︿仏教とキリスト教﹀
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対話的関心について
││研究序説││
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(要旨﹀︿仏教とキリスト教﹀(の比較研究、の対話、等)と題する著作群が、一九六0
年代頃から見いだされるようになって きた。︿仏教とキリスト教﹀(の対話、等﹀という表現は、特に二十世紀後半に顕著に見られるようになった一群の関心を象徴的 に表わしている。その関心とは、仏教・キリスト教というこつの宗教を単に並列し両者の異質性差異性を比較考察するものではな い。むしろ、仏教・キリスト教それぞれの宗教への関心でありつつ、同時に両宗教の背景・基盤である地域世界の文化(の差異性 など)に対する関心でもあるようなものである。また、二十世紀後半頃からは、宗教多元的状況が認識されるようになってきてい る。宗教多元的状況とは、宗教が複数存在する、さらに、宗教に生きる人々と︿世俗﹀の人々との共存状況でもある。そのような 宗教多元状況のなかで、仏教・キリスト教が伝統宗教として展開してきた地域世界、つまり、﹁東洋と西洋﹂(の宗教・文化・思 惟形態など﹀を対比的に考察する関心と重なり合うようなしかたでの︿仏教とキリスト教﹀という関心でもある。 ︿仏教とキリスト教﹀との表題を持つ個々の著作(著者﹀の関心は多様であるが、キリスト教徒からの関心︿﹁宗教の神学﹂的 関心﹀と仏教に生きる人々の関心とでは、一定の差異が見いだされるように思われる。その差異自体も多義的ではあるが、小論で は、そのような差異性に注目することで、﹁仏教とキリスト教の対話﹂として理解されてきた諸関心(諸思想﹀の歴史的諸形態を 見 通 す 視 点 を 探 っ て み た い 。 付 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹀ 著 作 群 ︿仏教とキリスト教﹀ ( の 比 較 研 究 、 一 九 六0
年代頃から見いだされるようにな の対話、等﹀と題する著作群が、っ て き た 。 ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹄ ( 滝 沢 克 己 、 一 九 六 六 年 ) 、 司 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 比 較 研 究 ﹄ ( 増 谷 文 雄 、 一 九 六 八 年 ﹀ 、 一 九 七 二 年 ﹀ 、 一九七五年﹀などである。英語やドイツ語でも、 ( ヴ ァ ル デ ン フ ェ ル ス 、 ﹃浄土教とキリスト教││比較宗教哲学論集││﹄ ( 峰 島 旭 雄 編 、 ﹃ キ リ ス ト 教 と 仏 教 の 対 比 ﹄ ( 岩 本 泰 波 、 ﹃ 絶 対 無 一 九 七 四 年 ﹀ 、 ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 接 点 ﹄ ( 八 木 誠 一 、 仏教とキリスト教の対話の基礎づけ﹄ 一 九 七 六 年 、 邦 訳 一 九 八 六 年 ﹀ 、 ﹃ 真 な る 自 己の主としてのプ y ダ・キリスト、京都学派の宗教哲学とキリスト教﹄
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・ ス マ ー ト 、 一 九 九 三 年 、 英 語 ) 、 ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹄(
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・ ラ イ 、 一 九 九 七 年 、 独 語 ﹀ な ど で あ る 。 ︿仏教とキリスト教﹀という表現は特徴的である。 いうまでもなく、仏教・キリスト教、 いずれも、きわめて多様 な姿をもっ宗教である。仏教であってもキリスト教であっても、容易には一冊の書物で描写することができないであ ろ う 。 いずれか一つの宗教であってもそうなのであるから、 ︿仏教とキリスト教﹀として双方の宗教を扱うことは至 難と言わざるを得ないであろう。 にもかかわらず、これら一群の書が︿仏教とキリスト教﹀というように両宗教を同 時に関心事とするような表題を掲げるのである。 これらの書に見られる︿仏教とキリスト教﹀との関心は、単に、仏教・キリスト教というこつの宗教を単に並列的 に見て両者の異質性差異性を比較考察するというものではない。むしろ、 ︿仏教とキリスト教﹀の﹁出会い﹂におい ﹁ 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 対 話 ﹂ て、両宗教の根底にある関心を互いに照応させるような対話的関心からの論考である。 という関心は、仏教・キリスト教それぞれにおける宗教的実践的関心であると同時に、また、両宗教に対する思想的 文化的理解の関心でもある。そのような意味で、これらの書に共通する︿仏教とキリスト教﹀(の対話、等﹀という 表現は、特に二十世紀後半に顕著に見られるようになった一群の関心を象徴的に表わしているものときロえる。 く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高回〉 - 83ー二十世紀後半頃からは、宗教多元的状況が認識されるようになってきている。宗教多元的状況とは、宗教が複数存 さらに、宗教に生きる人々と︿世俗﹀の人々との共存状況でもある。