信
永
倉
唯
草 加 人 は 悌 の 無 量 寄 と 無 量 光 ’ ど に よ b てのみ能く仰を観.その官在を費るととが能きる。紳はその﹁は たらきのいのち﹂と﹁いのものはたらき﹂を、特に、数組の言行として、亦は康︿、万物の相に於て、 白から賞現し来たる。3
れば我等の自力によ b τ 紳を見、聞3
、信じ、悟 b 、救はれ、軟喜、供養す ると考へられるもの色、凡て、数組を通じて白から現れ来たる紳の生命力によ b てのみその相を観、 その貨在を信じ、その聾を聞き、その救ひに奥 b 、亦寓物に現れる紳の愛なる一切のみ業仁よ b て のみ人は永劫を生主る乙とが能3
るのでゐる o かく宗教は、人間自身の相劃的なる自力に擦 b て 立 つ 道徳と異 b て、凡℃紳の絶劃力によると考へられるごとみにその特性があるのである。本嬬自力ごは、 、 、 人力に即するの紳といふ謂であ b .他力とは神力に印するの人といふ謂であるから、自力も他力も道 徳に関する語ではないが、 一般に自力の宗教は道徳的宗敬で、他力の道徳は宗教的道徳といふとと が 能3
る。自力宗は道徳潟本の宗教、他力宗は宗敬錦本の宗教といふととが能きる。勿論、道徳的宗教 四 七凶
ヘ
さ い っτ
も、宗教には違びないが、宗款としでは純粋なるものではなく、亦宗教的道徳といっても道 徳には連びないが、道徳としては純粋なるものではないっ然し宗敬としては宗教鋳本の宗教たる絶劃 他力宗こそ純粋なる宗教L
いはねばならぬ。宗敬魚本の宗教まは、凡てが二怖の絶封力に腸するもので ある。か、るものは、超現質的なるもので、而も、現賓的なるもの、生命とカとなって働らくるので −なければなら泊っ他力といへば、自力に相劃するもの、如くであるが、封 e T 超絶する他カミは、自他、生 側、人紳を超絶する﹁絶封我力﹂﹁絶劃悌力﹂﹁絶針神力﹂ごいム意である。﹁生備の仮名 h f , 絶 す る ﹂ 働 力 宗こを絶掛他力の純粋宗教である。仮令、敬義内容として各自の信心や勤め、信力増準を説いてもその 信心は仰の大信であb
、その信力は働力であると考へられねばならぬ o かく我等︵個人我︶の相封的 なる信力と考へられるものも‘その貫、仰︵超個人我︶の絶封力である。同単なる相針的なる倒我の信力 によムリては如何にしても、絡調的なる超個我を翻能ふものではない。超人間的なる柿︵理想我︶の無日 主光の働3
︵超理性力︶が人間的なる我等︵現貫我︶の心として働主︵間性力︶我等の心守して彼方 に自己︵怖︶を観せしめるのである。例我︵珂性、人︶をして我たらしむるものは超個我︵開想、帥︶ であるならば超個我は桐我の本体である o か、る超個我︵珂想︶が個我︵現賞︶をして越個我たらし め︵珂想化作用即理性作用︶るのであるから絶封自力ごいっても絶封他力といっても結川同じことをいは ん Z す る の で あ る 。 然し、敬義とし信僚として、その宗教生活に於ける意識内容としては微妙なる戚情 h f そ
ω
巾に戒し てゐる乙とを見逃す乙とは能車ないっ少くとも宗教意識の重大なる要素、として‘紳に劃する長と敬とが その営潟性の故に、親と愛とがその債値性の故に、その中に蔵せられてゐなげればならぬ。然るに伺人 我と超個人我、現象主貨在、現賓我と理想我といふ語や概念の中には、伺導宗教的気勢とか、信仰的戚情 といふものが戚守られない。そして之れ等ば一つの形而上皐的概念としてよ h 意味を有た泊様に戚性 られる。然るに、宗教に於ける人と神、衆生と怖、罪さ救ひといふ語や観念の中には、畏敬の念や親愛の 情が軍められ、二つの異った債値的賞在者として戚ぜられ、それ等の本情一的闘係から、救には罪が、罪に は救が珠想されるといふ具体的観念として宗教的戚情を濃厚にた立よはせてゐる。・概念的には、自力三 しでも‘他力として込、その絶封といふ貼からすればその云はλ
とするところは結局同じであるといふ ととが能3
るが、絡調自力の説明は、形而上皐的概念的説明ごしては趨宮であるが宗教的観念的・工﹂ば ー とL
ては生きた、血の遁ったもの正しで戚壱られぬので不荊営である。然る仁、絶掛他力に於けるとと ば に も 、 観 念 に も 、 説B
方にも、その中には親愛畏敬の情念が内在してゐる鶏に教へとし、信健三して極 めて宗教的である。宗教に於ては、思惟的、概念的なるものは趨切でなく、直観的、観念的なもので在り 信 四 九信 王L 0 ればなら料。宗教意識ごしては、何等の情意ヤ一件はね如き科皐的抽象的概念や哲事的具体的概念︵具体 的とい行て本主客の一全体、多様の統一に閲する知識といメ鮎に於て、科串的知識よ b 具体的といふの であるが、依然、思惟、判断に基づく概念であるから直視、体験に基づく宗教的観念に比べると這かに抽 象的である︶はそれが﹁概念﹂である限り親愛畏敬の情念を件はぬ銭に不趨営なるものである。宗教意識 は、他迄也、情立の伴った、剥愛畏敬の情念の軍った丙観的観念としての’﹂とぼや教へに於てのみ翻られ るのであって、単なる形市上準的概念や説明仁依って講さるべきものではない。宗敢的生活に於℃は、 怖と衆生、紳と人といふ偵値的に異ったものとして、然も二つの賃在的具体者ごして、更にその超越的 絶封的なる紳︵開想︶が何等かの方法に於て伺別的相針的なる人︵現寅︶の中に内在し、救持するもの ごして敢へられ、考へられることによ b て、最も能く紳が働らく意識股態に置かれるのである。それは、 絶封他力のこ主ばや教へが、凡て抽象的概念でなくて具体的観念であるからであ b 、 然 ・ も 、 そ れ が 最 も 宗敬的であるからである。 説、その内奥に紳の働らく心は既に人の心ではな︿神の心であるから、絶封の柿を観るも
ω
は唯絶封 の一仰の心のみでなければならね。絶封の神の心とは、 一切を柿に於て翻る心でなければならね。法華 総方似品の﹁唯備輿仰乃能究寵諾怯賃相 L といふ語の立ち単に﹁諸法貧相の問ぞ究帯することが能主るのは請の悌のみであって凡たにはできね﹂といふ−立味ではなく、諸法の賓相︵多様の統一︶貨相の諸法 ︵統一の多様︶なる悌︵ノエジスのノ且?︶を糊龍ふものは備︵ノエ?のノエジス︶のみである Z い ふ意に外ならぬ。悌のみよく一切を備に於て視ることが能型る。彼の常不軽菩薩の信念左態度と行錯 とを正にこの典型的人格でなければならね。 視るものも備、 観らる、、ものら備でなければならぬ。 備の心︵能視の偽︶のみが自己︵所翻の備︶を観るこ之、ができる。勿論、能観、所視といっても、認一誠 論上の主観‘客観といふ論間的、推問的、間接的なる思惟作用に於げる判断の能所関係をいふのでな く、超論理的、先推珂的、直接的なる直視作用に於げる白知明謹の能所関係をいふのである。仰を見 能ム心は備の心である。備の心とは怖の働ぎに外ならね。︷大信﹂ J ﹄は、悌を伝やる心は備の心なるが故 に、﹁大行﹂ごは、怖を信やる心は怖の働きなるが故に、﹁大信大行﹂とは、偽の心はその働・
3
− な る が 故 に、﹁大行大信﹂とは備の働きはその心に外ならねが故にいふのである o 宗敬的信行は凡て怖の働3
