︿ 前 号 に 続 く ﹀ ︹ 27 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 宋 会 要 ︵ 大 師 禅 師 雑 録 ︶ 仁 宗 嘉 祐 七 年 十 二 月 、 杭 州 霊 隠 沙 門 契 嵩 、 上 伝 法 正 宗 記 。 詔 入 蔵 教 、 仍 賜 号 明 教 大 師 。 ︿ 訓 読 ﹀ 仁 宗 の 嘉 祐 七 年 十 二 月 、 杭 州 霊 隠 の 沙 門 契 嵩 、 伝 法 正 宗 記 を た て 上ま つ る 。 詔 し て 蔵 教 に 入 ら し め 、 仍 っ て 号 明 教 大 師 を 賜 る 。 ︿ 解 説 ﹀ 杭 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 霊 隠 寺 の 永 安 精 舎 に 住 し た 雲 門 宗 の 仏 日 契 嵩 ︵ 一 〇 〇 七 ︱ 一 〇 七 二 ︶ が ﹃ 伝 法 正 宗 記 ﹄ を 完 成 さ せ 上 表 し た と こ ろ 、 嘉 祐 七 年 ︵ 一 〇 六 二 ︶ 十 二 月 に 入 蔵 が 許 さ れ 、 さ ら に ﹁ 明 教 大 師 ﹂ の 師 号 が 下 賜 さ れ た こ と を 述 べ る 記 録 。 仏 日 契 嵩 に つ い て は そ の 著 述 ﹃ 鐔 津 文 集 ﹄ に 付 載 さ れ る 陳 舜 兪 ﹁ 鐔 津 明 教 大 師 行 業 記 ﹂ が あ り 、 ま た ﹃ 禅 林 僧 宝 伝 ﹄ 巻 二 七 に も 立 伝 さ れ る 。 そ れ ら を 利 用 し て 、 牧 田 諦 亮 氏 や 荒 木 見 悟 氏 が 伝 記 を 詳 述 さ れ て い る の で 、 今 そ れ に よ っ て 契 嵩 の 伝 記 の 梗 概 を 述 べ て お く 。 契 嵩 、 字 は 仲 霊 、 藤 州 ︵ 広 西 省 ︶ 鐔 津 に 生 ま れ る 。 俗 姓 は 李 。 七 歳 で 寺 に 入 り 、 一 三 歳 で 得 度 、 翌 年 に 具 足 戒 を 受 け る 。 一 九 歳 で 遊 方 の 旅 に 出 、 は じ め 南 岳 で 神 鼎 洪 に 参 じ 、 つ い で 洞 山 の 暁 聡 ︵ ? ︱ 一 〇 三 〇 ︶ に 参 じ て 大 悟 し 雲 門 宗 の 法 を 嗣 ぐ 。 こ れ 以 前 か ら 儒 仏 の 一 致 に 強 い 関 心 を 寄 せ た と い う 。 三 五 歳 の 頃 、 銭 塘 に 出 る 。 定 住 し た 寺 院 は な か っ た と い う が 、 霊 隠 寺 の 永 安 精 舎 に は 比 較 的 永 く 居 住 し た ら し い 。 熙 寧 五 年 一 九 駒 澤 大 學 佛 學 部 論 集 第 三 十 八 號 成 十 九 年 十 月
﹃
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﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 〇 六 月 四 日 示 寂 、 世 寿 六 六 。 契 嵩 は ﹃ 伝 法 正 宗 記 ﹄ 九 巻 と と も に 、 ﹃ 伝 法 正 宗 定 祖 図 ﹄ 一 巻 、 ﹃ 伝 法 正 宗 論 ﹄ 二 巻 を あ わ せ 撰 述 し 、 ﹃ 付 法 蔵 因 縁 伝 ﹄ ﹃ 続 高 僧 伝 ﹄ ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ に お け る 禅 宗 史 観 を 論 破 し た 。 そ の 記 述 は ほ ぼ 正 鵠 を 得 て い る と い う 。 こ れ ら が 成 っ た の は 嘉 祐 六 年 ︵ 一 〇 六 一 ︶ で あ る が 、 こ の 時 に 契 嵩 は ﹁ 原 教 ﹂ ﹁ 勧 書 ﹂ ﹁ 広 原 教 ﹂ ﹁ 孝 論 ﹂ ﹁ 壇 経 賛 ﹂ ﹁ 真 諦 無 聖 論 ﹂ を 総 合 し た ﹃ 輔 教 編 ﹄ 三 巻 を あ わ せ 完 成 さ せ て い る 。 