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[研究ノート] 延喜太政官式に見える挿頭花について : 挿頭花装飾の位置

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Academic year: 2021

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見える挿頭花について

挿頭花装飾の位置

Engishiki : On the Role of Kazashi Ornamentation omoko (( ( 。とくに吉川真司氏によって、 が、 「 君 恩 ― 奉 仕 」 の 関 係 を 基 本 と す る 官 人 秩 序 と 位 階 制・ ま た、 昇 殿 制 の 成 立 を 契 機 と し て (( ( 、 貴 族 社 会 の 再 編 が 起 こ (( ( 。挿頭 花 。 楊 氏 漢 語 抄 云 。 鈔 (衍字 ( 頭 花 。〈 賀 佐 之 。 俗 用 二 頭 花 。 一 〉 (( ( 。ここで引用されている楊氏漢語抄は、 養老年間 (七一七 ~七二三)の古辞書であるから (( ( 、挿頭花が「頭花」を意味するとの認識 は八世紀初頭に遡ることが理解される。ところで、挿頭花には時代によ る意味の変化が認められる。挿頭花は生花を装飾する場合と造花を装飾 する場合とがあり、とくに造花を装飾する場合には装飾する花の種類と 装飾者が固定化していく。これまでは筆者はこの点を重視し、挿頭花装 飾の意義を貴族と身分標識の問題として提示してきた。つまり、生花の 挿頭花が造花の挿頭花へと変質すると花の種類に序列が定まり、挿頭花 装飾者の違いを可視的に表示する手段として機能すると考えた。しかし ながら、平安貴族社会の展開過程において、装飾する花の違いが何に由 来し制度的にどのような特徴を持つのかという問題については、十分に 論じることができなかった。そこで本稿では、延喜太政官式に見える挿 頭花についての規定を手がかりにしてこの問題に迫ってみたい。それと い う の も、 『 延 喜 式 』 で は 一 例 の み 挿 頭 花 に つ い て の 記 述 が あ る。 そ れ が延喜太政官式 (((考定条である。同条は八月十一日に、太政官職員のう ち長上官の考文を、太政官曹司庁で大臣に口頭報告する儀式である。そ ●

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の 儀 で は「 長 上 の 考 文 」 の 読 申 に 続 き、 太 政 官 正 庁 で 饗 宴 が 行 わ れ る。 詳しくは後述するが、定考では太政官の長上官の一年間の勤務成績が決 定 さ れ た。 そ の 儀 が お わ る と、 朝 所( 朝 食 所 ) へ 移 動 し、 太 政 官 厨 家 が用意した酒や肴を作法に則って飲食する。その場面は、 次 参 議 以 上 著 二 食 所。 一 少 納 言・ 弁 大 夫 等 候 之。 厨 家 儲 二 酒 饌。 一 次 大 臣 已 下 史 已 上 謝 座 著 二 座。 一 〈 大 臣 入 レ 戸。 一 納 言 已 下 入 レ 自 二 西廊。 一 列 二立南廂。 一 但六位在 二堂下。 一 昇 レ西側階。 一 〉 三献訖参議已上出著 二東廊。 一 頃之入 レ北戸。 一 更著 二穏座。 一 少納言 ・ 弁 候 二 南 廂。 一 盃 觴 三 巡 之 後 召 二 生。 一 史 生 列 二 立 庭 中。 一 謝 座 著 レ 座。 〈 其 座 在 二西 庁 東 廂。 一 〉 次 召 二 内 記 及 近 辺 諸 司。 一 〈 中 務・ 民 部・ 宮 内・ 勘 解 由 使 等 也、 其 座 在 二西 壁 下。 一 〉 次 雅 楽 寮 作 二 楽。 一 此 間 進 二 頭。 一 次奉 二見参簿。 一 事訖退出。 〈事見 二儀式。 一 〉 と定められている。太政官正庁での饗宴では大臣以下史以上が謝座し宴 座に着す。宴座の三献がおわり参議以上が東廊に退出した後、穏座が用 意される。挿頭花は、 その穏座の場面で進上するものと規定されている。   なお『延喜式』自体は延長五年(九二七)に奏進され、修訂の後、康 保 四 年( 九 六 七 ) に 施 行 さ れ て い る。 『 延 喜 式 』 序 に よ れ ば 延 喜 五 年 (九〇五) 八月に醍醐天皇が左大臣藤原時平以下十一名に下した詔によっ て編纂が開始された。時平の死去後は弟の忠平を責任者に、唐の『開元 式 』『 永 徽 式 』 に 準 じ、 『 弘 仁 式 』 と『 貞 観 式 』 と を 併 合 し、 両 式 を 削 り省いて一部の式にするとの編纂方針の下に作業が進められている (( ( 。延 喜 太 政 官 式 (((考 定 条 に は、 「 弘 貞 延 」 の 標 注 が あ る。 こ こ か ら、 こ の 条 文 が『 弘 仁 式 』( 弘 仁 十 一 年〈 八 二 〇 〉 奏 進、 承 和 七 年〈 八 四 〇 〉 最 終 施行)に遡り、 『貞観式』 (貞観十三年〈八七一〉完成、 施行)および『延 喜式』で変更が加えられたものであることが分かる (( ( 。   これまで延喜太政官式 (((考定条は、律令官僚制と考課との関わりで取 り上げられてきた。   例 え ば 野 村 忠 夫 氏 は 官 人 の 昇 進 法 に お い て、 毎 年 の 考、 す な わ ち 評 定を積み重ね所定の年数に満ちた官人個人に位階が授与され官位相当制 に 基 づ く 新 し い 官 職 へ 任 じ ら れ る 仕 組 み は、 「 考 選 」「 考 叙 」「 考 仕 」 な どの語で表され、これらの用語はそれぞれに有機的な関連性を持ってい たことを指摘する ((1 ( 。大隅清陽氏によれば、日本の考選制度は、作成され た考課の原案を読み上げ長官の裁可を得るだけのものであり、官人個人 の 出 頭 が 不 可 欠 で、 唐 の 制 度 と 比 較 す る と 官 人 個 人 ご と の 面 接 が 行 わ れ な い 点 に 特 徴 が あ っ た と さ れ る ((( ( 。 考 選 目 録 の 読 申 自 体 は、 天 長 年 間 ( 八 二 四 ~ 八 三 三 ) に 成 選 と 叙 爵 と が 分 化 し た こ と を 契 機 と し て、 考 選 読申の式日が太政官は八月十一日、諸司は二月十一日に定まる ((1 ( 。さらに 吉川真司氏は、先述したように五位以上の特権的地位を天皇との君恩― 奉 仕 関 係 で 読 み 解 き、 そ の 基 本 形 を 考 課 や 饗 宴 に 求 め る。 氏 に よ れ ば、 五位以上の成選制が放棄され、官職の年労が評価基準となる叙位制度の 再 編 が 天 暦 年 間( 九 四 七 ~ 九 五 六 ) に は ほ ぼ 完 了 し て い た と す る ((1 ( 。 ま た弘仁四年 (八一三 )以降に女性を五位以上に叙する 「女叙位」 が成立し、 男官の叙位儀から女官らが切り離されていく ((1 ( 。このように考えられると すると、延喜太政官式 (((考定条の変遷自体が律令官僚制の変化と対応し ていることが了解されよう 。『延喜式 』の条文が、どのような過程を経 て成立しているのかとの問題については、それぞれの条文を成り立たせ ている制度的な背景を含めて考える必要がある ((1 ( 。そこで本稿では、ひと まずは延喜太政官式 (((考定条が、 『弘仁式』 や 『貞観式』 を経て 『延喜式』 編纂・奏進段階までに変化した考選制度を反映しているものと考え ((1 ( 、律 令官僚制の変化と挿頭花装飾はどのように関わるのか、延喜太政官式の 挿頭花規定は如何なる意味を有するのか、これら二点を具体的な検討課 題 と し て 分 析 を 進 め た い。 第 一 章 で は、 『 西 宮 記 』 以 降 の 儀 式 書 な ど か

