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元稹の「秋非我獨秋」の典拠と影響

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R棋の

「秋非ーー我獨秋―」

の典拠と影響

日本における「白 氏文簗」の流伝盛行の由来に言及した大江匡 み*と 房の「江談抄」の記事に拠れば、 嵯峨天慶が或る時河隔館に幸し て作 らせられた御製の一首の中に、 ヂテ 9 リテ^―ーカ-1ム 閣唯聞朝暮. 登レ捜這望往来船 の二句があった。帝は御心あって、 小野笙を召して、 これをお示 しになると、 笙は拝吟して、 やがて畏って、 「御製まことに結構 で御座りまするが、 恐れながら「造」の一字を「空」と改めさせ. も9しあ らるれば、 更に上もなく立派になるで御座りませう」と葵上げた。 帝はびっくり遊ばされて、 「偉いな。 この句は実は白氏の句で、 それを以て、 一っ其方を試してみたのだが、 「逢」 の字はもと

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、とあったのだ。其方の詩情は まるで楽天そのままであるぞ」と仰 せられた。 この逸話の次第は、 当時渡来した「白氏文集」 は、 唯だ御所に 秘蔵されている一部だけであったが、 帝は これ を叡覧あって後に 行幸があり、 この一聯を人知れず御製の中に取入れて、 笙のオを 試みさせられたのであった。 当時笙のオ名は恵土まで聞えていた。 そして楽天は箪が 来唐の 日を待ち焦がれて、 懃望の詩までを作っ た、 といわれた。 従って、 白楽天の詩集がそ の生前に既に日本 に流伝したことは察せら れる だろう。 当時王朝詩壇は、 白氏に対し、 仰望的閲心を持ち、 或る 者は白氏の句を取り入れた り、 或る 者は白氏の詩の調子を真似た り、 或る者は白氏の句との暗合を喜んだりした。 また、 江家の人 々が次々と天皇の侍読として「白氏文簗Jを進講したこと以外に 数多くの逸話も伝えられてい る。 江家が 白氏を喜び、 文集を研究 した事は非常な ものであっ たことに気付くだろう。 「枕草子」に、 「文は 文集、 文選、 はかせの申文」とあって、 つまり詩 文集の首位に「白氏文集」が殴かれている して、

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氏物語」にも「白氏文集」からの多数の影響が窺える。 更に「和 淡朗詠集」の浜詩では、 白楽天の作品が大量に 収められた。 「千 戦佳句」上下二巻にその詩句一千八十二首のうち、 「白氏文集」 より採録されたもの、 大凡五百三十五首に及ぶと推測されている。 楽天の詩文が日本の文項に磁んぜられ、 盛んに愛誦せられた事 は、 以上の間単な叙述によっても既に明かだろ う。 これより他に 「平家物語」や「太平記」、 「徒然草」や謡曲に 出てく る事は、

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と明記している。だが、 大江の「 月 みれば」の歌が前掲した楽天の 大抵世間周知のところであり、ここには省略すろ としよう。ただ しかし、あまりに も白楽天の盛名が喧伝させら れたせいか、恐るペ きことは、.一犬虚に吠えて萬犬実を伝ふ、一人 唱ふ れば、衆口金 をとかすに至ろことであろ。例えば、白楽天の「燕子楼中霜月夜、 秋来只為一人長」からの翻案であろう、と世間に推測せられてい た菅公の「此秋独作二我身秋こゃ、大江千里の「我身ひとつの 秋にはあらねど」という二句はその例であろ。 大江千里が詠じた歌「月見ればらゞに物こそかなしけれわが身 ひとつの秋に はあらねど 」はr古今集」の秋上一九三には、是貞親 王家の歌合によんだ、という詞害がついている。恐らくは「白氏 文集」巻十五「燕子捜三首井序」 (元和十年)の函 g レ窓明月満レ簾 霜被冷燈残払ーー臥床―‘燕子襖中霜月夜、秋来只為 i ―一人一長」 (千 里 の 「 句四和歌セ所収) を翻案したものであろう とする「 古 今余材抄」(岩波舎店「契沖全集」八)の 説があろ。他に 、r古 今栄雅抄」 に、 月は 陰気なれば。打ながむれば 心すみ。あはれをすAめてら ゞに ものがなしければ。わが身ひとつのやうに党 ゆる を、我 身ひとつの秋には あらねどヽいふ。白居易 秋来只為三人一 詩句「秋来只為 li 一人 l 長」に基づくものという説に対し、塚原 鉄雄氏は疑問を出し、本当は元租の詩句「秋非二我独秋ー」 (at 秋+首」より、 元和六ー九年作)と関係づけら れる のではないか、 と竹岡正夫氏への私償に指摘した(「古今和歌集全評釈古注七菰 築成 」 上、五九0頁、竹岡正夫著、 右文誓院、昭和五十一年)。 一方、楽天の 詩句からの翻案という説と違って、 「延五記」 に は、 「古文孝経」三才章注「日月不下為

