奈良教育大学学術リポジトリNEAR
九世紀の宿禰氏族
著者 笹岡 智聡
雑誌名 高円史学
巻 20
ページ 40‑60
発行年 2004‑10‑01
その他のタイトル The Sukune (宿禰) clan in the Ninth century URL http://hdl.handle.net/10105/8819
九 世 紀 の 宿 禰 氏 族
は じ め に
笹 岡 智 聡
日本律令国家の構造的特質は︑井上光貞氏が日本律令国家を ﹁律令制を貫徹しなから︑しかもなお族姓的な︑二元的国家﹂
であると規定されたように ﹁律令制﹂ と ﹁氏族制﹂︑別言すれば官僚制的原理と世襲的・族姓的原理の共存にあるといえよ
H l
・
︑
う︒このことを端的に表すのが︑位階とカバネの関係である︒カバネは氏を階層化するという大化前代以来の機能を継承し︑
宮人の昇進上限を規定する機能を律令制のもとで果たすこととなったのである︒
律令制下におけるカバネの機能を解明する手かかりとなるのは改賜姓である︒改賜姓については多くの研究成果があげら
・
︑
・ u
れているが︑近年では宇根俊範氏のものか代表的である︒氏は︑律令制下における朝臣賜姓と宿禰賜姓をとりあげ︑改賜姓
のあり方が桓武朝を画期として変わり︑律令官人社会の変革に結びついていることを指摘され︑九世紀における族姓の意義
を再検討された︒氏は︑カバネは九世紀段階までは確実に律令官人社会において機能しており︑国家は宿禰賜姓によって卑
姓氏族に門戸を開き︑宿禰賜姓された氏族から有能な実務官僚を登用する才用主義重視の政策をとったとされている︒筆者
40
もこの指摘に従うが︑宿禰賜姓され実務官人として登用された氏族のその後の動向︑また九世紀以前から存在する宿禰氏族
のその後の動向については十分に明らかにされているとはいいがたい︒本稿は宇根氏の研究に導かれつつ︑平安貴族社会に
おける宿禰氏族の動向を解明することで当該期の中下級宮人の実態に迫ろうとするものである︒
一宿禰賜姓された氏族
九世紀は律令国家のあり方が大きく変わる段階である︒九世紀の宿禰氏族については︑宇根氏による宿禰賜姓に関する研
究が唯一のものである︒宇根氏は︑宿禰賜姓を次の三類型に分けられた︒類型 ︵1︶ は宿禰賜姓後のウジ名が既存の宿禰氏
族名を名のるもの ︵九二例︶︑類型 ︵2︶ は宿禰賜姓後のウヂ名が既存の宿禰氏族の複姓または類似姓を名のるもの ︵一六
l
・
︑
︑
例︶︑類型 ︵3︶ は宿禰賜姓後のウジ名が今までになかった新しい宿禰氏族名を名のるもの ︵一四二例︶ で︑多くの卑姓氏
族は類型 ︵3︶ の宿禰賜姓により昇進の機会を与えられた︒では︑桓武朝以降に宿禰賜姓された氏族は︑以後どのような動
向を示すのであろうか︒本節では︑宇根氏の研究における宿禰賜姓類型 ︵3︶ に注目し︑宿禰氏族を類型 ︵3︶ の氏族と類
型 ︵3︶ 以外の氏族−宇根氏の類型 ︵1︶ ︵2︶ とされた宿禰賜姓を経た氏族に奈良時代からの宿禰氏族加えたものーとに
分け︑六国史における氏族の動向を官職別に分析する︒
41
1︑宿禰氏族数の比較
﹇表1−1﹈ は二種類以上の史料に継続して確認できる宿禰氏族数を︑﹇表112﹈ はその中でも官職への補任を確認で
[表1−1】宿禰氏族数(期間:天応〜昌泰)
1 u 合 計 備 考 *朝 臣 賜 姓 さ れ た 氏 族 を 除 く
類 型 (3 )氏 族 3 9 3 3 72 朝 臣 賜 姓 : i (7 ) / 辻(6 ) / 合 計 (85 )
類 型 (3 )以 外 の 氏 族 2 7 3 5 6 2 朝 臣 賜 姓 : i (1) / h (4 ) / 合 計 (67 )
[表1−2]官職が確認できる氏族数(期間:天応〜昌泰)
1 u 合 計 備 考 * 胡 臣 賜 姓 さ れ た 氏 族 を 除 く
類 型 ( 3 )氏 族 35 29 6 4 朝 臣 賜 姓 : i ( 7) / 辻( 2) / 合 計 ( 73 )
類 型 ( 3 )以 外 の 氏 族 23 23 4 6 朝 臣 賜 姓 : i ( 1) / 辻( 2) / 合 計 ( 49 )
1・二種類以上の史料に継続して確認できる氏族 冨:一種類の史料にのみ確認できる氏族きる氏族数を示したものである︒なお︑朝臣賜姓された氏族は︑以後は宿
