一 六 人
近世初期における高田派の教団形成
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はじめに 本稿では、真宗高田派本山専修土寸所蔵の﹁出家衆帳﹂をとりあげる。﹁出家衆帳﹂とは、一川和元年︵一六一五︶ から寛文元年︵一六六二 の四十六年間にわたり専修寺で出家、あるいは位階を授与された僧の名を記した帳簿の ことである。この帳簿を分析し、﹁分裂﹂の危機を乗り切った専修寺門跡莞秀︵一五八二1
一 六 六 六 ︶ の取り組み や末寺の反応を明らかにする。これまで、私は門徒までを見通せる教団史、あるいは教団全体を踏まえた当該期の ︵l ︶ 一般史を目指し、本願寺あるいは二同一撲を末寺の視点から捉え直す作業を行ってきた。同様の作業は、高田派の 研究においても必要と考える。 それゆえ、現在の末寺の多くと関連づけることができ、末寺がもっそれぞれの来歴や末寺まで含めた派全体のあ りょうを明らかにし得る史料﹁出家衆帳﹂に着目するのである。既に﹃真宗史料集成﹂において全文翻刻されてい るものの、そこに記されている寺号・坊号・院号が現在名乗っているものと異なっていたり、記載が地名と法名のみの場合が多かったりと、比定の作業が繁雑になるため殆ど活用されなかった。最近、三重県津市中心部の高田派 寺院を私自身が考察した際に活用したものの、史料の吟味は省略していた。 そこで本報告では、まず﹁出家衆帳﹂に記された情報が意味するところを明白にしたい。その上で、出家者の数 と分布を一不すことにより、近世初期の高田派の﹁分裂﹂や教線伸張を考察する。また、本史料の記載の変化を読み 取るなかで、本山の末寺への対応の意味や本史料成立の意義を明らかにしたい。 一、﹁出家衆帳﹂に記された人々
1
﹁出家衆帳﹂に記されたもの ﹁出家衆帳﹂の意義を分析する前に、個々の記載の意味についてここでは考えたい。﹁出家衆帳﹂には次の様な記載
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月 ν l て 去 記 ー さ 日 れ て しミ る 日永文政弟子 誓学 十 三 歳 ﹂ 出家した年月日、地名あるいは寺号、出家者の法名、年齢が記され、上部にはO
の記号が全件にわたってふられ、 ﹁中﹂など位階の表記と考えられる略号も記されている。また、年齢の下に花押が据えられる場合もある。 ﹁出家衆帳﹂の地名や寺号から現在の寺号を割り出した結果、各寺院約二名ずつ、多い場合は四名ほど出家者が 記載されていることがわかった。四十六年間におよそ二名の人物が記されているわけで、人のライフサイクルと合 致するといえよう。ここから、各寺院の継承者が記載された史料であることが想定される。また、弟子に﹁民部 卿﹂といった官途名を名乗る人物が存在したり、同一の官途名を二度にわたって弟子が使ったりする点や、孫末寺 近世初期における高田派の教団形成 一 六 九近世初期における高田派の教団形成 七
。
などが多いと想定される寺であっても特段出家者が多いわけではない点も、﹁出家衆帳﹂が各寺院の後継者の出家 を記した記録であることを物語っている。 しかし、実際に各寺院を調査した場合、﹁出家衆帳﹂に記されている名前が歴代にないなど矛盾する場合があっ た。寺誌と対応させてみても、﹁出家衆帳﹂と完全に一致する事例は少なかった。そこで、本章では﹁出家衆帳﹂ の記載を各寺院の記録と照らし合わせる際の問題点について考えたい。いったい、なぜ﹁出家衆帳﹂の記載と各寺 院の由緒が食い違うのだろうか。寺誌が充実している寺をとりあげ、その要因を分析し本史料の読み方を確かめた し、。
2 興正寺と浄光寺の例から 一つ日の事例は、三重県四日市日永にある興正寺の事例である。﹁日永山興正志臥﹄ の記述から当該期の歴代を 図にすると、左の様になった。 第十四代文政大徳1
長 男 下ー第十五代住持文歓上丈慶 貞 印 慶 長 十 九 年 一 丁文隆 ︵ 一 六 一 四 ︶ 生 ﹁女 一 前 病 、 享 保 十 年 ︵ 一 七 二 五 ︶ 九 月 二 十 五 日 死 す 江 戸 に て 宝 永 二 年 ︵ 一 七O
五 ︶ 七 月 三 十 日 死 す 子 浄 光 寺 誓 誉 丁下
