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零 落 漂 泊 す る 御

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Academic year: 2021

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(1)

零落漂泊する御

  「 御 」 に つ い て は、 阿 部 俊 子 氏 の「 『 御 』 考

(1)

」 や、 そ れ を 承 け て の、 新 田 孝 子 氏 に 詳 細 な 研 究 が あ る。 今、 新 田 氏 の「 御 息 所」の下位概念としての「御」という規定、 天 皇 に 侍 寝 し た 身 分 で あ る こ と を 表 現 し、 そ の 位 階、 官 職 の 如 何 と か か わ り な く「 ― の 御 」 と も、 「 ― 御 息 所 」 と も 呼 ば れ な か っ た 女 房 が、 残 余 の 女 房 と 識 別 さ れ る 所 以 が、 「 御 だ ち た る 人 」 =「 御 達 」 の 名 称 で あ っ た と 考 え ら れ る。 運 が あ れ ば、 「 ― の 御 」 な い し「 ― 御 息 所 」 の 呼 称 へ 固 定 化 さ れ て い く 身 分 で は あ っ た の だ が、 そ う は な ら な か っ た。 そ れ は 大 体 に 於 い て、 皇 子 を 儲 け る こ と も な か っ た し、 君 寵 も 長 く は 続 か な か っ た と い う こ と に ほ か あ る ま い。 か つ て、

君 寵 を 蒙 っ た と い う 栄 誉 を 自 負 し つ つ、 い た ず ら に 高 慢 に な り、 あ る い は、 と め ど な く 奔 放 に な り、 む な し く 内 裏 女 房 と し て 老 い て い く、 そ の よ う な 女 性 像 が「 御 達 」 の 呼 称 に 籠 め ら れ て い る よ う に 思 わ れ る。 そ れ ゆ え に こ そ、 阿 部『 伊 勢 物 語 全 訳 注 』 第 十 九 段 の〈 語 釈 〉 に「 し ば し ば 主 人 筋 の 愛 情 を 受 け、 女 房 の 身 分 な が ら 特 別 の 立 場 を 默 認 さ れ て い る」と指摘されているような実体を呈したのであろ う

(2)

。 と あ る の に 則 っ て 論 を 進 め る。 『 大 和 物 語 』 に お け る「 御 」 は、 大 き な 問 題 を 孕 ん で い る。 そ の こ と に つ い て は、 改 め て 論 ずるとして、零落漂泊する御、 「弁の御」と「檜垣の御」について聊か考察してみたい。

零落漂泊する御 ― 「弁の御」と「檜垣の御」 ―

山  崎  正  伸

(2)

零落漂泊する御

  「弁の御」とは、 『菅家後集』の「

晝飡常在前    晝は飡ふに常に前に在り 徒跣彈琴者閭巷稱 弁御 相隨得相語    相隨ひて相語ること得    今なほし号けて 南助 といへり。 少男與少女    少き男と少き女とのみ    南大納言の子、内藏助、博徒なり。 諸兄多謫去    諸の兄は多く謫せられ去にぬ   南大納言子、内藏助、博徒。今猶号 南助 矣。 衆姉惣家留    衆の姉は惣べて家に留れり 道路呼南助    道路   南助と呼べり 483

  慰 少男女 。」に、

夜宿亦同處    夜は宿ぬるに亦處を同じくす    徒跣にして琴を彈く者閭巷   弁の御 と稱へり 臨暗有燈燭    暗きに臨みては燈燭有り   俗謂貴女爲御。蓋取夫人女御之義也。 當寒有綿絮    寒きに當りては綿絮有り   藤相公兼弁官、故稱其女也。 往年見窮子    往にし年窮れる子を見たりき    俗に貴女を謂ひて御と爲す。蓋し夫人   女御の義に 京中迷失據    京の中に迷ひて據を失へり    取るならし。藤相公弁官を兼ぬ、故に其の女を稱へり。 裸身博奕者    身を裸にして博奕する者 今飯無饜飫    今は飯にすら饜き飫くことなからむ 其父共公卿    其の父は共に公卿にして 思量汝於彼    汝を彼らに思量するに

當時幾驕倨    當時   幾ばくか驕り倨れりし 天感甚寛恕    天感   甚しく寛恕なり 昔金沙土如    昔は金をも沙土の如くなりき       

(3)

と 登 場 す る 零 落 の「 御 」 で あ る。 共 に 事 例 と し て 上 げ ら れ る「 南 助 」 に つ い て、 川 口 久 雄 氏 は、 頭 注 に「 南 淵 大 納 言 年 名 の 子、 内 蔵 助 良 臣 の こ と。 年 名 の 山 荘 で 貞 観 十 九 年 暮 春 三 月 に 尚 歯 会 が あ っ た こ と は 次 に 出。 そ の 山 荘 は 延 暦 寺 西 坂 本 に あ り、 そ の 後 年 名 が 死 ん で、 山 荘 は 慈 覚 大 師 本 願 の 禅 院 と な り、 良 臣 は 零 落 し て 博 徒 と な っ た。 」 と、 南 淵 良 臣 と さ れ る。 し か し、 「弁の御」については、 「この分注、 『御』を懇切に説明する。幼い子供に智識を授ける意識で注をほどこしたものか。相公は、

(3)

零落漂泊する御三

参 議 の 唐 名。 藤 原 氏 で 参 議 で 大 弁 な ど の 弁 官 を 兼 ね た も の は 藤 原 有 穂 な ど 多 く い て、 誰 と 指 定 す る こ と は む ず か し い。 」 と さ れ る の み で、 具 体 的 な 人 物 を 指 摘 し て い な い。 「 南 助 」 が 具 体 的 に 指 定 さ れ、 「 弁 の 御 」 は 指 定 す る こ と は 難 し い と さ れ る ことは、具体的な人物がいることに間違いはないであろう。南淵年名については、 『國史大辭典』によると、 八 〇 七 ― 七 七  平 安 時 代 前 期 の 官 人。 大 同 年( 八 〇 七 ) に 生 ま れ る。 本 姓 は、 息 長 真 人。 永 河 の 子( 弘 貞 の 子 と も い う )。 聡 明 清 幹 な 人 柄 で、 碩 儒 と も 評 さ れ た。 文 章 生 か ら 少 内 記 な ど を 経 て、 承 和 八 年( 八 四 ) 従 五 位 下 と な り、 筑 前・ 尾 張 な ど の 国 守 や 式 部 少 輔 を 経 て、 文 徳 天 皇 の 即 位( 斉 衡 三 年( 八 五 六 ) に 伴 っ て 蔵 人 頭 と な り、 式 部 大 輔・ 春 宮 亮・ 右 京 大 夫 な ど を 歴 任 し て、 貞 観 元 年( 八 五 九 ) に は 勘 解 由 長 官 を 歴 任 し、 以 後 十 年 間 兼 務 し た。 こ の 間 貞 観 三 年 に は 右 大 弁、 翌 々 年 に は 左 大 弁 と な り、 貞 観 六 年 に は 五 十 八 歳 で 参 議 と な っ た。 そ の 後、 民 部 卿・ 右 衛 門 督・ 春 宮 大 夫 を 兼 任 し、 同 十 四 年 に 従 三 位 中 納 言、 同 十 八 年 十 月 に は 大 納 言 と な っ た が、 翌 元 慶 元 年( 八 七 七 ) 四 月 八 日 に 致 仕 を 上 表 し、 同 日( 九 日 と も い う ) 七 十 ( 七 十 と も い う ) 歳 で 没 し た。 『 貞 観 格 』『 貞 観 式 』『 左 右 検 非 違 使 式 』 な ど の 法 制 の整備に参加し、 『文徳実録』の編纂にも加わった。 と、 晩 年 に 公 卿 に 昇 っ た 人 物 で あ る。 そ の 子 良 臣 は、 『 三 代 実 録 』 に 拠 る と、 元 慶 八 年( 八 八 四 ) 三 月 九 日 の 条 に、 「 從 五 位 下 行 内 藏 助 南 淵 朝 臣 良 臣 爲 阿 波 介

」 と、 内 蔵 助 で 阿 波 介 を 兼 職 し た と あ り、 仁 和 三 年( 八 八 七 ) 月 十 七 日 の 条 に、 「 從

五 位 下 南 淵 朝 臣 良 臣 爲

阿 波 介

。 良 臣 元 慶 八 年 三 月 任。 遭

母 憂

軄。 今 奪

情 起

(5)

。」 と あ っ て、 母 の 重 服 で 官 職 を 離 れ、 再び阿波介に任じられたとある。良臣は「南助」 (南淵内蔵助)とあることから推して、 この後、 零落し博徒となったもので、 博 徒 に 身 を 窶 し た の は、 寛 平 年 間 の こ と と 察 せ ら れ る。 父 母 の 没 後 に 博 徒 に な っ た 南 助 と は 異 な っ て、 親 の 生 前 に 博 徒 に な って親兄弟に憎まれた話が、 『大和物語』五四段に、   右 京 の 大 夫 宗 于 の 君、 三 郎 に あ た り け る 人、 博 蛮 を し て、 親 に も は ら か ら に も に く ま れ け れ ば、 足 の む か む 方 へ ゆ か むとて、人の国へいきける。さて、思ひける友だちのもとへよみておこせたりける。