で あ b、働きの備なるが故に、その本質上一体不二の具体的、体験的、絶均的信行であるご考へられる。か、、 る考へ方を一般に先験的方法ごも‘本管内的考察とも稀ふことがで主る。始費門に於℃も、自己︵人︶ が本来本費︵備︶なる乙とを始畳するのであるが、 之の﹁始賛するもの﹂は自己︵人︶の意識であって仰 の立誠ではない。然るに本費門に於ては、自己︵仰︶が本来本同党︵悌︶なる乙正を始費するのであるが、 信 五信 五 この﹁始費するもの﹂は働の意識なるが故に単なる始畳でな︿、その賞、本管なのである o 本来本質 なる自己とは備に外ならず、仰の始費とは本畳仁外ならね。故に本提へ悌︶が本畳︵備︶なることを 本畳︵悌︶するといふのが本管門の異相でゐる。 ﹁備が仰なることを備する﹂といふととは一見無意 昧の考へのやうに思はれるであらうが、さにあらず、先験心開串的立場から考へると、非常に重大な る意味を有ってゐるのである。﹁本費者が本費者なる乙とを始畳する﹂ごいふとと乙そ無意味な考へで ある。この始畳を人の意識と考へると、本覧者なることを始賛するのは、始費者であるといはねばなら 泊。従って、始費者︵人︶が本来本魔者︵悌︶なることケ始費︵人︶する乙とになるから、結局前の 始畳門思想に還へるの愚を放てせねばならね。然らば、本費者が本来木費者なる乙とを﹁本質する﹂ま は如何なる意識であらうか。本費門の立場からすれば、本費者︵偽︶である
t
意識するものは本費者 でなければならね。亦﹁本費者である﹂といふ意識は﹁本費者の意識﹂でなければならね。先験心現皐 的立場からすれば、本費者︵備︶が本費者︵備︶であると﹁本費︵備︶する﹂とは﹁自知自諾する﹂ 直畳作用に外ならね。それは体験である。備が自己を悌でゐると直畳する﹁自知自誼の立誠﹂こそ所 調体験ごしての具体的なる宗教意識である。 本費者が本費者を本費す乙といへば主、賓、蓮の三齢 仁よる概念的判断の如︿考へ誤る人もあらうが、それは推理や思惟によるものではなく、本費する本究者︵主︶も本賛される本費者︵客︶も一本究する﹂意誠仁、未捗の扶態に於て内在する、主客未分 の抗観的具体的事貨なのである。叉、﹁自知白誼する﹂こと‘﹁直観する﹂乙とを・﹁始費する﹂といふ ととがで
3
ぬであらうかと疑ム人もあるであらうが、−﹄れ亦概念的思惟に繭3
れてゐるもので、本来本 畳するもの︵主﹀さ本畳きれるもの ︵客︶とを二つ別側の賞体ご考へ、その中の一者の働−3
. か ﹁ 本 費 する﹂︵関係づける︶ことだと考へ謀るからである。二れは本来﹁本賛するもの﹂と﹁本費されるもの﹂ とが末 rnT れ?、別ならぎる具体的全体的一者であるのみならや、 か、、る一者の働き︵本費する︶と 働3
の一者︵本費者︶とが別ならず、本位する働3
が即本費者であb
、本費者が即本売する働3
であ る直観即賞在、賃在即直翻の一つの﹁生げるもの﹂である o ﹁本費する﹂といへばその裏に﹁本費者﹂ が、﹁本位者﹂といへばその裏に﹁本費する﹂働主が在るといふ体用不二の事貨である。これ生げる宗 敬意識であり、生ける紳である。 ﹁柿の生りる﹂こ、ろが宗教意識である。紳︵体︶と信︵用︶とは一で ある。信とは紳であb
、神とは信である。﹁神の信﹂であb
﹁信の紳﹂なのである。 滅後に於ける日蓮宗皐者の中には、 との﹁始費、本管﹂の義に迷 p n 妄者が多いが、鎌倉時代の H 本 偶数界の優れたる粋翠親鷲と共に組仰は本提怯門の最優れたろ徹者であったのである E 然 b 組師日蓮 の数へは徹底的本提門宗であった。然るに末代の皐岩本費の義に徹する能は子、始費の義に鱗叫んて、﹄し f;.l 五1三 五 四 て、本畳の義に逃ふ。純に信が、 A 信 に 加 仰 が 即 す る か 否 か が 問 題 で は な い 。 判 例 の 立 誠 、 信の意識が如何 な λ 立誠であるか金先づ問題としなげればならぬ内市る後そこに論ずべきものありとすれば、その同異、 即 . 4 けど考ふべきでゐる。徒らに、義班、法相を一先ぷを止め、異に生げる宗的意誠に如何に本慢の義が 生きるか、本費門数は如何にして宗教立減少−導き能ふかといふ﹁生主党敬義﹂﹁生当た教串﹂の建設に 遁準すべきであらう o 生ける心の糧となり、賞際に於て力強く心守護
H 3
生かしてゐるといふことに於 てはキリスト敬、津土真宗のみならず.天間数とさへ比肩し得ない。知何に同教徒の賞際的信仰が敬 義や教義畢さ何等闘する慮なく迷信的邪道を走ムリっ、あるかを観よ。 先験心理的に考へると宗教に於ける具体的﹁信﹂は﹁悌﹂に外ならねのであるが、この直視に於げる 憤値的賞在なる備が自己限定の作用によ b 、抽象されて、債値的なるもの︵現想.悌︶さ反償値的な るもの︵現賞、衆生︶に匝別され、救はんとするもの︵愛なる紳︶と救はれんとするものへ罪なる人︶ とが封照せしめられる。その抽象的概念的臨別は本来債値的なる具体的一者を、二つ乃至それ以上に 直別し、︵十界観念の如く︶、救梼、畳悟といふ神備の行が信仰、修道といふ人や衆生の行に針照せしめら れ、絶針愛や大慈悲といふ榊仰の心と罪業暗黒の人の心とが掛照せしめられるに至b
、こ、仁判然ご 抽刊さ入、悌と衆生といふ封立的亦は本末的閥係が考へられるは歪る。かく℃救はんとする働力と救はれんとする信力とがその根本的結合によって一ー救ひ﹂ ﹁成悌﹂といふ目的を完成するご考られる。そ の・質、思考内容として二つ乃至それ以上仁恒則された、債値的佃別として考へられるものは、本来、 直観に於ける唯一不二の具体的事貨である。か、、るものを抽象し、区別したものであるから、その結 人口の結果﹁救済﹂や﹁成偽﹂が可能と考へられるのである。本一栄異質的なるこっ、又はそれ以上の別個の も的であるならば、如何に結合せんとしても異質的なるが故に不可能であるが、本来一つの具体的事 貨は如何に分割されても本来同質的なるもの、的値的なるものなるが故仁その結合も亦可棋であると い ふ 乙 と が 能 主 る 。 然し、経験心開皐的立場からは、か、る先験的、根本的探究なしに、直にその経験的、抽象的立前から 経路的、例人的自我を根本的現在的なるものと考へ、﹁信やる心﹂は我等衆生の心の力である。怖を信 じ、見、出
3
、 悟 ・ 9 、供養するのも自己の信力であ b 、自他を救ひ、仰に充たされるのも、先、自己 の信力の如何を前提曹とする。凡ての精神生活は個人我の心の力によb
、宗教生活もその信心の有無に 依る。紳備は単に理想観念に過ぎず、資在するものは現在の例人我のみであり、仙人我のみ一切をそ れに内臓するものなるが故に一切は阜仁その内在的削念に過ぎ泊といふ濁我論を主張するものもあら うし、或は、信ずる自己三信性られる神仰とを簡単に別倒の濁立的貧在と考へる素朴的貿在論を主張す t~ 五 五五 六 るむのもあらし、或は現在的自己や自然界一りみ究在と考へ、紳は単にこれらのものを統制するものと しての仮設翻念に過ぎが、と主張する賓証主義者もあらうし、更にか、る仮設的観念によムリて人間の 貨際生活ぞよりよく導く乙とは時と場合によりては利益であるといふ便宜から来る賞利主義者もある で あ ら う し 、 又 金 ︿ 一 岬 仰
ω
存在を否定する無神論者もあるであらう。然し何れにしても、仮廿、それが迷 信であらうとも、鰐験心開皐上、宗教的立減の存在の事貨を否定する乙とは能主ぬ。一宇宙の内奥に神の 賞在を洞察し、己心の背後に紳の光を直鵡せんとするのも自己の信力でゐる o 乙の自己の伝力は疑ふ イ か ら5
