漱石『夢十夜』と山川登美子「日蔭草」 : 小説、
短歌、及び絵画のイメージ比較試論
著者
木村 勲
雑誌名
研究紀要. 人文科学・自然科学篇
巻
51
ページ
一-二七
発行年
2010-03-03
URL
http://doi.org/10.14946/00001564
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja一 一 ﹁明星﹂の表紙絵と最終稿﹁日陰草﹂一四首 夏目漱石︵一八六七︱一九一六︶の﹃夢十夜﹄は一九〇八年︵明治四一︶に発表された幻想的にして怪奇な一〇話から なる短編集である。その三年前に﹃吾輩は猫である﹄で文壇デビューし、前年の﹃坊ちゃん﹄などに続く初期作品である が、諧謔精神に富むこれらの作品に比べると、夢かうつつかの描写の中に意識の底に澱む罪悪感ともいえる心情が読みと れて、後期作品を予告するものという感じを受ける。〇八年七月末から八月初めにかけて一〇回、東京朝日新聞紙上に各 回読み切り形式で掲載された。 七月二五日掲載の第一話は死んでから百年後に百合の花となって再生する女性の話であり、 全一〇話のイメージ・メッセージとなっている。やや長きになるが一部引用する︵/は改行、⋮は略︶ 。 こんな夢を見た。/腕組みをして枕 元に坐 っていると、仰 向に寝た女が、静かな声でもう死にますという。女は長
漱石﹃夢十夜﹄と山川登美子﹁日蔭草﹂
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小説、短歌、及び絵画のイメージ比較試論
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木
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勲
(124)二 い髪を枕に敷いて 、輪 廓 の柔らかな瓜 実顔をその中に横たえている 。真 白な頬 の底に温かい血の色が程 よく差して 、 唇の色は無論赤い。到底死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判 然いった。自分も確かに これは死ぬなと思った。⋮死にますとも、といいながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤 のある眼で、長い睫 に包まれた中は、ただ一面に真 黒であった。⋮またこういった。/﹁死んだら、埋 めて下さい。大きな真珠貝で穴を 掘って 。そうして天から落ちて来る星の破 片を墓 標に置いて下さい⋮百年 、私の墓の傍 に坐って待っていて下さい 。 きっと逢 いに来ますから﹂⋮/自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。⋮︵数え切れない日が過ぎていく うちに欺されたのではないかと思い出した時︶/すると石の下から斜 に自分の方へ向いて青い茎が伸びてきた。見る 間に長くなって丁度自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺 ぐ茎の頂きに、心持首を傾けていた 細長い一輪の蕾 が、ふっくらと瓣 を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹 えるほど匂った。⋮自分は首を前へ出して 冷たい露の滴 る 、 白い花 瓣に接 吻した 。⋮遠い空を見たら 、暁の星がたった一つ瞬 いていた 。﹁百年はもう来ていた んだな﹂とこの時始めて気が付いた。 ︵岩波文庫 二〇〇四年刊第三五刷り︶ 個人的なことになるが、一回生の﹁文章表現﹂のテクストに数年来、この作品を使っている。今年︵二〇〇九年︶読ん でいてふと既視感に襲われた。去年までの授業の記憶という意味ではない。はっと気が付いた。与謝野鉄幹︵一八七三︱ 一九三五︶の雑誌﹁明星﹂の表紙絵のことだ。同誌は一九〇〇年︵明治三三︶四月刊の創刊号から八月刊の第五号までタ ブロイド版の新聞型であったが、九月刊の第六号から雑誌型に変わった。その最初の表紙を飾ったのが、長い髪の半裸身 の少女像である。うつむき加減に一輪の百合の花を手にし、接吻するように香りをかぐ。背景の闇にはこぼれ落ちんばか
三 りの大きな星が三つ四つ。 ﹁明星﹂専属画家の一条成美が描いたアール・ヌーヴォー調の作品である︵ 図A ︶。 彼が当時パ リで活躍していたアルフォンソ・ミュシャ︵チェコ人、一八六〇︱一九三九︶の強い影響下にあったことは同誌掲載の他 のさし絵からも分かる。ただ、やゝバタ臭く描かれてはいるが少女の顔は明らかに東洋人、つまり日本娘である。当時の 感覚からすると鮮烈なインパクトを与えた絵に違いない。鉄幹はこの後の一〇月号、一一月号、翌年一月号の表紙にも色 調を変え計四回もこの絵を使っている︵一二月号は一一月号が一条の裸体画のため発禁処分となった余波で新聞型に戻り 表紙絵はない。この処分をきっかけに一条は鉄幹との関係がこじれて﹁明星﹂から離れ、藤島武二に変わる。 ﹃みだれ髪﹄ の画・装丁は藤島がすることになる︶ 。初期﹁明星﹂の成功は堺の鳳晶子︵和菓子商・駿河屋の娘、一八七八︱一九四二︶ や大阪の山川登美子︵梅花女学校研究生、一八七九︱一九〇九︶らの華麗であからさまな恋の歌に負っているのはむろん だが、それと同程度、あるいはそれ以上に効果をもったのが一条のさし絵、とりわけこの表紙絵であったと私は考えてい る 。その認識があったからこそ鉄幹は四回も用いたに違いなく ︵ 経済的事情もあっただろうが︶ 、露出度ではこれとさほ ど変わらない裸体画の小カットで一一月号が発禁になったのも、それが当時の世相には十分刺激的、つまり猥褻物として 当局にマークされていたことを物語っている。 この表紙絵からすぐ気づいたことがある。山川登美子の﹁明星﹂での第二期活動期における次の短歌である。 髪ながき少女とうまれしろ百合に額 は伏せつつ君をこそ思へ 一九〇五年︵明治三八︶一月、日本女子大生となっていた登美子が与謝野晶子・増田雅子との共著で、生前出した唯一 の歌集 ﹃恋衣 1 ﹄の冒頭を飾った歌 。同歌集は ﹁ 白百合﹂ ︵シロユリと新詩社内では発音された︶と題した登美子の一三一 首から始まるので、その冒頭歌でもある。ちなみに新詩社内では登美子は﹁白百合﹂ 、晶子は﹁白萩﹂ 、雅子は﹁白梅﹂と
四
図 A
「明星」の視覚イメージ化に貢献した 1900 年 9 月刊、 第 6 号の表紙。左下隅に一条成美の「成」サインがある。 同じこの絵が 7 号、8 号、10 号の表紙にも使われた。
