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『宗教研究』第2年第7号(*7号)

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(1)

――目次―― 1,初期基督教の美術について,浜田耕作,Kōsaku HAMADA,pp.1-13. 2,涅槃経論(承前),松本文三郎,Monzaburō MATSUMOTO,pp.15-82. 3,神聖観念論,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.83-114. 4,千闐出土梵本法華経と妙本との関係,本田義英,Yosihide HONDA,pp.115-152. 5,梵文無量寿経批議(第2),荻原雲来,Unrai OGIWARA,pp.153-199.

6,現在仏教梵本目録,岡教邃,Kyōsui OKA,pp.201-208.

7,学会彙報,pp.208-209.

(2)

てい兢に衛染の歌督基親和

私は所謂韮背教の信者でじ無く、又化学開として宗教の研究家でも無い。ただ者焉聾の一卦 野として.初期韮背教者軍学 二冒そ︵ぎisti︰ヨAr仁一一貫首里 に就いて、多少の関係を有する の外、希胞及び伊太利を旗行し花際、此等の遺物に接して、初めは蹴る冷淡であつたが、次第 に大なる興味を戚ずるに至った史けであります。そこで此の邦人によつて多く閑却せられ易い 初期基督致の美術に闊して、撞く大腰の御話をして、諸君の注意を多少なりとも、此の問題に 摘はしめ皮いと云ふのが、私の目的であトごます。固より何等自己の研究と云ふ境往ものも無い

・瑠璃基密教豊実街に放いて

演 田

耕 作

_−−一 J・−・一州

(3)

節 こ 中 野 七 究研軟宗 のは、深く恥入る次第であゎ主す。 扱て初期基督致の美術とは何う云ふものを指すか、時代は何時迄を入れるかと云ふに、是は八 釜しく諭すれば面倒な問題であhソ1叉すが、一言以て之を被へば、中位美術即ち基督敬白身の美 術の起る以前、希臆雁馬風の美術即ちクラシック美術の手法を以て、基密教の将帥を表現した ものを指すのであhごます。そこで時代の方から云へば、基督数的美術の最も古いものゝある西 暦第一世紀の未から、ビザンツ式美術の螢達した時、即ち筋六世紀の絶境までを含めるのであ トソ1;す。 此時代の美術が我々に輿へる興味は、決して其の形式の完備、手法の優秀乞いふ様な方面では 無い。此勲から云へば初期韮督致の芙術は、寧ろ慣償の乏しいものであゎます。併し原始的韮 督致の熱烈な信仰、怖しい羅馬諸帝の追啓に堪へ熟んで結束した教徒の信仰が、如何なる形式に よつて之が美術に現はれたか、其の不完全なる技術によつて如何に之が停へられたかと云ふ所 を観察するのは、恰も我が推古時代の美術を研究するのと同様の興味を威せしめるのであらま して、却って後世技術の発達して、徒に技巧に走った作品を見るよりも、大なる意義を此の内 に発見するものであト=ます。更に又た我々日本人として特別の興味は、此の初期基背教の美術 ・・− ℡ −

(4)

てい故に肺炎の軟骨基剃和

初期基督数の菜術の遺物として第一に出て凍るものは、御承知のカタコふ三︵●旨空巨be︶即 ち地7に掘わ穿った韮所であゎてます。此の義朗の構造は常代の建築の最も古い贅粁であむ、そ

れに附属してゐる絢蓋装飾等は普代唯一の其の方南の遺品であることは、日本の市墳が我が上

代美術史の最も重要なる資粁供給者であるのと同一轍であゎニます。此のカタゴムべは履馬見物

客が狐も杓子も行く名所であゎごまして、私も第一回の伊太利放行の際其の最も有名なカブスト

であh︰ます。

件数美術史の研究家は、此軸だ於ても、重く初期基督致の美術を度外威することは拇凍ないの

少の歴史的関係を有し、其の影響を及ぼしてゐることほ看過することの出家ない串貸であつて

恵細並等の地に螢達した初期基督数の美術、殊に束雁烏の美術は、我が東洋の偶数美術にも多

ると云ふことで、之は両者の此枚研究上最も面白いことであります。加ぇ、小壷細盃塊及基他

希臓萄術の手法を借凍って、怖致の精紳停詭を表現しようとしたのと、重く並行的の現象を見

が希臓誰馬の技術を仇りて韮督数的精紳を現はした朝⋮に於て、かの印度陰駄農薬術が、同じく

−−一 ∫ −−・一

(5)

ぢ鳶七箔 年二第 究研欲宗 のカタコムべ ︵C已PC。ヨ訂〇叫St・︹已i已宏︶とドミチラのカタコムべ︵︵▲寧訂cOn−訂○﹃l︶0邑已亡P︶ の二つを見まし佗。第二回の旗行の時更に之を精しく見、他のカタコムべをも窺はうと思ひょ し化が、哉婦の馬め見物人の少ないのと、濁探が此の穴から市中を爆聡させるとか何とかの杷 逆で、全く聞知せられてしまつたので、見ることが出凍なくぢりよした。 此のカタコムべは箪り牒馬ぼかりではなく、ナポリにもJ射ら、シナリヤ島のシーノクサ、攻及な どにも少しはあります。私はシラクサ︵S笥茎−㌢︶ のデヨゾγ ソニのカタコムべ ︵;㌻c室訂 Or芦Gi雪呂1・i︶ をも見ましたが、其の尤も代表的な塞要な遺跡は、矢張り羅馬の郊外殊にダ イヤ、アビヤの古道にあるカブストやドミチラのそれであ♭ます。カタコムべの語は元凍希膿 語のきヨ星ざ曾︵寧J−r⊇・の丑︶ から凍るので、アビヤ迫の望セノスチアノや附近の地形の低 窪な虞を指したのでやります。然るに其後に他の凡ての墓地即ちC毒net2L声≡ ︵きへ長且勺。ヒ” 軍籍piコg−︸l琵eの養︶ にち通用せられるに至つ托のであり壬†。 カタコムべは笹偶に云ひますと地下に縦横に小道を混盲、それにl宣−〓︶Cをic已〓︼︸√買e︵彗lip 等各種の葬購を穿ち、之に土葬をするのであらます。時には石棺を別に造って置くこと、もあら ます。雁馬のカタコムべの地下道の全長は五官五十哩に達すると云はれて居らますが、勿論場 ーー・ j −−

(6)

てい耽lこ術染の収骨韮苅融 併によつては、三階四階に成ってゐるのであります。 元凍通俗にはカメコムべは基督数社特有の墓所であると考へ、或は迫審の盛んな時に遁げ込 む虜に作ったなど云ひますが、ロッシ ︵£○イ呂l−i㌢邑賢︻le芽軋︶ が筋十九世紀の中盤に出 でゝ熱心なる研究の浩苑、此等地下㌫は固より基督教徒の螢明では無く、羅馬以凍の邁風で︵有 名なるスキビオの去の如きも一種の地下墓である︶、公然国家よーり訟許せられた基地であつて、 ただ中流以下の政令に信者む多く和してゐた基督数社は、大きな基地を門弟入れることが出凍な い翁め、地†に多くり義造を造るといふ経済的な方法を考へ、近に斯の如きラビリント放たる カタコムべむ現出したのであることが分か、リ、又た時に迫審の際邁げ込んだことはあるが、そ れは本雄の口約でなく、小さい祓井堂などが地下に在っても、遁陰の食めに作られたもので無 いことが明にせられたのでみり■ます。即ち此の墓所の構造に於ても、基督数社は決して新しい 澄明むやり出したの奮無く、在家羅馬の風習む建承して、之を幾分慶化して行ったに止まるの です。なほカタコムべに現はれた鴇蓬等に就いては後に述べることに致しませう。 こ 一 ;I = −

(7)