そのような宗教多元状況のなかで、仏 在 す る 、 教・キリスト教が伝統宗教として展開してきた地域世界、 ﹁ 東 洋 と 西 洋 ﹂ (の宗教・文化・思惟形態など) つ ま り 、 を対比的に考察する関心と重なり合うようなしかたでの︿仏教とキリスト教﹀という関心でもある。それは、仏教・ キリスト教それぞれの宗教が展開してきた地域世界の文化あるいは文明(の差異性など)に対する関心と言えるよう な も の で あ る 。 ︿仏教とキリスト教﹀との表題を持つ個々の著作(著者﹀の関心は多様であるが、キリスト教徒からの関心と仏教 一定の差異が見いだされるように思われる。キリスト教側には、 に生きる人々の関心とでは、 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹀ の差異性に注目することを通して自身(キリスト教) の新たな自己理解を追及する関心 (﹁宗教の神学﹂的関心)が 見 い だ さ れ る 。 そ れ に 対 し て 、 自身の宗 仏 教 側 に は 、 宗教・思想・文化などの差異性に注目するところにおいて、 教・文化・思想の独自性が論じられる。 主たる関心事と関心主体には多様である。主たる関心事は、 化の出会いを視座とする哲学的関心、 ( a ﹀神学教学的・宗教対話的関心、 ( b ﹀思想・文 ( C ﹀宗教学的理解に大別することができるだろう。 そ し て 、 関 心 主 体 は 、 ( 1﹀キリスト教徒、 ( 2 ﹀ 仏 教 徒 、 ︿ 仏 教 と キ リ ス ( 3 ﹀哲学者・宗教学者に分けることができるだろう。また、 ト 教 ﹀ の 出 会 い は 、 ま た 、 ︿東洋と西洋の出会い﹀としても理解される。仏教が︿東洋の宗教・文化﹀ ︿ の 一 つ ﹀ と し て 理 解 さ れ 、 キリスト教が︿西洋の宗教・文化﹀として理解される文脈のなかで、 ︿仏教とキリスト教﹀という関 心 が 展 開 さ れ る 。
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︿キリスト教﹀ ﹁ 宗 教 の 神 学 ﹂ 的 関 心 ︿仏教とキリスト教﹀という関心は、宗教間対話(他宗教との対話﹀という関心や宗教哲学的関心と重なり合って いる。宗教間対話(他宗教との対話﹀という関心は、キリスト教(神学)界で生まれ展開されてきた一面を有する。 他の宗教(仏教﹀界での八仏教とキリスト教﹀は宗教哲学的関心としての側面の方が強いであろう。 キリスト教徒に して︿仏教とキリスト教﹀に関心を持つ論者は、基本的に、 ﹁ 宗 教 の 神 学 ﹂ (や︿宗教多元主義﹀等﹀という関心に 立っていると言える。門脇佳士口や八木誠一などの著作(思索﹀は、 い ず れ も 、 (キリスト教)神学的関心からのもの である。延原時行﹃仏教的キリスト教の真理││信心決定の新時代に向けて﹄ ( 行 路 社 、 一九八七﹀において 教とキリスト教の対話﹂が﹁神学・宗教学内の一学問分野﹂との認識(﹁はしがき﹂﹀が、 そのことを率直に表してい る。小野寺功﹃聖霊の神学﹄ 八 一l
八三頁﹀では次のように述べられている。 ( 森 風 社 、 二OO
三 、 ﹁従来のキリスト教理解の根底を抜いて、聖霊論的、あるいは霊性的実存論的に深く解釈していくとき、はじめて一 切に偏満し永久に存在する生命の法と内的に接しうるのであり、仏教との心からなる出会いも可能になってくるので あ る 。 そのためには、従来の西欧的神観のように、 ﹁父と子と聖霊﹂なる神を、三位一体の窓枠から超越的に仰ぐという だ け で は 足 り ず 、 それがいかなる﹁場﹂においてわたしたちに現成してくるのかという神(仏﹀と人との接点(イン マヌエル﹀が深く問題にされなければならない。なぜならパウロもいうように﹁御霊(プネウマ)みずから、 わ た し たちの霊(。フネウマ﹀とともに、 ( ロ マ 、 八・二ハ) わたしたちが神の子であることをあかして下さる﹂ からであ る 。 このように考えるとき、鈴木大拙がいう意味での日本的霊性・文化の伝統は、禅浄双方を含めて、聖霊神学的神論 イ ム く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田) - 85ーと 深 く 出 会 い 、 わたしたちはそこから多くのものを学び取ることができる。 キリスト教徒はキリストの十字架における照罪の恵みにあずかるだけでなく、聖霊の内 在体験によって、自我に死にきって、内在のキリストに対面し、泉が自然に湧き出るように父の懐へと運ばれていく この英知の助けによって、 のである。この意味で、聖霊論的キリスト教は、真の意味で日本にとって不可欠な大乗的神学への道を準備するもの と い え る だ ろ う 。 ﹂ ︿キリスト教﹀側の関心の特徴は、基本的に﹁宗教多元主義﹂状況のなかでの他宗教への対話的関心であるという と こ ろ に あ る 。 キリスト教とイスラ l ム 、 キリスト教と仏教等々の キリスト教とヒンドゥ l 教 、 キ リ ス ト 教 と 儒 教 、 関心が存在する。それらを担う人々は各々の状況のなかでなされているが、宗教多元主義的状況のなかでの関心とい うところに共通点を有している。そのようなもののひとつとして︿仏教とキリスト教﹀というテlマ設定がなされて く る 。 そ れ ゆ え 、 の神学への寄与﹄ シンポジウム・シリーズの中での一つとしてその成果が出版されることが多い。たとえば、 ( ﹀ ロ 仏 円 四 回 印 切 丘 町 ﹃ ( 国