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一物二晦中其明上」に 拠り、月は無心ながら、わが心により、月に愁いを見る、 と解す る説がある。 竹岡氏の「古今和歌渠全評 釈」 に拠って、千里の歌を訳してみ れ ば 、 、、 月を見る と、千とばかりに 物が 悲しい。わが身 ひとりの秋で はないのだけれど。 となる。竹岡氏は、千里の歌を一語 一語が漢語の翻訳という感じ で、曲折・陰影に宮んだテニヲハの使用 も少なく、和歌独自の細 やか な情感の表現に乏しい感があろ 、 と評している。更に、 この 歌に「らぢ」という語を用いて、下の「一っ」の対がねらいで、 内容が観念的である 、と もいう。つまり、 上の「ち」は千の意、 下の「ら」は物を数ふ る辞で、 はた ら、み そぢのらに同じであり� ―つ二つのつの通転である。 ' ' 漢字の逐語訳という角度から見 れば 、私は塚原氏の指描に頗る 賛成する。そ れに奥味をそそられ たので、 本文において、 元狽の

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元積(七七九ー八三一)は、 河南洛闇の人であり、字は微之で ある。十五歳で明経科に抜んでられ、 校書郎に補せられた。 唐憲 宗の元和元年(八0六)、 白楽天と同時に対策して制科第一に挙 げられ、 左拾遺を授けられたが、 しばしば天子に上書したため、 権臣に憎まれて、 河南の尉に左遷された。 のち、元和五年` 監察 御史に進んだが、 路上に宦官と争って、 江陵の土留参軍におとさ れて、 元和十年、 通州司馬嗅州長史に転任した。 通州に蕊居する 期閲、 胸中の憂鬱を発散するため、 大累の詩歌を創った。 元和の 末年、 膳部員外郎として都の長安によびもどされると、 中沓舎人 からエ部侍郎に進み、 穆宗の長慶二年(八二二)には同中書門下 平章事に進んで、宰相の地位についたが、 間もなく罷免され、 郡 州剌史兼武昌節度使に転出して死んだ。 元植は中唐の代表的詩人であ り、 白楽天とは特に親しい交わり 心 を 結び、 盛んに詩の唱和をしていた。 楽天は「詩経」の諷誼の精 神を再興させつつ、 楽府の本 領を継承せんとし、 社会批判を盛り 込んだ新文学運動をひき起した。 そして、 その運動の結渠ともい うべき、 いわゆる「新築府」が多量に作られるようになって、 後 漠以来八百年継承されてきた楽府は、 ここにおいて、 空前のリパ イ バルを見た。 楽府を作 る最後の詩人と なった新楽府の作者らの 「秋非=我独秋 1 」という詩句の原典を推考してみたい。 中に、 元栴がその一人であり、 楽天と共に相携えて新楽府運動推 進の一翼を担っ た o 元和四年、 元胆は「和 l 一李校害二釈題築府十二首」を創り 、 そ の序に 「雅 有 こ