禰姓で史料上に現れないことから︑朝臣賜姓後は宿禰氏族より除外した︒
﹇表1−1﹈ より次の二点を指摘することができる︒一点目は︑類型
︵3︶ 氏族では︑二種類以上の史料に継続して確認できる氏族 ︵1︶ が一
種類の史料にのみ確認できる氏族 ︵⁚n︶ を上回っている一方︑類型 ︵3︶
以外の氏族においては逆である︒二点目は︑表中の朝臣賜姓された宿禰氏
族十八氏のうち︑類型 ︵3︶ 氏族が十三氏を占めていることである︒そし
て︑この二点に類似した傾向は﹇表112﹈においてもみられるのである︒
これらから︑類型 ︵3︶ 氏族が類型 ︵3︶ 以外の氏族よりも有勢であるこ
とが知られる︒なお︑官職を得ていることが確認できる氏族は史料上の宿
禰氏族の中でもさらに限られた存在であり︑その他の氏族は職事官予備群
であったと推測できる︒
42
2︑
類型
︵
3︶
氏
族の
動向
中下級官人には実務を処理する能力が求められるが︑官職の中で特に十
分な実務能力を必要とすると国家が認識していたものに外記︑史︑諸道博
Tユ士︑主計⁚王税助︑左右近衛将監がある︒宇根氏もこれらの官職に注目さ
﹇鮒
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一﹈
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︶討
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︶ ・
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︵5︶れ︑大外記︑左大史︑右大史に補任された宮人と改賜姓を詳細に分析された︒ここでは︑外記︑史︑諸道博士︑主計・主税
助︑左右近衛将監に補任された宿禰氏族官人のうち類型 ︵3︶ 氏族について検討する︒
﹇表2−1﹈ は︑類型 ︵3︶ 氏族のうち外記を含む前述の官職に補任された者を︑十年ごとに分けて示したものである︒
官職への補任が確認できる類型 ︵3︶ 氏族六四氏中︑外記を含むこれらの官職の補任を確認できるのは二六氏であった︒こ
の裏から︑次の二点を指摘することができる︒一点目は︑これらの官職に補任された官人を出している二六氏のうち︑二回
以上見えるのは善世︑都︑家原︑興道の四氏のみであること︒その他は一度補任された後は︑これらのどの官職にも補任され
ていない ︵朝臣賜姓された氏を除く︶︒また︑御林︑滋生氏は﹇表2−1﹈の官職以外の記載は確認できなかった︒二点目は︑
表中の氏族のうち約半数が︑宿禰賜姓後早い段階で補任されていることである︒宿禰賜姓された後で低い位階やその位階に一
相当する官職から出発して次第に氏族の地位を高めて表中の官職に就く宮人と︑宿禰賜姓後まもなく登用される宮人が存在 44
することがうかがえる︒以上より︑1でみたように宿禰賜姓氏族数において︑類型︵3︶氏族は類型︵3︶以外の氏族︵後 ︼
述︶ に比して多くの氏族が平安貴族社会に在り続けたといえるが︑類型 ︵3︶ 氏族の中でも重要な官職に就く宮人はさらに
精選されていたといえる︒
3︑類型 ︵3︶以外の氏族の動向
﹇表3−1﹈ は類型 ︵3︶ 以外の氏族のうち︑類型 ︵3︶ 氏族の場合と同様︑外記︑史︑諸道博士︑主計・主税助︑左右
近衛将監に補任された宮人を示したものである︒﹇表3−1﹈より次の二点を指摘することができる︒
まず︑一点目には類型 ︵3︶ 氏族と比較して︑対象となる氏族数が半数の十三氏ということがある︒二点目に︑これらの
[表2−2]宿禰賜姓類型(3)氏族 官職補任数
\ 寮 司 職 ・坊 国 司 合計
頭 助 正 大夫 亮 守 介 \
I 4 2 1 0 3 6 14 30
Ⅱ 12 4 7 0 2 17 25 67
[表3−2]宿禰賜姓類型(3)以外の氏族 官職補任数
\ 寮 司 職 ・坊 国 司 合計
頭 助 正 大夫 亮 守 介 \
I 6 4 3 0 2 8 14 37
Ⅲ 3 7 3 1 5 9 24 52
i期:天応〜承和 弘期:嘉祥〜昌泰
官職に補任された宮人を出していることが史料より確認できる十
三氏のうち︑二回以上見えるのは長峯︑山田氏である︒以上より︑
