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教室という社会も発達する : 「いじめ」克服に向けた道徳教育の構想

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Academic year: 2021

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(1)教室という社会も発達する. 【掲載論文】. 教室という社会も発達する - 「いじめ」克服に向けた道徳教育の構想-. 渡連滴 はじめに. らである。このことに関してはすでに別塙にお. 平成6年1 1月末に起きた愛知県西尾市立東. いて論じたところであるが(2)、いじめ問題に関. 部中学校における「いじめ」による生徒の自殺. してその構造的な原因を探る意味でも、また単に. 事件は、その後各地で生じた同様の事件と共に、. 現象に引きづられ対症療法的対応に終わらない. 一時は鎮静化したかに見えた学校における「い. ためにも、我々が教育を捉える際不可避的に置. じめ」が依然として深刻な問題であり.なんら. かれている問題状況を押えておかねばならない。. 解決してはおらず、むしろ一層深刻化している. 今日学校教育を捉える際の基本的な視点は、. ことを我々に突きつけた。また、東部中学校の. 少なくとも二点あるように思われる。ひとつは. 自殺をした生徒が残した遺書の詳細な記述が判. 大人と子どもの対立という古くて新しい問題で. 明するにつれて、この問題が塑どおりの解釈や. ある。これは1 960年代から新しい歴史学の. 対応では克服Lがたい教育にかかわる構造的な. 中でフランスのアリエス、 P.等を中心にして. 問題をはらんでいることが明らかとなってきた. 展開された子ども史の研究が明らかにしてきた. ように思われる。. (3)教育学においてはドイツの精神科学的教. 以下では、いじめ問題に関してこれまで出さ. 育学の中で、ノール、 H.を中心としてかなり. れている様々な見解に欠けていると筆者に思わ. 以前から世代の対立の問題として捉えられてき. れる視点を述べて、道徳教育がこの間題にいか. たが、そこでは大人と子どもの対立は教育にお. に対応し得るのかを考察してみたい(1). いて不可避的な根源的なものであり、そのため に大人の子どもへの関わりは、子どもの今を認. I.今日教育を考える基本的な視点について. めることと同時に子どもをあるべき姿において. 本題に入る前に、今日学校教育を捉えていく. 見るという一見すると相矛盾するものを含まざ. ための基本的な視点について考えてみたい。今. るを得ないことが指摘された(4)それに対し. 日学校教育に関わって生じている諸問題は、単. てアリエス等の子ども史の研究は、そのような. に教師や子ども達個々人の問題として、あるい. 相対立する子ども観自体が近代以後の歴史的な. は学校というシステム固有の問題としてのみ生. 「大人によるフィクション」(5)であることを. じているのではなく、現代社会の構造的な問題. 指摘したのである。我々が教育を論じる際共通. として、あるいは近代以来の教育がはらむ歴史. に陥りやすい落とし穴は、教育をあたかも自然. 的な問題として顕現しているように思われるか. 界の様々な事実と同じく自然な、超歴史的な事 oQ.

(2) 生徒指導研究第7号1996. 柄であるかのように無前提に考えてしまうこと. 大人、つまり人間としてふさわしい存在に育っ. である。確かに、人間の子どもは他の動物とは. ていくために大切なものが社会の変化によって. 異なり未成熟のままこの世に生まれてくる。そ. 失われているかもしれないということを認識し. のために、子どもたちは大人と子どもという決. て、学校教育がそれに対応していかなければな. 定的な差異を大人による教育と子ども自身によ. 盟'SVB. る学習を通して越えていかねばならない。いず. 臨教審が「生涯学習体系-の移行」、 「個性重. れの時代においても親と子ども、あるいは大人. 視」、 「国際化、情報化への対応」という観点を. と子どもという関係は、教える者と教えられる. 積極的に導入したり(7) 、平成元年に示された. 者という関係を抜きにしては考えられないよう. 「学習指導要領」が、 「学ぶ意欲と社会の変化. に思える。しかし、両者の差異は我々大人に. への主体的な対応」、 「基礎・基本」の重視、. とっては当然のことであるが、子ども自身には. 「個性を生かす教育」を強調したり(8) 、自己. そうではないOここに大人と子どもとの両者の. 教育力を柱に据えて「伝達」から「援助・支. 関係について軌齢が生じることとなるO子ども. 援」の教育への転換を図ろうとしていることな. 達の様々な事件は、子どもという捉え方自体が. どは、前者の観点、つまり積極的に新しい時代. 大人固有のものであることを心得ておかなけれ. を担っていくという観点からのみ解釈されては. ば、我々大人には見えてこない子ども達固有の. ならないのではなかろうか。例えば、新指導要. 構造、あるいは一見すると差異のように見えな. 等削ま生活科を導入したが、これは戦前や戦後の. がら実は大人と同一の構造を持つという事態を. 新教育が教育の柱としてきた「生活」の焼き直. 見逃すことになるかもしれないのである。. しであってはならない。実は生活科を導入せざ. もうひとつの視点は、社会の変化に対する認. るを得ない状況が子ども達の内にあるという認. 識をきちんと持つということである。その社会. 識に立っている。どういうことかと言えば、近. の変化に対して、教育は少なくとも二つの対応. 代化推進の過程の中で子ども達が育っていく道. をしなければならないように筆者には思われる。. 筋に当たるものが不明瞭になってきたのである。. ひとつは社会の変化に対する積極的な対応であ. 我々は学校において子ども達にたくさんの知. る。現代社会は未曾有の流動的な地点に到達し. 識を教えていくわけだが、実は子ども達にどう. て.いる.脱工業化、国際化、情報化といった キーワードがその変化を指し示していると言う. して知識を教えることが可能であるのか、ある いは知識を子ども達が学んでいく基本的なプロ. ことができる。臨時教育審議会が示した時代認. セスがどういうものであるのかということを十. 識はこれであろう(6)もうひとつの対応は、. 分明らかにしてきたとは必ずしも言えない。確. 社会が変化するということは、その変化によっ. かに、知識をたくさん効率よく伝えていく理論. て失われるものもあるということを踏まえなけ. はあるが、それらの知識が子ども達の生活世界. ればならないということである。そのことは確. の中で生きてはたらくものとなっているとは言. 実に子ども達の生活の中に押し寄せているので. えない状況にある。 「つめこみ教育」だとか、. はないか。そうすると教育は新しい社会を担っ. 「知識主義的教育」であるとか様々な学校教育. ていくために必要な知識や力を子ども達に積極. に対する批判がなされてきたことを考えれば、. 的に与えていくと同時に、子ども達が一人前の. 明らかであろう。その際、 「そもそも人間が考 -29-.

