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初期成城小学校における「教師による教育研究」の意味

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(1)

初期成城小学校における 「教師による教育研究」の意味

―理想とその実態―

谷 脇 由季子

はじめに

本稿は、大正

6

年に創設された成城小学校において、創設者である澤柳政太郎

(1865-

1927)の提唱した、教師自身による「科学的研究」を軸に成城小学校の

変遷を整理し、成城小学校の性格が変化した理由として、澤柳の目指した「研究」

と教師たちの行っていた「研究」との齟齬にあったことを明らかにすることを目 的としたものである。

周知の通り、文部次官にまで上り詰めた明治期のすぐれた文部官僚であり、さ らに東北帝国大学や京都帝国教育の総長を務め、野に下ってからは民間教育家と して帝国教育会会長として多忙な日々を送っていた澤柳政太郎は、間違いなく当 時の教育界の大御所であった。しかし晩年の澤柳には、実際に小学校の校長とし て日本における小学校教育に寄与したいという強い思いがあった。

明治以降の日本において、学校教育制度としての小学校教育は、澤柳自身が文 部省時代にほぼ整えられた。だが澤柳にとっては、それでもまだ改善の余地があ り、やり残したことがあまりにも多くあると思われた。しかも彼にとって教育改 革は、日々子どもたちと対峙し、実際の教育に従事している教師たちによって課 題を共有し、それを吸い上げる形で行われるべきものであった。ところが、彼が 文部省を去ってからは教育制度調査会をはじめとして、現場を完全に無視する形 で「改革」が行われようとしていた。そういった状況に対して、澤柳は批判的で あり、何とかして改革の輿論を教師側から起こそうとしていた。

そのような折に、大正

5

年に成城中学校長へ招聘されたとき、澤柳は就任を承 諾するのにあわせて、新しい小学校を創設することを申し入れた。それは成城学 校理事会によって承認され、1918(大正

6)年 4

月、顧問に小西重直、長田新、

(2)

三島通良を迎え、主事藤本房次郎および

4

名の訓導と、1、2年生のみ

30

名ほど の児童で、成城小学校が船出したのである。成城小学校では、あまりにも有名な「創 設趣意」において①個性尊重、②自然に親しむ教育、③情操教育、④科学的研究 を挙げているが、実は澤柳にとってもっとも重要な創設の目的は、教育の科学的 研究であった。それは、教師自身による教育実践から立ち現れる課題への解決と しての改革を、成城小学校を起点として行っていくという気概の表れでもあった。

しかし、大正新教育の旗艦的な存在であったと言われる成城小学校の研究が、

澤柳の思惑通り教育界の輿論となり、その後の教育に改革をもたらすことはな かった。もちろん、新教育の研究実験校として数々の研究成果を上げ、第二代主 事となった小原國芳の主導で牛込から砧に移転して、現在に至る総合学園となっ た成城小学校は、学校経営としては成功したといってよい。ただ、その結果澤柳 の切望した「研究学校」という姿から遠く離れたものとなったのは、誰の目にも 明らかである。では、その原因はなんであったかというと、それは言うまでもな く、澤柳が最も重視した「研究」というものを、当の訓導たちが理解しきれてい なかったということに尽きる。

では、澤柳の理想とした教師自身による教育研究とは何か。そして、なぜ成城 小学校が真の意味で「新教育の旗艦的存在」となることができなかったのか。本 稿では、その点を明らかにしていきたい。

1. 教師による「研究」の必要性

(1)澤柳の文部省批判

澤柳が教師自身による教育研究と、それに基づく教育改革を提唱するための理 論的根拠は、彼の主著である『実際的教育学』(1909)に見ることができる。

彼は、『実際的教育学』において「二三百年前の学者にあつては如何に人間を 教育すべきかと云ふ理想より教育の研究を始めると云ふことは無理ならない事 柄」であったが、今日では「教育の事実は至る処に之を見ることが出来」るので「こ の事実を対象として研究することに依つて、その間に行はるゝ所の自然の法則を 発見することが出来」る、つまり「教育学が科学として成立たんとしたならば必

(3)

ずこの教育の事実を対象として0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0研究しなければなら」ないことを主張している。(1)

すなわち、教育の研究を行う教育学は、その根底に教育、それも学校教育におけ る普通教育に限定し、そこに関する現状把握があるべきであると考えていた。そ の上で適切な改革が行われるべきであり、そのためには教師自身が実際に教育に 従事することによって得られる知見が必要不可欠であるということを認識してい た。

ところが、彼が文部省を去ってからは、いわゆる教育改革と称される事柄は、

教育とは無縁の一部の人々や文部省などの当局者たちの意向に基づいて、いわば 押し付けの形でなされ、教師たちはそうした上からの改革に反対するすべを持た ずに、唯々諾々と従うことを余儀なくされていた。

こうしたいびつな「改革」に対して、澤柳は常に異を唱えていた。たとえば、

1912(明治 45)年から 1914(大正 3)年にかけて文部省から提示された二重学

年制とその改正案について、彼は反対の論陣を張っている。その中で彼は二重学 年制そのものにも懐疑的な見方をするのだが、むしろ教育改革のあり方そのもの について、次のように猛烈に批判した。

今一つ当局の態度に対して賛成の出来ぬことは、教育界の世論を無視した 点である。若し如斯ことをやつて見ようとならば、先ず教育の実際家の意見 を聞いて見る必要がある。即ち、帝国教育会や各府県教育会の世論を問ふて 見ようし、又全国師範学校の意見を聞いて見るがよい、而して後、変更の必 要を認めた上ならばよいが、突如としてあゝいふ問題を出して、単に教育調 査会にかけて、急遽之を決せんとするが如き態度に対しては決して賛成が出 来ぬ。

(中略)

最後に余は、敢て煽動的にいふのではないが、当局者の心得の不都合であ るばかりでなく、各教育会等は、当局から無視せられ、踏みにじられたので あるから、大に之に対して議論をするがよい。決して黙々としてをるべきで はあるまい。そして再び当局から侮辱せられぬ様にする覚悟が大切であらう。

試に思へ、先年の仮名遣問題はどうであるか。又国定教科書についていへば、

曩きに漢字数の増加せられたのである。若し、国定教科書の中に改良の余地

(4)

のある点について改良するのであればよいが、其の必要や、如何に之を改良 すべきかといふことが、全国教育者によつて唱導せられるのではなくて唯 二三の人の意見によつて自由にせられてをるのである。斯くの如きは、全国 の教育者が侮辱せられた話ではないか。此の際大に反省一番を要することゝ 思ふ。(2)