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冨 α 円 山 口 ロ ぬ ) ﹃ 宗 教 を 見 ょ う 。 ﹃普遍宗教としてのキリスト教﹄ ( 一 九 七 六 年 ﹀ 、 ﹃ キ リ ﹃キリスト教とイスラ l ム ﹄ ( 一 九 七 八 年 ﹀ スト教と仏教における救済﹄ ( 一 九 八 二 年 ﹀ 、 ﹃キリスト教神学の中 ( 一 九 八 四 年 ﹀ 、 ﹃キリスト教とヒンドヮ l 教 ﹄ 心部からの対話﹄ r--. 九 七 /¥ 同 年 同 ¥ J B mz
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三 回 る と し て 、 アフリカ宗教・仏教・儒教・ヒンドヮ l 教・イスラ l ムとの対話ワーキング グループが構成されている。 ︿仏教とキリスト教﹀との関心は、 キリスト教徒の他宗教への関心 い ず れ に お い て も 、 r--. ノレというパlスペクティブの下に位置づけられているのである。 南山宗教文化研究所は、 ﹁第二ヴァチカン公会議の開催後、世界の諸宗教の聞での対話が進展する中で、対話の学 問的基盤を追求するセンターを設立する﹂という関心のもと、 あえず、日本の状況を考慮するような宗教と文化の関係の学際的な研究、 ﹁ ( 一 ﹀ 特 に 、 東洋、とり 一 九 七 四 年 に 創 設 さ れ た 。 (二﹀キリスト教と世界宗教との相互理解 (三)この分野の学者の養成﹂が具体的に目指され、 特徴とした多くの研究がなされている(﹃宗教と宗教の︿あいだと風媒社、二
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年 ) 。 の 促 進 、 ﹁ 国 際 性 、 汎 宗 教 性 ( エ キ ュ メ ニ ズ ム ) 、 学際性﹂を ﹃キリスト教は仏教から何を学べるか﹄ (南山宗教文化研究所編、法臓館、 書 は 、 一 九 九 七 年 三 月 二 十 四 日 、 一九九九)における関心を見ょう。同 二十五日、二十六日の三日間、南山大学南山宗教文化研究所において﹁キリスト教 は仏教から何を学べるか﹂というテlマのもとに行われた第十回南山宗教文化研究所シンポジウムの成果が編集され たものである。キリスト教と他宗教との対話の会議として発想されてきた南山シンポジウムの基本的な関心は、 その宗教の優れたところを自分自身の宗教の中でも活かそうと 分の宗教や霊性のために、他宗教から学ぼうとして、 するような精神をもって、初めて深いレベルで他宗教を理解することができる﹂というものである。 ﹁キリスト教は仏教から何を学べるか﹂のシンポジウムは、 ﹁キリスト教の哲学や神学を志しながら、強く仏教に ひかれ仏教や西田哲学の影響を受けたキリスト教徒﹂ を 中 心 に し な が ら 、 同 時 に 、 そのようなキリスト教徒の思索 (神学思想﹀に強い関心を持つ仏教徒の参加するところで、 ﹁キリスト教は仏教から何を学べるか﹂を問うたもので あ る 。 五つのセッションのプログラムは、 ( 本 多 正 昭 、 ﹁ 相 即 神 学 へ の 道 ﹂ コ メ ン ト │ 西 村 恵 信 ) 、 ﹁キリスト教と仏教 ll対話はどこで可能か││﹂ ( 小 田 垣 雅 也 、 コメント│ハンス・ヴァルデンフェルス﹀、﹁浄土教・キリスト教の相 互転換における方法論と可能性│親鷺浄土教の視座﹂ ( 武 田 龍 精 、 コメント│ルイス・ゴメス)、﹁聖霊と場所l│聖 自 く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田) - 87ー霊神学の基礎づけ││﹂ ( 小 野 寺 功 、 ﹁直接経験の言語化について﹂(八木誠一、 コメント│河 コ メ ン ト 石 脇 慶 線 ﹀ 、 波 昌 ﹀ で あ る 。 ﹁ ︹ 仏 教 に 学 ん で 神 学 す る と い う ︺ このような試みが日本の神学界においてあまり注目されておらず、 日本におけ るキリスト教の神学の本流に対してほとんど影響を及ぼしていない感じがする﹂なかで、今までの対話に対する振り 返りがなされる。﹁所得﹂(確かな結果﹀が得られているのか、仏教の理論に大いに依存しながら、キリスト教のメ ッセージに本当に忠実であるのか、このような神学的傾向にどれくらいの将来性があるのか。このような問題意識を 背景にしながら、 これまでの﹁仏教に学んで神学する﹂関心の特徴が次のようにまとめられている(ヤン・ヴアン・ プ ラ フ ト ﹁ オ リ エ ン テ ー シ ョ ン ﹂ ﹀ 。 じ キリスト教が身につけてきた西洋的知的衣が東洋人・日本人としての自分に合わないと感 自分の信仰のより日本的地盤を見つけようとする(土着の動機)。また、 日本人のキリスト者は、 自分がキリスト者としてそれに囲まれ て生きている仏教への神学的通路・橋渡しを作ろうと願う(対話的動機)。 または、空をすべての根本原理にする大乗仏教﹂が関心事となっている。そして、そのようなとこ そ の 場 合 、 主 に 、 ﹁大乗の中でも仏性に 重 点 を 置 く 仏 教 、 ろ で 、 キリスト教を︹西欧世界における歴史的姿の特徴である︺ギリシア的とらわれから解放しようという関心がは たらいている。そして、プラフト氏は、言う。 ①軍的事実(西田幾多郎が﹁心霊上の事実﹂と呼んだもの﹀を理解し、表現しようとする際に、 仏教的論理の方が適切である。 ギリシア的論理より、 ②仏教における縁起説というものは極めて重要な考え方である。 ただし、空と同一視された巌起、すなわち万物の自 ( 他 性 、 曲 目 同 町 江 守 ﹀ が 大 き な 役 割 を 果 た す キ リ ス 性 ト (
