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第1次新教育の基礎概念としての「自己活動」

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(1)Title. 第1次新教育の基礎概念としての「自己活動」. Author(s). 若原, 直樹. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 32(2): 63-78. Issue Date. 1982-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4866. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 若. 原. 直. 樹. は じめ に. 日本の第1次新教育に関して は? すでに少なからぬ研究が提出さ れていて, 第1次新教育 (以下 単に, 新教育と言う) の全容が次第に明らかになりつつある 拙論もその作業の一助をなすよう意 . 図しているのだが, ここではいく つかの先行研究とは違えて, 新教育を総論的に概括することは控 えた. それではもはや新味に乏しいからという理由に加えて, 諸々の思潮や教育実践を並置的に列 挙して解説する研究では, 新教育の諸部分, 諸側面がそのまま有り体に報告され, それによって新 教育のいく つかの特徴が確かに帰納されることはされるのだが, しか し, そのいくつかの特徴の うち最も本質的なものは何か, その本質はどこま で貫徹していて どこからは例外なのか 応用なの , か, また列挙された特徴どう しはどう関係するのか. それが明瞭にならなければ 結局 「あれもこ , れも」 という併記が多用されて u新教育には いろいろな顔がある″ という平凡な結論に落着いてし まう. そこで拙論では, 新教育のメルクマールを代表する 「自己活動」 の概念を基礎におき それを中 , 心にして新教育の教育方法を論じてみた. 本論で述べるとおり 自己活動が新教育において最も広 , 汎で共通に見られ, 他の概念と有意味な関係を持つと筆者には思われるからである また新教育を . 論ずる場合, 一つの対象に視点を定位することが特に必要と思われるもう一つの理由は そう しな , ければ新教育を評価する場合に一貫した立場に立つことができないから である . たとえば, 新教育は, 形式的で強制的な学校教育から子どもたちを解放して学習意欲をひきだす ことに成功 したが, 「しかしながら, 他方 で」 科学の系統的で順次的な 教授のも つ重要性を軽視し 1 ) あるいは 児童を学習の主体として認知 した点では画期的 であるが 「同時に」 児童のもつ無 た{ . , , 2 ) あるいはまた 学習内容を 子ども達 限の可能性への信頼と目的意識的働きかけの点 で弱さがある( . , 自身で決定させ て一斉学級教授を打破したが, 「また他面からは」教授の役割や教師の指導性の位置 3 } などの評価がある づけが不明確だった( , . このような評価はいずれも前段において肯定的であり後段において否定的で したがっ て新教育 , の u玉 と 石″ を, n光と影″ を指摘してはいるのだが, 結局のところ どちらをその本質とみるべきな のか要領を得ない, のみならず, 前段と後段とを並置するだけ でその関係についての言及がないた めに論理が不透明である. というのは, こう した対照的な評価を, 新教育の二つの部分を指してその一つ一つにそれぞれ該 当させるのならばともかく,ある単一の事 象を姐上においてそれを二様に批評しているから である . もし評者に一 貫性があれば, 一面 で肯定して他面で否定す る場合というのは たとえば 学習意欲 , , を開発する ところまでは達成できているが系統的な学習を実現するま でには至らなかったという , 63.

(3) . 若. 原. 直. 樹. 達成程度を評定するとき で, それを換言すれば, 前段の内容を新教育が一層徹底 しさらに延長すれ ば後段の否定的評価は加えずに済ん だ, ということになろう. はたして新教育 をそう解釈してよい のか. それとも, 単一の事象でも視点を変えることによっ て肯定にも否定にもとれると評者がそう考え るのならば, では 一体 どちらの視 点を堅持すべきなのかまで論及しなければ両方の視点で同時に教 育実践をすることは不可能なのだから, それではあまりに傍観的である. これはやはり, 新教育をあるがままの現象どおり総括して, 今度はそれを現在という高みから批 評するという方法からくる安易さ ではないか. これを避けるために, 拙論では, 自己活動の概念を基礎において新教育の特徴を明らかにするこ とに努めた. 新教育のメルクマールとして常に列挙されるのは, 個性尊重, 注入反対, 画一打破, 自由, 児童中心主義, 経験主義, 生活教育, 自己活動, 自学自習などの用語 であるが, これらのう ち, より具体的で, 直接児童の学習活動を表現しているものは, 自己活動と自学自習であり, さら に絞ると自学自習は自己活動による学習と理解できる. 簡単に言えばそのよう な訳で, 筆者は新教 育のさま ざまな実践はすべ て自己活動に収鰍できると考 えて, 今度は逆に, 新教育独特の教育方 法 や学習形態が自己活動論の必然的結果 であることを述べようとする.したがって,自己活動論によっ ては説明できない事実を新教育の例外と解釈する. .新教育は日本で最初の 自己活動による教育実践だったのだが, さらに一層興味深いことには, , 実は自己活動という用語は現在の教育方 法学上の重要な用語でもある. だから, 新教育における自 己活動と現在のそれがどのように異なっているのか, この点をも小論で取りあげれば, 新教育の特 徴を一層浮きぼりにすることができると思われる.. 1. 自己活動の原動力=本能 4 ( )と言われると 「現今の教育改造家は必ず其の 思想の根底には児童の自己活動を尊重している,」 おり, 自己活動という言葉は, 新教育を論ずる著作の中に 実に頻繁にみられる. ところが, それに もかかわらず, 教育の出発点が子どもの自己活動にあることは疑う余地のない当然の 原理と考えら れているとみえて, それについての丁寧で詳細な論述はほとんどない. その大きな理由は, 自己活 動の原動力を,子どもの本能というそれ以上分 析することの困難なエネ ルギーと把え たことにある. 自己活動の原動力 -- 自己活動が発動する時, その根源的な力は何か ら生ずるのか. これについ ての新教育論者の認 識は, 誰をとっても同様である.「児童をして生長せ しめる力の根源は, 児童自 5 { )及川平治のこの言 体に存するものである. この力は, 終生, 自己活動として発現するものである.」 明は, それを代表している が, この他にもたとえその 表現のしかたが違って, 「発動は実に 人の本 8 ( )と語られようとも その意味するところは, { ? ) ( 6 } 「内心の自然」 「児童の内部に存する自発的精神」 性」 , 児童の内面の生来備わっている自然であること, したがって児童の外部にあるものではなく, また 外からの作用によ って生ずるものでもないことの点で共通である. 要するにそれは, 「本能」と同義 である. 新教育を論じた諸々の著作の中には, 「本能が人生出発点の根源」「自学は元より本能 的に 起こる」 「自学は本能衝動に淵源する」「よりよく伸ばそうとする 慾求は本能的にもっている」 など の表現が, 枚挙のいとまのないほ ど随所にうかがえる. 一般に 「本能」 という言葉は, それ以上分析困難な用語で, というより動物の先天的で固 定的な 行動 パターンのうちまだ科学的に解明さ れていない部分を指してそのコ トバ をあてるのだから, 目 64.