奈良時代から続く宿禰氏族を多く含む類型 ︵3︶ 以外の氏族は︑
九世紀段階には類型 ︵3︶ 氏族に比して︑その族勢がふるわなく
なっているといえよう︒
4︑宿禰氏族の補任数
本項では︑前述した官職以外の官職への宿禰氏族の補任数をみ
ていく︒﹇表2−2﹈・﹇表3−2﹈ は類型 ︵3︶ 氏族︑類型 ︵3︶
以外の氏族の補任数を寮・司・職・坊・国司の長官・次官につい
て示したものである︒
﹇表2−2﹈・﹇表3−2﹈ に共通して宿禰氏族が一定数これら
の官職に補任されていることかわかる︒とくに︑補任数の合計を
比較すると︑類型 ︵3︶ 氏族は︑Ⅲ期はI期の二・一倍の増加を
示すのに対し︑類型 ︵3︶ 以外の氏族の増加は一・四倍であった︒
類型 ︵3︶ 氏族の補任数は︑類型 ︵3︶ 以外の氏族に比して︑寮
︵ 頭
︶ ︑ 司
︵ 正
︶ ︑ 国 司 ︵ 守 ・ 介 ︶ に お い て 著 し い 増 加 を 示 し て い
45
る︒一方︑類型 ︵3︶ 以外の氏族の司 ︵正︶︑国司 ︵守︶ の補任数はI期・Ⅱ期を通じて大きな変化はみられない︒また︑
国司 ︵守・介︶ の補任数は︑I期では類型 ︵3︶ 氏族と類型 ︵3︶ 以外の氏族との相違はみられないが︑Ⅱ期では︑類型
︵3︶ 以外の氏族では国司 ︵介︶ の補任数以外は大幅な変化は見られないのに対して︑類型 ︵3︶ 氏族ではI期より守・介
ともに補任数が増加する︒特に︑Ⅱ期における類型 ︵3︶ 氏族の長官−寮 ︵頭﹀︑司 ︵正︶︑国司 ︵守︶−補任数増加が約三
倍と
なる
こと
は特
徴的
であ
る︒
以上
︑類
型
︵3
︶
氏族
と類
型
︵3
︶
以外
の氏
族の
動向
より
︑類
型
︵3
︶
氏族
と類
型
︵3
︶
以
外の氏族では︑これらの官職への補任数は双方1期よりⅡ期が増加する点は共通しているが︑長官の補任数の増加が頗著な
類型 ︵3︶ 氏族に対し︑類型 ︵3︶ 以外の氏族の補任数については長官の減少︑次官の増加が読み取れ︑両者が対照的な動
向を示すことが知られるのである︒
二 伝統氏族
天武朝八色の姓で宿禰賜姓された氏族のうち︑ここでは奈良時代に参議以上の官人を輩出した伴 ︵大伴︶︑麻犬養の両氏︑
そして参議には補任されていないが両氏に匹敵する伝統氏族である佐伯氏を取り上げ︑平安貴族社会における動向を分析す
.U
る︒長山泰孝氏は︑八世紀にみられた伝統氏族の多くが九世紀になると衰退していくとされたが︑宿禰氏族である前述の三
氏の場合はどうであろうか︒﹇表4−1﹈∴表412﹈・﹇表4−3﹈ は︑1期 ︵天応〜承和︶・Ⅱ期 ︵嘉祥〜昌泰︶ に分けた
︑ 7 h
氏別の官職補任数を示す︒対象とする官職は参議に登用されるコースの一つである弁官︑八省の卿・輔︑近衛中将・少将︑
中下
級官
人の
官職
であ
る寮
︵
頭・
助︶
︑職
・坊
︵
大夫
二売
﹀︑
そし
て国
司
︵守
・介
︶
とし
た︒
[表4−1]大伴(伴)氏 官職補任数
弁 官 卿 ・輔 中 ・少 将 大 夫 ・亮 頭 ・助 守 ・介
I 7 1 1 4 8 6 1 3
Ⅲ 2 7 0 3 3 3 2
[表4−2]佐伯氏 官職補任数
\ 弁 官 卿 ・輔 中 ・少 将 大 夫 ・亮 頭 ・助 守 ・介
I 2 4 4 3 2 16
Ⅲ 0 0 1 1 】 2 1 1
[衰4−3]顧犬養氏 官職補任数
\
\ 弁 官 卿 ・輔 中 ・少 将 大 夫 ・亮 頭 ・助 守 ・介
I 0 1 0 0 2 1
Ⅲ 0 0 0 0 0 3
I期 天応〜承和 Ⅱ期:嘉祥〜昌泰
これらから︑三氏に共通して九世紀における族勢
の衰退がうかかえる︒特に︑伴 ︵大伴︶ 氏は−期ま
では弁官や卿・輔など参議登用コースに多くの官人
を輩出してきたが︑Ⅱ期以降になるとほとんどみら
れない︒伴 ︵大伴︶ 氏︑佐伯氏は1期・Ⅲ期を通し
て一定数の官人を国司 ︵守・介︶ に輩出しているが︑
醇犬養氏については官職を得ていると確認できる官
人はごくわずかであった︒
Ⅱ期以降の補任数から︑伝統氏族が平安貴族社会
の官僚制的原理による官人登用から除外されつつあ
る一
方で
︑国
司
︵守
・介
︶
の補
任状
況か
ら伴
︵大
伴︶
︑
佐伯氏は中級貴族層として定着していくことがうか
