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清末、中国人日本留学界の一側面

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清末、中国人日本留学界の一側面

―ニ、三の留学生名簿による分析をめぐって―

史 郎 亮

一,序

 明治二九年,清国の留学生,唐宝鍔ら十三名が渡日して来た。彼等は総理衙門の選抜試 験に合格した日本留学生第一号の人々であった。彼等は以後,嘉納治五郎より教育される 事となるが,留学生の数は,以後,逐年漸増してピーク時には田畑至二万にすらも達した と言われた。留学生の中には,青,壮年の男子のみでなく,下は小学生から上は大学生程 度,甚しいのは七十前後の高齢者さえ居り(1),父子留学,夫婦留学,一家留学,一族留学 の類もあった。最近,好評を博した武田泰淳の小説「秋風秋雨人を愁殺す」のヒロイン秋 理という実在の中国女子革命家も,実は夫を捨て,一男一女を里方に托して迄,日本留学 を実現した女性であった。

 本稿は留学生名簿の分析を通して,清末の留日・中国人学生の実態の一側面を把えんと する意を含んで書かれたものである。彼等の生態に迫るためには色々のアプローチの仕方 があろうし,種々の研究がある事も事実であるが,本稿の如く学生名簿で以てなした研究 というのは筆者の管見によるも数多くない。それは一つには学生名簿といった類の資料に 乏しいからであろう。留学生の実態が学生名簿で以て完全に把握され得ない事は言う迄も ないが,少くもそれの把握の一助にはなるであろう。学生名簿類の資料が一般的意味でも 僅少であるのは上記の通りであるが,筆者の入手出来た資料も甚だプーアで二,三のもの でしかなかった。それで勿論,他の資料で以てそれは補われねばならぬし,そうする積り であるが,本稿がそういう限られた資料内で書かれている事を予め断って置きたい。

二,清末の社会的背景

 毛沢東は「新民主主義論」でアヘン戦争を転機として中国が「漸次,植民地的・半植民 地的・半封建的社会に変って叶った」と言うが(2),一八四〇年のアヘン戦争以後,相次い で起る西洋資本主義列強の軍事・経済力の圧迫(それは封建経済の解体・農村の階級分化

・商業資本の買劇化を深めた),更に一五年忌亘る農民暴動「太平天国」 (萢文瀾は「中 国近代史」で太平革命の最大意義は中国史上,始めて政治・経済・民:族・男女の四大平等 を提出した革命運動であった点にあると言う),これら内憂外患の下で,清帝国はその無 力を暴露したのであった。中国の半植民地への急速なる没落は有識者層の愛国心・盲目的 排外思想を醸成しつつ,一方では満清政治の改革を叫ばしめた。而してそれは自ら,一八 五五年天津条約前後より一部上層官僚の西洋先進文化の急激なる採用による中国の建直

し,富国強兵策「洋務運動」に発展して行った。然るに一八九四年勃発した日清戦争は中 国の惨敗に終り,当時の知識分子をして益々国内改革,近代化の実践に進ましめ,先の運 動を実践化・大衆化せしめんとしたのである。日清戦争以後の改革運動は先の運動が一部 上層官僚によるものであったのに対して,下層官僚を主力とし,更に直接間接に西洋先進

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22 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17号

文化の洗礼を受けた新知識層を含めた多彩なる改革であった点が異る。倦,当時の思想の・

潮流は如何なるものであったか。梁啓超,林語堂によれば(3),第一,国民的政治改革の要 望で官僚腐敗の暴露と憲法制定,民主主義等の西欧学説の輸入(康有為,上野超),第二 民族意識による満期政府の排斥(章柄麟,孫文),第三,西欧文明の吸収消化(早上),

第四,中国国民:文化の復興(至上麟,彫師培)であった。改革運動では旧知識層を中心と し,立憲君主制を主張する康・梁の改革派と新知識層を主軸とし,民主制を主張する孫文 等の革命派とが対立していたが,当時は前者が支配的地位を占めた康・梁時代であった事

は言うを侯たない。康の改革策は夙に一八八九年に提出されたが,時人に容れられず,彼 は湖南に帰り,有名な私塾「万木草堂」を開いた。此処で梁啓超・課嗣同・唐才常は深い 結び合いを得た(4)。日清戦争終結の年,康は第二回の請願運動を挙人千数百人と共に行っ たが,失敗した。いわゆる「公車上書」である。同年,孫文の失敗に帰したが第一回の挙 兵があった事も併せて記憶すべきであろう。康の運動は尚も四年間,七回に亘って繰返さ れ,遂に一八九八年彼の意見は採用されて,科挙(八股取士),詩賦小藩の廃止(これは 張筆工,陳宝箴の建議による)等の各種改革令が出された。之が百日改革である。然し西 太后のクーデターにより僅か百日にして此の改革は終止符が打たれた。いわゆる「戊戌政 変」である。所でこれ等の政治改革運動が単にそれだけに止まらず,ジャーナリズムによ る民衆啓蒙運動を伴った事も忘れてなるまい。半語堂は日清戦役後,中国のジャーナリズ ムは新紀元を開いたと言うが(5),それは康・門派の中外紀聞,強学報,時務報,清議報等

(6)により始められた。康梁の民衆に与えた影響が如何に大であり,且つそれが満朝の忌む 所であったかは一八九六年の発行停止,一九〇〇年の出版物禁止(7)によっても知られる。

殊に梁の著述の如き,彼の「言論は一世を風靡し」少年顧頷剛・胡弓をも感動せしめた(8)。

尚これらと並んで先の厳復・林三等の文学・文化の改良主義運動も忘るべきでない。厳復 のバクスレー「進化と倫理」,スミス「国富論」等の翻訳(9),林経のデューマー「椿姫」

等の翻訳⑩は当時の若き世代に多大の影響を及ぼした。青年魯迅が愛読しq1),少年平坦が 新文化に目を開かれた⑫のもこれらの訳書であった。胡適はrr野営論』は出版後数年な

らずして全国に風靡し,中学生の読物に迄なった」⑱と言い,男旱培はそれは「君主に叛 いて,人民を尊重し,古代に叛いて現代を尊重する」 「革命伝播」的影響を及ぼしたと言

う㈹。

 所が,一九世紀の最後の年,一九〇〇年,中国社会を激変せしめる大事件が発生した。

排外的色彩を帯びた農民暴動,義和団事件がそれである。之は清朝頑固派反動分子の「扶 清滅洋」の利用する所となったが,帝国主義列強の砲火の前にそれが屈し去った事は周知 の通りである。此の事件を機会に更に康一派の最初にして最後の武力闘争,唐羽州事件,