五 称された 。鉄幹の意向でもあり 、それぞれが自認していた 。今野寿美 ﹃わがふところにさくら来てちる﹄ ︵五柳書院 、 一九九八年︶は、この歌が一条の表紙絵から着想を得た作であることを示唆する︵一七∼八頁︶ 。登美子は一九〇一年春、 結婚して ﹁明星﹂から離れる
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前年春からの略一年間を私は ﹁初期 ・演劇少女時代 2 ﹂と名付けている︱
が 、一年半 で夫 3 が病没する 。〇三年夏 、 夫を偲ぶ ﹁夢うつつ﹂一〇首でカムバック 、その短い生涯からは中期の代表作というべき 作品である。〇四年春、大阪時代からの友人・雅子とともに日本女子大に入り、与謝野夫妻との交流が復活した。今野は ﹁髪ながき⋮﹂の歌について、高揚した気分で恋を歌い上げていた﹁四年前のことを思いながら、おそらく当時の﹁明星﹂ も手にとっ﹂ての作であろうと書く。傷心の登美子が改めて以前の表紙絵にイメージ喚起されて詠んだ作、という解釈と 思うが私も基本的に同感である。ただ、鉄幹の意図も見るべきだろう。このとき﹁君死にたまふこと勿れ﹂問題で苦境下 の彼の頭には、あの表紙絵と晶子・登美子の恋歌で華々しく成功した先年のことが去来していたに違いなく、ここは登美 子イメージで︱
と頼むところがあったのではないか。歌集のアピール性に適い、 その課題に応えられる登美子であった。 ここで﹃夢十夜﹄との関連で今一つの連想が働いた。登美子詠の﹁日蔭草﹂のことである。 ﹃恋衣﹄を刊行した年の秋、 登美子は体調を崩し入院する。夫からの感染と思われる結核で自らも死の病となる。〇七年春、女子大を中退し姉の嫁ぎ 先の京都で療養。〇八年一月、重体の父を見舞うため大雪を衝いて郷里の若狭・小浜に帰る。父はほどなく死去、自身も 床に伏す。この間も折々﹁明星﹂に発表していたが、最後の寄稿詠となったのが〇八年五月号︵一日刊︶に掲載された次 の﹁日蔭草﹂一四首である︵説明上、ナンバーを付す︶ 。﹃夢十夜﹄第一話の三カ月前であることに留意したい。 ① 土のそこ穴ほり住めるここちして日も見ず寂 し父はいまさず六 ② なほひと目おぼろにうつる御姿の見えよと暗き夜を尋ねゆく ③ 路てらす天 の火咋 いて雲井より父むかへこよしろがねの鳶 ④ 死の御手へいとやすらかに身を捧ぐ心うるほし涙わく時 ⑤ おとしませ億 刧さむき幽 界の底そのいつわりの戀を守らむ ⑥ わかき身のかかる嘆きに世を去ると思はで經にし日も遠きかな ⑦ 後 世は猶今 生だにも願はざるわがふところにさくら來てちる ⑧ 閉づる目に鼓 を鳴らしうづまきぬ悔と咀 ひと嘲りの色 ⑨ 悲みに生ける人どち手をとりて行く島ありやわたつみのはて ⑩ うつつなき闇のさかひに靜かなるうすき光をたのみぬるかな ⑪ あたたかに心をめぐる血の脈のひそめるありて稀に音しぬ ⑫ 泣かぬ日はさびし泣く日はやや樂しうつろなる身に涙こぼれよ ⑬ 矢のごとく地獄におつる躓 きの石とも知らず拾ひ見しかな ⑭ わが柩まもる人なく行く野邊のさびしさ見えつ霞たなびく 私の下手な訳はつけない 。①はすでに墓石のなかに入っている自分である 。一年前の詠 、﹁ いま残るこの半 生はわれと 我が葬 る土ほる日かずなるかな﹂ ︵﹁ 明星﹂〇七年六月号︶の墓掘り作業が完了したのだ。②たどり行く道もわからない闇 夜の中を、 先だった夫を尋ね行くのである。自身がすでに夫と同じ世界に属している。③父の姿はシャープに見えている。
七 今生での最後の頼みの綱がひとえに来世からの父の導きであったことを示している。④夫、父の二人が待つそこに行くの に恐れはない 。⑤が鉄幹のことか 。意に添わぬことだったとはいえ 、間違った以上いいわけはしない
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といっている 。 ⑥あまりに過酷な運命に、無辜な少女時代への懐旧の情がこみ上げている。 ⑦は今野訳を引用させてもらう 。﹁死後のことはいうに及ばず 、この世の命さえもはや願おうとは思わない 。そんな思 いに沈むわが懐に、 桜はいつの世も変わらぬ美しさでやってきては、 はかなげに散っていく︱
﹂︵二六六頁︶ 。さらに﹁登 美子の作品として最も優れた作と思う。桜を詠んだ古来の歌のなかに置いてもひときわ輝く秀歌である。桜を詠んでいな がら 、これほど寂しい歌もない﹂ ︵ 二六五頁︶と 。 私は実存哲学の鮮やかな芸術表現であるとさえ思う 。状況とはいった ん切断し、孤独・不安・絶望を主体的に引き受ける徹底した人間自由の思想。あるいは東洋的諦観とも重なるかも知れな い。それだけに﹁これほど寂しい歌もない﹂になるのだろうが、しかしそこには一歩も引かぬ人間精神の漲りがある。実 は ﹃恋衣﹄ 、さらにはその前の ﹁夢うつつ﹂にも胚胎していた登美子の基調トーンである 。ともかく初期の演劇的な少女 時代の作とは別次元であり、星菫派などと自称した明星ロマン主義云々の話ではない。⑧は登美子の人生に重大な影を落 とした ﹃文壇照魔鏡﹄事件というメディア被害 4 が 、 この期にまで及び 、うなされるトラウマとなっていることを示す 。 ⑨は改めて向こう側に行き着くまでの孤独感である。総じて前半の歌が彼岸に身を置いているのに対して、 後半のそれは、 まだ此岸の側の視線である。微熱の夢うつつのなかに二つの世界を彷徨っている。 ⑩は絶望のなかでわずかでも光を求める人間心理の湧出が自然に歌われている 。⑪は⑩に続き 、 私は生きているのよ 、 この脈動は微かでも⋮。女としての存在証明の控えめな主張だろう。芸術としての自己作品への微かな誇りも含まれてい るかもしれない。⑩の﹁うすき光⋮﹂とも連動する永遠性への謙虚な期待である。⑫泣くことが生きていることの確認で八 あった。かすかなユーモアが悲哀を深める。⑬は⑧と連動する重要な一首だが、別稿を期して略す。⑭他者としての自己 を見る視線は、最後に自らのわびしい葬送を見るに至った。全詠を通じて、すでに彼岸・此岸の境界を越えた領域からす べてを見通した透徹した視線がある。仄かな女の生理がなお品よく脈打つなかで⋮。近代文学史上の絶唱であると思う。 二 白百合のイメージ連鎖 さて﹃夢十夜﹄である。既述のように第一話は一九〇八年︵明治四一︶七月二五日であり、 五月一日刊掲載の﹁日蔭草﹂ の約三カ月後のことだ。漱石はこの登美子作にインスピレーションを得たのではないか。そのときあの表紙絵の記憶が甦 り、当の﹁明星﹂も手にしたかも知れない。