カロリング期フランク王国における「カピトゥラリ
ア」と宮廷アーカイヴ
著者
津田 拓郎
雑誌名
ヨーロッパ文化史研究
号
14
ページ
79-97
発行年
2013-03-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/55700
(2013年 3月 30日) 79 論 文
カロ リング期 フランク王国における
「カピトウラリア」と宮廷アーカイヴ
津
田 拓 郎
序論11
問題 の所在 と本稿 の 目的12
宮廷 アーカイヴに関す る研 究史 本論 Ⅱ-1 シャルルマーニュ期 の事例 Ⅱ2
ルイ敬虔帝期の事例 Ⅱ-3「カ ピ トゥラリアの体系的保管」の試み?:ルイ敬虔帝のA′解θ “ ,″ο Ⅱ4
ル イ敬虔帝宮廷のLcrS写本室 結論 と展望 Ⅲl
結論 Ⅲ2
展望I.序
論I-1.問
題の所在 と本稿の目的 伝統的に「君主の勅令」であると考 えられて きた「 カピ トゥラリア」 については,近
年 大 きな見直 しが進んでいる(D。 以前か ら「カピ トゥラリア」の多様性 については,多
くの 研究者 によって指摘が なされて きたが,2007年
にパ ッツ ォル ドは「 カール,ル
イ,そ
し てフランクの貴顕達 は,中
世学者の専 門概念の意味におけるカピ トゥラリアを自分たちが つ くっていた とい うことを知 らなかった」 と述べ,「カ ピ トゥラリア」 とい う史料類型が 研究上の分析概念 に過 ぎない とい う見解 を明確 に した②。現在の所 この見解 に対 しては, 賛成意見 も反対意見 も見 られないのであるが,筆者 は彼 の表明に強 く共感する ものであ り, 前稿で もその ような方向性で「カピ トゥラリア」の見直 しを行 った°。前稿でやや仮説的 (1)「カ ピ トゥラリア」 を巡 る研究史については ,拙論「 カ ピ トゥラリアに関する近年の研究動向」,『西 欧中世文書の史料論的研究平成23年度研究成果報告書』,2012年,PP.110-134を 参照 の こと。2012年
H月
現 在,httpプ/_2.1■.1靱shu―u・acjp/∼ his westノsiryo Юn/houkoku syo/tsuda.pdfで も閲覧 可 能となっている。
(2)s.Patzold,`Normen im Buch:t九
)erlegungen zu GeltungsansPrichen so genannter Kapitularien',Frタカ″:r―
″レ′″rriεみι sr“′″
"41,2007,P.349.
③
拙論「 カロ リング期 の カ ピ トゥラ リアー 同時代人は『カ ピ トゥラリア』 を一つの文書類型 として 認識 していたのか?」,『ヨーロ ッパ文化史研究』第13号,2012年,pp.167-198.
論 文 に提示 した結論 は
,1)カ
ピ トウラリア とい う史料類型 は,シ
ャルルマーニュ期 について は想定すべ きではない,2)時
代の流れの中で同時代人の類型認識は変化 している,3)シ
ヤ ルル禿頭王時代 には,シヤルルマーニュ期の雑多 なテクス トを蒐集 した写本の影響 もあ り, それ らを「 カピ トゥラリア」 とい う一類型 として認識す る態度が現れ始めた,と
い う3点 にまとめることが可能であろう。 本稿では,シ
ャルルマーニュ期 ・ルイ敬虔帝期の宮廷 アーカイヴに関する情報 を再検討 す ることで,当
時の王国統治において文書の呆た した役割 を解明する手がか りを得 ること を試みる。 これは現在筆者が多様 な角度か ら進めている,「カピ トウラリア とは何か」,よ
り正確 に述べ るならば「現代の研究者たちによって 『カピ トゥラリア』 と見 なされて きた テクス ト群 は同時代 には どの ような役割 を呆た していたのか」 を再検討する試みの一部に 属す る ものである④。本稿の議論のみか ら明 らかになる成果は微 々たるものではあるか も しれない。それで もここで行 う作業 は,前
稿で示 した仮説 を検証 してい くための重要 な知 見 を与 えるものである と考 え られる。 本稿 の議論,お
よび筆者が近年取 り組 んでいる「 カピ トウラリアとは何か」 を問い直す 作業は,ど
ちらか とい うと史料類型論や補助学の分野 に近い ものであるが,こ
の ような議 論が単 なる類型認識のみ に関わる狭 い射程か ら行 われているわけではない ことをここで 断ってお きたい。「カピ トウラリア とは何 か」の問い直 しは,現
代 の研究者が「カピ トウ ラリア」 を利用す る際の基盤 を与 える とい う意義 を持 っているだけでな く,「大量 のカピ トウラリア立法 を行 ったシャルルマーニュ・ルイ敬虔帝」 とい うイメージに基づ く歴史像 の見直 しや,当
時の統治行為 における文書利用の実態の把握 といった,具
体 的な歴 史像の 獲得 に も直結す るテーマなのである。 なお,前
稿 で も指摘 した ことであるが,「カピ トウラリアとは何か」 を考 える際 に注意 が必要な点 として,同
時代 における用語法 と現代の分析概念 としての用語法が一致 してい ない ことを確認 してお きたい⑤。現在のフランク王国研究において用い られている語「 カピ トウラリア」(英capitularメ 仏capitulaire,独 Kapitularien[単 数形Kapitular])に対応する ラテ ン語 は εη′′ “ :α″ (複数形 εη′′ッ′αriα
)で
あ るが,ボ
レテ イウス とク ラ ウゼ に よるMGH版
⑥ に含 まれるテクス トすべてが,同
時代 において εη:′ “ :α″ と呼ばれていたわけで0
本稿 で は「 カ ピ トゥラリア」 の語 を「先行研究者が 『カ ピ トゥラリア』 とい う史料類型 の中で理 解 して きたテ クス ト群」一般 の意味で用い ることとす る。 ③ り、下の用語法 に関す る記述お よび参考文献 は,拙論 「 カロ リング期 の カ ピ トウラ リアー 同時代 人 は 『カ ピ トウラリア』 を一つの文書類型 として認識 していたのか?」,pp.1681 “ )A.Boretius(ed.),MGH Cη ′′“レ″νtt Fra4εOr夕″二Hannoveら
1883;Idem and V Krause(eds.),MGH
C″ れJα″α″g夕解Fra"`οr“
“二Hannove島 1897.以下で「 カピ トウラリア」 を引用す る際 には, これ
81
は ないのであ る。 これ らのテ クス トは同時代 史料 にお い て は,εη:′ “ Iα,εη:′″:αtt εο “ S`′オツー ″Qル
ε″′ ““,p″ θ εη′夕 “ ,θ″ε′夕″ 等 の極 め て多様 な語 で呼 ばれ て い る。 また,εη″ "″″ と いう語が「カピトウラリア」以外をも指 して用いられることがある点,「カピトゥラリア」 の呼称 として頻繁に現れるεη:′ “Iα という語は,「条項別に書かれたテクス ト」一般 を意 味 していたという点 も繰 り返 し指摘 されている。ここか らは,あ
るテクス トが εη′′′:α″ や ψ わ′αといった語で呼ばれているか らといって,そ
のテクス トが「カピ トゥラリア」 という一つの類型に属 していると考えてはならないことが分かるのである。I-2.宮
廷アーカイヴに関する研究史 一部の「カピ トゥラリア」に見 られる宮廷アーカイヴ②関係の情報は、多 くの研究の注 目を集めてきたが,宮
廷が「カピ トゥラリア」の生産 。保管にどれほど関与できたのかに ついては論者ごとに意見が分かれている。かつては,シ
ャルルマーニュ期からすでに宮廷 が「カピ トウラリア」 を体系的に生産 。保管 していたとする見方が提示 されていたもの の③,そ
の後の多 くの研究は,宮
廷の文書管理能力に対 して懐疑的な立場をとっていると 言って良い。すなわち,カ
ロリング期の宮廷には,「カピ トゥラリア」を体系的に生産・ 複製 。保管する能力はなく°,当
時の君主たちが試みた「カピトゥラリアの宮廷アーカイ ヴヘの保管」が実現 したとは考えにくいというのである(D。 彼 らの多 くがその根拠 として あげるのは,宮
廷産と考えられる「カピトゥラリア蒐集」が一切現存 しておらず,宮
廷に らの版 にお け るテ クス ト番号 を用 い る こ ととす る。 (ガこの 時代 の アー カ イ ヴー 般 につ い て は,H.Fichtenau,`Arch市e der Karolingerzeit',Idem,Bθ ′rrむθz夕r
Meグ′″ッ,s′′たStuttgart,1977,pp.115-125.
