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1853年「嘉定農民蜂起」とその歴史的背景

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(1)Title. 1853年「嘉定農民蜂起」とその歴史的背景. Author(s). 藤岡, 次郎. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 10(2): 156-169. Issue Date. 1960-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3721. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 10 巻. 第2号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 昭和35年2月. 3年「嘉定農民蜂起」とその歴史的背景 1 85 岡. 藤. 郎. 次. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室. i J ro FUJ工研くA : ” Peasant Revoltin Chia ‐Ting 嘉定” in 1853 and i t s HistoricaI Background. 目. 次. は し が き 1. 嘉定農民蜂起と上海 小刀会叛乱との関係 2 . 蜂起の発端 3 . 蜂起始末 4 . 蜂起の客観的条件 1 -官吏の勤索. は. し. 5. 蜂起の客観的条件11 -洋布の盛行 6 . 蜂起の主体と しての 「在地地主」 7. むすびにかえて一-- 「抗糧」 闘争としての 蜂起の性格. が. き. 1 958年刊) の第六部は, 中国科学院上海歴史研究所警備委員会篇 『上海小刀会起義史料桑篇』 ( 上海附近各県における 「人民起義資料」 の収録である. いまこの史料集を主に, 他の参考史料をも ) 併せて1 , 上海小刀会叛乱の 「先駆」 たろ 「抗糧農民蜂起」 につき, その顛末・客観的条件・性格 等, 些か述べて, 大方の御教示を仰ぎたい. この蜂起は, 後述の如く, 一時は広範に亘るものであ ったが, 嘉定県域を蜂起の中心地としたから, 仮に名づけて 「嘉定農民蜂起」 とした. 蜂起は, 成豊3年 8月 3 日にはじまり, 頂度太平軍の南京莫都後約半年, 苑女渦氏のいう, 「太 ) 平天国革命運動」 の発展から停滞への時期に当る2 , 即ち, 太平軍の南京・鎮江・揚州の占拠後, 清朝側も江南・江北 2大営の設営による反撃体制を固め, 東南・北部戦線は, 弦に鯵著状態に入 る. この時, まさに突如として, 江南大営の背後に, この 「農民蜂起」 と 「上海小刀会叛乱」 が, 相継いで起る. 註1 ) 中国科学院経済研究所刊 『中国近代農業史資料』 , 「皇朝経世女続編」 な ど. このうち , 「東華続録」 『上海小刀会起義史料桑編』・『中国近代農業史資料』 収録の諸史料は, そのまま使用することに大 きな難点があるが (例えば, 一部分を抽出している等) , 原典に当ることが できないため, そのま ま 用 い た.. 2) 『中国近代史』 上編第一分冊 pp .110~122. 1 . 嘉定農民蜂起と上海小刀会叛乱 との関係 この蜂起を, さきに, 上海小刀会叛乱の 「先駆」 といったが, 前者がそのまま後者に拡大発展し たわけではない. いま詳 しく述べる余裕をもたぬが, 上海での叛乱が, 中小商人層を中核とし, 他 ) 要 素が 強い の に比 し か ら 流 れ こ ん だ ル ン ペ ン・ プ ロ レタ リ ア ー ト を ベ ー ス に した, 「市 民」 的1 ,. 嘉定での蜂起は, 中小土地所有者・貧農を主体にした, すぐれて 「農民」 的色彩の濃いものであ 56- -1.

(3) . 藤. 岡. 郎. 次. ) る, 当時, 中国来住の一英人の手記に, 「青浦に独立の暴動が発生した2 」 と, 上海小刀会叛乱と 切り離しているのは, その意味で当を得ているし, 事実夫々の発生の条件も異っていたのである. しかし関係が無くはなかった. 一二の史料では, 蜂起の首領周立春は, 某を介して上海小刀会や ) 太 平軍 と も 通 じ, 挙事 を 約 した と あ る が3 , 太 平 天 国 と の 関 係 は, こ の一 史 料 の外 不 明 で あ る し,. 上海小刀会についても, 小刀会側から周立春に挙事を働きかけ, 却って拒絶された, という史料も あっての, 挙事の密約については定かでない。 「葵丑嘉定起事」 に, 蜂起の少し前, 上海小刀会徒 がアヘン販運途上, 黄渡鎮にて土着の一監生に, アヘンを劫掠せられた時, 周立春が仲介してそれ ) を返さしめ, その為周立春に対する小刀会徒の信望は, 極めて篤くなったとある5 . これを信ずれ ば, この事件を機として, はじめて両者の具体的な結びつきが生れたとしてよいであろう. そこ ) で, 8 月 3 日の蜂起には, 小刀会側からの来援があり6 , また小刀会叛乱の翌日 (8月 6 日) に 7 ) は, 周立春が来櫨救援 したという記事も首肯しうる . ただ, 彼は上海に至るや, 間広両党の不和 ) しかも 9月22日 に は 「伏 法」 し 蜂 起 は ひ と 先 ず 潰 滅 す る の だ を見 て, 直ち に 戻っ た の で あ り8 , , か ら, 関 係が あ る と い っ て も, 如 上 の 程 度 で しか なし・ . も ち ろ ん, 残 党 の い く ば く か は, 上 海 小 刀. ) 会の叛乱の中に加わったと考えうるが9 , それも左程のものではなかったのではないか. 「億昭楼 洪楊奏稿」 に, 「敗散撤兵, 多系宝山邑土著貧民, 幸逃回家炎, 決不再出.」 1 0 」とあり, 嘉定農民蜂 起のベースたる農民は, いずれは農事に帰着するの類が多かったと考えられ, この点, 「此等 (建 1 1 )と, 江蘇巡撫の一幕僚をして警戒 楕匪党) 無家可帰, 無業可食, 恐出死力抵戦, 不可不備.」 広済- せしめた上海小刀会徒とは, その性質を異にするものといわねばならぬ. 註 1) 拙縞 「上海小刀会研究之序」 日本社会史研究 5 . 尚 「市民」 的とは, 「農民」 的との比較語で, と りたてて 「近代ブルジョア」 的との謂ではない. l i 2 ) J 「史料桑編」 p ve Yearsin Ch na . Scarth , Twe .1860( .521 の中国訳に拠る) ※以下, 『上海小刀会起義史料桑編』 は, 「史料」 とのみ記し, アラ ビア数字でのペィジ数は, すべ て, 「史料」 のペイジをあらわす. 3 ) 「星周紀事」p .837 .907 . , 「黄渡続志」 p ′ 4 4 1 1 ) 「 憶昭楼洪楊奏稿」p . . 5) p.877.. 6 ) 「兵災紀略」p . 833 . 7 1 ) 8) 「上海小刀会起事本末」p .4 . 9) 「黄渡続志」p . 909 , 1 lo )1 ) p . 917 , 2 , 蜂. 起. の. 発. 端. 蜂起が, 反清・反官的武装蜂起の段階に入り, 諸州県域を占拠 しはじめたのは, 前記威豊3年 8 月 3 日以後である. しかしその 「発端」 は, 前年夏の 「巳免銭糧」 の追征に絡む, 「抗糧」 事件に あり, しかもその動きは既に道光末年に醸成されていた, 威豊2年夏, 青浦県知県余竜光は, 道光30年以前の 「己免銭糧」 の追征を命じた. この処置に対 し, 同県 一地保たりし周立春は, 「此恩詔巳免銭糧, 官府横征.」 といい, 糧差の徐栄・請茂 らと 1 )し, 官に抵抗の意を示した. も し周立春の言の如くならば, そ 共に, 「結二十余図, 糾衆抗糧.」 の追征は明らかに 「不当」 であろう. ところで, この事件に関し, 余竜光は新彊に発遣された, し かし 「発遣」 の理由は, 「錐訊無征収応免銭糧, 及賃汚実拠, 惟周立春煽惑擾乱根由, 究因該革員 2 )とあるように, 「応免銭糧」 の征収にあるのではなく, 単に 「擾乱」 の根由を作 庸劣不職所致.」 拾良等の上奏には, った 「庸劣不職」 の廉による, というのであった, また蜂起直後の, 両江総督i 3 ) と見 「因恩旨諮免道光三十年以前民欠, 民間誤会, 以為三十年漕糧亦奉鏑免, 疑吏膏滋弊起鮮.」 - 157 -.