がえる︒なお︑九世紀以降の伝統氏族からの散発的
な参議補任者の出現については︑長山泰孝氏がいわ
れるように︑天長期以降にみられる中小氏族の文章
生出身者の登用に共通した︑実務宮人としての登用
︑︑
で あ ろ う
︒
47
三 平安初期に再編成された氏族
大塚徳郎氏の研究によれば︑桓武朝以後卑姓の地方豪族や渡来系氏族から出て︑従五位下を賜ったものを新官人といい︑
︵ 9
︶
平安初期には彼らの系譜の再編成が積極的に行われたとされる︒このことは︑同族の中で有力になった氏が賜姓された︑よ
り高い姓に改姓することによって︑系譜上同族であるという多くの氏が︑昇進の機会を得ようとしたものである︒こうした︑
氏の系譜結合が氏族の自律運動によるものであろうことは否定しえないが︑一方で国家が氏の申請を許可する以上︑そこに
は国家としての氏族対策︑改賜姓で氏族を再編することについての国家としての意図が存したと考えられる︒そこで︑平安
初期に再編成された氏族をとりあげ︑宿禰賜姓と官職の関係︑宿禰賜姓の時期について分析する︒以下のうち︑菅野朝臣︑
坂上大宿禰・内蔵朝臣︑菅原朝臣は下部に記した宿禰氏族がそれぞれの氏に再編成され︑秦氏系統は逆に︑複数の氏に分か
れるという形で再編成されたもので︑太秦公氏を除いて︑仁和年間までに時原朝臣・朝原朝臣・惟宗朝臣となる︒
*菅野朝臣 ︵王辰爾系︶ − 宮原宿禰・御船宿禰・中科宿禰・津宿禰・葛井宿禰
*坂上大宿禰・内蔵朝臣︵倭漢氏系︶ − 坂上大宿禰・坂上宿禰・大蔵宿禰・内蔵宿禰・桧原宿禰・山口宿禰e林宿禰
*秦氏系統 − 時原宿禰・朝原宿禰・秦宿禰・伊統 ︵惟宗︶ 宿禰・太秦公宿禰
*菅原朝臣 ︵土師氏系︶ − 土師宿禰・秋篠宿禰・出雲宿禰
48
1︑宿禰賜姓と官職補任
﹇表5−1﹈は︑外記︑史︑諸道博士︑主税・主計助︑左右近衛将監に補任された官人を示したものである︒まず︑九氏
︵ 川︶
のうち約半数の氏は二回以上これらの官職のいずれかに補任されている︒次に︑宿禰賜姓類型 ︵3︶ 氏族のこれらの官職補
任にもみられる傾向と同じく︑宿禰賜姓直後もしくは早い段階で補任されているということがある︒平安初期に再編成され
た氏族の官職補任状況のうち︑外記についてはその補任と賜姓の関連が顕著であり︑類型 ︵3︶ 氏族と共通している︒しか
し︑事例が少ないため残念ながらこれ以上の分析は困難である︒
2︑宿禰賜姓の時期
氏族にとって︑改賜姓によるより高い姓の獲得は昇進の機会の獲得を意味し︑平安初期では氏の分裂・統合がさかんに行
われた︒﹇表5−2﹈ によって︑平安初期に再編成された氏族の再編過程を改賜姓の時期に焦点を当ててみてみると︑仁明
朝と文徳朝を境に氏族に対する改賜姓の量的な変化がみられる︒すなわち︑朝臣賜姓・宿禰賜姓双方のピークは承和年間に
あり︑その後減少する︒また︑宿禰賜姓類型 ︵3︶ 氏族や類型 ︵3︶ 以外の氏族の補任状況でもみられたように︑中下級宮
人の補任は仁明朝と文徳朝でその様相に相違が見られ︑以後宿禰賜姓や朝臣賜姓が減少する一方で五つの官職における宿禰
氏族の補任は増加する︒改賜姓の時期から︑仁明朝が官人の登用という点でも画期であると考えられる︒
ここ
で対
象と
した
氏族
のう
ち︑
菅野
︵
朝臣
︶
氏︑
坂上
︵
大宿
禰︶
・内
蔵
︵朝
臣︶
氏
︑秦
氏系
統︑
菅原
︵
朝臣
︶
氏は
それ
ぞ
れ文人政治家の輩出や天皇の姻戚という他の宿禰氏族よりも特別に扱われる要因をもつ氏族であった︒よって︑平安初期に
再編成された氏族は︑類型 ︵3︶ 氏族のように有能な実務官人としての登用とそれを視野に入れた賜姓とだけとらえること
は難しく︑それには次章で述べる特別な要因が作用していると思われる︒
49
﹇鮒∽−一﹈ 骨相ぎ遅日却新覿仙き汀諦淋 叫爵鮒
﹈ 巴 等 更
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〇 N O 8 台 g S
﹈
○ 宕
帥針 斡車 鵡隋
帥鍵 紳撃 辞
#細
事什 搾・ 掌糟 脚「錆
声昌滋 独
晶華 徹 陣
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麻 轟
翰 首