る現貨の事買であり、仮令、一岬が単に非賞在的理想観念に過ぎ泊としても宗教意識の存在の事 買は貫証的に疑ふべからゴるものである。 乙の我等人聞の信は人、時、慮によ b て獲動するものであ b 、偽力に劃する我等の信力なるが故に相針的信である。か、る考方ケ一経験的抽象的方法といひ亦始 費 門 的 考 察 ご も い ふ こ ? と が 能 主 る 。 との自己の信力全劃昭一するものが、非技亦は超我の備である。備は自我に内在する到想であらうが、 自我ケ司超越する仮説的賞在であらうが、何れにしても我等の信心に関係する限 h ﹁ ” 組 念 ﹂ と し て の み 闘 係し得るのである。然L
更に深︿吟味する左﹁観念﹂’としての﹁神﹂に関係すると考へられる﹁信心﹂ さしての﹁我﹂も一つの意識内容として考へられてゐる﹁観念﹃﹂としての﹁我﹂に過ぎ品。従って凡て考へらる、ものは﹁観念﹂であり、 ﹁観念﹂としてのもの、みが﹁考へ﹂の内容たり得るのである。 然らば﹁神﹂や﹁我﹂を﹁観念﹂として意識内容だらしめる﹁我﹂とは如何なる我でゐらうか。恐ら く経験主義者は’﹄れに答へて一岬や我を観念ごして意識内寝たらしめる色のほ﹁現貨の個我﹂であると いふであらう口そして﹁現貨の個我﹂のみ異の貫在・であると考へるであらう。然し更に紳や我を観念 として意識内容たらしめるるのは現貨の個我であるといはれた所謂﹁現・買の個我﹂は院に﹁観念﹂と しての現貨の倒我であって論者の所謂現貧在の個我ではないのでゐる o かくて極まると乙ろなく、考へ られるちのは凡て観念として無限にその意誠内容だらしめられるに過ぎ泊のでゐる。凡て意誠一内容た b しものは、貫証的に存在すると否とに不拘、立説的解.験であ b 、立誠的終験として輿へられだ観念の みがその意識内容たり得るといふと之が能主る o 市して観念を意識内容たらしめるものは﹁意誠作用﹂ より外には何ものらない。といって意識作用は我といはるべきものでも、賞在といはるべきちのでもな ぃ。唯?ぞれは﹁意識﹂に於ける﹁内容の作用﹂であ b ﹁ 作 用 の 内 容 ﹂ で あ る に 過 ぎ ぬ 。 ﹁ 客 観 の 主 観 ﹂ で あ り ﹁ 主 税
ω
客観﹂であるごいふに過ぎ泊。然し無限に客観とし、内容として観念を創造する作用は、 草なる現在的個我でも.超越的賞在でもなく、それは認誠論上に於ける概念的抽象による超個人的先 験的作用 J ﹄いよはるぺ主ものである。従って作用と内容、主湖と客観等といふ概念は意識の、亦は認 信 五 七信 五 i¥. 誠の要素的抽象概念に過ぎねるので賞在的なものま考へらるイきではない。扱乙の超個人的、売験的作 用によ
h
て創造される観念としての個別的経験的内容は、先験心理串的には意識の本質は皐に﹁作用の 内容﹂であ b ﹁内容の作用﹂でゐると考ハられるに過ぎねのであるが、その内容をして内容たらしむる もω
、それが作用の内容として現れ出づるものは何?あらうか。内容に先立つ作用は内容たる観念ぞ創 遣するのに無や空からなし能ふものでもな︿、作用の内容は作用に先立って存在すると考へらるべき ものでもない。作用が内容を創造するには‘何等かの現想止か、目的とか標準ごいふものがなければな らぬ。亦内容とし℃の観念が観念たる矯にはそれを何等かの意味に於て生かすととあの普遍妥嘗的な る債値とか狸想とかいはるべきものが内在し℃居ねばなら向。然し偵値ω
客観性につい℃は.先験的 心理争や現象畢ω
立掛から考へらるべきことではなく、か、、る存在観的立場からは単に内容の作用であ b 作用の内容であるといふ意識の本質の究明に止まらねばならね。従って他の立場と親方とに依らね ばなら向。普遍妥営的なる﹁理想﹂がその作用なる現性として働主、そこに個別的なる観念を創造するの でめるから個別的概念の中には普遍的理想が内在し、観念に典へられたる理想の脈管にその血が遁つ る とτ
ゐ 考 へ ら れ ね ば な ら 向 。 従 て 観 念 ・ L 生命乞典へ、内容乞意味づり、内容として賃現する色のは草 在る作用に非ずして﹁理想﹂そのものでなげればならね。理想の働主は﹁作用﹂であり.内容たる観念に意昧を典ふるちのは﹁理想﹂である。宗教に於ける疎想は﹁榊﹂であ
b
、その作用は﹁救﹂に外ならね. か、る﹁理想﹃一一は経験的内容に先立つものであ与、亦その﹁作用﹂も﹁理想化作用﹂に外なら白から 先験的に知られたものであ b 、亦事貨として存在 M倒的に知られたものでな︿理想どして論班的に考へ られ、而も債値観の立場に於てなされたものであるから、先験的論理事的方法による債値観的考察であ るといふ乙とができる。 以上の知︿、宗教に於ける具体的直観的﹁信﹂を考察するに営b
、その現象を抽象騎納し、概念的 にをれが有つ普遍的法則を構成せんとするものは経験的方法による経験心理事的考察といU
、その本 質から現象を観照了解する現象皐的方法︵本質的還元ーと先験的還元︶叉は先験心理皐的方法によ b 、 絶罰的体験としての﹁信﹂を了解せんとするものを先験心理皐的、叉は現象串的考察といひ、更に具 体的﹁信一の普遍妥嘗性をそれが有つ宗敢的文化偵値の認識論的考察によって先験的に探究せんとす るものを先験論班皐的考察といふとごができる。か、る経験心開皐的方法によ b 信の現象の抽象的概 念的理解を、叉先験心理畢的方法によ b 信の本質の具体的観念的了解を、叉先験論理血中的方法により 信の普遍妥嘗的客観性| l 構威を把握するととができる。具体的信はその現象からする経験心珊州事的 立場からは﹁衆生信﹂と考へられ、その本質よb
する品川験心理皐的立場からは﹁備信﹂と考へられ、 信 五 九信 ノ、
。
その憤値性よりする先験論理串的立場からは単なる例入信に非ずして普遍妥常的客観的なる﹁超個人 信﹂と考へられる。然もそれは何れが異で、何れが俄であるごいはるぺ3
もので衣︿、各々その立場に 於て嘗然かく主張ちるM
1
8
ものである。各々一定の立場と方法と限界と意味とを異にするものである から、各々その知識性に於τ
濁立自存的真理性を主張し得るのであって互に矛盾すイきものでもなく、 従って叉悦同さるべ3
も の で も な い 1 。 純粋なる宗教は﹁一柳の体験﹂でなげればならぬ。そしてその﹁体験の神﹂が宗教的なる﹁ことば﹂ として現はれて来るのである。体験とは直観に外ならね。 ﹁神の直視﹂といっても﹁直観の神﹂とい ってる表現に於ける立味上の差異のみであって、具体的事賓としては﹁紳﹂といっτ
も﹁宗教的直観﹂ といっても同しことなのである。 ﹁榊﹂ご﹁直視﹂とは別ではなく直視に於げる宗教的賞在が﹁紳﹂で あり‘紳の賃在すると乙ろは﹁直観﹂よ h 外にはないのである円単に﹁直観﹂といっても、如何なるも のも始め直視に於けるものが思惟的なるものとして費展するのである。その直観に内在する異、善、 美.聖一等の客観的﹁到想﹂の如何によりて‘或は論理︵知︶的直削側、或は道徳的直説、或は美的直視、 或は宗敷的直観等ごいはれるのである。宗敬意識ごは紳聖の意識であb