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第十六代文誉元は誓喜 河 瀬 氏 女 慶 安 元 年 ︵ 一 六 四 八 ︶ 生 十二歳で丈歓上人の弟子となる これに対して、﹁出家衆帳﹂の日永興正寺に関する記述は以下の二点である。0
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同竪同寛 三二五空年
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霜向十三 月手二ろ 廿十月 八立十 日 三 日 日永文政弟子 誓学 十 三 歳 ﹂ 得 度 日永興正寺弟子 十 歳 民 部 卿 ︵ 花 押 ︶ ﹂ 前者にみえる丈政とは、第十四代文政大徳のことだろう。文政の弟子であるので第十五代の丈歓と考えられるが、 名前も年齢も異なる。文歓は慶長十九年︵一六一四︶生まれとされるので、寛、水五年︵一六二八︶当時ならば十五 歳となってしまう。二歳の差は単なる誤差で、同一人物をさすとも、 二歳違いの別人をさすとも解釈できる。また、 後者にみえる民部卿は第十六代文誉であればよいのだが、これも慶安元年︵一六四八︶生まれであるので、承応三 年︵一六五四︶当時は六歳となり全くあわない。しかし、養子の丈誉以外に丈慶・文隆がいる。長男の丈慶が当初 後継者として予定され、民部卿という官途名を名乗っていたと想定するのが妥当なところだろう。 この二つの件から、以下の二点が想定できる。一つは、年齢の誤差の可能性である。﹁出家衆帳﹂の冒頭には ﹁従元和元年十三歳ニ落髪スルヲ為本意、聡十三ヨリ内、亦十四ニテ致落髪候共、後ノ十一二ヲ以テ可上座者也、如 件﹂と、十三歳未満で出家しようが、十四歳で出家しようが、十三歳できっちり出家した僧侶が上座となるという 規程が示されている。この規程故、十三歳という年齢にこだわって本山に申請した可能性があるといえる。出家年 齢が規定されているために、年齢の恋意的操作が想定できるのである。二つは、当初予定されていた人物と異なる 人物により、寺院が継承された場合である。興正土寸の例でも明らかな様に、寺院の子弟すべてが出家して、﹁出家 衆帳﹂に記載されているとは考えられない。また、興正寺の場合は文慶・文隆ら、寺を継がなかった人物までしっ かりと系譜に表記されているが、何らかの理由で系譜から削除された場合もあるだろう。 では次に、興正寺に文誉を入寺させた現津市河芸町北黒田に存在する浄光寺についてみてみよう。﹁出家衆帳﹂ か らδ
吾 は 占 アじJ 11 和二宅 五六よ圭
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一 出 日 さ れ る 浄光寺末弟 7じ 勝 歳 十 四 歳 ﹂ 近世初期における高田派の教団形成 七0 0
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善 治否応王寛=扇 弐完仁三永竺期 年)年)五孟巨 十 六 年1
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一 月 拾 三 月 十 月 孟 廿 ー 廿 回 二 日 二 派 日 日'
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里 杢王国 浄 罷
浄 光 成 光 寺 寺 弟 弟 子 子 七 治部卿 歳 十 三 歳 ﹂ 十仁歳 治 部 卿 ︵ 花 押 ︶ ﹂ 黒田浄光寺弟子 治部卿という名が二回出て来るが、浄光寺の継承者につけられた通称と考えてよいだろう。他の寺でも、官途名 を二代にわたり名乗っている者が確認できる。弟子が実質は父子関係であることの傍証となろう。一方、官途名が なく、﹁弟子﹂ではなく﹁末弟﹂と記された元勝は父子ではない可能性がある。元勝は、浄光寺の末寺なのかもし れない。浄光寺は、末寺を多くかかえたとされる寺院である。しかし、それにもかかわらず末寺らしきものはこの 得 度 十 二 歳 七位︵花押こ 一件のみである。やはり、﹁出家衆帳﹂に登場する人々の多くは、寺の継承者だったとみてよいだろう。また、注 目されるのは、万治二年︵一六五九︶得度の七位である。興正寺の十六代文誉と年齢が合致しており、文誉本人を さ す と 考 え ら れ よ う 。3
彰見寺の事例から 第四世智光院釈恵澄1
第五世遍満院光縁lil
−−イ平三郎下
1 i 上 慶 長 七 年 ︵ 一 六O