(4) . 1 853年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景. え, 道光30年の 「糟糧」 をも繁免されたとする民間の誤解に事寄せて, 吏督らが騒擾を起したこと 1 )道光30年の漕糧は民欠 「熟免」 の対象とはなっ を誘っている。 この 「実録」 の二丈を信ずれば,( )余竜光は職責上, その漕糧を追征した, とも取れる, とすれば, 道光30年以前の己免 ていない,( 2 銭糧に対する, 官側の不当な追征が, 蜂起の発端になったと, 速断する訳にはゆかぬ. 清朝は, 各省の災害に対し, 屡々田賦の減免を行い, 国庫の盈余, 朝廷の慶事には, 「普免」 さ え行った, 内外多端の威豊元年にも, 新帝即位を祝して, 民欠 「普免」 を天下に明示した. 「民欠 正耗銭糧, 及因災緩徴帯徴銀穀, 並借給粁種口糧牛具, 及漕項萱課学税雑税等項, 即著各該督撫将 4 )とあるのがそれで, 事 軍府昇等, 将道光三十年以前実欠在民者, 詳悉査明, ……降旨全行路免。」 件発端になる上諭である。 このうち 「銀穀」 が漕糧のことか どうか判然とせぬが, 漕糧は矢張りそ のままの文字を明記するのが当り前なのではないか. (上諭中の漕項については, 末尾補註参照) とすれば, この上諭中に 「漕糧」 が入って居らぬことにな り, 前記 「民間誤会」 の語と併せ考え て, 道光30年の漕糧の 「追征」 は, 県令の責として一応正当なものであろう. 筆者はそのように推 断す る.補註). ) それは措き, もともと漕糧は, 江蘇省を トップとする東南産米の区に限られ5 , そのうちでも, 蘇松常鎮大倉の4府 1州の地区の負担は, 他を圧倒し, それだけに, 該地農民=納税戸の苦痛は大 7 ) ) きかった6 . 漕糧徴収に絡む州県官や吏否の不正もさる こと乍ら その糟糧過重が納税戸の「民欠」 8 J を余儀なくせしめ, 拡に漕米の尾欠 , 即ち 「漕尾」 なるものが生れる. 糟糧納附が期日までに完 9 ) というように 了せば, 勿論漕尾は生ぜぬが, それが容易に行われず, 「州県買米塾完, 留串特徴」 1 )か l o ) 庫項の流用一追征が常套であり, しかも, 漕尾は多額 且つ禁止す べからざる趨勢にあった.1 かる状況であって見れば, 民欠の普免は, 納税戸にとって, 乾天の慈雨であり (後述のように, か ならずしも実恵が及ばぬ場合も多かったであろうが), またこれを機に, 貧萎な官史に対し, 激 し い抵抗・闘争意識を燃 して, 「普免」 に該当 しない款目の追征にすら肯じなかったことは, 至極有 りうべきことであったと思う. 例えば, 蜂起直後の南匿県の暴動記事, 「南願県設拒征収糟尾, 毎 1 2 )は そ 石傷需八千八百女. 本地郷民不服, 票衆六百余人, 赴南匿将漕総陶姓屋宇器物尽行打段.」 , の一端を物語っている, 註1 ) 「奨丑嘉定紀事, p .877 .908 など. , 「黄渡続志」p 「史料」 p 2 ) ) 「実録」 威豊4年8月甲子上論 ( .991 . 「史料」 p 3 ) 同上威豊3年8月戊子株批 ( .947) , 4) 東華続録成豊元年正月戊子上諭. 58 5 『近世支那経済史研究』 p ) ) 小竹文夫 「近世支那租税上における物納と銭納」( .1 . 6 )9 )11 ) 林女忠公政書甲集巻2 「江蘇陰雨連綿田稲撤収情形片」 . 7) これに就ては, 鈴木中正 「清末の財政と官僚の性格」(『近代中国研究』 第二輯) や, 安部健夫 「耗 羨提解の研究」(東洋史研究, 10の4) に詳しい, 8 )10 ) 「査係征少解多, 官為塾完之項, 而其中漕米尾欠, 為数居多」(林文恵公政書甲集巻6 「会奏 道光十年以前積欠銀米麦豆穀石請害祭習」 , 12) 「平夢紀聞」p .985 , 3 . 蜂. 起. 始. 末. 3 2 ) ) )で 蜂 起 の 首 領 周 立 春 は, 青 浦 県 北 部 郷 村 の 「土 豪」1 , 「世 々農 を 業」 と し , 該 地 の 「地 保」. 4 )と見え, また前述のアヘン劫掠事件に関 であった. 「黄渡続志」 に, 「素以智術寵絡其郷人者」 し, 豪横を以て鳴る監生金仁保を招き, 劫掠アヘンを返させたり, 「抗糧」 に当り, 差役誠茂らと 通謀した点等, 該地において, いわゆる 「顔役」 であったのであろう。 それる ま措き, 彼は謂茂の報によって, 直ちに郷民二, 三千を糾合 し, 青浦県署に押入って「報荒」 -158-.

(5) . 藤. 岡. 次. 郎. すると共に, 余竜光の 「遣散」 の命にも服せず, 抗糧 o 拒捕の態度を明らかにし, 義勇千余人を率 いて, これを捕えんとした蘇州知府鐘殿選に対しても, 「鋤穣疎衿」 の類を武器として抵抗し, 却 って鐘殿選の居を媛き払った. その間彼は, 各郷村をして 「完糧」 に応ずることなきを約せしめ, ) 一方富室を勤派して出銭せしめ, 一味を招集した処, 日々糾合 者が増大した5 . しかるに彼はなお 公然たる叛乱の挙に出ない. また官憲側も, 不思議に思えるほど, 如上の動きに対し充分な対策と 鎮圧を試みていない. それは結局蜂起の機未だ熟せずとの彼の判断から来たものと, 官憲側も, 太 J 平天国侵入の危急のために, 彼の動きを左程重大視していなかった為と考えられる6 。 ところが7 月に入ると, 南期鎮の 「羅漢党」 主で, その党羽百人と共に 「却獄脱囚」 した徐耀, 並に 「漕事」 に関して, 女生員の資格を剥奪された宝山県人杜女藻らの強い勧めによって, 周立春も遂に起事の 決意を固める。 しかもその決意に転機を与えたのが, 前月に起ったアヘン劫掠事件→上海小刀会と の提携, という事態であったのかも知れぬ. とも 角, 8月 3日, 蜂起し, 直ちに嘉定県域を占拠したが, 5日には相呼応するかの如く, 小刀 会の上海無血占領が起る。 翌6日, 周は嘉定・青浦の農民四千を率いて上海に来援し, 直ちに瞳を 2日には大倉州城 めぐらして嘉定県域に戻り, そこを根拠にして, 以後宝山・南雁 o 川沙を陥れ, 1 5日の青浦県域占拠を最後に, 彼此の力に を攻略せんとしたが, 知州禁 映斗の反撃によって失敗, 1 1 8 力が整備せられ 即ち 日以後は官側・郷団側の 転機が見られる。 ,25日の川沙庁の陥落を最後に, 2日には周立春は蘇州府城で 「凌遅処死」 の刑に処せ ) 城鎮の尽くは再び官側の手に入る7 。 その間2 上 られ, 蜂起は中心人物を失った. 蜂起途 , 該地の無頼で之に応ずる者紛紛たる有様であり, 叉燈 ) 燭。千糧の類を差出し, 之を援助する者あり8 , しかも相当な人数を糾合 したと思えるにも拘ら ず, かくも短時日の間に敢なく潰滅した原因につい ては不明であるが, 所詮その 「農民蜂起」 とい う性格の中に, その脆さの根因と, 強さの限界が潜んでいたと考えられる。 ところで, 前記 『史料桑編』 に, 嘉定県城占拠後宣布 したという周立春の告示が二つ載ってい 9 る) 。 一つは, 貧官汚史の掃討, 好細の捜索に関するごく簡単なもの, 他の一つは, 「起兵」 の目 的が貧官汚吏の完全掃除に在ることを明示し, ついで土悪勢豪の改俊を促し, 一般良民の負担すべ き 「銭糧」 の黙免と, 繋獄中の人犯の釈放を示し, 更に店鋪の平常営業を厳命している. そして 「漏世軍機者斬」 「好淫婦女者斬」 など8項目の 「斬刑」 を挙げて結びとしている. この告示は, 上海小刀会宣布の告示と殆ど同内容のものであるが, ただこの中には, 上海小刀会の告示や, 太平 天国の 「奉天討胡激」 中に見える, 「縫虜」 「胡虜」 等の文字は見えない. しかし嘉定県域占拠直 o ) 後, 城壁上に樹てた旗職中に, 「反清復明」 の文字が識してあったというからl , 蜂起に当り総て 紅中を以て印としたことと併せて, 矢張り明末以来の秘密結社の伝統に繋るものがある の で あ ろ う. ところで 『史料桑編』 編者の, これに附記された 「綜叙」 は, 如上の告示から, 「是推翻封建 統治」 といい, また蜂起の性格を 「反封建」 武装蜂起と規定している。 しかしこれには, 封建的生 産関係の基軸を何処におくか, つまり 「土地所有者」 のイ ニシァティ ヴによって起った 「抗糧」 闘 争一蜂起の性格そのものの評価に関わる問題が解釈されねも な らず, 第 7 章 で述 べ る よ う に, こ の 問題は極めて難しい. 「抗糧」 闘争も種々の型があり, 衿戸が自己の立場を利用して, 丁税のみな らず地賦をも抗拒し, 官の督促に対し, 抗糧団を組織して反抗を示す場合やめ, また威豊元年の地 租の増徴に対 し, 広東省東莞県の生員整子謹らの抗糧闘争に見られる如く, 各県共同して 「罷考」 2 ) を以て応ずるようなものもあった1 。 従って 「抗糧」 運動が直ちに反 「封建」 闘争と即断すること に許されないが, この点については更めて述べる. ただ, この蜂起事件と関係した上海小刀会の首 領劉 麗 川が,. アメ リ カ 公 使 マ ← シ ャ ル に 対 し, 蜂 起 の 日 的 が,. 清 朝 の 転 覆 と, そ の 結 果 と し て,. 1 3 ) を実現する ことにあると灰めか したという記事は, その内容が明瞭ではない 「新しい統治形態」 - 159-.