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レ謂、 不 1 一虚為て文」と主張した。 江陵に貶鏑 せられて、 元和十二年H否生古阻』序と十九首を 創り、その序 に、 楽 府の後世 の詩人達に提供した挫富の詩想について、 其有 下雖レ用 ――古 因— 、 全無ー一古 義 一者(略) 其或頗同――古 義一 、 全創 ――新詞—‘者上。 と述べた。 それに、 この二作の間に、 即ら元毬が江陵に諦居 し た期間に` 「解秋十首」 (元和六ー九年)が創作され、 詩の中に も古 楽府から話句 を引用した例が見える。淡の揚雄は世人の咽笑 を弁解して「解嘲」一篇を作った例があるので 、 こ こでの、 元積 岱秋十首」も、秋@恵味を解き明す、 と解釈すれば、 間違い無い だろう。 その「解秋十首」の中で 古楽府を引用したところは六首 目に見えろ。 春非――我独春ズ秋非乞我独秋一、 社念ー ー百 草死—‘ 但念霜満こ頭、 頭白古所レ同、 胡為__坐煩憂―` 茫茫百年内` 処レ身良未レ休 。 調査してみると、 この「春非__我独春_、 秋非――我独秋ー」とい う二句は、 実は楽府詩歌の「郊祀歌十九章」の「B出入」(九章 目)の「故春非 Il 我春ー(略)秋非――我秋ー」から の引用である 。 漢の武帝の時に 、 天地を祀ろときに、 うたわれるぺきうたと

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じて「郊祀歌十九章」が臣下によって創ら れた。 嘉杞歌十九章」 については、 「史記 ・築害」、 r漠杏・稼築志」に説明があ る。 r漢魯・租築志』において、 武帝が郊祀の稼を定 め、 さらに 楽府を設岡したということを述ぺたあとに続けて、 次のように言 われる。 以_一李延年;g-一協律都尉 l 、 多 挙二司馬相如等数十人 一 造 為 -1 詩試ズ略論己律呂一、 以合 ll 八音之調 一 、 作 二十九 章之歌—、 以二正月上辛ズ用

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甘泉閲匠一、 使孟皿男女 七十人倶歌—‘ 昏祠至=明夜一、 常有――神光一 如 ー』流星—‘ 止集――子祠坦—、 天子自 l 一竹宮 l 而望拝、 百宮侍レ祠者数百 人、 皆梁然動レ心焉。 r史記』の「操宙」には「 郊祀 歌十九添」を創ったときのはな しと して、 さらに次のように記している。 至 ll <(r上即位—、 作=+九章-‘ 令_―-侍中李延年次 -1 序其墜 f 拝為――協律都尉一、 通1-―癌一之士 、不レ能 -i 一獨知= l 其辞 l` 皆集――會五糀家_、 相興共講習談レ之、 乃能通-l知其意—‘ 多 l一溺雅之文-. 「郊祀歌十九章」は司馬相如らの文人達によって作 られたもので あったけれど、 その歌辞は難解で、 ただ一経専門の学者ではその 意味がつかみかね、 五経専門の人を集めて共に講 読し、 はじめて その意 を よ みとる こ と が で き た 、その用語はr溺雅」によるも のが多かった、 と 司馬遷は言う。 この「史記』の記述は、 「漢也」 に引用されてい ないところから見て、 どこまで信ぜられるかとい う疑問があるけれども、 逸話としては面白い。そ れに、 現在に残さ れている「郊祀歌十九 章」は「溺雅』を取り出して読まなければ 読め ないような、 それはどに難解な ものではない。 「郊祀歌十九章」の 中には整然とした四言詩形に従うものが八 章あると共に、 一方また 一 1 一言を整然と重ねる形が七章八編ある。 それ ら の四言詩はなかなか完成度の高い作品となっており、 安世 房中歌における四言の作品よ りも優れていると思われる。三言の リズムに従うものは、 用語においても、 また祭事の考え方におい ても、 「楚辟」の「九歌」にあやかろうとするところが少なくな いように見受けられる。 ただしかし、 「日出入」第九はその性格 が明かではなく、 ほとんど押韻もしておらず、 殊に形が乱れてお り、 雑言体の作品とされてい る。 「隋也•音築志 J 上に言う、 武帝裁 1 一音卸之墟一、 定 -l 郊丘之祭一、 頗雑蘊謡非 -l 全雅什。 とは、 とく に「日出入」等の雑言体の作品を指して批判したもの であろう。 にも拘らず、 後世の詩人元栖はそれから発想して「解 秋十首」を作った。 漠の作品において、・無常感につらなりうると考えられるものは この「郊祀歌 十九章」の一日出入」である。 それは次のようにそ の辞句を展開させている。