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t主 ﹁ 他 ﹂ ﹁ 無 即 愛 ﹂ と い う 公 式 は 誤 解 を 招 く ﹀ 。③仏教の思想に学ぶことで、従来のキリスト教神学においてあまりに二元論的に考えられてきた事柄(例えば、信仰 と知恵、神を知ることと自己を知ること、宗教における客観と主観、等﹀の相互依存の側面を明らかにすることがで き る 。 ④キリスト教の﹁教﹂と﹁行﹂は、その構造や内容において、 ギリシア的﹁有﹂の哲学によって理論化して説明でき る以上の深い否定性を含んでいる。 ﹁有﹂という範時のみでは不十分で、同時に﹁無﹂という範鴎にも積極的な役割を与え なければならない。ただし、同じく、神のことは﹁無﹂だけからも考えられない(それを﹁絶対無﹂と名付けても)。 ⑤神の本質を考えるときに、 日 ︿ 東 洋 と 西 洋 ﹀ と い う 関 心 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹀ と い う 関 心 は 、 ( の 宗 教 ・ 文 化 ・ 思 惟 形 態 な ど ﹀ を 対 比 的 に 考 察 す る 関 心 と 同義的に用いられでもきた。宗教としての仏教・キリスト教が、それぞれ、︿東洋の宗教﹀ ︿ 東 洋 と 西 洋 ﹀ ︿西洋の宗教﹀にとどま るものでないことは自明であるが、 また、両宗教の主たる歴史的展開の舞台が、それぞれ、東洋・西洋であったこと、 否 、 そ れ 以 上 に 、 西洋的な文化そのものが(極めて多様かつ多義的でありつつも)、それぞ む し ろ 、 東 洋 的 な 文 化 、 れ 仏教(大乗仏教、禅仏教、 浄土門仏教など)に 両宗教に大きく規定されていることも事実である。 そ れ ゆ え 、 ︿ 東 洋 ﹀ を 、 キリスト教(ヨーロッパ・キリスト教﹀に︿西洋﹀を、代表させて見る議論にも一定の意義があると言 え る だ ろ う 。 西田幾多郎の哲学、それを継承する哲学︿西田哲学、京都学派の宗教哲学等々との表現が使われてきた﹀への関心、 特に、キリスト教徒(神学者﹀のそれへの関心なども、同じような文脈で表現されてきた。キリスト教神学における ﹁宗教の神学﹂のひとつの関心形態でもある。そこでの関心事は、宗教としてのキリスト教/仏教、その宗教ととも く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田〉 n 3 0 0
に展開してきた宗教文化(ヨーロッパ・キリスト教社会の文化、 ︿ 東 洋 ﹀ ︿日本﹀文化など﹀など、きわめて多様で ある。また、関心主体︿︿ヨーロッパ・キリスト教徒﹀ ︿日本・仏教徒﹀等々﹀も、きわめて多様である。 いまや、倫理・宗教・経験科学の可能性の新たな地平に立っており、その可能性を有意義ならしめるた ① めには、仏教徒とキリスト教徒との聞の葛藤や競争、単なる寛容を超えて行かねばならない﹂と認識する仏教徒・キ リスト教徒による、﹁仏教とキリスト教の対話﹂への多様な試みは、一九八
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年代において、本格的な形を与えられ ② てきた。この一連の文脈においては、﹁仏教とキリスト教(の出会い・対話﹀﹂と﹁東洋と西洋(それぞれの宗教・文 ﹁ 人 類 は 、 化・思想の出会い・対話どとが融合的一体的に理解されている。 家として西谷啓治は位置づけられている。西谷(宗教﹀哲学は、まさしく﹁併教とキリスト教との歴史的な出会いと そ し て 、 そのような文脈における最も重要な思想 い う 出 来 事 を 体 現 し て い る ﹂ ( 京 都 宗 教 哲 学 会 編 ﹃ 宗 教 哲 学 研 究 ﹄ 第 一四頁)。と言えるであろう。もちろん、西谷の思想だけが関心事とされているわけではないし、 (水垣渉﹁西谷宗教哲学におけるキリスト教﹂ 十 号 、 一 九 九 三 年 、 また、西谷哲学の関心は、東洋と西洋、仏教とキリスト教、 の比較が主たるものではない。西谷哲学において、 教 と キ リ ス ト 教 ﹂ ﹁東洋と西洋﹂は自ずから関心事とされていることがらの一側面である。西谷者学はそれ自身とし て一つの独自な思索である。 西谷哲学ほど﹁東洋と西洋﹂ n -2 -、 宇 j + J ﹁仏教とキリスト教﹂を深く広く思索するものは他 に見いだされないのではないだろうか。そのことが西谷哲学を﹁東洋と西洋﹂ ﹁仏教とキリスト教﹂という関心の象 徴的存在たらしめていると言えよう。①
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が(それまでの流れを承けているので第三回大会と位置づけ 仏ら れ て ﹀ 一 九 八 七 年 に 結 成 さ れ て い る 。 伺 ︿ 仏 教 ・ 宗 教 哲 学 ・ 思 想 ﹀ 的 関 心 か ら ︿キリスト教﹀側に見られるような﹁宗教の教学(神学﹀﹂ ︿仏教﹀に軸足を置く論者の関心の在り様は多様で、 ︿東洋と西洋﹀という関心のなかでの︿仏教﹀側に位置するものでは (の或る要素﹀を背景基盤とする思索としてなされるというのが 的関心に直接的に対応しているわけではない。 あるが、広い意味での哲学的関心のなかで︿仏教﹀ 特徴と言えるだろう。 ︿仏教とキリスト教﹀において関心の焦点が当てられるのは、禅や念仏(浄土教、浄土真宗﹀、 密 教 な ど が 多 い 。 い ず れ も 、 ︿キリスト教﹀側におけるカトリ y ク、プロテスタント、神秘主義などとの類似性親縁 性が注目されるからであろう。 ﹃浄土教とキリスト教 比較宗教哲学論集﹄ (峰島旭雄編﹀を見ょう。論文集であるがゆえに、関心の有り様の特 徴が見て取れるものである。