この文章から明らかなように、澤柳は教育改革を行うためには現場教師たちが、

日々の教育の中からその問題点と改良方法を見出し、それを全国的な教育界全体 の輿論とするべく各地の教育会や全国的な教育団体が吸い上げ、最後に文部省に よって改革されることを理想としたのである。

師範学校の附属小学校は、実習の場であると同時にそうした教育改革のための 研究機関であるはずであるが、澤柳は、それらの学校ですら、教育課程そのもの にまで切り込んだ抜本的改革には到底至っていないと実感していた。彼は次のよ うに述べている。

然幸に高等師範にも府県師範にも附属小学校があつて、練習用の外に研究に も充てることになつてゐる。少くも高等師範の附属小学校は小学の法規に拘 らず多年一部、二部、三部の編制があつて、其の一部では直ちに中等教育に 連絡をとることが出来るやうになつてゐる。法令にない観察科を設けたり、

高学年に英語を課したりして、以て所謂研究がなされつゝある。故に此等の 学校では教育上の問題は之を実地の教育に験してもらひたいのである。(中 略)然るに遺憾ながらさういふ実際研究が頓と起らない。かくては改造の必 要や余地は十分ありながら、終に決定的の、又妥当性のある改造は見ること が出来ない。(3)

また、当時はまだ公立小学校では独自の教育研究を行うということは難しかっ た。だからこそ澤柳は、成城小学校という私立小学校において研究して結果を公 表し、それを全国的な輿論という形にして、小学校教育の改革に寄与したいと考 えたのである。つまり、澤柳は成城小学校に対して、私立学校ゆえに訓導の待遇 は公立学校のそれよりも劣悪であるが、反面「自由研究の範囲が広」く、「当局 者の諒解も」あって「必ずしも窮屈な法規に拘束されないで済む」という利点を 活かし、「小学校教育改造の」ための自由な研究を行うという使命を負わせた。(4)

(5)

それはまさに下からの改革であり、成城小学校はそうした改革のための実験学校 として性格づけたのである。

(2)初期成城小学校における研究

澤柳によって「研究学校」と位置づけられた成城小学校に集まったのは、それ までの学校教育のあり方に疑問を持ち、独自の課題を持った若手の教師たちで あった。その「研究」はいわゆる教科の原理についてのものというより、実際授 業を行ってそこから立ち表れる課題を見出すことによって行う研究であった。

最初期における研究は、後に『児童語彙の研究』(大正

7

年)として世に出た、

低学年児童の語彙数と種類についての研究であった。その詳細は、同書および『現 代教育の警鐘』(昭和

2

年)に譲るが、こうした実際に教授に携わる教師たちに 素朴な疑問から生まれる課題と地道な方法による研究こそ、真に教師ならではの 研究として澤柳は評価した。そして、研究を発表する前に全体で検討する場とし て、成城小学校ではたびたび研究会が行われていた。記録として残っている最初 の研究会は、最初期の算術教師である佐藤武による「算術基礎教授ノ概念ニツイ テ」1919(大正

8)年であるが

(5)、実際にはもっと早くから行われていた可能性 がある。

成城小学校の創立

10

周年を記念して発行された『現代教育の警鐘』では、「独 創的研究」として、成城小学校で最初の十年間で試みられた研究がいくつか挙げ られている。最初の研究である「児童語彙の研究」は、創立当初から行われていた。

また、創立した年の秋には二重学年制を採用して

1

年生に秋組が誕生した。その 後、春組と秋組の児童の教育調査も継続的に行われた。これらは、個人として行 うことはできず、小学校全体で計画的に行う必要があった。もちろん、一人ひと りの訓導が自分の担当教科の研究課題を持ち、そのための実践研究も行われてい る。したがって、一口に研究といっても、いわゆる個人研究と共同研究が混在し ていた。

その後、訓導たちも増え、少しずつ学校の体をなすようになってきた。彼らは 意欲的に研究と実践を重ねてきた。中でも理科教育では優れた教員を輩出した。

自然科の研究顧問としてアメリカで

Nature Study

を学んだ和田八重造を迎え、最

(6)

初の

4

訓練の一人諸見里朝賢、成城中学校でも教鞭をとり、和田の後任として自 然科の研究顧問となった山岡勘一、また後に同人となった谷騰や落合盛吉などが 自然科としての理科教育に携わった。また同じ理科教育の物理分野においては、

佐藤武と並んで算術教育を行った平田巧が玩具を使った物理教育を提唱、研究を 重ねた。国語教育では、児童語彙の研究に中心的に携わり、詩の授業でも優れた 実践を行った田中末広や読方教授の奥野庄太郎がいた。芸術教育にも多士済々が 集い、音楽の真篠俊雄や下総皖一、図面の斎田喬や稲森縫之助、劇教育の内田繁 太郎などが教鞭をとっていた。他にも多くの訓導たちが成城小学校の同人として、

それぞれ各教科において実験的な教育を試み、その結果を教育雑誌への投稿とい う形で世に問うた。その研究成果の一部は、「成城小学校研究叢書」として刊行 されたのである。(6)

このように、当時の彼らは、まさに澤柳の目指した「教へつゝ学ぶ」教員集団 であった。そのため成城小学校は、「澤柳の学校」という評価を超えて、「研究学 校」として教育界において知られるようになっていった。(7)

一方で澤柳自身は、成城小学校はいわゆる「試みの学校」であって、10年鳴 かず飛ばずでも構わない、公開もしないという方針をとっていた。しかし、大正

8

年に退職した初代主事の藤本房次郎の後任に小原國芳(旧姓鰺坂)が就任する と、そのありようはまったく変わってしまった。その様子を、旧同人の森徳治(旧 姓山下)は、後に次のように総括している。

沢柳博士が、官僚主義教育を改革すべく、自由主義教育の旗を高く掲げて 創立した成城小学校の創業に最初から参画して、創業の苦難に身を挺した中 堅の藤本、村上の両氏を早く失ったことは、博士の企図する新教育の実験と それの継続的発展に一大支障を来したことは当然である。それに鰺坂氏の主 事就任以来、10年鳴かず飛ばずの実験学校の様相は一変し、機関誌「教育 問題研究」の発刊によって参観人は全国から一層蝟集し、鰺坂主事の修身教 授や佐藤氏の数学教授など参観人で立錐の余地もなく廊下にまで溢れてい た。(8)