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日出入安窮、 時世不 1 一興レ人同一、 故春非 IJ 我春_、夏非乏戎 _、 秋非――我秋一 冬非 1 一我 1 如ー ー四海之池 —‘ 観是耶謂レ何、 吾知レ所レ榮、 獨簗――六龍ズ六請之調、 l 我心若( l 作苦)ズ 誓黄 其何不 1 一採下ー。 この作品に解釈を下し て、 晉灼は言う、 言人壽不い能レ安固 f

-l四海ズ須載是、

乃知

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命甚促—‘ 謂何、 1一如之何一也° ' 「安窮」とは、 意味は「不窮」に近く、 「無窮」ということ に通 ずる。武帝の子の属王詈の「歌」にも I 1 一久生一分無レ窮、 不レ築合安窮」と言う。 王先謙の補注に、 この腐王街の「歌」の 意を説明して、 「既死為レ鬼則長不し築、 安有

-l

窮極ユ3」とい っている。 「泊」については、 顔師古の注に「泊、 水貌也」とあ る。 「泊如四海之池」とは不安定なさまは四方の海のととくであ る、 という意味であろう。やや後の言葉であるが、 晉の木撃の涵 t 賦」に「潤泊栢而追麗」という言い方がある。 「泊栢」は小波。 「泊」という言葉はそれ自体で、 波が ただようさまを 示す 海を をもって称する例は枚乗の「上書重諫――呉王一書」に「朝夕之 池」という言葉がある。 これについて、「文選」の張銑の注に祠 5 夕池、 海也」とある。 r史記」 の「日者停」にも「地不レ足__東 南一、 以こ海為レ池」という。 「六龍」とは 劉向は「六龍、日駕也、 不こ可 1l 頓而止 b 之」と解釈する。 王逸は「結 -l 我車轡於 -1 扶桑 f 以留レ日、 幸得=延年壽一也」と言うけれども、r荘子」を見れば 「黄帝曰、 陰陽四時迎 行各得_一其序こと言う。一方、 晉の郭瑛 の「滸仙詩七首」の三首目を見 れば、 「日出入」の瑛きは分りや すくなるだろうと思う。 六龍安可レ頓、 運流有

-l代瑚ズ時甕感

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人思—‘ 己秋復願レ . . . それから、 「日出入」におけ る「 誓賀」とは龍翼馬身の神馬であ る。 「漢裕、 粗築志」に應邪の注が 砦黄、 一名乗黄、 隅翼而馬身、 黄帝乗レ之而仙゜ と言 っているので、 「誓黄其何不 -l 採下ー」は神馬の来下しない のを嘆ずる意であろう。 「日出入」の意は人寿 短いことを歎き、 六龍に駕して滸仙す る志を述ぺたものであるけれど、 太陽の迎行が無窮であり、 四季 の推移変化は毎年同じであるのに、 「時世」、 即ち時ないし時代 はそれと同じではなく、 不安定なさまは四方の海面のビとくであ るとうたっているのである。 そこ には、 人間が生存する時世のは かなさをうらむ感情が示されている。 前漢に人命のは かないこ とを咲く悲哀感が確実に存在していた ことはここに明かである。 古詩、 古歌、 建安詩において、 無常へ の慰めはしばしば現実の瞬時の生活の享楽と神仙世界への憐恨に 赴く。 それは中国在来の伝統思潮である神仙思想をふまえたもの で、 それへの個憬が文学に示さ れたのである。