(3) 教室という社会も発達する. えたり、行為するためには、知識や概念は不可. 者ヴイトゲンシュタイン、 I.も同じような説. 欠なのであるから、つめこみ教育は悪くない」. 明を行っている。彼は「指さし」を規定する規. (9)とある種居直りとしか思えない見解を述べ. 則を「生活形式」と呼び、子どもはその生活形. る人もいるが、これは必要性から本質に迫ろう. 式を獲得してはじめて言葉と物を結びつけるこ. とする誤った思考に基づいている。あるいは、. とができるのだと考えた(ll.そしてこの生活. 人間の思考や行為と知識や概念との関係の問題. 形式という規則に準拠した言語活動を含む諸活. と、子ども達に知識や概念を伝えていく可能性、. 動を「言語ゲーム」と呼んだ。このことは我々. すなわち教育の方法の問題というまったく異な. が教育を考える際、決定的な意義を有している. る二つの間蓮を区別せず、直結させているので. ように思える。. ある。そうではなくて、子どもが学ぶプロセス、. すなわち教育には基本的に二つの側面がある. すなわち子どもの育つ道筋を直視しながら、そ. ということである。ひとつは言葉を学ぶことに. れに対する大人の関わりのあり方を深く捉えて. かかわる行為であり、我々は長い間これを学校. いくことこそ必要なのである。. の任務と考えていた。ところがそれが可能とな. 子ども達に知識を教えていくとき、その知識. るためには子どもはもうひとつの言語、つまり. を意味づけるものが必要である。このことは赤. 言葉と物を結合するための規則(自然の言語、. ん坊が、言葉をどのようにして学ぶのかを考え. あるいは生活形式)を学んでいなければならな. てみると分かりやすい。我々には経験的には子. い。ところが子どもは生まれながらにしてこの. どもが言葉を機械的に何度も練習することに. 規則を理解しているとは考えにくい。アウグス. よってそれらを記憶しているように思える。し. チヌスは生得的なものと考えたかもしれないが、. かし、実はそれほど筒単には行かない。例えば、. 現代の我々にはそのようには考えられない。そ. 大人が「これはコップよ。」と言ったとき、. れは、結局、大人に由来するしかないのであり、. コップと大人が言った昔を、その昔が指し示し. 大人は子どもにそれを少なくとも示さなくては. ていると大人が思っている実物のコップとどの. ならない。子どもの側からすれば、それを大人. ようにして結びつけることができるのであろう. から学ばなければならないのである。しかもこ. か。これまで心理学は、それは音を聞かせなが. の規則は単純なものから複雑なものに至るまで. ら物を見せ、逆に物を見せながら音を開かせる. 我々の社会や文化の全システムに及ぶ。ここに. という行為を何度も繰り返して、言わば条件付. もうひとつの教育が存在しなければならないこ. けによって両者を結合できるようにするのだと. ととなる。. 説明してきた。. また、他方では、これら大人に由来する単純. しかし、すでに古代の終わりの時代にアウグ. なものから社会や文化という複雑なものにまで. スチヌスはこの問題に取り組んでおり、彼は大. 及ぶ規則を獲得するためには、子ども達の活動. 人による「身体の動き(指さし)」があるから、. が不可決だということである。子ども達の世界. そしてその指きしを子どもが理解しているから. に存在する多様な遊びは、これらの規則の彼ら. 子どもは昔と物を結びつけることが可能になる. 自身による先取りとその適用という実践として. のだと考えた。そしてこの身体の動きを「自然. 捉えることができる。それゆえ、もうひとつの. の言語」と名づけたのである(10)c現代の哲学. 教育は教え、教えられるという関係では捉えき. -30-.