° 例 え ば
I.Fleckenstein,D′ιり ″θr:θルrル
“ぉεヵθ"Kσ “黎.二 ■,I:Gr“″′碗μtt Dた たαra′′4♂sC力θH≠α―
pι″らStuttgart,1959,PP.79-81; R.Schncideち `Zur rechtlichen Bedeutung der Kapitularientexte',Dθ 夕おε力ιs
OA77ふ tり
す究グ
あ笠 締 笹箇 ′L写電';リアイ腱 ぁ宮 廷 文書 局 ・ア ー カ イ ヴの能力 の低 さを強 調 す るの は, RL.Gansholい物s″α
“"ノ′ι KapF′ノαriι″ζ Weimaら 1961,pp.701,pp.98-101;J.Nelson,`Lit― eracy in Carolingian government',R.McKitterick(ed.),7乃 θしな
`s9′Li′″qノ′“`α
r1/″θ′′ιッα′E“ropι,Cam―
bridge― New York―Port Chester― ⅣIclbOurnc―sydne"1990,pp.286-288; H.NIIordek,`Karolingische
KaPitularien',Idem(ed。 ),」ιθ″′ψr夕暉
“″グGθ
J′夕電 ″οr“α′′″r2χ″グ
“ルタたθ““″′力θ力ι″M′′″:αIセrs,Sig―
maringen,1986,pp.37-40; A.BiihleL`Capitularia Relecta: Studien zur Entstehung und Uberlieferung der
Kapitularien Karls des Gro3en und Ludwigs des Frommen',Aκ た,νルrDノο
“
′′′L Sε力rッ℃asε ttεん屹SなθJ
“"グWapp`“た夕″グθ32,1986,p.449。 なお, カ ロ リング期 には独 立 した部局 と しての「文書 局」 は存在
せず,宮廷礼拝堂の一部の人員が文書作成を担当したとされている,J.Fleckenstein,D′ι臓′″
`IIθム
pp.74-79; R―H.Bautieち `La chancellerie et les actes royaux dans les royaumes carolingiens',3′ briο
`み 夕 `夕 θグθ :τ `ο′ι′θ s cみarres 142-1,1984,pp.111 (° ル イ敬 虔 帝 に よる「 カ ピ トゥラ リアの宮 廷 アー カイ ヴヘ の体系 的保管 の試 み」 の重要 な証拠 と見 な され て きた の は,本稿 で も取 り扱 う823825年の スノ″θ″′′′οα′ο″″ “隻″ ο″′“●(MGH Cap.I,no. 150)であ る,RL.Ganshol W泳″α “″グたKap′′夕Jα r′θ“鳥
pp.1001;A.Buhleち`capitularia Relecta',P.449; H.Mordek,`Kapitularien und Schriftlichkeit',R.SchiefFer(ed。),Sε力r′た夕Ir“r夕″′Rι′ε力sッθγ″′I′夕4g“ 4たr′θ
“ καrοJi4rr″,Opladen,1996,P.59.
体系的に「カピ トウラリア」が保管されていた痕跡が見 られないこと, フォントネル修道 院長アンセギスが 827年 に「私的に」蒐集を作成 したときには, 自らの修道院アーカイヴ など
,在
地に保管されていたテクス トを用いている様子であることである(H)。 他方,近
年では宮廷アーカイヴの文書管理能力を過小評価 しないよう促す見解 も現れて いる。フロイントは,レ
ーゲンスブルク司教バ トリッヒ配下の2人
の書記が7日間で108 葉からなる写本を作成 した事例などをあげ, より多数の書記を抱えていた宮廷アーカイヴ が,相
当程度の文書生産能力を持っていた可能性を指摘 している(②。 しか し,宮
廷にそれ ほどの文書生産力があつたなら,なぜ宮廷産の「カピトウラリア克集」や宮廷における「カ ピトウラリアの体系的保管」の痕跡がないのだろうか(1⇒ 。 宮廷 と「カピ トゥラリア」の関係を巡るこれまでの議論の問題点は,「カピ トウラリア」 という史料類型の存在を前提に,一
部の情報を過度に一般化 してきたことと,時
代 ごとの 変化にほとんど注 目を払ってこなかつたことにある。筆者の考えでは,本
稿で扱 うシャル ルマーニュ期 。ルイ敬虔帝期に関 しては,「カピ トウラリア」 という類型が存在 したのか どうか、それ自体が問われるべ きなのであ り,そ
れを大前提 とした議論の構築は意味をな さない。本稿では「カピトウラリア」 という類型の想定から一旦距離を置いたうえで,先
行研究が想定 してきた「カピ トウラリアの体系的保管の試み (とその失敗)」 という一般 的なイメージを再検討 してい くこととする。 Ⅱ。 本論 Π-1.シ
ャルル マーニ ュ期 の事例 シャルルマーニュ期 。ルイ敬虔帝期の「カピトウラリア」に関係する宮廷アーカイヴ関 係の情報は,筆者の知るかぎりでは表1にまとめたものがすべてである。シヤルルマーニュ 期・ルイ敬虔帝期が,「大量のカピ トウラリアが発布 された」時代であると考えられてき たことを想起するなら, これは驚 くべ き少なさであると言わざるを得ない。この二人の治 (H)アンセギス蒐集については,G.Schmitz(ed.),MGH D,θ Kap:′ “I′riι"sα ″“I夕暉 ′“A4sagis Hannoveち
1996.アンセギスが置かれていた状況については,拙論「 カロ リング期 の カ ピ トウラリアー 同時代 人は 『カピ トゥラリア』 を一つの文書類型 として認識 していたのか?」 で も扱 った。 (1の S.Freund,y。 “ル′Agilθ′4gr″ z夕′ι “ 焔roJ″rr′,Minchen,2004,pp.3541
(D
マキタリックは,ルイ敬虔帝官廷の「 レーゲス写本室」で,カンケラリウスの指揮下で作成 され た とされる一連の写本 を根拠 に,宮廷 が「 カ ピ トウラリア」 の体系 的生産 ・保管 を行 っていたかの ような見解 を示 している,R.McKiterick,`Zur Herstellung von Kapitularien:Die Arbeit des Leges― Skrip―toriums',A石′″′ル電
"グ“
ルs′′放 おルraたr“ たヵ,sc力θ Gasθ力′ε力rsJO“6カタ暉 Iθl,1993,pp.316。 こ の 主 張 に
対 してはすでにモルデ クによる正当な批判がある,H.Mordek,`Kapitularien und Schri■lichkeit',pp.