塊七弟 単二霹 先研耽読 次に寺院であゎ︰ますが、初期基督致の寺院は即ちバジグカ︵出乳−i且と云はれてゐるもので あらます。是は希胎語の曾qへ罫h︵王︶の字から出たものであることは云ふ迄もあらません。 社務は此の初期玉野数の寺院バジリカは、雁馬の法廷の建築メジリカよら出でたものであると スタすラ せられ、又た孝枝 ︵昌。−エの建築から凍たとか、或は新規の創案で通ると云ふ様な蔑むあら まし柁が、近親の詭では是は霹馬の上流社食の家=そこで蓋督政信凌が骨合するを葡とした、 −−から凍たものである、即ち普通の住宅建築から起ったものであると云ふことになつてゐます。 丁度中央にアトリウム︵告imエがあ㌔其の周囲にべクスチル ︵pっ監丁首︶ のある家から起 って、内陣︵nをe︶と外陣︵訃−且との中間の桂、又た左右巽︵言⋮Seつt︶の如きも皆な是か ら発展し化ものであると云ふのが如何にも尤もらしく恩はれます。そして建襲の外部の装飾等 に瑞きを置かす、内部の装飾荘屁を立とすることになつたのは、従凍の希臓雁寓の建染と非常な サン 相違で、之が極端に螢達したのが、中世のゴシック建築であト⋮ます。羅馬の蟄クレメンテ︵ぞ ナン’ C13莞llt。︶蟄チェチェリヤ ︵許ltP9ceiiエ等は皆な此の雁馬の上流敢骨の家が寺院即ちメジ リカになつたので、今なほ之を明にする遺跡に富んでゐるのであります。其の外督代のメジグ サンタ サン ヵの例では、羅馬の望マリヤ、マジョオレ︵S昌訂茅riP夢g各且聖pレンツォ︵SPn訂reコ且 ー・ β _

(8)

てい銑lこ指奥の放せ基朔勧 サンサンタ 撃ハオロ︵許−撃冨−。︶等、ラブェソナの翌マリヤ、ヌオブァ ︵S邑p冒㌢ぎ。且英他シリ

ヤ地方にも古い造物が多く凍ってゐょす。

之に就いて萬白いのほ彿致の寺院との比較であらます。例へば印度のポムベイの近くにある

カーリ︵舅邑i︶の招詮︵C訂i官︶の如きは其の内外陣を桂で以て卦ってゐる具合、其他メジ

リカと相似でぉることは其の平面同を見て誰人も鼠が付くことであります。但し是は前者の閉

に何等歴史的の関係があると云ふのでは無い。宗教的儀踵の必要上、構造上の要求から同軌に

出.つる様になつたのであhごましよう。又た注意す可きは支部に於いて初めて偶数が輸入せられ

て寺院を建てた時、之に應用せられたものは、従凍の宮脇建染即ち﹁寺﹂であつ写︼とです。斯

の如く一般世間的の建築が枚数へす諸宗教的建築に利用せられたのは、基督致の場合には住宅

建築であり、偶数の場合に将官應建染であつたことは、全く同じ趣であります。而して此の﹁寺﹂

の凝進境化が、日本支部の寺院建条の歴史を規定するのであります。支那では係数は六胡の際

誓こに迫客が起ったが、最初は至極中和的に、貴族王者などの間に宣停せられた褒め、公の建

集﹁寺﹂が寺院に應用せられたのに反して、韮密教は其の初め政府から非常に迫審せられて、

私的のものとして民間から普及したので、私的住宅の建築が寺院即ちメジリカと成って行つ光

′■■ ′ ∵

(9)

抵七男 卑二節 先研改宗

次に彫刻のことに移ります。彫像を以て基督致の紳を現はすことは、臍太敬以来堅く禁せら

れ、偶像崇拝の他宗を卑しめたことであhソt;すから、此の方南の造物は轟く少ないのであらま

す。併し希臓嘩凋以凍クラシック整締の長い停燈を有してゐる世界に班がつた基督致は、造に

この造像を全く止めることは出埜宗つた。柘々の方面へ遁路を作つで、欠撮り多少形像を作

ってゐるので、今日の雁馬萄敦の如きも、其の著しい例であります。但し兼題馬の致骨に於て

は、非偶像主養が既る損く、従って彫刻檎塞などの退品も多く残って屠らません。

耶蘇夏空に現した古い像では、羅馬のラ一言ノ博物館にあるカタコムべ凝見の大理石像の

所謂﹁書き羊飼﹂︵GGO︷lS首訂r︵こがあ皇手。是は除轟珍らしいもので、其の製作も劣等で はあhソl芸せん。併し背約聖書及び耶蘇の奇蹟を浮彫に現はしたものが頗る多く、是は主として

石棺の上に彫刻せられてあらます。而して其の披術は尿馬彫刻を其の俵粒承して、而も其の乾

静的傾向を示したものに過ぎなのいが普通である。此の技術的創意の無いところが、却って基

ことば、雨数量件の歴史の相違を語る面白い客質であらます。

・・・・− ∂ −

(10)

てい沈に晰染¢教せ基親勧

督政美術として面白いのであります。即ち此等石棺に現はれた主題は、啓約聖審からはモーゼ

の奇疏、アダム及イブ、ヨナ、ダニエルと獅子、ノアの洪水などが、最も感に採用せられ、新約

からほ、基督のカナの奇践、血塊婦人の奇地銀、ビラトの前の耶蘇などが出て凍るのであらますが、

此等の主題が構図の便宜上、一の場面上に錯狂して配置せられることが常であト;ます。而して

中世に至って盛に作られた十字架上の耶蘇や、聖母に抱かれた基督の如きは、殆ど全く主題と

して現はれて凍ないのは最も注意を要する現象であります。此の耶蘇の受鱒の如き悲哀的な過

日は、常時迫審の多い時代であるから、信徒に不安の念を輿へることを速ける褒めに作らなか

ったのであると聾者は詭いて層きすが、其の根本的原閏は、耶童の死と其の板活の意義が後世

基軒数に放けるが如き、先輩探泣なものが、未だ蕾代に於いて発展してゐなかった褒めである

と私は信するのであります。又た聖母震如のこしとも蕾時未だ起こら無かつた褒めで、是も轟く

中世に至って発展した現象である。而して耶死の奇蹟の如きものが、却って普代一般の信徒を

戚動せしめたものであることは、此の彫刻などからしても想像することが出家るので、基軒数

の将帥信仰の建造を窺ふ難からも注意す可きことであろと思はれます。

−一 夕.._・.

(11)

枕七姉 年二筋 究研軟宗

さて紹塞の造物はカタコムべの壁面などに描かれたものが多く餞って居りますが、其の手法

は矢張り全くクラシック的で、それを其依應用したに過ぎない。徹って技術の黙からは、殆ど

云ふに足るものは少ないのであらます。此のカタコムべの給婁は、近くク鶉ルバート氏の複製

︵叫㌔鐸”汀⋮開㍑しが出家て、精確なる研究をすることが出家る様になbました。国電は大 隠前に申した彫刻の場合と同じく、ノア、竜−ゼ、イサク、ダニエルなどの高が多く背約から

取られ、新約の方からは耶蘇の奇蹟、殊にカナの奇鼠、その外聖餐、‡き羊飼などが描かれてあ

る。勿論十字架上の耶蘇の如きは紹封に無く、聖母も頗る窄であh=ます。ただ筋二世紀の中兼 頃のものと思はれる聖母基督を抱くの固が羅馬のブリシラ ︵っris。i−−P︶ のカタコムべから発見 せられたのは、其の最も古い例と思惟せられてゐるのであゎ;ます。又たオーラソ︵Or2−︶と格

する、両手を高く畢げて所磁してゐる人物の園が、繹山現はれてゐるのは、著しい現象であち

ます。

斯の様に初期基密教の菜術ほ其の技巧の方面に於ては、何等新しい螢蓬を認められないので

ー J〟 −

(12)

てい就に術染の敬督甚助勒

あかますが、たヾ此の時代の未に至って、モザイクの技術が謹選して、赴が所謂ビザンヅ時代

になつて、羅馬殊にラブェ ソナの寺院に於いて、金碧燦爛たる各棟の傑作を産出するに至♭ょ

した。勿論此のモザイクの技術も古く希臓に源を凝し︵オブムビヤの例など︶、履馬に至って白

黒の石などで床上に固形を現はすことが流行し、之に系兢を引いてゐるのであらますが、椅子

モザイクで以で金色緑色其他の色を用ゐ、大なる固を作ることは重く此の時代の厳達に節す可

きであつて、恐らくほ初期基督致美術の唯一の創意約分子と見て宜しい。

偶数も其の造形美術は之を主として希臓的彫刻から借り凍ったもので、印度西北方の所謂松

駄羅彫刻なるものは、在凍の印度の技術に大部分のクラシック技術の加って出凍たものである

ことは御承知の通りであぁ︰ます。此の希漉的彫刻の手法を借りて、新しい宗政美術に應用した

勲は、初期逓背教の場合と頗る其の形勢を一にしてゐるのであります。更に面白いのは偶数に

於いても牡駄躍彫刻では、其の初めは単一なる辞迦を崇拝の封象として表現したことが少ない

ので、‖疋は初期基督敦の美術に於ける耶蘇の像と同じであト=ます。叉た時に之を現はす時には

アポロの像の如き希股彫刻の型を其僅備に翻詳してゐるのは、丁皮﹁蕃き半句﹂をデオニッス

などの型から取ってゐるのと同軌に出てゐると云って宜しい。更に叉化石棺上に新嘗約の停訣

− JJ一 −

(13)