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元和六年から九年にかけて、 江陵に鏑された元祖はちょうど壮 年にあたる時期であり 能が認められず、 胸中の憂鬱を洩らす ために口日出入」のう たに感銘してその言葉を引用した。 元菰は 函非ーー我登(略)秋葬 l 我秋ー」の語句を借用し、「春非二我獨春 f 秋非ー一我獨秋_」という五言古体詩に書き下し た。 しかも「時世 1 乙?人同ー」という語句に おける悲嘆の精神を「頭白古所レ 同」という表現に変えた。 元租は、 単なる時閻・自然の推移への悲哀感 を表 わすのみなら ず、 推移の悲哀によって、 自分の壮年にあたる光陰の浪喪・才能 の充分発揮できない不運を嘆くのである。 ただしかし、 詩人は神 仙思想に恨れはしない。 というのは、 「日出入」は宮中詩歌であ り、 詩歌を創るのは漢武帝の為 であり、長寿した いのは殿上人で ある。 元租は現実の社会詩人であるゆ えに、 庶民生活の実感とし て感じとられた情緒をありのままに、 詩歌でう たう諷諭詩人であ った。 現実の社会に見られる不安定な姿、 そこから溢れてくるさ まざまな社会不安、 さらに各人の生活にまで結びついた不安と不 満が根底の問題として考えられなければならぬというのが当時謗 された元租の言いたいことではなかったかと思う。 「楚歌十首 」(元和五S九年)十首目を見れば、 詩人元横の心 境を充分了解できると思う.

菅原道真は太宰府に流諦され た際に「白氏文集」を携帯し、

八荒同―― 日月一 萬古共 -l 山川一 死既由ビ命 興衰還付レ天、棲棲王築広、 憤憤屈平篇、 各自埋二幽恨—‘ 江流終宛然゜ 当時の元柑の心情はまさに失意の境遇に在った建安七子の一人で ある王榮と、 王に疎んぜられ、 石を抱き泊羅江に投身して死んだ 屈原とに託されている。 「日出入」は漢武帝の臣下の創った詩歌であるので、 武帝の神 仙思想への個恨が濃く看取できる が、 庶民性が乏しい。 元来、 帝は楽府の官制を改革して、 博く四万の風謡を採り、 新たに詩賦 を作らせようとする意向を持っていたが、 「郊祀歌十九章」は違 う。 民間の詩歌ではなく、 むろん、 政治への不満が表われていな ’> 後世の元祖は新楽府(音楽と相待っていない)運動推進の一貝 として、 「郊祀歌十九章」の「日出入」第九に目を投じて` 「春

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我春_。秋非ーー我秋ー」という語句を借用 し、 表面的には時 間・自然の推移への悲哀を歌っているようにみせなが ら、 根本的 には現実社会を反映させ、 神仙思想を排除しようとする。 一方、中国の漢詩から影匿を受けた13本の歌人達はこれをどう 吸収して表現するのであろうか。

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室にこもってこれを愛読したと言われていろ。菅公は、他人の辞 句を補綴してわずかに詩の形をなす摸倣ではなく、完全に独自の 鬱函を吐露し、悲愁を詠嘆しようとした。延喜元年九月十五日に よまれた「秋夜」の詩に、 黄萎顔色白霜 頭。 況復千餘里外投。 昔被ー一榮花笞組純ー。 •今為_一貶築草莱囚一。 月光似レ鏡無レ明ヒ罪。 風氣如レ刀不レ破レ愁゜ 随レ見紐レ聞皆惇慄゜ 此秋獨作ーー我身 秋 一。 昔は榮花 今は貶謗 (r菅家後集」より) と書いていろ。日本古典文学大系本に拠って解釈すれば、 黄に萎めろ函色 白き霜の頭 ぃn いた 況復むや千除里の外に投れろをや し U そゆ〇つな 誓組に詞がれき 草裸の囚たり 罪を明むることなし 月の光は 鏡に似たれども 風の気は刀の如くなれども 愁へを破ることあらず 見るに随ひ聞くに随ひて みな惨慄 此の秋は獨り我が身の秋と知りたり であろ。ここに、注目すべきところは結尾の「此秋獨作乏戎身秋ー」 七 で あ ろ。それは確かに楽天の「燕子捜詩三首井序」の「秋来只為 一人一長」(燕子捜中に寡居していろと、つくづく夜の長きを感 ずろ)と通ずろ気持がある(平泉澄r芭蕉の悌 J 所収「白発天」 日本祖院、昭和廿七年)が、一方、元揖の「表夏十首」 \九年)の 紅絲散ーー芳樹ズ旋飩光風急、煙乏被_一簾香 1 、露濃放面毯、 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 佳人不レ在レ此、恨望階前立、忽限-]夏景長 —、今春行已及。 (傍点筆者) を見ると、それは故人となった徐州刺史張恒の愛妓扮扮に代って 寡居の苦況を述ぺろ白楽天の「燕子梱三首井序」の「秋来只為一 人長」のうたと同じ趣向に見えるのではないかと思う。だから、

