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真宗研究46号 012藤谷信道「仏光寺の名張・絵系図について――特に物語信心説を中心に――」

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悌光寺の名帳・絵系図について

||特に物取り信心説を中心に||

悌 光 寺 派 藤 一 ノ弘、 ’口’

名帳・絵系図を異端とする考えは、覚如から始まった。覚知は﹃改邪紗﹂で、名帳序題︵序文︶には﹁そこに名前 を記せば、その場で往生が約束される﹂と書かれているそうだが、それはとんでもない異義だと批判した。以来今日 まで悌光寺異端説は消えることなく続いてきた。但し、その異端説はあくまでも学者や僧侶聞のことであった。 ところが、昭和三十八年に笠原一男氏が、人物叢書﹃蓮如﹂︵吉川弘文館︶において従来の異端説をさらに曲解し、 ︵ 1 ︶ 名帳・絵系図は物取り信心の異端であったという新異端説を唱えた。この新異端説は、新聞・雑誌などのマスコミや、 ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ 五木寛之氏などの作家、さらには真宗教学者などが好んで取り上げ、悌光寺は名帳・絵系図によって金儲けをしてい た、或いは日本における免罪符であったなどとして、想像たくましく紹介した。このため、名帳・絵系図は一層ひど く誤解され、しかも一般にも広く知られるようになった。 本研究では、名帳・絵系図を異端とする考えは間違いであり、特に笠原氏の物取り信心説が、如何に根拠のない、

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確信犯的な作為であったかを明らかにする。 尚、笠原氏には平成九年三月に書面で、悌光寺記述の訂正を求めたが、笠原氏からは、吉川弘文館を通じて、次の ようなコメントが送られてきた。﹁あれは三十四年も昔の物ですね。すっかり忘れてしまいました。あの本に関して は、ずっと昔に現役を退いており、予備役の私、言わば死人同様な私に発言の資格も力もありません:::﹂。しかし、 笠原氏は平成八年に講談社から同学術文庫﹁蓮知﹄、九年には同﹃親鷲﹄を出版している。

二、悌光寺異端説

ー、名帳・絵系図の分類 先ず、名帳・絵系図について簡単に説明しておこう。名帳・絵系図は左記のように分類することができる。 −念仏名帳

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− − :

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− − : : ・ ﹃ 一 向 専 修 念 仏 名 帳 ﹄ ︵ 序 文 有 り 、 名 簿 型 、 筆 頭 ・ 序 文 中 に 法 然 聖 人 ︶

1

名 帳 上 一 一

1

1

傍 光 寺 型 : : : ・ ﹁ 親 驚 聖 人 惣 御 門 弟 等 交 名 ﹄ ︵ 序 文 無 し 、 系 図 型 、 筆 頭 ・ 法 然 聖 人 ︶ 一 ﹁ 交 名 帳

i

一 ﹁ 注 進 型 : j i − − ﹃ 親 鷲 聖 人 門 弟 等 交 名 ﹄ ︵ 序 文 無 し 、 系 図 型 、 筆 頭 ・ 親 驚 聖 人 ︶ ﹁絵系図

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− − :

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− − −

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・ −

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− − : ・ ﹃ 一 流 相 承 系 図 ﹄ ︵ 序 文 有 り 、 系 図 型 、 筆 頭 ・ 序 文 中 に 親 驚 聖 人 ︶ ①、念仏名帳:・正式名を﹃一向専修念仏名帳﹄と言い、昭和初期に近江の深光寺にて序文のみの一紙が発見され、 その約三十年後に紀州の西円寺にて、序文の後に交名部︵名前を書き連ねた部分︶が続く完全な形の念仏名帳が発見 された。そこには道場坊主と坊守を筆頭に、続いて門徒が約百三十名俗名で書き連ねであった。 ②、交名帳・:﹁きょうみょうちょう﹂と呼ぴ、次第相承を明らかにした系図。これは序文を持たない。この交名帳 はさらに悌光寺型と注進型に分けることが出来る。注進型交名帳は、巻末に﹁右親驚上人門弟等交名大概注進如斯﹂ 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 七

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悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 七 の一文がある。おそらくそれは、親鷺の門弟関係を幕府へ注進した も の と 考 え ら れ る 。 一方、悌光寺型交名帳は、注進型交名帳を了源 がまねて再興したもので、両者の差異は殆どない。ただ、筆頭名が 注進型は親驚聖人、悌光寺型は法然聖人になっている。尚、これま では、両者を特に区別しないで﹁親鷲聖人門侶交名牒﹂と呼んでき た。また、例光寺では名帳と言えば、古くから交名帳のことであっ 絵系図(滋賀竜王光明寺本) た。現在、注進型が三本、例光寺型は六本知られている。 ③、絵系図:・交名帳に肖像画を描き加えたものが絵系図と理解す ればよい。絵系図は、最初に序文があり、続いて絵像部が続く。序 文の冒頭には﹁右親驚聖人ハ真宗ノ先達、・:予カ信知シタテマツル トコロノ相承ハ、真仏・源海・了海・誓海・明光、 コ レ ナ リ 、 コ コ ニ