∩ 名
神醸
斗善
事 熟 練≠ 絹
菌ト 専苦
和
( 盤 轡淘 謳錦
圃監 奉嘉 重曹
輪郭 書
._..華
( 身 躊靭) 討鯵
園芸
柵婦 離 奉呈
亜
壷壷
重吉 胞背 鯖婦 圃垂
50
︵ ︶l・・ll・剖粛熟咄声ペ★灘什前か陣 ○㌘ 増H疇増奮闘\姉H癖卜汁武義・さ満載奮\柵H柵闊\鞠H鋤靭奮闘
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・−
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儲⁚磐梯 蘭H廓開 銀り膚嘉 nHn渥 鵜H稿雷 神h沖露 鶉H鶉苫
﹇淋∽−巴 梱帰営避l日刊部島根き汀諦軒 薄遍詳昂避
︼ 聖 書 睾 一
〇 N O 父
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− 0 8 S 一
〇 等
■l 童話 ■
増虚檎 洲
■■ 靂闇 ■
闇 耶奮
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沖洲善嶺 題n
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重 … 駆髄 垂 摘
tI t 重 臣
蜜 翰
哉 ■ 事 n
■ 糠 地 米
書 】峰
■ ■ 古 池
考 JP車 ■ ■ け 義 ℡ 隕 師 餌 蓋 重 雲
善謂
■ t
■ 闇 ■ 和
書 ∩ ゴ薄 熟 ■
雲蓋
≠ 津
51
上巳 l l 陣 捧
二 ︶ − 血色l陣容
・ llll−掛■il陣鯵
四 天皇と姻戚関係にある宿楕氏族
林陸朗氏は︑桓武朝の廟堂において ﹁石川・大伴・大中臣などの諸氏が延暦の十年代で公卿継承を中断したあと︑これに
︵ u ︶
代わって進出したのは桓武天皇の外戚にあたる中小氏族であった﹂ と指摘されている︒延暦十四 ︵七九五︶ 年以降の桓武朝
廟堂構成は藤原氏四名が参議として廟堂の下部に位置する一方︑延暦十七 ︵七九八︶ 年からは神王 ︵右大臣︶︑壱志渡王
︵大納言︶といった皇親が廟堂の首班となることが特徴である︒しかし︑こうした廟堂構成は桓武天皇が藤原氏を冷遇した
ということではなく︑藤原氏の世代交代の結果と考えるのが妥当である︒このように廟堂構成の面で特徴的な桓武朝である
が︑本項では林氏の指摘にあるように政界に活躍した ﹁外戚にあたる中小氏族﹂ の中でも本稿で対象としている宿禰氏族の
動向についてみていきたい︒
桓武天皇の外戚氏族である和・土師・紀氏といった諸氏は桓武天皇によって積極的に登用されたが︑天皇と姻戚関係を結
︵ 1
2 ︶
んだ氏族はどのような動向を示したのか︒桓武・嵯峨天皇の姻戚氏族のうち︑宿禰姓のものについてみていきたい︒
桓武天皇と姻戚関係を結んだ宿禰氏族は︑坂上氏と百済氏である︒まず︑坂上氏は坂上大宿禰苅田麻呂女又子 ︵子高津内
親王︶ と田村麻呂女春子 ︵子葛井親王・春日内親王︶ を︑百済氏は百済宿禰永継 ︵子良琴朝臣安世︶ を通じて天皇と姻戚関
係を結ぶに至った︒これらの宿禰氏族の具体的な動向は以下の通りである︒
*坂上氏 − 延暦四年苅田麻呂﹇従三位﹈ ︵左京大夫・右衛士督︶1大同四年田村麻呂﹇正三位﹈ ︵大納言︶1嘉祥三年
浄野﹇正四位下﹈ ︵右兵衛督︶ 他多数
*百済氏〜弘仁三年名継﹇正六位上﹈ ※宿禰賜姓1貞観四年有世﹇正八位上﹈ ︵皇太后 宮少属︶ 1同六年有世※御
52
春朝臣賜姓1元慶元年有雄﹇外従五位下﹈ ︵主税助︶
坂上氏は坂上大宿禰苅田麻呂が藤原仲麻呂の乱平定の武功をもって仕え︑桓武朝において従三位に叙せられた︒そして︑
子田村麻呂は武官の要職を歴任し︑嵯峨朝において大納言に昇任した︒坂上氏の場合︑武官としての顕著な活躍と姻戚氏族
であることが相乗した結果といえよう︒百済氏については︑氏の官人の叙位・補任状況から特に優遇されているとは認めら
︵ 1
3 ︶
れなかった︒百済氏の生母所生の皇子は︑良琴朝臣安世で︑皇子が賜姓された最初の例である︒桓武朝において賜姓された
︼ 昨︻
他の二名︑長岡朝臣岡成︑広根朝臣諸勝を含めて生母が女嬬であるという共通点があり︑この場合は︑生母を出した宿禰氏
族に顕著な優遇は行われなかったと推測できる︒