表
1
シャルルマーニュ期 。ルイ敬虔帝期のアーカイヴ関係の情報>I)V)V-"-=2ffi
794年 フランクフル ト タシロの権利放棄文書 808年 アーヘ ン (?) 軍事 関係 の規定 813年 アーヘ ン 教会改革規定 ルイ敬虔帝期 815年 アーヘ ン イスパ ニア辺境 関係の規定 816年 アーヘ ン 同 上 816年 アーヘ ン 参事会会則 818/9年 アーヘ ン 一連のカピ トゥラ 823-825年 ア ー ヘ ン 「現在や別の時に朕によって定められたカピ トゥラ」 世 だけでMGH版
に収録 された「 カピ トゥラリア」は 150点 を超 えるのに対 し,ア
ーカイ ヴ関係の情報 は 10に 満たないのである。以下ではこれ らの事例 を,時
代順 に一つ一つ分 析 してい くこととする。 シャルルマーニュ期 に関す るは じめの情報 は,794年
フランクフル ト「教会会議」で出 された「カピ トゥラー レ」(0第 3条
にあ らわれる。養子論問題,聖
画像崇敬問題 について の協議 を伝 える第1条,第
2条
と同 じく,叙
述史料 の ごとき様式(0で
記述 された第3条
では,「これ らの問題が処理 される と,か
つてのバ イエル ン大公 に して,カ
ロルス国王陛 下の従兄弟, タシロに関す る規定 ε″:ォ励″ が定め られた」(0との記述 に続 いて,タ
シロ やその子孫がバ イエル ンに対するすべての権利 を放棄 したことが述べ られる。そ して,「彼 [カール]は
それゆえに, この規定 εη勧 レ “か ら,同
一内容の3つの文書b″ν“が作成 さ れるようにと定めた。一つは宮廷 に保管 されるべ きもの, もう一つは前述の タシロが修道 院の中で持つための もの,3つ
日は聖 なる宮廷の礼拝堂 に保管 されるための ものにするよ郁
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推 測 で きる,S.Patzold,`Normen im Buch',PP.3401;菊 地重 仁「 テ クス トと して の カ ロ リ ング期 カ ピ トウラ リア」,『 名 古 屋 大 学 グ ローバ ルCOEプ
ロ グ ラム第12回国 際 研 究 集 会 報 告 書 』,2012年,P. 210.(16) ``III.His PeractiS de Tasiloni deiniturn est capitulum,qui dudum Baioariae fterat,sobrinus videlicet dOmni
論 文 う命 じたのである」(フ)との情報があ らわれる。 ここで言及 されている「条項」ε η′′"レ解が, この第3条その もの を指すのか
,こ
れ とは別に何 らかの文書が起草 されたのかははっきり しない ものの(181,全 56条項か らなるいわゆる「 フランクフル トカピ トゥラー レ」全体 を 指すのではない ことは間違いない。「 カピ トゥラリアの宮廷 アーカイヴヘの保管」 をめ ぐ る議論の中で も頻繁 に引用 されて きたこの事例であるが,前
大公への判決文書 に関す るか な りの特殊事例 に属す るもの といえる。 シャルルマーニュ期 に関す る2つ 目の事例 は,808年
の「軍隊動員令」である(191。 全9 条か らなるこのテクス トの第8条
には, この文書の4つの写 しがつ くられるべ きであるこ と,そ
の一つ を「朕のカ ンケラリウス」が持つべ きことが述べ られている°の。 ここでは, は じめ に作 成 された4通
を もとに,さ
らなる写 しが作 成 された こ とが推測 されてい る が°⇒,具
体的にどの ような経路 を通 じて,巡
察使や伯 に写 しが伝 えられたのかに関す る情 報は残 されていない。 また,宮
廷への保管や体系的な複製作成 をほのめかす情報が見 られ るに もかかわ らず,こ
のテクス トは10世紀 の一つの写本でのみ我 々に伝 え られているに す ぎない。伝存数の少 な さの理 由 としては,「世俗的」内容のみを含 むために,教
会人で あ る「カピ トウラリア蒐集」作成者 の注 目を集め なか った可能性② が指摘 されている。 さらに,特
にこのテクス トのみに当てはまることではないが,羊
皮紙片の形で作成 された(1刀 “Unde tres breves ex hoc capitulo uno tenore conscriptos fleri pracccPit,unum in palatio retinendum,alium
praefato Tasiloni,ut secum haberetin monasterio,dandunl,tertiunl vero in sacri palac五 capella recondendum
neri iussit."MGH Cap.I,no.28,p.74;MGH Conc.II-1,no.19,pp.166.こ こで は じめ に言 及 され てい る「 宮 廷 」 は フ ラ ン ク フル ト,「 聖 な る宮 廷 の礼 拝 堂 」 は ア ー ヘ ンを指 す と考 え られ て い る,H.
Fichtenau,`Archive der Karolingerzeit',pp.122-124.
(B)R.SchneideボZur rechtlichen Bedeutung der Kap■ularientexte',P.288.い ず れ に して も, タシ ロ に対
す る判 決 の み を含 む形 の文書 は我 々の下 に は伝存 して い ない。 (1" MGH Cap.I,no.50。 この テ クス トは,他の 多 くの 「 カ ピ トウラ リア」 と異 な り,純粋 に世 俗 的 問 題 の み を扱 っ た もの と見 な され て きた,■ L.Ganshol ll物 s″α″ “′た Kap′′′レrセ4ζP.28;TM.Buck, A′″ο “′′′ο夕″グP″`グた′″ο :Z夕 r“rigioSフαs′ο″J`“DJ″θ “ sわ″ν04 Kap″ “Jα riθ4′ "グた″ j′夕Jαrた 44αル42χ′ `4 (5θ/814),Frankfurt am Main,1997,p.32. °の「 この カ ピ トゥラー レの4つの写 しが作 られ る こ とを朕 は望 む。 一 つ を朕 の巡 察 使 た ちが 持 ち , もう一 つ を これ らの こ とが 行 わ れ るべ き管 区 の伯 が 持 つ よ うにせ よ。朕 の巡 察 使 や伯 が,朕の カ ピ トウラで命 じられ た の と異 な る こ とを行 わ ない よ うにで あ る。朕 の軍 を任 され た巡 察使 た ちが3つ 目を持 ち,朕の カ ンケ ラ リ ウス が4つ目を持 つ よ うに」 “Istius capitularil exemplaria quatuor volumus ut scribantur: et unum habeant rnissi nostri,alterunl comes in cuius minister五 s haec facienda sunt,ut aliter non faciant neque rnissus noster nequc comes nisi sicut a nobis capitulis ordinatunl cst,tertium habeant rnissi nostri qui super exercitum nostrun■ constituendi sunt,quartunl habeat cancellarius noste■ '' MGH Cap.I,no.
50,P.138.通常 この時期 の シ ャル ルマ ー ニ ュ宮 廷 の カ ンケ ラ リウス は,エル カ ンバ ル ドで あ る とさ れ て い る が
,彼
は 史 料 中 で εα“ε`肋ri“sと 呼 ば れ る こ と は な い,I.Fleckenstein,D:θ Ho■″ιIIθ I PP・
7981.この 時期 の証 書へ の認 証 部 分 には彼 の名前 が あ らわれ るため,彼が官 廷 で の文書 作 成業 務 の 長 の よ うな位 置 づ けで あ った こ とは 間違 い ないが ,「 軍 隊動 員 令 」 で言 及 され て い る “οsた r εα″ειιレ r― ′夕sを 単純 に彼 と同一視 で きるのか につ い て は,さらな る議論 が 必要 で あ る と思 われ る。 °1)RL.Ganshol l物sック″ “グた Kap″ “ Iαriι “ζ p.98. (22) A.Biihleち `Capitularia Relectat pp.412-414.