OO

カノ明光ノオシヘヲ・:﹂とあり、親驚からの次第相承と表白 者の名︵ココニ

OO

、多くは了源︶が明らかにされている。絵像部 は、その筆頭に表白者とその妻︵坊守︶が画かれており、続いてそ の寺の住職と坊守、その後に門徒が続く。これが基本形である。室 町期以前の絵系図は十三本が知られている。 尚、絵系図は、特に初期のものほど、僧俗・男女・子どもがとも に同じ一紙に画かれており、 それは一種の商像画付き門徒団名簿 ︵寺族も含む︶と言えるものであった。時代が下がれば、寺絵系図

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︵住職相承系図︶と門徒絵系図︵入信者リスト︶とに別れ、さらにその後は、絵像の傍らに往生年月日を記入するよ うになり、過去帳化していった。因みに、滋賀県には現在もなお絵系図を続けている寺院が二・三存在する。

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、二つの異端説 悌光寺異端説には、旧来からの覚知による異端説と、それをさらに曲解した笠原氏の新異端説がある。 ①、旧来からの異端説:・建武四年︵一三三七年︶、覚如が﹃改邪紗﹄で名帳・絵系図を批判したことに始まる。覚 知は、名帳序題には﹁そこに名を記せばその場で往生が約束される﹂と書かれているが、それはとんでもない異端だ、 と非難した。それが本当なら、確かに真宗安心に反する邪義だが、実はよく読んでみると、覚如はそれを伝聞にもと つまり、﹁名前を記せば往生が約束される﹂と書かれているらしいが、それが本当ならとん づ い て 書 い て い た の だ 。 でもない異端だ、と。但し、その書き方が大変巧妙であったため、読む者はそれが事実だと思い込み、以来今日まで、 事あるごとに﹃改邪紗﹄が持ち出され、悌光寺異端説は消えることなく続いて来た。 ②、新異端説・:昭和三十八年に笠原一男氏が人物叢書﹁蓮如﹄︵吉川弘丈館︶の中で唱えたもので、名帳・絵系図 は物取り信心の異端であったとする説。この異端説は旧来からの異端説と区別する意味で新異端説と名づける。笠原 氏は、蓮知が御文で厳しく否定している物取り信心を、いかにも蓮如が悌光寺を厳しく非難しているが如くに書いた。 このため、それを読んだ人は、蓮如は名帳・絵系図を非難したのだと思い込み、名帳・絵系図は物取り信心の異端で あったと信じた。しかし、実際には、蓮如は悌光寺を一度も非難していないし、蓮如と了源では時代が約百三十年も 違 っ て い る 。 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 七

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悌光寺の名帳・絵系図について 七 四 異 端 説 の 略 年 譜 一 二 六 二 ︵ 弘 長 二 年 ︶ : ・ : : : : : : 親 驚 聖 人 入 滅 一 一 一 一 二 六 ︵ 嘉 暦 元 年 ︶ ・ : j i − − : : 絵 系 図 制 作 ︵ 了 源 三 二 歳 ︶ : ・ 尚 、 交 名 帳 の 制 作 は 絵 系 図 に 先 立 つ こ と 数 年 一 一 二 三 七 ︵ 建 武 四 年 ︶ −

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i

− − ・ : : 覚 如 ﹃ 改 邪 紗 ﹄ で 名 帳 と 絵 系 図 を 批 判 ・ : 悌 光 寺 異 端 説 の 始 ま り 。 一 四 二 二 ︵ 応 、 水 二 十 年 ︶ ・ ・ : : : : こ の 頃 の 例 光 寺 と 本 願 寺 の 様 子 : ・ ﹃ 本 福 寺 由 来 記 ﹂ 一 四 五 七 ︵ 長 禄 元 年 ︶ : : ・ : : : : 蓮 知 ︵ 四 一 二 歳 ︶ が 本 願 寺 第 八 代 に 一 四 六 八 ︵ 応 仁 二 年 ︶ : : : : : : ・ : 応 仁 の 乱 に て 悌 光 寺 焼 失 一 四 七 六 ︵ 文 明 八 年 ︶ : ・ ・ j i − − − 御 文 に 悌 光 寺 記 述 : ・ 悌 光 寺 を 擁 護 、 ﹁ 改 邪 紗 ﹄ 登 場 一 四 八 二 ︵ 文 明 十 四 年 ︶ ・ : : : : : 悌 光 寺 経 豪 ︵ 蓮 教 ︶ が 本 願 寺 へ : ・ 四 八 坊 中 四 二 坊 ︵ 悌 光 寺 記 述 ︶ 一 五 六 八 ︵ 永 禄 十 一 年 ︶ : : : : : ・ 顕 誓 ﹃ 反 古 裏 書 ﹂ ・ : ﹁ 自 義 骨 張 の た よ り : ・ ﹂ 一 六 九 八 ︵ 元 禄 十 一 年 ︶ : j i − − : 恵 空 ﹁ 叢 林 集 ﹂ ・ : ﹁ 百 数 十 年 来 各 異 義 を 構 え ・ : ﹂ 一 八