(4)

零落漂泊する御四

  しをりしてゆく旅なれどかりそめの命知らねばかへりしもせじ とある。南助も源宗于の三男と同様に、博徒となって親族にも憎まれて、零落流浪を余儀なくされたのであろ う

(6)

。   弁 の 御 に つ い て、 菅 野 禮 行 氏 は「 夫 人 に 対 す る 敬 称。 『 夫 人 』 は、 皇 后、 妃 に 次 ぐ 地 位、 『 女 御 』 は、 皇 后、 中 宮 に 次 ぐ 地 位。 藤 原 氏 の な か で 相 公( 参 議 の 唐 名 ) に な っ た 人。 誰 か は 不 明

(7)

。」 と さ れ る。 さ て、 川 口 氏 が 上 げ ら れ る 藤 原 有 穂 で あ る が、 『 公 卿 補 任 』 に よ る と、 延 喜 年( 九 〇 ) 正 月 六 日 に 中 納 言 に 昇 っ て お り、 ま た、 寛 平 五 年( 八 九 三 ) 月 六 日 に 参 議 に 任 ぜ ら れ る と 共 に、 右 大 弁 を 離 れ て い る こ と か ら、 参 議 で 弁 官 を 兼 ね る と い う 条 件 に 外 れ る

(8)

。「 南 助 」 の 話 題 が、

寛 平 年 間 と 菅 原 道 真 の 大 宰 府 権 帥 左 遷 に 近 い も の で あ っ た こ と、 道 真 が 幼 い 我 が 子 に 事 例 と す る か ら に は、 「 弁 の 御 」 に つ い て も 遠 く な い 事 例 で あ っ た も の と 推 測 さ れ る。 貞 観 年 間 か ら 寛 平 年 間 に、 参 議 で 弁 官 を 兼 ね た 者 は、 藤 原 氏 宗( 貞 観 元 年 参 議 左 大 弁 五 〇 歳 ) が い る が、 氏 宗 は 貞 観 年 に 中 納 言 に、 そ し て、 大 納 言 か ら 右 大 臣 へ と 昇 る の で 除 外 さ れ る。 藤 原 良 縄( 貞 観 元 年 参 議 右 大 弁 四 六 歳 ) は、 貞 観 三 年( 八 六 ) 月 三 日 に 左 大 弁 に 転 じ、 貞 観 五 年( 八 六 三 ) 月 〇 日 に 右 衛 門 督 を 兼 ね る ま で 左 大 弁 で あ り、 貞 観 〇 年( 八 六 八 ) 月 八 日 に 参 議 で 亡 く な っ て い る。 南 淵 年 名( 貞 観 六 年 参 議 左 大 弁 五 八 歳 ) は、 「 南 助 」 で も 記 し た が、 貞 観 四 年( 八 七 ) 八 月 五 日 に 中 納 言 に、 そ れ か ら 大 納 言 に 昇 る の で、 こ ち ら も 除 外 さ れ る。 大 江 音 人( 貞 観 六 年 参 議 右 大 弁 五 四 歳 ) は、 貞 観 九 年( 八 六 七 ) 月 日 に 左 大 弁 に 転 じ て、 貞 観 六 年 ( 八 七 四 ) 月 九 日 に 左 衛 門 督 に 任 ぜ ら れ る ま で の 長 き に 亘 っ て 参 議 で 弁 官 を 兼 ね、 元 慶 元 年( 八 七 七 ) 月 三 日 に 薨

じ て い る。 藤 原 家 宗( 貞 観 三 年 参 議 右 大 弁 五 五 歳 ) は、 貞 観 六 年( 八 七 四 ) 月 九 日 に 左 大 弁 に 転 じ て、 貞 観 九 年 ( 八 七 七 ) 月 七 日 に 従 三 位 に 叙 せ ら れ る と 共 に 左 大 弁 を 去 り、 そ の 月 〇 日 に 薨 じ て い る。 源 舒( 貞 観 七 年 参 議 右 大 弁 四 八 歳 ) は、 貞 観 九 年 月 九 日 に 左 大 弁 に 転 じ、 元 慶 五 年( 八 八 ) 月 五 日 に 左 大 弁 を 止 め、 月 九 日 に 卒 し て い る。 藤 原 山 蔭( 元 慶 三 年 〇 月 三 日 参 議 右 大 弁 五 六 歳 ) は、 仁 和 年( 八 八 六 ) 六 月 三 日 に 中 納 言 に 任 じ ら れ て お り、 こ ち ら も 除 外 さ れ る。 橘 広 相( 元 慶 八 年 月 五 日 参 議 右 大 弁 四 八 歳 ) は、 仁 和 年 六 月 三 日 に 左 大 弁 に 転 じ、 寛

(5)

零落漂泊する御五

平 年( 八 九 〇 ) 五 月 六 日 に 卒 し て い る。 源 直( 仁 和 年 六 月 三 日 参 議・ 寛 平 年 閏 九 月 〇 日 兼 左 大 弁 ) は、 寛 平 四 年( 八 九 ) 月 日 に 右 衛 門 督 を 兼 ね る ま で 左 大 弁 で、 昌 泰 年( 八 九 九 ) 月 六 日 に 薨 じ て い る。 参 議 で 弁 官 を 兼 ね た 父 親 を 持 ち、 女 房 と し て 出 仕 し た 場 合、 「 弁 」 と い う 女 房 名 と な る で あ ろ う。 そ の 可 能 性 が あ る の は、 藤 原 良 縄、 大 江 音 人、 藤 原 家 宗、 源 舒、 橘 広 相、 源 直 の 六 人 の 娘 と い う こ と に な る。 「 弁 の 御 」 は「 藤 相 公 兼 弁 官 」 と あ る こ と か ら、 藤 原良縄の娘か藤原家宗の娘のどちらかということになろう。良縄について『尊卑分脈』によって、その系図を作成すると、    藤原内麻呂    大 津

     良 縄

タゝ

       邦

クニ

ナオ

        安縄        邦香         扶縄        女子(弁の御)    ※仮に良縄娘とした場合

(9)

となる。藤原良縄については、 『三代実録』の貞観 〇年 月 八日の条に、 參 議 正 四 位 下 行 右 衞 門 督 兼 太 皇 大 后 宮 大 夫 藤 原 朝 臣 良 繩 卒。 良 繩。 字 朝 台。 左 大 臣 内 麿 朝 臣 孫。 而 正 五 位 下 備 前 守 大 津 之 子 也。 良 繩 風 容 閑 雅。 擧 止 詳 審。 興 福 寺 僧 圓 壹 好 相

人。 見

良 繩 狀 皃

云。 必 登

卿 相

。 榮 寵 無

比。 退 語

同 志

云。

嗟 呼 於

命 獨 有

惜 矣。 承 和 四 年 爲

内 舍 人

。 中 務 省 啓 令

東 宮

。 太 子 特 加

意 愛

。 擢 補

藏 人

。 嘉 祥 三 年 累 遷

左 馬 大 允。 内 藏 權 助

。 後 改

權 爲

正。 仁 壽 年 授

從 五 位 下

。 爲

侍 從

。 齊 衡 元 年 兼

播 磨 介

。 俄 而 拜

春 宮 亮

。 侍 從。 内 藏 助。 播 磨 介 並 如

故。 是 年 冬。 大 津 卒

於 任 國

。 始 聞

父 疾

。 即 欲

奔 赴

。 天 皇 不

聽。 及

審 問

。 嘔

血 氣 絶。 數 尅 乃 蘇。 去

軄 不

仕。 詔 奪

情 以

本 官

之。 俄 而 兼

左 兵 衞 權 佐

。 年 授

從 五 位 上

。 三 年 遷

右 中 辨

。 兼

内 藏 權 頭

。 天 安 元 年 加

正 五 位 下

。 兼

備 前 守

。 未

幾 兼

右 近 衞 中 將

。 右 中 辨。 内 藏 權 頭。 春 宮 亮。 備 前 守 並 如

故。 數 月 之 後 授

從 四 位 下

。 遷

左 近 衞 中 將

。 兼

右 大 辨 。 勘 解 由 長 官

。 停

内 藏 權 頭

。 年 兼

讃 岐 守

。 是 年 九 月 拜

參 議

。 十 月 皇 太 子

正五下備前守 検非違使別当右衛門督参議 左大弁 従五位下因幡守

(6)

