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日本における歴史主義的思惟の萌芽をめぐる一二の問題 : 特に本居宣長の歴史的思考について

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(1)Title. 日本における歴史主義的思惟の萠芽をめぐる一、二の問題. Author(s). 高橋, 功. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 5(2): 21-33. Issue Date. 1954-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3549. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第5穣 第2号. 北 海 道 学 蔓 大 学系巳嬰 (第一部). 昭和29年12月. 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめ ぐる一二の問題 特に本居宣長の歴史的思考について 高. 橋. 功. 北海道学聾大学釧路分校史学研究室. igin of Historism 1n Tsut。mu TARAMA8f l丁: Problems aboutthe or i inking of Moto。r i ly on the Hi i l t or caI Th s japan, Espec a .. 序. 論. ドイ ツ近代史学の歴史主義的思惟が日本においていつ頃から見られるか。 また明治二十年 ドイ ツ近代史学が 日本に移植されて以後、 その歴史主義的思惟が充分理解され、 ゆたかなみのりを持つことが出来たかどうかは 日本史学史上大きくとりあげなくてならない問題である。 いうまでもなく、 ドイ ツ近代史学を日本に紹介 した i ) であり、 その移植は彼が明治二十年から明治三十五年に至るま の は ル ー ドゥイ ツ ヒ ・ リ ー ス (Ludwi es s gR で帝国大学その他で史学を講 じてからのことである。 その学風の影響によ り、 明治十年代の文明史観は一掃さ れ、 考証的学風がアカデミック史学たろの地位を確立した。 しかしドイ ツ近代史学と日本の考証史学との間に 何程の差異が見られるか。 その間の差異が単に萌芽と成熟の差であるか、 それとも質的な差であるかが問題と なる。 ラソケ史学について、 明治中期の考証史学者はや もすれば史料批判の一面からだけの理解に纏る傾向 があった。 坪井九馬三は明 治二十七年 「純正史学は独逸の レオポル ト・フオソ・ラ ソケに始まる」 とし、 「国史 i ) を去 り、 事実の調 査を慣重にし、 記録、 文書、 遺品を解釈 sme を書せんとする土は能く無慮の愛国心 hauv するに社会学、 心理学の原則を適用し」「至公至明以て主眼とし、 虚心冷眼以て事実を調査、 評論す」 べきを論 もいう べき歴史主義 ノ じ(註1 、 明治三十六年如上の趣旨により史学研究法を出した。 しかしラ ソケ史学の背骨と ( 託の について注意されることきわめて少いものがあった 。 ラソケの歴史主義はフラ ンス革命の理論的武器たる 啓蒙史学の進歩なる概念を排除するところか ら 出 発 し 除した点で、 しかも ) たのであるが(註3 、 明治中期の考証史学は自由民権運動と直接に結びついた文明史観を排 似た立場にある ともに政治史を主題と しながらも、 政治運動への無関心を標梯した点できわめて 。 しか し明治. 中期の考証史学が一方では文明史の抽象性を、 他方では朱子学的勧懲史観の虚構を固いた武器はドイツ近代史 学の批判的方法であって、 歴史主義的思惟の中に含まれている相対主義ではなかった。 もともと歴史主義的思 惟の相対主義は絶対的な権威、 償値、 信憐を相対化することにより、 特定の権威、 債値、信憐 が歴史を超越し、 過大なる服従を要求する傾向を破砕する武器たり得るものであるが、 明治中期の考証史学者は ドイ ツ近代史学 の歴史主義的思惟を身につけることが出来な かったが故に、 明治二十年代以後の国家主義的要請に対する抵抗 ) は極めてもろいものでしかなかった(註4 。 このような弱さはどこから来たか。 このような弱さはたまたま明 治 中期の考証史学者が示 した偶然の出来事であるか、 それともまたその由って来る根源はさらに奥深く日本の歴 史に根ざすものであるか。 {詩5 ) としたので 重野安樺はリ[スの示唆により史学会を創立 し、 「雑誌を発行 して史学攻究の目的を達せん」 より姶 百 西洋は五十年前 あるが、 その理解の内容は 「麦那の考証学は太凡そ二百年前に始まり、 日本は 年前、 (註6 )となし、 近代 ドイ ツ史学を考証学の博統の上に立って理解 し、 その源流を狩谷技斎、 小山田奥清 な つた」 )。 ど江戸時代町人出身の学者に求めている 註7. もとより考証的研究は所謂国学者に限ったことでなく、 儒学者にもす ぐれた業績があるのであるが、 重野安 - 21 -.

(3) . 高. 橋. 功. ) 輝が 「国学」 に考証的 研究の源流を求めたことは決 して無硯することの出来ない意味を持っものであり(註8 、 明治中期の考証史学の持 っ賜さを考察する上にかなり重要な暗示を輿えるものと考えられる。 この小論の意図 するところは国学の持つ歴史意識をえ ぐり出し、 それによって明治中期の考証史学の弱さを解明する一の鍵を 提供することにある。 註 1 . 坪井九馬三: 史学について, 史学雑誌. 第5巻,11号,12~14頁。 託 2 . ラソケ史学の本質が何であるかについてはニー プールの批判的方法はラソケ史学に対して影響は して いるであらうが、 然 しその影響は従来のごとく過大観されてはならないということは、 最近のラ ソケ 研究者のひとしく 認めているところ」 (鈴木成高: ラ ンケと世界史学,14 頁) であり、 また、 むしろ 歴史認識の独立性もしくは自己目的性に関するもの」(鈴木成高: 前掲書,6 頁) というのが現在のラ ソケ史学についての理解であり、 このような立場に立つとりあげかたる ま、 昭和期唯物史観の盛行に伴 5年西田幾多郎博士の示唆によ って、 京都 学源の人々に見られると考えられる。 相原伊作氏は昭和1 り ラ ンケ の Di e Grossen Ma e を訳出したが、 あとがきの訳者の言葉として、「ランケが格闘 した cht のはフランス革命のイデイオロギーと此れに対する反動理論であったが、 今日の歴史家はロシヤ革命 のイ デ イ オ ロ ギ ← と 此 れ に 対 す る フ ァ シス タ的 ナチ ス 的 イ デイ オ ロ ギ ← と 格 岡 しな け れ ば な ら な らな. い」(岩波文庫版, 強圃論,93頁) と語っている。. ‐ 註 3 e Epochen der neueren Ges chi chte の 第 一 章 で 「歴 史 に お け る 『進 歩』 の . L. von Ranke; Uber di. 概念を如何に解すべきか」 と題 して道徳的な方面でも ま進歩を辿ることはできないと論 じている。 4 年久米邦武博士も ま 「蒔道は祭典の古俗」 なる論丈を発表して、 大学教授の身分を失い、 喜田 詑 4 . 明治2 貞吉博士は明治44年「天位に関 しては是非すべき限りにあらず。 唯臣子の分についてのみ議すべ し」 (新聞集成明治編年史,14巻, 東京朝日新聞2月 20 日記事) と論 じながらも、 南北朝正閏論のために 申道」 などの史学研究のタブーが出来上った。 追われて文部省を去り、「皇室」「派 註 5 . 重野博士 史学論文集, 上巻,30頁。 註 6 二巻,39頁。 . 重野博士 史学論文集,」 註 7 . 考証的史学研究は本朝通鑑、 大日本史など儒学者の例の編纂事業にも見られ、 吉見幸和、 谷川士清な ど朱子学者にもまたす ぐれた業績がある。 ・ しか し幕 末から明治初年に及ぶ考証的研究の主流は図学者 逢であったことは否定出来ない。 本居学紙からこれの園学者 を拾い出すと、 伴信友、 楢葉通邦、 近藤 芳樹、 本居豊頴、 久米幹文、 小中村満矩、 小杉温都 な どをあげることが出来、 村田春海の系統から小 山田輿満、 伊能頴則、 榊原芳野、 横山由満など、 狩谷披斎の系統からは黒川員顔、 佐藤誠実な どをあ げることが出来る。 重野安縦、 久米ヂ B武、 星野恒など官学の中心となった学者はもとより園学の系統 に位置づけることは 出来ないが、 少くとも考讃的研究の源流を江戸時代の国学に見出した際、 意中に 描かれたものろ まこれら蘭学系統の学者の仕事であったとせざるをえない。 (大川茂雄、 南茂樹の園学 者伝記集 成による) 二. 国学における歴史主義的思惟の萌芽. 本居宣長は史学者ではなく、 その本領は女轍学者たる点にあると考えられる(註1 ) 。 しか しその述作の中にか なり広く女明批評や政策論を展開 しているものがあり、 これらを通じて、 その支えとなった歴史的な思考過程 をうかがい知ることが出来る。 本居大平の系統の本居学はその保守性、 穏健な学風の故にさほど変化すること なしに、 本居宣長の考方を受けつぎ 明 治に及んだ。 本居宣長において歴史主義的思惟の萌芽を認め得るかと 、 いうことは勿論論証を要することであり、 問題は簡単ではない。 私はいまこ で本居宣長の思想体系の中に見られる若干の不整合と見られる点をあげ 、 それをときほぐすこ とにより、 解答の試案を出 したいと考えるのである。 その第一は学問 研究と政治的実践を切り離し、学者はたゞ「道を尋ねて明 らめ しろをこそつとめとす べけれ。 ) と したことである。 このような立場から 「皇神の道」「神代の道」「古の道」「皇国の 私に行ふ べきあらず 註2 道」「神のみ国の道」 「皇国の神の道」 「神の道」 (直毘霊、 葛花、 鈴屋集な ど) の名で呼んでいる古代思想を明 にしたのであるが、 これを以て直に政治的実践の原理たらしめようとは しなかった。 勿論本居宣長に政策論が ないわけではない。 紀 伊の大名、 徳川治貞のために天明七年 ( ) 秘本玉く しげを書いている。 その内容は i787 「なるべ きだけは旧によりて、 改めざるが国政の肝政也」 {証3 」という原理に立ち、 穏健な社会改善を説くに止ま った。 「本朝とても中古以来漢様の政にて、 風俗人心な べて漢様に成ぬる世中なれば今は本来の事にかの国の道 (註4 をもま じへ行はではかなはぬやうなることもある也」 )といっていて、 古典解釈において撲意を排斥した激し さは到底政策論に見出すことが出来ない。 その説くところの社会改善も倹約の奨励、 貨幣流通の抑制、 政治機 ‐ 22 -.