二︶生↑ 青厳寺明蓮房↑慶安三年︵一六五O
︶寂丁第六世慈眼院潮誉普門 息 女 妙 超 一 一 寛 永 十 三 年 ︵ 一 六 三 六 ︶ 生T
慶 縁 鳥 羽 本 照 寺 へ 一 承 応 二 年 ︵ 一 六 五 三 ︶ 関 東 遊 学 下 栄 讃T
清有 一 一 寛 永 二 十 一 年 ︵ 一 六 四 四 ︶ 生 十 元 禄 十 三 年 ︵ 一 七OO
︶ 死 天 折 伊賀上野大仙寺へ一 一 つ 日 の 例 は 、 現 三 重 県 津 市 大 谷 町 に あ る 彰 見 寺 の 例 で あ る 。 ﹃ 彰 見 ヰ 一 軒 ﹄ を参考に当該期の歴代を図にした。 一 方 ﹁ 出 家 衆 帳 ﹂ か ら は 以 下 の 一 一 一 件 の 記 述 が 確 認 で き た 。 ﹁
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寛永三年六月廿二日 ︵ 一 六 一 二 五 ︶ ︵ 二 月 ︶ ﹁O
寛 永 十 弐 年 極 月 一 一 一 日 ﹁O
慶安元年六月廿八日 津彰見寺弟子也 、 水 讃 十 四 歳 ﹂ 津彰見寺弟 座 入 文 可 十 八 歳 ﹂ 津正見寺弟子 長 有 十 三 歳 ﹂ 寛永三年︵一六二六︶にみえる永讃は、同じ音の栄讃のことだろう。また、寛永十二年︵一六三五︶にみえる文 可の事例は、十八歳と年齢も高く﹁座入﹂と記されており、本山での地位を得た例である。系譜からは、丈可にあ たる適当な人物がみあたらないが、あるいは元和四年︵一六一八︶生の平三郎であろうか。一方、慶安元年︵一六 の長有は寛永十三年︵一六三六︶生の普門と年齢が合致する。名は異なるが、同一人物と考えてよいのでは 四 八 ︶ な か ろ う か 。 名が異なる点については、同じく津市内に存在する教円寺と善行寺の例をあげて更に考えてみよう。現在津市阿 漕町にある教円寺は﹁出家衆帳﹂に次のように記される。 ︵ 寛 永 ︶ ︵ 一 六 二 八 ︶ ︵ 十 二 月 ︶ ﹁ 一O
同五年極月廿日座入素絹着、周法廿歳﹂ ︵ 慶 安 ︶ ︵ 一 六 四 八 ︶ ﹁O
同元年十一月廿五日岩田周法弟子、玄察十三歳﹂ ﹃津巾史﹂では西国から来た周法法師が岩田に一寺を建立したという由緒を紹介しており、﹁出家衆帳﹂の人物名 と合致する。また、現在津市栗真小川にある善行寺は、﹁出家衆帳﹂に次のように記される。 ︵ 慶 安 ︶ ︵ 一 六 五 一 ︶ ﹁O
同五年八月九日小川村善勝、四十三歳、座入︵花押︶﹂ ﹃高田の寺々﹄には中興を善性とする由緒が掲載されている。文字こそ異なるものの、名の音は合致しており、 善勝のことをさすとみて間違いあるまい。これら二つの例はともに伝承と一致しているが、注目すべきはともに年 近世初期における高田派の教団形成 七近世初期における高田派の教団形成 七 四 齢が高い点である。十三歳前後の名前をそのまま使い続ける人物が少なかったことが、名前が合致しない主要因と 想定されるのである。 本章では、﹁出家衆帳﹂が寺の相続予定者を中心に圭一回かれた史料と想定できることを明らかにしてきた。また、 以下の三点の理由で﹁出家衆帳﹂の記載が寺伝や由緒と異なる名や年齢が多いと想定されることも明らかにした。 一つは、出家年齢を
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一一一歳とする本山の規程により、年齢の恋意的な操作が行われた可能性がある点である。二つ は、当初予定されていた人物と異なる人物により、寺院が継承された場合である。三つは、l
二 一 歳 の 時 の 名 前 を 一 生使い続ける場合が少なかったと想定される点である。 これらを踏まえて活用したならば、﹁出家衆帳﹂は近世初期の高田派の様相を末寺も含めて理解できる重要な史 料となり、末寺の由緒をより深く考察することも可能となろう。二、近世初期の高田派
末寺の分布 本章では﹁出家衆帳﹂から読み取れる、古岡田派の分布について検討したい。不明の一件を除き、殆どの寺院の所 在地を比定し、旧国・群別に数量をあらわしたものが表ーである。同一の寺が何度も登場する場合も含めて、すべ ての数を合計した。また、重複を除いて計算した数値は、︵ ︶を付けて表記している。 表ーからは、伊勢国の割合の高さが一目瞭然となる。また、表 2 は伊勢国内の旧郡を北から順にならべたもので あるが、本山のある益芸郡や、専修寺と密接な関係を築いている藤堂家の拠点である安濃郡など、現在の津市・鈴鹿市周辺を中心とした分布がうかがえる。三重郡も四