(6) . 18 53年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景 と し ても, 反 「封 建」 闘 争 と い う こ と と 関 連 し て 一 応 注 目 す べ き こ と だ と 思 う.. また蜂起に当って指導者たちが, 蜂起軍の綱紀を厳正にし, 良民の人心を安定せしめんと 努力 し たことは, 告示中に明瞭に見られ, 更に 「憶昭楼洪楊奏稿」 中に, 蜂起当時, 嘉定県城内の一染坊 が某に遺つた書信に, 指導者たちが, 米行に対して 「不許閉歌」 米価不許袷高」 と指示し, 一方 4 )叉同書中の, 「倫有糧草不敷, 即出現銭擢買, 決不硬除.」 と蜂起軍に厳命したことが指摘され1 酒業者の張某なる者の目撃にかかる 8月12日の口述に拠れば, 「与百姓秋墾無犯, 惟向紳富索銀. 1 5 )とあり, 彼らの厳正な態度, 及び彼らが基本的に何を志向 ……域内外開店如常, 到覚更為熱間.」 しているかという点が, やや察知せられ, この点から, この蜂起が, 単なる一時的暴動や, 劫掠を 事 と す る 盗 匪 の 類 と は, 明 瞭 な 差 異 の あ る こ と を う か が う こ と が で き る。 註1 ) 「臭林小史」p ‐799 . ) 「黄渡続志」 p 2 )4 .906 . 3 ) 周立春については, 地保・保正・保長・里正などの表現があるが, 舷では 「億昭楼洪楊塙」 の 「周 立春供状」 に拠って (p ) .922 . 「地保」 とした. 5) このところ, 「黄渡続志」 ( 06~90 7 ) の記事に拠る, pp .9 6 8 7 7 ) 「葵丑嘉定記事」 p . . 7 ) 以上の叙述は主として, 「奨丑嘉定記事」 ・ 「黄渡続志」 の記事による. 8 ) 「黄渡続志」 p .808 .953 . , 「羅店鎮志」p 9) pp . 28~29.. 10 ) 「憶昭楼洪場奏稿」p ,913 . 11 ) 小竹丈夫 「乾隆末の一抗糧事件」 (史湖, 59・60合併号) 参照. 12 ) 東華続録威豊元年五月乙末及び威豊二年正月甲子. ina He 13) Nor th Ch l d( 1 853年9月10日) の中国訳 (北華捷報) に拠る. -- 「史料」 p r a .57 . 14 ) p.910 及び p一912. )15 4 . 蜂 起 の 客 観 的 条 件 1- 官 吏 の 勤 索. 1 ) とい 既述の如く, 「嘉定農民蜂起」 は, 太平軍の南京・鎮江・揚州占拠による 「人心の動揺」 う状況下で, 官側の 「漕糧」 追征と, それへの強い抵抗に端を発した. しかし, この様な蜂起を醸 成した客観的情勢が存在したことも確かで, そのためにはまず, 明未清初以来の, いわゆる 「下か らの抵抗」 力の増大と, その社会的経済的諸条件が問われねばならぬが, 準備不足のため, 弦では ひとまず 「上からの圧力」 という点一 「官吏の勘索」 について 些か述べたい. 前記 「告示」 中に明示され, 事実行動の上に於ても展開されたところの, 蜂起軍の激しい反 「権 力」 的, 反 「官」 的意識は, 官吏による積年の侵冒勤索中飽の結果生れたものであった。 勿論官吏 の勤索は, 中国, 特に清朝では普遍的存在現象であった. しかし蜂起の中心地帯たる大倉州属諸県 ) 鎮下の農民は, 前述の如く最高の搾取率の下におかれ2 , それが 「民欠」 を招き, また民欠に乗じ て, 官 吏 に 不 正 の 機 会 を 与 え る こ と も 多 か っ た と い え よ う.. 更に銭糧の二, 三倍に及ぶ糟糧の徴収の仕方, 即ち大戸=生監ニポス, 乃至は丁晋差役等の, 請 ) 負による糟糧徴収制, 一般に 「大戸包機」 制と呼ばれるものが3 , 種々の弊涜を作りだした. 州県 によって, 時に三, 四百名の多きに及ぶ彼ら 「漕糧徴収請負人」 は, 国家権力の末端に於て, 農民 収奪の役割を果した. 二, 三万両に及ぶ手数料, 即ち 「漕規」 は, 州県費から支払わるべきもので あったが, 往々にしてそれは, 小戸の貧民に肩代 りさせられた. その為 「窮民不堪膝削」 , 結局「不 4 ) 醸成巨案不止」 という不穏な形勢は常に存在していたのである . また, 漕糧の 「折銀」 に当り, 大戸小戸に大 きな差別が行われた. 即ち劣弱戸は, 「折銀」 の際 ) 往々強勢戸の二倍有余の負担を負った5 . 「折銀」 自体についても, 地域的不均等があり, 当地域 ) の負担は最も大きく, 強者は票衆して抗官 したけ ども, 弱者は領産して輸賦を余儀なくされた6 . 60- -1.