85
ため散逸 しやすかったこと1231,実務 において用い られたため摩耗 しやすかったこと°のから も,伝
存状況の悪 さを説明で きるか もしれない。 このテクス トは,前
年に引 き続 いて行わ れた軍隊動員お よびそれに付随 して行われる調査 における,巡
察使や伯の行動指針 を定め る指令書の ような性格 を持つ ものであるため°→,長
期的に保管す る必要性の低い もの と考 えられたのか もしれない。 この ような伝来上の喪失の可能性 を考 えるなら,こ
の「軍隊動 員令」 と類似の試み,つ
ま リカンケラリウスの もとでの写 しの保管 を伴 う巡察使 らへの指 示書の作成が,この事例以外 にも行 われていた可能性 はあるか もしれない。 しか しなが ら, このことは,「シャルルマーニュのカピ トゥラリア」すべてについて,カ
ンケラリウスの もとへの写 しの保管 を想定で きるとい うことは意味 しない°°。808年の「軍隊動員令」に, このような情報がわざわざ記載 されているとい う点か らは,む
しろこの ような行いが例外 的な ものであったことが推測で きるのである。 シャルルマーニュ治世末の813年か らも,宮
廷 アーカイヴの情報が残 されている。『王 国年代記改訂版』 では,皇
帝の命 を受けて王国内の5箇所で司教 たちの「教会会議」εο 4-α″αが開催 された ことが述べ られた後,「それぞれ において生み出 された規定群 は,そ
の 集会 において皇帝の前で まとめ られた。 これ らを知 りたい者 は上述の5つの都市 において 見つけることがで きるだろう。 さらにそれ らの写 しは宮廷のアーカイヴに も所蔵 されてい る」°つとの記述が見 られる。この活動については『モワサク年代記』 も言及 してお り,こ
ち らでは最終的にアーヘ ンで「神 の教会 とキ リス ト教徒 たちに必要 なことに関す る46条 のカピ トゥラ」°①が定め られた とされている。『モ ワサ ク年代記』 は宮廷 アーカイヴヘの°⇒ H.Mordek,`Kapitularien und Schri■
lichkeit',pp.591 な お,789年 の 「 一 般 訓 令 」Aグ
“
ο′′′′ο″ ″ι″ι
'S
は, は じめ か ら小 冊 子 の形 態 で筆 写 。伝 播 され た可 能性 が 指摘 され て い る,Ho Mordek K.Zechiel― Eckes and M.Glathaar(eds.),Dた スグ
“ο“
,″ο″ηθ″IIs ttrls′θs Cror`4,Mcrf Fo4ras,“ r,sFr“α″′ε′′ “rFa“′′″
夕S"解Sε力Oιar夕解sηα″ ′協 θ′:′,16 Hannoveち 2012,pp.8697.こ の テ ク ス ト は そ の 形 式 性 。規 模 。伝 存
数 において異例 の ものであるため,「カ ピ トゥラリア」全般 に一般化す ることは慎 むべ きであろう。
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li「 ζ 』Ъじラ ス トが王国全土 に対 して一般的譜 陛鶴 って発 布 された ものである と考 えている様子であるが,むしろMGHの
編者 ボ レテ ィウスが述べ る ように, 王 国の一部 の地域 の巡察使 らに対 してのみ与 え られたテ クス トであ る と思 われ る,Go Waitz,D′θ グθ "おεル 磁 ψ ∬夕暉 `″ F滋4た ,sε力ι″Rαεみ:2D′ιたαrOr′暉6εル 盈 ′ち2,1885,Berlin,pp.566-569;A.BuhleL」
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(27) Ҭ.conStitutionum,quae in singulis factae sunt,collatiO coram ilnperatore in illo conventu habita.Quas qui
nosse voluerit,in supradictis quinque civitatibus invenire poterit,quamquanl ct in archivo palat五 exemplaria illarum habeantu二 ",R Kurze(ed.),A″″αI●rag″ Fra″εοr夕解,MGH Scr´′ο
“ S″r夕″ Gar″ α″′ “ r夕解 ′4ッs夕″ sεみ。rar夕″sψα″″″ ″′′′6 Hannoveち1895,P.138.「教 会 会 議 」 開催 地 と して言 及 され てい るの は,マ イ ンッ, ラ ンス, トゥー ル, シ ャロ ン=シュ ル=ソー ヌ,アル ルの5者F市で あ る。
(28) ``¨.capitula quadraginta sex de causis quae necessariac erant ecclesiac Dei et populo christianO." G.Pertz
(ed.),A“″α:“ι′ελЮ″たα′ `ν i Carol,“ちMGH Scrpr。 “sI,Hannover 1826,p.310;VV Kcttemann,S夕 bs,グ′′ A4,α “ι″
s,α.Uιar′″ルr夕4gS ,“グ″χなιSC力′εЙIIた力
`じ“′θrs夕εみ夕襲″“z′rG“εあた力″lルζiriz′-3θ″θ′′たrs,sι′ “θ s Klο s″rs A4,α′ι夕4グZ“r"″4α "れた″《α″′αれたε力θ″Rψ r″》,Diss.Duisburg,2000,p.122.た だ し『モ ワサ
保管 については言及 していない ものの
,両
年代記の記述 を総合す るな ら,1)王
国内5箇 所での教会会議 を開催,2)そ
れ らの成果 をもとにアーヘ ンで46条項 を作成,3)宮
廷 アー カイヴお よび5箇所の教会会議開催地への決議文書の保管,と
い う一連の活動が行われた ことが推測 される。 ところが,813年
の一連の活動の産物 と思われるテクス トの伝存状況 は極 めて悪 く,ア
ーヘ ンで作成 された とされる46条項 の「 まとめ」の同定 を巡 って も議 論が続 いているのが現状 である°"。 この年の活動 は,808年
の事例 とは異な り,王
国全土 を巻 き込んだ大 々的な教会改革の試みであ り,ア
ーヘ ンで何 らかの文書が作成 され,宮
廷 アーカイヴの原本 をもとに王国全土 に体系的に広め られたなら,相
当程度の数が現在 にま で伝存 していて もおか しくない。 この ような状況 を踏 まえるなら,シ
ュ ミッツの指摘する ように,そ
もそ もアーヘ ンでは新たに何 らかの「 まとめ」のテクス トが作成 されることは なかった とい う可能性 を考えるべ きか もしれない°°。実際,『王国年代記改訂版』 の文言 か らは,ア
ーヘ ンにおいて何 らかの「文書」が新たに作成 された とい うことは読み取れな いのであるい)。 アーヘ ンで「46条のカピ トュラ」が作成 されたに して も,そ れは王国各地 に体系的に広め られることはな く,宮
廷 アーカイヴお よび王国内5箇所の都市 に保管 され たのは,5箇
所の決議 を単純 に結合 した文書であったのか もしれない0。 この問題 に決着 をつけるためには,文
書の伝存状況等 を総合的に再検討す る作業が必要であるが,そ
れは 本稿の範囲 を大 きく超 えることとなる。いずれに して も,813年
の事例 は王国内5箇所で の教会会議開催 とい う前例のない試み を伴 うものであ り,こ
こか ら「 カピ トウラリアー般 の体系的保管 ・伝播の試み」 を読み取 ることが困難であることは間違いない。 ク年代記』 はマインツには言及 してお らず,4箇所での「教会会議」ッ″θ力s開 催のみ を伝 えてお り, アーヘ ンで行われたルイ敬虔帝戴冠 についての記述 も『王国年代記改訂版』 とはやや異 なる もの と なってい る。両 史料 の記述 の相違 や813年の一連の活動 につ いては,五十 嵐修 『王 国 。教 会 ・帝 国 一 カール大帝の王権 と国家』知泉書館,2010年,PP.378-389. °"
全46条か らなるテ クス トは,この時期か らは一切伝存 していない。かつてアーヘ ンでの「 まとめ」であ る と考 え られて きた さまざまなテ クス トについては,Go Schm■z,`Die Reformkonzilien von 813 und die Sammlung des Benedictus Levita',D`“ rsε力
“スκ力′νルrE,ルrsε力“″gグ“
M′r″IαIたrs 56 2000,pp.1-3;
五十嵐修 『王国 ・教会・帝国 ― カール大帝の王権 と国家』,pp.3821
(30) G.Schnlitz,`Die Reformkonzilien von 813',p.3.