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を数えるが、現在の四日市周辺は高田派中興とされる真恵 が最初に教化した土地故だろう。一方桑名郡や朝明郡は梅めて少なく、員弁郡に至っては皆無である。この地域に は多数の本願寺派寺院が存在してる故だろうか。また、現在の松阪市・伊勢市を中心とした地域である飯高郡・飯 野郡・度会郡の数は非常に少ない。この地域には現在の伊勢市を中心に多数の浄土宗寺院が存在していたことと関 連 が あ る か も し れ な い 。 なお、集落別でみると、本山のある一身田、藤堂家の城下町津が続く。 「出家衆帳」からみた国別高田派の分布 奥陸 蔵武 駿 尾 i美農 越 近 山 志摩 伊賀 伊勢 国 名 i可 I可 張 前 江 城 国 国 国 国 国 国 国 国 国 国 国 国 五 ム 五 四 四 ノ 、 左,4、 四 ( ( ( ( ( ( 四 ) ) ) ) 四 ) 七 ) ) ) ) 七 計 四 表1 近世初期における高田派の教団形成 一身田寺内に、現在よりも多くの寺院が 存在していたことがわかる。2
他の時代との比較 表 1 ・2
の数値を他の時代と比較してみよう。 戦国期の寺院分布に関する史料としては、﹁坂本番帳案﹂が知られている。 真恵が近江田坂本の妙林院に本拠を置いていた時期の当番表であり、月別に十 七の有力末寺が編成されている。平松令三氏が寺号を比定し国別の数を割り出 ︵ 8 ︶ しているので、次に掲げよう。 三 河 国 ︵ 二 ヶ 寺 ︶ 明限寺︵妙源寺︶、満性寺 折立北坊称名寺、勝霊寺、宙寸西寺、専福寺、円福寺 越 前 回 ︵ 十 ヶ 寺 ︶ 伊勢圏全子寺︶ ︵本流院︶、専光寺、加戸西坊︵常楽寺︶、聖徳寺、折 立南坊︵黒目称名寺︶、法光寺 如来寺、太子堂︵津上宮寺︶、黒田太子堂︵浄光寺︶ 七 五近世初期における高田派の教団形成 一 七 六 「出家衆帳
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からみた伊勢国内郡別の高田派分布一
不 度 ぷ i二三、 飯 飯 安 i農 惹 鈴鹿 J可 朝 桑名 |日 野 高 志 土ゴヨ日ニ「 曲 重 明 郡 明 郡 日君 郡 郡 郡 郡 郡 郡 郡 郡 郡 名一
九 ム 四 九 ノ、 七 ム 七。。
左6" ノ、 ( ( ( ( ( 一 ( ( 四 四 計 四。
九 五 ) ) : 不 丸回 朝 松坂 藤方野矢 i掌 一 白 御寺内 落 関 北 一 楠 東富 桑 明 田 中 塚二 針 三 長 J¥ 名 カ 九 一 八。
太 tlJ 田 保別磯ご身 亀 四 本 浜 五 .IR肥 雲 キナ 手日山 一 回 音 日 情 出 王 一 山 田 国 三 北 七 福 茂 田 長 回 二 峯 太 松 塩 ( 凸E口日 木 所家 (端稲生 四 |)| ( 浜 丹 生 造 自奇 カ!
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表2 尾 張 国 ︵ 一 ヶ 寺 ︶ 崇願寺 加賀国 惣門徒 ここからは、北陸が軸となっている教団の姿がみえてくる。加賀国惣門徒や越前の専西寺など現在に続いていない集 団 や 寺 の 存 在 も 確 認 で き る 。 次に近代以降の寺院数を、文部省宗教局による大正十一年︵一九二三︶ ︵ 9 ︶ の 調 査 に よ っ て 、 確 認 し て お き た い 。 北海道九、東京一八、京都九、大阪一、神奈川四、長崎二、新潟一
O
、 茨 木 一 二 、 栃 木 六 、 三 重 四 一 一 、 愛 知 六 七、静岡一八、滋賀二、岐阜七、長野一、福島八、福井五一、和歌山一 ここからは、三重を中心とした現在の教団の姿が確認できる。福井より愛知の方が数が多いが、﹁出家衆帳﹂でも 尾張と三河を合計すると越前とほぼ同じ数である。これらの寺院分布を併せて考えると、概ね近世前期には現在の 教団に近い形ができあがっていたと考えてよいだろう。 3 高田派分裂の様相 では、﹁出家衆帳﹂から、所謂高田派の分裂が如何に読み取れるかを考えてみよう。 高田派の﹁分裂﹂とは、中興の真恵︵一四三四1
一 五 二 一 ︶ の没後、応真︵一四九0
1