(7) . 藤. 岡 , 次. 郎. ) また銭糟二糧の徴収並に折銀に当り, 官が浮収 し, 更に銭漕を 私帯する ことがあった7 。 これら のことが 税糧の直接負担戸に, 反 「官」 的騒擾を不断に作りだす事態を与えていたのである. 蜂起 の年に, 侍郎王茂陰は, 「江蘇之嘉定・青浦……均以困於銭漕而起. ……銭漕二糧既因 以増, …… 民苦不堪, 怨嵯載道. 好民乗機煽惑, 以挟制官長, 始而折段街署. 始為隠忍, 継而殴官薬役, 不強 ) 為弥縫. 乃至轍官作乱, 乃不得不奏弁, 而労師動衆, 己不易於収拾突8 .」 と述べて, 事態の容易な らざるを指摘し, また 「実録」 威豊3年 9月甲辰の上諭にも 「若如該給事中 (雷維翰) 所奏州県収 漕、 寛有応交一石, 浮収至両石之多, 弁有運米不収, 勤折交銀, 以至民怨沸騰, 激成事変, 遂有票 ).」とある. 要するに王茂陰は銭憎浮収の過多一嘉定 衆糠官之案. ……而各州県反借詞於抗糧滋事9 農民蜂起を指摘しているのであるが, 徳桂券はより明瞭に, 「諺云, 江南必反於漕浮収勤折, 天怒 の.」と, 官吏に対する儒教的鑑戒を垂れ 後に (同治 2 人怨将来患生不測, 叉有如嘉定青浦故事者1 , 陶煎も 年) 紳富の佃戸に対する悪棟な収租手段を述べた 「 あとで 此風既開 , , , , 流弊更不可間, n ) 嘉定o青浦之己事, 行将復見突 .」 と言い, 識者の眼には, 「嘉定農民蜂起」 の原因が, 銭漕二 糧, 特に漕糧徴収に絡んで起る官吏の勤索浮収にあったと映じていたのである. ところで, 民欠普免や, 撤歳時の錫免に当っても, 官吏は悪事を働いた. 即ち江蘇省蘇松等府属 の州県では, 鍋緩時にかならず書吏が業戸に銭女を強制し, そこではじめて業戸は荒欺なることを 填注して貰い, これを売荒といった. だから出銭者は豊収でも緩征を得, 不出銭者は荒欺でも査弁 を得ず, 甚しきに至っては, 不肖の州県官は書吏とグルになって, 強要銭女の分前にあづかったの 2 ) で, 開征時には, かならず 「抗欠開漕等事」 が起った1 . また, 獅免銭糧で, 己輸在官の銭糧は, 翌年の 「応完正賦」 に流抵すべきものだが, これも各州県では, 「鰯免詔旨」 を手許に停潤して, 催 征を 急 に し, 或 は 「流 抵」 の 文字 な き に 借 口 して, 濫 りに 自 分 の ポ ケ ッ トむ こ入 れ る. 業 戸 の 中 に. 偶々 「恩旨」 の示遵を請うものがあっても, 官吏は結託して, 巧言・威嚇を以て対処し, 侵蝕を畔 にする. だから免征の年でも, 追呼止まず, 己輪の田賦も何時加除されるかわからない 要するに . 3 朝 廷 が 時に 鋪 免 しても, そ れ が 納 税 戸 の 実 恵 と な ら ぬ こ と が 屡 々 あ っ た の で あ る 1 ’ . ま た, 開 倉 前 に. 官は易知単 (納税督促書) を, 完糧に当っては, 先単 (収税証書) を与えるのであるが, 官は易知 単を渡さずして 「代完」 し, 後に莫大な利子を取 り立て, 甚しきは代 完せず して 「元利」 と称し てu それを勤索しようとする. 更に給串せず して銀米を前借し, 時に 「己借己徽」 の銀も, 受取ら 4 ) ぬ と 称 し て 「重 織」 を 通 る こ と が あ っ た1 .. また, 漕糧時に当り, 公然たる桝目の胡麻化し, があり, 且つその際種々の名目の願規が取られ, 5 ) 結局原額の2倍半の負担になった1 . また, 道光期以来の銀価の昂騰は, 納税戸に大きな苦痛を着 6 ) ら した1 .. さて, 以上の如き, 極めて高度な搾取下におかれた江蘇省東南部地域の, 納税戸に対する官吏の 勤索浮収は, その様な官僚機構を支え, その頂点に立つ絶対君主制清朝支配 権力の弱体化という趨 勢の中で, 次第にそのアンチテーゼと しての反官反清白 勺意識の昂揚と増大をもたらす. 即ち 「嘉定 農民蜂起」 は, 前述の如く, 如上の趨勢下に於て, 数年に亘る 「前史」 をもち, いわばその爆発点 であ っ た の で あ る。 7 例 え ば, 道 光29年 に は, 税 の 重 徴 に 絡 ん で, 嘉 定 の 「四 郷 大 擾1 ′ 」し, そ の 年 4月 に は, 「報水」. 8 J を名として 「晴雨公堂, 翼池抄税之恨1 。」という事態が見られ, また6月には, 「水災巳成, 益票 9 ) 衆入城, 轟大戸, 掠米鋪, 帆令給以銭米1 .」と騒動は拡大 し, しかも 「絶不査弁首事」 とあるよう に, 官側が結局暴動を押え切れず, 首謀者をも不問に附せざるを得ないような, 反権力側の力の増 9 ) 強を見ることができる. 翌々威豊元年にも, 「埋征巳免銭糧, 民怨吸吸, 盗案日出1 。」 と見える ような不穏な情勢が存在していた. 要するに, 当該地域の納税戸にかかる, 過重の 田賦と, その徴 61- -1.

(8) . 1853年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景. 収に関して生ずる種々なる官吏の不正が, 当時の識者=支配 者側の一部の者に, 「巨案を醸成せざ れば止まざる」 勢と, はっきり映ぜしめた客観的条件であったのである. しかも蜂起はもはや, メ ドウスのいわゆる 「反乱の権利」 , 即ちセジパ詰ったときにだけしか使えないというこの権利の行 0 )一暴動といったものでなく, それから一歩踏み出, かなり組織だった反権力の結集という形に 使2 発 展 し て い た と 言 い う る で あ ろ う. 化 註1 ) 液湖 草堂遺稿に 「夢西紅中賊……陥江寧, 分鋸鎮江・楊州, ……南窺呉越, 呉中笈笈, 人鼠徒, 言 ) 言四興, 一日恒数億. 秋七月, 周立春乗勢, 遂謀掲竿起.」 (p .901 2 」(林則徐 「駅姑余騰銀両展限提解片」 林女忠公政書甲 ) 「江蘇銭漕之重, 款項之繁, 皆数倍於他省. 集巻2) 及び 「矯照蘇松大倉等属, 為銭糟最多之区.」 (林則徐 「鱒挑劉河白節河以工代賑摺」 同上 政書甲集巻3) . 3 ) 例えば, 「其大戸之包壇, 小戸之詑寄, 生劣監之把持公事, 図喫糟規, 以及州県粥弁之籍詞勤索 書吏門丁 之借勢中飽, 種々弊端.」(東華続録威豊 2年正月甲子) , 尚 「大戸包増」 制については, 前掲安部・鈴木両氏の論文参照. 4) 東華続録道光6年12月奏丑. 44 よ ) 掲の 『中国近代農業史資料』 P ) -- 「はしがき」 註 1 5 ) 鴨桂券 「均賦議」 (顕志堂稿巻10 .3 り転引. ※以下, 『中国近代農業史資料』 より転引の場合は, 単に 〔農史 p .~〕 と記す (前述) . 6) 徐熱 「務本論馨弁篇第一」 (未灰斎女集中の3)〔農史 p .949〕 7 ) 東華続録威豊2年正自己巳. 福建省の例だが, 「外省習気大率如此.」 とある. 8 ) 王茂蔭 「請禁収漕規費片」 王侍郎奏議巻5, 〔農史 p.949〕. 9 ) 南開大学歴史系編 『清実録経済資料輯要』 p .699 より転引. 10 1戸政 8賦役中, 鴇桂券 「均賦説勧紳」 ) 皇朝経世女続編巻3 . ・ 11) 陶瀬 「租霧」 〔農史 p.285〕. 12 ) 劉錦藻, 「皇朝続文献通考」 巻3 〔農史 p,338〕. 13) 王大本等 「渓州志」 巻首, 詔論 〔農史 p .338〕 に, 同治3年7月の上論があり, 「各州県積習相沿, 云々」 とあり, 特に 「蘇属」 の州県について触れている. 14) 15) 儒柱券 「与許撫部書」 (顕志堂稿巻5)〔農史 p .325〕. .330 及び p 16) 曽国藩 「備陳民間疾苦疏」 威豊元年1 2月18日 (曽女正公全集, 奏稿巻1)〔農史 pp.354~355〕. ) 「奏丑嘉定紀事」p 17 )19 ) 18 .876 20 ) 前掲安部教授論文より引用. 弦で安部教授は, 地丁の銭納制が十分な効果を収め得なかった原因に ・以外に, 関連して, 順治から乾隆にかけての納税者が, 「ミ ドウスのいわゆる『反乱の権利』 , …・ なんら権利らしい権利……に恵まれておらず, さればといって, 抗糧運動に身を投ずるだけの気力 も才覚も持ち合わせていなかった」 とし, 「かれらはただ, ……徴税者側の得手勝手な希望に添う よりほか, 少しも思うようにはならなかったというのが実状ではなかったかと思う.」 と言われて い る.. 5 1-洋布の盛行 . 蜂起の客観的条件 1 0」 とあるように, もと 蜂起の中心 地, 嘉定・宝山等の郷村は, 「因該二県地浜海彊, 素不産米1 . ) もと穀産に不適であった. そこで農民達は, 「種稲之処十僅二三, 而木棉居其七八2 .」 ・ 「今 (道 3年) 大倉鎮洋嘉定宝山四州県, 地処海浜, ……向来多種木棉, 紡織為業, 小民終歳勤動, 生計 光1 ) 全頼於楯3 .」 な どといわれるように, その生計を 「植棉」 → 「紡織」 に依拠していた. 該地域の植 棉・棉 紡織の歴史は古く, 特に明代 「棉 布」 折徴を許してから, 次第に穀産にとって代り, 農業経 営の主体となって来た. だから乾隆年間より既に, 全地域の毎年の口食は, 客商の販運に頼ってい ● J たのである4 . 尤もこの植棉 棉紡織の発達も, 先学によって指摘されたように, 農家の副業とし ) そ て 出 発 し たも の で あ り, い わ ば 「過 重 田 賦」 の 「上」 か ら の 強 制 の 然 ら し む る 結 果 で あ っ た5 .. 掃紡織業経営における, 直接生産者;納税戸の主体性の欠如と, 将来の発展 のことがまた, 植棉一一 への制約とを招き, 結局零細経営者の単純再生産をもたらし, 直接生産者一産業資本への道への展 望を見失わしめる. 62- -1.