現七姉 よ‡て・ニ欝 究研歌謡 スターパ を綿棒的綿巻的に現はしたことは、恰も鍵駄羅彫刻が塔婆の周陶なとに、矢張り澤迦の樽寵な どを浮膨にして、拍生物式に現はしてゐるのと全く同じ趣でぁり孟す。つまり此等論敵の原始 時代に於いて、ほ、狂い哲撃的紳撃ほ未だ凝痩せす、致風の生涯基者が、宗教の中心となつてゐ た勲は噂宗数とも舶異もないのを見るのは、蹴る興味あることで、此笹を深く比較研究して見 れば、吏に耐白いことを多く認めるであらうと思ひます。 なほ裁に附けて云ふ可きことは、初期基督致の美術に於て、著しく所謂シムポリズふ︵S︶J〒 b。li誓︶ の現れてゐることであトて宣す。是は克方の影響などが、興ってカぁることであらょし シムポル 0 ようが、後世去督致の最も求要な記戟である十字如きは、却って常代に行はれなかつた。其の 0 0 代りに、魚の固が耶蘇を示す褒めに大に用ゐられてゐる。是は希脇語の魚の語−已Eがぶ雲卦 寺へqり㌣雷。∵訂h㌢r普︵Je望lSu︼ユ諷苧ロつー.C。L S弓i。弓︶ の玉串の各所辛から成ってゐる ○ 鰯めであり′ます。其の外信仰を示した碇の固の如きもあり主すが、此等の詳しい話ほ、長くな るからやめて置きます。 初期基密教の美術と云ふが如き大なる題目を、僅かの時間で悉く婆勲を話し過すことば、園 −− ヱご _・−

(14)

てい眈に術弟の敦せ基初動 より不可能であり、叉た之を傭放と比校して研究することも、探い考晋を要する問題であトソ1;

す。私自身も未だ骨て番心之を研究したことは無いが、日本支部の彿散発術を見た目を以て、

更に基督致の美術に接した私が、常座に考へついた軸⋮丈けを弦に述べた次第であります。それ

で此の両者の美術の埋校研究は、諸君の如き特殊の智誠と興味を宗故に勤して持ってゐられる

方に取って、尤も面白い題目であるかと恩ふのであります。叉た吏に歴史的方面から、ビザソ

ッ式の模様や、壁蓬の手法や、其他依絶などに於て、彼我流通影響の跡を研究したならば、此

︵宗武研究令大樹諦哲

の方南の中に趣味津々たるものがあると私は侶やるのでゐト︰ます。

ー J才 一

(15)

序論 ﹁ 小菜毘尭経と大池浬こ梁踵・!大般浬〓集七人こ給養飢二聖油 小乗浬弊経路 t﹁ 小乗鑑真の異澤 − 法臨澤大般流民靡−1矢澤般泥塩忘T−∴警甲高¢小 股択恒鯉 − 詔件の泣教組 三、法親木と他水とのこ警苅1−甫本、泣行及び法踵本と塔根毛祝 − 自注乱及 失許木の瑠軌信仰 − 併浪の時lこ於ける天人愁嘆の偲 − 捲故紙仙¢欒異 − ﹁併常在Jなる語の本文比較と其眞重

大桑澄磐経路

捏 柴 経 論 ︵承前︶

松 本 文

・−−一Jぶ・−・−・・

(16)

兢七弟 隼ニ㌫ち 究桁数宗

余輩は前数節に於て小薬捏紫綬に就き路之を論じたから、以下大桑捏柴挺に閲し述べやうと

思ふ。閑元錬︵怨一、及十四︶に掟れば、大桑捏柴狸は其後身を併せ古家七謬あつて三番四閑

といふ。所謂七謬とは次の如くである。

窄 大帝旺娘鰹の典揮i研謂支識本 − 安拉賢澤木i文認許木・・−∴捉壌 汝分と準折伏の小乗没集!1南本捏盤議 五、大乗毘盛運と小乗鑑真慮と¢関係−−注銀水と強或本との関係−−大束 浬堤踵製作の時代と揚所 六・大乗温集経と般若経−−大発捏盛経と大衆部i大乗荘葵鍾と法盗二捉1 大乗浬娯の三大政義 彗 法月舘仕訳と大我、大没盤i童極的説明の迫田・i一切衆生悉有休性祝 篭閑堤成協諷1Ⅰ開設の可泊と不可拍・−法嶽森と触識木との差異 八、毘娼支泣 − 大望無想益∵!∴警讐二昧欒二本︶11m〓塞予三味鯉︵二本︶ − 大悲鍾 − 諺等撃紹︵こ尭︶1援軍中頃戌臨惑・−法華面接重富米用彗法 波軍法桟紹 − 金Ⅲ力大士定盤鐸 .._J〝・・・・・−・・・

(17)

..

︵三︶大股泥垣揮二巻英文華滞

空責聞

︵讐大股泥垣狸六準霊‖法耕共畳資繹鋼諾裾−存 ︵五︶大般捏革紐四十港北涼哀蕪識繹朋望楯i存

︵六︶股泥担経二十巷北掠智猛渾 ︵七︶大股捏整揮筏薄茶枇分二巷店若邦抜陀璧ハ骨峯謬禦が用l 由ほ同寄︵巻十〓には大東捏磐露の支沫として ︵八︶ 方等般泥海裡二拳西骨法護澤 狛誓 ︵九︶ 国光子三昧雛三朱二隋間郡嘱多等詳記九 ︵一〇︶大悲紅玉巷痺邦連投耶合北ハ法智繹朋租五 の三部を畢げ、中に就き︵八︶︵九︶の二部は同本異繹といふ。 所が伊納の出三寂記︵準こには、大小二轟の何れを間はず、担架彊と耕するものを列摩し、

一挺七人異出といひ、前に鴻げた支識、支託、法誌、曇無識、法揖、智猛の六部の外に、法顕

︵一︶胡般泥垣雑二巷後渡文婁迦識詳 ︵二︶大般捏紫郎二巷硯安法賢繹 こ周Ⅰ西 六ニ ーー唐 五二 八一 年○ 大西 1年七 開 聞 ー ∫才 一

(18)

玖七賃 率二郎 究研改宗 の二番方等泥海経及び求部政陀荘の一巻泥恒経とを以てする。而して紆訪は飼ほ別に方等泥垣 経と題し、竺法造、繹法顕右一撃一人異出とも記して居る。是れは固より誤であつて、偶々経題 の同じきにより、之を異評本としただけである。法護の泥匡経は今就中に存し、明かに大東置 の支放でぁるが、法蹟の二怨本と辞するものは小爽捏紫に外ならぬ。随って七人典出の中に就 いても法損の二巻本と求郵扱陀羅の一食本とは、小乗経と鬼撤すべきである。基他は悶元蝕の 皆大喪となす朗であり、彼は其悶に捏発と捏喋の支流とを昇ったのみである。但安韓貿の捏栗 なるものゝ肘砿記に闘いて居るのは、喜入の梢注意に債するものといはなければならぬ。 以上列記した中、支識、法貿、支託の三本と後身とに就いて三日したいと思ふ。兇づ支識辞 なるものに親しては肝鮪且又識静銀中英粒名を出してあるが、﹁安公云、似支識揖也﹂とあるの みで、必ず支誠の鐸とは断言出演ないのである。叉位令是れが支識の繹であつたとしても、基 果して大東捏紫綬の一部なりや賂た小乗埋葬痙ならやは、少しも明かならぬ。閃元蝕の之を大 痍の部に編入したのは、恐らく武周鉄を琴フたのであらうが、箪に想像であつて何等理由のな いことである。支識の滞する所は元凍大小二乗に捗って屑一?㍍ら、此異から見ても必らす大森 と断すべき理由はない。且つ僧詭は﹁今閑﹂といひ、叉﹁未詳異同﹂とも述べて居るのに、武 ーーJぶ −

(19)

飴 蛙 塊 閏蝕や開元録が之を大森中に.編したのは妄も亦甚しである。で吾人は此支識本なるもの\果

して支識の謬ならや否も明かならす、又其大小何れに屈すペきやも不明のものとしなければな

らぬ。

次に安治貿の繹なるものも、出三就記先には重く之を闘いて居る併を似て見れば、其番の存

在すらも多少疑問とせらるべき除地がないでもない。が三饗記︵巷五︶に竺道敵視故によーり、 ﹁略大本前数品、癌些惑Lといひ、又初出といふ監輿なりとせば、現行大漁紫り初一部卦む抄