荒 木 氏 の 指 摘 に よ れ ば 、 契 嵩 は こ れ ら の 成 果 を 富 弼 ︵ 一 〇 〇 四 ︱ 一 〇 八 三 ︶ や 欧 陽 修 ︵ 一 〇 〇 七 ︱ 一 〇 七 二 ︶ な ど の 官 僚 へ 送 り 、 自 ら 都 へ 出 向 き 、 仁 宗 ︵ 在 位 一 〇 二 二 ︱ 一 〇 六 三 ︶ へ 上 っ て 入 蔵 を 請 う た と い う 。 こ の 時 付 さ れ た ﹁ 万 言 書 ﹂ は 契 嵩 の 儒 仏 一 致 思 想 を 端 的 に 示 す も の と 見 て よ い 。 契 嵩 ら の 運 動 も あ っ て 、 こ れ ら の 著 作 は 嘉 祐 七 年 に 福 州 東 禅 等 覚 寺 版 大 蔵 経 ︵ 土 函 ︶ に 入 蔵 さ れ 、 契 嵩 に は 明 教 大 師 号 が 勅 賜 さ れ た 。 ︿ 参 考 文 献 ﹀ 忽 滑 谷 快 天 ﹁ 明 教 契 嵩 の 修 史 ﹂ ︵ ﹃ 禅 学 思 想 史 ﹄ 下 巻 所 収 、 名 著 刊 行 会 、 一 九 六 九 年 ︶ 牧 田 諦 亮 ﹁ 趙 宋 仏 教 史 に お け る 契 嵩 の 立 場 ﹂ ︵ ﹃ 中 国 仏 教 史 研 究 第 二 ﹄ 所 収 、 大 東 出 版 社 、 一 九 八 七 年 ︶ 荒 木 見 悟 ﹃ 輔 教 編 ﹄ ︵ 筑 摩 書 房 、 一 九 八 一 年 ︶ ︿ 永 井 ﹀ ︹ 28 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 大 観 元 年 閏 十 月 二 十 六 日 、 詔 明 州 育 王 山 寺 掌 管 仁 宗 御 容 僧 行 、 可 賜 師 号 度 牒 、 各 二 道 、 用 為 酬 奨 。 或 願 師 将 号 換 紫 衣 、 亦 聴 。 ︿ 訓 読 ﹀ 大 観 元 年 閏 十 月 二 十 六 日 、 詔 す 、 明 州 育 王 山 寺 の 仁 宗 の 御 容 を 掌 管 せ る 僧 行 に 、 師 号 度 牒 、 各 お の 二 道 を 賜 い 、 用 て 酬 奨 と 為 す べ し 。 或 い は 願 う に 、 師 号 を 将 て 紫 衣 に 換 え ん と す れ ば 、 亦 た 聴 す 。 ︿ 解 説 ﹀ 大 観 元 年 ︵ 一 一 〇 七 ︶ 閏 十 月 二 十 六 日 、 明 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 阿 育 王 寺 に お い て 仁 宗 の 真 容 を 守 る 僧 や 童 行 に 対 し 、 師 号 と 度 牒 を そ れ ぞ れ 二 道 ず つ 下 賜 し 、 さ ら に 師 号 を 紫 衣 に 替 え る こ と を 願 っ た 僧 に つ い て は こ れ を 許 し た と い う 記 録 。 先 帝 の 御 容 、 す な わ ち 天 子 の 肖 像 を 祀 る 建 物 を 神 御 殿 と 呼 ぶ が 、 こ れ を め ぐ っ て は 劉 長 東 ﹁ 宋 代 神 御 殿 考 ﹂ が あ る 。 劉 氏 論 文 は ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 一 〇 九 ﹁ 礼 志 一 二 ﹂ に ﹁ 神 御 殿 と は 古 の
二 一 原 廟 な り 。 以 て 先 朝 の 御 容 を 奉 安 す ﹂ と あ る こ と を 指 摘 し 、 唐 宋 代 の 神 御 殿 の 創 建 等 に つ い て 論 考 す る 。 こ の 中 で 宋 代 の 神 御 殿 の 創 建 は 皇 帝 の 行 幸 の あ っ た 寺 観 に 建 設 さ れ る の が 原 則 で あ っ た と も い う 。 仁 宗 が 阿 育 王 寺 に 行 幸 し た か に つ い て は 確 認 で き て い な い が 、 仏 舎 利 を 祀 り 五 山 に 列 せ ら れ る ほ ど の 阿 育 王 寺 に も 神 御 殿 が あ り 御 容 が 祀 ら れ て い た の で あ ろ う 。 