(4) 生徒指導研究第7号1996. れない子ども達国有の世界の事柄として展開さ. れており、いじめの実態が非常に深刻なもので. れると言えよう。. あることが明らかとなった。またその後次々に. ところが、今日家庭や地域といったこの生活. 同様の事件が起きてしまった。これらのことが. 形式の獲得の本来的な場は、近代化、あるいは. 「数」だけでなく、いじめ問題がかなり根深い. 工業化の中で変容や混乱を被り、子ども達に. ものだということを印象づけたのである。. とって必ずしも適切な生活形式の獲得の場とは. まずいじめの定義についてであるが、すでに. 言えなくなってきている。そうすると学校教育. 様々な定義が試みられている。警察庁は. はこれまで言葉つまり知識をやみくもに伝達で. 単独または複数の特定人に対し、身体に. きたのもこのような場が存在したからであり、. 対する物理的攻撃または言動による脅し、. これからはそうはいかないということになる。. いやがらせ、無視等の心理的圧迫を反復継. 小学校低学年における「生活科」は、よく言わ. 続して加えること. れたような「しつけ科」なのではなく、実は今. と定義している(12).また、文部省はいじめを. や失われてしまった子どもたちの自然や社会と. (9日分より弱いものに対して一方的に、. の様々な親密な関わりを補充しようとしたもの. ②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、. なのであるOつまり、生活形式の獲得を援助し. (参相手が深刻な苦痛を感じているもので. ようとしていると考えるべきなのである。した. あって、学校としてその事実(関係児童生. がって、学校の教師は、社会の変化とともに、. 徒、いじめの内容等)を確認しているもの. 知識を伝達するという自らの活動を可能にする. と定義している(13),. ために子どもの学習の土台に当たる部分の形成. まずここで重要なのは警察庁と文部省の双方. にもかかわらなければならなくなったのである。. の定義において、いじめが「(反復)継続」し. 今我々を悩ませているいじめを考えるとき、. て行われるという認識である。つまり単なる一. 筆者にはこのような教育や子ども達を取り巻く. 過性の攻撃ではないということである。このこ. 歴史的現実を踏まえておくことは、それらの問. とに関しては、 「一回限り」であるかどうかは. 題を個人的な間蓮に還元せず、学校教育にかか. 問題ではないとする議論もあるが(14)、子ども. わる構造的な問題としての把握を可能とし、さ. 達においていじめに似たトラブルはある意味で. らにはそれらの諸問題の根本的な解決を模索す. は日常茶飯事でもあり、それらすべてをいじめ. る際、大きな手がかりを与えてくれるものと思. とすることは、子ども達の人間関係の隅々まで. われる。. 大人が介入していくことにつながることとなり、 彼らの社会的発達をむしろ阻害することにもな. Ⅱ.いじめとは何か. りかねない。このことを踏まえるなら、問題は. 実は最近までいじめは鎮静化し、数が減って. ある子どもがある別の子どもの身体を暴力的に. きていると考えられていた。ところが、愛知県. 痛めつけるという事態そのものにあるのではな. 西尾市の0君の事件以後、これを深刻に受け止. く、暴力的攻撃はいじめの、言わば、氷山の一. め、あらためて調査を行ったところ、鎮静化ど. 角であり、暴力的攻撃の背後に他者との関係を. ころか大変な状況であることが分かってきた。. 断ち切り、子ども達の間である子どもを社会的. そして0君の残した遺書が非常に具体的に書か. に孤立化させるという心理的な事態にむしろそ. -31-.

(5) 教室という社会も発達する. の本質的なものがあることが看取されるのでは. ところにも原因を探っていかなければならない。. なかろうか。したがって、両者の定義において. いじめを見つけ出すのは非常に困難だと言われ. 欠けていると思われるのは、いじめが子ども達. るが、それはいじめられている子どもが他の. の集団的な関係の中で行われるということであ. 人々にいじめられていることを訴えないからで. る。いじめが被害者の自殺にまで発展するとい. ある。なぜなのであろうか。. うことは、いじめられている生徒が、自らの存. 0君の遺書の中に「僕は旅立ちます。でも必. 在のアイデンティティに関わる部分で打撃を受. ずいつか会える日が来ます。その時には楽しく. け、心理的に絶望状態に陥ることとして捉えら. 暮らしましょうO」という一節があるoこの部. れなければならないということではなかろうか。. 分は多くの人達が死ぬ前の遺書のわりには軽薄. 次に、いじめの定義に関わって重要と思われ. というか、気楽な書き方をしているというふう. る点は、いじめが一方的な加害行動であるとい. に捉えている部分である。しかし、親に対して. うことである。いじめに関する子ども達の訴え. この中学生という時代の子どもの位置を考慮す. に常に見られることのひとつは、一方的に攻撃. るなら、あながち不可解とか、不まじめとか、. され、そのことに対してさほど抵抗を示さない. 軽薄とかと評価できないのではなかろうか。そ. ということである。このことはいじめが反撃も. のことはその後の一節の解釈に関わるO 「そし. できない弱い者に対してなされるということを. て僕からお金を取っていた人達を責めないで下. 示しているようにも思われるが、しかし。、いじ. さい。僕が素直に差し出してしまったからいけ. めが強い者と弱い者との関係に還元されること. ないのです。」 (15)自分が悪いのだから、取っ. も、いじめの本質を捉える上で問題を含むよう. た人を責めないでほしいと述べているのである。. に思われる。一面ではそうに違いないとしても、. これはいじめを子ども達の間のこととしてのみ. 今日のいじめは誰もがいじめの対象になり得る. 捉えていたなら、理解しがたい部分であるよう. ということなのであり、そのことを考慮するな. に思われる。むしろ、この部分は家族、特にお. ら、実はいじめの本質はいじめている生徒とい. 父さんとの関係の中で解釈していく必要がある。. じめられている生徒の関係にあるのではなく、. 小学校高学年から中学校にかけて子ども達は親. いじめられている生徒が集団の中で孤立無援状. 離れ、自立化の途上にある。この時期は親より. 態になるということにあるということになる。. も友人の影響が大きくなる時期でもある。親と. 問題は、ある個人を孤立無援状態にしてしまう. の関係に対して友人との関係は新たなアイデン. 集団にあると言わなければならない。. ティティの形成の要として特別の意味を持つの であり、そういう関係の中にある友人から屈辱 を受けているのであるが、だからといって親や. Ⅲ.なぜいじめが生じるのか いじめがなぜ起きるのか。なかなか難しい問. 教師との関係に立ち戻ることはすぐにはできが. 題である。子どもはいじめが好きなのだと言え. たいことであろう。つまり、友人との関係(場. ば、分かりやすいのであるが、それまでのこと. の特質)というのは、親や教師との、ある意味. となってしまう。しかし、今日の異常事態を説. では、対抗関係の中で作られる。これははじめ. 明したことにはならないoいじめ問題の解決の. に言及した近代以降の大人と子どもの対立の問. 糸口を探るためには、単に子どもの性質以外の. 題でもあるのだが、仲間を作って徒党を組むと. -32-.

