兜
政
毘
沙
門
天
の
背
zヨ. おミーーその成立の思想史的意義
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高 橋実
昭 は じ め に 私はこの小論で、兜抜毘沙門天像の成立を通じて、東西文化の交流とこれによって作られた政治的並びに紡神史的 然し、これは劣しい文献の中では非常に困難な問題である。幸い A ・スタイ γ やグルンウェドル、ルコック等の先 ( 91 ) 影 響 を 考 え て み た い 。 学の調査された資料、並びに、大蔵経や玄突の大唐西域記を参照にして、おぼろげながら、この問題にアプローチを し て み た い 。1
大発如意兜敏蔵王呪経には知意蔵王は十種の降魔の身に変現するとある。 一、無畏観自在、二、大発天王、三、帝釈天王、四、大自在天王 蔵 王 五、魔酪首羅天王 七、兜践 八、多婆天王、九、九道尊星 十、牛頭天王︿傍線筆者﹀ 兜 践 毘 沙 門 天 の 背 景 ︵ 高 橋 ﹀兜 紋 毘 沙 門 天 の 背 R M ︿ 高 橋 ﹀ かく普通形毘沙 門 天像と 兜 敏形毘沙 門 天像の二種類があることがわかる 。 然し て 、 こ の 兜 敏蔵王につい て は 。 。 。 。 兜紘蔵王其威徳 自在 亦 如 −玩沙門天王 − 、 身 相 而 貌悲悠降魔 、 士 口 符 円 満 、 権 −− 現 兜 紋国大 王 形 。 。 。 。 。 。 像 一 、 尽 解 = 脱 急 難 − 、 不 ν 離 − 一 人 身 − 不 レ 代 ニ 人 体 一 、 唯 所 ニ 具 足 一 威 光 、 飛興期天 、 遊変 円 以 有 − 一 自 在 一 、 帯 = 持 大万 横 剣 − 、 有 =無 H A 福智 光 明 − 、
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敦燈紙本版画(開運四年A•D• 九四七年〉大英博物館蔵 権 = 折 一 切 悲敵 一 掃 一 一 除 災 害 − 、 承。 l当。此 於 二内然、0lj法 王t~
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孟:坐 威 令 外ζ’‘= 省 官 レ 一、運 日 、 無一
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さと 「 驚 、大。怖 以。地。ー、 ν 事110J-1, 掌。女0 g-' ( 92) 安静結坐 、 ﹂ 具 −− 如 ν是大勢威 力 − 、 放 回 二 済 衆 生 − 、 種 々 心 願 悉 令 − 一 満 足 一 云 云 ︵ 大 正蔵 、 国像 、 第四巻 、 三 五三頁 C ︶ ー寸 ﹂ 悠者 とある。この経は大蔵経に そ の名 の見えない経典で 、 且つ又 、仏 教 のパンテ ィ オ γ に存在しない牛頭 1 天王などの名があるから、 中 国の宋時代の新 作 といわれ 、鎌倉時代の編纂の阿婆縛抄に も﹁新渡の続 山 内 ﹂ と い わ れ て い る か ら 、 藤原時代に我が固に伝 っ た も の と 推定さ れている。然して間組はこの経の生れた時に 、 兜 鉱 山 地 沙 門 天 像 が 紋 u T や成立 し て い て 、 二種の昆沙 門天像があったことである。 この両者の差は、普通形のそれは 、 写真
2
の如く邪鬼をふんまえ 、 躍動的で左右が不整合であるのに対し 、 兜 肱形 は 地 天 が 出 仰 げ る 形 で 、 正 面 性 、 やや硬直 化が目 立 つ が 、 頭に臥凪のついた冠をかむり、膝まで垂れた左前の金鎖の鎧 ( 93) 2 をつけ、腕には海必簡手といわれる金制汁をつづった卯状の納をつけている。特に杵泌形のダイナミック性は西城教 埠の壁画にまで及んで 、その特 徴 を 示 し て い る 。 兜 時 臥 毘 沙 門 天 の 背 景 ︵ 肉 眼 悩 ︶兜 駿 見 沙 門 天 の 背 景 ハ 高 橋 ︶ この傾向は日本にまで及び、兜抜形は羅城門楼上に置かれたという、京都の東寺の像と他の普通形の昆沙門像の対 比でも明らかであるう。ちなみに、この東寺の像が実に西域的なのに比して、兵庫県の達身寺のそれは普通形の毘沙 門天の服装に同化し、紀州道成寺では更に一歩この傾向を進め、大宰府の観世音寺のものになると、両足が地天に支 あ b せ えられるのを除いて、何ら異なる所がなくなって来る o v 従って、この兜践形が左柾や正面性等後述の如き西域風の特 徴をもっ所から、その成立の場所が推定される。否その場所だけではなく、その場所でこうした像を作り出した思想 的変化が、なぜもたらされたかが注目されねばならない。 即ち、普通毘沙門天像が、邪鬼をふんまえている。邪鬼側からすれば、 ﹁他動的にふんまえられている﹂ものから 写真 1 の如く﹁主体的に﹂毘沙門天を﹁捧げもっている﹂ところに﹁思想的深化﹂ ﹁ 立 場 の 飛 躍 ﹂ が 示 さ れ て い る も の と 考 え る 。 ( 94 )
2
そもそも見沙門天のル l ツ は パ l ル フ ッ ト や マ ト ゥ l ラ の ス ト ゥ l パの欄楯の柱に彫られているヤクシヤ・ヤクシ ーのように、大地の生命力に対する信仰に根ざす。大地の生命力の表現が聖樹であり、その人格化がヤクシヤ・ヤク シーである。この一体化を表現したユニークな彫刻がある。写真4
の如く表から見ると盛満なヤクシ l 像だが裏面は 植物の茎や花である。これは男性のヤクシヤでも同b v