ま た 、 近 年 刊 行 の 李 国 玲 ﹃ 宋 僧 録 ﹄ に は 、 ﹃ 宋 会 要 ﹄ の 本 項 を 出 典 と し て ﹁ 行 可 、 大 観 年 間 、 明 州 育 王 山 寺 僧 ﹂ と 解 説 す る が 、 当 面 ﹃ 阿 育 王 山 寺 志 ﹄ を 始 め と す る 諸 資 料 に お い て ﹁ 行 可 ﹂ な る 僧 の 存 在 を 確 認 で き な い 。 こ こ で は 度 牒 給 付 の あ っ た こ と を 勘 案 し て ﹁ 僧 と 童 行 ﹂ の 意 に 解 し て お く 。 ︿ 参 考 文 献 ﹀ 劉 長 東 ﹁ 宋 代 神 御 殿 考 ﹂ ︵ ﹃ 宋 代 仏 教 政 策 論 稿 ﹄ 所 収 、 巴 蜀 書 社 、 二 〇 〇 五 年 ︶ 李 国 玲 ﹃ 宋 僧 録 ﹄ ︵ 綫 装 書 局 、 二 〇 〇 一 年 ︶ ︿ 小 師 ﹀ ︹ 29 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 宣 和 元 年 二 月 四 日 、 詔 天 下 見 住 持 長 老 、 可 委 逐 州 軍 守 臣 、 取 索 姓 名 、 並 賜 師 号 、 如 有 師 号 者 添 両 字 。 ︿ 訓 読 ﹀ 宣 和 元 年 二 月 四 日 、 詔 す 、 天 下 の 見 の 住 持 長 老 に 、 逐それ ぞ れ の 州 軍 の 守 臣 に 委 せ て 、 姓 名 を 取 索 し 、 並 び に 師 号 を 賜 る べ し 。 如も し 師 号 有 る 者 に は 両 字 を 添 う 。 ︿ 解 説 ﹀ 宣 和 元 年 ︵ 一 一 一 九 ︶ 二 月 四 日 、 各 州 軍 の 役 人 に 命 じ て 各 寺 の 住 職 の 姓 名 を 聞 き 取 ら せ 、 そ れ ぞ れ に 師 号 が 下 賜 さ れ 、 す で に 師 号 を 有 す る 者 に つ い て は 二 字 が 追 贈 さ れ た こ と を 述 べ る 記 録 。 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 二 二 で は こ の 記 事 に つ い て 確 認 で き な い が 、 む し ろ 注 目 す べ き は こ の 年 の 正 月 に ﹁ 仏 を 大 覚 金 仙 と 改 号 し 、 余 を 仙 人 、 大 士 と 為 す 。 僧 を 徳 士 と 為 し 、 服 飾 を 易 え 、 姓 氏 を 称よ ぶ 。 寺 を 宮 と 為 し 、 院 を 観 と 為 す ﹂ と の 詔 勅 が あ り 、 女 冠 を 改 め て 女 道 と 為 し 、 尼 を 女 徳 と 為 し た と い う ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 二 二 の 記 事 で あ ろ う 。 徽 宗 ︵ 在 位 一 一 〇 〇 ︱ 一 一 二 五 ︶ の 道 教 び い き の 証 左 と し て よ く 知 ら れ る 記 事 で あ る が 、 ﹁ 僧 の 法 諱 で は な く 姓 氏 を 称 ぶ ﹂ こ と に 対 応 す る の が ﹁ 姓 名 を 取 索 ﹂ と い う こ と に な る 。 ま た 、 こ の 時 に ﹁ 師 号 ﹂ の 下 賜 が あ っ た と 言 う こ と か ら す れ ば 、 徽 宗 の 宗 教 政 策 が 必 ず し も 道 教 偏 重 と ば か り は 言 え な い こ と に な る 。 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶
﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 二 ︿ 小 師 ﹀ ︹ 30 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 三 年 二 月 二 十 七 日 、 詔 觧 州 防 禦 使 鄭 明 之 、 特 与 剃 度 為 僧 、 充 僧 職 与 師 号 、 管 幹 教 門 公 事 。 法 名 善 因 。 ︿ 訓 読 ﹀ 三 年 二 月 二 十 七 日 、 詔 す 、 觧 州 の 防 禦 使 、 鄭 明 之 、 特 に 剃 度 を 与 え 僧 と 為 し 、 僧 職 に 充 て 師 号 を 与 え 、 教 門 ・ 公 事 を 管 幹 せ し む 。 