それは﹃恋衣﹄の﹁髪ながき少女とうまれしろ百合に⋮﹂にすぐつながって いったはずだ︵今野が体験したように︶ 。﹁ もう死にます⋮⋮死んだら、埋 めて下さい﹂という﹁仰 向に寝た女﹂は①であ り、④の境地である。作家は⑦に胸を突かれたに違いないが、⑩⑪を再生への契機に読み替えて、小説としてロマン化を 図ったのではないか。そのため②で夫を追う登美子を、逆転して恋人に待ち続けられる女にした︵後述の漱石の深層心理 に直結する︶ 。むろん ﹁真 白な頬 の底に温かい血の色が程 よく差して﹂は⑪を踏まえている 。なにより 、死にゆく女の半 ば彼岸の側からの澄んだまなざし、どこか心の傷をも秘めたそれが琴線に触れ、表紙絵の記憶と回線が直結し、創造の歯 車が作動し出したのではないか。実際にはスパークするような一瞬の情動であっただろう。かくして死から再生への永遠 の生命サイクルのドラマがなったのだ。そこには、むろん、作家自身の何らかの心の疼きが埋葬されていることが予測さ れるのではあるが。 漱石自身 、五月一八日付け小宮豊隆宛書簡でこう証言している 。﹁追々短篇をちよい
く
かく積りに候﹂ ︵﹃ 漱石全集 ・九 書簡集﹄第一四巻六九五頁、岩波書店、一九六六年︶ 。巻末の注解にはその短篇とは﹁ ﹃文鳥﹄や﹃夢十夜﹄が、これに相 当する﹂ ︵九四一頁︶ とある。しかし、 ずばり ﹃夢十夜﹄ のことに違いない。上記記述の後に穏やかならぬ一文が続く。 ﹁細 君未だ臥床困り入り候。いゝ加減に死んで呉れぬかと相談をかけ候處中々死なない由にて直ちに破談に相成候﹂ 。﹁ 死んで 呉れぬか﹂は第一話の女の﹁もう死にます﹂と正確に呼応している。 漱石が一条の表紙絵をいつ見たかも検証しておこう 。﹁明星﹂第六号は 、明治三三年 ︵一九〇〇︶九月一二日刊と奥付 にある。その四日前の八日、 三三歳、 無名の夏目金之助青年がロンドン留学のために横浜港をドイツ船プロイセン号で発っ ている 。二年四カ月後の一九〇三年一月 、東京帰着 。﹁明星﹂が日付通りの刊行なら雑誌を見たのは帰国後となる 。だか らその年七月号に載った亡き夫を偲ぶ登美子の﹁夢うつつ﹂はリアルタイムで見られたことになる。留学中の一九〇〇年 と〇一年の﹁日記﹂ ︵﹃漱石全集﹄第一三巻︶には、子規主宰・高浜虚子編集の俳句誌﹁ホトトギス﹂が折々届き、それに 雑誌﹁太陽﹂ 、短歌誌﹁心の花﹂ 、﹁読売新聞﹂も送られてきた記述が表れるが、 ﹁明星﹂はない。〇一年二月二〇日の日記 には ﹁晩に虚子ヨリほとゝぎす四巻三號を送り来る 。 うれし 。夜ほとゝぎすを読む﹂ ︵前掲 、四二頁︶とある 。小宮豊隆 は﹁大學卒業以後は、専門英文學の研究に没頭して、恐らく日本の文 壇からは殆ど絶對に遠ざかり、コンスタントに漱石 の眼に觸れてゐた日本の新聞・雑誌は、或は﹃ホトトギス﹄とその﹃ホトトギス﹄との關係に於ける﹃日本﹄新聞くらゐ なものだけではなかつたかとも想像される﹂ ︵全集第一巻の巻末解説︶と書く 。 留学中はもとより 、そもそも ﹁明星﹂な ど読んでいないということになろう 。ただ ﹃吾輩⋮ ﹄にこういう記述がある 。﹁元來此主人は何といつて人に勝れて出來 る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやつてほゝとぎすへ投書をしたり、新體詩を明星へ出したり、間違 ひだらけの英文をかいたり⋮ ﹂。 ﹁ 明星﹂ 〝 程度 〟 に投稿している苦沙弥先生
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という文脈で語られているわけだが 、む一〇 ろん漱石自身の ﹁ 明星﹂観が語られている 。つまり読んでいたのだ 。﹃吾輩⋮ ﹄の ︵一︶中の記述であり 、︵一︶は 一九〇五年の ﹁ホトトギス﹂一月号に掲載された 。﹃恋衣﹄が出た月である 。従って少なくも登美子の ﹁髪ながき少女と うまれしろ百合に⋮﹂を認識していなかったとは考えられない。小宮の描くややストイックな漱石像とは異なり、日常生 活では案外俗事・俗書にも目配りがきいた人ではなかったのか。幼時からの寄席や芝居体験、とりわけ落語が強く作品に 影響していることもわかっている∧水川隆夫 ﹃増補 ・漱石と落語﹄ ︵平凡社ライブラリー 、二〇〇〇年︶参照∨ 。もとも と苦沙弥先生という滑稽な人物の目に仮託した漱石の世相評というべき作品である。 ﹁明星﹂や泉鏡花評、 日本海海戦︵こ の年五月︶など文化・社会現象への視界は広い。何よりホトトギスの事実上の同人であった作家が時の文学界の動向に無 関心だったということはあり得ない 。﹃恋衣﹄を開いて 、その女流歌人の歌に出会ったとき 、直ちに五年前の表紙絵の記 憶が甦る。そして﹁日蔭草﹂に接した瞬間は、三年前のこの歌が表紙絵の記憶と重なってフラッシュバックし、即創造の 歯車が作動したと考えられるのだ。それが十数日後の手紙の﹁追々短篇をちよい
く
かく積りに候﹂になったのだろう。 漱石・鉄幹とも勢いを増しつつあった自然主義に与しない側にいたのだが、漱石が鉄幹らの歌い出し方に肌に合わない 感覚 5 をもっていたのは間違いない 。精神貴族には野卑と感じられたはずである 。ちょうど漱石が留学に出る頃 、文学的 盟友といえる正岡子規︵一八六七︱一九〇二︶は鉄幹との間にいわゆる子規・鉄幹論争︵子規門下が師を鉄幹と同列に置 いて論じた雑誌﹁心の花﹂の評への怒りから始まった︶を繰り広げていた。反守旧を自認した者同士の論争だが、これは 漱石の鉄幹に対する違和感と根底で繋がっていると見ていい︵子規は〇一年一月の﹃日本﹄紙上の﹁墨汁一滴﹂に﹁鉄幹 子規不可並称説﹂を書いて幕を引くが、二月の同紙に﹁明星﹂廃刊の誤報を書き、翌三月にその訂正記事を出すことにな る。漱石の日記・書簡類に論争への言及は見られないが、あるいはそのこと自体が彼の意思表明ととれないこともない︶ 。一一 ともかく、漱石は﹁明星﹂ではなく、登美子の作そのものに注目したのである。 漱石留学中のパリ 、ロンドンはアール ・ヌーヴォー 、あるいはラファエル前派と呼ばれる世紀末美術の爛熟期だった 。 蔦のように絡まる植物、あるいは花の描写を本性とする。漱石の美術愛好は往路に滞在したパリ、そしてロンドンに着い てからの美術館巡りを記した日記からもわかる。〇一年七月九日、 ﹁ Holborn ニテ⋮ Morris ヲ買フ﹂ ︵前掲七一頁︶とある。 アール・ヌーヴォーの一方の創始者、ウイリアム・モリス︵英国人、一八三四︱九六︶の画集を買ったのだ∧美術との関 係 に つ い て は 江 藤 淳 ﹃ 決 定 版 夏 目 漱 石 ﹄︵ 新 潮 文 庫 、 二〇〇六年一二刷り︶中の ﹁漱石とラファエル前派﹂ ﹁漱石 と英国世紀末美術﹂ 、及び芳賀徹 ﹃みだれ髪の系譜