写真 5 の如く巨大なヤクシヤの両足の聞に木の芽が崩え出て これは写真 3 の如く豊満な女神が足を木の幹にからめ、 像 ﹂ か ら も 理 解 さ れ る 。 い る か ら で あ る 。 手で枝をつかんでいる ﹁ 樹 と 夜 叉 の 一 体兜 級 協 沙 門 え の 相 川 川 川 ︵ 高 崎 ﹀ 4 マ ト ウ ー ラ ヤ ク シ ニ ー マ ト ウ ー ラ 博 必
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95)兜 絞 毘 沙 門 天 の 拘 H 品 川 ︿ 高 橋 ﹀ マ ト ウーラi事正義 ヤ タ シ ヤ 5
c
96) 然もこれらの像は不 可思 議なものをふんまえている。人間らしいもの 、 牛や馬 、 ましてマカラとい っ て 、 尾が魚で 体が動物のもの 、 民には植物の花や水の珪もある 。 これらは 、 大地の生命力 、 その大地をして脱線ならしめるモンス ︽ 7 v l ンの雨即ち﹁水 ﹂ を表 し て い る と い わ れ て い る 。 こ う し た 不可思 議なも の をふんまえている像を見ていると 、 明らかに将泊昆沙門天の ﹁ 邪 山 地 ﹂ は こ の イ ン ド の 伝 統 の 下 に ある こ と がわかろう。然しこれに対して前述の如く 、 意識的に﹁持げもつ ﹂ ものは臭った系統のものと い え よぅ
。
インドの大自然から生れた夜叉信仰は、孔雀王呪経の示すが如く、各種族で、恰もトーテム神の如く、夫々部族の 主神として記られて居り、総数二百に及ぶ夜叉を中心に彼等が生活していたことがわかる。これはインドの生活が大 樹を中心として、その根方で寄り合い、冠婚葬祭等の通過儀礼を行っていて、その生活はその土地その土地のいろい ろの大樹と切っても切れぬものであったからであろう。これは原始経典に随所に見られる所である。 然し、人聞の意識が発達して来ると、人聞社会の状態の感情移入がこの夜叉の世界にまで及び、主長と家来の系統 だてが行われた、その頂点に立ったのが、バイスラパIナ︵毘沙門天︶であった。 長阿含第二十第四分世記経四天王品第七 ﹁若毘沙門天王。欲詣伽見延頭園遊規時。即念提頭頼天王。提頭頼天王復自念言。今毘沙門王念我。即自荘厳駕 毘 沙 門 天 王 常 有 五 大 鬼 神 。 待 衛 左 右 。 一名般閤楼。二名檀陀羅。三名越摩故陀。四名提偏縁。五名修逸路摩。此 ( 97 ) 乗 宝 車 。 真 無 数 乾 沓 和 神 前 後 囲 遇 。 詣 毘 沙 門 天 王 前 於 一 面 立 。 : : : 昆 楼 劫 天 王 : : : 昆 楼 婆 叉 : : : 四 天 王 大 臣 : : : 五鬼。常随待街。昆沙門玉福報功徳威神是。﹂ ︵ 長 阿 含 世 記 経 四 天 王 品 ︶ と 。 ︵ 大 正
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︶ 起世経巻第六四天王品 。 。 。 。 ﹁ 爾 時 昆 沙 門 大 天 王 、 即 亦 自 著 = 衆 宝 現 洛 ス 荘 = 厳 其 身 ス 駕 コ 種 種 乗 − 、 与 コ 提 頭 頼 昭 、 。。。。。。。。。。 大 天 王 − 、 各 将 = 所 属 諸 天 王 衆 − 、 前 後 囲 透 、 皆 共 往 − − 詣 迦 見 延 多 国 苑 乙 到 巳 在 = 苑 門 前 九 暫 時 停 住 、 毘 楼 勅 迦 、 枇楼博叉等四 諸 比 丘 、 其 迦 昆 延 多 苑 中 、 自 然 而 有 三 ニ 種 風 輪 − 、 謂 − − 閲 浄 吹 − 、 関 者 関 = 彼 園 門 六 浄 者 浄 = 其 園 地 − 、 楼o瓢勤。鴎
迦。、 天。諸 王。比 、 丘 此。 楼。迦 博o毘 叉。延 天o多 玉。苑笥。宍
与。所 = レ 諸o散 小。衆 王。花 及。 衆o積 巻。至害
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手
因。膝 遺。ー、 吹 者 吹 − − 其 園 樹 − 、 令 ν 花 0 0 0 0 0 0 種々香気周遍普薫﹁雨時毘沙門大天王、提頭旗陀天王、 。。。。。。。。 共 入 = 迦 昆 延 多 苑 中 − 、 燥 浴 遊 戯 、 種 々 受 楽 、李被園
兜 政 見 沙 門 天 の 背 景 ︿ 高 橋 ﹀兜紋 川 地 沙 門 天 の 河 川 以 ハ 高 僑 ﹀ 中 ︸ 投 浴 誌 じ ﹂ ︿ 大 正
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三 四O
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︶ これは毘沙門天王が他の三天王やその作肢を従えて凶苑に遊ぶ牧民の﹁行進天王国︿写真 6 ﹀﹂がこれを図示して い る如くである。 一 方 、 これと時代 的に も前後す 大英博物館蔵 る が 、 ガンダiラでは 、 土俗神パ ンチカとハlリティが信 仰 されて いたが 、西 からの外来民族は 、 ∼ 日 凶 教的問中行道天王図 の神である火の神フアローや 、 生 ( 98) を y[ も 別 つ 殖 て の 入 1J11 つ ア て ル*・ド
た タ。
