風 見 章 の 関 係 資 料 に も原 の 名 前 くら が 登 場 す る 。 そ の こ とか ら風 見 が 原 を新 体 制 運 動 の 賛 同 者 と理 解 して い た こ とが 分 か る。 実 際 に,新 体 制 運 動 が 進 展 す る と,原 は単 独 で 民 政 党 か ら くの 脱 党 し た 。 け ラ ー 方 ,原 は石 原 莞 爾 に賛 同 し,東 亜 連 盟 運 動 に も積 極 的 に参 加 した。 そ もそ も石 原 と接 した き っか け は,同 じ く第19回 総 選 挙 で 代 議 士 に初 当 選 し た 木 村 武 雄 の 紹 介 で あ っ た とい う(「 創 立 会 員 訪 問 記 」36頁)。 三 木 武 吉 門 く 下 で 「原 の 弟 分 」 に あ た る 中村 梅 吉 に よれ ば,木 村 武 雄 が 原,中 村,松 浦 ゆ 周 太 郎 ら を東 亜 連 盟 に誘 っ た とい う。 原 は1941(昭 和16)年1月 時 点 で 中 央 参 与 会 員 を務 め,東 京 市 支 部 長 で もあ った 。 な お,東 京 市 支 部 設 立 は 同 くゆ 年3月3日 の こ とで あ る。4月10日 に東 京 で 開催 され た 中央 参 与 会 員 第 一 回 全 国会 議 で5名 の常 任 委 員 が 選 出 さ れ た 。 原 は8月10日 に追 加 で 常 任 委 く の 員 に選 出 され た。 原 が 語 る 「東 亜 連 盟 は七 人 の 常 任 委 員 で や っ て い た の で す が,私 も常 任 委 員 に な って,大 体 会 内部 の事 務 は ぼ くが 主任 で や って お っ
く の た 」 とい う回 顧 は この 頃 の事 で あ ろ う(「 創 立 会 員 訪 問記 」37頁)。 そ の後, 1942(昭 和17)年4月30日 に行 わ れ た 第21回 総 選 挙 に,原 は非 推 薦 候 補 と し て立 候 補 した。 結 果 は次 点 で の 落 選 で あ っ た。 と こ ろが 当選 者 が 死 去 し くユの た た め,繰 り上 げ 当 選 と な っ た(「 創 立 会 員 訪 問 記 」35頁)。 敗 戦 直 前 の 帝 国議 会 で は,新 党 運 動 が 盛 んで あ っ た 。 こ の 頃 の 政 治 情 勢 を記 した 衆 議 院 書 記 官 長 の大 木操 の 日記 に は,原 は 金 光 邦 三 や 木 村 武 雄 と く ラ と も に 「東 亜 連 盟 」 の 系 統 と記 され て い る 。 ま た,池 田 正 之 輔 の 情 報 と し て 「八 日会 」 の 一 員 に原 の名 が 挙 げ られ,い ず れ護 国 同 志 会 に 合 流 す る と く の 語 ら れ た 。 しか し原 は 最 後 ま で 護 国 同志 会 に は参 加 し なか っ た よ うで あ る 。 木 村 武 雄 は後 に 自伝 で 「三木 さ ん の秘 書 を務 め て い た 原 玉 重 さん を忘 れ る こ とは で き な い 。原 さ ん は か つ て 三 木 さ んが 逆 境 の 時 に も終 始 一 貫 支 え っ づ け た 人 で あ る 。(中 略)東 亜 連 盟 に情 熱 を か け て 闘 い 抜 い た の は,代 く の 議 士 で は この 原 さ ん と私 の二 人 だ けで あ る 」 と振 り返 っ た。 敗 戦 後,1945(昭 和20)年ll月9日 に 日本 自 由党 が 結 成 さ れ た 。 原 は 日 く の 本 自 由党 の 結 成 に参 加 し,結 成 大 会 で 緊急 十 政 策 に つ い て説 明 を行 っ た 。 こ こ で,戦 前 民 政 党 に所 属 した 原 が,か つ て政 友 会 に所 属 して い た鳩 山 一 郎 が 率 い る新 党 に参 加 した理 由 を考 察 した い。 戦 後 の 原 に つ い て 『鳩 山 く 一 郎 ・薫 日 記(以 下 『鳩 山 日記 』 と略 記)』 か ら抜 粋 す る。 「原 玉 重 」 と フ ル ネ ー ム で 登 場 す る の は1945(昭 和20)年10月30日 と1946(昭 和21)年1 く 月3日 の 二 回 で あ る(『 鳩 山 日 記 』 上 巻,410頁,422頁)。1945(昭 和20) 年10月 と い え ば,鳩 山 は 日本 自 由 党 の 結 成 準 備 の 最 中 で あ っ た 。 鳩 山 は, く ゆ 昭 和 戦 前 期 の い わ ゆ る二 大 政 党 時 代 に対 立 した三 木 武 吉 に も声 をか け た 。 当 時 三 木 は 四 国 に い た。 以 下 は 三 木 の 談 話 か ら の抜 粋 で あ る(〔 〕 内 は 引 く の 用 者 に よ る)。 鳩 山 君 か ら 「新 政 党 を つ くる か ら来 て くれ」 とい っ て 来 た。 「そ れ は よ か ろ う,賛 成 だ」 と返 事 を や っ た 〔。〕 そ れ で そ の 時 原 玉 重 代 議 士 も無 論 そ れ に 参 画 した 。 そ して そ の 原 もわ ざわ ざ香 川 県 に来 て東 京 に出 てや っ て くれ とい う の で 「オ レは 出 な い 。 君 が オ レ の代 理 で 鳩 山君 と一 緒 に や
原玉重 「私の経歴書」149 れ 。 オ レの 名 前 が必 要 な ら総 て 鳩 山君 に 白紙 委 任 す るか ら。 早 く政 党 を つ くっ て 出 直 さ ね ば な らぬ と思 う」 と云 っ て一 切 を委 せ た 。 そ して あ の 日本 自由 党 が で きた わ け だ 。 1945(昭 和20)年 の 秋 以 降,『 鳩 山 日記 』 に三 木 武 吉 の 名 前 が 登 場 す る の は1946(昭 和21)年1月ll日 の こ とで あ る(上 巻,423頁)。 原 は 「私 の経 歴 書 」 中 で 「昭 和 一 八 年 三 月 三 木 先 生 が 東 京 を 引 あ げ,高 松 へ 転 居 され た 。 以 後 昭 和 二 五 年 上 野 桜 木 町 へ 帰 京 せ られ る迄,常 に東 京,高 松 間 を往 復 し種 々 三 木 先 生 の使 い を した 」 と記 した(四 二,参 照 。 以 下,括 弧 内 の 漢 数 字 は,資 料 紹 介 す る 「私 の 経 歴 書 」 中 の も の と対 応 し て い る。 『三 木 武 吉 伝 』316-317頁 も参 照)。 