零落漂泊する御六

位。是日加

從四位上

。兼

近江權守

。貞觀元年上表辭

勘解由長官

。許

之。是年十 月大嘗之日授

正四位下

。遷

兼 備 前 守

。 三 年 春 遷

左 大 辨

。 左 近 衞 中 將 備 前 守 並 如

故。 母 紀 氏 寢

疾 疲 惙 。 良 繩 晝 夜 扶 侍。 不

左 右

。 衣 不

帶。 目 不

睫。 終 然 丁

憂。 解

去 官 軄

。 哀 號 過

禮。 殆

於 毀 滅

。 數 月 之 後。 以

本 官

之。 是 時 右 大 辨 南 淵 朝 臣 年 名。 左 中 辨 大 江 朝 臣 音 人。 年 事 老 宿。 班 皆 在

良 繩 下

。 私 語 云。 彼 兩 臣。 或 碩 儒 宿 齒。 或 朝 家 鹽 梅。 吾 齡 少

於 兩 賢

。 軄 在

其 上

。 出 入 進 退。 常 有

顏。 又 左 近 衞 少 將 藤 原 朝 臣 基 經。 少 有

風 骨

。 才 望 甚 高。 時 論 皆 謂。 非 常 之 器 也。 先 帝 重

其 雅 量

。 尤 見

親 寵

。 今 共 帶

四 位

。 豈 應

席。 其 少 將 有

四 位

。 中 將 辭

軄。 是 先 賢 所

傳 也。 吾 雖

古 人

之 行

。 竊 有

遠 之 慕

。 久 横

賢 路

。 須

早 避

之。 遂 稱

病 篤

。 屢 以 取

假。 辭 退 懇 切。 不 肯 脩 軄。 五 年 以

年 名

左 大 辨

。 音 人 爲

右 大 辨

。 基 經 爲

中 將

。 良 繩 遷 爲

右 衞 門 督

。 六 年 兼

讃 岐 守

。 九 年 爲

太 皇 太 后 宮 大 夫

。 右 衞 門 督 如

故。 卒 時 年 五 十 五。 良 繩 素 性 寛 厚。 不

花 餝

。 孝 謹 天 至。 忠 信 夙 彰。 推

心 奉

上。 不

機 事

。 文 徳 天 皇 特 見

親 用

。 寵 幸 加 隆。内 外 之 事。 多 委

决 之

。 領

諸 司 諸 院別 當 之 事

。 未

嘗 有

愆 失 之 擧

。 後 母 安倍 氏 性 悍 忌。 諸 子皆 排 却。 但 至

于 良繩

。 殊以重愛。 良繩以

純謹

之。 昔爲

内舍人

時。 諸内舍人皆是豪家年少。 奢侈放縱。 無

拘束

。 唯見

良繩

。 悉 脩

法 度

。 因 而 語 曰。 朝 台 來 則 苦

我。 去 而 莫

思 者

。 於

山 城 國 葛 野 郡

道 塲

。 名

眞 如 院

。 母 紀 氏 出

俗 爲

尼 。 居

住 其 中

。 良繩 割

入 食 封

。 分

捨 俸 祿

以充

香 火 之 資

。 毎 年 八 月 。 文徳 天皇 御 忌 日 。 奉

爲 天皇

。 講

法華 經

。 迄

終 生不

此業

。時人以。忠孝相 許

)((

。 と 卒 伝 が あ っ て、 両 親 へ の 孝 行、 先 輩 へ の 礼 譲 の 念、 後 輩 へ の 配 慮 と、 実 直 な 人 柄 だ っ た こ と が 知 ら れ る。 文 徳 天 皇 に 意 愛 を 加 え ら れ、 重 く 用 い ら れ た こ と に 感 謝 し て、 法 要 を 欠 か さ な か っ た。 兄 弟 の 安 縄 は、 『 三 代 実 録 』 貞 観 九 年( 八 六 七 ) 正 月 八 日 の 条 に、 「 甲 斐 介 正 六 位 上 藤 原 朝 臣 安 繩。 …… 授

從 五 位 下

)((

。」 と あ る の み、 ま た、 扶 縄 も、 貞 観 〇 年( 八 六 八 ) 正 月 九 日 の 条 に、 「 授

主 殿 助 正 六 位 上 藤 原 朝 臣 扶 繩 從 五 位 下

)((

。」 と あ る の み で あ る。 良 縄 息 の 邦 直 も、 元 慶 三 年( 八 七 九 ) 正 月 七 日 の 条 に、 「 式 部 大 丞 藤 原 朝 臣 邦 直。 …… 並 從 五 位 下

)((

。」 と あ り、 仁 和 三 年( 八 八 七 ) 五 月 十 三 日 の 条 に、 「 散 位 從 五 位

(7)

零落漂泊する御七

下 藤 原 朝 臣 邦 直 爲

刑 部 大 輔

。」 と 見 え る だ け で あ っ て 、 良 縄 の み 特 別 で あ っ た

)((

。 良 繩 没 後 に そ の 娘 が 不 遇 に な っ た の も 想 像 に 難 く な い。 さ て、 「 御 」 に つ い て で あ る が、 菅 原 道 真 の 注 に「 俗 謂 貴 女 爲 御。 蓋 取 夫 人 女 御 之 義 也。 」 と あ る。 冒 頭 に 上 げ た 新 田 論 文 に よ っ て も、 「 御 」 は 天 皇 に 侍 寝 し た 身 分、 君 寵 を 蒙 っ た こ と が 分 か る。 改 め て、 良 縄 参 議 大 弁 は と い う と、 貞 観 元 年( 八 五 九 ) か ら、 貞 観 五 年( 八 六 三 ) 月 九 日 ま で の 間 で あ り、 四 六 歳 か ら 五 〇 歳 ま で の 間 で あ る。 宮 仕 え し、 君 寵 を 蒙 る と い う の で あ れ ば、 清 和 天 皇 九 歳 か ら 四 歳 の 時 に 重 な る。 も と よ り、 出 仕 し た の が こ の 間 の 内 で あ っ て、 恩 寵 を 蒙 っ た の は、 貞 観 八 年( 八 七 六 ) 月 九 日 に 譲 位 す る ま で の 間 で あ れ ば、 「 弁 の 御 」 と い う 呼 称 に 問 題 は な い。 ま た、

系 譜 上 で も 兄 弟 達 の 支 援 が 頼 め な い 状 況 や、 南 淵 年 名 と 同 様 に 藤 原 良 縄 の み 君 寵 を 蒙 っ た と い う こ と か ら も、 良 縄 の 娘 か と も思われるのだが、他には、藤原家宗の娘が考えられる。   この家宗についても、 『尊卑分脈』によって、その系図を作成すると、

     藤原内麿    眞夏    濱雄       家宗        弘蔭         繁時

        継蔭          女子

          女子(弁の御)    ※仮に家宗娘とした場合

従五下民部少輔 イ讃岐守 イ大炊頭 兵部少輔イ春宮少進 イ中宮亮イ太皇太后亮 イ勘解由長官左大弁参議 阿波守 イ相模介相模守 イ民部少輔日向守 従五上大学頭 地下 正五下備前守 日向守 伊世守 肥後守大学頭 筑前守 イ従四下

母三国氏承和七七廿八卒 母息長女元慶元十四薨 六十 母中納言山蔭卿女延喜四三三卒 母右衛門督高經女房子天慶六ゝ―卒

イ式部大丞伊勢守 薩摩守木工頭 大和守 隠岐守 号伊勢 イ父為守之時号之 中務母七条皇后女房

母同母 歌人也

(8)

零落漂泊する御八

        門宗        有隣   

        女子

権中納言是茂卿母

となる。家宗の卒伝は見られないので、 『平安時代史事典』によって、その略歴を記すと、

15)

藤 原 家 宗

( 八 七 ~ 七 七 ) 北 家 真 夏 の 孫、 民 部 少 輔 浜 雄 の 男。 母 は 息 長 氏。 文 章 生 出 身。 斉 衡 元 年( 八 五 四 ) 六 位 蔵 人 と な り、 同 三 年 正 月 従 五 位 下。 大 炊 頭、 兵 部 少 輔、 右 少 弁 を 歴 任、 天 安 年( 八 五 八 ) 従 五 位 上 に 昇 叙。 そ の 後、 貞 観 三 年( 八 六 ) 右 中 弁、 同 五 年 正 五 位 下 左 中 弁、 八 年 従 四 位 下。 十 年 蔵 人 頭 従 四 位 上、 十 年 右 大 弁 と 弁 官 コ ー ス を 累 進 し、 十 三 年 三 月 日 参 議 に 任 ぜ ら れ た。 ま た 天 安 年 か ら 貞 観 十 三 年 の 間、 中 宮 亮・ 皇 太 后 亮 と し て 藤 原 明 子 の 宮 司 を 務 め て い る。 貞 観 十 六 年 正 四 位 下、 元 慶 元 年 従 三 位 に 昇 叙 し た が、 月 十 日 に 薨 去 し た。 時 に 六 十 歳。 な お、 藤 原 良 房 造 営 の 貞 観 寺 の 別 当 を 務 め て お り、 貞 観 十 四 年 三 月 の『 貞 観 寺 田 地 目 録 帳 』( 『 平 遺 』 六 五 ) に 自 署 し て い る

)((

と あ っ て、 文 徳 天 皇 の 母 順 子 か ら、 醍 醐 天 皇 継 母 温 子 ま で が、 母 后 で あ っ た

)((

が、 中 宮 亮・ 皇 太 后 亮 と し て 明 子 に 仕 え た 家 宗 の娘が、明子の元や内裏女房として出仕し、清和天皇の寵を蒙ったということも、想像に難くない。 『伊勢集』冒頭に、 寛 平 み か ど の 御 時、 大 宮 す 所 と き こ え け る 御 つ ぼ ね に、 大 和 に 親 あ る 人 さ ぶ ら ひ け り。 親 い と か な し く し て、 「 な べ て の 男 は あ は せ じ 」 と お も ひ て さ ぶ ら は せ け る に、 宮 す ど こ ろ の 御 せ う と、 い と ね む ご ろ に い ひ わ た り 給 ふ を、 い か ゞ あ り け む、 「 親、 い か ゞ い は む 」 と お も へ ど、 「 さ る べ き 宿 世 に こ そ あ ら め、 わ か き 人 た の み が た く ぞ あ る や 」 と ぞ い ひ け る。年経るほどに、その時の大将の婿になりにけり。親きゝて、 「さればよ」とおもひけり。

