Title
奄美の民族語彙瞥見
Author(s)
新屋敷, 幸繁
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(1): 125-136
Issue Date
1980-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5664
奄美の民族語彙瞥見
新屋敷幸繁 3奄美大島の地名考 4久高舟と糸満舟 1鼠に関する奄美方言 2.奄美大島における一宇姓 1鼠に関する奄美方言 一語尾音による方言区画一奄美大島における鼠の方言は「ネズミ」という普通名詞の独特な発音によるも
のと、他に土俗関係から命名された種々の名称の一群とに分けられる。今ここに、昭和10年(1935)ごろまでに、奄美全域の知識人によって仮
名書きにされたものを拾い集め分類してみると、次の三つの系統になる。 。ヌィジン・ネィジン・ネェディン・ヌゥジン・ミヂィン・ネジィン ゜ネィズム・ネィディムィ・ネィディンム・ネィデミム ゜ネィディミ・ネィジィミ・ニジミ・ヌィジィミ 以上の如く「ネ」は「ヌ」と「二」との中間音で、「ネ」の如く母音「エ」で終 らず、母音「イ」で結んで、「二」になりきらずに「ヌィ」となっている。しか し、「ズ」は「ジ」あるいは「ジィ」のカナで表わしてあるが、これは「ズ」と 「ジ」との中間音で「ズィ」と記すべきものである。 に」も「ム」と「ミ」との中間音で「ムィ」と発音された。すなわち奄美大 島では、鼠は「ヌィズィン」または「ヌィズィムィ」と発音された。ところが、 今では「ム」と「ミ」とが色分けされて発音されているようにもあるから、奄美大 島における鼠の語の語尾が、「ン」と「ム」と「ミ」との三系統に分けられると いうことになる。 奄美大島本島中部以北、即ち笠利村、龍郷村、三万村、住用村は「ン」系統で あり、南部の宇検村、西方村、東方村、実久村、鎮西村は「ム」の系統、徳之島-125-Iま「ミ」の系統に属するということができる。
喜界島と沖永良部島とは、また、別の趣きがある。喜界島では「ヌィ」が「ム
ィ」となって可「ムィデゥムャ」「ムィズィンガァ」ともいっているが、「ムィ」を「ミ」とも発音されて「ミデゥミ」「ミデゥマー」とも聞こえる。「ネ」「ヌ
ィ」が「ムィ」「ミ」と発音されるところに大島本島との差異があり、「ムィデ
ウマー」「ヌィズィマー」と言,ている点から「マー」語尾として他の三系統
と対せしめることもできよう。喜界の老人が鼠を「ユンヌー」といったり、それが子鼠のことを意味したりも
する。「ユンヌー」は本島や徳之島ではいわないことである。その点、喜界はむ
しろ沖永良部と似通っている。沖永良部では、他の系統の語は使わずに、「ユム
ル|「ユムヌー」という言葉だけを用いている。例えば、「あ&鼠が逃げたということを「アピー、ユムヌヌ、ヒンジタン|と
いう。くつに土地の老人がこのユムヌ(鼠)を「オイシヤ|というのも珍しい。
「ユムヌ」の語源は「夜の物」の意味かも知れない。「オイシヤ」は、他の大島
全島で鼠のことを「神さま|「ダンナサマ|「ヤンヌシガナシ|「アヤガナシ」
「ユウミンガナシ」「ウシヤガナシ|「ウッシユ]「アセ」「ウンチュ」といよ
うな尊敬語に類するものであろう。「神さま」以下の尊称は、鼠の危害を恐れて