そして皮肉なことに、この変化こそが、「研究学校」としての成城小学校の性 格をすっかり変えてしまった原因となったのである。

(7)

(3)『教育問題研究』の発刊とその反響

第二代主事となった小原國芳は、地道に研究と教育を行っていた成城小学校に おいて次々と変革を行った。澤柳は、訓導たちの研究については、上述の通り毎 月の研究会において全員で検討し、教育雑誌への投稿や書籍の形で発表すること を推奨していた。しかし小原は、研究発表に対するハードルを下げると共に、成 城小学校を世に知らしめるために、会員制の教育問題研究会を立ち上げ、機関誌

『教育問題研究』の発刊を提案した。会員は「本会の趣旨に賛成する者(中略)

及び成城学校職員」とし、会員は機関誌である『教育問題研究』が配布されるだ けでなく、「いつでも成城小学校を参観することができ」ることとなった。(9)

その結果、たちまち「会員」は増え、創刊一年で

2528

名を数えるほどになった。(10)

成城小学校といえば、訓導自身が自由に研究を行う魅力的な学校という評判が確 立し、確かに「大正新教育の旗艦的存在」とも言うべき存在になっていった。実 際、『教育問題研究』は当時の教師たちにとって非常に研究色の強い、新しいト レンドを生み出す存在となっていたようである。

しかしながら、成城小学校は、「研究学校」と銘打って開校されたにもかかわ らず、「自由」という目新しい言葉からイメージを勝手に膨らませた世間の人々 から多大な関心や期待を持って見られていた。参観人も非常に多く、それは「多 き日はその数数百人を越え、教室廊下殆ど充満して希望の教授を参観し得ないと 云ふやうな場合も数多く、少き日に於て必ず十数名を越え、訓導はその応接に忙 殺される有様」であったほどである。(11)後に週

1

日に参観日を限るという措置 をとったものの、実際にはあまり守られなかったようである。

このように、非常な熱狂をもって『教育問題研究』誌は受け入れられ、それと 共に成城小学校の評判は非常に高まっていった。しかし一方で、誤解や毀誉褒貶 も少なくなかった。そうした状況について、教育総合誌『帝国教育』の主幹であっ た三浦藤作は次のように述べている。

地方の軽佻なる教育者の中には、徒に大言壮語してサボリ0 0 0、だらけ0 0 00授業 をし、脱線した振舞をするのを成城小学校式とし、心ある者をして眉を顰め しめる者ある実例も聞いて居る。とんでもなきことである。学校の精神を全 然曲解せるもので、成城小学校でも定めて迷惑であらう。(12)

(8)

三浦は、その一方で「併しながら、成城小学校にも亦注意を促したい。我が同 胞は責任観念の比較的薄弱なる国民であつて、自由は無責任なる放埓に流れ、革 新は建設の努力を伴はざる破壊となり易い。革新運動の中心となる者は、厳正な る自己批判をなし、其の提唱する思想が民衆に如何なる反応を生し、文化の進歩 に如何なる影響を及ぼすかを反省せねばならぬ」(13)として、成城小学校の訓導 たちにも苦言を呈している。

成城小学校は「研究学校」として発足し、同人である訓導たちは自分たちこそ 教育研究の最先端に立っているという自負を持っていた。しかしそのすがたは、

はたして澤柳が掲げた「研究学校」のあり方と合致したものであったのだろうか。

もっというと、訓導たちが行っていた「研究」は、澤柳の要求する「研究」と同 じ方向を向いたものであったのか。次章において澤柳の「研究」の意味を検討す ることによって、その点について明らかにしていく。

2. 澤柳の訓戒

(1)澤柳における教育の「実地研究」

澤柳は、成城小学校の訓導たちについて、小学校教育の研究主体として、大学 における研究者たちと同様、「研究第一主義」であることを期待していた。それは、

たとえば「唯成城小学校には研究を第一とし、研究的空気の溢きることを念とし てきた」(14)という表現に端的に表れている。先に述べたとおり、『教育問題研究』

の発刊自体は、小原を中心としてなされたものであるが、そこに澤柳自身は次の ような考えを込めていた。

開校後三年にもなり、短日月とはいへ此間に多少の研究と称すべきも出来 た感を抱くに至つた。其の稍纏つたものは之を単行本として世に問ふ考であ つたが、之を一冊の書物にするでなく、しかし世に問うて見たいと思ふこと も常にあるので、それで本年四月即ち成城校開校満三年から「教育問題研究

〔」〕なる雑誌を発行することになつた。名前か示す如く教育問題の研究を主 としどこまでも研究雑誌を期してゐるのであります。(15)

これは、完成した研究発表だけではなく、研究の端緒となる「問題」の提示や

(9)

途中経過などを発表することによって、読者を刺戟し、さらに研究を進めていく ことをも目指しているという、澤柳にとっての雑誌の趣旨を示している。さらに、

成城小学校の訓導だけではなく、全国の訓導から実際の教育上の問題を提示して もらうことによって、それを受けて成城小学校で研究し、それをフィードバック していくという、成城小学校と全国の小学校の研究を介したコミュニケーション ツールとしても期待した。

そこで、私は全国の教育者に対して、小学教育に関し研究を要する問題に して、法規上研究の自由を得られないものを私共に提示せられんことを望む のである。私共は目下幾多の問題をもつて居るが、成るべく都合して其の提 示された問題をも真面目に研究することにする。これは私共の誓つて為さん とする所であるから、遠慮なく問題の提出を望む。

私共の学校は児童の編成に於て一学級三十名を限るといふ特別の制を定め て居るが、私共の研究する所は即ち小学校教育改造の為めであり、全国の小 学校に行はれることを目途として努力してゐる。それ故私共の研究したこと で良いことであり、法規上許されることは之を採つて貰ひたいのである。又 時にはある問題についてはこれが実地的研究を私共から公立校に依頼するこ とにしたい。かゝる場合には好意を以つて私共の要求を容れて貰ひたい。か くて公立校と私共との間に常に研究上の連絡を保つて行きたいと思ふ。(16)

かくして、成城小学校は「教育の改造を成し遂げるための実地研究をなすとい ふ目的を以て」創設されたのであるが、その「実地研究」は想像以上に難しいも のであった。それは、澤柳の期待の水準が高かったこともあるが、教育の主体で ある訓導たちが同時に研究の主体となることの難しさという根本的な問題があっ たと思われる。その点については、澤柳自身が次のように述べている。