(9) . 藤. 岡. 次. 郎. それは措き, 乾隆年間江南河道総督たりし高晋の在職中の上疏には 「臣従前閲兵 両次往来於 , , 松江大倉通州地方, 留心体察, 井諭之地方府庁州県 究其種花而不稲之故 井非沙土不宜於稲 蓋 , , . 縁種花費力少而獲利多, 種稲工本重而獲利軽 小民惟利是図 積染成風 ……以現在各庁州県農田 . , . 計之, 毎村荘知務本種稲者, 不過十分之二三 図利種花者 則十分之七八 叉究其所以種稲 多費工 , , 。 本之故, 則因田間支河渓港, 濃塞者多, 難於車水 工本無不多費6 )」 とあり 該地方の種稲 の不 , . , 適は, 土壌 条 件 と い う よ り は, 用 水 路 の 瀞 塞に よ る 工 本 の 過 多 に 在 る こ と を 指 摘 し て い る の で あ る が, 舷 で注 目す べ き こ と は,「種 花」 の 「獲 利」 の 大 な る こ と,「小 民 惟 利 是 図」 と い う 点 で あ る そ 。. してこの 「獲利」 の大なることこそ, 「松太利在棉花稜布, 較稲田倍蓬, 錐暴横尚可支持7 ) .」 とあ り, 「吾邑 (嘉定県下) 土産, 以棉為大宗. 納賦税, 供橋役 仰事備育 青取給於此 ……往者 匹 , , 。 )」 と見えるように 納税戸に負わされた 田賦の過重を 夫匹婦, 五口之家, 日給織一匹, 嵐銭百女3 . , , ともかくも支える条件となっていたのである しかし明代以来の地域的分業の発達 例えば 該 . , , 地域における棉布移出と穀物 の移入は, 農村に対する商業・高利貸資本の渉透を招き その力は生 , 産過程をも支配するに至る. それについては例えば, 典鋪と通融せる好商刀販の米穀・蚕総 ・棉 花 ) の買占めや9 o ) , 好牙が通津橋巷を欄 鼓して, 「用強粒買, 騰価軽戦」 するの類l , 布行布荘の 「低 1 ) 銀小銭」 による布花の強買1 どと なっなて現われている 道光元年の王家 相の奏疏に は, 「(蘇 , . 松) 商曹雲集, 有力者権子母以牟利, 無力者労筋骨以謀生 然此皆無田之人也1 2 ) . .」とあ り, 農村から 「無 田」 の 人, 商 人 ・ 高 利 貸 ・ 労 働 者 ・ ル ン ペ ンプロ の 析 出 が 激 し く 進 展 し て い た こ と が わ か る 。. しかも, 明代以来該地域農民の 「謀生」 を支える要となっていた 植棉 特に棉紡織に 一大 転 , , , 機を与える問題が起 って来た. いうまでもなく, 五口開港以後の洋布の流入とその盛行である . それは先ず, 「薙正乾隆之間, 松江以織布富甲於他郡 . 後奪於蘇州, 而松民失其利. 近洋布盛 3 )」 とあるによって 松江布→蘇州布→洋布への移行が判るが この現象を 行, 而蘇民亦失其利1 . , , より具体的に記しているのは, 道光26年の包世臣の以下の二丈であろう 。 「松 (江) 太 (倉) 利在棉 花稜布、 較稲田倍蓬 錐暴横尚可支持 (以上前掲) 近日洋布大行 価 、 . , 纏当稜布三之一。 吾村専以紡織為業, 近聞己無紗可紡 松太布市 消滅大半 去年棉 花客 大都折 , , . , 4 )」 「木棉桟 布 東南秤軸之利甲天下 松太銭漕不誤 全伏棉 布 今則 本, 則木棉亦 〔不?〕 可特1 . , . , 。 洋布盛行, 価当稜布而寛則三倍. 是以布市鞘 〔消?〕 減, 蚕棉得豊歳而皆不償本 商質不行 生計 . , 5 )」 路細. ……不二三年, 恐当由少入無, 則銭漕両奏, 勢必蛤僕1 。 この二丈によって, 開港後僅かに して, 低廉なる洋布によって土産の稜布の圧倒される様が見ら れるのであるが, これを簡単に図式化すれば, 稜布販路の渋滞一布市の消減→棉 花需要の激減一綿 花客商・坐費販商の短糸 H {→直接生産者の経営不振・没落一銭漕二糧の滞・不納, ……となる . 尤も, 洋布の流入当初から, 稜布に取って代ったとするのは過言であろう 耐性にて優る土布の 。 生き残る途もなくはなかったであろう. 事実, 「下江民間半植木棉 大倉属地為尤多 婦女終歳紡 , , 織, 以資生活. 洋紗初来之時, 民間#不喜用, 間有樵用者, 布荘収買後 致鉛路濡滞 於是荘家必 , . )」とあるのを信ず れば 洋紗渡来初期にはそ 6 i 格外桃易 i , 不収洋紗之布, 民間亦遂不 敢以洋紗携用1 . , の需要少く, その混紡織布は不人気であったから, 布荘はそれを収買せず, その為民間機戸も 敢 , て洋紗の混紡織を行わなくなったのである. しかしこの文章を推測すれもま 需要者と直接生産者と , の間に介在する, 布荘こそ, 洋紗混紡織生産を喜ばなった中核であったのではなかろぅか より具 。 体的にいえば, 洋練・洋布の流入を 目前にして, 中小土地所有者・過小農等の木棉栽培・紡織 経営 を, 「上から」 支配して来た, いわゆる 「前期」 的商人たる布行・布荘が, より強力的手段によっ て, 民 間機戸 を 規制 せ ん と す る 意 図 を 読 み取 る こ と が で き は しま い か と い う こ と で あ る つ ま り , .. 19世紀末の中国近代的紡織業の勃興に至る変動の中で 旧型商人層たろ布行・布荘 洋布の盛行と,, , - 163-.

(10) . 1 85 3年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景. が, 徒らに摸手傍観していた訳でなく, 凡ゆる手段をもつてそれに抵抗を試みながら, それ故にこ そ民間機戸への収奪の強化を, より強め, その間の矛盾をより激化せしめたであろ う. 年代は大 分 おくれるが, 光緒9年12月15日附の 「益聞録」 に, 「嘉定各郷 木棉広植, 土人所産以機布為太宗. ……近因飢荒 兵兆, 風鶴謡伝, 故商人裏足不前, 収布只求 上等, 粗総者一概退還, 是以蓬戸小民, 7 一鎖一筆者) 為植楯之地, …… ) 生計愈砦1 .」 とあり, 同じ 「益聞録」 にはまた, 「南期 (嘉定県下 郷民特以為生, ……近聞各布号 (棉布字号のことか-筆者) 朋比為好, 票謀減価. 遂使抱布貿総之 一括して 8 ) 衆, 観望不前1 .」 と見みる. 前者に拠れば, 布商は良質上等布のみを収買し, 粗槌布は 生産者に返却する (文意から恐らく前貸制か問屋制 であろう). これは 「飢荒兵兆, 風鶴謡伝」 の ためとしているが, その様な一時的な思惑のためではなく, 布商の, 洋布の盛 行に対応する手段と 見た方がよいと思う. 後者では, 棉布問屋としての 「字号」 が, 結託して, 土産棉花の不買を謀 り, その価格の低落を 狙っている. これも亦如 上の趨勢に対応し, 消極的抵抗を 「下」 への圧力と いう形でしか試み得なかった窮余の策と見うるであろう. 勿論該地域の植棉・紡織生産が潰滅した 訳ではない. 弦では述べる余裕はない が, それ以後もずっと続けられていたらしいことは, 後の時 期の史料に見られる. しかし前掲の包世臣の文にあらわれているように, 洋布の盛行は, 五□開港 直後既に明瞭にあらわれ, それによって該地域の農家経営に大きなクサビが打ち込まれ, 「謀生」 の根抵を揺がしたであろう. 官側が 「嘉定農民蜂起」 を鎮圧し, 残党を訪査 したと ころ, 嘉定人封洪なる者が網にかかった. 墓域の東南に在って郷民を煽惑し, 巨悪の一人 であったが (勿論官側から見て-筆者), 官の 彼は= 訊問に答え, 「嘉定二十八図人, 年四十八歳, 家有妻子向開棉花行, 現在閉店歌業1の.」 と言った という. 封供は勿論直接生産者ではなく, 前期的商人であろう. しかし傍点で示した文意から, 今 や土布の生産一流通が, 洋布という, いわば資本主義的強力の前に, 没落を余儀なくされる運命に あったことを具体的に示すものと思う. 威嘉宝二県漕米疏」 1戸政8賦役中, 呉元柄・調 鈎培 「会奏酌? . 註1 ) 皇朝経世女続編巻3 2 )3 ) 林則徐 「大倉等州県術語続被撤収請緩新賦摺」 (林女忠公政書甲集巻2) . 4 )6) 高晋 「請海彊禾棉兼種疏」 乾隆40年 (皇朝経世女編, 巻37戸政12農政中) . 37 ) ・同 「松江府に 5) 西島定生 「十六・十七世紀を中心とする中国農村工業の考察」 (歴史学研究 1 1・12合併号) , 寺田隆信 「明代蘇州平原の農 於ける綿業形成過程について」 (社会経済史学13の1 6の1) ・同 「蘇・松地方に於ける都市の棉業商 人について」 (史 家経済について」 (東洋史研究1 林41の6) 等. )〔農史 P。493〕. 7 )14 ) 包世臣 「答族子孟開書」 (安呉四種巻26 3 5 0 j 〔 農史 志 巻8 「 8) 楊震幅等 嘉定県 」 p 。 . 2年 (皇清奏議巻44 )〔農史 p.87〕. 9 ) 湯時 「請禁固当米穀疏」 乾隆1 )〔農史 p.86〕, 10) 知県劉天羽 「禁布行好匠傾造低銀碑」 (前渇 「嘉定県 志」 巻29 9 農史 p.86〕. 「 2 巻 )〔 「 行傾換低銀碑 ( 前掲 嘉定県志 」 」 11 知県許鐘英 厳禁牙 ) )〔農史 p.111〕. 12 ) 王家相 「敬陳八折収糟不可者十事疏」 (皇朝経済女編巻39 13) 徐熱 「務本論馨弁篇」 (未灰斎文集巻3)〔農史 P.503〕. 6 )L農史 p.493〕. 15) 包世臣 「致前大司馬許太常書」 (安呉四種巻2 16) 皇朝経世文四編巻4 2「利国 宜広制造論」〔農史 p‐509〕. 17 8 ) 〔農史 p.533~534〕. )1 “ キ 19) 「 意昭楼洪楊奏稿」p ー .93L. 6 , 蜂起の主体と しての 「在地地主」 この章を設けた意図は, 第1章で筆者が 「この蜂起は, 中小土地所有者・貧農を主体に した, す ぐれて農民的……」 といい, その後も屡々, 中小土地所有者・農民o農家等々の語を 「無規定」 の まま使用して来 たので, 蜂起の性格を探る 上から, 具体に照して, 今まで使ってきた話の規定をす - 164 -.

