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生きがいについて (林是幹教授古稀記念号)

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Academic year: 2021

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受けがたき人身を得て、適ま出家せる者も、仏法を学し誇法の者を責めずして、徒らに遊戯雑談の承して明し暮 さん者は、法師の皮を著たる蓄生也○法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一もな し。法師と云ふ名字をぬすめる盗人也。恥づくし、恐るべし。﹂︵昭定一二七二︶ 今日、右の御書を読承、反省する僧侶は多いことであろう。大聖人滅後、七○○年たった今、大聖人の心持ちを吟 味し、それを弘めようとする自覚に欠けているのだろう。 の如く述べられている。 ものであるならば、そ︵ 昭和五十六年に、日蓮聖人の七○○遠忌を迎えるが、その記念すべき時代に我々は生きている。大聖人が命をか け、流布しようとした題目が、今や何千万人という人含に唱えられている。がはたして、日蓮聖人はその事を、素直 に喜こくるのだろうか。聖人の心とは反した気持で受持されている題目が多いのではなかろうか。大聖人の本当のお 気持を知り、それに則った題目を受持すべきである。この事は、在俗、出家を問わぬ我をすべての問題である。が特 わ に僧侶にとっては尚さらである。我が日蓮教団には何万という僧侶がいるが、これら一人一人の行動が道にかなった ものであるならば、その檀信徒という者を導き、世の中をも良くする事が可能である。聖人は松野殿御返事中に次下

生きがいにつ

奥野本洋

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我念は立場上、葬儀に列する機会が多いが、死人を引導しようとしても、生きている者を引導する事を忘れ、さら に、自分自身もやがては死すという事すら忘れがちなのである。ただ莫然と、あと何十年位は生きられるという安心 のもとに、なんとなく時日をすごしているのが現状である。大聖人の生涯において、決して一日たりとも無駄には出 来なかった事を考えれば、我をも貴重なる日々を怠惰におくれるはずがない。このような事を言えば、我食は日夜努 力精進し、教化布教に努めているという方も多をあるだろうが、そのような方の中にも、寺門を繁栄させ、檀徒を増 主いしん やし、名誉だ地位の為に迩進する人も少なからずあるだろう。 末世には、狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ給ひて候也。文の意は、末世の僧、比丘尼は名聞名利に著し、 ひつさ 上には袈裟衣を著たれば形は僧、比丘尼に似たれども、内心には邪見の剣を提けて、我出入する檀那の所へ余の ざんげん 僧尼をよせじと無量の謹言を致し、余の僧尼を寄せずして檀那を借まん事、臂ぱ犬が前に人の家に至て物を得て 食ふが後に犬の来るをみて、いがみほへ食ひ合ふが如くなるべしと云ふ心也。是の如きの僧尼は皆を悪道に堕す べき也。﹂︵昭定二三一松野殿御返事︶ 末世の僧等は仏法の道理をぱしらずして、我慢に著して師をいやし桑、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲 心一﹄﹄L﹄ 知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ﹂︵昭定一二五四、曽谷殿御返事︶ 大聖人の言われる真実の僧でありたいが、はたして如何。聖人は、自分の行動、考え等を、法華経等の鏡に写し、 照らし合わされた。我々は己れの我慢偏執から、自分勝手な解釈をしがちである。やはり、大聖人が残された御書 を、かたゑと思い、明鏡とすべきである。大聖人は開目抄中に次の如く述べられている。 父母の頚を刎、念仏申さずわ。なんどの種盈の大難出来すとも、﹃智者に我義やぶられずば用イじとなり。﹄其