許したものとも考へられる。が足れも飴り侶すべき偵偲を措くに足らぬやうである。

第三の立証評本の存在に放いては、安公日銀以後の挺鉄骨之を戟するのであるから、放電旋

を容るべき鎗地はない。が足れも小森浬磐であるといふ訣のあつたものと見え、肝油は﹁安公

云出長阿含﹂といふ。此に長阿含に出づとは、即ち遊行経を意義するのは冨ふ迄もない。が付

紙は之に附して﹁案今長阿含輿此輿﹂といふ。此と異なれもとは唯基文に多少の逆興があると

いふのか、或は小乗の文ではなく大乗であるといふのか、足れだけでは明かならぬ。けれども

又其異出経線には﹁支談大股泥垣輿︹法談︺方等泥医大同﹂ともある所を以て見れば、箪に英

文に多少の鼻動があるのみでほなく、重く大東的のものであるニーこは景h付い。而しで三貿記に ー ヱカ ー

(20)

兢七祈 年二苅 允析政宗 は吏らに﹁此略大本序卦哀数品名二巷、後三紙小異耳Lといふ、即ち大本泥再の初を揮出した もの\やうである。所が此に奇怪なるは、静養放︵垂二︶には法謹繹と同じく支託繹をも皆﹁漫 遊行紅﹂となし、小癖典滞挺中に列して㍍ることである。特に式周故に至っては大病綬放中︵巻 二︶にも支灘、法護の二本北ハに之を出し、光らに小乗置銀︵雀八︶に於ても法揖と同じく此二 本を出して居るけで宛も支認も法護も乃至法凋も北ハに二巷づ∼の大小二痍の泥垣耗な翻澤した

ものゝ如く見える。‖来れは勿論視であるが、先の如き課の山つて丑じた根本は、併曲が泥垣踵

に七人異出といひ、史らに又方等泥海の名を糾し、法護、法拍一締二人典侶−1しなし、之と同時

に支訳本と法造本と以て大同となしたにあるごとく恩ふ。法緋の二巻本は小森繹⊥いはれる研

から、之と岡本と見倣された法護本も小乗とな♭、法遽本と大同なる支兼永も亦足れ小弟経た

らざるを得ざるに至った。が一両法護本は現存し、支読本も店代に至る迄偶ほ存したやうであ

り、試用蝕の編嘉も恐らく之を見たものらしい。︵式周故には史成木の下田十人紙といふ︶而し

て何れも走れは大東的であつて、遊行紅とは大に基内容を異にする折から、大小東経典の何れ

の欽中にも編入したものと卑誉。情ほ此に云奇怪なるここがある。開元放では支凝滞を似

て大東泥再の第三澤となし、而も之と大同なる法護本を以て浬聖の支沢−左し、大森準担の謬 ー.ツワ ■−−−

(21)

珪 塊 毘 中に加へざるのである。支証本は今存在しないから、果して注進本と重く同じいか否は決定し 難いが、殆んど相似たものなることは疑ないやうである。法造本も勿論現新本大沢垣のー初めの 一部分と鵜相似た聖書−あるかG、之を以て支汲といふは決して妨ないが、妖州らば何故に支証本 ぉも立沢となさヾるか。若し支恢の一日む立つ乙こはらば、同じく基一部に過ぎない智昇の所謂安 軽質本も之に加ふべきではなからうか。然るに彼は法璧本も支謙本も共に捏柴の異謬とし、法 誰本船多本に取って之を支況と目するのは殆んど基理由を縛るに許しむのである。が叉考うる に是は三鴛記に支証本を以て大本の初を略出するものとなしたに由るのかも知れぬ。けれども 基巻数といひ、内容といひ、恐らく付赫のいふ如く法誰本の典繹でなかったらうかと息ふ。 叔後に泥再雛後妙に就いて二言する。此脛の成立に関しては∵義渾は基求法高密停︵盤上︶に 次の如くいふ。 骨騨律師森州成捕人せ、・︰・愛以麟牡牛中.敦錫南海、汎舶薫訓陵舛l、停伴三戟、養鶏討陵園多聞借着那放掩詳、於阿 笈樺鍾内浮出射水泥東栄貞之革.斯典大乗況蛙頗不相渉.然大乗捏整西岡浮動見目云−基大数有こ十五千項、勅浮可披 六十餃筍.稔其全部文面不穫.但格和大衆閏品一爽、有四千蝕唄、骨撃銃弾阿笈本、籍令小倍速勤務表貨癌澄至交府. 鵬辱瓦兆奏上閑磨.其便乗河流布東夏。 義浮は恐らく華南海にあるの日、骨箪渾置の新来を親しく停閲したのであらう。是れに由つ ー こJ・−

(22)

枕七夢 中二軍 究研改宗

て見ると、曾峯は彼四千頗の大衆閏も謬したものらしい。是れは如かに大森捏紫であるが、支

部に賂乗せられてから如何なつたものか列らぬ。普時既に支邦には怯間の六巻本や、撫識の四

十巻本が流布せられて居たのであるから、彼の潮謬ち何等新たなるを加へぬので、造に行はれ

にかつたのかも知れぬ。而して此後分なるもあは阿含鐸典中から押出したとすれば、基小乗捏

柴の一部なることは言ふ迄もない。見れは義持もいふ追わノ、1輿大桑捏整痴不和渉﹂るのである

が、無誠め大桑準担ほ撃二足の致儀を説く虎めに作られたもの一で、傭人城前後の事情を記述

するを以て目的となすのではないが、其飴克は甚だ突然として終わ、構造身の指㌍に関しては

何等の記事も出て居ないから、担架経として之を見れげ甚だ足らざるが如く恩はれる。骨峯は

恐らく之を退城とし、阿含粍典の文に接って之を補足せんーこ企てたものでJのらうノ。若し初から 斯かる成典があつたものとすれば、彼が特に1於阿笈摩耗内揮出如凍況杢焚身之野すべき筈

はないのである。然るに智昇は之に封し

芸此笑最悪富露、穿相似而芸同、雷管雷若、飴芸浄、賃琵箕こ器知−宣大理些表

現相聖顔初役媛情味如品未、文勢相接、且編於柴犬桑浬基部︺後碍選評両軍し

西表巷十こ

といふ。如何にも此経中には﹁雄彿淡後法身常存﹂とか、1見傭即見法身L︵巷上道致品︶とかい ー ご2 _

(23)

;i違 舵 繋 ひ、多少暖味ながらも抜身常任の詭が現はれて摺り、又般若数の着色も頗る多い。例之へば﹁如 是三界根本性離、範克寂猟同麗容相、無名無識永断語有、飯高下想、無鬼無開、無党撫知、不 可緊縛不可脾臓、兼衆生無頼緑命、不生不起、不誼不城、辞世潤非非世間、坦発生死骨不可得、 二際平等等語法故、⋮・断一切相、二燕所有、法相如是﹂とか、或は﹁我以摩討般署遍観三界 有情無僻、一切人法悉皆究竜﹂とかいひ、其大東的臭気の蔽ふべからざるものがある。之を以 て純然たる阿含の澤l見るべからざるは言を侯たぬ。が併し走れも此粒の成立因縁を考ふれば 歌志怪しむに足ら拍。倍率は本凍阿含の捏柴を評出するを以て目的としたのではない。彼は無 識本の筏を補はんとして作ケ甘のである、が基依るべき厨は、小乗捏革以外に之を求むべからざ るにユ諭、−ヱとして之に伐り幾分之を修飾し、又大東的の弟色を奥へたに外ならぬ。・走れが抑 も基文の無識本と相接する所以であゎ、而して後分に遇ぶる研の大鰹に於て小凍捏粟と軸合す る所以である。だから走れは捏琴粍一の教義を説くに皆つては、殆んど諭ずるに足らぎるもので ある。 尚ほ此後分の依った小乗担架は、前に説い托二柿︵白紘剋及び失詳本と摘本遊行本及び所謂 汝顕本と︶の中何れに屈して居たかといふに、是れは討陵圃の地位からしても容易に想像し得 ・−・−− ごg −−

(24)