イ刑部少輔 備後権守イ右馬頭 彈正少弼イ春宮介左京権大夫 イ右中将近江守 従四上 武蔵守 従五下近江守若狭守 伊勢守

母中納言女叡子 イ乙叡卿女光孝天皇更衣

(9)

零落漂泊する御九

とあり、また、 こ れ か れ、 と か く 言 へ ど、 聞 か で、 宮 仕 へ を の み し け る ほ ど に、 時 の み か ど、 め し つ か ひ 給 ひ け り。 よ く ぞ ま め や か な り け る と お も ふ に、 を と こ 宮 生 ま れ 給 ひ ぬ。 親 な ど も、 い み じ う よ ろ こ び け り。 つ か う ま つ る み や す ど こ ろ も、 后 に ゐ たまひぬ。宮を、桂といふ所に、おきたてまつりて、みづからは后の宮にさぶら ふ

)((

。 と あ る。 こ の 番 歌 の 前 に、 八 番 歌 の よ う に 昌 泰 四 年( 九 〇 ) 正 月 の 菅 原 道 真 の 左 遷 に 連 座 し た 兵 衛 の 佐 な る 人 の こ と が あ っ て、 年 時 に 沿 っ て い る と は 言 い 難 い が、 「 こ れ か れ、 と か く 言 へ ど、 聞 か で、 宮 仕 へ を の み し け る 」 と い う 括 り の

中 で の こ と で あ ろ う。 「 つ か う ま つ る み や す ど こ ろ も、 后 に ゐ た ま ひ ぬ。 」 と あ る こ と か ら す れ ば、 寛 平 七 年( 八 九 五 ) か 翌 年 く ら い に、 宇 多 天 皇 と の こ と が あ っ た の で は な か ろ う か。 こ の「 伊 勢 の 御 」 の 親 の 期 待 も 妹 の 事 例 が 念 頭 に あ っ た と す れ ば、頷けるところである。良繩娘か家宗娘のどちらかが、清和天皇の寵を受た「弁の御」ということである。   さて、 「弁の御」ではないが、 『大和物語』 六五段には、 水 尾 の 帝 の 御 時、 左 大 弁 の む す め、 弁 の 御 息 所 と て い ま す か り け る を、 帝 御 ぐ し お ろ し た ま う て の ち に ひ と り い ま す か り け る を、 在 中 将 し の び て 通 ひ け り。 中 将、 病 い と を も く し て わ づ ら ひ け る を、 も と の 妻 ど も も あ り、 こ れ は い と し の び て あ る こ と な れ ば、 え い き も と ぶ ら ひ た ま は ず、 し の び し の び に な む と ぶ ら ひ け る こ と 日 々 に あ り け り。 さ る に、 と

はぬ日なむありける。病もいとをもりて、その日になりにけり。中将のもとより、    つれづれといとど心のわびしきにけふはとはずて暮してむとや と て お こ せ た り。 「 よ は く な り に た り 」 と て、 い と い た く 泣 き さ わ ぎ て、 返 り ご と な ど も せ む と す る ほ ど に、 「 死 に け 」 りと聞きて、いといみじかりけり。死なむとすること、今々となりてよみたりける。    つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを とよみてなむ絶えはてにけ る

)((

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零落漂泊する御〇

と「 弁 の 御 息 所 」 と い う 人 物 が 登 場 す る。 「 弁 の 御 息 所 」 は、 清 和 天 皇 の 御 息 所 で、 落 飾 後 に 在 原 業 平 と 深 い 仲 に な る。 清 和 落 飾 は 元 慶 三 年( 八 七 九 ) 五 月 八 日 の こ と で、 業 平 は 翌 元 慶 四 年( 八 八 〇 ) 五 月 八 日 に 卒 去 す る。 舞 台 年 時 が 明 確 な 章 段 で あ る。 こ の「 弁 の 御 息 所 」 に つ い て、 『 大 和 物 語 鈔 』 は、 「 左 大 弁  藤 原 良

マサ

チカ

也 い せ 物 語 に は 左 中 弁 と 有 り 後 左 大 弁 也  中 納 言 吉 野 ノ 四 男 神 祇 伯 従 四 位 下 也  清 和 の 更 衣 識 子 内 親 王 の 母 也 」 と 藤 原 良 近 女 と し、 『 大 和 物 語 虚 静 抄 』 は、 「 左 大 弁 の 女  或 云 左 大 弁 宰 相 家 宗 女 伊 勢 守 継 蔭 妹 也  更 衣 云 々 見

日 野 家 伝

是 乎 云 々」 と 藤 原 家 宗 女 と す る

)((

。 以 後、 現 在 の 研 究 に つ い て は、 新 田 孝 子 氏 が「 弁 の 御 息 所 」 で ま と め ら れ る よ う に、 藤 原 良 近 の 娘 と す る

)((

。 改 め て、 本 文 を 見 る と、 「 水 尾 の

帝 の 御 時、 左 大 弁 の む す め、 弁 の 御 息 所 と て い ま す か り け る 」 と あ る。 こ の 箇 所 に つ い て の 異 同 は な い。 良 近 は、 右 中 弁 で あって左大弁になっていない。このことで、今井源衛氏は、 鈔 の 良 近 説 に に わ か に 従 う 事 は で き な い。 ま た、 九〈 九 州 大 学 図 書 館 蔵 本 〉 の 勘 注 に は「 弁 の 御 息 所 」 を「 在 原 行 平 女 」 と す る が、 行 平 は 左 大 弁 に 任 じ た こ と は な い。 全 釈 は、 も し「 左 大 弁 」 が「 右 大 弁 」 の 誤 写 で あ れ ば、 源 能 有 ( 百 五 十 九 段 参 照 ) の 娘 の 厳 子( 清 和 女 御、 号 温 明 殿 女 御 ) が 浮 上 す る が、 た だ し、 彼 女 の 死 去 は 元 慶 三 年( 八 七 九 ) で あ り、 業 平 は そ の 翌 年 に 死 ん で い る か ら、 本 段 の 記 述 に は 矛 盾 す る と い わ れ る。 要 す る に こ の 女 性 の 出 自 は 未 詳 と す る ほ か な い。 柳 田 は、 「 右 中 弁 」 で あ っ た 良 近 を あ え て「 左 大 弁 」 と し た 作 者 の 虚 構 か と す る。 左 大 弁 は 正 四 位 上 相 当

官であるから、その女は「御息所」といっても、更衣以下であろ う

)((

。 と さ れ る。 正 し い 注 釈 の 処 置 で あ ろ う。 改 め て、 『 大 和 物 語 』 の 内 部 徴 証 と し て 再 検 証 し て み よ う。 初 段 に 登 場 す る「 伊 勢 の 御 」 は、 四 七 段 に お い て「 伊 勢 の 御 息 所 」 と 呼 称 さ れ る。 こ ち ら も 諸 本 に 異 同 は な い。 要 す る に、 『 菅 家 後 集 』 の「 弁 の 御 」 は『 大 和 物 語 』 の「 弁 の 御 息 所 」 と 同 人 物 と 理 解 し て 良 い だ ろ う と い う こ と で あ る。 藤 原 良 縄 か 藤 原 家 宗 か の 娘 で、 清 和 天 皇 の 寵 を 蒙 っ た の が、 「 弁 の 御・ 弁 の 御 息 所 」 と 考 え て 間 違 い は な い だ ろ う。 さ て、 ど ち ら の 娘 だ ろ う か。 歌 語 り 的 に は、 『 三 代 実 録 』 の 貞 観 四 年( 八 六 ) 十 月 七 日 の 右 大 臣 藤 原 朝 臣 良 相 の 上 表 に、 当 代 の 良 吏 五 人 の 人 と し て

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零落漂泊する御

筆 頭 に「 右 大 弁 南 淵 朝 臣 年 名。 身 爲

進 士

。 職 經

内 外

。 稍 通

治 體

。 既 居

樞 要

。」 と 上 げ ら れ る 南 淵 年 名 の 息 良 臣 が 南 助 と し て 博 徒 に 身 を 落 と し、 礼 譲 の 篤 い 良 縄 の 娘 が「 徒 跣 に し て 琴 を 彈 く 者 」 と 身 を 窶 し、 と い う の に も 伝 承 と し て 心 惹 か れ る。 ま た、 前 述 し た よ う に、 「 弁 の 御 」 が「 弁 の 御 息 所 」 と い う 推 定 が 正 し け れ ば、 業 平 没 後 の 零 落 と な っ て、 『 大 和 物 語 』 の 登 場 人 物 と し て は 古 い 方 に 位 置 づ け ら れ る が、 父 親 五 歳 と 三 〇 歳 と の 誕 生 と 仮 設 し て み た と こ ろ で、 良 繩 と 家 宗 の 年 齡 差 が、 三 歳 で 推 定 上 そ の 違 い は 大 差 が な い。 そ れ ぞ れ の 娘 と し て 年 齢 が 規 定 で き る 資 料 が な い。 巻 末 に 父 親 が 五 歳 の 時 の 娘 と 三 〇 歳 の 時 の 娘 と し て、 年 齢 を 入 れ て み た が、 ど ち ら か を 確 定 す る 資 料 は 見 出 し て い な い。 あ く ま で も 想 像 の 域 を 出 な