一 五 三 七 ︶ 、 真 智 ︵ 一 五O
四1
一 五 八 五 ︶ の二派に分かれ、前者は一身田を本拠とし、後者は越前を本拠として争ったものである。後者は 真智の後、真空︵一五四01
一 五 八 六 ︶ 、 真 能 ︵ 一 五 六 二1
一 六 一 七 ︶ 、 真 教 ︵ 一 五 九 四1
一六六七︶と続き、三河 永 十 一 年 ︵ 一 六 三 四 ︶ ・ 寛 文 三 年 ︵ 一 ム ハ 六 一 二 ︶ と 一 身 田 と 争 い 幕 府 の 裁 定 が お り 、 の門徒と連携し、朝廷や幕府、各地の権力者にその正統性を主張して勢力を維持した。江戸期に入ってからは、寛 一 身 団 側 の 勝 利 と な っ た 。 な お 、 真 智 派 と な っ て い た 寺 院 は 越 前 ・ 二 一 、 河 の 門 末 支 配 を 一 身 田 の 専 修 寺 に 対 し て 認 め た 、 慶 長 十 六 年 ︵ 一 六 一 二十一月九日付後水尾天皇繍旨に明白である。すなわち、﹁諸国之末寺諸門徒事、任論旨如往古不可有相違、 別而越前国勝慢寺・専光寺・西光寺・専西寺・一二河国明眼寺可有進退之由﹂と記され、諸国の末寺諸国の門徒、特 に 越 前 回 勝 重 寺 を は じ め と す る 寺 々 の 支 配 を − 認 め て い る 。 つまり当時これらの寺の帰属が問題となっていたのであ 近世初期における高田派の教団形成 七 七近世初期における高田派の教団形成 七
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る。これらの寺は、先の﹁坂本番帳案﹂でその名が確認できるように、もともとは真恵の教団を支える重要な存在 で あ っ た 。 では一身団側にたっていた寺院を確認してみたい。この点は、従来不明確であったが﹁出家衆帳﹂の分析によっ て 明 確 に 把 握 で き る 。 こ こ で は 、 特 に 越 前 と 二 一 河 の 状 況 を 示 そ う 。 越前については、法光寺︵福井市栃泉︶、仙福寺︵同足羽︶、勝林寺︵同小幡︶、称名寺︵三国町黒目︶、円光寺 ︵ 同 梶 ︶ 、 称 名 寺 ︵ 美 山 町 折 立 ︶ 、 正 林 坊 ︵ 同 西 天 国 ︶ 、 聖 徳 寺 ︵ 問 、 河 内 ︶ 、 専 福 寺 ︵ 大 野 市 友 兼 ︶ 、 安 養 院 ︵ 芦 原 町 ︶ などが﹁出家衆帳﹂に登場する。この内、法光寺は永禄頃から一身固と越前を取り次いでいた有力寺院である。ま た、安養院は﹁坂本番帳案﹂に登場する専光寺の後身である。専光寺は慶長十三年︵一六O
九︶以降松樹院らが管 轄し、安養院と名を変えたのであった。 また、一身団側への帰参の様子も﹁出家衆帳﹂から明らかとなる。 ︵ 一 六 五 六 ︶ ﹁ 明 暦 仁 年 申 四 月 十 一 日 ︵ 明 暦 ︶ ︵ 一 六 五 八 ︶ ﹁ 同 四 年 戊 八 月 廿 二 日 越前園田中西光寺 帰 参 老 座 ﹂ 越前風尾勝量寺弟子 という記事があり、もともと西光寺・勝童寺が越前側として行動しており、後一身田側に帰参したことがわかる。 得 度 十 七 歳 式 部 卿 ︵ 花 押 ︶ ﹂ なお、同じく﹁坂本番帳案﹂に登場する専西寺は、﹁出家衆帳﹂には遂に登場しなかった。寛永十二年︵一六O
八 ︶ 仏光寺派に転派し、西応寺と名を変え現在は大野市今井に存立している。i
可 イ コ て は 万 治 年 万ぉ全 性経《 寺きと三 隠 N居は
iヰ 出 家 衆 帳 豆去に 主乙 場 す る ﹁O
六十四歳 岡 崎 子 年 改 ル 正定院O
四十二歳 岡崎万性寺弟子 円侍O
五 十 歳 田原西光寺O
四十七歳 赤 津 万 徳 寺 右 ニ 有 ル 宮 内 卿 師 匠O
三十三歳 吉 田 聖 眼 寺 右五人者老分座也、万泊三子年三月十四日歳ヲ改ル手形有り﹂ とあり、この年に帰参したことが理解できる。また、妙源寺などはここには登場しておらず、最後まで越前側とし て行動したか、独自路線を保っていたと想定できる。独自路線と記したが、妙源寺は数々の宝物を有することから も明らかな様に、その由緒は比類ないものである。高田派の﹁分裂﹂とは、この様なそもそも独立性の高い門末の 集 団 を 、 一つに束ねていく過程で生じた現象である。例えば、伊勢国安濃津で一番の由緒を誇る上宮寺は一身田側 についたものの、応真側の書状だけではなく、真智側の書状や真智側が推奨した宝物が残っていたようで、両派と ︵ 日 ︶ もにつながりを保っていた様子が確認できる。