究研歓宗 節 こ 年 搭 七 城

らるゝ如く、南本菜に属するものたるは疑を容れない。自注到系の泥匡や基他捏柴支沢の藷経

には、屡々甜勒信仰の思想が現はれて居るに拘はらす、此野キには彼甫本克と同じく未だ其痕

述をも螢見し得ないハが塔供徒の思想は明かに存し、﹁一切世両人天田衆起七貿塔、供養舎利得

大功徳﹂ともある。且つ彿入城の時、誇天人の悲嘆する場今にも、南本や所謂法折本と同じく

天部では戸菜大梵天王と帝提桓因とを出し、偽弟子の中では睡起と阿発とを出してある、玉悲

嘆の語は固より彼此異なつて屠るが、︶是れも日放親系の諸本と趣を異にする厨である.。乃も此

後身は南方系の文によつて之を修飾したものといつて差支ないやうに思ふ。

此節を終るに望み、荷ほ〓富して置かなければならぬのは、彼南本大股捏紫綬である。此南

本世襲経と耕するものは、開元銀︵前岡盛︶にも 宍無箪辞︺捜斐踊集文帝代元露年中沈子鍾柴、時有撫州沙門箱詰厳、清河沙門堤慧警防郎良十捌解離等、以敏郎響M 級疏植、カ構粥況垣艶︹法摂璧ハ冬空如之品臼.文窮迫貿、屑亦改治、緒撃二十六笹、狩上江r、此於・剛鍾岬祈小異

といふ如く、重く無識本によら共晶罵を加へ、文章を改修したのみで、猫立の横位のないもの

である。今此撃二本の品節を比較し参考に供して固く。

− 2.を −

(25)

経 典 法 顕 本 序品一 大盛事膵品こ 長者純陀品三 哀歓品田 長詩品玉 金剛貞畠六 受持品七 四托品八 四俵品九 分別邪正品十 四締品十︼ 押倒盆十二 加東性品十三 文字品十川 鳥噛晶十五 月喧品十六 問苫膵品十七 粗事品十八 ︵以下弼︶ 出切大衆研間品玉 現病品六 改行品七 梵行品八 曝見行晶九 .光明絹附高菜悪玉華彊品十 師手吼宰膵品十一 迦渠嘗隋品†二 情報知品十三 如衆性品糾 名字功徳‖写一 金剛易品こ 謹命品一 __ニここ=.__...r .し_ 一−−・・・・・・−l●一一一−−、 宙 拝且〓 耗陀品こ 基数品三 晶盗品四 金剛月品玉 名字功徳品六 四相品七 四偵品八 邪正=⋮九 銅舘品十 四別品十一 如来性品十二 丈字品十三 鳥喰品十四 月唸品十五 蔓薩品十六 一明大衆研間品十七 硯涌品十八 恕行品十九 梵行︻n・.こ十 哩兇行品二十一 光明溺脚憲阿東標王苔醗品二十こ 蹄子吼苔隣品二十三 池架軍師品こ十四 億陳如品二十五 本 一 望∂ −

(26)

兢七茹 中二筋 究胡故宗

前にも一言L亮如く・十姦捏紫綬なるもの\小森捏柴に依って現ほれたことほ言ふ迄もない。

が小乗捏葉に述ぶる所爪り串賓を以て大乗捏柴に封照すれば、質に英一小部分、而も英形の梢相

似たるのみである。大桑埋葬では洗づ偶の賂に捏柴せんことを督げ、訝弟子に封し何等か問は

んと欲すの併あらぼ最後の間髪賢夫しといひ、純陀の供黎せんことを請ひ、彿の之を許すや

小乗では仰の■供養を受け、此に四大不調を究したが蕾め、後世、人の純陀を非難せんことを変

へ、彿は成造及び入埋葬の時に於ける供葦を以て汲も勝れるものとなし、純陀及び世人を慰む

ることゝなつて居るが、大系経にあつてほ其供養を受くるに尤だち、二萩の供養の最も膵ぐれ

たるを説き、︵以上語畳品︶愈怖が供養を受けられてから病相を現す︵一切大衆所間品︶ると、 虫後須政陀の凍って法を問ふ︵恰陳如品未︶との事賓の顕はれ居るのみである。其除の大部分 帥ち触⋮識本の節二乃至節四品、筆ハ品以下の語品︵粒末須改陀の詔を除く︶は殆んど公く小康

置に布せぎる朗▼。いつで宜しい。だから大桑捏柴は名は大股捏菓であるが、原始の忠盛に於け

る大般捏粟粒としては甚だ其鰹裁を敬いて居るものといはなければならぬ。

一 決−7 −

(27)

盤 浬

のみ捻らや、其僅かに購はれた部分に於ても、大桑況柴に述ぶる所は小乗終に比して大に串

賓の相違する所がある。先づ大桑捏紫は其詮法の場所をば拘戸部園姿羅双樹問としてあトノ、而

して純陀も此に彿を供養し佗如く述べる。が事賓は決してそうでない。純陀の俳に供養し佗の

は汲婆であつて、備ほ此に病相を現じ、而も共著を忍び、稗々して蓬に拘戸部履双樹間に移ら

れたのである。だから彼を以て双樹問の説法となすめは眞でない。次に大桑捏繋の初には其骨

上の大塊を説き、﹁唯除食著大迦東谷屈、合着阿弗容儀、阿悶王谷底、甚鎗衆庄無不慧ど鵬錮柵餓仙

とある。大迦尭の傭入滅の時南山に遊行し此にあらず、偶々汲婆に凍つで悌入城を聞き、驚き

鳩戸部雄入滅の虜に至ったことは小乗経にいふ所であるが、阿難は其間断えす彿に侍し暫くも

経れたことのないのは、疑ない革質であるに、何が故に此には阿推の春屈を除い.花のであるか

殆んど紗すべからざるのである。基理由の如何は兎に角、基串蟹に追反すムニことほ別丁である。

又迦菜は此に於いてあるが、経中には迦克なるものが屡現はれ、保と問答し、又迦真書蔭晶な

るもの曳侃けてある位である。此迦尭に就いては経にほ﹁時座中有邦題憮譜黎葺蕗姓迦悉

氏婆羅門祁﹂とあつて、前の大迦克と別人である如く述べて右∵り、彿弟子の迦尭は之を大過悉

といひ、彼の迦某は迦尭菩薩と解するも、後僑陳如をも菩薩となすを以て見れば、此迦某も大

一 望7・・−・・−

(28)

究研秋ぢミ 第 こ いい ‘一 節 七 鵠

迦葉より輯じ凍ったものたるは殆んど託を容れぬ。若し之をして同一人とすれば、前の記事や

小乗経にいふ所と轟着すえこ▼こ土仏・‘ゝ㌧何れにLても=足れは奇怪撃てし、∴∵はなければならぬぐ

走れに山つて親ても、大兵捏磐は決して事皆の記述む裁とするものではなく、唯況柴野中の串

蟹な潜って、一定の・数理キ王張せんとす〃りにあるむ知るべきである。

次に大桑捏撃サ0もりは、初めよ、りして無識本の形を基し、法揖本は軍に基数晶を辞するに

止まるか、或は初め法揖本が成立し後之む塘新して知識本を成したと希うべきであらうか。此

間題の離決は蹴る困難であつて、今日何人といへごも恐らく之を明丁にし得ないであらう。が

姑らく企艶の想像する所を以て見れば、此大病捏菓なるもの∼叔も⋮小紙な形は、彼の法誼の方 等担架︵怖澤大悲経︶一蹴の鮮ではなからうか。彼等には勿論抜身常任杯の数理は未だ現はれ

ぬが、仰の入滅せんとするを舐き、束酉清元の諸方よりして諸彿嬰婆世界に集まり、彿を哀歓

するを説く。斯の如き粒は後節夏らに評論するが如く二S系統を成して次節に発展して層る。

今此挺の初を見るに亦殆んど之と同じく、法顕本の真数品に至る迄は、殆んど彼と同類を為す

ものといつて差支ない。哀欺品以下諸品に至って始めて大乗担架に特有なる教義を説く。此等

話品が附加せられて初めて此に大塊捏繋が方等誰組の申にあつて特殊の地位を占むるに至った

−−・・・・g.?−

(29)

漁 連

のである。伺ほ此に序ながら吉江慈して置きたいのほ、後にも説く如く法護謬の方等泥垣を

始とし、此大乗泥海の正系に威せす、悶元鑑等に所謂担架支況と稀する語経典には、概して骨

滞勒とか兜率徒生の信仰が件ひ居るに、此正統ともいふべき大乗捏柴には弼勒や兜率のことは

少しもなく、寧ろ西方沖土の思想が撒はれて屠ることである。例之へば法絹本巷二に1時此世

界康博肢渾、讐加西方槌架国土﹂といひ、同埜ハに﹁爾時三千大千世界荘厳殊妙、猶加西方極

楽国土﹂とある茹である。彼担架支流に属する諸鐙には年代の新甘粕交ほゎ、甚だ一定しない

やうであるに閥はらす、概して浦勒信仰の思想を現するを以て見れば、此両者の差違は必らす

しも挺製作の時代の新古に撞すべからざるやうである。で恐らく足れは其信仰系統の彼と相異

なれるものによつて製作せられたのではなからうかと考へる。

法顕本の未に怖が病粕を現じ、右脇地に着け係念明想といひ、轡心突然として基経を終って

居るやうにも思はれるが、此未品を無識本の如く一切大衆所問晶といはすして、臨書閃と補し、

叉此晶未には文殊及び迦尭阿艶に後事を託し、正法を付属するこ一基述ぶるを以て見れば、怒

は此に一段落を成したものとも考へられる。而して此に至る迄は各品の聞壷少思想上の連絡を

布して居る。然るに之より以後の語品に至つては各品大抵何れも狐宜し得る︵勿論聖術品・lと婁 −一一 gク・一・疇

(30)

