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<記念寄稿>山梨での生活が最も長くなりました 利用統計を見る

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49  山梨医科学雑誌 30 周年記念特集号に原稿依 頼がありました。今年度から本雑誌の編集委員 長を引き受けていることが関係していると思い ますが,私が山梨医科大学(当時)に赴任して からの約 24 年間について簡単に記述すること で責を果たしたいと思います。  最初に,山梨に赴任する前の履歴を簡単に書 かせていただきます。1978 年に医学部を卒業 して小児科に入局し,大学での 2 年間の研修の 後,宇都宮市の関連病院で 2 年間の臨床研修を 行いました。この後,大学に帰局し分野毎に分 かれている研究班に所属するのが一般的なコー スでしたが,専攻しようと決めた血液学の研究 班が大学内には存在しなかったため,教授に懇 願し,当時大学講師であった中澤眞平先生が血 液研究室を開いていた浦和市の一般病院に赴任 しました。忙しい一般臨床をしながら,白血病 症例の細胞膜マーカー解析,白血病細胞株の樹 立,モノクローナル抗体の作製などを夜間と休 日に行う毎日が続き,研究の面白さを初めて体 感しました。次第にこの研究室で行えることの 限界を感じて,海外留学を希望していましたが, 諸事情でなかなか果たせず,1989 年秋にやっ と米国ボストン市のダナファーバー癌研究所腫 瘍免疫部門へリサーチフェローとして留学でき ました。ここでは,T 細胞サブセットに反応す る各種モノクローナル抗体が認識する分子群の 機能解析を中心に研究を行いました。赴任1年 目は苦難の連続でしたが,次第にデータが出る ようになり,また世界の基礎研究のトップを見 ていられる研究環境に強く魅力を感じ,当初 3 年予定の留学期間を伸ばすつもりでしたが, 1992 年春に中澤眞平先生が山梨医科大学の小 児科教授になられ,帰国命令がおりました。同 年 9 月に米国から直接山梨医科大学小児科に赴 任しましたが,山梨県の県庁所在地が甲府市で あることは知っていたものの,日本地図上にお ける山梨県の位置もわからない程に予備知識が ありませんでした。  初めて新宿から甲府に向かう中央線特急電車 に乗った時ですが,ぼんやり見ていた電光掲示 テロップに『KANJI limited express bound for Kofu』と出たのでびっくりしました。よく見 ると KANJI ではなく,KAIJI でしたが,何と なく歓迎されているようで嬉しく思ったのを覚 えています。辿り着いた甲府盆地は富士山が見 え,四方が山に囲まれ,私が生まれ育った秋田 県横手盆地にそっくりでした。愛犬の散歩で毎 日の様に登っていた横手の通称お城山からは鳥 海山が左右対称に富士山のように見えていたの で,私の中にはこの形に強い愛着を感じる刷り 込み現象があるようです。ああ此処なら気持ち よく暮らせそうだと強く感じ,今でもその感覚 は変わりませんから,有り難い事だと思ってい ます。短期間の研修医期間を除けば初めて大学 人になった訳で,不安もかなりありましたが, 医局の皆様にやさしく接していただき,安心し て仕事ができました。中澤教授は,『金は出す が,口は出さん。全てお前の好きなようにやれ。』 と言われ,臨床・研究とも本当に忙しい日々が 続きましたが,充実していました。1994 年か ら造血幹細胞移植を立ち上げ,実績を重ねて 5 山梨医科学誌 31(2),49 ∼ 51,2016