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詩と 絵の比較文学﹄ ︵美術公論社 、一九八一年︶参照∨ 。 パリで はミュシャが女優サラ ・ベルナール ︵一八四四︱一九二三︶ のポスターを契機に名声を博していた時である 。画家は百 合を配した美女像を得意とした 。本場を知る精神貴族 ︵自 らも水彩の筆をとった︶には 、﹁明星﹂に掲載されたペンあ るいは鉛筆によるミュシャ作品の丸ごと模写 ︵ 図B ︶群も 苦々しく映ったことだろう 。一条表紙絵への注目は登美子 作を媒介してのそれと考えられる 。ただし 、一条のために 図B ﹁明星﹂第 7号中のカット 。 MIYOJO がミュシャ画 ︵リト グラフ ・ 水彩、 1 896 年︶では SARAH ・ BERNHARDT ︵女優名︶ である 。また原画にある胸飾り部分が略される一方 、頭上に星々 が描き加えられている。一二 言うならば、ミュシャの画集類を見る限り全くの同ポーズは見あたらず、それが日本娘になっているように一応の咀嚼作 業は行っている 。﹁ 明星﹂が明治文化史に位置を占めるなら 、それを成立させた重要要素として一条画 、とりわけこの表 紙絵は記憶されるべきと私は考える。 既述のように ﹃吾輩⋮ ﹄は虚子主宰の ﹁ホトトギス﹂〇五年一月号に載り 、それは ﹃恋衣﹄と同月であった ︵ 子規は 〇二年に没︶ 。二つの話題作となるが 、雑誌中の一作である前者より 、やはり時の話題の女性三人著の ﹃恋衣﹄の方が 、 少なくとも一月段階では注目度は高かったことと思う 。このとき漱石は ﹁ 髪ながき⋮ ﹂の作者 、﹁白百合﹂と称されるそ の女性を、あの表紙絵だけでなく、さらには帰国の年の﹁夢うつつ﹂にまで遡り意識したかもしれない。留学中の〇一年 五月四日の日記にこういう記述がある。 ﹁薔薇二輪 6 p e n ce 百合三輪 9 p e n ce ヲ買フ。素敵ニ高い事ナリ﹂ ︵一三 巻六二頁︶ 。さらに大分後の〇九年︵明治四二︶ 、つまり﹃夢十夜﹄の翌年、すでに﹃それから﹄の執筆に入っていた六月 一五日の日記だが、 ﹁リヽー、 オフ、 ゼ、 ヷレーを大 丼に浸し紫 檀の机の上に置く。其下に昼寝す。異香あり﹂ ︵同三九四頁︶ とある。谷間の白百合だろう。確かに花好き、とりわけ百合好きで、白百合の少女に惹かれるベースはあったと考えてい い。 三 筆先に立つ精霊 漱石の心を腑分けするように開いて見せたのが江藤淳︵一九三三︱一九九九︶である。江藤が指摘した罪悪感を伴う甘 美な記憶とは 、三兄 ・ 和三郎の妻 、 登世のことだ ︵﹁登世という名の嫂﹂ 、前掲 ﹃決定版 夏目漱石﹄所収︶ 。登世は漱石 と同じ年であり、 和三郎は妻に冷淡だった。一八九一年︵明治二四︶七月二八日、 懐妊中に悪 阻をこじらせ二四歳で死去。
一三 その三年前、実家に復籍して居候の境遇下にあった漱石に、わけ隔てのない対応をしたのが同じその年、夏目家に嫁して きた登世であった 。八月三日 、松山の正岡子規宛て手紙でこう書く 。﹁わが一族を賞揚するは何となく大人気なき儀には 候得共、彼程の人物は男にも中々得易からず况て婦人中には恐らく有之間じくと存居候。⋮先ず節操の毅然たるは申すに 不及、 性情の公平正直なる胸懐の洒々落々として細事に頓着せざる抔、 生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有し⋮﹂ ︵全集一四巻三〇頁︶ 。ここまではいい。江藤によると、孤独な心境の二人は相通ずるところがあったようであり、義弟は 病気の嫂 を抱いて二階の上がり下がりの世話もした 。﹁つまり漱石は優しい思いやりのある義弟という役割を果たすこと において、登世の肉体の豊かな感触を知っていたのである﹂ ︵ 前掲四八一頁︶ 。 その容貌について
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﹁いま登世の写真を かたわらに置いて ﹃夢十夜﹄の女の顔の描写を検討してみると 、﹃ 長い髪を枕に敷いて 、 輪廓の柔らかな瓜実顔を其の中 に横たへ﹄た女のイメージは、ほとんどそのまま銀杏返しか銀杏崩しに結っていると覚 しい髪を解いて垂らした場合の登 世の顔と重り合う 。あるいはこの描写の背後には 、︵明治二四年春から夏にかけての︶病床の登世の記憶が隠されている のではないであろうか﹂ ︵五〇九頁︶と。江藤は入手した登世一七、 八歳時代の写真を見て書いている。さらに、漱石が好 んだ﹁背のすらつとした細面の美人﹂ ︵四七五頁︶とも。 また注目するのが先の子規宛て書簡中に続いて現れる告白だ 。﹁平生佛けを念じ不申候へば極楽にまかり越す事も叶ふ 間じく、耶蘇の子弟にも無之候へば天堂に再生せん事も覚束なく、一片の精魂もし宇宙に存するものならば二世と契りし 夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣 髴たらんかと夢中に幻影を描き、ここかしこかと浮世の羈胖につながるヽ死霊 を憐み、うたゝ不便の涙にむせび候⋮⋮﹂ ︵五一七頁、全集では一四巻三一頁︶ 。たとえ夢のなか、霊魂となってもの逢瀬 の仰望は ﹁第一話﹂であり 、どこか登美子 ﹁日蔭草﹂の第七首 、﹁ 後 世は猶今 生だにも願はざる⋮ ﹂ と重なってくるもの一四 も私は感じる。そして ﹁衷情御酌取り﹂ ︵同︶ いただきたくと挽歌一三句が末尾に添えられた。 ﹁朝 貌や咲た許りの命哉﹂ ﹁君 逝きて浮世に花はなかりけり ︵容姿秀麗︶ ﹂﹁何事ぞ手 向し花に狂ふ蝶﹂など花にちなむ詠が続く 。ただしこの段階では百合 に収斂していたわけではないことが分かる 。﹁骸骨や是も美人のなれの果 ︵骨揚のとき︶ ﹂という諧謔を装ったあからさまな 美貌賛歌もある 。私は葬儀風景について詠んだ三句 、﹁ 仮位牌焚く線香に黒む迄﹂ ﹁こうろげの飛ぶや木魚の声の下﹂ ﹁通 夜僧の経の絶え間やきり
ぐ
す﹂にはっとした 。登美子 ﹁夢うつつ﹂の一首 、﹁おもへ君枝折戸さむき里の月けづる木音 は經 の ︵ 載︶する具よ﹂にイメージが直結 6 したからだ 。夏と冬の違いはあるが 、心の中では生き続ける死者への悼みが 音声を込めて表現されている。屋上屋を重ねる推測になるが、漱石は﹁夢うつつ﹂の段階でかつての自己の作に重ねて登 美子を意識したのではないか。 江藤は﹃夢十夜﹄の開始日が七月二五日ということにも着目する。 ﹁つまり︵七月二八日という︶ 、登世の命日を三日後 にひかえて、 漱石はこれを発表しているとも考えられる﹂ ︵﹁漱石の恋︱