(6) 生徒指導研究第7号1996 いうのは、大人が嫌がることを敢えてすること. る子、それぞれに個別的には帰すことのできな. によって自分達の同質性、あるいは連帯感をそ. い、全体のいわゆる四層構造が持っている構造. こに作り出していると考えることができよう。. 的なものということになる(16)<それを捉えな. そうすると、たとえいじめられていると感じ. ければいじめを明らかにすることにはならない。. ようとも、自分はその仲間の一員であり、それ. これを以下のように考えてみてはどうだろう. は本人にとってはとても重要な意味を持ってい. か。 Iで言及しておいた教育を捉える今日的視. る。それを筒単に「チクル」ことはできないは. 点につなげていくなら、いじめというのは「子. ずであるQ従来のいじめに関する議論で抜けて. ども達が大人になるために必要な子ども達自身. いたひとつの点はこのことであるように思われ. による社会的なシミュレーションの内で、その. る。. 歪められた形のもの」と考えることができるの ではなかろうか。. 加害者に関しても同じことが言える。定義に かかわって述べたように加害者が被害者を一回. これまで子どもが大人になるプロセスという. のいじめで解放しないというのがいじめの特長. のは、家庭があって、学校があって、社会が. でもある。いじめて放りっぱなしではなく、徹. あってそれらを通過することで大人になるとい. 底的にいじめていくO学校だけでなく親がいな. う考え方が取られていたように思われる。しか. いのを見計らって家にまで押しかけていくケー. し、 I.で言及した生活形式につなげてみるな. スも見られ.る。今まで、いじめは「排除の暴. ら、子どもが大人になるためには、もうひとつ. 力」と見られていた。確かにそう見える部分も. の過程がなければならない。それは家庭があっ. 存在している。そうであれば被害者が転校した. て、学校があって、そして学校と同時に、子ど. り不登校を起こしたら、いじめはもう起こらな. も社会(遊び仲間)があって、そして本当の社. いはずである。ところがそうはいかない。いじ. 会があるということではないか。それらを経る. めの対象が入れ替わって継続していく。そのこ. ことによって子どもは大人になっていくと考え. とを考えるなら、いじめは排除なのではなく、. なければならないのではないか。今日の子ども. いじめそれ自身が加害者達にとって意味を持つ. 達をめぐる問題状況は、子ども達が大人になっ. 行為なのではないか。つまり、いじめることに. ていく過程の中で重要な意味を持つこの大人と. よって加害者達のアイデンティティを何らかの. の関わりとは異質な子ども達同士の関わりに生. 形で確認しているというふうに解釈することが. じた異変として捉える必要があるように思われ. できるのではないか。これは被害者を排除しよ. る。. うとしているのではなく、被害者と加害者の間. 学校は今も昔も子ども自身によって構成され. にある役割が配置され、いじめている者、いじ. た自発的な組織ではない。むしろ、大人によっ. められている者、そしてそれを取り巻いている. て子どもの意志とは無関係に作られ、子どもを. 者という複数の役割が、あるひとつの関係を構. 大人に近づけるために作られた組織であり、そ. 成し、そこに自分の中の何かを充足させようと. こでは子ども個々人、つまり「私、あなた、彼(女). していると考えることができる。すると、いじ. ら」そのものであるよりも、むしろそれらは仮. めにおいて問題なのは、いじめる子、いじめら. 称であり、 「児童・生徒」という不動の役割を. れる子、噂し立てている子、そして傍観してい. 付与される場でもある。しかし、昔は、学校と. -33-.