(4) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 己活動の実体を 「本能」 (あるい は 「衝動」 ) と呼ぶとき, それはもはや詮索する必要のない また , できない自明のことと考えられた であろう. ここでの筆者の意図は, 自己活動を教育の基本においたこと, しかも自己活動の原動力を本能と みとめたことが新教育の実践内容をどのように決定づ けたかを明らかにすること である 筆者は , . 本能や衝動には①先天性②遺伝性③自由性 (自由奔放さ) の三側面があると考え この三側面が教 , 育実践の中でそれ ぞれどのような場所を獲得しているのかをまとめる . 1 ) 先天性 ( 本能が先天的なもの であると言うことは,当然というより同義反復 である 自己活動の原動力を本 . 能や衝動と認めたことは, 子どもを親が養育し教師が教育する以前にすでに彼らの内部に それが存 在しているとの解釈を導く. ここから, 教育は子どもの自己活動の自然な顕現をまっ てから行われ 9 ( ) るべきであって, 決して「(従来のような) 些かの注入も伝達もあり得べき ではない 」 . という新教 育特有の学習先行論が生ま れる. 新教育は, 教授と言えぱあたかも注入と伝達の教授しか 存在しな いかのように一切の教授を敬遠して, 実に, 児童の興味や学習意欲を喚起しようとする指導さえを 1 0 ( )と否定する こうして 「原則として新学習 材料の取 も 「それでは真の自学自習とは言われない.」 . 1 1 扱を教師の教授から始めることはな」 く, 「何事でも先づ自分自身をして試行させ るの である 」 { ) . つまり, 教授=学習過程における最初の契機は, 教授と学習という 2 つ の フ ァ ク タ ー の 内 常 に , 学習の側にある. 先手″はいつ でも学習の方 である 学習が先行し教授がそれに随行する 教授は , . 学習の前に立ってそれを制御するものであっ てはならず, 教授の比重が軽ければ軽いほど是とさ れ る. 「教師中心であろうと児童中心であろうと遊戯の学習化であるうと合科学習であろうと…ダルトン,プランであろ うと若しもそれが指導を認める教育, 教育意識の上に立つ教育 教育者と被教育者を対立させる教育 であるならば , ……旧教育と呼ぶことに私はちっとも曙賭しないのみか, そういう教育はもうくたばっていいのだしくたばるべき 2 1 ( ) 運命が近づいていることを直覚する」. このように本能の先天性から学習の先行性が演経され, 児童の自主的で自発的な学習 ( 「自学」 ) が奨励される. すなわち新教育が一名自由教育と言われるとき, その 「自由」 は第一には 「教師か らの自由」 を意味している. ( 2 ) 遺伝性 一般に子どもの性質が各人各様であることは誰にでも経験によってすぐ知れること であるが 新 , 教育においてもそれは同様である. そして子どもによってそれぞれ異なる活動の その根源を本能 , と把えているために, それらの差異は先天的 であり, したがっ てその主要な原因は遺伝に よって与 えられていると公言さ れた. 確かに本能は, 先天的 であり遺伝的である. 新教育は, 子どもの自 己活動の遺伝性によっ て与えられている多様性を教育論構成の前提としなければならない . 遺伝的差 異に着目すれば, まず 「画一的学習材料をもって学習することの不都合なことはなんび 1 3 ( 〉から 学級の全児童に共通の学習課題を設定することが誤り となる また「同一 とも異論はない」 , . 1 4 { )と 児童に共通の達成を の進度を強制するがごときことの背理なるは識者をまたずともわかる 」 , . 求めない. さらにまた,「異なる児童を全く同一視して一斉に教授を施すという ことは不自然極まる 1 5 ( )と 一斉教授方法を採用 しない こと」 , . 個別教育という場合, ある共通の教科内容を習得するために各人の個性に合わせて個別的方法を とるという形式と, 学習方法を個別化す るだけでなく教材も達成度も異にする個別化と があるとす 65.

(5) . 若. 原. 直. 樹. れば, 新教育の意図は完全に後 者である. 千葉師範附小の 「分別扱」 , 奈良女子師範附小の 「独自学 習」 , 明石師範附小, 奈良女子師範 附小, 成城小などの 「分団式教 , 成城小の 「ダルトン・ プラン」 である. 新教育の 育」 , こ れらはみな児童の個性 差に応ずる学習を保障しようとする 個別学習の形態 強調 が随所 一様でない 」という 各人天賦の能力が 」「 主張のうちに「 人の能力は百人百色である 諸 . . に伺えるとおり, 人間の個性差が遺伝的に様々 であるというときの個性差は, 能力差に他ならず, したがっ て個別教育というのはその 内容から言って能力別教育と同義である.「教育は各人の特質特 1 6 ) ( 徴を其の天分のままに 発育せしめ得たならばその目的を達したものといえる.」 だから, 能力別教育によって学級の児童の能力 が平等になるかもしれない という考えは 「世人の 誤解」 で, 能力差はいつでも保持されるのである. 「教師児童があらゆる努力をなしても」なお優劣 1 7 }「如 { 差が存在しつづけるのは 「個 人の天分能力不同の事 実が厳存するからで蓋しやむ を得ない.」 1 8 ) ( 何なる教育の力を 以てしても遺伝の勢力を如何ともすることは でき ない.」 から, 「所謂落第する ( 1 9 )この ように過程において能力別教育 を行い 結果において能 ものもあるのは当然のことである.」 , 力差が存在しつづけるというのが個別教育の内容である. 児童の不成績の原因を児童自身の責に帰するこのような態度は, 児童中心主義・個性尊重を標傍 する新教育にはあたかも矛盾しているかのように瞥見さ れるのだが, それは錯覚である. 本能や衝 動などの遺伝的素質に最 大の期待をかけた以上, そしてその自然な発露としての自己活動に学習の 成否を託した以上, 成績や学習進度の形成要因を彼らの 遺伝的能力に求めるのは, 実は首尾一貫し た論理なのである. 以上のとおり, 本能の遺伝的側面への着目は個別学習を生んだが, そこでは児童ひとりひとりが 独自に学ぶの だから他の児童と歩調を合わせる 必要がない. つまり, 自由教育の 「自由」 の 二つめ の具体的意味は 「他の児童からの自由」 である. { 3 ) 自由性. ① 教科課程 さて, 本能や衝動は, 一定の軌道にこだわることのない自由奔放 さというもう一つの特徴をもつ. 「本能の赴くままに」 とか 「衝動的に」 という日常の表現が, それを示している. 子どもの自己活 動は任意に自 由に展開していくはずだから, そのためには学習 をとりまく諸々の既存拘束を排除す る必要がある. 最初の大きな障害は, 教科課程の存在である. 教えるべき教授内容や到達すべき学習達成点があ らかじめ規定さ れていると, その至上目的を実現しようとする教師の意志が, 子どもの自由な学習 活動を必ず制肘する. だから,「課程は児童の能力に応じて増減取捨すべきものであっ て, 課程に児 2 0 { )合科学習を実施して それが教科書に即応していないとして批判 童が適応すべきもの ではない.」 , 学習に罪があるの ではなくて, 教科 「 これは合科 その批判に対して た奈良女子師範附小は にあっ , ( 2 1 ) 書に罪がある.」 と応酬する. 当時, 自己活動の自由性をいかに重視していたかを示す好事例 がある. 成城小が積極的に受容し 実践した教育方法と してダルトン・ プランがあるが, それは自学自習の典型 的な型態として今日で もなお有名 である. ところが意外なことに, 当時, それに対して自学と してはまだ不十分だという 不満の声が同陣営から少なか らずあげられた. それは教科課程や教科書の 前提的存在を容認してい ることに対する不 満である. ダルトン・ プランにおいては, 教師の準備した長期にわたるアサイン メントを児童の面前に学習に先 立って提示するのだが, それでは第一に, 児童自身には教材選択の 66.