かく我々は研究を念としてゐるのでありますが、自らやつて見ると研究と いふことは中々むづかしい。殊に我々が小学校を設けて研究するといふのは、

実地の研究を為さんとするのである。が此の実地の研究といふことは頗る難 事である。難事ではあるが此の研究法によらなければ成績の見るべきものを 得ないといふことは我々の深く信じてゐる所である。これまで教育社会に研 究といふ声は可なり高いのであるが、多くは理論上の研究といはうか、書物

(10)

文献についての研究、机上の研究、頭の中での研究に限られてあるのは、我々 の遺憾とした所である。これまでの研究の効果の少なかつたのも其の原因は 主として茲に存してゐたと考へてゐる。

かく我々には実地の研究と心掛けてゐるが、思ふやうに行はれないのは常 に衷心から遺憾としてゐる。唯出来るだけの努力をもつて実地の研究を心掛 けてゐるといふことは明言し得る所である。(17)

では、澤柳の考える「研究」とはどのようなものか。そのことについて、彼は『教 育問題研究』誌に一連の論文群を執筆した。なかでも「問題のつかまへ方と研究 の方法」(『教育問題研究』第

3

号、1920(大正

9)年 6

月)は、「教育における 研究とは何か」というテーマを真正面から論じたものである。

この論文において、彼は当時の教育界において研究への意識が高いことを「喜 ぶべきである」としつつも、それがうまく機能していないと手厳しく批判する。

凡そ研究と称して何か努めることは教育界ほど盛なるは他になからう。何 事であれ研究せんとの精神が旺盛であるのは洵に喜ぶべきである。研究する 者の多きは多々益々結構である。二万何千の小学校悉く何か一つや二つ研究 しつヽあると称する。しかし又教育界ほど研究の成績のないところはない。

何一つ確固不動の結論に達したといふものは見ない。又研究の題目は常に反 復されてゐる。こヽでもあそこでも同じやうな所謂研究をなしてゐる。前年 の研究課題を何遍となく繰り返してゐる。而して終に何等妥当性を具へた研 究の結果を得たことがない。何故であるか。私は問題の選定を誤ることと研 究の方法に無頓着なる結果であると断言する。(中略)教育者が研究の方法 に無頓着なる結果であると争はれない事実と思ふ。研究の結果のないのは其 の靦面の証拠であると信ずる。多くの人は幾んど手当り次第に問題をつかま えへて意としない。無造作も甚しい。問題の選定は研究の半ばであるといふ 私の信条から私は之を乱暴といふのである。(18)

澤柳にとって研究についてもっとも重要なことは「適当の問題をつかまへるこ と」であり、「研究上適当の問題をつかまへたなら、研究は半ば成就したといつ てよい」と断言する。それは「自分の興味や自分の能力に相応したといふことを 意味する」ものであり、「当時の学問の進歩で結論を得るまでにこぎつけること

(11)

が出来るかといふ予見をも含む」ものであるため、その問題は「余り大なるもの よりも又広汎なものよりも小さい範囲のせまいものの方がよ」く、そうした小さ な研究の積み重ねこそが大事であることを主張する。(19)

さらに研究方法については、「児童なり生徒なりを実際教育してその成績を見 る」実験的方法をとるべきであるとしている。とはいえ「児童を実際教育して見 たからといつて一度や二度の成績をもつて論断して了ふことは出来ない」ため、

「是まで教授の実験として色々のことが報告されてゐるが、結論を導き出すに足 るものが少ない」とこれまでの研究については批判する。その理由として、自然 科学の世界では当たり前の、研究の方法とその手順について無頓着であることを 指摘する。「教育者は研究研究といつて居るけれども其の研究の方法はどうする かといふことは幾んど何等の注意も払はない〔。〕之れ其の研究の結果が十分で ない一大理由である」と、従来の教育研究をほとんど全否定するのである。(20)

澤柳は、研究の方法において必要不可欠なことを「臆説(ハイポセシス)を設 けること」、つまりある程度の結果の予測としての仮説を立てることと主張して いる。「或る結果を予想し、其の結果を生ずるには如何なる手続きを以てせば可 なるかを能く考へ定めることが必要」であり、そうすることによって研究結果の 妥当性の担保をするのである。(21)

彼は次の文章をもってこの論文を締めくくっている。

とにかく研究の方法順序について前以て能く考へることが肝要である。其 の方法は問題によつてそれへ異なることはいふまでもない。研究の結果を 発表するときには、此の研究はかういふ方法で研究したのであると研究方法 をも合せて報告することが必要である。私は声を大にして問題の捉へ方と研 究の仕方との十分脳醤を絞ることの大切なることを叫ぶ。これ研究といふ努 力を生かさんがため、其の努力に要した時間を無駄にしないため、かくて教 育上研究の成績の挙がらんことを切に望むからである。(22)

このように、澤柳は教育における研究はあくまで「実地研究」であったが、澤 柳自身が告白するように、成城小学校の訓導たちですら「理論的には私と同意見 でありながら実際、問題の選定は私の思ふほどに慎重に考へ」てはいなかったの である。(23)

(12)

(2)成城小学校への批判と澤柳の訓戒

すでに述べたように、『教育問題研究』は、当時の若い訓導たちにとっては、

非常に新しいトレンドとして、良くも悪くも大きな影響を与えていたようであ る。その点から言えば、『帝国教育』誌において「最近に呱々の声を挙げながら、

異常な歓迎を以て若い教師たちに広く読まれており」、「教育界に対する一大革命 の警鐘として可成り大きな反響を呼び起しつつあ」(24)った。しかしその一方で、

誤解や批判の声も少なくなかった。誤った批判に対しては「誤解である」としつ つも、自らも襟を正して研究に邁進するべきときであると、同人を叱咤激励して いる。

また、澤柳が欧米への教育視察旅行に出ていたときにも、ベルリンから訓導た ちに、『教育問題研究』の所感や欧米における新教育を標榜する学校等について の感想に加えて、訓導たちの教育活動に対する訓戒が述べられている。そして次 のような文章で締められている。

我々成城小学の事業は決して花火線香であつてはならぬ。広く我小学教育 を改善する精神と方法とを提供すると共に永く我が時代から数百代に亙る児 孫を真に教育するものでなければならぬ。否独り我が国ばかりではない全人 類の教育を善美にする底のものであらねばならぬ。それには我々は眼前の小 成功に安んじて低き鼻を高くするが如きことがあつてはならぬ。(25)