孫文の第二回挙兵の山州事件が起きたが,何れも失敗に帰した。当時,中国内はこの為,

集会結社の弾圧は峻厳を極めたが,その下で康と孫,即ち保至上と革命党とは針鋒相対す る情勢になっていた。両党対立し乍らも,前者にウエイトがあった先の情況と見比べると 時局の急転を思知らされる。孫の自伝でも「公車上書」の年の第一回挙兵では彼を「乱臣 賊子と目した」のに,今次の挙兵では「有識者は吾人の為に抱腕早早」⑮したと言う所か ら孫派の支持が得られつつあった事が窺え,更に康の説に対する孫派の反駁,殊に章柄麟 の「駁康有為書」の如き,勢力を得つつあった孫派と従来,支配的地位にあった康派との 対立の尖鋭化していた事を知らしめる⑯。所で,国外はどうであったか。先に戊戌政変で

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清末,中国人日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 23

日本に亡命した康・梁は既に保皇党を結成し,特に梁は清議報㈲・新民叢報⑬を発刊して 孫等革命派を攻撃しつつ,一方では在日留学生に立憲政治を宣伝していた。此処に先の難

件事件で失敗した孫文が日本に亡命して来たので,中国内での保皇・革命両派の対立は東 京に移される事となったのである。後にも触れる如く,実は当時,留学生は戊成政変時三 五名であったのが,義和団事件の頃一〇〇名,其の翌年二八四名,一九〇二年は四,五百 名に激:増していた⑲が,彼等は最初,康・梁に多大の影響を受け,而も保翠煙の活動また 盛んであったにも拘らず,孫文亡命を期として「留学生の一般的傾向は既に民族主義革命 に傾倒し,学生間に発行される雑誌で此身革命を語らぬ事は恥とされた」⑳。これら革命 の一大勢力となっていた学生の言論⑳による,又,実践による幽国内への働きかけは国内 のそれと相侯って有識者層,若い世代に多大の影響を及ぼした事は想像に難くない。因み に,その当時日本特に東京で発行された雑誌は質,:量共に本国を圧倒していた。父公平の

「中国開学史」には一九〇三年より一九〇八年迄留学生の発行した雑誌数二十一・の中,上 海二,北京一を除くと皆,東京発行である事が示され㈱,実藤恵秀の「中国人日本留学 史」には留学生,一般人を含めての日本で発行された雑誌数,一八五八年より一九一一一・年 迄,六二冊の多きを数え,就中,一九〇七年の如きは日本での創刊数二十一点で同年中国 で創刊された点数より多い事が明らかにされている⑫の。

 康・孫に対する中国本土,留日中国学生の対応の仕方は以上の如くとして,更にその両 者に対する日本の対応の仕方にも若干言及しておかねばなるまい。本稿に全く関係がない 事でもないからである。端的に言って,康には政府方面の,孫に対しては民間のシソバシ イがあったと見てよいであろう。康の変法は明治維新をモデルとし,主憲君主制を奉じ,

漸進的であり,且つ百日変法の時は伊藤博:文に直接指導を仰いだ。これらが前者が日本政 府筋の同情を得た理由であろう。それに,中国に共和制がしかれた場合の日本への波及と

いう事への憂慮,清朝政府との外交上の配慮,という事も絡っていれば猶の事である。そ れに反して孫に民間,殊に支那浪人,志士側の同情があったのは以下述べるような単純な らざる種々の動機をもった人々がその背後にあったからではあるまいか。国内の運動を閉 め出された結果,欝屈した精力の吐け口を大陸に求めようとした自由民権の残党達,国権 論の立場から,清国の弱体化を図るため革命勢力を伸ばそうとした人々,そこから出発し 乍ら人間的同志愛へ近づいた人々,武器を売りつけたり,投機の目的で援助の手を差しの べた資本家等々の人達がそれである㈱。無論,康・孫両派の調停工作も行われなくはなか ったが成功に至らなかった。

 以上が清末の社会・文化情況のごくあらましであるが,それが一九一一年十月十日の武 昌での叛乱を期として,それが各地に拡がり,孫文派の革命運動は効を奏し,遂に良吏帝 は退位して翌一二年一月一日,中i華民国が成立した事は周知の通りである。

 尚,行交の都合上,順序を逆にして最後にふれる事となったが,先の洋務運動と並行し て,キリスト教宣教師による啓蒙活動も清末盛んであった事を併せて忘れてはならない。

彼等宣教師達は伝道の傍ら多くの刊行物を出版して民衆教育を行い,多くの学校を建て,

中国教育の近代化に資した。太平天国の指導者,洪秀元も上記の康有為もその影響を受け た端的な例であろう。孫文も始めはミッションの学校に学んだ。又,キリスト教教育事業 が中国近代教育に寄与した事の一つは女子教育の開拓者となった事であった。醗って外国 資本は中国が頑固派により支配される方が望ましい事であったし,この点で先進強列又は

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24 長崎大学教育学部教育科学研究報告第17号

外国資本と洋務派とは利害が一致した。宣教師の啓蒙活動も実はその地盤の上でなされた のである㈱。好個の実例としてはパール・バックの「戦える使徒」を挙げてよいであろ・

う。それは宣教師であった彼女の父親を描いた小説であるが,その中で彼女の父は片方に 聖書,片手に大砲を以て布教活動をすすめて行く場面が一,二あるのを筆者は記憶してい

る。

三,清末の教育情況

 然らば,以上のように激動せる社会の渦中にあって教育はどのような動きを示したか。

 上述の如く,アヘン戦争,太平天国は清朝政府の無力と共に西洋先進資本主義列強のも つ軍事力,経済力に眼を開かしめ,中国の国力を西洋列強に劣らぬものにしようとする一 部官僚のインテリによる救国教育を促した。中国を強化するためには,西洋に学び,富国 強兵策を強行せねばならぬという自覚が,先づ語学教育,軍事教育を起こさせた。一八六 二年の京師同文館の創設を始めとして,上海広方言館,福建乱政学堂,天津武備学堂,広 東水師学堂の創設などがそれである。然しこれらの学校の教育は国民大衆の教育とは何等 かXわりをもたぬものであった。「第一,別に科挙制度が依然行われ官吏登用の人材を集 めていたため,学堂はすぐれた青年を吸収する事が出来なかったし,第二に,学堂は教育 施設としての充分な施設,プランをもっていなかった事が,学堂教育を国民教育とを縁の ないものにしたのである。」伽

 科挙が八股文と呼ぶ特殊な文体と儒書に対する特定の註釈を強制し,彼等の自由な思考 と研究を阻んだ事は周知の通りである。科挙と関係のない新式の学校が無力だとすれば,

それ以前の旧式学校は科挙の予備機関と化していたと言える。一部のインラリのみでな く,国民大衆の思考法を自由な科学的なものにするためにもこの科挙を廃止する必要があ った。科挙の遺毒を説き,その廃止を政府に迫った典型が康有為,張之二等であった事は 上述の如くである。

 更に一方では無秩序のま玉放置された国民教育を組織化する計画も急がれた。科挙制度.