01)θθ:Jα′′οが何 らかの文書 を意味 している可能性 は排除で きないに して も,「上述の5つの都市 にお いて見つけることがで きる」,「宮廷 の アー カイ ヴに も所蔵 されてい る」 と述べ られてい るの は
,5
箇所 の「教会会議」か ら生 まれた6ο “ s′′′′′:ο4θs(およびそれ らの αα″ρJαr,α)である。 ° " 5つの教会会議それぞれの決議 はConc.I11)nos.3438,pp.245-306に まとめ られている。少数 な が ら,5つ の教会会議の決議すべてを収録す る9世紀 。10世 紀の写本が知 られていることに加 え,シユ ミッツは,これ らの決議が9世紀半 ば以降の司教 カ ピ トウラ リアや教会会議,教会法集 に大 きな影 響 を与 えていることを指摘 している,G.Schmitz,`Die Reformkonzilien von 813),pp.5-31.注 目すべ きは, これ らの受容が,次世代 の君主たちの発布す る文書 においてではな く,在地の側 で成立 した文 書 に見 られ る とい う点である。宮廷 アー カイヴの所蔵物 ではな く,在地 に保管 された写 しが利用 さ れた ことが推測 で きるのである。
カロリング期フランク王国における「カピトゥラリア」と宮廷アーカイヴ
87
Ⅱ-2
ルイ敬虔帝期の事例 ルイ敬虔帝時代か らの,宮
廷 アーカイヴ関係の情報がは じめにあ らわれるのは,815年
と816年にそれぞれ出された,イ
スパ ニア辺境か らの亡命者 に関する処置 を規定 した2通
の文書である。815年の規定 においては,亡
命者 たちが居住 しているすべ ての司教 区にお いて3つの写 しが作成 され,さ
らにその底本が「朕の宮廷 アーカイヴに」 “ ακあ″ο pα′α″′ ηοs″′保管 されるとの内容が見 られる1331。 816年の規定では,写 しが置かれるべ き7つの司 教座が名前 をあげて列挙 されるとともに,前
年同様 に「朕の宮廷 アーカイヴに」j4ακみjνο p′Jα′j′4οs′ri底本が保管 されると述べ られている・°。 この2つの文書 は,MGHの
「 カピ トゥ ラリア」の版 に収録 されている ものの,証
書 を思 わせ る形式で作成 されているため,「カ ピ トウラリア」ではない とみなす研究者 も多い0。 筆者 はルイ敬虔帝時代 については,「カ ピ トウラリア」 を厳密 に定義 して議論 を行 うことに有用性 を認めない立場 を取 るため,こ
の文書が「 カピ トウラリア」に含 まれるのか どうか とい う問い自体 に意義 を認めない もの であるが,い
ずれに して もこの2通
の文書で規定 されている内容はイスパニア辺境 におけ る特別な状況 に対処する ものであ り,こ
の ような体系的な写 しの作成 。宮廷 アーカイヴヘ の底本の保管 をこれ ら以外の事例 にまで一般化す ることは慎 むべ きであろう°°。 ルイ敬虔帝時代の2番
目の事例 は,816年
アーヘ ン集会で作成 された「参事会会則」で ある0。 宮廷 アーカイヴに関する情報 は,出
席で きなかった二人の大司教,ま
たアーヘ ン での集会 に出席 していなが ら,時
間的な問題故に最終的に成立 した確定版のテクス トを書 き写す ことがで きなかったさらに二人の大司教 に宛てて,ル
イ敬虔帝が国王巡察使 を用い て送付 した書簡の中にあ らわれる・の。そ こでは,こ の書簡 とともに「参事会員の慣習につ (33)MGH Cap.I,no.132,c.7,p.262. °° MGH Cap.I.no.133,p.264.MGH版 において この文書 は,条項 に分かれてい ない形で編纂 されて いる。●5)例えばA.Btihle島 `Capitularia Relecta',p.406.
(30 816年の規定 においては写 しの作成の動機 として
,「上述のイスパニア人たちが,これ ら7つか ら 写 しを獲得 で きる ように,そして宮廷 に朕が保管す る底本 によって,再び不平が朕の もとに もた ら
された場合には
,容
易 に決着が下 されうるようにである」 “".ut praedicti Hispani ab illis septem exemplaria accipere ct habere possint,et per exemplar quod in Palatio retinemus,si rursum querela nobis delata fuerit,facilius possit deiniri"と述べ られている。 この時期 には,辺境 か らフラ ンク王 国内 に逃れて きた亡命者たちの権利関係 を巡 って しば しば紛争が生 じてお り,王権 はその円滑 な処理 のため にこの ような措置 を講 じたのであろ う。 なお, この2つの文書 は,ナルボ ンヌか らの伝 来 を もとに バ リューズ らが干J行していた ものであるが,ボレテ ィウスが
MGH版
を編纂 した段 階ではすでに失 われていた,MGH Cap.I,no.132,p.261.田
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/or解夕
:αε
α
″
ο
″
たα
θ
:4s:′′
“
″
Oηおを送付することが述べられた後
,大
司教区内で
それを読み上げ
,管
区内の聖堂参事会に引き渡し
,さ らなる写しを正確に作成するように
との内容 に続いて,「その底本 は,朕の宮廷の棚 に保管 されている」t391との記述が見 られる。 これ らの書簡の文言か らは,ル
イ敬虔帝が,同
一文言 を持 った一種類のテクス トを王国中 に広め ようと試みていたことがはっきりと読み取れる。書簡では,大
司教区 レヴェルでの 再筆写 は「一切の変形 も短縮 もな されることな く」αbsa“θα:ia“α物 ″′:ο “θνθ:′θォγ““εα― ″0″θ “の,細
心の注意 を持 って行われるべ きであるとされてお り,粗
雑 な筆写作業 は,ア
ー ヘ ンに保管 された底本 との突 き合わせによってはっきりと確認 され うるのだということも 述べ られているい)。 816年 には,ア
ーヘ ンの集会で一つの「公式文書」が成立 した後,そ
の底本 を官廷 に保管 した うえで,国
王巡察使 (または集会の参加者 自身)を
通 じて各地に 送付 し,大
司教座組織 を利用 して王国の末端 にまで伝播 させ ることが大規模 に試み られた のである1421。 この「参事会会則」は極 めて多 くの写本中で伝存 してお り ,この試みは一定 の成果 をあげた と考えられる0。「参事会会則」はMGH版
において 100頁 を超 える大部の テクス トであ り,こ
の ような文書 を体系的に王国全土に広める試みがシャルルマーニュ時 代 には見 られなかったことを考えるな ら,こ
の事例か らは,ル
イ敬虔帝時代 において,統
治における文書利用のあ り方が大 きく進展 していることを読み取 ることがで きる(4)。 他方 で,本
稿の問題関心 に照 らすなら,こ
の事例か らも「カピ トゥラリア」一般の体系的保管 ・伝播の試みを読み取 ることはで きない。816年の処置は,あ
くまで もこの年 の「参事会 会則」のみに関す る情報 を我 々に提示 しているに過 ぎないのである。 818/9年の一連の規定 も,ル
イ敬虔帝の宮廷 アーカイヴに保管 されていたことを想定で きる事例である。『王国年代記改訂版』 では,818年
の クリスマス後 にアーヘ ンで集会が(3" “illius exemplum apud armarium palat五nostri detentum est",MGH Conc.Ⅱ-1,no.39,p.459.「 棚」 と訳
した αr″αri“″ は,カロ リング期 には ακカル
"解 と同義で用い られ るようになった とされてい るが,
当時宮廷 に保管 された文書類 の規模 か ら考 えて「棚」 とい う訳語 も実態か ら大 きくはか け離れてい ない もの と思われる,H.Fichtenau,`Archive der Karolingerzeit',pp.H7H9.
(40)MGH Conc.H-1,no.39,P.459. “ 1)ル イが わ ざわ ざこの ような点 を強調 したのは,アーヘ ンでの集会で最終的な決定が下 される前 に, 「い くつかの条項 を不注意 に書 き写 した」q夕αθ′α″ εη,′ “Iα :4εο “ s“J″αθα "“sarps`r夕“′者 たちが い たためであった。 この部分では,その ような不完全 なテクス トは今後効力 を持たない とい うことも 述べ られている,I♭′グ.,p.460. “ 2)ぃ ゎゅる天文学者 による 『ルイ敬虔帝伝』 第28条において も,ルイが アーヘ ンでの集会 で参事 会会則 を「一冊 の書物」 に ま とめ,巡察使 を通 じて王 国内の諸都市 な らびに聖堂参事会 に送付 し, それ らの場所 で筆写 を行 わせ た とい うことが述べ られている,E.Tremp,動轡",D′θ物た “ 10'sar L“グー ″なs/Astro“ 0“夕s,D′s Lι bθ
“Kaisθr Lタグ″igs MGH Scrproras″
r夕″Gιrttα″icα r夕 “ ′ "′s““ sελO:α r“″sψ′― ″ `滋 θグ,`,64,HannoveL 1995,pp.374376.た だ しここでは官廷 アーカイヴヘの言及は見 られない。 “ 3)H.Mordek,Bル :′οル `ε αε `η :′夕:αri夕 “″ g“″Fra“εοr“″ “α““scrつ′α.Ubθ″りυr“'電 夕 “′Traグ′′′θ"sz“ sα解― ″θ4カα暉 ′ιr′ヴ "た ISεみθ″比r“εたικ″α∬ι(MGH Hil」S″ '′ ′ιι 15),Munchen,1995,pp.10451056.