(11) . 藤. 岡. 次. 郎. る必 要 を感 ず る か ら で あ る. し か し 以 下 行 論 で 見 ら れ る よ う に, 結 局 成 功 し て い な い.. ところで吾々は, 明未清初に於ける長江デルタ地帯 (その中に蜂起の地区も含む) の土地所有 制, 即ち 「地主経営」 や 「農家経営」 とか呼称されるものを含めて, いくつかのす ぐれた論文を見 ) し か る に 清 代 を 通 じ てそ れ が どの よ う に 進 展 し 変 貌 を 遂 げ て 行 っ た か, と る こ とが で き る1 . , ,. 7世紀末から19世紀末に至る土地所有の変動については, いう点を探究した研究を知らない. 即ち1 今 の と こ ろ 筆 者 に は 何も 判 ら な い の で あ る. 従 っ て 弦 で 些 か 述 べ よ う と す る こ とも, 「前 提」 が な. いのであって, 結局 「停滞論」 ・ 「循環論」 に低迷せざるを得ぬ羽目になった (発展ということを 充分捉えられないという意味で). それはさて措き, 明未清初の土地所有制に関する諸研究中, 北 村・古島・小山諸氏らに見られる見解は, 夫々ニ ュアンスに大きな違いこそあれ (例えを 小山氏論 女に見られるように, 明代郷居手作地主経営の分析を通じて, それを奴隷制的生産関係と規定され り期をなしているということであろう. 「在地地主」 の在地に於け る新説の如き) , その時期が-大書 る権力支配が, 明王朝の初発より, 既に存在していたか どうか, それがどの程度のものであったか については措き, 一般的に言えることは, 明一代を通 じての商品生産の発展につれて, 土地の売買 移動が不断に行われ 一方国家権力との結合の強弱を通して, 漸くこれら 「在地地主」 内部にも階 層分化を起し, 一部のものは, 国家権力機構の内部に入る (官僚) と共に, 商業資本とも結びつい て, 官僚・寄生地主化する. しか し官僚体制からとり残された多数在地地主は, 国家の直接且つ主 要な, 賦及び役の対象となり, 次第に在地に於ける権力支配を弱体化せしむると共に, 自作農乃至 ) は小作農の方向へ押 し遣られる. つまり一方では,「呉中之民, 有田者什一. 為人佃作者十九2 .」 と あるが如き, 「官僚・城居地主」 ←→ 「佃戸」 関係の広汎な創出が見られると共に, 他方では既に 寺田氏によって指摘されているようなり 農業経営の形態に於て, 自作農や小作農と左程懸隔のな い, 経済的地位の極めて不安定な在地地主の存在を見ることができるのである. ところで, 長江デ ルタ地帯についての, 明未清初における如上の変質過程が, 更にどのように展開したかについては 前述の如く, 尚明らかではない. さて, この小稿で屡々利用 した 『中国近代農業史資料』 中, 鎮江在住イ ギリス領事. E. L. オ ク ス. 88年に於ける田地所有額;経営規模に関する報告が見える. これは 「中国訳」 である ンハムの, 18 が, それには, 「鎮江附近の農業経営面積は, 平均20畝であって, 凡そ10・50畝の間にある. 太平 天国の乱後, 大地主は既に存在せず, 主に自作農が存在する.」 とあり, 次いで, 長江以北が十分 の七八がリザE制乃至は雇農制による経営であるに比し, 「長江以南では, 十分の九の土地が, 直接 ) 生産者の所 有となっている4 .」 とある. これは太平天国の天朝田畝制度の 「耕者有其田」 政策の実 施有無に関連して問題となる箇所と思うが, この報告が指摘している様に, 太平軍の鎮江近辺の占 領による地主の逃亡と, 太平天国潰滅後の, 先来者の目耕に係る結果, 小土地所有者=自作農が普 ) 遍的に存在することになったのであろう5 . そしてかかる現象は単に鎮江附近のみならず, 蘇省各 6 ) 属に於ても 「遍遭兵憂, 田地大 半地荒, 業田復多転徒, 頃畝恭順” , 難期条不索 」 とも, 「〔嘉定県〕 ) 至嘉道間, 畝至二十余金. ……同治初, 兵憂離残, 僑客以騰価善之, 畝不過三五金7 」 とあるよう に, 地主の逃亡による土地所有の変動を窺伺しうる. しかし嬢で何よりも注意しなければならぬこ とは, 如上の現象が何れも, 太平軍の該地域への進 出・侵入以後の兵乱の結果の現象であるという ことである. 従って, これらの資料を, 蜂起当時の蜂起地域の土地所有・農家経営の実態を知らせ るものだとすることは, 全くできない. 従って筆者は, 前記諸氏によって明かにされた明 未清初の 土地所有制は, 蜂起当時まで基本的には変動を見ず, 国家権力による収奪と, 農村に於ける商業高 利貸資本の, より激しい惨透によって, 階層分解が更に激化してきたであろうという仮定に 立つ. 換言すれば, 明未清初に見られた, 在地地主の分解によって, 小地片の集積とはいえ, 巨大な大 65- 一1.