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ら挿頭花装飾の特徴を抽出し、延喜太政官式に規定された挿頭花がどの ような意味を持つのかについて分析する。第二章では、挿頭花が装飾さ れる穏座の場面に着目し、挿頭花装飾の歴史的な位置について考察を加 える。 挿頭花と太政官 ―『延喜式』の挿頭花と『西宮記』の挿頭花   太 政 官 は 行 政 組 織 の 要 で あ る。 延 喜 太 政 官 式 (庶 務 条 に、 「 凡 内 外 諸 司 所 レ 庶 務、 弁 官 惣 勘 二 太 政 官 一 と あ る よ う に、 諸 司・ 諸 国 か ら 報 告される決裁事項の政務処理を行う ((1 ( 。   定考自体は太政官曹司庁で行われる。太政官曹司庁は、太政官の日常 政 務 の 場 と し て 弘 仁 十 三 年( 八 二 二 ) に 外 記 政 が 制 度 的 に 確 立 す る と、 公 卿 に 対 し て の 厳 格 な 作 法 が 要 求 さ れ る 儀 式 の 場 と し て 機 能 し て い く ((1 ( 。 八月十一日定考では、儀式に先立ち公卿聴政が行われるが、太政官曹司 庁での公卿聴政には退出の作法に違いがあった ((1 ( 。つまり太政官曹司庁で の儀礼は、より厳密な儀式の作法が要求されていたと考えられる (11 ( 。本章 で は、 ま ず は 第 一 節 で こ の 点 を、 『 政 事 要 略 』 巻 二 十 二、 年 中 行 事、 八 月上、定官中考から確認したい。次いで第二節では列見・定考の挿頭花 装飾の特徴について検討する。第三節では挿頭花の違いが太政官機構の なかでどのような意味を有するのかについて考察する。 1定考にみる挿頭花装飾   『 政 事 要 略 』 に は、 現 行 の『 西 宮 記 』 よ り も 詳 述 さ れ た『 西 宮 記 』 本 文 が 引 用 さ れ て い る (1( ( 。 そ し て そ れ は、 『 西 宮 記 』 を 著 し た 源 高 明 が、 大 納言として習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)の頃 の 儀 礼 を 伝 え て い る と い う (11 ( 。 現 行 の『 西 宮 記 』 は 、( ⅰ ) 天 徳 元 年 ~ 康 保 元 年 以 内( 九 五 七 ~ 九 六 四 ) に 源 高 明 自 身 に よ っ て 編 纂 さ れ た 原 撰 本 と、 ( ⅱ ) 高 明 自 身 が 康 保 年 間 頃( 九 六 四 ~ 九 六 七 )、 も し く は 左 遷 さ れ て い た 大 宰 府 か ら 帰 京 し た 天 禄 三 年( 九 七 二 ) 以 後 の 十 年 間 に 補 訂 し た 部 分、 ( ⅲ ) 源 高 明 の 死 後、 万 寿 四 年 ~ 長 元 九 年 頃( 一 〇 二 七 ~ 一 〇 三 六 ) に 源 経 頼 が 多 数 の 勘 物 や 注 記 を 加 え 現 行 の『 西 宮 記 』 に 近 い形で新しく作成した部分があるなどの大幅な改変が見られ (11 ( 、時期の確 定 が 難 し い。 そ こ で 本 稿 で は、 『 西 宮 記 』 の 原 撰 本 に 近 い『 政 事 要 略 』 所引西宮記本文を検討することで、挿頭花の用いられ方に変化が生じた 時 期 の 確 定 と そ の 様 相 を 明 ら か に し た い 。『 政 事 要 略 』 所 引 西 宮 記 本 文 は、定考穏座での挿頭花装飾の場面を次のように記す。 (イ) 此 間 雅 楽 寮 官 人 率 二 楽 人 等 。 一 於 二 屏 風 外 一 発 二 大 唐 之 音 声。 一 〈 所 レ 謂 参 入 音 声 也。 或 大 弁 予 候 二 卿 気 色 一召。 〉 爰 掃 部 寮 敷 二 於 南 屏 頭。 一 厨 家 給 二 饌 於 楽 人 以 上 。 一 官 人 以 下 着 レ座。 大 唐 高 麗 舞 各 三 曲。 〈 舞 人 等 皆 着 二 袍 当 色 衣 。 一 舞 数 可 レ 儀 一歟。 〉(ロ) 此 (( ( 間 大 弁 取 二 花 一 卿 冠 間 。 一 〈 此 間 別 調 二 肴 物 一 折 敷 。 一 各 立 二 諸 卿 前 。 一 〉 弁・ (( ( 少 納 言 共 取 レ搢。 参 議 以 上 挿 レ頭。 〈 大 (( ( 臣 白 菊 花、 〈 金 茎。 〉 納 言 黄 花、 参 議 竜 胆 花。 当 (( ( 日 上 卿 挿 レ 者 、 指 二 方 。 一 自 余 指 二 方 。 一 但 (( ( 弁・ 少 納 言、 以 二 花 一 冠 後。 一 〉 楽 畢 罷 出 音 声。 ( ハ )次 第 一 史 挿 二 参 文 。 一 進 レ 北 庇 第 二 間 。 一 上 卿 目 レ 。 称 唯。 趍 倚 跪 進 レ之。 〈 先 レ 大 弁 以 下 了。 〉 上 卿 見 畢 。 一 度 返 給 。 史 披 レ 承 二 分 。 一 称 唯 退 還 。( 以 下 省 略 )   延喜太政官式と同様、 (イ) 雅楽寮の奏楽、 (ロ) 挿頭花の進上、 (ハ) 見 参 で 構 成 さ れ て い る。 そ の 進 上 次 第 は、 ( () 大 弁 が 作 花 を 取 り、 当 日 の上卿の冠の間に挿す。 ( ()弁と少納言が共に参議以上の挿頭花をはさ み 取 り、 頭 に 挿 す。 ( ()装 飾 さ れ た 挿 頭 花 は、 大 臣 が 白 菊 の 花 で 茎 は 金、納言は黄花、参議は竜胆の花である。 ( ()頭に挿す位置は、当日の 上 卿 は 冠 の 左 方、 そ れ 以 外 は 右 方 に 挿 す。 ( () た だ し、 弁 と 少 納 言 は

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冠 の 後 ろ に、 時 の 花 を 装 飾 す る( 以 上、 傍 線 部 )。 こ の 儀 式 次 第 が、 天 徳・応和年間の儀式次第を反映しているとすると、次の諸点が特徴とし て あ げ ら れ る。 第 一 に 穏 座 で の 挿 頭 花 に は 作 花 が 用 い ら れ て い る こ と、 第 二 に 大 臣 ― 白 菊 花 、 納 言 ― 黄 花 、 参 議 ― 竜 胆 の 区 別 が 生 じ て い る こ と 、 第 三 に「 当 日 の 上 卿 」 が 挿 頭 花 を 頭 に 挿 す 際 に は、 そ の 装 飾 の 位 置 は 左であることなどで、これらの特徴は延喜太政官式の規定からは確認で き な か っ た も の で あ る 。『 西 宮 記 』 恒 例 第 三 、 八 月 、 考 定 は 、 参 議 以 上 が 穏座に着し雅楽寮が奏楽する間、 挿頭花を装飾する場面を細字双行注で、 大 弁 取 二 卿 料 。 一 挿 二 間 左 方 巾 下 。 一 弁 ・ 少 納 言 取 二 下 公 卿 料 。 一 大 臣 白 菊。 納 言 黄 菊。 参 議 竜 胆。 右 方。 弁・ 少 納 言、 以 二 花 一 後。 一 (以下省略) と記す。当該巻は平安時代末期から鎌倉時代初期の古写本があり、上卿 の挿頭花は傍線部に「大弁、上卿の料を取る。冠の間の左方の巾の下に 挿 す 」 と あ る よ う に 花 の 種 類 が 記 さ れ て い な い 点 に は 注 意 が 必 要 で あ る。次に、摂関期の公卿である藤原公任が編んだ『北山抄』巻第七、都 省雑例、定考事を見ておきたい。 其 後 儀 同 二 列 見。 一 〈 挿 頭。 大 臣 白 菊、 納 言 黄 菊、 参 議 竜 胆。 〉 列 見・ 定考日事。 若延引者、 停 二尋常政。 一 只行 二列見 ・ 定考之儀。 一 有 レ例云々。 『北山抄』 では、 傍線部の細字双行注で定考の挿頭花が記されている。 『北 山抄』巻第七自体は、長和・寛仁(一〇一二~一〇二〇)の頃、もしく は寛弘 ・ 長和 (一〇〇四~一〇一六) の頃に成立したとされる (11 ( 。『北山抄』 に見える挿頭花が十一世紀初頭までの様相を示しているとすると、白菊 は大臣、黄菊は納言、竜胆は参議と、花の種類が固定化している点が重 要 で あ る と 考 え る。 な お、 院 政 期 の 儀 式 書『 江 家 次 第 』 巻 八、 八 月、 考 定には、 考 定。 〈庁事 ・ 朝所 ・ 晏 〔宴〕 座 ・ 穏座等皆用 二列見儀 。 一 〉 と あ り 挿 頭 花 の こ と は 見 え な い。 『 江 家 次 第 』 で は 細 字 双 行 注 で「 み な 列見の儀を用いる」とされているように、記載が簡略化されている。こ こに見られる列見とは、太政官曹司庁において引見された諸司の六位以 下の考選人を、天皇の裁可を仰ぐ前に大臣が確認する儀式である。列見 は『 年 中 行 事 秘 抄 』 二 月、 十 一 日、 官 列 見 事 に「 於 二 太 政 官 一 行 之。 著 座公卿已下弁・少納言・外記・史等皆参 」と見える。 2太政官の饗宴儀礼と挿頭花装飾 ―列見・定考の挿頭花―   改めて確認するまでもないが、律令制に基づく位階の授与には、選叙 令 (内外五位条に規定されたように勅授・奏授・判授の区別がある (11 ( 。五 位 以 上 の 位 階 昇 叙 に は、 同 令 (遷 代 条 の「 及 計 レ 応 レ 位 以 上、 一 奏 聞別叙」とある規定が適用され、五位以上と六位以下とでは考選法に違 いがあることが指摘されている (11 ( 。平安時代初期になると、諸司の六位以 下 の 位 階 昇 叙 に 関 す る 審 査 は 二 月 十 一 日 の 列 見 で 行 わ れ る (11 ( 。 な お 五 位 以上は、 「上日」 (勤務日数)が考課の判定基準となっていた (11 ( 。内裏上日 の問題は、公卿による内裏伺候の日常化と関わる (11 ( 。太政官曹司庁は、弁 官の日常的な執務の場ともなり、列見・郡司召・位記召給・定考等の儀 式の場として機能する (11 ( 。言い換えるならば、主要な政治の場が内裏へと 移動し、太政官の政務が公卿聴政・外記政・官政などに細分化したこと で、場に見合ったより精緻な政務運営が採用されていくといえよう。列 見 に お い て も 挿 頭 花 は、 『 西 宮 記 』『 北 山 抄 』『 江 家 次 第 』 と も、 穏 座 三 献 の 場 面 に 見 え る。 例 え ば、 『 西 宮 記 』 で は、 穏 座 の 舗 設 ― 上 卿 着 座 ―