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年 頃 ︵ 江 戸 後 期 ︶ : : ・ : : こ の 時 期 よ り 特 に 大 谷 派 で ﹃ 改 邪 紗 ﹄ 講 義 盛 ん 、 講 録 多 数 有 り 。 一 八 一 一 一 一 ︵ 天 保 二 年 ︶ : : : ・ : : : : 信 暁 学 頭 ﹃ 改 邪 紗 会 通 返 破 ﹄ : ・ 悌 光 寺 最 初 の 反 論 の 書 一 九 一 四 ︵ 大 正 三 年 ︶ : : ・

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− − − 鷲 尾 教 導 氏 が ﹁ 絵 系 図 ﹂ 報 告 : ・ 近 代 の 名 帳 ・ 絵 系 図 研 究 始 ま る 一 九 一 一 一 一 ︵ 昭 和 六 年 ︶ : : ・ j i − − : 日 下 無 倫 氏 が ﹁ 念 仏 名 帳 ﹂ ︵ 序 文 の み の 一 紙 、 深 光 寺 本 ︶ 報 告 一 九 四 八 ︵ 昭 和 二 十 三 年 ︶ ・ : : : : 石 田 充 之 氏 が ﹁ 蓮 如 上 人 研 究 ﹂ ︵ 龍 谷 大 学 編 ︶ で 二 十 通 の 御 文 を 悌 光 寺 批 判 御 文 だ と 紹 介 : ・ 笠 原 氏 の 新 異 端 説 へ の 布 石 と な る 。 一 九 五 九 ︵ 昭 和 三 一 十 四 年 ︶ : : : ・ : 宮 崎 園 遵 氏 が 交 名 部 を 持 つ 念 仏 名 帳 報 告 ︵ 紀 州 西 円 寺 本 ︶ 一 九 六 三 一 ︵ 昭 和 三 十 八 年 ︶

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− − 笠 原 一 男 氏 人 物 叢 書 ﹁ 蓮 如 ﹄ で 名 帳 ・ 絵 系 図 が 物 取 り 信 心 で あ っ た と い う 新 異 端 説 を 唱 え る 。 一 九 九 四 ︵ 平 成 六 年 七 月 ︶

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− − 五 木 寛 之 氏 ﹁ 蓮 如 ﹂ ︵ 岩 波 新 書 ︶ で 笠 原 説 を 根 拠 に 悌 光 寺 異 端 説 を 展 開 。 一 九 九 五 ︵ 平 成 七 年 一 月 ︶ ・ : : : : 福 嶋 崇 雄 師 五 木 氏 へ 抗 議 の 手 紙 一 九 九 七 ︵ 平 成 九 年 一 一 一 月 ︶ j i − − − 藤 谷 が 笠 原 氏 に 抗 議 の 手 紙 一 九 九 九 ︵ 平 成 十 一 年 七 月 ︶ : : : 藤 谷 他 三 名 ﹃ 悌 光 寺 異 端 説 の 真 相 ﹄ 白 馬 社 よ り 出 版 二 000 ︵ 平 成 十 二 年 一 月 ︶ : : : 井 沢 元 彦 氏 ﹃ 週 刊 ポ ス ト ﹂ ﹁ 逆 説 の 日 本 史 ﹂ で 笠 原 説 を 根 拠 に 悌 光 寺 異 端 説 展 開 。 二 000 ︵ 平 成 十 二 年 一 月 ︶ : : : 悌 光 寺 本 山 よ り 井 沢 氏 に 抗 議

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三、旧来の異端説に対する反論

覚如の批判が事実かどうかは、実際に序題を読んで判断すればよい。名帳序題が何であるかについては二説ある。 絵系図序文説と念仏名帳序文説だ。それぞれについて検討する。 ー、絵系図序文説 昭和初期に念仏名帳が発見されるまでは、長い間、覚如の言う﹁名帳序題﹂とは絵系図序文のことだと考えられて きた。絵系図序文で問題になると思われる箇所は、 ﹁ シ カ レ ハ 、 名 字 ヲ ワ カ 門 徒 ﹁ 一 ツ ラ ネ テ 、 コトニ堅固ノ信心ヲサキトシテ、身命 ︵ 4 ︶ フカク仏法ニツカフルマコトヲハケマスヘシ﹂ コノ系図ニツラナルトモカラ、 ヲオシマサルコ、コロヲヌキイテ、 この序文の一体どこが問題なのだろうか。読めば何ら問題ないことは一目瞭然であろう。さらにそれを決定的にし ︵ 5 ︶ たのは、昭和五十六年の平松令三氏である。氏は、絵系図序文︵本山本と妙楽寺本︶の筆跡者を存覚であると断定し、 さらに文案の作成者も存覚だとしたからだ。 つまり、存覚が名帳・絵系図に深く関わっていたとなれば、異義である わ け が な か ろ う 。

