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佛教学研究 第65号 003寺井, 良宣「唯識説における仏身観の特色 : 『成唯識論』を中心として」

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(1)

唯識説における仏身観の特色

││﹃成唯識論﹄を中心として││

仁王F E主

目 次 問 所 在 題

σ

〉 唯識説における仏身観の特色 一 一 、 ﹃ 唯 識 三 十 碩 ﹄ の 第 三

O

碩文とブッダ(仏果位)の特性 三、如来の身体が﹁有漏﹂であることの問題と大乗的な解釈 四、﹃成唯識論﹄における﹁仏身無漏﹂解釈の正義 - 21 -五、知来の勝徳と﹁常住﹂についての問題 六、二乗(小乗)を排斥する大乗唯識の仏身観 七、結 論 l 唯識の三身(四身)説 一 、 間 題 在

所 大乗仏教ではブッダ観(仏身観)の発展は、重要な特色のひとつである。初期大乗の龍樹

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で は せ し ん 二身論であったのが、中期大乗の世親(︿自己

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の頃には三身説が一般的となり、ことに世親﹃唯識三十 口ょうゆいしきろん 碩﹄の詳細な注釈書である玄突訳﹃成唯識論﹄(巻一

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には、よく整備された三身説がみられることは周知の

(2)

と う り で あ る 。 大 乗 仏 教 で は 、 む ろ U ょ う 官 ゅ う ブッダ(覚者)は﹁無漏﹂で、寸常住﹂であると説かれる。けれども、初期仏教を承けたア ではブッダ(釈尊)は、覚者となったのちにも身体(生命)を持つ以上は、その仏身は﹁有 ピダルマ ろ 漏﹂であり、﹁無常﹂であると見ることが常識であった。大乗になってそれを転換したのは、 ( 部 派 ) ブッダの超人化と 日佳識説における仏身観の特色 超自然化を伴う宗教的理由によると考えられる。 世親の﹃三十論碩﹄(玄突訳)では、唯識の﹁究寛﹂を明かす第三

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頓に、仏陀を﹁無漏・常住﹂と説く。そ して、それを注釈するのに﹃成唯識論﹄では、アビダルマ(法の研究)による精轍な釈成を志向するために、対 法(アビダルマ)ならば﹁有漏・無常﹂であるものを、いかに大乗的に転換させるか、きわめて興味ある解釈を ① 試 み て い る 。 - 22-む 官 や ︿ あ ん ね ひとつには、大乗でも﹃阿昆達磨集論﹄(無著)と同﹃雑集論﹄(安慧)には、﹁如来の十五界(身体)は唯だ 有漏である﹂と説かれる。﹃成唯識論﹄ではこれを、﹁有義﹂を詳しく挙げて大乗のアピダルマ(法相理論)によ る﹁無漏﹂義を明白にしている。いまひとつ、仏身(有為仏)が﹁無常﹂であることは、﹃成唯識論﹄でもアビ ダルマの法相によるかぎりは、これを認めざるをえない。けれども、大乗的には三身説のなかの﹁法身﹂のみな らず、﹁報身(受用身ごと﹁応身(変化身)﹂にも﹁常住﹂である意味を明確にせねばならず、これにきわめて 巧妙な解釈を与えている。ただ、﹃成唯識論﹄は中期大乗仏教の精華である唯識思想を、精密な法相理論によっ その大系を著したために(このことは﹃成唯識論﹄の特色であり重要な功績でもある)、﹁有為仏 のちに中国や日本で﹁一乗・三乗論争﹂が起こったとき、一乗側(例えば唐の法宝 て 体 系 づ け て 、 の 無 常 ﹂ を 認 め る こ と か ら 、 から批判されて、三乗仏教(半小乗)のレッテルを張られることになる。 本稿では、これらの観点から﹃成唯識論﹄の説く仏身観の特色を明白にしてみたい。なお、同﹃論﹄の論文解 など )

(3)

士 冗 こ や ﹂ 。 吾 -M M I M -u き 慈恩基の 官ゆっき ﹃ 成 唯 識 論 述 記 ﹄ ② を 参 照 し た い 。 二 、 ﹃ 唯 識 三 十 頒 ﹂ の 第 三

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頒文とプッダ(仏果位)

の特性

世親(︿自己

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山 口

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﹃ 唯 識 三 十 頭 ﹄ では、唯識の﹁究寛の相﹂(仏果位)を、第三 O 碩文につぎのように 。〉 説 く 。 唯識説における仏身観の特色 む ろ か い ふ し ぎ ぜ ん U ょ う 此れは即ち鉱山漏界なり。不思議・善・常なり。 f f っ し ん 世 い む に 安楽・解脱身なり。大牟尼なるを法と名づく。 、、、、

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包 ¥ 可 し ゅ 巴 ゅ う い て ん ね ︿ き ょ う い これを、﹃成唯識論﹄ではまず、﹁論じて日く、前の修習佐の所得の転依は、即ち是れ究克位の相なりと知る 応し﹂と釈向。すなわち、﹃唯識三十碩﹄では第二六碩から唯識の﹁修道五住﹂(修行の階梯)を一頃ずつに説き てん官きとくち では第四の修習位で﹁転依﹂(転識得智)を明かしたのを承けて、ここでは﹁転依によ

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- 23 進め、前碩(第二九頚) って得られた﹂第五の相は﹁究寛位﹂、つまり究極の仏果(仏身)であるとして、これを説くという。そして、 基の﹃唯識述記﹄ではこれを注釈して、﹁碩の中に三有り。初めの一句は位の体を出し、次の七字は勝徳を顕わ え ら ⑤ し、余の八字は二乗を簡んで三乗の別なることを顕わす﹂という。これによると、第一句の﹁無漏界﹂ ( 山 口 倒 印 H 1 M 円 ︿ 。 島 回 目 ロ 吋 ) と は 仏 陀 の 本 質 ( 住 の 体 ) を 顕 わ し 、 次 の 玄 英 訳 の 七 字 、 つまり不思議

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廿 ) ・ 善 つまり解脱身

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・ 安 楽 ( 印 ロ

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は、仏陀の勝れた徳相を表現し、そして後の文字、 と大牟尼(ヨ品川同日ロロ岳)などは、仏身が二乗(小乗)の証果よりも異なる特質をもつことを ( 丘 自 己

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担 、 。 )