、 神 単 一 の 意 識 と は ﹁ 神 ﹂ − な る ﹁庇蹴﹂の謂である。宗教意被は宗教的なる﹁乙ごば﹂︵道問、数説、言語.行潟等︶ ごして表現される。従って宗教的なる﹁ことば﹂は直観的なる﹁乙とば﹂である。 ﹁的﹂といふ語が附苫れること によりそれは直観そのものではないことを示すのであるが、それは﹁表現﹂といふものは、ノエシス、ノ エマの原始的意識が反省的傾向を有っととによ h てなされるのであるから、純粋写る直観ごいふこと は 能 込 ・ t m H た め に ﹁ 的 ﹂ と い ふ 誼 聞 が 必 要 ご き れ る の で あ る 。 後 に 説 く 如 く 、 ﹁ 乙 と ぱ ﹂ も 亦 ﹁ 直 視 そ の も の ﹂ で ある之ともあるのであるから、阜に﹁ことば﹂は﹁佐観的なるもの﹂に過ぎぬといムニとはいはれな ぃ。然も尚﹁的﹂の宇を附して積極的仁﹁思惟﹂といはや﹁直観﹂と稗するのは、思惟は皐に客観の n T 訴綜合をなす抽象的概念作用であるが、直観は主客未 R T の具体的観念作用であ b 、それが幾舟原始的 反省作用といふ思惟的なる傾向ぞ帯びて来ることによ b のみで﹄とば﹂として表現されるととがで主 るからである。従って宗敬的なる﹁乙とば﹂は直観的なる﹁乙とば﹂であるから、客観的なる開想が主 制的なるもの、力とな b 生命となって働いてゐる主客未舟の生生とした﹁観念﹂であり﹁乙とば﹂で ある。か一、る生々とした﹁観念﹂であ h 一.ことば﹂であってこそ初て敬説として、信僚として、力強く意 識に戚動を興へる乙とができるのであるョきれば思惟による、車に客観的なるもの、抽象的﹁概念﹂と しての敬説や信僚の﹁ことば﹂には信仰立誠乞引摺 b 、引着付る、たりの力がない。如何に深謹巧妙で あっても形而上串説が、数組等の具体的﹁乙とば﹂ほど宗教意誠を左右し符ないのを翻ても了解され t¥ -~ ノ、
f;j る で あ ら 弓 。 如何なる宗教の救説や信僚や−﹄とばの中にも、先に述べた経験的抽象的概念や先駿心開的、現象皐的 又は存在観的概念︵観念︶や先験論理的、憤値観的概念によるものが混然として錯綜してゐるのを観 る。然し、それ等は宗教に於げる現象、本質、異開性に闘する説明的概念、若しくは知識であって、直ち に宗敬的﹁乙とば﹂といふととはで主ない。然し﹁乙とば﹂として表現される震には直観的、直接的 反省炉、思惟による外はないのでゐ b 、而もをれが宗敬的﹁自費﹂として統惜されるのであるから、宗敬 そ体験する宗教的要求に基づくのでなく、宗敢を理解する事的臭求を満足させる錦には乙れ等三つの 方法に依る外はないのである。従って宗殺意識を探究するに方つでも、この三つの方法に於てしなげれ ばならねのである。 父、子及梨霊の三位一体設や心、備、及衆生是三無差別の三法妙設が、その根底仁於て一体不二融 即 の 義 を 、 単にその普遍的原理や本質かえ考へる平面的考察を一歩進めて. 幾分立体的に考へて来 ると、その中に﹁救ふもの﹂と﹁救はれるもの﹂ どの二つのものが識せられてゐるこさが解る。 女
u
何にも、現象的には、別相であり、或は別体的であるかの如くさえ考へられるものも、∼本質的には、是三一体であb、 H E 三無差別である。然しか、る平面的、静的な考へ方で﹁生ける宗教﹂が了解される ものではまい。立体的、動的な考へ方によってのみ﹁生りる了解﹂ができるであらう。三位に於て、 救ふものさは紳であち、救はれるものごは人︵聖霊︶である。そして、救ふものと救はれるものとを 媒介するロゴス ︵ととば︶は一面柿の性一貨と他面人間の相ごを布するキリスト ︵子︶であるが、この キリストなるもの、中には、ぞれ自身救ふものと救はれるものとの雨者をぞれの中に於て曲概するもの といはねばならね。本質的にいへば、神に於ても人に於℃も亦然・りであるが
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1
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亦三法に於て救ふちのごは備であり。救はれるものとは衆生である。そして救ムものと救はれ石も のとを媒介するロゴス ︵ 法 ︶ は 、 一面仰の性質と他面衆生の相とを有する心であるが、 乙 の ﹁ 心 法 ﹂ には、それ自分救ふ仰と救はれる衆生との雨者ををれの中に戒するものといはねばなら向。勿論、亦 本質的にいへば、備に於ても、衆生に於ても亦然りであるが1 1
0
乙れを平面的静的に考へると﹁体﹂に於ては三即: ﹁相﹂に於τ
は 一 即 一 一 一 と い は れ る の み で あ る が、乙の体と相との﹁関係﹂を本末、始絡といふ費生的、本質的に考へるご幾分立体的、動的了解が能 主るのである。然し更に救ふものと救はれるものとを、経験的抽象による平面的解轄でなく、先験的方 法による立体的解蒋をなすことによ b ﹁生ける宗敬﹂の了解が能きるのである。 信 ノ、,
、
問 右 の 如 く ‘ 一利救ふものと救はれるものまの二つの存在の匝別が可能であるとすれば、救済、成悌 といふ宗敢目的はをの何れの力によりて可能であらうか。若、宗教の救演が一重に﹁信﹂の如何にあb
と す れ ば 、 ﹁信﹂といふものが、その何れのカでゐるかごいふととは、最重要な宗教上の問題でな りればならね。本質的には一体不二、融即不離でゐるとしても、在共の宗敬意識の内容として会︿相 異ったかの如く考へらる、悌と衆生、紳と人との二つの世界を考へる乙吉なしには、宗教々義が成立 し得ないと考へらる、事も無理からね事である。紳の救は、人の罪惑がゐるからである。若し、人の 罪惑が無かった・ならば、神の救ひは無いのみか、罪の人なくば、救ひの神も必要ない筈である。この 針 立 的 な 、 天地を異にするかの如B
二つの﹁観念﹂と乙の二つの観念聞に於ける何等かの閥係となし には宗教の立義も、敬義も在b
得ないのである o 秘義は嘗にこの﹃観念﹄の中にあるといはねばならぬ。 ﹁見よ﹂﹁聞り﹂﹁叩り﹂﹁求めよ﹂﹁信壱よ﹂﹁説法せよ﹂等ごいふ語は、宗救的な神の語として、如 何なる宗殺にる見出3
れ る 。 乙れ明らかに人又は衆生に劃して、神又は備が、その絶封の権威 h v v 以て 命令るところの無保件的命令の話である。乙の無保件的命令は、批判主義的償値観の立場からいはしむ れば、個人的意識に内から輿ふるその背後なる超個人的意識の不詳不といふ構成からする絶封的命令 で あ るl
!全︿超個人的理想の力用に基づ︿一内からの轄﹂﹁理性からの磐﹂であるといふであらう、勿論この語は外から輿へられたる如︿戚守られるでもあらうが、それは草に外から興へられたるもの でな︿、内から奥へられたるものが外に於ても戚ぜられるのであるといはねばならね。然し経験的自 然科皐としての心理事的立場からいはしむれば、例人的主制例外の或者から典へ命じられたるもの、他 の力に基づく﹁外からの聾﹂ ﹁戚畳からの聾﹂であるご考へらる、であらう。仮令、内からの聾と考 へられても.此立場に於ては、外なる他者が私共の内にする﹁他者の韓 L l l 経験心理事的には、幻 畳又は錯畳としか考へられねし、亦ぞの他者・ 8 m且・なる仮想的賞在、仮設的観念としか考へられねので あ る が !