の攻撃が激しくなるにつれて,中国各地に学堂が無秩序に設けられる傾向も出て来たが,

これらの事から教育行政機関を成立せしめ,濫立気味の全国の学堂教育を系統づける事も 焦眉の急とされた。科挙停止と同じ年に教育行政機関として学部が成立した。科挙の停止 と学部の成立が同年であった事は何をか暗示するものがある。前者が旧教育の崩壊を意味一 し,後者は近代教育への第一歩を表現するからである。

 所で学部官制は日本の文部省のそれに倣ったものであった。翌年,政府は忠君,尊孔,

尚公,尚武,尚実の五項目の「教育宗旨」を公布したが,忠勇と尚武の強調は日本の富国 強兵策を範としたものであり,尊孔は中国社会にこの後も根強く残る復古主義の潮流を反 映したものであった。

 学部成立に先立って,一九〇二年,張百煕の「欽定学堂章程」,翌〇三年,張之洞,張・

百事,栄慶らの「奏定学堂章程」が制定されたが,前者が「日本の学制をそのま二半略し て持ち込んだもの」であり,後者が「張之洞自身の幾分古めかしい教育思想を加味した外 は,やはり完全な写し替えに過ぎなかった」事は史家のよく指摘する所である㈱。この前 後に日本を範とした種々のプランが続出して来る事は逸してならぬが,これらについては 先にも若干ふれたが,後に詳述する積りである。尚,学堂教育の計画は民国成立に至る

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清末,中国人日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 25

迄,これら,特に量定学堂章程が標準となった事を言い添えておかねばならない。

 学堂教育では初,中,高等各段階の教育が漸次,整備,充実されて行ったが,特に師範 教育が重視され,高等教育,中でも近代的大学の基礎が構築された事が注目される。近代 文化運動の震源地となった北京大学の前身,京師大学堂は一八九八年,北京に創設された が(当初は校長はアメリカ人であった),種々の曲折を経て,一九〇九,一〇年分科大学 制をとり,その実施に踏切った。

四,留学教育の開始

 国内に新しい学校を作り,他方先進国に留学生を派遣するのが,後進国の常であるが,

中国もその例に洩れなかった。

 中国の留学教育は半国藩の慨則で米国留学の経験ある容閥の建議に始まる。一八七二 年,第一回のアメリカ留学生三十名が渡米した。これが中国に於け る学生の海外留学の始 めであった。当初の規定では毎年三十名を四年間送り,学生の年齢を十二才以上十六才以 下を標準とし,軍事科学の学習を目的としていた。この外,学生は国学も併せ学び,監督 は祭日毎に学生をして宮廷を遙拝し,孔子の神位を礼拝せしめる義務を負った。学生は陸 続して出発し,三回分,計九十人の学生が数えられるに至ったが,一八七六年,保守党の 平削登が監督の時,学生達が叩頭の礼を拒否した事に端を発し,遂に一八八一年,清廷は 学生全部を帰国せしめるという事件が起ったため,米国留学は日清戦争後,旧に復する迄 中絶した儘になった。

 米国留学以外に・欧州留学もあった。学生を欧州留学に派遣するのは野々遅れて一八七五、

年に始まるが,それは閲漸総督,沈藻槙の上奏した結果であった。沈は先づ福建船政学堂 の学生数名を造船学研究の為,仏国に送った。二年目,李鴻章と沈の合作によって派遣学 生を二つに分け,造船学生一四名,技師四名を仏国に送って三年の期限で造船学を研究せ

しめ,航海学生十二名を同じく三年の期限で英国に送って航海術を習得せしめた。彼等に も監督が居り,余暇に史書等の書籍を学習せねばならなかった。同年李は武官下長勝ら階 名を独逸軍隊に送って軍事技術を習得せしめ,更に一八八一年,李は上秦して宗政学堂の 学生を米仏両国に別々に派遣した。以上でも判るように派遣された学生は優秀な武官と船 政学堂の優等生ばかりで,国内で既に語学と基礎知識の素養があったので,その点は米国 留学生より一段と進歩していた⑫9。

 留学教育は日清戦争以後になると様相が一変し,言わば最高潮の段階に迄達したと言っ てよかった。留学の必要は三百煕の如き閣僚や張之洞,衰世凱の如き地方長官のみでな

く,康有為,梁出超,盤面の如き知識層の代表も一般インテリも全国上下が一致して挙げ た呼び声であった事に先ず注目せねばなるまい。これはそれ以前見られなかった事である が,それだけ時間は急迫を告げ,猶予を許さぬ所迄来ていたのである。

 日清戦争以後の留学教育でもう一つ見落してならぬ点は例の学部成立以前には留学につ いては何等の組織も計画もなかったものが,成立以後は留学の資格,官費の標準,学習の 範囲が規定され,統一した管理の方法が持たれる事となった事である。本稿の性質上,こ の点の大略については少しく言及しておこう。

 一九〇六年,政府は各省当局に宛てて,以後学生を官費で選抜渡航させるには中学堂卒 業程度以上で,留学国の語学を習得している等の厳重な資格制限を行うよう通告した。従.

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:26 長崎大学教育学部教湾科学研究報告第19号

前,留学生が学習した科目は,軍事と語学で,これは例の国内の語学と軍事に重点をおい た教育に照応するものであったが,一八九九年の総理衙門の規定では農・工・商等の実業 科目にウエイトを置く方針に切り変えた。尤も実際はそうでなかった事はこの頃の留学国

の代表たる観あった日本の例で判る。後に詳しく示すように,法政と師範の速成科が,彼 等の大半が学んだ所であった。それかあらぬか,学部は一九〇八年の学科標準では農・工

・医・理学の四種に限った。但し之も大体の規定に過ぎず,事実は留学生が各国で修得し た学科はこの四学科よりも多かった。日本では師範・法政・警務を学んだものが多く,米 国では十分の八は農・工・商・鉱等,十分の二は法政・経済の諸学を学ぶように規定され ていた如きがそれである㈲。明治四十年,中国側の文書によると「数年来医等詳細調査ス

.ルニ,日本留学生ソノ数:ステニ万ヲ途ユト錐モ,速成科二学フ者百分ノ六十,普通科二学 フ者百分ノ三十,中途退学転転成スナキ者百分ノ五六,高等及ヒ高等専門二親ル者百分ノ 三四,大学二入レル者僅カニ百分遅ーノミ」とある剛。留学生に対し政府が管理規定を設 けたのは上述の如く一九〇六年を始めとするが,それ迄は各省が銘々に「遊学監督」なる ものを送っていたに過ぎなかった。繰返し言うようにこの期には日本留学者が最も多く,

rまた彼等留学者の学習する内容も雑多で,日本への留学管理は欧米以上に注目されていた ようである。一九〇二年,日本の遊学総監督に注大製が任ぜられたが,まだ規定なるもの はなかった。一九〇六年,例の学部によって日本管理規定が議定され,駐日公使を総監督 とし,別に専任官の副監督を置いた。一九〇八年,公使の負担軽減をはかる為,先の規定 を改正して留学生監督の専任官を送って,彼にその全権を付する事とした。ヨーロッパで