再説﹂前掲書所収、 五八二頁︶ 。あえて加えれば、 同一日にしなかったのが心憎い配慮だと私は思う。 詮索されたとき窮地に陥るからだ。 ここでも本人の重大な証言がある。 愛媛の村上半太郎宛て七月二七日の書簡 ︵全集第一四巻七〇八頁︶ 。つまり第一話の二日後 、登世の命日の前日 、そして 第二話が掲載された日 。﹁近來俳句を作らず作らうとしても出來かね候 。道後の温泉へでも浸らねば駄目と存候﹂として 一句。 まのあたり精靈來たり筆の先 筆先に登世が現れている 。その背後に 、知らぬ白百合の人の面影 、さらに生身の美貌の大塚楠緒子が揺曳してもいい 。 そういうものである。楠緒子は友人の帝大教授の妻で歌人・小説家、このとき三三歳。背のすらっとした細面の登世タイ一五 プであったようだ。四年前の日露戦争中、出征した夫へのあふれんばかりの女心を詠った﹁お百度詣で﹂ ︵﹁太陽﹂〇五年 一月号、大町桂月﹁詩歌の骨髄﹂と同号︶を発表したが、晶子の﹁君死にたまふこと勿れ﹂ ︵﹁ 明星﹂〇四年九月号︶とは 異なり非難を受けることは全くなかった。実際に夫が出征したわけではなくフィクションである。ちょうど﹃夢十夜﹄執 筆期間ころ 、楠緒子作への好意的評など親しい手紙のやりとりがあったことが ﹁書簡集﹂ ︵ 全集一四巻︶からわかる 。女 弟子ともいわれる。ここから第一話のモデルを楠緒子だけで説く論が従来からあるが、もとより短絡説に過ぎない。 このように江藤は嫂・登世のイメージから説明した。私は山川登美子の﹁日蔭草﹂から説明した。双方が矛盾する訳で はない。江藤説は登世の死から一七年もたってなぜ﹃夢十夜﹄の女が登場したのか
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の説明に難がある。従って登美子 を媒介にすることで整合的に説明できるのだ。私の説は漱石が登美子からイメージ喚起されたとしても、その作品の奥深 くに露頭する痛々しい心の傷までは説明しきれない。登世を下敷きにすることでそれが可能になる。つまり双方の説が内 在的に補強し合う関係にある。登美子の歌から内に封じていた思いが誘発され、一条の絵も造形要素に組み込みつつ、文 章表現上のロマネスクが造形されたということである。 登美子は﹁日蔭草﹂から約一年後の翌一九〇九年四月、小浜の実家で死去する。作詠する力は尽きていたのだろう、死 の二日前に辞世の歌 、﹁父君に召されていなむとこしえの春あたゝかき蓬莱のしま﹂を残した 。 満二九歳九カ月 。鉄幹は 六月一日刊の雑誌 ﹁女子文壇﹂に ﹁ 亡山川登美子女史の歌﹂の一文を寄せた 。そして漱石は同月二七日 ︵また二七日 ! 7 ︶ から始めた新聞小説﹃それから﹄で、再び濃密な百合描写を展開する。愛する︵そして愛される︶三千代を三年前に友人 に譲った代助が、彼女を取り戻そうと決心する話。経済破綻した友人が代助への借金依頼を妻に頼んだことから、二人の一六 関係が再び始まる 。
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彼女の来訪に ﹁胸に一鼓動を感じ﹂ている代助の書斎に 、蒼白い顔の三千代が ﹁息を喘 まして﹂ 現れる。 ﹁どうかしましたか﹂と聞いた 。/三千代は何にも答えずに室 の中に這 入て来た 。セルの単 衣の下に襦 袢を重ねて 、 手に大きな白い百 合の花を三本ばかり提 げていた。その百合をいきなり洋 卓の上に投げるように置いて、その横にあ る椅子へ腰を卸した 。 そうして 、結 ったばかりの銀 杏返を 、 構わず 、椅子の脊 に押しつけて 、 / ﹁ ああ苦しかった﹂ といいながら、 代助の方を見て笑った。 ︵代助が手を叩いて水を取り寄せようとすると、 三千代はテーブルにあったコッ プ、代助が食後のうがいをして二口ばかり残ったのを指さして、それを飲むという。代助は自分が飲んだのだからと コップの水を縁側から空けるが、またそれをテーブルに置いたまま勝手に行く。しかし婆やが外出中でコップがどこ かわからず 、不要領にまた室に戻る 。三千代は鈴蘭を生けた室の大鉢の水を先のコップで飲んでいた︶ 。⋮/ ﹁何 故 あんなものを飲んだんですか﹂と代助は呆 れて聞いた。/﹁だって毒じゃないでしょう﹂と三千代は手に持った洋 盃 を代助の前へ出して、透 かして見せた。⋮/﹁気分はもう好くなりましたか﹂と聞いた。/三千代の頬 に漸 やく色が 出て来た。袂 から手 帛を取り出して、 口の辺 を拭 きながら話を始めた。⋮/すると、 三千代は急に思い出したように、 この間の小切手の礼を述べ出した。その時何だか少し頬を赤くしたように思われた。視覚の鋭敏な代助にはそれが善 く分った。それを、貸借に関した羞 恥の血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐによそへ外 した。/先 刻三千代が提 げ て這入て来た百合の花が、依然として洋 卓の上に載っている。甘たるい強い香 が二人の間に立ちつつあった。代助は この重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪えなかった 。けれども無断で 、 取り除 けるほど 、三千代に対して思い切った一七 振 舞が出来なかった。/﹁この花はどうしたんです。買 て来たんですか﹂と聞いた。三千代は黙って首 肯いた。そう して、/﹁好 い香 でしょう﹂といって、自分の鼻を、弁 の傍 まで持って来て、ふんと嗅 いで見せた。代助は思わず足 を直 角に踏 ん張 って、身を後 の方へ反らした。 ︵岩波文庫 二〇〇九年刊第九一刷り︶ 先述の〇九年六月一五日の日記 、﹁リヽー 、オフ 、 ゼ 、 ヷレーを大 丼に浸し紫 檀の机の上に置く 。其下に昼寝す 。異香 あり﹂から生み出された描写に違いない。危うい場面であり、男女二人の生理と官能が百合の花によってシンボライズさ れている。むろん情景描写は﹃夢十夜﹄であり、一条表紙絵とも通底する。心の中に立ち上がる甘美な百合の花は、同時 に罪悪感 ︵近親相姦︶を放射する棘である 。﹃夢十夜﹄の中では 、 別設定の第三話でその棘を直接表現しているように私 には思える。六つの子を背負って闇夜の田圃道を行く。いつか盲目になったその子が、背中から道順を指図する。森に入 り、 ますます暗くなった細道の果て、 小僧がここだ、 ここだ、 という。 ﹁御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね﹂ 。 頭の中に百年前、ここで一人の盲目を殺した記憶が甦り、同時に背中の小僧が地蔵のように重くなった