つけたものである。。鼠をヌィズィンとよぶと、その人は着物を喰い破られるから「ダンナサマ」
又は「ウィンチュ」という。(笠利村赤木名)・鼠に家道具をかじられることを恐れて「フッシユグヮlとよんだり、「オヤ
フヂガナシ|とよんだりする。(東方村)・鼠といえば罰があたるので「ウンチユ|といってあがめる。(名瀬、笠利村)
・神棚などにそなえた御飯などが食われたときは「ウンチョウガナシ」が食べ
たなどという。(企上)・鼠といえば害を受けるので「アセクヮ」という代名をつかう。(三方村)
・家道具をかじるから「アセ]又は「プッシュ」(大主)という。(宇検村)
-126-。鼠を悪くいうと田畑の作物を害されるから大人は「神さま神さま」という。 (喜界島) b夜の鼠は神様といって殺さない。(徳之島、花徳) ・夜には鼠を「天井の神様」という。(笠利村) ・家の主人をあがめて「ヤンヌシガナシ」という。(徳之島伊仙) 。「ネズム」というと道具をあらされるので、老人達は「トウトウガナシ」と うやまう。(鎮西村) 上のうち「ウンチュ」という言葉は、沖縄の「ウェンチュ」という語と同じで、 沖縄ではこの一語だけで鼠を呼んでいる。「ネズミ」系統の語は全くない。そう して沖縄では「ウェンチュ」という言葉に尊める意味を含めてはいない。しかし、 その起りは奄美大島の「ウンチュ」で尊称であったと思われる。その語義を大島 では「上の人」と解している。沖縄では鼠を人に擬して呼んでいるのにまだ気づ いていないようである。奄美大島における鼠に関する言い伝えを調べてみると次 のようなものである。 。白鼠は、神様の御使いであるから、白鼠が居たり、その夢を見たりするとそ の家に必ず善い事がある。 。pの赤い鼠は神様鼠であるから殺してはいけない。 ゜鼠が家に居なければその家に幸せがない。 。鼠は家の王さまであるから、それを他の家に追い払うと、他人の家にお金が 行って自分の家の内にはお金が無くなる。鼠はお金の番人である。 。鼠が家移りをすると火事か洪水が起こる。 。正月にはゐろりの上に豚肉や大根や飯や酒などを置いて鼠にも年を取らさな ければならない。 その他多くの言い伝えがあるが、長くなるので割愛しておくことにする。 2奄美大島における一宇姓
奄美大島の姓は、蔓泉蒐、境iil隠荊如く一宇姓が多く残っていたが、
-127-シン
最近でその-字に文字を加えて二二次姓にする知恵が働らかされた。「新」を「新
ヒロミヨシ イク燦」とし、「廣」を「廣司」とし、「吉」を「吉岡」「吉田」とし、「生」を
/ リ」ユウタッノナホ「生田」とし、「龍」を「龍,野」とし、「直」を「直江」と改正したなどである。、
昭和10年度(1935年)までの、大島中学校の卒業生が1.059人あって、
その中で一宇姓の生徒が275人もいて、q26の歩合をし、在学生の一宇姓の
数が118人もあった。゜明蕨7
.乾イヌヒ 糸イト 沖オキ 押オサヘ 兼カネ 贄ケン 榊サカキ 島シマ 生セイ 谷ダニ 鎮チン 定ティ 富トミ 登ノポリ 廣ヒロシ 太フトリ 翠ミドリ 基モトヰ 竜リユウ これらの-1臓汪ミヒカカパモカ洲計キドタ
タミ リ ラシキ リカ ーフンヅーフクザ ァシイウオカキコサスタタタツトナハフマミユ新泉浦屋文記濤境角平高椿友仲英麓牧緑豊
ロ シ ゾフキ此ンイヅナメカクタャサスュウマタ
{“ヘ サ リシシ キ 、リ汗小仙杉汚糊汁ケサシソタットアハヒマミコヤワ