l
ーと考へられるに過ぎぬであらう。かく、興へるものさ輿へられるものとは、根本的に別個 の存在としか考へられぬのであるから救ふものと、救はれるものごが封立的、相封的なもの三して考へ ら れ る の で あ る 。 何 故 に 、 か︿封立的に考へられるかといムに、それ等は共に超佃人的意一械の内容に属する世界であ るからである。この内容は超倒人的意誠の作用によるものであ h 、越個人的意誠それ自身の一自己限定 によるのでゐるから、個別的、相卦的なものだらぎるを得ない。普遍者の自己限定に某づく個別的世 界は現象界であるから、現象的、経験的に考へられたる紳と入、怖と衆生とがその相に於τ
個 別 的 、 相劃的なるものとして考へられるのも、その成立の本位上営然のこと、いはねばならね。 信 六 五信 六 六 乙の二つの呉れる存在は、その本質が共に債値的なるものであるから、共に偵値的存在といはねば ならね。何となれば、それが戚性的であっ
τ
も、開性的で.あっても、先づ﹁直視﹂仁於けるもの、 n H V H A ﹁ 観 念 ﹂ で あ る 限 b 現象皐や先験心開皐が敬ふる如︿に﹁償値を本質とする色の﹂としての存在であ るからである o 従て、亦その内面に於て絶艶的統一さ体系的組織ごを有ってゐ・なければならね。苦し きうでなげれば、雨者は何等の闘係交捗をも有た向もの Z なるから無意味である。 一﹄聞り﹂﹁信ぜよ﹂等ごいふ命令が絶針性を有つ錆仁は、それが単に人や衆生に相劃立する如き紳叉 は備であってはならない。それは衆生であb
、人である紳悌 1 1 否一切即備である如き、艶立を絶す る憤値的具体的存在でなければなら泊。絶動偵値的具体的存在とは直視に於げるものでなければなら 官 :k 0 か、る問題は先験的本質論の問題であって、今の経験的現象的な心開事営面の問題ではないから後 論に待っとして、先づ先の命令語を抽象的に舟訴してみると、大体三つの関係的動立を考へるZ
Z
が で aA ・ L t o 第一に、命令するもの﹁神﹂の命令されるもの﹁人﹂ へ の 封 向 、 第 二 に 、 ﹁ 神 ﹂ に よb
て そ の 錯すべきこごを教示されたる﹁人﹂の目的的封象﹁神﹂への封向、第三に、これらを意識内容ごする 意誠作用さその劃象・との封立である。第三の封立は敬義内容をれ自体の問題ではないが、認識論的な問題である、と同時に、 一つの体験的な行的な問題でもあるから最も根本的な問題である o 然し、宗 敬意誠の先験的研究として前の封立的なもの、中に於てこれそ論ずる乙とができるから特にか、る一 般論をなす必要はない。第一の封立は、神の人への闘係でゐるが、神と人との闘係は、敬紺に於てき れる神の﹁乙とば﹂の巾に荘ると考へらるべきであらう、勿論、神とその﹁乙とぱ﹂とは本質的に不 可分のものであるが、その﹁,了とば﹂とその信者としての﹁人﹂との関係も亦必須的な不可分的関係 といはねばならね。従って﹁乙ごば﹂は唯一つの﹃::::::﹄であるといはねばならぬ。 第二の封立は﹁人﹂の目的々封象﹁神﹂への関係である。何を見、何を聞
3
、何を信ずるのである か。その﹁何を﹂とは何であるかといふに個々の﹁乙とば﹂に現はされたる根本的統一的なる宗教的 真理 1 備 教 の 所 謂 ﹁ 法 ! ﹁ 敢 し ﹁ 紳 ﹂ ﹁ 悌 ﹂ といふ如き、その宗散の究極的目的者l
l
即目的々封象であ る。この人乞目的々卦象に媒介するものは、直樹ごか、理性ごか、信念とかさいはれる宗教的意識 ﹁信﹂に外ならぬ。宗教的立誠とは、一押の﹁乙とば﹂邸﹁一柳そのもの﹂を信ずる意識に外なら白から、 一抑の﹁乙とば﹂それ自体が働らく立誠ごいふこさができる。 斯く考へて来ると、第一の闘係的調向は、紳が人へ、その﹁乙・こば﹂により℃本質的に結ぼれる閥 係であb
、第二の闘係的封向も、人がその目的々封象と﹁信﹂に於て本質的に結ぼれる関係である。﹁乙 f言 七信 大入 と ば L は紳の心であ
b
、神の心は人の心すべき心であるから、 ﹁ 乙 L E ・ば︶は亦人の心すペ主心でなけ ればならね。紳の乙とばを心する心が﹁信一である。従て、﹁乙とば﹂の働きは心に於りる働3
で あ る 。 ﹁乙ごば﹂と信とは本棋不可分的なる﹁宗教﹂そのものである。﹁乙とば﹂は﹁こ L ろ ﹂ ︵ 信 ︶ で あ b.
0 0 C D U D 0 0 ﹁乙、ろ﹂は﹁乙とば﹂である。法華縦喰論品の﹁汝等、若、能く備語を信受せば、一切皆営に傭道 、 。 、 を成ずるこごを得ぺし﹂古いふ文も能説、所説の別ならゴるを﹁悌語﹂といひ、語と信と分たれゴる ごころに於て主客別ならず一切が悌道を成ずるの謂である。従℃外面的に悌語といひ内面的に悌遁と いったのであるが一つの具体的﹁と芭ば﹂の表現に於吋る差で﹁信﹂は乙れを貫いてゐる﹁乙ξばの 乙、ゐ﹂でゐる。然し思惟の立場から観れば宗敬とは﹁ととば﹂︵神︶t
信 ︵ 人 ︶ ごの閥係であるとい ふことがで3
る o 唯問題は乙の両者の関係が如何なる意味に於ける闘係であるかにある。語即榊の心 が信即衆生の心を生かすと考ふべきか、又はその反動に於て考ふべきかである。換言すれば、その信 を衆生信︵信心︶と考へるか働信︵偽語︶と考へるかに何て敷への説2
・ 方 、 修 行 の 錦 方 が 異b
、自力 他力、難行易行の差を生ずるのである。然し本質的に考へると﹁乙とばのこ、ろ﹂であり、 ﹁ 乙 、 、 ろ のことば﹂なのであるし、叉それを知識する場合それの経験的現象に於てするのであるから﹁ととば﹂ の吟味なしに﹁こ\ろ﹂を、亦﹁・﹄、、ろ﹂の洞察なしにで﹄とば﹂を了解することはで主ない。国よb
意識の渡樋値的一般的研究をなす普通心開皐と異b
、 ﹁宗教的意識﹂は本来﹁債値﹂の意識である から債値の現はれなる ﹁ 乙 と ば ﹂ の吟味する事なしに知るととはできない。﹁こ、ろ﹂ I C ﹁ こ と ば ﹂ とは別ではない具体的直観であるから﹁こごぱ﹂を手懸’りとしてその裏に働らく意識を抽象してそれ の心的批態や動機等、それが有つ一切の組織や活動の怯則を科串的に構成組織せんとするのが宗教心 開皐である。悌敢に於ては古来との宗教意識殺生の動機を﹁殺心﹂と稗し、それが推移して行く質ご 量とに於りる朕態を﹁修行﹂と稀し、それの目的 φ 封象なる偵値を﹁菩提﹂と稀してゐるがとの礎心 修行‘菩提に於りる意識の僚理を接見し説明せんごするのが宗教心開串である。古来、賞在の客観面 のみを抽象してそれの因果法則を接見し更にそれを数量的にのみ測定して性質的考察を試みF
る経験 的自然科事の方法を生ける宗教立識に通用した錦に経験心理事はみ一く﹁立識の自然科血どになって了 ったのでゐる。従ってそれは渡償値的、抽象的、概念的、 一般的なる存在観に基づ︿心理法則襲見の 串たるに止まったのである。 然し元来宗教意識は債値の意識であ・ 9 、意識を宗教的だらしめてゐるものは﹁神﹂であb
﹁ こ と ば ﹂ であるからか、る債値をこれに内蔵する﹁ととば﹂を捨象し、単に存在観によb
て意識のみを抽象す れば渡偵値的抽象的意識に闘する概念的知識は得られるであらうが﹁京敬立誠﹂の本質なる﹁債値﹂ 生t ノ、 九士 二
。
は院に拾てられてゐるのであるからか、る方法による皐に於ては異に﹃生ける宗教意識﹄を了解する ととは能きないのである。その欠陥を看取して根本的にその方法を新たにし、新たなる立場に立って 具体的、憤値的な﹃立味を有つ宗教意識﹄を把握しゃうまするのが﹁純粋の心開串﹂ a 先験心開皐﹂ に 外 な ら ぬ 、 ﹁ことば﹂は﹁こ、ろ﹂である。こ、ろなることばを理想ごしてのととばt
表象として の乙さばとに院別するこ之が能きるとすれば敬義皐は珂想としてのことば﹁偵値﹂に閥係せしめて敬 組e e
通じて去現された表象としての乙とばっ一首行﹂を解轄し説明するに在る。表象としての伺別的な る二とばの内面に於ける理想としての乙とばを自証し、表現して、そこに多様の統一と統一の多様と の完杢なる組織を構成するのが純織宗皐である。宗教に於ける﹁乙さぱ t 一の生︵債値の体験︶と皐 の債値関係的方誌による組織構成が敬義皐であるならば、 ︵体験の偵値知識︶との統一的組織が組織宗皐である。側々の﹁生けることば・一仁内有する債依内容、 、