仏教(浄土教)・キリスト教(カトリ v ク・プロテスタント)・宗教哲学・宗教学・西洋 哲学︿ギリシア哲学・中世哲学・実存哲学)・思想史などを専攻する執筆者が︿浄土教とキリスト教﹀とのテ l マ の 下、自由に論じている。それらは、啓示や人格など︿浄土教とキリスト教﹀にまつわる根本問題、 ︿ 往 生 と 終 末 ﹀ の 問題、実存思想(キェルケゴ l ルやハイデヅガ l ﹀との連関での問題、倫理性の問題などにグループ化されている。 岩本泰波﹃キリスト教と仏教の対比﹄ ( 創 文 社 、 いは、仏教のいずれかの信に立つ(軸足を置く﹀ような関心ではない。著者は言う。 一 九 七 四 ﹀ を 見 ょ う 。 同 書 の 基 本 的 立 場 は 、 キ リ ス ト 教 、 ﹁本書の全章を貫く基調は﹁人間﹂の問題である。 ﹁人聞における人間﹂ではない。:::その限界に閉じこめられて、 ﹁ 人 間 ﹂ と は 、 し か し 、 ここで探究されねばならない ﹁根源﹂にかかわって問われる。あらわな。 人間ではありえないからである。:::本書の全章は、宗教が把握する﹁人間﹂における幾つかの﹁根源﹂との相 あ る く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田〉 単 - 91ー
闘の重要な問題について論究を試みる﹂ (岩本泰波﹃キリスト教と仏教の対比﹄創文社、昭和四十九年、 一 頁 ) 著 者 は 、 ﹁言葉﹂が﹁根源﹂のクはたらき。である限り、それは、どこまでも﹁パウロの言葉﹂であり、 ﹁ 親 驚 の 言葉﹂であることにおいて、それがそのままに ﹁根源﹂の自聞であらねばならないのである。そして、このような ものとしての両者における﹁言葉﹂が、 それぞれにその独自性のままに、 ﹁場﹂ともいうべきもの そこで。出会う φ
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﹁ 対 比 ﹂ の内容とならねばならないものなのである、 自らの思索のことがらとその方法論を と 述 べ 、 こ こ で の ﹁ 対 比 ﹂ と 性 格 づ け る 。 そ し て 、 ﹁ 罪 ( 守 号 え る ﹂ と ﹁ 罪 業 ﹂ 、 ﹁神の言への反逆﹂と﹁如来の願よりの逸脱﹂、 音 を 拒 む 罪 ﹂ と ﹁ 誓 願 疑 惑 ﹂ 、 ﹁ 十 字 架 の 死 ﹂ と ﹁ 寂 滅 ﹂ 、 ﹁ 愛2
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﹀﹂と﹁慈悲﹂という﹁対比﹂を論じる。 ﹁親驚の言葉﹂に顕われてくるような﹁根源﹂ どこまでも﹁人間﹂の立場に立って、 ﹁ パ ウ ロ の 言 葉 ﹂ ク 根 源 の 自 開。に参入しようとする関心がそこにはある。 仏教を基盤背景とするなかで哲学者思想家として ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ¥/ (の対比﹀を思索するのである ︿仏教とキリスト教﹀との関心は、 日本での宗教(特に仏教)・哲学思想との連関のなかでの関心事であるところ に特徴が見いだされる。西田幾多郎や西谷啓治等は、 西洋思想(ギリシア哲学、近世哲学、 キリスト教等)を学ぶな かで仏教思想(東洋・日本思想等)を背景基盤とした哲学的思索を展開させていった。そこには、 おのずから、西洋 思想・キリスト教等に比して独自な思索が見いだされるので、 (の出会い、対話等﹀との関心 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹀ 11 ︿ 西 田 哲 学 ﹀ (京都学派の哲学、宗教哲学等﹀ ︿ 西 田 哲 学 ﹀ 等 と への関心とも重なると言えるのである。また。 の 連 聞 に お い て 、 ︿ 禅 仏 教 ﹀ 、 ( 特 に 法 然 、 親 驚 な ど ﹀ への関心が見いだされるのも特徴的と言える。 ︿ 浄 土 門 仏 教 ﹀ このような︿仏教とキリスト教﹀という関心は、明治期以来の︿西洋・近代の思想・文化﹀との出会い(摂取・対 決・葛藤)経験にまで遡ってみることができる。 福伺 ︿仏教とキリスト教﹀
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葛藤から対話へ││ 一九八七年に出版された﹃日本における仏教とキリスト教││葛藤から対話へ、一八五四年│一八九九年﹄ ( Z O R O M F 叶Z
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町 田 宮 司 同 日 目 -M H 四 回 目 ・ 邑 ∞ 吋 ﹀ に 注 目 し て み よ う 。 ﹁宗教聞の関係が外交/外国との関係と深く絡んでいるとの観点﹂(序言、同 M ・4即
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から一八五四・安政元年︿ペリ l 来航の年﹀から一八九九・明治三十二年までの区切りがなされている。日本が外か らの力を受けて、それに対応する国家運営をしなければならないような状況のなかでの︿仏教とキリスト教﹀関係が 考 察 さ れ る 。 十五世紀末から十七世紀にかけての︿キリシタ 日本における︿仏教とキリスト教﹀ の 歴 史 的 経 験 は 、 ン﹀時代にまでさかのぼるが、 長 い 禁 制 期 を 経 た 後 、 幕末・明治初期頃から、今日にまでいたる︿仏教とキリスト 教﹀関係が事実上始まったといえよう。 ﹁日本における仏教とキリスト教│葛藤から対話へ﹂という書名には、著者の関心が象徴的に表現されている。著 一九四一年に香港でノルウェー人宣教師の子として生まれた。自身も、宣教師として長く日 者のノット l ・ テ レ は 、 本 で 活 動 、 七0