手ノ こ ョ れ | ら(の .10 か~IJ・ ガ 仰 ン 〆 l ラ の地で ﹁ 判 A H ﹂ した 。 判 ︿ け とは同じ性絡の仙仰を 一 方の民肱 6 はパンチカとし 、 他の民族はフ 7 ロ l 、 叉ハlリティーをアルドグ ショ!と凡なして 一 つのものを阿 方で寸前なくい仰することである。民民族雑 M 仙 の 品 川 u u 刷的世界ならではの妥協的な考えであった。これがクシャン朝で 行われていた 。 この点に閲しては 、 私はいろいろの論文で述べて米た。との綜 A け で ある。即ち 、 タフト ・イ・パーイllU: フアローとアノレドタショー(パγチカとハーリティ〉 物λ;!)~Ii.It館~Ji. 7 民に 、 ζ れらが仏教の中にとり入 れられて米る。火の神フアローと習 合したパンチ カはイ ンドのヤクシヤ ヤタシ!の主民たるクベラ ・ パイ スラパlナの五 人 の大将軍とし︵前 述長阿含世必経﹀やがて山地沙門天そ のものと 叩 符 合 さ れ て 民 別 が 分 らな く な っ て 行 く 。 一 万 アルドクショ ! と 判介し た ハ l リ ティーは 、 こ れ 父 山 地
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99) 子母仰として 、 仏教の中にその地位 を 占 め た 。 引 払 が 特 に 興 味 を もつのは 、 凶方の ﹁ 火 ﹂ の仰と 、 インドの﹁水 ﹂ の 神 インドはモンスーンの州によ っ て 、 ﹁ 樹 が 小 い え 収 股 が 得 られる。そ れがこすれ合って ﹁ 火 ﹂ ﹁ 水←火﹂という思想系体がリグ ・ ベ l 〆以米の伝統である。 が出る 。 て%となり 、 物 淡 い . 山 を 降 ら す 。 砂 淡 の . 山 は ﹁ ノ ア の 箱舟 ﹂ 一方砂出では 、 強烈な太山酬がすべてを焼きつくす 。 地上の水分を余すと己ろなく地表からえ一発させる 。 こ れが集つ すべての生 命 を洗い流すが 如 く 供 の 仰 げ 中 川 の . . 小 す が 如 く 、 山 % 減 陀 沙 門 大 の 品 川 氏 ︵N M 締 ︶兜 践 毘 沙 門 天 の 拘 川 氏 ︵ 尚橋 ﹀ 水をもたらすと同時に砂淡に生命の ﹁ 再 生 ﹂ ﹁ 観 活 ﹂ を も た らす。私の体験ではアフガニスタンのパルフで 、 或はシリヤ 砂 川 出 で 、 はた又イランのシラ l ズからベルセポリ久への道で この﹁火による.山﹂によって砂漠が再生し、前に nル た 焼 け 来 ベノレシャワノレ博誠 てた砂肢と全く別物と忠われる純であった 。 従 っ て 砂 川 山 で は ハ
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﹁ 火 ← 水﹂の桃図が見られた。 かくて火の神たるフアロ ! と水の神ヤ ク シ ヤ ・ ヤ ク シ l が 習合してパンチカとなりクベラ ・ パイスラ l パ1ナとなるこ とは﹁火﹂と﹁水﹂の両文化が 、 毘沙門天の中に綜合凝結さ (JOO) れていると言えよう。3
こうした﹁火﹂と ﹁ 水 ﹂の文化を兼ねそなえた毘沙門天が 仏教の中に確固たる地位を占めて行く。例えばガンダ 1 ラ 彫 刻の﹁仏鉢供長図﹂の如く 、 一 二 天 王 と共に釈却に﹁鉢﹂を 供 長している像のように、仏教の中に深くかかわって米る。 然しここで注意すべきことは 、 土 木 だ 武 装 し て い な い で 、 ギリシャの服装をしていることであり 、 且つ文段々 武器を も っ たものが現 れて来ることである。その紋たるものはタカ ール出土の巨大なパンチカ倣である。これは又サリパロ 1 ル山土の三メの陥引をもち牙をむき出した鬼子母神の像につ ︽ M ︶ ク シ ヤソという国家の い て も言え る こ と で 、 共 に 守 護 神 的 性 幹 怖 が 出 て来ているといえよう 。然 も 、 個人というより 、 安寧を祈る方 向 に 進 み 、 更に西域に仏教が進むと 、 この傾 向 はますます顕著になっ て 行 く 。 兜 政 川 地 沙 門 天 の 拘 H n M ︵ 高橋 ︶ ホール|$誠 然ら ばこの ﹁ 守 護 神 的 性的 ﹂はど の施聞に見られるであろうか。 大西西域記巻第一 、 迦皐試国の パ ン チカラ 条 仏 院 東 川 市 大 神 ド ぃ 像 右 下 状地球 (IOI) 宝 、 賀子之所蔵 也 、 故其銘目 、 伽 藍 何 時 棋 取 以 修 治 、 近有辺主食 秘 凶暴 、 附此伽既多蔵珍宝 、 駆 遂 僧 徒方市発掘、神王冠中 開 削 鵡 烏 像 乃密 羽 驚鳴 地 為箆動 、 王 及 制刈附 刻 側 吋 . 久而得起謝 件 以 U附 ︵ 大 日 |八七回
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︶傍線唱者 9 と 、 ヵ ニ シカの夏の都カピシにあ兜 践 毘 沙 門 天 の 背 景 ︵ 高 橋 ﹀ ったシナから送られた人質の寺の地下に埋められた財宝を盗ろうとした盗賊に、天王の冠の鳥がばたばたして、大地 震が起り、矯いた盗賊は逃げ去ったとか、或は大唐西域記巻一縛喝国の納縛僧伽藍で :・近突厭葉護可汗子島葉護可汗、傾其部落率其戎旅奄襲伽藍欲図珍宝、去此不遠屯軍野次、其夜夢見此沙門天 日、汝有何力敢壊伽藍、因以長戟貫徹胸背、可汗驚籍便苦心捕、遂告群属所夢符、徴馳諦衆僧方伸機謝、未及返 命巳従弘残伽藍内:::︵大田|八七二 C ﹀傍線筆者 で突厭王が毘沙門天の寺を攻撃伽藍を破壊しようとした前夜、夢枕に立たれた天王は長い槍で王の胸をつきさした。 篤いた王は神前で俄悔しようとしたが、時既におそく絶命したとある。 