・は一九〇七年,脚光典が遊学監督に任ぜられて,全権を委任されたが,規定はなく,それ が設けられたのはそれより四年後であった。米国については,この期留学者は少く,日本 欧洲のような詳細な規定はなく,公使に処理せしめた。管理の内容は学生の成績,品行,

入学,卒業,転校,退校,学費,住居,疾病,死亡等に関す責任,義務等についてであっ た。尚,留学生が外国の学校を卒業すると,帰国の上,政府の試験を受ける必要があり,

その成績の優劣によってそれぞれ進士,挙人の出身名目を与えられるという特、典も一九〇 六年の学部規定では示されていた。この類の人々を時人は洋進士,洋挙人と呼んだ。科挙 廃止後,一年しか経ていぬとは言え,科挙の遺毒の残存を偲ばせるに充分な事象と言うべ きであろう。因みに,陳青倉の計算による各国一年一人平均の学費総額からの推算を最後 に列挙して置こう㈱。欧洲三四一〇元,米国一九二〇元,日本四七元で,欧,米の差もさ る事乍ら,日本の場合殆んど問題にならぬ。こxにも問題がある事を思知らされる。

五,日中交渉

 本論の留日,中国学生の問題に入る前に,筆者は今迄の事を補い,これからの事を浮び 上らせる意を含んで暫く,日中間の政治,外交,経済,文化等諸種の接触の面を概観して みたい㈱。先に筆者は日本がモデルにされている旨の事を繰返し述べたが,その背景にな

る事象を一瞥してみるというのがこの項の内容である。

 第一は清末の両国の外交的側面である。これは説明を省いて事柄を列挙するに止めよ

う。

 明治三年 深交を結ぶため外務権大丞柳原前光を派遣

 同四年 大蔵卿,伊達宗城を欽差全権大使として派遣,通商条約を結ばしむ。清国との通商条約の

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清末,中国入日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 27

始。条約締結以前は両国入、自由に通商貿易を行い,日本入は上海に,中国人は長崎に集る。

 同六年 外務卿副島種目を清国に派遣,通商条約の批准交換と台湾原住民の日本人殺害事件の交渉 に当らしむ。

 同七年 内務卿大久保利通を全権弁理大使として清国に派遣し,台湾事件の談判に当らしむ。

 同九年 旧領…璋を日本駐在公使として派遣(満清の日本への正式通使の最:初)。

 同一二年 清国に琉球が我が領土である事を認めしむ。

 同一七年 京城事変にて清国兵,日本公使館を襲い,日本居留民を殺害。

 同一八年 宮内卿伊藤博文を特命全権大使として清国に派遣,天津条約を結ばしむ。

 同二四年忌丁汝昌,清国北洋艦隊を率いて横浜に入港。

 同二七年 朝鮮東密党の乱起り,ついで日清戦争勃発。

 同二八年 総理伊藤博文,外相陸奥宗光,清の李鴻章と下関で講和条約を締結。

 同三一年 清国に要求して福建省を以て不割譲となさしむ。

 同三二年 義和団事件勃発。

 同三三年 山添中将第五師団を率いて清国に赴き,列国の公使館を重囲より解く,義和団事変終る。

 同三四年 日中通商行船結約の改訂。

 同三八年 ポーヅマス条約によりロシアをして関東州の租借地及び長春以南の鉄道とその沿線の炭 坑を日本に譲与せしむ図。

第二は日中貿易であるが,要領のみ述べる。

 明治八年〜二七年

 貿易は平穏で,中国にとっては入超ではあったが,さして問題にはならなかった。日中貿易は逐年 増加しつつあったが,さしたる顕著な変化も見られない。

 明治二八年〜四四年

 日清戦争後,貿易額は急増する。戦争終結の翌年,中日貿易総額は一七〇〇余万両より急増して二 八○○余万両に及ぶ。明治二九年の通商行船条約の改訂,同三七年通商条約の締結以後,日本の中国 に対する貿易は長足の進歩を遂げた。明治四四年,中国の貿易総額は遂に一四〇〇〇余万両に達し,

入超はこの期最大であった。大正三年以後,日本は第一次大戦の関係から対中貿易は以前に比べると 激増し,繁栄の状態を示した。清末の中国の輸出品は棉,穀類等の原料品で,日本よりの輸入品は砂 糖,機械,棉織品等の製品であった。

 尚,二十年代以降の三井物産,正金銀行支店等の進出,二十三年の日清貿易研究所の上海設置等も あり,一九〇一年輸出総額中,中国貿易は凡てその半を占め圃,モトイレフによればその翌年の列国 の対清貿易額面,日本は英国に次いで第二位を占め圃,り一マーの「列国対支投資」によると,同年 最下位にあった日本が,一二年後出立に次いで第三位にのしあがって当時上げ潮を示しつつあった事 も以上の事に関連して付加えねばならぬ{37)。

第三は両国間の海運業であるが,之も要点のみ示す。

日本の海外船は次の如く逐年激増した。

一八七七 (明治十)年 一八八七 (明治二十)年 一八九七 (明治三十)年 一九〇七 (明治四十)年

汽船数

 一八三隻  四八六 一〇三二

 帆船数

  七五隻  七九八  七一五 四ハニー

 当時の日中航路線で日本政府が中国に対して航路を指定していた路線は次の通りであ

る。

 一,神戸,長崎,上海線,配船二艘計一万五百余噸

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:28 長崎大学教育学部教育科学研究報告第17号

  二,神戸,門司,上海線 配船五艘計一万五千五百余噸  三,神戸,天津線 配船三吟計六千五百余噸

  四,横浜,牛荘線 配船四艘計七千四百余噸   五,大阪,神戸,青島線 配船一〇計五千余噸   六,神戸,大連線 配船四〇計二万二千八百余子  七,大阪,天津線 配船三〇計七千八百余丁   八,大阪,神戸,青島線 配船一Q計三千九百余噸

  以上の中,一〜五線は旧本郵船に属し,毎年政府より二百五十万元の補助をうけ,後三線は大阪商 学に属し,この外,原田汽船,朝鮮郵船等の船も多い。以上の八路線以外に尚,日本には中国経由の