(4) . 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめ ぐる一二の問題. 樽の単純化などであって、 江戸時代中期の藩政改革一般、 徳川吉宗乃至松平定信の改革に通ずる保守政策であ ) り、 安藤昌盗に見られる封建制度そのものについての批判ではなかった(話5 。 結局宣長の政策論 は封建制度の わく内での復古以タ トのものではなかった。 アヅマテル力ミノミコトヤスクニ1 ・シヅメマシヶルミ ヨ ハヨロヅヨ. ( 註6 ) とある一首、 叉は玉 次に本居宣長の幕府観は玉矛百百の 「東照神命之安国登志豆米坐都流御世者万世」 庫の「此御盛業 (徳川家康の事業=筆者註) 自然とまことの道にかなはせ玉ひて、 天照大御神の大御心にかなは (話7 )という見解に明瞭なものが せ玉ひ天神地級も御加護厚きが故にかくのごとく御代はめでたく治まれるなり」 ある。. オホギミラナヤマシマツリシタ プ レラ ガタミ ハ グ ク ミ テ ヨ ラ ア ザ. しかしこのような幕府観は同じく北鱗泰時を批評して 「大畠 潰令 悩 率 斯多天嵐良賀民披見久美且余嚢阿邪. ムキ シ. (註8 ) と歌っているのと矛盾はないであろうか。 叉徳川家康と 「天照大神の 塾統にま します朝廷をしも 牟伎斯」 ないがしろにし奉りて姦をほしいま 〉にし武威を 憲鶏 振った北憐、 足利の所謂逆臣とどれほどの差があり得る (誌l o ノするのが本居宣長の古代研究の結 であるか。 「天皇の大御心を心と して天皇の所恩看御心のまにまに奉仕」 果得た結論であった筈である。 このような幕府観はひとり本居宣長に限ったことではない。 本居宣長に先立って賀茂鱈淵にもす でに見られ るところである。 賀茂贋淵は 「東照宮異国によらず、 中比の皇朝によらず、 四方のかまへ、 京大阪のかまへ、 其諸大名諸家人の定、 其外を定め給う事、 神とも聖とも無窮の御心なり。 是ぞ古への神道の大体なるを小事の 1 (許1 ) といっているが、 これは贋淵が万葉研究の結果明にした 「ま 違ひにのみ目をよせて、 大意を しろ人なし」 2 ) すらをぶり」 を江戸幕府の施政に見出したと しても(註1 、 更にこのような態度は平田篤胤によって受けつがれ 3 )、 また 「其位に ている。 平田篤胤は 「天皇また大将軍家の御厚恩を粗略に恩ひ奉らざる」 べきことを説き(註1 4 ノ あらざれば其政をはからず」 とした(註1 。 従って国学者が反幕的傾向を持っていなかったということは 一二の 特殊の学者に限ったことではなく して、 国学そのものに深く結びついていた 考え方であるといわざるを得ない。 国学形成期において幕府政治を是認 し 讃美した国学が後年におよんで、 倒幕運動の原動力となり、 維新政府の思想的麦柱たろの任務を 果したことは 異とすべきことである(謹め。. 村岡典嗣教授はこれを説明するのに 古典研究の結果味得した本居宣長の最善観的世界観を以て説明しようと した。 最善観的世界観とは吉凶、 鯛幅、 善悪、 邪正何れも鍋蝉日神、 壷霊神の働きによって相互に相あざない 6 ) ながら、 しかも最後には古、 閥、 善、 正に帰するという楽天的人生観である 轍1 。 しかし本居宣長は時勢の変 「 鈍について果して素朴な楽天主義者であり得たであろうか。 玉風で 此世の著りなどの左様に自然と質素の方 へかへるということはまづは 何ぞ変なる 事などのなくてかヘリがたきことなれば その変の有て自然とかへろを 「註1 7 ) といっている。 安閑として待居るべきにもあらず」 変とは何を意味しているの であろうか。 日記を見ると米贋の変動にきわめて敏感であって、 注意していたこ 8 ) とが分り(註1 、 叉書翰、 日記を通して直接経験した百姓一撲が二度程あったことを知ることが出来る。 一は享 97 17 1)山形の百姓一撲、 一は寛政8年( )伊勢の津に起った百姓一撰である。 就中伊勢の百姓一撰 i80 和元年の( は身近に起った問題 であって、 均田制実施に反対した農民暴動であるが、 本居春庭宛 「三方の口よりおびたゞ まち以之タ トノ 大変二御座候」と報じ しく押寄せ、時の声をあげ町ウチヘ乱入 り」「所々恨みを含候家々方々に打こ{ 9 ノ ている(詫1 。 勿論このこの百姓一撲は玉囲著連以後の事件であるが、安政五年(1776)の高野山寺領の農民一撲は 同じ紀伊藩領内の事件であり、必ずや宣長の思想形成の素材たり得たことは考えられることである。 黒正巌博士 867 800に及ぶ50年間において一撰の起っていないのは1760 51 からi の研究によれば、17 ,1 , ,1761 ,1765 ,1778 2 0 ( 註 ) 百姓一撲 7 9 1の8 であり が起っている 本居長には明に危 80 1 7 8 5 1 その他の年には毎年何件かの 17 ヵ年 、 。 , , 機観が見られるのであって、やがて倒幕運動にも轄化 しうる契機を内包しているといわねばならない。 1 ) 「す べて何事も盛 「あしわけおふね」 で歌道の盛衰を論 じ、「新古今は此道の至極せる処にて此上な し」鰹2 2 2 註 ) となした。 また答間鎌のなかで悌数は前 がきはまれは菱へ、 裳がきはまれば感におくむくもの也 掲津日神 の働で長い間栄えたが、「今なほ悌法感といへ どもや 嚢ゆくきざしは既に多 し。 然ればこれも後に は や う や 3 ) として悌教衰退の傾向を指摘 している。 これと反対に人間知性の進歩、 学問の向上につ ぅ亡 びゆくべ し」俄2 (謡縄)また広く事物一般について いて、 「後の世にょき説いでくること多 し。 人かしこく して学問する故なり」 - 23 -.