(12) . 853年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景 1. 土地所有を行った極少の 「官僚・城居地主」 と極めて多数の没落地主或は没落過程にある地主への 両極分解は, 清代に於ても尚進行を続けたと憶断するのである. そして 「嘉定農民蜂起」 の主体と して, 先に漠然と記した 「中小土地所有者」 こそ, 如上の没落乃至は没落過程にある 「在地地主」 の層であったろうと考えるのである. 即ち蜂起の指導者たち, 例えば, 地保で糧長を兼ね, 「輿論 1 1 憎事 1 0 ) ) 素 治8 」 であった周立春, 別図の地保で監生たる李章9 , 同 じ地保たろ荘月丹 )・楊錦延 ) , 2 3 )(別に杜成蕎1 ) ともある) に関して女生を剥奪され, 蜂起後告示を起草したという杜女藻1 , 糧差 5 ) 4 ) 「向系副 ・需1 - !蒙度日, 今夏失館無業. ……能写字.」 という沈角 の徐栄・請茂1 , また蜂起後, , 1 6 ) 蜂起軍の羽翼 となった 「不肖紳士 」 等々, 何れも没落 「在地地主」 であったと思うのである. さて, 「民間疾苦」 について述べた, 威豊元年の曽国藩の上疏には, 「蕨松常鎮太, 銭糧之重, 甲於天下。 毎 田一畝, 産米目一石五六斗至二石不等, 除去佃戸平分之数, 与抗欠之数, 計業主所収 牽算不過八斗, 而額征之糧巳在二斗内外. 見之以漕餅, 加之以朝費, 叉須去米二斗, 計毎畝所収之 八斗, 正供巳輪其六, 業主只獲其二耳. 然便所輸之六斗, 皆以米相交納, 則小民猶為取之甚便. 無 如収本色者少, 収折色者多, 即使漕糧或収本色, 而朝費必須折銀, 地丁必須納銀. 小民力田之所得 7 ) i銀価苦昂, 而民怨. ……1 」 とある. こ ”米価苦駿, 而民怨. 持銭以易銀, 鼻 者米也, 持米善銭, 貝 れは銀価昂騰を主と して問題にした疏で, また全体として紛飾もあろうが, ここで注目せられるの は, 業 主, 即 ち 地 主 は, 明 ら か に 「力 田」 の 小 民 と 同 質 の も の と し て 述 べ ら れ て い る と い う こ と で. ある. 即ち, 業主=在地地主は, その所有地の 一部を租賃しつつも, 生産労働の主体は, 自己を含 む家族労働 (或は少しの家僕・雇農も 含むかもしれぬが) であったと考えうるのである. もちろん これは, 具体的例示ではないが, それだけに却って 「民間疾苦」 と一般的に呼称されて い る よ う に, 中小土地所有者=在地地主は, 当地域に於ては, 自作農・小作農・貧農といわるべきものと, その経済的内容に於て左程異るものとは考えられない。 また, 少し後の同治年間の記事には, 自作農が賦課の重 圧によって没落し, 大戸に投藁する経過 を述 べたあと, 「大戸勢力有余, 無非勉強従事, 若勢力一衰, 則毎畝僅収二三斗, 其租粁既不能全 8 ) 収, 目不得不望鏑減 之恩. 而州県匿去鑓減之数, 意欲私呑, 是以時有争執1 .」 と あ る が, こ れ に よって推測すれ ば, 大戸と難も, 上からの収奪と下からの抵抗 (欠租) によって極めて不安定な状 態にあり, 徒らに 「鑓滅之恩」 に頼るのみであった. 妓に官僚になり得ぬか, 或は国家権力 との結 びつきのない 「在地地主」 の様態を読み取ることができる. 40) 註1 ) 北村敬直 「明未清初における地主について」(歴史学研究 1 , 古島和雄 「明末長江デルタに於け ) る地主経営」 (歴史学研究 148 , 小山正明 「明未清初の大土地所有H及び口」(史学雑誌66の12及 6の工) 等々, 尚この外に び67の1) , 寺田隆信 「明代蘇州平野の農家経済について」(東洋史研究1 中国人民大学中国歴史教研究編 『中国資本主義萌芽問題討論集』 上・下に, 当該問題に関する幾つ かの論文があるが省略する. 2) 顧炎武 「蘇松二府田= 武之重」 (日知録巻10) . 3) 註 1 ) 寺田氏論文. 4) 〔農史 p .629〕 の 「中国訳」 より転引. 5) 但し, 例えば, 安徽省鷹江県について, 「目経兵憂, 十室九空, 田帰富戸, 富者益富, 貧者益貧.」 75〕 ) とあるのを見れば, 耕作者の逃亡後, かならずしも自作 (麗江県志, 巻2風俗 --〔農更 p .1 農による経営が一般化するとはいえないかもしれぬ. 62 6) 桃光発等 「松江府続志」 巻13 , 田賦志, 李鴻章疏略, 〔農史 p.1 ). 7) 楊震福 「嘉定県志」 巻8 〔農史 p. 175〕. 6 4 5)1 ) いずれも, 前掲 「史料」 より引用したの で煩を避けるため, そ )11 )12 )13 )1 )1 8 )9 )10. の ペイ ジ の み を 以 下 記 す, p。961 . 922 . 877 . 927, P ‐ ,877 ,P ,P .922 P.922 ,P .922, P ,P ,p. 953 .. 17) 曽国藩 「備陳民間疾苦硫」 (曽文正公全集, 奏稿巻 1)〔農史 p 354〕 . )〔農史 pp.664~665〕 18) 金文梼 「与彰通政論去差筏減重賦書」 (皇朝経済女編巻39 - 166-.

(13) . 藤. 7 . むす び に か え て. 岡. 次. 郎. 「抗 糧」 闘 争 と して の 蜂 起 の 性 格. 筆者は前章で, 蜂起当時の在地地主の多くが, 没落乃至は没落過程にあり, 農業経営の実態 は, 小自作農・貧農・佃戸のそれと, 遥庭なきものと想定した. そしてこの蜂起は, その主体が, 首謀 者達の経歴から推 して, これらの在地地主であり, その基底部に多数の貧農が存在 したものであっ た と考 え るも の で あ る.. ところで薮で些か視角を変えて, 郷村に於ける顔役たる郷紳=生員=在地地主の, 反 「官」 o 抗 「官」 的行動の例を一二挙げ, 「嘉定農民蜂起」 の主体たる在地地主の 「抗糧」 闘争の意味に及ん 1 724 で見たい. 先ず第一に, 薙正2年 ( ) 開封府属封邸県に起った 生員等による 「罷考」 事件, 5年 ( 1790 第二に, 乾隆5 ) 湖南省道州に起った, 「抗糧」 事件について, 夫々荒木敏一氏o小竹文 夫氏の論文に従って“, その概略を記したい. 前の事件は, 河 南省に於ける黄河の築堤工事に当り, 布政使田女鏡が州県官に命じ, 嘗て生員の 官役雑差に当差されし例あるに照 し, 元来 「免役」 の特権を有する準官吏待遇の, これら生員に対 し, 田地一頃半乃至二頃毎に人夫一名を供出せしめたことに端を発している。 ここで特権階級たる 生員たちは, 「免役」 の特権を維持せんことを強硬に要求し, 数十名糾合し巡撫街門にデモったの であり, 更にそれは二百人以上による大掛りな 「罷考」 , 即ち受験ボイ コ ットに発展した。 童生・ 生員の試験は国家の義務であったから, これは当然 「抗官」 行為である。 ところで薮で注意すべき ことは, この事件が, 荒木氏の言の如くならば, 「大地主」 の特権保持の為の抵抗蜂起だというこ と で あ る. 換 言 す れ ば, 反 「官」 で あ っ て も, 反 「封 建」 で は 決 し て な い と い う こ と。. 後の事件は, 循吏王輝祖が道州知州となりたる年, 該州に於ける紳衿の積欠が甚大なるため, 「完欠」 をこれら特権者たる紳衿に追った処, 尚頑強に抗糧する者があり, これら諸生数十人を逮 捕したという件である. ここで小 竹教授は, 「読書の家 (紳衿-筆者) が必ず しも富裕の家ではな」 く 貧寒の戸が 多かったと言い, この事件も 「田産無多 (抗糧生員何凌漢を指す-筆者)」で読書に専 念する余裕がなかったことが, 原因であったようだと言われている. 如上の 「抗役」 「抗糧」 事件は, 当該主題の抗糧事件と共に, 何れも 生員等, 郷村に於ける地 主, 或は嘗ての地主を主体とするものであろう. そして先にも触れた如く, 抗糧闘争にも種々の原 因によるものがあり, それだけに内容的にも大きな差異のあることは当然であろう. 特に各地域の 差は大きいものと考えねばなるまい. 然し極めて冒険であるが, 敢てそれを冒し, 以上3事件を年 7 24年の封郡県事件, 17 90年の道州事件, 代順に並べて見ると(地域差その他の条件を無視して) ,1 1 85 3年の嘉定事件となり, そこに夫々6 0年の間隔があり, 舷に在地地主=生員らの, 反 「官」 運動 の内容に時代的な差を感じ取ることができないか, という私見を提出するものである。 そしてそれ はまさに, 主体者側=在地地主の性格変化に帰さるべきものではないかと思うのである。 「嘉定蜂 起」 の場合, 農民の語を敢えて捜入したように, 単に在地地主の性格変化という点のみでなく, そ の基盤に 「土著貧民」 が存在している点から考えて, 少くとも封 邸事件とは内容に於て大きな差異 の あ る こ と は 疑い 得 な い.. ところで, 封建的生産関係の指標は, 仁井田氏の言われる如く, 地主の農民 (佃戸) に対する経 ) 従って 「根本矛盾」 は業主・ ←→佃戸に志向される。 ところで, 清 済外的強制による支配である2 . 朝の如き強力な国家権力が, 納税戸たろ地主に徴税権を発動した場合, 徴租権者たる地主=業主 ) は, その権利を佃戸に発動する. 「在業田者則云糧従租出, 租由佃輪3 .」 という所以である。 だ から逆に言えば 「欠租」 は, そのまま 「銭憎」 通欠となって現われる。 従って国家権力が盤石であ り, 且つ地主がそれと密なる関係 (官僚となる) にあれば, 国家権力の収奪の強化に伴い, 力は下 67- -1.