法 名 は 善 因 な り 。 ︿ 解 説 ﹀ 宣 和 三 年 ︵ 一 一 二 一 ︶ 二 月 二 十 七 日 、 觧 州 ︵ 山 西 省 ︶ の 防 禦 使 で あ る 鄭 明 之 に 対 し 、 剃 髪 得 度 さ せ て 仏 門 の 事 務 管 理 を 命 じ た こ と を 述 べ る 記 録 。 善 因 と い う 法 諱 を 名 乗 っ た 鄭 明 之 に つ い て は 明 ら か で な い が 、 ﹃ 福 建 通 志 ﹄ に は 同 名 の 人 物 が 見 ら れ る 。 す な わ ち 、 ﹃ 福 建 通 志 ﹄ 巻 一 七 八 ︵ 中 国 省 志 彙 編 ︶ に は 、 ﹁ [ 前 略 ] 弟 の 公 敏 、 字 は 明 之 な り 。 幼 く し て 公 顕 ︵ 兄 ︶ と 、 志 に 励 み 苦 学 す る に 、 時 に 二 鄭 と 号 す 。 乾 道 五 年 に 進 士 に 登 り て か ら 、 福 清 の 主 簿 を 歴 し 、 古 田 令 に 調 す 。 公 敏 の 子 な る 蔭 は 、 広 州 の 番 禺 令 を 授 く ﹂ と あ る 。 南 宋 乾 道 五 年 ︵ 一 一 六 九 ︶ の 進 士 と さ れ る ﹃ 福 建 通 志 ﹄ の 鄭 明 之 と 、 本 項 に 登 場 す る 北 宋 宣 和 三 年 ︵ 一 一 二 一 ︶ に 防 禦 使 と な っ て い た 鄭 明 之 は 、 同 じ 名 字 を 有 す る も の の 、 年 代 的 に 隔 た り が あ る こ と か ら し て 別 人 で あ る と 考 え ら れ る 。 こ の よ う に 後 攷 を 俟 つ 部 分 、 少 な く な い が 、 こ の ﹃ 宋 会 要 ﹄ の 記 録 は 、 俗 世 間 の 最 高 権 力 者 で あ る 時 の 天 子 が 仏 教 界 内 部 に 影 響 を 及 ぼ し て い た 確 た る 事 例 と し て 、 大 い に 注 目 す べ き で あ る 。 ︿ 程 ﹀ ︹ 31 ︺ 建 炎 四 年 十 月 二 十 八 日 、 福 建 路 転 運 使 言 、 建 州 崇 安 県 管 下 新 豊 郷 呉 屯 里 瑞 巌 禅 院 、 有 開 山 扣 水︵マ マ ︶ 和 尚 、 俗 姓 翁 名 藻 、 凡 遇 水 旱 祈 求 輒 応 。 乞 賜 塔 額 師 号 。 詔 以 慧 応 塔 為 額 。 六 年 加 法 威 大 師 。 従 転 運 使 請 也 。 ︿ 訓 読 ﹀ 建 炎 四 年 十 月 二 十 八 日 、 福 建 路 の 転 運 使 の 言 く 、 建 州 崇 安 県 管 下 、 新 豊 郷 呉 屯 里 、 瑞 巌 禅 院 に 開 山 扣 水 和 尚 有 り 。 俗 姓 は 翁 、 名 は 藻 な り 。 凡 そ 水 旱 に 遇 い 、 祈 求 す る に 輒 ち 応 ず 。 塔 額 師 号 を 賜 る こ と を 乞 う 、 と 。 詔 し て 慧 応 塔 を 以 て 額 と 為 す 。 六 年 、 法 威 大 師 と 加 う 。 転 運 使 の 請 う に 従 う な り 。
の 知 事 僧 に は 並 び に 紫 衣 を 賜 い 、 内 の 住 持 人 に は 仍 ち 二 字 の 師 号 を 賜 う 。 ︿ 解 説 ﹀ 紹 興 元 年 ︵ 一 一 三 一 ︶ 六 月 二 十 四 日 、 哲 宗 ︵ 在 位 一 〇 八 五 ︱ 一 一 〇 〇 ︶ の 第 一 皇 后 孟 氏 昭 慈 献 烈 皇 太 后 ︵ ︱ 一 一 三 一 ︶ の 攅 宮 ︵ 天 子 の 亡 骸 を 一 時 安 置 す る 所 ︶ に て 香 火 を 奉 っ た こ と に よ り 、 泰 寧 寺 に さ ら に 度 僧 一 名 が 許 さ れ 、 知 事 僧 に 紫 衣 が 与 え ら れ 、 そ の う ち の 住 持 人 に 二 字 の 師 号 が 下 賜 さ れ た 記 録 。 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 二 四 三 に よ る と 、 皇 后 孟 氏 は 洛 州 ︵ 河 南 省 ︶ の 人 で 、 元 祐 七 年 ︵ 一 〇 九 二 ︶ 、 哲 宗 の 皇 后 に 立 て ら れ た 。 