(5) . 高. 橋● ′功. 「後世のまされること」 を認めその例と して縞と蜜柑を比較 している。 宣長は決 して復古主義者ということは 5 )。 で き な い(円2. 以上宣長が学問的研究と政治的実践をきりはなし、 幕府政治を是認した所以のものは最善的世界観の楽天主 義というよりはむしろ事物を素直に直観 し、 歴史的変種の相において把え、 歴史的新興を単に新興として受け とる態度に外ならない。 28歳以前の京都遊学期と34歳以後の古事記研究期との間には思想的にずれ があり・ 見解の表明のニュアンスに相違があると しても、 本居宣長に個体概念の前芽を認めざるを得ない。 本居宣長の歴史的位置をヨーロッパの 歴史と対比 して 考察する比較史的方法について は いるいるな 見方があ 6 ) る(詫2 。 丸山昌男氏はヨーロッパ中世の自然法秩序から解放されて ゆく過程と対比し、 「自然と作篇」 なる概. 念によって分析した。 丸山昌男氏によれば朱子学→狙練学→国学に至る推移を 「歴史的精神が固定的な儒教合 7 )、 宣長学 理主義の重苦しい土塊をおLのけっふ、 歩一歩と独自的な生長を遂げて行く過程」 と して把握し(註2 の本質を 「そこにあるのは保守的心情といふよりも、 より正確にはあらゆるロマン的心情に共通する機会主義 8 ) 的な相対主義である」 と規定 した(註2 。 「ロマン的心情」「相対主義」 とは正に歴史主義の持つ属性で あある。 マイネッケは次の如く語っている。 「歴史主義が生み出したものは一 の相対主義である。・ これはそれぞれの制 度、 それぞれの理念及びイ デイ オロギーをたゞ単に生成の限りなき流動の中に移ろいゆく 瞬間と見徴すこと し 9 ) と。 国学が一方 では幕府政冶を是認 し、 他方で倒幕運動の原 理たり得た理由は正 (詩2 か知らないものである」 しく歴史主義的観照をうちに含んでいたが敵である。 またマイ ネッケは 「善の秘密に対する畏敬、 貧弱な悟牲 概念に対する此のような蔑説、 また神的なもの}象徴及び啓示として高き整備品に対するこのような宗教的敬 慶さ--これらのものこそヴイ ンケルマソ的及 びゲ←テ的な古典主義をば、 個体化的な歴史主義の直接的前段 (註3 0 ) ) と論 じているが、 本居宣長が 「玉のを ぐし」「石上 階にまで高めるところの新 しい劃期的なものである」 私淑言」 「紫女要領」 な どで展開 している物のあわれについての女馨論はか. る浪漫主義と名 づけてよい内容を. 持つもの である。 今かりに歴史主義的思惟を規定する坐標を発 展思想と個体思想とにとるならば、 宣長において発展思想を見 出すことは困難である。 しかし中国の儒教思想によって 日本古典を理解する態度を 「漢意、 儒意」と して拒み、 また歴史的所典を単に所奥として受けとって是認した本居宣長において、 個体思想を見出すことは決 して無理 なことではない。 私が本居宣長において歴史主義的思惟の萌芽を見ようとしたのは、 か る意味においてゞあ 1 )。 る(註3. 註 1 . 宣長学の本質についてはいろいろな規定がある。 国学が女献学であるとした最も早い学者は芳賀矢一 i s che apan 1907 ) 東京帝国大学の講義で、 「余がこふに所謂 『日本文献学』 滅法 j で、 明治四十年 ( ト lol e 意味で、 即ち国学のことである。 園学者が従来やって来た事業は即ち女献学者の事業にタ ogi phi (芳賀矢一遺著: 日本文献学,1 頁)といっている。村岡典嗣教授はその著、 本 居宣長で芳 ならない。」 ‘ t Boeckh 賀矢一博士の説をうけて国学=日本女献学を定式化 し、本居宣長を ドイ ツの文献学者 Augus l星の大道を明かにせう a i博士は 「国学は上古以来の示 (ー778~1841)に対比 した。 これに対して山田孝雄 として古今を貫く 園民的 ▲究法としては言語の研究を基礎′ といふことを眼目と してゐるもので、 その研 -生活の原理即ち古義を明かにするを本旨とする」 と して単に女献学と規定することに不満 の意を 精副 33 頁、 更に宮島克一氏は国学を以て Brkennen des Erkannten で な く G1auben 示 し、(国語の本義,1 des Br kamt en とな し、「害々は従来の図学者には炊けてゐたヨーロッパの学問、中 でもその哲学を更 に研究して之を批判的に揃服し、 以て宣長や篤胤の信念を更に新しい形において生かすべきである」 と論じている。 (国学の復興, 国文学解釈と鑑賞, 昭和18年9月号,37頁) たしかに国学 に は 女 献 ミー博士も 「日本文献学が国学の方法論を大体 学と規定しきれない面のあることは認むべきで、 久松沼 に於て説明 して居りながらなほ 完全に現し得ない点があり、 殊に国学の本質目的は日本女献としては 明 し得ないものが多いのである」 (国学, その成立と閲文学との関係,9頁)と説いている通 りである。 しか し今日われわれが本居宣長を高く評価するのは、 本居宣長の文献学者たる而であり、 その意味で 本居宣長を女献学者 と規定 した。 詑 2 . ぅひ山ふみ: 増補本 居宣長全集,9巻,486頁。 註 3 , 秘本玉く しげ(上): 前掲全集,6巻,26頁。 欝E 4 . 同. - 27 員 。. 註 5 . 江戸時代中期における紀伊藩の財政窮乏は漸く顕著なものがあり、 天明7年(1787)牛知を命 じ、(南 紀徳川史,2巻,313頁) 叉安永5年幕府から拝借金を借 り、 (南紀徳川史,2巻,273頁) 期限まで返 1778 ) 7ヵ年支払延期を願い出ている。 紀伊藩の対策は しばし 済することが出来ずして、 安永7年 ( - 24 -.

(6) . 日本における歴史主義的 罰雀の萌芽をめ ぐる一二の問題 ぱ倹約令を出 し、 特に徳川治貞 の治績につき上田章の漢文記事に 「公初就し封既入城。 執 政 朝 比 奈 惣左衛門進講。 公首謂日今日出迎皆極二美麗-。 不知平日如 是乎。 (中略) 卒先守二俵実-鱒二急要-。 難ゴ . し服し綿耳。 方も 是衆相伝祭二節倹-」 と伝えている。 (南紀徳川史,2巻,328頁) 叉享 .予荘園-亦当 ) 九州に甘薦、 櫨を求 めて、 その苗を移 1736 1717 ) 朝鮮人参、 甲州甘草を植え、 元文元年 ( 保2年 ( 1 7 43 ) は じめて白砂糖、 亀綾島を生産 した。 紀伊藩の施策は正に吉宗の幕政の規模を し、 寛保3年 ( 小 さく した 趣 が あ る。 (南 紀 徳 川 史,7 巻,628 ,629 ,631 頁)。. 6 . 7 . 8 . 9 . 註lo . 1 註1 . 註12 . 3 註1 . 4 註1 . 註15 . 註 註 誌 註. 16頁。 玉矛百首: 前掲全集,lo巻,1 秘本玉く しげ(上): 前掲全集,6巻,i2頁。 玉矛百首: 前掲全集,10巻,116頁。 玉匝: 前掲全集,6巻,12頁。 古事記伝一之巻: 前掲全集,1巻,65頁。 賀茂翁道草: 学びのあげつらひ, 賀茂員淵全集,309~310頁。 井上豊: 賀茂員淵の学問,454頁以下。 古道大意: 平田篤胤全集,1巻,67頁。 西籍構諭: 平田篤胤全集,1 巻,56頁。 伊東多三郎 氏は図学の史的考察において国学古道説の発展を次の三堀に分けた。 第 一 期 中世歌学に対する反抗 儒教主義に対する反抗 第 二 期 末期封建敵会に対する反抗 第 三 期 ー801 ) 本居宣長の死を以て劃 しているが、(伊東多三郎: 国学の史的 考察,219頁) 第三期を享元年 ( 正 確 で は な く も っ とく り 下 げ る必 ・要 が あ る。. 註16 . 村岡典嗣: 本居宣長,317頁以下。 註17 . 秘本玉く しげ(上): 増補本居宣長全集,6巻,42頁。 註18 , 日記に多くの記載例があるが、 一例をあげれば 「米価次第騰廿六七俵。 其タト諸色皆上、高直也」(本居 1 762 ) 12月 29 日の日記) とある。 宣長稿本全集, 第一輯,440頁。 宝暦12年 ( 託19 .30頁。 . 奥山字七: 本居宣長書簡集,P 註20 , 黒正勝: 百姓一撲の研究,426頁以下。 84頁。 0簿,1 謎21 . あしわけをふね: 前掲全集,1 8 5頁。 註22 あしわけをふね: 前掲全集,10巻,1 6 i 7頁 1 誌23 答間録 前掲全集 巻 : , 。 , , 註24 3頁。 . 石上私淑言: 巻三, 前掲全集,21 註25 . 長谷川如是閑氏は 「自然主義者と しての本居宣長」 なる論女において、 「復古主義者は諺会進化の過 程に於て、 一定の厳 :会形態を持ち来たそうとする実践的態度をとるので :会形態 の進化としての他の厳 はなく、 その砧会形態 の崩壊過程に於て発生する感覚的変化を把握するものである」 として、 本居宣 長を復古主義者としてあらわれたュートピアソであると論 じた。 (改造: 昭和5年3月 号,32頁以下) 註26 , 竹岡勝也 氏は 「ルネッサンスに於けるが如き急激 な世界の変動を我国の歴史に求める事は 出来ないに しても、 兎に角室町時代から幕末に及ぶ歴史の発展 の中に近世的価値をクリエートする運動は色々な 形に於いて現れて来ている。 そして此運動の一つの時期を劃するのは明治維新であった」 (近世史の 3頁) といっていて、 国学を中世否定の思想運動乃至ルネッサ ンスと対比し 発展と国学者の運動:29 ている。 伊東多三郎氏はこの説を受けて、 「国学がその発生的地盤を反封 建 的 要 素の上に置き、 町 人の生活意識、 乃至感情の理論的発展であることを知った我々は、 市民誌会の禁明を意 味するルネッ サンスと連想比較せざるを得ない」 (図学の史的考察:375頁) とな し、 宣長の思想の本質を自 然主 義、 主惰主義とした。 長谷川如是閑氏は別の論拠からルソーと比較 し、 十八世紀末の自然主義と規定 した。 (自然主義者としての本居宣長: 改造, 昭和5年3月号) 国学の反封建性乃至ルネッサ ンスとの 類推については 「イタリャ都市と 『花のお江戸や金がふる大阪』 やを同様に見たり、 ヴイ ソチや ブル 1力の弱さを 1 1 ノオやガリ レイの時代を契沖や員淵や宣長の時代と似ていると考えたりして、 自らの精ホ 暴露するもののあるのは、 読者諸君と共に深く遺憾とせねばならない」 という貌仁五郎氏の批判があ 2世紀さかのぼらせる る(日本における近代思想 の前提:95頁)。この批判に応えて丸山昌男氏は更に 1 ことは 「純思想史的見地からであるが、 般会的背景という点でも少くともルネッサンス読よりは近似 0頁, 註 2 ) とい 、 そ の 学 説 を 展 開 して い る。 こ の よ 性を待 っであろう」 (日本政治思想史研究,19 うにいろいろの考が錘をついで出て来ることは比較史的方法がや もすれば主観的懇意に陥り易い危 険 を 示 す も の と い え よ う。. 誌27 , 丸山昌男: 前掲書,169頁。 誌28 . 丸山昌男: 前掲書,180頁。 i i inecke: Vom ges i l 謙29 edr ch Me t chi e c chen Si nn und vom Sinn der Ges chi cht . Fr . ,1939 中山治一訳:9頁, 5- -2.