ただ楽天の「秋来只為_ l-人一長」を提出して、それを菅公の「此 秋独作 -I 我身秋この発想であろとは一慨に言えなくなるだろう。 況して炭字語句の迎用から考えれば、菅公の「此秋独作 -1 我身秋こ の詩句 は楽天の「秋来只為 -l 一人ー長」の詩句 よりも、むしろ元 租の「秋非 -I 我独秋ー」の方により近いのではないか。 元碩は江陵に左遷せられて、「秋非二我独秋ー」と詠じた。そ れと同じ心境で、感慨無舟で、菅公は「此秋独作ーー我身秋一」に 詠歎した。道真の貶謡をよんだ詩を見ると、元租の詩への感情移 入のひびき及び漢学の造詣も短えるだろう。 (元和六

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r古今和歌築」恋五、 七四七に、 五条のきさいの宮のにしの対 にす みける人に、 本いにはあ らで、 もの言ひ わたりけるを、 睦月の十日あまりになむ、 ほかへ閑れにける。 あり所は聞きけ れど 、 え物言はで、 又 の年の春、 梅の花ざかりに、 月のおもしろ かりける夜、 去 . 年 を恋ひて、 かの西の対に行きて、 月の かたぶくまで、 あ ばらなる板敷にふせり て、 よめる 在原菜平朝臣 月 やあらぬ春や 昔の春ならぬわが身ひと つはも との身にして がある。 これは菜平の代表作と もいう ぺき一首である。 古来の注 釈は上の句の二つの 「や 」 (助詞)を反語と見る か、 詠歎と見る かに よって、 諸説がある。 さて、 こ の 歌を、 白楽天の「春至但知レ依 二 租春_」(「別下 証_云盃竺花樹上両絶」よ り) に拠ろ` とす る説谷芋彦二郎氏霊安時 代文学と白氏文集増補版」二八頁)や、初固詩人劉希夷の有名な「代ニ 白頭吟この「今年花落顔色改、 明年花開復誰在(中略)年年歳 歳花相似、 歳歳年年人不レ同 」 の気分から陪示 を得た と視る小島 惑之氏 の説(r上代日本文学と中曲文 学L下、一八三五頁)などが ある。ま た、金士薔氏の F 占今和歌巣評釈昭和粧邑(昭和二年刊明治魯院)はこ れを趙蝦の詩 「 獨上 li 江捜云溢四然、 月光如レ水水迎レ天、 同来翫レ月人 何処、屏京依稀似 l 老ぎ 」 と同一軌で ある、 と言っている。発想の仕万 はそれら の中国の淡詩に由来しているか も知れないが、従来様々な解 釈 が 行 なわれていて、 その舟 趨も知らぬ 状態になって い る のである。 一首の歌が そうし た混乱の情緒から奔り出たものとすれば、「や」 と いう助洞も、 反語とも詠歎とも付かぬ取り留めのないものであ っても、 技巧力の欠陥とは言えぬと 思う 。どちらにしてもよい遥 れ た 。 けれども、 元祖の「春非我獨春」及びその引用の元となっている 「日出入」での 「時世不―A只レ人同一 」 をふたたび見ると 、 そ の底 流に心情の相通ずると ころもある と言ってもよ いであろう。 いずれに せよ、 業平の詩句の上の句 と下の句に、 自然と自分の 身の上とが 切実に対照せられ、 ボツリと途切れたような結句の陰 に千万無歴のものおもいがむなしく語 られ ずに潜ん で い るこ とだ けは、 語釈の相迎を超えて` 逐語訳という壁を突破し、 確突に感 じ取ることが で きるであろ う。 元椒の、 天地の迎行や四季の推移 は変らないのに、 人間の境遇は変わるという意図が業平の歌に生 かされているように思われる。 愛し合った二人がどちらの心変りで もないのに、 引き割か れて しまって、 今は女の居る場 所は見当が 付い て い て も、 絶対に そ こ へ通う術は無い。 そんな悲劇的な境遇に陥った業平は、 照りもせ ず、 登りも果てぬ春の夜の馳月に女の面綸を想い描き、 甜郁とた ち こ める梅の香りに、 彼女の衣袋の移り香を想い出したりして、 彼は悔恨とも抗議とも悲 咲とも付 かぬ気持になった 。言ってみれ ば、 菜平はそ れらのすぺて が錯綜し た惑乱の思いの中で一夜を過 した 。 そし て、 このように、 一首の歌が そうした惑乱の中から生