次に︑嵯峨天皇と姻戚関係にある飯高氏 ︵子源常・源明︶︑惟良氏 ︵子源勝︶︑山田氏 ︵子源啓・源密姫︶︑内蔵氏 ︵子源
神姫・源容姫・源吾姫︶ についてみていく︒まず︑これらの諸氏から出た生母所生の皇子皇女が全て賜姓源氏であることに
気づく︒嵯峨天皇所生の皇子皇女は計五〇人で︑そのうち親王・内親王が十八人 ︵天折の王一人を含む︶︑源氏が三二名で
ある︒林氏によると勅裁を経て親王号を許された皇子皇女は︑﹁皇后より女御に至る後宮の所生と︑さらに女嬬ではない皇
親又はそれに准ぜられる真人姓の王氏賜姓の子女の所生﹂ であった︒すなわち︑それ以外の氏族を出自とする生母所生の皇
子皇女は源氏となったのである︒それでは︑このような嵯峨源氏の生母を輩出した宿禰氏族はどのような動向を示すのか︑
以下にみていくことにする︒
*飯高氏1天長十年全雄﹇従五位下﹈1承和三年全雄・弟高※朝臣賜姓
*惟良氏1天長九年春道﹇従五位下﹈1同十年貞道﹇従五位下﹈1承和三年貞道︵文章博士・図書頭︶
*山田氏 − 弘仁五年古嗣※宿禰賜姓1承和七年古耐﹇従五位下﹈1斉衡元年文雄﹇従五位下﹈1元慶元年超宗﹇外従
53
五位
下﹈
︵
左大
史︶
﹂
元慶
七年
時宗
﹇外
従五
位下
﹈
︵大
外記
︶
○古嗣は少外記・大外記を経ての宿禰賜姓であり︑文雄は左大史を経て斉衡元年に従五位下となった︒
*内蔵氏 − 延暦四年全成﹇正五位下﹈ ︵大蔵大輔・内蔵頭︶1延暦十六年賀茂麻呂﹇外従五位下﹈ ︵大外記︶1弘仁三
年帯足﹇正六位上﹈※宿禰賜姓1天長十年秀嗣﹇従六位上﹈ ︵大外記︶ ※宿禰賜姓1承和六年高守・聡通※朝臣賜姓
これらの動向から︑諸氏の中では飯高氏が中下級の重要な官職に補任されていないにもかかわらず他氏よりも優遇されて
いる︒この背景には︑飯高宿禰宅眉所生の源朝臣常の存在が影響していることを推測し得る︒嵯峨源氏の中でも源朝臣常の
昇任はめざましく︑仁明朝の末年には︑廟堂に左大臣源朝臣常以下玉名の嵯峨源氏があり︑嵯峨源氏が源常を中心に構成さ
れていた︒一方︑惟良・山田・内蔵氏についてはそれぞれ文章博士・左大史・大外記などの実務官人としての重要な官職へ
の補任から︑姻戚氏族の中には飯高氏のように朝臣賜姓という形で優遇された氏と︑重要な官職に登用するという形をとっ
た氏があるといえる︒
そして︑桓武天皇からはじまった婚姻による氏族編成と登用は︑嵯峨天皇による賜姓源氏を経て︑皇親への賜姓によって
藤原氏と頂点を二分する上級宮人を輩出するとともに︑その生母を輩出した中下級氏族の登用という二方向からの王権の強
化をもたらした︒また︑姻戚関係と官人の昇任を考える際に留意すべきことに︑官人の補任は国家機構への配置であり︑必
ずしも宮人の登用と天皇との姻戚関係の問題が直結するものではないということがある︒しかし︑古代において国家機構へ
の配置と天皇との姻戚関係が不可分な関係にあるという側面をふまえると︑国家にとって天皇の姻族である宮人を登用する
ことは︑中下級宮人登用の一施策であったと推測することができる︒
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むすぴにかえて
本稿では︑平安貴族社会の中下級宮人のあり方について︑宿禰氏族に焦点を当て︑彼らが平安貴族社会に組み込まれる過
程における動向を官職補任を中心に考察し︑以下のことが明らかになった︒
一︑九世紀︑国家は宿禰氏族の宮人の昇進を視野に入れて宿禰姓を賜与し︑宿禰賜姓された氏の宮人が官職を得︑その中
からさらに有能な実務官人として精選された者が実務処理能力を必要とする重要な官職に補任されていること︒
二︑奈良時代から存続する有力宿禰氏族は九世紀において衰退し︑国司 ︵守・介︶ を輩出する中級貴族層として位置付け
られ
たこ
と︒
三︑有能な宮人を厳選する方法をとる一方︑国家は姻戚氏族の登用という前者とは異なる論理を両立させたこと︒
四︑九世紀を通じて︑宿禰賜姓は実務官人を登用するための一施策として位置付けることができ︑恒常的に実施されたこ
と︒
従来の研究では︑宿禰賜姓された後の氏が中下級官人として登用された世代以後の動向は解明されていなかったが︑本研