(7) . 高. 橋. 功. き i i inecke: 前 掲 訳 書,77 頁。 註 30 edr ch Me . Fr. 註31 ヒヘるに個体化的考察を . マイネッケは 「歴史主義の核 心は諸々の歴史的 ;人間的な力の一般的考察にヂ i もっ て す る こ と に存す るの で あ る」(Friedrich Meinecke: Die Entstehung des Hi tor s smus . ,1 l i i Band; Vor 36 t t (脇rungsh r ufen und Auf e s s o .19 . 菊感英夫訳: 歴史主義の成立, 上巻,4頁) と譜 つ て い る。. 三 園学における歴史主義的思惟の脆弱性--その一稗観 歴史主義は一切の歴史現象を相対化するものであるが故に、 われわれに信念や決意を輿えるものではない。 単に傍観者の立場に立って過去の知識を求めるのであるから、 実践の場における決意はそこからは生れて来な い。 かくして 「あれでもない。 これでもない」 という懐疑主義. また 「なりゆき次第」 という日和見主義に追 い込まれる。 歴史主義への批判は一は全体主義的立場から、 他はマルクス主義の立場から試みられて来た。 マ イ ネッケはかふる相対化の毒に対処すべき解毒剤として、 過去を美化する浪漫主義、 未来の進歩を信ずる楽天 主義のような水平的時時間構造の外に第三の垂直的立場をとりあげている。 すなわち時は過去から現在、 現在 から未来に流れるものでなく、 また未来がやがて現在に流れるものでなく、 また未来がやがて現在になり、 さ らに過去になってしまうものでない。「神をば人格的に或ひは非人格的に観念してゐようとも、 また神といふ言 葉そのものを抹殺してしまって、 至高な贋値について のみ語ることを敢へてようとも」 「われわれは (中略) わ れわれを安全に護ってくれる--.の導の星を頼 りにすることが出来る」 「この導の星と云ふのは、 デイ ルタイ の 言葉を借りォ滅ば 『われわれが良心と呼んでゐるところのわれわれの内な る不可思議な能力』 のこと」 なのであ ) る(誌1 。 マイ ネッヶは歴史主義の危機は時の構造を永遠が現在、 過去、 未来におりて来ると考えることにより 脱却出来るものとした。 ド←ソソはルネッサンスの 華やかな女学的歴史から世の 歴史研究が起ったのでなく、 i l l i l l tor emont むしろ Ti on の例で分るようにその系譜はカトリック数にさかのぼるべきものであ , Mura , Mab り、「ドイツ観念論そのもの 血統は啓蒙哲学と、 プロテスタ ント的微塵主義の宗教との肺れ合ひから生れた庶 ) 子」 であるに過ぎないと論 じている(註2 。 19世紀初頭の初期歴史主義はカトリックの嫡子であるか庶子である かは別として、 少なくとも蝿鰹に育てあげた母は正にキリスト教思想であるd ところで本居宣長はどんな神によって相対化、 不毛化の危機を支えようとしたのであろうか。 本居宣長も 「万 の事はおころもさかりなるもおとろふもみな 神の御 心にしあればさらに 人の力もてえうごかす べき わざにあら {談3 )といっているように本居宣長の古道論における歴史意識は神との関連においてとらえることが出来る。 ず」 宣長は「万事善悪の神の御所鰐なればよくなるもあしくなるも極意のところは人力の及ぶこと」ではないので あって、 「たゞなりゆくまふに拾おくは人の道にそむく」 もの で、 「人も人の行ふへ きかぎりを行ふか人の道に してそのぅへに 其事の成と成さるとは人の 力に及ばざるところということを心得て 強たる事をは行ふま じきな ) り」 と説いている(註4 。 善悪二神とはマガッヒ、 ナホ ビの二神であって、 日本の古典によってこれを説明 しょ ら擬人化し ぅと試みた。 マガッヒとは日本書紀神代巻ー書に出ている神名 であり、 みそぎの呪術宗教的思想か、 5 ( ) 註 であり、 またマガを直す た 「到るところに遍満 して人を害する、 多くのあしき神 (精霊、 霊物) の観念」 呪力を擬人化したのがナホ ビの神 である。 このような思想について津田左右吉博士は 「シナ 思想にない者であ (話6 ) と しているように、 古典そのものに示されている宗教思想と り、 宣長の思想に存する宗教的傾向の一つ」 は多少のへだ りがあるようである。 なるほど宣長における神は歴史を超越 しているように見える。 しかしそ の神はキリスト教のように人間と全く断たれている絶対者ではなく、 多分にアニミ ズム的要素を含でんい る原 始宗教の神である。. 宣長における神の観念は古事記簿の 「古御輿等に見えたろ天地の諾々の神たちを 始めて其の記れる社に坐す 御霊をも申し 叉人はさらに云はず鳥獣のたぐひ海山など其 余何にまれ尋常ならずす ぐれたろ 徳のあり可畏きを (註7 ) という説明で明である。 迦 徴とは云なり」 本居宣長の女献学的研究のうちにひそんでいる、 宗教性について村岡典嗣教授の説 がある。 玉勝間十四巻の 「神のめぐみ」 に説 かれている宗教的情操を以て、 原始的宗教心の所蔑ではないと し、 第一に彼の家庭の宗教で ) あった絶対他力的信仰の習性によって説明 しようとした(註8 。 なるほど本居宣長の言葉の中には 踊陀をそのま ま神にすりかえて表白 したのではないかと思われる節がある。 たとえば 「それを信ずる心深ければそれにこと なるすぢのあしきことばおのづからとがめざるあたはず。 これ信ずるところを信ずるまめご 一 26 一. 9 ) な る な り」鮎….