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顕 わ す と す る 。 したがって、﹃成唯識論﹄ではこれより碩句の意味を、アビダルマの手法で解釈してゆく。なかでは、第一旬 む ろ の﹁無漏﹂の意義を吟味することがとくにくわしい。初めに第一旬の字義を示して、次のように解説する。 こ し な ず い ぞ う ﹁此れ﹂とは、此の前の二転依の果を謂う。即ち是れ究寛の無漏界に摂む。諸漏を永えに尽くし、漏の随増 し よ う ま E ぞ う するには非ず、性として浄く、円かに、明らかなり。故に﹁無漏﹂と名づく。﹁界﹂とは是れ蔵の義なり。 此の中に無辺の希有の大功徳を合容するが故なり。或いは是れ因の義なり。能く五乗の世・出世間の利楽の "佳識説における仏身観の特色 事を生ずるが故なり。(かぎかっこは引用者による) ここで、﹁二転依の果﹂とは、前の第二九碩の下に﹃成論﹄で説かれた﹁転依による二種の妙果﹂、 ⑥ として証得された浬繋(四種埋繋)と菩提(四智心品)を指す。そして、それらは仏道の究極にある﹁無漏界﹂ し り ょ う い け 宮 ょ う い っ 世 つ い し ゅ 巴 ゅ う い に属するといい、このことは先行の四位の修行階梯(資糧住・加行位・通達位・修習住)を超えた究極(究寛 位)に佐置すると同時に、そこにいう究寛は二乗(小乗)よりも高く勝れていることを合意する。ついで、﹁鉱山 ず い ぞ う 漏﹂の意味に五義を述べる。すなわち、﹃述記﹄(巻一

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末)によると、付﹁諸漏を永く尽くす﹂と白﹁漏の随増 ぽ ん の う ぞ う お う ぽ ︿ し ょ え ん ぽ ︿ するに非ず﹂は、煩悩(漏)を完全に克服したことをいい、なかで付は相応縛について、

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は 所 縁 縛 に つ い て 、 巴 し よ う 世 ん り ぽ ︿ 世 ん これら二縛をともに離れていること、また付は自性断で

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は離縛断にて、これら二断を成就していることであ ① し よ う き ょ む が ︿ る。白﹁性として浄く﹂は、二乗の証果と比較するとき二乗の無学は善性の有漏の五組(身・心)を残してい ま E うが︿ るのに対し、仏果では完全に清浄であることをいう。側﹁円か﹂は宥学位(因位)の無漏がまだ完全でないのに 対し、仏果位の無漏が完全であるのをいう。同﹁明らか﹂はこれも二乗無学の無漏に対して、或いは菩薩位の無 - 24-つ ま り 仏 果 漏に比べても明らかに最高に勝れる意味をいう。このように仏果では、二乗無学等の無漏を超過した究極の無漏 ぽ 古 い う い ね は ん む であるとされる。またつぎに、﹁界﹂は蔵(くら)の意味で、これは菩提が有為の功徳を、浬繋が無為の功徳を

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蓄えているごとく、仏果には無辺の偉大な功徳が合蔵されていることである。そして、界には因(縁因) もあり、これは無漏の証果が世間であれ出世間であれ、あらゆる衆生(五乗) むようえん 上縁となって利益をもたらすのをいうとする。 の た め 所 縁 認 識

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〉 対 象 ) の や 意 増す昧 つぎに、﹃成論﹄では究覚位の無漏について、問題となる諸点を論釈する。すでに右に、仏果の無漏は二乗 の証果や菩薩の無漏とは異なって、はるかに勝れている意味を明白にしたが、それに対して部派(二 ( 小 乗 ) 唯識説における仏身鋭の特色 乗)などから起こる疑問を想定して、これに答える論述をなす。ひとつには、次のような小乗との問答である。 お さ い か ん r う た い ︿問﹀清浄法界は唯だ無漏に摂む可し。四智心品は如何ぞ唯だ無漏なるや。︿答﹀道諦に摂むが故に、唯だ無 しゅしよう 漏に摂む。謂く、仏の功徳及び身・土等は、皆な是れ無漏の種姓に生ぜられる。有漏法の種を、己に永え 巴 げ ん し よ う 口 に捨つるが故なり。示現して生死の身と作り、業・煩悩等をもって、苦・集諦に似ること有りと雄も、而も 実には無漏にして道諦に摂めらる。(︿問 V ︿ 答 ﹀ は 引 用 者 ) し よ う 日 ょ う ほ っ か い し ち し ん ぽ ん ここでは、清浄法界(浬繋)は理法(無為法)であるから無漏であることは問題はないが、四智心品(菩 ワ 白 提)は事法(有為法)なので法相(アビダルマ)からいえば無漏とはいえないはずである、という疑問による。 これは、次の問答でいっそう明白となる﹁十五界唯有漏﹂説が前提となっていて ( そ の こ と は 後 に 述 べ る ) 、 有 為法で機能する智慧(四智心品)が﹁唯無漏﹂である意味を問う。これに答えるには、道諦に属するからという (四諦では苦・集諦は世間法にて有漏であり、減・道諦は出世間法の無漏であるから)。唯識の法相では、無漏 種子が有漏種子を対冶して仏果(仏身・仏土等)を成就する。それが、釈尊のように覚者となってのちにも、人 聞の身体(生死の身)をもち、普通の人間と同じような所作(業・煩悩等)によって、弟子を叱ったり背痛を訴 えたり亡くなったり(入滅)するのは、いわゆるコ不現﹂(衆生教化のために仮に衆生と閉じ姿を示す)であっ ゆ が ろ ん て、実質には道諦の無漏に属するというのである。そして、このような理解は、﹃稔伽論﹄巻六八の所説にその

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⑧ 典拠が求められる。また、問う方の部派では﹁大衆部﹂を除くと注釈されるのは ( ﹃ 述 記 ﹄ 巻 一