究によって︑かつて有能な宮人を出した氏も九世紀段階では継続して有能な官人を輩出することが困難であること︑そして
それを補うために賜姓を通じて新しい氏が次々に登用されたことが明らかになった︒また︑六国史に登場する全ての宿禰氏
族を対象にすることで︑国家が中下級官人登用のため︑広汎に存在する職事官予備群の氏の中から︑中下級官職へ補任され
る宮人選出のための賜姓を行い︑その中からより重要な実務官職へ補任するという官人登用策を講じていたことを明らかに
することができたと考える︒
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このように九世紀の段階では︑宿禰賜姓などを通いした有能な官人の登用が積極的に図られたが︑十世紀︑十一世紀を経て
十二世紀に至ると︑家格や宮司請負制の成立により︑貴族社会は固定化の様相を呈するようになる︒そこには︑平安貴族社
会の次なる変化があったと思われるが︑それについての考察は課題としたい︒
﹇ 註﹈
︵1︶ 井上光貞﹁カバネ・位階・官職﹂ ︵﹃井上光貞著作集﹄第五巻 岩波書店一九八六年︶
︵2︶ 宇根俊範﹁律令制下における改賜姓を中心として−朝臣賜姓を中心としてー﹂ ︵﹃史学雑誌﹄一四七一九七八年︶二律令制下に
おける改賜姓について−宿禰賜姓を中心として−⊥ ︵﹃ヒストリア﹄九九一九八三年︶
︵3︶ 類型 ︵1︶ 型の具体例としては︑佐伯直が宿禰賜姓を経て佐伯宿禰となる氏などか︑類型 ︵2︶ 型の具体例としては︑秦氏と類似
したウジ名を賜与された太秦氏がある︒そして︑類型 ︵3︶型の具体例としては︑錦部連が宿禰賜姓を経て惟良宿禰となるなどウ
ヂ名が既存のものでないものが挙げられる︒
︵4︶ ﹃類衆符宣抄﹄巻七・改姓は︑延善玉 ︵九〇五︶ 年に外記︑史︑諸道博士︑主計・主税助︑左右近衛将監に在官する者以外の改姓
を禁止したものである︒このことから︑これらの官職に有能な官人を登用するために必要とあれば卑姓の氏族を改姓して昇進させ
る方法がとられたことがうかかえる︒
︵5︶ 宇根俊範︵2︶ 論文 ﹁律令制下における改賜姓について−宿禰賜姓を中心とし〜﹂
︵6︶ 長山泰孝 ﹁古代貴族の終焉﹂ ︵﹃古代国家と王権﹄吉川弘文館一九九二︶
︵7︶ 長山泰孝氏 ︵前掲論文︶ によると︑九世紀における参議就任者は︑1期 ︵大同〜承和︶ とⅡ期 ︵嘉祥〜昌泰︶ で補任される氏が変
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容する︒I期では阿部・紀・大伴といった大化前代からの ﹁有力貴族︵本稿では伝統氏族と呼称︶﹂ が参議に任官されているが︑
Ⅲ期になると藤原・源が主流になり︑﹁有力貴族﹂ はほとんど姿を消す︒よって︑こうした上級宮人の補任状況の変化は中下級官
人へ影響を及ぼすと考えられるため本稿においても長山氏と同様に九世紀の時期区分は承和を境とした︒
︵8︶ 中小氏族の文章生出身者の宮人例として︑宿禰から朝臣賜姓を経て参議に登用された滋野貞主・春澄善縄・朝野鹿取かある︒
︵9︶ 大塚徳郎﹃平安初期政治史研究﹄︵吉川弘文館一九六九年︶
︵10︶ ﹁二回以上これらの官職のいずれかに補任されている﹂とは︑同じ官職に二回以上補任されている場合と異なる官職への補任を含め
て二回以上補任されている場合の両方を意味する︒
︵11︶ 林 陸朗﹁桓武朝廟堂の構成とその特徴﹂ ︵﹃桓武朝論﹄雄山閣出版一九九四年︶
︵12︶ 平城天皇は在位期間か短く︑姻戚宿禰氏族も見出すことができなかった︒仁明朝において登用される朝野氏は︑もとは宿禰姓であっ
たが滋野貞主が朝臣賜姓された後に貞主女純子を介して仁明天皇と︑同じく女奥子を介して文徳天皇と姻戚関係を結んだものであ
るが︑朝臣賜姓後の姻戚関係の形成なので本稿では考察の対象に加えない︒
︵⁝曇 林 陸朗﹁嵯峨源氏の研究﹂ ︵﹃上代政治社会の研究﹄吉川弘文館一九六九年︶ によると︑良等朝臣安世は ﹁学問・音楽・騎射
その他﹁技芸皆称多能﹂ ︵﹃公卿補任﹄︶といわれた人物﹂ で︑天長五年︵八二八︶ に大納言となり︑同七年正三位で尭去した︒安
世は嵯峨天皇の異母弟であるとともに藤原朝臣冬嗣の異父弟にあたり︑氏は ﹁弘仁年間から天長にかけての冬嗣の政界における地
