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ヘッセ兄弟の思い出 - ブルーノ氏 とハイナ-氏を偲んで

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Academic year: 2021

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ヘッセ兄弟の思い出

‑ ブルーノ氏 とハイナ‑氏を偲んで

小 幕 幸 夫 今年(2003年)の 4月7日ハイナ一 ・ヘ ッセ氏が亡 くな った。昨年 「ハイナ一 ・

1)

ヘ ッセ氏 との対話」 を発表 した ところ思 いが けぬ反響が あったので 、そ の後 の様 子や、 また、備忘録 の意 を込 めて,前回書かなか った ことを書 いてお く。

前回書 いた ことだが、ハイナ‑氏 (1909‑2003)は若 い頃共産主義 に傾倒 して いた時期があった。 これは当時の流行 のよ うな もので あった と氏は語 って いたが、

社会 に対す る批判的な 目は終生変わ らなかった。 それ は 自分 自身 にも向け られて いたが、周 りの人々には優 しか ったoだか ら皆ハイナ‑氏が好 きだ った し、筆者 にとって もハイナ‑氏 にお 目にかか るのはいつ も楽 しみであった。

ハイナー氏 と筆者 ヘ ッセ記念館 にあるタペス トリーの前で

1)神奈川大学国際経営研究所 『国際経営 フォー ラム』第13号、pp.187‑193.参照.

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昨年の9月またハイナ‑氏にお 目にかかる機会があった。ガイエンホ‑フェン で開催 されたヘ ッセ ・タ‑ゲ に参加す る前にロカル ノのお宅 にお邪魔 したのであ る。前回に比べ外見はそれほど変わっていなかったが、大分疲れた様子で体の不 調 を訴えていた。

筆者はその 日、その夏読んだ 『ガ ラス玉遊技』 の印象を、当日見たマ ッジョー レ湖に朝 日が映る様子 と重ね合わせて、次のようなような俳句を詠んだ (厳密に 言えば季語がないので俳句ではな く、5,7,5の短詞であるが)0

A u fW e l l e nk l i n g e n Z w e i e rHe r z e nz u s a m 皿 e n B e iS o n n e n a u f g a n g

二つの心が 波の上に共鳴する

日の出の時

ハイナ‑氏はちょっとロマンティックすぎないかね と言って、ちょっとシニカ ルでそれでいてやさしい微笑を浮かべた。ハイナ‑氏の側 にいるとなぜか父 と一 緒にいるような懐か しい気分になる。 これ といって取 り留めのない話 をしている と、ハイナ‑氏が 「申し訳ないが疲れたので少 し休みたい.そろそろ引き取って もらえないか」 とおっしゃった。気がついた らもう1時間も経っていた。 これが お 目にかかる最後の機会 になるか もしれないと思い、少 しで も長 く一緒 にいたい と思ったのが悪かった.ハイナ‑氏はさぞか しお疲れになった ことだろう。大変 申し訳ないことをした と反省 している。

11月にハイナ‑氏か ら葉書をいただいた。それには次のようにあった。

A u fW e l l e n一 i n d e n

Z w e i e rHe r z e nz u e i n a n d e r B e iS o n n e n a u f g a n g

♂ 7

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二つの心が

波の上にお互いを見出す 日の出の時

貴方の簡潔なハイ クは年老 いた病人に喜び を与えて くれ ました。 「波」は 「山の 湖」 よ り良いと私 も思います。

心よ りの挨拶 を込めて 貴方のハイナ一 ・ヘ ッセ

訪問 した時ハイナ‑氏に何か欲 しいものはないか と尋ねた ところ、 日本の神様 に私の ことを祈 ってほ しいと言われた。そ こで、箱根神社の御守 りを送った とこ ろ、「検査 のため これか ら入院す るので一緒 に持 ってい く」という返事 をいただい た。 ク リスマス前 には退院でき、特 に悪 いところはなか ったそ うだが、体調は良 くないようだった。

翌年3月1日の誕生 日にカー ドを送った ところ次のよ うな返事が来た。

貴方の丁寧なお祝 いの言葉は私 を喜ばせ ました。だが一方では、 この年では もう強 い感情 を抱かな くなった と申し上げなければな りません。

ごきげんよう ! ハイナ一 ・ヘ ッセ

「ごきげんよ う !」 の原文 は HLebenSiewohl!"で、 しば らくは会 う機会がな い長い別れの時 に用 いる。ハイナ‑氏はひょっとして死期が近 いのを予感 してい たのか もしれない。

今年のヘ ッセ ・タ‑ゲではハイナ‑氏 の姪 のク リステ ィーナ さんに会 えたOそ の時聞いた話だが、ハイナ‑氏は亡 くなる直前モ ンタニ ヨー ラのヘ ッセ記念館館

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タ グ

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長 レギ ーナ ・ブ ッハ‑氏を呼び 「レギ ーナ、私は死ぬよ」と言 ったそ うである。そ の言葉通 りハイナ‑氏は2日後 に亡 くなった。 自分の死期が分かっていたのであ ろう。

これ もク リステ ィーナさんに聞いた話だが、8月の終わ りの 日曜 日にハイナ‑

氏を偲ぶ会が催 され、ハイナ‑氏が こよな く愛 したグロッ トに集 ま り皆で リゾ ッ トを食べたそ うである。グロッ トとは本来洞窟 という意味で、 もとは岩窟 に穴 を 掘 り冷蔵庫代わ りに貯蔵庫 を造 り、そ こにサ ラミやチーズ、 ワイ ンな どを保存 し たのだが、 いつの頃か らか、その貯蔵庫 に レス トランが併設 され、そ こで郷土料 理が出されるようになった。スイスのテ ィチ‑ ノ地方独特 の田舎風の素朴な レス