(8) . 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめ ぐる一二の問題 ど著しい例としてあげることが出来る。 しか し信仰の内容は決 して断片髪語を以てとらえるべきではなく、 悌 数がいかに扱われているかによって批判すべ きものである。 宣長の悌教経典についての教養は決して浅いものではない。 古事説鰍及び王勝間で十王経なる偽経、 歴朝詔. 詞解で最勝王経、 弦網経、 法苑珠林など、 美濃の家つとの新古今釈教歌の註釈で法華経、 往生要集また紫女要 領で法華経、 方等縦を引いて論 じている。 これらは多く奈良悌教、 平安悌数に関するもので、 鎌倉俳数に関係 するものはほとん どない。 これは当然のことである。 何となれば宣長の女献学的研究の主題は奈良、 平安の古 典文学に限られていたからである。 従って宣長 の註釈的研究に出ているものが、 その郡 数こ関する教養の全部 ではない。 しかし宣長の著書の中で註釈の必要以外に偉数に説き及んだ事項は極めて少い。 宣長が特に敵意を 示しているのは儒教であって、 悌教についてはそれほ ど著 しくない。 強いてさがすならば、 悌敵の諸宗浜の中 で最も批判的であったのは輝宗についてゞあった。 「ぅはべをつくるならひ」 として 「叉よに先生な・どあふがる ますれども よき女を見てめ 物しり人あるは上人な どたふとまる ほう しな ど月 花を見ては あはれとめづらか0 1 (誌0 ) と疑を持ち、 北憐時顔死去の傷について、「人みな殊に藤法 にか らぬかほ して過るはまこ とに然るにや」 まにか るさとり がま しきいっはり言するはいみ じき わざに思ひためりとう にまどヘリしかば 死なむとするきを n ( ) 註 と批評 している。 わざなり 」 るさくかっをこなる 山林趣味については 「われはいかなるにかさはおぼえず」 とい 、 また墨絵は宣長にとって 「見 どころなく 2 )であった。 このように輝宗趣味に対する反徽の強いところから、「悌道はたゞ悟と迷ひと (誌1 心つきなきもの」 (許1 3 ) という 雛教諭も実は 岬宗に ついていっ をわきまへてその悟を得るのみにしてその余の事は枝葉のみなり」 ているものと見てよい。 「碑の道ははなれかたき父母妻子の 恩愛をきよくふりすてをしき身の形をやつし家をも たからをもすて山林にこもり魚肉の 味声色の築をたちな どすべて人の 情のしのびがたきかぎりなれば 心よわく 物のあはれをしりてはおこなひがたきすぢなれはしひて 心づよくあはれを しらぬものになりて おこなふ道也」 (註t ) といっているのも江戸時代初期儒学者と共通の論理であって、 礎宗についての批判である。 これに反 して 4 浄土系の信仰 に対してはほとんど批判的な言葉がない。 しかしそれだからといって、 浄土信仰の墓盤たる罪業 の意識又は救済の要求はほとんど見ることが出来ないのであって、 積極的に浄土系信仰を裏 づける根拠をその 著連に見出すことは困難である。 捌仁五郎氏の 「どう しても救われなければならないとい う深い、 且高い救済 観がなければ宗教的信念 として純粋な信仰と云へず、 不純な信念たるをまぬがれないといぅことは、 宗教哲学 (註1 5 ) という 意見は正 しい。 村岡興嗣教授は 「本居宣長の高等な敬度的信仰は論 上まぬがオ ないところである。」 理的にも上代人の神の意識から演樺され得べきものではない」 「宣長の宗教的意識には、 上代人の宗教意識を再 6 )と論じているが、 こ (註1 現した自然宗教的信仰と、 一層高等な敬度的信仰が共に存 したことは明らかである」 の説に対しては 西郷信綱氏は古典に記載されている事実及びその背後にある 神々や 聖人についての絶対的信仰 の例証を仁費、 但棟などに求め、 「村岡教授説の妥当性が承認されるためには宣長だけでなく、 同時に狙株乃至 (註1 7 )と批評 している。 宣長の日記を見るとたしか 篤胤にも浄土宗信仰のあったことが説明される必要がある」 1 とで ) に浄 土宗の信仰をもっていたと見 られる節があるがL誌8 、 それは多く青年期以前 の慣習に従ったまでのこ あり、 宣長の信仰的態度を直に家庭の浄土信仰と結 びつけることは歴史における必然と偶然を混同 した趣があ る。. r悌は他国の 前説の通り多少浄土系の信仰と親和的なものがあるとはいえ、 結局宣長の悌教観は賀茂贋淵の 「 1 ) という誘を受けて、「その悟と ものにて用なき事也。 地獄など現世後世などいふは、 皆ものとりのさた也」(註9 2 ( 0 霊 … ) といっているが、 本居宣長の偉教観の榎心という いふ物また無用の塞論にして霧も世に盆あることな し」 べきである。 それでは本居宣長の宗 教生活はいかなるものであったか。 毎朝拝神式にあげている伊勢の内、 外宮、 神皇産. 霊神、 高皇薩霊神、 熊野神宮、 出雲大社、 釜の神、 井戸の神、 産土神など多神教的原始信仰であり、 一般庶民 の神棚祭認の慣習と異るものでなく、 それに多少の浄 土信仰が加味されていたと見なくてはな らない。 村岡典 嗣教授の指摘した敬度的信仰は中世信仰の洗札を経た近代人にとって何程か共通のものであり、 必ず しも浄土 1 ) 系信仰に限るべきものであるまい(註2 。 近世商人の信仰につき宮本 叉次氏は 「株仲間には宗教的色彩が瀬く、 i tpa t 守護神 (Sa n r on)を有するものが多かった」 となし、 その信仰の内容を 「迷信俗信の所謂民間信仰が広く 2 (註2 )と規定 しているが・ 行われていた原始的アニミ ズムであり、 物神崇拝であり、 シャーマニズムであった」 ← 27 一.

(9) . 高. 橋. ・功. 宣長も日記によってみるに、 安永五年 ( 1776)、 天明 年四 ( 1784 ) 山神の当番を勤めており、 町内一般の共同的 な信仰行事に参加していたことを知ることが出来、 特にとりたてふとりあげるような高い宗教感情を指摘する ぐ註2 ことが出来ない。 「歴史的日本人と して代表的性格」 3 )という宣長の 信仰生活は日本人と して最も一般的なも のであり、 且平凡 であったとおき直しても差支ないものであった。 日本の原始信仰の善悪観はきわめてあいま・いであった。 村岡典嗣数擾が論 じているごとく 「きたな し あか 、 、 し」 という言葉で示されている善悪は感覚的、 功利的な性質を持っていた。 大蔵詞で示されている罪悪観には. 人篇の悪と自然の災害が区別されていない程原始的であった(註 2 )本居宣長の歴史主義的思惟はか}る倫理性に 4 よって支えられていた。. 源氏物語の本意については今日の研究家は 「源氏の生涯はかくて実に最後の出家に至る道程であったといっ てもよく、 若し其点を強調するならば、 此人の体験 した 『物のあはれ』 の如きは結局聖心を誘ふ方便に過ぎな 5 かつたといってもよい」 と論 じている(註2 ) 。 しかし本居宣長は源氏物語の宗教性を全く除き去り、 「ほうしの ともがらは人を此道におもむけむために書りな どいふたぐひ、 いづれもおのがよるかたによれるものなり」 6 (註2 ) となし、 もっぱら物 語は 「八の情のやぅをありのま ふ書き出たろ故大小物はかなく しどけなげなる を〉しく 、 (謬り もの であった。 同様に短歌にあっても 「悌法 の理を以てこれを附会 さかしだち、 した かなることなき」 、 し、 世間有篤轄変無常のことわりな ど引あて、 これを歌の至極の意趣とすることなどわけもなき事」 8 )であ (群2 った。 宣長は文学の整備のための聾術たる所以を明にしたけれども、 人生のための整備たる一面を没却した 。 「よし、 あし」 は 「世の中の人の清にかなへろをよしとし 物のあわれをしらず なさけなくてょの人のこ 、 、 るにかなはざるをわる し」 とするものであるが、 情は我ながらしどけなく、 わが心にもまかせぬことありて 、 9 おのづからしのびがた きふ し有と感ずること ある」 」 ものであった。 和辻哲郎博士が 「求むべきものと求む (註2 る道との混乱に苦しみ っ 、 しかも混乱に気づかぬ痴愚である」 ( 亮郭0 ) といっているのは正に核心を衝いた批評 である。 もしもこのような倫理を心情の倫理と名づけ、 世間の習俗と区別するとするならば そこには簾善 、 、 平俗、 功利をしりぞけるものがあるとしても、 歴史的運命を荷い、 未来への前進を促すべき動力は微弱である 。 ラソケは 「相互に分離した世俗的でしかも精神的な共同体、 それらは神明の加護と道徳的エネルギ←とに依っ て生み出され、 制止することの出来ない勢で発展 し、 紛擾を極 めた現世の最中に理想への秘やかな情熱に動か され、 夫々のやり方 で進んでゆく」 と語っているが(謀1 ) 宣長においてはかふる道徳的ェネルギ←を感じ得べく もない。 宣長の倫理はせまい趣味乃至心情の世界にと りこめられた個人的 \ 情緒的な感情であった 日本の原 。 始信仰のあいまいな規範性はいかにとぎすま したところで 、 たどりついたところは 「物のあはれ」 を知る程度 を出ることが出来ない。 近代 ドイツ史学の歴史主義について 「この様な垂直的考察は余りに倫理的であり、 観念的であり 独逸の悲 、 2 (註3 劇的過程そのもの 考察が現在にまで充分媒介されてゐない」 ) と論ぜられているが、 宣長にあ っては一層 主観的であり - 、 感情的であり、 外部的な権力に対 して、 抵抗するのには極めて弱い支柱でしかなかった。 天皇崇拝 (Mikado i ‐wor ) が明治維新以後急速な勢で全国に普及した。 天皇崇拝の理論的根拠を明にした sh p のが本居宣長の国学である。 一方 において極めて実証的な 研究を積み重ねて、花大な業績を出した本居宣長が他 方において素朴な原始信仰の持主であることは西欧人にとって到底理解し得ないことであった W. G As on . t 。 はモトオリのような高い知性と学識を持ちながら、 しかも印度及び中国の哲学 と宗教を知っているにか わら ず、 かくの如き子供じみたお伽話を信ずるということは熟考を要する問題で しかも彼自身が信者であったば 、 かりでなく、 多くの知識人の信奉者を得たことは日本の格言の ”lwashi no atan・a n・O Shinj iルkara“ である 3 ) ま た R. H. Chamber と 説 明 して い る(註S l in は 「ミ カ ド崇 拝 (Mikado-worship) 及 び日 本 崇 拝 は (japan- a wor ship は必ずしも自発的に生 じた現象ではない」「それは官僚の利益のために延いては国民の利盆のためにそ. の官僚の手によって意識的に若くは 牛意識的に構成せ られる 過程の中にあるものである」 と論じている(註3 4 ) 。 これら西欧人は何れも日本における庶民の 信仰を理解 し得ない故に か る誤解を来したのでなかろうか。 なる ほど天皇崇拝は明治維新以後強権を以て普及されたのであるが、 それは中村元氏が言っているように 「皇室の 、 主観的窓意的意図に出たものだとはいふ得ない」 のであって、 「日本民族の奥底に存する根づよい敷 1向によって 或時代か ら異常なすがたをとってあらわれたもの」 である{課5 ) 。 - 28 一.