(“)H.Mordet`Kapitularien und Schri■ lichke■',pp.581は,この時の行いを「量的・質的な一つの頂点」 であると評価 している。
89
開催 され
,教
会 と修道 院の問題が協 議 され た こ と,「 い くつかの重要 なカ ピ トゥラ」εη′′―“′αa“αθあ“Par"θεassαttαが「法」鍵ぃ に付加 されたことが述べ られている
1451。 実際にこの 時作成 された と思われるい くつかの規定が我 々の もとに伝存 しているがにの
,本
稿 の関心 に とって重要 なのは,MGH版
に nO.137と して収録 されている,こ
れ らの規定の序文にあた るテクス トである0。 その末尾においてルイは,教
会人が守 るべ きもの,世
俗の諸法に付 加 されるべ きもの,「カ ピ トゥラにまとめ られるべ きもの」 “のをそれぞれ書 き留めさせた ことを述べ0,そ
れに続いて「朕 は,ま
とめ られた ものを,記
憶 に留め確かな もの とする ために,簡
潔に一つ にまとめ,以
下 に続 くカピ トゥラに書 き写 し,公
のアーカイヴに保管 す ることを欲 した」いのと明言 している。ここでルイが「簡潔に一つにまとめ」 と述べてい るとお り,こ
の時出された3つの規定は一つにまとまった形 になって初めて意味 をなす も のであ り61),実 際に多 くの写本 中で,こ
れ らの規定群 はひ とまとま りの形で伝存 してい る°"。 816年の「参事会会則」 とは異 な り,818/9年 の規定群の在地への伝達過程 ははっき りとは分か らない ものの,教
会 に関す る no.138の 序文では「 これ らのカピ トゥラは特 に 司教や,教
会の諸身分 に関係 してお り,彼
らはこれ らを遵守するだけでな く,自
分たちに 従属す る,ま
たは委ね られた者たちに実践するよう教 えるべ きである」 とt531,法に付加す べ きとされている nO.139の 序文では「 これ らは巡察使お よび伯 たちが所持 し,か
つ他の 者 に知 らしむべ きものである」0と
述べ られている。従 ってこれ らのテクス トは王国内の 官職保有者 たちが持つべ きものだった もの と考 えられるため,ア
ーヘ ンの集会の参加者 自 身の手で,または国王巡察使 を通 じて各地の官職保有者 に伝 えられたのだろう0。 これ ら “ 5)R Kurze(ed.),ス″″α lθs隻″Fra“εοr"解,p.150.この 時 の集会 につ いて は,天文学 者 『ル イ敬 虔 帝伝 』 第28条 , 第32条に も記 述 が 見 ら れ る,E.Tremp,ル轡",D′ι物た “スレ isθr L“あッな ,pp.376-378,pp. 390392.ただ しこれ らの叙 述 史料 には,宮廷 アー カ イ ヴに関す る言 及 は ない。 (46)MGH Cap.I,nOs.138,189,140. (47) Iι′′.,no.137.8讐
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といった文言 とともに,こ れ らのテクス トが相互 に参照指示 を行 っていることか らも明 らかである。 ●2)伝 存 状 況 に つ い て は,H.MOrdek,Bル I′θttι “εη ′′ノα r,夕 “″ν ″ Fra″ εο r“解 解α “ 夕sε″ ″,pp.10941 これ らの テ クス トは20以上 の写 本 で伝 存 してい る。(53) ``Haec capitula proprie ad cPiscOpOS Vel ad ordines quOsquc ecdesiasticos pertinentia,quac non solum hi
“
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のテクス トが比較的多 くの写本中で伝存 していることか らは
,816年
同様 この時のルイの 試み も一定の成果 をあげたことが推測で きるため,ア
ーカイヴヘの底本の保管 も実際に行 われた と考 えて良い もの と思われる°°。 この事例 は,証
書 のごとき外観 を持つ815/6年の 事例や「参事会会則」である816年の もの とは異 な り,「勅令」の イメージにある程度合 致 した ものである。 しか しこれ を持 って,818/9年
の事例か ら得 られる知見 を「カピ トゥ ラリア」全体 に一般化す ることは慎 むべ きである。ルイ敬虔帝が818/9年のテクス ト以外 の「 カピ トゥラリア」 をも宮廷 アーカイヴに保管 しようと試みていた とい う結論 を導 くよ うな情報 は, この事例か らも一切得 られないのである。 Ⅱ-3。 「カピ トゥラリアの体系的保管」の試み?:ル
イ敬虔帝のA′ “ο“:`:ο ルイ敬虔帝が 823-825年 に出 したA′″ο "j′ ′οα′0“ ““隻″ ο″′4● (以下A′“ο“:′′ο)Gのは, これまでに見て きた もの と異なる内容 を含 んでお り,し
ば しば「カピ トウラリアの体系的 保管 。伝播の試み」の証拠 として重視 されて きた68)。 当該の情報は,最
後の条項である第 26条に見 ることがで きる:26.さ
らに朕は望む。 カピ トウラを,朕
のカンケラリウスか ら,大
司教 と彼 らの伯が,自
分 たちの都市のた そ して一人一人が 自身 の管区で,他
の司教,修
道院長,伯
,他
の朕の家臣たちに, これを書 き写 させ,さ
ら に [その者たちは]自
身の伯領 [管区?]で
全員の前でこれを読み上げるようにせ よ。 朕の命令 と望みが全員 に伝 え られるようにである。そ して,朕
のカンケラリウスは, これ らを獲得す る事 に意 を用いた司教 と伯の名前 を書 きとめ,朕
に知 らせ るように。 誰 もこれ をしそ こなうことがない ようにである。…1591 6の た だ し,アー カイ ヴヘ の保管 の 目的 と してル イは ,「朕 の後 継 者 た ちが,朕の敬 虔 な る行 い を守 り, そ れ の み な らず,彼ら 自身が,その 良 き行 い を守 る ように とその後継者 た ち に示 す よ うに」“ut suc―cessores Deo dispensate nostri nostra pia facta conservantes ipsi nihilonlinus bona facta sua successoribus suis
servanda perdoceant"(乃 ′グリnO.137,p.275)と述 べ て い る。 従 って この事 例 にお い て ア ー カ イ ヴヘ の 保 管 は,さらな る写 しを作 成 す るた め の原 本 を準 備 す る こ とで は な く,自身 の行 い を後 世 に伝 え る こ と を第一 の 目的 と して い た と考 え られ る。 この点 は,次に扱 う823-825年の スグ解θ″:::ο とは大 き
く異 な って い る。
(5つ MGH Cap.I,no.150.
0
上 述 の註10を参 照 。(59) ``26.Volumus etianl,ut capitula quae nunc ct alio tempore consultu ndelium nostrorurn a nobis constituta sunt a canceuario nostro archiepiscopi et coΠ lites eorum de propr五 s civitatibus lnodo,aut per sc aut per suos missos,accipiant,et unusquisquc Per suam diocesim ceteris cPiSCOPiS,abbatibus,comitibus et aliis ndelibus
nostris ea transcribi faciant et in suis conlitatibus corarn omnibus relegant,ut cunctis nostra ordinatio et volun―
ここで問題 となるのは,「現在や別の時に
,朕
の臣下の熟慮の中で朕によって定められ たカピトゥラ」 とは,具
体的に何 を指 しているのかということである。ほとんどの先行研 究はこれを「ルイ敬虔帝のカピトゥラリア」を指す と解釈 してきたのであるが,そ
のよう な解釈を可能とするような論拠は筆者の知るかぎりでは十分に提示 されていない。おそら くは,「カピ トウラ」ε″′′ “:α という語を,「カピ トゥラリア」 という史料類型一般を意味 する語 として解釈する態度がこのような理解を導いているのであろう。すでに序論で示 し たように,εη′′ “Jα という語は「条項別に書かれたテクス ト」一般 を意味するのであ り, この語を単純に「カピ トウラリア」 と解釈することは許 されない。「カピ トゥラ」 という 語の存在は,こ
こで言及されているものが「カピ トゥラリア」であると考える根拠にはな りえないのである。 もちろんここでは「朕によって定められた」 という付加語を伴 うこと で,特
定のテクス ト群が意味されていることは間違いない。それが,現
代の研究者が「カ ピ トウラリア」であると考えているテクス ト群一般を意味 しているかどうかが問題となる。 結論を先取 りするなら, この部分で言及されている「カピ トゥラ」 とは, このA′ “ο4お ″ο自体 と,818/9年
の一連の規定のことを意味すると考えられる“の。すでに見たように 818/9年の規定群が (他の「カピ トゥラリア」 とは異な り)宮
廷に保管 されていた可能性 が高いということがその根拠の一つ とな りうるのに加え,Aグ “ο“ j`:ο 自体の文言 も, この 推測を裏付ける情報を提示 している。不法な関税を扱 う第 21条 には「この問題について, 皆がどのように遵守すべ きかを,朕
はカピトゥラによつて定め,多 数の訓戒を行ってきた」 という文言が含まれてお り“1),実際この問題について,818/9年 の「付加勅令」第17条が 詳細に規定 しているのである0。 同 じように,収
穫物の2割
(“ο “αθ′′θε′“α)の
支払いを 定める第 23条 には「それについては朕の父 も朕 も頻繁に,さ
まざまな集会で訓戒 を行っ てお り,朕
のカピ トゥラリアを通 じて,ど
のように遵守 されるべ きかを命 じてきた」0,
教会の再建に関する第 24条 にも「朕の臣下全員の熟慮の もとでこの問題について朕のカ ピトウラーレの中で命 じておいたことを,完
全に実行するよう望む」 “のとの内容がそれぞ notet et ea ad nostram notitiam perferat,ut nullus hOc Praeternlittere praesumat.¨ ." MGH Cap.I,no.150,p.307.