トランである。

筆者 もハイナ‑氏 に初めてお 目にかか った時グ ロッ トで リゾ ッ トをご馳走 に なった。緊張 していたので味はよ く覚 えていないが、ハイナ‑氏の優 しい笑顔は 今で もよ く覚えている。その時はまた、ヘ ッセが買ったタペス トリーの話 を伺 い、

それ を映画 に撮 ったものを別居 していた奥 さんのお宅 まで行 って見せていただい たOその後でハイナ‑氏は当時大学院生だった筆者のために安ホテル を探 して下 さり、自ら車で送 って下 さった。宿の主人に 「あの人がヘ ッセの息子 さんです よ」 と言った ら驚いていた。

閑話休題。ハイナ‑氏の希望で葬儀は行われず、墓 も建て られなかったO遺体 は遺言によ り大学病院 に献体 されたので、遺骨 さえない。残 った ものはただ皆の 中にある思 い出だけである。ハイナ‑氏 らしい徹底ぶ りが窺 える話である。 「偲 ぶ会」 には、ヘ ッセの書簡集 をハイナ‑氏 とともに編集 し、ハイナ‑氏が全幅の 信頼 を寄せているミヒェルス氏 も家族全員で フランクフル トか ら車で駆 けつけた が、途中でブ レーキが故障 し、 ローギ アでアルプス を越 え辿 り着 いた ということ であった。そ して翌 日クリステ ィーナ さんが止めるのも聞かず またその車でフラ ンクフル トまで帰 った という話である。無事着 いたのもハイナ‑氏の遺徳 のおか げであろうか。

クリステ ィーナさんの父親ブル‑ ノ氏 (190511999)にお 目にかかったのは、

カルプで開かれた国際ヘ ッセ ・コロキ ウムで簡単 に挨拶 を交わ したのを除けば、

一度だけで ある。 1983年7月18日の ことで あった。オ シュヴ ァン トの近 くシュ

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ビュー ヒにお住 まいだったが、駅 まで車で迎えに来て下 さった。ブルー ノ氏は二 番 目の夫人 と暮 らしていたが、お宅は牛がのんび りと草 を食む様子が見えるのど かな田園地帯の真ん中にあったOブルー ノ氏は幼 い頃、ヘ ッセの友人の画家 クー ノ・アミエ ツ トの もとにあず け られ、その影響 を受 け 自らも画家 になった。ヘ ッ セの絵 とブルー ノ氏の絵 を何点か見せていただいたが、ヘ ッセほ ど強烈な個性は 感 じられず、その代わ りもっと穏やかで端正な画風であった。それは氏の性格 を 表 しているようで もあった。

ヘ ッセは3回結婚 したが子供は最初の夫人マ リアとの間にできた3人の男の子 だけであるo長男のブルー ノは画家、次男ハイナ‑はイ ンテ リア・デザイナー、三 男マルテ インは母 と同 じく写真家になった。三男は1968年 に亡 くなって しまった ので会 う機会がなかったが、長男は母親 に、次男は父親 に似ているように思えた。

面 白いのは、 この三人の、ヘ ッセの三番 目の夫人ニ ノンに対す る接 し方である。

ハイナ‑氏 によれば、ブルー ノ氏はニ ノンとの間に摩擦 を起 こす ことはなかった そ うである。従順でお とな しいブルー ノ氏の人柄であろう。一方マルテ インはニ ノンがいる時はけっ してヘ ッセ の家 に近寄 らず、ニ ノンが旅行な どで出かけてい るところを見計 らってヘ ッセ を訪ねた との ことである。ハイナ‑氏はニ ノンの こ とを "Assistentin"(助手) としては大変有能だが、母親 としては親 しめなかっ た と言 っていた。だがハイナ‑氏は、ニ ノンには悪 い ことをした とも語 っていた。

どういうことか詳 しくは尋ねなかったが、年 をとってニ ノンの気持ちも汲む こと ができるよ うになったのであろう。

ハイナ‑氏はブルー ノ氏の勧めでヘ ッセの原稿 を管理す るようにな り、書簡集 の編集 にも携わるよ うになったのであるが、興味深 いのは、ブルー ノ氏がヘ ッセ の ことを Hvater"(父) と呼んでいたのに対 し,ハイナ‑氏が 「ヘ ッセ」 と他人 のように呼んでいた ことである。 もっともこれは1983年 のことで2002年 に話 した 時は "VaterHと言 っていた。編集者 としての仕事か ら解放 されて、本来 の父ヘル マンに戻 ったのであろう。

ブルー ノ氏の話 に戻 ろう. ア トリエで絵 を見せて もらった後で、近 くの池 まで 行 って、ボー トに乗せて下 さった。水面の上をゆった りした時間が流れていった。

その後毎年のようにお手製のク リスマスカー ドや版画 をいただいたが、そのう

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ち返事 が来 な くな った。年 のせ いでお疲れ だ った のだ ろ う。2000年 にモ ンタ ニ ヨーラのヘ ッセ記念館 を訪ねた時にはちょうど、前年亡 くなったブルー ノ氏の 回顧展が催されていたoそ こに見たのはいつ もと変わ らぬ優 しく実直なブルー ノ 氏の姿そのものだった。

ブルーノ氏 自宅 にて

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参照

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