更に担躍旦那国の条には : : : 其 王 遷 ν都 作 レ 邑 、 建 レ 国 安 レ 人 、 功 績 己 成 、 歯 重 云 幕 、 未 レ 有 − − 胤 嗣 一 、 恐 レ 絶 = 宗 緒 − 、 乃 往 − − 毘 沙 門 天 神 所 − 、 祈 (102) 説諦レ嗣神像額上、剖=出嬰該六捧以回レ駕、国人称 ν 鹿。既不 ν飲 レ 乳 、 恐 コ 其 不 v 寿 、 尋 詣 − 一 神 澗 − 、 重 論 − − 育 養 − 。 神 前 之 地 、 忽 然 隆 起 、 其 状 如 レ 乳 、 神 竜 飲 晩 、 遂 至 = 成 立 − 、 智勇光 ν 前、 風 教 還 被 、 遂 営 二 神 岡 − 、 宗 = 先 祖 − 也 。 自 レ 放 巳 降 、 変 世 相 承 、 伝 レ 国 君 臨 、 不 レ 失 コ 其 緒 − 、 故 今 神 廟 多 一 一 諸 珍 宝 − 、 拝 澗 享 祭 無 レ 替 − − 於 時 − 。 地 乳 所 レ 育 、 因 為 − − 国 号 − 。 ︿大正蔵、第五十一、九四三頁 b ︶傍線筆者 とあり、今の西域ホ l タンのことについて述べている。この国では国主に子がなかったので毘沙門天王に祈ると天王 の頭から赤子が請出した。 ︵ 写 真 1 の毘沙門天の向って右の待者によって捧げもたれた小児がそれを示す︶然しこの 子は乳を飲まなかったので、再び祈ると神前の地が隆起して、恰も乳房のようであった。子供はこれにむしゃぶりつ いて乳を飲んで成長、これがこの国の先祖となったとある。
然して問題なのは、この後で大唐西域記に鼠がこの国を放ったことが記されていることである。 。。。。。。。。。。 此沙硝中鼠大如レ蛸、其毛則金銀異レ 。 。 時盟薩 玉 城 西 百 五 六 十 里 、 並 鼠 嬢 墳 也 、 。 。 。 色、為−−其群之曾長六毎出レ穴遊止則群鼠為
y
従 。 背 者 側 奴 率 = 数 十 万 衆 − 定 − − 掠 辺 容 、 旦 那 玉 率 − − 数 万 兵 − 、 恐 = 力 不 v敵 、 索 知 − 一 碩 中 鼠 − 奇 而 未 神 也 、 泊 − − 乎 窟 至 − 無 ν所 ν 求レ数、君臣鍵恐莫 ν 知 − − 図 計 六 荷 大 沙 硝 正 路 中 有 = 堆 阜 − 、 聞 = 之 土 俗 − 目 、 至 = 鼠 墳 側 一 屯 レ 軍 、 復 設 レ 祭 焚 レ 香 請 レ 鼠 、 翼 其 有 レ 護 少 加 − − 軍 力 − 。 其 夜 極 陸 旦 那 王 夢 見 − 一 大 鼠 − 、 日 敬 欲 − 一 相 助 − 、 願早治 ν 兵 、 旦日合戦 必当ニ克勝−樫薩旦那王知レ有−−霊祐−、遂整コ戎馬二申令=将士−、未明而行、長駆掩襲、何奴之聞也、英 ν不 レ 儲 湾 、 。 。 。 。 方 欲 = 駕 レ 乗 被 p鎧、而諸馬鞍人服弓弦甲純、凡厭帯糸鼠皆醤断、兵窟既臨市縛受レ獄、於 ν 是 殺 = 其 将 ス 虜 − − 其 兵 − 、 。 。 。 。 何奴箆倍以為=神霊所 p祐也。撞薩旦那玉感=鼠厚恩−建レ洞設 ν祭云々ハ大正日|九四四 ab ﹀ これは見沙門天王の名は出ていないが、明らかに、毘沙門天王の春属としての鼠のことである。即ち不空訳毘沙門 (103) 天王儀軌の西城の安西裁と同じ話だから、 ホ 1 タンでも前述の子供を与えた財宝神としてだけではなく、守護神とし て和られていたことがわかる。 毘沙門天王儀軌に 領天兵救援安西故来辞。聖人設食発遣。至其年四月日。安西表到云。去二月十一日巳後午前。去域東北三十塁。 有雲霧斗問。霧中有人。身長一丈。約三五百人尽著金甲。至酉後鼓角大鳴。声援三百里。地動山崩停住=百。五 国大健尽退軍。抽兵諸営墜中。並是金鼠岐弓考絃。及器械損断尽不堪用。有老弱去不得者。臣所管兵欲損之。空 中云放去不須殺。尋戸反顧斌北門楼上有大光明。毘沙門天王見身於楼上。 ︵ 大 正lml
二二八 b ﹀ 即ち安西裁がとりかこまれたので見沙門天主に祈ると数百の丈余の天兵が鎧を着て霧の中から出来、太鼓等で大声 兜 蹴 毘 沙 門 天 の 背 景 ハ 高 橋 ﹀兜 政 見 沙 門 天 の 背 景 ハ 高 橋 ︶ をあげたので、三百里にわたって、大地が振動し、山が崩れたので、大軍は退散。その夜、金の鼠が現れて鎧や弓の 糸を食いちぎり、更に、北門楼上で大光明が出、毘沙門天王が現れたので生命からがら逃げ出した。 ﹁不空伝﹂の条の如く 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 : : : 蕃 部 驚 潰 、 彼 営 塁 中 有 ν 鼠 、 金 色 咋 = 弓 脅 弦 − 皆 絶 、 城 北 門 楼 有 = 光 明 天 王 − 、 ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 一 怒 視 蕃 帥 大 奔 、 帝覧 ν奏 謝 レ 空 、 因 勅 = 諸 道 − 城 楼 置 = 天 王 像 − 、 此 其 始 也 。 ︿大正蔵、第五十、七一四頁
a
﹀傍線筆者 そこで帝王は諸道に命令して、城の楼門には毘沙門天像を把らしめた。楼門に天王像を置くはじめであるとある。 か く て 、 アフガニスタンのカピシ、バルフ、そしてタクラマカン砂漠をはさんで南北のホlタン、 クツチヤという 範囲に守護神としての毘沙門天信仰のあったことがわかる。特に砂漠のオワシス国家は規模が小さい。そして平和的 な通商で生きている為軍事的には強くない。為に制奴等の強大な遊牧国家が攻めて来たらひとたまりもない。そこで ( 104) タカlル出土の像の如き、守護神的性格がますます要請されて来た。こうした性格を強調した一つが﹁兜践﹂形の毘 沙門天像の出現であると思う。4