、
﹁ことばの生きる﹂生き方の現象皐的方法 仁よる宗敬意識の本質なる﹁統一の多様﹂の賃相の構成組織を﹁先験的宗敬心開串﹂叉はつ純粋の宗 致心理事﹂といふことが能ぎる o ことばと乙 λ ろは宗敬的直視に於ては不二一体であるから﹁乙、みの乙ごば﹂の具体的知誠なる組 織的敬義皐と﹁乙とばのこ、ろ﹂の具体的知誠なる先験的宗敬心理皐と相換も相資げて具体的宗教の了解が能主る。従って、ととばの吟味なしに宗教意識は了解されない、と共にこ、ろの洞察なしに敢 義皐は了解されない。更に、 ととばをして乙とばたらしめ、乙、、ろをして乙、、ろたらしむる宗教的調 値なる普逼妥営的﹁紳﹂の自覚なしには宗教の異髄を了解することは能きぬ。普遍妥嘗的宗教債値ぞの ものの批剣の皐なる宗敬哲皐の知誠を必要・とする所以も亦こ、にあるのである。 或は経験心現率的に、或は先験心列島ナ的に、或は先験論理畢的にその 一般的概論を試みんとするものではなく、特に﹁ことば J ﹄ ・
7 h
ろとの関係﹂といふ観点から宗教意識 私は本論に於て宗敬意識を、 が如何なるものであるかを考察しよう止するものである。 そとでまづ経験心開皐的考察から試みるのが順であるが鰹験心開皐もその材料は﹁こごぽ﹂である が内観法、観察法、賓験法等普遁心理畢の一般的方法に依る錦に渡償値的抽象的であって車に現象の抽象的 概念的問解に止まる。従って﹁乙とば﹂と﹁乙ころ﹂とを直に二つの事賓と考へ、紳と人とを二つの 賀在ご考へるのである。 経蟻心理事者は、超自然的紳皐者の主張する如く、宗敬意識は外部的な超自然的紳力によって臨時生 し、啓示3
れるものでな︿.全くそれは、人間それ自身がもっ主観的、内面的欲求の力によb τ
稜動 するものであるから、宗教の起原も亦乙の中に求むぺきであるさ考へ、その稜建も、要するに人類の・
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じ信 七 共同的な相互的戚化に基づくことは、言語、道徳、塾術等の如き他の文化現象と異ならないま考へら れる。従って、宗敢は、例人的、主観的産物であると同時に、赴曾的、岡体的産物である。何となれ ば.元来宗教は有限なる個人が無限なる絶封者によって自己が充たされようといム情意的欲求に基づ ︿もので、その根本に於て、自己が自己以外の或絶劃者の存在を認め、それと自己との精神的な交沙 闘係によって生じたものであるから、人間が本能的民有する枇脅意議から生産したものだからである。 従って、本質上、祉曾的意識の所産なるのみなら−?、事賞上、か、る枇曾意識を本有する各倒人の交 能 主 る 。 捗楼胸に依て、増や啓接、礎蓬せしめられたものであるから、 、、、、、、、、 一個の賃在する個人の意識の中には、 会く一枇曾的産物であるといふことが 一面、個人的意識を有し、他面、枇曾的意識を有する ものである。そして、宗教も、この個人的及ぴ吐舎的意識の所産として稜生するのであるから、要するに 賓在する個人の意識ーーー即、個人的主観の産物なのである。 然し、か、、る宗教意識は如何なる動機、 原因によ
b
て費生するのだらうか。 勿論個々の宗教意識 現象を把らへ指摘するといふ艇験的方法を採る・ならば、数限・りな︿乙れを列奉することが能る。何と なれば、現象の経験は人や時や慮に由って皆異るものだからである。凡そ宗教意識殺生の動機を概括 して二大別することが能きる。 一は、意識の内面から殺生するといふ主観的動機、亦は自殺的の動機で あ b 、他は、意識の客観的針象界たる所謂外界からの事象からの刺戟影響によ b て稜生するといふ 客観的動機亦は他費的動機である。勿論、 乙の主観的、客観的ごいふ主観客観の区別は躍密な認識論 的意味仁基づくものではない。経験科皐的立場からの抽象じよる概念に過ぎ泊。批判主義の認誠論か ら判断の先天的形式を主翻こ呼ぴ、判断の後天的内容を客観ご稀ぶならば所甜−﹄、にいふ主観的動機 も、客観的動機も、その主客共に判断の針象と
3
れたる意識であb
、事象であるから、共に剣断の後 天的内容であゐ o 従って‘認識論的意昧からいへば、共に客観的事象に過ぎ泊のであるから、主観的 動機といふ語は妥営ではない。客観的なるものはその内容たるものであり市も主観を誘導するものであ るから動機に主客はつりられ向。宗敬意識が償値の意識である之とを否むものはないであらうが、今と れを経験的に理解するに営 b 、凡そ二つの場合を考へる之とが能きる。勿論、ことばそのものは本質的 に立味的在るのであるが、 一は、ぞの意味的なこごばが意誠を働かすといふ立揚で、即意識ぞ宗教的た らしむる劫因が外から来り、他者五在るとい v ふ経験的立場でゐ h 、他は、自己の内面的欲求が宗敬的た ることを欲求するが故に宗数的ことば金創造し、亦は既成の宗致的・﹄とばを昧識し.そ乙に、宗教的な る立味、債値を見出して働らく立場で、その動因が内に在り、円己から来たるふ﹂いふ経験的立場であ る。前者は、外的な﹁乙とば﹂に何て、自己の立減が動かされる場介であ b 、後者は内面的な意減の 信 ー ヒ信 七 四 欲求によ h てととぱ敬意味づけ、亦は乙 1 r ばを創造するご考ふる場合である。前者にはととばが無立 一械的に受取られて、その意誠がその語の暗示のま\に導かれて無白血克的に働く肢態とことばが立味的 に働きかけ、自己を意識に味識せしめ、立誠が自費的に働く朕態との二つがある。後者には、外的晴 示を機 Z して自魔的に働らく宗教意識と先天的に宗教的意識を有し、か、る語を創造し、自接的に内 面から働きかげるものとが考へられる。か、、る意識の内、外といふ立場からでなく自費の有無から医 別すると、宗敬意識捷生の動機といはれるものには、無自賛的意識に基づくるのと、非自費的意識に 基づくものと、有自費的意減に基づくものとの三つを区別するととが能きる。第一の無自畳的意識仁 誌づくものとは催眠的情示品と潜在意説説とでゐ
b
、非自費的意識に基づくものとは翻念運動誌と直 受設ごであ b 、有自魔的意識に某づ︿ものごは主知設と主情設と主立設とである。 凡そ乙とば︵敬︶そのものの働く場所は、私共の﹁心﹂であb
、亦心を通した﹁世界﹂である。市 して、純粋に殺が働き得る世界は、個人的主観的な我意、我見を浸却した心でなければならない。客 観的な数そのもの、ま、になる心、数そのもの、導︿ま、にうもまかせたる心でなければならない l o 、、、、、、、、、、、、、 ﹁備選の信心といふものは、備の敢にまかせてうカがはず、 法華経をたもち、 題目をとなへて、 成 備、 、 、 、 、 、 、 、 をもとむればかならず備に成るとレム乙とをまとま、おもふてす乙しも、別代我意をまじへず、 う 1C がいの心な
3
を 信 心 ご い ふ な 9 0 ﹂ ︵ 充 合 同 会 議 丘 ノ 五 六 妙 宗 国 通 認 ﹀ か、、る立昧の信念とは、敢に封して 何等疑の心なき無垢清博心であ b 、全くその敢に随順し、その敬のま、に決定する心の謂である。 と とばのま、になる心、語のま、に生主る心でゐる。 Af
雀 陣 内 ” H H ” 五 弦 経験心開皐的立場からいはしむれば、凡そ外他から輿へられた語が、その立のま、、に力を振ひ得る 心的賦態は、全く浸批判的、催眠的立誠航態で、殆如何なる暗示観念でも、直にそのま、異貨なるも のとして受取られ、その暗示概念のま、に働く如主立誠状態に於τ
最可能であ b 、亦有効であるとい は れ る で あ ら う 。 古来﹁催眠﹂といム語は極めて不適嘗の語であるが﹁的﹂といム宇を補う乙ごに依 b 、或種の立誠 山 肌 態 を 言 ひ 現 は す に 差 支 へ な い i o 乙の催眠的意識肢態とは.立誠統一の最も良く行はれた結果現はれ るもので、それは忘我の立説であ b 、暗示観念のま、、に働らく立誠状態であ b 、暗示の最効果的な立 誠状態乞いふのである。或一点に住な力を集中し得る性向を有つ立誠は最もよ︿催眠術にか、り易い のであるが、それだからといって、それはサ Y ぺ ト リ エ Y のジヤローの FROH ︿ O ロω