(10) . 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめぐる一二の問題 それではその動向とは何か。 「日本の一般民衆は依然としてシャーマニ ズム的な宗教儀式に従って いたために (部6 ) という中村元氏 日本にひろまる碑数は、 やはりか る性格を保存しているものでなければならなかった」 の提言はこの際傾聴すべきものがある。 私は豊臣秀吉を豊国明神、 徳川家康を東照権現として神格化したこと と、 天皇を現人神としたこと}の間には共通の神観が横わっており、 日本における歴史主義的思惟がか る神 観によって支えられていたが故 に、 政治権力に対して一層賜いものであったと断じたいのである。 i i i 註 1 i l necke: Vom ges edr ch Me chen Si nn u ld vom Si nn der Ges chi cht e l939 l chi cht . Fr . 中山 治 一 訳,23 頁。 i 註 2 i i t l s opher Dawson: Re on and the Modern St te g a . Chr .1935 . 深 瀬 基 寛 訳,163~169 頁。. 註 3 . 註 4 . 譜 …5 . 註 6 . 註 7 . 話 8 . 註 9 .. 玉勝間: 増補本居宣長全集,8 巻,41頁。 玉厘: 前掲全集,6 巻,1 4・ 巧 頁。 津田左右吉: 日本上代 史の研究,3 18頁。 I P道,247 頁。 津田左右吉: 日本 の示 古事記伝: 前掲全集,1巻,135頁。 村岡興嗣: 日本思想史研究,233~234頁。 玉勝間: 前掲全集,8 巻,9 4頁。 宣長の家の信仰は餅土宗ではあるが、 蓮如の 「それ信心をとるといふはやうもなく、 た ゞも ろ も ろ の 難 行 難 修、 自 力 な ん ど い ふ わ ろ き 心 を ふ りす て 、 一心にふかく瀬陀に蹄するこ ろ の ぅ た が ひ な きを昌美信心とまう すなり」 (御女五帖目) という言葉と比較 してみるとその間にかなり近似性があ る。. 21頁。 註lo , 王勝間: 前掲全集,8 巻,1. 註11 . 玉勝間: 前掲全集,8巻,32頁。 2 註1 ,.玉勝間: 前掲全集,8巻,386~421頁。 話13 . 玉勝間: 前掲全集,8 巻,342頁。 謙14 5頁。 , 玉のをく し: 前掲全集,7巻,49 註15 . 貌仁五郎: 日本に於ける近 代思想の前提,90頁。 6~497頁。 註16 , 村岡典嗣: 本居宣長,49 註17 . 西郷信綱: 国学批判,67頁。 註18 . 元女四年血脈受ニ入蓮蔵走誉上人-法名英笑号也。 (本居宣長稿本全集, 日記,16 頁) ・同年 (寛延元年=筆者謙) 関十月廿五日夜於二法憧山樹敬寺宝延院方丈-授二伝 於 三十世主観蓮敵諦誉 上人- (前提 日記,17頁) 寛係四甲子年二月 廿四日ヨリ融通念悌百返之日 課修ス (前掲日記,20頁) 延享元甲年三月十一日より十万人識ノ日課百反を修ス。 同閏10月 (延享五年=筆者註) 樹敬寺ニテ五重相伝 ス。 十八日詔二師諦誉上人-授-十念-。 法樹院版 次也。 十九ヨリ行を修ス。 示 し拝- P 児玉ハル。 (前掲日記,20頁。 謡19 . 懸居書簡続編 五十: 賀茂員淵全集,12巻,506頁。 許20 , 玉勝間: 増補本居宣長全集,8巻,432頁。 話2L 上田高年博士は次の家系を示して、 その中に伊勢ホ I D道と密接な関係あることを論語 している。. 村田孫兵才 街一二代-三代 { 歌 : 潔 4かつ. 議22 . た23 言 . 謡24 .. すなわちかつは宣長の母であるが五代元次は度会延経の次男であって、 度会延経の弟子であり、 松坂 で添 い道を講 じていた。 叉七代全次は接見綱斎の弟子で崎門学者であった。 (本居宣長 の信仰について、 -般協会雑誌,17~11 前 ,5頁。 宮本叉次: 近世商人意識の研究,53~86頁。 村岡典嗣: 本居宣長,5 27頁。 村岡典嗣教授は日本思想 史研究 の第一論文 「古荊 1道に於ける道徳意識とその発達」 でくわ しく論 じて い る。. 話25 . 議26 . 許27 . 誌28 . 謡29 , 註30 . 証31 . 2 謡3 .. 岡崎義恵:日本文萎学,288頁。 玉のをく し: 前掲全集,7巻,5 15頁。 玉のをくし: 前掲全集,7巻,482頁。 あしわけをふね: 前掲全集,lo慾,1 4頁。 5 玉のをく し: 前提全集,7巻,487頁。 ・究,23 和辻哲郎: 日本精練史研 2頁。. L. von Ranke: Pol i i t i i sche Gespr ch,1836 , 相 原 伊作 訳,58 頁.. 岸田達也: マイネッケの歴史意識の限界, 史学雑誌,62~11 ,48頁. - 29 -.