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末 ) 、 大 衆 部 は 大乗に近い理解をもっているからであろう。 =一、如来の身体が﹁有漏﹂であることの問題と大乗的な解釈 覚者(如来) の身体が世俗(有為法) で動作するとき、これが無漏であることは、部派(アビダルマ仏教)を 承けた大乗でも問題となる。﹃成論﹄では、 そのことをつぎに問答によって論釈する。 唯識説における仏身観の特色 ︿問﹀﹃集論﹄等に、﹁十五界等は唯だ是れ有漏なり﹂と説く。知来には量に、五根・五識・五外界等は無か う f u ん 官 ん み み よ う らんや。︿答﹀有義には、加来の功徳と身・土は、甚深にして微妙なり。有に非ず、無にも非ず。諸の分別 け ろ ん を離れ、諸の戯論を絶つ。界・処等の法門に摂められるには非ず。故に彼の説と理は相違せず、という。 ( ︿ 問 ﹀ ︿ 答 ﹀ の 文 字 と か ぎ か っ こ は 引 用 者 ) ここで、﹃集論﹄等とは無著(﹀

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) や 安 慧 百 円 宮 町 山 富 岡 山 門 戸 ) に よ る 、 ⑨ 指す。また、﹁十五界﹂は五根・五境(五外界)・五識の、 よく知られた大乗のアビダルマ論書を いわゆる身体的(眼・耳・鼻・舌・身) の 領 域 を い う 。 これらは仏身においても﹁有漏﹂であると説かれることが、ここでは問題なのであるが、そのことは次のような ぴ ぱ し や む ひ に よ 事情によると考えられる。すなわち、﹃大見婆沙論﹄などによると、釈尊(如来)には﹁無比女によって恋愛心 し ま ん い か り き ょ う ま ん を起こされ、また指聾(鴬咽魔羅)によって眠を起こされ害せんとされ、或いは倣士(騎慢婆羅門)に軽蔑さ れた﹂例があるように、一時的とはいえ仏身を対象に煩悩(愛・眠・慢)を起こされたことは、知来も身体に関 ⑪ しては有漏と言わざるをえないというのである。このような故事を承けて、右のような所説と疑問があるとみて よい。これに答えて、右の文には有義(第一説)が挙げられる。それは、大乗の﹁三論宗諸師﹂、 つまりインド p o n L

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しようぺん で は 中 観 派 の 清 弁 ( 回 百 ︿ 当 日

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釦)らによる答えである。これによると、如来の身体と国土、およびその備える功 徳は﹁非有非無﹂にて、分別や言語(戯論)を超えたものだから、﹁菰・処・界﹂(有為法)には属さず、﹁唯有 漏﹂の所説は仏身のことではない と 主 張 さ れ る 。 ﹃ 成 論 ﹄ で は 、 ついで大乗による第二説が挙げられる。 み よ う C ょ う 有義には、如来の五根・五境は、妙定より生ずる故に、法界の色に摂む、という。非仏の五識は、此れに 依って変ずと雄も、然も象・細を異にし、五境に摂むるには非ず。如来の五識も五識界には非ず。﹃経﹄に、 阿佐識説における仏身観の特色 ﹁仏心は恒に定に在り﹂と説くが故に。﹃論﹄に、﹁五識の性は散乱なり﹂と説くが故なり。 け ゅ う 成所作智は、何の識と相応するや。第六と相応す。化用を起すが故なり。観察智とは性として何の別か有る や。彼れは諸法の自・共の相等を観ず。此れは唯だ化のみを起すが故に差別有り。此の二の智品は並生せざ る応し。一類にして二識は倶起せざるが故なり。並起せずと許すとも、理に於いて違うこと無し。体を同じ ゅう くすれども、用は分れる。倶なるとも亦た失に非ず。 こ ん し き 或いは第七の浄識と相応す。眼等の根に依って色等の境を縁ずるは、日疋れ平等智の作用の差別なり。謂く、 浄の第七は他受用の身・土の相を起きば、平等品に摂む。変化を起こさば、成事品に摂む。宣に、此の品は 五識を転じて得るにあらずや。彼れを転じて得るゆえに体は即ち是れ彼れには非ず。生死を転じて浬般市を得 と言へども、浬繋を同じく生死に摂む可からざるが加し。是の故に、此れに於いて難を為す応からず。 - 27-ここでは、少し長文にわたるので適当に段落を付した。初め (第一段)にはその主張を述べ、如来の身体と国 土(五根・五境)は、勝れた禅定(妙定)の力によって生ずるので、第六意識の所縁である法処所摂色(法界 色)に属するという。したがって、そのような身・土は非仏の五識が変じ出す五境(免雑)とは異なって、妙定 (第六意識所変)による微細なものであるから、五境(島雑で有漏)には属さず、また如来の五識もこの場合に

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は機能をもたない(仏の身・土と功徳等は五識所変でない)から、五識界には属さないとする。それで、﹁十五 界唯有漏﹂義は仏身には当てはまらないことになり、これを証明するのに経典(説無垢称経)と論書(対法論)

を 引 用 し て い る 。 しかるに、この主張には疑問が生じる。 日佐識説における仏身観の特色 つまり(右の第二段に)、仏身には五識は機能しないとすれば、五識 を転じて得られる成所作智はいずれの識と相応するのかと問う。これには二つの解釈があり、初解では第六識が 化用(衆生教化のための働き)を起こしたものが成所作智であるという。それなら(第六識と相応するなら)、 成所作智は第六識相応の妙観察智とどう違うのかという疑問が生じ、これには妙観察智は物事(諸法)の独自の 相と共通の相(自・共の相)をよく観察するのに対して、成所作智はそれの化用としてのみ働くという区別があ るとする。すると、さらに疑問が起こされ、同類の二識は倶起できない原則があるので、それら観察と所作の二 智はともに第六意識相応だとすれば、倶起(並生)できなくなるではないか、と問う。これに対しては、一つの 意識から並起するので本体は同じでも、働き(用)が分かれるので道理には違わない、と答えている。 つぎに(第三段てもう一つの解釈(後解)では、成所作智は第七の浄識(平等性智)と相応して働くという。 それは、眼等の根(五根)のもとに色等の境(五境)が認識されるのは、平等性智の働きが区別をするからであ る。すなわち、浄品の第七識(平等性智)は衆生教化のために、受用と変化の二身を起こすことができ、その場 合に菩薩(十地の菩薩)を教化するのには徴細で勝れた他受用の身・土を変起し、昇、生の類(凡夫)を教化する ためには島雑で劣った変化身を起こすのであるが、受用身は専ら平等智に属するに対し、変化身は五根・五境 (凡夫のための魚雑な身・土)に依るため成所作智の所属なるも、これは実質には平等智の働き(作用の差別) であるとみるのである。すると、ここでも北帽子の疑問があり、成所作智は五識を転じて得られるという意味はど 五識を転じて成事智を得るとも、その本質(体)は五識ではないという。と 。 百 円 L うなるのかと問う。これに答えて、