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弁・少納言の着座―三献―史生の召し―近辺諸司の召し―雅楽寮の召し ―挿頭花―大弁による見参の奏上―申文―史らの献盃―退出の儀式次第 で列見も構成される。挿頭花の種類は、列見ではどのように記載されて いるのか、まずはこの点を確認しておきたい。 ①『西宮記』恒例第二、二月、十一日、列見 挿 頭。 〈 大 弁 以 下 執 レ之。 上 卿 挿 二 方 巾 下。 一 藤 桜 類。 余 右 方。 弁 已 下以 二時花巾後。 一 公卿料春秋異。 〉(以下省略) ②『北 山 抄 』 巻 第 七 、 都 省 雑 例 、 列 見 事 大 弁 取 二 頭。 一 挿 二 者 冠 左。 一 〈 巾 子 下、 上 緒 上。 〉 中 弁 以 下、 挿 二 言・ 参 議 冠 右。 一 大 臣 藤 花 、 納 言 桜 花 、 参 議 款 冬 。 皆 作 花 。〉 大 史 取 二時花〈柳〉 。 一 刺 二弁・少納言冠後。 一 ③『江家次第』巻第五、 二月、十一日列見事 挿頭。 〈大弁以下執。上卿挿 二左方。 一 自余右方。 〉   ① の『 西 宮 記 』 で は 公 卿 の 料 に は 春 と 秋 と で 挿 頭 花 の 種 類 に 違 い が あると注記されている点が注目されよう。また、 「大弁以下これを執る。 上卿は左方の巾下に挿す」とあるように、上卿の挿頭花は大弁以下が上 卿の冠の左に装飾したことが分かる。それ以外の者は「右方」とあるか ら、冠の右方の巾子に装飾している。ただし弁以下は、時の花を冠の巾 子の後ろに装飾する。なお上卿は、先に見た『政事要略』所引西宮記本 文 に「 当 日 の 上 卿 」 と あ る よ う に、 「 日 上 」 す な わ ち 当 日 参 入 し た 公 卿 の う ち 上 位 の 者 で、 儀 式 や 行 事 な ど の 公 事 を 指 揮 す る (1( ( 。 ② の『 北 山 抄 』 では、大弁が挿頭花をとり「尊者」の冠の左に挿すこと、挿す場所は冠 の巾子の下で上緒の上であること、中弁以下が納言および参議の冠の右 に挿すこと、大臣は藤花、納言は桜花、参議は款冬(山吹 (11 ( )を用いてい ること、いずれも「作花」であること、時の花を取るのは大史であるこ と、時の花は柳が用いられていること、柳の挿頭花は弁・少納言の冠の 後 ろ に 挿 さ れ る こ と な ど が 分 か る。 『 政 事 要 略 』 所 引 西 宮 記 本 文 と の 一 番大きな違いは、 「当日の上卿」が「尊者」と記されていることである。 ③の『江家次第』は細字双行注で、大弁以下が挿頭花をとり上卿の冠の 左方に挿すこと、それ以外は右方に挿すことなどが記されている。ここ では、列見の挿頭花装飾の場面がより詳しく記されている『北山抄』の 記載に注目したい。   『北山抄』に見える列見の挿頭花装飾は、次のような形で整理できる。 〔花〕    〔取り次ぐ人〕    〔冠に装飾する人〕   〔装飾する位置〕 藤花・桜花――大弁―――――尊者――――――冠の左方 藤花―――――中弁―――――大臣――――――冠の右方の巾子 桜花―――――少弁―――――大納言・中納言―同 山吹―――――少納言――――参議――――――同 時の花=柳――大史――大 弁 ・ 中 弁 ・ 少 弁 ・ 少 納 言 ―冠の後ろ   こ こ か ら、 ( () 装 飾 者 に 応 じ て「 花 を と る 」 人( 取 り 次 ぐ 人 ) が 決 ま っ て い る こ と、 ( ()「 花 を と る 」 役 目 の 者 は、 挿 頭 花 を 装 飾 す る 者 よりは下位の者であること、 ( ()その役は、 時の花を装飾する大中少弁 ・ 少 納 言 お よ び 挿 頭 花 を 装 飾 し な い 大 史 で あ る こ と、 ( () 花 が 装 飾 さ れ る位置は尊者が冠の左、大臣・納言・参議が冠の右、大中少弁・少納言 が 冠 の 後 ろ と 固 定 化 さ れ て い る こ と、 ( () 大 中 少 弁・ 少 納 言 の 挿 頭 花 は大史が冠の後ろに挿すこと、以上の特徴が指摘できる。なお装飾する 花の位置は、花をとる者から見た場合の位置ではなく、挿頭花を冠に装 飾する被装飾者から見た位置を示していることが類推できる。   次に問題となるのは、尊者とされる列見や定考の儀を取り仕切る上位 者、すなわち公卿の座次と職務執行上の権限などとの挿頭花の関わりで

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ある。この点について『西宮記』臨時四、一、挿頭花事の、 祭 使 并 列 見 之 時、 大 臣 以 二 藤 花 一 挿 二 方 巾 内。 一 雖 二 言 、 一 当 日 上 卿 尚挿 二左方。 一 其納言者用 二桜花。 一 参議者山葺。 〈皆挿 二右方。 一 〉 とある記載が注目できる。この記載が、源高明が『西宮記』を著した原 撰本当時の状態に近いものであるとすると、傍線部に列見の時には「納 言といえども当日の上卿はなお左方に挿す」とあるように、列見当日の 上卿を勤める納言の挿頭花に言及している点は重要である。それという のも、山本信吉氏によって、律令太政官制では行政官僚の筆頭は左大臣 と定められていたが、平安中期以降、一上の宣旨が下りれば左大臣より 下位の右大臣や大納言が律令太政官制の秩序をこえて太政官の政務運営 を行えたこと、一上制は平安前期の太政大臣の常設化や摂政・関白の成 立を背景に、醍醐天皇の頃から、太政官の政務を天皇に奏上し天皇の親 裁を仰ぐ官奏候侍者が宣旨によって定められる過程として成立したこと が指摘されている (11 ( 。この点と挿頭花の関わりについて、節を改め考察す る。 3列見・定考の挿頭花と上卿   先 に『 西 宮 記 』 の 列 見 で は、 上 卿 の 挿 頭 花 が 藤 桜 類 で あ る こ と を 見 た。列見の上卿が、実際にどの挿頭花を用いていたのかを伝える史料は それほど多くない。時代は下るが、平安後期の公卿である藤原宗忠の日 記『中右記』には、康和四年(一一〇二)二月十一日に行われた列見の 記録がある。記主の宗忠は蔵人頭や右大弁などを歴任しており、この年 は参議で右大弁を兼官している。そこでは、列見の三献の場面で、雅楽 寮が太政官正庁の南門より参入し南庭で左右各二曲の奏楽・奏舞を行う 間、 此 間 史 起 レ 向 二 部 所 辺 。 一 取 二 頭 花 。 一 指 二 上 卿 ( 藤 原 宗 通 ) 冠 左 〈 桜 花 〉。 一 復 座。 右 中 弁( 平 時 範 ) 取 二 挿 頭 花 、 一 指 二 右 。 一 史 取 二 弁以下挿頭花、 一 指 二冠後。 一 と 記 さ れ て い る。 宗 忠 が 記 し た こ の 日 の 記 録 は、 『 江 家 次 第 』 の よ う な 儀式書に勝る詳しさとも評されている (11 ( 。この記事によれば史が座を起ち 酒部所へ向かい、それに続いて挿頭花の儀が行われていることから、挿 頭花が酒部所に用意されていたことが分かる (11 ( 。とくに、上卿の権中納言 であった右衛門督藤原宗通の挿頭花が、分注で桜花とされている点に注 意しておきたい。さらに長治二年(一一〇五)二月十一日の列見では、 次召 二雅楽寮。 一 舞 四 曲 間 、 予 取 二 卿 ( 藤 原 仲 実 ) 挿 頭 花 。 一 〈 a可 レ桜也。 而儲 二藤花。 一 失也。 藤花ハ大臣挿頭花也。 〉右中弁 (藤原長忠) 取 二 予 挿 頭 花。 一 〈 b桜 花 也。 是 又 失 也。 参 議 料 款 冬 也。 〉 弁・ 少 納 言 料取 レ之。 とある。参議で右大弁であった宗忠は、上卿を勤めた権中納言の藤原仲 実の冠の左に藤花の挿頭花を挿し、右中弁の藤原長忠が宗忠の冠に桜花 の挿頭花を挿した。ここから、参議が大弁を兼任する場合には (11 ( 、上卿の 冠に挿頭花を装飾するのは参議大弁の役割であったことが分かる (11 ( 。と同 時にこの日の列見では、上卿の挿頭花が、藤花と桜花のいずれかである のかが問題にされている。宗忠自身は、上卿の挿頭花には桜花を儲ける べ き で あ る と こ ろ、 藤 花 の 挿 頭 花 が 用 意 さ れ て い る こ と に つ い て「 失 」 と 理 解 し て い る( 分 注 a)。 自 身 の 冠 に 装 飾 さ れ た 挿 頭 花 に つ い て も、 参 議 の 挿 頭 花 が 款 冬( 山 吹 ) で あ る こ と か ら、 「 失 」 と す る( 分 注 b)。 さらに同じ「失」とされる事例ではあるが、権中納言であった宗忠自ら が 上 卿 を 勤 め た 天 永 三 年( 一 一 一 二 ) 二 月 十 七 日 の 列 見( 『 中 右 記 』 部