(7) 教室という社会も発達する. 家庭の間には大人からは量り知ることのできな. 移行したのである。. いもうひとつの生活の場が存在していた。そこ. このように考えるなら、今やいじめとは、自. では、子ども達は遊び集団を組織し、大人達や. 分達に固有の場を失い、 「大人のまなざし」の. 他の地域の子ども集団と、例えば、対立・抗争. 下に置かれることによって行き場を失い、学校. を行って自分達の集団の中で自分の位置・役割. の中に持ち込まれた「実存としての子ども」の. を確かめながら、あるいは他の集団との関わり. ありようなのではないか。 「なぜいじめるの. の中で自分達の集団を形成したり、自己を形成. か。」と聞かれて、子ども達が「むかつくか. したりしていた。ところが、今日の子ども達は、. ら」とか「おもしろいから」としか答えられな. そのような場を失ってしまったように思われる。. いのは、ふざけているというよりも、そうとし. 家庭と学校との間の自由なもうひとつの世界は、. か答えることができないからなのではないか。. 大人の作り出した、子ども自らが自発的に組織. またなぜ止めないのかと開かれて、 「いつ自分. する場とは程遠いものに変質してしまったので. がいじめられるかわからないから」と答えるよ. ある。. うに、被害者から加害者へ、あるいはその反対. このことにかかわって、小浜逸郎は『学校の. へ締単に移行するのも現代のいじめに固有の問. 現象学のために』の中で大人のまなざしを免れ. 題であり、いじめが子ども達全体のある国有の. たところで生じる表出様式としての「実存とし. 問題、すなわちいわゆる四層構造、あるいは. ての子ども」と大人のまなざしとの関わりにお. 「大人のまなざし」 (親と教師)を付加するな. いて捉えられる子どもとしての「関係としての. ら六層構造が持つ固有の間愚に由来するからな. 子ども」という二つの子どものあり方を区別し. のではないだろうか。. ながら、両者の括抗が子ども達の存在様式を特 色づけることを明らかにしている(17ォしかし、. Ⅳ.いじめ間是の克服はどうしたら臭いのか. 今日では、前者は封じ込められ、後者のみが大. いじめ問題の克服は、当事者の個々人の問題. 人によって求められ、両者の対抗による子ども. というより、四層構造、あるいは六層構造、社. 達の成長の過程は、その形の変容を余儀なくさ. 会のあり方を加えるならば、七層構造になるが、. れているのである。子ども達はつねに大人のま. いずれにせよ、その全体構造の中で、すなわち. なざしの下に置かれ、大人の要求を一方的に押. 大人達との関係の中で子ども達自身が織りなす. しつけられるのである。ところが、子ども達自. 社会的関係の中で考えていかなければならない。. 身の大人になっていく道筋は、社会の変容に. 今日いじめについて様々な見解やそれに対する. よって変化するわけではない。すでに述べたよ. 対応が語られ、実行されているが、それらの対. うに近代以後の大人と子どもとの関係は、連続. 策の大方の方向は、いじめ問題に対して、. 的なものではなく、非連続としての対立をはら. (1)問題の重大性をしっかり認識するO. まざるを得ない。従来この非連続は子ども達自. (2)実態や原因について正しい理解を持つ。. 身の大人達に対して相対的に独立した関係の中. (3)早期発見と早期解決に努める。. で徐々に連続へと変形されてきた。つまり、. (4)大人の側の連係・協力を図る。. 「実存としての子ども」は大人に対抗する集団. (5)子どもとの心の交流をしっかりと図る。. 的関係の中で徐々に「関係としての子ども」へ. (6)個別指導と集団指導を平行して進める。 -34-.

(8) 生徒指導研究第7号1996. (7)望ましい人間関係のあり方を指導する。. てしか作ることはできない。そうすると今や学. (8)子どもの存在を認め、個性の伸長を図る。. 校しか残されていないのではなかろうか。学校. といったものにまとめられる(18)ォしかし、こ. のあり方自体が教師から児童生徒への一方向的. れで良いであろうか。以上の対策は、いじめが. な知識や技術、そして道徳的態度の伝達の場と. 「どこにでもあり得る」とか、 「被害者に原因. してのあり方から変わっていくことこそ、今必. があるという従来の捉え方は間違いである」と. 要とされているように思われる。つまり、子ど. いった認識を含む点では評価できるとしても、. も達が作り出す関係が、子ども達が自分達のア. 子どもと子どもとの関係が子どもが大人になる. イデンティティを誰かをスケープゴートにする. 上で持っている基礎的な意義を明らかにしては. ことによって確認しようとするより原初的なも. いない。むしろ、教育を個人的な観点でのみ捉. のから、他者が各々の存在にとって不可欠なも. え、個としての子どもと大人(教師)の関係の. のであり、互いに傷つけ合うことのない、むし. 事柄として捉えようとする従来の枠組みを越え. ろ各人の存在を可能にし高めていくかけがえの. 出てはいないように思われる。それでは、いじ. ない体験の場へと変わっていくことではないか。. め根絶の指導がなされればなされるほど、大人. つまり、学校の中で子ども達が作り出す関係、. (教師)から「子どもへのまなざし」が一見ソ. 場の持っている質を実存的なものが克服されて. フトなものにはなっても、実際はより徹底強化. いくような質の高いものへ変えていく取り組み. されることとなってしまうのではなかろうか。. を行うことが今最も望まれているのではないか. そして「実存としての子ども」を再度今度は学. (20),. 今まで子ども達の教育に関して、子ども達を. 校の中で封じ込めてしまうことにならないだろ うか。そうなると、子どもが大人になるために. 「個」としてみる捉え方が学校において一般的. 不可欠な部分は、どこにその場を見出せるとい. であったように思われる。しかし、教室という. うのだろうか。. 社会の中にいる子ども達が作り出していく様々. それに対して、ここではもうひとつの視点を. な人間関係、これもひとつの子ども達の社会な. 提供したい。大人自身が子ども達を大人からの. のであり、子ども達の姿ではないか。その織り. 一方的なまなざしによってのみ見ないで、我々. なされていく関係としての社会の持つ質が変. の方が「大人と子ども」という歴史的に決定的. わっていくような活動を学校において行ってい. な制約の中にあることを自覚して、子ども達を. く必要がある。この観点が従来ややもすれば忘. 我々大人の作り出した理想像から解き放って、. れられてきたように思われる。確かに、従来学. 「実存としての子ども」を承認し、地域の中で. 校教育は子ども達の集団的側面を重視してきた。. 失われてしまったその場を学校の中に意図的に. 特別活動は集団的活動を核にして展開されてき. 確保することである。小浜達郎はむしろ学校教. た。しかし、そこでの集団的取り組みは、 「望. 育を縮ノトすることによってこの問題に対応すべ. ましい集団活動を通して」 (21)という文言に象. きであると主張する(19),しかし、すでに述べ. 徴されるように余りに抽象的であり、その具体. たように今や子ども達の固有の場はもうどこに. 化の遂行というよりも、むしろ個の成長のため. も存在しない。敢えてその場を作ったとしても、. の手段として位置付けられ、子ども達が織りな. それは大人のまなざしの範囲の中にある場とし. す集団の質の発達への観点は存在しなかった。. 蝣35-.