2

、念仏名帳序文説 念仏名帳が発見されてからは、念仏名帳こそが覚知の言、っ﹁名帳序題﹂だとなった。このため今日では、名帳と言 えば念仏名帳を意味し、交名帳は忘れ去られた感がある。念仏名帳で問題になると思われる箇所を上げる。 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 一 七 五

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悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 一 七 六 ﹁ココニ和朝ノ高祖源空聖人ヨリコノカ夕、 モハラ一流ノ血脈ヲツタヘテ一宗ノ相伝ヲタツルアヒ夕、同心ノ行 者ヲモテコノ名帳ニノスルトコロナリ。シカレハコノ名帳ニツラナルヲモテ一念発起ノハシメトシ、 クハ、ルヲモテ一仏浄土ノ縁トセンカタメニ、 ソノ名ヲコノ帳ニノセテ、 ソ ノ 縁 ヲ カ ノ 土 期 ス lレ ト

ココ

ロ ノ ナ(相 リ旦承 」 ー ー これも何ら問題ないと思えるのだが、﹁名を記せば往生云々﹂の解釈については、賛否両論がある。否定派︵論︶ は、序文の主旨は決して往生云々を言ったものではないというもので、昭和五十七年の丹羽文雄氏、昭和六十二年の 神田千旦陀などに見られる。逆に肯定派は、昭和六年の日下無批即︵深光寺本のみにて判定︶、昭和六十三年の平松 令三氏などである。但し、肯定派には、どれも皆﹃改邪紗﹄の影響が強く見られる。例えば平松氏は﹁そのような当 時の風潮と考え合わせると ﹃ 改 邪 紗 ﹄ で非難されたような異端なものであった恐れは十分あったと考えざるを得な い﹂と述べている。従って、もし、﹃改邪紗﹄を見ず、純粋に念仏名帳序文だけから判断したとすれば、別の結果に なっていたのではなかろうか。 ①、それにしても、何故、念仏名帳序文が、﹁名前を記せば、その場で往生が約束される﹂と解釈されたのだろう か。考えてみれば不思議な話である。例えば、それがコ融通念仏縁起﹄の奥書にあるように、﹁・:奇特先縦と伝き、 給はむ道俗、彼念仏をうけ名帳に入給は\今生には一切の災難をはらひ、後生には必ず往生をとけ給はむこと、見 証右にのするか如し、:・﹂とあれば、それは確かに、﹁名前を記せば、その場で往生が約束される﹂と解釈できよう。 しかし、念仏名帳序文では、そのような解釈は無理というものだ。 ②、また、念仏名帳の創案者が了源だとして、了源はいやしくも親驚の流れを汲む人である。その人が、真宗にと って基本中の基本とも言える間違いをわざわざ序文に明記するだろうか。 ③、また、念仏名帳の創案者を、私は ﹃破邪顕正抄﹄との類似から、存覚であろうと考えているが、たとえ、それ がそうでなく、了源であったとしても、了源は存覚から親しく指導を受けた人である。 つまり、どちらにしても存覚

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が深く関わっていたのであるから、﹁名を記せば往生云々﹂の解釈は無理というものだ。 ④、覚如は﹁改邪紗﹄を、悌光寺憎しの思いから書いたのか、それとも、このままでは親驚の教えが歪んでしまう と思って書いたのかわからないが、ともかく、覚知の名帳批判は伝聞をもとにして書かれた形になっている。推測す るに、覚如は実際に名帳を見たが、そこに真宗安心に反するようなことは書かれていなかったから、このような伝聞 の形にしたのではなかろうか。 以上、①②③④の理由からしでも明らかなように、念仏名帳序文には、﹁名前を記せば、その場で往生が約束され る﹂などとは書かれていないのである。序文の主旨は、往生云々といった重い意味ではなく、﹁ともに念仏の道を歩 みましょう﹂﹁ともに極楽へ往生しましょう﹂と言った程度の意味に解すべきであろう。

四、新異端説の問題点

笠原一男氏は、名帳・絵系図が物取り信心であったとする新異端説を唱えたが、そこには多くの問題点がある。少 し長くなるが笠原氏の記述の一部を抜粋したので見て頂きたい。 [ 笠 原 氏 の 記 述 ] 仏光寺の主張する名帳・絵系図を支える論理は、抜きがたいまでに、広く深く、しかも永 く真宗諸派の坊主や門徒のなかに浸透していった。坊主が門徒に極楽往生を約束し、坊主が本尊であるという論 理は、門徒の獲得や統制の上に大きな役割を果しただけではなかった。 一歩をすすめると、そうした論理は、た だちに坊主による門徒の搾取の論理へとすりかえられていったのである。と同時に、門徒の不信心を助長する方 向にむかつたのである。すなわち、坊主の物取り信心 H 施物だのみがそれであり、門徒が坊主に物を捧げる信心 が そ れ で あ る 。 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 七 七