このように、澤柳は、訓導たちに対してことあるごとに訓戒することを忘れな かった。ある訓導に対しては、次のような言葉をかけていた。

成城小学校創立趣旨の一つは、小学校教育の改善と成績向上の道を事実に よつて示したいとの願である。教育の理論は余程明瞭になつてゐるが、事実 斯の通りであるといふ実験場の力強い証明が欲しい。同人諸君は、誠実な研 究実行の下に、この成績向上方法改善の道を開拓して欲しいのである。それ で諸君は常に何か問題をもつてゐて教育のために自由に試みられてよいので ある。(26)

彼は、訓導たちに大きな期待を寄せるとともに、良くも悪くも成城小学校が非 常に目立つ存在であることから自重を促し、初心にかえることを促していたので ある。

(13)

3. 教師による教育研究の拡大

(1)公立学校における新教育の拡大と研究的志向

さて、いわゆる大正新教育と呼ばれる新しい児童中心的な教育の実践は、世界 的な新教育運動とほぼ軌を一にして、明治末期から師範学校の附属小学校や私立 小学校を中心に展開していった。成城小学校の場合もその一角を占めていたが、

理想的な教育を高らかに掲げるのではなく、むしろその理想の奈辺にあるかを実 験的に教育することによって見定めるという「研究」という点で、他の学校群と 一線を画していた。そういう意味で、創立以降ある時期まで成城小学校は、特異 な性格をもつ学校であったことは確かであった。

だが大正年間の後半に入ると、新教育の研究実践の動きは、高等師範学校や各 地の師範学校における紹介や附属小学校での研究実践を通じて、公立小学校にも 拡大しつつあった。

その多くは個人的な関心による実践に留まったが、明治の終わりに師範学校を 卒業した若い校長たちを中心として、学校単位で実践する場合もあったようであ る。たとえば、大正デモクラシーのさなかに東京市立余丁町尋常小学校(現新宿 区立余丁町小学校)に転入した家永三郎は、自身の経験を次のように回想してい る。

先生はまた当時流行のダルトン‐プランを信奉していたと見えて、短い期 間であったが、机を向かい合わせに四角に囲む形に並べて、お互いに友だち どうしで自学自習をさせることをも試みた。あるいは自学自習という名目で、

先生が事務を教室に持ち込む手段であったかと邪推もされるし、あるいは実 際に自学自修の実験を試みられたのか、本当の理由はよくわからないが、わ ずか数ヶ月で中止になったところを見ると、先生が期待したほどの効果が上 がらなかったのか、あるいは校長からやめろと言われたのか、これも私たち 児童にはわからなかったが、とにかくそういう新しい実験の企てられたこと もあった。(27)

当時余丁町小学校は、校長であった服部蓊(はっとりしげる)主導の下で児童 中心主義の教育を実験的に行っていた。服部は青山師範学校卒業後、同師範学校

(14)

附属小学校の訓導として勤務した後、明治

44

7

月に余丁町小学校に第

4

代校 長として赴任した。家永は、当時の余丁町小学校について後に恩師からの話とし て次のように述べている。

当時の余丁町小学校は、今の番町小学校のような越境入学の盛んな有名校 であったということで、後に番町小学校の校長となられた服部先生が、師範 の付属の訓導から校長として赴任され、服部先生の理想による新しい試みが いろいろなされていたらしく、岡野先生のこのような教育方針も、そうした 学校の雰囲気の中で行なわれたものであったらしい。(28)

また、大正

10

8

月に大日本学術協会主催で東京高等師範学校講堂において 行われたいわゆる「八大教育主張講演会」(「教育学術研究大会」)に対して全国 から訓導たちがこぞって参加するという熱狂ぶりに象徴されるように、大正新教 育は、当時実際に教壇に立っていた訓導たちにとって、まさに日本の教育界のト レンドであった。(29)そうした中で、公立小学校においても、新教育に基づいた 教育実践がなされ、研究活動が活発に行われるようになった。しかも公立小学校 では、学校単位での研究もさることながら、複数の学校が共同での研究会開催や、

地方自治体の教育局といった行政との連携のもとに、教育実践の取り組みがなさ れていた。それは、一方で足枷となり困難ともなったが、私立学校にはない財政 的保障などのメリットも少なくなかった。(30)

大正新教育が公立小学校にまで拡大し、研究の機運が高まったことにより、研 究学校としての成城小学校の地位が相対的に低くなったことは、否めない事実で あった。

(2)澤柳の不満と不安

澤柳自身は、こうした時代状況と教育界の変化を十分理解していた。

「沢柳政太郎私家文書」に残されていたメモ類の中に、時期は不明ながら次の ようなものがある。

一、成城小学校創立当時の教育界と今日と可なりの差がある

一、研究ハ学者の為すものとせられ、唯実際教育者の研究調査といへハ漢字 の調査、計数器の工夫、大字細字の研究など

(15)

一、教科書以外の児童読物極めて少い(31)

「成城小学校創立当時の教育界と今日」とあるため、澤柳の最晩年に近い時期 であると推測される。これは小さなメモであるが、非常に大きな意味を持つもの である。これによって見えるのは、確かに大正から昭和にかけて教師たちの研究 に対する意識が高まっていたが、「研究ハ学者の為すもの」との意識は変わらず、

教師たちができる研究といえば「漢字の調査、計数機の工夫、大字細字の研究な ど」であり、それは澤柳にとっては非常にもどかしいものであった。

だからこそ、師範学校や公立小学校とは異なる、成城小学校における研究はま すます意味を持つはずだった。そこで澤柳は、教師たちの行う「研究」に大き な期待を持ち、支援も厭わなかったが(32)、一方で不安も抱いていたようである。

当時の澤柳のメモには、「研究の不十分」(33)や「従来職員で研究されたこと(過 日提出の研究題目の其後の経過)」(34)、「目先浅い興味」(35)といった訓導の研究 に対する不満と不安の言葉が数多く見られる。

また澤柳の死後、『教育問題研究』誌では澤柳の追悼特集が組まれ、訓導たち が文章を寄稿している。その中に澤柳からある訓導に送られた手紙の内容が紹介 された。そこには、「こゝ三四年来、成城より独創的意見や施設の出ないのは実 に淋しく存じます。徒らにアセツタリ唯新な事をネラツても駄目と思ひますが、