これ ら を踏 ま えれ ば,三 木 武 吉 が 香 川 県 に と ど ま っ て い る 間,原 が 三 木 と鳩 山 の 間 を繋 い で い た と理 解 す る の が 妥 当 で く あ ろ う 。 な お,原 は 自 由党 の結 成 準 備 会 合 に は 出席 して い な い 。 以 上 を ま とめ る と,鳩 山 の個 人 商 店 の色 彩 の 強 い 自由 党 に原 が 参 加 した の は,三 木 武 吉 との深 い 関係 ゆ え と推 定 され よ う。 そ の 後 も原 は 三 木 の名 代 と して 活 動 した の で あ っ た 。 と こ ろ で,1946(昭 和21)年4月 の 第22回 総 選 挙 前,公 職 追 放 令 は政 界 に衝 撃 を 与 え た。 戦 時 中 に行 わ れ たい わ ゆ る翼 賛 選 挙 の 推 薦 議 員 な ど,多 くの 代 議 士 が 立 候 補 で き な い状 態 に陥 っ た か ら で あ る 。 自 由党 は 結 成 時 の く ヨ 代 議 士43名 の う ち,30名 が 追 放 令 に よ り立 候 補 で きな くな っ た 。3月7日 に立 候 補 資 格 確 認 書 の 公 布 が行 わ れ た と き,原 は 主 な 失 格 者 と して 報 じ ら く ラ く の れ た。 こ う して 原 は 戦 後 政 治 の 表 舞 台 か ら姿 を消 した 形 に な っ た 。 1948(昭 和23)年4月7日 に 原 は衆 議 院 の 不 当財 産 取 引 調 査 特 別 委 員 会 く の で 追 及 され た 。 こ れ は 自 由党 の 黒 幕 と称 され た辻 嘉 六 か ら政 治 資 金 を受 け 取 っ た こ と に よ る 。原 は委 員 会 の 席 上,辻 との 関係 を 「辻 先 生 は 私 の 同郷 の 大 先 輩 」 「同郷 の 古 い 先 輩 」 と述 べ た 。 さ ら に政 治 資 金 を 受 け取 る よ う に な っ た の は 「こ こ二,三 年 」 と続 け た 。 なお,辻 との 関 係 に つ い て,経 歴 書 で は1946(昭 和21)年9月 以 降,辻 の顧 問 弁 護 士 を務 め た と記 して い る(四 四,参 照)。 こ れ も従 来 知 られ て い な か っ た こ と と思 わ れ,興 味 深
い ○ 原 に よれ ば,追 放 解 除 さ れ た の は1952(昭 和27)年 の こ とで あ っ た(四 三,参 照)。 そ の 間,日 本 交 通 広 告 社 や 東 邦 モ ー タ ー ズ,武 蔵 野 天 然 ガ ス 研 究 所,江 東 天 然 瓦 斯 工 業 な ど,様 々 な民 間 企 業 の経 営,創 立 に関 わ っ た 。 なか に は三 木 武 吉 が 社 長 を務 め た 会 社 も あ っ た。 『石 橋 湛 山 日記 』 の1952 (昭和27)年12月10日 に,三 木 武 吉 の希 望 に よ り,石 橋 が 「江 東 天 然 瓦 斯 事 業 」 に つ い て 青 木 一 男 か ら説 明 を 聞 く際 に 「原 玉 重 」 の 名 前 が 登 場 す (27) る。 原 は なぜ 再 び政 界 に挑 戦 しな か っ た の か 。 原 に よれ ば,か つ て の 後 援 会 の 幹 事700-800名 は 戦 災 や 疎 開 で ほ とん どい な くな り,後 援 会 は事 実 上 消 滅 して い た とい う。 「だ か ら,や ろ う と思 っ て もや れ な い 実 情 で す 」。 原 が 公 職 追 放 解 除 後 に復 活 した例 と して 挙 げ る 中村 梅 吉 は 「練 馬 で 生 れ た時 か らの 選 挙 地 盤 の あ る 人 」 で あ っ た(「 創 立 会 員 訪 問 記 」35頁)。 そ の 中村 で す ら 「私 の も との 関係 者 は私 の 追 放 中 に,そ れ ぞ れ他 の 代 議 士 の 応 援 者 に な っ て し ま って い た 。 しか し私 が 追 放 解 除 に な っ て 出 馬 す る うわ さ を 聞 い く ラ て,私 の 陣 営 に戻 っ て 来 て くれ る人 が 続 々 出 て来 た」 とい う 。 戦 災 と公 職 追 放 に よ り戦 前 来 の 地 盤 は大 き く揺 らい だ 。 そ の結 果,原 は 政界 復 帰 を諦 め ざ る を得 なか っ た の で あ る 。 1956(昭 和31)年3月5日 に原 夫 人 が 亡 くな る と(五 一,参 照),鳩 山 が 葬 儀 に 訪 れ た(『 鳩 山 日記 』 下 巻,1956年3月9日,239頁)。 こ の 間,淡 々 と事 実 を綴 っ て い た 原 の筆 が 雄 弁 に な る部 分 が あ る(五 三, 参 照)。 三 木 武 吉 の 最 晩 年 を語 る 時 で あ る 。 当 時 身 近 にい た も の に しか 語 りえ な い 描 写 が 続 く。 『三 木 武 吉 伝 』 に も 「原 玉 重 が,家 族 友 人 一 同 の総 代 で,た っ て 入 院 を勧 め る」 場 面 が あ る け れ ど も(『 三 木 武 吉 伝 』465頁), 本 書 中 の 記 述 で は原 の 動 揺 が率 直 に綴 られ て い る 。他 に も,三 木 武 吉 が 妻 の こ と を深 く案 ず る 様 子 が 描 か れ て い る(五 二,参 照)。 三 木 武 吉 は1956 (昭和31)年7月4日 に死 去 した 。 三 木 武 吉 死 去 か らわ ず か しか 立 っ て い な い1956(昭 和31)年7月13日 に は,原 が原 子 燃 料 公 社 副 理 事 長 を内 諾 した こ と,17日 に正 式 決 定 され る こ