(11) . 高. 橋r. 功. tera ture tor t on: A Hi s . P,330 誌33 . London y ofjapanese Li ,1898 , G. As , UV l i i 14革世界思潮研究会 in: The lnvent be l R. H. Chan on on of a new re gi r ・ a .1922 . こ の 訳本 が大正1 る 同書4頁より引用 86 ) 日本人の愛図教と して出されてい 。 の世界パ ンフ レット通信 ( 。 誌35 . 中村元: 東洋人の思惟方法, 第二部日本人, チベット人の思惟方法,156頁。 2頁。 誌36 . 中村 元: 前掲書,29. 許34.. 四 国学における歴史主義的思惟の脆弱性--その二赦曾的基盤 国学はどんな社会層において育まれた学問であるか。 また社会的基盤が国学者の思考過程に どんな作用を及 ) ぼしたであろうか。 この問題について統計的資料を提供 したものに伊東多三郎氏の研究がある(註1 。 この研究 を土台にして永田広志氏は次の如く規定 した。 すなわち 「贋淵と宣長の初期に至る迄の時代においては全体と. して富裕な町人をその主要な地盤に持ち、 大体において文学的であって、 古道=古神道的観念はまだ萌芽的状 ) 態で準備されていたにすぎなかった」 と(註2 。 また宣長は封建性の社会的矛盾を明確に意識 していながらも著. 修の抑制、 倹約を篇政者に要望し、 封建的社会関係を肯定したことを以て、「結局町人、 高利貸的地主の当代議 ) 歌的意識の範囲を出なかった」 と論 じている(註2 。 宣長はもともと春庵と名のった小児科医であり、 「松坂長谷川次郎右稲門に借店せる家博あめ薬と看板」 を出 ることであり、 無媒 ) していた{謡3 。 従って国学が富裕町人層を基盤と して形成されたということは論証を要す ’ 生れ べ である 本居宣長は松坂に きこと びつけることはっ しむ 介に国学と富裕町人層を結 、 宝暦2年(1752) 。 23才 のときから、 同7年(1757)28 才に至るまで京都に遊学 した外は松坂に住み、 何回かの短期の旅行を試みた 外は松坂を出ることはなかった。 宣長は松坂の土地柄を愛し、 寛政4年(1792)加賀藩前田治修から招 かれたが ) 松坂住叉は京住という燦件をつけたために、 この話は成立 しなかった(註4 。 紀伊藩の扶持を受けたのも松坂居 ) のことであった(許5 。 かく宣長が執着を感じた松坂とはどんな町であったろぅか、 松坂はもともと五百森といったところであるが、 588 1 ) 蒲生氏郷が松ヶ島から城 を移すに及んで松坂と改めたところで、 城 下町として出発 したとこ 天正 16年 (. 住のま. 590 1 ) 小田原征伐 の軍功によって、 蒲生氏郷が会津に轄封された後、 古田重勝の城下 ろである。 天正18年 ( ) 19 ) 改易されるに及んで、 紀伊藩の領城となった(註6 16 となったが、 元和5年 ( 。 紀伊藩はこふに城代一人、 ) 典力二人、 同心二人をおいて管理 し、 市政は松坂町奉行によって執り行われた(註7 。 従って江戸 時代における ていたようであ しろ商業都市たる性格を強く持っ い〉がたく む を持っていたとは 松坂は城下町としての機能 、. る。 中部伊勢、 南部伊勢の海岸には畿内先進地帯と東国とを結ぶ海上交通路の要点として中世では安濃津、 大 湊などの港湾が発達していた。 松坂は雲出川、 紀川の河谷を利用 して和歌山との間に交通が便利であり、 紀州 藩の外港たる機能を果 していた。 紀伊藩はこの土地に御船奉行をおいて、 江戸参府にあたっては松坂と三河吉 ) 52 17 ) の校本松阪権輿雑記では 「近 郷 よ り 田叉は尾張 熱田との間の海上交通路を利用 した(註8 。 宝暦2年 ( (謡9 ) と記してい 毛綿を買求関東に運送する屋多し。 但惣町中より諸 国江連送毛綿凡八万端。 年により十万端」 る。 綿織物が百姓の衣料として普及したのは江戸時代における商 品的農業の展開に伴う問題であり、「元織頃に 1 0 ( 36 ) といわれている。 堀江英一氏は元女元年 ( 霊 17 )大 … なると棉作の中 心地としての畿内の地位は確立した」 ミの 21% となし、 その中著移的な絹関係品 4 阪から江戸へ登せた商品の品目と-債格を分析して、 衣料関係品を全i 1 ) が3% であるのに対して、 大衆的な綿関係品が12% であるとなしている(認1 。 松坂の商業的機能について経 が考えられる。 このよ ほぼ大阪を小規模にした商業都市であった趣 していないようであるが 意 済史家は多く注 、 8 )大 うに南伊勢は商品経済の惨透が著 しいところであるから、 農民の階級分化が進行しており、元蕨11年(169. 畑才蔵日記勢州にて覚書によれば 「紀州は十軒上六十軒中三十軒下 勢州は二十軒上三十軒中五十軒下 右之連は紀州は作之外能事は無し之と心得、 勢州は江戸方に商方へ一村より五十百人づ 参り候を能事と心. 2 ) ト ーより一二わり方村柄悪敷見へ候様に奉,存候」(註1 チ 得、 作方につましき心入無,之ゆへ 下百姓多く紀 , と記して いる。 叉出稼人については 「渡世風俗は商奉公に参其もうけ銀を取扱はねば不し成候と心得、 子 供三人の内弐人は江戸へ遺し候仕形、 - 30 回.

(12) . 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめぐる一二の問題 右他へ百人参候内廿人はかね特に成し無左ものも少々つふ銀をも 坂集能品に見え候共 其代り作方につましき 3 (註1 ) 思ひ無し之」 と語っている。 三井財閥が松坂出身の呉服屋からおこったことは周知の通りである。. 本居宣長の生れた家は小津家であるが、小津家は一志郡小津村から松ヶ島、ついで松坂に移った木綿商人で、 小津滝兵衛について校本松阪権輿は次の通り記している。「松坂小津党根本也。 枝葉繁茂して小津を称する履当 (註1 4 ) と。宣長の生れた小津家については村岡典嗣教授の本居宣長にくわしく論 じているとこ 時町中五十軒余有」 1 5 )、 小津家の家系から云えば別家であり、 父正利は江戸の大億馬町に店舗を構えていた。 宣長自 ろであるが範… 48 ) 山田の紙商 身延享2年 ( 17 45 ) 江戸の大博馬町、 小津源四郎の店で約1年余商売を見習い、 寛延元年 (17 1 6 ( 註 今井田氏の養子となり、 彼自ら紙商を営んだ。 しかし 「願う心に協はぬことありしによりて」 )としるして 50)2 1歳の時であった。 いる通り、 商売に不向きであることを自覚して離縁し、 学問を志したのは寛延3年(17 57 17 ) 京都遊学から松坂にかえり、 宝暦8年 ( 1758 ) 以後多くの古典を講義 している。 叉 宣長が宝暦7年 ( 嶺松院、 遍照寺でしばしば歌会を催しているが、 これらの講義を聞き、 歌会に加 わった人々はどんな人達であ ったろぅか。 宣長の門弟の一々の身分、職業を明にすることは出来ぬが、分る分だけについて見るに多くは町人 であった。 養子大平の実父溜掛棟隆は歌会の中心人物の一人であったと考えられるが、 田丸屋と呼ぶ豆腐商で (1 8。 就中注意 7 ) あり(認1 、 宣長門弟で最も将・来に塾をかけられ、 天死した須賀直見は本町の薬種商であった 詫 ) すべきは三井家との関係である。 奥山宇七氏編本居宣長書簡集には 590通、 99 名あての書輸がおさめてある 巳 が、 その中三井高蔭あてのものが 13通あって、 第八位の多きにのぼっている。 その内容は扶桑略言 、 公卿補 ‘ 1 9 ) 註 任、 類票国史な どの所蔵本を借りたり , 、 また古河の中村氏叉は京都留学中の春庭への通信を依 頼 している。 ) )また小西春村からおくったおかつあての三井家 これは三井家の取引網を通信に利用したものと考えられる(註2 手代の家の縁談に関する身許調依頼の手紙に対し、 自ら返事を書いているが、 これによって見るに三井家の内 1 2 ) … 情にもかなり精通していたものと見るべき節がある(討 。 三井高蔭には弁玉あられ論なる国語学上の著述があ 2 ) り、 その詠草を宣長に直してもらっていた極はその往復書翰によって分るところである(註2 。 これらの商人が古典を研究したのはどんな意味のものであったろぅか。 やはり中心は歌会であり、 作歌に必 要な教養を得るための古典研究ではなかったかと考えられる。 宣長の古典研究における上古主 義と作歌の新古 今調との間には矛盾があり、 その師虞淵からこれを好み給うならば万葉の御間ややめ給え と 叱 責 さ れ な がら 3 訂2 ) ついに新古今調を捨て ることの出来なかったのは、 勿論青年時代における契沖の影響 ドに形成された教 も( 養が後年鱈淵の万葉主義に対する抗素として働いたとも考えられるが、 むしろより大きい理由として松坂町人 の持っていた歌風、 乃至社会的制約があったのではないかと考えられる。 松坂町人の教養の高さは宣長の父及 4 ) び母の書輸によってもうかがい知ることが出来る(註2 。 以上の如くにして国学は町人の手によって育まれ、 その思考方式には多分に町人の生活が反映しているもの と考えざるを得ない。 これらの商 人は商品及び貨幣の単純な流通過程において利潤を追求したのであるから、 その性格は前期的資本と規定すべきもの であり、 それ自体の作用としては封建制を内部から腐蝕さ せる作用を 持つとしても、 その寄生的性格の故に対抗的な、 反幕府的要素を持つものでない。 それが国学をして封建的数 学=朱子学に対して批判的たらしめたと しても、 封建制度そのものに対 しては批判的たり得なかった理由 であ る。. 近代独逸史学の興起はー806のイエナ及びァウェルシュテットの敗戦から 1830 の 7月革命に及ぶ現象である が、 その源流はそれを遡ること半世紀 「ヴイ ソケルマ ソ、 メーザー、 ヘルデル、 ウオルフのごとき新傾向の研 5 )ものである。 歴史主義的思惟の系 究は様々の意味でドイ ツ近代史学の源流を形作っていると考えられる 談2 6 ) 譜について異論がないわけでないが(誌2 、 いまかりにマイネツケに従って〆【ザー、 ヘルデル、 ゲーテにその 8 礎構造 7 」 つながりを求めるならば「票2 、 これらの人々は どんな基盤に立っていたの であろうか。1 世紀後半の基 についてはョ←ロツパ各国の歌態が必ずしも同一ではない。 プロシャでは絶対主義を特徴づける国民的商人層 8 ) は充分に成 長せずして、「プロイ セン専制主義の基礎は農奴制にあった」 とされている儒2 。 プロ シャの農奴解 放は王領地農民については 1807までにいわゆる農民保護政策によって縫ったが、 私的農民については1807の 9 ) 10月勅令以後にとられた一連の立法措置によって実現した(註2 。 このうち後者は シュタイ ン・ハルデソベルグ の改革と呼ばれているが、 この改革はメー ザ←の 「独自な歴史意識に基づく 『ゲルマ ン古来の自由なる農民』の 【 31 -.