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脂汗のなかで 覚める悪夢である 。作家はアンビバレントな心情に苛まれていた 。それが創造力の源泉でもあったのだが 。 傷ついた愛 、 死への道行きを予感させて﹃それから﹄は終わる。ちなみに第三話の掲載は七月二八日、つまり登世の命日である。 改めて年次的に見ると、花への愛好は先に指摘したように最初から百合に収斂していたわけではない。確かにロンドン 日記に﹁百合三輪 9 p e n ce を買う﹂があったが、 やはり帰国後に何らかのインパクトがあったと見るのが妥当である。 本場でのアール ・ヌーヴォー体験 、あるいはミュシャの百合体験もあったかも知れず 、それで磨きがかかったところに 、 白百合・登美子作との出会い︵あるいは再認識︶があったと考えられる。もとより、作家のなかではその花は即、亡き登一八 世にスライドしていくものであった。それが﹃夢十夜﹄での濃密な百合の花の出現となったのだ。 四 百年後の再生 登美子は ﹁日蔭草﹂の前号 、﹁明星﹂四月号に父への挽歌 ﹁雪の日﹂一八首 ︵うち三首は故社友の玉野花子あて︶を出 している。 ﹁父君の喪にこもりて﹂の添え書きをもつ。 ほと息し涙わすれて夢みつと母に語らむ覚めよ哀 み 雲 居にぞ待ちませ父よこの子をも神は召します共に往なまし 神よりも哀 しなつかし青 樫にしらゆふかけて清めまつれば わが胸も白 木にひとし釘 づけよ御 柩とづる真夜中のおと 御 輿舁 く白きころもの丁 たち藁 靴はきぬいかがとどめむ 山うづめ雪ぞ降りくるかがり火を百 千執らせて御 墓まもらむ 垂 氷するゆふべの谷に泣きからし呼ばば御 声をふとか聞くべき あらがねの斧の嘴 もつ夜がらすよ陰 府の戸くだけ奪ひ帰らむ 鐘たたき国の境 に凍 え死ぬ日もあれ八たび父尋ね来む たのもしき病 の熱よまぼろしに父を仄 見て喚ばぬ日も無し ︵玉野あて三首略︶
一九 ゆらゆらと消えがての火ぞにほひたるあなうらがなし我のたぐひぞ ながらへばさびしいたまし千 斤のくさりにからみ海に沈まむ 胸たたき死ねと苛 む嘴 ぶとの鉛 の鳥ぞ空掩 ひくる 海に投ぐもろき我世の夢の屑朽 木の色を引きて流れぬ おつとせい氷に眠るさひはいを我も今知るおもしろきかな しんしんと雪の降る深夜、 棺を釘付けする音が響き、 柩をかつぐ白装束の男たちのかがり火が闇に消えて行く
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。父 ・ 貞蔵は旧小浜藩の上級武士、維新後は藩主酒井家の財をもとに設立された第二五国立銀行の頭取を務めた。それなり豪華 な葬送が偲ばれるが、自身のものと重なっていくその葬列は、すでに送る人も少ない寂しいものに融けてゆく。末尾五首 は自己への挽歌である。それでも、熱さましの氷嚢の心地よさに氷上のオットセイに思いを馳せる。氷には万感の思いが 込められているに違いないが、この期に及んでのユーモラスな詠い出しに登美子の人間味を感じさせる。すべて次号作に 連なっていくものであり、この号に続いて﹁日蔭草﹂を読んだ人には、いっそう心にしみ入る作となったはずである。漱 石もそうした読者の一人だったかもしれない。最後の一首、 ﹁ わが柩まもる人なく行く野邊のさびしさ見えつ霞たなびく﹂ 通りとなる。翌年秋、大塚楠緒子が三五歳で病没したとき、漱石はこう詠んだ。 ﹁ 有る程の菊抛 げ入れよ棺の中﹂ 。生まれ るべくして生まれた一句である。 私には漱石作品年譜のなかでも ﹃夢十夜﹄は特異な位置を占めている気がしてならない 。夢にこと寄せて己 ︵の罪悪︶二〇 を開いて見せたのだ。そうせねばならなかったのだろう。いずれにしても、登美子は文豪の手で別の形でも永遠の生命を 得た。
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﹁そういえば、今年︵二〇〇九年︶は登美子さん没後ちょうど百年だね。天井あたりにボーッと着物姿のきれ いな女の人が浮かんでないか﹂︱
気の利かない冗談で学生諸君をちょっと気味悪がらせて終えた講義であった。 ︵本学教授︶ ︻注︼ ︵ 1︶歌集﹃恋衣﹄ ︵第一版︶は一九〇五年︵明治三八︶一月、鉄幹の編で登美子 ・ 晶 子 ・ 雅子の三人共著で刊行された。 構成は登美子の﹁白百合﹂一三一首、 雅子の﹁みをつくし﹂一一四首、 晶子の﹁曙染﹂一四八首の順。冒頭歌が﹁髪 ながき少女とうまれしろ百合に額 は伏せつつ君をこそ思へ﹂である。結婚でいったん﹁明星﹂を去った後、再起し た登美子への鉄幹の励まし意図が読みとれ 、すでに別格の地位にあった晶子も納得の 殿 役だったと思われる 。た だし、刊行は単なる文学的意図からだけではない。日露戦争の旅順港攻めが大詰めの時であり、晶子の﹁君死にた まふこと勿れ﹂ ︵﹁ 明星﹂前年九月号掲載︶論争の渦中にあった 。 大町桂月 ︵赤門派の評論家 、 一八六九︱ 一九二五︶は元日刊の﹁太陽﹂に第二弾﹁詩歌の骨髄﹂を発表し︵第一弾は前年一〇月号︶ 、﹁ 乱臣なり、 賊子なり、 国家の刑罰を加ふべき罪人なり﹂と改めて晶子を非難した 。八日 、 鉄幹は弁護士の平出修 ︵後に大逆事件で弁護 、 一八七八︱一九一四︶ら新詩社員数人を連れて桂月宅を訪ねて直談判の論争を仕掛け、論理の矛盾を衝いて桂月の ギブアップ宣言を引き出す。翌二月号﹁明星﹂に﹁ ﹃詩歌の骨髄﹄とは何ぞや﹂と題してその一問一答を掲載した。 要は天皇崇拝者である晶子への不当な誹謗であったと認めたことだ。当事者間の論争としては完璧な与謝野︵実は二一 平出︶の勝利であり、桂月は評論家活動から離れていく︵拙稿﹁明星ロマン主義に見る国民国家意識
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﹃君死に たまふこと勿れ﹄を中心に﹂参照=比較法史学会編﹃ H i s t o r i a Ju r i s 比較法史研究︱