原 玉 重 「私 の 経 歴 書 」151 の と が 報 じ ら れ た 。 原 に よ れ ば,こ の 人 事 は 三 木 武 吉 死 去 の 影 響 で あ る と い う 。 本 来 原 の 理 事 長 が 内 定 し て い た け れ ど も,正 力 が 理 事 長 を 連 れ て き て 原 に 副 理 事 長 就 任 を 求 め た と い う(「 創 立 会 員 訪 問 記 」48-49頁)。 原 は 三 木 武 吉 死 去 後 に も 『鳩 山 日記 』 に 登 場 す る 。1957(昭 和32)年3 月7日 に は 鳩 山 の も と に 鮎 を 届 け て い る(『 鳩 山 日記 』 下 巻,1957年3月 7日,371頁)。 さ ら に6月15日 に は 鳩 山 宅 を 訪 れ 「故 三 木 氏 一 周 忌 来 月 四 日 の 主 催 者 と な る 事 た の 」 ん だ(『 鳩 山 日 記 』 下 巻,1957年6月15日,404 頁)。 そ れ 以 外 に,揮 毫 依 頼 の た め,鳩 山 邸 を訪 問 す る こ と も あ っ た(『 鳩 山 日記 』 下 巻,1957年12月21日,468頁)。 『鳩 山 日記 』 に 最 後 に 登 場 す る の は,揮 毫 を と り に 来 て,『 三 木 武 吉 伝 』 を 持 参 し た1958(昭 和33)年7 月15日 の こ と で あ っ た(『 鳩 山 日記 』 下 巻,1958年7月15日,544頁)。 以 上,原 の 戦 前 戦 後 の 政 治 活 動 を 中 心 に 述 べ た 。 原 は 三 木 に 深 く信 頼 さ れ,そ の 信 頼 に こ た え た 人 物 で あ っ た と い え よ う 。 最 後 に,紹 介 を許 可 して頂 い た,服 部 信 也 ・昌子 ご夫 妻 に は 深 く感 謝 す る。 ま た,京 成 電 車 疑 獄 事 件 につ い て,情 報 提 供 して 頂 い た,中 澤 俊 輔 氏 (日本 学 術 振 興 会 特 別研 究 員)に も感 謝 す る。 〔注 〕 (1)死 去 時 の 報 道 は 『朝 日新 聞 』1983年8月1日,『 読 売 新 聞 』1983年8 月1日 を 参 照 。 分 か りや す さ を考 え,本 文 中 で は,西 暦(元 号)の 表 記 に した 。 (2)原 の 略 歴 は,衆 議 院 ・参 議 院編 『議 会 制 度 百 年 史 衆 議 院 議 員 名 鑑 』 (衆議 院,1990年)を 参 考 に した 。 (3)三 木 武 吉 が 大 審 院 で 有 罪 判 決 を受 け た の は,『 東 京 朝 日新 聞 』1934年 3月27日 夕 刊,『 読 売 新 聞 』1934年3月27日 夕 刊 を 参 照 。 『三 木 武 吉 伝 』 所 収 の 「三 木 武 吉 年 譜 」 で は1935(昭 和10)年 とな っ て い る が(557頁), 誤 りで あ る 。 (4)『 読 売 新 聞 』1940年7月15日 。 (5)北 河 賢 三 ・望 月 雅 士 ・鬼 嶋 淳 編 『風 見 章 日記 ・関係 資 料1936-1947』
(み す ず 書 房,2008年)所 収,169頁 。 「新 体 制 運 動 資 料1昭 和15年6 月 」 の 資 料8「 対 議 会 工 作 」 と題 さ れ た 資 料 で あ る 。 風 見 は 第 一 次 近 衛 文 麿 内 閣 書 記 官 長 や 第 二 次 近 衛 内 閣 司 法 大 臣 を歴 任 した 衆 議 院議 員 で あ る 。 新 体 制 運 動 と風 見 の 役 割 に 関 して は,さ し あ た り,伊 藤 隆 『近 衛 新 体 制 』(中 公 新 書,1983年)を 参 照 。 (6)『 読 売 新 聞 』1940年7月21日 。 (7)東 亜 連 盟 運 動 に つ い て は,照 沼 康 孝 「東 亜 連 盟 小 論 」,近 代 日本 研 究 会 編 『年 報 ・近 代 日本 研 究5昭 和 期 の 社 会 運 動 』(山 川 出 版 社,1983 年)所 収,及 び,桂 川 光 正 「東 亜 連 盟 運 動 史 小 論 」,古 屋 哲 夫 編 『日 中 戦 争 史 研 究 』(吉 川 弘 文 館,1984年)所 収 を参 照 。 (8)岩 田 春 之 助 「法 曹 三 国 志 原 玉 重 の 話 阿 比 留 兼 吉 と語 る 」,『原 玉 重 八 十 八 年 の 歩 み 』 所 収,4-5頁 。 中 村 は 三 木 武 吉 弁 護 士 事 務 所 に お い て 原 の 後 輩 に あ た る 。 中 村 梅 吉 『私 の 履 歴 書 』(中 村 梅 吉,1984年)30-31頁 を参 照 。 (9)中 村 『私 の履 歴 書 』57頁 。 (10)桂 川 「東 亜 連 盟 運 動 史 小 論 」393頁 。 (ll)桂 川 「東 亜 連 盟 運 動 史 小 論 」407-408頁,及 び,437頁 の 脚 注(312) を参 照 。 (12)当 時 の 原 の 活 動 は,棚 橋 小 虎 の 日記 中 に散 見 さ れ る 。 例 え ば,『 ワ ー キ ン グペ ー パ ーNo.44棚 橋 小 虎 日記(昭 和17年)』(法 政 大 学 大 原 社 会 問 題 研 究 所,2011年)2月21日,23日 を 参 照 。 (13)当 時 の 新 聞報 道 は 『読 売 新 聞 』1943年1月29日 夕 刊 を参 照 。 (14)大 木 操 『大 木 日記 』(朝 日新 聞 社,1969年)1945年2月5日,185頁 。 (15)大 木 『大 木 日記 』1945年3月16日,253頁 。 「八 日会 」 とは,翼 賛 政 治 会(1942年5月20日 結 成)の 内 部 の 反 幹 部 派 で あ る と い う(古 川 隆 久 『戦 時 議 会 』 〔吉 川 弘 文 館,2001年 〕213頁)。 (16)木 村 武 雄 『自伝 米 沢 そ ん び ん の 詩 』(形 象 社,1978年)180頁 。 (17)『 朝 日新 聞 』1945年11月10日 。 (18)伊 藤 隆 ・季 武 嘉 也 編 『鳩 山 一 郎 ・薫 日 記 』 上 ・下 巻(中 央 公 論 新 社, 1999年,2005年)。1951(昭 和26)年 ま で を 収 録 し た 上 巻 は鳩 山 一 郎 の 日記,1952(昭 和27)年 以 降 を収 録 し た 下 巻 は 基 本 的 に鳩 山 薫 の 日記 で あ る 。 (19)そ れ 以 外 に も 「原 」 は 登 場 す る が,原 玉 重 な の か 判 然 と し な い 。 (20)三 木 武 吉 と鳩 山 一 郎 との 関 係 につ い て は,小 宮 京 『自 由 民 主 党 の 誕 生 総 裁 公 選 と組 織 政 党 論 』(木 鐸 社,2010年)34頁 を参 照 。