いが、清和天皇皇子達の誕生が清和 九歳以後ということから推して家宗娘と推量する。   『大和物語』には、もう 人の零落の御がいる。それは、 六段に、 筑 紫 に あ り け る 檜 垣 の 御 と い ひ け る は、 い と ら う あ り、 を か し く て 世 を 経 け る 者 に な む あ り け る。 年 月 か く て あ り わ た り け る を、 純 友 が さ わ ぎ に あ ひ て、 家 も 焼 け ほ ろ び、 物 の 具 も み な と ら れ は て て、 い み じ う な り に け り。 か か り と も 知 ら で、 野 大 弐、 討 手 の 使 に 下 り た ま ひ て、 そ れ が 家 の あ り し わ た り を た づ ね て、 「 檜 垣 の 御 と い ひ け む 人 に、 い か で あ は む。 い づ く に か す む ら む 」 と の た ま へ ば、 「 こ の わ た り に な ん す み は べ り し 」 な ど、 と も な る 人 も い ひ け り。 「 あ は れ、 か か る さ は ぎ に、 い か に な り に け む。 た づ ね て し か な 」 と の た ま ひ け る ほ ど に、 か し ら 白 き お う な の 水 く め る な む、 前

よ り あ や し き や う な る 家 に 入 り け る。 あ る 人 あ り て、 「 こ れ な む 檜 垣 の 御 」 と い ひ け り。 い み じ う あ は れ が り た ま ひ て、 よばすれど、恥ぢて来で、かくなむいへりける。    むばたまのわが黒髮は白川のみづはくむまでなりにけるかな とよみたりければ、あはれがりて、着たりける袙ひとかさねぬぎてなむやりけ る

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。 と登場する「檜垣の御」である。同 の歌語りが、 『後撰和歌集』巻十七雑三の 九番歌には、    筑紫の白河といふ所に住み侍けるに、大弐藤原興範の朝臣のまかりわたるついでに、

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零落漂泊する御

   水たべむとてうち寄りて、乞ひ侍ければ、水を持て出でて、よみ侍ける   ひがきの嫗 年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老にける哉     かしこに、名高く、事好む女になん侍け る

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と あ る。 詞 書 や 左 注 か ら 推 し て、 こ ち ら を 原 形 と す べ き で あ ろ う。 大 弐 藤 原 興 範 と い う 表 記 が、 舞 台 年 時 を 示 す な ら ば、 延 喜 年 正 月 六 日 に 大 弐 に 転 じ て か ら 延 喜 七 年 月 九 日 に 右 京 大 夫 に 任 ぜ ら れ る ま で と、 延 喜 年 四 月 八 日 大 宰 大 弐 を 兼 任 し て か ら 延 喜 六 年 正 月 五 日 に 彈 正 大 弼 に 任 ぜ ら れ る ま で の 何 れ か と い う こ と に な ろ う。 「 ま か り わ た る つ い で に、

水 た べ む と て う ち 寄 り て、 乞 ひ 侍 け れ ば 」 と い う こ と か ら す れ ば、 知 り 合 い と い う こ と で あ ろ う。 興 範 は、 仁 和 三 年( 八 八 七 ) 八 月 日 に 筑 前 守、 寛 平 五 年( 八 九 三 ) 月 日 に 豊 前 守、 四 月 〇 日 に 筑 前 守、 そ し て 八 月 九 日 に 太 宰 権 少 弐 を 兼、 寛 平 七 年( 九 八 五 ) 月 日 に は 少 弐 に 転 じ て い る。 よ っ て、 最 初 の 大 弐 の こ ろ の こ と と し て も、 檜 垣 の 嫗 を 知 っ て い て 尋 ね て も 不 思 議 で は な い。 妹 尾 好 信 氏 は、 「 興 範 の 最 初 の 大 弐 在 任 中 は、 『 延 喜 格 』 編 纂 時 期 と 重 な っ て い る か ら、 こ の 間 ど の 程 度 九 州 に 滯 在 し て い た か は 疑 問 で あ る

)((

。」 と さ れ る が、 私 は、 興 範 の 年 齢 か ら 推 し て、 最 初 の 在 任 中 の こ と で は な い か と 推 量 し て い る。 『 後 撰 集 』 で の 大 弐 藤 原 興 範 と 檜 垣 の 嫗 は 知 り 合 い で、 興 範 が 間 隔 を 置 い て、 水 を 乞 い に 訪 れ た 折 の 檜 垣 の 嫗 の 詠 歌 で あ り、 「 年 ふ れ ば 」「 我 が 黒 髪 も 白 髮 」( 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ① ) と な り、 「 み づ は ぐ む 」( 瑞 歯 ぐ む・ 肉 体 老 化

の 具 体 現 象 ② )「 ま で 老 に け る 哉 」 で あ っ て、 「 水 は 汲 む 」 は、 詞 書 の「 水 を 持 て 出 で て 」 と い う 行 為 行 動 を 表 現 し た も の で あ る。 そ の 真 意 は、 工 藤 重 矩 氏 が「 水 を 差 し あ げ る の が 若 い 娘 で な く て 申 し 訳 あ り ま せ ん と の 謙 退 の 歌

)((

」 と い う 通 り で あ ろ う。   『 大 和 物 語 』 で は「 純 友 が さ わ ぎ に あ ひ て 」 と、 当 時、 都 人 の 耳 目 を 集 め た 藤 原 純 友 の 乱 が 舞 台 と な っ て、 「 檜 垣 の 嫗 」 か ら「 檜 垣 の 御 」 へ と 変 化 し、 相 手 も「 小 野 好 古 」 に 代 わ っ て い る。 人 は 面 識 が な く、 好 古 は 高 名 な 檜 垣 に 逢 い た い と 捜 す の で あ っ て、 飲 み 水 を 乞 う と い う こ と で は な い。 枕 詞「 む ば た ま の 」 が「 我 が 黒 髪 も 白 髮 」( 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ① ) を 引

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零落漂泊する御三

き 出 し、 「 み づ は ぐ む 」( 瑞 歯 ぐ む・ 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ② ) と い う 嫗 の 老 耄 老 醜 の 体 を 表 し、 「 白 川 の 水 は 汲 む ま で な り に け る か な 」 と、 藤 原 純 友 の 乱 に よ っ て、 家 屋 焼 亡 と 家 財 盜 難 に よ る 生 活 の 窮 乏、 零 落 と い う 結 果 に 收 斂 す る。 そ の 老 醜 零 落 の 檜 垣 と い う の が 話 の 中 心 で あ っ て、 好 古 の「 あ は れ が り て、 着 た り け る 袙 ひ と か さ ね ぬ ぎ て な む や り け る 」 と い う 行 為 で 終わる。   『檜垣嫗集』 ・ 三番歌では、肥後守となって、彼の地で客死する清原元輔が檜垣の嫗の相手を務めることになる。 清原元輔国守になりて、年いたうさかりすぎたる時、子君あり、子供消息したるに、 いなりといふ人の同じさまなるに、ふみをゆづりて 稲荷こそ人のおもひは成すと聞け今はわが身は布留の社ぞ と、史実とは異なるが、清原元輔の子息の手紙を、子息と同年配の稲荷という人に讓ったこと、そして、 老 い き は め て、 す み か も 無 う な り は て て、 手 づ か ら 水 汲 む 際 に な り て、 桶 を ひ き さ げ て 出 づ る に し も、 国 の 守 狩 り し に 出 で ら る る 道 に さ し あ ひ て、 「 い か に か く は 」 な ど 見 と が む る に、 又 人、 「 そ れ は 誰 ぞ 」 と 問 へ ば、 「 名 高 き 檜 垣 ぞ 」 と い へ ば、 は た 隠 る る に、 隠 れ ど こ ろ も な け れ ば、 桶 を 岸 に 置 き て 居 た れ ば、 「 い か で か く な り し ぞ 」 と あ りしに、思ひわびてかくいふ 老いはてて頭の髮も白河のみづはくむまでなりにけるか な

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と あ っ て、 元 輔 と 檜 垣 の 嫗 は、 知 己 の 関 係 で あ っ た こ と が 知 ら れ る。 詞 書 に「 老 い き は め て、 す み か も 無 う な り は て て、 手 づ か ら 水 汲 む 際 に な り て 」 と、 老 残 老 醜 が 原 因 と し て 零 落 落 魄 が 語 ら れ る。 「 老 い は て て 」、 「 我 が 黒 髪 も 白 髮 」( 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ① )・ 「 み づ は ぐ む 」( 瑞 歯 ぐ む・ 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ② ) と な り、 老 醜 の 結 果、 「 白 河 の 水 は 汲 む ま で 」( 生 活 窮 乏 の 状 況 )「 な り に け る か な 」 と 零 落 落 魄 に 収 束 す る。 隠 れ て い た「 水 は 汲 む 」 と い う 行 為 が、 顕 在 化 す る こ と に よ っ て、 肉 体老化の具体現象と零落落魄が重なっていくのである。