(6の
なお, このA′″ο
"′
′:ο を詳 細 に分析 した ギ ヨ も,本稿 の解 釈 に近 い考 え を提 示 して い た,0.Guil―
lot,`Une ordinatio m`conne.Le Capitulaire de 823-825',P Godman and R.Collins(eds.),C力 αrrθ解′g"`'s
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92 れ見 られ, この2つのテーマは818/9年の「独立勅令」第5条で扱 われているもの と合致 しているのである1651。 この A′″ο4:′′οは818/9年の一連の文書 とあわせ ることで
,そ
の内 容が完全 に把握で きる類の規定なのであ り “ °,そ
れゆえにルイ敬虔帝 は第26条において それ らをあわせて伝播 させ ることを試みた と考 えられる1671。 Ⅱ-4.ル
イ敬虔帝宮廷の 二crS写
本室 これ までの「 カピ トゥラリア」研究では,我
々が「カピ トゥラリア」 と見な して きたテ クス ト群が,多
かれ少 なかれ同時代 において も一文書類型 として一括 して把握 されていた とい うことを,暗
黙 の うちに前提 して きた。その ような前提があるか らこそ,A′ “ο“′′:0 第26条の「現在や別の時に,朕の臣下の熟慮の中で朕 によって定め られたカピ トゥラ」は, 「カピ トウラリア」 を意味 しているとの考 えが生 じていたのである。 ところが,こ
の よう な前提 はあま りにも当然のことと考 えられて きたためか,そ
れが本当に成 り立つのかにつ いては,必
ず しも十分 な論証が なされて こなかったのではないだろうか。最後 にこの問題 についての一つの手がか りを与 える事例 を分析す ることとしたい。 ルイ敬虔帝宮廷の類型認識 に迫 ることがで きる事例 として重要 なのは,宮
廷 において, もしくは宮廷 と極めて密接 な関連 を持 って成立 した とされている「LcrS写
本群」である。 マキタリックはこの種の写本の中に,い
わゆる部族法典に加 えて「カピ トウラリア」 も収 録 されていることか ら,「カピ トゥラリア」がカンケ ラリウスの下で体系的に筆写 されて いた とい う可能性 を指摘 し,「カピ トウラリア」への官廷文書局の関与 を極めて高 く評価 す る見解 を打 ち出 した “ 8)。 この見解が正 しいのであれば,宮
廷の能力 に疑間 を呈 して きた (65)ⅣlGH Cap.I,no.140,c.5,pp.2871 “ の ただ し,第 19条で言及 されている,遠征 時の宿泊場所 につ いて を定めた「朕 の父 と朕 に よるカ ピ トゥラー レ」(MGH Cap.I,no.150,p.306),第 20条で言及 されている「管 区内に造幣所 をもつ伯 たちに朕が与 えておいたカピ トゥラ」(ル′グ,,p.306)は ,818/9年の一連の規定 とは異 なる もの を指 している可能性が高い。 これ らは特定の相手のみに対 して特別 に出された類 の文書であ り,王国全 土 に一様 に広めることが必要 とされ る文書 ではない と思 われるため,第26条の規定の対象 には含 まれてい ない可能性 もあるだろ う。MGHの
編者 ボ レテ イウス は,前者 の「 カ ピ トゥラー レ」 は現 存 してお らず,後者 の「 カ ピ トゥラ」 は,断
片 的 にのみ伝 わる nO.147を 指 してい る可能性が あ る としている,ル′グ.,p.306,n.9 and n.12. r677 Aグ ″。4:′′οは過去 の施策 に言及す る際 に,「カ ピ トウラ」,「カ ピ トウラ リア」,「カ ピ トウラー レ」 な どと過去 の「文書」 の存在 に言及す る場合 と,「訓戒 した」 な どと文書 の存在 を前提 と しない形 を用いる場合 をある程度区別 しているように も思われる。例 えば,学校 の創設 に関す る第 6条 では「…・ お前たちが朕 にアテ イニーで約束 し,お前 たちに朕が命 じた ように…」 と,文書 の存在 を前提 とし ない形 で過去 の施策 に言及 している。 ここで言及 されている内容 は,一つのテクス トの中で我 々に 伝 え られている ものの,それは 日付や発布地な どの情報 を一切持たない形で一つの写本 においての み伝存 しているに過 ぎないのである (MGH Cap.I,no.174).こ のことは,アテ ィニーの「 カピ トウラー レ」 はそ もそ も大 々的に文字化 。伝播 を試み られた ものではな く,818/9年の一連の「 カ ピ トウラ リア」 とは根本的に異 なる性質の ものであつた ことを推測 させ る。93
先行研究のみな らず,本
稿H。-2で提示 した結論 も,根
本的 に見直す必要が生 じることと なる。彼女の考 えは,ル
イ敬虔帝宮廷の「文書局」 において,「カピ トゥラリア」が体系 的に作成 。筆写 ・保管 されていた とい う結論 につながる ものだか らである。 しか し,彼
女が言及 している「LcrS写
本」 を見 るか ぎりでは,む
しろ全 く異 なる結論 が導かれるように思われる。すでにモルデクが指摘 しているように “",これ ら「LcrS写本」 の多 くは,大
部分が「部族法典」か らなる写本であ り,「カピ トウラリア」はご く少数 し か収録 していないのである°の。宮廷 (またはその周辺)産
の写本 に何点かの「カピ トゥラ リア」が見 られる事 を持 って,宮
廷 における「 カピ トゥラリア」の体系的管理 を想定する マキタリックの推論 もまた,「カ ピ トゥラリア」 とい う史料類型の存在 を大前提 とした議 論である とい うことがで きる。「Ltts写
本」が少数の「 カピ トゥラリア」 しか収録 してい ないことはむ しろ,我
々が「カピ トゥラリア」 と見な して きたテクス ト群が,一
つの文書 類型 として認識 されていなかったことを示唆 していると考えるべ きではないだろうか。 宮廷 において「カピ トゥラリア」が体系的に管理 されてお り,そ
れ らが一つの文書類型 であるとの認識が存在 したのであれば,部
族法典 と結合 させて, またはそれ単独 で,過
去 の「カピトゥラリア」を体系的に1又録 した蒐集が作成されていてもおか しくないと思われ る。ところが,ア
ンセギスによる「私的な」蒐集があらわれる以前に,そ
の種の蒐集が作 成された痕跡は一切見 られない。すでに指摘 したように,多くの先行研究はこのことから, 宮廷の能力不足 を強調する方向の議論を行っていた。「■蜂 写本」の証拠は,ル
イ敬虔帝 宮廷においては我々が「カピトゥラリア」 と見なしてきたテクス ト群が一様に管理 されて いたわけではないという状況を示唆 している。 しか しここから読み取るべ きは,「カピトゥ燎税Υぎπ宰り写守リメ
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多く
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ピト
ゥ
ラ
リ
列を
含
む
写
本
はParis,Bibliothёque Nationale,Lat.2718(830年 頃成立)であるが,そこに見 られるのは,818ノ9年の
一 連 の 文 書 (MGH Cap.I,nOs.136,137,138,140,141),817年の O〃′ “ α `′ ο′ “ ρθ″′(ル ′グ.,nO.136,こ の 写本 のみで伝 来), この写本 を用いた (宮廷 の7)官吏が利用 したであろ う少数の実務的性格 の強い 「 カ ピ トウラ リア」(ル′′,nos.143,144,145)のみである。 この写本 は,裁判業務等 の実務 に必要 な 文書 を宮廷 の指揮 下で結合 させ た もの として重要 な知見 を与 えて くれる ものの,ここか ら,「カ ピ トウラリア」の体系 的な管理 を読み取 ることは困難である。 この写本 については,R.McKitterick,`Zur
Herstellung vOn Kapitularien',p.12;H.Mordek,Bル:′οЙθεαε′p′′ノαr′
“″ ″ν“Fra“εθr“″ ″α““ sεr"″,pp.