(9) 教室という社会も発達する. 一人ひとりの子ども達が集団的活動に参加する. することしかないのではなかろうか。我々はこ. ことが、あるいは集団に適応することが、彼ら. れまで子ども達を個として捉えることに慣れ、. の社会性の発達を生み出すと考えられてきたの. 集団として、あるいは社会的な存在として適切. である。教育活動の目的は一人ひとりに置かれ、. に捉えることができなかったのではなかろうか。. 集団はあくまでも手段でしかなかったのである。. 「個性を生かす教育」、 「個性を尊重する教育」. そうなると集団それ自身が発達するという観点. は、言葉としては理解できても、学校教育の中. は生じ得ない。しかし、実際は集団には複数の. で具体的にその内実を考えることはできにくい。. 質が存在している。真木悠介は『現代社会の存. そもそも人間が人間となる道筋は、個から発し、. 立構造』の中で、社会の存在機制として「即日. 個を柱として展開するのであろうか。すでに見. 的な共同態」、 「集合態」、 「対日的な共同態」と. てきたように、子ども達の実態が示しているの. いう三つの社会の基本的なありかたを提示して. は、むしろ逆なのではないか。我々が注目しな. いる(22),これは社会の発達段階としても捉え. ければならないのは、まず個なのではなく、教. ることができるのではないか。 「即日的な共同. 室という社会を構成し、その中で仲間とかかわ. 態」はその社会自身のよって立つ基盤に無自覚. りながらその関係をより高次のもの-と作り替. 的でしかなく、個は社会に埋没している。 「集. えていく中で発達していく個なのではなかろう. 合態」は個としては「反省的意識の主体」であ. か。そのように考えるなら、個の発達は教室の. り得るが、 「社会的連関の総体性を- ・対日. 仲間関係の発達と切り離すことはできない。. 的に統御することは」できない。それらに対し. Ⅴ.相互主体的な道徳教育の構想. て「対日的な共同態」は、 「個として自覚的・ 主体的であるのみならず、その生の物質的・精. 以上の議論から、筆者はいじめ克服のカギは、. 神的な内実を決定する彼ら相互の社会的な連関. 被害者や加害者に対する対応にのみあるのでは. の総体性をも、自覚的に統御する」 (23)共同態. なく、むしろ観衆や傍観者を含む教室全体の仲. であり、社会それ自身がよって立つ基盤を反省. 間関係の質的発展にあると考える。確かに、目. 的に捉えていくことができる。これら三つの社. の前で起きているいじめをそのまま放置するわ. 会のあり方は、教室という社会のあり方にも対. けには行かない。その意味では文部省「『いじ. 応していると考えることができるのではないか。 従来の教室における集団の捉え方は、この「集. め対策』緊急会議」の報告の示す提案は、緊急. 合態」に止まっていたのではなかろうか。そう. 有していると言えよう(24)ォしかしながら、長. であるなら、教室においていじめが生じるとい. 期的展望に立つなら、学校は生徒指導の領域だ. うのは、なんら不思議なことではないことにな. けでなく、学校教育全体が不登校の問題を含め. る。極論するなら、学校において教育が進めら. いじめ問題の原因にまで踏み込む積極的な対応. れれば進められるほどいじめが生じてくること. をしなければならない。それは学級活動等の特. にもなる。特にここ数年来の個別性の強調はこ. 別活動の課題であり、教科における指導の課題. の傾向をさらに強めてきたように思われる。. でもあり、また道徳教育の課題でもある。. 的なものとしては総合的な対応としての意義を. 今いじめを克服する方途を見出せるとするな. とりわけ道徳教育は教室における仲間関係の. ら、この「対日的な共同態」を学校の中に実現. 質的発展を達成する上で大きな役割を担う領域 -36-.