(6) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 余地がないこと, 第二に, ある基準ま で到達することが次々に強要されること 第三に 従前どお , , 2 ( 2 )「教科中心 の り教科書一辺倒の学習のまま であること, などの点 で 「従来の教授臭を脱しない」 ( 2 3 )であって 「自由教育の主張から見れ ばまだま だ極 めて不十分と言わ 教育法」 なけ ればならな , 2 4 { }つまり 完全な個別学習型態をとる意味 では ダルトン・プランは 「遺伝性 い.」 」 を保障 してい , , るのだが, 教科の配列が規定されている点 では, 「自由性」という自己活動のもう一つの特 徴を満た してはいないわけ である. ②. 教科区分. ところで, 教科課程による障害が直接感じられるのは教科区分についてである というのは 活 , , 発な自己活動の範囲は決して一つの教科の枠内にとどまらないから である たとえば合科学習とは . , 教科の 区分 を しない 「未分化」 という の がその真意 である し 樋口勘 次郎の飛鳥 山 遠 足 及川 , , 平治の構想 した 「生活単位 カリキュ ラム」 千葉師範附小 の自由学習 児童の 村小 学校におけ る , , 教育実践などはいずれも, 「あまりに人工的な分科 的」な教科ごとの授業 では児童の自由な学習を封 じてしまうという 共通の認識に立脚してのことである 教科区分を先に ではなく 「生活目的を遂げ . , ( 2 5 )学ぶのだから 「主眼点 る時には読むことでも数えることでも描くこと でも必要なことは何 でも」 , 2 6 }」と 自己活動の方 を学習におき学習を実施すると自ら合科的に教育を進めねばならぬ様になる( . , を基本に考えるの である. ③. 教材の学年 配当. また, これも既存の教科課程に対する否認から生ずる当然の帰結ではあるが 自己活動によ る学 , 習は各学年の配当にかかわりなく 教材を選ぶ 「児童の実際生活は当該学年の教科書にのみ限られる . 2 7 ( )たとえば まだ数概念の発達していないものに「如何なる巧妙なる教法を以てし ものではない.」 , ( 2 8 )もしある学科が「児童の自学にた えられ ても児童をして自学自習せしむることは不可能 である 」 . ないようなら」 その学科をその程度の学年に課するのは 「無理なのだから」 高学年にもっ てゆく . 成城小では修身を4年生から,数学を2年生か ら,歴史・地理を4年生からとその始期を遅れさせ る . そして逆に自己活動をおこしやすい教科「殊に理科の如きは尋常科一年から始めてよ い」と低学年に ひきさげられる. これは,「直観教授」と呼んで理科を低学年 に課した千葉師範附小 でも同様である , 「従来のように何学年にならねば教えてはならないなどというのは決して児童の能力を発揮させる ( 2 9 )という見解は新教育に共通な見解 である 所以ではない.」 . 成城小学校はカリキュ ラム改革にま で着手した点で, 教育方法研究の範囲にとどまっ た新教育を 一 歩抜きん でた実践をしたかのようにときとしてみなされるのだが しかしそう解釈す るよりも , , 自己活動に任せ て学習できる教科は低学年から始め, そうしにくい教科については始期を遅れさせ たという意味では, やはり教育方法研究を優先させた 教育方法研究の一環としてのカリキュ ラム , 改革だったと見るべきであろう.. ④ 時間割 一定の時間が経過すると機械 的に次の教科の学習に移ることをしいる時間割制は やはり自己活 , 動に干渉する. 時間割という枠組は, 子どもの興味の起こりかけた頃 それを中断して次の学科に , {ならぬこともあり また興味がすっ かりさめてしまっているのに続けねばならぬことも 移らせねば , あっ て, 子どもの不定で流動的な本能や衝動を拘束し 「斯く ては到底この自学主義を徹底 的根本的 ( 3 0 ) に行うことは不可能 である.」 67.

(7) . 若 原 直 樹. その上, 普通時間割は学習の開始と終了 を全級の児童に 一斉に命令して, 児童の遺伝的個性をも 3 1 { }では 誰がどのように時間 疎外するから「何れの生徒にもシッ クリと合わないのが当然である.」 , 割を決定すべきかというと, それは 「各教室に時計をそ なえて学習者自身に 自分の時間割を定めさ 3 2 }な の で あ る ( せ る の が最 良 の 策」 .. 教室 自由な自己活動に とっては学習の場 であるは ずの教室の, その敷居さえもが障害である. これは 自分 の選ん だ学習をすすめる ために, そのための準備が整っている別の教室に子 どもが移動すると いう内容をもちろん含んでいるが, それだけ でなく校舎 外へ出ることをも少 しも辞さないというこ ⑤. と である.. これにも根拠がある. 教師の直接の教授を排除した以上, それに代わる何 らかの刺激と, そして 当然のことながら学習対象(教材)がなければならないのだが,それは校舎外の自 然の中にこそ豊富に 満ちているからである. 児童を「教室内に幽閉」せず, 「校地外に出て 各種の環境を利用する」のは, 教師の言語主義を極力排除して 「実物実事に直接せしめて観照観察を行う」 ためである. 実際, 教 科をコトバによって教えることをやめ れば, 子どもを実物に 相対させてそこから学ばせる方法だけ が残る. 自己活動が生起し展開する要因は子どもの内にある本能では あるが, しかし, そればかり ではなくそこに 学習対象がなくては決して自学は できない. だから新教育が, 「直観教授」を多く採 用 したのはきわめて 自然である. 新教育の先駆である樋口勘次郎の飛鳥山遠足, 及川平治の主張し た 「実際的地位」 による学習, 理科を 「自然研究」 として 「直接自然に 親しませ観察・実験を重視 して」 科学的精神の養成につ とめた成城小など, いずれも教室外に 点在する学習対象への子 どもの 接近を奨励 した教育方法である. そうすれば自己活動 がいっそう旺盛になると考えたからである. 日本に限らず世界の新教育においても, 新校舎は都会より も田園のただ中に 建設すべきとされたの も, コトノ導こよる教育 から実物による教育への刷新を意図していたためである. 以上のように自由奔放な本能は,「独自に学習の材料と場所と用具と指導教師とを選定して 学習を ( 3 3 )から 既成の教科 区分 学年配当, 時間割そして教室の敷居を縦横に 越えていく. 自由教 する.」 , , 育の 「自由」 の三つめの意味は, 「既成の枠組からの自由」 である.. 2. 自己活動. 対. 教師の指導性. 新教育が子どもの自 己活動を教育の方 法原理と考えるとき,教師の占める位置,教師の果す役割は どのようなものか. 教育という 営為には, 子どもと同 じく 教師が不可欠の 人的要素のはずである. 結論的に言えば, 学習先行論のところで述べたとおり, 自己活動の先に立ってそれを左右するよ う な教師の指導性ならばそ れは拒絶される. 明治期の教授一辺倒の授業に深い懐疑を抱いた新教育 論者は, 学習という概念をそれに対置させた. いや, 対置させた というよりも代置させたという方 が正 しく, 教授一元論を学習一元論に逆転させ たのである.「旧教育法が教師の 活動を主としたのに 4 3 )それでは教師は 全く不要かというとそうではなく, ( 反して, 新教育法は児童の 活動を主とする.」 従″ の位置にある教師の指導といえども, その重要な任務が大きく言え ば二つある. 一つは, 子 どもの自己活動を生じやすくする諸条件を 整えること, もう 一つは, そこで生じた自己活動を 「助 長」 することである. 68.