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ぃ 、 つ の は 、 生死を転じて浬繋を得るからといって、浬繋を生死に属せしめることはありえないのと同じで、 そ

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〉 疑難は妥当でない、と右には結んでいる。 成所作智(五識相応)についてはこのような二つの理解が可能であるが、結局この有義では仏には第六意識に 関わる三界のみが真実であり、余の界(十八界中の余の十五界) は仮法とみるのである。 園、守成唯識論﹂における ﹁仏身無漏﹂解釈の正義 唯識説における仏身観の特色 ﹃成唯識論﹄では、異説(有義)が複数挙げられるときは、後の解釈が前のよりもいっそう妥当で正しいとい ごほうしよう -Z う性格をもっ。いまは、第三の﹁有義﹂が正説(護法正義)として示される。それは、﹁如来の十八界は皆な純 粋に無漏である﹂とするもので、次のように論釈される(ここでも中間に段落をつけて引用したい)。 有義には、知来の功徳と身・土は、応の知く菰・処・界の中に摂在し、彼の三は皆な有漏と無漏に通ずとい ぅ。﹃集論﹄等に、﹁十五界等は唯だ有漏なり﹂と説くは、彼れは二乗の免・浅の境に依って説き、 くには非ず。謂く、余の成就せる十八界の中には、唯だ後の三のみ有りて、無漏に通じて摂めらる。仏の成 一 切 を 説 就したまへるは、皆な無漏なりと雄も、而も二乗の知る所の境に摂むるには非ず。然も余処に、仏の功徳等 を界等には非ずと説くは、二乗の劣れる智の知る所の界等の相に同じからざるが故にして、理は必ず爾る応 し 、 ヲ 一 ん 所以は何ん。有為法は皆な殖に摂むと説くが故に。 遮したまへる所なるが故に。若し戯論を絶つゆえに便ち界等には非ずとすれば、亦た﹁即ち無漏界なり、 善・常なり、安楽・解脱身なり﹂等とも説く応からず。又た処処に、﹁無常の誼を転じて、常の謹を獲得す。 一切の法は界と処に摂むと説くが故に。十九界等は聖の

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界・処も亦た然なり﹂と説く。寧んぞ、知来は羅・処・界に非ずと説くや。故に非なりと昌一一尽フは、是れ密意 の説なり。又た﹁五識の性は散乱なり﹂と説くは、余の成ぜる者を説き、仏の所成には非ず。故に、仏身の 中には十八界等を皆な釆

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具足し、而も純ら無漏なり。 1 1佳識説における仏身観の特色 ここでの主張は、﹁五組・十二処・十八界﹂の三種は有漏と無漏に通ずるなかに、仏のそれらは唯だ無漏であ るとする。いま、仏の﹁誼・処・界﹂とは、﹁知来の功徳と身・土﹂など有為法の類を指す。それで、先にみた 無著の﹃集論﹄などに、﹁十五界唯有漏﹂と説くことについては、それは二乗(小乗)の麗悪で浅い境界と智慧 こ ま や (仏の微かで深い境界と智慧に対す)について説くのであって、仏を含めたすべて{一切)について説くのでは ない、と右には会釈する。すなわち、仏を除く余の二乗や菩薩(十地の位で修行する菩薩)が成就する﹁十八 界﹂では意界等の三(後の三)のみが無漏に通じて、﹁前十五界は唯だ有漏﹂であるが、仏が成就せる境界(十 八界)は二乗などには理解しえないもので、すべて清浄(無漏)であるというのである。また、余処(大般若経 - 30一 など)に﹁仏の功徳等は界等(有為法)には含まない﹂と説かれることがあるのは、これも二乗の劣った知恵の 境界とは同じでないことをいうもので、道理に矛盾はない、と会釈する。 ついで、右の文の後段には、前二師(有義)の理解を批判する。初めの有義に対しては、論書には五殖を有為 ⑫ 法とし、また﹁十二処・十八界 L をもって一切法とし、そして﹁十九界﹂などは否定されるので、仏の身・土 (五根・五境)もまた﹁十八界﹂等の有為法に属せしめてもよい、と主張する。もし、戯論を絶しているから有 為法(界等)でないというなら、いまの究寛住の碩文に﹁無漏界・善・常﹂などと説かれることもないはずであ ⑬ り、また処々の経・論には﹁常誼﹂など加来の﹁趨・処・界﹂を説くのであるから、もし色界等はないなどと否 定されるときには、密意によって(二乗のごとき負・浅の境界ではないことを顕わす別の意図をもって)説くも の と す る 。

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そして、第二師(有義)に対して、先に引用された﹃対法論﹄の﹁五識散乱﹂の語は仏のことではないと退け る。かくて、仏身にも﹁十八界は具足し﹂ていながら、しかもそれらは純粋に清浄(無漏)である、と結論づけ ⑬ て い る 。 五 、 如 来 の 勝 徳 と ﹁ 常 住 ﹂ に つ い て の 問 題 唯識説における仏身観の特色 ﹃成唯識論﹄では、﹁無漏界﹂の問題を詳しく論じたのち、第三

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碩文の﹁知来の勝徳﹂を順に解説してゆく。 その一つには、﹁不思議﹂を次のように釈す。 ロ ん し ご ん ぎ 此の転依の果は、又た不思鵠なり。尋思と言議の道を超過するが故に、微妙にして甚深なり。自の内に証す * h b -るが故に。諸の世間の喰をもって喰える所には非ざるが故なり。 - 31-偽果のもつ勝徳の一を﹁不思議﹂というのは、文字どうりに思慮も言説も超えているからであり、また右の文 みみよう E ん官ん に微妙で甚深とは言語を絶するほどに最高に優れることを表現する言葉である。そして、加来は自己の身・心の なかに智慧(能証の智)と真理(所証の理)を証得しているので、世間的な警轍では比べるものがないという。 つぎに、加来の勝徳の二つ目に、﹁善﹂については次のように解釈する。 此れは又た是れ普なり。白法の性なるが故に。清浄法界は生滅を遠離して、極めて安隠なるが故に。四智心 品の妙用は無方にして、極めて巧便なるが故に。二種ともに皆な順益の相有るが故に、不善に違えるが故に、 倶 に 説 い て 善 と 為 す 。 ﹃論﹄に﹁処等の八は唯だ無記のみなり﹂と説く。如来には宣に五根と三墳は無きや。此の中には一ニ釈あり。 一切の如来の身・土等の法は、皆な減・道に摂むが故に唯だ是れ善なり。聖は 広く説くこと前の加し。