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類第五)では、 左 大 弁 ( 源 重 資 ) 指 二 挿 頭 花 。 一 〈 已 藤 花 也 。 上 卿 ハ 可 レ 花 一 。 藤花ハ大臣料也。而誤用 レ之。大略吉相歟。 〉 とあるように藤花を装飾している。宗忠は、上卿の挿頭花は桜花を用い る べ き で あ り 藤 花 は 大 臣 の 料 で あ る か ら 誤 っ て 用 い て し ま っ た が、 「 大 略吉相か」と大体において良い前兆であると自らの心情を書き記してい る。 こ の こ と は、 『 西 宮 記 』 挿 頭 花 事 で 列 見 の 挿 頭 花 が、 「 納 言 と い え ど も 当 日 の 上 卿 は な お 左 方 に 挿 す 」 と 記 さ れ た こ と や、 『 北 山 抄 』 の 列 見では、上卿の挿頭花が「藤桜類」とされたことと関連しよう。すなわ ち、院政期の実務官僚でもあった宗忠の認識としては、藤花は大臣の料 であり、納言は当日の上卿を勤めることができたとはいえ、装飾すべき は桜花であり、公事によって「一の上」たり得るが、左右内大臣とは異 なる挿頭花を装飾することが理にかなっていたのである。以上の考察か ら、列見の挿頭花は次のように整理できる。 〔花〕     〔 取り次ぐ人 〕   〔冠に装飾する人〕     〔装飾する位置〕 藤花・桜花――大弁――――上卿(大臣・納言)――冠の左方 藤花―――――中弁――――大臣―――――――――冠の右方の巾子 桜花―――――少弁――――大納言・中納言――――同 山吹―――――少納言―――参議―――――――――同 時の花――――大史――大弁・中弁・少弁・少納言―冠の後ろ   そ し て、 こ の 構 造 は、 定 考 の 挿 頭 花 装 飾 に も 適 用 さ れ る も の と 考 え る。先述したように『北山抄』巻第七、都省雑例、定考事では、儀式の 構造自体は列見と同じであるものの挿頭花のみが料を異にしている。煩 雑になるが、 『政事要略』所引西宮記本文を再掲する。 此 間 大 弁 取 二 作 花 一 挿 二 上 卿 冠 間 。 一 分 注 略 〉 弁 ・ 少 納 言 共 取 レ 搢 。 参 議 以 上 挿 レ 頭 。〈 大 臣 白 菊 花 、〈 金 茎 。〉 納 言 黄 花 、 参 議 竜 胆 花 。 当 日 上 卿 挿 レ 頭 者 、 指 二 左 方 。 一 自 余 指 二 右 方 。 一 但 弁 ・ 少 納 言 、 以 二 時 花 一 冠 後 。 一   花の種類は白菊、黄花 (現行本 『西宮記』 および 『北山抄』 は 「黄菊」 )、 竜胆である。儀式の性格、つまり儀式が準備の過程や習得すべき所作等 を含めた様々な手続きを具体化したものであるとすると (11 ( 、大弁以下が公 卿の挿頭花を手にとり冠のそれぞれの位置に挿し飾る、これが挿頭花を 装飾する際の基本的な所作であると考える。そこで、列見で見た挿頭花 の様相を適用し、定考の挿頭花を次のように整理しておきたい。   〔花〕     〔取り次ぐ人〕   〔冠に装飾する人〕      〔装飾する位置〕 白菊・黄菊―大弁――――上卿(大臣・納言)―――冠の左方の巾子 白菊――――中弁――――大臣――――――――――冠の右方の巾子 黄菊――――少弁――――大納言・中納言―――――同 竜胆――――少納言―――参議――――――――――同 時の花―――大史――――大 弁 ・ 中 弁 ・ 少 弁 ・ 少 納 言 ―冠の後ろ     『政事要略』所引西宮記本文が、 『西宮記』を著した源高明が大納言と して習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)の儀式の様 子を伝えているとすると、この段階までには挿頭花を装飾する一連の動 作と花の装飾の様式化が進んでいることを示している。つまり、挿頭花 装飾の様式化は、天徳・応和年間には成立している。この変化は、天暦 年 間( 九 四 七 ~ 九 五 六 ) 頃 ま で に 完 了 し た と さ れ る 叙 位 制 度 の 再 編 や、

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延喜太政官式に挿頭花が規定されたことの結果として生じた挿頭花の様 式化であるとも考えられる。それというのも、原義的には列見や定考は 官人の昇進システム、すなわち天皇の官制大権に関わるような儀式であ る (11 ( 。このように考えられるとすると、列見・定考で挿頭花を装飾するこ と、 そ れ 自 体 に 意 味 が あ る の で は な い か。 『 西 宮 記 』 臨 時 四、 一、 挿 頭 花事には、挿頭花が装飾された儀式がまとめられている。 藤 花 、 大 嘗 会 及 可 レ 時 、 帝 王 所 二 剌 給 一 也 。〈 挿 二 左 方 。 一 〉 祭 使 并 列 見 之 時 、 大 臣 以 二 藤 花 一 挿 二 方 巾 内 。 一 雖 二 納 言 、 一 当 日 上 卿 尚 挿 二 左 方 。 一 其 納 言 者 用 二 桜 花 。 一 参 議 者 山 葺 〈 皆 挿 二 方 。 一 至 二 非 参 議 ・ 弁 以 下 一 、 以 二 花 一 二 巾 後 。 一 〉 八 月 定 考 時 、 大 臣 白 菊 、〈 金 茎 。〉 納 言 黄 菊 、 参 議 竜 胆 。 弁 ・ 少 納 言 時 花 。 同 二 見 儀 。 一 臨 時 宸 宴 時 、 除 レ 御 之 外 、 可 レ 挿 二 後 方 。 一 踏 歌 綿 花 者 立 二 冠 額 。 一 童 挿 二 総 角 。 一 臨 時 祭 、 使 藤 花 。〈 挿 二 左 方 巾 下 。 一 〉 舞 人 桜 花 。〈 挿 二 右 方 。 一 試 楽 日 、 挿 二 竹 。 一 陪 従 山 葺 、 近 衛 使 次 将 。〈 無 二 挿 頭 。 一 四 月 祭 時 、 近 ( 近 衛 カ ) 以 レ 為 二 頭 。 一   こ こ か ら 挿 頭 花 が 装 飾 さ れ る 儀 式 は、 大 嘗 会、 列 見・ 定 考、 臨 時 宸 宴、臨時祭、試楽、踏歌、および「四月祭時」すなわち賀茂祭などの天 皇の出御をともなって行われる饗宴や神事であることが分かる (11 ( 。挿頭花 として用いられる花は、藤花・桜花・山葺 (山吹) ・白菊・黄菊・竜胆・ 綿花・小竹・桂葵などである。このうち白菊・黄菊は、八月定考のみに 用 い ら れ て い る( 傍 線 部 )。 平 安 時 代 の 政 務 は 単 な る 行 政 的 な 手 続 き を こえ、先例に則り作法を整え一つの儀式的な姿にして行うことに意義が ある (1( ( 。挿頭花が用いられる場が穏座三献であることに注目すると、その 意 味 は 決 し て 少 な く な い。 『 万 葉 集 』 な ど で は 宴 の 場 で 即 興 的 に 装 飾 さ れた挿頭花の用例が確認できる (11 ( 。例えば天平勝宝四(七五二)年十一月 二十五日に行われた新嘗祭の饗宴では、藤原八束が孝謙天皇の詔に応じ て、 「 島 山 に 照 れ る 橘 髻 花 に 挿 し 仕 へ ま つ る は 卿 大 夫 た ち 」( 『 万 葉 集 』 巻 十 九 ― 四 二 七 六 番 歌 ) と の 歌 を 詠 ん で い る。 こ こ で は、 髻 花 と 呼 ば れる冠位十二階に由来する金属製の花飾りに、橘が装飾されている。装 飾 し て い る の は、 孝 謙 天 皇 の 御 前 に 仕 え 奉 る「 卿 大 夫 」( = マ ヘ ツ キ ミ ) である (11 ( 。そこには挿頭花の種類による違いは見られない (11 ( 。現行の『西宮 記 』 臨 時 四、 一、 挿 頭 花 の 事 に は 新 嘗 会 は 見 え ず、 橘 の 挿 頭 花 も 引 き 継 がれていない。本章で検討したように造花の挿頭花には違いがある。生 花である時の花は、大弁・中弁・少弁と少納言に用いられているが、そ れは柳であった (11 ( 。ここに、卿大夫の装飾として八世紀に用いられた橘の 挿頭花との違いが見いだせるのではないか。 二 定考の挿頭花 ―穏座と挿頭花―   前章では儀式書を中心に、定考と列見の挿頭花装飾の特徴を確認して きた。定考は、八月十一日に官中の考を定める儀式である。列見や定考 では、延喜太政官式 (((禄法条に、 凡列見定考禄者、太政大臣交易商布七百段、左右大臣各五百段、大 納言四百段、中納言三百段、三位参議二百五十段、四位参議 幷 左右 大 弁 二 百 段、 少 納 言・ 中 少 弁 一 百 五 十 段、 外 記・ 史 一 百 段、 〈 内 記 准 レ此〉史生卅段、 官掌廿段、 内記史生十五段、 召使十段、 使部二段、 直丁一段。 と規定されているように、太政官職員の太政大臣以下直丁に至るまで禄 が賜与される (11 ( 。けれども挿頭花は、六位以下の位階を持つ外記以下の太 政官職員らには賜与されない。    野村忠夫氏は、即位 ・ 立太子 ・ 改元などの国家的慶事や行幸への供奉 ・