原 玉 重 「私 の 経歴 書 」153 (21)三 木 武 吉 「鳩 山 と僕 」,『新 政 界 』1巻1号(1955年11月 号)35頁 。 (22)「 鳩 山 派 の 新 党 準 備 運 動 の 現 況 に就 て 警 視 庁(1945・10・4)」,粟 屋 憲 太 郎 編 集 ・解 説 『資 料 日本 現 代 史3敗 戦 直 後 の 政 治 と社 会 』(大 月 書 店,1981年)所 収,52頁 。 原 は 旧 民 政 系 の と こ ろ に名 前 が 見 え る 。 (23)議 会 政 治 研 究 会 『政 党 年 鑑 昭 和22年 』(ニ ュ ー ス 社,1947年)26頁 。 (24)『 朝 日新 聞 』1946年3月8日 。 (25)鳩 山 が 公 職 追 放 さ れ た 後,吉 田 茂 新 総 裁 の 率 い る 自 由 党 の 地 方 組 織 に, 原 の 名 前 が 発 見 で き る 。 議 会 政 治 研 究 会 『政 党 年 鑑 昭 和22年 』142頁 。 原 の 政 治 活 動 が 完 全 に停 止 し た の か,そ れ と も記 録 の誤 りか,現 時 点 で は 断 定 で き な い 。 な お,芦 田 均 が 政 調 会 長 で あ る こ とか ら 『政 党 年 鑑 』 掲 載 の 役 員 人 事 は1946年10月12日 以 降 の も の と推 定 さ れ る 。 自 由 党 の 役 員 改 選 に つ い て は,小 宮 『自 由民 主 党 の 誕 生 』39頁 を 参 照 。 (26)以 下,不 当 財 産 取 引 調 査 特 別 委 員 会 で の 原 の 発 言 は,「 国 会 会 議 録 検 索 シ ス テ ム 」(http:〃kokkai.ndl.go.JP/)か ら引 用 した 。 (27)石 橋 湛 一 ・伊 藤 隆 編 『石 橋 湛 山 日記 』(み す ず 書 房,2001年)下 巻, 1952年12月10日,548頁 。 (28)中 村 『私 の履 歴 書 』66頁 。 (29)『 読 売 新 聞 』1956年7月13日 。
私の経歴書
原 玉 重(昭 和 五 四 年 八 月 二 七 日) ,明 治 二 九 年 七 月 五 日 父 原 忠 五 郎 母 志 や うの 三 男 と して 出 生 地 で 生 る 。 二,明 治 三 六 年 四 月 一 日 付 知 町 立 尋 常 高 等 小 学 校 川 東 分 教 場 へ 入 学 。 同 四 〇 年 三 月 二 五 日同校 卒 業 。 義 務 教 育 を終 る 。 同年 教 育 制 度 変 更 。 義 務 教 育 六 ケ 年 と な っ た が,同 年 度 は新 制 度 の 尋 常 科 五 年 に進 む か 否 か は任 意 で あ っ た。 兄 の 好 意 で 同 四 〇 年 四 月 一 日付 知 町 中付 知 に新 築 の 付 知 尋 常 高 等 小154(桃 山 法学 第19号'12) 学 校(本 校)へ 入 学(変 更),同 四 二 年 三 月 二 五 日 同 校 卒 業 。 引 続 き 高 等 科 へ 進 学 。 三,明 治 四 四 年 三 月 二 五 日同校 高 等 科 卒 業 。 八 年 間 首 席 を通 した。 当 時 付 知 小 学 校 高 等 科 へ は,付 知 の 南 校,北 校,東 校 浦 分 教 場 の外, 加 子 母 村,福 岡 村,田 瀬 東 白川 村 越 原 の 各 小 学 校 の 尋 常 科 卒 業 生 の 希 望 者 が 入 学 し,私 の級 へ も他 村 よ りの 通 学 者 が 十 数 名 あ っ た。 四,明 治 四 三 年,付 知 小 学 校 に,熊 谷 伊 造 先 生 指 導 の も と,コ ン トラバ ス,コ ル ネ ッ ト,ク ラ リネ ッ ト,ヴ ァ イ オ リ ン,大 太 鼓,小 太 鼓 等 の音 楽 隊 が 創 設 さ れ,私 もそ の部 員 と な り,大 正 六 年 付 知 小 学 校 教 員 退 職 ま で部 員 をつ とめ た 。 五,明 治 四 四 年 四 月 早 川孝 平 氏 主 宰 の 「革 進 同好 会 」 に入 会 し,蘇 水 文 庫 で 集 会 して,英 語 そ の 他 の学 習,演 説 の稽 古,柔 道 剣 道 の 練 習, 登 山水 泳 そ の他 の 運 動,宗 教 家 そ の他 名 士 に依 頼 して の 講 演 会 等 を 行 っ た 。 模 擬 国 会 等 も開 い た。 「明 治 五 〇年 秋 九 月 革 進 内 閣組 織 して ア メ リカ ドイ ツ を討 伐 し 云 々 … … 」 の 会 歌 をつ く って 歌 い,西 郷 隆 盛 と吉 田松 陰 を師 表 の 人 物 と した 。 六,大 正 二 年 松 村 介 石 先 生 を会 長 とす る 「道 会」 の 付 知 支 部 を創 立 し, 爾 後付 知 を 出 る大 正 六 年 まで そ の 世 話 役 を や っ て い た 。 松 村 介 石 先 生,香 山吉 助 先 生(当 時 慶 応 大 学 生)等 の 来付 を願 い, 講 習 会 も開 い た 。 誘 導 会 を作 り,少 年 少 女 の 道 会 的 集 会 もや っ た 。
原玉重 「私の経歴書」155 道 会 は革 進 同好 会 と一 体 的 で あ っ た 。 早 川 孝 平 氏,早 川 胤 相 氏,三 浦 弘 一 氏 等 が 主 導 者 で あ った が,会 長 は早 川 三代 蔵 氏 又 は 伊 藤 公 道 氏 で あ っ た 。 早 川 胤 相 氏 は,私 を革 進 同 好 会 に 入 会 せ しめ て 後 数 年 は,集 会 の度 に 峠 を こ え て私 の 生 家 田 形 洞 へ 迎 え に来 て,夜 一 一 時 頃 送 っ て来 て くれ た 。 会 の幹 部 は皆 々 熱 心 で あ った 。 七,明 治 四 五 年 四 月 一 日 付 知 尋 常 高 等 小 学 校 川 東 分 教 場 の仮 代 用 教 員 とな り,尋 常 二 年 組 を担 当 した。 八,明 治 四 五 年 七 月 恵 那 郡 長 よ り尋 常 小 学 校 の代 用 教 員 免 許 を受 け, 付 知 尋 常 高 等 小 学 校 勤 務 を命 ぜ られ た 。 月俸 金 七 円也 で あ っ た。 九,大 正 二 年 九 月 検 定 試 験 合 格 に よ り,尋 常 小 学 校 準 教 員 と な り,岐 阜 県 知 事 よ り付 知 尋 常 高 等 小 学 校 勤 務 を命 ぜ られ た。 一 〇 ,大 正 四 年 三 月 検 定 試 験 合 格 に よ り,尋 常 小 学 校 正 教 員(訓 導)と な っ た 。 岐 阜 県 知 事 よ り付 知 尋 常 高 等 小 学 校 勤 務 を命 ぜ られ,月 俸 金 一 三 円 也 で あ っ た。 ,大 正 六 年 二 月 三 日 私 は教 員 辞 職 を決 意 し,即 日玉 置 校 長 に辞 表 を 提 出 した と ころ,何 も言 わ ず に許 可 され た 。 早 川 孝 平 氏 の推 薦 で,革 進 同 好 会 代 表 と して 上 京 し,小 南 惟 精 老 師 の 紹 介 を い た だ い て,東 京 牛 込 区新 小 川 町 の 三 木 武 吉 先 生 方 の 書 生 とな っ た。 こ の 時 は,三 木 先 生 が初 め て 衆 議 院議 員 に 当 選 され た選 挙 の 真 最 中 で あ っ た。 当 時 の 三 木 先 生 方 書 生 は,鹿 児 島県 士 族 の橋 口 子 房 君 一 人 で あ り, 後 に福 島 県 出 身 で 後 に衆 議 院 議 員 と な り法 務 司 法 次 官 に な っ た高 木