(10) 生徒指導研究第7号1996. であるように思われる。従来の道徳教育はやや. 人たちの行動を見たり、私に対する様々な語り. もすれば価値(道徳的内容)の伝達に傾斜しが. かけに対して私の意思の表明として反応してき. ちであった。そのことがこれまでわが国の道徳. たのである。実際には要求への柔順な反応だっ. 教育に対する多くの批判の対象ともなっていた. たのかもしれないが、少なくとも私は私の意思. のであるが、しかし、そこでは道徳に対する二. を表明していると思っていたのである。しかし、. 者択一的な捉え方が支配的であったように思わ. 実際は他者のもとに私が存在しているのである。. れる。周知のことではあろうが、道徳は個人の. このような事態を従来の「主体的」に対して. 主体的な生き方という側面と同時に社会を構成 する規範という二面的性格を持つように思える。. 「相互主体的」と呼ぼう。 そのことは道徳教育に関して少なくとも二つ. 従来の道徳や道徳教育の議論は、これらの道徳. の重要な点を含んでいるように思われる。ひと. の二面性の各々の側面の対立として展開してき. つは、道徳は私の外に由来しながら同時に私の. たように思われる。哲学史における道徳か人倫. ものとなっているということ。二つ目は、それ. かという論議はその一例である。わが国の道徳. ゆえ道徳的反省や思考は一人ではできないとい. 教育をめぐる議論も同様である。個人の主体的. うことである。したがって、道徳教育は他者と. な生き方を主張するか、それとも客観的に機能. の関わりの中で個々人の生き方を自覚的に反省. している規範の伝承を主張するか、そのどちら. することによってしか成り立たない。他者との. かに終始してきたように思える。筆者にはこれ. 関わりが現実的であり、それにつながってはじ. ら二者択一的な議論は不毛のように思われる。. めて個々人の生き方は現実的となるのである。. 両者に共通するのは、道徳を個人を基盤にする. いじめ克服の課題として提起した仲間関係の質. 観点から捉えているということであり、そのよ. 的発展は、個々人の道徳的発展の前提である。. うな観点から行われる思考は、独我論を免れな. 問題は仲間関係の質的発展に個々人がいかに関. い。道徳は他者との交わりにおいて意味をなす。. わり得るかということであろう。このことが道. 個人の生き方も他者との関わりの中ではじめて. 徳教育の方法的問題の中心をなすと言えよう。. 現実性を持つ。他者との交わりがあってその上. この間蓮に関して大きな示唆を与えてくれる. で個人の生き方が意味を持つのである。. のが、コールハーグ, Lの道徳性の発達段階. 例えば、私の生き方は、私個人を出発点とし. に関する理論のように思われるoコールハーグ. ては存在しない。すでに言及したように、そも. はピアジェ, ∫.の他律的道徳性から自律的道. そも私は言葉を学ぶ段階ですでに生活形式を獲. 徳性への発達段階論を踏まえながら、道徳判断. 得しており、それらを基盤にしながら様々な言. の内容ではなく、その判断を行う際の思考の形. 葉を獲得し、自我を形成してきた。ただ私自身. 式に着目することによって、三水準6段階を設. はそれらの生活形式が、様々な他者との交流に. 定したことは周知のことである。その際、彼は. 由来していたことを自覚していないだけである。. 道徳性を正義(just ice)への志向性の. それゆえ、私自身も他者との交流によって作ら. あり方の形式として捉えた。こう捉えることに. れたとは自覚していない。それは生活形式の獲. よって従来の道徳に関する議論の避けがたい問. 得や自我の形成が、私の積極的な活動として展. 題性を克服することができた。つまり、道徳を. 開されたからである。私は親をはじめとする大. 価値に還元したり、主体(主観)に還元したり. -37-.