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働 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て ③ I l l 1 I l l i − − そうした異端の信仰について蓮如は、文明五年九月中旬の御文につぎのようにしるしている ⑮ I l l 1 1 l i l i − − 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ﹁・:ちかごろはこの方の念仏者の坊主たち、仏法の次第もてのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりもの 七 人 をとるをよき弟子といひ、これを信心のひと、いへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものを だにもおほくまひらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにて、たすかるべき様におもへり。これもあ やまりなり 0 ・ : ﹂ 文 明 五 年 九 月 中 旬 このように坊主たちは、自分にものを捧げる門徒は信心の有無にかかわらずよい弟子といい、それを信心の人 といっているのである。坊主がそうした態度をとるかぎり、門徒はますます多くの物を坊主に捧げようとするの である。門徒にしてみれば、坊主が往生与奪の権をにぎり、物さえ多く納めれば、自分の信心などたりなくても、 坊主の力で往生できるといわれれば、その道をえらぶのである。坊主たちにしてみれば、物取り信心は堕地獄の 異端であるといわれようとも、かれらが門徒からの志のうえに生活の物質的基礎をおいているかぎり、この収奪 の教説をそう簡単に放棄するわけにはいかなかった。名帳・絵系図の論理は、坊主からも、門徒からも歓迎され

I l l i − − − − − るだけの根拠が十分にあったのである。蓮如は、こうした異端を否定する御文をこのほかにも、文明三年七月十 六日・文明六年八月十日付けのものなど数々のこしている。 ︵ 人 物 叢 書 ﹃ 蓮 如 ﹂ 六 十 一 l 四 頁 ︶ ︿ す り 替 え ﹀ 右の記述は一見理路整然としているように見えるが、実は不思議なことがある。例えば、傍線⑮の ﹁この方の念仏者の坊主たち﹂とはどこの坊主だと思われるだろうか。実は、この坊主は本願寺の坊主であって、悌 光寺の坊主ではない。又、傍線@の﹁そうした異端﹂とはどのような異端だと思われるだろうか。我々は、全体の流 れから、当然それは名帳・絵系図のことだと思ってしまうが、そうではない。では、傍線。の﹁こうした異端﹂はど うだろう。これこそは、名帳・絵系図だと思うが、 やはり答えは違う。おそらく、この記述を読んだ人は誰もが、蓮 如は名帳・絵系図を非難したのだと錯覚し、又、名帳・絵系図は物取り信心であったと思い込むだろう。まさにこれ

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は 、 す り 替 え で あ る 。 ︿ 確 信 犯 ﹀ ﹁そうした異端﹂﹁こうした異端﹂の答えは、どうやら笠原氏に言わせれば、﹁名帳・絵系図﹂ではな く、﹁名帳・絵系図を支える論理﹂が正解であり、それはつまり﹁物取り信心﹂となるようだ。 そのことは、多少わかりにくいが、笠原氏の記述をよく読めばわかる。笠原氏は、﹁名帳・絵系図を支える論理﹂ ←﹁坊主が門徒に極楽往生を約束し、坊主が本尊であるという論理﹂←﹁坊、玉による門徒の搾取の論理﹂←﹁坊主の 物取り信心H施物だのみ﹂だと説明している。ともかく、﹁そうした異端﹂﹁こうした異端﹂の答えが﹁物取り信心﹂ だということになれば、蓮如は確かに物取り信心を批判しているから、右の記述は何ら問題ないということになる。 しかし、それでは通用しない。読者には、蓮知は名帳・絵系図を非難したのだ、と錯覚させておいて、その裏では、 もし読者からそれはおかしいと言われた場合に備えて﹁私は、蓮知は物取り信心を批判したと書いているのであって、 名帳・絵系図を批判したとは書いていない﹂などと弁解できるように、しっかりと逃げ道を確保していると疑われて も仕方なかろう。その意味で、まさにこれは確信犯と言えよう。 ︿ で っ ち 上 げ ﹀ 実は、ここでたとえ笠原氏の弁解が功を奏したとしても、次の記述が笠原氏を逃さない。笠原氏 は同じ本の中で、﹁蓮知による仏光寺系の異端の批判と攻撃は最も痛烈をきわめ、 つぎつぎに仏光寺派の勢力が切り 崩 さ れ て い っ た の で あ る ﹂ 0 ︵ 一 一 八 一 頁 ︶ と 明 記 し て い る か ら だ 。 事 実 、 人 物 叢 書 ﹁ 蓮 如 ﹄ の 記 述 は 、 一 貫 し て 、 蓮 如 は悌光寺を非難した、という流れで書かれている。しかし、蓮知が悌光寺を批判したという確かな根拠や史料を何も 示さないで、このようなことを言っても、それは、単なる思いつきか、 で っ ち 上 げ で し か な い こ と に な る 。 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て 七 九