朝祝幾奥叶城憲栽静備為政徳中林弥益幸山渡
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イイエカカキ 稲勇榎柿柏一用 碇イカリ 祈イノリ 納オサメ 勝カツ 司カナリ 蔵クラ 栄サカエ 童シゲ 関セキ 保タモン 築チク 常ツネ 隣トナリ 和ニギ 伊イヰ 池イケ 興オキ 亀カメ セキ 楠クスノキ 里サト 仁ジン 勢セイ 武タケ 張ハリ 辻ツジ 得トク郷勤
ソ シ リグ ヒ ュ、是カクルキシカクヰカネ シスタタツト一一くうスムヨ 俊住尚宅鶴時西圖福水向米昇/熱
東ヒガシ 頭フトリ 嶺ミネ 森モリ 吉ヨシ 兀ハジメ 『「、『『、 サナグシ フミメヨ 房南恵芳一宇姓をていねいに訓んでみると、
-128-歴史的事I肩によって任意に漢字を取った苦衷が察しられて涙無しには読めない。その姓につけた各個の男の名前を
見るとき、更にその思いを深くする。当時奄美の古老、孫を持っていた人々の名
前をあげてみよう。 カメイジョゥ・石太郎石熊岩助犬次郎丑六丑熊亀上
嘉名定嘉久郷金七金徳清熊菊亀熊
源熊甚助茂熊砂益武熊長熊冨積
直熊真佐登平熊吉熊源熊平熊百八
百九石熊以上160人の名前の中から30の名だけを挙げてみたのであるが、何と「熊」
の字の多いことよ・「くま」は日本語としては大きく強く荒く恐しいさまをあら
わす語で、奄美の男達が薩州支配下で我が物として所有し得た唯一の熊の擬装で
あった。それに対して、女たちは本来の南島情意をほしいままにして、奔放名をつけあ
っていた。。愛鶴犬目樽憲讓カナソメカネマス小菊櫻
サダツルタケマツ濯ズル鵠欝寳鞠安千代
鍋加那ヨシカナなどで、鶴、魚、松、竹、菊、鍋、牛等の名に美祢親愛の接頭語があるいは接
尾語を付けていろいろな「女名」が構成されている。締、懲観ソメなど
ヲンナナ が接尾語である。 S奄美大島の地名考奄美大島の地名は、殆んどすべてが純粋の南島名である。その古来の南島名に
漢字をあてたために、次第に字音通りに読むようになってきて、他地方の影響が
あるようにも聞こえるが、そうではない。それで大島の地名の語源は漢字の意義
に求めるだけでは明らかにされない。土地の読み方によって南島古語の意義を尋
ねていくことによってのみ可能である。つまり、奄美地名の漢字は、一つの萬葉
-129-仮名的な仮名を創り出したということになる。
赤は「ハア」「ハ」、手は「ティ」、用は「ユ」、萬は「マ」、屋は「ヤ」・
「ニャ」、仁は「ン」「二」、肥・火は「上」、田は「ジャ」、花は「ケ」、美
は「ミ」、見は「ミ」、輿は「ユ」、路は「ル」、熊は「クマ」などを例にあげ
ることができる。従って次に列挙するその土地で呼ぶ名称は、地名の源を知る資料にもなるし、
大島語の音韻研究に欠くことのできない資料にもなると思う。楽しみに、その漢
字構成と、伝承の地名を口承していきたい。
A大島本島・茎;l村
赤木名ハキナ中金久ナアガネク手花部テイーブ喜瀬キシ
節田シ詞ツ身イタ和野ワノ用ユ
萬屋マニヤ宇宿自三テタ湖士弓姜チ屋仁ヤン佐仁サン
用安ユヤン城間菫兄二前肥田ムエヒヂヤ平邦ャ
火田ヒーヂャ大笠利フゥガサン里サト
船倉フナグラ 緑屋ミジャラ・龍,郷村
寵郷タチゴ瀬留ろ1腸I久場クパ
秋名アギナ嘉渡妻)Lドー円イン
大勝ホガチ屋入ヤニュ 浦ウラ芦徳アヅシヨ赤尾木ホグェー中勝ナンガチ