戟七節 中二前 党研現霜 見行品との如きほ相関係し、此二品は掌ろ二品となすべきである︶と梢趣を異にするのである。

又英数理に於ても大桑況葬に特色なるものほ、既に骨法新本に存し、飴は唯之を敷節するに過

ぎざるもの∼やうにも思はれる︵勿論其中多少螢展の迩あるものもあるが、造れは庇宜衣節に 述べる︶。のみならす中には同一の詭が反復せらる∼場合もある。例之へば師子吼昔薩品の初に は︵無識本巻三十二︶七碓衆生のことが詳説せられ、迦共著薩品︵同三十大︶に重つで叉殆ん

ど同一のことが述べられてある。是れに由つて考うると法苗木以後の語品も亦一時に出凍たも

のではなく、或部分は次筋に均祁せられ、今の形を成すに至ったものではなからうかとも思ふ。

勿論泣顔本も無識本も支那に謬せられたのは何れも四百年代の初で、殆んど同時といつても好

いのであるから、位令ひ塘崩せられたとしても其以前のもので、無識は偶基新塘本を縛、法叙

は馨本を蛙たものといはなければならぬ。荷ほ先にも引用した求法高貯鰭によれば、大乗浬華

は全部約二十五千頗で六十除巷を成すべしといひ、又但初大衆間品一爽四千除頗を得たとある

が、現行本では初は大衆間品ではない、又巻数は評者によつて多少の差はぁるが、六十除悠と四

十巷とは其差違除らに多いやうにも考へられる。著し此記録が正しいものとすれば、唐代麟徳

︵紀元六百年の中東︶の頃には、触⋮識本よらも飼ほ一層増補改経せられたものがあつたのかも知 ・− β○ −・−−・・

(31)

静 れぬ。 大森況柴粒は後に述ぶる如く般若以後の作であることは疑ないが、果して何時頃作られた かは固守り判らぬ。綬中には﹁我放線柴後四十年中、於閻絆捉辰行流布、然後乃常隠没於地﹂ 詣柵欝とあるが、是れは固よら奉賛あり得べきことではない。唯此儀典の後世の作にあらす、 古代既に存したものとなし、此経をして磯威あらしめんと欲するに外ならぬ。次に叉﹁若我正 法飴八十年前四十年、是経復督於闘浮提而大法雨﹂ともいふ。︵無識本同虞︶而して之と同様の 句は怨九︵法揖本巻六︶にもあゎ、此には﹁我捏栗後正法栄城除八十年、爾時是組於聞浮投労 農流布﹂とある。此句は古来の江符を見ても一も判然しないが、立法未だ汲せす翻ほ八十年、 期限中にあるといふ去らしい。随って前の句は正治の終八十年の前年の義であらう。正放流布 の期間に就いては、色々異説があるやうであるが、今之を蒐短の五首年と仮定すれば︵最長の 千年とすれば時代除りに役くれるから︶彿淡後四百二十年から五百年に至る間若くは四百二十 年から同六十年に至る閉、大衆浬柴が起ったこと∼なる。然らば之を以て大乗担架製作の時と なすべきかといふに、是亦頗る疑はしい。法撤本によると前引用文は︵無識本巻六の第二文︶次 の如くなつて居る。 一 風J・・・−・・・・

(32)

年二坊 究研款宗 兢七節 墓相柄誓約下正法欲望飴八十簑−此歪琵税流宗芳碇、慧基此締檻泣 00000000

州 此最後の一句は無識本にはない。が此文に櫨れば正法の終った時大乗捏柴は又滅没するとい

ふので、此時に此粒の製作せられたものと考へることは出家ない。要するに足れは僻波竺度

扇はれ直ちに没した低ではなく、正牲の末期にも亦揖はれ花といふに過ぎぬ。が或は此埋葬髭

に於ては、正法を七百歳となしたものかも知れぬ∴こいふのは無識本巻兵法鼠本金四︶の初に

我般漁場七甘読後∵足先汝旬新館汎嘆我之妃法

との句があるからである。若し果して然亙とすれば、此大乗浬整の製作は僻地後七百年即ち西

暦紀元後約二百年以上に翻ることの出家ないものと信する。而して筏繹は既に四百年代に顕は

れて居るから、先づ二百年から三好年代の間に出家たものとして大なる過はなからう。

然らば其製作の場所は如何。埋葬挺中英製作の国土を暗示する所は甚だ稀であるが、其巷十

000〇

六には﹁此南天竺至大城名甘政雄﹂といふ句がある。音波経とは果して何れの地であるか確

定し難いが、此に此南天竺とあるを以て見れば、何れは此置も南天竺に於て製作せられたもの

のやうにも考へられぬではない。︵此首波雁とは或はトレミーのSi冒已pでSur号P訂 のこと であるかも知れぬ。若しそうであるとすればC2−コi邑l昌は之を以て今のS焉ptに督て声 − gβ −

(33)

把 lJ・岩trPはクリシナ河口に近い港のSipelerとなし、基地S弓Pt よりも飼ほ約百哩南方に督 ちとなすものもあり、精確には判らぬが、兎に角今のポムべーより光らに北方に位するスラー トに至る問の由海寝の地であるらしい。終には重合城よヱハ十五由旬とあるが、大差はないや ぅである。︶同港九に於ても﹁承於南方諸菩薩故、常庶流布降注法面、弼備其庭﹂とある。が偽 つ〇 ほ一層注意すべきは基次の文に﹁正性欲城常至戯賓具足無駄潜没地中、或有信者或不信薪、知 遇大森方等髭典甘露法妹、悉没於地﹂といふことである。法顕本も大鰹之と同じであるが、今 念の窮め基金文を肇げる。 此摩討軒般況再紆、我炒潟再伎正法嚢淡、予畔地紐流布再考男披講邪果東邦法論之新接段、時報摘方誼法事膵常婚 此契無水詣昂茸澤伏血中、及誠二切虚諭置玉葱壷蒜於地雨没 若し此寒が甫方に出来たものとすれば、殊に戯賓に至ることを記すペき筈もなからうと恩ふか ら、寧ろ此紅は北方戯賓に於て製作せられ陀と考へるのが穏常であらう。然らば何が故に﹁此頂 天竺Lといひ、又南方筆陣の食めに頗く流布するといふか。是れ或は北方の新たに作る所で書 く、眈に久しき以前から南方に存在したものとなし、其経の麓成を大ならしめんが鰯めである かも知れぬ。又或は南方の作家が厨賓に移住し、此に之を製作し、其脛の眈に南方に行はれた −− βぷ・一−−

(34)

こ 串 茹 ヒ 蚊 究祈歌宗

叫 梓髄であり、苑も劾鮭の佃ほ精製せられて醍醐を出すが如しとなすのである。で誇葵は悉く其

中に入るといふを以て見ても、十二部経乃至般若に至る迄の数理は、悉く淫楽によつて梅せら

大 大乗捏磐鍾が直接般若経の思想によつて製作せられたことは、一見明瞭であつて、何等兢を 容るペき除地ほない。が今左に其特徴となるべき二三の黙を奉げて置く。 先づ第一に注意すべきは、紀中屡々骨拐巌や、︹小乗︺浬柴や、就華経の名を出してあると同 ヽヽヽヽ じく、摩詞般若をも引用してある。経の幕八にほ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 如我先於府詞般若汲鍾蜜踵申訳、我無我無新二相. とあるのみならす、窟十四には 昏如牛山乳、従乳出酪、徒酪出生餅.麓鑑続出熱鮨、徒熟鮨出醍醐、醍醐最上、若布脱着未病骨除、所有綿串恋人其ゆ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 梯亦如是、従悌出銭十二部踵、従十こ部撞出修多淫、従修多産出力等麗.従方等鮭出般若波羅蜜.従般若汲撮怒出大湿 ヽ 堤.窮如醍醐、 ともいふ。即ち是れは明かに大乗捏葉の般若より出でたることを説き、障って之を以て般若の ことを唱へたのかも判らぬ。何れにしても其製作は北天竺戯賓であつたらしい。 ー・−− J4 −

(35)