山梨での生活が最も長くなりました

杉 田 完 爾

山梨大学大学院総合研究部小児科学講座

記念寄稿

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50 杉 田 完 爾 年で日本骨髄バンクの認定診療科になることが でき,非血縁移植も始まり,移植件数は昨年で 130 件を超えました。研究に関しては,『難治 性小児白血病のバイオロジーを詳細に検討する ことで,治療に結びつけられる基礎データを構 築する』を一貫したテーマとしており,ゆっく りとですが,それなりの成果を継続的に世界に 発信できています。  2007 年春に中澤教授が退官され,有り難く も後任に私が選出されました。それまでは,エ フォートの大半を小児科血液班の臨床と研究に 注入していましたが,小児科全般に行き渡るよ うに意識改革がなされました。関連病院小児科 の充実に加えて県内小児医療の充実・発展にも 責任とやりがいを感じるようになり,中澤前教 授が尽力して甲府市に開設された小児救急セン ターに加えて,2008 年秋に富士吉田市に第二 の小児救急センターを開設することができまし た。365 日,夜間・休日・祝日の小児救急を大 学医師,病院勤務医,開業医が一致協力して全 県的にカバーするセンター方式の小児救急シス テムがここに完成し,『山梨システム』として 全国的にも注目を集めるようになりました。甲 府市センターには約 2 万人(私も月に 1 回出務 しています。),富士吉田市センターには約 1 万 人の受診が毎年ありますが,センターで入院治 療が必要と判断された児と救急車で搬送される 児は甲府地区の 4 病院,富士東部地区の 3 病院 で構成される二次輪番病院で受け入れていま す。昨年からは大学を中心に全県をカバーする 小児三次救急のホットラインを導入し,最重症 の小児患者を迅速に受け入れられるようになり ました。五月雨式に夜間・休日に受診する多 くの小児救急患者は長い間小児科医の QOL を 低下させてきましたが,『ON の時に頑張るた めの OFF システム』が確立され,小児科医の QOL は確実に向上しました。このためだけで はないでしょうが,小児科に入局する研修医は 毎年一定数を超え,有り難いと感じています。  2008 年度からは小児科関連の仕事だけでな く,大学・付属病院関連の仕事も増えていきま した。最初は各種委員会委員で済んでいました が,幸か不幸か次第に委員長の打診があるよう になり,嬉しくて引き受ける訳ではないのです が,一旦引き受けたからには真面目にやりたい と考えるのは小児科医の性分なのでしょうか, 忙しくなりました。2009 年秋,遺伝子疾患診 療センターが開設され,センター長になりまし た。臨床遺伝専門医,臨床心理士,遺伝専門看 護士がコアチームとなって遺伝相談,発症前診 断などを行っていますが,順調に運営が行われ て,2011 年度にセンター長を引き継ぎました。 2009 年度から感染対策委員長になりましたが, この年に新型インフルエンザが猛威を振い,感 染コントロール看護師との二人三脚で院内対策 に追われました。高いレベルの感染対策と感染 対策加算の維持のためには感染対策専従医師の 必要性を強く病院に進言し,有り難くも認めて いただくことができましたので 4 年間の務めを 終え,引き継ぐことができました。2011 年度 から CBT 委員長となり,共用試験の管理・監 督を経験し,その重要性を強く感じていました が,2013 年度から医学部学生キャンパス委員 長になりました。2014 年に CBT/OSCE の合格 基準が全国 80 大学で統一化されて合格証が配 布される事が決まりましたので,既に数年前か ら幾つかの大学で実施されている『共用試験に 合格し臨床実習を始める直前の医学科 5 年生を Student Doctor(SD)として顕彰する会』の実 施を本学でも行うことを提案し,県知事,学長 に参列していただいて第 1 回 SD 認証式(白衣 授与式)を行うことができました。この時に授 与される白衣(私が選びました!)は結構スマー トで,学生に気に入られているようですので喜 んでいます。2015 年度に CBT 委員長と医学部 学生キャンパス委員長の役目を無事に引き継ぐ ことが出来ました。私の性分は,引き受けた仕 事に関してはそれなりに真面目にやり,ある程 度の目処がたったら優秀な後継者にその仕事を 委ねるというものである感じがしています。現 在,リエゾンアカデミー特進コース部会委員長 の 2 年目ですが,来年度は無事に引き継ぎたい

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51 山梨での生活が最も長くなりました と考えています。各講座における臨床実習の充 実こそが,学生が卒後山梨に残って仕事をした いという気持ちを醸成させる原動力になりうる との考えの元に,今秋から臨床実習検討委員会 が立ち上がりました。今まで全くの闇の中で あった各講座で行われている臨床実習内容をプ レゼンしてもらい,講座の枠を超えて忌憚なく 話し合いをする中で,修正すべき点は修正し, 優れている点は多くの講座に取り入れていこう という画期的な試みです。既に 4 講座のプレゼ ンが終わり,参加者の間では大いに盛り上がっ ていますが,各講座からの出席者が少ないのが もったいないと感じています。万障繰り合わせ てのご出席を是非ともお願い申し上げます。  最後に,山梨大学医学部に関して普段思って いることを少し書いてみたいと思います。山梨 大学の理念は『地域社会・国際社会に貢献でき る人材を養成する教育・研究を行う(キャッチ フレーズ:地域の中核,世界の人材)』とされ ています。しかし,医学部においては,新臨床 研修制度の開始に端を発する研修医の減少,そ の結果としての各講座入局者の減少が進み,そ れを食い止めるための方策として,入学者の山 梨県限定地域推薦枠と山梨県出身者を中心とす る奨学金支給を極限まで進めています。ある程 度はやむを得ないこととは思いますが,この事 が他県出身者の差別感を強く誘導していること は紛れもない事実です。県内自宅から通学し, 卒後は山梨で働くつもりの経済的にも恵まれて いる学生に優先的に奨学金が支給されている状 況を横目で見ている訳ですから,アルバイトに 精を出さなければ経済的に非常に苦しい奨学金 非受注の他県出身者が卒後に本学に残りたいと 思う気持ちを持ちにくいとしても当然かもし れません。人口僅か日本の 0.7%である山梨県 出身者が各講座医局員の大半を占め,全国各地 からの有能な人材を集められなくなれば,地方 大学医学部は地方色一色のまま埋没し,臨床・ 研究的にも,公的機関からの予算獲得的にも衰 退していくことでしょう。今こそ,未来に向け た近視眼的でない魅力あるヴィジョンを県行政 とも協力して打ち出していく必要があると感じ ます。本学医学部には極めて優秀な基礎研究者 が多数在籍しています。しかし,各講座に与え られている人員はあまりにも少なく,大型研究 予算を獲得し,優れた研究成果を発信し続ける ためには,全国から優秀な大学院生が集まって くる魅力ある体制作りに着手する必要がありま す。大学予算が減額されてきている今こそ,後 ろ向きでなく前向きな思い切った方策が,本医 学部を『世界の人材を生み出す稀有なる地方大 学医学部』にする第一歩だと感じます。  生を受けてから,山梨での生活が最も長くな りました。私は山梨で暮らし,本医学部で仕事 ができていることを非常に幸せだと感じていま す。少しだけ辛口の内容が含まれているかもし れませんが,ご容赦をお願い申し上げます。山 梨大学医学部の更なる発展を祈念いたします。

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