外国航路があった。日本郵船の上海,香港経由,欧,米,印,懊線,大阪商船の天津,青島,大連経  由のニューヨーク線がそれである。

 第四は日本の中国政治,文化の影響に関してである。王二五は「中国日本交通史」の中 で,清末以前は清が日本に与えた影響は頗る大で,宗教的,儒学的,芸術的,音楽的,医 叫学的,生活的諸方面にあったとし,それに反して,日清戦争以後は教える者,教えられる 者が逆転して日本が教え,中国は学習する身に変わったとし乍ら,その模様を大要次の如

く述べている㈱。

  中国は日清戦争後,国外留学の風頗る盛んで日本に赴いた者は最も多かった。戊戌変法では日本に 赴いて師範教育を学ぶものが移しかつた。日本の高等師範学校は中国人の為に速成班を設けたが,彼 等の中には一年,或は数ケ月で卒業した。卒業後,多く帰国して学校を創立した。清末,教育を提唱  し,軍制を改革したのは殆んど日本留学生達であった。出洋学生に進士挙人の待遇を与えたので,人 々は御薄を以て立身出世の捷径となし,日本に赴く者は遂に数万に達した。西洋文化の輸入も日本を 介して間接に中国に入ったものが多い。

  中国では政治,外交の失敗によって外国の従属国に化して了つた面が少くないが,朝野の早々はそ れを自覚せず,外国の政治経済を虚心研究しようとする覚悟もなかった。所が近隣…の日本は明治維新 以来,西洋に徹い,強国となった。遂に中国も日本の明治維新に傲う事を当務の急とするに至った。

 領国藩,李鴻章,康有為,梁啓超らは外国の機械文明に驚き,変法に力を注いだ。康は上書して「日 本に如かざるを恥ちよ」とすら言った。変法が明治維新をモデルにした事は明白であった。康は度々 建議して,日本明治の政治を範とせよと言い,「日本明治扇島考」等も著わした。康有為は又,次の 如く主張した。彼は教育の面では学校を設立し,日本書籍を翻訳し,広く留学生を派遣せよと言い,

政治の面では立憲制,議会制を主張し,軍制面では巡警を設け,外国の制に照らして新法を教練する 事を強調した。伊藤博文を日本変法の主脳者と考え,彼々招聰して厚遇して顧問とする事を康は建議  したが,清廷はそれに従った。日本を範とする事は一般の与論でもあった。戊戌政変は日本からうけ た影響の最大なものであったと言ってよい。日清戦争では中国は多額の賠償金を払い,民心も怒つ  た。男声帝も変法によらねば民心を収拾出来ぬと知り,一九〇一年変法の詔を下すに至った。劉坤一 張之洞は上奏して,日本留学を主張した。日露戦争に日本が勝利をうるや日本は一躍して東方の強国  となり,中国人は驚いて了つた。日本は明治維新以前は政治学術は皆,中国より得たものである。そ  の領土人口遙かに中国に及ばぬのに一躍して一等国になりえたのは立憲制の下,上下心を一にして自 強に努めたからであろう。西太后も心を動かし,五大臣を海外に渡し,一九〇六年立憲の準備をなし

たが,その憲法制定に当っては日本の欽定憲法に倣った面がある。法律制定に当っても,顧問に多く  の日本人を招聰した。た聖明之洞が申国の国情と合わぬ面を斥けたので施行出来なかった向きがあ  る。教育面では呉汝編を日本に派して視察せしめた。一九〇五年末の日本留学者は政府の奨励もあっ  て八千余人に達するに至った。以上を綜観するに満清の変法は明治維新を範を採ったものであった。

清末は中国革命党員は満清の圧迫に憤慨し時に起って反抗し,失敗して海外に亡命する者があり,そ

(9)

清末,中国入日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 29

・の多くは日本に潜み,日本人の供給補助を受けた者も少なからずあった。満清が改革されたのも日本 入が与ってカがあると言ってよいであろう。と。

 敢て長い引用をしたのは一つには簡にして要を得ているし,二つには中国人の日中政治 文化交渉観,日本観も判ると思ったからである。とは言え筆者に物足らなく思える節が全 然ない事はない。記事が簡略に過ぎるのと,頑固派に余りにその記事が片寄り過ぎている

のではないかと。然し,之も本の体裁,量からと,著者の思想的立場から来るものであろ うし,今は触れない事とする。

 尚以上の事に関連して両者の文化接触の度合を図るバロメーターとして一,二の資料を こΣに付加えておきたい。

 表一は一九〇四年の「訳書経記録」によって作られたこの前後四年聞の訳書の総数の表 である。表二は筆者が「教科書之発刊概況」などを基に作った1896年より1909年に至る問 の発刊数の表である。?は明白でないものである。

  表1

321

英 文

55

米文

32

仏 文

15

独 文 露文 其他

25 p4 81

533

表2

訳1破欺

113? 24

米 文

8

中国文

 応

68 撃X5?

不 明  訳

117?

合 計

525?

 尚又,中国の丁丁をうけたいわゆる日本教習は多い時は六百名にも達したと言われる

㈱。一九〇九年の全中国の外国教習の調査では総数三五六人中,日本人は三一一名である ので,実に日本人教習は総数の八四%を占めている計算になる㈲。筆者の手許にある明治 三九年の京師大学堂同学録によると同学教習は東大の服部宇之吉を先頭に総計五七名内,

中国人(三名は日本留学者)三八名,外人七名,日本人一二名で,日本人はニー・九%を

占める。

六,留日,中国人学生の実態の一側面

 以上の諸事情が経となり緯となって次に述べるような中国人学生の動きが示されたと見 傲:してよいであろう。

 日清戦争後,中国の留学教育が一変した事は上述の通りであるが,その形勢を一変させ たものは実を言うと,日清戦争であり,又,一八九六年に始まった日本への留学であった

と言ってよいであろう。

 所で,日本留学に言及する前に一寸述べておきたい事がある。それは日清戦争以前と以 後とでは留学生の質的転換が遡る面あったという事である。上に示した如く,日清戦争以 前の留学生は「すべて官費の留学生か,当時生れた許りの官僚資本が派遣した特別の学 生」であった㈲。詰り,国家か資本に守られた学生達であった。それに対して日清戦争以 後に産み出されて来た留学生の中には官費によらず,自費によった学生もあり,科挙等の

(10)

3G 長崎大学教育学部教育科学研究報告第17号

旧制度がある限り,それからはみ出した現状に不満なインテリもあった。尤も中には上述 の如く,洋進士,洋挙人を目指し,出洋を以て立身出世,昇官の道具にする学生もいたろ うし,従前通りエリートの留学生もいたであろう。然し,先に述べた如き,従来見られな かった如き新しい学生層がいた事は否定出来まい。これらの学生の中には外国資本と官瞭 資本の圧迫によって民間企業が抑えられているため,この方面への就職の可能性少く,旧 制度は新知識を無用の長物視して自己の能力を伸ばす機会なく,而も官界の腐敗は益々激 しくなるというので現状に不満持ち,革新的思想をもつ人も多く出たと思われる働。学生 服は革命服に通じると言われた所以である。