巳 ℃ 旦 ﹃5
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等の 信 七 五信 七 六 回
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等の所 説の如く、催眠的立識と通常立識との問には、何撃根本的差異があるのでな︿、唯陪一不の剣力が最ゐ 、 、 、 らたかな立誠批態乞指し℃いふに過ぎない。催眠的意識は意誠が或点に集注の3
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ロ 可2
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れたその 如︿、身心に異常ある病的なものではなく、 ナ ン ジ イ の ぺ y y A イム 極超るものでゐる。外他から輿へられた刺戟に依って中心統舎が行はれたものであっても、叉は、内 而から興へられたる刺戟に依って起されたもめであっても、何れでも差支へないのであるが、多ぐの 場 合 、 か、、る統合は立誠それ自身にあっては、有立的に行はれず無立的に起るものである。勿論、か ‘、る立誠朕態が有立的に起っても、又は無立的になされても何れでも差支へない。通常意識は、それ と異った種々の反劃槻念が働けば、如何なる暗示翻念が輿へられτ
も、是等の概念に障げられて、有 効に働3
得ない。然し、催眠的意識は、中心統合の極とはいひながら、自費的統一的活動会なさね無主 的立誠蹴態であるから‘輿へられたる暗示のま、に働︿のである。従って、事賞、在るものが無いや うに見え、無いもω
が在る様に見ゆるわ畳や、事質在る或ものをそれと金︿異った或他のものと錯誤 して見る錯畳を起す場合もあ b 、叉誇大妄想や魔ものに滋かれたやうな非人格的行錯たなしたり、無 立昧に喜んだ b 、悲しむといふ人格麗換の如き現象を起す場合もあるのである。何れにしても、如何 なる附示によって動︿にしても、特にとれ念行はふといふ白骨的立志の伴はぬものでゐるし、叉その時一不次第になるのであるから、自費的、統一的立識活動といふととは能きない。 催眠的立識蹴態に於ては乙とばは一つの暗示観念として働らくのである。ことばの通
b
に信じ、思 ひ、行ムのである。乙の場合、別に考へ様として考へるのでもなく、信じゃうと願って信子るのでも なく、行はふと立志して行ふのでもない。唯乙とばのま、、に考へ、信じ、 行ふに過ぎない。そ乙には 別仁心ととごばとが劉立的に存在するのでもなく、又その乙とばを立誠して﹁心﹂が,﹄れを考へ、信 じ、行ふのでもなく、 乙とばをれ自身が心となって働らくのである。 いはば乙とばに謹かれたる般態 で あ っ て 、 ・ た 刊 、 ﹁ 乙 と ば の ま 、 に う も ま か せ た ﹂ 肢 態 で あ る 。 か 、 、 る 山 肌 態 に 於 て は 絶 劃 債 値 的 な 乙 と ばは、充分その威を振ひ、をの効果を如貨に賞現し得るのである。 散へと信心との関係を、 かくことばぞ外他的暗示観念ご考へ、信心を催眠的意識と考ふる場合、こ とばの効果は.債値的立場から見て、勿論、無意義なものでは者い。見逃し難き或異賓と偵値とを有つ てゐるとも考へられる。乙とばのいふべからまる魅力が、人の心を根本的に魅了し、陶酵させて、あ たかもととばに滋かれて了ったやうな生活は、如何にも眠明示観念とし℃のことばに懸かれた催眠的心 班般態であるか、又は、それに酷似したものであるが、 乙 の 場 合 、 その乙とばが批評的に見τ
、償 値ゐるものであれば、その業も債値あるものであるご考へらる、から問題はないが、若しをの暗示的 信 4二 七信 七 八 ととばが反町値的なものであるならば‘ ﹁鰯の頭も信心がら﹂といふ迷信に陥つ
τ
了ふのみならず、 有害無益な反償値的業となるであらう o 又、自費的統一を失って、他の濁立的諸文化の構成とその濁 立性とを侵害する 111 各その濁立性の故に本質上侵害当る。へきものではないげれども、ーーが如きこ とそ敢てする如3
反理性的なものであれば、完3
文化生活を毒するものであるから﹁宗教は阿片なり﹂ として排棄さるべき破自に陥らねばならぬのでゐる。 大本敬、天理敢、異言宗、 日蓮宗の析暗法は一 種の催眠術であることに間違はないが、就中日蓮宗のそれは木剣の動3
と行者の行相とで目を、讃経 と木剣の一菅で耳を肱惑せしめて戚費を奪ひ、 ﹁紳単一なる不思議力を有った経典﹂といふ先入観念が心 を 奪 っ て ゐ る か ら 、 乙れ程勝れた催眠術はない。乙れを迷信に陥れるか否かは要するにその陪一不観念 の如何にある。蓋、現行の暗示観念は殆迷信的であるから宗義の根本から穆出した﹁敬へ﹂三しての 暗示観念を組織し、適用するこ止に努力しなければ、 心理事者や矯政者から非難.禁止ω
憂3
目をみ ねばならな︿なるであらう。既刊皐的にいへば一つの精神療法としての効果があり、宗教的にいへばそ の暗示観念の如何によ h ては相営の債値がゐるといはねばなるまい。然しそれは最密な意味では、宗 敬的枇曾事業三共に決しτ
﹁宗一敬﹂そのものではない。唯﹁宗教的催眠法﹂といふことが能きる。 絶封に乙とばにうもまかせて﹁一柳を見﹂ ﹁悌語を聞く﹂心理状態は、 乙の催眠的朕態に於て、最‘。照著であ b 、亦容易に可能でもあると考へられる。か L る立場に於ては、寧ろ﹁柿が一柳を見﹂ ﹁ 備 語 が悌語を聞く﹂といった方が趨営であろう。傭敬の所謂﹁皐信無解﹂といふ語の意味が、如何なる心 理朕態を指していはれるのであるかは問題であるが、或意味からいへば、 乙の催眠的状態、叉は群集 心開の如
3
波間性的、無自畳的、無批判的になった心、又は皐仁戚情のみが鋭敏に働主、暗示力が最 有効に働ら︿場合の心理朕態を指していはれてゐることもある。然し、私は偶数の所謂﹁草信無解﹂ とか﹁無念無想﹂といふ語が、その正賞なる本来の意味から考へて決して渡向性的、無自質的、無批。
判的なものではなく、それは寧ろ理性的、白骨的、批判的なるものをその内に出概する直観的、非自畳 口 的、非批判的なものであると思ふ。 凡そ、暗示力の有効なのは、文明人よ h も野蛍人に於て、又大人ょ。小供に於て有効であるとレふ こ と も 能B
るであらう o 宗教家や轟術家等は﹁小供の撲な天真の心﹂ごいって、純情的な無雑念の清 浮心を憧れるのであるが、如何にも小供の心は、 一面純情的で、無雑念で、情揮である。けれども、 他面、粗野で、幼稚で、盤的できへあるといふことを忘れてはならない。勿論、彼等の所謂、 天 異 の 心とは、その良き一世田のみを皐揚して稽へた語であるには達びないげれども、他面粗野で、幼稚で、齢、 的でさえある貼は、非理性的で、非白血宜的で、非統一的なる蟹人の心開と異らなレのである o その非 信 -1.; 九A 0 開.性的、非自魔的、非統一的意誠といム助から考へると、極め
τ
、催眠的肢態ゃ、群集心却に酷似し てゐるのである。然し、前者には自我意誠が存在して居るが、後者にはそれが存在せねし、亦非珂性 的、非自魔的、非統一的といっ℃も、それは文化的に品開化されてゐな h w・
f.ぃム債値的見地からの見界 であるといふ貼は、その根本的差異でゐる。 純粋の催眠的意誠に於ては、所有自費的理性活動がなく、唯その暗示観念に動かされ、 一切の心的 生活が、その暗示民基く推移によって占領される。催眠状態が、深ければ深い程、増々、刺戟に劃する 威臆作用が鋭敏であ b 、睡眠時の意械と異 b . その意識は眠ってゐるのでな︿、 生々として常に醒 め て をb
、興へらる、、暗示への戚受性が鏡く‘来るべき活動の準備危なし℃ゐるような意識般態であ る。然し、何れかといへば、受動的であって、自主的、自費的でないのみならや、暗示の如何によっ て援動するものであるから‘全体的に一貫した漣絡と統一とを歓︿場合が多い。観念運動それ自体に 統一的体系的なところがないのである‘例へば﹁放は狐に﹂といはるれば、狐らし3