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奉仕などの臨時叙位、および変・乱における論功行賞、遣唐使への特授 な ど の 非 恒 常 的 な 臨 時 叙 位 と、 大 宝 選 任・ 考 仕 令 あ る い は 養 老 選 叙 令・ 考課令に体系化された官位の獲得・昇進のための基本的かつ恒常的な方 式とを明確に区別する (11 ( 。また大隅清陽氏によって、太政官の勤務評価と 叙位の対象となる審査は、少納言・弁・外記等があらかじめ原案を作成 し、八月十一日の定考儀で大臣に読申されること、その次第は考に預か る 官 人 の 一 人 ひ と り に つ い て、 ま ず は 少 納 言 が「 仕 へ 奉 れ る 日 数 若 干 」 と上日を読み上げ、続いて弁大夫が「仕へ奉れる数若干条」と行事の数 を読申し、それに対して大臣が「縦 ヨ シ 」と宣ることで考が確定してゆくこ となどが明らかにされている (11 ( 。さらに神谷正昌氏によって『弘仁式』編 纂から『延喜式』編纂の約一世紀の間に内裏で行われていた任官に天皇 の不出御儀が加わり、その時期は貞観・元慶年間(八五九~八八四)で あることが指摘されている (11 ( 。これらの点に注意しながら挿頭花装飾の特 徴についてさらに分析を加えていきたい。 紙幅も限られていることから、 本章では定考に見られる挿頭花に焦点を絞り、第一節では挿頭花が用い られた穏座が持つ場の性格と挿頭花の関わりについて検討する。次いで 第二節では、定考で用いられる花について、菊の花を中心にして分析す る。第三節では、挿頭花が太政官の饗宴儀礼たる定考で装飾されること の意義について考察する。 1穏座と挿頭花装飾   延 喜 太 政 官 式 (((考 定 条 に 規 定 さ れ た 八 月 十 一 日 の 定 考 儀 を 見 て い く と、まず少納言が「太政官長仕えの某年に考に預かるべき、ならびに預 か ら ざ る 若 干 」 と 当 該 年 の 内 訳 を 読 み 上 げ る。 そ の 順 番 は、 ( () 考 の 列にあらざる若干所、 ( ()第を定めざる若干、 ( ()中の上若干、 ( () 某 大 臣 の 仕 え 奉 り 賜 わ る 日 数 若 干、 ( () 去 年 よ り 増 減 す る こ と 若 干、 ( ()納言姓卿仕え奉れる日数若干、 ( ()去年より増減すること若干で ある。続いて弁の大夫が、 ( ()仕へ奉れる政若干条、 ( ()去年より増 減すること若干条と読申する。   太 政 官 の 考 選 目 録 に 関 し て は、 『 政 事 要 略 』 巻 二 十 五、 年 中 行 事、 十 月に、太政官が式部省に下した天暦五年(九五一)十月一日の太政官符 に実例がある。この目録では太政官に勤務する職員の勤務評価と前年度 か ら の 増 減 が、 「 不 レ 例 一 所 」「 預 考 十 三 人 」「 不 考 七 人 」「 新 附 八 人」 「遷任二人」 「卒一人」の順番でまとめられている。 「不在考例二所」 に は、 左 大 臣・ 右 大 臣 の 氏 名 + 位 階 + 姓 が 上 日 の 日 数 と と も に 記 さ れ ている。 「預考十三人」には、 「不第四人」と「中上九人」がある。この う ち「 不 第 」 は 五 位 以 上 の 者 で あ り、 官 職 + 位 階 + 氏 名 + 姓 + 官 人 の 個人名が上日の日数および考の結果とともに記されている。 「中上九人」 に 見 え る の は、 ほ ぼ 正 六 位 上 の 者 で あ り、 官 職 + 位 階 + 氏 名 + 姓 + 官 人 の 個 人 名 + 上 日 の 日 数、 昇 進 が あ っ た 場 合 は そ の 年 月 日 と と も に 記 されている。すなわち 「預考」 には、 「不第」 と 「中上」 の区別があった。 この区別は五位以上と六位以下との区別と対応し、考選法上においても 通貴(四位・五位)以上と六位以下との間には明確な差があったことの 証左になる (11 ( 。   考課令 ((内外初位条で、 「三位以上奏裁、五位以上、太政官量定奏聞、 六位以下、省校定」とされるように、三位以上―五位以上―六位以下と では、考課の対象となる上日数の裁可に、天皇の勅裁(三位以上)―太 政官の奏聞(五位以上)―式部省・兵部省の校定(六位以下)の違いが あった (1( ( 。これらは 『延喜式』 では、 式部式上 (((右大臣条の 「凡右大臣以上 、 不 レ 例 。 一 止 録 二 日 。 一 其 五 位 以 上 、 不 レ 第 。 一 具 録 二 最。 一 と 見 え る 規 定 や、 同 (((五 位 条 に、 「 凡 六 位 以 下 授 二 位 一 者、 頓 除 二 前 考。 一 但 不 レ 年 上 日。 一 」 と あ る 規 定 に 定 着 し て い く。 前 者 の 同 (((条 で は 太 政 大 臣―左大臣―右大臣は、考の例に預からず上日のみが記録されることを 示す。つまり、五位以上は考第を定めず、考課令 (0一最以上条に記され

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Ⅰ 禄法 Ⅱ 考課 Ⅲ 位色 Ⅳ 挿頭花装飾 任 官 官(職掌) 位 禄(段) 天暦五年度 朝服 挿頭花 列見 定考 位置 勅 任 太政大臣 正・従一位 (00 不在考例 (弾正式 (( 条)深  紫 藤 白菊 右 左右大臣 正・従二位 各 (00 大納言 正三位 (00 不第 中  紫 (弾正式 (( 条) 桜 黄菊 右 中納言 従三位 (00 参議(三位) 三位 ((0 山吹 竜胆 右 参議(四位) 四位 (00 (弾正式 (( 条によれば 滅  紫 参議以上が着用可) 左大弁 従四位上 (00 深  緋 (衣服令 ( 条) 時の花 後ろ 右大弁 従四位上 (00 奏 任 少納言 従五位下 ((0 浅  緋 (衣服令 ( 条) 左中弁 正五位上 ((0 右中弁 左少弁 正五位下 ((0 右少弁 大外記(2) 正六位上 (00 中上  (弾正式 ((( 条)深  緑 少外記(2) 正七位上 (00 大史(左2) 正六位上 (00 大史(右2) 正六位上 (00 左右少史 正七位上 (00 大内記 正六位上 (00 少内記 正七位上 (00 式 部 判 補 史生(外5) (0 毎年一人が諸国の主 典に任ぜられる。 任官には年労ではな く上日を計える (太政官式 (0 条)。 黄  袍 (式部式上 (( 条) 史生(左8) (0 史生(右8) (0 官掌(左2)※ (0 官掌(右2)※ (0 内記の史生 (( 召使 毎月2番、番ごとに(人 (式部式上 (0( 条) (0 使部 太政官 (( 人※※ ( 公験の規定あり (式部式上 ((( 条)    左弁官 (0 人※※ (    右弁官 (0 人※※ ( 直丁 左右弁官局各4 ( 表 1 官位昇進の基準 ・本表は、Ⅰ禄法については延喜太政官式 ((( 禄法条、Ⅱ考課については『政事要略』巻 (( 天暦五年十月一日太政官符、  Ⅳ挿頭花装飾については、『西宮記』『北山抄』『江家次第』などから作成した。 ・なお太政官職員のうち※印の官掌の定員は式部式上 ((( 条、※※印の使部の定員については式部式上 (00 条の規定に依る。