(11) 教室という社会も発達する. しないで、道徳的思考を道徳の成立する自他関. もある。道徳の授業で子ども達が共同して生み. 係という相互主体的トポスに定位させることに. 出した道徳的思考の発展は、単に個々人の発展. 大きく近づいたのである(25),段階の基礎には. であるだけではなく、彼らが織りなす教室の仲. 「認知能力」と「役割取得能力」 (他者との関. 間関係の発展でもある。なぜなら彼らが達成し. わりを表す様々な立場にたって物事を見たり、. た正義はもはや個人的正義ではなく、社会的正. 考えたり、行為する能力)とがあり、それらを. 義なのであるから(26)ォ. 基礎にしながら、個人間における欲求や利益の 葛藤状況をいかに解決するか、つまりいかに均. m wFi声. 衡化するかということを道徳的問題と考えたの. 以上述べてきたように、今日のいじめ問題は、. である。道徳性の発達は、価値の内容の獲得に. 子どもたち個人の問題とみなされるなら、決し. あるのではなく、正義への志向性の形式が分化. て妥当な解決を見ることはできないように筆者. していき、認知や役割取得が脱中心化(自他の. には思われる。いじめられている子ども達にの. 行為の相互性の増大)していくことと捉えられ. み焦点を置くなら、学校カウンセラーへの期待. る。他律的なものから自律的なものへ、個人. は大きなものがあってしかるべきであろう。し. 的・道具的なものから社会的・共同的なものを. かし、いじめを生み出す原因を克服すること、. 経て相互的・普遍的なもの-の発展を道徳性の. 個別性の中へ迷い込んだ子ども達の社会的思考. 発達として捉えるのである。. や仲間関係を相互行為へ転換することはできな. このようなコールハーグの考え方に基づくと、. いであろう。多様な個性がひとつの社会を構成. 道徳授業は、価値の内面化やあるいは他者の行. し、そこに一人ひとりが自分の位置を見出し、. 為に関する自己の単なる感想の表明の場とは程. 孤立化することなく自己の多様な可能性を発揮. 遠いものであり、それは討論による思考の再構. できる、しばしば「共生」 (27)という言葉で表. 成であり、様々な役割取得による社会的相互行. 現されている新たな社会は、個別性の中にのみ. 為の展開の機会となる。結局、そこでは道徳は. その基盤を見出すことはできないのである。個. 教えられるものではなく、自分たちの活動に. 別性のみに依存する社会は、弱肉強食の社会に. よって自分たちの関わりの中に自分たちの道徳. ならざるを得ないであろう。そこでは常に強い. 的判断の原則として構成され.るのであるoつま. 自己が求められることになる。強くなけ担ぎ生. り、その成果は単に個人の道徳性の段階の上昇. きる資格がないというような社会は、 「人間ら. には止まらない。道徳は社会を構成する規範で. しさ」を志向する社会と言えるのだろうか。 注. (1)本稿は、もともと平成7年5月に行われた兵庫教育大学「同和教育講演会」において話し た内容に道徳教育に関する部分を加えて、平成7年1 1月に行った和歌山県田辺市立長野 中学校(平成6 ・ 7年度文部省指定道徳教育推進校)の道徳教育研究発表会における記 念講演の要旨を更に加筆・訂正したものである。 (2)拙論「コミュニケーション的行為理論による道徳教育基礎理論の探究(1)」兵庫教育大 研究紀要第14巻第1分冊1994, -38-.

(12) 生徒指導研究第7号1996. (3)拙論「教育の本質と諸前提」田子健編『人間科学としての教育学』効草書房、 1 992 第1章PP.5参照O (4)坂越正樹「『子ども』を哲学する」小笠原道雄編『教育哲学』福村出版、 1 991第7 章参照。 (5)本田和子『フィクションとしての子ども』新曜社、 1989参照。 (6)臨時教育審議会「教育改革に関する第二次答申」、 1 9 8 6, (7)同上「教育改革に関する第一次答申」、 1 985, (8)教育課程審議会「幼稚園、小学校、中学校及び高等学校の教育課程の基準の改善につい て」、 1987,文部省「中学校学習指導要領」大蔵省印刷局、 1989, (9)読売新聞記事「『学校教育』本社世論調査」、 1 9 96年2月1 8日参照。 (10アウグスチヌス、服部英次郎訳『告白』岩波文庫、 1976及びK.モレンハウア今井康雄訳『忘れられた連関』みすず書房、 1987、 P. 19以下参照。 (ll)同上参照。 (12)法務省法務総合研究所『犯罪白書』、 1 9 (13)文部省初等中等教育局中学校課『生徒指導上の諸間蓮の現状と文部省の施策について』、 1994,. (14)江川改成『いじめから学ぶ-望ましい人間関係の育成』大日本図書、 1986、 P. 21, (15)小浜逸郎・諏訪哲二編著『間違いだらけのいじめ論議』宝島社、 1995、 P. 195, (16)森田洋司・清水賢二『新訂版いじめ教室の病』金子書房、 1 994及び芹沢俊介「い じめという暴力の構造」 『イマ-ゴ』 Vol.6-2青土社、 1995参照。 (17)小浜逸郎『学校の現象学のために』大和書房、 1985、 P. 181 (18)江川攻成他編著『教育キーワード137』時事通信社、 1995、 P. 247参照。 (19)小浜逸郎・諏訪菅二編著前掲書、 P. 171-c (20)文部省「中学校学習指導要領」大蔵省印刷局1 9 8 9。 (21)川上亮一が生徒の人間関係の中に「公的な関係を持ちこむ」というのはこれに近いO 「小浜逸郎・諏訪哲二編著前掲書、 p. 1 1 0, (22)真木悠介『現代社会の存立構造』筑摩書房、 1 9 7 7、 PP. 6-7及び佐藤学編『教室 という場所』国土社、 1995、 P. 21-参照o (23)真木悠介前掲書、 PP. 6-7, (24)いじめ対策緊急会議「いじめ対策緊急会議報告-いじめ問題の解決のために当面取るべき 方策について-」、 1995, (25)コールハーグ, L、岩佐信通訳『道徳性の発達と道徳教育』広地学園出版部、 1 987 及び山岸明子『道徳性の発達に関する実証的・理論的研究』風間書房、 1 9 9 5参照。 (26)コールハーグは晩年彼の道徳性の発達段階の見解に関してギリガン, C.等から批判を受け、 自説の再検討を迫られた。しかし、少なくともここで指摘した点に変更はなかったと筆者 は考えている。それは晩年のジャスト・コミュニティーの構想と矛盾しないと思われる。 (27)井上達夫ほか『共生への冒険』毎日新聞社、 1992、 P. 25参照。 -39-.

(13)

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