(8) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 1 ( ) 学習機会の設定 3 5 { )木下竹次のこの言明の中に 新教 「教師が学習者を指導する唯一の 方便は環境の組織にある 」 . , 育における指 導の第一の要諦が表現されている. さま ざまな学習対象(教材, 教具, 教科書 実物 , , 参考図書) がなくては, いかに自己活動といえ ども生ずることはないという 認識から 教室内に は , それまでには見られなかった諸々の学習材料が用意される. しかも児童によって興味の対象や程度 が種々 であるからその数も多い. それに教室の外, 校地とその周辺は天然の実物に満ちているか ら , ( 3 6 ) もし不足であれば 「この上教室の意義を拡張して学習者の生活する場所全体 を教室としたい 」 . 自己活動がそれによっ て生起したり発展したりす るような実物や材料が豊富にとりこまれている 環境条件を可能な限り整 劃菌すること, これが教師の第一の基本的任務 である 児童の村小学校 では , , まさにこの一事に教師の指導を限定して, 「(学習条件を) ソッと備えてやらねばならぬ それ以上 . ( 3 7 )とまで断言する に教育者は手を出してはならない.」 . { 2 ) 学習が主導, 教授が追随 これではまる で, 教師の目の届く範囲内 で児童が何事か活動してさえいればそれでよしとする放 任主義のようである. 事実, 児童の村小学校については当初そのとおりであったが しかし その , , 他の新教育実践校 では必ずしもそこまで児童を解放 しなかった それどころか 「自学主義と言うも . 3 8 ( )と そのよう な誤解を防ぐのに懸命である (この警句がどの自学 のは決して放任主義ではない.」 , . 論者の口からも頻繁 に発せられているところをみれば, かえって自己活動による学習というものが いかに児童の放窓の教育に傾きがちだったかが知 れる.) だが, 「児童の独自学習中が教師の最も忙しい時」と言われるのは決して誇張ではない 自学の時 . 間を 「教師の骨休め」 などと考えるのは確かに大へんな錯覚である それでは いっ たい児童の活 . , 動する環境を設定したあと, その広い空間の中で教師はどんな指導をすべきだと言うのか . 自由奔放な自己活動を展開するにまかせておいて, 教師はいつでもそのあとをついて指導すると いうことの内容は, 児童の自発的に持ちよる質問に応答するという指導に他ならない その場合児 , 童の抱く疑問について予測しかねること, だが即答せねばならないこと それに加えて質問の内容 , が各児童各様であるために教師の負担は大幅に増える 「例えば高一の地理 で」独自学習をすすめて . いた場合, 南米を学んでいる者, もっ と進んで欧羅 巴を学ぶ者などさまざまでそれに備え て教師は 3 9 ) このように教師が 「深みと高さとを 各州各国の指導要領と教材に精通していなくてはならない( . 持たねば」 自己活動を促進することができないのだから, 新教育は 「旧来の教育法よりは余程教師 4 0 ( )子どもの数だけある学習に満遍なく目を配り それも臨機応変に対処す ると の任務は大である.」 , いうのだから, かつての教師主 導の一斉教授に比べ れば教師の多忙と繁雑さ の増すことは至極当然 であ る.. 新教育における教師の指 導は, 自己活動の舞台を整え る点でリーダーシッ プを発揮するが 通常 , の意味においては, それは自己活動に追随する . ) 知識よりも態度 ( 3 これらの指導はどれも, 自己活動を円滑に促進することを目的としているのだが ところでもう , 一つ先の目的, つまり自己活動をさせることによっ て では子どものどんな能力を伸 ばそうと教師 , は目論んでいたのか, 自己活動の結果, そこに何が生ずればよいというのか . この回答は微妙 である, というのは, 自己活動の行く手に目的を持たせることがそもそも危険だ からである. す でに述べたとおり, 従来の教育の場合, 目標を予め設定していたために 「そこに圧 , 69.

(9) . 若. 原 直. 樹. 迫があり, 強制があり, 抑止が」 あっ た. これを克服する最も効果的な処方は, 目標をおかないこ 4 1 ( ) と である. 逆説的な表現ではあるが, 新教育は「理想のないことをその理想としているのである.」 もちろん新教育と言え ども, 結果的には子どもをある段階へと向上させるだろうけれども, しかし 4 2 ( ) その段階とは 一定の 「終局点 End ではあるが, 目的 Aim ではない.」 4 3 { }と具体化 この教育観を学習理 論へと演鐸すると, 「知識技能の習得は人生の第一義 ではない.」 される. つまり, ある一定の学力の習得を最初からねらわないし, 習得の程度, 「その次元の高低」 にも拘泥 しないの である. 千葉師範附小や成城小で 「成績考査が全廃」 さ れるはずである. 教師の意図的に指導しようとした対象は, 端的に言えば, 知識ではなく学習態度である.「知識技 能よりも学習方法の体得即ち学習 態度の建設を第一」 とするの である. 従来のように教師がいくら 熱心に教授しても, 「児童生徒の修得する知識技能は知 れたもの」 で, そんなことよりも「境遇に処 して工夫創作をおこない独力 でこれを解決処理していく力」 を養成しておく方が 「どれだけ大切か わからない.」 だから, もし小学校で「自学自習する力とその精神的習慣」 が養成されたのなら, 中 等教育や高等教育は 「別に学校を設けずともよい.」 これが理想である. 学校生活の中で問題を見つけ, それを教材として学習をすすめ解決するという一連の過程を, 子 どもが独力 で必要に応じていつでも遂行する能力, その向上を期待した. たとえばある教師は 「自 由教育実施による好結果」 として 「1. 学習態度の向上 2. 学習研究の個性化 3. 追求的奮進 4 4 }が 4. 目的定立 5. 自由研究の旺盛 6. 優中劣児童の能力に応じた活動」を列挙している{ , これらの項目はどれもみな学習態度に関することであっ て, 成績とか達成程度に関してではない. 要するに自己活動を指導する目的は, 次の, より一層徹底した自 己活動を創出する能力を児童の内 に形成することである.. 3. 自己活動論の問題点 自己活動論は新教育にお いてその基本に位置し, そしてほとん ど時賭なく 一貫して自らを主張し 功罪もまた見えやすい. 全体とし づけた つ . だが, それほど徹底 していたがゆえに, その果たした 一 ″ てみると, その理念において 功 が強調されつ づけたのだが, 実際的結果においては 一罪″ が少 なからず露呈されたと言ってよい. 自己活動論の u行きすぎ″ を懸念し警戒する意見は, 実は大正期の内からも散見できる. その内 容の大半は, 自己活動論の理論的組酪を突いたものでは なく, 新教育の実施にともなっ て顕在化し てきた諸々の実際的弊 害についての報告である. ( 1 ) 皮相な学習 自学は子どもひとりひとりに任意の量の 学習を許容するのだが, そうすると子どもはどん どん前 進し, 次第に他人と進度の競い合いを始める. 進度差の一目瞭然となる ダルトン・ プランでは特に それが顕著だった. もちろん競争それ自体は 悪いことではないのだが, 学習の量ばかりで競いあっ て, その内容において 「皮相浅薄な学習に陥り」 「学習内容の低下」 をもたらすことが問題である. たとえば学習に専念したとしても, 自学ではどう しても仕事が幼稚で平板で粗雑になりやすく, 方法も手順も悪いから児童は立ち往 生してばかりで全く 能率も悪く要領を得ない. 挙句の果てには 「指導を失っ た児童の大部分はき然として」 やむなく自分の能力の範囲内の学習しか行わず, いつ でも 「難を避けて易につき易い.」 70.