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悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て J¥ 0

五、笠原氏の論理

ー、勧善懲悪的手法 何故、笠原氏のような一流の歴史学者がこのような馬鹿げたことをしたのだろうか。結論から言えば、そもそも ﹁善玉本願寺﹂対﹁悪玉傍光寺﹂の構図に間違いの元があったと言えよう。 笠原氏は﹃蓮如﹂を書くのに勧善懲悪的手法を用いた。先ず、正統本願寺に対して、本願寺以外の真宗諸派を異端 とした。本当はこれも問題であるが、それはさておく。その真宗諸派の中でも悌光寺を最も異端とした。そのことは 第四章の異端の繁栄によく現れている。第四章は五十二頁あるが、そのうちの七割を悌光寺に割いている。因みに、 越前三派︵誠照寺派、コ一門徒派、山元派︶は二割、高田派と木辺派は合わせて一割である。しかし、蓮如が御文で最 も厳しく非難している異端は、北陸においてである。北陸には当時、越前三派と高田派がもっとも勢力を伸ばしてい た。従って、本願寺に対する悪玉を選ぶなら、悌光寺よりはよほど越前三派と高田派を選ぶべきであった。 ただ、悪玉が仰光寺であれば、話としてはおもしろい。﹁悌光寺と本願寺は同じ京都にあったが、当初は悌光寺が 隆々と栄え、本願寺はきびきびとしていた。悌光寺の隆盛は了源が創案した名帳・絵系図によるものであった。覚如 はそれを異義として厳しく批判したが、功を奏さず、悌光寺の隆盛はその後も長く続いた。しかし、次に蓮如が出現 するや、悌光寺は衰退し、代わって本願寺が栄えた﹂。材料は揃っている。残るは、﹁善玉・本願寺蓮如﹂対﹁悪玉・ 悌光寺了源﹂の構図である。 ところが、事実は、蓮如は悌光寺を一度も非難していない。しかし、勧善懲悪話にするには、どうしても、蓮如に 悌光寺を非難してもらわねばならない。そのために考え出されたのが﹁物取り信心は名帳・絵系図が原因だ﹂とする

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笠原氏独自の論理︵仮説︶であったと考える。この論理をもってすれば、蓮如が御丈で非難する物取り信心︵施物だ のみ︶と、了源が創案した名帳・絵系図が見事に結びつき、さらには、蓮如に了源を非難させることも可能になる。 何故なら、蓮如は直接的には名帳・絵系図を非難していないが、しかし、もし本当に、物取り信心は名帳・絵系図が 原因で起こったとすれば、間接的には、蓮知は名帳・絵系図を非難したと言って言えないことはないからだ。そうな れば蓮如は間接的に了源を非難したことになり、悌光寺を非難したことになるからだ。 まさにこの論理は、笠原氏にとって、この上ない救世主︵好都合︶であった。但し、それが本当に救世主になるた めには、この論理が真実であることが絶対的条件だ。次にこの論理を吟味してみよう。

2

、笠原氏の論理

先ず、この論理が、どのようにして導き出されたかをみてみよう。先の [ 笠 原 氏 の 記 述 ] か ら 、 ④ ③ ② ① 悌光寺の名帳・絵系図は、広く深く真宗諸派の坊主や門徒の中に浸透していった 名帳・絵系図を支える論理は、坊主が門徒の往生与奪の権を握るというものである。 物取り信心を支える論理も、坊主が門徒の往生与奪の権を握るというものである。 従って、﹁物取り信心は名帳・絵系図が原因で真宗諸派に浸透した﹂。 と笠原氏が考えたことがわかる。さて、ここで結論④が成り立っためには、前提条件①②③がすべて﹁真﹂でなけ ればならない。個々について検討する。 悌光寺は真宗諸派に強く影響を及ぼしたというが、ここで重要なのは北陸である。と言うのは、 蓮知は、御文で物取り信心を厳しく非難しているが、それらの御丈はすべて北陸で出されたものである。従って、も し、悌光寺の教線が北陸に伸びていなかったら、名帳・絵系図は物取り信心に影響を及ぼしたくても及ぼせず、笠原 ︿ 前 提 条 件 ① ﹀ 側 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て J¥