156(桃 山 法学 第19号'12) 松 吉 君 が 書 生 と な っ た 。 二,大 正 六 年 九 月 私 は 中央 大 学 法 科(夜 間部)へ 入 学 した 。 三 木 先 生 の話 で は,私 に 月 給 金 五 円 を支 給 せ られ る との こ とで あ っ た が,会 計 の奥 様 の状 況 をみ る に,弟 景 三 氏,和 臣氏,女 中 久 さん に 支 払 わ れ る だ けで も,な か な か の よ う で あ り,家 賃,米 屋 等 も一 年 以 上 の 滞 納 で,と て も私 へ の給 与 等 むつ か しい よ う で あ っ た か ら, 一 ケ 月 分 を頂 い たが,後 は 出 郷 の 時 に,付 知小 学 校 よ りの 退 職 金 や, 在 職 中 の 預 金 二 百 円位 を市 川 秀 吉 君 に預 け て 出 発 した の で,こ れ を 毎 月 五 円 つ つ 送 っ て も ら う こ とに して 学 費 及 び 小 遣 に支 払 っ た。 一 三,大 正 八 年 三木 先 生 方 は 牛 込 区若 松 町 へ 転 居 せ られ,牛 込 区 津 久 戸 町 に新 た に事 務 所 を創 設 され,私 は そ の事 務 所 で生 活 す る よ う にな っ た 。 一 四 ,大 正 八 年 一 〇 月 弁 護 士 試 験 を受 け,筆 記 試 験 は合 格 した が,口 述 試 験 は落 第 した 。 こ の 試 験 の た め,八 月 中鎌 倉 円覚 寺 塔 中 白雲 庵 小 南 惟 精 先 生 方 に厄 介 に な っ た 。 朝 四 時 起 床,掃 除 炊 事 等 を行 い,昼 は種 々 の 手 伝 い を して,勉 強 は 二 の 次 で あ っ た が,そ の 次 の 年 の七,八 月 も厄 介 に な っ た 。 小 南 老 師 の親 切 は非 常 な もの で,私 一 生 の勉 強 修 養 に な っ た 。 一 五 ,大 正 九 年 三 月 中央 大 学 法 科 卒 業,弁 護 士 試 験 を受 け た が 落 第 。 一 六,大 正 一 〇 年 一 〇 月 頃,三 木 先 生 方 を辞 し,試 験 勉 強 に専 念 せ ん と し て,伊 藤 公 道 氏 に 出郷 の 時 の 約 束 に従 い,一 ケ 月 三 〇 円 つ つ 一 年 間 貸 与 送 金 方 をお 願 い した と こ ろ,直 ち に承 認 され 送 金 せ られ た の で, 三 木 先 生 に話 し,来 年 一 月 一 日 よ り三 木 事 務 所 をや め させ て 頂 く よ
原玉重 「私の経歴書」157 う 申 出 た と こ ろ,三 木 先 生 か ら大 い に 叱 責 さ れ,早 稲 田 の 赤 門寺 (三 木 先 生 が 昔 借 室 勉 強 され た場 所)を 紹 介 して 下 さ る との こ とで あ っ た 。 そ こで 伊 藤 公 道 氏 に は事 情 を述 べ,返 金 して 断 っ た。 一 七,大 正 一 〇 年 一 月 一 日 荷 車 を借 りて 三 木 事 務 所 か ら赤 門 寺 へ 転 居 し, 勉 強 を始 め た 。 朝 五 時,寺 の鐘 で 起 き,井 戸 で 冷 水 浴 を し,大 き な部 屋 に小 さ な 火 鉢 一 つ で 少 し寒 か っ た 。夜 一 二 時 頃 まで 勉 強 し,三 月 頃 に は少 し神 経 衰 弱 とな っ た 。 四 月 か らは 日本 大 学 の研 究 室 へ 通 った 。 ま た 論 文 を書 い て 早 稲 田 大 学 の 中村 万 吉 先 生 方 へ 持 参 し,教 を受 け た 。 一 八,大 正 一 〇 年 一 〇 月 弁 護 士 試 験 合 格 早 速 鎌 倉 白雲 庵 の 小 南 老 師 方 へ 報 告 労 々御 礼 に行 っ た 。 老 師 は,弁 護 士 と もな れ ば金 が 必 要 で あ ろ うか らこ れ を使 え,と 言 っ て 金 八 十 余 円 の 郵 便 貯 金 通 帳 と印鑑 を下 さ っ た 。 こ の御 恩 は一 生 忘 れ られ な い,小 南 老 師 方 へ は 時 々伺 い,ま た 同老 師 の 師 で あ る伊 深 正 眼 寺 の 昭 隠 老 師 に紹 介 して 頂 き,正 眼 寺 へ 参 っ て 参 禅 した 。爾 後 小 南 老 師 が 正 眼 寺 の 住 職 とな られ,私 は 常 に 出入 させ て 頂 い た 。 一 九 ,大 正 一 〇 年 一 一 月 よ り三 木 法 律 事 務 所(牛 込 区 津 久 戸 町)で 弁 護 士 を 開 業 した 。 当 時 事 務 所 に は,阿 部 計 二 弁 護 士 と佐 藤 久 四郎 弁 護 士 が 勤 務 して お られ た 。 二 〇,大 正 一 〇 年 一 二 月 頃 三木 先 生 は神 楽 坂 料 亭 「末 吉 」 へ 数 十 名 の 有 志
158(桃 山法学 第19号'12) を招 待 し,私 を紹 介 して,「 これ は私 の弟 子 で始 め て 弁 護 士 に な っ た 者 だ 。 こ れ に は私 の よ う に政 治 運 動 の み に 没 頭 させ な い,私 の飯 櫃 で あ る か ら事 件 が あ っ た ら依 頼 して くれ」 と挨 拶 さ れ た が,そ の 後 弁 護 士 と して は全 く三 木 先 生 に頼 む と こ ろ は な く,一 度 だ け裁 判 所 へ 同 伴 した の み で,私 もだ ん だ ん 選 挙 運 動 へ 引 き込 ま れ,弁 護 士 と して は何 らの 功 もな い 。 二,大 正 一 二 年 第 一 東 京 弁 護 士 会 設 立 に参 画 し,東 京 弁 護 士 会 を脱 会 。 新 法 に基 づ く第 一 東 京 弁 護 士 会 に入 会 した 。 二 二,大 正 一 三 年 衆 議 院 議 員 選 挙 に際 し,新 法 に よ り選 挙 事 務 長 を必 要 と す る こ とに な り,三 木 先 生 の 命 に よ り,同 先 生 衆 議 院議 員 選 挙 の選 挙 事 務 長 とな る。 爾 後 引 続 き事 務 長 をつ とめ る 。 