(10) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 皮相な学習にと どまるのはまた, 旧来の新授法を否定したために 教師によ る知識の伝達 と生徒 , によるその受容や記憶の訓 練が減じたこともその理由である さらに できるだけ実物に相 対させ . , ることにつとめたのだけれども, 「具体的思考をすれば抽象的思考が発展 するとも限らない 」 { 4 5 )教 . 師の指導なしに事物の抽象的概念や相互関係を知らせることはむずかしい . このように自己活動にまかせると, 確実に理解しなければならない そして反復によっ てその定 , 4 6 ( )る 着をはからねばならない 「根底事項の確実な把握がおろそかにな」 . その他, 教育環境の側にも不足はあった. 多数の児童の多様な興味に応ずるだけの教材・ 教具・ 実物や参考書が 「ほとんどなかっ た」 し, 子どもの胸にとめどなく湧きおこる 本質をついた意味 , 深長な疑問や, あるいは些末 で雑多な質問に応ずるだけの機転と博識 が教師の方に必ず しも用意さ れていない. 特に能力別教育においては, 優・中・ 劣のそれぞれに適当な課題を与えて順次指 導に 巡回するの で「教授力の分散を免 れない」 し, 「煩しいの み」 で 学習経済論からの発想によ る個別 , 教育ではあったが, むしろ 「不経済」 というのが実情だっ だ ところで以上の不満は, 子どもが勤勉に自学に励 んだ上での不十分さ であるが しかしそれ以上 , に深刻な問題は, 教師の期待をはるかに下回って子どもが不勉強 であることだ . その一つは, 放縦, 無秩 序に堕すること, たとえば 「地図の前へ出て行きながら他児童の頭をつ 4 7 ついた」 とか 「標本の前 で標本を外して遊ん でいた」 などの些事の頻出 がそう である( ) これは本 . 能の自由性からして当然考えられること で, 「活発な心意の活動は『自分の気が向い て』発したるも の」であるから, 学習に専念することももちろんあるだろうが 「学習に没頭す るより運動場 で遊戯 , に耽る者」 も多々出現する. この場合, 教師は単純に 子どもを叱責してしまうわけにはいかない . 過度の競争に身を焦がすのも専ら遊びにふけるのも あるいは堅実に学習をすすめるのもどれもみ , な一様に 子どもの自己活動であっ て, それらを区分して 評価する理論はない だから それらの活 . , 動を一応是としなく てはならないのだが, それにしても 子どもが遊び戯れるばかりでなかなか 学習 に着手しないという光景ばかりを傍観していると野口援太郎の次の吐露のように自らの理論に不安 を感ずるのも無理 はない. 「子どもたちは随分といたずらをやる 見ていればハラハラする位に思い切っていたずらをやる ……これでよい . . のだろうか. 今少し抑えた方がよく はないだろうか …‐ , ‐こんな考えが始終私の胸中に往来する, 晩などそれが為 4 8 ( ) に考えこんで寝られないこともある.」. 児童の村小学校が二年目に入り児童が机の前で落ちついて勉強するようになり それに ついて野 , 口は「この上一層教科の学習に興味を感ずることが できたならば今一層静かになるであろう 」と安 . 堵するのだが, それに続けてすく 「しかしそれが子どもたちの発達に果して宜しいかどうかと言う ことは勿論別問題である.」と留保するのを忘れない 児童が放縦をつづければ学習の遅滞に不安に . なり, そうかといっ て否定したはずの, 従来の形の静的な学習に落ちつけば それはそれで新 教育 , の面目が立たないという 嘘路が生まれる. この嘘路を埋めるのは容易ではない . ( 2 ) 個別教育の難点 皮相な学習に低迷するのは, 本能の先天性と自由性に起因する問題性 であるが 本能の遺伝的個 , 別性から見たときの自己活動論の欠点もやはりある , その一つは学習態度に関すること で, 個別教育という 方法では自主性を履き違えて 「利 己主義に 傾き」 , 他人や教師に対する 「尊敬と服従に欠き」 やすく, 総じて言うと協調 性や社会性・集団意識 を発達させないという ことである. その二つは学習成果に関することで, 能力に応じた 教育は当然ながら能力に応じた結果を生 み , 71.

(11) . 若. 原. 直. 樹. そのため 能力別教育は 一斉教育に 比べるとかえ って能力差を 顕現させ, しかもそれを確実に保持し つづける. しかしこれは, 能力に応じた方法と結果をねらっ た所期の目的を果たしている証明 だか ら決して意外な事 実ではない. ただ問題なのは, この方法によって 「劣等児」 と認められた子ども のほとんどが劣等感にとらわれて自棄的に なり,学習意欲を喪失して自分の能力に諦観し,「劣等児」 4 9 ) これは能力別 教育を実施 した学校 なりの向上を意図した教師の期 待にはこたえないこ とである( . に広く 認められることで, これでは能力 差を拡大するための教育とみ られてもしかたがない. ( 3 ) 学力低下 これらの原因が重なって, 「児童の大多数の 学力は一般に低下していっ た.」 成城小の父兄のうち 「心ある識者は子どもを転校せしめた」と言われるが, 同じように児童の村小学校の野口援太郎も, わが子の成績向上を望んで入学させる親がその期待のか なえられないのを悟っ て退学させる事態に 出会っ て嘆息する. また奈良女子師範附小の木下竹次も, 自学の結果として,「上級学校の入学試験 に合格しにくいこと」 そして合格したとしても 「入学後の成績不良になること」 などを率直に列挙 L して い る佑o. こうして 「あらゆる教育の基礎 である three R すなわち読み書き数える仕事さえできなくなって 1 5 { )とま で自学が反省さ れて それが一般の人々の目にも明瞭になっ てくると,自己活動論 しまっ た」 , に対する見直しの必要に迫られてくる. ( 4 ) 自己活動論の修正 教育を子どもの自 己活動に任せればあとは子 ども自らの好奇本能によって着々と学習がすすむ だ ろうという予想, また逐一 指導しなくても子ども自身が学習を律していく だろうという期待は, あ まりに楽観的す ぎた. これに対して次のような批判や反省が述べ られた. 第一に, 自己活動の及ばぬ範囲 や程度については教師に よる教えこみが必要だとする意見で, 子 どもの気の向い た時に任意の材料を選択すれ ばよいという議論に対する 「殆んど絶対的な反対の 意 見」 である. 自学では子どもは 未知, 未経験な教材や苦手な分野について 「終生其の方面に触 れな い」 という結果に なる. 「例えば図画ばかりかいて算術を少しもやらぬ子供があったらどうしますか」 2 ( 5 ) 「仕方ありません. 図画だけで終らせます,」. こ れでは学校教育の目的を達成することはできないの であって, 必要な教材を児童に提示して理 解させることは教師の重要な任務のは ずである.「即ち教授は或る 意味では教師中心主義たらざるを ( 5 3 }また 仮に児童が自学している場合でも「到底分かりそう もないようなものは予め教師 得ない.」 , 5 4 ( } が教えてやるというようなことをする 必要がある.」 第二に, 学習の効率を促 進する必要についてである. 自己活動を許容するに しても, その自己活 動は能う 限り「有効に働かねばならぬ.」そう でなければ些事にいつまでも拘泥したり, 重要事項で あっ てもその研究に あまりに多くの時間がかかり, ために学習内容の範囲 が拡大されない. たとえ ば, 一つの疑問を解決するために, 生 徒自ら参考図書を探索するのと 教師の口頭によって教えられ るのとでは 「甚しき差異があるもの ではない. そう であるのに 生徒が書籍について調べる場合のみ 5 5 ( ) 真の学習 であるかの如く考 えるのは大なる誤り である.」 第三に, 個別教育に対する前述の 欠点から生まれた, 子どもの共通性への 着目と教育の画一性 への回帰という見解がある. 学校は本来義務教育なの だから 「国民は皆一様同一の義務を負うとい うことでなければならぬ.」だから小学校の教科課程が「全国を通じて大体一様であるのは当然であ 72.