真剣に工夫努力すれば必ず効果の見るべきものが得られようと思ひます」とあ る。(36)

この時期、澤柳は不満や不安を感じつつも、訓導たちに対して常に教育研究の あり方を説き、さまざまな研究テーマを提示し続けていた。しかし結局、その思 いは成城小学校の訓導たちに届くことなく、昭和

2

12

24

日、澤柳は急な病 のため卒然と死を迎えたのである。

(3)最初期の教師たちによる「警鐘」

澤柳の死後、元同人の森徳治は、次のように成城に残った訓導たちに警鐘を鳴 らしている。

成城十年の回顧は必ずしも吾々の心を明るくしてくれない。尠くとも、教 育の本質より見られた批判に堪え得る底のものであつたか。十年の研究は、

(16)

日本の一般初等教育の指導となつて健全な歩みを与へることによつて、世界 の教育史上に残るべきものであらうか。(37)

さらに森は後年、『成城文化史』(1936)において、「日々の教育活動を教育研 究の対象とする実験学校」という澤柳のもっとも重要な思想のもとに創設された 成城小学校は、創立当初こそ「幾分それの実現が期待されたかのやうに見えた」

としつつ、その後の発展については次のように述べている。

諸見里君の理科、佐藤、平田両君の算術、奥野、田中両君の国語、斉田君の 図画、真篠君の音楽等は確かに旧套を脱した、一つの新しい試みとして且つ 内容的にも幾多の珠玉をその研究には包蔵していた。小原主事の就任はそれ らに一層の拍車ともなり、潤達の気宇を学園に漲らした。大正九年四月創刊 の「教育問題研究」の成城教育の機関雑誌発行によつて、一躍天下の成城と して、日本の教育会を風靡し、全国からの参観人は雲集し、我が国小学教育 の最高の指導的地位にあつた。創業時代の俸給五十円の貧しい生活の間に寝 食を忘れての倦むことなき研究の努力の報ひられた結果が、余り早く、余り に大きかつただけに、宣伝に研究が追つつかなくなつて、成城教育の内容は 漸次空疎の兆候を示して来た。識者の目に映じた此の影は既に創立後三年、

機関誌発行の当時に認められたのも事実であつた。(38)

さらに、成城小学校が最終的に移転した砧の地において総合学園としての成城 学園となって拡大するのに伴って、かえって「内容的には昔日の新鮮味を喪失し つつ」あったとする。最終的には、「澤柳博士の教育、政治、社会、環境等の有 機的関係の認識は実に適正にして予見に満ち満ちたものであつたに拘はらず、後 継者たちの中に、博士の抱懐された思想の高さ深さ、またその広さにおいて理解 してゐたものは、殆どひとりもゐなかつた」(39)と断じたのである。

同じく元訓導であった島田正蔵もまた、結果的に最終号となった『教育問題研 究・全人』第

87

1938

(昭和

8)年 9

月において、澤柳の存命中の成城について「研 究学校としての新教育」と評した上で、澤柳の教職員の研究に対する態度も次の ように描写している。

澤柳先生は学校創始に於て実験学校

――

研究学校だと銘打たれた。そし て先生は亡くなられるまで、その態度を保持して居られたのである。創立以

(17)

来、先生は、飽くまでも研究を以て貫き通す人物を職員たらしめ、その人々 の自ら具えてゐる個性的な研究方面を認容され、常にその研究に対する便宜 と指導とを与へられたのであつた。問へば必ず研究の方向や方法などを指示 され、先生から見たら実に貧弱であつたらうと思はれる研究発表でも、常に 興味深さうに聴取され、批評を加へられたのであつた。吾々も亦研究学校

――

実験学校としての成城であると信じ切つてゐた。そしてその研究の実を 挙ぐべく、周到なる調査と研究に、これつとめ、そのためには如何なるもの でも犠牲にし、且つその用意を持つて継続したものである。

研究学校としての成城は右の様な歴史を作つて来てゐる。その歴史の中の 教育活動が成城ボーイの生長を育くんで来たのである。(40)

さらに、優れた研究組織として確立していたかつての成城は、歴史的に見ても

「一人の思惟にかゝはる教育理想を実現するために努力してゐる新教育なるも、

もつと意味ある、もつと価値ある態度をもつて」おり、そこに「意義ある社会性 が展開して」いたと非常に高く評価している。その島田から見たとき、当時の成 城は、「新教育にも徹底し切れず、研究学校を曲解し、嫌悪してゐては、全く、

何の存在か分らない」ような存在と映ったのである。(41)

4. 成城学園の変化と「研究学校」としての終焉

(1)澤柳の死と共に

澤柳の死後、校長事務取扱となった小原は、澤柳の死から半年足らずの

1928

(昭 和

3)年 4

月、牛込の成城小学校を閉校し、砧の成城学園に吸収する形で合併し た。もちろん、その後も全訓導はどこかの「研究部」に属し、一見するとますま す教育研究が盛んになっているかに見えた。しかし、すでにかつての成城小学校 の面影は完全に失せてしまった。というのも、澤柳の死を境にして、牛込で初期 成城小学校の教育と研究を澤柳と共に行ってきた訓導たちが、昭和

4

年度末まで にほぼ全員退職してしまったからである。結局、成城小学校に残留した訓導たち は、澤柳の謦咳に触れたことのない若い訓導がほとんどであった。

澤柳に直接学ぶことがなく、小原のカリスマ性にあこがれて成城に赴任した訓

(18)

導たちにとって、牛込の成城小学校における研究を学ぶことなく、唯一知ってい るのは師範学校の研究手法である。そして、小原は結果的に澤柳の研究も気概も 全く受け継ぐことがなかった。さらにすでに述べたとおり、その内容が澤柳の思 うものではなかったにせよ、公立小学校における教育研究が盛んになった

1920

年代後半から

30

年代においては、すでに一私立学校の研究が全国の教育改革を 行うほどの輿論を形成することは不可能となった。結果的には、すでにこの時点 で「成城教育」は、かつての「研究学校」としての存在意義が完全に消滅させら れ、小原を中心として「教育を通じて「文化国」の建設「理想国」の建設」、「「天 才教育」「全人教育」を旗じるしに「夢の学園建設」を目指す方向」へと完全に 舵を切ることとなった。(42)