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た九等評価のうち、ただ善と最とのみ記録されたことを意味する。後者 の 同 (((条 で は、 六 位 以 下 は 毎 年 ご と に 考 を つ み、 五 位 へ の 昇 叙 が 叶 っ たとしても、それまでの考は破棄され新しく功績と過失が判断されるこ とを示す (11 ( 。   な お、 先 の 天 暦 五 年 度 の 太 政 官 符 で は、 「 不 考 七 人 」 が 見 え る。 い ず れ も 五 位 以 上 で あ る。 「 不 考 」 の 理 由 は、 「 右 人 上 日 不 二 定 考 限、 一 仍 居 二 不 考 一 と あ る よ う に、 上 日 が 規 定 の 日 数 を 満 た し て い な か っ た た め で あ る。 「 預 考 十 三 人 」 と さ れ た 官 人 に は「 不 第 」( 五 位 以 上 ) と「 中 上 」 ( 六 位 以 下 ) の 区 別 は あ っ た も の の、 い ず れ も「 上 件 等 人、 起 レ 年 八 月 一 日、 一 尽 二 年 七 月 廿 九 日、 一 計 二 日 一 百 卌 已 上、 依 レ 令 為 レ考、 具 件 如 レ 」 と さ れ た よ う に 年 間 二 四 〇 日 の 勤 務 日 数 を 満 た し て い た。 こ れらのことは、六位以下の下級官人にとっても、ある官職への勤務(上 日・ 上 夜 ) が 一 定 年 数 を 経 過 す る こ と で「 労 」 と 認 識 さ れ、 「 あ し か け 何年」の奉仕が官位昇進の基準となる方式(年労制)が成立したことを 意 味 し よ う (11 ( 。 1は、 こ の 考 選 法 上 の 区 別 と 列 見・ 定 考 の 挿 頭 花 装 飾 と の 関 わ り を、 延 喜 太 政 官 式 (((禄 法 条 を 基 準 に ま と め た も の で あ る。 1 で は、 『 延 喜 式 』 に 規 定 さ れ て い る 服 色 な ど の 規 定 も あ わ せ て ま と め て い る。 1 ら も 分 か る と お り、 定 考 で の 挿 頭 花 装 飾 の 区 分 は、 五 位 以 上と六位以下に対応する (11 ( 。挿頭花は、時の花の挿頭花を含めて五位以上 の太政官職員に装飾される。ここに一つ目の区分がある。次いで造花を 装飾する参議以上と、時の花を装飾する左右大弁・少納言・左右中少弁 などの間に違いが見られる。ここには現行の『西宮記』では非参議も含 まれる。ここに二つ目の区分がある。この二つ目の区分は「不第」とさ れる五位以上の違いをより細分化しているともいえよう。三つ目の区分 は、公卿のうち、大臣―納言―参議に見られる花の違いである。 この点については考選制における太政官政務処理上の権限が参考とな るのではないであろうか。   例えば、延喜太政官式 (庶務申官条では、考選目録および六位以下の 位 記 の 請 印 は 弁 官 を 経 る こ と な く 直 接 太 政 官 へ 上 申 さ れ る 定 め で あ り、 それら政務処理の上卿を勤めることができたのが中納言以上である (11 ( 。延 喜太政官式 (((擬階条では、式部省と兵部省から提出された六位以下の名 簿をもとに外記が天皇への奏文を作成し、そこに参議以上が署名した上 で大臣が引率し天皇へ奏上する定めであった。参議は太政官の最末席に 連なる地位で他の宰相たちと並び立ってともに国政を議論するという意 味を有しており (11 ( 、参議と中納言とでは弁官との統属関係には違いがあっ た (11 ( 。この点については後述する。   ところで、列見・定考は、大嘗会・大臣大饗・釈奠と並ぶ公的な宴会 で あ り、 そ の 特 徴 は 宴 座 ― 穏 座 の 二 部 構 成 に 求 め ら れ て い る (11 ( 。 こ れ ま で 穏 座 が 有 す る 性 格 に つ い て は、 一 条 兼 良 の『 江 次 第 鈔 』 第 二、 正 月 (『 続 々 群 書 類 従 』 第 六 ) に「 穏 座 者、 非 二 厳 重 威 儀 之 座 一 他 舒 レ 故 曰穏」とある理解を根拠にして無礼講的な宴会とされてきた (11 ( 。   前章で確認したように挿頭花は、穏座三献で雅楽寮の奏楽の間に装飾 されている。この点は挿頭花の特徴の一つでもある。天慶八年 (九四五) 八月に行われた定考の記録に、この特徴を理解する上で興味深い事例が あ る。 『 本 朝 世 紀 』 同 年 同 月 十 一 日 条 は、 十 一 日 に 行 わ れ る 予 定 で あ っ た が 延 引 さ れ、 十 四 日 に 行 わ れ て い る こ と を 記 し て い る。 藤 原 師 輔 は、 こ の 日 の 記 録 を 書 き 残 し て い る。 『 九 暦 』 逸 文 と し て 伝 わ る 記 事 で あ る が、それを確認しておきたい。 了 大 弁 曰 、 依 レ 候 二 頭 。 一 而 依 二 齋 一 。〈 昨 日 伊 勢 使 発 。 仍 今 日散斎也。 〉為 レ之如何。答云。先年中宮(藤原穏子)御薬之間、 停 レ 楽 無 二 挿 頭。 一 只 依 二 齋 一楽。 未 レ 二 其 便 宜。 一 参 議 等 云。 献 之 者 有 二 難。 一 下 官 随 レ 。 左 大 弁 ( 藤 原 在 衡 ) 以 二 枝 。 一 挿 二 官 冠 下 一 云 々 。(中略) 事了即参 レ殿 (藤原忠平) 。申 二今日行事。 一 仰云。高年

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之 人 雖 二 参 一 入 二 参。 一 有 二 事 一乎。 挿 頭 是 依 二 之 興 一也。 停 レ 随可 レ停者。自爾以後、可此命云々。 (『西宮記』恒例第三、八月、定考所引九記)     この年の定考は、伊勢奉幣使の発遣の翌日であったことから、雅楽寮に よる奏楽のみを停止し挿頭花のことは例年通り行ったこと、参議で左大 弁の藤原在衡が一枝をとり師輔の冠の下に挿すとあることから大納言の 師輔が上卿を勤めていたこと、儀式の最中に参議らが挿頭花を献上する ことには問題がないとの意見を述べ師輔もそれにしたがったことが分か る。師輔は全ての儀が終了し、父の関白で太政大臣藤原忠平へこの日の 定考の儀を報告したところ、雅楽寮の奏楽が行われていないのに挿頭花 を穏座で用いた行為自体を咎められている。忠平としては、穏座での挿 頭花は「楽の興」であるから、雅楽寮の奏楽を停止した際には挿頭花も 行わないと認識していたのだろう。列見・定考では、延喜雅楽式 ((列見 定考条に、 「凡太政官列見定考日、 官人率 二楽人等祗候」とあるように、 雅楽寮の官人が楽人を率いて儀式の場に伺候する定めであった (11 ( 。実際に 定考での挿頭花は、時代が下っても穏座で用いられている。藤原宗忠の 日記である『中右記』元永二年(一一一九)九月二十七日条には、 次 召 二 楽 寮。 一 発 二 楽 一舞。 臨 暗 之 間、 不 レ 体。 一 就 中 雨 儀 於 何 所 レ舞哉。 只聞 二楽声。 一 此間左中弁 (藤原為隆) 取 二予挿頭花。〈黄菊。 〉 と記されている。この年は二日前の二十五日に行う予定であったが、参 入者が少なく延期となり、二十七日も雨で参入者が少ないまま儀の進行 自体も違失が多く、上卿であった権中納言の宗忠自身が「奇怪」と評す るなか定考を行っている。宗忠は、雅楽寮の奏楽の際には、雅楽寮の演 奏の音だけが聞こえ舞がよく見えないとし雨儀を用いるべきだったかと 述 懐 し つ つ、 左 中 弁 の 藤 原 為 隆 が「 予 の 挿 頭 花( 黄 菊 )」 を 取 っ た こ と を記録している。同書承徳二年(一〇九八)八月十一日条には裏書であ るが、挿頭花についての記載がある。 上 卿( 源 俊 実 ) 白 菊。 宰 相 黄 菊。 左 大 弁( 藤 原 季 仲 ) 被 レ 云。 宰 相瞻 〔膽〕 花也。今夜依 レ其儲 一 被 レ黄菊也。   承徳二年の定考は、上卿が権中納言源俊実、参議左大弁藤原季仲、右 大弁源基綱、右中弁源能俊、権左中弁藤原重資、右少弁平時範、少納言 は 源 家 俊・ 藤 原 懐 季・ 源 実 明 の 三 人 が、 午 の 時( 午 前 十 一 時 ~ 午 後 一 時)に太政官曹司庁に参入し、未の時(午後一時~三時)から定考の儀 が始まった。儀式の最中、雨脚がひどくなり雷も鳴ってきたことから雅 楽寮の奏楽・奏舞は雨儀となっている。記主の藤原宗忠は、このとき左 中弁であったが定考には出ておらず、左大弁藤原季仲から受けた報告を 記している。承徳二年の夜は白菊と黄菊の挿頭花しか用意されず、宰相 す な わ ち 参 議 の 挿 頭 花 は「 瞻 〔膽〕 花 」 = 竜 胆 で あ る の に そ れ が な く 黄 菊 を 用 いたとある。この儀を元永二年の定考と比較すると、雅楽寮の奏楽につ いて詳述されていない点が注目できる。さらにこの事例を先に見た忠平 の理解に引きつけて考えると、穏座三献で用いられた挿頭花は、無礼講 的な宴会で用いられたというよりもむしろ、雅楽寮の奏楽の間、一連の 手続きのもと冠に装飾されている点に意味があるように思う。 2菊の挿頭花と天皇   さて、寛弘五年(一〇〇八)十月十六日に、一条天皇と中宮藤原彰子 の間に誕生した皇子敦 あつ 成 ひら 親王へ親王宣下が行われている。中宮彰子の出 産、皇子の誕生、親王宣下、一条天皇の上東門第行幸、藤原道長の室源 倫子への従一位の叙位と続く慶事のなかで、道長は菊枝一枝を天皇へ献