河内コーチ戸口トゥグチ 安木屋場アンキャパ阿檀崎アザンサミキ 番屋パンヤ矢川テンゴ 池野イケノゥ開山ヒラキヤマ ・名瀬町(今の名瀬市)唐浜カラバマ左大熊写訂晃塩浜シュパマ伊津部インブ
金久カネク矢之脇イャナキ小金久コガネク伊府イブ
川内コッチ尻田シッタ 久里クサト里サト井根ヰヌィ松里マチザト小浜コパマ赤崎ハァサキ
-130-゜三方村
浦上茅忌努三朝戸アサト
小宿コシク 有屋アリヤ 伊津部勝イチンガミチ寄原サキパル占見コミ根瀬部勢鍋有田アッタ
知名瀬導尖平川へイガウ
間太間マタガマ尾崎ヲサキ ・大和村 、'今里イマザト志戸勘寡ヨス三
大棚フウダナ恩勝詫鱒・
大和浜ヤマトハマ湯湾釜ヨヮンガマ 川内コーチ 三田サンダ 小田コダ 永田ナガタ 松崎マンサキ伊間イーマ スミヨウ ゜住用村 市イチ和瀬3毛イ
見里ミサト 山間ヤンマ ウケン ゜宇検ネオ 湯湾釜ユヮンガマ芦検アシキン 部連ブルィン湯湾ユワン 須古スク 平田ヘダ 名柄ナガラ 佐念サヌィン ・西方村 西古見ニシヌクミ花天キティン 犬目イメ 古志クシ チンゼウイ・鎮西村
・秋徳アキトク押角オシキャク 朝仁アサン大熊二3三マ
小湊コミナト西仲勝ニシナンカテ前勝全;万事チ名瀬勝ナゼガチ
軍芦花部二糞ラフk兼久フウ榊古晴フ:
小田コダ 字福田ウフッタ 浜道ハマミチ 古晴フンル戸円詩ニン
津名久ツナグ 高桁タケタ 宇不田ウフタ 新巻アラマキ 瀧/川タキノコ 名音ノン 国直クゥンニョリ 大金久フーガネク 美登理ミジョリ 萬田マンダ 伊府崎イフザキ 石原イシャラ 西仲間ナハマ 戸玉トダマ田検舞三
チ ン ガンンウ キキケドシ イ●ワワヤク 勝検鈍士心 生字屋久 久慈クジ 天浜テーン 阿室アムル 久慈クジ大浜9s二
阿宰等アモルガマ 池地イキチ 伊子茂イキョモ -131-押齊オセ與路ユル
・薑>;(村
瀬相務ソ俵ヒユウ
嘉入能ニゥ須古茂スコモ
三瀧勇う
゜東方村古仁尾:ニギ清水夷1受ィ
、グ 油井二Lヰ 阿木名アクニャ嘉鉄為こみィ蘇刈スファル
ー網野子ニミノ杲嘉徳雛ク
小名瀬クゥナゼ B喜界島 キカイ ゜喜界村 伊砂イサグ阿原アマル 手久津久テードゥク川嶺ハンミ赤連アカレー中里季ニタウ
瀧川タンニァー島中シマナー
サウマチ ・早町ネオ小野津言負多神宮ハミヤ
蒲生ハモー阿伝アディン 志戸桶シー伊実久イサネク C徳之島 ヒフヒルァマギ ・東天城村花徳夢ドク
母間夢二
・窯i義村
阿布木名アブキナ大津川フゥチコー岡前;男署三前野ムェーノ
阿室アムロ 西阿室ニシァモロ 阿多地アダチ 武名ティヘナ ーフェヘナ武名麦チナ
手安訂ギン
勝浦蒋霊ラ
久根津クネィン節子宅ラヨ
山畑.アンパテ 阿鉄アディン 伊須イスィ 須手スィディ ツト イイママウ テテヤシトンク ハハキンニス鉄ササハハグ
嘉山里 上先羽城 レ ノ パマ ーフシ しウヱンマむエイジンマ
アウィワチニ ゥ原イナナ 原浦治熊 浦上池中 前金久メーヌク 嘉鈍ハドゥン 佐手久サデク 花良治ヒラジ 塩道シュミチ 長嶺ナガンミ 山サン 轟木トドロキ 松原マチャラ和名3ニャ
浅間アザマ 與名間ユナマ -132-平土野又吟ナ西阿木名ニシァギナ
竿之花ソンノハナ秋利神アキィギヤン
瀬瀧シダキ兼久カネク 仲間ナハマ野士久ヤドー ・亀津村井之川ヰノカワ下久志;=クシ
゜伊仙村糸木名1孕圭す八重竿エーゾウ
當原トゥーパル小島クジマ面縄牙三ナラ宮本ミヤムトゥ
下熊夛当ニヌマ穴)Ⅱアナゴー