(12) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 5 6 ( )と 内容の画一性を再認識する意見 また 学校や学級は実社 る.」 会と同じく優劣混交がその自 , . , 然な姿なのだから, 優劣両者を包括した 「団体教育」 にこそ教育的な意味があるはずだという 個 , 人としての子どもよりも集団としての子どもをとらえる意見 . しかし, これらの批判や反省にもとづいて自己活動論を修正することは容易ではない という の , は, これらの意見はいず れもそれとは対立し矛盾する意 味をもつから である つまり 自己活動論 . , からすれば第一の点は, 教 材となる課題はあくま で児童が発見すべ き であっ て 教師から一方的に , 提示されると いう方法は旧来の悪習だという ことになろうし 第二の点についても たとえ時間は , , かかろうともそれ でもやはり試行錯誤を重 ねながら研究し その錯誤を徐々に減らしていく 探究的 , 態度の形成をねらうのだという主張になろう この対立する見解は 結局 知識の習得を目的とし , , , てそのための学習態 度と位置づけるのと, そうではなく学習態度の養成を目的として知識の習得を そのための手段として考えるのと, 目的 - 手段関係において異なっ ている 新教育は学力向上を直 . 接ねらっ たの ではなく, 前述したとおり 学習の結 果より学習の過程を 知識を教えるの ではなく , , 「知識する」 ことを学ばせ, 学力よりも学習態度の養成を目的としていたのだから それらの批判 , とは原理的に相容れない, それは第三の点についても全く 同様で, 個別教育の発想と画一教育の主張と では正反対の方向を 向いている. だから端的に言うと, 教師の指導の発揮や画一教育の必要を唱え る意見は 本能を原 , 動力とす る自己活動への正面からの否定なのである . したがっ て, 新教育が持論をやや折って 「吾等の説く 自学自習は全 然放任すべしという主義 では ない」とか「適当なる監督補導の下に実行して始めて効果大なるものと考える 」 5 7 { )などと繕っても . , それでは安直な妥協 でしかない では実際のところどう指導すれば 自己活動を発揮させ てなおそ . , れを抑制 しない指導となるのかが, それでは不明 である .. 4. 現在の 「自己活動」 との比較 ところ で, 教育において子どもの自己活動を保障する必要は 今日もなお教育方法上のますます , 重要な原理として確認されているのだが それでは現在言う ところの 「自己活動」 では上の問題が , どう解決されようとしているだろうか 大正期の自 己活動と現在のそれとを比較 してその差異を考 . 察すれば, 前者の特 徴が一層明瞭になることと思わ れる . その 第 一.. 大正期の自己活動の場合, それは「有効なる学習には常に筋肉の使用を要する」 ( 5 8 )と言われるよう に文字どおり手足を動かす身体の活動を示している 遊びや家庭生活が自己活動の典型として考え . られるのも, 子どもが生き生きと運 動していることが一見して明らかだから である 自己活動が自 . 発的で自主的 であることはもちろんだが 同時にそれがオバー トであることが望ましい 単なる予 , . 習・復習をそれだけ では自学と呼ばないのも ある いは ダルトン・プランによる自学が不 十分だと , 指摘されるのも,それらの学習 では 仮に自発的 であったにせよ児童 が机と椅 子に拘束されてしま , っ て手足の運動を伴わない静的な学習だからである , これに比べて現在の自己活動の場合は, 子どもが外見上活動的であるかどうかは主要な問題では ない. もっ と本質的なことは, 子どもの内面が つまり知性や精神や意志など一言 でいうと頭脳が , 生き生きと活動しているか どうかである だから子 どもの外見上の活発な学習 たとえば挙手が多 . , 73.

(13) . 若. 原. 直. 樹. く発言が行きかい, 教具や教材をひっ ぱりだこにするような授業を, その表面的事実 だけをもとに して評価 し,それだけ で子どもの向上があったと判断するのは早計のこととしてむ しろ警戒される. 自己活動とは, 子どもの, 外からは見ることのでき ない脳の活動をさしているから, その意 味では 「子どもの精神発達は自 己活動である」 という時の 「活動」 という表現は, 一種の比唆だといえる. 第二. 大正期の教 授法改良はすべて, 子どもにオ バートな自己活動を十分に展開させるための条件の 整 備や学習形態の考案であっ たといってよい. しかし, そうかと言っ て新教育が子 どもの内面の発達 を意図しなかっ たとま で言うと, そ れは過言 である. もともと新教育には, 旧来の注入主義と言語主義の色濃い一斉教授法によ っては子どもの知的発 達が実現できないという自覚と,「教師が教えたから児童の知能が発展するのではなくて, 児童が学 んだから知能が進歩する」 という, 新しくて正 当な認識が出発点に あっ た. 教育は, 教師が子ども に情報や刺 激や記号を伝達することに尽きるもの ではなく, 本質はそこから先の, 子どもがそれら をいかに自主的に受容し深刻に 思考 し主体的に消 化していくか, その過程である.「ゆえに真に教え { 5 9 ) るとは真に 学ばせる事 である.」 この見解は, 現在の自己活動論においてもやはりその基礎をなしている. ただその 「学ばせ方」 は, やや複雑である. すなわち, 主張を異にする教授諸理論がそれぞれに 「学ばせ方」 を説いてい るが, そのどれもが子 どもの思考 ないしは子どもの認識に つ いての研究所見をもち, それを基本に した一定の教授法を定式化しようとする. 要するに今日の 自己活動論は子 どもの思考にまで立ち入 り, それを意図的, 目的意 識的に 「指導」 するものである. ところが大正期の場合すでに見たとおり, 「自己活動を指導する」 とは 「熱い水」 という表現が成 立しないのと同 じ矛盾と考 えられる. 明治期のあまりの教授一辺倒の反省に立って教授の介入を極 力防御する ための防波堤を 教師自らが築き, その中で子どもに自由に活動 させた. 確かに新教育は, 子どもを 一発達の主体″ として明確に把握した点で画期 的であっ た. が, 注目せねばならないのは, それにとどめずに子どもを n授業の主体″ (授業を進行させる主体) としてもとらえたことである. そうして授業の 中での実際の 活動が活発であれ ばあるほ ど, 子どもの知的能力も増進するだろうと 一種の予定調和を考え た. tudy なんかやるときに, 桜の花びらを数えたり, あるいは菜種のおしべの数を数えたり並べて 「いわゆる natures みたりということはやらしていいんだ. そういうことをやっている間に, ちょう ど小学校の一年くらいの学力は自 6 0 } 然についてしまうだろうという考えだった.」{. だが, その見込みは しばしば裏切られて, 知的能力を増進することがあるのと同じく停滞するこ ともまたあった. それでも自由な自己活動の躍動する環境条件を整備 しさえすれば, そのあと向上 するか停滞するかは子ども任せ であって教師の関与しては ならないことである. 新教育は子どもの 頭の中の活動までは見きわめようとしなかっ たため, つまり 思考論ないしは認識論をもたなかっ た ために教育の方 法と結果との間に間隙があり, 両者に必然的関係 をもたせることができなかっ た. 第 三.. 新教育には思考論 が欠如していると同時にそれ故にまた指導理論が不足していたのだが, その大 きな理由は, 自 己活動の原動力 を, 本能や衝動などの子どもの内的自然とみなしたことの一事に つ きる. 子どもの 生来の本能は, それ自体 で知識を求め自ら向上し増殖していく発展性を内蔵してい るのだか ら外部から立ち入るのは不要で有害なこと なのである. これに対 して現在の自己活動 論においては, 発達の原動力を, 教科内容に含まれている科学的な 74.