兜抜形ではいろいろの特徴が目立つ。これらをオ l レル・スタイ γ が敦埠で入手したといわれる大英博物館蔵画像 について考えてみよう。読者は前掲写真 1 の特徴を以下の記述と照し合せて見ていただきたい。A
、 鳥 カピシで盗賊が天王の冠の烏が羽ばたくのに驚いて逃げたとの大唐西域記の記事や、安西棋の像を模したといわれくりで 、 サ サ ン ベ ルシャの武人の典型を毘沙門天像に見る思いがする。 B 、 火 スワット出土焔Ji1仏(川から火、足から水〉上の刈にfl:怠 唱者員長 る束ヰ寸蔵の像の冠に凧凪がある。勿論 ﹄の鳳凪は小国交化の影細川であるが 、 もともとはフファルナ フ ︵ 魂 ︶ を 天 に 迎ぶ応である。従って写真 刊 の如くガ し 、 ン るハ ダ o!§ I 最 ラ も の 有 彫 名 刻 な の の 部 は 分 タ 沢 キ 山 シ 描 ラカ、
のれ
ギ て リシャ人の町シルカップの双訓酬の鷲の 寺院のものである。 毘沙門天像の冠の上にもμ
全体のも ( 105) の や 、 写真 1 の冠の如く羽根をひろげ たさまを図案 化 した冠をかぶったもの も あ る 。 こ れらは写真 日 のイラソのコ 10 ス ロ lニ世の狩猟図の王の頭部とそっ 写真 1 の敦慢の画像の 如 く 、 房から三日月を立てたように頭部の両側に 火 炎が立 ち の ぼ っ て い る 。 ︵ 松 本 氏 兜政毘沙 門 天 の 掛 H R M ︵ 雨 続 ﹀ 所制﹁火焔光背﹂ で ある。これらは大災博物館蔵の絹本兜践像や七リンデ ィ ア H O ロ ハ デ リ 1 中 亜 博 蔵 ︶兜 冊 以 毘 沙 門 天 の 背 R M ハ 高 橋 ﹀ 敦埠画の研究附図
55
H N N 白 ﹀等でも同じ で あ る 。兜敏形ではないが写真 6 の教埠行 道天王像に至つては炎々たる炎が頭部の前 後 に た な び く 。 ﹂ れ らは法天訳 ﹁仏説毘沙門天経﹂に 北方世界有薬叉名倶吠螺有大威徳身光織 盛如大火焔︿大正| 幻 | 一 一 一 七 b ﹀ と あ る 。 問 題 は 経 由 州 が 先 か 、 こうした像や 絵が先かであろうが 、 常識的に﹁火﹂の文 化を背景 と し て 、 こうした経典の文市が出 来 た と 々 え る 方 が ’H
然である 。 火はリ グ ・ ベ l 〆以来インドにあること は勿論だが、このオワシス国家椋はベルシ ャ 系 の 人 種 で あ り 、 サ サ ンi:PIコスローニ也符猟文銀llJL 松本氏敦但画研究より複写 ( 106) 11 且つ叉ベルシャ系の文 化 が多くこの地に流入しているから 、 ゾロアスター教とまで特定出来ないc
、 長 い ス カ ー フ までも等、ベルシャの﹁火﹂の宗教の影山首と考えた方が自然であろう。 現在の児沙門天像でも肩から体の両側に長い布を虫らしたものがある。今は原型の意味を失って、山中なる装飾となっ て い る が 。 このスカーフは敦埠の写真ーでも、 同様に松本氏敦題画の研究附図 ︿ H H 匂 PHNov ・H N N P H N ω ”r H N ω σ −H N A F F H N H O﹀ に も認められる。これらは法隆寺壁画の飛天の如く、 はた又西域の千仏澗や敦燈の飛天が美しい﹁羽衣﹂をまとって天 上を舞って仏をことほいでいるのと規を一にする。 兜 政 見 沙 門 天 の 背 景 ︵ 高 橋 ﹀ キジール武人像〈グルγドウェデルのスケッチ〉 Le Coq Buried Trea鵠r闘 ofChinese Turkistan 〈源氏論文より複写〉 12 こ れ ら は ﹃洛陽伽藍記﹄巻第五、凝円寺、宋雲恵生西域 巡 行 記 中 ﹁ 子 岡 国 ﹂ の 条 、 至 = 子 岡 国 − 、 王 頭 著 − − 金 冠 一 似 = 鶏 瞭 − 頭 、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 垂 三 一 尺 生 絹 − 広 五 寸 、 以 為 レ 飾 。 頭。 後。 ︵ 大 正 蔵 、 ( 107) 第 五 十 一 、 一
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一 九 頁a
﹀ 帯。『 ー、北垂
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司 F − n M M ︿ 以上からして、七・八世紀に東トルキスタン一帯 にもこの風習が行われていたことがわかる。然し て 、 そ の ル l ツはサザン朝やパルチヤ時代のベル兜 絞 毘 沙 門 天 の 背 景 ︵ 高 橋 ﹀ シャにその例を求められる。即ち前掲写真 日 の コ ス ロ l 二 世 や パ ラ l ム二世等ベルシャの王の像の後方には必ず二条 の布がはためいている 。