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零落漂泊する御四

  さ て、 『 大 和 物 語 』 で は、 「 檜 垣 の 御 」 と、 君 寵 を 受 け た こ と が あ る と い う 呼 称 に な っ て い る。 し か し、 『 大 和 物 語 』 で も、 他 に 登 場 す る「 御 」 は、 伊 勢 の 御( *・ 四 七 *「 伊 勢 の 御 息 所 」) ・ 若 狭 の 御( 五 * )・ す け の 御( 六 * )・ 出 羽 の 御 ( 七 * )・ 閑 院 の 御( 四 六 * )・ 伊 予 の 御( 六 五 )・ 五 条 の 御( 六 〇 *・ 四 三 )・ 少 将 の 御( ) で あ る。 出 仕 し て 官 職か第宅という女房名があって、君寵を受けた者である。 『宇津保物語』 「あて宮」の[絵指示]に、 こ こ は、 大 将 殿 の 御 局。 こ こ に、 あ て 宮〈 御 年 十 五 〉、 中 納 言 君 年 十 九、 孫 王 の 君 十 、 帥 の 十 七、 宰 相 の お も と 十 八、 兵 衞 の 君 十、 中 将、 小 弁、 小 大 輔 の 御、 木 工 の 君、 少 将 の 御 、 少 納 言、 左 近、 右 近、 衞 門 な ど い ふ 人、 い と 多

かりうなゐなど、御前に候 ふ

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。 とある。傍線を付した「中将、 小弁、 小大輔の御、 木工の君、 少将の御」については、 日本古典全書『宇津保物語』は、 「中 将 の 御・ 辨 の 御・ 大 輔 の 御、 木 工 の 君、 少 将 の 御

)((

」 と し、 日 本 古 典 大 系 は「 中 将 御、 辨 御、 大 輔 の 御、 木 工 の 君、 少 将 の 御

)((

、」 と す る。 本 文 の 問 題 は あ る に し て も、 「 少 納 言、 左 近、 右 近、 衞 門 な ど い ふ 人 」 と は 線 を 画 し て い る の で あ る。 ま た、 呼 称 に つ い て も、 女 房 名 の そ れ と 同 で あ る。 『 大 和 物 語 』 で の「 檜 垣 の 御 」 と い う 呼 称 は、 『 大 和 物 語 』 が、 そ の 舞 台 を 純 友 の 乱 に 移 し、 相 手 を 小 野 好 古 と し た の に 加 え て、 漂 泊 の 御 と し て、 過 去 に 君 寵 を 受 け た こ と が あ る と い う 設 定 に し た も の で あ ろ う。 檜 垣 の 嫗 の 該 歌 が、 舞 台 年 時 を 替 え、 相 手 を 代 え て 再 生 さ れ た の は、 「 我 が 黒 髪 も 白 河 の み づ は く む ま で 」 と い

う 表 現 に、 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 と 零 落 落 魄 が 重 ね て 表 現 で き た と こ ろ に あ っ て、 檜 垣 の 嫗 と は 切 り 離 れ ら れ な か っ た と こ ろ に、その限界があったということになろう。 『後拾遺和歌集』巻第十九・雑五・ 六番歌では、 冷泉院東宮と申ける時、女の石井に水汲みたるかた絵に描きたるをよめと仰せられければ      源重之 年をへてすめるいづみにかげ見ればみづはくむまで老いぞしにけ る

)((

老 化 の 具 体 現 象 の み と な っ て、 以 下 は、 老 齡 容 姿 を 表 現 す る ば か り と な っ て い る。 元 を 辿 れ ば、 「 白 川 」 と い う 地 名 に、 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 の「 白 髮 」 を 掛 け、 飲 み 水 を 差 し 出 し た 行 為 と 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 を 掛 け た 表 現 を 咄 嗟 に 詠 ん だ こ と に あ

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零落漂泊する御五

る。 「 檜 垣 の 嫗 」 に つ い て は、 藤 原 清 輔 は「 肥 後 の 国 の 遊 君 檜 垣 嫗 は、 老 後 に 落 魄 す る 者 な り。 」 と 遊 女 と す る

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。 森 本 茂 氏

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や 今 井 源 衛 氏

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は、 遊 女 説 を 採 る。 平 野 由 紀 子 氏

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も 遊 女 と し、 遊 女 で は な か っ た と す る の は、 工 藤 重 矩 氏

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、 西 丸 妙 子 氏

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と、 説 が 分 か れ る。 檜 垣 の 嫗 が「 う か れ め 」 で あ っ た か ど う か、 そ れ を 決 す る 指 標 と な る も の は な い。 前 述 し た よ う に、 「 御 」 と い う の は『 大 和 物 語 』 が 施 し た 虚 構 と す れ ば、 『 後 撰 和 歌 集 』 の よ う に 即 興 で 地 名 と 飲 料 水 を 出 す 行 為 行 動 と 老 齡 容 姿 と を 合 わせて詠む手法から、 『大和物語』 四五段の、 亭 子 の 帝、 河 尻 に お は し ま し に け り。 う か れ め に、 し ろ と い ふ 者 あ り け り。 召 し に つ か は し た り け れ ば、 ま ゐ り て さ ぶ

ら ふ。 上 達 部、 殿 上 人、 み こ た ち、 あ ま た さ ぶ ら ひ た ま ひ け れ ば、 し も に 遠 く さ ぶ ら ふ。 「 か く は る か に さ ぶ ら ふ よ し、 歌つかうまつれ」とおほせられければ、すなはちよみてたてまつりける、    浜千鳥とびゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れ とよみたりければ、いとかしこくめでたまひて、かづけ物たまふ。 (以下省略) という、 「すなはちよ」む即興性や、 「雲立つ山」や「あは」といった表現の面白さに類似を感じる。また、 四六段の、 亭 子 の 帝、 鳥 飼 院 に お は し ま し に け り。 例 の ご と、 御 遊 び あ り。 「 こ の わ た り の う か れ め ど も、 あ ま た ま ゐ り て さ ぶ ら ふ な か に、 声 お も し ろ く、 よ し あ る も の は 侍 り や 」 と 問 は せ た ま ふ に、 う か れ め ば ら の 申 す や う、 「 大 江 の 玉 淵 が む す

め と 申 す 者、 め づ ら し う ま ゐ り て 侍 り 」 と 申 け れ ば、 見 せ た ま ふ に、 さ ま か た ち も 清 げ な り け れ ば、 あ は れ が り た ま う て、 うへに召しあげたまふ。 「そもそもまことか」など問はせたまふに、 鳥飼といふ題を、 みな人々によませたまひけり。 お ほ せ た ま ふ や う、 「 玉 淵 は い と ら う あ り て、 歌 な ど よ く よ み き。 こ の 鳥 飼 と い ふ 題 を よ く つ か う ま つ り た ら む に し た がひて、まことの子とはおもほさむ」とおほせたまひけり。うけたまはりて、すなはち、    あさみどりかひある春にあひぬればかすみならねどたちのぼりけり と よ む 時 に、 帝、 の の し り あ は れ が り た ま て、 御 し ほ た れ た ま ふ。 人 々 も よ く 酔 ひ た る ほ ど に て、 酔 ひ 泣 き い と に な く

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零落漂泊する御六

す。帝、御袿ひとかさね・はかまたまふ。 (以下省略) と あ る の が 想 起 さ れ る。 こ の よ う な 即 興 性 と、 地 名 と 行 動 を 詠 む こ と が 類 似 で あ る。 そ う 考 え れ ば、 『 檜 垣 嫗 集 』 の 番 歌 「 稲 荷 こ そ 人 の お も ひ は 成 す と 聞 け 今 は わ が 身 は 布 留 の 社 ぞ 」 も、 元 輔 の 小 君 と 同 年 配 の「 う か れ め 稲 荷 」 に 讓 っ た 行 為 を、 伏見稲荷と石上神宮を用いており、同趣の詠みぶりと言えよう。   さて、 檜垣嫗の年齢であるが、 『角川古語大辞典』の「らう【老】 」に、 「老年。 『礼記 ・ 曲礼上』では、 七十歳をいう。 『戸 令 』 で は『 其 の 男 廿 を 丁 と 為 し、 六 十 を 老 と 為 し、 六 十 六 を 耆 と 為 せ 』 と あ る よ う に 六 十 歳 か ら 六 十 五 歳 ま で の 男 を 老 と す る。 天 平 勝 宝 九 年( 七 五 七 ) 四 月 四 日 の 勅 に よ り 十 歳 以 上 を 正 丁 と し、 天 平 宝 字 年( 七 五 八 ) 七 月 三 日 の 勅 に