河地力ハチ ,沖永良部島oi1H;Ei1j
古里サチゥ 玉城ティヤアトゥ 根折ニユウイ国頭クンゼイ 手々千名ティーチヤ喜美留チィビル ボロワ一 出花ヂィギ 永嶺ナガニー後蘭グゥラル・葡茗村
芦清良アシキラ黒員クヌギ 餘多アマダ 瀬利覺ジッキョ 上城ニシミ 下城ニシミ 下平川ユシキャ上平川ヒョー 正名マサナ 大津勘オホチカヌ E與論島・壷歸11村
那馬ナーマ茶花二妻共ナ
足戸サトゥ 立長トゥモライ亀津然土聿新里アラザト
犬田布インタプ阿權アグン岡山千茶名イブMチけ廉浦菫輔う
崎原サギバル上熊ウィンクマ 前原マヘンバラ後原クシンパラ 大城オホグスク 西原ニシパル 和泊ワドゥマイ 瀬名シニヤ 與和ユァー 皆川ニィヤアグ 内城グスク 伊延ユヌビ 畦術アヂフ 田舎平イニャヒャ 屋者ヤジャ 田皆タンニャ 久志検グシケン 徳時トゥドゥキ 小米フグミ島尻三ニラヤ
赤峰アーニー 屋子母ヨーム 知名ジンニャ 古里プルサトゥ叶ハノー 幸名波コゥナパ瀬良座組シラダグミ-133-以上、奄美の地名は、、沖縄の地誌にかかわりの深いことがわかる。それで沖縄 の地名を組み入れて考えれば、-その同体的な姿も明らかに描き出すことができる。 先ず、「金久」と「里」を取り上げてみよう。 金久には、大金久、中金久、小金久、前金久というように、大・中。小。前・ 後をつけて区切っている。そうして徳之島天城村のは、沖縄風に「兼久」という 字があてられている。 ミザト 里には、久里、松里、今里、見里、新里、古里、前里、羽里などがあり、見里 は沖縄の見里も共通で、沖縄でも見里という姓がある。 その「里」も「金久」も奄美大島の村落の成立を物語る名称でもあって、「カ ヌィク」とは海浜に接続した砂地帯のことで、それに対して、山寄りの赤土(マ ーヂ)地帯の部落が里といわれている。そこで「里」の部分は、その部落人の最 初の居住地で、それから海浜の畑であったり、蘇鉄畑であったり、草原であった りした金久が、次第に里の部落の発展するにつれて民家ができ、部落の一部、あ るいは独立して-部落を形成したのが「金久」になったわけである。金久の語義 は「金粉|で眞砂(まさご)に訳して考えてみてもよい。沖縄の宜野湾市の我如 古の地名はその金久(兼久)のことで、今は陸の奥深くなっていても、古くその 近くまで海が入りこんできて砂質地帯であったことを証明しているものである。 次に、奄美の村落は、多く海浜に臨んでいるので、海浜との関係の地名が多い。 唐浜、塩浜、小浜、浜道、大和浜、大浜…などがあり、最も興味ある「名瀬」の 「瀬」の字を書いて「スイ」「シ」という語のついた地名に、喜瀬、瀬留、根瀬 部、知名瀬、和瀬、瀬相、小名瀬、瀬瀧、瀬名…などがあって、湾入した海岸入 江を求めて出来た村落の風貌をうかがわしめるものがある。 「瀬lに対して「勝」(ガチ)という名のついた地名は、海浜から離れた陸地 山地の部落である。大勝、中勝、前勝、伊津部勝、名瀬勝、恩勝、役勝…などの ごとく、「ガチ」は「カコヒ」あるいは「サカイ」をあらわす「垣」を意味して、 沖縄本島の「勝連城」の「勝」も「垣」であることが考えられる。 後方をあらわす「クシ」によった地名には、久志(宇検村)、久慈(西方村)、 -134-
下久志(亀津村)、木慈(実久村)などがあって、漢字のあて方はちがうけれど
も同名である。高台の地をあらわしている赤木名(笠利)、阿木名(東方村)、秋名(鬮郷村)