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﹁滅・道の唯だ善性なる﹂を説きたまへるが故に。﹁仏土等は苦・集に非ず﹂と説くが故に。仏の識に変ぜ られる有漏・不善・無記の相の等きは、皆な無漏善の種に従り生ぜられるゆえに、無漏の善に摂む。 この文の初めに﹁此れ﹂とは、転依の二果(菩提と浬繋)つまり究寛位の仏果を指すことは言うまでもない。 それが﹁有漏善﹂とは異なる意味を四義 それが﹁善性﹂であることは、無漏法(白法) の ゆ え に 他 な ら な い が 、 つまり﹁四つの故﹂をもって釈す。すなわち、付清浄法界(浬繋) は生滅を離れて極安楽であるから、向日四智心 唯識説における仏身観の特色 品(菩提)は働き(妙用)が縦横無尽に巧みであるから、臼それら浬繋と菩提の二種(無為と有為の二種)はも U ゅんや︿ つばら利益をもたらす(順益である)から、そして剛悪(不善)とは相容れない性質をもつからという。 しかるに(後段にてここでもまたアビダルマ(法相)上の問題が吟味される。それは、﹃対法論﹄に﹁十二処 ⑬ 中の八界は唯だ無記性である﹂と説かれるからである。ここで八界は五根(眼・耳・鼻・舌・身)と香・味・触 内 ︿ d で あ る こ と を い う が 、 五境から の 三 境 を 指 す 。 つまり、物質に属するもの (色法)は無記(善でも悪でもない) 色と声の二境(二界)が除かれるのは、善・悪の心から起こされる身・語の業はそのまま等しく善・悪の身・語 表(記づ飴)を形成するとみられるのによる。ともかく、物質的な八界(八処)は無記であるとすると、善であ ることとは相違する。これに答えるには、右の文では前の﹁十五界唯有漏﹂義に対する三つの解釈と同じである あ ら とする。したがって、一二釈の﹁正義﹂をここに適用すると、﹁八界唯無記﹂は二乗の魚くて浅い根・境について いうのにすぎず、如来の境界はすべて﹁身・土の法﹂をも含めてみな滅・道諦に属して唯だ無漏である故に善で あるということになる。そして、減・道諦が善であることは、種々の経・論に説かれることであり、右には﹃対 ⑬ 法論﹄等の所説を示したう、えで、仏の識によって変ぜられる有漏・不善(悪)・無記などの相はみな衆生救済の ロ ぞ う ( 似 相 ) で あ り 、 ためになされる仮のもの と 結 論 し て い る 。 いずれも実には無漏善の種子から生じたものなので、無漏普に属する、

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の 三 つ 目 に 、 加来が﹁常住﹂であることは、次のように釈される。 さてつぎに、勝徳(四徳) 此れは又た是れ常なり。尽期無きが故なり。清浄法界は生も無く滅も無く、性として変易無し。故に、説い て常と為す。四智心品の所依は常なるが故に、断ずることも尽くることも無し。故に、亦た説いて常と為す。 自性常には非ず。因従り生ずるが故に。生ずる者は減に帰すとの一向記の故に。色・心は無常に非ずといふ ことを見ざるが故に。然も、四智品は本願力に由って、所化の有情の尽期無きが故に、未来際を窮めて、断 ずることも無く、尽くることも無し。 唯識説における仏身観の特色 ここで、﹁常﹂とは前にも後にも尽き果てる時がないのをいうが、先の善と同様にこれ(転依の二果)を、清 浄法界(浬繋)と四智心品(菩提)とに分けて説明する。すなわち、浬繋(鉱山為・真如)は生・滅無く、変化 (変易)もしない性格のもので、これは自性常と呼ばれ、仏の三身では法身(自性身)に相当する。これに比べ、 - 33-は真知(自性常)を依り所とする故に、断滅することも尽き果てることもないので常と説か れるが、自性常とは意味を異にする。これは三身では報身と化身の性格をいい、有為法に機能する仏身である。 菩提(有為・智慧) 右の文ではそのことを、因(種子)より生ずる故に、また生ずるものは必ず滅するとの一向記の故に、そして色 と心は無常なるが故にと述べ、つまり四智心品は有情を教化せんとの本願力により、救済されるべき有情が尽き ないために、未来際に断ずること無く、また尽きることが無いという。このような性格を﹃述記﹄には、報身は 不断常(無断)、化身は相続常(無尽)であるとしてい旬。 さて、ここでの所説には、後に中国や日本のいわゆる一乗家から批判が加えられた。すなわち、唐代の法宝

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三│)は﹃一乗仏性究克論﹄(六巻)を撰述して﹁一乗仏性﹂の立場から﹃成唯識論﹄の所説(三乗五 性)をさかんに批判したなかで、次のように論述している。 成唯識論は己が見聞に限って、大聖を庇量し妄りに三因を以て仏の無常を証す。 一 向 記 の 故 に 因従り生ず

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唯識説における仏身織の特色 ⑬ るが故に、色・心の無常に非ざるを見ざるが故に、という。 ここにコニ因﹂とは﹃成論﹄が述べる三つの﹁故に﹂を指す。それら三つの理由は、﹃成論﹄で報身・化身 (有為仏)を自性常(無為)ではなく、無断常・無尽常としたアピダルマ(法相)上の解釈にもとづく。これに 対して、法宝では浬紫経や密厳経などの一乗と仏性に親しい大乗経典を根拠に、有為と無為を融会した理解の上 に仏身のいかなる無常性をも否定して、その常住性を主張する。なかで、﹁一向記﹂について、これは四記(一 向記・分別記・反詰記・捨置記)による釈尊(如来)の説法の仕方をいうが、法宝では﹁生ある者は必ず減す﹂ と例外なく一向に説かれる教えをここに適用するなら、﹁煩悩有る者は死して復た生じ、煩悩無き者は死して生 ぜず﹂という分別記もまた適用されてよく、いま煩悩を断滅した仏身が有情教化のために働くとする大乗では、 分別記は当て織まらないのであり(それゆえ一向記を仏身にあてはめるのも誤っている)、とすれば一向記など の四記は小乗の見方にすぎず、そのためアビダルマの法相理論をもってする﹃成唯識論﹄を半小乗として退ける - 34-の で あ る 。