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年代の﹁宗教多元主義﹂守F
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の関心のもと、仏教や神道との対話に従事してきた人で ある。二十世紀後半の︿仏教とキリスト教﹀という問題連関の背景あるいは淵源ともいえる十九世紀後半期の︿仏教 とキリスト教﹀関係を関心事とするのは、ゆえなきことではないだろう。著者は、 一つは、相互の猪疑心、仏教者によるキリスト教反対運動、排撃運動(排耶論・仏教護法論﹀ ︿仏教とキリスト教﹀関係を二つ の 側 面 か ら 見 て い る 。 であり、第二は、開明的な仏教者・キリスト者による相互認識(承認﹀と尊敬(寛容な態度﹀が、仏教者・キリスト 者の個人的な友好関係を通して醸成されていったことである。 キリスト教徒の伝道活動がなされていき、 ﹁大教院﹂の廃止過程での仏教各宗派の再編、教派神道や(非宗教﹀国 〈仏教とキリスト教〉・対話的関心について〈高田〉 - 93ー家神道の成立などによる新たな時代状況のなかで、 ︿仏耶接近﹀の雰囲気も高まり、諸宗教の代表者による﹁宗教家 懇談会﹂が開催された(一八九六(明治二十九﹀年九月二十六日、神道二名、仏教十九名、基督教十六名、無所属五 名、計四十二名の参加)。この﹁宗教家懇談会﹂は、﹁万国宗教会議﹂(一八九三年﹀での諸宗教協調の影響 シ カ ゴ で実現した﹁日本版﹂とも言える(鈴木範久﹃明治宗教思潮の研究 1 宗教学事始﹄東京大学出版会、 一 九 七 九 年 、
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七 頁 ) 。 そ こ に は 、 (日本社会での)ナショナリズム的性格、 比較宗教 ま た 、 進歩主義・反﹁正統﹂主義的傾向、 学的視野の浸透なども指摘されている(日本の宗教学草創期を代表する姉崎正治も﹁懇談会﹂に出席している。鈴木 範 久 、 二 四 六 頁 ) 。 ﹁ 万 国 宗 教 会 議 ﹂3 7
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同 河 内 -在 。 ロ 臼 ﹀ は 、 コロンブス・アメリカ大陸到着四百年記念のシカ ゴ万国博覧会の一環として開催されたものである。地球規模でのさまざまな宗教の代表者が参加したもので、宗教史 上 、 極めて重要で記念すべき出来事である。 仏教│釈宗演(臨済宗)・土宜法竜(真言宗﹀・芦津実全 日本からは (天台宗﹀・八淵矯竜(浄土真宗本願寺派)・平井金三(英学者)、神道l
柴 田 雄 一 が参加している。釈宗演や土宜法竜の講演、平井金三のキリスト教批判は大きな反響を呼んだと言われる。釈宗演の ( 実 行 教 ) 、 キリスト教│小崎弘道 講演を英訳した鈴木大拙は、 その後、海外での活動をするようになり、 その後の︿禅仏教﹀の普及に大きな貢献をし たことは周知の通りである。 ﹁本会議はアジア・東洋の宗教や精神文化を西洋社会に知らしめるタ│ニング・ポイン ト ﹂ で あ っ た が 、 ま た 、 ﹁主催した西洋側にはキリスト教的宗教観によって植民地支配下の非西洋精神文明を包み込 もうとする意図も見え隠れしており、 結果的に今日まで続く諸宗教聞の大きな問題を提起する機会﹂ 国宗教会議と現代のアメりカ﹄別冊日本語解説、足羽輿志子解説、 であった 二OO
六 年 、 での指摘。森孝 ﹁ シ カ ゴ 万 国 宗 教 会議│一八九三年﹂ ﹃同志社アメリカ研究﹄第二六号、 一 九 九O
年 、 参 考 ) 。 一八九三年の﹁万国宗教会議﹂は、 二十世紀後半における︿諸宗教間対話﹀の関心の先駆的なものとみなすことが ( ﹃ 万で き る 。 小論で注目する︿仏教とキリスト教﹀ それらにおける関心 の諸書は多く二十世紀後半に登場しているが、 の淵源は、十九世紀末・二十世紀初頭にまで遡ると言える。 ︿ 京 都 学 派 ﹀ の ( 宗 教 ﹀ 哲 学 思 想 が 、 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教﹀との関心において大きな比重を占めているが、 ︿京都学派﹀の(宗教﹀哲学思想のいわば出発点に位置する西国 幾多郎の﹃善の研究﹄は一九 ( 明 治 四 十 四 ﹀ 年 に 出 て い る 。 内 ︿ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹀ と 題 す る 著 作 群 ︿仏教とキリスト教﹀との表題を持つ書物を出版年順に整理した。主に、 れ ら の 著 者 の 多 く は 、 一 九 七
0
・ 八0
年代に多く見られる。そ 五0
・ 六0
年 代 に 学 び 始 め て い る 。 ︿仏教とキリスト教﹀という問題意識・関心を、 その学 び・研究の成果が七0
・ 八0
年代に多く出版されてきたとも言えよう。ここでは、直接、︿仏教とキリスト教﹀ 趣旨﹀を題名とするものに限った。﹃聖霊の神学﹄(小野寺功、春風社、二OO
三 年 ) 、 ﹃ 絶 対 無 の 哲 学 (花岡永子、世界思想社、二OO
二年)、﹃﹁自己と世界﹂の問題絶対無の視点から﹄ 究 入 門 ﹄ 西田哲学研 ( 花 岡 永 子 、 星 雲 社 、 二OO
五年﹀などのように、直接、表題に︿仏教とキリスト教﹀との語句が入っていないが、実質的に︿仏教とキリ スト教﹀を関心事としているものは最小限あげることとした。ただ、広義の意味で︿仏教とキリスト教﹀を関心事と する書や論文は数多いので、ここにはあげなかった。欧文文献に関しては、日本での︿仏教とキリスト教﹀関心と直 接的に関係するものを中心とした。広義の意味で関連するものは邦語文献以上に多いのではあるが。 -一九六O