(13) . 高. 功. 橋. ) 思想」 が政治家シュタイ ンの実践を通 じて実現 したもの である(部0 。 しかしシュタイ ンによれば 「貴族の権威 ) の基礎は土地所有にあるが故に、 地代取得者と して貴族はあくま でも維持され べき」 ものであった(謡1 。 メ ーザーは18世紀末 ドイ ツ史学の中心であった ゲッチソゲソ大学に学んだ弁護士であるが、 その法制史研究 ローカルヌンフト こ影響を及ぼし、 近代独逸史学の 源流となったことは における地方的特性 の認識がニー ブ← ル・アイ ヒホルソマ 9古代 ドイ ツ史学会 を創設 し、 Mono t )また シュタイ ンが181 l nen a Ger‐ 広く認められていることである。 鑑識2 i t or ca 編纂の緒をつくり、 近代独逸史学と密接な遮りを持 っていたことも周知の事実である。 ae Hi s mani 江戸時代の国学がは じめ町人の手によって育てられ、 封建制度に対 して批判的ではなかった。 同様に近代独. 逸史学は土地所有貴族が一方では急進的なフランス啓蒙思想の影響による革命を避けながら、 他方で近代化を 急ぐ過程において起った歴史現象であり、 封建的社会秩序を克服すべき批判者ではなかった。 国学も近代独逸史学も共に過去の批判よりも 理解、 旧来の鱒統、 権威に対 しては不信よりも、 敬愛の情をも とぅとした。 それはともにそのよって立つ基盤が近代資本主義形成の主体たるべき近代市民乃至自営農民では 9世紀に入ると強大な独逸帝国 なかったからである。 しかし独逸にあっては土地所有貴族、 ュ ンカーはやがて 1. 形成にあたって主体的役割を果したが、 江戸時代の町人には江戸時代後半の危機に対して何等見通しを持つこ となく、 明治維新においては全く受身であったことを考えると、 封建的社会秩序に対 して一層賜いものである ことは当然のことである。 弄E L 鰍居門人鎌、 鈴屋門人鍬、 内遠翁門人録によって次の表を示している (但内遠翁門 人鍬は弘化五年以 降) 居. 鈴. 内. 漉 25 38. 4. 屋 166 114 69. 医. 7. 27. 6. 僧. 8. 25. 19. 23 69. 40. 22. 6. 2. 18 6. 瓢 町1 農/ 副1. 武 ‐ ・ 歩 t 其. 39. 他. 19. 68. また国 学者伝記集成により、 員淵、 宣長、 篤胤の門下を出身境遇別に次の統計を算出 している。 員 町 農 荊i 武 僧 計‐. 淵 11 2. 宣. 長 21 13. 胤. 篤 2 4. 4. 4. 3. 8. 17. 14. 1 26. 1 56. 23. 0. ~: 圏学の史的考察,323頁以下) (伊東多三期 2 永田広志 、: 哲学と歴史,356頁。 . 3 . 森 鉛三: 賀茂員淵と本居数長, 伝記学会編国 学者研究,24頁。 4 1792 ) 小西春村あて書簡に次の如く書 いている。 「惣角☆仕官之事八嫌々好不申義二候故以; . 寛政4年 ( 其心-此方望事色々申造候得共いか 可し有し之哉未槌成義ニ而ハ候得共 先以身分二填り大慶 成申二御 塵 候。 御1允可 賜候。 乍し去他国へなと引移 り申候ハ甚いやに候へノ ・やはり当 ・中 ,所住居敷叉ハ 京住- 事ならば品により御詰も可し中山取次ノ方へ返事致し遺し申候事二候」 (本居宣長書簡集:39 4頁) 謡 5 . 村岡興嗣: 本 居宣長,70頁。 じ松阪権輿雑記: 巻一。 謡 6 . 校本 謂 …7 . 南紀徳田ー史:8柵,52頁。 謎 8 . 南紀徳川史:8班,22頁。 認 9 . 校本松阪権奥雑記: 巻三。 誌lo . 古島敏雄: 近世における商業的農業の展開,(総会構成史大系) ,22頁。 形態 EI1 堀江英一: 封建蔵会における資本の存在 会構成史大系 ( 耐 ) 欝 : , , ,47~49頁。 議12 . 南紀徳川史:7舟,738頁。 1史:7冊,739頁。 訂 …13 . 南紀徳リ1 4 誌1 校本松阪権輿雑記 . , 巻三。 辱嗣: 本居宣長,5頁以下。 譲15 , 村岡り 謎 註 謡. - 32 -.

(14) . 日本における歴史主義的思惟の萌芽をめぐる一二の問題 誌16 . 証17 , 註18 . 詐19 . 誌20 , 註21 . 註22 . 謙23 . 註24 . 註25 . 訂 …26 .. 家の物語: 増補本居宣長全集,9巻,7 95 頁。 村岡奥嗣; 本居宣長,13 1頁。 本居宣長稿本全集: 第一輯,525頁註。 5 奥山字七: 本居宣長書簡集,38 4頁。 ,387 ,392 ,39 42 3 奥山字七: 本居宣長書簡集,340 9 ,441 ,3 , 4頁。 9頁。 奥山宇七: 本居宣長書簡集,49 竺憶が宣長の玉あられを批判 して玉阿羅札論を出したが、 それに答えたもので、 女化13年(18 16) 木 版本として刊行 している。 村岡奥嗣: 本居宣長,465頁。 佐々木信綱博士の金鈴道響に写員版として出ている。 上原事緑; ドイツ近代歴史学の興起, 一橋論叢,14~2 ,39頁。 マイネツケの老は歴史主義的思惟に内在する非合理的な添 い秘的傾向を重脱する立場であって、 これに 対 して ク ロ ー チ ェ は ドイ ツが 歴 史 主義 の 成 立 に 寄 興 した 限 りに お い て カ ント、フィ ヒ テ、シェ リ ソグ、 ヘ ー ゲル を あ げ た。 こ れ は 理 性 を 重 蔵 し た か ら で あっ て、 ク ロ ー チ ェ は マイ ネ ツ ケ の 歴 史 主 義 が ドイ. ツの宗教改革につ ぐ偉大な緒榊革命であるという考 を承認 しなかった。 (中山治-: 歴史主義の歴史 理論, 二つの歴史主義参照). i ・ i 謙27 tufen t i 1 も smus l t s l nd Au故1 rungsh e s or ,i . Band . F. Meinecke: Die Bnts[ehung des Hisとor , Vo , 菊 感英夫訳, 上巻,6頁。 6頁。 註28 . 林健太郎:絶 対主義について, 歴史学研究,125号,1 話29 . 林健太郎: プロ シャ農業改革とュ ソヵ【経誉の発展, 第一章農民解放に関する諸立法,(敵会構成史大 系) 参照。 .58~1 69頁 プロイ セン改革の理念, 史学雑誌, 林健太郎: 話30 . , 。 議31 . 林健太郎: 前掲論文,70頁。 i i i 2 許3 ne edr ch Me cke 前掲訳書,43頁以下。 . 坂口昂: 狸連史学史,142頁以下。 Fr. 五. 結. 「 8世紀後牛に於ける青木昆陽の武相古文書探訪、 贋淵、 宣長の言語学、 塙保己一の群書類従編纂」 に近代 1 ) 歴史学の先駆者を見出そうという老は 早くからあった(註1 。 丸山員男氏は政治思想の構造における対礁関係、 ) 2世紀遡らせてョ←ロッパ思想と対比 した(註2 社会構 成史的見地に対する顧慮からルネッサンスよりも1 . 。 しか しもともと直接に思想的交渉のない思想体系を全体と して比較 し、 その間に対願を見出そうとするのは困難な ことである。 私は一際近代における資本主義形成という世界共通の事実を基点として、 それとのかふりあいか ら国学とドイツ近代史学とを位置づけた。 両者共に西欧に比較 して保守的基盤に育った点で共通性を持ってい る。 しかし国学は一層近代資本主義から距離をへだてふいる町人層から生れ、 しかも日本特有の事情として原 始的神観に支えられていたが故に一層脆弱であ ったといわねばならない。 なお平田派国学と本居直系の国学と の間の差異またこの両者と考証史学との関係な ど詳論を要することであるが、 今こ ふではふれない。 言 EI . 羽仁五郎: 稗形期 の歴史学,67頁。 90頁。 誰 2 , 丸山昌男: 日本政治思想 史研究,1. 一 33 円.

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