しかしながら、 一身団側から弾圧を受けた痕跡は全くうかがえない。 高田派末寺が﹁分裂﹂したというよりも、重要な由緒を大切に伝えてきた親鷲の門弟の末商が一身田を軸に再結 集していく過程とはいえまいか。高田派の﹁分裂﹂は、負の側面として捉えるよりも、各門末が独自に蓄積してい た中世以来の複雑かつ深い由緒故の出来事と捉えた方がよいかもしれない。本章では三河・越前ともに﹁分裂﹂し ており、最後まで一身回に帰参しなかった門末の存在まで確認できた。しかし、越前の例で明白なように、かなり 早い段階から多くの門末が一身田側に結集していたこともまた事実である。現在の高田派の原型は、既にこの時期 完成していたといってよかろう。あるいは、現在に通じる教団の姿を、本山自身が明確にしていった過程が﹁出家 衆帳﹂にあらわれているともいえよう。 近世初期における高田派の教団形成 七 九近世初期における高田派の教団形成 }
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義
記載の開始 それぞれの由緒を誇る門末と、それに由来する重い伝統。しかし、それでも門末は一身田に結集していった。そ こには、様々な要因が想定できる。一つは天正期に獲得した本願寺にならぶ格|門跡ーであり、 ︵ 凶 ︶ 関係の有効利用であろう。しかし、それと同時に本山が門末を取り込んでいくための具体的な派内の政策が必要で ある。それこそが、﹁出家衆帳﹂成立だったのではないか。ここでは、﹁出家衆帳﹂こそが一身回への結集を促す取 一 つ は 諸 権 力 と の り組みであり、当時の専修寺門跡莞秀によってなされたことを明らかにしたい。そこで考えておかねばならないの が、﹁出家衆帳﹂の記載がなぜ元和に開始され、なぜ寛文に終了するのかという問題である。まずは記載の開始に つ い て 考 え て み た い 。 記載の冒頭には﹁従元和元年十三歳ニ落髪スルヲ為本意、聡十一一一ヨリ内、亦十四ニテ致落愛候共、後ノ十三ヲ以 テ可上座者也、如件﹂と、元和元年︵一六一五︶から十三歳で落髪という規程が制定された旨が記される。十三歳 という歳で区切るこの規程により、本山が末寺坊主をより容易に把握できるようになっただろう。また、十三歳未 満であろうが、十四歳以上であろうが、十三歳で出家したものを上座とするという座次の規程も記されており、こ の点がもともと暖昧だったことも想定される。 この様な規定が元和元年にできた意味は大きい。しかし、﹁出家衆帳﹂の筆跡をみてみると、この帳面が元和元 年当時に書き始められていないことに気付く。写真 1 ・2
に示した様に、元和元年からから同六年︵一六二O
︶ ま近世初期における高田派の教団形成 ではほぼ同一の筆跡である。また、 写真1 一件ごとに合点が付されて いる。すなわち、元和六年︵一六二
O
︶頃別の史料から書き写 して洩れがないかチェックし、確認したと考えられる。よって、 本山の人聞が筆記したと想定されよう。確かに、他の専修寺文 書と比較すると寺侍の筆跡とよく似ている。 元和六年以降は多数の筆跡が確認できる。﹁出家衆帳﹂は元 和六年出家者の台帳として成立し、実際に書き足し書き足し使 用されていったのだろう。更に、寛、水十年︵一六三一二︶頃から 九 は ) 花 十 押 月 をか 据
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に 安 7牛 二 つ 年 た ( 」 , ノ 、 の 四 頃には、出家者各自がこの台帳に署名する様になっていたので 写真2 ある。これにより、本山に帰属する意識が高められたことは想 像に難くない。元和元年︵一六一五︶に制定された出家者の規 定は元和六年の﹁出家衆帳﹂成立とともに本格的に運用され、 更にその運用が充実していったのである。 記載が実質的に始まった元和六年という年は、奏秀が専修寺 門跡を継いだ翌年である。書秀継職時には﹁今度袈裟之儀、各 訴訟ニ付、御門跡様より御免被成﹂と袈裟の訴訟が起こったり している。同時期に﹁越前惣坊主中判形牡ニ付て、我等も惣劇 1へ