協 るとなすことも疑ない。 次に英数薮に於ても、般若語経では姦を以て第一義諦となし、即法性智意捏棄となすが、泡 菓麗も亦全く之と同じい。粒の巷十七には 無断持著名男尊経.苔障謂詭知見柁故指大洋整.是奴小㌫=謎ふ無排持、︰無加持者名掛一義空 ともいひ、文集十三にも 筏賢之法即是如堆、虚警備性.︰︰如氷者即是捉華、民望者即是舶空∵腿聖者即是最知、巌異名即逸体位、伴性者即 盈揖賞 といひ、侶ほ明かには巷二十七に 彿性戒名第一重空、第一義空名感密轟.所雷聖者不見空輿不空、⋮壷省一切生死、不塗薪謂大提琴力量無我藩邸足 錬宛、我者甜大在英 とも述べてある。勿論般若経でも是の如き客の一両、相棒約数義を説くのみならす、伺ほ進ん では積極的に稲穂智慧両者の放くべ一からざるを説き、之を日の乾かし月の潤し、以て溺物の生 育するにも皆へ、随って彿をも大慈大悲となすのであるが、大森捏柴亦之と少しも異ならぬ。 同港二十七には 岩人能馬渡諮厨、則褒具足二紹還送彗一番智豊、二者筋杜、若殿嘗陸奥克如法土荘如才㌧黒石わ行 _− βJ−

(36)

m七井 年二弟 兜研改宗 ともいひ、又怨十五には一層明かに 異風他者即名馬志、慈即如来、怒即大乗.大乗即悪、憲即加東、⋮・怒即大雪大空邦語、志即如粥 とある。桐ほ般若では一切執着を被するが痛め、八不と説き又之を旗くしては十八重といひ、 或は略しては十六察、十四塞杯ともいふ。走れは英数の多少に∵よつて内容に塾典ある臥㌣はな く、紫電一定の項目を怒げ、之によつて一切の揺すべきを示すに外ならぬ。大病担架に於ても 亦屡々十一基といふことを説く。経の怨十八には 諦飾付環礁大波拓鑑三十七・晶十︼空東宝大盤淫、如来亦田 といひ、同港十六には其細目を拳げ、 去何名望一望茄所謂内空、外空.内外空、有馬空.無錫空、無始望、性空、無所有雪男一哉㌍、空空.大空 となし、一々之を解辞してある。走れによつて見れば、大森浬菓の般若より出たこtしは秋竜の 疑を容れぬ。 箪二に旺意すべきは彿身の諭である。般若経では偽の二身を詭き、或は之を法身と父母生身 といひ、或は法身と色身等といふが、未だ三身の詭は現はれて居ない。朗が大東観葉でも亦二 身といつて、未だ一度も三身とはいはないのである。例へば粒の笹二十四には ーーー ββ −一−・

(37)

我於締中既知水草凡空転、一瀞壁旦二者弦月、冨先月沓即是方便性能之易.如尾月者、可絡常是生宅痢宛長榎黒

白、危地見披見畢親祭

といふが如くである。而して此鈷身は叉之を星化身とも名づくる。即ち大森担架鮭製作の時に

は三身詭は未だ位に現はれなかったものと信する。伺ほ之と併せ考ふペきは六識詮である。吾

人の意識作用里ハ講となすことは、彿以前既に印度に存したが、潤も亦之を採用せられ、龍樹

に至る迄は依然として之に披ったものである。大桑浬柴に於けるも亦之と同じで、髭の怨十三

には﹁革如一識分別説六、若至於限別名眼識、乃至意識亦復如是﹂とあ牟。赴れは勿論六誠を説

くを立としたの▼ではなく、造は一にして而も種々分別差別せらるゝ一例として掲げたのである

が、併し六識説の常時行はれ.たことは之を推知するに困難を威せぬ。若し七識八識の説があつ

たとすれば、六識といはすして七試又は八識となし、私宅も差支ないぃである。此腎愴に於て

ほ六と分別することが必要でなくして、昭一にして而も多に分別せらるゝといふのが裁眼とじ

るのである。而して経中に於ては未だ何彪に於ても七識とか八識詭の舷述とも籠むべき所はな

い。是れ亦彼の起信や唯識を詭く諸終に比し、吏らに一唇音代に成れることを諾するものとい

はなければならぬ。

・・・・− βr −

(38)

枕七男 卑二弟 究研敢宗

斯く大桑淫楽置ほ何れの黙から見ても般若経を慣足し、般若経に蛙って作られたことは疑な

い。随って吏らに潮れば大衆部系の思想の巽中に包含せらる∼ことも論を佐たぬ。綬の怨十に

はいふ、

二望禦竺摘ヱ鱒頬、二足四足多足無足、彿竺甘而厚詑淀、彼此累絹布自縛解・各々放・肯l如択今日偽我説法

此二軍説法といふことは、後世の痙典には諮厳に現はれて居るが、北高も肯いものは大衆部

の詭であらう。興部完輪論中、大衆部、忘却、説出世部、鵜胤部の本法同義として、1彿望

普璽切払﹂とあるのが即ちそれである。而して二響鱒を説くといふことは、即ち異類各解を

苧?︼とであるから、足れは全然同意義である。又置の怨八には 惰性亦園.煩悩近攻衆実見∵⋮龍田大藩蛇之拍・其中亦蒜貴大雪厨謂併任・誉話法、個食煩悩容顔所鍵 といふ、此心渾客魔読も後世大桑経典には屡々諭せらる∼朗であるが、基淵源する所は恐らく 大衆部であらう。法輪諭大衆部等の同義中には﹁心性本辞、零度随賦檎之併嫌染、寵盛不辞L

とある。此等は其最も著しいものである。

是れに由つて見れば大乗捏葉は正接般若経に披㌔更に翻っては大衆部の政義を塩逸して居

ることは明了にして、疑を容れないこと∼息ふ。是れは後に詭く朗と凝る密接な関係を有する − ∫.9 −

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経 により特に此に頚清の注意を促し置くのである。 ヽヽヽヽヽ 飼ほ此に一言附託したいのは、法華経に最も特色ある数量たる唯有一乗法の設の大桑捏柴に 頗はれて居ることである。総の港五には﹁有一価出現於世、開示三乗、如汝新富菩薩三乗如童 別者、我先於此如凍密減大捏環中、巳詭其蓑﹂とあり、又これに次ぎ﹁一切普薩璽閉路螢、未 発之世皆常掃於大股捏牽、督如衆流蹄於大海、・︰以是義政亦有差別、亦無差別﹂ともいふ。 是れは明かに唯有︼乗法撃一亦些この詮であつて、発覚する所は大捏紫に躇するといふのであ る。此政義は経中魔々に散見する。伺ほ英二三を蟄ぐれば、粒の怨十三にも﹁是造︼拉、如家 督臼満衆生故程々分別﹂といひ、同一火の盗る斬によつて水火、茸火等符々の名を得るが如く、 同一識も限にあつては眼識といひ、耳にあつてほ耳識等と指するが如く、同一色でも睨の見る・ 所は色といひ、耳の閃く桝は撃とハ号すが如く、偽造も亦攣り、﹁一雨準一、如凍鰯欲化衆度故、 碗々分別﹂といふ。是れは即ち三癌の衆生應他の方便に外ならぬとなすのである。翻は怨十七 には最も明了に 足芸華之法、耽冒一発.︼謁之揉、閏豆硯三 ともいひ、叉同港二十五にも﹁一道者謂大東也、語偽菩薩演衆生故分之鰯三﹂とある。是れ仝 − ♂β −・

(40)