(14) . 1853年 「嘉定農民蜂起」 とその歴史的背景. 層へ向けられ, それだけ地主・佃戸の関係は緊迫し, 矛盾は激化する. 緊張を苧み 乍らも, この様 ) な事態が続きうる限り, 前記根本矛盾は, 所謂 「主要矛盾4 」 とマ ッチする. しかるに, 小山氏の 註 補 ) 言える如く, 明未清初以来の抗租運動の増大と , 前記した如く, 極少部分の 「官僚地主・寄生 地主」 =大土地所有者化並びに他の極の極多の在地地主の没落化の進展と, 且つ嘉慶期以後の国家 権力の弱体化につれて, 「主要矛盾」 の転化発展が見られる. 即ち主要矛盾は今や, 地主・業主 ←→佃戸一般という形に志向されるのではなく, 意識すると否とに拘わらず, 一方の極に, 国家 (王朝) ・官僚地主・寄生地主・他方の極に, 在地中小地主・自作農・貧農・佃戸・ル ンペンプロ という形に志向され, 次第に王朝末期的方向 (国家権力基盤の漸次的喪失) を辿るに至る. 例え ば, 同治2年に, 蘇州府城内の紳富 (城居地主) が, 城中に 「収租局」 を設け, 国家権力に依拠 し て, 盗賊の如き県署の隷役や, 城市酒博無頼の雇傭隷役を駆使 し, 極めて強暴惨烈な方法によっ ) て, 輸租を強制した如き5 , 矛盾激化の証左であろう. 弦に, 地主対佃戸間に, 常に強力な国家権 力 (と言って悪れば王朝権力) が介入するところの, 極めて特殊的な中国の封建的生産関係の様態 rる資本主義への途はおろか 地主 を観取 しうるのであって, このことが, 所謂 「農民」 的経営によ , を官僚・寄生地主化へ志向せしめる契機を不断に与えることによって, 所謂 「地主」 的経営による 資本主義への途に対しても, 大きな阻止的要因をなしたのであろう. そして佐々木正哉氏が, 清朝 に於て, 地主的土地所有が支配的で, 佃戸の生計も概して良好でなかったにも拘わらず, 地主・佃 戸の経済的対立が暴動的型態を取って表面化する (抗租運動) ことが, 一般農民の政府 (この中に 極少官僚・寄生地主を含めて考える-筆者の私見) に対する抗糧暴動に比して, 著しく少なかっ ) と指摘されている点も, 如上の考え方から当然そう帰結さる べきものであろう. た6 , 以上の第6章及び第7章で述べ来つたことから, さきに第 3章で保留 して置いた, この 「嘉定農 民蜂起」 の性格を, ここで更 めて規定をすれば, まさしく反 「封建」 武装闘争と断定し 得 る と 思 う・. 尚以上に関説 し, 反 「帝」 闘争規定の問題を些か述べる. というのは, 前記 『史料桑編』 編者の 「綜叙」 には, 嘉定農民蜂起のつながりと しての 上海小刀会叛乱 (この 「綜叙」 はむしろ嘉定蜂起 を上海小刀会叛乱の一部として扱っているのであるが) を, 反 「帝」 武装蜂起として規定している からである. 即ち 「綜叙」 は, これら諸蜂起の反帝闘争規定の理由と して, 五□開港後の外国汽船 ) の航行によって, 中国旧型船運の排除と, その結果としての船夫の大量失業を挙げ7 , 同書掲 「年 ) 表」 には, 明瞭に 「失業漕船水手一万三千名在青浦集合, 反対英国侵略8 」 と叙 してある. 具体的 例 と し て, 有 名 な1848年 の 「青 浦 事 件」 を根 拠 に し て い る 訳 で ある. しか し こ の 論 断 は お か しい.. 即ち, 漕船の解雇水手が大量に青浦に糾合し騒擾事件を惹き起 したのは, その発端が上海居住の英 宣教師 W, H. メ ドハ ー ス トら 3人の青浦に於ける伝導の際に, 雑踏中, 宣教師のステ ッキが最前 ) 列の水手に当り, その眼険を擦傷したことにあるのであり9 , 更に如上の解雇は, 外国船の来往が 8年, 即ち道光28年に, 清朝がはじめて, 蘇松大の2府1州のみに, 繁くなった結果ではなく, 184 海運を試行した結果もたらされた現象であって, それは山口逃子氏によっても明らかにされている o ) こ こで綾 説 よ う に, 河 運 に よ る海 運 の 極 弊 の 結 果 か ら来 た, 中 国 の 内 部 要 因 に よ る も の で あ るl .. するいとまがないが, 嘉定峰起について, 前記 「洋布の盛行」 に抵抗するものとしての蜂起ならま だしも, 如上の理由によって, 反 「帝」 闘争とするのは当らない. 蜂起過程に於ける上海小刀会に ついても, 尚反帝闘争と考える訳にはゆかぬという点も , 先に第1章註 1 ) 掲の拙稿で些か触れ 上海小 た. 彼って 「嘉定農民蜂起」 刀会叛乱」 も反 「封建」 闘争と , 更にそのつながりとしての 「 言い得ても, 反 「帝」 闘争と規定することは正鵠を得ていない. 以上, 史料を扱う面で非常な危険を冒し (抽出史料の刊本をそのまま用いた) , また論理展開の - 168-.

(15) . 藤. 岡. 次. 郎. 上で牽強附会の点が非常に多く, 極めて雑駁な論文になったが, 大方の叱正を期待 して ひとまず , 澗筆する. 註1 ) 2 ) 3) 4 ) 5) 6). 荒木敏一 「薙正二年の罷考事件と田女鏡」 (東洋史研究の1 5の4) , 小竹教授第3章註1) 場. 仁井田陛 『中国法制史』(岩波全書) p 36 .1 . 「申報」 光緒2年12月10日 〔農史 p,283〕. 毛沢東 「矛盾論」 (三一書房 「毛沢東選集」 2巻 p .235以下) より借用. 陶鞭 「租霧」〔農史 p.285〕. 同氏 「 i 1 頂徳県郷紳と東海十六沙」(『近代中国研究』 第三輯所収) .. 7 ) 8). 夫々 p . 29. .8 ,p. ing 9 i ) G. Lanning & S, Coul tory of Shangha s .1921 (「史 料」 p.580~581 の 中 国 訳 に 拠 , The Hi る).. ‐. ,. 10 ) 同氏 「清代の糟運と船商」 (東洋史研究1 7の2) . 第2章補註) 安部健夫教授は, 「米穀需給の研究」 (東洋史研究15の4) に, 『雅正上諭』 第27冊, 8 年8月1 0日の 「向来, 鰯免銭糧, 額徴漕米, 不在所調之内.」(傍点筆者) なる史料を引かれ, 「よ くよくの特例・特恩」 以外は, 普免に当っても, 「漕糧などに当つべき本色徴収税だけは, 原則と してその免除の範囲から外していた. ……ふつうは緩徴措置を講 じて翌年ばらい, もしくは翌年以 後の分割ばらいにしてやり, そうでなければ, 定額の全部もしくは一部を銀で折納させてやるに過 ぎなかった,」 (同掲書 p 8) と言われているのから推して見ても, 本文掲の威豊元年 「普免」 の .13 上諭中に 「漕糧」 の項が入っていないと考 えた方がよさそうである. ところで, 前記上諭中には, 「漕項ー なる文字が見える. 「漕項」 が折色 「漕糧」 を指せば, 前 記の推断は崩れる. 安部教授は前掲論文の註釈で, 「漕項」 について 『乾隆会典則例』巻42 , 戸部. 漕運2, 漕糧調緩, 乾隆2年題准に, 「いちおう 『漕項銀亦弁漕之需』 と限定的に説明されてはい るが, 」 といいつつ, 「しかしより広くは, 永折米をも含めた, 広い意味での折漕銀両のことであっ たようにも見える. ) と述べられ, 結局消極的にではあるが, 漕項は漕糧の銀によ 」(p .197 , 註14 る折納の形態であると考えて居られるようである. (別の箇所でも 「銀の形で徴収するいわゆる『漕 項, は-p 」 と, いわれ, 糟糧の銀による折紬とされている.) とすれば前記筆者の推断が 。169-, 崩れるばか りでなく, 安部教授の指摘された, 漕糧の調免からの除外云々という点とも矛盾するこ とになる. もちろん確信はないが, 乾隆会典則例で限定的に説明しているように, 「漕項」 は単に 「弁漕之需」 とだけの範囲としておいた方がよくはないか. 第7章補註) 小山正明前掲論文, 19 59 ( .9 .30 . 稿). - 169-.

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