422-430;Ho Mordek,`Kapidarien und Schrinlichkeit',pp.61-63.パ ッツ ォル ドは この写本が,宮廷 の
文書 局 で用 い られた こ とを想定 してい る,S.Patzold,`Die Veranderung fruhmittelalterlichen Rechts im
SPiegel der`Lcges'Reformen Karls des Gr03en und Ludwigs des Frommen',S.Esders et al.(eds.),R`ε力rs―
νθ滋 ″ルr夕管 磁 pο ι′risεル4夕″グsοz:α′θ “
Ko4擁 r″′たレ:た r″ε力θr Rθεみおνセヵ ′ちMinste■ 2005,Pp.751宮廷 周
辺 での成立 とい う仮説 に対 してやや慎重 な立場 を取 るのはP Iohanek,`Herrscherdiplom und Emメ h‐ gerkreis.Die Kanzlei Ludwigs des Frommen in der Schr■ lichkeit der Karolingerzeit,R.SchiefFer(ed.),S“ r′―
た′ι′ “r夕″J Rθ′`力 sνθr″αι′ッ暉 夕″θrグθ4」0“J:ィrr4,Opladen,1996,pp.1841 しか し,官廷 との結 びつ きを 示唆す る伝存数の極 めて少 ないテクス ト(818/9年の一連の規定 に対す る序文 [nO.137]や 0〃 滋α― ′′θ′″ρθri′)が収録 されていることを考 えるなら,宮廷周辺 で この写本 (またはこの写本の底本)が 成立 した こ とは疑 い得 ない と思われる。
94・ 論 文 ラリアの体系的管理の不在」 よりも,「カピ トゥラリア」 という類型のそのものの不在で はないだろうか。一群のテクス トが「カピトウラリア」 という一類型の下で一括 して把握 されていなかったということを想定するなら
,そ
れらが体系的に管理されていない状況 も 容易に説明できるのである。 ⅡI。 結論 と展望HI-1.結
論 本稿の調査 の結果,シ
ヤルルマーニュ期 ・ルイ敬虔帝期 において,「カピ トゥラリアの 体系的保管の試み」はそ もそ も存在 していなかった とい うことが明 らかになった。 シャル ルマーニ ュ期 については,794年 ,808年 ,813年
の3度
のみ,宮
廷 アー カイヴに何 らか の文書が保管 された形跡が見 られる ものの,こ
れ らは特殊事例 に属す るものであると考え られる。ルイ敬虔帝時代になると, まず 816年 と818/9年にそれぞれ,文
書の体系的な伝 達・保管の試みがあ らわれてお り,823-825年
には過去に出した規定 (具体的には818/9 年の規定)を
も含めた体系的な伝達・保管の試み も検出された。 しか し,こ
のような試み はここであげた事例に限定 されたものであ り,「カピ トウラリアの体系的伝達 。保管」の 試みの証拠を見いだすことはできない。原本を宮廷アーカイヴに保管 したうえで,巡
察使 や大司教,伯
らを通 じて在地に体系的に伝達 してい くという試みは,特
に大々的に規定の 作成 。伝播が試みられた特殊事例においてのみ検出されるのであ り,大多数のその他の「カ ピトウラリア」すべてに関してもその種の試みが行われていたということを示す証拠は残 されていないのである。 それどころか,我
々が従来「カピ トウラリア」 と見なしてきたテクス ト群が,「それぞ れの存在理由,それぞれの作成 目的を持っていた」171)こ とを考えるなら,「特殊事例」と「一 般的事例」について語ることす らも誤 りであるといえるか もしれない。図1は , シヤルル マーニュ期の政治コミュニケーションを図式的に示 したものである。現代の研究者によつ て「カピトウラリア」であると見なされてきたテクス ト群の中には,こ
こで下線を引いて 示 したような, さまざまな文書が含まれている。また, ここでは用いられる可能性があっ た文書をすべて下線を引いてあげておいたが,こ
こであげたすべての種類の文書がすべて の機会に利用されたというわけではないことにも注意が必要である。大規模な集会におい ても毎回「決議文書」が作成されたわけではないだろうし,議
題 リス トも毎回用意された °1)菊 地重仁「テクス トとしての カロ リング期 カ ピ トウラリア」,p.209.95
とは考 えられない。 どの ような文書が用い られるのか も、状況 に応 じて変化 したことが想 定で きるのであ り,こ
の時代の政治 コミュニケーシ ョンにおける文書利用については,統
一的慣行 を前提 に議論 を進めるのではな く,個
別事例 を丹念 に検討 してい くことが求め ら れる。その意味では,「カピ トゥラリア」 と見 なされて きたテクス トの一つ一つが「特殊 事例」 と呼ばれ うる ものなのである1721。 この点 を踏 まえるな らば ,「大量 のカピ トゥラリ アを発布 したシャルルマーニュ・ルイ敬虔帝」 とい う伝統的なイメージも,全
面的に見直 されるべ きであろう。 シャルルマーニュ期 ・ルイ敬虔帝期 に関 していえば,本
稿 で取 り上げた一部の例外的事 例 を除いて, これ らの多様 な (我々が従来「カピ トゥラリア」 と見な して きた)テ
クス ト 群の多 くは,宮
廷 アーカイヴに保管 されるべ きものではなかった。宮廷 にはそ もそ もこの 種 の文書群 を体系的に保管 ・管理する意図はなかったのであ り,宮
廷 にそれ らが保管 され ていた痕跡が見 られないことや宮廷でそれ らをまとめた蒐集が作成 されなかったことは, 宮廷の能力不足や計画倒れを意味 しない。816年や 818/9年 の規定が大量の写本 中で伝存 していることは,少
な くともルイ敬虔帝期の宮廷 は,体
系的な保管 。伝播 を試みた ものに ついては,そ
れを十分 に実現で きていた ということを想定 させ るのである。 その ような一部の事例 を除いて,「カ ピ トゥラリア」 と見 なされて きたテクス トのほ と ん どは,在
地に情報 を伝 える任務 を負 った国王巡察使 らの もとに保管 されたと考えられる (図 1を 参照)。 これ らのテクス ト群のそ もそ もの役割の多様性 を踏 まえるなら,彼
らにこ の種のテクス トすべての「保管義務」が課 されたなどと考えるべ きではないが0,宮
廷 と 在 地の コ ミュニケー シ ョンにおいて利用 された文書 が簡単 に廃棄 された とは考 えに く い°つ。 この ように して,さ まざまな文書が在地のアーカイヴに蓄積 されていったことを考 ② ここで下線 を引いた文書 はほ とん どの場合条項別の形式で書かれていたのであ り,同時代 におい て も `η′′タルた″′グルた と呼 ばれえたのであるが。その ことか らこれ らの多様 な文書群が同時代 にお いて も「カピ トゥラリア」 とい う一類型 として一括 して把握 されていた とい う結論 を導 くことはで きない。 この ことについては,本稿11で示 した用語法の議論 を参照。 (7" 在 地での文書保管 もまた体系 的に行われていたわけではない とい うことは,802年頃に巡察使 ヴ ル ファルス (サンス大司教)が
王国集会解散前 に皇帝 と全員の前で読み上 げ られた文書 を,同僚 の 巡察使 フ ァル ドゥル フス (サン・ ドニ修道院長)に求めている事例か らうかが うことがで きるだろ う (Collcctio sancti Dionys五 ,no.24,K.Zcumer[ed.],ハ イGff fbr″タルθハイθrOw′“ g′ε′″焔roι′″′αθッちHan― nove島 1886,p.509)。 この事例 において ヴル ファルスが官廷ではな く同僚に文書 を要求 している点 も 示唆的であ るが,王国集会の終わ りに「読み上 げ られた文書」が等 しくすべ ての巡察使の下で保管 されていたわけではなかった こともまた推測で きるのである。 この事例については菊地重仁「テク