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、 左あわせの服 杜氏 通 山 内 西 域 伝 ﹁ 且 末 国 ﹂ に 、 とあるが 、 これは﹁梁書﹂諸夷伝 ﹁ 末 国 ﹂ の 条 や 、 ﹁ 南 史 ﹂ 夷 箱 伝 ﹁末国﹂の所にも 同 じ 表現があっ て ﹁ 首 の 所 をあけて、左任せ﹂ であったことがわかる。これらは マ ト 世 l ラやアフガニスタンのス ルフコタル出土のカニシカの巨大 な石像︿写真 凶 ﹀や 写真 ロ の ク ツ チヤの武人像等 の遊牧民の服装 で 、 六 ・ 七 世 紀の東トルキスタン 一 帯 に流行し た イラン系男子の服 装 で あ っ た 。 源説宗氏は﹁ 仏教 美 術 ﹂ 十 五 号 ﹁ 土 人前 髪 著 一 一 旋 回 − 小 納 衣 為 レ 杉 則 附 レ 顕 而 縫 前 ﹂ 13Ancient khotan XIV (Rawak stupaの解説〉より複写 ( 108)14 Ancient khotan XIV (Rawak stupaの解説〉より彼写 ︵ 昭 和 五 年 一 月 ︶ に 次 の 如 く 述 べ て い る 。 ﹁ 兜 桜 山 地 沙 門 は 何 れ も 支 郊では胡風とせらるる左社である この服装に松も相近いものを 西域に求めてみる。ギジ l ル 、 即 安西域の故地において ﹀ ・ の ﹃ C D g o 門 同 色 氏 の ﹀ 日 マ H内 z g o ︸ 回 同 の壁画の一部であるが、この中央 の人物がおているものは恐らく皮 (109〕 ホ製のものかと見えるが 、 その左 れにして且つ膝までも達する長き 岡山帆キ A F
、
11
まさしく兜紋昆沙 門 の そ れ に 同 じもの﹂と述べて い る 。 では左上位という忠怨から左が前に 出る 然 し 初は右が前に出て左がかくされる︶ こうした影響から兜撤回 M には左杭せが多い 。勿も 右任せもあるが、これらは中国文化の西漸の彬.粋である 。 ︵ 中 国 即ち左 任 せ と し て は大英博成 ス タ イ ン 招来 紙本︵訟本 、附 図一二O
a
︶ 兜 絞 毘 沙 門 天 の 背 対 ︵ 高 緩 ﹀兜 附 臥 毘 沙 門 天 の 掛 H R M ︿ 高 橋 ﹀ ベリオ招来紙本ハスタインと同版︶ ︵ 松 本 附 図 二 二 C ﹀ ルーブル博蔵 安西省万物峡石館内壁画︵ A D 九
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年 頃 ﹀ 剛 寺 智 ・ 川 水 本 兜紋毘 沙 門 天 像 ﹀ が 、 然も前掲のクツチヤ武人画の如く 、 長万を縦に垂らし 、 短刀を績に恰も十字の如くさした像が出て来る。日本の醍 なくなる。更にこれも普通見 沙 門天で は武装 しない方が普通と なる 。 これも兜 蹴形 の特 異性の 一 つ で あ る 。 更に兜蹴形の特性の 一 つ は正 面性であるが 、 こ れはシリヤの パ ルミラの像以来の疋而性の影 響をうけて い る と い え よ う 。 かくし て、前述して来たよう に 、 ヰ を天 上界 に運ぶ鳥 、 そ し て火 、 更に神聖さを示す羽衣を 思 わす裁布 、 そして遊牧民の服 装そして帯万 、 又正面性 等 、 敦 埋 ︿ 松 本 尽 き 足 音 H N H σ ︶ の如く一木万になり遂には手に も っても肢にはささ ま マ ト ウーラ!!$.蔵 ( 110) カニシカ半身像 マ ト ウー ラ 出土 15さにベルシャ文化の影抑.陛然たるものをそこに見る思いである。
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こうして考えて来ると 、 兜獄像はベルシャの文化闘で形成されて来たことがわかる。 兜 政 見 沙 門 天 の 背 景 ハ 高 僑 ﹀ 考古学的にもこれは証明される。 一 歳 一 博 レ プ カ 即ちスタイソの ﹀ ロ o−
o D 件 関 y o g ロ で 一市されているように ︿ 同 州 帥 謡 曲 W の 的 宮 宮 の説明写真 出︿ ﹀ 、 務のま カニシカ半身像 わりに 、 沢山の仏菩躍の像がぐるり ( 111) とストゥッコで作られている中に 、 地天が神の足下に涌現しているのが 二 つ 見 え る 。 スノレフコタル出上 この中で 、 写真 臼 の方は写真 日 の スルフコタル出土のカニシカモ像の 如きものの 足下 に豊かな乳房をもっ た女神が涌 出 し て い る 。 16 もう一つの写真 M の方は写真 日 の兜 附 臥 毘 沙 門 天 の 胡 H R M ︵ 向 橋 ﹀ マトヲ l ラ 出土のカニシカ像 の如き遊牧民らしいズボンと ブーツ姿の下半身の下に涌現 していることは注意さるべき 事柄である。一史に写日 刀 の 示 すが如く数埠の千体仏の紙木 の中から 、 やはりカニシカ王 の如き服装をして 、 地天 の 上 に立っているものが出ている ハ
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由 同 の ロ デ リ 1 中亜 博蔵 ﹀ 。この像は又前述の如 く れ何の羽根をひろげたような 冠をかぶり 、 飛天の羽衣の如 き祢絹を左右に垂らしている。 放1-'1出 土 兜 践 毘 沙 門 天 像 紙 本 Serivdia(四巻) XCII デリー中迎WI-蔵 (112〕 17 これらは共にカニシカの下半・北像にそっくりである 。 クシャン初ではスルフコタルの神般にカニシカやフグィジカ を神として記っていたから 、 カニシカ等のクシャンの武人出W