(14) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 概念や法則と, 子どものもっ ている生活概念や, 既知 であるけれども不十分 な認識な どとの間の矛 盾と考えている. 子どもの内面だけでなく, もう一方にその内面のものと正対する対象を想定して いること, そしてこの両者の関係, 整合的で緊密な関係 ではなくむしろ不整合で矛盾 した関係 の内 に原動力があるとしていることである. ここ で重要なことは この関係をつくり出すことすなわち , 原動力をつくり出すことが児童以外の人間に可能だということ である 児童に矛盾を感じさせ 「同 . , 化」 したり 「調節」 する意欲をもたせ, そのための知的活動を遂行させ るような質の学習対象を意 図的に作成し, 準備し, 提示することが教師にできる できるというだけ でなくそうすることが教 , 師の重要な任務として位置づけられるのである . この考え方のさらに根底には, 人間の知的能力 の発達を単純に生物的・遺伝的な進化の結果とは みないで, 先行世代 の創造した事物や観念から, その内に こめられている精神活動の成果を個々 人 が習得し主体化していく過程とみなす能力観がある そこではしたがって子どもの発達を規制する . のは子どもの外側にある学習対象としての教科 内容や教材の質である この系列を決定す ることと . , 子どもと教材との相互作用をつくり出し導くこと, 子どもを発達させるためのこの二つの研究をす すめる教師の存在をぬきに自己活動を語ることは できない . 大正期の自己活動論が教師の指導性の発揮を敬遠したもう一つの理由には 個性尊重のスローガ , ンがあげられる. 子どもの個性は子どもの数だけあるという考えは そのまま 子どもはひとり ひ , , とり独自の思考法をも つはずであるという学習理論に具体化され 当然そこでは 一定の指導法の , , 確立を目 ざす発想は生じない, というのは, ある確定された指導法は常にすべての児童に通用 する 有効性を想定しているために, 個性差を無視 したあの悪しき画一主義への 逆行を意味するから であ る.. 現在では,義務教育期間にあるすべての子どもに対して共通で最低限必要な事項を教授すること , そして子どもの個性差はあ るにしてもそれはこの課題を遂行す る上での大きな障害 ではなく それ , どころか子どもの それぞれにもっている生活的認識や学習態度の差異を逆に利用して矛盾を深刻に し, そうすることによ ってかえって自己活動を一層活発にできるという 見解が教育方法学のほとん ど常識となっている. だからその場合には, 形態の上では一斉教育なの ではあるが 子どもに彼ら , の多様な思考の成果を発表させ相互作用を起こし, その相互作用がさらにまた多様な思考を生むと いう具合に内容からいう と決して画一教育には堕していないのである . 結. 語. 以上拙論 では, 新教育の諸特 徴はほとんどすべ て自己活動論からの必然的帰結として顕現してい ると考えて, あるいは別言すると新教育の諸特徴は自己活動論に集約 的に表現され ていると考えて 新教育の自己活動論を考察してきた それは要約して言う と 子ども生来の本能によっ て発生する . , という基本的認識に規定されて教授方法と教授内容の前提的存在を否認し ただ自己活動による学 , 習 (自学) を十全に保障する形式を設定す ることに最大の 眼目をおいた しか し それゆえにこ , , そその形式のなかでどのような実質的成果が得られるかについては因果関係をもたせる ことはでき ず, むしろ端的に言って蓋然性に満ちた教育実践 であっ た . このように, 同じ自己活動と言っても, 新教育の場合と現代のそれとでは意味内容に大きな隔た りがある. こうしてみると冒頭で紹介した新教育に対する二面的評価 すなわち子どもの自発性に , 基づく 教育を敢行した点 では進歩的であっ たと自己活動を肯定し 他方 でそれは教師の指導性を軽 , 視したために教育内容改革への着手ま でには至らなかっ たと否定的にとらえる 評価も それはそれ , 75.

(15) . 若. 原. 直 ,樹. で事実を指摘 しているのだが, 必ずしも正当なものとは言えない. なぜなら, 自己活動論は, 是と される前段の内容を徹底すれば後段の内容が実現する, という構造にはなっていず, それどころか 子どもを解放すればするほど教師の指導性や教授内容というファ クターを抑制 していく 二律背反性 をもっ ているために, 一挙に両方を満 足させることが不可能 だからである. さらに言えば自己活動論者にしてみると, そのような正反対の方向を向く要求を受けても困惑す るだけで, たとえ改善するにしても自己活動の保障のために注いだ力のいく らかを指導力の発揮や カリキュラム研究にふり 向けるのがせいぜ いだろう. なるほど自己活動による 学習に少なからぬ弊 害の付随することを知っ たいく人かが, 自ら 「ある程度の教授の 必要」 を説き始めたが, しかし, 自己活動論の内容 をかえないままにそう言い添えても, それでは理 論的凱爵 であり, 単なる妥協で ある. だが, 二面的評価はまさしくそれと同 じ妥協ないし折衷 を要求していることに なるのである. この暖昧さは, 当時の自己活動の 真意を仔細に検討して理解しないで, 「自己活動」というコトバを 額面 どおり現在のそれと同じ意味に解釈するところからく る混乱である. これま で見てき たように 大正期の自己活動に は現在のそれとは異なる独特な意味や願望が内包されているの だから, もし教 師の指導性や教材研究の方こそが教育活動における 基本だと, 評者がそう考えるのなら新教育で言 う自己活動の, コトバはともかくその 意味内容についてはそ れを否定もしくは留保しなくてはなら ない. それらの 基本と有機的関係 をつくることのできる自己活動をこそ肯定しなくてはならない. 山下徳治が新教育 を回顧し反省して,「教師達の認 識不足は, 児童を自由へ解放することは一層行 6 1 ( )と述懐 し き届 いたそして 一層高度な指導の準備 が必要であることを 忘れていたこと であった.」 ているが, まさにその通り で, 新教育の発見した自己活動を真に有効 な教育方法原理とするために は指導を排除することでは なく, 「一層高度な指導」 方法を確立することである. ところ で, 新教育にもそのよう な指導方法が存在したと筆 者は考える. 理由を詳述することは別の 機会にゆずらねばならないが, その一つは木下竹次の定型化した 「相 互学習」 であり, もう一つは及川平治の 「学習動機論」 である. これらの教育方 法は, 子どもの自 己活動を生かしながらなお かつそれを巧みに指導 して, 子どもにとって興味深いだけでなく 内容の 深い学習を実現しようとしている. それだけにこれらの方法, とりわけ 「相互学習」 は新教育を代 表する事例としてこれまで考えられてきた. しかしながら, 拙論の文脈か ら言うとこの傑出した方 法は, 当時の自己活動概念 では説明 できない新教育の例外だと考えられるの である.「子どもの発達 は子ども自身の 自己活動による」 という命題はおそらくひとつの真理なのだろう が, ただしどんな 真理も常に一定の条件の中でのみ有効 でありうる. 新教育の大半が自 己活動を無条件に許容 しよう とした中で, 「相互学習」と「学習動機論」はその真理の有効 である条件を探究し提示した 試みであっ たと解釈できるからである.. 76.