近世初期における高田派の教団形成 人 ニ付﹂と理由はよくわからないものの越前でも騒動が勃発し ている。莞秀の継職は前途多難なものだった。この様な状況 下で、末寺坊主の座次の整理を伴う様な政策ーーー十三歳での 写真3 出家の励行と管理||すなわち﹁出家衆帳﹂が整備されたの だ ろ う 。 2 記載の終罵 ﹁出家衆帳﹂の記載は次第に整えられ、写真
3
右側に示し 下に、それぞれが花押を据える形式に変化した。そして、この帳面は寛文元年︵一六六ごに終了する。写真3
左 た様に同一人物の筆で記された年月日・末寺功主名・年齢の 側に﹁右之次第今度ノ本帳ニ書記畢﹂﹁寛文元年七月廿八日﹂と、奥書が記される。寛文元年に内容が﹁今度ノ本 帳﹂すなわち新しい別の帳面に転記され、﹁出家衆帳﹂はその役目を終えた。﹁出家衆帳﹂に記された全項目には、 す べ てO
印が付されている。これは、寛文元年の﹁本帳﹂転記の際に記載の洩れがないか確認した印と考えられる。 なお、残念ながら﹁本帳﹂は専修寺に現存しないようである。﹁出家衆帳﹂と同様の帳面が成立し、元和元年︵一 六 一 五 ︶ からの記載がそのまま転記されたのだから、﹁出家衆帳﹂終罵の年寛文元年に大きな意味をもたせること は、なかなか難しいだろう。﹁出家衆帳﹂のシステムはその後も何らかの形で存続したと想定できる。 しかし、役目を終えたはずの﹁出家衆帳﹂は現存し、﹁本帳﹂は今のところ確認できない。それゆえ、この帳簿 がなぜ残ったのかという意味を考える必要があろう。この帳簿が、近世初期の高田派教団の形成を如実に示してい ることを考えると、後の本末関係や直参関係の確認に役立てられたことは想像に難くない。また、対外的にこの史料が新寺建立禁止令などにより、寺院の由緒の証拠書類となった可能性もあろう。 浄土真宗には本末帳が存在しないという指摘が従来からなされている。しかし、ないからとそ自律的な統制や自 律的な結合を保ち得る論理や仕組みがあったと、逆に考えられるのである。その自律性を保つ仕組みの一つが、こ の出家衆帳なのではないか。同時期に、本願寺派では﹁木仏之留﹂が、大谷派では﹁申物帳﹂が成立する。本願寺 系統の本山が寺への宝物下付を記録したのに対し、専修寺では出家した人を記録していった。専修寺が、人を記録 するのに適した規模だったといえよう。また、この点は専修寺の特質といってもよいかもしれない。 三章では﹁出家衆帳﹂の中から見いだせる﹁分裂﹂の危機回避や近世高田派教団の確立が、門跡奏秀の継職と密 接な関連をもっていた点を確認した。完秀とともに始まった﹁出家衆帳﹂は、寛文元年︵一六六ごに記載を終え る。その後も別の帳面で記載は続けられたが、残るのはこの一冊のみという。これは、嘉秀の時期が高田派にとっ ての画期であった傍証といえよう。それゆえ、﹁出家衆帳﹂が後の世まで大切に保管されてきたのではなかろうか。 ﹁出家衆帳﹂は、完秀の求心力のあらわれであり、高田派の自律的な結合のあらわれであり、近世高田派教団形成 の あ ら わ れ な の で あ っ 一 た 。 なお、奏秀に関しては、教学面、本山寺内の再形成といった事蹟が既に知られている。明暦一二年︵一六五七︶九 月、莞秀は﹁御室百﹂四冊を開版しており、そこには本願寺による﹁御丈﹂開版への対抗を読み取れることができる ︵ 却 ︶ ︵ 幻 ︶ という。また、真恵以来の一身田寺内を現在の姿に拡張整備したのも莞秀である。完秀の時期を一つの画期とみて、 教学面、拠点の基盤整備、末寺の整備などの事象と﹁出家衆帳﹂からみえるものを総合的に位置づけていく必要が あ ろ 、 つ 。 近世初期における高田派の教団形成 J¥
近 世 初 期 に お け る 高 田 派 の 教 団 形 成 人 四
おわりに||﹁出家衆帳﹂
の位置づけ
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ここまで、﹁出家衆帳﹂が近世高田派教団の形成過程を知実に示す史料であること、﹁出家衆帳﹂成立の裏には嘉 秀継職がありこの時期が一つの画期であることを確認してきた。教学面、宗教都市の形成の面、そして今回明らか にした教団形成の面それぞれを踏まえて、莞秀のなした行為を今後総合的に考察していく必要があろう。また、各 末寺の考察にも﹁出家衆帳﹂を積極的に活用していきたい。 なお、﹁出家衆帳﹂成立は高田派内の問題としてではなく、真宗教団全体の中で位置づける必要があろう。同時 期に本願寺は分裂し、東本願寺、西本願寺としてまとまり明確な姿をみせる。ともに規模は専修寺を逼かに越える。 ︵ お ︶ これらの動向は必ずや奏秀の念頭にあり、相当の緊張感をもって専修寺運営にあたったはずである。これを史料に よって確認することは困難なものの、﹁出家衆帳﹂という帳簿を使用し、高田派の姿を明確にした行動はその様な 緊張感の中でなされたのではなかろうか。この点を踏まえつつ、今後も検討を続けていきたいと思う。 註 ︵ l ︶ ︵ 2 ︶ ︵3 ︶ ︵4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵8 ︶ 拙 稿 ﹁ 大 坂 退 去 か ら み た 織 豊 期 本 願 寺 教 団 の 構 造 ﹂ ︵ ﹃ ヒ ス ト リ ア ﹄ 一 一 一 八 、 ﹁ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 四 ︵ 同 朋 舎 出 版 、 一 九 八 二 年 ︶ 0 拙 稿 ﹁ 中 世 安 濃 津 以 来 の 高 田 派 寺 院 ﹂ ︵ ﹃ 高 田 学 報 ﹄ 九 八 、 ﹁ 目 、 水 山 興 正 寺 史 ﹄ ︵ 一 九 八 二 年 ︶ 五 七 、 七 七 頁 参 照 。 ﹃ 彰 見 寺 誌 ﹄ ︵ 一 九 九 五 年 ︶ 五 四 1 五 八 頁 参 照 。 ﹁ 津 市 史 ﹄ 五 ︵ 一 九 六 九 年 ︶ 四 四 01 四 四 一 頁 。 ﹁ 高 田 の 寺 々 ﹂ ︵ 一 九 八 O 年 ︶ 九 頁 。 ﹁ 坂 本 番 帳 案 ﹂ ︵ ﹁ 専 修 寺 文 書 ﹂ 四 九 、 二 OO 八 年 ︶ 0 二 O一
O 年 ︶ 0 ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 四 、 前 掲 所 収 ︶ 、 平 松 令 三 ﹁ 真 宗 史 論 孜 ﹄ ︵ 同 朋 舎 出 版 、︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ ︵ 臼 ︶︵日︶ ︵ 凶 ︶︵日︶ 九 八 八 年 ︶ 。 ﹃ 宗 教 制 度 調 査 資 料 ﹄ 第 一 八 輯 ︵ ﹃ 明 治 百 年 史 叢 書 宗 教 制 度 調 査 資 料 ﹄ 7 、 原 書 一 房 、 ﹃ 専 修 寺 史 要 ﹂ ︵ 一 九 二 半 ﹄ ︶ 八 O 頁 参 照 。 ﹁ 専 修 寺 文 書 ﹂ 一 一 三 五 号 ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 四 、 前 掲 所 収 ︶ 0 ﹁ 専 修 寺 文 書 ﹂ 一 七 四 1 一 八 一 号 ︵ ﹁ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 四 、 前 掲 所 収 ︶ 0 ﹁ 安 養 院 文 書 解 題 ﹂ ︵ ﹃ 福 井 県 史 ﹄ 資 料 編 四 、 一 九 八 四 年 所 収 ︶ 四 O 六 頁 。 ﹁ 近 江 ・ 若 狭 ・ 越 前 寺 院 神 社 大 事 典 ﹄ ︵ 平 凡 社 、 一 九 七 七 年 ︶ 参 照 。 拙稿﹁中世安濃津以来の高田派寺院﹂︵前掲︶、拙稿﹁伊勢国安濃津における真宗寺院の消長﹂︵﹁親驚の水脈﹄四、 二 O O 八 年 ︶ 0 常盤井和子﹃顕彰晃朝上人﹄︵一九九五年︶参照。 元和五年十月十六日付勢州南北出家衆中宛起請文︵﹁専修寺文書﹂二四六、﹁真宗史料集成﹂四、前掲所収︶ 0 元和五年十月十六日付聖徳寺真空起請文︵﹁専修寺文書﹂二四七、﹁真宗史料集成﹄四、前掲所収︶ 0 柏田善雄﹃幕藩権力と寺院・門跡﹄︵思文閣出版、二 O O 二 一 年 ︶ 参 照 。 早 島 有 毅 ﹁ 解 説 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 六 、 同 朋 舎 出 版 、 一 九 八 三 年 ︶ 0 平松令三﹁寺内町一身回﹂︵﹃中世の風景を読む第三巻境界と都に生きる人々﹂新人物往来社、一九九五年︶。 平松令一二﹁桑秀・嘉円両上人の御事跡とその背景﹂︵﹁高田学報﹄五六、一九九六年︶など当該期の先行研究と、 今回の結果を突き合わせることも今後の課題である。 この点は常盤井和子﹁顕彰莞朝上人﹄︵前掲︶参照。 一 九 七 七 年 所 収 ︶ 。 ︵ 日 ︶︵口︶ ︵ 凶 ︶︵凹︶ ︵ 却 ︶︵幻︶ ︵ 辺 ︶ 23 近 世 初 期 に お け る 高 田 派 の 教 団 形 成 一 八 五