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理ではないか。 その歌の全体がすっ きりした口語訳にされにくい、 ねじれた表現になったのも当然のことであり、 まさに、 業平の当 時の心情の反映ではないかと思う。 これは、 菜平の技法的欠陥と ならず、かえって豊富な余情が紙面に躍りながら、 効果をあげて いると私は考えたいのである。 * * * * 自然の永遠的不変性と人生のはかなさとの対比によって、 燦月 の移ろいへの哀歎、 そしてむなしく人事の変わることを詠歎する のは、 言うまでもなく、 中日詩人達の間に相通ずる感銘であろう。 発想の源は中国の漠詩に由来するかも知 れないが、作者はその時 の心情を素直に、 感助したまま、 粉飾なしに自分なりに漢話を自 分の詩の中に熔化し、 歌を詠み上げて、漠詩の逐語訳ではなく、 詩作の気分を作成できるならば、 牲にその歌の価値は抹殺しえな いと思う。 同じ源流から地勢によって違う方向へ活淫と流れてい くことこそ文化の花を咲かせていくのであろう。

研究室受贈図書雑誌目録(二

愛媛国文 と教育(愛媛大学) 大阪青山短大国文 大谷女子大国文 第五号 第十九号 大妻国文(大妻女子大学) (岡山大学大学院文学研究科) 第二十号 第二十号 大衰女子大学文学部紀要 学大国文(大阪教育大学国語国文学研究室) 香推洞(福岡女子大学因文学会) 第三十四号 第十九号、 第二十号 活水日文(活水学院) 活水論文集 第三十二集 金沢大学教養部論集 人文科学覇 岐阜女子大学紀要 第十八号 岐阜大学国語国文学 第十九号 九州大谷国文(九州大谷短期大学) 第十八号 金城国文(金城学院大学) 第六十五号 近代文学綸染(日本近代文学会) 研究紀要(日本大学人文科学研究所) 第三十六号、 第三十七号 言語学論叢(筑波大学一般・応用言語学研究室) 考(考の会) 高知大国文 第十二号 甲南国文(甲南女子大学) 甲南大学紀要 文学編 72 語学と文学(群馬大学語文学会) 語学・文学研究(金沢大学教育学郡国語国文学会) 国語科関係論文(宮山大学教育学部) 第二号 第十九号 第二十五号 第三十六号 恵泉女学園大学人文学部紀要 研究紀要(尚網大学) 第一号 第二十一号 第三十二号 第八号 第三十七号 第十四号 26ノ2` 27ノー 第十八号 •99·

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