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をモデルとして兜隊形が形成されたと推測される。百 クシャンの支族である。ホlタン王を模して兜紋形が作られたことは明らかである。これは写真 1 の 毘 歩ゆ ず っ て 、沙 門 天の待者が頭上高く赤子をいただいていることがこれを証し 、 且つ又前述の大先加立兜鉱蔵王呪経の ﹁ 権現兜蹴 国大正形相像﹂が 、 こ の 聞 の 消 息を物語っているといえよう 。 さ て 兜 紋像は邪鬼ではなく 、 地天の上に立つのであるが 、 そ れ は 地 天を絡むのではなく 逆に地天が ﹁ 旅げもつ﹂即ち 他 動的 に踏まれるのではなく 主 体的 意識的に捧げもつ所が 注意されねばならない。 ﹄ こ に 適 切 な が 例 が あ る 。 それは写日 時 の コ l タンの 同 内 四 回 白 h − 色 野 より発見された 紙 本墨 画 の 一 断片 で あ る 。 こ れ は 上 の 天王は上半身が失わ れ て い るが毘沙門天王の下半 身 耐 児 以 毘 沙 門 天 の 初 Hn M ︿ 向 橋 ﹀
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コータソの Khadalik発兜践像 Scrivdia四巻XCIKha,i, 50c
113) 18兜 践 見 沙 門 天 の 背 景 ︵ 高 橋 ﹀ は 明 ら か に 開 制
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出土の像に似ている。松本氏は教埠画の研究で ﹁胴の緊窄せるイラン式服装を著けて居ること は明瞭に観取せられる。然もこの画の製作年代が七世紀頃と推定せられることは、以て極東の兜践見沙門天の起源を 考える上の貴重なる研究資料と見倣し得る。 即ちイラン式服装と毘沙門天との結合が、 その時代に和岡地方に於て 見られるという事実は、兜駿毘沙門天像の発生に関する地現的源泉を暗示せるものと言うべきである﹂ ハ 全 書 四 四 九 頁 ﹀ と 言 っ て い る 。 と に か く 、 パ l ルフットやマトゥ l ラ以来の邪鬼をふんまえる伝統に立つ普通形の像とは、全く異質な像の出現と い 易 え よ 、 っ 。 然らば何故にこのような立場が出来して来たのであろうか、私は金光明最勝王経に、今までとは異った立場の飛踏 の源泉が見出されると考えるものである。即ち ( 114) ﹃ 金 光 明 最 勝 王 経 ﹄ 巻 第 八 ﹁ 堅 牢 地 神 品 ﹄ 。 。 。 。 繭時堅牢地神即於=衆中−従レ座而起、合掌恭敬、而白レ仏言、世尊、是金光明最勝王経、若現在世、若未来世、若 在 − − 城 邑 楽 落 王 宮 楼 観 、 及 阿 蘭 若 山 沢 空 林 − 、 有 = 此 経 王 流 布 之 処 − 、 世 尊 、 我 当 τ往=詣其所、供養恭敬擁護流通ヘ 若 有 = 方 処 − 、 為 − 一 説 法 師 − 敷 − − 置 高 座 ス 演 − − 説 経 − 者 、 我 以 − − 神 力 − 、 不 レ 現 − − 本 身 − 、 在 − − 於 座 所 − 、 頂 − − 戴 其 足 − 、 中 嬰 ﹀ 、 爾 時 堅 牢 地 神 白 レ 仏 言 、 世 尊 、 以 = 是 因 縁 − 、 若 有 τ四 衆 、 昇 = 於 法 座 、 説 申 是 法 主 時 、 我 当 下 昼 夜 擁 = 護 是 人 − 、 白 隠 − − 其 身 − 、 在 エ 於 座 所 − 、 頂 申 戴 其 足 阜 、 ︵ 大 正 蔵 、 十 六 、 四 四O
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﹀傍線筆者 ﹃ 同 経 ﹄ 、 巻 第 八 ﹁ 王 法 正 論 品 ﹂ 爾 時 此 大 地 神 女 、 名 目 コ 堅 牢 − 、 於 = 大 衆 中 − 、 従 ν座 而 起 、 頂 − − 雄 仏 足 − 、 云 々 ︿ 大 正 蔵 、 十 六 、 四 四 ニ 頁a
﹀とある。即ち地神は説法師の為に、 ﹁自分の神力をもって、自ら姿をあらわさずに、仏の座所の下で、その御足を頂 戴致します﹂と世尊に﹁哲顕﹂をたている。即ち﹁支えもつ﹂ことを自覚的に普いをたてている。ここがバ l ルフッ ト と 立 場 の 異 る 所 で あ る 。 堅牢地神がその普願に従って天王の足を頂戴すると同時に、毘沙門天王自体が普願をたてている。即ち金光明最勝 玉 経 四 天 王 護 国 品 第 六 に 、 爾時多聞天王。従レ座而起白 ν仏 言 。 世 尊 。 我 有 − − 如 意 宝 珠 陀 羅 尼 法 − 。 若 有 = 衆 生 − 。 楽 = 受 持 − 者 。 功 徳 無 量 。 我 常 擁 護 令 下 彼 衆 生 離 レ 苦 得 ν楽 。 能 成 中 福 智 二 種 資 糧 よ 欲 − − 受 持 − 者 先 当 レ 諦 − 一 此 護 身 之 呪 − 即 説 ν呪 日 : : : ︵ 大