思想・制 度 ・社会 13﹄所収 、未来社 、二〇〇五年︶ 。相手を鉄槌で叩きのめすこのハード作戦の一方 、ソフト作戦として明 星ロマン調を前面に押し出して世の関心の切り替えを図ったのが ﹃恋衣﹄であった 。 四年前 、﹃文壇照魔鏡﹄ ︵注 4︶の苦境下、 ﹃みだれ髪﹄で局面転換した経験を踏襲しており、 編集者 ・ 発行人としての鉄幹の冴えには違いない。 ︵ 2︶登美子の ﹁ 明星﹂登場は明治三三年五月刊の第三号での一首に始まり 、第五号まで計二〇首 。九月刊の一条表紙 絵の第六号 ︵一五首︶から晶子と並ぶ形で存在感を強めていくが 、翌年三月に出た第一一号 ︵表紙では ﹁二月号﹂ となっている=後述の注 4中︶を最後に、 結婚のため第一期の活動を終える。この間、 つまり三三年後半が﹁明星﹂ ロマン満開の登美子である。八月、来阪した鉄幹との出会い、鉄幹・晶子との粟田山の一夜などをテーマにした二 女性の師への恋歌が競うように誌面を飾ったときだ 。恋を晶子に譲って郷里に帰るときの詠 、﹁それとなく紅き花 みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ﹂ ︵一一月号︶は一般的には最も有名な登美子作かも知れない 。かなわ ぬ恋に泣いた悲愁の歌人のイメージが定着していく。私には、聡明な二女性は演出家︵鉄幹︶が望む役どころを自 覚的に演じていた気がしてならない。シナリオ︵作品︶に多く筆を入れる演出家でもあった。むろん俳優が役どこ ろと同一化していったことはあるだろう。 その過程で演出家さえ背景に押しやり主役を演じきってしまった晶子と、 重なる不運な体験があったにしろ、 どこかで自己省察の世界に入っていった登美子との違いができたように思う ︵社 会評論家となった後の晶子もこの時代のことを言及なくなるが︶ 。江藤淳は仮借なくもいう 。﹁ ﹃ 相聞歌﹄などとい うような、公衆の面前で fli r t ︵注=ちゃらちゃらする︶できるような程度の遊技的恋愛は⋮⋮すでに本当の二二 恋ですらない﹂ ︵﹃決定版・夏目漱石﹄五〇二頁︶ 。先の登美子の歌もどこか歌謡曲調を感じさせる。 ﹁明星﹂の運動 が突出して新しかったのは、進行形の劇場型文学運動であった点にある。 ︵ 3︶結婚相手は一族の山川駐 七郎 、一八七〇年 ︵明治三︶生まれ 、登美子とは九歳違いの三〇歳 。九四年 、高等商業 学校︵一橋大学の前身︶を卒業して外務省入り。通商局第一課勤務の後、九七年秋にメルボルン領事官の書記生と なる。一九〇〇年六月、帰国。肺の疾 患、つまり結核の療養措置であったようだ。休職辞令は〇一年三月だが、体 調の快復もありその前から銀座の貿易商江副商店に勤務した︵坂本政親﹁山川登美子評伝﹂による=同氏著﹃山川 登美子全集﹄下巻所収九一頁 、文泉堂出版 、一九九四年︶ 。同年五月結婚 、記念写真に見る姿は壮士風の鉄幹とは 異なり、細面、痩身、穏やかな表情のインテリ風青年である。 ︵ 4︶一九〇一年 ︵明治三四︶年三月一〇日 、偽名著者による鉄幹の道徳性非難の ﹃文壇照魔鏡﹄が刊行された 。五年 前﹃東西南北﹄で華々しく登場し、前年﹁明星﹂を創刊しまた話題を呼ぶ鉄幹への個人的怨念が込められているの は明らかだった。同調する立場から諸メディアの集中豪雨的鉄幹叩きが始まり、その年中続く。背景に﹁明星﹂= 新詩社の関西進出を図る鉄幹と、 知人の﹁関西文学﹂の設立者 ・ 高須梅溪︵当時、 雑誌﹁新聲﹂記者︶の確執があっ た 。﹁関西文学﹂は三年余の実績を誇りながら鉄幹派が編集権をにぎる中で 、前月の二月 、突如終刊した 。 山川登 美子への思いも絡めた梅溪の鉄幹指弾の書が﹃文壇照魔鏡﹄である。恋する男の危機の中、堺の鳳晶子が鉄幹のも とに走り︵六月︶ 、八月﹃みだれ髪﹄を出して﹁明星﹂の歴史を回展 させていく︵拙稿﹁ ﹁ 関西文学﹂終刊から﹃文 壇照魔鏡﹄事件へ
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初期 ﹁明星﹂のメディア史的考察﹂=当 ﹁研究紀要﹂第五〇号︶ 。事件が登美子に与えた衝 撃については別稿を期す。二三 なお 、ここで同拙稿にあった誤りを正させていただきたい 。二九頁一〇行目の ﹁﹁ 明星﹂は二月二三日に一一号 を出した後、三月、四月と刊行できず⋮﹂と書いたが、一一号の刊行は実際には三月二〇日過ぎ︵当時は毎月二三 日が刊行日︶であった。つまり照魔鏡が出てから一〇日余り後のこと。二月刊予定のものが、一カ月も遅れている うちに︵確かに鉄幹は一月と二月、神戸の文学界へのテコ入れや晶子との関係の進展で多忙であった=同稿︶照魔 鏡が出てしまったという状況なのだが、表紙・奥付とも﹁二月二三日刊﹂のままで出したのだ。明らかに意図的で ある。つまり三月刊とすると照魔鏡への反論は当然期待される。彼はそれを五月二五日刊の一二号で漸く行うこと になるのだが、一貫して対応が鈍かった︵一方では四月に名誉棄損で梅溪等を提訴するが証拠不十分で敗訴してい た。被告側からは表現手段を持つ者が言論で応じないのは反論できないからだ、 と衝かれた=五月一五日刊﹁新聲﹂ の田口掬汀の傍聴レポート︶ 。﹁二月刊﹂としておくと照魔鏡以前ということになり、百年後の私も嵌められること になった︵他にも時制をずらす例を私は確認している︶ 。とりあえず上記部分は﹁ ﹁明星﹂は二月二三日刊と明記し た一一号を三月に出した後、四月は刊行できず⋮﹂と訂正する。またこれと関連する三〇頁の二行目から三行目に かけての﹁三月号は二〇日前後⋮⋮状態だっただろう。しかし、 ﹂は削除し、 ﹁四月号は﹂に差し替える。同稿を別 途媒体に収録する際、鉄幹の意図の詳細を含めてまとまりのある文章に直すということでお許しを願いたい。 ︵ 5︶﹃ 全集﹄第一七巻 ﹁索引﹂編から漱石の ﹁明星﹂及び与謝野鉄幹 ・晶子への言及を見ると 、膨大な全集の中で計 二五箇所確認できるが 、 総じて断片的なものだ 。明治三八年一月三〇日付け ︵﹃吾輩⋮ ﹄開始月︶の寺田寅彦宛は がきでは、 彼の文章を評して ﹁文章は明星派の系統を引く。いやはや﹂ ︵第一四巻二七九頁︶ と書くように皮肉なトー ンがある。六月二七日付け野村傳四宛て書簡での﹁ホトヽギスは方今の文壇で獨自色のちがつたものである。明星