dJ ニ 乗 ( 小 乗 ) を 排 斥 す る 大 乗 唯 識 の 仏 身 観 ﹃成論﹄では、大乗の説く仏身が二乗(小乗)の証果に対していかに勝れているかを論釈する。そこで、仏身 のもつ勝徳(四徳)についてはもうひとつ、﹁安楽﹂を次のように解説する。 ひ っ の う 此れは又た安楽なり。逼悩すること無きが故に。清浄法界は衆相を寂静するが故に安楽と名づく。四智心品 は悩害を永く離れるが故に安楽と名づく。此の二の自性は皆な逼悩すること無く、及ぴ能く一切の有情を安 楽ならしむ。故に二の転依を倶に安楽と名づく。

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ここでも、仏果(転依の二呆)を清浄法界(浬繋・無為)と四智心口問(菩提・有為)とに分けて理解する。つ まり、浄法界では衆相の差別をなくし平等安静(寂静)であること、また四智品では煩悩と悪害(悩害)を永久 に離れたことが安楽の意味であって、菩提と浬繋(二転依)はともに侵し悩ますこと(逼悩)が無く、一切衆生 を安楽に導く力能をもっという。このような安楽について、﹃述記﹄では﹁五安﹂と﹁五楽﹂を数えるといい、 唯識説における仏身観の特色 それらの解説を﹃成論﹄の最初の帰敬頓に﹁利楽諸有情﹂と説くなか﹁十利五楽﹂が詳しく注釈されるのに譲っ ている。そこに﹁五楽﹂とは、﹃瑞伽師地論﹄に説く﹁因楽・受楽・苦対冶楽・受断楽・無悩害楽﹂を根拠に、 さらに法数を挙げて詳しく解説しているが、要するに有情を教化する仏身の勝れた徳性を顕揚す旬。 つぎに、﹃成論﹄では大乗の仏身観が二乗の所得果と大きく異なることを、﹁解脱身・大牟尼・法身﹂について 明らかにして、次のように論述する。 げ市っしん 二乗所得の二転依の果は、唯だ永えに煩悩障の縛のみを遠離し、殊勝の法無きが故に、但だ解脱身と名づく。 だ い む に 大覚世尊は、無上なる寂黙の法を成就したまうが故に、大牟尼と名づく。此の牟尼尊の所得の二果は、永え ほ っ し ん に二障を離れたれば亦た法身とも名づく。無量無辺の力と無畏等の大功徳の法に荘厳せられたまえるが故な り。体・依・緊の義をもって、総じて説いて身と名づく。故に此の法身は五法をもって性と為す。浄法界の - 35-みを独り法身と名づけるには非ず。二転依の果は、皆な此れに摂むるが故なり。 ここでは、初めに﹁解脱身﹂について、二乗の究寛位(二転依の果)では煩悩(縛)のなかの煩悩障のみを克 ふ h y 服しても所知障を退治しないから、また﹁十力等の十八不共仏法﹂(殊勝の法)に荘厳されていないので、煩悩 (縛)を離れる意味を表す解脱身のみの名をもつにすぎないという。対するに、仏身(大覚世尊)では解脱身で あることはもとより、党語で言語を絶した(寂黙)との意味をもっ牟尼(自己巳) の語で表現される偉大な(無 上)法を成就しているので﹁大牟尼﹂と呼ばれる。そして、この牟尼尊は永久に煩悩・所知の二障を離れている

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そのことをもって﹁法身﹂といい、これは解脱身の上にさらに無辺の力用と殊勝の功徳に荘厳されている 意味を含むという。したがって、ここでいう法身は浄法界を指して法身と呼ぶような三身(法・報・化の三身) のなかの一つではなく、その本質(体性)と依り所(依止)と衆徳(徳束)のすべてに完全な身体という意味で 三身に通じた名であり、そのために清浄法界(理)と四智心品(事)の五法を内容とし、二転依の果(浬繋と菩 提)を皆な法身の語に含めてここでは説く、と右には結んでいる。 の で 、

七、結

論ー唯識の三身(四身)説

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唯識説における仏身観の特色 本稿では、大乗仏教の唯識思想が明かす仏身観を、﹃成唯識論﹄の解釈によってみた。そこには、仏身の﹁鉱山 漏﹂についてとくに詳しく、また﹁善性﹂と﹁常住﹂等の勝徳についても、部派から受け継いだアビダルマ上の 諸課題を、大乗的に巧みに問題解決する手法の論釈がみられた。それと同時に、仏身についてこれを、清浄法界 (浬繋・無為)と四智心品(菩提・有為)とに判別して理解する解釈上の特色がみられた。これらのことは、性 ぞ う は ん 巴 や ︿ て ん 官 暑 と ︿ ち (無為)と相(有為)を判釈暁別して、転迷開悟(転識得智)の階梯を、部派の法研究(アビダルマ)の成果 を駆使して、有為法のなかに跡づける轍密ですぐれた学的営為というべきである。このような手法が、後に中国 ゅうえ や日本で﹁性・相融会﹂の立場で批判を被るのは、﹁一乗と仏性﹂をより勝れた大乗思想と確信する東アジア的 な宗教的特性によるものといえる。インドの大乗仏教では、本稿での﹁仏身無漏﹂の﹁有義﹂釈にもみられたよ うに、初期の龍樹を承けた清弁らの中観思想を批判して、中期大乗の唯識によるより勝れた学説を発揮せんとし て、その大系を構想したのが﹃成唯識論﹄の特性なのである。 ﹃成唯識論﹄では、すでにみた論釈ののちに、よく整備された自らの﹁仏身・仏土﹂義を三身・三土または四 -