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働 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て J¥ 氏の論理は物理的に成り立たないということになるからだ。 さて、笠原氏は、悌光寺の教線を﹁その教線は畿内は勿論、山陰・山陽・北陸・関東・奥州などの諸地方におよん だ﹂︵六一頁︶という。しかし、働光寺の教線でこれまで言われてきたものは﹁畿内、山陰、山陽﹂であって、北陸に ついては聞いたことがない。笠原氏が北陸を入れたいのなら、それなりの確かな根拠や史料を一不すのが史学者として 当然の行為ではないか。それをしないで黙って北陸を加えるなどは許されない。 先に論述したように、名帳序文には﹁そこに名前を記せば往生が約束される﹂などと書かれてい ︿ 前 提 条 件 ② ﹀ ないことは充分わかつて頂けたと思う。従って、それだけで前提条件②が﹁偽﹂であることは一言うまでもない。ただ、 ここでは、笠原氏の絵系図理解があまりにもひどいので、それを質しておく。 笠原氏は、絵系図には坊主の姿だけが描かれており︵五一頁参照︶、悌光寺はその絵系図を門徒に本尊として拝ませ ていた︵五人頁参照︶、と言う。しかし、実際に絵系図を見れば、坊主︵男性僧侶︶だけを画いたものは存在しない。 ︵ 日 ︶ 寺絵系図でさえも、坊守︵妻︶が一緒に画かれている。勿論、例光寺の本尊は当初より阿弥陀仏であった。 さらに証拠を示せば、あの覚如でさえも、絵像については﹁道俗男女の形体﹂と記述しているし、また、本尊に関 しでも、﹁諸人の形体を安置の条、これ渇仰のためか、これ恋慕のためか﹂と批判するのみで、それを本尊として持 んでいた、などとは批判していないのである。 前提条件③を完全に否定する御文がある。文明五年二月一日の御文だ。そこには、施物だのみ ︵物取り信心︶の有力門徒に、その寺の坊主が、﹁どうか他所の寺へ行って下さるな﹂と頭を下げて頼むなさけない 姿がえがかれである。詳しくは、笠原氏がその御文を引用し和訳までしているので参照すればよい︵一五五頁︶ O ︿ 前 提 条 件 ③ ﹀ ともかく、施物だのみを支える論理は、坊主の往生与奪の権よりは、よほど、門徒自身の善根思想からきていると 言えよう。神や仏に善いことをすれば善い結果が得られるという人間の不思議な真理である。

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以上、ともかく前提条件はどれもすべて﹁偽﹂であることがわかった。従って当然、論理④は成り立たない。 それにしても、前提条件が一一一っともすべて﹁偽﹂とは驚いた。如何にこの論理︵仮説︶が杜撰であるかということ だ。実は、前提条件を一々吟味するまでもなく、物取り信心は名帳・絵系図が原因ではない明らかな証拠がある﹃歎 異抄﹄だ。第十八章に﹁仏法のかたに施入物の多少にしたがいて、大小仏になると言うこと。この条、不可説なり﹂ とあるが、それはつまり、物取り信心︵施物だのみ︶は、親鷺在世中、 つまり名帳・絵系図制作以前から、このよう に大きな問題になるほど各地の門徒団に深く浸透していたということだ。なのに、それを名帳・絵系図の所為にする とは、とんでもない話なのである。

以上、名帳・絵系図が異義でないことを纏々述べてきた。勿論、だからと言って、末端の門徒や民衆のすべてが、 名張・絵系図を正しく理解していたと言うのではない。中には覚如の非難するような事実があったのかもしれない。 しかし、ここが大切なところであるが、たとえ、そのような事実があったとしても、そのことをもって名帳・絵系図 が異義だとは言えないのである。例えば、今日の真宗においても、寺への財施を施物だのみ的に考えている門徒や、 法事を先祖供養だと考えている門徒は結構いるものである。しかし、そのような門徒ゃ、そのような門徒を抱える末 寺があるからと言って、その本山を異端だと言う人がいるだろうか。名帳・絵系図もまったくこれと同じである。名 帳・絵系図の創案者や指導者が異義を指導していたのなら別であるが、そうでない以上、それは異義でも異端でもな い。事実、今日、名帳・絵系図の創案者や指導者が異義を指導していたのなら別であるが、そうでない以上、それは 異義でも異端でもない。事実、今日、名帳・絵系図を見る限り、そこに異義として非難されるべきものは何も見いだ 悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て J¥