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上している。藤原道長に批判的な視線を持っていた藤原実資の日記を見 ておきたい。 『小右記』同日条には、 依 二 左 府 ( 藤 原 道 長 ) 気 色 、 一 内 大 臣 ( 藤 原 公 季 ) 令 レ 折 二 菊 枝 、 一 撰 レ 取 二 一 枝 一 献 二 天 皇 ( 一 条 )。 一 御 挿 頭 料 歟 。 無 二 気 色 。 一 直 献 如 何 。〉 令 レ 取 給 。 只 在 二 御 手 。 一 次 左 府 令 レ 二 同 花 。 一 挿 二 卿 冠 。 一 又 仰 二 卿 一 レ 祗 〔候脱カ〕 、 殿 上 ・ 地 下 竹 肉 合 声 。 左 府 仰 二 殿 寮 一 レ 退 二 立 明 。 一 為 レ 翫 二 月 華 。 一 后 献 二 贈 物 。 一 以 下 省 略 ) とある。ここで注目されるのは、藤原道長の意向によって、内大臣藤原 公 季 が 菊 の 枝 を 折 り、 折 っ た 枝 の な か か ら 一 枝 を 一 条 天 皇 に 献 上 す る も、 一 条 天 皇 は た だ 手 に 持 っ た ま ま で 装 飾 し て い な い 点 で あ る。 道 長 は、同じ花すなわち菊花を群卿の冠に挿した。その場に集った諸卿らは 道長の命を受け、殿上および地下とも笛や笙に合わせ唱和している。挿 頭 花 は 群 卿 の う ち 全 員 に 装 飾 さ れ た の か、 そ れ と も 限 ら れ て い た の か、 具体的に知ることはできない。道長の日記『御堂関白記』同日条裏書に は、 「 内 大 臣( 藤 原 公 季 ) 供 二 夾 頭 花。 一 諸 卿 同 夾 」 と、 「 御 夾 頭 花 」 を 内大臣藤原公季が天皇に供し、諸卿も同じようにはさみ装飾したことが 簡 単 に 記 さ れ て い る。 「 御 夾 頭 花 」 と は、 実 資 の 日 記『 小 右 記 』 で「 菊 の 枝 を 折 ら し め 」 と 記 さ れ た 菊 の 一 枝 を 指 す。 実 資 は「 御 挿 頭 花 の 料 か。御気色無くしてただちに献ずるは如何」と、道長の行為あるいは道 長の意に従い菊を献上しようとした公季の振る舞いに対して疑問を記し て い る。 天 皇 が 挿 頭 花 を 装 飾 す る 儀 式 は、 『 西 宮 記 』 臨 時 四、 一、 挿 頭 花 事 の 記 載 に よ れ ば、 大 嘗 会 や 臨 時 宸 宴 で あ る。 大 嘗 会 は『 西 宮 記 』 臨 時 七 、 一 、 大 嘗 会 事 、 辰 日 に は 細 字 双 行 注 で 、「 一 大 臣 若 親 王 起 レ 座 。 至 二 案 下 一 執 二 挿 頭 一 渡 二 卿 座 上 。 一 ( 中 略 ) 天 皇 有 二 許 気 。 一 登 二 帳 台 一 刺 二 方 巾 下 一 と 記 さ れ て い る。 『 日 本 紀 略 』( 『 日 本 後 紀 』 逸 文 ) 天 長 四年(八二七)十月戊申(二十日)条には、 御 二 震 〔宸〕 殿 一飲。 群 臣 酔 舞。 帝 弾 レ 而 歌 楽。 有 レ 賜 二 葉 之 簪 (1( ( 一 人々挿 レ頭詠歌。投暮右近衛奏楽。宴畢賜群臣衣被。 一 とある。ここでは、群臣が酒を飲み酔い舞い踊るなか淳和天皇が琴を弾 い て い る。 そ の 上 で 詔 が あ り、 賜 わ れ た 簪 を そ れ ぞ れ の 頭 に 挿 し 歌 を 詠 ん だ。 こ こ で 装 飾 さ れ た の は、 「 簪 」 と あ る の み で 挿 頭 花 と は 明 記 さ れていないが、その意味内容から挿頭花と考えられる。このように天皇 が出御する場において挿頭花の装飾は、詔すなわち天皇の許可を前提と していた。 『日本後紀』逸文である『類聚国史』(巻三十一、天皇行幸) と『日本紀略』は、大同二年(八〇七)九月に行われた平城天皇の神泉 苑行幸を伝える。同書乙巳(二十一日)条には、 幸 二神泉苑。 一 琴歌間奏。四位已上共挿 二菊花。 一 于 レ時、 皇太弟頌歌云。 美耶比度乃、曽能可邇米豆留、布智波賀麻、岐美能於保母能、多乎 利太流祁布。 上和 レ之曰。 袁理比度能、 己己呂乃麻丹真、 布智波賀麻、 宇 倍 伊 呂 布 賀 久、 爾 保 比 多 理 介 利。 群 臣 倶 称 二 万 歳。 一 賜 二 位 以 上 衣被。 一 と あ る。 傍 線 部 に 見 え る よ う に、 琴 歌 の 演 奏 の 最 中、 「 四 位 已 上、 共 に 菊の花を挿す」と、菊花が四位以上に装飾されている。この場で、神野 親王(のちの嵯峨天皇)は和歌を詠んでいる。神野親王は平城天皇の即 位 に 伴 い、 『 日 本 後 紀 』 大 同 元 年 五 月 壬 午( 十 九 日 ) 条 で 皇 太 弟 に 定 め ら れ て い る。 神 野 親 王 の 和 歌 に は、 「 み や 人 の そ の 香 に め ず る 藤 袴 君 の お お も の 手 折 り た る 今 日 」 と あ る (11 ( 。 さ ら に、 平 城 天 皇 が「 和 し て 曰 く 」 と 神 野 親 王 の 歌 に 対 し て、 「 折 り 人 の 心 に か よ ふ 藤 袴 む べ 色 ふ か く に ほ

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ひたりけり」と詠んでいる。平城天皇の詠歌の後、群臣らがともに「万 歳」をとなえ、五位以上には衣被が賜与されている。賜禄が五位以上で あ る こ と か ら、 こ の 宴 に は 五 位 以 上 が 参 会 し て い た こ と が 理 解 さ れ る。 四位以上に装飾された菊の花は、 「手折り」 「折り人」と詠まれているこ とから、生花であることは容易に想像ができる。菊花の宴は延喜太政官 式 (0(九月九日条で、 凡 九 月 九 日 御 二 泉 苑。 一 賜 二 花 宴 於 次 侍 従 已 上 及 文 人。 一 大 臣 行 事。 所司供設如 レ常。 〈事見 二儀式。 と規定されているように、天皇が神泉苑に行幸し、宴を次侍従以上およ び 文 人 ら が 賜 わ る。 「 大 臣 行 事 す 」 と あ る こ と か ら、 大 臣 が 行 事 に 関 連 する諸司を統轄し、菊花の宴を執り行う決まりであった。延喜掃部式 (( 菊花宴条には、 九 月 九 日、 菊 花 宴。 神 泉 苑 殿 上 供 二 御 座。 一 及 設 二 参 議 已 上 座。 一 又 幄 下侍従、文人等座。 とあり、神泉苑の殿上には、天皇と参議以上の座が設けられている点が 注目できる。つまり、天皇と同殿同床の参議以上と、幄下に座が設けら れた侍従や文人らとでは、座の位置に明確な差異があった。大同二年の 平城天皇神泉苑行幸での菊の挿頭花は、四位以上の者に装飾された。延 喜掃部式に見える菊花の宴に関する座の位置を敷衍すると、殿上で万歳 をとなえることができたのは、四位以上の位階を帯びる者、すなわち太 政官職員でいえば四位の参議を含む参議以上の公卿に該当する。皇太弟 神野親王と平城天皇の詠歌の後、万歳をとなえた「群臣」内部にある四 位 以 上 と そ れ 以 外 と の 違 い を 菊 の 挿 頭 花 が 表 し て い た と も 考 え ら れ る。 『日本紀略』寛平六年(八九四)十月丁未(十八日)条に、 「皇太子(敦 仁 親 王 ) 殖 二 霜 菊 於 丹 墀、 一 奉 二 天 皇 一 と あ る よ う に、 皇 太 子 敦 あつ 仁 ぎみ 親 王 ( の ち の 醍 醐 天 皇 ) は、 宇 多 天 皇 へ 奉 覧 す る た め に、 赤 い 漆 で 塗 り 込 め られた宮殿の庭の意である「丹墀」に霜菊を植えている (11 ( 。『古今和歌集』 巻第五、秋歌下に十三首の菊花を詠んだ和歌があり、このうちの一首が 宇 多 天 皇 の 寛 平 御 時( 八 八 九 ~ 八 九 七 ) の こ と と し て、 「 久 方 の 雲 の う へ に て 見 る 菊 は 天 つ 星 と ぞ あ や ま た れ け る 」( 二 六 九 番 歌 ) と 詠 ま れ て いる。作者は藤原敏行であるが、左注に「この歌は、まだ殿上許されざ りける時に、召し上げられて、仕う奉れるとなむ」とあるように昇殿が 許 さ れ ず、 「 文 人 」 と し て 内 裏 へ 召 さ れ た 際 に、 雲 の 上 で 見 る 菊 は「 天 南面 東上 参議 納言 大臣 日の上卿 東面 冠の右  冠の右 西面 北上 冠の右 黄菊 白菊 竜胆 冠の左 作花 冠の後ろ 弁・少納言 南廂 時の花 東上 北面 図1 列見定考図 ※本図は、『政事要略』巻二十二、年中行事八月上(定官中考)所引西宮記 本文を基準に作成した。矢印は顔の向きを示している。