(16) . 第1次新教育の基礎概念としての 「自己活動」. 《註》 ( 1 ) 柿沼 肇 「大正デモクラシー期の教育運動」( 『講座 日本の教育』 第2巻) p 3 .10 ( 2 ) 水内 宏 「沢柳政太郎の教育と思想」(『教育学研究』 第34巻第1号) p 6 .1 ( 3 ) 中野 光 「大正自由教育の研究」 昭和4 3年 p 0 .19 ( ) 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和47年 p 4 .131 5 ( ) 及川平治 「分団式動的教育法」 昭和47年 p 2 .5 ( ) 山本良吉 「発動主義の教育」 大正2年 p 6 4 0 . ( 7 ) 沢柳政太郎 「自学主義の教育」 大正8年 序 ) 野口援太郎 「新教育方法としての自然と理性」 大正1 ( 8 5年 p 2 .3 ( 9 ) 佐久間治八 「学習指導の重要観点」( 『自由教育』 大正15年3号) p .32 { l o ) 沢柳政太郎 「学習法の建設にまで」( 『初等教育の改造』 昭和5 4年) p 2 9 .2 ( ) 吉田弥三郎 「低学年における自由教育の実際」 大正1 1 1 2年 p ,57 ( 1 2 ) 野村芳兵衛 「旧教育を埋葬する日の私」( 『児童の村小学校』 昭和5 5年) pp ,62-3 ( 1 ) 木下竹次 「学習原論」 昭和47年 p 3 42 .1 ( 1 4 ) 成城学園五十年史編集委員会 「成城学園五十年」 昭和42年 p .6 ( ) 隣離郷市範各科教授汎則」 大正8年 p 1 5 2 4 7 . ( 1 ) 沢柳政太郎 「子供を子供としての教育」( 6 『初等教育の改造』 昭和5 4年) p 5 6 .2 ( 1 ) 手塚岸衛 「自由教育真義」 大正11年 p 7 .5 1 ) 沢柳政太郎 「教育の発達観と器械観」( ( 8 『初等教育の改造』 昭和5 4年) p 00 .2 ( 1 9 ) 沢柳政太郎 「子供を子供としての教育」( 『初等教育の改造』 昭和5 4年) p .256 ( ) 及川平治 「分団式動的教育法」 昭和47年 p 2 0 9 4 ,1 御 池田小菊 「合科批判」( 『学習研究』 昭和2年1 0月号) p 68 ,2 棚 ) 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和47. 年 p 0 .7 回 木下竹次 「我が学習法から観たダルトン案」( 『学習研究』 大正13年6月号) p 5 .5 ( ) 野口援太郎 「ダルトン案と私の考察」( 2 4 『ダルトン案の批判的教育』 大正13年) p 6 .9 ( 2 5 ) 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和47年 p 9 ,17 回 木下竹次 「合科学習の諸問題」( 『日本新教育百年史第2巻』 p ) 0 0 .2 ( 2 の 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和4 7年 p 1 3 6 . ( 2 8 P 沢柳政太郎 「自学自習法の建設にまで」( 『初等教育の改造』 昭和5 4年) p 8 .22 回 清水甚吾 「自発教育と能力発揮」( 『学習研究』 大正11年7月号) p 9 .7 岡 沢柳政太郎 「自学自習法の建設にまで」( 『初等教育の改造』 昭和54年) p 8 .22. 回 吉田惟考雷撃勢 静 ダルトン式教育の研究」{ 『日本教育論争史録 徽 巻』 昭和5 5年)P 2 2 ・3. ◎ 回 回 鱗 ) 鱗 ) 的 鯛 触 り 回 ( 4 1 ) 仏 の 嬢 ) はめ はめ gの は ) 7. 木下竹次 「学習原論」 昭和47年 p 8 .26 木下竹次 「学習原論」 昭和4 7年 p 0 .27 河野清丸 「自学と父兄教師の任務」(『自学主義の教育』 大正8年) p 5 9 .1 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和47年 p 92 .1 木下竹次 「学習原論」 昭和47年 p 8 .9 野口援太郎 「新教育方法としての自然と理性」 大正15年 p ,9 成城小学校編 「児童中心主義の教育」 大正1 0年 p 1 3 1 , 塚本 清 「独自学習の原理と実際」( 『学習研究』 大正14年4月号) p 8 ,5 河野清丸 「自学と父兄教師の任務」( 『自学主義の教育』 大正8年) p 6 .17 野口援太郎 「新教育方法としての自然と理性」 大正1 5年 pp 3-4 .12 真田幸憲 「自然の教育と人為の教育」( 『学習研究』 昭和2年2月号) p .4 木下竹次 「学習各論 (上)」 昭和47年 p 3 .9 木村康哉 「自由教育の実施」( 『自由教育』 大正1 3年1号) pp ,99一102 木下竹次 「学習原論」 昭和47年 p 8 .30 成城学園五十年史編集委員会 「成城学園五十年」 昭和42年 p 4 87 . 吉田弥三郎 「低学年における自由教育の実際」 大正12年 p 6 .11. 77.

(17) . 若. 圏 ”の 0 0 { 5 ( 5 1 ) ( 5 2 ) ( 5 3 ) 回 岡 岡 G 岡 ◎ ( 5 9 り 0 $ ) 岡. 原. 直. 樹. 37-8 野口援太郎 「新教育方法としての自然と理性」 大正15年 pp .3 ) 拙稿 「及川平治における能力別教育の問題点」(日本教育方法学会 「教育方法学研究第3巻」 1 3 木下竹次 「学習原論」 昭和47年 p .3 4 山下徳治 「明日の学校」 昭和48年 p .9 志垣 寛 「私立池袋児童の村小学校要覧」 大正13年 p .43 教育学術界 「八大教育批判」 大正12年 p .123 『自学主義の教育』 大正8年) p 吉田熊次 「自学自習論」( .45 『学習研究』 大正14年8月号) p 榎山栄次 「教授と学習との交渉」( .8 『初等教育の改造』 昭和54年) p 64 沢柳政太郎 「小学教育」( .2 沢柳政太郎 「自学主義の教育」 大正8年 序 7 及川平治 「分団式動的教育法」 昭和4 7年 p .5 0 及川平治 「分団式動的教育法」 昭和47年 p ,6 ) 7 「成城教育」 4号 ( 『日本新教育百年史第2巻』 昭和55年 p .34 4 山下徳治 「明日の学校」 昭和4 8年 p .9 (本学助 手・ 旭川分 校). 78.

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