二 三,大 正 一 三 年 牛 込 公 民 会(三 木 先 生 の 選 挙 母 体)の 事 務 長 と な り, 昭和 二 〇 年 同 会 が 解 散 とな る ま で勤 続(そ の 間 の 会 長,箕 浦 勝 人, 浜 口 雄 幸,若 槻 礼 次 郎,三 木 武 吉 の 諸 氏)。 二 四,大 正 一 四 年 四 月 四谷 税 務 署 取 得 税 調 査 委 員 に当 選 。 四 ケ 年 勤 務 。 二 五,昭 和 二 年 二 月 牛 込 区議 会 議 員 に 当 選 。 任 期 四 ケ 年 勤 務 。 二 六,同 年 一 二 月 愛 子 と婚 姻 。 二 七,昭 和 三 年 九 月 京 成 電 車 乗 入 れ 問題 につ い て 三 木 先 生 が贈 賄 罪 と し て起 訴 さ れ る 。 私 は 主 任 弁 護 人 平 松 市 蔵 氏 の も とで 三 木 先 生 の 弁 護 人 とな り,弁 護 の 実 務 に たず さ わ っ た が,そ れ よ りも毎 回 の 三 木 先 生 及 び そ の 関係 者 の 諸 選 挙 に つ き,弁 護 演 説 を しな けれ ば な ら なか っ た の に は 閉 口
原 玉 重 「私 の 経 歴 書 」159 し た 。 (ママ) 昭和 一 〇 年 三 月,大 審 院 判 決 に よ り,禁 鋼 三 ケ 月 と な り,三 木 先 生 は服 役 した 。 そ の 間私 は 特 に許 され て 服 役 中 の 三 木 先 生 と病 監 で面 会 を した。 二 八,昭 和 六 年 二 月 牛 込 区議 会 議 員 選 挙 に際 し,牛 込 公 民 会 よ り二 五 名 の 立 候 補 が あ り,私 は全 部 の 選 挙 事 務 長 とな り二 〇 名 を 当 選 させ た 。 但 し私 は一 票 の 差 で 落 選 した。 二 九,昭 和 六 年 九 月 麻 布 区森 元 町 へ 転 居 し,府 議 会 議 員 内 田健 次 郎 氏 死 亡 に よ る補 欠 選 挙 に立 候 補 した。 民 政 党 公 認 者,政 友 会公 認 者 と私 と三 ッ 巴 とな って 戦 っ た 結 果 当選 した 。 三 〇,昭 和 九 年 九 月 東 京 府 議 会 議 員 選 挙 に立 候 補 し,定 員 二 名 の とこ ろ, 赤 羽 氏 と私 の ほ か 立 候 補 者 が な く,無 投 票 で 当 選 した 。 三 一,昭 和 九 年 九 月 東 京 府 議 会 議 員 樺 太 視 察 団理 事(団 長 代 理)と して 同 地 を視 察 。 同 年 内 務 省 都 市 計 画 地 方 委 員 を命 ぜ ら る。 三 二,昭 和 八 年 三 木 先 生 が,牛 込 区市 ケ谷 に 「玄 々 社 」 を創 立 し,私 は 総 務 部 長 とな り,東 京 に お い て鉱 物 分 析 所 を,北 海 道 に 雄 武 金 山, 国 華 金 山,山 形 県 に和 田 金 山,岩 手 県 に猫 足 金 山,宮 城 県 に鮎 川 金 山 を各 経 営 した 。 三 三,昭 和 一 一 年 三 木 先 生 の 主 宰 の も と,東 亜 鉱 産 開 発 株 式 会 社 を創 立 (社 長 三 木 先 生),代 表 取 締 役 と な っ て,朝 鮮 にお い て 鶴 翼 金 山, 陽 地 里 金 山,林 山金 山,松 川 鉱 山 を経 営 した 。(昭 和 二 〇 年 終 戦 に よ り引 揚 げ)
160(桃 山法学 第19号'12) 三 四,昭 和 一 七 年 頃 よ り原 子 爆 弾 用 鉱 物(ウ ラ ニ ウム,ト リウ ム 等)の 研 究 を始 め た 。 陸 海 軍 研 究 所 等 に つ き諸 調 査 を行 ない,朝 鮮 青 島 の ウ ラ ニ ウ ム採 掘 現 場 を視 察 し,ま た 内 金 剛 で放 射 能 の あ る 雲 母 鉱 石 を 採 取 した り した 。 三 五,玄 々 社 創 立 と共 に鉱 業 部 を置 き,東 北 帝 大 加 藤 謙 次 郎 先 生 を招 へ い して そ の 部 長 と な っ て も らい,私 は 同 氏 と二 人 で 全 国 の 金 山 を視 察 し,新 金 鉱 あ りと 聞 け ば 二 人 で 調 査 に行 っ た 。 毎 日毎 日鉱 物 や 鉱 山 の 話 を聞 き,相 当 な専 門 家 とな っ た 。 こ の 人 は 鉱 物 学 の 先 生 だ け で は な く実 業 に も くわ し く,経 営 等 につ い て もい ろい ろ と教 え られ た 。 三 六,昭 和 一 一 年 二 月 衆 議 院議 員 に 当 選 。 爾 後 三 回 当 選(選 挙 区 東 京 第 一 区 ,麹 町,芝,麻 布,赤 坂,四 谷,牛 込)。 昭 和 二 〇 年 一 二 月 迄 在 任 。 私 は 衆 議 院議 員 に初 当選 の 時 は,民 政 党 常 任 幹 事 と な り,次 に 当選 した 時 は平 幹 事 で あ り,三 回 目 当選 の 時 は何 らの 役 に もつ か ぬ 陣 笠 で あ っ た。 す な わ ち東 条 反 対 の石 原 派 に入 り,次 の 項 の様 な東 亜 連 盟 運 動 を して い た の で,民 政 党 政 府 と して は 反 対 派 とみ られ,そ の 幹 部 と は しな か っ た の で あ ろ う。 三 七,昭 和 一 四 年 一 一 月 東 亜 連 盟 同 志 会 に入 り,常 任 委 員 とな り,昭 和 二 二 年 迄 在 任 した(主 宰 石 原 莞 爾 将 軍)。 全 盛 時 は数 十 名 の 国会 議 員 も所 属 して い た が,東 条 総 理 大 臣 の 一 喝 に よ り多 くが 退 会 し,終 戦 後 解 散 迄 残 っ た代 議 士 は私 と木 村 武 雄 君 の 二 人 の み で あ っ た。 三 八,昭 和 一 四 年 五 月 株 式 会社 報 知 新 聞社 の 常 任 監査 役 とな る 。 三 九,昭 和 一 七 年 ボ ル ネ オ協 会 を創 立 し,南 方 諸 島 の 研 究 を 開 始 した 。