 倦,一八九六年,僅か一三名であった留学生は逐年次の如く激増して行った。欧米との 比較した方がより鮮明に判ると思うので次にそれを列挙してみる。

年次 国別

1895年 1896 1899 1900 1902 1903 1905 1906 1907 1908 1909 1911

13名 109 280余 500余 1000余 8000〜110000或は8000か 13000又を=よ 14000〜20000

2000 3500〜4000 50GO 殆んど全部帰国

欧州

8

16

米 国 2

10

13

 上表の数字は必ずしも正確でないものもあるが,その正確な数は他日に期したい。日本 留学者数は最も権威ある調査と考えられる実藤恵秀氏の「中国人,日本留学史」によった ものである。年次をとばしているのは判明している分のみ記したからである。数に増減が あるのはそれの背後に今迄述べて来た事がか&っている事は勿論であるが,尚,一九〇五 年の日露戦争の勝利,留学生取締規則反対運動,一九一一年の辛亥革命等が直接間接に影 響を及ぼしている。更に言い添えておかねばならぬ事は,表では欧米共に日本に比すると 如何にも劣弱の感を免れないが,実は欧米とて坐視傍観していたのでなく,中国人教育へ のわりこみの努力を惜しまなかったと言う事である。米は日清戦争以前は上記の如く留学 を一時中断してしまったが,上記留学生取締規則問題が起るや,手を拍って喜び,割込み を策したし義和団事件の賠償金を留学生の費用に叶う事で返還するという方法もとってい る。アメリカ留学が本格的に盛になるのは実は辛亥革命以後に属する。独,仏,英,露と ても日本の留学生教育に嫉視し,隙あれば割込もうとした点は米同様であった働。

 以上に関連して一,二付言しておかねばならぬ事がある。之も少々順序を逆にする感が

(11)

清末,中国人日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 31

あるが,次に掲げる張之洞の「勧学篇」に先立ち,日本の駐清公使・矢野文雄が留学生を 日本に派遣する事を中国側にすすめたという事を第一に言い添えたい。中国の日本留学 熱,留学熱が張之洞らインテリは勿論として,政府要路者,果ては一般人迄に射るでいた 事は前述したが,こういつた日本の高官からの進言があったというのも種々の意味から無 視出来ぬ面があったと筆者は考える。

 次に付け加えたいのは日本学習熱,留学熱の本質如何という問題である。この点,筆者 は別の論文で触れた事があるが,彼等が日本に学ぶと言うのは日本そのものでなく,日本 を通じて西洋を学ぶ為であった。今迄教える位置にあったし,而も中体西域思想,華夷思 想をこの後も強く残している中国の情況から見るとそれは無理からぬ所であったが,若干 の軽蔑と尊敬を含み乍ら,日本を利用し乍ら西洋に学ぶために留日留学を考えたというの がその実情であったと言えば言い過ぎであろうか。張之洞も「勧学篇」 (外篇・遊学・早 寒)では繁雑な西学を日本人は珊節し酌下して居り,径も近く,渡航,留学の費用も安く 而も同文(梁野営も「論訳書」の中で日本語の学習し易い理由を五つ挙げている)同種で あると言うのである。勿論日本の成し遂げた成果を全然見ようとしなかったのではない

が,その本当の真意は上記の所にあったと見て差支えないのではなかろうか。それにこの 考え方は張之洞,梁啓超らの威力で広く,深く中国全土に波及したと見てもよいようであ る。当時,日本留学を説いた文書に先の張・梁的発言が多く見られるのはそれである。明 治三六年頃の「江蘇」第五期,第九期に登載されている次の一文の如きも以上の考え方を 別の表現で表わしたものと看徹してよかろう。第五期には女子の日本留学をすNめて次の 如く述べている。女子留学は欧米より日本の方がよい。というのは日本を崇拝しての事で はなくて,中国女性と日本女性と同程度であり,日本文は学び易く,日本は近くもあり,

渡航費も安く,而も苦学も出来,安上りだからだと。第九期には次の如く言っている。日 本は昔時,中国の倫理・教育の益をうけたのを今,欧洲の教育で学び得たもので中国に返 そうとしているのである云々と。

 筆者が殊更に以上のような事を付言するのは,留学する中国人の真意がそのようであ り,それを迎える日本人の側に彼等や彼等の文化を軽視するような事がもしあるとすれ ば,その両者から織りなされて来る教育の効果にも自ら問題が生じようと考えるからであ る。チャンコロと言う言葉に象微されるように,日清戦争前,中国を畏怖し或いは尊敬し ていた日本人は日清戦争の大勝によって,従来の位置を逆転せしめて,急に大国意識を持 ち,従来の劣等感を逆にして優越感を持つに至ったのではあるまいか。それに欧米列強に 伍して,日本が中国に進出,侵略するとすれば事は更に複雑になる事は明白である。今そ

の事の論証は省く。ともあれ手軽な速成教育,而も親日より寧ろ排日,抗日という結果を 産んだ留学教育等々の原因の一つもこう言った両者の理解の耳目が産んだ産物の一つとし て考えられる。

六,二,三の留学生名簿の分析

 筆者の手許にある二,三の留学生名簿資料を整理したものを次に列挙してみよう。

 その一・は一九〇三年の「日本留学中国学生題名録」であるがそれを整理すると次の如く なる。

◎明治三〇年入学者 一名,出身地広東省一名,官費自費不明,在学校 東京高専師範

(12)

32 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17号

学校一名

◎明治三一外国一四名 漸江七,江蘇三,広東二,湖南一,不明一,官費八,自費六,

帝大法四,露語学校一,帝大工一,早大一,日本法律学校一,帝大農一,高商一,砲工学 校一,一高一,高師一,不明一

◎明治三二年計四八,湖北二四,江蘇四,湖南四,福建四,安徽三,漸増二,直隷属,

江西二,広東二,満洲八旗一,官費一〇,自費三八,見習士官二四,早大四,帝大工四,

帝大農四,高商三,東京法学院二,成城学校陸軍二,予備入校二,帝大法一,高工一,千 葉医専一

◎明治三三年計一五名,広東四,江蘇四,湖南二,三江二,貴州一,福建一,湖北一,

官費四,自費一〇,東京法学院三,高師付中二,帝大農一一,高工一,早大一,高商一,千 葉医専一,独協中皿,成城学校陸軍一,成城学校文科一,慶応義塾幼稚舎一

◎三四年計一〇九,満洲八号二七,江蘇一六,漸江一三,湖北一一,四川九,福建七,

直隷七,安徽七,広東五,湖南四,陳西一,広西一,江西一,貴州一,官費四六,自費六 三,弘文学院警務二七,成城学校陸軍二〇,成城学校文科一五,同文書院一三,早大九,