年以前 ﹃ 併 教 と キ リ ス ト 教 ﹄ ( 鈴 木 大 拙 、 法 蔵 館 、 一 九 四 九 年 ﹀ r、
の く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田〉 - 95ー-一九六
0
年代 ﹃ 宗 教 と は 何 か ﹄ ( 西 谷 啓 治 、 創 文 社 、 一 九 六 一 年 ﹀ ﹃ 文 化 と 宗 教 ﹄(
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・ テ ィ リ ッ ヒ ︹ 来 日 記 念 講 演 集 ︺ 、 岩 波 書 脂 、 一 九 六 回 、 六 六 年 ﹀ 一 九 六 二 年 ) ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹄ ( 滝 沢 克 己 、 法 臓 館 、 ﹃ キ リ ス ト 教 徒 仏 教 徒 対 話 ﹄(
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・ テ ィ リ y ヒ 、 丁 野 正 之 助 訳 、 桜 楓 社 、 一 九 六 八 年 ﹀ 一 九 六 七 年 ﹀ ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 比 較 研 究 ﹄ ( 増 谷 文 雄 、 筑 摩 書 房 、 -一九七0
年代 ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 根 本 問 題 ﹄ ( 滝 沢 克 己 著 作 集7
﹀ (マタイス・井上英治・門脇佳吉編、創文社、 ﹃ 宗 教 の 対 話 ( 滝 沢 克 己 、 法 蔵 館 、 キリスト教と日本の諸宗教﹄ 一 九 七 三 年 ﹀ ﹃ キ リ ス ト 教 と 仏 教 の 対 比 ﹄ ( 岩 本 泰 波 、 創 文 社 、 一 九 七 四 年 ﹀ ﹃ 禅 と キ リ ス ト 教 ﹄ 一 九 七 四 年 ﹀ (エノミヤ・ラサlル、柴田健策訳、春秋社、 ﹃ 浄 土 真 宗 と キ リ ス ト 教 ﹄ ( 石 田 充 之 ・ 滝 沢 克 己 編 、 法 臓 館 、 一 九 七 四 年 ﹀ ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 と の 避 遁 ﹄ ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 の 接 点 ﹄ ( ハ イ ン リ v ヒ・デュモリン、西村恵信訳、春秋社、 (八木誠て法臓館、 一 九 七 五 年 ﹀ ﹃カトリックと禅﹄河出書房新社(朝日カルチャーセンター講座現代人の宗教/丸山照雄編、 ﹃浄土教とキリスト教 ﹃ 宗 教 体 験 と 言 葉 (峰島旭雄編、山喜房併書林、一九七七年﹀ (南山宗教文化研究所編、紀伊国屋書底、 一 九 七 九 年 ﹀ ﹃ 続 比較宗教哲学論集﹄ 仏教とキリスト教との対話﹄ ( 滝 沢 克 己 、 法 臓 館 、 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹄ 一 九 七 三 年 ﹀ 一 九 七 五 年 ) 一 九 七 六 年 ﹀ 一 九 七 八 年 ﹀﹃ 比 較 思 想 序 説 -一九八
0
年代 ﹃仏教とキリスト教 ﹃ 絶 対 無 と 神 ﹃ 仏 教 と キ リ ス ト 教 ﹄ 仏教的﹁即﹂の論理とキリスト教﹄ ( 本 多 正 昭 、 法 律 文 化 社 、 一 九 七 九 年 ﹀ 滝沢克己との対話を求めて﹄八木誠一・阿部正雄編著、三一書房、 ( 春 秋 社 、 一 九 八 一 年 ﹀ 西国・田辺哲学の伝統とキリスト教﹄ 一 九 八 一 年 ﹀ ( 増 谷 文 雄 、 角 川 書 庖 、 一九八一年) (増谷文雄著作集 2 ﹀ ( 八 木 誠 一 、 法 戴 館 、 一 九 八 三 年 ﹀ ﹃パウロ・親驚・イエス・禅﹄ キリスト教と仏教の対話のために﹄ (八木誠一・秋月龍現、春秋社、 一 九 八 四 年 ﹀ ﹃歴史のイエスを語る ﹃親驚とキリスト教 ﹃ パ ウ ロ と 親 驚 ﹄ 禅 東 か ら 西 へ ﹄ ﹃ 東 と 西 永遠の道 ﹃東西宗教の出会い ﹃ カ ト リ ッ ク と 禅 ﹄ 現代人に信仰を問う﹄ ( 門 脇 佳 士 口 編 、 創 元 社 、 一 九 八 四 年 ﹀ ( 国 分 敬 治 、 法 蔵 館 、 一 九 八 四 年 ﹀ (エルンスト・ベンツ、柴田健策・榎木真士口訳、春秋社、 一 九 八 四 年 ﹀ 仏教哲学・比較哲学論集﹄ (北山淳友・峰島旭雄監訳、北樹出版、 (本多正昭編、創言社、一九八五年﹀ 一 九 八 五 年 ) 海外キリスト者の仏教観﹄ (門脇佳吉他著、御茶の水書房、 一 九 八 六 年 ﹀ 年 仏教とキリスト教の対話の基礎づけ﹄ (ヴァルデンフェルス、松山康園・川村永子訳、法務館、 ﹃ 絶 対 無 ﹃ 比 較 思 想 か ら 見 た 仏 教 ﹄ ﹃ 親 鷺 と ル タ l (中村元著、春日屋伸昌編訳、東方出版、 一九八七年、中村元英文論集翻訳シリーズ﹀ 信仰の宗教学的考察﹄ (加藤智見、早稲田大学出版部、 一 九 八 七 年 ﹀ ﹃仏教的キリスト教の真理│1