原玉重 「私の経歴書」161 四 〇,昭 和 一 七 年 四 月 勲 四等 に叙 せ られ る。 四 一,昭 和 一 八 年 三 月 大 日本 興 亜 同盟 企 画 室 幹 事 長 と な る 。 終 戦 ま で在 任 。 同 年 東 亜 連 盟 同 志 会 々 員 木 村 武 雄 君 他 数 名 と上 海 よ り南 京 に渡 り王 世 黄 ・児 玉(?)等 と会 談 し,東 亜 連 盟 に よ る 戦 争 終 結 を と考 え た が, 軍 部 か らの威 喝 で 解 散 に 帰 せ られ た 。 四 二,昭 和 一 八 年 三 月 三 木 先 生 が 東 京 を引 あ げ,高 松 へ 転 居 され た。 以 後 昭 和 二 五 年 上 野 桜 木 町 へ 帰 京 せ られ る迄,常 に東 京,高 松 間 を往 復 し種 々 三 木 先 生 の使 い を した。 四 三,昭 和 ニ ー 年 二 月 公 職 追 放 とな り,昭 和 二 七 年 解 除 とな る 。 四 四,昭 和 ニ ー 年 九 月 辻 嘉 六 氏 の 法 律 顧 問 と な り,同 氏 が 死 亡 され る ま で 毎 日勤 務 した 。 同 氏 死 亡 の 際 は,遺 言 に よ り遣 言 執 行 者 とな っ た 。 四 五,昭 和 二 四 年 四 月 株 式 会社 日本 交 通 広 告 社(現 株 式 会 社 日交)の 創 立 に参 画 し,取 締 役 会 長,顧 問 等 を勤 め 今 日 に至 る。 四 六,昭 和 二 五 年 一 一 月 東 邦 モ ー タ ー ズ株 式 会 社 の 創 立 者 とな り,昭 和 三 一 年 ま で常 任 監 査 役 を勤 め た。 四 七,昭 和 二 五 年 武 蔵 野 天 然 ガ ス 研 究 所 を創 立 し(所 長 三 木 先 生), 天 然 ガス 鉱 区 を隅 田川 以 東 船 橋 市 まで の 間 に 数 百 出願 し,天 然 ガ ス 鉱 工 業 につ き研 究 した 。 四 八,昭 和 二 六 年 江 東 天 然 瓦 斯 工 業 株 式 会 社 を創 立 し(社 長 三 木 先 生),
162(桃 山法学 第19号'12) 代 表 取 締 役 とな っ て,江 東 地 区 で 天 然 ガ ス井 数 ケ 所 を掘 削 し,東 京 ガ ス 株 式 会 社 そ の 他 ガ ラス 製 造 工 場 な ど民 間 会 社 に供 給 した 。 資 金 は三 木 先 生 の 全 財 産 を担 保 と して,上 野 信 用 金 庫(現 朝 日信 用 金 庫)そ の他 か ら借 り受 け,ガ ス井 の 掘 削 を し,江 東 区 内 で 十 数 ケ 所 の ガス 噴 出 をみ た。 当 時 東 京 都 で使 用 す る ガ ス の 一%位 を天 然 ガ ス で 賄 っ た もの で あ る 。 そ の 後,右 会 社 経 営 は,木 下 商 店 次 い で 三 井 系 関 連 会 社 に承 継 せ ら れ,私 は常 務 取 締 役,監 査 役 等 を勤 め て い た が,原 子 力 関 係 に勤 務 す る 関 係 上 昭和 三 一 年 八 月 退 任 した 。 尚右 江 東 天 然 瓦 斯 工 業 株 式 会 社 は,現 在 東 洋 興 産 株 式 会 社 と商 号 変 更 し,三 井 系 に お い て 経 営 中 。 四 九,昭 和 二 九 年 建 材 株 式 会社 社 長 とな り, 社 副 理 事 長 就 任 に よ り退 任 。 昭和 三一年八 月原 子燃料公 五 〇,昭 和 二 九 年 日本 林 業 株 式 会 社 社 長 と な り,北 海 道 の風 損 木 の 払 い 下 げ 等 林 業 経 営 に 当 っ た が,前 項 と同 じ事 由 で 昭 和 三 一 年 八 月 退 任 した 。 五 一,昭 和 三 一 年 三 月 五 日 妻 愛 子 死 亡 。 五 二,昭 和 三 一 年 四 月 三 木 先 生 は私 と蓮 井 トヨ子 氏 を病 床 へ 呼 び,自 分 の死 後 か ね子 の こ とを頼 む と両 手 を合 せ られ て い た。 頼 まれ た二 人 は,か た く引 受 け,三 木 先 生 死 後 は,蓮 井 トヨ子 氏 を 奥 様 の 養 子 と して 必 ず 奥 様 の 看 病 を し,世 話 をす る こ と を進 言 して 了承 を求 め た 。 五 三,昭 和 三 一 年 五 月 三 日 三 木 先 生 は千 駄 谷 の 宅 か ら 目黒 へ 転 居 さ れ た 。 政 治 上 で も非 常 に多 忙 とな っ た私 は,爾 後 三 木 先 生 死 去 迄 の 問,毎 日 目黒 の お 宅 へ 通 っ た 。
原玉重 「私の経歴書」163 同 年 六 月 の終 り頃,三 木 先 生 の主 治 医 幕 内氏 か ら赤 十 字 病 院 で 面 会 した い との 事 で あ っ た の で,同 所 へ 出 向 い た と こ ろ,「 三 木 先 生 の 言 に よ る と"政 治 の事 は 河 野 さ ん に,そ の他 一 切 は あ な た に相 談 せ よ"と の こ とで あ る か ら,特 に三 木 先 生 の病 状 につ き相 談 した い の で 来 て も らっ た 。 医 師 四 人 で 相 談 の 上,私 が 三 木 先 生 の癌 につ き研 究 した が,医 師 全 員 が癌 で あ ろ う との 意 見 だ が,検 微 鏡 で は確 認 で きな か っ た と こ ろ,本 日腹 水 を試 験 した結 果 癌 で あ る こ とが 明 らか とな っ た」 との こ とで,そ の 検 微 鏡 を見 せ られ た 。 私 は そ れ を見 て も よ く判 らな か っ た が,幕 内 先 生 は,「 つ い て は, こ れ を公 表 す るか 否 か に つ い て の あ な た の意 見 を き きた い 。 医 師 四 人 は 大 体 気 付 い て い る の で,い つ まで も公 表 せ ず に お くわ け に も参 らん と思 い ます が 」 との こ とで あ った 。 私 は,公 表 は待 っ て も らい た い,よ く考 慮 の 上 ま た お伺 い します と 言 っ て そ の 日は 帰 っ た 。 私 は 帰 っ て か ら一 夜 考 え た が,決 心 が つ か な か っ た の で,そ の 当 時 あ る 人 か ら紹 介 さ れ て非 常 に よ く当 る と い わ れ て い る易 者 が 居 る の を 思 い 出 し,私 は易 見 を信 じな い こ と に は して い たが,斯 様 な場 合, あ れ こ れ迷 う よ り先 ず見 て も らっ た らと思 い,相 当高 い 見料 を支払 っ て 見 て も ら っ た と こ ろ,「 こ こ数 日 とい う こ とは 絶 対 に な い が,来 年 の 夏 が あ ぶ な い 」 との こ とで あ った 。 私 は 易 見 を信 じて の み で は ない が,何 ん だ か 三 木 先 生 が 死 ぬ な ど と い う こ とは,実 感 と して 出 て 来 な か っ た。 何 ん と な く三 木 先 生 は未 だ 未 だ 死 な ぬ もの と思 う よ う に な り,そ の後 数 日で 死 去 す る とい う 時 まで,先 生 は 死 な な い もの と確 信 す る気 持 で あ っ た 。 しか し三 木 先 生 は昭 和 三 一 年 七 月 四 日死 亡 せ られ た。 五 四,昭 和 三 一 年 八 月 五 日 原 子 燃 料 公 社 副 理 事 長 と な る。 同 三 九 年 八 月 四 日 ま で在 任 。 日本 全 国 の ウ ラ ン鉱 に つ い て 試 掘 研 究 し,特 に人 形 峠 に つ い て は献