予備入校六,高工四,東京法学二三,一高三,帝大農二,日本法律学校帽,熊本医専二,

弘:文学院普通科一,清華学校一,慶応義塾幼稚舎一

◎明治三五年単二三一,江蘇九六,漸江七六,湖北五五,湖南三四,広東三二,直隷三 二,安徽三〇,福建二九九,雲南一一,山東一〇,河南八,江西八,四川五,貴州四,奉 天二,江南二,満洲八旗二,広西一,官費一七二,公費二,自費二五四,成城学校陸軍一 四一,予備入校六七,同文書院四六,清華学校四一,弘文学院師範科四〇,弘文学院普通 科三三,弘文学院警務一〇,帝国婦人協会九,早大七,正則英語学葦囲,物理学校五,工一 手学校四,日語講習会三,熊本予備学校三,誠之小学校三,弘文学院攻究警察三,帝大農 科二,蚕業講習所二,日本女子大一,高師付中一,東京法学校一,日本法律学二一,正則 予備学校一,成城学校文科一

◎明治三六年計三〇,草江八,福建七,江蘇六,広東五,広西一,四川一,官費一,自 費二九,予備入校一一五,同文書院八,精華学校六,成城学校陸軍一

◎入学年度不明計一七,安徽四,広東四,漸江二,江蘇二,江西二,不明二,直隷一,

官費三,私費一四,精華学校八,予備入校五,不明三

 年齢,全期間を通じてのもの。六才一名,七才二,十才二,一三才三,一四才二,一・五 才一一,一一六才一三,一七才二〇,一八才二二,一九才五三,二〇才三八,ニー才五一,

二二才五八,二三才七三,二四才五六,二五才六一,二六才二八,二七才六二,二八才二 二,二九才一八,三十才一四,三一才一〇,三二才一三,三三才六,三四才四,三五一,

三七才一,三九才一,不明一九

 明治三十年より三六年に亘る計六四九名の名簿を筆者流にまとめてみると以上の如くな る。先づ断っておかねばならぬ事はこれは入学年,入学校のみしか判らない名簿である事 である。同名簿による限りでは入学者は明治三五年が一番多く,明治三四年,三二年,三 六年の順序となる。然し之ではどうという事は出来ぬ。というのは前の表の留学者数の全 体の動きからすると明治三五,六年は激増する卑しを見せ始める年だからである。出身地 は全年通して多い順に並べると,江蘇省一二九,漸江一〇八,湖北九一,広東五一,福建 四八,湖南四五,直隷四一,満洲八旗(直轄軍隊)三〇,四川一五,雲南一一,山東一〇

(13)

清末,中国人日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 33

安徽一〇,河南八,貴州六,

 以下略の順となる。一九〇三年前後の日本に於けるジャーナリズムで活躍した学生達は 漸江,江蘇,湖北出身者が多く色の,近藤杢の学者詞人省別表によるも江蘇,皇臣,直隷,

湖北,湖南,福建,広東の多い事から考え㈲,又一般に南方,殊に沿岸地方は北方に比べ 海外との接触が多く,海外知識にも恵まれて文化的程度も高く,商人,資本家,革命家,

思想家を輩出している点なども考え併せると,符号を合するようで興味深い。尚直属軍隊.

が多かった事も当然の画塾ら興味深い。費用は官費二四〇,公費二,自費四〇四,不明三 となり,自費が約半数に達し,筆者が先に触れた事を実証している。入学者数の多い学校 から挙げて行くと成城学校陸軍一六四,予備入校七五,同文書院六七,清華学校五六,弘 文書院四〇,弘文書院警務三七,弘文書院普通科三四,見習士官二四,早大二二,成城学 校文化一七,帝大農科一〇,帝国婦人協会九,帝大工六,帝大法史,商工五,高商五,以 下略の順となる。これらの学校名立,成城学校,弘文書院,清華学校,同文書院は中国留 学生ために創設された学校である。その詳細はここでは省く。一八九九年の例の実業科目 中心に実情が動いていなかった事が之でも判る。軍,警察関係,諸学校が多いのも例の中 国々内事情の反映と考えてよいであろう。因みに明治三五年に女性が十名いたことは注目 に価しよう。年齢は六才より三九才迄亘っているが,そのばらつきは上記の通りである。

二三才七三名,二七才六二,二五才六一,二四才五六,一九才五三以下略の順で,平均二 三・○才で筆者は年齢が想像していたのより若干上にある感を持った。

 その二は一九〇三年の「卒業留学生付録」である。この名簿は入学と同時に卒業を明言己 してあるのでその点が先の名簿と多少異る。

○明治三一年十一月卒業計三一名,その内訳は二四年五月入学三〇名,不明一名

〇三五年三月計五四, 三一年二六,三二年一一,三二年九月六,三五年三月一一

〇三五年四月計三,三一年二月三

〇三五年六月計三,三一年二月三

〇三五年九月計四,三一年五月四

〇三五年十月計一,三一年二月一

〇不明一 三一年二月一一

 出身地,出身学校は先の名簿と大同小異なので略した。年齢は二四才一一一,二七才一〇 以下の順でニー才より四五才に亘り,平均年齢は二七・九才で上記の例に比べると大分高 年齢である。

 以上の様子を見ると,少数例ではあるけれども卒業月日がまちまちで而も時期外れ,而 もニケ月,五ケ月で卒業しているもの,更に注目されるのは同年同月に卒業しているのが あるのは只驚きいぶかる走りである。活字の誤りでもあるまいと思う。速成で而も粗雑な 教育の実例を見せつけられた感がある。之では簡単に来日し,簡単に去る事も可能であろ

う。先に私は留学生激増ぶりを示した表を掲げたが,こXら辺りを考えると数的量のみに 頼る事は危険であるという事が一方では考えられる。前述の如く学びに来る中国人学生が 外面では日本人を尊敬するように見せかけ乍ら,内心では軽蔑し,之を迎える日本人が,

日清戦争以前のコンプレックスが変じて日清戦争の勝利によって裏返しされて内心,外面 共に中国人を軽蔑したとするならば,両者の相互理解も不可能であるし,教育の実も挙ら ぬのではなかろうか。小馬鹿にした意味の速成教育なら,極言すれば尚更その害毒は測り

(14)