阿布木名、西阿木名(天城村)などの「ハキ」「アク」「アギ」「アプキ」は
「上」(アギ)・「陸」(アギ)の意で、け」は土地・場所と意味することが
わかり、具志川市の安慶名がこれら一連の地名であることも知ることができる。
日本の古語もふくめて考えれば、ナ行のナニヌネノが「土」を意味する語である
ことも興味深いものがある。地名考の結びに、「クマ」(熊)の字のつく地名、熊・大熊・左大熊・上熊・
下熊などのクマは、動物の熊ではなく、谷合いをあらわす「隈」や「曲」の字に
あたる「くま」のことで、デークマの「大」の字は「竹」(デー)のことである
ことを追記しておくことにする。 4糸満舟と久高舟奄美語の名詞について略述してきたが、沖縄とのかかわりの深い名詞を表面に出
して、研究家の資料にしておきたい。 <ILS$ね奄美大島で「割舟」という言葉はあまり使われてきていない。喜界島で土地の
人の舟でも「クリンニー」とよんでいるだけで、普通には「イタスキ」或いは、
「イタスキブネ」とよばれてきた。くりぶれ型に板ではいだ舟を一般に使用して
きたからである。沖縄式のくり舟は、糸満舟とでも総称したいほど、奄美のどこの海岸でも糸満
漁夫が活躍していたが、その舟を糸満舟とよんでいるのは大島本島最北部の笠利
村の一部で「イショマンプニ」といっているだけであった。その笠利村でも大部
分は「ナハブニ」(那覇舟)、あるいは「ナハンチュブニ」(那覇人舟)とよん
だ。喜界島では、沖縄のくり舟のことを「クダカプニ」といい、糸満漁夫でも「ク
ダカー」とよんでいた。 -135-イザイホーで名高い久高島の男達が、糸満漁夫に先んじて奄美大島各地で漁業 にいそしんでいることになる。後には両者を-つにして「糸満久高ヌ嫁ナリバ、 イラブチサシミヤ、チヤーカミ」、糸満人。久高人の嫁になればいつでもこぶ鯛、 の刺身が食べられるという民謡も歌いつがれていた。大島本島南部の東方村でも、 くり舟は「クダカブネ」と称していた。このような久高の男の活動が、留守を守 る久高島の女達が神女となりきった原因があった、ということも見落としてはな らない。恐らく、次のイザィホーの祭りには、久高の男たちの子孫が、奄美から 久高島に祖先を拝みに押しかけてくるであろう。久高の男たちは、現在でも各地 で優れた体力と企業力を発揮しつつある。 あの「イサヘイヨー節」で知られている「イサヘイヨー津堅と久高と舟橋か けて、津堅のミヤラビ渡ちみぽしやイサヘイヨーヤーラシクィクィー'の歌 詞は、久高男の讃歌である。 行政区域はちがっても、津堅と久高は舟を舟橋と称して往還して地域の文化を 創っていたことは、古代に両島を「つれしま|と称した地誌上の位置を民俗化し たよき例である。自然と文化の融合ということにもなる。 久高男の祖先、奄美大島でのクダカンチューは、奄美の女達のつくった甘藷で その腹をふくらませた。奄美では、甘藷のことを「さつまいも」などとはいわな |」;んはう い。「ハンス|あるいは「トン」とよんだ。ハンスは「蕃薯」のことである。 「トン」は唐芋ということにちがいない。名瀬以北、龍郷、笠利かけて「トン」 とよび、その他は「ハヌスィ」「ハンスィ」「ハンスィン」とよんだ。つまり、 大島20有余万の人口の半分は、甘藷のことを「ハンス」とよび、あと10万人 はこれを「トン」とよんだ。 -136-