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つ星」と見間違うばかりであると詠んでいる (11 ( 。また壬生忠見は、天暦年 間( 九 四 七 ~ 九 五 六 ) に 行 わ れ た 菊 の 宴 に 加 わ っ た 翌 日、 「 吹 風 に 散 る 物 な ら ば 菊 花 雲 居 な り と も 色 は 見 て ま し 」( 『 拾 遺 和 歌 集 』 巻 十 七 、 雑 秋 、 一一二一番歌)と、菊花が吹く風に散るものであったならばたとえ雲居 にあったとしても、その色は見ることができたであろうにと地下の視点 から歌を詠んでいる (11 ( 。以上のことは、藤原宗忠が参議の挿頭花は白菊で も黄菊でもなく竜胆であると日記に書き記したことを別の側面から特徴 付けているように思う。定考で参議が装飾する挿頭花は竜胆である。定 考 で は、 「 三 位 参 議 」 と「 四 位 参 議 」 は 菊 を 装 飾 し な い。 菊 花 の 宴 や 菊 花の挿頭花の類例と同列に扱うことはできないが、定考での挿頭花装飾 に参議と中納言以上との間に違いが設けられている点は、定考の儀場が 太政官曹司庁であり、厳密な作法が要求された場であったことと関連し よう。 3威儀の饗   そこで簡単に定考の座の位置を確認しておきたい。延喜太政官式 (((考 定条および『政事要略』所引西宮記本文の規定によれば、次のように整 理できる。   参議以上は太政官正庁の母屋に座がある。これらの人々は、定考の宴 座の三献後、穏座の舗設が終了するまで東の廊で待機し、北の戸より座 に着す。少納言・弁は正庁の南廂に座があり、史生は太政官曹司庁の西 庁の東廂に座が設けられていた。延喜太政官式では、史生は庭中に列立 し、 謝 座 を し た 後、 座 に つ く。 史 生 が 座 に つ く と、 内 記 お よ び 中 務 省・ 民部省・宮内省・勘解由使等の近辺の諸司が召され、西庁の西壁の下に 設 け ら れ た 座 に 着 す (11 ( 。 正 庁 母 屋 に は 参 議 以 上、 正 庁 の 南 廂 に は 少 納 言・ 弁 、 西 庁 の 東 廂 に は 史 生 、 西 庁 の 西 壁 の 下 に は 内 記 お よ び 近 隣 の 中 務 省 ・ 民 部 省・ 宮 内 省・ 勘 解 由 使 等 の 座 が 設 け ら れ て い る。 こ の う ち 挿 頭 花 は、 正 庁 の 母 屋 に 着 座 す る 参 議 以 上 の 公 卿 と、 南 廂 に 着 座 す る 少 納 言、 弁らに装飾されている( 1参照) 。『日本紀略』正暦二年(九九一)八 月 丁 丑( 十 一 日 ) 条 に は、 「 定 考。 依 二 闇 一 儀 饗 。 一 」 と あ る。 正 暦 二 年 の 二 月 に は 円 融 法 皇 が 没 し て い る。 『 北 山 抄 』 巻 第 七、 都 省 雑 例、 定考事は、 諒 闇 年、 列 見・ 定 考、 無 二 穏 両 座。 一 於 二 所 一 二 見 参。 一 其 儀、 大 弁於 二西壁下。 一 先見、 史便出 レ西方之。上卿従右方之。 と す る。 つ ま り、 諒 闇 の 年 に は、 列 見・ 定 考 と も 太 政 官 正 庁 で の 宴 座・ 穏 座 の 二 つ の 座 が 行 わ れ ず、 朝 所 で 見 参 の 儀 が 行 わ れ る 定 め で あ っ た。 『 北 山 抄 』 は 各 巻 ご と に 成 立 年 代 に 違 い が あ る が、 い ず れ も 長 和 年 間 ( 一 〇 一 二 ~ 一 〇 一 六 ) の 成 立 と さ れ る (11 ( 。 北 山 抄 』 で 諒 闇 の 際 に は 停 止するとされた宴座・穏座は、円融法皇の諒闇にあたる正暦二年の定考 では「威儀の饗」とされている。 『西宮記』臨時四、 人 々 装 束 に は 、「 一 、 列 見 ・ 定 考 。 公 卿 隠 文 、 螺 鈿 剣 、 靴 。〈 軽 服 不 レ 着 二 服 。 一 〉」 と あ る (11 ( 。 こ こ に 見 ら れ る 公 卿 の 隠 文 と は、 延 喜 弾 正 式 ((紀 伊 石 帯 隠 文 条 に い う と こ ろ の 参 議 以 上 が 着 用 す る こ と が で き た 石 帯 の こ と を 指 し (11 ( 、 螺 鈿 の 剣 と は、 同 ((刻 鏤 大 刀 条 に い う 五 位 以 上 に 許 さ れ た「 刻 鏤 大 刀 」 と の 関 わ り が 想 定 さ れ る 。 ま た 靴 は 、 同 (((諸 司 著 靴 条 に は 、「 凡 内 外 諸 司 、 不 レ 二 把 笏・ 非 把 笏 者、 一 公 事・ 公 会 之 所 悉 著 レ靴( 以 下 省 略 )」 と あ る よ うに、 内外の諸司が「公会」の場で着用するように義務づけられた「靴」 を 指 し て い る。 さ ら に、 『 日 本 紀 略 』 天 暦 元 年( 九 四 七 ) 十 一 月 十 三 日 条や『政事要略』巻二十二所引天暦元年十一月十三日宣旨は、太政官の 列見や定考、賀茂祭等の饗禄の年々の過差が甚だしくなっていることを 理由に、過差を禁止し諸司に倹約を命じている。先述したように挿頭花 は 天 皇 の 詔 に よ っ て 装 飾 さ れ る も の で あ っ た( 本 章 第 二 節 )。 饗 料 の 未

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進から列見・定考の延引が増え形骸化が進むとはいえ、列見や定考は位 階昇叙など六位以下の下級官人の処遇に関わる事項を決定する。藤原忠 平が師輔を叱責したように、当初は厳格な作法が要求されていたと考え ら れ る( 本 章 第 一 節 )。 挿 頭 花 が 太 政 官 の 政 務 儀 礼 た る 列 見 や 定 考 で 装 飾されたことは、天皇の出御が見られずとも挿頭花が大嘗会や臨時祭の 御前儀で天皇からの賜与物としての性格を有すればこそ、その意味は大 きいのではないであろうか。   貞 観・ 元 慶 年 間( 八 五 九 ~ 八 八 四 ) 以 降 の 列 見・ 定 考 は 天 皇 の 不 出 御 が 定 着 す る。 諒 闇 の 際 に は 宴 座・ 穏 座 も 行 わ れ な い。 け れ ど も、 列 見・ 定 考 の 饗 宴 は「 威 儀 の 饗 」 と し て の 性 格 を 有 す る。 村 上 天 皇 の 命 に よ っ て 編 纂 さ れ た 勅 撰 和 歌 集 で あ る『 後 撰 和 歌 集 』 巻 十 五、 雑 一 に は、藤原時平と紀友則との間に交わされた二首の和歌がある。藤原時平 は「 今 ま で に な ど か は 花 の 咲 か ず し て 四 十 年 あ ま り 年 ぎ り は す る 」( 作 者名は贈太政大臣、一〇七七番歌)と、いままでどうして花のように咲 くことなく四十年あまりも幸運に恵まれなかったのだろうかと詠む。紀 友 則 は「 は る ば る の 数 は 忘 れ ず 有 な が ら 花 咲 か ぬ 木 を な に に 植 へ け ん 」 ( 一 〇 七 八 番 歌 ) と、 春 は 数 も 忘 れ ず に や っ て き た の に ど う し て 花 が 咲 かない木を植えたのでしょうと返しを詠んでいる。詞書には「紀友則ま だ 官 た ま は ら ざ り け る 時( 以 下 省 略 )」 と あ り、 官 職 に つ く こ と と 花 が 咲くこととを対比させて歌が詠まれている。六位以下の官人にとっては 従五位上の位階を授かる叙爵はもちろんのこと、官途につき、更なる昇 進の機会を得ることが希求されていたであろうことは言を俟たない (11 ( 。さ らに、造花の挿頭花の性格をよく示しているのが、 『金葉和歌集』巻九、 雑部上で藤原惟信朝臣が詠んだ次の和歌である。 山吹もおなじ挿頭の花なれどくもゐの桜 さくら なを (ほ ( ぞこひしき (五二六番) 詞 書 に は、 「 蔵 人 下 り て 臨 時 祭 の 陪 従 し 侍 り け る に、 右 中 弁 伊 家 が も と に遣 つかはし ける」とある。鎌倉時代前期に石清水八幡宮の由緒を明らかにする た め に 編 纂 さ れ た『 宮 事 縁 事 抄 』( 神 道 大 系 ) に よ れ ば、 藤 原 惟 信 は 応 徳元年 (一〇八四) に行われた石清水臨時祭で陪従として奉仕している。 承暦二年(一〇七八)には、六位蔵人であった惟信は舞人として奉仕し ている。地下の身分でありながら蔵人使として奉仕した際には装飾する ことができた「くもゐの桜」の挿頭花が、蔵人を降りて陪従として奉仕 した際には装飾することが出来ず、ただ山吹を装飾するのみであったこ とを嘆いている。つまり、同じ挿頭花の花でも桜と山吹の間には大きな 違 い が あ っ た こ と が 判 明 す る。 「 く も ゐ の 桜 」 の 挿 頭 花 は、 列 見 で は 納 言 に 装 飾 さ れ る。 定 考 で 中 納 言 以 上 に 用 い ら れ た 菊 花 も、 「 く も ゐ 」 と 詠まれている。定考で参議の装飾とされた竜胆については、その象徴性 について具体的に検討する用意はないが、列見で装飾された藤花は、大 嘗祭では天皇や大臣、臨時祭などでは勅使の装飾として用いられ、万代 を象徴する花ともなる (1( ( 。以上のことから造花の挿頭花は、花の序列や花 の意味、装飾する際の作法などが複合的に絡み合い、それぞれの特徴に 相補われながら、被装飾者の違いを可視的に表象していることは明かで ある。 おわりに ―まとめと課題―   これまで述べてきたことを簡単にまとめておきたい。延喜太政官式の 挿頭花規定は、穏座三献で雅楽寮が奏楽をしている間に進上されるもの と し て 定 め ら れ て い る。 つ ま り、 挿 頭 花 は、 『 延 喜 式 』 の な か で は 延 喜 太 政 官 式 (((考 定 条 に 一 例 の み 見 え、 「 挿 頭 」 と だ け 記 さ れ て い る。 『 延 喜式』 の規定からは、具体的な花の種類については知ることができない。 しかしながら、天徳・応和年間(九五七~九六三)の儀式作法を伝える 『 政 事 要 略 』 所 引 西 宮 記 本 文 で は、 定 考 の 挿 頭 花 が「 作 花 」 と 記 さ れ、

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