34 長崎大学教育学部教育科学研究報告鋼7号

知れぬ事になろう。それかあらぬか,筆者の見た「江蘇」第十=:期世界異人之次序照録で 紹介された外人の綴りには印刷屋の誤植もあろうが,初歩的誤りが散見された。

 その三は明治三六年の「湖南同郷留学日本題名」である。同名簿は遊学訳編第九期に登 載されていたものである。

 駐日年次別に見ると明治三一年一〇名,三二年一一,三三年六,三四年四,三五年五三 三六年八七,不明三,計一七四,官費七九,不明九,自費八十,公費六,入学学校は多い 順に挙げると弘文学院四一,不明二九,振舞学校二七,弘文学院速成師範二二,工手学校 一三,清華学校九,近衛師団六,見習士官六,以下略の順となる。年令は二四才二四名,

.二二才二〇,二〇才一五以下略の順となって居り,十二才より四二才迄亘り,平均年令は 二四・○才となっている。この名簿はこ玉迄は先の名簿と比べ傾向としてさして違いはな

く別に言う事もない。

 その四は「清華華学校留米学生同学録」である。この資料は先の資料と比べると数年下 る。時代も留学生も異るし,一,二の例を以て比較する事は問題であろうが,比較し且つ

・はその面から日本留学をより鮮明に浮かび上らせる一助にもなろうかと思い上記の資料を 瞥見する事にした。

◎一九〇九年入学者計二,出身地江南一,江蘇一,専攻物理一,農業一・

◎一九一〇年掛一一,江蘇五,広東三,漸渾一,安敏一,福建一,河南一,化学二,哲 学二,気象学一,数学一,鉱科一,造船一,機械一,公衆衛生一

◎一九一一一一年計三一,福建七,漸江七,広東四,山東四,江蘇三,四川一,安徽一,湖 北一,直隷一一,不明一,化学五,不明四,法律三,土木三,財政三,政治二,商業二,数 学一,経済一,機械一,鉱渾一,医科一,採鉱一,文学一,電気一,造船一,兵学一,生 物学一

◎一九一三年掛一九,広東六,漸江四,福建三,安徽二,湖南二,江西二,経済四,化 学四,冶金二,土木二,政治学二,法律二,財政一衛生一,生物学一,文科一,造船一,

機械一,電気一,農業化学一

◎一九一四年半九二,江蘇二二,広東二二,漸江一八,福建一一,湖北七,安徽三,直 隷三,湖南二,山東一,貴州一,四川一,土木一〇,化学九,経済学九,予科六,教育五 鉱業五,商業五,電気四,機械三,医科三,農科三,財政二,文科二,歴史二,政治学二 建築二,銀行二,採鉱冶金二,法律二,不明二,文学一,植物一,商科一,鉄路管理一,

数学一一,音楽一,物理学一,畜産一

◎一九一五年計三六,江蘇一〇,広東九,漸江五,福建五,直隷三,安徽三,湖北一,

経済八,文科四,化学四,政治学三,機器二,銀行二,工程管理一,鉱業一,農科一,数 学一,天文一,電気一,教育一,理科一,鉄路管理一,土木一,建築一,歴史学一,人類 学一,商業一,紡織一,医科…

⑤一九一六年計五四,江蘇一五,漸精一〇,広東八,福建六,三惑五,湖北三,湖南,

四川二,江西二,文科一三,経済一二,医科一〇,政治七,化学六,教育五,機械五,銀 行四,鉱業三,農科三,建築三,電気二,工程管理下,商業二,化学二,理科一,数学一・

天文一,鉄路管理一,歴史学一,人類学一,紡織一,冶金一,糖業工程一,森林学一,化 学野業一,橋梁工学一,国際法一,不明一

 説明する前に二,三断って置きたい事がある。第一は精華学校(精華園の後身,清華大

(15)

.清末,中国入日本留学界の一側面一二,三の留学生名簿による分析をめぐって(増田) 35

学の前身)という特定の限られた米国留学の準備教育機関の卒業生の名簿である事,皆精 華学校を卒業し大学進学者である事である。これらの事と先に述べた事と合せて考えると

日本留学者と比較すべくもない理由が更に重なったようである。然し,それらを含み乍ら も出来る範囲内で比較してみたい。専攻が二つにまたがっている場合,夫々一つとして数 えたので人数を専攻科数は必ずしも数的に合致しない事も断って置きたい。

 入学者の数は一九〇九年以後,二,一一,一九,九二,三六,五四と増減している。出 身地は江蘇五六,広東五三,漸江四五,福建三三,湖北一二以下略の順になっている。こ れは日本留学の場合と非常によく似ている。専攻は経済学三四,化学三〇,文科二〇,土 木一六,政治学一六,農科一五,医科一五以下略の順である。これは前述の米国に関する 規定と比較すると外少異っている。精華学校の卒業生なるが故であろうか。繰返し述べた 如く,日本のそれとは比較出来ぬが,敢て比較すれば予備教育を一応卒業しているので,

その面が少いのは当然としても尚文科があり,実業的面,政治,経済的面にウエイトが置 かれている事は米国留学の特色であろう。女子学生が一四年,一六年にそれぞれ九名,十 名いた事も注目に価する。

 最後に名簿に登載された人々がその後,如何なる方面で働いたか,留学帰朝者の活動を 考察してみたい。

 第一回留学生十三名のその後については実藤恵秀氏の研究があるので,それを紹介しよ う。十三嚢中四名は渡日後,食事の問題や軽蔑された為に帰国したという。残り九名の中 二名は中途退学した。残りの七名のその後は次の通りであると言う。唐宝鍔は弁護士,朱 忠光は四川省の候補道導,朝宗濠は鉱山会社,理事,域諸富は下田歌子の資本で作新社と いう出版社を暫く経営し,後,縁故を頼って官吏となる。呂烈煙は外務部の通訳課長,濤 閣譲は師範学校の通訳,陸軍学校の通訳主事,呂烈震は高等判事,教授となった㈲。

 次に第一に挙げた名簿と最後に挙げた名簿について帰朝後の活動分野を比較してみよ う。と言っても名簿のすべてを調べる事は不可能であるので筆者の知っている有名人の比.

較に限りたい。

 筆者の知っている第一の名簿の有名人とその人の活動分野又は職業,経歴を列挙してみ一

よう。

金邦平 剋源唾 壷汝霧 葵 鍔 銭稲孫 四七和 周樹人 郷 容 彦仲憬

政府要人になった政治家 教育総長

交通総理,外交総長等を歴任 革命家

北京大学事務総長 医師出身で政治家

魯迅である事は言う迄もない。

「革命軍」の著者で革命家 政治家

 尚,戦前,中国国軍の中,大将の三分の二は日本陸士出身と言われたので軍人も多かっ たと考えられる。成城学校,振興学校出身の軍人も多かったようである。

 最後に挙げた名簿の中で筆者の知っている有名な哲学者で外交官であった胡適,現在中−

国本土で哲学者として活躍している陳愚弄とのみしかいない。

 実藤恵秀氏は昭和七年現在,中国各界で中心人物として活躍している人々二四八五名の

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