よ り『 今 よ り 以 後、 六 十 を 以 て 老 丁 と 為 し、 六 十 五 を 以 て 耆 老 と 為 す( 続 日 本 紀 )』 と 改 め ら れ た。 」 と あ り、 「 し や う し く わい【尚歯会】 」には、 「漢語。 『歯』は齢の意。よわいを尚ぶ会。高齢者が相会して宴を張り、 詠歌 ・ 作詩 ・ 管絃などを催す。 唐 代、 会 昌 五 年( 八 四 五 ) に、 白 楽 天 が 六 人 の 老 人 を 履 道 坊 に 招 い て 七 叟 尚 歯 会 を 催 し た 故 事 に よ り( 扶 桑 略 記 ナ ド )、 春 三 月、 主 催 者 の 老 人 が 六 人 の 高 齢 者 を 招 い て 催 す の が 常 と な っ た。 年 齢 順 に 着 座 す る。 わ が 国 で は 貞 観 十 九 年( 八 七 七 ) 三 月 に、 七 十 歳 の 南 淵 年 名 が、 大 江 音 人 ・ 藤 原 冬 緒 ・ 菅 原 是 善 ・ 文 室 有 真 ・ 菅 原 秋 緒 ・ 大 中 臣 是 直 の 六 人 を 小 野 山 荘 に 招 い て 催 し た の が 初 め 」 と あ る。 南 淵 年 名 が 催 し た 尚 歯 会 參 加 者 の 大 江 音 人 は 六 七 歳 で 同 年 月 三 日 に 薨 じ、 藤 原 冬 緒 は 七 十 歳、

菅原是善は六六歳、文室有真・菅原秋緒・大中臣是直は年齢不詳である。   続いて、 「老い」という点から考えてみよう。 『元輔集』 〇九番に次の様な兼盛への餞別の歌がある。 かねもりがするがにまかりしに   しらざりき田子の浦なる袖ひちて老のわかれにかかる物とは 此 の 歌 は、 兼 盛 が 天 元 年( 九 七 九 ) 八 月 に 駿 河 の 守 に 任 ぜ ら れ て 赴 任 し て 行 く 折 で、 第 四 句 に「 お い の わ か れ 」 と 有 り、 時に元輔は七 歳である。しかし、 此の「老いの別れ」は元輔だけを意味するものであろうか。 『小大君集』の八三・八四・

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零落漂泊する御七

八五番歌を見ると、 お な じ 人( 兼 盛 )、 大 け ん 物 な り し 時、 内 侍 所 に み か ぎ ま う し に、 お ほ と ね り の ひ き ぐ し て き た る に、 な い し の す け と し る や う あ り て、 そ こ に あ り け る を り な り け れ ば、 ま へ な る た ち ぶ と い ふ う り を、 き な る し き し に つ つ み て、 おきなに、これたてまつれとてとらせたりければ、くらづかさにつきて、そこよりいふ 山しろのとばにかよひて見てしかなうりつくりける人のかきねをかへし とことはにゆけばなりけりうりつくりそのことなきにたてりしやきみ

又の日、つかさめしに、するがのかみになりて、よろこび申しにましは、いとこそ うりつくるそのふもしらず人しれずおつるなみだやそほつなるらん と、 兼 盛 は 大 監 物 の 頃 に 翁 と 言 わ れ て い る。 勿 論、 老 人 と 周 囲 が 見 る の も、 個 人 差 が 有 っ て、 実 際 の 年 齢 を 割 り 出 す こ と は 困難であろうが、元輔の場合「老い」の歌語を持つ歌は、他に三 番歌と 番歌が有り、前者は、 安和三年 月五日、とうの中将さねすけの朝臣、をのの宮のおとど子日しにつかはし侍しに読み侍りし 老の世にかかる子日はありきやと木高き峰の松にとはばや とあるのは安和 年(九六九) 月 五日の元輔六 歳の折の歌で、後者は

とう中将さねすけがもとにまかりて、むかし物語などして侍りてよみて侍る 老いてのちむかしをこふるなみだこそここら人めをしのばざりけれ と あ り、 頭 中 将 実 資 と い う 表 記 し か 手 掛 か り が 無 い が、 是 が 舞 台 年 時 を 示 す も の で あ れ ば、 実 資 が 頭 中 将 で あ っ た の は、 永 観 年( 九 八 四 ) 月 三 日 か ら 永 延 三 年( 九 八 九 ) 三 月 日 ま で の こ と で、 実 資 は 七 歳 か ら 三 三 歳 の 間 で、 昔 物 語 の 相 手 と し て 充 分 な 年 齢 に 達 し て い た と い え る。 此 の 時 元 輔 は 七 六 歳 か ら 八 歳 の 齢 で あ っ た。 ま た、 源 順 は、 『 順 集 』 九 四番歌に、

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零落漂泊する御八

宰 相 中 将 藤 原 朝 臣 太 郎 松 を 君、 漢 書 光 武 記 よ み を ふ る 日、 わ た り が ゆ の 饗 ま う け て 文 つ く る 又 の あ し た、 い は ひ の 心あるうた人人よみ侍るに 老いぬればおなじ事こそせられけれ君はちよませ君はちよませ と 詠 ん で お り、 藤 原 誠 信 は、 天 延 年( 九 七 四 ) 月 八 日 に 歳 で 叙 爵 さ れ て い る。 こ の 折 の こ と で あ れ ば、 順 は 六 四歳で、 「老ぬれば」と言い、 『能宣集』の三九 ~三九三番歌に、 ひごのかみ元輔がくだり侍りとて、いひおこせてはべる

ともにおいてわかるるこひとおもはずはくさのまくらのつゆはむすばじ 返し ありとだにたがひにきかばいまよりのあふにかへたるいのちにはせん 又、元輔がかへし   とほくいきてありとかたみにききつつもなほなぐさまじあはでとしへば と 元 輔 肥 後 守 赴 任 の 寛 和 年( 九 八 六 ) の 贈 答 が あ る。 こ の 年 能 宣 六 六 歳・ 元 輔 七 九 歳 で あ る。 此 の 時 に 源 満 中 が 餞 別 の 宴 を設け、その折の贈答歌が『拾遺集』巻第六・別の三三三・三三四番歌に、

肥後守にて清原元輔くだり侍りけるに、源満中せんし侍りけるに、かはらけとりて      もとすけ いかばかり思ふらむとか思ふらん おいてわかるるとほきわかれを   返し         源満中朝臣 君はよし行末とほしとまる身の   まつほどいかがあらむとすらん と、 七 九 歳 の 元 輔 と 七 四 歳 の 満 中 の 餞 別 の 贈 答 歌 が 有 る。 あ く ま で も 参 考 と し て だ が、 大 雑 把 な 捉 え 方 と し て、 老 を 七 〇 歳・ 六 〇 歳 と の 仮 説 を も っ て 檜 垣 の 嫗 年 譜 を 作 成 し た。 こ こ に、 興 範 に 水 を 持 っ て 出 て 肉 体 老 化 の 具 体 現 象 ① ② を 詠 ず る と

(19)

零落漂泊する御九

いうことからも、興範の大弐赴任の 度目を『後撰和歌集』の舞台に推量する次第である。

( 1 )『学習院女子短期大学紀要』 6 、 九六九・ 。 ( 2 )『大和物語の婚姻と第宅』風間書房、平成 〇・九、 九 頁。 ( 3 )川口久雄校注『菅家文草   菅家後集』 『日本古典文学大系』

( 4 )『國史大辭典』 72 、岩波書店、 九八四・六、四八五・六頁。

( 6 )高橋正治校注・訳『新編日本古典文学全集』 ( 5 )新訂増補『國史大系』吉川弘文館、昭和 七・ 〇、五五四頁・六 七頁。 13 、吉川弘文館、平成四・四、四〇〇頁〈佐藤宗諄〉 。

( 7 )菅野禮行校注・訳『日本漢詩集』 『新編日本古典文学全集』 12 、小学館、 九九四・ 、 八七・八頁。

( ( 9 )新訂増補国史大系『尊卑分脈』 、吉川弘文館、昭和五五・五、三九頁。 ( 8 )『公卿補任』第 篇『新訂増補国史大系』黒板勝美編、吉川弘文館、平成三・ 、 五〇、 五八・ 五〇頁。 86 、小学館、 〇〇 ・ 、 五六頁。

( 10 )新訂増補『国史大系』吉川弘文館、昭和 七・九、 三〇・ 頁。

( 11 )新訂増補『国史大系』吉川弘文館、昭和 七・九、 〇八頁。

( 12 )新訂増補『国史大系』吉川弘文館、昭和 七・九、 八頁。

( 13 )新訂増補『国史大系』吉川弘文館、昭和 七・ 〇、四四四頁。

( 14 )新訂増補『国史大系』吉川弘文館、昭和 七・ 〇、六三 頁。

( 15 )『尊卑分脈』第 篇、吉川弘文館、昭和四七・四、 八八・九頁。

( 16 )角田文衛監修『平安時代史事典』本編下、角川書店、平成六・四、 〇六七・八頁。

17 ) 拙 稿「 『 大 和 物 語 』 初 段 の 史 的 和 歌 解 釈 と 初 段 の 意 味 す る も の 」『 東 洋 学 研 究 所 集 刊 』 第