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我々が、良き侭 筋道からである。 良き僧 已説とは法華より己前の四十余年の諸経を云ふ。今説とは無鐙義経を云ふ。当説とは浬薬経を云ふ、此三説の外 に法華経計り成仏する宗也と仏定め給へり。余宗は仏浬薬し給ひて後、或は菩薩、或は人師達の建立する宗也。 どじょう 仏の御定を背きて、仏の立て給へる宗を用ゆべきか。又何れをも思ひ思ひに我心に任せて志あらん経法を持つべ きかと思う処に、仏是を兼て知し召て、末世濁世の世に真実の道心あらん人人の持つべき経を定め給へり。経に 云く法に依て人に依らざれ、義に依て語に依ら不れ、知に依て識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざ れ文。此文の心は菩薩人師の言には依るべからず。仏の御定を用ひよ・︵昭定一四一三法華初心成仏紗︶ ここでも、﹁法華経計り成仏する宗也﹂と述べているよう鷹日蓮宗は法華経を持つのであるから、我之は成仏し ようとすれば出来るはずである。 他の大難、風の前の塵なるべし。⋮⋮︵昭定六○一︶ これは大変な自覚である、それほどに信じ行ぜられた方の遺されたものが御書であるから、我々が智者となり日蓮 を越える事がないかぎり、大聖人の言われたことを信じていくべきである。 聖人は、法華初心成仏紗の中で、よき僧侶について次下の如く述べられている。 いささか よき師とは指したる世間の失無くして柳のへつらふことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法 よき 華経を読象持ちて人をも勤めて持たせん僧をぱ、仏は一切の僧の中に吉第一の法師也と讃められたり。﹂︵昭定 四 三 一 侶となるには、法華経を読象持ち、人にも持たせねばならぬ。法華経を持つべきという次のような (2“)

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即身成仏と申す法門は、世に流布の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。中就く、予が門弟は万事をさし をきて此一事に心を留む可き也・建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣くた る法門繁多なりといへども、所詮は只一途也。︵昭定一七九六妙一女御返事︶ と述べられるのである。日蓮門下を名のる我々にとって、成仏のことは切っても切れぬ問題であり、逆にこのことを 心配せぬ者は門弟とは言えぬであろう。 日蓮聖人の生きられた七○○年前と、今日とでは時代背景等に差異はあるが、成仏の問題は、釈尊の時代さらに永 劫の過去世より変わらぬと思う。日蓮より先の時代に生きた法然は、平安末期の無常と濁悪に満ちた世にあって、現 世否定、来世希求の念から、弥陀の来迎を得て西方浄土へ往生する事を、あたかも成仏かの如く弘めたが、日蓮はち がった。現実を逃避して何の成仏があろうと考えるのである。法然は専修念仏を言い、日蓮は題目行を述べた。どち らも易行にちがいないが、その裏付けとなる教学は、なかなかの難行である。題目行の裏付けには天台の教学があ る。即ち理観心であり、智慧的に、哲学的に見ようとする見方であるが、これによって修行出来る者は限られてしま ともいわれ、さらに、 又 、 も 日蓮聖人は、その生涯を通して、次のような考えを持たれていた。 日蓮は幼少より今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計り也。︵昭定一三八四四条金吾殿御返事︶ 南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切也。⋮⋮日蓮が弟子檀那の肝要、是より外に求る事なか れ。︵昭定一三七六四条金吾殿御返事︶