位と関連して安世の立場も頗る有利なものがあった﹂ とされる一方︑広根朝臣諸勝については山城介・摂津介を経て︑弘仁五年
︵八一四︶ に従五位上になった以後は国史に登場していない︒
︵Ⅱ︶ 長岡朝臣岡成は︑散位従四位下で嘉祥元年︵八四八︶ に亮去した︒論文 ︵13︶ において林氏は広根朝臣諸勝と長岡朝臣岡成につい
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て ﹁この二人が叙任の状況からみると︑政界における積極的な役割を果たしていたとは考えにくい﹂ とされている︒
﹇ 典 拠 一 覧 ﹈
1 入 間 広 成 続 78 8 . 2 . 14
2 豊 宗 廣 人 後 80 8 . 10 . 11
3 豊 宗 廣 人 後 8 12 . 4 . 19
4 御 林 清 名 後 8 15 .正 . 12
5 名 草 安 成 続 後 83 9 . 9 .2 3
6 善 世 豊 永 続 後 83 5 . 2 . 13
7 山 地 作 続 後 83 9 . 12 . 5
8 高 貞 門 継 続 後 83 3 . 2 .発 酉
9 惟 良 貞 道 続 後 83 6 . 7 . 6 1 0 滋 生 豊 宗 続 後 83 5 . 9 . 13
11 山 代 氏 益 続 後 84 1 . 12 . 25
12 春 苑 玉 成 続 後 84 1 . 閏 9 .28
13 名 草 安 成 文 85 2 . 12 . 9
1 4 廣 階 貞 雄 文 85 5 . 8 . 15
1 5 家 原 柵 雄 85 5 . 8 . 15
1 6 都 御 酉 85 8 . 11 . 7
17 家 原 氏 主 85 2 . 2 . 15
18 興 道 名 継 86 0 . 2 . 14
19 安 塚 雄 継 86 2 . 正 . 7
2 0 廣 階 八 釣 8 70 . 9 . 8
2 1 家 原 氏 主 86 2 . 4 . 15
2 2 粟 鱒 麻 呂 86 2 . 10 . 14
2 3 清 内 雄 行 8 64 . 正 . 7
2 4 深 根 宗 継 8 66 . 正 . 7
2 5 眞 野 永 徳 8 69 . 正 . 7
2 6 和 薬 弟 蔵 86 9 . 正 . 7
2 7 清 江 貞 直 8 79 . 正 . 7
28 輿 道 春 宗 8 79 . 8 . 19
29 時 統 常 世 8 79 . 1 1. 25
3 0 家 原 氏 主 8 72 . 8 . 13
3 1 家 原 郷 好 8 72 . 8 . 13
3 2 都 良 香 8 75 . 2 .2 7
3 3 深 根 宗 継 8 79 . 1 1. 25
34 百 済 有 雄 8 7 7 .12 .25
35 高 丘 五 常 8 86 .正 .16
36 興 道 春 宗 8 8 1. 2 . 14
3 7 良 枝 貞 行 8 83 . 正 . 7
3 8 善 世 有 友 8 86 . 9 .5
3 9 深 根 宗 雄 8 87 . 2 . 2
[表3−1]
1 阿 刀 長 大 続 7 9 1 . 正 . 2 8 2 長 峯 茂 智 麻 呂 続 後 8 3 3 . 3 . 6 3 山 田 文 雄 続 後 8 4 2 . 4 . 1 4 安 野 豊 道 文 8 5 5 . 2 . 1 7 5 康 宗 安 人 8 5 9 . 正 . 1 3 6 多 米 音 益 8 6 0 . 4 . 2 5 7 志 紀 氏 経 ,8 6 0 ・ 4 ・ 2 9 8 三 善 清 江 1 8 6 0 . 1 1 . 1 6 9 有 宗 益 門 文 8 5 4 . 正 . 1 6 1 0 三 善 清 江 8 6 1 . 3 . 1 4 1 1 長 峯 恒 範 8 6 6 . 正 . 1 3 1 2 志 紀 氏 経 8 6 8 . 正 . 1 6 1 3 有 宗 益 門 8 6 1 . 2 . 1 6 1 4 道 嶋 村 嶋 8 6 7 . 正 . 7 1 5 山 田 超 宗 8 7 7 . 正 . 3 1 6 葛 城 高 宗 8 7 7 . 正 . 3 1 7 間 人 良 宗 8 8 2 . 正 . 7 1 8 山 田 時 宗 !i 二 − 8 8 3 . 正 . 7 1 9 葛 城 高 宗 8 8 2 . 正 . 7
[表5−1]