昭和八年成城事件を機に小原が去った後、成城学園では財政再建と共に教学改 革を行った。そこで主張されたのが研究学校としての成城小学校の精神を取り戻 すことであった。しかし、すでに日本は政治的にも社会的にもすっかり変化して しまい、大正デモクラシーも大正新教育自体も過去のものとなっていた。成城学 園が生き残るためには、七年制高等学校を中心とした「実験学校ではなく、有名 な日本有数の私立総合学園となって」いく以外に道は残されていなかった。(43)

こうして、かつての「研究学校」としての成城小学校は、完全に終焉を迎えたの である。

(2)変化への無自覚

成城小学校創立

50

年を前にして、澤柳の孫でもある教育史研究者の新田貴代 は、評伝『澤柳政太郎』を発表した。それを記念した講演会が成城学園澤柳研究 会において行われた。そこで彼女は、澤柳政太郎と小原國芳との比較から、成城 教育についての分析を行っている。(44)

彼女の著作と講演会での発言に応える形で、元訓導の山本徳行が澤柳研究会に 書簡を送っている。そのなかで彼は、次のように反省の弁を述べている。

先生〔澤柳のこと

引用者注〕の貫いた精神は「効率高き教育」であっ たと思います。そして成城小学校を創められたのは、その効率教育の試行学 校としてではなかったかと思います。(中略)しかし、貴代女史の著を読ん

(19)

で私は今更の様に慙愧の念にかられ、先生に申し訳なかったと後悔いたして いるので御座います。

先生が成城小学校に於て意図せられていたことを充分に知らなかったから です。

成城によって日本の教育を改造しようとするのだとの御言葉は存じていま した。しかし当時の私は、それは自由教育であり、児童中心主義の教育であ り、ペスタロッチに帰ること、―これが日本の教育改造だと思っていたの でした。洵にお恥ずかしい限りでありました。貴代女史の「小原によって沢 柳精神は失われた」の御叱り、その通りであり、当時の訓導諸君も二三の者 を除いては「小原の熱弁」に浮かされて沢柳精神を知らなかったのだと思い ます。(中略)私もまた、先生の御意図を知らず、所謂新教育に浮身をやつ した安物でありました。(45)

これらのことは、成城教育をめぐり、後の世代として冷静に分析を行った新田 と、同時代人として澤柳と小原の双方と接していた山本との温度差を如実に示し ている。

同時代人としては、時代のトレンドに敏感に反応する傾向がある。そしてそれ が熱狂的であればあるほど、いやが上にも影響を受けてしまう。特に成城の教員 たちは、自分たちの日々行っている教育と研究が時代の最先端である、という自 負を持っている。その結果、自分たちの行ってきた教育と研究が、澤柳が創めて 以来変わらない「成城教育」そのものなのだという錯覚が起こっても致し方ない であろう。しかし新田は、後に研究対象としてその事象を見たとき、澤柳が目指 していた教育改革の「試行」として行われた成城における教育=研究と、小原が 理想とした教育運動の主体としての「成城教育」とは、まったく質の異なるもの であったという、当然のことを指摘したのである。その指摘を受けたとき、山本 は自分が信じてきた「成城教育」の質的な変化への無自覚と、その原因が、澤柳 が目指し、訓導たちに訓戒をし続けた「研究」についての無理解であることには じめて気づき、「先生に申し訳なかった」と後悔の念を吐露したのであろう。

しかし、それは山本だけのことではない。これまでの成城学園の歴史を概観し たとき、学園に関わったほとんど全員が、この質的変化と「教師による教育研究」

(20)

への無理解に対して無自覚であったといってよいだろう。要するに、実際に質的 変化があったにもかかわらず、澤柳の目指した研究学校としての成城学園が、「研 究」というタームにごまかされて、あるいはその言葉ゆえに、同一線上に進んで きた末に現在の学園があるという思い込みが形成された。しかもその「研究」の 意味が理解されないまま、すでに成城小学校はその変化の中で本来目指していた はずの存在意義すら失うことになったのである。

5. おわりに

成城小学校の訓導たちは、常に澤柳の指導の下で研究と実践に取り組んでいた にもかかわらず、彼の目指した教師自身による「実地研究」の意味を最後まで理 解できなかった。それは、澤柳自身が認めるように、「教師による教育研究」そ のものが非常に困難な作業であることももちろんあったが、加えて小原の主事就 任後、成城小学校が教育界において「大正新教育の旗艦的存在」のごとく若い訓 導たちを魅了していた間に、自分たちの行っている「研究」への自重と反省がな かったことにも起因する。その結果、「研究学校」としての性格は明らかに後退 した。さらにこの時期、公立小学校においても研究の機運が高まり、相対的に成 城小学校の研究学校としての位置付けは低くなった。そして澤柳の死と前後して、

総合学園としての成城学園の発展と引き換えに、当初の役割を終えたのである。

それとともに「成城教育」が質的に変化したにもかかわらず、成城小学校に残っ た訓導だけがそれを自覚することができなかったのである。

このように、創立時に掲げられた「研究学校」としての成城小学校は失敗に終 わった。しかし澤柳の目指したように、教師の日々の教育そのものから研究課題 を見出し、それについて実地に研究を行うことによって、より良い教育を目指し ていくというこの姿勢は、これからの学校教育においてこそ必要な教師としての あり方ではないかと考える。今後成城学園がもし澤柳精神を取り戻すとするなら ば、この点を今一度確認して、自らへの反省材料とすることが求められているの ではないだろうか。

(21)

教育における歴史研究は、かつて行われてきた教育について、その本来の目的 に加え、それがどのように変遷しあるいは変化していったのかということを冷静 に分析し、これからの教育についての指標とすることをひとつの大きな目的とし ている。それは換言すれば、歴史的見地からの反省ということになるであろう。

澤柳は、常に「研究第一主義」を訴えていたが、それはこうした反省を伴って こそ成立する。研究者は、自分こそが正しい方向に向かっていると考えがちであ るが、一度初心に立ち返って、己の進む方向が本来のそれと同一であるかを反省 し、必要とあらば軌道修正も辞さないという態度は、成城教育に限らず、常にど こにおいても必要なものである。特にそれが教育研究であれば、なおさらである。

現在行われている「教育改革」と称した現象、「新しい」研究に対しても同様に、

教育と研究の主体であるべき教師たちが、その新しさやその向かう方向について、

歴史的な視点を持ちつつ、常に冷静に見極め、自ら選択して行動していくことが 求められているのではないだろうか。

(1) 澤柳政太郎『実際的教育学』1909(明治41)年。『澤柳政太郎全集』(以下「全集」)