㌫七霹 中二軒 先新秋宗

然法華経の政義と同一なるものではなからうか。若し果して然らとすれば、此に一の疑問が起

る。即ち法華経と捏紫綬と何れを以て兜とし、何れを以て後とすべきか。余輩の考ふる所によ

れば、法華経に﹁如衆於今日中夜営入無飴捏紫Lといへる如きは、始らく諭琵の外として、法

華経の租本数鶉は彼唯有一乗法の設にある。而して大乗担架にあつては必らすしも足れが其娘

本数義とはなつて居ない。唯に後人の斯く認むるのみならず、担架経の作者も斯く認めて屑な

かつたやうである。︵此事は後に詭く。︶且つ大乗捏梨の巻十一には、

或牧石絢位岨一乗、戎拉和訊三業

との畠もある併を以て見れば、唯一乗法の訣ほ大東捏柴製作の時にほ、既に故に現はれて居た

ものと恩はれる。且つ法華経は智皮諭中にも明かに之を引いて屠るのであるから、綴令ひ般若

より以後のものとしても基園るかく世に現はれたことは判る。乃ち大東浬菓は汝魔の数理をも

蟄踏したものと断一召して差支なからう。

斯く大乗捏整の近くは般若、退くは大衆部の併読によら、佃ほ傍注華や首相炭等の数理をも

粒承したこ・とは明瞭であるが、大乗浬栗の教義は唯此に止まるものではない。大桑捏磐には叉

白から特種の政義があら、足れが抽も彼をして諸方等鰐中、一群の重要誓0地位を占めしむる −− jク ー

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尖 所以である。然らば大乗捏磐に特有の致克とは何であるか。絃の垂二十六には 0DO000000CO000000000 0000 有人閉息九捏真鯉、如衆常桂細石坦あ、常舞我沖藤木率先入於提琴一切来生悉有併任、一間通人務力等鍾.作五建鐸 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 犯田釆焚、必常緑成苔畦之退去々 といふ。足れほ脛の作者が白から大桑捏柴に於ける政義の最も著しいものを捉排したのでぁる。 ︵而して前にも述べ柁如く、此に唯有一癖法の設の黎げられて層ないことは注意すべきである︶。 番人が今捏柴一組を施賢しても、其極力唱道する所は此に外ならぬ。即ち大森況菓特有の教義 ヽヽヽヽ ヽヽ’ヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽ は三ぁり、一は彿身常住の詮であり、二には一切衆痙悉有伴性の詭であり、三には閑提成彿の 説である。=足れが大森捏焚の新見創設とする所である。詣ふ節な改めて之を述べやう。 七 〇〇〇〇〇 児づ新一に僻身常住静から述べる。大東捏繋が俳身の常任を説いたことは、今日係数者の遍 ねく知る所であつて、特に此に例諾する必要を威せぬが、議論の順序として一二英文を掲げで 置く。匪の怨二には﹁如凍是常任法、不埠典法、鮎⋮秀之法Lといひ、同筆二には﹁督知如家鼻骨 00 任法、不軽易法、如凍此身基礎化身﹂といひ、叉韮ねて﹁俳丑骨法、不塵易法﹂ともあ、り、吏 ー職 ㌧〃 −

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批七;声 中二解 党研軟宗

らに同港下文には最も明かに

汝Al菟知如水之月紙袋億劫竪琴無援、⋮・卸先之鼻非月盈彗不生不拭不習不怯雄故紙迅・、⋮娘役東昨不般豊彗如l 武断射完成禁足無敦撒抄功結・::出足功軍規如衆易・罪責舘空費卑如衆針射功徳軸足

ともある。此に此身といふのは、即ち肉身、色身のことであり、之に封し眞身、抜身の串を用

ゐて、所謂法性を揖はす。此怖身常任詭は前にも述べた如く、小乗捏克と最も密接な関係を有

するもので、基淵隠する研の故にあることは勿論である。併しながら小森捏撃に於ては眞身と

か法身とかいふことは未だ之を説かぬのみならす、故にあつては㌍に龍決の滅するを変るには

及ばぬ、汝等備併設の戎待を遵守せば供在ると同じであると説くのみである。此言からしては

直ちに法の不滅を推論し得るが、常時の思想に於ては、法の不拭と悌身の不沈との間には荷ほ

大なる間隔があり、決して此所者を混同してはならぬ。が備滅後一首年の問に於て彿弟子の思

想は著しく撞化した。彼等は偶の偽たる所以のものは其法を大党したるにぁら、彿は法によつ

て彿光るを得たるので、俳の本質は法であるといふ結論を生じたのである。此彿即綾なる一両

の鼎理に到達したのが、即ち大衆部の思想でぁる。大森捏柴に於ける詔畳晶とか金剛身品杯の

主張は全く此に淵源する。然し大衆部の詭は直ちに大森埋葬の拉承する所とはいはれぬ、此問

一 方β −

(43)

鯉 盤 浬

に荷ほ多少の距離を認めざるむ碍ぬ。大衆部の従が捨印備、即備色身となし、彿と備色身とを

全然同一視したるは、蕾時の思想界にあつては勢の止むを得ざる所ではあつたが、歴史的人物

たる彿と理想的貸在たる放とを重く同一となした異に於て多少の無理がある。是に於て般若学

者は棚に放て二身を分け、大衆部の詭に於て︼宙の眞埋を組むると同時に、一切有部の籠も亦

全く尭つべかざるもりとなし、前者の思想は抜身の語を以て現はし﹂後者の思想は之を茂身と

いつた。而して丑身とは即ち色身に外ならぬから、彼等は大衆部の如く色身の触遠際を明へぬ、

唯其法身の歪不讐ることをいふのみである。而して是が大乗浬棄の唱ふる朗である。餉舶

槻莞那触謂射場難語拙著し菅て管▼こせば完投磐の唱ふる法身常鹿詭は、直

接般若から凍たもので、大衆部の説に淵躇するとはいふものゝ、彼とも全然同一ではない、況

んや小魚捏単に於てJ毒。即ち大桑捏柴の説を以て牢りに小森捏菓より凍るものゝ如く説くの 溺れるこしJは秋竜の疑を容れぬ。筒ほ大乗浬集に於ける泣易常任論の先感右左Lト′I むのに就いてほ緩浬集実技紹典の部粗塗閤ぜエ。 大桑捏柴の法身諭が般若の寧ピ般述して眉ラ言は、此のみではない。前にも説いた如Jl

般若では客を以て竺去諦となし、法仕法身となす。而して大桑捏発赤之と同じい。即ち或は

﹁如泰盛垂、及輿彿性、無有差別﹂といか、或は1如凍者即是眞質、異質者即是虚芦︵巷十三︶ − jβ −

(44)

魂七姉 坤二第 兜研軟宗

と解するが如き、皆之を記するもので。斯の如き言は経中至る所に発見せられる。即ち備の怖

たる所以、法性基物を以て察となしたことは、釈義般若粒と異誓りぬ。撃らば此に一の疑問が

起る。著し果して大乗捏整の法身諭が、全然般若を優遇したとすれば、北ハ研削州法身常任静とは

抑も何等の特色む宥する乎。何が故に之む以で大東捏整特有の敦並の一となすか。余部の考ふ

る所によれば、大乗浬牢に於ける備身論の特色とする鮮は、⋮叫に併身の不鍾不猟にして、即ち

足れ慮客となすよりも、寧ろ保身即大我、即大紋担撃となす勲にある。即も其澗鹿的説明の方

面よりも、駕ニハ積極的説明の方面を力説した黙にある。硝ほ語む換へていへば、認識論的説明

より本性諭的に入り、中観思想から後世の起信や唯誠に推移する中介をなした鮎⋮に於て、大乗

捏粟に於ける特殊の地位を訟むることを縛るのである。大東担架を租るものは特に此の任意を

要し、斯くして始めて併設より絡唯誠に苧′Q迄北恵忍の次節に、而して何等の聞損な′、、進歩

し去ることを現併し縛るのである。

大森捏繋が我︵又は眞我、又は大我といふ︶を立て、之を見て体性となし章節は鐘中鹿々に

散見するが経の幕八に

羊男子今日和束所説艶我、名目彿性

(45)

とあるを以ても知るべきである。我をカて宇宙の本鰹となすはク.ハニシャドの既に明言する所 であるから、捏柴縫作者の之を採用したことは放て怪しむに足ら氾が、梯致は後家無我詭を唱 ふるものと考へられて居た。乃ち此無我と有虚とり交渉に就いては、担架鮭にも少からす之を 措じて屑わ、叉之を締ずペき必要があつたのである。兜づ粒の巻二には 比丘常知、盈諸外道研冨我着.如串須永偶成字耳、追放如祝於偽注中嶋鬼無我、究調耗症雪先知時空視鬼触我、宥 因繰故亦説宥我、非凡夫研計曾我 といひ、所謂無我の説は封減便宜の説法であつて、僻は決して異賓我を香淀するもりでないと いふのである。勿論備の否定した我とは凡夫所執の我、即ち我執の我であつて、決して宇宙の本 鰹とか、心の異陪とかいふ我ではない。此にいふ怖性即我の説の如きは、仰の措いて述べぎる 所であかから、担架経のいふ所も仰詭と必らすし旦撞着するもあでないことは︰﹁︰ふ迄もないじ で樫の巷七には同じく此旨を説き 世嗣之人跡維新我−僻浅之吋亦湖宥我、歯間三人饉絹布鞘無宥偉豆、是則莞霊姦我申而鏡我想、品名掬倒.併泣石歌 即是悌改.世間之人祝穐接触我、是名粥小咤無我想∵二︰︰控注必定無我、是故知凍効率弟子修習無我.名港頼例 とある。備法中我あ♭とは従来傭政審の未だ説かぎる所であるが、彿性を謎め・て我となすか否 ー→ .雲J;−

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