信心決定の新時代に向けて﹄ ( 延 原 時 行 、 行 路 社 、 一 九 八 七 年 、 九 九 年 ﹀ 一 九 八 六 く仏教とキりスト教〉・対話的関心について〈高田〉 - 97ー﹃ キ リ ス ト 教 と 西 国 哲 学 ﹄ ( 川 村 永 子 、 新 教 出 版 社 、 ( 真 木 由 香 子 、 教 文 館 、 一 九 八 八 年 ﹀ ﹃ 親 騰 と パ ウ ロ 異 質 の 信 ﹄ 一 九 八 八 年 ) ﹃フロント構造の哲学 仏教とキリスト教の相互理解のために﹄ ( 八 木 誠 一 、 法 臓 館 、 ﹃天台仏教とキリスト教 宗教における理と行﹄ ( 南 山 宗 教 文 化 研 究 所 編 、 春 秋 社 、 ﹃親驚とキリスト教の出会いから 日本的解放の霊性﹄ ( ル ベ ン ・ ア ビ ト 、 明 石 書 広 、 一 九 八 九 年 ﹀ ﹃禅とイエス・キリスト 徹 底 討 議 ﹄ ( 八 木 誠 一 ・ 秋 月 龍 眠 、 青 土 社 、 ﹃ 親 驚 と パ ウ ロ 徹 底 討 議 ﹄ ( 八 木 誠 一 、 秋 月 龍 眠 、 青 土 社 、 一 九 八 九 年 ) ﹃ 比 較 思 想 の 旅 アメリカで仏教を教える﹄ ( 峰 島 旭 雄 、 北 樹 出 版 、 一 九 八 九 年 ﹀ ﹃ パ ウ ロ と 親 驚 ﹄ ( 佐 古 純 一 郎 、 朝 文 社 、 一 九 八 九 年 ﹀ -一九九
0
年代 ﹃親驚とキリスト教 土 居 真 俊 対 話 集 ﹄ ( 法 臓 館 、 一 九 九O
年 ﹀ ﹃浄土教とキリスト教 宗教における救済と自覚﹄春秋社、 一 九 九O
年 ﹀ 玉 光 順 正 、 明 石 書 庖 、 一 九 九O
年 ﹀ ﹃聖書と親驚の読み方 解放の神学と運動の教学﹄ ( ル ベ ン ・ ア ピ ト 、 ﹃浄土教とキリスト教 宗教における救済と自覚﹄南山宗教文化研究所編、春秋社、 仏教とキリスト教の宗教哲学的対話﹄ 一 九 八 八 年 ﹀ 一 九 八 八 年 ﹀ 一 九 八 九 年 ﹀ 一 九 九O
年 ﹀ ﹃宗教と世界の痛み 仏教・キリスト教の心髄を求めて﹄ ( 門 脇 佳 士 尺 岩 波 書 宿 、 ( ル ベ ン ・ ア ビ ト 、 明 石 書 庖 、 ( 八 木 誠 一 ・ 秋 月 龍 現 、 青 土 社 、 一 九 九 一 年 ) ﹃ダンマが露わになるとき ﹃禅仏教とキリスト教神秘主義﹄ 一 九 九 一 年 ﹀ ﹃ 神 の 死 と 誕 生 ( 本 多 正 昭 著 、 行 路 社 、 一 九 九 二 年 ﹀ ﹁ 即 ﹂ の 展 開 を 求 め て ﹄ 一 九 九O
年 ﹀(ヘルマン・ベック著、西川隆範訳、平河出版社、 ( 加 藤 智 見 、 法 臓 館 ﹀ 一 九 九 二 年 ﹀ ﹃蓮如とルタ│ ﹃インドの叡智とキリスト教﹄ 宗教教団の原点﹄ ﹃ 禅 と 宗 教 哲 学 ﹄ ﹃ 宗 教 と 文 化 ﹃ 身 の 形 而 上 学 ﹃ 慈 悲 ・ 身 体 ・ 智 慧 ﹄ ﹃ 絶 対 無 と 場 所 ﹃至誠心の神学 ( 川 村 永 子 、 北 樹 出 版 ﹀ 諸宗教の対話﹄ (南山大学南山宗教文化研究所、人文書院、 一 九 九 四 年 ﹀ 道元と聖書における﹁智慧に満ちた全身﹂論﹄門脇佳吉、岩波書庖、 一 九 九 四 年 ﹀ (上智大学東洋宗教研究所編、春秋社、 一 九 九 四 年 ﹀ 鈴木禅学と西田哲学﹄ ( 秋 月 龍 車 、 青 土 社 、 一 九 九 六 年 ﹀ 東西融合文明論の試み﹄(延原時行、行路社、 ( 門 脇 佳 士 尺 岩 波 書 庖 、 一 九 九 七 年 ﹀ 一 九 九 七 年 ﹀ ﹃日本の宗教とキリストの道﹄ ( 花 岡 永 子 、 学 文 社 、 一 九 九 八 年 ﹀ ﹃ ﹁ 信 ﹂ の 思 想 ﹃ 宗 教 哲 学 の 根 源 的 探 究 ﹄ 親鷺とアウグスティヌス﹄ (伊藤益、北樹出版、一九九八年﹀ (親矯思想と現代世界
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、武田龍精編著、龍谷大学仏教文化研究所、 ﹃親鰭浄土教とキリスト教﹄-二
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年代 ( マ l ルブルク大学神学部・大谷大学﹀ 1 ﹃仏教とキリスト教の対話﹄ 第三回国際ル l ドルフ・オット l ・ シ ン ポ ジ オ ン ﹃浄土真宗と福音主義神学﹄ マイケル・パイ、箕浦恵了編、法臓館、 二O
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年 ハンス│マルティン・パ l ル ト 2 ﹃浄土真宗と福音主義の信仰﹄ ゲルハルト・マルセル・マルティン教授を迎えて ハンス│マルティン・パールト教授、 一 九 九 六 年 ﹀ く仏教とキリスト教〉・対話的関心について(高田) - 99ー3 マイケル・パイ、宮下晴輝、箕浦恵了編、法臓館、 ﹃浄土真宗と福音主義の信仰﹄ 二
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二年 世俗化からの挑戦に直面する仏教とキリスト教 ハンス│マルティン・パールト ︹ ほ か ︺ 編 、 法 蔵 館 、 二OO
四年 ﹃ホワイトヘッドと西田哲学の﹁あいだ﹂ 仏教的キリスト教哲学の構想﹄ ( 延 原 時 行 、 法 臓 館 、 二OO
一 年 ﹀ 守仏教とキリスト教 宗教哲学論文集﹄(岩本泰波、岩本泰波先生記念文集編集委員会編、広大会出版、 二OO
一 年 ) ﹃ 神 秘 主 義 (鈴木大拙著、坂東性純・清水守拙訳、計波書庖、 二OO
四 年 ) キリスト教と仏教﹄ ﹃仏教とキリスト教 比 較 思 想 論 ﹄ ( 芹 川 博 通 、 北 樹 出 版 、 二OO
七 年 ﹀ 欧 文 ( 英 独 語 ﹀ -一九七0
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