第1巻(国士社、1975年)、45~46頁。傍点は引用者。

(2) 澤柳政太郎「この問題は暫らくお預りとせよ」『教育界』第13巻第9号(1914(大

正3)年7月)、「全集」第3巻、222頁。

(3) 澤柳政太郎「小学教育の改造」『教育問題研究』第1号(1920(大正9)年4月)、「全

集」第4巻、162頁。5~6頁 (4) 同上、「全集」第4巻、164頁。

(5) 小宮資料「小学校の設立経緯」大正8年1月19日(日)の項。『成城学園百年史紀要』

第二号55頁にも翻刻されている。そこでは「芸術」となっているが、61頁の注24に あるとおり「算術」の誤りであろう。

(6) 成城小学校研究叢書全16編のタイトルは、以下の通り。

第1編 児童語彙の研究 澤柳政太郎、田中末広、長田新 第2編 算術教育革新論 佐藤武

第3編 算術新教授法の理論及実際 佐藤武 第4編 国語読本の批評 澤柳以下9名

第5編 児童心理に立脚したる最新理科教授 諸見里朝賢 第6編 玩具による理科教授 平田巧

(22)

第7編 お噺の新研究 奥野庄太郎 第8編 児童中心主義の教育 成城小学校 第9編 読方教授の革新 奥野庄太郎、諸見里朝賢 第10編 低学年理科教育の理想と実際

第11編 尋一教育の実際 山本徳行 第12編 読方指導の原理及実際 奥野庄太郎 第13編 新入児童語彙の調査 鳴浜小学校 第14編 低学年教育の新研究 藤井利亀雄 第15編 図画手工の教育 稲森縫之助 第16編 読方学習の新研究 奥野庄太郎

(7) 『現代教育の警鐘』(民友社、1927(昭和 2)年)9~10頁には、それまでの訓導た

ちの研究リストが挙げられている。それは以下の通り。

自然科を一年から特設すること 修身科は四年から初めること 児童語彙の研究

聴方科の特設 漢字教授の改良 分量多読の効果について 読書科の特設

児童図書館の特設 綴方と話方との連絡 書方始期の問題

算術を二年から始めること 玩具による理科教授

歴史地理を四年より課すること 英語科を初学年より課する可否 小学校に於ける劇教育  図画手工教育の連関 小学校に於ける映画教育 児童読物の研究 ダルトン案教育の実施 二重学年制の実施

なお、牛込時代の訓導たちについては、拙稿「成城小学校の教員たち(その一・牛込 時代)」(成城学園百年史編纂委員会『成城学園百年史紀要』第5号、2019年3月、75

~97頁)を参照のこと。

(8) 井野川潔、川合章編『日本教育運動史』1、三一書房、1960年、127~128頁

(9) 「教育問題研究会会則」

(10) 奥野庄太郎「本誌一ヶ年の回顧」『教育問題研究』第13号、1921(大正10)年4月、

(23)

1頁

(11) 澤柳政太郎編『現代教育の警鐘』6頁。

(12) 三浦藤作「閑話」『帝国教育』第459号、107頁、1920(大正9)年10月、傍点ママ。

(13) 同上

(14) 澤柳「成城小学校と教育の研究」『教育問題研究』第10号、1921(大正10)年1月、

69頁、大正10年1月、「全集」第4巻所収 (15) 同上

(16) 澤柳前掲注(3)、8~9頁、大正9年4月 (17) 澤柳前掲注(4)、69~70頁

(18) 澤柳政太郎「問題のつかまえ方と研究の方法」『教育問題研究』第3号、大正9年6月、

6頁 (19) 同上 (20) 前掲7頁 (21) 前掲8頁 (22) 同上 (23) 前掲6頁

(24) 柳田謙十郎「教育雑誌界の側面観」『帝国教育』第464号、大正10年3月、90頁

(25) 澤柳政太郎「ベルリンにて」『教育問題研究』第26号、大正11年5月、5頁

(26) 河野照治「同人の道」『教育問題研究』第61号、大正14年4月

(27) 家永三郎『一歴史学者のあゆみ』岩波文庫、2003年、28頁。文中「先生」は、家

永たちのクラス担任だった岡野太郎。青山師範の出身であったと家永が紹介している。

(28) 家永前掲『一歴史学者のあゆみ』28~29頁

(29) たとえば、小原國芳はその時の様子を「集まるもの恐らく四千名を越えたろう。大

講堂ミッシリ。廊下もぴっしり。窓も鈴なり。熱狂そのものだった」と書いている(小 原國芳「復刻に際して」『八大教育主張』復刻版、玉川大学出版部、1976年)。

(30) 公立小学校における新教育研究については、鈴木そよ子の一連の研究に詳しい。

(31) 『澤柳政太郎私家文書』製本〈21-8〉

(32) 澤柳が訓導たちの研究について行った支援については、拙稿『研究する教師たち』(成

城大学共通教育研究センター『成城大学共通教育論集』第9号、2016年3月)を参照 されたい。

(33) 製本〈21-14〉「砧村」

(34) 製本〈21-15〉「砧」

(35) 製本〈21-16〉「砧成城」

(36) 小野誠悟「高く遍きものゝ前に」『教育問題研究』第96号、昭和3年3月、44頁

(37) 山下徳治「澤柳先生の死を悼み、成城小学校創設の根本精神を憶ふ」『教育問題研究』

第96号、昭和3年3月、13頁

(38) 山下徳治「我が国における成城教育の意義」『教育文化史』174頁

(39) 同上176頁

(24)

(40) 島田正蔵「成城教育を論ず」『教育問題研究・全人』第87号、昭和8年9月、13

~14頁 (41) 前掲15頁

(42) 新田貴代『澤柳政太郎』成城学園研究双書1、1971年

(43) 新田義之「澤柳政太郎の伝記の幾つかをめぐって」『成城学園百年史紀要』第2号、

2016年3月、15頁

(44) 新田貴代前掲『澤柳政太郎』および新田貴代「教育研究の課題と将来―沢柳政太

郎を中心として―」(成城学園沢柳研究会『澤柳研究』第4号、1971(昭和46)年8月)

(45) 「山本徳行氏書簡」前掲『沢柳研究』第8号、1972(昭和47)年5月、11~12頁

参照

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