元 符 三 年 ︵ 一 一 〇 〇 ︶ に 哲 宗 が 崩 ず る と 、 元 祐 皇 后 と 号 し た 。 建 炎 元 年 ︵ 一 一 二 七 ︶ 、 南 宋 初 代 の 高 宗 ︵ 在 位 一 一 二 七 ︱ 一 一 六 二 ︶ が 即 位 す る と 元 祐 太 后 と な っ た が 、 さ ら に 隆 祐 太 后 と 改 号 。 紹 興 元 年 四 月 に 没 し 、 そ の 後 昭 慈 献 烈 皇 太 后 と 諡 さ れ た が 、 三 年 に は 昭 慈 聖 献 と 改 め て 諡 号 さ れ て い る 。 香 火 を 修 し た 泰 寧 寺 は 泰 寧 禅 寺 と も い う 。 ﹃ 嘉 泰 会 稽 志 ﹄ 巻 七 に よ れ ば 、 泰 寧 寺 は 会 稽 県 ︵ 浙 江 省 ︶ の 東 南 四 十 里 に あ り 、 顕 徳 二 年 ︵ 九 五 五 ︶ に 建 立 、 初 め は 化 城 院 と 号 し 、 後 に 証 道 院 と 名 を 改 め た 。 建 中 靖 国 元 年 ︵ 一 一 〇 一 ︶ に 太 師 の 陸 佃 ︵ 一 〇 四 二 ︱ 一 一 〇 二 ︶ の 功 徳 院 と な り 、 証 慈 の 寺 額 が 下 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 三 ︿ 解 説 ﹀ 建 寧 府 崇 安 県 ︵ 福 建 省 ︶ 瑞 巌 禅 院 を 開 い た 扣 氷 和 尚 藻 先 ︵ 八 四 四 ︱ 九 二 八 ︶ に 対 し 、 建 炎 四 年 ︵ 一 一 三 〇 ︶ 十 月 二 十 八 日 に ﹁ 慧 応 ﹂ の 塔 名 、 紹 興 六 年 ︵ 一 一 三 六 ︶ に ﹁ 法 威 ﹂ の 師 号 が 相 次 い で 下 賜 さ れ た 記 録 。 ﹁ 法 威 ﹂ の 師 号 が 下 賜 さ れ た 記 事 に は 年 号 が 記 さ れ て な い が 、 建 炎 年 間 は 四 年 で 終 る こ と と 、 同 じ 藻 先 に 対 す る 前 号 ︹ 9 ︺ お よ び ︹ 41 ︺ の 紹 興 二 五 年 ︵ 一 一 五 五 ︶ 、 乾 道 元 年 ︵ 一 一 六 五 ︶ 、 淳 熙 一 三 年 ︵ 一 一 八 六 ︶ の 勅 旨 に は 、 す で に ﹁ 法 威 ﹂ の 師 号 が 付 せ ら れ て い る こ と に よ り 、 紹 興 六 年 の 詔 勅 で あ る と 判 断 し た 。 詳 細 に つ い て は 、 前 号 ︹ 9 ︺ お よ び 本 号 ︹ 41 ︺ と 同 一 人 の た め 、 前 号 ︹ 9 ︺ の 解 説 を 参 照 さ れ た い 。 ︿ 山 本 ﹀ ︹ 32 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 紹 興 元 年 六 月 二 十 四 日 、 詔 以 昭 慈 献 烈 皇 太 后 攅 宮 修 奉 香 火 、 泰 寧 寺 更 与 度 僧 一 名 、 本 寺 知 事 僧 、 並 賜 紫 衣 、 内 住 持 人 、 仍 賜 二 字 師 号 。 ︿ 訓 読 ﹀ 紹 興 元 年 六 月 二 十 四 日 、 詔 す 、 昭 慈 献 烈 皇 太 后 の 攅 宮 に て 香 火 を 修 奉 す る を 以 て 、 泰 寧 寺 に は 更 に 度 僧 一 名 を 与 え 、 本 寺
﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 四 賜 さ れ た 。 紹 興 の 初 め に 昭 慈 聖 献 太 后 の 攅 宮 と な り 、 証 慈 視 陵 寺 と 称 し た 。 し か し 、 皇 太 后 の 遺 体 は 、 夫 で あ る 哲 宗 の 永 泰 陵 に 戻 る べ き で あ る と い う 意 見 が あ っ た こ と を 受 け て 、 永 泰 陵 の 泰 の 字 を 取 り 、 安 寧 の 意 を 込 め て 、 泰 寧 禅 寺 と 名 を 賜 っ た と あ る 。 