二四 其他の文章家から見ればホトヽギスの文章は文章でないかも知れないがホトヽギス連から見ると明星流は又文章に ならんのである。レトリック許りだと思つて居るかも知れん﹂ ︵第一四巻三〇三頁︶ あたりが一番まとまったものか。 鉄幹評としては八月号 ﹁新潮﹂での談話に 、新体詩は分からぬといって薄田泣菫や蒲原有明をあげたあと 、﹁鉄幹 といふ人は旨い。それに餘程才があると思ふ﹂ ︵第一六巻四八四頁︶と褒める。一一月二六日、 ﹁ 太陽﹂の大町桂月 宛て手紙には、寄稿依頼に多忙で応じられない言い訳に﹁明星﹂などの依頼も断っていると書く︵第一四巻三四〇 頁︶ 。年初からホトトギスでの ﹃吾輩⋮ ﹄で一気に文名を上げた漱石に 、当時の有力誌 ﹁太陽﹂と新進 ﹁ 明星﹂と が競ってアプローチを図っていたことがわかる︵両誌編集者は年初﹁君死にたまふこと勿れ﹂で直接対決した仲= 注 1︶。著名人を取り込むのは鉄幹得意の戦略であり、井上哲次郎 ・ 落合直文 ・ 森鷗外らの序文を載せた出世作﹃東 西南北﹄に始まり、スタート時の﹁明星﹂でも流派にかかわらずこれを行った。つまり、漱石も鉄幹により有名人 として認められたわけだ。あるいは先の﹁鉄幹といふ人は旨い⋮﹂評はそういう才への皮肉なニュアンスを込めて いるのかもしれない。またホトトギス一〇月号掲載の︵六︶中には、旅先で腹痛のため医者を呼んでもらった友人 の体験を語る迷亭先生のこんなせりふが出てくる。 ﹁天地玄黄 ︵注= ﹃千字文﹄ の冒頭に出てくる語で天地宇宙の意︶ とかいう千字文を盗んだような名前のドクトルを連れて来た﹂ ︵一巻二三六頁︶ 。明らかに鉄幹の ﹃天地玄黄﹄ ︵一八九七年︶を意識している 。上述の ﹁明星﹂からの寄稿依頼があったころの執筆か 。晶子については新聞連載 の順番に関する事務的なことだけで鉄幹程度の評も一切無い 。 索引に山川登美子の名はない 。登世の名もないが 、 ﹁嫂﹂が一カ所登場する。来世での縁を仰望した先の子規宛て手紙中である。 ︵ 6︶﹁去年よりひとり地にいきながらへて﹂という添え書きをもつ﹁夢うつつ﹂一〇首は一九〇三年︵明治三六︶七月
二五 号の ﹁明星﹂掲載 。亡き夫を偲ぶ歌であり 、演劇少女時代の感覚には遠い 。﹃ 恋衣﹄では登美子作一三一首中のほ ぼ真ん中の六〇から六九番目に収録された。ただし、この﹁おもへ君⋮﹂だけは別の歌に差し替えられている。し んしんと冷える月夜に聞こえてくる経机の削り音は、陰々滅々感もあり、さすがに﹃恋衣﹄のイメージあわずとい う鉄幹の判断と思える。喪の意識から脱させようという励ましの意図もあっただろう︵なお、夫を偲ぶと見せかけ て鉄幹への慕情を詠ったものという誤説があるが、触れるまでもない︶ 。一〇首は以下の通り、番号を入れておく。 ①いかならむ遠きむくいかにくしみか生まれて幸 に折らむ指なき②地にひとり泉は涸れて花ちりてすさぶ園生に何 まもる吾③虹もまた消えゆくものか我ためにこの地この空戀は残るに④君は空にさらば磯 回の潮とならむ月に干 て 往 ぬ道もあるべし⑤待つにあらず待たぬにあらず夕かげに人のみくるま唯なつかしき⑥今のわれに世なく神なくほ とけなし運 命するどき斧ふるひ来よ⑦歸りこむ御魂ときかば凍る夜の千夜も御墓の石いだかまし⑧おもひ出づな恨 に死なむ鞭の傷 秘めよと袖の女に長き⑨おもへ君枝折戸さむき里の月けづる木音は經 のする具よ⑩夕庭のいずこに 立ちてたづぬべき葡萄つむ手に歌ありし君 ︵ 7︶ 二七日 ︵登世の命日前 夜︶ へのこだわりは ﹃吾輩⋮﹄ に既に現れている。 ︵二︶ の苦沙弥先生宅での迷亭先生の ﹁た しか暮れの二七日と記憶しているがね﹂で始まる怪奇な語り ︵第一巻六五頁︶ 。今度の戦争で死んだ小学校時代の 朋友の名を列挙した母からの手紙への返信を出しに散歩がてら出掛ける。風が吹き付ける非常に寒い晩、いつのま にか土手三番町の首掛けの松の真下に来ていた 。ギリシャ人がしたという首くくりゲームをする気になる 。﹁ 枝へ 手を掛けてみるといい具合に撓 る。しわりあんばいが実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像し てみるとうれしくてたまらん﹂ 。ふと友人の来宅を思い出し 、帰ると 、事情で来られぬとの来信 。 下駄を引っかけ
二六 て急ぎ戻ると 、﹁ もうだれか来て先へぶらさがっている﹂
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。すると同席していた大学を優秀な成績で出たが定 職のない寒月君が 、﹁私などは自分でやはり似たような経験をつい近ごろしたものですから 、少しも疑う気になり ません﹂と始める。 ﹁先生と同日同刻ぐらいに起こった出来事﹂と︵同六九頁、傍線引用者︶ 。その日、向島の知人 の家で忘年会兼合奏会がありヴァイオリンをもって出掛けた。一五、 六人の令嬢や令夫人が集まっていた。引け際、 某夫人が近づいて来て○○子さんの病気をご存じかと問う。両三日前会ったときには普段通りだったのに、その晩 から発熱して 、うわごとを口走り 、その中に自分の名前が出てくるのだという 。﹁ 飛火落葉の感慨で胸がいっぱい になって⋮﹂吾妻橋にさしかかる。欄干に倚 って下をみると黒い水がかたまってただ動いている。するとはるか川 上から自分の名を声が聞こえた 。﹁気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足あるきだすと 、またかすかな 声で遠くから私の名を呼ぶのです。⋮三度目に呼ばれた時には欄干につかまっていながら膝頭ががくがくふるえ出 したのです。その声は遠くのほうか、川の底から出るようですが、紛れもない○○子の声なんでしょう。私は覚え ず﹁はーい﹂と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚か されて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月もなんにも見えません。その時に私はこの﹁夜﹂の中に巻き込ま れて、あの声の出る所へゆきたいいう気がむらむらと起こったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるよう に、救いを求めるように私の耳を刺し通したので、今度は﹁今すぐにゆきます﹂と答えて欄干から半身を出して黒 い水をながめました。どうも私を呼ぶ声が波の下から無理にもれて来るように思われましてね。この水の下だなと 思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流れを見つめているとまた 哀れな声が糸のように浮いて来る﹂ 。オフィーリアよ 、とばかり飛び降りた所が 、反対側の橋の床板の真ん中だっ二七 たという苦沙弥ワールドに戻るのだが ︵正月訪ねたところ○○子は下女と羽根つきをしていた︶ 、この部分の描写 は滑稽味旺盛な﹃吾輩⋮﹄とは異質のものがあり、すでに﹃夢十夜﹄である。いずれにしても、怪奇は二七日夜に 花開く