行 錯 を な し . ﹁ 榊 の 使 命 先 ﹂ と の 暗 示 に よb
それらし3
態度をz
b
、 叉か、、る積極的、直接的陪示でなくて色、﹁設は何 者だ﹂と消極的、間接的暗示を典ふれば﹁われ乙そは稲荷大明紳’一r
等と答へて‘それらし3
態度を まって行矯する如き、叉﹁神は寅在する﹂との﹁語﹂のま、に、何の疑をも生ずる乙となく.直に貰在すると信じ、 稀名や信心によりて一押のあ救
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がいた立けるとの ﹁ 語 ﹂ をそのま、無批剣的、 決 定的に信じて疑はねといふ具合に、全くその暗示概念に到してつ疑心﹂を差柿ん、だ b 、反到の観念に 由って﹁反省﹂した b する如3
ことがないのみならやl
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﹁疑心﹂﹁反省心﹂.か起った時、それは院に 催眠的状態を股した畳醒時の立識である|| i 叉それを信じようとして信ゃるのでもなく、行なはふご 立志して行ふのでもなく、杢く意志の努力なき活動であるから、凡てが無自覚的、無統一的である。 催眠的状態や群集心現は、常態的なものでな︿、礎態的心理状態である。何となれば、間性的、白 受的統一性を有たねからである。常態的意識に在つては、この理性的、自畳的、統一的活動をなすの である。といへば、小児や野賢人の意識も乙れを竣態的といムかといふに、誰しも﹁然らず﹂と芥へ るであらう。麹態とは、常態に何等かの生理的又は心開的歓陥が起って正常なる統畳作用に於りるそ の統一一性を欠けるものである o 小児や蛍人の立誠は、寧みその常態の原始的拡態であって、非開性的 ではあるが、反理性的でもな︿、跡捜態的でもない。寧み、それは白川倒的だといはるぐき原始的立誠拭 態である。直観的とは反則性的といふのでなf
、非理性的といふ乙とである。非向性的なるが故に白 畳的でなく、日費的ならざるが故に、統一的でないのである。然し、決して反自畳的、反統一的なの ではな︿、理性的なるもの、自費的なるもの、統一的なるものを、それに於て本有するともいふべき 信 A信 A 一原始的意識﹂なのである o 自費的意識の原始的なるものは、非現性的ではあるが趨態的ではない。 向仁も述べた模に、ことばの働らく場所は﹁心 1 一であり、心を通した﹁世界﹂ でなりればならぬか ら、心の完き働きは.その白畳的統一一性にあ
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、叉﹁世界﹂の完き生活は、その間性的活動に基づく ものでなげればならね。心的活動を完ふせしむる自費的統一性と、完主文化生活を管ましむる間性ご を内に有つ﹁信心﹂に非ら5
る限与、異に正常にして偵値的なる宗敢的信心とはいひ難い。 然るに、併眠的意誠や群集心理の如き意識肢態は、全く乙の間性的、自先的統一性伝放く襲態的の も の な る が 故 に 、 正常にしτ
債値的なる﹁信﹂に非ずといばねばならね o 債値的な信とは、それ自体 ﹁ 押 想 の 働S
﹂ごしての﹁信﹂の謂で去る。宗教意識|!郎﹁信﹂とは理想の意識である。宗教的な る理想の意識とは、﹁紳の意誠﹂の簡でなげればならなレ。経験的にいふならば.﹁人が一柳を。意識する 意識﹂が﹁信﹂であるが、先験的にいふならば﹁柿が。白からを意識する意識﹂が﹁信﹂であるまいふ ことが能きる。加之.その本質から考へて、 乙とばは本来それ自身内面的統7
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一 有 ち 、 亦 意 味 そ 有 つ 桃山であるが、それは、本町無意識に在つ℃ m t み意味を有つのである o 意味とは意識に於ける意味であ る。意識とは本来自畳的統一を本性ごするものであるから内面的統一を有 η た乙とばが自費的統一に 於τ
働くところに・﹄とばが意味を有つのである。きればことばが如何に内面的統一を有っとしても意誠の自質的統一が伴はね限り﹁意味﹂といムものが生じないのでめる。凡て意識は乙之ばの意識であ ・9 、ことばは意識の乙とばであって初てそれが意味として働くのである。回よ
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乙とばと心とを分け るのは思惟の抽象的概念作用によるもので、・本市根底割に於ては、不二一体なのである。故仁﹁乙とば の働き﹂が即信心であり、信心の動力が﹁とごば﹂である。 ︵B
︶ 潜 在 意 識 設 品川づ潜在意識動機設に就て概説すると、潜在意識皆Z
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は関下立識E
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とも和ばれ、誠域上に於て活動する通常の意識l
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現識に劃して、誠域下に於て生きてゐて催眠拭態 等に現はれると考へられる。且て、意識内容だりしものの再び記憶として現れ今、所謂現誠から消失 したものや無意識的に入 b 来った外界刺戟等を貯蔵する無意識的意識を呼ぶ o 乙の潜在意識は、千里 眼1
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眠 ア レ . ρ ジイ等の擾態的心理現象を説明する震に用ひられてゐる観念である o 勿論心理皐上 不動の定説とはなってゐないが、その穂態的なるさ否とを聞はや、仮じ、それが仮定観念に過ぎ泊と してち便利なる観念である。 過去に於て典へられた印象が、議域下に在って再び現誠に止らず、無意的に貯蔵されいて働いてゐた ものが、義心と同時に識域上仁忽然まして現はれる。これ無意識的殺心の原因たるもので.人は、意 信 i¥.信 i¥. 悶 識的に穀心するものもあるが、か、、る無意識的礎心の場合が可也多いといムととは、宗敬的経験とし て人の能︿経験すると乙んである。 潜在立誠現象に於て、 過去の無立誠的印象が無限仁貯蔵されてゐるごい人事究は、 併眠術的賞験に 依て賞証されると乙ろである。亦、夢の心開も、その観念内容は、多く過去の立誠的亦は無立識的印 象か、牛酪半睡賊態に於りる外的刺戟によって誘導され、時間的、空間的、及、論問的秩序なし仁乱 出して来る心開現象でゐる。 政官心といふのは、現賞投の自費的個人意識の立場から珂想我の超自質的超個人意識
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立場に換位し た心的蹴態乞いムのであゐ。 と れ を 心 開 曲 学 上 回 心 。35
吋 回 目 。 ロ と 秘 し て ゐ る が 、 宗 敬 的 信 仰 や , 費 乙 し た時の心開朕態は、人に依ってその時問、及程度の上に差異があるとしても、信仰の心開は必ず﹁回 心﹂の肢態に於りるものでゐる。超個人的理想我とは宗教に於ては所謂紳悌であって、その意識の内奥に於 て神を戚有して、その一岬の光と力と慰めとによって生かされて行︿心的肢態をいふのである。 原なる個人的現賃我がそれ以上の、市もそれの根本たる、そして亦それを生命づけてゐる超桐人的 時想我によって克服された心的朕態は、既に現賞我の意識仁よっては意識され得泊無意誠的神秘的一小 可思議の意識肢態ごなって生きる心的批態である。か、、る立誠状態は、現設から生れるのでな︿、会く淋在態誠から生れて来るものとよち外に考へられぬといふのが潜在立誠動機説である。 提心とか、宗敢意識といふものが、潜在意識から起るといふ考へは、自に見えず、意識されぎる程 の微細なる種々の経験が蓄積された結果、無立誠的に起乙