こ れ と ほ ぼ 同 様 の 記 事 は ﹃ 宝 慶 会 稽 続 志 ﹄ 巻 三 に も 記 録 さ れ て い る 。 ﹃ 宋 会 要 ﹄ の 記 事 と 合 わ せ て ま と め れ ば 、 紹 興 元 年 四 月 に 昭 慈 献 烈 皇 太 后 が 崩 御 し 、 そ の 攅 宮 と な っ た 証 慈 視 陵 寺 は 、 後 に 泰 寧 禅 寺 と 改 め ら れ た 。 そ の 後 、 皇 太 后 の 攅 宮 と し て 香 火 の 修 奉 が 行 わ れ た こ と で 、 同 年 六 月 に 度 僧 の 追 加 や 紫 衣 が 下 賜 さ れ た の で あ ろ う 。 ︿ 参 考 文 献 ﹀ 黄 敏 枝 ﹃ 宋 代 仏 教 社 会 経 済 史 論 集 ﹄ ︵ 学 生 書 局 、 一 九 八 九 年 、 二 五 六 頁 ︶ 。 ︿ 小 師 ﹀ ︹ 33 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 宋 会 要 四 年 十 一 月 二 十 五 日 、 神 武 後 軍 統 制 充 江 南 西 路 、 舒 州 制 置 使 岳 飛 言 、 臣 駐 軍 江 州 、 請 到 禅 僧 恵 海 、 住 持 江 州 廬 山 東 林 禅 寺 。 本 僧 禅 学 精 通 、 戒 行 孤 潔 、 欲 望 特 与 一 仏 心 禅 師 師 号 。 従 之 。 ︿ 訓 読 ﹀ 四 年 十 一 月 二 十 五 日 、 神 武 後 軍 統 制 、 江 南 西 路 、 舒 州 の 制 置 使 に 充 て ら る 岳 飛 の 言 く 、 臣 、 軍 を 江 州 に 駐 む る に 、 禅 僧 恵 海 に 、 江 州 廬 山 東 林 禅 寺 に 住 持 す る を 請 到こ う 。 本 僧 、 禅 学 精 通 、 戒 行 孤 潔 な れ ば 、 特 に 一 の 仏 心 禅 師 の 師 号 を 与 え ん こ と を 欲 し 望 む と 。 之 に 従 る 。 ︿ 解 説 ﹀ 紹 興 四 年 ︵ 一 一 三 四 ︶ 十 一 月 二 十 五 日 、 江 州 ︵ 江 西 省 ︶ 廬 山 東 林 寺 の 恵 海 に 対 し 、 ﹁ 仏 心 禅 師 ﹂ の 師 号 が 下 賜 さ れ た 記 録 。 ﹃ 建 炎 以 来 繋 年 要 録 ﹄ 巻 八 二 ﹁ 紹 興 四 年 十 一 月 ﹂ の 条 に も ﹁ 廬 山 東 林 寺 の 僧 慧 海 、 号 を 仏 心 禅 師 と 賜 う ﹂ と 記 録 す る 。 師 号 下 賜 の 理 由 は 禅 学 に 通 じ 、 戒 律 を 護 持 し た こ と に よ る も の で あ り 、 名 将 岳 飛 ︵ 一 一 〇 三 ︱ 一 一 四 二 ︶ の 推 挙 が あ っ た と す る 。 恵 海 の 来 歴 に つ い て は 不 明 。 岳 飛 は ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 二 七 ﹁ 紹 興 三 年 九 月 ﹂ の 条 に よ れ ば 、 ﹁ 江 南 西 路 、 舒 州 の 制 置 使 と 為 る ﹂ と あ り 、 前 年 に こ の 職 に 任 じ ら れ て い る 。 廬 山 東 林 寺 は 太 元 九 年 ︵ 三 八 四 ︶ 、 慧 遠 ︵ 三 三 四 ︱ 四 一 六 ︶ に よ っ て 開 創 さ れ る 。 以 後 、 淨 土 教 の 寺 と し て 名 を 馳 せ た 。
﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 五 宋 代 に お い て は 、 ﹃ 禅 林 僧 宝 伝 ﹄ 巻 二 五 ﹁ 東 林 照 覚 総 ﹂ 章 に 、 ﹁ 元 豊 三 年 ︵ 一 〇 八 〇 ︶ 、 詔 す 、 江 州 東 林 律 居 を 革 め 、 禅 席 と 為 す ﹂ ︵ 続 蔵 二 乙 ︱ 一 〇 ︱ 三 ︱ 二 六 八 d ︶ と あ る よ う に 、 禅 寺 と 革 め ら れ 、 そ の 際 、 東 林 常 総 が 住 持 と し て 請 わ れ 、 こ こ を 拠 点 に 大 い に 宗 風 を 振 る っ た 。 ﹃ 大 清 一 統 志 ﹄ 巻 二 四 四 に ﹁ 紹 興 間 ︵ 一 一 三 一 ︱ 一 一 六 二 ︶ 燬 く 。 明 洪 武 六 年 ︵ 一 三 七 三 ︶ 重 建 す 。 本 朝 順 治 十 三 年 ︵ 一 六 五 六 ︶ 重 修 す ﹂ と あ る 。 本 文 は 火 災 の あ っ た 以 前 の こ と で あ る と 推 察 さ れ る 。 ︿ 三 宅 ﹀ ︹ 34 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 隆 興 元 年 八 月 二 十 八 日 、 詔 臨 安 府 径 山 能 仁 禅 院 大 慧 禅 師 宗 杲 、 賜 号 普 覚 禅 師 、 塔 以 宝 光 為 額 。 先 是 上 嘗 賜 宗 果︵マ マ ︶ 御 書 妙 喜 庵 、 以 及 御 製 賛 誦 。 宗 果︵マ マ ︶ 死 其 徒 了 賢 等 、 請 以 宗 果︵マ マ ︶ 所 居 妙 喜 庵 、 奉 御 書 於 閣 上 、 臣 乞 賜 師 号 塔 額 。 故 有 是 命 。 ︿ 訓 読 ﹀ 隆 興 元 年 八 月 二 十 八 日 、 詔 す 、 臨 安 府 径 山 能 仁 禅 院 の 大 慧 禅 師 宗 杲 に 号 普 覚 禅 師 を 賜 り 、 塔 は 宝 光 を 以 て 額 と 為 す 。 是 よ り 先 、 上 、 嘗 つ て 宗 杲 に 御 書 の 妙 喜 庵 、 以 及 び 御 製 の 賛 誦 を 賜 る 。 宗 杲 死 し 、 其 の 徒 了 賢 等 、 宗 杲 居 す 所 の 妙 喜 庵 を 以 て 御 書 を 閣 上 に 奉 ず る を 請 い 、 臣 は 師 号 と 塔 額 を 賜 る こ と を 乞 う 。 故 に 是 の 命 あ り 。 ︿ 解 説 ﹀ 臨 安 府 ︵ 浙 江 省 ︶ 径 山 能 仁 寺 の 明 月 庵 に お い て 七 五 歳 で 遷 化 し た 大 慧 宗 杲 ︵ 一 〇 八 九 ︱ 一 一 六 三 ︶ に 対 し 、 隆 興 元 年 ︵ 一 一 六 三 ︶ 八 月 二 十 八 日 に 師 号 ﹁ 普 覚 禅 師 ﹂ と ﹁ 宝 光 ﹂ な る 塔 額 が 下 賜 さ れ た 記 録 。 南 宋 の 禅 界 を 代 表 す る 大 慧 に つ い て は 多 言 を 要 し な い 。 特 に 近 年 は 石 井 修 道 氏 に よ る 精 力 的 な 研 究 が あ る 。 石 井 氏 の 指 摘 を 受 け つ つ 、 示 寂 直 前 の 大 慧 の 様 子 に つ い て 見 る な ら 、 ﹁ 大 慧 塔 銘 ﹂ ︵ ﹃ 大 慧 普 覚 禅 師 語 録 ﹄ 巻 六 、 大 正 蔵 四 七 ︱ 八 三 六 b ︱ 八 三 七 b ︶ に 、 ﹁ 隆 興 元 年 ︵ 一 一 六 三 ︶ 八 月 十 日 、 大 慧 禅 師 宗 杲 、 径 山 の 明 月 堂 に 示 寂 す 。 皇 帝 、 之 を 聞 い て 嗟 惜 さ せ き す 。 詔 し て 明 月 堂 を 以 て 妙 喜 庵 と 為 す 。 諡 を 普 覚 と 賜 い 、 塔 を 宝 光 と 名 づ く 。 を 用 い て 之 れ を 賁か ざ る 。 其 の 徒 、 師 の 全 身 を 以 て 庵 の 後 に 葬 る [ 中 略 ] 賜 う 所 の 御 書 、 閣 を 建 て 妙 喜 庵 に 蔵 む ﹂ と あ っ て 、 ﹃ 宋 会 要 ﹄ の 記 事 を 確 認 で き る 。 ま た 了 賢 に つ い て は ﹁ 了 賢 、 偈 を 請 う に 復 た び 筆 を 取 り て 大 書 し 少 し も 乱 れ ず ﹂ と あ っ て 、 大 慧 に 遺 偈 を 請 い 、 ま た ﹁ 了 賢 を し て 来 た ら し め 銘 を 請 う ﹂ と 張 浚 に 塔 銘 を 請 う た こ と も 知 ら れ る 。