壷宮の立后と『大和物語』五段の藤原穏子の立后を巡って 」『 松學舍大学論集』第 29

集、 平 成 ・ 三、 「『 源 氏 物 語 』 桐 壺 朝 の こ と 『 源 氏 物 語 』 の 藤

( 57 号、平成 六・三。

18 )平野由紀子校注『平安私家集』 『新日本古典文学大系』

( 28 、岩波書店、 九九四・ 、三頁・ 〇頁。

19 )高橋正治校注・訳『新編日本古典文学全集』

( 12 、小学館 九九四・ 、 八七・八頁。

( 20 )雨海博洋編著『大和物語諸注集成』桜楓社、昭和五八・五、六 〇頁。

( 文学』笠間書院、昭和五三・ ) 21 )『 大 和 物 語 の 婚 姻 と 第 宅 』 風 間 書 房、 平 成 〇・ 九、 六 七 ~ 七 頁。 ( 雨 海 博 洋『 物 語 文 学 の 史 的 論 考 』 桜 楓 社、 平 成 三・ 〇 と、 上 村 悦 子 編『 論 叢 王 朝

( 22 )『大和物語評釈』下巻、笠間書院、平成 ・ 、三〇六・七頁。 (柳田忠則『大和物語の研究』翰林書房、 九九四・ 、六 ・三頁。

23 )高橋正治校注・訳『新編日本古典文学全集』

( 12 、小学館、 九九四・三四七・八頁。

( 24 )片桐洋 校注『新日本古典文学大系』 6 、岩波書店、 九九〇・四、三六八頁。

( 25

――

)「桧垣説話と『桧垣嫗集』 伝承の史実性と家集の成立らについて 」『国文学攷』 〇六号、昭和六〇・六、三九頁補注。

( 26 )工藤重矩校注『後撰和歌集』和泉古典叢書 3 、和泉書院 九九 ・九、 六 頁。

27 )平野由紀子校注『平安私家集』 『新日本古典文学大系』

( 28 、岩波書店、 九九四・ 、 〇頁。

28 )中野幸 校注・訳『新編日本古典文学全集』

15 、小学館、 〇〇 ・五、 九頁。

(20)

零落漂泊する御〇

( 29 )『宇津保物語』 、宮田和 郎校注『日本古典全書』朝日新聞社、昭和 四・三、 三八頁。

30 )『宇津保物語』中(河野多麻校注『岩波日本古典大系』

( 11 、 〇〇頁。

( 31 )久保田淳・平田喜信校注『新日本古典文学大系』 8 、岩波書店、 九九四・四、三六 頁。

32 )藤岡忠美校注『袋草子』 『新日本古典文学大系』

( 29 、岩波書店、 九九五・ 〇、 〇七頁。

( 33 )『大和物語全釈』大学堂書店、平成五・ 、三 六頁。

( 34 )『大和物語評釈』下巻、笠間書院、平成 ・ 、 〇四頁。

35 )平野由紀子校注『平安私家集』 『新日本古典文学大系』

( 28 、岩波書店、 九九四・ 、九四頁。

( 36

――

)「檜垣嫗集解 非遊女家集のこと 」『和歌文学とその周辺』桜楓社、昭和五九・ 、八 頁。

( 37 )『檜垣嫗集全釈』 『私家集全釈叢書』 9 、風間書房、平成 ・五、 〇九頁。

( 38

)角川書店 CD RO M 版、 〇〇 ・ による。

39

)以下の家集はすべて角川書店 CD RO M 版、 〇〇三・六による。

(21)

零落漂泊する御 年号嘉祥123仁寿123齊衡123天安12貞観1234 5678貞観91011121314151617

3 月 21 日仁明天皇崩御 41

9 月 14 日藤良縄任参議右大弁佐中将長官如元 藤良縄右大弁佐中将勘解由長官 藤良縄右大弁佐中将勘解由長官 藤良縄右大弁佐中将転左大弁 藤良縄左大弁左中将 藤良縄左大弁 2 月 10 日兼右衞門督。止弁 藤良縄右衞門督 大江音人右大弁 1 月藤原多美子入内女御 藤良縄右衞門督 大江音人右大弁 藤良縄右衞門督 大江音人右大弁 8 月平寛子女御 藤良縄右衞門督 大江音人右大弁 1 月 12 日転左大弁 4 月高子女王女御 2 月 18 日藤良縄卒 55 大江音人左大弁 11 月?藤原高子入内 12 月女御 大江音人左大弁 大江音人左大弁 大江音人左大弁 3 月 2 日藤原家宗任参議右大弁 大江音人左大弁 家宗右大弁 大江音人左大弁 家宗右大弁 11 月藤原佳珠子女御(右大臣基経女) 2 月 26 日大江音人左衛門督止左大弁 家宗左大弁  家宗左大弁

付)①藤原良縄女弁の御・清和・陽成・光孝・宇多天皇

… …

文徳

… … … … … … …

清和

… … … … … … … … … … … … … … … … …

文徳23242526272829303132 清和1234567891011121314151617181920212223242526 陽成12345678 光孝19202122232425262728293031323334353637383940414243444546 宇多123456789 道真

4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

良縄353637383940414243444546474849505152535455①②③④⑤⑥⑦ 25・30業平24252627282930313233343536373839404142434445464748495051 家宗32333435363738394041424344454647484950515253545556575859 25・30西暦8489850851238545685788598601234568678987012345 10111213141516171819202122232425262728293031323334353637 567891011121314151617181920212223242526272829303132 78910111213141516171819202122232425262728293031323334 234567891011121314151617181920212223242526272829

(22)

零落漂泊する御

年号貞観18元慶12345678仁和1234寛平123456789昌泰123延喜1234

8 月源宜子入内(参議源興基女) 家宗左大弁 11 月 29 日讓位 2 月 20 日藤原家宗 11 月 3 日大江音人薨 1 月 7 日家宗左大弁去 2 月 3 日薨

1/7 式部大丞藤原朝臣邦直従五位下 5 月 8 日清和落飾 5 月 28 日在原業平卒 12 月 4 日清和上皇崩御 31

良繩弟扶縄因幡介従五上

2/17 外従五位下良臣為阿波介。8 月 26 日光孝天皇崩御 58

11/13 良繩男郡(邦カ)直因幡守見(紀略)

1 月 25 日菅原道真大宰府権帥左遷

2 月 25 日菅原道真薨 59

天皇陽成

… … … … … … …

光孝

… …

宇多

… … … … … … … … …

醍醐

… … … … … … …

文徳清和2728293031 陽成910111213141516171819202122232425262728293031323334353637 光孝474849505152535455565758 宇多1011121314151617181920212223242526272829303132333435363738 道真

32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59

良縄⑧⑨⑩⑪⑫ 業平5253545556 家宗6061①②③ 西暦876877898801234 56788888989012345678989900901234 25・3025・3038394041424344454647484950 33343536373839404142434445 35363738394041424344454647484950 30313233343536373839404142434445

(23)

零落漂泊する御三 年号元慶8仁和1234寛平123456789昌泰123延喜1234567891011

興 1 月 7 日従五位下 8 月 2 日筑前守 8 月 26 日光孝天皇崩御 58

興 1 月 11 日豊前守 4 月 20 日筑前守 8 月 9 日兼太宰権少弐

興 1 月 11 日転少弐

興 2 月 20 日右中弁 興 1 月 7 日正五位下 興 1 月 26 日従四位下。転大貳     ※ 妹尾好信氏は、 興範の最初の大弐在任中は、 『延喜格』編纂時期と重なっているから、 この間どの程度九州に滯在していたかは疑問である。p39 補注/とされる。 興 2 月 29 日右京大夫

興 1 月 11 日式部大輔 興 1 月 7 日従四位上 興 2 月 15 日任参議 4 月 28 日兼太宰大弐 9 月 24 日正四位下。 今日召殿上給餞之次所叙

付)②檜垣・興範・好古・元輔年表天皇光孝

… …

宇多

… … … … … … … … …

醍醐

… … … … … … … … … … … … … …

興範41424344454647484950515253545556575859606162636465666768 好古12345678910111213141516171819202122232425262728 元輔    1234 光孝55565758 宇多18192021222324252627282930313233343536373839404142434445 西暦884 56788888989012345678989900901234567899101 檜垣の嫗52535455565758596061626364656667686970717273747576777879 42434445464748495051525354555657585960616263646566676869 14151617181920212223242526272829303132333435363738394041 醍醐123456789101112131415161718192021222324252627

(24)

零落漂泊する御四 年号延喜1213141516171819202122延長12345678承平1234567天慶123

興 太宰大弐 興 太宰大弐 興 太宰大弐 興 太宰大弐 興 1 月 25 日兼彈正大弼 興 1 月 29 日兼近江守 10 月 1 日藤原興範卒 74

好 1 月 7 日従五位下

9 月 29 日醍醐上皇崩御 46 好 閏 5 月 11 日昇殿 7 月 19 日宇多法皇崩御 65 好 11 月 16 日従五位上

好 3 月 26 日右少将 好 1 月 7 日正五位下 2 月 1 日兼近江権介 好 1 月兼追捕凶賊使

天皇

… … … … … … … … … … … … … … … … … …

朱雀

… … … … … … … … … …

興範697071727374 好古2930313233343536373839404142434445464748495051525354555657 元輔56789101112131415161718192021222324252627282930313233 光孝光孝4647484950515253545556575859606162636465 西暦9123456789920129234567899309312345679389940 檜垣の嫗8081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108 7071727374757677787980818283848586878889909192939495969798 4243444546474849505152535455565758596061626364656667686970 醍醐28293031323334353637383940414243444546

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