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36-身・四土によって提示している。それらはのち大乗仏教の一般にも用いられほどによく知られるところとなり、 @ いまは結論として簡略に図示しておきたい。 唯畿税における仏身観の特色 註 ①玄笑訳﹃成唯識論﹄巻一 O ( 大 正 三 一 を 用 い る 。 ②基﹃成唯識論述記﹄巻一 O { 大正四三・六 OOcl 六 O 三 b 、大系本﹃成唯識論﹄第四・六二五 l 六 三 七 頁 ) 。 な ぉ、本稿では大系本を用いる。また、﹃成喰識論﹄は﹃成論﹄、および﹃成唯識論述記﹄は﹃唯識述記﹄または単に ﹃ 述 記 ﹄ と も 略 称 し て 呼 ぶ 。 ③玄笑訳﹃唯識三十論頒﹄(大正一三・六一 b ) 。 ω 1 4 包 ロ F m i ・ ︿ ロ 宮 司 氏 ヨ 削 可 巳 削 回 目 円 昌 弘

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・ ④新導本﹃成唯識論﹄巻一 0 ・ 二 O 頁。なお、本稿でのこれ以下の﹃成唯識論﹄からの引用文は、この文に続いて注 ①の範囲内にあるときは、もはや典拠を記すのを省く。 ⑤基﹃成唯識論述記﹄巻一 O 末(大系本﹃成唯識論﹄第四・六二五頁)。なお、本稿の以下に﹃成唯議論﹄の論文解 読では、注②の範囲内の﹃述記﹄をつねに参照して解説するので、とくに必要のあるときを除いて、いちいち典拠を 挙げてことわらないことにする。また、﹃述記﹄の要点を記した﹁新導本﹂の傍注をとくに参照しながら論文を読み -五 七 a i c 、 新 導 本 巻 一 0 ・ 二 Oi 二 五 頁 ) 。 な お 、 本 稿 で は 寸 新 導 本 ﹂ -

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37-唯識説における仏身観の特色 進 め て い く 。 ね 踏 ん 巴 し よ う し よ う 巴 ょ う う よ え む よ え bg ゅ う し よ ⑥新導本巻一 0 ・ 五 1 二 O 頁。ここに、﹁四種浬繋﹂とは自性清浄浬繋・有余依浬駒栄・無余依浬鍵・無住処湿繋を だ M え ん き ょ う ち び ょ う E う し よ う ち み ょ う か ん ぎ ヲ ち E ょ う し よ さ ち いい、また﹁四智心品﹂とは大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智をいう。なお、これらの解説は、深浦正 文﹃唯識学研究﹄下巻(一九五四年)七一九頁以下、或いは渡遁隆生﹃唯識三十論碩の解読研究﹄下(一九九八年) 一 三 二 頁 以 下 な ど に 詳 し い 。 ぞ う お う ぽ ︿ し ぼ ⑦ここで﹁二縛﹂とは、﹁相応縛﹂は心が機能する時にこれと相応して起こる煩悩に心が縛られることであり、対す し ょ え ん ぽ ︽ るに﹁所縁縛﹂は心が働くとき対象(境 H 所縁)となる事物や事柄に自己の煩悩が反映してまとわりつき、これが わ︿容主ラ 惑境(所縁}となってかえってそれ(所縁)に心が縛られるのをいう。また、﹁二断﹂は煩悩を断滅する二様をいい、 E し ょ う 世 ん り ぽ ︿ だ ん え ん ぽ ︿ だ ん ﹁自性断﹂は煩悩それ自体を断じ尽くし再ぴ生起しないことで、対するに﹁離縛断﹂は﹁縁縛断﹂ともいい、心の 対象(所縁)に自己の煩悩がまとわりついた惑境(所縁)について、その所縁から燦悩を取り除くことである。 ゆ が し 官 ろ ん ⑧﹃稔伽師地論﹄巻六八には、次のように説かれる。﹁五神通無静願智無礎解等、及諸加来力無畏等、所有一切不共仏 法、皆是道後所得其性清浄道所建立。由此因縁皆道諦摂。﹂(大正三

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・六七五三 巴 ゅ う る ん ぞ う 巴 ゅ う ろ ん ⑨無著﹃大乗阿見達磨集論﹄巻二(大正一三・六六七 C) 、安慧繰﹃大乗阿見達磨雑集論﹄巻三(大正三・七 O 六 C) 。後者の﹃雑集論﹄には、﹁漏種類者謂阿羅漢有漏諸斑、前生煩悩所起故、五取盛十五界十処全及三界二処少分 ︿ し ゃ る ん う ぷ 是有漏﹂とある。また、﹃倶舎論﹄(有部)では、﹁分別界ロ聞第ごの第三一一頒(前二句)に﹁意・法・意識通所余 唯有漏﹂と説くのが、﹁十五界唯有漏﹂義である(玄突訳巻二、大正二九・八 a ) 。 ⑬﹃大見婆沙論﹄巻四四(大正二七・二二九 a } 、同巻七六(同三九ごとなど。 ⑪説無垢称経巻四(玄奨訳)に寸念智常覚悟無不在定心﹂とあり(大正一四・五七六 b ) 、 ﹃ 大 乗 阿 毘 達 磨 雑 集 論 ﹄ 巻一(対法論、安慧様・玄笑訳)に﹁五識身の自性散乱﹂を説く(大正=二・六九九 b ) 。なお、ここで﹁五識が散 み よ う 日 ょ う み さ い む ろ 乱である﹂とは、﹁仏心が妙定にある﹂(微細で無漏)のに対して、五識の所縁(五境)が免雑で有漏であることを 意味して引用される。非仏(仏ではない菩薩や有情)の五識では、仏の身・土(五境)を所縁にこれを受用すること があるが、この場合に五識は仏所変の身・土(妙定所変}を増上縁として仏の身・土を自己の五境に変じ出すので、 妙定所変の仏身・土が微細・無漏であるのに対して、五議所変は免雑・有漏であるとみるのである。 ⑫説無垢称経には(巻四)、有情が有りもしない誤ったものを観る諸例に、﹁観第六組、観第七根、観十三処、観十九 n δ

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日佐識説における仏身観の特色 界﹂などを挙げる(大正一四・五七二 C) 。 ⑬浬禦経(北本巻三九)には、﹁色是無常、因滅是色、獲得解脱常住之色﹂(大正三了五九 O C ) などと説き、また ﹃大乗荘厳経論﹄巻三には、﹁一切諸仏悉同常住﹂(大正一三・六 O 六 C) を 説 く 。 ⑪この﹁十五界唯有漏﹂義を会釈する異説について、玄焚訳の﹃仏地経論﹄巻一にも(大正二六・二九三 C) 、同様 の三説が挙げられながら、順序と﹁正義﹂が異なっていることは、後世にやや問題とされた(﹃唯識論同学紗﹄巻六 七、大正六六・五八一 a1 五八二 a ) 0 ﹃ 成 論 ﹄ で は 護 法 ( U Y R 自 由 匂 削