﹃ 宋 会 要 ﹄ 道 釈 部 訓 注 ︵ 二 ︶ ︵ 永 井 ︶ 二 六 ︿ 参 考 文 献 ﹀ 石 井 修 道 ﹁ 大 慧 普 覚 禅 師 年 譜 の 研 究 ︵ 上 ・ 中 ・ 下 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 紀 要 ﹄ 三 七 ・ 三 八 ・ 四 〇 、 一 九 七 九 ・ 一 九 八 〇 ・ 一 九 八 二 年 ︶ ︿ 永 井 ﹀ ︹ 35 ︺ ︿ 原 文 ﹀ 二 年 三 月 十 三 日 、 詔 平 江 府 呉 江 県 洞 庭 包 山 顕 慶 禅 院 慈 受 普 照 大 師 懐 深 禅 師 、 賜 塔 以 普 明 為 額 。 以 其 徒 法 駿 等 言 、 師 住 持 名 山 三 十 余 歳 、 行 業 顕 著 、 道 路 推 重 、 故 有 是 命 。 ︿ 訓 読 ﹀ 二 年 三 月 十 三 日 、 詔 す 、 平 江 府 呉 江 県 、 洞 庭 包 山 顕 慶 禅 院 の 慈 受 普 照 大 師 懐 深 禅 師 に 、 塔 を 賜 り 普 明 を 以 て 額 と 為 す 。 其 の 徒 法 駿 等 の 、 師 は 名 山 に 住 持 す る こ と 三 十 余 歳 、 行 業 顕 著 に し て 道 路 推 重 と 言 う を 以 て の 故 に 是 の 命 有 り 。 ︿ 解 説 ﹀ 隆 興 二 年 ︵ 一 一 六 四 ︶ 三 月 十 三 日 、 平 江 府 呉 江 県 ︵ 江 蘇 省 ︶ 洞 庭 湖 の ほ と り 包 山 の 顕 慶 禅 院 に て 示 寂 し た 慈 受 懐 深 ︵ 一 〇 七 七 ︱ 一 一 三 二 ︶ に 対 し 、 ﹁ 普 明 ﹂ の 塔 額 が 下 賜 さ れ た 記 録 。 弟 子 法 駿 た ち が 懐 深 の 徳 行 の 高 さ を 奏 上 し た か ら と 言 う 。 慈 受 懐 深 は 、 雲 門 ︱ 香 林 澄 遠 ︱ 智 門 光 祚 ︱ 雪 竇 重 顕 ︱ 天 衣 義 懐 ︱ 慧 林 宗 本 ︱ 長 蘆 崇 信 ︱ 慈 受 懐 深 と 次 第 す る 雲 門 宗 の 人 。 ﹃ 慈 受 深 和 尚 広 録 ﹄ 四 巻 が 残 っ て お り 、 ﹃ 普 灯 録 ﹄ 巻 九 や ﹃ 五 灯 会 元 ﹄ 巻 一 六 な ど に 立 伝 さ れ る 。 寿 春 府 ︵ 安 徽 省 ︶ 六 安 の 人 で 俗 姓 は 夏 氏 。 一 四 才 で 出 家 し 、 秀 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 資 聖 寺 で 崇 信 に 参 じ て 得 法 、 政 和 三 年 ︵ 一 一 一 三 ︶ 八 月 一 〇 日 、 儀 真 ︵ 江 蘇 省 ︶ の 資 福 寺 に 住 す 。 資 福 寺 が 神 霄 宮 と な っ た た め 蒋 山 に 入 る 。 同 七 年 ︵ 一 一 一 七 ︶ 九 月 六 日 、 勅 に よ り 東 京 大 相 国 寺 慧 林 禅 院 に 住 す 。 靖 康 二 年 ︵ 一 一 二 七 ︶ 慧 林 禅 院 を 退 く 。 天 台 の 石 橋 を 経 て 蘇 州 霊 巌 寺 に 入 り 、 久 し く し て 蒋 山 に 勅 住 、 数 ヶ 月 の 後 、 洞 庭 の 包 山 顕 慶 禅 院 に 退 く 、 王 氏 の 請 を 受 け て 思 渓 の 円 覚 の 第 一 祖 と な る 。 紹 興 二 年 ︵ 一 一 三 二 ︶ 四 月 二 〇 日 、 世 寿 五 六 、 法 臘 三 六 、 包 山 顕 慶 、 思 渓 の 円 覚 に 塔 し た 。 語 録 や 伝 記 資 料 に よ る か ぎ り 、 懐 深 に ﹁ 慈 受 大 師 ﹂ や ﹁ 普 照 大 師 ﹂ の 号 が 下 さ れ た 時 期 を 特 定 す る こ と は で き な い 。 多 分 、 懐 深 が 慧 林 禅 院 に 入 院 し た 時 で あ ろ う が 、 そ れ に し て も 懐 深 に 普 照 大 師 の 号 の あ る こ と を 記 す の は 、 当 面 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 以 外 に 知 ら れ な い し 、 本 記 事 に 関 わ る 賜 額 の 事 実 も 没 後 三 二 年 の こ と で あ る か ら 、 い わ ゆ る 三 三 回 忌 を 期 し て の こ と と 言 え よ う か 。 ︿ 永 井 ﹀