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仏の尊い心持ちを、人間の言葉であらわしているのが仏の教えである。仏陀は、ある日突然すべてのことがわかっ たのではなく、いろいろな方向からごらんになられ、考えられ、悟りを得た。その大きな宇宙の真理とでもいうべき 教えをまとめられたのが天台大師である。その流れを汲朶、伝教大師、日蓮聖人が続かれ、我々が今、日蓮聖人の教 えを受けることによってその心を知り、仏陀の考えをも理解できる道が開ける。現在の我々にとって一番必要な事 は、仏の悟りと人間の尊さを知ることである。この無常の世に住む我々も、永遠不滅の仏の悟りを受けることが出来 るということだ。がしかし、その内容はあまりにも高度なもので、そこ迄達するには幾段もの段階がある。仏の高い 教えに達するには、信をもととして、行、学が具備されねばならぬ。教えを素直に受けることが学であり、そしてそ れを行なっていくことが行である。行には種盈の行があるが、苦行難行でなく人間性の修行で、無上甚深微妙の行で ある。それを我狗は、今すぐ出来る易行から始めていき、それなりの理解を得て、徐盈に深い行の味を知るべきだ。 法華経を信じ流布することは容易なことではない。それを宗祖はなされた。他の宗教をまちがっているものとし、 破邪顕正の行動に出られた。その結果迫害にもあわれる。開目抄中に、 日蓮なくぱ誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。⋮⋮経文に我が身普合せり。御勘気をかほれぱいょいょ 悦上をますべし。︵昭定五六○︶ あかし と示されるように、法華経を色読された行者の自覚から、法華経が真実の教えであり、この証をたよりに我々にも二 陣、三陣と続けといわれるのである。 た人である。 う。日蓮は、 現実の生活からこの世界を見ようとする事観をもって、一切衆生を仏になそうという大きな理想をもつ (246)

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この世の中は、まぼろしのごとくにあり、まぼろしの如く消えていく。エネルギー問題等がさけばれる今日、世界 を救済するぐらいの覚悟をもって生きなければならぬ。 この一日という一日は、その日でしかないこの一日の、自分の命を自分が責任をもち、自分の生きがいを見つける のである。本当の自分が仏と同じなのだということを発見できるか出来ないかの大切な一日である。が私たちはその 事を感づる事なく怠慢にすごしている一日でもある。 我埼が明日必ず死ぬという立場に立たされた時、はじめて自覚できるのかもしれぬが、その立場にならない今、そ れと同じ気持になる事が必要である。どうせいつか死ぬのだから、生きているうちは自由に生き、楽し象、好きなこ とをして人生を送ろうと考える人は少なくない、だが人間本来の究極の問題を解決せずして、真の楽し象、人生を確 かに生きたという実感があろうはずがない。いかに生き、いかに死ぬかの問題を、もっとまじめに考えたい。その為 には、死を見つめ、その中にこそ真の生があることを理解したい。即ち、臨終ただ今にありと自覚し、いつ死んでも 悔いの無い充実した日を送るべきである。 我々は、まだ死なないと何気なく思い込み、死を忘れているが、病気、事故等、身近かに死は待っている。その死 を前に、大いに生きるということが我なの新しい出発である。死ぬということは生との別れであるが、悔いのない別 れが出来るよう平生からの心の準備が大切である。日蓮聖人も死の中に生を感じ、生の中に死を感じられたからこ そ、真実の生き方が出来たのである。そして、その中で、人間的に一段も二段も高い段階にのぼられたのである。聖 人が経験した迫害等は、今の時代に考えれば、異常な環境であったが、その環境さえも、逆に尊いものと考え、幾度 かの絶対絶命の境地に向われる中に、悟後の喜こびを知られたのである。この他人には理解できかねるであろう愉快

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さを、人にも説得済度させたいと考えられたのが日蓮聖人の全生涯なのだと思う。 あらゆる知識的な探究も大事だが、日蓮聖人の歩いた道の通を知り、自己をもそれに近づける努力が必要である。 現世を力一杯に生きる中に、釈尊や日蓮聖人とも感応道交する永遠の生命が存在できるだろう。具体的にどのように 生きるかと言えば、心に悪いと知ることは身に行なわず、常に正しく誠実に、かつ骨身を惜しまず勤勉努力するこ と、経文にもある如く、﹁不自惜身命・但惜無上道﹂﹁情存妙法故・身心無僻倦﹂の精神でのぞむぺきである。 永遠の生命をこの生身の肉体の上に実現できるかどうかと考える時、現在の刻一刻の生活の中にこそ成仏I悟りの 道は存在している。 (248)

参照

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