164(桃 山法学 第19号'12) 身 的 に働 い た 。 副 理 事 長 退 任 後 も,顧 問 と な り,人 形 峠 の鉱 区 問 題 等 に つ い て も, そ の 処 置 に つ き助 言 し協 力 した。 昭和 四 二 年 八 月 顧 問 を退 任 した 。 五 五,昭 和 三 九 年 九 月 日本 原 子 力 産 業 会議 相 談 役 と な り,同 四 二 年 八 月 ま で 在 任 。 五 六,昭 和 三 二 年 付 知 会 会 長 と な り,昭 和 五 二 年 六 月 五 日迄 在 任 。 五 七,昭 和 三 六 年 六 月 中央 大 学 評 議 員 と な り,昭 和 四 五 年 六 月 まで 在 任 。 五 八,昭 和 四 〇 年 四 月 上 野 信 用 金 庫(現 朝 日信 用 金 庫)の 常 任 監 事 とな り現 在 に至 る 。 五 九,昭 和 四 一 年 第 一 東 京 弁 護 士 会 よ り,在 職 三 〇 年 以 上 弁 護 士 と して 表 彰 せ られ る 。 同 年 一 〇 月,娘 昌子,服 部 信 也 と婚 姻 。 六 〇,昭 和 四 二 年 一 二 月 て る と婚 姻 。 六 一,昭 和 四 五 年 一 〇 月 紺 綬 褒 章 を受 く。 六 二,昭 和 四 六 年 四 月 勲 二 等 に叙 せ られ る 。 六 三,昭 和 四 六 年 五 月 日本 弁 護 士 連 合 会 よ り,弁 護 士 五 〇年 の 表 彰 を受 け る 。
原玉重 「私の経歴書」165 六 四,昭 和 四 七 年 九 月 付 知 町 名 誉 町 民 に推 薦 せ られ る。 六 五,昭 和 一 七 年 満 洲 国 を,同 年 中華 民 国 北 支 を,同 一 八 年 同 南 支 を,同 四 〇 年 香 港 を,同 四六 年 ハ ワ イ を,同 四 九 年 ア メ リ カ を視 察 巡 遊 す る 。 六 六,弁 護 士 に な っ て か ら六 〇 年,常 に看 板 は掲 げ て お り,弁 護 士 会 役 員 も一 期 は勤 め た 。 選 挙 法 違 反 事 件 は 大 小 多 数 件 の 弁 護 を行 い,民 事 事 件 も引 受 け た 。 倒 産 整 理 も行 っ た 。 国 選 弁 護 事 件 は,弁 護 土 の義 務 と して 必 ず 引 受 け た 。 弁 護 士 に な っ て 早 々,舞 台 峠 の殺 人 事 件 の弁 護 を頼 ま れ,無 罪 を 主 張 した が,積 極 的 な証 拠 が な く,唾 液 鑑 定 が不 利 益 とな り,大 審 院 で現 場 検 証 まで や り直 し を して も らった が,死 刑 が 無 期 懲役 とは な っ た が,無 罪 に は な らな か っ た。 付 知 町 の 国有 林 と の境 界 問 題,空 地権 問 題,道 路 工 事 に伴 う墓 地 移 転 問 題 等 で は,柳 か 付 知 へ の 恩 返 し を させ て頂 い た と思 う。 (付記) 父 原 玉 重 が 書 い た 「私 の経 歴 書 」 と題 す る小 文 は こ こで 終 っ て い ます 。 日付 は 「訂 正 昭和 五 四年 八 月 二 七 日」 と な っ て い るの で,そ れ 以 前 に 書 い た もの を こ の 日 に訂 正 した もの で あ ろ う と思 わ れ ます 。 原 文 は,は し り書 き様 の もの で,父 独 特 の 極 め て 読 み に くい 字 で 書 か れ て お り,清 書 さ れ た もの で は あ りませ ん 。 本 人 と して は,更 に 訂 正 し完 成 させ る つ も りで あ っ た の か も知 れ ず,私 共 に渡 さ れ た もの で もあ りませ ん 。 私 は父 生 前 に何 度 か 父 に対 し,明 治 ・大 正 ・昭和 の 三 代 に生 きた 政 治 家 と して,弁 護 士 と して の 裏 話 し様 の もの を記 録 に の こ し,出 版 物 にで も し た ら と誘 い をか け た こ とが あ ります が,父 はそ の都 度,そ ん な 大 そ れ た も の を書 く資 格 は な い,三 木 先 生 の こ とな ら多 少 は知 っ て い る が,と も ら し て お り,遂 に実 現 し ませ ん で した 。
166(桃 山法学 第19号'12) そ の よ う な経 緯 が あ っ た だ け に,こ の 「私 の 経 歴 書 」 の 原 文 に 目 を通 し た と きに は,や は り父 が 自分 の 歩 んで 来 た 生 涯 を,何 か の 形 で,子 や 孫 た ち に伝 え た い と考 え て い た の で は ない か と思 い ま した 。 本 書 に 載 せ る に 当 って は,多 少 の 言 い廻 しを 除 い て は,原 文 をで きる だ け 忠 実 に 再 現 しま した 。 但 し中 に は判 読 不 能 の 文 字 もあ り,誤 記 が あ る か も知 れ ま せ ん 。 経 歴 の 最 後 に,次 の 事 項 を付 け 加 え させ て い た だ き ます 。 六 七,昭 和 五 五 年 六 月 付 知 町 の 山 村 開発 セ ン タ ー 内 公 民 館 図 書 室 に 図書 を 寄 贈 。 以 後 図 書 室 充 実 の 為 に 図書 の 寄 贈 を続 け た。 特 に付 知 町 の 林 業 振 興 の為 の 図 書 を寄 贈 した。 六 八,昭 和 五 六 年 九 月 母 校 で あ る現 付 知 町 立 東 小 学 校 を六 十余 年 ぶ り に 訪 問 し,講 話 を した。 六 九,同 年 一 一 月 付 知 地 方 に 残 さ れ て い る焼 骨 埋 葬 の 風 習 に つ い て研 究 し,付 知 町 に,残 骨 を埋 葬 す る為 の 納 骨 堂 を 献 納 。 七 〇,昭 和 五 八 年 三 月,第 一 東 京 弁 護 士 会創 立 六 〇 周 年 に 当 り,同 会 か ら 創 立 会 員 と して 感 謝 表 彰 を受 け る 。 以 上 (服 部 信 也)