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悌 光 寺 の 名 帳 ・ 絵 系 図 に つ い て J¥ 四 せ な い の で あ る 。 一方、笠原氏の新異端説︵物取り信心説︶については、既に詳述したように、それがあまりにもお粗末で話になら ないことは、十分理解して頂けたと思う。それにしても、名だたる人たちが、いとも簡単に笠原説を鵜呑みにしてし まうのには驚いてしまう。勿論、笠原氏は蓮知研究の第一人者と目される人であるから、その説を鵜呑みにして何ら 非難されるべきではないが、それにしてもである。少し考えれば、笠原説のおかしいことなどすぐに分かりそうなも のである。要するに、覚如の場合も同じだが、我々が権威と言われる人に対して知何に弱いかと言うことであろう。 ともかく、思考を停止させることの怖さを、この名帳・絵系図問題がよく教えてくれている。 さて、これまでは防戦一方であった名帳・絵系図であるが、実は、名帳・絵系図は単に異端でないというだけでは なく、本来はもっと高く評価されるべきものである。中世というあの時代、民衆にとって名帳・絵系図は、往生云々 以前に自分の名前や絵像がそこに記入されるという、ただそれだけで無上の喜びだったのではないか。特に、悌光寺 の名帳・絵系図は、同じ一紙に僧俗男女子供を皆平等に書き︵画き︶連ねてある。これは、当時としては画期的なこ とであって、その平等精神が当時の人々に感動をもたらし、こぞって真宗へ帰依させたのである。まさに、名帳・絵 系図こそが、親鴛の説く﹁御同朋御同行﹂精神を見事に具現した一つの模範的実践例であったと言えよう。 追 配 名帳・絵系図についてさらに詳しく知りたい方は、福嶋崇雄師・熊野恒陽氏・藤谷信道共著﹃悌光寺異端 説 の 真 相 ﹄ ︵ 白 馬 社 、 平 成 十 一 年 ︶ を 参 照 し て 下 さ い 。 註 ︵ 1 ︶ 京 都 新 開 夕 刊 ︵ 平 成 七 年 十 月 二 日 ︶ ﹁ 蓮 如 の 滝 ﹂ 幻 大 阪 新 聞 ︵ 平 成 七 年 十 月 十 三 日 ︶ ﹁ 大 阪 を 愛 し た 人 た ち 秘話蓮加﹂ 7

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南 御 堂 三 九 七 号 ︵ ︵ 平 成 七 年 九 月 一 日 ︶ 連 携 マ ン ガ ﹃ 蓮 加 さ ん ﹂ 6 松 原 泰 道 、 笠 原 一 男 、 松 林 宗 恵 各 氏 に よ る 鼎 談 ﹁ わ が 親 驚 わ が 蓮 加 ﹂ ﹃ プ レ ジ デ ン ト ﹂ ︵ 平 成 元 年 、 十 二 月 号 ︶ 五木寛之氏著﹃蓮知聖俗具有の人間像﹄︵平成六年七月、岩波新書︶五十八頁 百 瀬 明 治 氏 著 ﹃ 蓮 如 | 大 事 業 家 の 戦 略 ﹂ ︵ 平 成 七 年 七 月 、 清 流 出 版 ︶ 七 十 九 頁 井 沢 元 彦 氏 著 ﹃ 逆 説 の 日 本 史 ﹄ ︵ 平 成 十 二 年 十 二 月 、 小 学 館 ︶ 二 五 五 頁 ﹃ 蓬 茨 祖 運 選 集 ﹂ 第 七 巻 ︵ 平 成 五 年 五 月 文 栄 堂 書 店 ︶ 一 二 十 四 頁 大 谷 暢 順 氏 著 ﹁ ジ ヤ ン ヌ ・ ダ ル ク と 蓮 如 ﹄ ︵ 平 成 八 年 三 一 月 岩 波 新 書 ︶ 一 四 三 一 頁 普賢晃毒氏﹁親驚から蓮加へ﹂﹃蓮加のすべて﹂早島鏡正氏編︵平成七年、新人物往来社︶二十二頁 ︵ 4 ︶﹁真宗史料集成﹂第四巻六五九貰 ︵5 ︶﹁絵系図の成立について﹂﹃仏教史学研究﹄第二十四巻第一号︵昭和五十六年十月︶、﹁真宗史論孜﹂昭和六十三年 朋舎増補所収一一一一八頁 ︵ 6 ︶﹃真宗資料集成﹂第四巻五七六頁 ︵7 ︶丹羽文雄氏著﹃蓮如﹂第二巻︵昭和五十七年、中央公論社︶二七九頁 ︵8 ︶神田千里氏﹁仏光寺派の名帳と絵系図﹂﹃月刊百科﹂二九八号︵昭和六十二年、平凡社︶九頁 ︵9 ︶ 日 下 無 倫 氏 著 ﹃ 真 宗 史 の 研 究 ﹂ ︵ 昭 和 六 年 、 平 楽 寺 書 店 ︶ 一 一 一 一 頁 ︵日︶平松令三氏﹁総説

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絵 系 図 ﹂ ﹃ 真 宗 重 宝 来 英 ﹂ 第 十 巻 ︵ 昭 和 六 十 三 年 、 同 朋 金 口 ︶ 二 四 六 頁 ︵日︶拙著﹃悌光寺異端説の真相﹂︵平成十一年七月、白馬杜︶一八八頁﹁三一悌光寺の本尊と善知識﹂参照 ︵2 ︶ ︵ 3 ︶ 同 悌光寺の名帳・絵系図について 一 八 五

参照

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