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︶ ︵ 傍 線 筆 者 ︶ 叉 ( IlS) 世 尊 。 我 若 見 − − 此 諦 呪 之 人 − 。 復 見 − − 如 ν是 盛 − − 興 供 養 − 。 即 生 コ 慈 愛 歓 喜 之 心 − 。 我 即 変 ν身 。 作 − − 小 児 形 − 。 或 作 − − 老 人 芯 調 之 像 − 。 手 持 = 如 意 末 尼 実 珠 − 。 井 持 = 金 鍾 − 。 入 − − 道 場 内 − 。 身 現 = 恭 敬 − 。 口 称 コ 仏 名 古 語 = 持 呪 者 − 目 。 随 = 汝 所 求 − 皆 令 ν如 ν顕 。 或 隠 コ 林 薮 − 。 或 造 − − 宝 珠 − 。 或 欲 = 衆 人 愛 寵 − 。 或 求 = 金 銀 等 物 − 。 欲 ν持 − − 諸 呪 − 。 皆 令 ν有 レ 験 。 或 欲 − − 神通寿命長遠。及勝妙楽−無 ν不 ν称 ν 心 。 我 今 且 説 − − 如 ν是 之 事 − 。 若 更 求 ν余 皆 随 = 所 願 − 悉 得 ν成 − − 就 。 宝 蔵 無 尽 功 徳 無 窮 − 。 仮 使 日 月 墜 − − 堕 子 地 − 。 或 可 = 大 地 有 ν時 移 転 − 。 我 此 実 語 終 不 コ 虚 然 、 常 得 − − 安 隠 − 随 ν心快楽−。世尊。若 有 ν人 能 受 コ 持 読 諦 是 経 玉 − 者 。 議 − − 比 呪 − 時 。 不 レ 仮 = 疲 労 − 。 法 速 成 就 。 世 尊 。 我 今 為 − − 彼 貧 窮 困 厄 苦 悩 衆 生 − 。 説 コ 此 神 呪 − 令 下 猿 = 大 利 − 。 ハ 大 正 時l
四 一 二 一c
﹀ ハ 傍 線 筆 者 ︶ 即ち毘沙門天王自身が﹁身を変えて小児や老人、比丘の姿になり、手に宝珠や財宝の袋をもって、仏の名を唱え、 兜 践 毘 沙 門 天 の 背 景 ハ 高 橋 ﹀兜 駿 見 沙 門 天 の 背 景 ︿ 高 橋 ﹀ 呪をとなえる者に願いをかなえしめよう、叉たとえ日月が地に陥ちても、大地が動いても、この経玉をとなえ、呪を じゅす者には、貧困や苦悩から離れしめ、大利を得させようと、私は仏にお普い致します﹂と仏に普う、 い わ ば 地 天 と毘沙門天の二重の普願の上にこの像は作り出されているものと思う。 前述の不空訳の見沙門天儀軌の﹁毘沙門天が安西城門上に出現した﹂という話も、この神の﹁普願﹂と、これをひ たすら﹁信﹂ずる衆生との関係を示すものに外ならない。 即 ち 、 1 、 夷 狭 が 攻 囲 す る 。 2 、経を請すると神兵が現れる。 3 、 蕃 部 は 驚 き 潰 え た 。 4 、金色の鼠が現れ武器の 糸 を か ん で 使 用 不 能 に し た 。 5 、披楼に光明天王が現れ蕃兵の逃げるのを怒視したというこれらの話の根本は﹁経を 請する﹂ことが根本になっている。調すとは、 ひたすらすがりつく信である。法華経の﹁たとえ一句でも受持説請し 解説書写する﹂という﹁信﹂である。然も信とは仏の普願を信ずることである。これが最前提となっている。 ( 116) こう考えて来ると、これこそ﹁上求菩提﹂の小乗の立場ではなく、 ﹁下化衆生﹂の大乗への飛躍があり、これあり てこそ、この地天が天王を捧げもつ兜政形の見沙門天像の成立があるのであった。 同 州 w d 匂 制 w w や同 V 脚 色 色 町 W の像のあるホ!タンは華厳経の編纂されたという大乗仏教の早くから発達した所である。こ の地で﹁哲願﹂を軸とした抱駿形が成立したことはけっして不自然なことではないと私は思う。 む す ぴ かくして兜獄像は成立した。それはインドの聖樹夜叉信仰、即ち﹁水﹂の文化と、ベルシャ及び西アジヤの文化で ある正面性・烏・スカーフ等で象徴される、砂漠の所調﹁火﹂の文化等を合した見沙門天信仰がクシャンの普遍的世
界 で 成 立 し た 。 然もそれらはインドの大地の生命力の表象たる樹神、ヤクシヤ・ヤクシ l の伝統たる財宝神に止らず、 オワシス国 家をおびやかす強力な遊牧国家との緊張から、 ク シ ヤ γ 朝の強力な帝王観を加 タ カ l ル出土のような武神像を経て、 えて行った。そして最後に大乗仏教の精神につつまれた像が出現するに至った。即ち﹁替願﹂を﹁信ずる﹂という信 仰に支えられて、兜践見沙門天像の成立を見た。 まさに兜駿形こそ、東西の文化、 の大乗の ﹁ 哲 願 ・ 信 ﹂ による綜合であると私は信ずるものであ ﹁ 水 ﹂ と ﹁ 火 ﹂ る
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︹ 註 ︺ ハ1 ﹀﹁仏教美術﹂第日号源豊源兜肢毘沙門天の起源五四頁 ︿ 2 ﹀ 敦 倶 出 土 絹 本 大 英 博 蔵 ハ 松 本 氏 敦 健 画 の 研 究 附 図 ︿ O M H M ・ ロ 由 国 ﹀ ハ3 ﹀敦燈猪川和子地天に支えられた毘沙門天彫像l
美術研究第二二九号ー ハ 4 ﹀マトウ l ラ 博 物 館 蔵 ︿5 ﹀ カ ル カ ッ タ 及 マ ト ウ l ラ 博 物 館 蔵 ハ 6 ︶写真 4 、 バ ー ル フ ッ ト 出 土 、 カ ル カ y タ 博 物 館 蔵 ハ 7 ﹀o
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四 九 頁 註 ハ8 ︶仏母大孔雀明王経巻中︵大正|四二三 al 四 二 六 a ﹀ ハ9 V 敦燈壁画行進天王図写真 6 ︵m v
プ リ テ ィ シ & 博 物 館 蔵 タ フ ト ・ イ ・ パ l イ 出 土 パ ソ チ カ と ハ l リ テ ィ 像 ︿U ﹀ 同 。g
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﹁ 空 に 先 立 ち 、 地 球 に 先 立 ち 、 神 に 先 立 ち 、 水 が 最 初 に 保 た れ 、 す べ て の 杯 芽 が そ の 兜 蹴 毘 沙 門 天 の 背 景 ︿ 高 橋 ﹀ ( 117)兜 践 毘 蹴 門 天 の 背 景 ︿ 高 橋 ﹀ 中 に 神 が 存 在 す る ﹂ 印 刷 W S 3 S H W 回