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包 lgH) の学説を﹁正義﹂とし、また﹃仏 地経論﹄を造った親光は護法の門人とも考えられていて、両論は学説では閥系統とされ、ともに玄笑の編纂的翻訳 4 一 う と ゅ う 守 ︿ (合紅訳)にかかるものである。このことについては、長谷川岳史﹁﹃大乗阿見達磨集論﹄の十五界有漏説に関する ﹃仏地経論﹄と﹃成唯識論﹄の見解﹂(﹃仏教学研究﹄五六号、二 O O 二 年 ) に 論 じ て い る 。 ⑬安慧楳﹃大乗阿見達磨雑集論﹄巻四に﹁八界八処全及余菰界処一分是鉱山記。八界者謂五色根香味触界。八処亦爾﹂ と説く(大正コ二・七 O 九 C) 。この所説は、﹃倶合論﹄巻二﹁界口問﹂の第二九頓に﹁此除色声八無記余三種﹂(玄 笑訳、大正二九・七 a ) と説くのを承けている。 ⑬安慧繰﹃雑集論﹄巻六に﹁清浄世界非苦諦摂﹂などと説くのがみられる(大正一三・七一九 C) 。 ⑪仏身の三種常について、﹃大乗荘厳経論﹄巻三に﹁自性常・無関常・相続常﹂を(大正三一じ扶ぬ六

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出 地経論﹄巻七に﹁本性常・不断常・相続常﹂を説き(大正二六・三二六 b ) 、いずれも順に自性身(法身)・受用身 ほ う C ん へ ん げ し ん け し ん ( 報 身 ) ・ 変 化 身 ( 化 身 ) の 性 格 を 指 す 。 凶ち巴ょう X っ し よ う ぼ う に さ し よ う ⑬法宝﹃ベ乗仏性究支論﹄巻四﹁破法爾五性章第八﹂(浅田正博﹁新資料・法宝撰﹃一乗仏性究寛論﹄巻四・巻五 の両巻について﹂﹃龍谷大学仏教文化研究所紀要﹄二五集、一九八六年、一二三頁)。また、法宝の所論を承けて日本 の最澄(七六七│八一一二)が徳一との論争で、法宝を支持する論陣を張っている(最澄﹃守護国界章﹄巻下﹁弾食食 者謬破報仏智常章第一正大正七四・二二ニ cl 二二四 a ) 。なお、法宝のこの文についての詳細は、拙稿二乗・三 乗論争における三論宗の位置 l 玄叡の﹃大乗三論大義紗﹄と法宝の﹃一乗仏性究寛論﹄との関係を中心に│﹂(北畠 典生教授還暦記念﹃日本の仏教と文化﹄一九九 O 年)に論じたことがある。 ⑮基﹃唯識述記﹄巻一本(大正四三・二三四 a i b ) 、﹃稔伽師地論﹄巻三五(大正三 0 ・ 四 八 三 b ) 。 @仏身・仏土の﹁三身・三土﹂または﹁四身・四土﹂説については、こののちの﹃成唯識論﹄巻一 O の末尾に詳しく q d

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日住識説における仏身観の特色 論釈される(大正コ二・五七 ci 五九 a 、新導本巻一 0 ・ 二 五 l 三三頁)。そこでは、三身(受用身を二種に開けば 四身)を説いたのち、五法(清浄法界と凹智心口問)が三身(四身)にどのように配当されるか、また三身(四身)の 所依土に三土(四土)が対応すること、さらに﹁身・土﹂をめぐる唯識学上の諸問題が論じられている。いま、それ らの諸説から略図示について若干の補足を加えると、次のように言うことができる。 自性身(法身)は、法性土がその依るべき国土とされるように、真如の理体(清浄法界)にほかならず、これは受 用・変化身の所依となる実性であり、相を離れ言語を絶した寂然たるあり方をして、無辺際の真常の功徳を具え、一 切(有為・無為)の功徳法の依り所であるという。つぎに、受用身と変化身は仏身の智慈(四知日心口問)が有為法のな かで、とくに衆生救済のためにはたらくあり方をいう。なかで、受用身(報身)はこれを二種に分かち、自受用身は 大円鏡智に属して、如来が長時(三無数劫)に無量の福徳と智慧を修めた結果の、無辺の真実の功徳を具えた﹁円・ 浄・常・遍﹂の色身であり、これらを自らに受用していることをいう。また、他受用身は自ら受用するものを他に受 用せしめるはたらきをいい、これは平等性智によって示現する微妙の浄身であり、これによって初地以上(十地)の 菩薩が教化されるという(このような受用身は受用土を所依土とするなかに自受用と他受用とで所依土も相当の国土 に分かれる)。そして、変化身(化身)は地前の菩陵と二乗及ぴ凡夫を化益するために、成所作智より示現して機類 に応じて浄・機二土(変化土)に種々に姿を現す仏身をいう。このようななか、妙観察智は受用身と変化身に常に機 能して説法の力用を起こし、とくに衆生に神通力を発揮して(神変を現して)説法するなどは、固有に妙観察智のは たらきに属する。なお、他受用身は随{且応現の意味から﹁応身﹂とも呼ばれるが、変化身もまた随機応変のゆえに応 身とも言いうるので、この呼称には留意を要する。また、受用と変化(身・土とも)について、如来がこれらを変現 して衆生(有情)を化益するとき、有情ではそのままを受用できないという唯識の道理にも注意を要する。すなわち、 如来の変じ出した仏身・仏土は、有情ではそれらを疎所縁として自識所変の身・土(相分)を現し出して、これらを 受用する。複数の有情では、それらの身・土は共変の物柄となってよく似た相貌が認識される。その場合、如来の所 変は無漏に相違ないけれども、有情の側ではその所変は修行の段階によって、無漏智を獲得した程度に応じて、有漏 と無漏とがあって一定しないという。 - 40-キーワード 仏身観 身 義 十五界唯有漏 成唯識論 不断常 相続常

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その認定を覆するに足りる蓋然性のある証拠」(要旨、いわゆる白鳥決定、最決昭五 0•